幼い頃、注射されるとき、その痛みをごまかすためにほかの場所をつねったりしたものです。
でも、ホントのところ、これは解決策ではなく、たんにごまかしているだけ。じつは、痛いところはふえています。本当の問題(痛み)から、気をそらせただけでした。
いちばん怖いことが避けられれば、ちょっとぐらいつらくても我慢する ・・・ という、なにやら代替案というか、取引っぽい感じです。でも、結局は自分をもっと痛くしてるという。
これとまったく同じことを、わたしたちは日々の生活のなかで試みています。無意識的に・・・。
日々の生活のなかの悩み、問題は、ひとつ片づけば、また他の問題がたち起こり・・・ 尽きることがありません。
わたしたちは、これが「人生」とあきらめています。人生とは、次から次へとやってくる問題を対処しながら生きぬくものであると・・・。
それって、ホント?!
それでいいの?!
もしも、もしも、小さいころにやっていたように、本当に痛いところから気をそらせるために小さな痛みという問題(小さいとは見えないものもあるでしょう)をせっせとこしらえて、そして自分のこころをごまかしているとしたら?
そう・・・ どうやら、わたしたちのこころのなかには、ほんとうに直面したくない相当恐ろしい何かがあるようなのです。ある!と信じてる。
そんなキョーフに直面するぐらいだったら、ダミーの怖れで自分をごまかし続ける方がよっぽどよい ・・・というのが、わたしたちの無意識のおもい。
でも、さらに考えなくちゃいけないのは、そのこころの深いところにうめこまれていると思っている堪えがたいキョーフって、ホントにあり? 真に存在しているのか?
もし、そのような怖れるものがないとしたら?!
わたしたちは、ホントは何も困ったことなどないのに、まるでカーテンや壁にうつる影を怖がるこどものように、勝手にでっちあげた恐ろしいものを信じつづけて、怖がり続けているのかもしれません。(それって、すごい労力の消費だし、それをしている限りほんとうにするべきところに手がまわらないこと必至です。)
わたしはよくクライエントさんに、何度もくりかえすネガティブな考えに対して「うるさい!だまりなさい!」と一喝することをすすめています。
「ああなったらどうしよう!」「きっと、失敗するに違いない」「こんな恐ろしいことがやってくるのでは」・・・・と頭のおしゃべりがはじまったら、「うるさい! 」「黙ってもらってもいい? 聞いてないんですけど・・・」と。
勝手に出てくる考えは、自分のものではありません。(そういうと、「え〜!?自分の考えが自分のものではないのですか?!」とびっくりされちゃうのですが・・・。)
だって、自分でコントロールできないものが自分のものであるはずがないのです。
よく、考えとはお湯をわかしているときに生まれる気泡のようなもの、と言われています。勝手にわきあがってきては、そのまま消えていくのです。
なので、そんなひとつひとつの考えに真剣にかかわっていると、混乱します。わいてくる考えは一貫性がないので、自分が分裂したように感じます。自分が信じられなくなります。
だからこそ、ネガティブな考えには気をつけて、「うるさい!」と言い放つこと。耳をかさないこと。すると、ちゃんと静かになってくれます。(おそらくは、何度もこれをくりかえすことになりますが・・・ でも役にたちます。)
それを同じように、つぎつぎにあらわれる問題に対しても、「こんなものはないんだ!」と認識することが大切なのです。
「問題はある」と思っているうちは、親切にもどんどん現れてくれます。だって、自分がそう信じてつくっているから。
でも、「ない」と決めること。それこそが、わたしたちのこころがもっているパワーなのです。わたしたちは、まさにこころにあるものしか見ることができないのです。
自分の間違った考えに騙されない、自分の間違った見方に騙されない ・・・。
どんな考えが浮かんでこようとも、どんなものが目のまえにあらわれようとも、そんなダミーにはごまかされないんだ、そしてほんとうのところ、怖れるものなど何も存在していないのだ、ということをしっかりとこころに刻みつけること。それが、自分の考えや見えるものを変えることなのだと思います。
こころの力は、ほっておくとコワイものをつくり続けることもできるし、あるいは自分の幸せのために役立てることできる、つまり自由自在な力なのです。
だからこそ、わたしたちの選択がものをいいます。その選択とは、「わたしとはどんな存在なのか」という、自分を信ることにかかっているのだと感じます。
わたしは宇宙(源・神)に守られ、慈しまれ、愛され、導かれている存在であり、いつだって自分が決めればその恩恵のすべてを見ることができる、ということをしっかりとこころに言いきかせたいものです♡