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「楽屋」さんでライブ♪

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

お友だちのSちゃんのお誘いで、アコースティックライブを聴きに行ってきました。

場所はとっても近所、中目黒のライブハウス「楽屋(RAKUYA)」さん。

いろいろなアーティストに楽曲の提供もしているというシンガーソングライター、来嶋けんじさんの軽妙な関西弁トークも楽しめるボーカルとギターのライブ。リピーターさんもいっぱいいて、満席でとっても盛りあがりました。

歌や語りも楽しめたけど、アコースティックとエレクトリックのギター演奏が素晴らしかった!(THE BOOMの宮沢さんにもらった自慢のギターだそうです。)

そして、わたしたちは2ステージの合間に、がっつり食べました。みんな飲みながらつまむ程度で、こんなに食べてる人は皆無!(汗)

「楽屋」さんは、ゴハンがとってもおいしいのです♪ エスニックはあまり得意じゃないわたしだけど、「おいしい!」を連発。

とくに、トムヤムフライドチキン(パリッパリのトムヤム味)と、海老と野菜がたっぷりのグリーンカレーがお気に入り ♡  ゴハンだけでも食べに来たいぐらい。

Sちゃんは来嶋けんじさんとお知り合いで、ステージのあとには気さくにわたしたちのテーブルにお喋りに来てくださいました。

とっても楽しいステージだったし、ゴハンもおいしいので、また「楽屋」さん出演のときには聴きに行ってもいいな〜♪

「楽屋」さんはさまざまなライブを提供しているようで、ポップス系からジャズ、ミュージカル、ベリーダンスまであるようです。

 

 

気づきの日記「怖れとサヨナラする」

「怖れ? 自分にとって不都合なことや脅かすことが起こったときには、感じるかもしれないけれど・・・ あまりピンときません」と言われるかもしれません。

私たちは本当の感情を誤摩化すのがとても上手なので、怖れはおろか、ちょっとでもイヤな感じ(空虚感、孤独感、無価値感など)を感じると、すぐさま「何か他のもの」でそれをメイクアップして、注意のホコ先を変え、イヤな感じを感じないようにしてしまいます。

友だちと楽しくおしゃべりしたらもう大丈夫!、お酒を飲んだら、買い物をしたら、恋愛をしたら、ギャンブルをしたら、趣味に没頭したら、仕事や家事で忙しくしたら、ホラもう大丈夫!

つまり、「本当の感情なんて、それを直視しなければぜんぜん問題ない!」というわけです。

だから、誤摩化しのために使っているものがなくなると不安になり、すがりついたり、代替を探すかすることになります。失ったときの乗り換えがうまくいかないと、怖れに直面し不安になるのです。。

そして、また探します。本当の気持ちにフタをできる何かを。怖れをカバーしてくれるものを。

私たちは、「怖れている」「不安になっている」「怯えている」自分を、どこか間違っていると感じて、弱くてはずかしい、もっと強くならなくちゃ、と思います。だから、なんとかそれを誤摩化したり、隠したり、強がったり、なくしたりしようとします。

私もむかしは、「学びを続けていけば、あるいはセラピーを続けていけば、いつかは怖れがなくなるに違いない」と思っていたときがあったけれど、いつまでたっても怖れはなくなりません。

シンプルに言ってしまえば、「生きること = 怖れをもつこと」かもしれません。だって、個体という身体を維持するために、つねに危機にさらされ、その孤立感から宇宙遊泳なみの怖れと向き合っているわけだから ・・・ 人間でいる、この世に生きているっていうこと(生存本能があること)じたいが、怖れに満ちた体験なわけです。

生存本能からくる怖れだけでなく、心理的な分離感、孤独感、見捨てられ感というもの、潜在的に抱えています(母体からの分離や、もっと深いワンネスからの分離という)。

でも、「本当の自分」や「本当のこと」への認識が深まると、たしかに怖れの強度は格段に弱まります。でも、分離した個体である・・・という根本的な怖れからは逃れることができません。

