15-07-30 だんなさんはイヌ以下?!

このあたりではよく見かけるバギーにのせられてお散歩するワンちゃんの光景。

奥さんがバギーを押しながら、お洋服を着ておめかしたワンちゃんに話しかけています。そのすこしあとから、だんなさまと見られる男性がトボトボ・・・とついてくる。

かつてはきっと、ワンちゃんのリードをひきながら、ふたり肩をならべて歩いていたでしょうに。今や、ワンちゃんとだんなさんのポジションが完全に入れかわったような・・・。

奥さんの言い分としてはきっと、「愛がなくなったわけじゃないのよ。あの人、なにをしてあげても無反応なの。でもね、この子はいつも機嫌がよくて、シッポをふったり跳びはねたりして全力で喜んでくれるのよね」。

ダンナさんにしたら、「そもそもシッポなんてないし・・・  跳びはねるなんて腰が痛くってもってのほか!」といわれそう。(ハイ、ごもっとも!あなたは犬ではありません!笑)

「愛してあげても、わたしの期待と要求にこたえようとするどころか、感謝すらしてくれないし・・・。それなら今後、愛の供給はストップさせていただきます」・・・そんな奥さんのセリフが聞こえてきそうです。

わたしたちはその関係から自分が欲しいものが手に入っているあいだは「愛」があるように感じています。が・・・ いざ、そこからなにも吸いとれるものがなくなると「愛は冷めた」といわんばかりに、かつて愛していたはずのひとはワンちゃんよりもランクが下になっちゃう。

ワンちゃんのゴハンのほうが先!ワンちゃんの洋服代はだんなさんよりも多い!いつも見つめてもらって、たくさんの愛の言葉もかけてもらえる!

「愛」ってそんなにあったり、なくなったり、あっちに行ったり、こっちにきたりするものでしょうか?

それは「愛」と思っていたものが、じつは「必要性」が「愛」のフリをしていただけでは?!・・・世で俗にいう「愛」(とくに恋愛)とは、「必要性」を「愛」と呼んだもの。だから、この彼氏(夫)から自分の必要性が満たされなくなると、「そろそろ他をあたる時期かしら?」と乗りかえの作業(別れ)がはじまります。(たんに、自分の欲しいものが以前にくらべて手に入らなくなっただけなのですが。)

人はそれぞれ自分の人生を生きていて、自分の人生を生きることこそが人生の目的。だから、相手の必要性を期待どおりに満たせるはずもなく、また相手の必要性を満たすことばかり考えていると自分の欲求がお留守になり、犠牲した感が強まり、相手に対して怒りが湧きあがってきます。(相手に尽くしすぎると、いつかは相手に対して怒りを抱きます。これも「ここまでやったのに、なにもなしか!」という策略したのに思うように手に入らなかったというがっかり感です。)

ハイ! 自分の必要性は自分で満たしましょう! 他に期待したり、依存すると、常に失望か怒りへ行きつきます。

奥さんがだんなさんに「愛の供給はストップさせていただきます」と言おうとも、わたしたちはもともと「愛」の存在。本質は「愛」。だから、「愛」を止めると苦しくなってくるのです。

その結果、どこかにそのたまっていた溢れんばかりの愛を注ぎたい! それこそが、近頃のワンちゃんへの溺愛なのでは?! と思ってしまいます。(外国人が、あのバギーやお衣装を見ると「ウソだろ?!あれはイヌだぜ!」といいます。海外では動物は動物。決して人間と同じレベルにはなれないのですね、)

そう考えると、日本人は人間関係における愛の交流に、なにか問題があるのだろうか? と思わざるをえません。だって、このあたりの朝のオープンカフェはワンちゃんを抱えた人たちが集まってきて、椅子にブランケットをひきワンちゃんが坐りお茶会がはじまります。そんなグループがあちこちに。

もちろんワンちゃんをかわいがるのは問題はないけれど、溺愛はどこか大切な人間関係における愛の欠落を感じてしまうのです。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー

 

