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気づきの日記「問題解決は、かえってこいよ〜♪」

 

なにか問題が起きているとき、

私たちのこころは一目散にその問題に突進してゆきます。そして、そこで解決をはかろうとこころみます。

解決とはそういうものだと思っているからです。

たとえば ・・・誰かとの不和があるとき、こころはその人に向かい、その人に対して「さあ、どうする?」「なにを言ったらいい?」と考えます。

何か失敗してしまったときには、「どうやって修復する?」「なにができる?」とその失敗について考え、解決策をひねり出します。

あるいは、なにか達成すべきことがあるときには、それについて「どこからなにをしたらいい?」「どんなふうにすればいい?」と思案します。

このように、つねに自分を離れてそっちに向かいます。

じつは、これが問題を複雑化してしまう原因でもあるのです。

なぜなら、問題と見えるものは「こころによる不具合」を隠しておくためのオトリ(影)だからです。

見えてるものはこころのなかにある問題の影であり、ほんとうの部分ではありません。影をいじっても何も変化を生みだせません。

だから、しなければならないのは、影について思案することではなく、影を生みだしている部分を修正すること。

影を生みだしている部分とは、「こころ」のことです。

こころが消化不良を起こして、ゲッと外にはきだしてしまったことが問題に見えます。

問題が起きてついついこころが外へと向かいそうになるとき、私のここのなかではこんな音楽が三味線の音色とともに流れます。

「かえってこいよ〜〜♪ かえってこいよ〜♪ かえってこ〜〜いよ〜〜♪」(村松和子さんの「帰ってこいよ」)

こころよ、そっちに向かってはダメだよ〜! そっちじゃないよ〜! ということです。

じゃあ、どこへかえる?

もちろんこころへ。外へ向かおうとするこころを、方向転換させて、こころへ戻すということ。

まず、原因となるこころの乱れを整えて、平穏にする必要があるのです。

なぜなら、私たちの見ている世界はこころの平和か混乱か、ふたつにひとつであり、それがさまざまなイメージ(影)であらわれているだけだからです。

また、こころの平和とひとつになることは、すべてである無限の源とひとつになること。そこから解決のためのインスピレーションもやってきます。

自分がどんな存在であるのかを、そのホームグランドに戻ったときに教えてもらうことができます。

その答えこそが、愛ややさしさ、安らぎとして世界にうつしだされることになるのです。

かえってこいよ〜〜♪

 

 

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気づきの日記「間違いを正すべき白旗をあげましょう!」

 

自分が目にしている世界は、

無意識において「自分が見たい!」と決めたものをそのまま描きだした世界です。

もし ・・・そこにダメさを見るなんら、「自分が自分自身をダメだと責めている」証拠であり、

もし、そこに怖ろしいものを見るなら、「自分は何か大きな力に翻弄されているひ弱な存在である」と信じているということであり、

もし、そこにゆるせないものを見るのなら、「自分が自分自身をゆるせない存在として裁いている」ということなのです。

その状況に不平不満を言ったり、それをいじくりまわすよりも、

ただ、自分はそのような「間違った自己イメージ」を信じて握りしめていたのだと気づきましょう。

気づいたら、それを取り除いてもらうべくハイヤーセルフにお願いします。

これは完全な自己申告制なので、申告した分だけをきっちり取り除いてもらうことができます。

しかし、気にいらない状況をまだ自分とは関係のない外側の世界からひょっこりやってくるものとして、責めたり、コントロールしたり、抵抗しようとすると、

結局、自分のこころのなかにある「それ(ダメさ、脆さ、罪深さ)」に力を与えてしまい、さらにそれらを大きく養ってしまうことになります。

そうなれば、世界はさらに手ごわく強敵化し、その世界と闘いつづけることになってしまいます。

そうならないように、さっさと白旗をあげてしまいましょう。

「私が責めたり、怖れたり、闘ったりしていたのは、全部自分自身でした。私こそが間違っていました。私のこころの間違いを正してください。あるがままに見られるようになりたいです」と。

そうして、すでに完全である「本来の自分」を教えてもらい、それを世界に見せてもらいましょう。

 

 

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油断大敵っ! (ꐦ°д°)

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巷では、トイレットペーパーが店頭から消えている!という報道が。

すっかりひとごとで観ていたけれど、我が家のストックをのぞいてみたら ・・・・ ガーーーン!! あと三個しかないっ!