だから、「怖れとサヨナラする」のはムリはなはし ・・・ なのです。

そんなとき、「怖れながら、怖れとともに生きなさい」というメッセージを受けとりました。

「怖れがあってあたりまえなのだ」と。「無くそうとすると、敗北感を味わいますよ」と。

怖れを忌み嫌って、なんとか自分の人生から消え失せてもらおうとするのではなくって、「怖れがあってかまわない」と思って生きること。

たった今、車の走る音がして、向かいのカレー屋さんからは下ごしらえの野菜を煮る匂いがただよい、きょうはかなりお寝坊したので頭がぼ〜っとしていて、さらに少し空腹でもあります。これが今わたしの意識に登場しているものたち。

毎瞬、毎瞬、こんな調子でいろんな感覚、感情が登場しては去っていきます。私が握りしめない限り。

でも「怖れ」に関してはなぜか、登場するやいなや「ちょっと、ちょっと、待ってください。なんでこんなところをウロウロしているんですか?あなたは立ち入り禁止ですよ。早く出て行ってください」とばかりにつっかかるわけです。

「つっかかる」=「注意が注がれ」、それが意識に固定され、よりフォーカスされる、より色濃くなるわけです。

これが車の音やカレーの匂いだったら、「ん?匂いがしてる」・・・そして3秒後にはどうでもよくなっています。(ああ、たしかに、どうでもよくないときもあります。「また、カレーの匂い?毎日、強制的にこの匂いにさらされて・・・」みたいな不平不満をエゴが申し立てて、それでも5分もその思考はもちません。

つまり、「怖れ」もこれらの登場人物と同等で、やってきては、さって行くもの。私が頓着さえしなければ。まったく他の思考や感覚、記憶のレベルと同じなのです。

でも、「怖れ」はすぐさまそこから独自のストーリーが展開されたりするので(怖い、こうなっちゃうかも、ああなっちゃうかも、そうしたらこんな最悪なことも!そして、さらにああなって・・・)、飽きのこないおもちゃのように、いつまでもかかわっていられるのですね。かかわればかかわるほど、それがだんだんリアルに思えてくるし・・・。

今朝教えられたのは、「学ぶにつれて、癒すにつれて、簡単に怖れに騙されなくなるのは事実ですが、完全に怖れと縁がきれると信じていると、また自分を責めることになりますよ。それよりも、怖れと仲良くなりなさい。毎朝してくるカレーの匂いと同じです。それがあってもあたまりまえだし、自分にはまったく害をもたらさないものだと思いなさい。実際、怖れには何のパワーもありません。通行人と同じです。あなたが、そこからありもしないストーリーをでっちあげて、それに執着しないかぎりは。怖れはやってきては、ただ通り過ぎ、去っていくだけのものなのです。ただ、ただ、あなたのなかを通り抜けさせてあげなさい」と。

たしかに・・・。怖れがなくならないといけないと思っていると、ずっと敗北感、不完全さを感じることになります。

だから、ただ「スルーすること」を学ぶということ。

最近、わたしが好きなのは、「あなたはザルです」という言葉。

酒豪ということではありません(笑・私はぜんぜんアルコールだめです)。

「なにがやってきても、ただあるがままを体験して、自分のなかを通過させてください」ということ。まったくの抵抗、コントロール、価値判断、避けたい気持ち、なしで!

人生を、自分自身を、ザルにする。

これをはじめてから、なんかとってもち力が抜けました。 ( ̄。 ̄)ボ~~~~ッ  とくに、このザルをイメージするたびに。

「そうです。私は、ザル人間です!何でも通り抜けちゃう」(笑)

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

ハロウィン チョコ

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カフェレルのハロウィンBOX いただきました。

カファレルといえば、あの金色の三角チョコ ・・・ だと思っていたら、キュートなお化けが二匹(二人?)でてきました。かわい〜♡

かわいすぎて食べられず、また箱にもどってもらうことにしました(笑)。

 

気づきの日記「今いることろが、今いるところ!」

きょうは、クライエントのY子さんにいただいたメール、「仕事を辞めたいのに辞められない、というループにはまっている感じ」について ・・・。

私たちはみんな、人生をとおして「ここじゃない、どこか」病にかかっています。

「今の私じゃない、もっと素敵な自分になること」「この人じゃない、もっと理想の誰かと一緒にいること」「この仕事じゃない、もっとワクワクする何かにかかわること」「この今じゃない、もっとエキサイティングな今にいること」 ・・・ とにかく、これじゃない! これじゃない! という感じは、まるで呪文のように繰りかえされます。

