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お茶の間シネマトーク「最後でさかさまに・・・メッセージ」

 ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

アカデミー賞で話題になっていた「メッセージ」を観てきました。

今までの、よくある「未知との遭遇」ものとは違います。宇宙船はきらきらぴかぴかハイテクじゃないし、宇宙人もあのアーモンド型の目をしたロズウェルくんタイプじゃないのです。

何でできているのかわからない黒っぽいサナギのような巨大物体がタテに浮いていて、世界中に12本。

18時間おきに112分だけ、その底の部分が開くのです。だからといって、なかに入ってみる ・・・?!(汗)絶対イヤだわ!

コミュニケーションをするというミッションを担った言語学者のルイーズたちがなかに入ってみると ・・・ いました! 透明な壁のむこうにエイリアンの影。ぜんぜんインテリジェンスを感じさせない原始的な風袋です。そうですよね〜。宇宙人はみんな二足歩行だと信じているほうこそ、イマジネーション不足です。

たしかに 、宇宙の果てからやってきたのであれば、同類と感じるものよりも意表をついててほしいですもの。そういう意味では正しいのかも・・・。

ルイーズは、ことばを話せないこどもとコミュニケーションをするように丁寧に相手との意思疎通をはかろうとする一方、軍は業を煮やしていまにも攻撃の態勢です。

未知の生命体が示す文字には過去や未来の時間がないことがわかり、つまり「時間が存在せず、すべてが同時にある」とう概念がルイーズのなかにも芽生えてきます。(詳細はネタバレになるのでふせておきますが・・・)

新しい概念を理解するには、ルイーズのように勇敢でオープンマインドで、わかりたいという情熱が必要です。怖れていて攻撃的である心には、決してそれは理解することができないのです。あ〜これは、わたしたちが本当の「自分」に目覚めていく過程とまったく同じです。ある意味では、自分を捨てる、つまり死を覚悟しているような勇気が必要なのです。

そして、ルイーズは覚醒(?)していきます。

過去と未来が交錯するストーリーにアタマがウニのようになりそうでしたが、終わってから「あ、そういうことだったの」と。あの「シックスセンス」のように、最後に「そうきますか・・・」というちょっとしたドンデンがえしがあり。

それがわかるとちょっと感慨深いし、いろいろと見逃していた伏線もあったように感じます(もう一度みなくちゃ?!)。

おおごとが起きているはずなのに色彩をおさえた画面からはシンと静まりかえった雰囲気が伝わります。そこに未知の物体と生命体が発する不気味な音とルイーズの息づかいが重なり・・・ルイーズの目線になって、今までにないエイリアン体験ができます。

しかし ・・・ 時間を超越するような悟った知的生命体であるなら、なぜこんなにまどろっこしいコミュニケーションの仕方になっちゃったんでしょ?もっとダイレクトな方法があったのでは? という素朴な疑問もありますが・・・(笑)。

こちらには「wired」という原作があり、エンディングが違うそうなので、そちらももうひとつ楽しめそうです。

 

気づきの日記「人生にアフレコしないで、そのままにすること」

以前、友人とイタリアを旅をしていたときのこと。

夜なにげでテレビをつけたら、「マジソン群の橋」という映画をやっていました。もちろんイタリア語で。

イタリア語はわからないので、このさい音声は消してしまって、私と友人がそれぞれメリル・ストリープとクリント・イーストウッドになってアフレコ遊びをしていました。好きなセリフをてきと〜にあてはめていたのです。

言うまでもありませんが ・・・ 見るかげもないほどまったく違うストーリーになっちゃいました(汗)。あの橋のうえのせつないシーンだって、情緒もへったくれもあったもんではありません。そっけないことこのうえない(笑)。

映像はまったくそのままなのに、ただセリフを変えただけでストーリーってまったく違ったものになっちゃいます。

ということは、そこで起こっているように見えること(映像)よりも、それにどういう意味をもたせるかっていうことこそが、そのドラマがどういうものであるかを決定しているのですね。

ところで、わたしたちが毎日見ているこの世界、この日常も、もしも最初から音声などついていない映像だけだとしたら・・・(つまり無声映画です)。

そして、それを見ているひとりひとりが、それに勝手にアフレコしたり、好きなように解釈あたえているとしたら・・・。

そりゃ、同じ映像を見ていたとしても、ひとりひとりが違うストーリーを体験することはまぬがれません。そして、違う体験をしているからには、まったく違う解釈や意見をもったり、また違う気持ちを感じるというわけです。そこで食い違いがうまれてあたりまえです。

あの音のない「マジソン群の橋」を、アフレコや解釈によってどんなドラマにも仕立てることができるように、私たちの日常もじつは「音のない」「決まった意味もない」映像にエゴが勝手にセリフや解釈をでっちあげて、独自のエゴストーリーを展開しているとしたら・・・? 耳にする音も、うかんでくる考えも、解釈も、すべてエゴがアフレコしているとしたら ・・・?