すっかり油断してましたっ(大汗)

近所のドラッグストアとスーパー、コンビニをしらみつぶしに回ってみたけれど、やっぱりウワサはほんとうで・・・ 売り場にはロープがかけられていて、「当分、入荷はございません」とまで但し書きが・・・。さらに、キッチンペーパーからおむつまで、紙を使った衛生品もカラッカラ・・・。

お子ちゃまが休校でおうちにいる家庭は大丈夫なのかしら? トイレを使うことの心配って、けっこうストレスですものね〜。

疲れはてて帰ってきたら、お友だちからのチャットが。

お友だちは買いおきでしのげそうだと。私は「ポケットティッシュでのりきろうと思っている、10個以上あるから大丈夫! 」と送信したら、心配しながらも、ポケットティッシュ対応に笑っていた。

すると、なんと翌日、トイレットペーパーのロールを12個もかかえたお友だちが姿をあらわした。

きゃ〜〜〜☆ いつも輝いているけど、きょうはことのほか地獄で観音様に出会ったよう(笑)。

コロナの影響で直近のデートは延期にしていた私たちだけど、おもわずお茶に出かけてしまいました。

きょうはお雛さまだから、ピンク色のサクラのケーキがぴったり。おしゃべりを楽しみながら、ささやかなお節句のお祝いとなりました。楽しいひとときでした。

12個もペーパーがやってきて、さっそくトイレに積みあげていたポケットティッシュを撤収。

日々、忙しいのにわざわざもってきてくれたお友だちに感謝、感謝♡

それにしても、もうちょっと危機管理をしなければっ・・・(汗)。

はやく、ロールがお店の店頭につみあがっている日常の風景が戻ってくるとよいですね〜。

 

 

気づきの日記「人生の別シナリオを見る」

 

今週は、予定していたミーティングやお友だちとのデートが延期となり、遠いところで起きているように感じていたコロナウィルスが現実味をおびてきました。

学校の休校、遊園地の休園、イベントのみあわせ・・・。お友だちは、ここまで一生懸命にお稽古を重ねてきた公演がキャンセルになってしまったそう。

大切にしてきた一回きりのイベントが突如なくなってしまうと、ほんとうにガッカリしてしまいますよね。

そうなってしまったからには仕方がないのですが・・・

「ガッカリ」「残念」な出来事をそのままにしておくと、ずっとこころのなかに不完全燃焼感が残ってしまいます。

しかし、この出来事を「幸せ」「喜び」のための再出発点にすることもできるのです。

じつは、このストーリーには別バージョンが存在しているのです。ディレクターズカット版です。

このディレクターズカット版を「見ることを選択する」こと、それがこのストーリーを別の脚本にきりかえます。

ディレクターズカット版は、通常上映されているのとは違ったストーリー展開やオチだったりします。

暗く悲しいお話だったはずが ・・・ あれあれ?どんどんコミカルに陽気になってくるとか、こころ温まるお話になってくるとか、逆転劇になってくるとか。

でもエゴ映画製作社は、そんな何の刺激もない、痛みのないシナリオには興味を示しません。この製作会社が好むシナリオは、怖れ、悲しみ、苦痛、孤独こそが命です。となれば、恐怖ものか、ホラーか、スリラーか、怨恨もの。

エゴ映画製作社では、楽しいなんてもってのほかで、そのようなストーリーは脚本としての価値はありません。日溜まりのなかでニコニコしているような人畜無害なストーリーは、ソク却下されます。

それでも、、悲しいがっかりストーリーには、ちゃんと「ウラ」のディレクターズエディションがあります。

それは、ハイヤーセルフの映像配給会社に保管されていて、「観たい」と申し出た人にだけ見せてもらえます。自ら申し出ることが必要です。

そのディレクターズカット版は、たしかに「ガッカリ」なように見える出来事からはじまりはするのですが、それがどんどん嬉しさの原因へと変わってゆきます。

「ああ、こうなったからこそ、このことを体験できた!」。このセリフ、誰もがこころのなかでつぶやいたことがあると思います。

「災い転じて福となす」というように、贈りものとなる体験へと導いてもらえるのです。

ハイヤーセルフの配給会は「観たい」という人にはそれを見せてくれるのですが、

エゴ映画製作社に出資している人(攻撃、裁き、批判にエネルギーを注いでいる人)には、その映像はまぶしすぎて見ることができません。

私たちはエゴ映画製作社の暗い画面を観るのに目が慣れきっていて、それしか観えなくなっています。ディレクターズエディションは、明るすぎて最初は観づらいかもしれません。