気づきの日記「だんなさんはイヌ以下?!」

このあたりではよく見かけるバギーにのせられてお散歩するワンちゃんの光景。

奥さんがバギーを押しながら、お洋服を着ておめかしたワンちゃんに話しかけています。そのすこしあとから、だんなさまと見られる男性がトボトボ・・・とついてくる。

かつてはきっと、ワンちゃんのリードをひきながら、ふたり肩をならべて歩いていたでしょうに。今や、ワンちゃんとだんなさんのポジションが完全に入れかわったような・・・。

奥さんの言い分としてはきっと、「愛がなくなったわけじゃないのよ。あの人、なにをしてあげても無反応なの。でもね、この子はいつも機嫌がよくて、シッポをふったり跳びはねたりして全力で喜んでくれるのよね」。

ダンナさんにしたら、「そもそもシッポなんてないし・・・  跳びはねるなんて腰が痛くってもってのほか!」といわれそう。(ハイ、ごもっとも!あなたは犬ではありません!笑)

「愛してあげても、わたしの期待と要求にこたえようとするどころか、感謝すらしてくれないし・・・。それなら今後、愛の供給はストップさせていただきます」・・・そんな奥さんのセリフが聞こえてきそうです。

わたしたちはその関係から自分が欲しいものが手に入っているあいだは「愛」があるように感じています。が・・・ いざ、そこからなにも吸いとれるものがなくなると「愛は冷めた」といわんばかりに、かつて愛していたはずのひとはワンちゃんよりもランクが下になっちゃう。

ワンちゃんのゴハンのほうが先!ワンちゃんの洋服代はだんなさんよりも多い!いつも見つめてもらって、たくさんの愛の言葉もかけてもらえる!

「愛」ってそんなにあったり、なくなったり、あっちに行ったり、こっちにきたりするものでしょうか?

それは「愛」と思っていたものが、じつは「必要性」が「愛」のフリをしていただけでは?!・・・世で俗にいう「愛」(とくに恋愛)とは、「必要性」を「愛」と呼んだもの。だから、この彼氏(夫)から自分の必要性が満たされなくなると、「そろそろ他をあたる時期かしら?」と乗りかえの作業(別れ)がはじまります。(たんに、自分の欲しいものが以前にくらべて手に入らなくなっただけなのですが。)

人はそれぞれ自分の人生を生きていて、自分の人生を生きることこそが人生の目的。だから、相手の必要性を期待どおりに満たせるはずもなく、また相手の必要性を満たすことばかり考えていると自分の欲求がお留守になり、犠牲した感が強まり、相手に対して怒りが湧きあがってきます。(相手に尽くしすぎると、いつかは相手に対して怒りを抱きます。これも「ここまでやったのに、なにもなしか!」という策略したのに思うように手に入らなかったというがっかり感です。)

ハイ! 自分の必要性は自分で満たしましょう! 他に期待したり、依存すると、常に失望か怒りへ行きつきます。

奥さんがだんなさんに「愛の供給はストップさせていただきます」と言おうとも、わたしたちはもともと「愛」の存在。本質は「愛」。だから、「愛」を止めると苦しくなってくるのです。

その結果、どこかにそのたまっていた溢れんばかりの愛を注ぎたい! それこそが、近頃のワンちゃんへの溺愛なのでは?! と思ってしまいます。(外国人が、あのバギーやお衣装を見ると「ウソだろ?!あれはイヌだぜ!」といいます。海外では動物は動物。決して人間と同じレベルにはなれないのですね、)

そう考えると、日本人は人間関係における愛の交流に、なにか問題があるのだろうか? と思わざるをえません。だって、このあたりの朝のオープンカフェはワンちゃんを抱えた人たちが集まってきて、椅子にブランケットをひきワンちゃんが坐りお茶会がはじまります。そんなグループがあちこちに。

もちろんワンちゃんをかわいがるのは問題はないけれど、溺愛はどこか大切な人間関係における愛の欠落を感じてしまうのです。

 