それはエゴのストーリなので、きまってジェットコースターのような急転直下に見まわれたり、最後はお決まりのエンディング「御愁傷さま」状態が待っているというわけです。

う〜・・・ん。だったら、自分でセリフをつけない解釈しないに限りますよね。

だからといって、エゴを黙らせることも、エゴの考えを阻止することもよい考えではありません。それをしようとすると、エゴと戦うことになって、存在するはずのないエゴがよりリアルになり、またすべてのエネルギーをエゴとの戦いに費やすことになってしまいます。

それよりも、エゴのセリフや考えを「エゴのもの」として静かに気づいていることのほうが大切です。ただ気づいている、ただ見ている、ただ耳を傾けている・・・。おもしろいもので、じっと観察していると、それはだんだん弱まってくるのです。静かになります。

「これはエゴが言っているんだな」「これはエゴがびびっている」と気がついて、じっと観察して、耳を傾けている・・・おもしろいもので、すぐにエゴくんはシン・・・としてきます。

ってことは、観察しているホンモノの自分とエゴは元気いっぱいにに共存はできないらしく、ホンモノ60%、エゴ40% というように、両方でいることはムリらいのです。となると、どうやら、「私」がエゴにまるまるのっとられているか、あるいは正気でエゴを観察しているか、ふたつに一つのようです。

気がつけるようになると、今までは知らぬまにエゴにのっとられ放題の瞬間ばかりだったのが、だんだんエゴの出番が少なくなってきます。出てきても、すぐにわかるようになります。

どうやら私たちの人生にしても、無声映画のごとくストーリーはストーリーとして独自に展開していくようです。だから、わたしたちにできるのは、アフレコしたり独自の解釈を加えてエゴのストーリー展開にしないことなのです。これこそが、なにも手だしをしないで「ゆだねる」「おまかせする」ということ。

エゴは意味を見つけることこそが賢いことだと思っているので、つねに「これはどういう意味?」「なにが起きている?」「〜にちがいない」と意味を見つけることに必死になります。でも、エゴの見つける意味は自分を幸せにはしてくれないようです。

ただ無声映画をみているときのように、ストーリーがストーリーを展開していくにまかせておくこと。

エゴが介入しない人生独自のストーリー展開には、独自の知性と完璧さがあらわれてくるようです。

だから、「人生が人生を生きるにまかせる」。つまり、わたしがいちいちちゃちゃを入れない。私はこの言葉が好きです。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

【ヒプノセラピー 体験プチセミナー】 6月、7月

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

「ヒプノセラピーってなに?」「どんな効果があるの?」「誰にでもできるの?」「ほかのセラピーとどう違うの?」「セラピストになるには?」・・・

リラックスした雰囲気のなかで、ヒプノセラピーについてのあれこれを学びながら、実際に体験することができるプチセミナーです。日々の疲れがとれたり、あるいは、心について、自分自身について、新たな気づきがあるかもしれません。どなたでも、気軽にご参加ください♪

*内容
・ヒプノセラピーってなに? どんな効果があるの?
・ヒプノセラピーと他のセラピーの違いは?
・ヒプノにかからない人がいる? 誰にでもできるの?
・ヒプノセラピーはなぜそんなに効果的なの?
・リラックスできるヒプノセラピー、プチ体験
・ヒプノセラピストになりたいけど・・・養成コースについてもっと知りたい
・お茶を飲みながら、ヒプノセラピーなんでも Q&A

*日時
A : 6月24日(土) 19:00~20:30
B : 7月14日(金) 19:00~20:30

*場所 : 表参道(渋谷区)

*講師 : 古川貴子
(ヒプノセラピスト、日本ヒプノセラピー協会理事・講師)

*参加料 : 1,000円(お茶とお菓子つき)

*お申し込み方法 → こちらのフォームからどうぞ
(「体験コース」参加希望とご記入のうえ、希望の日にちをご明記ください。)
追って詳細をお知らせさせていただきます。

ヒプノセラピーってなに? → こちらから
ヒプノセラピーを受けてみたい → こちらから
ヒプノセラピーを学んでみたい → こちらから(日本ヒプノセラピー協会サイト)

(社)日本ヒプノセラピー協会
http://hypnopotential.com

 

気づきの日記「エゴのワナにはまらない」

手術入院をしている○ちゃんのお見舞いに行ってきました。

聞いてみると、身体のことのみならず、仕事や人間関係、環境の変化など、現在ありとあらゆるところに問題が噴出していて「怖れ」にみまわれているとのこと。

そう・・・こういときってあります。これでもか!っていうぐらい、いろんな問題が束になってかかってくるときって。そして、「怖れ」という大波にのまれそうになります。

そんなときは、目のまえの問題をどのように解決するべきか・・・ と判断、分析、対処にアマタを忙しくして、考えることに疲れはててしまったりしますが・・・ これは、じつはエゴの思うツボ。