でも、「観たい」人はだんだん見えてくるのです。

すべての出来事には、ディレクターズカットがちゃんと用意されています。すでにあります。

ただ、ハイヤーセルフに「私はエゴのストーリーを無意識のうちに好んでいました。まさに、自分で怖れや苦しみ痛みを観ることを望んでいたのです。でも、もう望みません。それは、私にはふさわしくないとわかったからです。ハイヤーセルフ、私に私の真のストーリーを観させてください」とお願いします。

大切なのは、エゴ映画製作社に加担して、起こったことに対して抵抗したり、攻撃的になったり、批判したり、文句を言わないこと。そして、「自分が何を観たいのか」(エゴバージョンか、ハイヤーセルフバージョンか)をハイヤーセルフとともに自ら選びなおすことです。

「ガッカリ」にとどまれば、起こったことに対して文句を言ったり攻撃的になり、それはエゴ映画製作社に出資することであり、その結果どんどんエゴのストーリーが届くようになってしまうのです。

PS1・ハイヤーセルフは、高次の自己、大いなる自己、スピリットのことですが、
ご自分にとって信頼してお願いできる存在なら、エンンジェル、キリスト、観音さま、光、宇宙、神さま・・・呼び名はなんでもかまわないのです。

PS2・じつは、私たちがあたりまえに観ているストーリーはもうとっくに廃版になったもので、海賊版として流通しているだけです。ほんとうは、存在はしていません。だから、ぜひハイヤーセルフの配給会社に正規のストーリーを申請いたしましょう。

「これは違う」「楽しくない」と感じたら、批判したり文句を言うのではなく、ただ別バージョンのストーリーを要求しましょう。申し出ることが大切です。

それは、あなたに観てもらうために、すでにちゃんと用意されているのです♪

 

 

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はじまりはアイリッシュモルト

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お友だちにいただいた ラムとウィスキーとカルヴァドス。

・・・といっても、これらはお酒ではありません。

紅茶なのです。

某ホテルでアイリッシュウイスキーの紅茶をいただいたらことのほか美味しくて、洋酒の香りの紅茶にハマっています。フルーツのフレイバーティーはいろいろありますが、洋酒は探してみるとなかなかないのです。

そのホテルで出されていたのは、ドイツのロンネフェルトというメーカーのアイリッシュモルトというものだったのですが、このメーカー、多売はしないそうで、日本では手に入るお店は数カ所、ネットだとけっこう高いようです。

そこで、お友だちが他の銘柄のものを見つけてきてくれました。それがこの三種類。ルピシアのバレンタイン限定商品で、いつもあるわけではないそうです。

いただいてみたらいい香りで、気分は酔っぱらい〜〜 ヾ(´▽`*)ゝ

りんごの香りのカルヴァドスはキャラメルとカシューナッツのクッキーにあわせてみました。ウィスキーはチョコレートに、そしてラムはバニラアイスクリームに。

まさにオシャレな紳士のような紅茶なので、レディーのような麗しいスウィーツがやってきたら登場することにいたしました。

お目当てのアイリッシュモルトは、お友だちがドイツ在住の方に頼んでくれたので、こちらも手に入りそうです♡ 楽しみ〜  ( ・◡・ )♫

 

 

気づきの日記「なぜ?どうして?は必要ない」おまけ

 

「なぜ?どうして?は必要ない」ブログのつけたしです・・・。

「なぜ?」「どうして?」がなぜ必要ないのか ・・・ というと、問うことに意味がないからです。

私たちが目にしている流れゆくものごとは、自分が思っているような意味をもってはいません。

ただ流れているだけなのです。

それは、川面をおおう落ち葉が、模様をかえながら流れてゆくのと同じです。

落ち葉は流されながら、少しづつ織りなす模様や色合いをかえてゆきますが、私たちはそれにいちいち意味をあたえることはしません。

あるいは、水面に油をたらしたときも同様です。

油はいろいろな模様を描きだし、しだいに形がどんどん変わってゆき、たくさんに分かれたり、消えてしまったりもします。

その形をみて、「どう見えるか」「なにが起きているのか」を解釈しながら時間をついやしても意味がないのです。

それはまるで、ロールシャッハテストのよう。見る人によって、見えるものはまったく違います。

たとえ同じ人が見ても、そのときの気分によって、違うものに見えることでしょう。・・・ということは、見えているものは、そのときの自分のこころの状態を反映しているだけなので、問題があるとしたら形にあるというよりもこころのなかにあるということになります。

