furukawaさんのブログ

気づきの日記「機嫌のわるい相手、どう対処する?」

クライエントのA子さんからのご質問。

「先生に教えて頂いた考え方、感情の扱い方のお陰で、大分穏やかな日々が送れています。しかし、感情的になっている相手を目の前にすると、つい感情的に応酬し、泥沼化してしまいます。どのように対処したらよいのでしょうか? 泣き喚いている子供や、体調が悪く攻撃的になっている夫に対してです」

感情を爆発させている、あるいは攻撃的になっている相手に対するマニュアル的な対処法はないのです。

なぜなら、そのときどきで相手が必要としていることは違うからです。

「静かにその場を離れるほうがいい」ときもあれば、「しっかりと目をあわせて相手の言いたいことを聞く」必要があるときもあるし、「ただ黙って、かたわらにいるだけ」でいいときもあります。

ただ、ひとつ言えることは、自分の痛みから反応するのか、あるいは自分の愛であるところから答えるのか ・・・ それは選択することができます。

この世界にあるもので、特定の意味をもっているものはありません。すべてのものはニュートラルです。

一見最初からくっついているように見えるその「意味」は、じつはすべて自分が与えているものです。つまり、「目にするすべては、自分のこころが反映したかたちで目に映る」というわけです。

今朝ニュースを見ていたら、東名高速で起きた追突事故を報じていました。どうやらその事故の発端は、サービスエリアでかけられた言葉、注意のひとことだったようです。おそらく、「そこに車を止めていると危ないから移動して」というようなことだったのでしょう。

客観的なその言葉の意味は、「移動が必要」、それだけです。でも、この男性にとってのこの言葉の意味は、「侮辱、攻撃」だったのでしょう。

どうやら、彼がももともと抑圧していた「痛み、自己嫌悪、価値がない感覚」にすぐに結びついてしまったようで、彼は猛スピードで追跡して、復讐を開始します。その結末がこの事故となったわけです。

この男性にとって「注意される」ということの意味は歪められ、「攻撃」「おとしめ」に結びつくような癒されていないこころの痛みがあったように見うけられます。

この出来事からもわかるように、私たちは「起こっていることに反応しているのではなく、自分のなかで信じていることに反応している」ことがわかります。

この場合は、「人からひどい扱いしか受けない自分」というストーリーがあり、強い口調で何か言われると、あ!また攻撃がきた!と「やられるまえにやっちゃえ」という反応が出てくるわけです。

自分のこころの痛みから見ると、「外で起きていることが、痛みの原因である」と信じてしまうのです。だから、つねに外側で起きていることを自分に対する攻撃ととらえ、すぐさま被害者になってしまい、反撃にでます。

でも本当のところは、「攻撃的な気持ちがなければ、外でどんなことが起こっていても自分にどのような影響も及ぼすことはない」ということなのです。

自分が癒されてくると、外側でどのようなことが起きていても、余計な意味をくっつけずにそのまま見られるようになります。

そして、その場でどのように行動するべきなのか ・・・ 自然にニュートラルな痛みのない気持ちで、愛のある行動をとることができます。

また、相手のひどい態度に対しても、「自分に対しての攻撃」とはとらなくなります。ただ、痛みを感じていて、ひどい気分なのね、と思うようになります。

なので、A子さんが外側のことで痛みを感じているのであれば、まず立ち止まること。

そして、「動揺している自分はエゴになっている。ズレているのだな」と気づき、自分の正気である高い意識とつながって、本当の自分(愛である自分)に戻してもらうようお願いし、本当のこと(これは攻撃ではないこと)が見られるように助けてもらいます。そして、必要な行動、対処を教えてもらいましょう。

相手の態度にホンロウされてしまうときには、相手に刺激されて自分の痛みがダダモレになっているというサインです。

自分のなかに癒されていない怒りがあるからこそ、相手のなかに怒りを見てしまいます。自分のなかに葛藤があるから、相手のなかにも葛藤を見てしまいます。

しかし、A子さんに限らず誰のなかにももれなく、怖れや罪の意識、無価値観などの痛みがかならず存在しています。しかし、それらはまだしっかりと封印されていて、一見なにも問題などなく、とても穏やかな幸せそうな人に見える場合もあります。

でも、いつかは(今回の人生ではないかもしれません)、それら向き合って、それらのお掃除をはじめなくてはならない日がやってきます。そうなると、それらがこころの表面に浮上してきて、それらの感情を感じることになります。

だから、A子さんは自分のこころが波立つたびに、「あ、私のなかの抑圧されていたものが顔をだしている!お片づけのチャンスだわ」とそれを自分の癒しに役立てることができます。永久に痛みからさよならするために(だから、ゆめゆめ、抵抗して押し戻しすことをしませんひょうに!)。

何度自分がズレてしまっても、そのたびごとに高い意識に正気に戻してもらうこと(はい、実際、根気がいります。一朝一夕にはいきません)。

そして「今、愛する気持ちで見るなら、何ができるのだろう?」と感じてみてください。

思うようにならずに泣き叫ぶお子さんには、「ただやさしく抱きしめてあげたい」と感じるかもしれないし、もう少し「丁寧にコミュニケーションしよう」と思うかもしれないし、「そのままやさしく見守るのがいい」とわかるかもしれません。

