HAPPY VALENTINE'S DAY ♡
雪まみれ・・・でも、こころのなかにキミさえいればへっちゃらさ!
お友だちのお誕生会です♪
空気がすんでいる2月なので、ながめのいいお気に入りのお店で・・・ と思っていたら、前日夜遅くまで雪模様。これじゃなにも見えないかも・・・。
ところが、翌日はお陽さまが戻ってきてくれました。神さまからのプレゼント♡
52階からのながめは、東京が一望できて、彼方にはきらきら東京湾、そのむこうの房総半島まで見わたせます。翼があったら、どこまでもひとっ飛び!という感じ。
窓辺のテーブルで、この景色をながめながらのお食事。
この NYグリルは、前菜とデザートはブッフェスタイル。特に前菜は、ブルスケッタ、カルパッチョ、カプレーゼ、そしてチーズやクスクスなど、イタリアン アンティパストが勢ぞろい☆ とってもおいしいのです!
もりもりとりすぎ?!(笑)まだ前菜ですよっ!
そしてメイン。本日は二人ともお肉にしてみました。つけあわせの黒トリュフのマッシュポテトが絶品! ボールいっぱいたべた〜い♡
デザートは、埼玉、栃木方面がみわたせるラウンジへ移動。Mちゃん、お誕生日おめでと〜♡
居並ぶスウィーツにはやるこころをおさえて、1ラウンドめは、つつましく(笑)。
あと3ラウンドほどガッツリといただきました。
お昼まえにやってきたのに、ゆっくり食事をしてお喋りをしたら、もう夕方。ふたたび雪がちらついてきました。
このレストランは、駅から離れてい隠れ家気分が味わえるので好きなのです。Mちゃんも気に入ってくださり、よかった!よかった!
Mちゃん、よい一年をね♡
(・・・って、じつはお誕生日は9月だったのでした〜・汗。遅くなってごめんね〜!笑)
セラピストという仕事をしていると、日々さまざまな問題が目のまえにやってきます。そのバラエティーの豊かさといったら!
世には、ありとあらゆる問題があふれてるから・・・ 。たしかに、そのようにも見えます。
その一方で、こんなことにも気がつきます。
「あれ? いっつも同じセリフ(文句)だね〜?」って。
一難さって、また一難。問題は確実にうつり変わっているのに、なぜか聞かれるセリフ(文句)はいつも同じなのです。自分のことにしろ、まわりの誰かのことにしろ、いつも同じこと言ってるね〜(汗) ・・・って。
これはどうしたことでしょ?
* 「なんで、あいつらは私を無視するんだ」とAさん・・・ 「あいつら」がさった今でも、まだ「私は尊重されていない」とぼやきつづけるAさん。
* 「なんで、私にそんなひどい扱いをするんだ!」とBさん ・・・ あそこへ行っても、向こうへ行っても、場所はかわれども自分に対するひどい扱いは変わりません。まるでおでこに、「私はひどい扱いを好みます」と貼りだしているように。
* 「私はいつも意にそぐわないことをやらされる」とCさん ・・・どの仕事、どのグループ活動に参加しても、いやな役まわりばかり。私はやりたいことがしたいはずなのに。
* 「どいつもこいつも、不誠実だ」とDさん ・・・ Dさんにとってもは、世界は不誠実な人であふれているようなのです。
・・・ 不思議とぼやきのセリフは、その人にとっては不変なのです。
セラピストの仕事をするとき、クライエントさんの問題を「額面どおり」にうけとめて解決しようとすると、混乱するしどんどん複雑になり、しまいには迷宮入りしてしまいます。
なぜなら、起きている問題はもともと「煙にまくためのもの(煙幕)」そのもので、解決できないようにできているからです。
問題となっていることの表面的なあれこれを分析したり、対処しようとすることは、役に立たないのです。それは、家が火事になっているときに、その立ちのぼる煙の大きさにびっくりして、煙を押さえこんだり、吹きとばしたりと、いじくりまわそうとするようなもの。
そのとき火元が見えなくっても、いちばん下に隠れている燃えさかっている「火元」に対処しなければなりません。
つまり表面にあらわれている一見「問題」に見えるあれこれは、まったく「火元」ではないのです。
いろんなことが起こっているように見えますが、そんな問題のあれこれはじつはどうでもいいものなのです。
大切なのは ・・・ その問題を抱えているとき、そのときに感じている「気持ち」そのものです。
これぞ、火元となるもの。これぞ、問題の原因といえるものです。