「あそこにコワい顔が見えるよね」「え?あれは犬じゃないの?」・・・というように、あるときにはホラーに見え、あるときに楽しげな景色に見え、それは自分ひとりだけの世界で「ほんとうのこと」ではありません。ただの自分による解釈です。

ひとりひとり見えているものが違うのなら話がつうじないのはあたりまえで、その解釈をたたかわせて、正誤をきめるのは意味がないのです。

葉っぱや油の形が描きだす模様に、ストーリーや原因、結果がないのと同じように、私たちの見ているものにもじつはストーリーも因果関係もありません。私たちが勝手にでっちあげない限りは・・・。

私たちはでっちあげるのをやめられないのですが、それはまったく独創的すぎて理解不能で、まったく自分の幸せにも役立っていないようです、がやめられません。私たちは、意味をつけることに慣れきっているようです。

起きていることを分析して、意味を知ろうとすると、意味のないものに巻き込まれます。

意味を知ろうとするよりも、ただ自分にふさわしくないことは、ハイヤーセルフに渡してしまうことで解決するようにいたしましょう。

尚、前回のブログでオススメしたハイヤーセルフのゴミ焼却会社ですが ・・・ メンバーズになることをオススメいたします。なぜなら、さまざまな優待が受けられるからです。

まず、メンバー登録していただくと、ハイヤーセルフからのインスピレーションというプレゼントがちょくちょく届きます。

また、「お炊きあげ」ご利用ごとに「幸せ体験へご招待」という嬉しいサービスもつくのです。

さらにポイントがたまれば、天国への移住権も獲得できますよ〜!

 

 

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気づきの日記「なぜ? どうして? は必要ない」

 

「幸せをもたらすもの」だけがリアルです。それだけが、宇宙から私たちへのプレゼント。

それだけが、私たちが受けとるべきものであり、私たちにふさわしいもの。

もし・・・それ以外を受けとっていると感じるなら、なにかが間違っているようです。

私たちは、自分のこころが決めればなんでも見ることができるので、自分のこころが間違ったものを望んでしまい、その結果を見ている、ということなのです。

すでに与えられていた贈りものは、それらにおおい隠されてしまいました。

でも、ご心配なく!

ハイヤセルフは「そんな不用なものを見つけたら、ゴミとしてお出しくださいな。いつでも焼却いたしますよ!」と言ってくれています。

ところが・・・

私たちときたら、「幸せ」以外のものがあったとしても、素直に焼却をお願いしていないのです。

なにをしているのか?というと ・・・ そのゴミをいじくりまわすことに熱中します。

ゴミに対して、「なんで?」「どうして?」「どうしたらこうなる?」「誰のせい?」「なにが悪かった?」云々・・・と目のまえにあることの分析をつづけます。

これってゴミの袋をあけて、「これはなんでゴミになったの?」「誰がここに捨てたの?」「なんでここにあるの?」と言っているようなものです。

これをしているうちに、すっかり捨てることを忘れてしまいます(汗)。

大切なことは、「これは持ちつづける(大切にする)必要があるものなのか?」「自分にふさわしいものなのか?」、それとも「さっさと捨てるだけのものか」ということです。

自分を幸せにしていなかったら、問答無用、さっさと捨てましょう!

ゴミに対して、お話する必要も、詳細な分析の必要もないのですから。

捨てるものだとわかったら、さっさとゴミ焼却場へ!

ゴミ清掃会社は、ハイヤーセルフです。

この感情、この想い、この出来事、この状況は、自分にふさわしくないと認識したのなら、すみやかにハイヤーセルフに渡します。

「これは私にふさわしいものではありません。これを私のこころから取りのぞいてください。そして、目にしているものを訂正してください。すでに私に与えられているものを見ることができるように助けてください」とお願いします。

ハイヤーセルフの清掃会社は、迅速です。

でも、指示がなければ決して勝手にもちさることはありません。だから、私たち自身が「なにが自分にふさわしくないのか」をしっかり見極める必要があります。

これをするには、文句をいったり、あれこれ分析したり、詮索したりする必要はないのです。

「これは私にはふさわしくありません。もって行ってください」、このひとことでOKです。

そうしたら、ハイヤーセルフはそれらをお炊きあげしてくれます。

いつでも、どこでも、何度でも。そして、ナント太っ腹! 料金はいつだって無料。使用回数の制限もありません。

どうぞお気軽に〜!(笑)