具合の悪さで攻撃的になっているだんなさまに対しても、ただ「私に何をしてほしい?」「どうしたら力になることができる?」と穏やかに尋ねることかもしれません。

いずれにしても、自分のこころが癒されることで、外はキケンなところではなくなります。

ハチャメチャになってしまっているときには、自力でどうにかしようと頑張ってしまうよりも、すぐに自分の強い味方である高い意識の手をとり、「ズレまくっています!本当の自分に戻してください」とお願いしてみましょう。

そして、そこから言葉を発する、行動を起こすときには、攻撃的なサイクルに足をとられることなく、愛ある方向に相手とともにすすむことができると思います。

A子さん、エゴは失敗したと思わせてさらにいやな気分にさせることをもくろんでいます。

なので、ひどい対応しちゃっても大丈夫、感情の処理をしつつ、高い意識におうかがいをたてながら、トライ&エラーです!

そして、さらに大切なことは、ご自分を責めないことです。そこで困ってしまっている、悲鳴をあげたいご自分の気持ちを、まずはやさしく聞いてあげてくださいね。♡♡♡

 

 

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お茶の間シネマトーク「永い言い訳」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

長い ・・・ じゃなくって、永い ・・・ 言い訳って? と、DVD屋さんで気になり手にとった一本。

「永い」理由って? ・・・ 言い訳を言いたい人が、今ではとどかぬほど遠くにいってしまったら、永くなる? あるいは、永〜く永遠に言い訳しつづけなければならないほど、うしろめたい?

言い訳をしたいときは、いつだってうしろろめたいとき。うしろめたさが強ければ強いほど、言い訳は長くなり。けれど、本当に言い訳を言いたい相手、受け入れてほしい相手とは、じつは自分自身なのですよね。

作家である主人公の幸夫(本木雅弘)は、浮気をしているまっただ中に奥さんを事故でなくします。どうにもならない後ろめたさを背負いこみ、なおかつ本来の癒されていない自己の複雑さもあり、まったく自分と折りあいがついていません。だから泣けません・・・。



そんなふうに自分を自分で認めていないせいで、まわりの人にあたりまくるし。そのうちなりゆきで、事故で亡くなった奥さんの友人のこどもたちの世話をすることになり ・・・。

いくつかシーンで印象に残ったのは、ドアがバタン!と閉まる音。

これはまさに、その人物が「もう、ムリ!それ以上近づかないで」と言っているような、自分から相手を切り離す音。登場人物がいっぱいいっぱいになると、バタン!と自分のこころのなかに逃げこむ音がするのです。

そして、たどたどしくって、どこかなつかしいピアノの背景音。

登場人物の不器用さ、一生懸命さとかさなって、愛おしさを感じる旋律です。

こんなピアノの背景音は、是枝監督の「そして父になる」と重なります。観ているうちに、いつのまにか是枝さんの作品かと思ってしまいました(モっくんが福山さんに見えてくるし・・・汗)。あとで知ったのですが、この原作・脚本・監督をつとめられている西川美和さんは是枝監督のもとにいらした方だったのですね。どうりで、是枝監督臭(笑)がぷんぷんします。

幸夫がこどもに話しかけるシーンがあります。これは彼が自分に言い聞かせているセリフです。

「愛してくれるものを、ないがしろにしたり、みくびってはいけない。離れるときは一瞬だ」と。

ホント、愛って慢性的になってしまうと、透明になってしまって、そのありがたさも、貴さも、大きさもわからなくなり、感謝するどころか、そのやさしさに甘えて自分の痛みをおもいっきりぶつけてしまうことがあります。相手が傷ついていることを知ることもできず。 ・・・ こころに残るひとことでした。

涙壷度:★★★☆☆(こういう話しにこどもを持ち出したら泣けること必至じゃないですかっ!反則ですぞ)

PS こどもとともに覚醒してゆく幸夫くんの姿がカワイイ♡

 

 

お茶の間シネマトーク「ドリーム」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

アメリカが有人飛行計画で、ソ連に遅れをとるまいとしのぎを削っていた '60年のはじめ。それはまだ人の手にその膨大な計算をたよっていた時代。

そんな状況下、NASAでアポロ計画へと続く有人飛行計画をささえた影なる優秀な人物、三人の黒人女性の存在があったのです。

人種差別というハンディを背負いながらも日々奮闘する彼女たちの姿を描いた、実話をもとにしたストーリーです(原作「Hidden figures」)。

黒人社会で天才とうたわれた彼女たち。しかし、ところ変われば天国と地獄! ただでさえ、女性が男性と対等に働くことがまだまだ難しかった時代に、黒人という大きなハンディキャップは、当然輝けるはずの場をことごとくを奪ってゆくのです。

白人男性ばかりがぎっしり詰まった職場に配属された日、部屋に足を踏み入れるなり、あの異様なものを見るような冷たい目線といったら。そのうえ、お掃除のオバサンとしか見られずゴミをおしつけられ・・・。

また、「彼女は毎日40分も席にいないが何をしているんだ?」と上司がいぶかる事態が発生。 ・・・ じつは、雨の日も風の日も、「非白人女性」用トイレを求めて800m先のビルまでハイヒールで全力疾走する毎日。差別はこれだけにとどまりません。