これをしっかりと対処しないことで、消したように見えても(その問題を表面で解決したように見えても)、また他から火が出ます(かたちを変えて違う問題が勃発します)。どちらも火元は同じなのです。そして、また以前と同じ「気持ち」を感じることになります。
つまり、問題についての表面的なことを解消しても、解決できたように見えているだけ。
問題の火元はいつも、解消されずにないがしろにされたままの「ある感情」なのです。
先ほどのAさん、Bさんたちを見てみると・・・
Aさん、Bさんに見られるのは、「見捨てられ」感情。「私は見捨てられていて、見向きもされない」というのがこの二人が握りしめている感情。これが問題の原因、核心です。これがいろんなバージョンの問題としてチョロチョロ現れているわけです。
Cさん、Dさんの場合には・・・
「無価値」感。「私は価値がない。だから大切に扱われなくて当然なのだ」という考え。この考えがあるかぎり、もれなく大切にされずないがしろにされます。
ほんとうはこれらの感情を処理してほしいがために、問題は現れているのです。しかし、私たちは問題の表面的な出来事のほうにすっかり気をとられて、それをいじりまわすのに忙しいのです。
例えば、コミュニケーションを変えて自信をつけよう!とか、服装などの自己表現を変えて自分の価値をあげよう!とか、ちゃんと自己主張ができるようにアサーションを勉強しよう!とか、人に左右されない自分をつくろう!とか。
どれも、一時的にはうまくいくように思えるかもしれませんが、原因が手つかずにされている以上、問題の再発はまぬがれません。
問題は「原因」をかたづけてもらうために現れているのであれば、「原因」をしっかりと認識する必要があります。
見なければならないのは、問題が起きているときに感じる自分の慢性的な「感情」なのです。
自分の感じていることをほんとうに正直に感じることができるようになると、自分が抱えている問題の根っこにある感情(その問題を抱えているときの怖れや不快感)が、じつはいつも同じであることに気がつきます。
しかし、エゴは私たちがいつも問題を抱えて苦しんでいるようにと、問題を解決できないように煙にまいています。つまり表面上であれこれ起きていると、それこそが問題だと勘違いさせられて、それにガッツリと取り組むあまり絶対解決にいたらないという仕組み。
ホントは、起きている問題は根本の原因である感情を解決させないようにするためのダミー、おとりなのに・・・。
だから、真に問題を処理する、ということは、表面をいじりまわすよりも先に、自分が深いところで感じているパターン化した感情をちゃんとと見つけて、それをしっかりと感じ、終わりにしてあげることなのです。
感情は、現実とは関係がないのではないですか? と思うかもしれません。
でも、ほんとうのところ、「現実」といわれているものは、「こころ(意識)」のなかで起きているできごとです。外にあるように見えるものは、両目で見ていると思っている楕円形のスクリーンという意識のなかにすべて存在しています。
エゴは「すべては外にあり、あなたにはどうすることもできません。あなたはその大きな世界のなかのちっぽけな被害者でしかないのです」と声高に教えようとします。
でも、いったん「世界とは、自分自身のこころが見えるモノとしてあらわれている」ということが理解できるようになると、いろんなことがシンプルになってきます。敵は外にではなく、自分のなかにいるからです。そして、その敵もよく見てみることで消してしまうことができるからです。
日々、さまざまにあらわれる問題にしても、じつはたったひとつの原因であるとわかるからです。問題をあれこれいじらなくても、その問題にまつわるパターン化した感情を感じてあげるだけで問題がなくなったり、流れが変わるのがはっきりとわかるようになります。
未解決の「いやな感情」をそのまま持たせておくために、エゴはつぎつぎと問題というおとりを送りこんできおます。
でも、その問題があるからこそ、じつはすべての問題の原因である「感情」を解放するチャンスが与えられているともいえます。
自分が今感じている感情に正直になって、感情にフォーカスし、いらない感情は素直に感じきって「終わり」にできれば、たくさんの問題は自然といらなくなるのです。
見ている世界が平和になるのですね♡
明日は節分ですね。そして豆まき。
「鬼は外!」ならぬ、昨日からうちにはオニさんがやってきました。
この子!
コワモテにもかかわらず、グラビアアイドル顔まけのポージングにおもわず笑ってしまいます。
太ももから足さきまでの感じがフクフクしていて、あまりにキュートなので「かわいい〜♡」を連発していたら、「あげるよ!」と言われ、もらってしまいました。
じつはこれ、父が陶芸教室で作ったものです。陶芸家の先生の多大なるお力添えあっての作品ですが、他の作品もびっくりするぐらい味のあるものがいっぱいありました。次におねだりするものも決めました! (笑)
私も粘土、こねてみたくなりました♪
以前にもブログでご紹介した焼き菓子のお店「菓子工房ルスルス」さん。とってもおいしくって感動したお店です。
Eちゃんには今まで何度もいただいているのですが、どれもまったくはずしません。
今回は予約しないと手にはいらないというひと品をいただきました。
シンプルな缶にリボンというお姿がオシャレ♡ なかはどんなだろう?
パカッ・・・とあけると、あら?! 色紙が出てきました。そして、そのしたには ・・・
わあ、かわいい! (๑❛ᴗ❛๑) ぜんぶ鳥のかたちをしたアイシングクッキー。
色紙は、こんなふうに使うのでしょうか?
以前にいただいたのも、どれもおいしかったな〜。口にしたとき、なごむようなあたたかい味わいがあって、他のお店のクッキーとはぜんぜん違うのです。
大きいクッキーはネコちゃん型でシナモンがきいていました。お花の形は、まんなかがアーモンドとキャラメルです。ビスコッティもナッツが入っていてコーヒーにとってもあいました。
ほっこり幸せなティータイムをたくさんいただきました。ありがとう♡
学生のとき、この小説を読んでショックでした。ずっとこころに残っていました。
キリシタン弾圧下の長崎で、困難な宣教を続けるポルトガル人の宣教師たち。拷問を受けながら、かれらの命の叫びは ・・・ 「神さま、なぜあなたはこたえてくれないのですか?」
キリストの教えをかけて宣教師もキリシタンも次々に命を落としていくという、せっぱつまった状況のさなかで発せられる問いですが、私たちも生きていくなかで「神さま、なぜこたえてくれないのですか?」という問いは誰もが一度は発したことがあるのではないかと思います。
「なぜ、神はわたしにこんな試練を与えるのだろう?」「なぜ、こんな苦しみに満ちた世界を創ったのだろう」「なぜ? なぜ?」 わたしは見捨てられているのか?・・・ 私たちは、どこか理不尽だと思いながらも、それでも必死にこたえをみつけようとしてきたのだと思います。
セラピーをしていくなかでも、それぞれの無意識のこころのなかにとても根深い「見捨てられ感」があるのがわかります。
「どうせ、助けてもらえない」「わたしは見むきもされない」・・・まさに、おおもと(神さま)から私は見捨てられていて、助けなんてこないし、だから自力で必死に生き延びなければならない、苦しい ・・・ この無意識下にある絶望感が、私たちが感じるえたいの知れない恐怖心の原因です。そしてその怖れから逃れるために、自分をさまざまなものへと駆り立てます。
それはお金であったり、お酒、ギャンブル、買い物、恋愛、過食、ワーカホリック・・・ かたちは違ってもすべて怖れをうめるためのてだてとなると信じているものです。でも、それらでは決して満たされることはありません。ほんとうに求めるものでしか、その隙間はうめられないからです。
この怖れは、「見ているものは、自分のこころのなかが原因である」ということがわかるまで決して解決されることはありません。
私たちは「自分の信じているものしか見ることができない」から、自分のなかに深く隠しもっている闇、見捨てられているような空虚感を正直に認めることからはじめなければなりません。信じていることが変われば、おのずと見えるものも違ってくるのです。
本当に見捨てられているのか、自分の思い違いではないのか ・・・。怖れるあまり握りしめているものをいったん手放して、こころを落ちつけて、真実を知ろうとしないかぎり、本当のことは見えてこないのかもしれません。
ところで、この物語のなかでは踏み絵を躊躇する村人たちが次々と命をおとすはめになるのですが、キチジローというキリシタンは三回も踏み絵に遭遇しながらも、そのたびにまんまと生きのびてゆきます。
なぜなら、そのたびごとにバシバシ踏んだから。それでも、彼はさいごまでキリシタンのこころは決してすてていないのです。
人々がキリシタンになったのは、安らぎや幸せを求めてそうなったはずなのに、私たちはしばしば自分の考えの正しさを優先するあまり、本当に求めていたはずのものをみすみすドブにすててしまったりします。
彼はまさに、「正しさよりも、生きのびること(幸せ)」を優先したわけです。
私もキリスト教の環境で育っていますが、もし私がこの時代の長崎に生まれていたら、きっとキチジロー同様、バシバシ踏んでるかもしれませんね〜(汗)。
この作品はマーティン・スコセッシ監督のハリウッド映画です。
ハリウッドの日本を舞台にした作品って、これどこの国? というぐらいヘンテコリンなことになっている場合があるのですが、これは時代考証を日本人が担当しているそうなので違和感はありません。
でもちょっとヘビーで、午前中に観たら午後までへたってしまいました・・・。
吉祥寺のステキな和食屋さんでランチ会。お友だちがさりげな〜く開いてくださった私を励ます会なのです。
お食事をいただきながら、お友だちの一人 Yさんが「古川さんには嫉妬を感じるよ」と笑いながら言われたのです。「え? なんで?」と意味不明な私。「私なんて、8歳のときに亡くなっているから。古川さんは亡くなったお母さんと、ずっと姉妹のように仲がよかったんでしょ」と。そっか〜・・・、Yさんは70代後半なので 70年もお母さまが不在だったっていうことだわ。
私は「母とは、もっと・・・ 」と思っていたけれど、じつは本当にじゅうぶんな時間をいただいていたんだな〜と改めて感じたのです。
それでも、その Yさんの生い立ちをうかがうと、「ああ〜、お母さま、ちゃんと見てて、いろいろな場面で手伝ってくださっていたのね〜」という数々のエピソード。母の愛は、こちらがわにいるときも、そしてあちらがわでもなお力強いのだと感じます。
ちょっと視点が変わると、また感じ方も変わってきます。あらためて、母とのじゅ〜ぶんすぎる時間をいただいたことに感謝するとともに、身軽に動きまわれるようになった母は愛とともに、さらに私のまわりをあれやこれやと飛び回っていてくれそうです。毎日、母に向かって(写真ではなく空中に向かって)、手をふって挨拶しています(かなりあぶない人にみえます・笑)。
さてさて、ランチ会は井の頭公園のすぐ隣にある大きなガラス窓から竹林と公園の緑が楽しめる雰囲気のあるお店「金の猿」さんです。新緑の頃、さらにサクラの頃もよさそうです。
菜の花など春を感じさせる食材をつかった美しい会席をいただきました。
食後は陽射したっぷりの井の頭公園へ。
長いおつきあいのこのお友だちは、なにかあるときも、なにもないときも、いつもさりげなく手をさしのべてくださいます。こころ和むランチ会をありがとうございました♡
このお花たち、どれも花びらの真ん中がみどり色なのです。はじめて見ました。
お花全体がみどりの子もいます。
不思議だ〜・・・。
よく、花びらかと思っていると、それは葉っぱですというパターンがあるので ・・・ まさか、まんなかが葉っぱだったりして。
えなちゃん、可愛いお花をありがとう♡
以心伝心、言わなくてもビビッと伝わる ・・・ あるいは、相手のこころや今の状態が自分のことのように感じられる。
そんな経験は、誰にでもあると思うのです。パートナーや親しい友人、あるいは親子のあいだで。私は、母とつながっている体験をよくしていました。
20代で、ひとり暮らしをはじめてすぐの頃。それは四月の冷たい雨が降る昼下がりで、私はあることでひどく落ちこんで、寒い部屋のなかでちぢこまるようにじっと考えこんでいました。寒いし、慣れないひとりぼっちで寂しくて、涙がぼろぼろ・・・ そのとき電話がなりました。
受話器をとるやいなや「どうしたの? 」という母の声。ほとんど私からしか電話をかけなかったし、かかってくるときは夜ばかりだったので、昼間の母からの突然の電話、それも開口いちばん「どうしたの?」と言われ、「これは、今の状態をお見通しだわ!」とびっくりしました。母は「あら、何でもわかるわよ。ちゃんと見えてるから」と笑っていましたが。
あるいは、セミナーでよく訪れていたアメリカでこっそりスカイダイビングをしたときのことも。
もちろん心配するから母には何も言っていなかったのですが、次に出かけるときに「お願いだから、危ないことはやめてね」と念をおされ、おもわず話してなかったスカイダイビングのことをカミングアウトしそうになりました(笑)。もちろん母は、ただ何かを感じてそう言っただけだったのですが・・・。
ああ、母というものは、やっぱりこどものことについてはツーカーなのだなぁと実感しました。ちゃんと話そうが、話すまいが・・・。
母とのあいだには、こんな「なんでわかるの?」エピソードが山のようにあるのです。笑ってしまうぐらい。
そんな母が、先月末、天国へと旅立ってしまいました。
ただ次元を移動するだけで、いなくなってなどいない・・・とわかっていながらも、母の姿が見えなくなることは私にとってある意味、キョーフだったのです。やってくるであろう空虚感が怖かったのです。
けれど、いざ体験してみると、まったく思っていたのとは違う体験でした。
以前は遠いところに住んでいて距離感があったのに、今はとっても近い。母を思うとすぐ隣りに寄りそっていてくれます。
そして、なにか、今までに感じたことのない深い安らぎとか、ゆるぎない安心感、平安というような感覚が日々強くなっていくのです。
これは、今までの人生で感じていたつかのまの安心感やら幸せ感とはまったく違うものです。もっとゆるぎのない、もっと深い、もっと大きなもの。大きな光にすっぽりと包まれて、守れているような感覚で、それがどんどん大きくなっていく感じ。
なぜなのだろう? 大切な大好きだった母がいなくなったのに・・・ 世の人々がさめざめと喪に服するその様子を頭に描きながら、まえよりも幸せである自分に戸惑いというか、罪悪感のようなものを感じてもいました。「母が亡くなったのに、なに? この気持ちは?」と。
でも、ふと・・・気がつきました。「ああ、いつも母は私の気持ちを手にとるように感じくれていたっけ。こんどは、天国で自由になって癒されている母の解放感と安らぎが、私に伝わってきているんだ。私も母と一緒に感じさせてもらっているのかもしれない」と。そう、いままでの完全逆パターン。
量子物理学の本で、こんなことを言っていたのを思い出しました。「ひとたび接触のあったものは、その後いくら引き離しても、つながりが切れることはない。片方に刺激を加えると、即座にもう片方も反応する」と。つまり、まったくひとつだということ。
でも、そもそも私の存在そのものが母からきているので、その一心同体感は時空を越えているは納得できることです。
そして、それは親しい間柄や特別な関係に限られたものではないのです。なぜなら、もともと私たちの「こころ」はたったひとつだから。こんなに人口がたくさんいて、別々のこころをもった人たちがあふれかえっているように見えても。そもそもその起源は、「たったひとつのこころ」なのです。
だから、相手のことがわかるとか、つながれることは、驚いたり、特別視することなどではなく、そもそもとても自然なこと。できて、あたりまえなこと。
「自分以外のこころがわからない」ということのほうが、ずっと不自然なことなのでしょう。
私たちのこころはひとつだから、いつでも、どこでも、誰とでもつながれるし、わかりあえるし、それが当たりまえのこと。ほんとうは、すべてわかってる。だれとでも。
でも、いつのまにか私たちはコワガリさんになってしまったのでしょうね。だから感じないフリをしてる。
自分が怖れでいっぱいになっているときに、相手を感じようとすると、じつは自分のなかにある怖れのこころが相手のなかに見えるから。それを相手の本当の姿だと思って、「こわい!こわい!だったら、もう相手を感じたり、わかろうとすることはやめよう」と決めてしまったよう。
そう、私たちは自分が見ようとしているものしか見えないし、感じようとしているものしか感じることができません。それこそが自分の世界。でも、心が怖れに満ちたままだと、怖れているのは自分なのに外の世界がコワイのだと勘違いしてしまいます。
でも、おもしろいもので、相手のなかの真実(愛)、真の姿を見ようとすると、自分も自分の怖れを手放して真実(愛)、本当の姿に戻ることができます。正しい見方をしようとすると、相手も自分も、ともに癒されるということ。
そんなふうに自分のこころの怖れを手放して愛にシフトしようとすると、もっともっとこころが広がって、たったひとつのこころであるすべてのこころにつながれるようになるのです。
それはいろいろな人の気持ちや状態だけでなく、すべての創造性やインスピレーションや叡智やら真理やら、すべてのすべてが含まれているのです。
なんか、向こうにいる母のおかげで「そうか!」という気づきをいろいろといただいているこの頃です。
「ツーカーだから、心配させないようにちゃんとしなくちゃね!」と、このごろはせっせと掃除をしたり、花を飾ったり、若干働き者になりました(ははは・・・至近距離で見られてるからね、頑張ります! 笑)。
PS 今、聞いているFMで、「クリスマスにこの世を去ったジョージ・マイケルの曲を・・・」と言っています。母もクリスマス旅立ち組。もしや、ジョージ・マイケルと一緒だった? エスコートしてもらっちゃった? あの美声でヒット曲「ラスト クリスマス」 も歌ってもらっちゃった?
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
お花の香りが部屋いっぱい♡
元日に Lちゃんにいただいたアレンジメントは、10日めぐらいから百合がどんどん開きはじめ、じつは二週間たったきょうもまだ十分にきれいなのです。すごいな〜。
このお花は天国にいる母のためにいただいたのですが、あまりに花もちがいいので Lちゃんにそのことをつげると「きっとお母様が夜な夜な”小人さん”を連れて、お花のケアに来てくださってるんじゃない!? 存在としてpureなお花達は、あちらとこちらを繋いでくれる存在なのかもね…」と。
なるほど〜、時空を超越して咲き続けてくれているのでしょうか?
すると、昨日、K子ちゃんから、またきれいなアレンジメントをいただきました。ありがとうございます♡ 胡蝶蘭に百合、デイジーにカーネーション ・・・ とってもきれいです。
二週間頑張ってくれたアレンジメントさんに「お疲れさま! あとはまかせてね」といわんばかりに、部屋いっぱいにやさしい香りが広がります。
お花の香りが満ちているいる空間って、やっぱりどこか違う次元につながっているような気がします。そこだけふんわりしていて、時間がなくなったような空間・・・。
母にも見せたいし、私も楽しみたいし・・・なので、お料理するときも、リラックスするときも ・・・ 母の写真とこのお花アレンジメントをかかえて家のなかをせっせと移動しています(笑)。
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