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寒天か・・とあなどるなかれ

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

コレ、意外においしい♡ 寒天にしては。

って、寒天に失礼じゃありませんか! (寒天って、味がうすくて水っぽいイメージがあって・・・)

これはつるんとなめらかで、ミルクの味がきいていて、水っぽくない。

こんな味のキャンディあったな〜。そうそう、「濃厚ミルクキャンディ」の味。

冷ややっこ、ところ天、フルーツゼリー・・・と、この暑さでくちあたりのいいものにハマっていますが、

この寒天、リピ中です♡♡

ミルク好きにオススメ! (けっこう食べがいもありますよ!)

 

 

可愛いものにはご用心!

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

こどもの頃、テーブルにのっていた桃がとってもきれいなピンク色で、ベルベットみたいにふんわりすべすべ。さらに「さわっちゃダメよ!」と釘をさされると、よけい気になります。

その可愛さのあまり、こっそり桃に頬ずりをしたら、

さあ、大変!!!

あの細かい起毛が、ほっぺにべったりささってしまった!!(泣)

さわるとチクチクヒリヒリ、おもいのほか痛くって。でも、助けは求められず・・・。(だって触るどころか、頬ずりレベルですもんね!笑)

そのあとどうしたか覚えていませんが、しばらく頬にふれると痛かったのを覚えています。(今だったら、テープをはって一気にはがすかな?)

そんな思い出のある桃ですが、

山梨のお友だちからおうちでとれた桃がたくさん送られてきました。

わあ〜、真っ赤でいい香り。おいしそう!

ところで、日本ではフルーツはわりとそのまま食べますが、アメリカだとホイップクリームをつけて食べるのが最高なんですと。あとは、ピーチパイ。つまり、そのままではあまり食べないらしい。

日本のフルーツは本当においしくて優秀なので、何かしちゃうのは逆にもったいない感じがします。

なので、このまま冷やしていただきま〜す!

こらこら、さわっちゃダメよ!(でもお互い起毛だから、頬ずりは大丈夫か!?笑)

 

 

15-07-21 「思考」もペットと同じ、しつけましょ!

わたしたちを苦しめる元凶ともいえるのが、じつは「思考」・・・自分の考えです。

外からふりかかってくる問題や過去の出来事が自分を苦しめると信じていますが、まさか自分の考えで自分の首をしめていたとは・・・。

実際に起ったことよりも、そのことに対する自分の意味づけ、自分のなかでくり返されるセリフこそが問題! それが、起ったことを自分にとってどんな体験であったかを決めてしまうのです。

たとえば、こんなことありませんか? あ〜だこ〜だと悩み続けて苦しくて、世界もどんよりと暗く見えたのが、ある考えがひらめいたときから、急に希望を見えたり、落としどころが見つかったり、そして世界までもがパ〜っと明るく感じられるようになったこと。実際、現状はまったく変化していないのに「ものの見方」の変化だけで急に未来が開けます。(カウンセリングでやっているのはこれですね!)

つまり、自分を殺すも生かすも、幸せになるのも闇のなかでいきるのも、結局は自分のチョイス、思考のチョイスだといえます。

っていうことは、思考はあくまでもチョイスするものであって、チョイスするべき「誰か」が存在しているということです。

それこそが「自分自身」。あ〜だこ〜だ考えはじめると、まるでそれが自分自身のように感じられますが、決してあ〜だこ〜だと次から次へとわいてくる思考が自分なのではありません。そんな考えに気づいている存在じたいが「わたし」です。

わたしたちはイジワルな考えを持つと、「なんてヒドイ自分なんだ」と罪悪感をもちますが、じつは自分じゃなかった!!(オメデトウゴザイマス!)