「これじゃなければ幸せになれるのに」が、今起っていることに対する決まり文句なのです。

それは、自分の不満足感、欠乏感はいつも、パートナー、収入、仕事、おかれた環境、自分の容貌・性格 ・能力、あの人、その人・・・ のせいであり、それを改善したり、乗り越えたり、切り捨てたりすることで、もっとよい何かを手にすることこそが人生であると教育されてきたから。

そうですよね〜。私たちの両目はいつも「外」という世界、そこに現れるあらゆるもの(自分の身体とイメージを含めて)ばかりを見ているのですもの。これを変えずして何を変える!という感じです。

でも、先に言ってしまうと、今の「これしかない!」のです。他なんてないのです。これが今の自分の人生 ・・・ と言えるまで、これなのです。

なぜその状況が目のまえにあるのか・・・ ということを理解すると、少し感じ方は変わります。

状況を変えようと、人やものや世界に挑んでも思うようにいかず ・・・ コントロールはいつも失敗し、結局、さらに無力感、無価値観がつのるばかり ・・・という結果になります。

じつは、これぞ人生のワナ、エゴのワナ。変えることができないものにつねに挑戦させることで、さらにココロをくじき、自分のふがいなさを強化する ・・・という超イジワルなしくみ。

そう、コントロールしようと思えば思うほど、じつはできないのです。もともとできないものだから。すると、同じ努力をグルグル繰りかえすはめになり、ついには「自分に能力がないせいで」と自分を責めるようになります。そして、さらに変えたい気持ちがつのります。

人生じたいをどうとらえるのか ・・・ 「抵抗すべきこと」とみなすのか、あるいは素直に「体験すること」とみなすのか ・・・ その違いによって、結果が変わります。

エゴは「抵抗しろ!」と大声で言いはります。

でも人生とは、ただそのまま「体験する」こと。やってきたもの、目のまえに現れたものを、そのまま、あるがままに体験すること。

「そっか〜。うまくいかないってこういうことか」「なるほど。ジレンマってこんな感じか」「ふたつの思いに引き裂かれるってこんなふうに感じるのか」 ・・・という具合に。自分が抵抗して、切り離してきた「感じ」を受け入れる旅でもあるのです。

私たちは、自分にとって都合のいいことだけを体験することこそが、うまくいっている人生だと思っているけれど、それは勘違いというもの。

人生はつねに、過去に棚上げにしてきた、体験するのを避けてきた、その感じを「今度こそ。感じてみてくださいね」と提示しつづける ・・・ というわけ。

そして、素直に感じる(受け入れる)と、それは分離感がなくなりひとつになって、自分という広大さのなかに溶けさって、ついには終わりになるから。終わりになったら、それから自由になれます。

だから、「ここじゃないどこか」「これじゃない何か」「もっと他のもの」というのは存在しないのです ・・・ 残念ながら。

今あるこれだけが、自分が体験するために人生にさし出されている唯一のものであって、これを体験することが自分のお役目そのもの。

でも、体験にいろんな「こうであるべき」や価値判断やストーリーやこだわりがくっついていると、それは「抵抗」というものに変わって、苦しいものになるかもしれません。

ただそのままの体験として、なにひとつ価値判断せず、素の感覚の「体験」としてあるがままに受けとめるとき、まったく別のものになります。

そして、そうしたがゆえに、さっさと過ぎ去ってくれて、それは終わりになり、新たな体験がやってくるのです。

そのように体験されるまでは、ものごとは膠着状態。

だから、人生がさし出してくるものを、あれこれ御託を並べずに受け入れて、サクサク体験してみること。

そうすると、人生の流れとひとつになって、「あ!結局、よかったわ!これで」っていうセリフが自然と出てくるようになります。

Y子さんいわく、「このループ感は、自分の心の中の思いが統一されておらず、統合されておらず、ぐちゃぐちゃだから・・・・ではないだろうか?」と。

Y子さんが今、仕事や人生について「他の場所に行きたいのに行けない」感じがあるのであれば、徹底的に今感じているその感じ(葛藤や不満や、矛盾や混乱など)に向きあって、ただただその感じを自分に経験させてあげてください。