問題を解決しようと問題に集中してしまうことが、まんまと苦しみを深める方向に向かっているとは、そしてエゴのワナだとは、ついぞ気がつくことができません。

「怖れ」を感じてたら、誰でもその「怖れ」の原因(出来事)をどうにかしようとします。それこそが問題の解決法だと。

しかし、ほんとうは「起こっている出来事」が原因で「怖れ」を感じているわけではない、ということになかなか気がつけません。

「怖れ」ゆえに、これらをなんとかしなくては!と焚きつけられていますが、これはエゴがしかけている巧妙なワナなのです。

コワイからそれらをなんとかする・・・ 出来事をどうにかするのにやっきになる ・・・すると、肝心の「怖れ」という感情がないがしろにされてしまいます。「怖れ」そのものに対峙することがないのです。そのかわりに、怖れの原因のように見えている偽の原因(出来事)をいじくりまわすことになります。

本当は、「そこで起きている出来事」と「感情(怖れ)」は、連動しているものではない、つまり関係がない、ということを誰も教えてくれません。

こんなふうに考えてみてください。

ある映画を観ているときに感じる感情は、ひとりひとりまったく違います。同じ映画を観たからといって、全員が同じ気持ちになるわけではありません。

先日、三人で「ラ・ラ・ランド」を観に行ったという友人が、「他の二人が涙している理由がさっぱりわからなかった」と話してくれました。

同じ映画を観たからといって、全員が同じところで同じ感情を感じるわけではありません。そこに映しだされていることに、自分の過去の感情が反応しただけなのです。

だから、何かを見て涙するときには、じつは自分のなかにある感情をそこに重ねあわせて涙しています。映画によってそのように感じているのではなく、映画はたんにその秘められた感情を刺激し、引っぱり出す何かであっただけなのです。

それと同様に、目のまえで起きている出来事も、じつは自分のなかで過去に抑圧した「感情を刺激する何か」なわけです。

だから、同じことが起こっても、笑ってすませる人もいれば、立ち直れないほど傷つく人もいるわけです。

エゴは、その目のまえの出来事こそが原因で「怖れ」を感じるんだ!と言いはります。そして、それこそを解決するためにあれこれ奔走することに向かわせます。

そうすると、「怖れ」はそのまま温存されて、またすぐに顔を出してくるのですが、そのときにはまた目のまえにある別なことを「怖れ」の原因だと思いこませ、今度はそれをどうにかしようと一生懸命になります。

こんなふうにして、「怖れ」の感覚はずっと大切にされることで、同時に問題もつくられつづけます。

このからくりがわかってから、わたしは「怖れ」を感じるたびに「逃がすものか!」とばかりに正面から感じることにしました。

そのときわたしが感じていたのは「なんかモヤモヤ」という程度の感情だったのですが、時間があったので湯船につかりながらそのモヤモヤにじっとフォーカスして感じつづけていました。

感じるときには、なるべく身体の感覚に敏感になってみます。手がびりびりとか、胸がどきどきとか、アタマががんがんとか、胃がどくどくとか・・・。そのフォーカスがあいはじめるや、だんだん両手がびりびりしはじめて、それが両足に広がって、そのうち全身がばりんばりん。あなたは、電気ナマズですか?!(笑)というぐらいすごいエネルギーです。

ひゃ〜!なんかモヤモヤぐらいの小さな感情の下に、こんな大きなエネルギーの塊が隠されていたなんて ・・・。ほんとうにしびれすぎて湯船から一歩も動けないような状態で、でもせっかく出てきたこの感情を感じないなんてもったいないという思いで、おそらく20分以上びりびりとじっくり感じつづけていたと思います。

そのあとお風呂から出たあとも、ずっと手のひらと足がじんじんしている感じは残っていましたが、なんか視野がすっきりとしたような、たしかにかなり大きなお荷物がなくなった気がしました。

そのとき感じたのは、わたしに限らずみんな、どれほどの大きなエネルギーを抑圧して、ないふりをして生きているのだろうということ。

その抑圧して、出てこないようにして、感じないようにして生きることこそ、ものすごいエネルギーを浪費しています。自分のもつ膨大な自由なエネルギーを、隠すことと、押さえることにつぎこまれてしまいます。

そしてその感じられていない感情の抑圧こそが、怖れや罪悪感、自己嫌悪、無価値観となって、それぞれの生きづらさにつながるのだな〜と感じます。

その後おもしろいことに、今までだったら「怖れ」を感じそうな状況に出会っても、それらが「たんなる対処すべき出来事」となって、必要以上に自分をおびやかすことがなくなったということ。

なるほど〜。怖れがなくなると、ただするべきことをするだけなんだな〜、わざわざ問題にならなくなるのだな〜と気がつきました。

そして、「怖れ」がなければ、ものごとはそうであるようにただ出来事として流れていくのだとわかりました。

先日のブログでも「感じること」について書いたばかりですが(「今感じていることに気づいていますか?」)、そこで感じている「感情」をただ感情として感じてあげることで、出来事とというのはニュートラルなものになっていくようです。

エゴは「怖れ」をつかって、つい出来事のほうにフォーカスさせようとしますが、それをしてしまうと解決されないままの感情がほかの出来事とドッキングしてまた別の問題がつくりだされます。

エゴはじつは「怖れ」そのものなのです。だから、感じられてしまったら、消滅してしまうので困るのですね。

だから、「怖れ」に正面から向かっていくことは、エゴのワナに翻弄されることなく、エゴそのものを消滅させる方法なのです。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング )

 

GWは近場であれこれ

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

GWも終わり、世の中の車輪がまたゴトゴトとまわりはじめました。

私はGW中はお休みをとる予定はなく、お仕事。といいつつも、時間をみつけてしっかり気分転換してきました♪

4月○日 ♡ お友だちとお茶。

「るん」から1分ぐらいのところにあるカフェUnice さんにて。

まるまる太ったベーグルのフレンチトーストをいただきました。

あまりにもベーグルがたくましすぎて、ナイフとフォークで大奮闘。だんだん「私はいったい何を解体しているのだろう?」とわからなくなりましたよ(笑)。ベリーがたっぷりでおいしかった♡

ふだんなかなかスケジュールがあわない友人ですが、これを機に夏までのデートスケジュールをしっかりたててしまいました。ふふ・・・楽しみ♪

5月△日 ♡ 「5月に “ちゃんこフェス” っていうのがあるからつきあって」と言われたのが1年まえのこと。その5月をまえに、「例のちゃんこフェスっていつ?」と友人にたずねたら、ご本人はすっかり忘れてた(笑)。

ということで、両国の「にぎわい祭り」に出店されている「ちゃんこミュージアム」に行ってきました。

やる気ばりばりの朝イチからの参加です! ところが、最初に向かったのはなぜか「ちゃんこ」ではなく、ステーキ屋台。 ・・・だって、とってもいい匂いだったので・・・。

その後、江戸沢さんの塩ちゃんこ、霧島さんの豚コツちゃんこをたいらげ ・・・もうひとつ寺尾さんにも行くはずが、あえなくgive up(けっこうドンブリ大きいのね)。

でも、別腹は健在! 「新庄伝統餅つき」で、できたてアツアツのお餅をいただきました。強力なコシのあるお餅を使ったきな粉餅は格別。ちゃんこのあとにはぴったりのスウィーツでした。

 5月□日 ♡ セッションにいらしてくださったお友だちと、セッション後にランチをご一緒することに。

いつも御用達の近所のお店「TAVERN」さん。こちらはパンのビュッフェがおいしいのです。私は鯛のラタトゥイぞえを。

オープンテラスになっていてとても気持ちよかった。スウィーツ男子のお友だちと、尽きることのないスウィーツ談義に花が咲きました。

5月×日 ♡ お友だちとディナー。

連休最後の宵、西新宿はまるでゴーストタウンのようにひと気も少なく閑散としている。ふだんの東京もこのぐらいすいていたらいいのにね〜。

お友だちがアレンジしてくださった静かなお店でのんびりゆったりディナー。早い時間からはじめたので、ゆっくりおしゃべりできました。

お仕事しながらも、けっこう息抜きができたGWでした〜♪

 

 

気づきの日記「今感じている感情に気づいていますか?」その2

その1より

そのときに自分が本当に感じていることを、言葉にすりかえることなくそのまま感じて、そこにぴったりとピントがあったときには、びっくりするぐらいオオモノの感情に出会いびっくりすることがあります。

ほんのわずかな不安感ぐらいだったはずなのに、感じているうちに指の先までビリビリしてきたり、わけもわからず大泣きしてしまったこともあります。

じつは、ささいな感情の下にはとてつもないマグマのようなエネルギーをはらんだ感情のかたまりがあって、その感情のバクハツを怖れているがこそ、私たちは感情を感じることをさけようとしてしまうのかもしれません。感じそうになるやいなや、すぐに言葉や分析やラベリングに逃げてしまいます。

まさかそんな地下にうごめくマグマのように物騒なものを抱えているとは、誰も思ってもいません。だからびっくりします。そしてそれは、私にかぎったことではなく、みんな涼しい顔をしながらも、誰もが抱えている宇宙もふっとぶような強力な感情(怖れ)のかたまりがあるのです。

それをあるがままにちゃんと感じられたときには、かなりの達成感! なにかがゴソっととれた感があって、スッキリと軽くなります。少しまえまで感情を感じながらさめざめとしていたのがウソのように、いきなりピカーン!と青空な気分になります。

何かコトがあって感じるというよりも、「理由もなく、そこはかとなく不安」とか「なんだか落ちつかないわ」と感じたときには、感情にフォーカスしてみることをおすすめします。

アタマのなかですかさず、セリフと分析、ラベリングがはじまるまえに、感じてしまうことです。ほっておくと、「なんでこうなのよ?」「どうしてこうなったかな?」「じゃあ、どうしよう・・・」と探求に入ってしまいます。

あるいは、自分の外側のもの(お酒、ギャンブル、買い物、食べ物、恋人、仕事、・・・)で感情をごまかしたくなる誘惑にかられます。ごまかすまえに感じてしまいましょう。そうすれば、外側のものに依存、執着、耽溺しないですむようになります。

「感情」と言われると「え?? よくわかりません」という方は、「身体の感覚」と考えていただくとわかりやすいかもしれません。

心臓がドキドキする、胃のあたりが重たい、頭がしめつけられるよう、手や指や足がびりびりする、喉がしめつけられる・・・。この感覚こそが、感情のあらわれです。深く呼吸をしながら感じて、しっかりとピントがあったときには「ずぼっと根っこごと抜けた感じ!」「予想以上に根っこがおっきくてビックリ!」てな手応えを感じられることでしょう。

怒りも感情の一つだから「私はちゃんと感じているにちがいない」と思ってしまいがちです。しかし、先ほども書いたように怒りは本当の感情を隠すためのダミーです。

自分のことをとても小さく、無価値に感じているとき、その反動として自分を守るためにこころが刀を抜いている状態が怒りなのです。だから怒りは、勇ましい感情などではなく、じつはおびえているとき、怖がっているときに起こります。

あとよくやってしまうのは、「感じています」といいながら、じつは思考に走ってあれこれ考えていて、考えでアタマが満杯なってしまうことです。「感じること」と「考えること」は同時にはできません。だから考えに走ってしまうと、もうそこで感じることはシャットアウトされ、アタマで架空のストーリーをでっちあげてしまい別の世界をつくりあげてしまいます。そして、そこで感じそこねた感情は、自分のなかでまたくすぶることになるのです。

こころには自浄作用があるので、感じそこねた感情がたまりすぎると、まるでゴミ出しをするようにさまざまなかたちで目に見える世界へとこころのゴミをばらまいて捨てることになります。それが様々な問題としてあらわれるのです。

目に見える世界には自分の身体も含まれるので、ゴミ捨ての結果として身体に不調があらわれる場合もあります。

だから正しく感じるということはとても重要なのです。

そして、そのときどきの感情をあるがままに受けとめて感じられるようになると、こころのゴミがどんどん片づけられるようになります。あるいは、片づける(感じる)のに慣れてくると、こころも「じゃあ、これも捨ててね」「次はこれね!」とどんどんいらないものをさし出してくれるようになります。そして、ゴミを片づけたあかつきには、ゆらぐことのないほんとうの自分の輝きがあらわれてきます。

世の中ではポジティブであること、前向きであること、明るいこと、ヘコまないことこそが「正しい感じ方」「よい生き方」だと思われています。

でも無理にポジティブなふりをすると、あとでいっきにネガティブのつけがまわってきます。なぜなら、無理にポジティブにするということは、もともと自分はネガティブだと無意識のうちに気がついていたからこそなのです。

また、無理にエネルギッシュ、力強い自分を装うことも同様です。そもそも装う必要があるということは、じつはほっておくと自分がどれだけペシャンコなのか、ふがいないのか、じつはわかっているからです。

そのネガティブさを無理に抑圧するために、かえってそれが自分の見ている世界に噴出することになります。

ネガティブであっても、後ろ向きであろうとも、それもただひとつの「感覚」です。抵抗も抑圧もせず、ただ感じてあげることで、それは本来の自分の意識のなかに統合されて、ただ自然な状態へと戻してあげることができます。

どんな感じにしろ、あるがまま感じるままに感じる・・・あまりにも自分とは違うもののフリをすることに慣れっこになってしまった私たちにとっては、そもそもの「あるがまま」に気づくことからはじめなければならないのかもしれません。

そのためには、なるべく言葉を使わないこと、反応しようとしないことです。

そして、あるがままを感じることの恩恵は、じつは思っている以上のものがあります。

あらゆることは「ただ感じられるままに感じる」だけなのに、わざわざ問題としてでっち仕立てあげることが少なくなります。

また、こころのなかの負荷が少なくなってくると、だんだんと意識が広がっていきます。そして、徐々に本来の自分への目覚めというプロセスがはじまります。小さく制限された個人という自分から、本来のもっと大きな境界のない自分へと変化が起こりはじめます。

本来の自分とは・・・感じるままを感じ、起こることをそのまま体験し、受けとめ、それでいてお気楽な感じ。そうなると、今までの自分がいかに無意識のうちにヤマアラシのように針をつきたてていたか、そして固く身体をこわばらせなが防衛することに必死だったかに気がつきます。

感じるままに感じることで、ものごとが自分のなかをとおりすぎてゆくことによって、静かにそれに「気づいている」自分に落ち着いていられるようになってくるようです。

「あるがままを感じられるようになること」こそ、じつはセラピーにおいて、そして本当の自分へと解放されるために、いちばん大切なことかな〜と感じます。

 

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(社)ヒプノセラピー協会のサイトが新しくなりました!

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

大変お待たせしておりましたが、リニューアルを行っておりました(社)日本ヒプノセラピー協会のサイトが本日新しくなりオープンいたしました。 →(社)日本ヒプノセラピー協会のサイトへ

サイトのリニューアルにともなって、今までのヒプノセラピスト養成コースもバージョンアップ。

ヒプノセラピーを学びながら自分も癒せる「ベイシック コース」「アドバンス コース」のほかに、さらに高い視点から「真の癒し」についての真理を学び、本来の自分自身である〈気づき〉への目覚めを促す「アウェイクニング コース 1&2」を新設、開講いたします。※「アウェイクニング コース 1&2」からの受講も可能です。

体験セミナー、セラピスト養成コースは、順次開講してまいります(「アウェイクニング コース 1&2」は今秋以降を予定しております)。

わたしは(古川貴子)、講座のカリキュラムの作成とともに、セラピスト養成コースのすべてにおいて講師を務めさせていただくことになっております。

また、プロの癒し手のサポートを行う「コンサルテーション」のセッションも新設されました。

長らくセラピスト、カウンセラーとして活動されてきた方のリフレッシュやバージョンアップにお役立てください。また、癒しのプロとして開業を考えている方のサポートとしてもセッションをご利用いただけます。

また、セラピスト養成コースのほかにも、みなさまが楽しめるセミナーやワークなども順次企画していく予定です。

新しくなった(社)ヒプノセラピー協会 を、どうぞよろしくお願い致します。

 

気づきの日記「今感じている感情に気づいていますか?」その1

「今この瞬間に、自分が感じていることをちゃんと感じられるようになってみましょうね」

これは私がセラピーセッションのなかで、クライエントさんにもっともよくかける言葉のひとつです。

・・・ということは、多くの方は「自分が今感じていることをちゃんと感じられていない」ということなのです。

「いいえ、自分が感じていることぐらいちゃんとわかっていますよ」と言われるかもしれません。

上司から理不尽に怒鳴られて思わず怒りを感じたのもわかっているし、健康診断で「腫瘍があります」といわれたときだってかなり落ちこみましたからねって。

でも、上司から怒鳴られたとき感じた怒りは、その怒りのまえにある「本当の感情」を感じないようにするためのもの。怒りは、怒鳴られた直後の「本当の感情」ではないのです。それは「本当の感情」によってダメージを受けないようにするためのダミーの感情、つまり防御策。

健康診断で悪い結果をいいわたされたときも、とっさに「本当の感情」を感じそうになるやいなや、分析したり考えはじめます。「そのとき感じていました」というのは、今後起こるかもしれない未来のストーリーについて反応していたのであって、そのときそこにあったあるがままのむき出し感情を感じていたわけではないのです。

こころはなんと素早いことか! 「本当の感情」を感じないように、すぐにダミーの感情にすりかえたり、考えをつくりだして感じないようにします。

私たちのこころは「本当の感情」を感じてしまったら自分が立ち直れなくなるのでは・・・ と信じているので、いかにあるがままの感情を感じないようにするか、いつもそのために必死です。すぐさま防衛姿勢をとっているのがわかります。

本当のむき出しの感情を感じてしまったら、耐えられない、もう生きていけないとさえ思っているのです。

そんな感情のすりかえを長年行ってきたがために、こころのなかは罪悪感、恐怖、無価値観などの「感じそこねた感情」のゴミ捨て場になっています。そして、それらのたまりにたまった感情のゴミはまるで腐敗するがごとく、異臭を放ちはじめます。

それこそが、慢性的な落ちこみ、やる気のなさ、いやな感じの原因です。ひどくなると、ゴミから完全に逃げだしたくなります。つまり、死にたくなります。ちゃんと感じてこなかったものが、こころのなかにあふれんばかりになっているのです。

誰も「今感じていることをあるがままに感じていいんだよ」と教えてもらったことがないので、感情の扱いについては親のやり方を真似するようになります。

その親も、もちろん感情をどう扱ったらよいのかわからなかったので、結局誰も正しい感情の扱い方を知らないままです。すると、感情を感じるかわりに考えで合理化したり、あるいはすばやく防衛のためのダミーの感情(怒りなど)にすり替えて周囲にまき散らしたり・・・という代替策になれていきます。

ほんとはね、学校でも「自分の感情の取り扱い」について、ちゃんと教育をしてあげる必要があるな〜と思います。なぜなら、ちゃんと感情を感じることができない弊害こそが、人生の苦しさにつながるからです。

ちゃんと感じることがなかった感情は、こころの深いところに抑圧されるのですが、決して自然と消えてなくなるということはないのです。それらの感情はいつか、沼の奥深くに生息しつづけた妖怪のごとくわやわやと姿をあらわし、問題というかたちで悪さをするようになってしまいます。

「あるがままの感情をあるまがまに感じること」というのは、まるでドッヂボールで飛んできたボールを受けるがごとく、まったくよけることなどなく、正々堂々とお腹の真ん中でドシンとしっかり受けとめてあげること。そしてそのボールがこころにまで染み渡っていくのをあるがままにゆるしてあげること。

「ちゃんと感情を感じていますよ」という場合でも、どうもボールが飛んできたのをヒラリとよけて、でも身体にちょっとかすちゃったみたいな、正々堂々感が足りないのです。

あるいは、はでに声を荒げたり、泣いたりするジェスチャーで誤摩化してしまう場合もあります。これはエネルギーとしては強いのですが、的がはずれていたりします。

「あるがままにそのまま感じる」というのは、本当にジンワリその感情が自分にしみこんで、その感情のバイブレーションとひとつになって存在すること。深く呼吸をしながら、その感情そのものになってみること。

私も何やらわけのわからない感情があらわれてくるとき、意図的にその感情をじっくりと感じる時間をとったりします。

でもそのとき、なかなか感情にピントがビシッとあわないように感じるときがあるのです。感じていて、涙も出てきたりするのですが、今いちフォーカスがあまいわ! ピンボケしてる、というように。

そんなときには、まるでその感情に手動でピントをあわせていくように、深く呼吸をしながらじっくりじっくりと感じていきます(そう、逃がさないぞ〜という感じで!)。

本当に感じていることにしっかりとフォーカスできたとき、身体がビリビリするように感じるときもあるし、思っていた以上にそこに隠されていた感情の巨大さにびっくりすることがあります。感じはじめたらどんどん大きくなって、それに焼き尽くされそうに感じたこともありました。あ〜こんな大きなものを抱えていたのかとびっくり!

でもしっかりとピントがあうと、それなりの手応えを感じるものです。「わあ〜!感じてる!感じてる!」って。やっていくうちに、それが楽しくなってきたりします(マゾですか?!笑)。

その2へつづく

 

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気づきの日記「人生に刺激的な出来事がやってくるとき・・・」

先日、MS4Dで「美女と野獣」観てきました。MS4Dってどれだけ臨場感がますのだろう!と期待していたら、ひとつ間違うとシラケた体験になってしまうことも・・・。

まぶしいピカピカや、テーマパークのアトラクション顔まけのゴトゴトゆれる椅子、さらに突如ブシュッと顔に向かって噴射されるミストなど ・・・ 不自然な刺激で、あっというまに映画から注意が引き戻されて、劇場で坐っている自分へとさめてしまうのでした。

これと同じようなことが、じつは人生でも起こっています。

私たちのほとんどは、この人生ドラマにメリメリとのめりこんだ結果、はまりすぎていることにすら気づくことができません。映画に熱中しすぎたために、ながらく椅子にすわっている自分を忘れてしまったような状態。

自分にとっての「本当の現実」よりも、架空のドラマのなかに住みついてしまい、そのことに違和感さえ感じることがないのです。

でもある日「とき」が満ちてくると、人生ドラマ(画面)からの引き戻しが始まります。

「引き戻し」とは、映画館で不自然なミストやストロボで正気に戻ってしまったように、人生ドラマのなかでも正気に戻すようなことが起こりはじめるのです。

今までにないような刺激が、人生ドラマのなかに現れはじめます。今まで体験したことがないような不快感。まるでいきなりブシュッと顔にミストを噴射されるような、いやおうなくドラマから引き戻されるような刺激が・・・(お目覚めミストの洗礼!)。

そうすると、この人生ドラマの画面からふと離れることが起こり、「あれ?このなかで生きてるとずっと思っていたけれど、じつはここになんていなかったんだ〜・・・汗」という気づきが生まれたりします。

いきなりそのような気づきにはいたらなくても、ミストやストロボ的な不快な刺激が続くうちに、今までのやり方(生き方)ができなくなり、自然と生き方が修正されつづけて、気づきにいたる場合もあります。

私がMS4D映画で体験したように、せっかくストーリーのなかに入りこんでいたのに、不意の刺激によってそのストーリーから引きはがされて ・・・ そして、「人生ドラマと一体になってそのなかに生きていたはずなのに、あら〜、人生ドラマのワクの外に出ちゃったじゃない」っていうような。

私たちはもう何千回(?)も人間として人生ドラマをやっているうちに、この一個の身体こそが自分であるという考えに洗脳されて、自分のまわりにこそ世界がある、と信じて疑うこともしません。

まさか「自分の知覚しているすべてが自分」で、身体としての自分はその一部だとは気がつくことがありません。

万がいち、本当のことに気づいてしまって「私、身体じゃないんです〜」なんて言おうものなら、好ましくない待遇を受ける病院に入れられてしまいかねません(汗)。

「誰もここにはいないんです」とか「何も起こっていないんです」なんて言おうものなら、精神疾患のレッテルをはられるのがオチで、そうなると自分自身でも「頭がおかしくなった」と疑うことになるかもしれません。

でもね、不思議と「そのとき」が近づいてくると、MS4D映画のミストやら、椅子の震動やら、ストロボのごとく、むりやりこのストーリーへの耽溺から引き離すような刺激がじゃんじゃんやってくるようになるのです。

そして映画館で「あ、ここで椅子に坐っていたんだったわ」と気がつくように、人生ドラマから引き離されてまったく違う視点から自分を見ることが起こります。そして知るのです。「あ〜、自分は人生ドラマのなかになどいなかったんだわ」と。

私たちは、ミストやストロボのような不快な出来事が起こらない限り、このストーリーにどっぷりとはまりすぎていて、なんの疑問も抱くこともなく、かえってこのストーリーへの耽溺を深めていくようにも感じます。

でもいったん、このストーリーのなかで歯車がうまくまわらなくなったり、さらにそれが悪化して何が本当のことかわからなくなると、ふと正気に戻るというか、「この世界で本当のことって何だろう?」「本当のことを知りたい」と考えるようになるのです。

だから、今自分の人生ストーリーを生きていて、不快なミストやらストロボやら震動がやってきているとしたら、それはそろそろ「本当のことを知りましょう」「本当の自分に戻りましょう」というお知らせサインでもあるのです。

このようなアラームがならない限り、私たちはこの幻の人生ドラマのなかで、あと何千回でも輪廻できちゃうほど深い催眠状態です。

もし今、不快なことがやってきているのだとしたら、それらを無視してむりやり人生ストーリーを続けようとしたり、それに抵抗して闘ったりしようとするより、ただ起こっていることに身を投じてしまいましょう。

ミストにさらされ、ストロボ攻撃にあって、椅子の上で振りまわされて ・・・ しまいには、人生ストーリーの外にひっぱり出されて、シラフになっている自分に気づくことが起こるかもしれません。

「そのとき」がやってきたらそれは自然に起こり、そして新たなステージへと私たちを運んでくれるのです。

そのとき、私たちは過去何千年も「自分」であると思っていた自分から、ようやっと引きも戻されて、ほんとうの「正気」というものがどのようなものなのか知ることになるのだと思います。

刺激的な出来事が次々おしよせてくるように感じるとき ・・・ おびえてその出来事に飲まれてしまうのではなく、ついにお目覚めのベルがなっていると腹をくくり(といっても、リラックスして)、こころを開いて、その体験と向きあってみます。

不快な体験をちゃんと調べてみると、コワイと思っていたものが「な〜んだけっこうこどもだましのミストやストロボや震動だったわ〜!」と気がつくことになるのです。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング )

 

お茶の間シネマトーク「実写版、おとぎの世界 “美女と野獣”」

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

映画を観に行ったとき、「地震?!」と思うような揺れをたびたび感じたことがあったのです。どうやらそれは、隣にある別の劇場の MX4D の震動だったようなのですが。

なので、楽しみにしてた実写版「美女と野獣」を MX4D で観てみることにしました♪

予告編でカークラッシュばりばりの映像があって、椅子がぐわんぐわん、どしんどしん、突風がびゅ〜。「え〜!これじゃ、2時間もちこたえられないわ」と不安になりました。

MX4Dは、震動や突き上げなどの椅子の動きに加えて、匂い、風、水しぶき、ストロボ・・・など 4D の刺激がもりだくさん。一緒に行った友人は MX4D はおろか、3D でも観たことがないそうで、隣から叫び声やら笑い声が ・・・(笑)。私も予告での激しい動きで、叫びまくっていましたよ。

ところで、匂いってなんだろ?「チャーリーとチョコレード工場」だったら、もれなくチョコの香りだろうけど・・・。

本編がはじまって、画面の真んなかに一輪のバラが映しだされたとき、きました、きました! バラの香り♡

「美女と野獣」は、アニメより格段にパワーアップしておりました。

ポット婦人もチップちゃんも、あの燭台と置き時計のコンビもそのまんまだけれど、実写になってさらに美しいです。幻想的です。キラキラなおとぎ話の世界にひたれます。そして、まったく手抜きなしなので、大人が満足できる仕上がり。男性が観てもじゅうぶん楽しめることでしょう。

でも、MX4D のミストやストロボが激しくて、椅子の震動もおおざっぱで画面とズレがあったりするので、「臨場感が増す」というよりは、MX4Dが作動するたびにかえって画面から引きはなされて、椅子に坐っている現実に連れ戻されてしまうようでした(汗)

ところで、実写にすると野獣ってどんなよ? って思っていたのですが、ホント、アニメどおりです。メーキャップで仕上げているせいか、ちゃんと目に表情があって、それによってより感情が伝わってきます。

野獣役は、あのドラマシリーズ「ダウントン・アビー」のマシューさんじゃありませんか!

婚約者のメアリーとお互いに好意をよせながら、ふたりとも意地っ張りでなかなかくっつかず、ようやく結婚した!と思ったら、マシューはあっというまに悲惨な事故死・・・。なんとか戦争も生きのびてきたという矢先に、かなり理不尽な急展開で不自然さを感じていたのですが、そうか〜・・・ マシューさんハリウッドを目指していたのですね。天国経由であっというまにハリウッドに行ってしまったというわけです。・・・そのわりには、ほとんどがむさい野獣姿で、せっかくの丹精なるお姿を見ることができません。

その美しいお姿が見られるのは、ラストのほんのちょっとだけ。上品な英国貴族がはまり役だったので、王子さま役はぴったりです。

しかし・・・ベルはあの野獣とのあいだにこそ愛を育んだのであって、いきなりの美しい王子の容姿に「あら、タイプじゃなかったわ・・・」ってなことにならなかったのでしょうか(笑)。

MX4D のあれこれの仕組みにすっかり気をとられてしまったので、もう一回落ち着いて、ファンタジーの世界に酔いしれたいものです。

涙壷度 ・・・★★☆☆☆(しっかり泣かされます!)