つまり、部屋が自分だとすると、思考ってそこに流れてくる匂いであったり、そこにたまるホコリのようなもの。どこからともなくやってくる不思議な存在です。

だから、そんな実体のない存在と真っ向からむきあってご意見に耳を傾けているうちに、完全に一体化してしまうのは懸命とはいえません。部屋であるわたしが、匂いやホコリにのっとられて、自分を匂いやホコリだと思っている状態。

だから思考も、調教する必要がある、と感じます。まるでワンちゃんを教育するときみたいにね。

悪いことは、無視したり、はっきりとノーということで受け入れない。そして良いことはほめてあげる。のばしてあげる。そうすることで、「思考」よりも上の存在である自分をしっかりと自覚します。

自分の自己評価から過去のことまで、「あのときああだったら、もっとよくなっていたのに」「愛してくれなかったから、わたしはこんなになってしまった」「もっとよい教育をうけていたら、こんな人生ではなかったかもしれない」「あの母親でなかったら」「あの環境でなかったら」・・・。

慢性的なネガティブな考えは、それを野放しにして、そこに注意を注いだがために、わがもの顔でのさばっています。ついには、「わたし」のふりをはじめrのです。

そして、不幸な思考はつきることがありません。なぜなら、わたしたちは基本的に被害者、犠牲者であることが大好きで、できることならそのポジションを手放したくないし、誰かを悪者にしたてて、なんとか自分の面目を保とうと必死なのです。

思考の教育方法もペットと同じ。よくないものは、重要視せずにスルー(無視)して、ぜんぜん相手にもしていないことを示すこと。あるいは、その場その場で、しっかりと正しいもの(感じたい感情や考え)にいちいち置きかえていくこと。

つまり、「今、わたしは〜のように感じているけれど、これはわたしが望むものではありません。わたしは、〜(愛、やさしさ、喜び、平和、楽しさ・・・)を選びます」というように。

最近テレビでもおバカ犬を教育するような番組がありますね。あんな感じで、野放し好き放題にふるまっていた思考を、「きょうからはわたしがご主人さまだ!」というのをちゃんと示して、威厳をもって、すきじゃない思考は無視して見むきもせず、それとともに間違いは指摘して正しい思考というのを教えていってあげなければなりません。

自虐的になっても大丈夫、過去があ〜だこ〜だと気になっても大丈夫、そして未来の心配がはじまっても大丈夫。それらのセリフはちっともほんとうのことではありません。何も自分を証明していません。もう、これ以上だまされるのはやめましょう!

いきあたりばったりのことしか考えられない思考がじたばたしているにすぎません。注意を向けることなく、わたしの部屋から出ていってもらいましょう!

その選択肢がわたしたちにはあるのです。

 

 

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気づきの日記「 “思考” もペットと同じ、しつけましょ!」

わたしたちを苦しめる元凶ともいえるのが、じつは「思考」・・・自分の考えです。

外からふりかかってくる問題や過去の出来事が自分を苦しめると信じていますが、まさか自分の考えで自分の首をしめていたとは・・・。

実際に起ったことよりも、そのことに対する自分の意味づけ、自分のなかでくり返されるセリフこそが問題! それが、起ったことを自分にとってどんな体験であったかを決めてしまうのです。

たとえば、こんなことありませんか? あ〜だこ〜だと悩み続けて苦しくて、世界もどんよりと暗く見えたのが、ある考えがひらめいたときから、急に希望を見えたり、落としどころが見つかったり、そして世界までもがパ〜っと明るく感じられるようになったこと。実際、現状はまったく変化していないのに「ものの見方」の変化だけで急に未来が開けます。(カウンセリングでやっているのはこれですね!)

つまり、自分を殺すも生かすも、幸せになるのも闇のなかでいきるのも、結局は自分のチョイス、思考のチョイスだといえます。

っていうことは、思考はあくまでもチョイスするものであって、チョイスするべき「誰か」が存在しているということです。

それこそが「自分自身」。あ〜だこ〜だ考えはじめると、まるでそれが自分自身のように感じられますが、決してあ〜だこ〜だと次から次へとわいてくる思考が自分なのではありません。そんな考えに気づいている存在じたいが「わたし」です。

わたしたちはイジワルな考えを持つと、「なんてヒドイ自分なんだ」と罪悪感をもちますが、じつは自分じゃなかった!!(オメデトウゴザイマス!)