そのジレンマやくちゃくちゃ感をしっかりと受けとめたときに、「その感じ」から卒業して、きっと次の扉が自動的にやってきます。次の扉というのは、いつも自分で開くものではなくって、勝手にやってきて開いてくれるものなのですね。

そのためには、人生が「いいよ!」というまで、その感じを堪能(?)しきってみること。

きっと、次なる扉が自然にあらわれて、Y子さんはそれを当然のことのように開くことができるのだと思います。 (✿´ ꒳ ` )

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

ハロウィンの♪

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ハロウィンバージョンのドーナッツいろいろ・・・、

どれにしようかな? (๑◔‿◔๑)

といいつつ、

やっぱり毎年、パンプキン!(主役っぽいからね・笑)

キャラメルクリーム入りで、美味でした♪

 

新しい「日本ヒプノセラピー協会」への道! 2

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新しい「日本ヒプノセラピー協会」への道! 1 より

わたしたちの船である「日本ヒプノセラピー協会」は、7月から改修工事に取り組み、昨日、ようやく立派な帆をはることができました。じゃじゃ〜ん!!

それは、「社団法人」としてスタートすること。そのための書類がいよいよできあがり、司法書士の先生を囲んで、できたての素晴らしい定款や書類の数々に理事のみんなで署名・捺印を完了しました。

11月1日をもって、「社団法人 日本ヒプノセラピー協会」が誕生することになります。

署名・捺印の儀式のあとは、いつものミーティングに突入。

「セラピスト」としてお仕事をしている私たちは、どうも「地に足がついていない」浮遊状態(?)のことが多々あり、そこは相談役になってくださっている見衣子さんがじゃんじゃん宿題を出して、バシバシお尻をたたいてくださいます。

ひゃ〜、あんなことも、そんなことも、こんなことも、やらなくちゃならないのね〜!と改めてびっくりするばかり。

事務所の設立にはじまって、組織の運営、会員の規約や管理の仕方、資格の認定、広報、セミナーやスクールの開催など、さまざまなことを刷新していくお仕事があるのですが、わたしはもっぱら「ヒプノセラピスト養成スクール」の初・中・上級のカリキュラム作成とテキスト制作担当、いわば教育主任といったところです。

多くのヒプノセラピースクールやコースでは、だいたい同じ内容が教えられています。(まあ、「ヒプノ」という枠のなかではそんなものですが・・・。)

でも、私たちいわく、ヒプノ(催眠誘導)はあくまでもセラピーへの導入部分であり、いわば道具のようなもの。人を催眠誘導できる(ヒプノができる)からといって、セラピーができるとは限りません。大切なのは、ヒプノセッションのまわりを取り囲むさまざまなセラピー要素・スキルであり、そこをむしろ重要視したいと思っています。

なので、今までの上級コースは中級の前半へと改名して、さらにその上にまったく新しい独自のコース、中級の後半と上級コースをつくることにしました。

そもそも「問題」や「苦しみ」は、「個としての私」という分離感、欠乏感、怖れ、孤立感から、助けと答えを求めて、何も答えが見つからない世界に探し続けるというところから生じています。

だから、「問題」や「苦しみ」をほんとうに癒すためには、「個」の意識を、対立や葛藤の危機感がない「全体」「ひとつ」へと広げていく以外にはないのです。つまり、世界で何を手にいれようとも、どこを目指して頑張ろうとも、結局徒労に終わり、自分を真に癒してくれる答えを手にすることはありません。

そういった意味で、新しいカリキュラムのなかでは、「本当の自分」への正しい認識をもつことで無用な怖れをなくし、さらに意識を分離した「個」から「全体」へと導けるようなステップをふんでいます。

心理学の父、フロイトにしろ、その弟子のユング、そしてカウンセリングの大家、ロジャースでさえ、晩年は「個」を越えたものに言及し、それが大切であるといっているのですね。個人の心というものに向き合えば向き合うほど、どうしても「個人」を越えないとつじつまがあわなくなってしまうという。おもしろいものです。

そんな本当の自分である「大きな意識」を、あくまでも楽しく、軽やかに学べるようにコースとテキストを考案中です。

新しいテキストもなんとか形になったので、明日は他の理事のみなさまにお披露目しつつお勉強会。楽しみだわ〜♪(すでにお遊び気分!)

セラピーを始めて20数年、そこで個人的に温めて、確信を深めて、ずっと伝えたいと思ってきたことを同志のみなさまとわかちあえるのがとっても嬉しいのです。

このお勉強会で改善点をみつけつつ、さらに赤ペン添削くんをつづけて、今年中には「ヒプノセラピスト養成スクール」の新しいカリキュラムとテキストが完成する予定です!

尚、新しくなった「(社)日本ヒプノセラピー協会」の正式なスタート、キックオフは2017年1月から。どなたでも気軽にご参加いただけるワークショップやセミナー、そしてヒプノセラピスト養成スクールも、来年1月から順次開催予定です。

もうすぐ、リニューアルされたサイトもオープンしますので、またでき次第ご案内させていただきます♪

 

PS ハロウィンクッキー、チョコレート、いただきました〜。 ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

 

気づきの日記「人生に勝手に生きてもらう生き方」

「なんか最近疲れて、いっつも昼寝しちゃって」「昨日なんて、気がついたら1時間もたってたし・・・」「ほんと、やんなっちゃう」「なんでこうなんだろ?もっとちゃんとしなくっちゃ」・・・自分のふがいなさを責めている様子の友人。

「そう? わたしなんてちょっと疲れるとすぐソファーに倒れこんでて、お昼寝なんて日常茶飯事(笑)。しょっちゅう意識なくなってるわ〜  (´▽`) '`,」と私。

こんなやりとりをしながら気がつきました。

人はいろんなルールをもっているけれど ・・・ 「こうあるべき」「こうしなくちゃいけない」という決めつけが多ければ多いほど、苦しくなるっていうこと。たとえば友人の場合は、「疲れてても昼寝をするべきではない。スケジュールが守れなくなるから。きちっとすべての予定をこなせる人がえらい人である」と信じている。すると、もし私のような生活態度だったら、罪悪感のかたまりになること、間違いない。

「こうあるべき」という決めつけは、自分が守れなくって罪悪感を感じることもあるだろうし、あるいは人に向けられて批判や怒りにかわることもある。

以前、「道に広がって歩く人をどうしても許せない」「歩きタバコが許せない」、それによってつねにイライラさせられる、それが困る、というご相談を受けたことがあった。

いくら規則が決まっていても、守らない人は必ずいるし、ある意味じゃそれはその人の自由でもある。でも、いちいち人がどれだけ正しく行動するかに目を光らせていたら、なかなか心は休まらない。なんといっても、「道に広がって歩く人」も「歩きタバコの人」も見知らぬ彼女がどれだけイライラしているかなんて知るよしもない。彼らは楽しくやっている。

さきほどの昼寝をする自分を許せない友人の話しに戻ると、私のなかには「昼寝をしてはいけない」とか、「疲れるべきではない」とか「だらだらしてはいけない」というルールがないので、何の負い目も罪悪感もなく、いつでもだらだらできる。

なぜなら、それが自分自身が今、求めていることだから。そうしたいといっているのだから。

いくら「しゃきっとしなさい!」といっても、疲れているときは疲れているし、それが「事実」であり、時として私たちはその「事実」というものをなんとかしてねじ曲げようとする。

だから、「疲れている」という明らかな事実に反して、「疲れるべきじゃない」のに・・・と自分の感覚や身体の反応を否定しにかかる。

でも身体って、本当のところ、まったくコントロールがきいていない。私たちは「自分の身体」だから、制御ができてあたりまえと思っているフシがあるけれど、いつあくびがでるのか、いつトイレに行きたくなるのか、いつ眠くなるのか、わかっているようでまったく予想がついていない。自分の身体に、つぎの瞬間なにが起こるのか、まったくわからない。

それでも、「昨日、頑張りすぎたから眠くなったんだ」とか、「水分とりすぎたからトイレが近いの」とか、その体験が起こったあとにそれっぽい理由をでっちあげて、「私は、ちゃんと自分自身をコントロールできているのだ!」「自分のことがわかっているのだ」と納得したがる。

そして、すべてを自分の制御下においている!と錯覚する。

わたしは、こんなふうに考えるようになってから、ラクになった。

昔は、おそらく人一倍、自分の人生をきっちりとコントロールしたい、コントロールするべきだ、と思っているタイプの人間だった。

けれども、自然に自分にやってくることに、「今、起こっいること」そのものに、「人生のできごと」そのものに、私を生きてもらおう! と決めてみた。ある意味、自分を流れにあけ渡すことにした。

自然に起こることこそ私の人生なんだ、人生をコントロールしていじくりまわすことが人生ではない、と気づいてからいろいろなことをそのままにしておけるようになった。

「眠くなったら」「だらだらしたくなったら」・・・ それが今自分がすることなのだ!と、できる範囲内でそれを罪悪感なく受けとめる。そうしてみる。

なにかがキャンセルになったり、おじゃんになったら・・・。「どうして?なんでこうなるの?」なんて思わずに、これが今わたしが生きることなんだ、と素直に従う。

わたしたちは、自分の予想したようにコトが運ばないと、「何かが間違っている」「正さなくてはならない」と思うように教育されているけれど、そうすると人生に対してしょっちゅう修正しようと、抵抗のかたまりになってしまう。抵抗が生きることになってしまう。

そうではなくって、「やってくるものこそ、今、わたしが体験すべきこと、生きるべきこと」と思うと、「なんでも心よくオッケー」と言える自分がいる。

何かのチャンスを逃したように感じたら、「なるほど、これが今の自分が生きる道か」と頓着しないでいると、失敗の結果だったようなものがうまくいく原因にすりかわる。

先日も時間があいていたので、なかなか会えない友人をお茶に誘った。そうしたら、「仕事がつまってて空き時間がないの」というお返事。会えないのは残念だけど、じゃあ一人でまったり過ごそう!と気持ちを切り替えたら、その直後、別の友人から「緊急で話したいことがあるけど、明日どこか時間があいていない?」というメールがやってきた。

「ちょうどフラれちゃったから時間があるよ」と返信したら、「まあ、わたしのために空いてるのね!?」と喜んでくれた。そんなふうに、手を放してほうっておくと、じつはいちばん大切で、いちばん今起るべきことが自然と起こってくる。その友人とは、実りある情報交換とおいしいランチを楽しんだ。

これが、「あるがまま」の完璧さ。

ダラダラしたい? じゃあ、ダラダラしちゃえ!  サボりたい? オッケー、おもいきりサボっちゃえ〜!!(笑)ダラダラもサボりも、最高〜!!

自分に優しくしていると、人にも優しくする余裕が生まれるし。なによりも、自分をむりやり押さえつけない、コントロールしないことで、思ったほどダラダラもしたくないし、さほどサボりたくもなくなるもの。いつでも OK を出してもらえると思うと、心は協力的になる。

受け入れてあげることって、とても大切。

まずは、自分をね! ( •ॢ◡-ॢ)-♡

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

食欲の秋きたる (○´―`)ゞ

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最近、セッションの他にはパソコンのデスクワーク続きで、おしりに根っこが生えそうだった毎日。

そんななか、お友だちとのディナーは嬉しいお出かけ♡

お出かけといっても、目と鼻の先にある「花壇」さん。こちらは代官山の中華の老舗です。

以前は昔ながらのお店の雰囲気だったけど、すっかりモノトーンの落ち着いたオシャレな雰囲気に改装されました。でも、メニューは変わらず、さっぱりヘルシー、中華っぽくない中華なのです。

バンバンジーの前菜、牛肉のクレープ巻き(北京ダックっぽい!)、ちょっと不思議に見える世界一長い春巻き

果実酢の酢豚、XO醤の炒飯、杏仁豆腐のブルーベリーソース

とくにお気に入りが、フカヒレの姿煮茶碗蒸し(お肌によさそ〜♪)

そして、私もお友だちもお気に入りだったと〜ってもやさしいミルク味の大海老の生クリーム花巻添え

おいしいゴハンをいただきながら、まったりと秋の夕べを楽しみました。あ〜、生き返った!!おいしいゴハンがいちばんのセラピー(笑)。

そして、嬉しかったのは、お友だちがおみやげで手料理を詰めてきてくれたこと♪ 何か手作りを持ってきたかった、と友人。金時豆の煮物と豆の炊き込みご飯という渋いメニュー。わ〜、豆料理好き。手がかかるのにありがと〜。(‥ºั⌔ºั‥ )

次の日にランチにいただいたけど、手作りは優しいお味。中華の翌日にはぴったりでした。ごちそうさま♡

 

 

Dちゃんのお別れ会♡

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友人のDちゃんが、遠いところにお引っ越しをする。昨日はそのお別れ会。

白やピンクのお花に囲まれて、めずらしく白い衣装のDちゃんは相変わらずキレイ。

思い出話しをいっぱいして、笑って、出会いに感謝して、再会を誓いあって、笑顔で喜んで送りたい・・・ なのに、黒いスーツを着ているわたしたち。ほんとうは花柄がいいのに・・・。

なんでケータイを持って行かないの? これじゃ、メッセージの交換もできない・・・ と思ったとき、アタマのうえから声が聞こえてきた。「そんなのいらないよ!」・・・たしかに・・・ すぐ返事がきました(笑)。

今つきあいのある大切な友人につなげてくれたのは彼女だったし、三十代の頃はその友人も交えて、まさにしょっちゅうつるんでいるという感じだった私たち。

その友人と一緒に、お別れ会が始まる一時間まえにやってきた。顔を見ながら、思い出話しをしたかったから。

不思議なことに、悲しくはない。悲しいというよりは、寂しい。また会える日までは寂しいな・・・ 献花のときそんなふうに考えていたら、はっきりと声が聞こえてきた。彼女の声だけど、おどけたしゃがれ声だった。

これは声優さんだったDちゃんのナレーションがかかっていたから。折しも、わたしたちの献花のときには、おもいっきりおかしな声で思わずふきだしてしまった。まさに、「ねえ、ねえ、笑ってよ!」って言われているようだった。

参列者に手渡されたカードにあったDちゃんからのメッセージ

大、大、大好きなみんなへ・・・私が願うことは、それは・・・「私の大好きな人たちが活き活きと、楽しんで、輝いて生きること」・・・自分の選んだ道を、「誇り」をもって、「自信」をもって、「堂々」と、「楽しんで」生きて欲しい ・・・

私たちもお返事のラブレターを書いた。

最後の大切な時間をともに過ごさせてもらって、たくさんの感謝や喜びを教えてもらったな〜。なによりも、いつも愛がいっぱいで、楽しくて、私以上に食いしん坊でスウィーツが大好きだったDちゃん。ほんとうにありがとう! 心から愛しているよ〜♡♡

 

ギッフェル?それって食べられるの?

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ここのところ連日、「ギッフェル」という単語が耳をかすめた。

なにそれ? ナニモノ? ・・・ どうやら食べものらしいのですが。

きょう、晴れてナゾが解明!

「栗のギッフェル」なるものがやってきてくれました☆ ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

「ギッフェル」って「頂き」というドイツ語で、とがった形、つまりクロワッサンをさすらしいのです。ナチュラルローソンにある「あんこギッフェル」が人気なんですって!(知らなんだ!)

サクサクホロホロのバターがにじむようなクロワッサンではなくって、もっともちっとしている感じ。そして、なんといってもずっしり重い!あんこたっぷり。

きょうはお昼を食べてもぜんぜんお腹がいっぱいにならなかったので、絶好のおやつ!

これでセッション中、餓死しなくてすみます!(冗談ではなくって、セッションをしているとときどき餓死寸前にお腹がすくのですよ〜・笑)

ちょっと焼いてみたら、皮が薄くてぱりっとしているけどもちもち。栗あんもさっぱりしていて、ちょうどよく小腹が満たされました。

おいしかった♪・・・こんどは人気の「あんこギッフェル」買ってみます!