 

 

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オペラ「リゴレット」♡

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お友だちのオペラ公演にお招きいただきました。

演目は、ヴェルディの「リゴレット」。吉原圭子ちゃんは、この作品の要となるジルダ役でご出演です。

「リゴレット」はヴェルディの代表作であることは知っていましたが、ストーリーはいまいち把握していませんでした。それが・・・ けっこうショッキングなストーリー展開でドキドキ☆

リゴレットは宮廷道化師。彼には、家にひっそりとかくまう最愛の娘 ジルダがいるのです。

しかし、リゴレットが仕えるマントヴァ公爵はどうしようもない女好きで、ついにその毒牙がジルダにおよぶことに。

それを知ったリゴレットは怒りに燃えて、公爵の殺害をはかります。しかし、その企てはうまく運ばず・・・。

ストーリーのおもしろさと、アリアや重唱の美しい旋律にグイグイ引きこまれました。

この作品のなかで、まさに誰もが知っているカンツォーネ「女心の歌」が歌われます。それは、明るく晴れやかなメロディーなのですが ・・・

まさかのまさかの展開で、それが悲劇の結末への伏線となっているのです・・・(曲だけ聴いていたら、こんなストーリーはおもいもよりません!)。

リゴレットはこのカンツォーネの歌声を遠くに聴いて、ガクゼンとします。なぜなら、その声は殺害したはずの公爵の歌声だったから。では ・・・ いったいあの袋に入っている屍は誰なのか?!

リゴレットは、そこに息絶える寸前の愛する娘の姿を見つけます。

自分の策略によって、まさか娘をあやめることになってしまったとは・・・。リゴレットは、泣き叫びます。

リゴレットの娘への溺愛は失う怖れへと姿をかえ、ジルダを監禁状態で育てることになりました。また、公爵も自分のなかの空虚さという怖れの気持ちをうめるために、つぎからつぎへと女性を求めることをやめられません。まさに、ふたりとも怖れの権化。

そこにジルダは、まるで無垢な愛の象徴のように存在しているのですが・・・

結局、怖れの気持ちは怖れの結末を招き ・・・ ジルダを巻きこみながらストーリーは破滅へとむかうのでした。

敬虔で清純無垢な、愛のシンボルのようなジルダは、圭子ちゃんにぴったりの役柄でした。ご本人もいちばん好きな作品だそうで、学生の頃からお勉強されているそう。

圭子ちゃんのアリアもうっとりするほど優しく美しく(ご本人の作品愛もあふれていて)、いつまでも聴いていたい気持ちになりました。

ああ、また観たい!と感じる、すばらしい公演でした。ありがとうございました♡

↓パヴァロッティさんの歌う、悲劇の予兆となるカンツォーネ「女心の歌」。

 

 

かわらない安心感♡

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先日、お友だちとのお茶デートで、久しぶりに下北沢におり立ちました。

すご〜く変わっていてビックリ☆ 駅舎はすっかり新しくなっており、どっちに歩いていいのやら・・・。

さいわい、目印となるスーパーはまだそこにあり、「こっちだ!」と方向を定めることができました。

目ざすは、そのむかしよく通ったお茶屋さん(二十代の頃、この近くに住まわっておりました)。

まだ、ちゃんと存在しておりました〜! ラ・パレットさん!

お店の雰囲気もメニューも、まったくあの頃のまんまで嬉しくなります。

ここは、サンドウィッチやキッシュ、スウィーツがおいしく、紅茶のいれ方もしっかりめで私好み♡

この日は、お友だちとふたりでスコーンをいただきました。

あら〜?!ご無沙汰の年月のあいだにスコーンがすごく育っている!(小さくなるのは常ですが、お皿からはみ出るほど大きくなっているとは!笑)でも、紅茶の香りはむかしのまんま。カップとお皿の柄も!

下北は、新しいお店は次々できるけれど、このゆるぎない安定感、すごいな〜と感じます。

なんだかデジャヴのような気分になりながら、陽がおちるまでお友だちとお喋りを楽しみました♪

 

 

気づきの日記「イヤな人こそ、癒しのための鏡」

Q: パートナーの言動に、いちいち苛立ってしまうこの頃です。このことから、どのような気づきをえることができるでしょうか?