つまり、部屋が自分だとすると、思考ってそこに流れてくる匂いであったり、そこにたまるホコリのようなもの。どこからともなくやってくる不思議な存在です。

だから、そんな実体のない存在と真っ向からむきあってご意見に耳を傾けているうちに、完全に一体化してしまうのは懸命とはいえません。部屋であるわたしが、匂いやホコリにのっとられて、自分を匂いやホコリだと思っている状態。

だから思考も、調教する必要がある、と感じます。まるでワンちゃんを教育するときみたいにね。

悪いことは、無視したり、はっきりとノーということで受け入れない。そして良いことはほめてあげる。のばしてあげる。そうすることで、「思考」よりも上の存在である自分をしっかりと自覚します。

自分の自己評価から過去のことまで、「あのときああだったら、もっとよくなっていたのに」「愛してくれなかったから、わたしはこんなになってしまった」「もっとよい教育をうけていたら、こんな人生ではなかったかもしれない」「あの母親でなかったら」「あの環境でなかったら」・・・。

慢性的なネガティブな考えは、それを野放しにして、そこに注意を注いだがために、わがもの顔でのさばっています。ついには、「わたし」のふりをはじめrのです。

そして、不幸な思考はつきることがありません。なぜなら、わたしたちは基本的に被害者、犠牲者であることが大好きで、できることならそのポジションを手放したくないし、誰かを悪者にしたてて、なんとか自分の面目を保とうと必死なのです。

思考の教育方法もペットと同じ。よくないものは、重要視せずにスルー(無視)して、ぜんぜん相手にもしていないことを示すこと。あるいは、その場その場で、しっかりと正しいもの(感じたい感情や考え)にいちいち置きかえていくこと。

つまり、「今、わたしは〜のように感じているけれど、これはわたしが望むものではありません。わたしは、〜(愛、やさしさ、喜び、平和、楽しさ・・・)を選びます」というように。

最近テレビでもおバカ犬を教育するような番組がありますね。あんな感じで、野放し好き放題にふるまっていた思考を、「きょうからはわたしがご主人さまだ!」というのをちゃんと示して、威厳をもって、すきじゃない思考は無視して見むきもせず、それとともに間違いは指摘して正しい思考というのを教えていってあげなければなりません。

自虐的になっても大丈夫、過去があ〜だこ〜だと気になっても大丈夫、そして未来の心配がはじまっても大丈夫。それらのセリフはちっともほんとうのことではありません。何も自分を証明していません。もう、これ以上だまされるのはやめましょう!

いきあたりばったりのことしか考えられない思考がじたばたしているにすぎません。注意を向けることなく、わたしの部屋から出ていってもらいましょう!

その選択肢がわたしたちにはあるのです。

 

 

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台風の日のおでかけ♪ PKとDN

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

梅雨後半はず〜っとシトシト寒かったけど、ついに梅雨あけしましたね〜。(^O^) めちゃくちゃ暑いけど嬉しい! セミもなきはじめました。(すごいね、梅雨あけ知ってるなんて!ニュース見てるの?!)

台風の朝は(といっても余波の大雨・強風の日)、予定していたとおり表参道の Bill's へ朝ゴハンにお出かけ。

あのレオ・D氏が世界いちの朝ゴハンと評してから、Bill's は日本でも連日大行列のカフェとなりましたが・・・まあ!この朝はみごとにカンコドリ。

旅行者の方がちらほら。もちろんまったく並ばずに入れました。

お店のかたもヒマなのか、ことこまかにメニューの説明をしてくださったり、いろいろとかまってくださいました。

リコッタパンケーキ♪

そして、世界いちフワフワといわれたスクランブルエッグ・・・。(あらあら、かんじんのスグランブルエッグが見えてません。)

東京はおいしい朝ゴハンいろいろあるので・・・あくまでもレオさまのいち押しということで。

レオさまの朝食で残念ながらお腹いっぱいにならなかった誰かさんが「どうしてもドーナツが食べたい!」ということで、帰りに代官山のカムデンブルースタードーナツへ。

台風の恩恵? 一個オマケしてくださいました。(ここのドーナツ、1個380円もするのに。)

わたしはまだチャレンジしていなかったメキシカンに挑戦したのですが ・・・これが失敗!とっても濃厚なチョコドーナツに見えるのに、あと味がヘンに辛い!