こんなツライ状況に、ついにキレて感情を爆発させてしまうシーンでは、彼女と一緒に涙せずにはいられませんでした。

差別を解消するには「能力があっても何も変わらない。闘うしかないんだ」という見方もあるなか、彼女たちはひたすら正直に向き合うことと、そして女性ならではの柔軟さで、ついには信頼を勝ち取り、そのポジションをゆるぎないものにしてゆきます。

でも、彼女たちはただただ仕事に打ち込みすべてを犠牲にしてしまうようなキャリア志向の女性ではなく、シングルマザーで子育てをしていたり、恋愛中だったり ・・・ キャリアというものが生活のなかで切り離されているのではなく、とても自然に自分の生きる道をひとつになっている感じがします。

ちょっと仕事で行き詰まっている方、前向きなパワーを感じたい方、オススメです!

涙壷度:★★☆☆☆(いつだって、魂の叫びには心が動かされます)

それにしても、'60年代のアメリカでさえ、まだこんな状況だったのだな〜 ・・・ 世の中というのはなかなか変わらないようでありながらも、50年余でもどんどん意識が変化しているのを感じます。

ここからまた50年たったら ・・・ 2017年って、あんなヘンなことしてたのね〜、あんなおかしな考えしてたのね、あんなに不自由だったのね、ということになるのでしょうね(残念ながら、見られそうにありません・・・汗)。

 

 

気づきの日記「目にしていることに誤摩化されない!」

「以前、家族の一人とのあいだでいさかいがあり、暴力がからむ恐ろしい体験をしました(いさかいというより、一方的に理不尽な暴力をふるわれました)。以後、その家族とは疎遠になり安心したものの、わずかでも影がちらつくとおびえてしまう自分がいます。また同じような悪いことが起こるのではないかと、自分が怖れにのっとられ怯えているのを感じます。そして、未来に不安を感じるのです」と、クライエントのAさん。

ふつうのカウンセリングだと、その相手への対処法を検討したり、自分のなかで怖れを感じないようにするために話しあうかもしれません。また、セラピーだったら、その家族とのあいだに起こったことを再現して、大丈夫だと感じられるまでその場面を何度も再体験するかもしません。

問題の解決方法として、じつはどちらの場合も大きな間違いがあります。そうなると、これはいくら話しあったとしても、セッションをかさねたとしても、解決をみることはなくなってしまいます。そもそも間違っているから ・・・。

その家族との間で起こっている問題を解決しようとしておかしてしまう、カウンセリングやセラピーにおけるミスとは何でしょうか?

それは、問題を外にいる誰か(この場合は、家族のひとり)が原因であるとみなしてしまうことです。相手はひどいことをする加害者であることが前提となっていて、自分はある意味では可哀想な被害者というポジションにおさまることです。

相手が悪くて、私は困らされている ・・・と。

しかし、問題を解決するうえで唯一はずせないポイントとは、「どんなことでも自分の外にあることとして見ない」ということなのです。

どんなことが起こっていようが、どのような問題がそこにあろうが、たとえそれがどんなに外からやってきているように見えたとしても、「常に問題は外にはない」ということです。ゆえに、私たちは決して問題の被害者になることはないのです。だから、被害者になってはいけないのです。そうなってしまうと、そこで問題を解決することが決定的に困難になります。

夜寝ているときに見ている夢が自分のこころのなかで起きているように、そして白昼夢や空想も自分のこころのなかで起きているように、またここで見ている世界(反芻している過去、さっき起こった出来事)もまったく同じように自分のこころのなかで起きています。

夜の夢のなかで、どんなに家族からひどいことをされたとしても、そのために実際の相手から自分を防御したり、相手から逃れる方法を真剣に考えたり、いろいろな手だてを講じてもなんの意味もありません。

そして、今ここでも、自分の見ている世界(じつはこれは、自分のこころをのぞきこんでいるといってもいいのですが)でどんな不都合が起きたとしても、それはつねに今の瞬間のことではなく、過去のイメージを見ているにすぎません。たった今は、今、この瞬間だけです。そして、今、この瞬間だけが真実です。

その過去のイメージは、夢のイメージとまったく同じなのです。こころのなかで起きているだけです。だから、そのイメージに必死で抵抗する必要などない、ということなのです。 ・・・ こころが紡ぐただのイメージなのですから。

自分が思っている「過去に自分がされたこと」は、どこを探しても今には存在していません。自分のこころのなか、たった今の自分のこころのなか以外には。

そう、すべては自分のこころのなかなのです。

自分のこころのなかにそのイメージを保持し続ける、ずっと忘れないでそのイメージを反芻する、たったこの瞬間もそれを手放したくない(たとえ、ただのイメージだとしても)、今それを味わうことをしている ・・・ ということには、じつは自分自身に対するあるトリックがはたらいています。