A: 自分のイヤな感情に出くわしたとき、それは大きな癒しのチャンスです。

それは自分のなかにあったからこそ、いま浮上してきてイヤな気持ちなったというわけです。それはけっして、外側の誰かからやって来たものではないのです。(その人はちょっとした引き金となっただけで、原因ではありません。)

そして、その関係のなかでそれを手放す機会が与えられているということです。

そうとわかれば、その方は自分に癒しをうながしてくれている、とてもありがたい存在というわけです。

外側にいる人々というのは、「自分で見ることができない自分」を映しだしてくれる鏡のような存在です。

その鏡は、「私はこういう人である」と信じている自分をそのまま映し出してくれます。

つまり、そのパートナーに見えているイヤなところは、自分が信じている自分の姿を見せてくれているだけなのです。

私たちのこころのなかには、自分で嫌ってしまった自分自身が深く埋めこまれています。拒絶して埋めこんだがゆえに、自分でもその中身をすっかり忘れてしまっているのです。

自分が忘れてしまってもそれはまだしっかりとそこにあり、ほんとうの自分をおおい隠してしまっています。そして、これこそが他人という鏡に映し出されているイヤなイメージなのです。

その深く埋めこまれた自分自身がついに腐敗臭(?)を発して、それが漏れでてくることで、自分の気分を悪くしています。

しかし、私たちはその気分の悪さを「何か別なこと」が原因だと信じようとします。そして、そのターゲットを見つけます!

それこそが、そのしゃくにさわる、イライラする人だというわけです。自分のこころの腐敗臭の気分の悪さを、その人のせいにしたのです。

私たちが誰かにイライラしているとき、その人の行動がどうこうというよりも、自分が隠しているゴミの臭いによって気分が悪いのを相手のせいにしようとしている、ということなのです。

そうして私たちは安心するのです。「気分が悪いのは、この人のせいだったんだ!」と。

そもそも、自分が拒否して自分のなかに埋蔵したものは本来の自分ではなかったので、ただ手放して永久にサヨナラすればよかっただけなのですが、

それが、自分の一部であると勘違いしてしまったために、恥ずかしさから自分のなかに隠すという手を使ってしまいました。外側にいるイライラさせるように見える人は、自分の腐敗臭をおしつけられた可哀想な被害者だったわけです。

ほんとうは、イヤな人をみつけたならば、自分の内側にある腐ったゴミを捨てさるチャンスだ、というわけです。

人は「鏡」であるといいうのは、自分の内側にゴミがあるということを教えてくれる存在だということです。鏡がないとそれに気づけません。

そして、この鏡である人にあたりちらすことなく(攻撃せず)、私のゴミが映っているのだと認めてしまえば、それを取りのぞく癒しの機会となるわけです。

非難することなく、自分こそが映っていたのだと認めることができたら、その人を「自分がなりたいような人」として見ることをしてみます。

すると、今度はその人が自分の完全さクリーンさを映し出している鏡と認識することができ、自分のこころが正気を取り戻すことができるようになるのです。

つまり、自動的にゴミが取りのぞかれて、本来の自分の完全さがあらわれます。

「与えることは、受けとること」・・・先に相手をきれいにしてあげることで、自分もきれいを受けとることができます。

そしてまた、それを「与える」という決意は、「自分が何を目にしたいのか」を改めて決めなおすということです。私たちは、みずから「見よう」とするものしか目にすることができません。

相手という鏡のなかに、「自分がこうだったらよいな〜、こんなふうになりたいな〜」というイメージを見ることを選ぶことで、自分にもそれを見ることができるようになるのです。

目のまえの相手が自分を苛立たせると感じたら、意識を相手から自分のこころへと戻しましょう。

このこころから、イライラ、不快感は発っせられていて、こころを正すことで自分の世界を変えることができる、と気づきます。

そして、鏡になってくれたその人を、新たな「こんな自分だったらいいな〜」という人として見て、自分のこころが訂正されるのを受け入れましょう。

外という世界も、じつは自分のこころの内側にあります。相手を攻撃すると、より自分のを傷つけてしまうので、自分のこころと知覚を変えることによって、自分が、相手が、そして自分のいる世界全体がどのように変わるのかを見てみましょう。

 

 

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