アメリカのグミとかキャンデーとかって、ときとして日本にないような不思議テイストのものがありますが、ここのドーナツもいくつかはちょっとなじみのないお味のものがあります。なので、お口にあう方とあわない方にわかれるかな〜。

わたしの独断では・・・
ブルーベリーバーボンバジル ○・・・若干不思議系。バジルとブルーベリーってどうなの?っていう感じです。
コアントロークリームブリュレ ◎・・・これはドーナツじゃないみたいで好き。リッチなスウィーツ。
ヴェローナチョコクランチ ◎・・・チョコボールと、なかのバニラクリームが素直においしい!わりと直球なお味。
メキシカンスパイシーチョコレート × ・・・ひとくちめは濃厚チョコ、あとでスパイしシー!お子ちゃまにはムリ!
宇治抹茶 △ ・・・見た感じ苔むしてるようなドーナツ。お味はお砂糖がグリーンティーよりも勝っている感じ。
アップルフリッター  ○・・・どっしりずっしり。そこにグレーズたっぷり。さすがの私も二回にわけて食べました。ちょっと不思議なのはコリアンダーのせい?

こじゃれたイタリアンで女子会♪

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

毎日むし暑いですね〜。東南アジアの夏は蒸し風呂だからイヤ!と思ったものですが、もはやひとごとではありません。

この暑さのなかでお店選びをしていると、ついつい「冷静パスタ」などというメニューに心ひかれてしまいます。そこで訪れたのが、代々木上原の「ラ・ジョルジーナ」さん。

ひえひえのカッペリーニが美味でした!二種類のブレープフルーツとカニと枝豆に細いパスタがからんで、さっぱりとレモン味。色もきれい。おかわりしたいおいしさでした♡ (ああ、毎日食べたい・笑)

ほかにも、カルパッチョや生ハムの前菜の盛り合わせ、もちもちの手打ちパスタのラグーソースやら、魚介とお肉がともに楽しめるメインのお料理、そしてリキュールのきいたたっぷり(これ大事!)デザートなど、暑くてもさっぱりといただける女子に嬉しいメニューの数々。他のテーブルもすべて女性で、おしゃべりに花がさいていました。

シェフおひとりできりもりされていたけれど、どのお料理もぴったりのタイミングで出てくるところがさすが! どれもおいしかったです♡

(5階にあるガラス張りのお店、ながめがいいです)

 

15-07-14 こころのストレス度診断 〜Part 2 〜

(Part 1 はこちらから)

さてさて、考え方のクセですが、そのクセによって、自分で自分を縛ってしまい、息苦しくしていることがあります。でも、その考えじたいを自分で疑ってみるまで、その不合理さになかなか気づけないものです。

では、7番からをみてみましょう。

□ 7. 幸せになるには、苦労や努力が必要だ

□ 8. そういう星の下に生まれた

□ 9. なにかあると自分を責めがちだ

□ 10. まだ許せない人がいる

□ 11. 自分の気持ちを感じるのが苦手

□ 12. スケジュールがカラになると不安だ

【診断】

7. 自分が「今、幸せを選択していない」言い訳です。幸せというものは、いつかやってくるように感じてしまいがちですが、じつはそれはこころのトリック
です。「いつか」はなく、「今」だけがあるのを知らなくてはなりません。だから、潔く、今、この瞬間に「いい気分」を選択してみること。すすんで、「怖
れ」よりも「愛」を選択しましょう。「自分は生まれつき、幸せになる権利がある」ということを認めて受け入れましょう。