ほんとうは、そのイメージなんかどうでもよくって、そこにくっついている、そこで湧き上がってくる「感情」こそが問題なのです。

この場合だと、「怖れ」です。 ・・・・ 攻撃されるかもしれない、傷つけられるかもしれない怖れ、とんでもないことが起こる「怖れ」。

そして、私たち誰もが、「怖れ」を抱いています。それは、何かにやっつけられちゃう怖れ。それは、自分のなかにあるこんな思いのあらわれです。

「私は悪いやつなのだ(自分で信じている)。だから、攻撃されてボコボコにされてあたりまえ。私が必死に逃げまわっている大いなる力(神・源)は、いつか私を見つけだして私を成敗するだろう(なんたって、私は悪いやつだから)。そうなるまえに、どうにかしなくては・・・。そうだ、悲惨な被害者になっているのを見れば、もう成敗をあきらめてくれるかもしれない。よし、だったら、やられるまえにやられちゃてる自分になっちゃえばいいのだ。手っ取り早く誰か加害者を仕立て上げなくては。誰でもいい、手頃な人を探そう。そこでのストーリーは、なるべく悲惨にしなくては。悲惨なふりをすれば赦されるだろう」

私たちはこの「攻撃される怖れ」を使って、妥当な被害者ストーリーをでっちあげ、自ら体験します。そうすることで、『本当の怖れの原因』(じつは、自分を悪いやつだと思っていたこと)を忘れ去ってしまいます。

そして、いつもたくみに目のまえにいる人を加害者に仕立てて、「あなたのせいで、私はこんなにひどい気持ちになっているし、あなたのせいで、私の人生はめちゃくちゃなの」と、ちゃっかりとかわいそうな被害者におさまります。

もっとも厄介なことは、そのように被害者ストーリーを自分が仕組んだはずなのに、いつのまにか自分ではもはや、何がどうなってそうなったのか、さっぱりわからなくなってしまっている・・・ ということです。

加害者に意識を集中して、被害者を全力でやっているうちに、それが本当のことだと自分でも信じてしまったというわけです。

こうなると、もはや、本当の問題の原因がわからなくなってしまいました。すると、まったく見当違いの方向で問題の見立てをして、見当違いのところで問題の解決策を探すことになります。

結局のところ、癒さなければならないのは「私は悪いやつです。だから苦しんであたりまえなのです」という「罪悪感」と「怖れ」そのものです。

この怖れによって、私たちは病気を怖れたり、自分の将来を怖れたり、失敗を怖れたり、別離を怖れたり、あらゆるバージョンの怖れへと姿を変えます。・・・が、このどれもが、先ほども書いたように自分が思っているような理由の怖れではない、ということなのです。

だから、自分のこころのなかに抑圧して見えないようにしている「罪悪感」と「怖れ」を認識できるようにして、解放することが重要なのです。

「罪悪感」と「怖れ」を認識できるようにするとは、日々の「問題」というかたちで現れているものをしっかりと見ることです。問題とは、見えなくなっていた「罪悪感」と「怖れ」が認識できるレベルで表現されていることに他なりません。

だから、まんまと被害者になってしまうことなく、長らく抑圧されていたすべての問題の原因となっている「罪悪感」と「怖れ」が目に見えるかたちになって姿をあらわしていることを歓迎して、自分で責任をとって、しっかりとお片づけの態勢に入ることが大切です。

そして、お片づけこそ、その「罪悪感」と「怖れ」に欺かれることなく、本来の自分とはまったく関係のないものとして、高い意識にもっていってもらうことなのです。

たとえば、この問題の場合だったら ・・・

「家族とのあいだで感じている怖れは、相手のせいで感じているものではありません。これは、たった今、私が握りしめてきた怖れを再び感じているにすぎません。しかし、これは私のものではありません、手放したいです。私のこころから、この間違った怖れを取り去って、もっていってください」

こんなふうに高い意識にお願いしてみてください。

自分でやらなくても大丈夫!ただ助けを求めてみましょう。小さなエゴでどうにかしようとする習慣こそが、災いをもたらしてきました。より問題を複雑にしてきました。

しなければならないことはシンプルです。感じている感情は抵抗なく受け入れて、あとは自分の本性である大いなる力にすべてを委ねてみましょう。まるごともって行ってもらいましょう!

こうして「怖れ」や「罪悪感」が片付けられてなくなってくると、ムダに自分を傷つけることが少なくなるし、逆に自分を楽しませ、もてなしてくれる世界が見えるようになってきます。世界が自分に対して優しくなるのです♡

 

 

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秋 ♡ リンゴ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

ようやく蒸し暑さもおさまり、秋晴れのさわやかさを感じるようになってきました。年ごとに夏場の湿度がひどい昨今、ホントにゴウモンのようでしたもの。秋の深まりは、うれし〜いかぎりです。 ˘⌣˘♡

先日訪れたカフェで、秋を感じるスウィーツに出会いました。

アップルパイを注文したら、「スミマセン!(汗)本日は通常のカットのものはお出しできないのですが、よろしいでしょうか?」と前おきがあり、出てきたのが ・・・ コレ。

黄色いリンゴをベレー帽のようにかぶったスウィーツ。

ベレーの下には、バニラアイス、熱々のリンゴがゴロゴロ、そしてパイが詰まっています。

リンゴほぼ丸ごと一個をいただいたようで、おなかいっぱいでした。かなり恐縮して出されたわりには、ずっとアップルパイっぽかった。

ちなみに、このベレーの部分もヘタと皮を残してちゃんといただけます。

お店にもいろいろな種類のリンゴが並びはじめました。レンチンで、焼きリンゴ風のデザートを作ることがありますが、パイシートを使って、こんなタイプのアップルパイだったら簡単に作れそうですね〜。

 

お疲れさま会 〜英国マダム編〜

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

こんなところへ来ました。・・・ お玄関には、立派な秋のお花のアレンジメント。

そして、17階のラウンジへ。そこからは、お堀と、日比谷公園の深い緑、そして丸の内のビル群が見渡せます。

本日はお仕事のお疲れさま会で、帝国ホテルのラウンジにアフタヌーンティーをしにきました。

ここのアフタヌーンティーは、二ヶ月ごとにメニューが変わるそうで、今月は英国アフタヌーンティー(まさに元祖、正統派のアフタヌーンティーです!)。

おなじみのスタンドが仰々しくやってきましたよ〜♪ でも、そのまえに、ブルーチーズ風のブロッコリーのスープとサラミなどのアミューズをいただきます。さすが帝国ホテルさん、すでにこれだけでもおいし〜♪

一の重(皿)は、サーモンのオープンサンドとキュウリやエビ、チキンのサンドイッチ。

そして、温かいお料理の二の重は、イギリスならではのフィッシュ&チップスとミートパイ。

途中に、温かいスコーンをいただき、そして三の重、スウィーツへ♪ おままごとみたいにちっちゃいのに、ひとつひとつのお味がしっかりとしていて、ひとつでも満足できそうなぐらいフルーツやバターの香りがします。アップルクランブルが美味♡

紅茶は、サンドイッチの部では、帝国ホテルさんイチオシのブレンドティーを。温かいお料理には、お味も香りもしっかりとしたウバ。そして、スウィーツの部は、いただいたことのないブランドのアップルティーにしてみました。

最後にビターチョコレートとナッツが出たので、これはブレンドコーヒーで。「お帰りまえに、もう一杯いかがですか?」という給仕のオニイサマのお言葉に甘えて、カフェオレもいただきました。

すっかりくつろいで、英国マダムをしているうちにとっぷりと陽がくれて、ビルの灯りや車のランプが煌めいています。フロアではジャズの演奏もはじまり、夢心地。

うふふ♡ アフタヌーンティー、優雅な気分になれていいですね(昨今は、コースディナーと同じぐらいするようですが)。またお仕事頑張りますから、連れて来てくださいまし。(´▽`)  ごちそうさまでした。

 

 

気づきの日記「“死ねば?”が一転、“死にたい” ・・・死は解決策?」

「死ねば? おまえなんか、生きてる価値ないだろ?」 ・・・ 耳タコなぐらい聞きましたよね。あの議員さんの録音された暴言。そして一転、今度は「こんなことになって、(私は)死んでしまいたい」と。

そうね・・・ 無意識のうちに自分自身を憎んでいて、「自らを殺してしまいたい」と思っている人のみが、実際、人に対して「死ねば?(死んでしまえ)」と言ってしまうものです。たとえそれが人に向けられたとしても、言葉はいつも自分に対して発せられるものだから。

「殺してしまいたい」ほど価値がない自分だからこそ、死ぬほど頑張って、努力して、なんとか外から評価をえて、価値を見出そうとしたところ ・・・ みごとその計画が頓挫してしまったわけです。そうなれば、もちろん「死んでしまいたく」なるわけです。

そう ・・・不自然な努力というのは、きまって自分に対する価値の低さが動機となっています。そのむかし、妙に頑張り屋さんだった自分がいるので、わかるなあという感じ・・・(^^;; 。だから、なんとしても自己価値を取り戻すためには、あの方にとっては再出馬は必然なのでしょう。

おっと ・・・ 本日はそのようなことを書くつもりではありませんでした。 ・・・「死にたい」という言葉そのもののほうでした。

ひどく追いつめられているとき、あるいは苦しくって八方ふさがりなとき、私たちはふと「死にたい」という言葉を口にすることがあります。実行したいかには関係なく。

その場合、「死ぬ」 = 「楽になる」「リセットされる」「逃げられる」というイメージ。だから、「死にたい」 = もうラクにしてくれ〜!! ということ。

宗教的な教えや臨死体験の話しなどから、「死んだら」光のトンネルをとおってすばらしいところへ行き、すべてから解放されるとか、お花畑や懐かしい人々との再会、癒し、喜び、至福、などなど。

つまり、「死ぬ」 = 天国、極楽浄土、涅槃、解放、光、自由、癒し、という限りなくハッピーな図式になっているわけです。

でも夢をこわすようですが、残念ながらそんなことはありません。あ、もちろんそのような素晴らしい体験を「そのとき」はするかもしれませんが、「そのとき」限定でそれだけではない、ということです。それに、死後の体験はこの世と同様、その人の信じていることをまるまる反映しているので、三途の川も、天使のお迎えも、お好みのままに♪ という感じです。

このような「死ぬこと」の美化ということこそ、エゴのたくらみではないかと感じてしまいます。

苦しみというものの正体を見きわめることなく、美化された「死」というものに逃げるこむことで、心はせっかくもたらされた癒しの機会を逸っしてしまうのです。

そして、終わることのない永遠に苦しいこの世というものへ、輪廻をくりかえすことになります(そんなに苦しくはありませんが ・・・ という方は、さまざまなモルヒネ剤 〜お酒、ギャンブル、娯楽、恋愛、忙しさ、仕事、問題、抑圧 ・・・ 〜 というもので上手にごまかしているだけです。本当に正直になったときには、この世はやってられないぐらいじつはヘンんなところなのです)。

しっかりと心に向きあう習慣がないと、心が病んでいることにさえ気づくことができません。そして、心は癒されないまま放置され、ある種逃避をくりかえし(ムダな輪廻をくりかえし)、痛みや、怖れ、罪悪感という負債はどんどんつみ重なるばかりとなります。

これこそ、「絶対に苦しみから卒業させないぞ!」というのがエゴのたくらみそのものです。だからこそ、エゴは「死」というものを美化して、「死んじゃえば、すべてチャラになるよ」「気がついたら、すごくステキなところにいて、解放されているのさ」と言うのです。

そして、それは断じて「NO! 」なのです。

死んじゃうことで、リセットされることはありません。

ちょっと場面が転換しただけです。本当はここ(この世)にいることも、あちら(あの世)にいることも、本質的には同じなのです。なぜなら、どちらも心のなかで起きていることだからです。

隣の部屋に移動して、「ああ、あのゴミ(問題)だらけの景色は見えなくなった。これで安心だ」と思うかもしれません。だけど、ゴミをためこむのは自分の心の性癖であり、またゴミは本当は外側にあるのではなく自分の心のなかにあるので、部屋を変えようが、隣の家に行こうが、ゴミは自分についてまわります。

本当のところ、目のまえに問題があらわれるのは、それにおびえて逃げるためではなくって(もちろん、エゴはそれを目的としていますが)、本当はそれを取り消してきれいにするためです。

すでに、ここまでのおびただしい輪廻のくりかえしによって、そうとうな怖れや罪悪感を自らの無意識の心にためこんでしまっています。

私たちの高い意識が望むのは、痛みとも怖れとも罪悪感ともまったく無縁で、源(神)とまったく同じ制限のない力をもつ本来の私たちの姿に戻したいということです。

そのためには、本来の「自分ではないもの」をことごとく手放してゆく必要があります。無意識のこころにためこんだものをきれいにする必要があるのです。

その手放す作業としては、何が本来の自分ではないかを見極める必要があり、そのためにはいちいち体験していることを認識して、取捨選択の決断をしなければなりません。そのためにこそ、今までずっと自分を無為におどかして無力にしてきた痛み、怖れ、罪悪感のすべてが浮かび上がってくるのです。

そう、「もう、こんなものいらん!」と決断するため、手放すために、です。見て、選択してもらいたいのです。

だから、エゴにそそのかされて、それから目をそむけて、とっとと逃げてはいけないのです。

逃げる ・・・ 死んじゃった場合、隣の部屋に移動することで、しばしゴミは見えないかもしれません。でも、そうでした!ゴミは心のなかにあるので、逃げた先でもやっぱりゴミに煩わされます。で、また部屋を移動しよう!とする ・・・ それが、そこから抜け出してここに再び生まれる、輪廻するという決断です。

で、輪廻しました。あらら〜、また同じレッスンがっ(汗)!! それに、さらにハードル高くなってません? ってことになります(なんせ、ぜんぜんお片づけしていないからね)。

本当の平安、安らぎ、幸せ、解放、というものは、部屋(この世、あの世、中間世)の移動、場面の転換とはなんら関係がないのです。それは、ただひたすら心の問題なのです。

本当の終わりは、部屋、場面が連なる、苦しみのドラマから完全に脱すること。

そのためには、感じている痛み、怖れ、罪悪感にあざむかれることなく、しっかりと見極めて、自分の高い意識にゆだねて、もっていってもらうことが必要なのですね。

そうなると、真の苦しみからの脱出のために、問題ウェルカム! 痛み、怖れ、罪悪感、どんどんいらっしゃいということになります。だって、見極めれば見極めるほど、同じところをグルグルすることなく、真の「あがり」に近づくからです。

それこそが、間違ったこころからの脱出、本当の天国、涅槃、解脱です。

だから、問題と闘うのはやめましょう! 逃げるのもやめましょう!それがいったいなんなのか、見てやりましょう!

思いのほか、ちっぽけなものかも?! (*⁰▿⁰*)

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング )

 

10月の「ヒプノセラピー体験セミナー」by 日本ヒプノセラピー協会 のご案内

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

9月の「ヒプノセラピー体験セミナー」が終了いたしました。

毎月感じるのですが、ご参加のみなさまによって、体験セミナーの内容もまったく違ったものとなります。お越しくださった方々の「知りたいこと」「興味のあること」「役に立つこと」、そして「そのとき、なぜかお伝えしたいと思うこと」を感じながら、そのときどきにあったお話しをさせていただくからです。

今回もリラックスしたおしゃべりモードで、あっというまの楽しいお時間でした。ありがとうございました。

10月の開催は以下のとおりです。

「ヒプノってなに?」「リッラクスしてみたいな」「もっと知りたい」という方、是非お気軽にご参加になってみてください。心地よいヒプノ体験とともに、少しこころが軽くなり、ヒプノセラピーの効果を実感していただけることと思います。

【 ヒプノセラピー体験プチセミナー 10月 のご案内】

「ヒプノセラピーってなに?」「どんな効果があるの?」「誰にでもできるの?」「ほかのセラピーとどう違うの?」「セラピストになるには?」・・・

リラックスした雰囲気のなかで、ヒプノセラピーについてのあれこれを学びながら、実際に体験することができるプチセミナーです。日々の疲れがとれたり、あるいは、心について、自分自身について、新たな気づきがあるかもしれません。どなたでも、気軽にご参加ください♪

*内容
・ヒプノセラピーってなに? どんな効果があるの?
・ヒプノセラピーと他のセラピーの違いは?
・ヒプノにかからない人がいる? 誰にでもできるの?
・ヒプノセラピーはなぜそんなに効果的なの?
・リラックスできるヒプノセラピー、プチ体験
・ヒプノセラピストになりたいけど・・・養成コースについてもっと知りたい
・お茶を飲みながら、ヒプノセラピーなんでも Q&A

*日時 : 10月16日(月) 19:00~20:15

*場所 : 表参道(渋谷区)

*講師 : 古川貴子、酒井統子
(ヒプノセラピスト、日本ヒプノセラピー協会講師)

*参加料 : 2,000円(お茶とお菓子つき)
【お試し期間終了のため料金が変更となりました】

*お申し込み方法 → こちらのフォームからどうぞ

(「体験コース」参加希望とご記入のうえ、希望の日にちをご明記ください。)
追って詳細をお知らせさせていただきます。

ヒプノセラピーってなに? → こちらから
ヒプノセラピーを受けてみたい → こちらから
ヒプノセラピーを学んでみたい → こちらから(日本ヒプノセラピー協会サイト)

 

気づきの日記「誰もがしている・・・自分への呪い」

ほんとうに私たちのこころというのは、自由で、柔軟で、パワフル・・・。

ある意味じゃ、躾られていないお子ちゃまのようでもあります。野放しにしていると、知らないうちに自分のこころのパワーで自分の首をグイグイしめあげることになってしまうことも ・・・ご用心!

といっても ・・・ ほとんどの方がすでに手遅れで(汗)、気づかぬうちに何らかのこころの呪縛につながれてしまっています(もし、完全に呪縛がとけていたら、とっくにここになぞいないことでしょう)。

呪縛にかかっていることにさえ気づいていないのだから、本当は不自由なのにそれを問題だとさえ感じていないかもしれません。だから、みんな誰もが自分のこころのパワーのギセイ者だ、といえるのです。

どんなふうに ・・・ ?

たとえば、小学校にあがる頃、なかなか自分の名前が書けるようにならなかったとします。

何度も教えながら、ついに業を煮やしたお母さんはイライラがきわまって言うのです。「こんなことも覚えられないなんて、ほんっとあなたってバカだわ」。

すると、「お母さんがそう言うんだから(こどもにとって親は神さまのような存在なので)、そうに違いない」と、自らに『ぼくはどうしようもないバカです。そのうえ愛されていません』というレッテルをはって、以降、10歳になっても、30歳になっても、80歳になっても、そのレッテルどおりに生きようとします。

そのレッテルが間違いであること(つまり、発達には個人差があり、それは自分の価値とは関係ない、つまりバカではないこと)に気づいて、意識的に正されない限りは、ずっと『ぼくはどうしようもないバカ』を自らやり続け、自分自身をそのように扱い、人にもそのように扱わせます。つまり、「バカなひと」のポジションに自らおさまり続けるのです。

他にもさまざまなバーションがあって、それらはそんなに大ごととは思えないことですが、それがこっそり呪縛となってしまっています。

例えば外で遊んで、汗だく真っ黒で帰宅したときのお母さんのひとこと。「あなた、ホントくさいわよ」と言われて、自分という存在は「くさいのだ」と決めてしまい、以後人のそばに行くことを避け、ずっと自分を孤独にしていた人もいました。

でも、その原因である「自分はくさい」は忘れさられ、なぜ自分は人に近づけないのか自分でもわからないのです。

あるいは、お手伝いをしなかったことから、「まったく気のきかない子だね」と言われてしまったことで、逆に過敏なまでにまわりに気をつかいまくる子になっちゃったり。

幼稚園から帰ってきて、いろんなことを報告したくておしゃべりしていたら、お母さんのムシのいどころが悪くって、「まったく、つまんないことばっかりしゃべってるんじゃないわよ」と言われて、それからは妙にコメディアンチックに脚色したおもしろい話しを必死でするようになったり(この場合、必要以上に場を盛りあげる人になったりします)。

また、女の子によく見られるのは、生まれたときのお父さんのひとことによるもの。「また女か ・・・(チッ)」(男の子がほしかったのですね)。

赤ちゃんだからわからないと思っていても、この言葉は意外にもちゃんと理解されていて(というよりも、態度でわかっちゃうんですよね)、人生最初の拒絶としてこころに刻印されます。するとその子は、女の子であることに無価値感を感じて、男の子のようにふるまったり、自己卑下したりし続けます。

このようなひとことは、親も人間なので、そんなに悪気もなくふと出てしまったか、あるいはムシのいどころが悪かったか、あるいはこころが傷ついていたというだけなのですが、それを受けとったこどもはその愛のないひとことで、自分の価値に傷をつけ、一生自分に呪縛をかけてしまうのです。

呪縛はそのうちとけるのでしょうか・・・?

残念ながら、そうはいきません。

こころにはそれだけのパワーがあり、その呪いはちょっとやそっとじゃとけないのです。とけないように、ちゃんとこころの深いところにしまわれて、忘れさられます。

だから、そもそも自分がなぜ「自分をバカだと信じているのか」「自分は汚いと決めているのか」「自分の気持ちをギセイにして気づかうのか」「必要以上に明るくふるまおうとするのか」「自分を嫌悪するのか」 ・・・ その理由がまったくわからなくなります。ただ、そういうものだと思ってしまいます。

それが本当の自分ではないのだ、ということにすら気づけません。でも、どこか苦しさを感じていることでしょう。

言えることは、バカだと思っている人は絶対バカではないし、汚いと決めている人は汚くもないし、気づかいをしすぎる人はリラックスして動けるはずだし、ヘンに明るいひとももっと自然体でいられるはずだし、自分を嫌悪する人は自分に対して好きも嫌いもなくそのままでいられるはずなのです。

こんなふうに、「自分で自分に呪いをかける」ということをとてもわかりやすく描写していたアニメがありました。

「心が叫びたがっているんだ。」 ・・・ 最近は実写も話題になっているようですが、私はアニメで見ました。

この話のなかには、お母さんの自分に対する態度と言葉から、自分に呪いをかけてしまった女の子が出てきます。口がきけなくなってしまうのです。

しかし、呪いをかけてしまったことにはまったく気づかず、この呪縛がかかった状態が自分なのだと思って日々をおくります。つまり、本当の自分を閉じ込めた状態。

これを見たとき、ああ、大なり小なり、私たちみんな、もれなくやっているよね〜 ・・・、人ごとではないと感じました。

この女の子は「自分で自分に呪いをかけていた」と「気づく」ことによって、はじめてその呪いをとくことができるのです。本来の自分へと戻ることができるのです。

これは私たちも同じ。すべての呪縛は、それがどのようなことなのか、「自分に対して何をしたのか」を認識して、はじめてそれを手放すことができるのです。

だから、どんな痛みや苦しみ、不具合、問題にしても、それを無視しつづけて、顔をそむけたままでは、決してそれを解決することができません。

けれど、ああ、こんなことをこころに決めてしまっていた、それを信じてしまっていたからそうなっていたんだ。そして、その決めていたことはもう必要ないと、ちゃんと認識してあげることによって、はじめてそれを解除して、呪いから自由になることができるのです。

すべての問題は、自分以外のところ、自分の外側で起こっていることはひとつとしてありません。

いったい「自分で自分に何をしてしまったのか?」 ・・・ それをしっかりと認めるまでは、やめることができないのです。たとえ、それが母や父や、他の誰かが原因のように見えたとしても、結局は自分のこころがあることを決断して、その状況で自分を生きやすくするために自分に呪いをかけるのです。

すべての問題は、しっかりとひも解いて、「ああ、こういうことが起こっていたんだ」と認識することが欠かせません。うやむやにしてもそのうち解決は望めません。だから、ちゃんとそれを手のひらにのせて、しっかりと見てあげること。

ちゃんと認識してあげる、直視したときに、その呪縛をはじめてとくことができます。本当の自分へと、選びなおすことができるのです。

だから、何か人生で不具合が起きているときには、ちょっと落ち着いて、何が起こっているのか、しっかりと向かい合って見てあげること。

呪縛を解いてくれる王子さまを待ち続けるのではなく、自分が自分の王子さまになるべく、自分の呪いを解いてあげましょう!

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

お花グッズにご縁があるこのごろ

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

最近、お花グッズがつぎつぎやってきてくれます。

〜その1〜

Kちゃんは、たびたびスマホケースをプレゼントしてくださるのですが ・・・ それはときとして、3センチぐらいのビジューがごろごろ着いているキランキランなケースだったりして、「それ、スゴっっ(驚)」ってみなさまの注目の的となっておりました(笑)。なかなか自分じゃチョイスできないタイプのものだったので楽しかったのです。

今回は秋らしいワイン色の花柄。イヤホンジャックの大きなポンポンとタッセルがチャームポイントです♡

これも、「そのポンポン、スゴイね〜!」とやはりリアクションされます。(≧∀≦)

素敵なの選んでくれてありがと〜♪

〜その2〜

Eちゃんにいただいたお花シール。

これは、リアル押し花なのです。色がカラフルで鮮やか。Eちゃんには以前、本物のお花のクッキーをいただいたことがありましたっけ。このシールに似ています。

しばらく、しおりがわりに使おうかな〜。

マスキングテープもお花模様で、ウォッシュドな色合いがおしゃれです。

Eちゃんは、ちょっとめずらしい可愛いものをいっぱい知っていて、シェアしてくれます。いつもありがとう♡

〜その3〜

Mちゃんの長野土産、ローズやマローブルーというお花のハーブティー。

これは是非、ガラスのポットで色を楽しまなくちゃね。

今の私にぴったりな調合をお店の方と選んでくれたそう。お気づかいありがと〜♡

日常のちょっとしたお花、癒されます。(^-^)