8. こちらも 7と同様、自分の価値を認めない言い訳です。このひとことを言ってしまえばカタがついたように感じて、自分の気持ちを納得させることができるように感じられるのです。でも幸せは、まず「幸せになる意志」のあるところにやってきます。

9. どこかで「自分は申し訳ない存在だ」と勘違いして自分を責めているようです。これこそ「虐待」です。テレビで報道されている虐待を云々するまえに、
まず自分への虐待をやめなければなりません。他人に優しく接するように、まず自分自身に対して優しくしてあげましょう。そうしたら、きっと人への過度な要
求もへり、人生がもっと穏やかに感じられることでしょう。

10. 自分で責任をとるよりも、被害者でいたいと感じているようです。相手を許さないメリットとは何でしょう?それは、相手をずっと「悪者」にしておけ
ることです。では、なぜ相手を「悪者」にしておく必要があるのでしょう?それは無意識のうちに「自分は悪い」「価値がない」と信じているので、なんとか
「悪者」をつくっておいて、その罪悪感から逃れようとするからです。あなたはなにも悪くありません。最初から、素直に愛をたっぷり受けとっていい存在で
す。被害者をやめることで、あなたから「愛」が循環しはじめ、もっともっと「愛」を感じられるようになります。

11. なにを怖がっているのでしょう?感じてしまったら大変なことになりますか?あるいは、なにも感じていないフリをしますか?感じるのが苦手なとき、
わたしたちは自分の気持ちとは恐ろしいもの、あるいは空っぽなブラックホールのようなものと勘違いしています。しかし、自分の気持ちを感じることができな
いと、幸せも充実感も感じることはできません。ポジティブな気持ちも、ネガティブな気持ちも、怖れずにそのまま感じてみましょう。感情は感じて流してあげ
るもの。空を流れる雲のように、そのまま消えていきます。

12. 忙しくしていないと、いったいなにが起るというのでしょう?いつも外を見ていないと、静かに自分と向きあっちゃったら大変なことになりますか?な
にを怖れているのでしょう?回遊魚のように立ち止まることなく人生が過ぎてゆき、また新たな人生が始まり、無我夢中でまわり・・・いったいいつになったら
立ち止まるのでしょう?じつは、立ち止まることでしか、この出口のないような環から抜けだすすべがありません。静かに向きあった自分の中からしか「本当の
答え」が聞こえてこないのです。すべてを越えてあなたを幸せにする安らぎは、あなたの中からやってきます。あなたのほんとうの声に耳を傾けられるように、
少し立ち止まって尋ねてみましょう。あなたの内に住む、あなたの最強のガイドと仲良くしましょう。

*正しい思考は安らぎのある世界を見せてくれます。あなたの考え方がすべてです。苦しいとき、何かがうまくいっていないように感じるときは、きっとあなたの考え方が「怖れ」に傾いているとき、正しく考えられていないときです。


*自分の外側ばかりを気にしたり大切にすることで、自分のパワーを外側に与えないようにしましょう。


*あなたを幸せにできるのは「あなた」だけです。あなたのなかには、あなたを幸せに導く「声」がすでにそなわっています。あなたからコミュニケートしなけ
れば、その声は開通しません。静かに自分自身に聞き耳をたてることで、今まで聞いていなかった「声」、あなたのナビゲーションシステムを迎えいれてくださ
い。ただ話しかけ、たずねるだけです。必ず答えがやってきます。誰がくれるよりも正確な答えが!

 

 

(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー

 

気づきの日記「こころのストレス度診断 〜Part 2 〜」

(Part 1 はこちらから)

さてさて、考え方のクセですが、そのクセによって、自分で自分を縛ってしまい、息苦しくしていることがあります。でも、その考えじたいを自分で疑ってみるまで、その不合理さになかなか気づけないものです。

では、7番からをみてみましょう。

□ 7. 幸せになるには、苦労や努力が必要だ

□ 8. そういう星の下に生まれた

□ 9. なにかあると自分を責めがちだ

□ 10. まだ許せない人がいる

□ 11. 自分の気持ちを感じるのが苦手

□ 12. スケジュールがカラになると不安だ

【診断】

7. 自分が「今、幸せを選択していない」言い訳です。幸せというものは、いつかやってくるように感じてしまいがちですが、じつはそれはこころのトリックです。「いつか」はなく、「今」だけがあるのを知らなくてはなりません。だから、潔く、今、この瞬間に「いい気分」を選択してみること。すすんで、「怖れ」よりも「愛」を選択しましょう。「自分は生まれつき、幸せになる権利がある」ということを認めて受け入れましょう。

8. こちらも 7と同様、自分の価値を認めない言い訳です。このひとことを言ってしまえばカタがついたように感じて、自分の気持ちを納得させることができるように感じられるのです。でも幸せは、まず「幸せになる意志」のあるところにやってきます。

9. どこかで「自分は申し訳ない存在だ」と勘違いして自分を責めているようです。これこそ「虐待」です。テレビで報道されている虐待を云々するまえに、まず自分への虐待をやめなければなりません。他人に優しく接するように、まず自分自身に対して優しくしてあげましょう。そうしたら、きっと人への過度な要求もへり、人生がもっと穏やかに感じられることでしょう。

10. 自分で責任をとるよりも、被害者でいたいと感じているようです。相手を許さないメリットとは何でしょう?それは、相手をずっと「悪者」にしておけることです。では、なぜ相手を「悪者」にしておく必要があるのでしょう?それは無意識のうちに「自分は悪い」「価値がない」と信じているので、なんとか「悪者」をつくっておいて、その罪悪感から逃れようとするからです。あなたはなにも悪くありません。最初から、素直に愛をたっぷり受けとっていい存在です。被害者をやめることで、あなたから「愛」が循環しはじめ、もっともっと「愛」を感じられるようになります。

11. なにを怖がっているのでしょう?感じてしまったら大変なことになりますか?あるいは、なにも感じていないフリをしますか?感じるのが苦手なとき、わたしたちは自分の気持ちとは恐ろしいもの、あるいは空っぽなブラックホールのようなものと勘違いしています。しかし、自分の気持ちを感じることができないと、幸せも充実感も感じることはできません。ポジティブな気持ちも、ネガティブな気持ちも、怖れずにそのまま感じてみましょう。感情は感じて流してあげるもの。空を流れる雲のように、そのまま消えていきます。

12. 忙しくしていないと、いったいなにが起るというのでしょう?いつも外を見ていないと、静かに自分と向きあっちゃったら大変なことになりますか?なにを怖れているのでしょう?回遊魚のように立ち止まることなく人生が過ぎてゆき、また新たな人生が始まり、無我夢中でまわり・・・いったいいつになったら立ち止まるのでしょう?じつは、立ち止まることでしか、この出口のないような環から抜けだすすべがありません。静かに向きあった自分の中からしか「本当の答え」が聞こえてこないのです。すべてを越えてあなたを幸せにする安らぎは、あなたの中からやってきます。あなたのほんとうの声に耳を傾けられるように、少し立ち止まって尋ねてみましょう。あなたの内に住む、あなたの最強のガイドと仲良くしましょう。

*正しい思考は安らぎのある世界を見せてくれます。あなたの考え方がすべてです。苦しいとき、何かがうまくいっていないように感じるときは、きっとあなたの考え方が「怖れ」に傾いているとき、正しく考えられていないときです。


*自分の外側ばかりを気にしたり大切にすることで、自分のパワーを外側に与えないようにしましょう。


*あなたを幸せにできるのは「あなた」だけです。あなたのなかには、あなたを幸せに導く「声」がすでにそなわっています。あなたからコミュニケートしなければ、その声は開通しません。静かに自分自身に聞き耳をたてることで、今まで聞いていなかった「声」、あなたのナビゲーションシステムを迎えいれてください。ただ話しかけ、たずねるだけです。必ず答えがやってきます。誰がくれるよりも正確な答えが!

 

 

(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー