furukawaさんのブログ

気づきの日記「じつは、誰もがキケンな山登り人生が好き」

今開催中のブータン展を紹介する番組のなかで、ブータンの寺院に立ちならぶ大きな柱がうつしだされ、それを一生懸命ぐるぐるまわすたくさんの人たちが。

この柱、マニ車というものらしく、一回まわすとお経を一巻となえたご利益があるとか。だから、グルングルンすればするほど極楽浄土は近い! ということに。でも、そうかんたんに極楽ご到着の様子はうかがえません。

マニ車をまわすスピードにもまして、エゴが問題をつくりだすスピードもアップしているようです。

マニ車を一回まわせば 、エゴは負けじとばかりにさらなる問題を繰りだすわけです(倍返し?もっとか! 笑)。マニ車がなくっても同じこと。私たちのエゴはいつも、こっそりとバレないように狡猾に、でも決してとぎれることなく問題をつくりつづけます。

なぜ?!  幸せになりたいんじゃ?

わたしたちは幸せになりたいけど、エゴは違うのです。

エゴはヒマになったら困っちゃう。エゴはヒマが大嫌い。そして、安らかさがさらに嫌いです。だから、エゴにとって幸せは NG。

実際わたしたちは「働くのがいやだ〜!会社なんて行きたくない」といいつつも、「もう来なくていいですよ」といわれようものならとたんにブルーになります。「ヒマな人生はいやだ!」「することがないのは地獄だ」とうろたえます。

なんたって、ヒマであることがいちばんコワイ。ヒマになったらエゴは生きていられないから!・・・ そう、安らぎとエゴは、ともに生きられないのです。安らいだらエゴは消えちゃう。苦しみのなかでしか、いきいきと自己主張できないのです。だから、苦しみは大好物、攻撃やめらんない、戦い血が騒ぐ! いつだって戦々恐々としてる必要があるのです。

「いかに苦しみをつくりだすか!それも途切れることなく」、それがエゴの死活問題であり、存在の目的でもあるのです。

だから、お花畑で昼寝をするような人生はもってのほか。

わたしたちは、エゴの生存を保証するために、無意識のうちに苦しみと戦いを求めて生きています。

エゴは、滑落するか遭難するかのような険しい山を征服する人生がお好みです。だから、わざわざ困難をこしらえておいて、危険でドキドキする感じや、征服したときの達成感を感じて、これぞ「生きている」という証なんだぞ〜といい聞かせます。「野原でまどろんでいるなんて、屍同然!イキイキするためには、もっと苦しめ、危険を冒せ。それが人生だ」と。

攻略できないかと思うほど険しい山をわざとつくりだしては、ほとんど死にそうになりながらも征服しようとして、「ああ、でも生きてる。これが生きてるってことだ」といいきかせます。

これじゃあ問題がなくなることはありません。エゴの価値観に耳を傾けtいる限り、日々エヴェレスト登山です。そのうちに、あっというまに人生 The End になっちゃいます。

ほんとうに何度も命を落としそうなほどボロボロになって、「こんなのイヤだ! これはなんか違うぞ」って思うまで、危険な山登りはやめられないのかもしれません。

ほんとうの幸せってどうやら、刺激でも興奮でも、バクバクしたり、ドキドキしたりすることではないような。

たとえば、広々とした大自然のなかで、その景色をながめているうちに景色と自分が一体化しちゃったときのような。まさに自分がすべてに溶けこんでなくなってしまったようなとき、言葉にできない解放感、自由さ、安らかさ、幸福感を感じたことがありました。「自分」はもうそこにはいないのです。・・・じつは、これこそがエゴはゆるせない状況。エゴが抹殺されているのです。

エゴがいなくなったときのこの解放感は、苦しい山登りの達成感とはまったく別もの。それは、自分のワクがなくなる快感と安心感、全部である感覚。

この解放感は、じつは自分の内側にもちゃんとあります。わざわざ自然のなかにお出かけしなくても。

それは、止まって、静かにして、内側に向かうこと。野原でくつろいでいるようなときにこそ、やってくるもの。エゴが生きている証だといいはる、刺激や興奮、攻撃性がおさまったところにしかやってこないもの。

止まって、静かに自分の内側に意識を向けると、じつは広大な自然よりももっと大きく解放された無限の空間があります。そして、そこに静かに溶けこんで、ひとつになること、とどまることは、あの自然とひとつになる感じとまったく同じ。

そのむかしご多分にもれず、「ドキドキ、バクバクこそが生きてる証だ」と信じて疑わなかったわたしは、イキイキ人生を生きるためにありとあらゆるドキドキバクバクを世界中に求めて経験しようとしていました。やれどやれど ・・・「あれ? いつになっても自分が望んでいるような幸せ感はえられないなあ」と気づいたのは、ほとんどやり尽くしたようなとき。ある意味、「もう、飽きた」と感じたのです。

だからわたしの場合は、引き出しのすべてを片っぱしからすべてあけてみて、「ぜんぜんここじゃなかった!」とようやく気づいたしだいです(汗)。

きっとみんないつかは自分に戻ってくることになります。

それは世界の最高峰の危険な山々を登りつくしたあとかもしれないし、あるいはなんかの拍子にエゴの問題大量生産の策略に気づいてしまったのかもしれません。いずれにしても、危険な山登りにあきあきして、外にはなにもないのでは?と思ったときこそ、内側の大きな宇宙を探求するときです。

でもね、「そうだ方向転換だ!内側だ!」と思いついても、最初のうちは内側に向かおうとすると怖れに直面することになるかもしれません。それは、自分でためこんできたジャンク(ゴミの山)にまずは突きあたることになるからです。ジャンクとは、自分が「ないこと」にして感じずに抑圧してきた感情の山のこと。まずはこのお掃除が必要なのです。ほんとうの自分に到達しようとするときには(これがあるからこそ、ひとは内に向かうことをしたくなくなるのです。)

自分の内側に向かおうとするときに直面する空虚感、落ちつかない感じ、嫌悪、孤独、怖さ、とにかくイヤな感じ、を地道にとりのぞいていきます。それをただ「感じる」ことによって終わりにさせてあげること。

ゴミの山にひるむことなくちゃんと向きあうことで、じつはそこにずっとあった、隠されていた大切な宝ものにつながることができます。それは、ほんとうの自分の安らぎ。エゴがいちばん怖れていたものです。

それを見つけたら、もうエゴの陰謀である危険な冒険には興味がなくなっちゃいます。自分を満たすものが刺激や興奮ではなくなってしまい、ただゆるぎない安心感がいちがん大切なものとなるのです。

わたしはクライエントさんとの最初のセッションのときに、「すべては自分の内側にあって、その輝きとつながることこそが大切なこと。だからこころのコミ出しを頑張りましょう!」とお話しします。

エゴからの危険な冒険のお誘いよりも、自分のこころのなかにあるさまざまな落ち着かない感じにひとつひとつ地道に向きあって、ちゃんと感じて消し去ってあげることが、わたしたちにとってマニ車をまわすこと、幸せへの道なのです。

こころのなかのゴミがなくなると、エゴが脅威をおぼえていたヒマとかくつろぎ、静けさが、自分にとってのほんとうの幸せになるようです。

 

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お茶の間シネマトーク「泥まみれのレオさま-レヴェナント」

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自分じゃ観に行かないです。泥まみれっぽい映画は。(たとえば、「パイレーツ オブ カリビアン」もその部類。笑)

この「レヴェナント - 蘇りし者」はレオさま悲願のオスカー受賞作でもあり、レオさま好きのSちゃんと一緒に鑑賞しました。

前回Sちゃんと観たレオさまは、「華麗なるギャッツビー」でしたっけ。レオさま、超お金もちの色男でした。ところが今回は、最初から最後まで、ボロボロ、ドロドロ、ズタズタ。美しいシーンやロマンチックな場面は皆無です。

でもすごいなと思ったのは、そんな姿になりつつもレオさまは他のズタボロなおじさんたちにくらべて、どこか品があるのです。おもいっきり汚くって、悲惨になっても。

予告にあるようにグリズリーに襲われて、瀕死のまま生き埋めにされて ・・・ そこからの「蘇りし者」かと思ったら、完全に甘いでした・・・。2時間半、しじゅう「蘇りし者」です。詳細は書きませんが、ずっとです。(それにしても、グリズリーに馬のりになられて、顔のうえにヨダレをたらされたくはありません・・・汗。)

私は観ていてレオさまと一体化していたので、凍てつく荒野でサバイバルしながら、寒い、痛い、つらい  ・・・ああ、あったかいお風呂に入りたい、お布団で眠りたい ・・・とずっとそんな気持ちでしたが、一方せっちゃんはものの一時間程度で、あまりのことに笑いがこみあげてきていたとか。さすがハリウッド、悲惨さのなかにもしっかりと笑いをとっています。

なので、観終わったあとに重くなったり、考えさせられたり ・・・ という感じはまったくなく、誰かとしゃべりたくなります。私たちもエンドロールが終わって劇場が明るくなっても、しばしおしゃべりしていました。案の定、Sちゃん、お化粧室で知らないおばさまにおもいっきり感想をシェアされておりました。

こんなレオさまもめったに観られません。是非、ズタボロレオさま、ご賞味ください。

それにこのような究極なサバイバル体験もなかなかできません。レオさまと一緒だったらコワくない?! 劇場で擬似体験してみては?! かなりバラエティーに富んだサバイバルができますよ〜。 (ꐦ ´͈ ᗨ `͈ )

涙壷度:☆☆☆☆☆(ゼロ)けれど、2時間半、退屈しません!

ぶくぶく・・泡みたいなパール

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たいへ〜ん! パールのつぶをテーブルにばらまいちゃた ・・・ わけではなく、

これはチョーカーなのです。

つけるとこんな感じ。

白シャツにジーンズとかで、襟元にちら見せでつけるとお洒落かも ・・・とくださったKちゃんのアドバイス。

そうそう! シンプルな装いほど似合いそう。

いつもありがと〜♡♡

 

 

バナナ姉妹とランチ♪

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お友だちのドールとチキータ(バナナ姉妹?! 笑)とランチ♪ 

ホメオパスで食育のプロでもあるチキータと、西洋医学なしであらゆる病気を癒す自然療法を探求しているドール、そして日々ココロをいじくりまわす私という三人が集まると、ちょっぴりあやしい魔女会議風。(´▽`)

「素敵なお店があるの」・・・と連れて行っていただいたのはドールおすすめ、品川駅からほど近い自然食レストラン。フレンチのお店かと思うようなオシャレな雰囲気とゆったりとした静かさが魅力。

広々してて、窓の外には高輪の緑が広がります。

有機野菜たっぷりの前菜、ソースのおいしいお魚料理、はちみつの甘さが優しいデザート、バイオ珈琲。どれもおいしい!

身体によいものをいただいて、ゆったりとした時間を過ごしたいときにオススメです。

ナチュラルレストラン 﨓の木(たぶのき)さんでした。

 

 

気づきの日記「すべてをすぐに解決する方法」

「これから、すぐにすべての問題を解決する方法をお教えします」

と、セラピーにいらしたクライエントさんに言ったとしたら、きっとみなさん真剣に聞いてくださると思います。

「それはですね ・・・ そのことについていっさい“ 考えないこと ”です」・・・ 「考えないでください。 ・・・ 以上! これでセラピーを終わります」

なんて言ったら、「はあ?!  ・・・」って呆れられそうですが(笑)。

でも、冗談でもなんでもなく、シンプルに言うならそういうこと。このひとことに尽きます。

「問題について考えない」「問題を価値判断してセリフをならべたてない」。ひどいとか、大変だ、どうしよう、なんで?、これからどうなるの?、もうダメダ 、あの人っていったい!? ・・・などの解釈をいっさいしない。

それについてまったくコメントしなければ、それには意味などなく、じつは問題にはなりえないのですよね。

「あれ」がないと、「それ」も「これ」も存在しないのと同じで、「わたし」がいなければ「あなた」も「その他おおぜい」もいないことになるし、すべてに名前をつけなければ、すべては静かにひとつになってしまいます。

たとえば、こうしてパソコンに向かって文章を書いているとき、私には「私」の自覚がなくなっていて、そんなときってじつは「私」個人はいないのです。かといって気絶しているわけでもなんでもなく、誰のでもない「意識(気づき)」がそこにいるて作業してる感じ。

でもね、わたしたちは学校で「頭をつかう」ことをたたきこまれてきています。

「ほらっ、きみはまったく何も考えていないんだから!」「もっとちゃんとよく考えてからやりなさい」「頭は使うためにあるんだから、ちゃんと考えて!」などなど、つねに考えが足りない、足りないと言われ続けてきたのです。だから、分析、解釈、判断、思考いのちなのです。考えていないことは「おバカ」そのものであって、もっとも避けたいこと。

だから、朝テレビをつけると、いならぶコメンテーターが日々の出来事に関して、「あ〜だ、こ〜だ!」、あらゆる解釈をしてくれます。そして、そのコメントに対しても、またコメントがのべられて、朝のテレビはまさにコメント、解釈、価値判断合戦。

食レポのタレントさんだって、食べたものを解釈できなかったら「使えないひと」といわれ、こと細かに分析し、判断し、解釈できると、感性が豊かだと言われるし。(ほんとは、言葉をさがしているじてんで、味なんてわからなくなっています。)

だから、私たちは賢くいるためには、いつもグルグル考える。なにかが目のまえに現れるやいなや、「これはどうだ、こうだ」、何か言わなくちゃいけない。考えている人はどこか賢そうに見える。

でも、アタマで解釈するほど、じつは問題をつくっているようなもの。なんの意味もなかったものがどんどんこんがらがります。

つまり、私たちが生育過程のなかで習ってきたことは、ほとんど自分のクビをしめて、自分を制限することだったのですよね。

「思考(あ〜だこ〜だ)」は電気反応のように、自分という意識の空間のなかに放電されているようなもの。これを自分だと思ってしまうと、頭が混乱してきます。だって、とにかく一貫性に欠けているから。

大好き、愛してると言っていたかと思えば、何かの拍子に嫌いと言いはじめ、文句を言っているうちに怒りや憎しみまで出てきたり。

あるいは、気分がいいと言っているかと思えば、次の瞬間には死ぬほど最悪な気分に陥ったり、まずまずイケてると思ってた次の日には、世界でいちばんダサいと感じはじめ・・・わあ〜、つきあいきれない。

それらは、何かが実際に起きているというよりも、ほとんど「アタマ」のなかだけで行われていること。すごいバーチャルな世界です。

だから、「思考」には勝手にしててもらいしょ!

「思考」が何かわけのわからないことを言いだしてもまにうけず、てきと〜に流す。「あ、なにか言ってるな」ぐらいに。

あまりにうるさいときには、ひとこと「うるさい!だまりなさい!」と一喝。

こうして相手にしないと、ほんとに静かになってきます。・・・ ということは、相手にするからどんどんうるさくなるのですよね。

思考によって価値判断しないことで、すいぶんとコワいことも減るだろうし(そうです、思考が、思考そこがコワイのです)、いやだ!と思っていたことも、思考がなければふつうのことになったりします。

じつは、わたしもこれから「もういいかげんにしてよ!」と思っていることに取り組もうと思っているのですが(だから、きょうはこのトピックになりました・笑)。頭のおしゃべりをさせないと(解釈をしないと)、それじたい別にいいことでも、悪いことでもなくなります。「ただやらなくちゃいけないこと」って感じになりました。

思考によって価値判断してしまうと、自分が「受けとる」結果を決めたことになります。でも、ただ放っておくと、ものごとのなかにある完璧さをみせてもらことができるようになります。

それはそれで完璧なのです。そのままにしておけば。

そう、すべてのことはほっておけば完璧になる。けど、私たちは全部をコントロールしたがるので、完璧さが見えなくなって、自分の怖れの世界のストーリに姿を変えてしまうのですよね。

今は完璧さがわからなくっても、それを信じること。だから、目先のことばかりにあれこれ言う思考には黙っててもらって、ただしゅくしゅくと取り組みましょう。

すべての完璧さが見えるようにお願いしつつ・・・。

 

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一日だけ、気ままな休日

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そろそろ GW も終わりますね。いかがお過ごしでしょうか?

世がお休みのときは仕事をしている私は日常となんら変わりがありませんが、一日だけお友だちからのお誘いでちょこっと遊んできました。

朝八時すぎの表参道。緑も空気もすがすがしいっ! 平日の静けさに慣れているので、このぐらい人がいないのがいいのです。さて、朝ゴハンでもしましょ!

すでにこの界隈のパンケーキのお店は行列。「バーンサイド ストリート カフェ」。ここは穴場でいちばんのり〜。

スコーンが土台のエッグベネディクトは、ソースがおいしいのです。そして、ゆっくりゆっくり焼き上げる三段重ねのふわふわスフレのパンケーキ。

食後も広々としたカフェで新緑をながめながらまったりおしゃべりに興じ ・・・ 気がついたらとっくに午後をまわっています。

シメに軽くお昼をして帰ろうか〜・・・と行きついたのは牛カツのお店。(どこが軽いのか?!)牛カツ初体験。鰹節型のゴロンとしたカツで、わさびとお醤油がさっぱりしてていちばん美味でした。豚カツより好きかも〜♡

お天気も上々で、気ままにおしゃべりして、お散歩して、食べてすごした一日。人のいないところばかりに移動したせいか、リラックスできました♡ 行きたいところはまた後日。平日までおあずけです。

 

 

気づきの日記「誰かが私を救ってくれる!」

自分に本当に正直になったとき、これは誰もが必ずもっている信念です。「きっと、誰かが私を救ってくれる!」って。

そして、ある日、ステキなことが起って自分の人生がバラ色になるにちがいない・・・と。

だから、みんな自分の救世主を待ちわびているのです。

たとえば・・・

イケメンでお金持ちの理想のパートナーが、

自分を理解していたわってくれる優しい彼女が、

こどもが大きくなって手を離れたときこそ、

景気こそが回復すれば、

こんどこその転職が、

きっとやってくる昇進が、

このダイエット食品が、

この新しく発売された化粧品シリーズが、

これらのパワーストーンや風水の開運グッズが、

この治療法が、

この占いが、・・・・

それらによって、ようやく問題から解放されて幸せな日々がやってくる ・・・って。

それを手にできたそのときにはワクワクするかもしれないけれど、ワクワクとほんとうの幸せである安らかさは別のもの。ワクワクはたんに刺激に対する反応なので、一瞬強く感じるもののすぐにおさまります。

手にしたもので問題が解決されたように感じるけれど、じつはその問題はちょっとかくれんぼをしただけ。背後にまわったかもしれないし、あるいはどこかに身をかくしただけで、じつはまだそこにいてなおも歩調をあわせてヒタヒタとついてきています。だから、視界に入るのは時間の問題。

外に問題があると思っているあいだは、その問題とイリュージョンごっこを続けることになります。消えた!と思ったら、またこっちに現れて・・・ 。

そしてまた思いつくのです、「別のあれを手にすれば、こんどこそ問題は解決される!」と。別の彼女、別のダイエット食品、別の宝くじ、別の会社、別の顔(整形)・・・と、救い主探しの旅はなおも続きます。

でも足にマメができて、靴がやぶれて、膝がどうにも立たなくなって、身もこころもボロボロになって・・・ はじめて人は救い主探しの旅をもう続けられなくなって、あきらめて「もう、帰ろう・・・」と家路をたどります。とぼとぼ自分に戻ってくるのです。

そのあきらめたときこそが ・・・じつは「オメデトウゴザイマ〜ス!!」とファンファーレがなり響くところ。探していた救い主が待っているところなのです。

外には何もなく、誰にも何にも自分を救うことができない、と思い知った人にこそ、救い主が待ちかまえているのです。

自分を救える唯一の存在とは、じつは自分の「こころ」だけ。答えとは、自分だったのです。

この「こころ」に戻ってきて、大切に向きあうことなく、じつはいっさいの問題の解決はないのです。何かを探して足を棒にするよりも、それはもうここにちゃんとあるってこと。

なぜなら、自分が見ていると思っている世界とは自分のこころのなかの出来事であり、外にあるのではなくって、じつは内側に存在しています。外を探しに出かけると、自分のこころのなかのイメージへと入っていき、まるで袋小路のようになっちゃう。これこそ、イリュージョン!

自分の見ている世界に向かうということは、自分のこころのなかに入っていくことなのです。そして、自分のこころにたくさん溜めてしまったゴミに気づいて、ゴミを出して、ちゃんとこころにむきあってみること ・・・。それはいらない信念をお掃除することであり、お掃除したら深く自分とつながることであり、そしてその輝きを確かめてあげること。

問題も答えも、そこにこそあるのです。

でも ・・・足が棒になってボロボロになるぐらい歩きまわらない限り、わたしたちはなかなか正しい方向へ方向転換することができないようでもあります。

だから、疲れはてているのだったら、もううんざりあきあきしているのだったら、何をやってもダメでほとほと嫌気がさしているのだったら、外を歩きまわるのをやめるとき。おうち(自分)に戻ってくるときです。じつは、それこそが大きなターニングポイント、転換点、気づきになりえるのです。

ほんとうに疲れはてたら、正しい方向に歩きはじめるチャンスだ! 向きをかえてみましょう。

 

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その袋、かぶっていたい♡

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以前、ふと買ってみたトリュフぽてちがおいしくて、それ以来探しているのですがお目にかかれません。

が、昨日・・・ 黒トリュフのポップコーンがあったのでソク買い!

ディスニーランドや映画館でポップコーンが流行りだした頃、「お金を払って買うなんて・・・」って思いましたよ。だってこどものころ、おやつには中華鍋にあふれるほどをあっというまに作れたから。でも、最近のは進化してて「あなどるなかれ!」のおいしさです。

これも封を切るなり、うっとりするようなトリュフの香り。クセになるっ!    (‥ºั⌔ºั‥ )

形も、最近のはまんまるくって可愛いのですね。昔のポップコーンは爆発したお星さまみたいでしたっけ。

そうだ! 以前、トリュフ同好会のSちゃんにもらったトリュフオイルがあったっけ。あれでポップコーンを作ればいいんだ!

あのオイルは使い方を間違えてて、フライパンいっぱいにオイルをひいてオムレツを作ったらすごいことになってしまいました!(汗)。あとで、「あれはちょっとかけるもの」といわれ苦笑。ポップコーンもあのオイルをまぶすやいなや、ソク高級になりそうです♬

さて、ポップコーンは食べ終わったけど、この空袋、すご〜くトリュフのいい匂いで捨てるのがもったいない。こんな姿になりそうだわ(笑)。→

最後のサクラ、また来年!

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観光地化していた目黒川ぞいもすっかり新緑にかわり、ようやく日常を取りもどしました。

少しだけある八重桜が最後のお楽しみ♪ これが終わったら、また来年ね!

きょうはお世話になった暖房器具を掃除しながら、ずいぶん薄着になっている自分に気がつきましたよ。すぐに初夏ですね。

 

 

気づきの日記「イカるたびに自分を痛めつけてる?!」

「こどもにすぐに声を荒げて怒っちゃうんですよ」という若いおとうさん。聞けば、彼の父親もすぐ怒る人だったそうな。

怒鳴る父、イライラをぶつける母、不満をぶちまける大人たち (テレビを観てても、不満オンパレード!)・・・ わたしたちはものごころつく頃から、さまざまな怒りと不満にさらされています。その結果、気に食わないことがあれば「怒り」をあらわにするのは当然で、それが「自分は満足していない」「改めて下さい」という意思表示なのだと学習してしまいます。また怒ることは、必要なものを手に入れる手っとり早い方法だとも信じます。怒れば確実に手に入るさ!と。

でも、だれも怒られて楽しい人はいないので、怒られると引きます。距離をおきます。離れていきます。結果、欲しいものを手にするための策略は、まんまと孤立を招き、手にしたかったものは遠ざかっていくことになります。

相談にいらしたこの若いおとうさんのように、怒った本人こそが罪悪感を感じて苦しくなります。

そして、何よりも困ったことには、自分を責めているひとは “ もれなく「自分を罰する」というワナにはまります ”。予期せぬアクシデントや病気というかたちで痛みを感じることで自分をいじめて、バランスを保とうとするのです。

私たちは「怒る」ことは、手に入れる方法であり、相手をコントロールできる方法であり、また自分のパワーを取り戻せると信じてしまっています。 ・・・ でも、怒ったあとはもれなくイヤな気分が襲ってきて、自己嫌悪。「こんな結果がほしいんじゃない。仲良くしたいのに。いい気分でいたいのに」と離れていった相手を見て苦々しく感じます。自分でもちゃんとわかっているのです。怒りは何の役にも立たないことを。

で、自責の念から無意識のうちに取り消しを行います。

それが、怒ってしまった自分を罰するということ。アクシデントや病気という大きな出来事の場合もあるし、あるいはテーブルの角におもいきり足をぶつけて痛い思いをしたりとか。人に怒ったり攻撃したあと、気をつけていると必ずそんなイタタな経験が起っているのに気がつきます。自分を痛めつけて「ホラ、わたしだってこんな痛い思いをしたんだから、これでおあいこだよね! だからもう忘れてよ!」と自分で勝手にチャラにしようと試みます。罰と思えることにタイムラグがあってつながりがわかりづらいときもありますが、自分の問題というのはたいていそんなところからきています。

いずれにしても、相手は知るよしもなく、自己満足の不毛な償いなのですが・・・。結局、怒ると自分こそがダメージを被っているというわけです。怒ることは、相手にも自分にも全然やさしくありません。

本当のところ、「怒り」はダミーの感情でその下にある本当の感情をカモフラージュするためのもの。ものごとが起ったときに、あまりにも素早く怒りにかわるのでなかなか気づけないのですが、その下に隠された感情があります。

たとえば、「こどもをすぐ怒っちゃうおとうさん」。こどもが手に負えなくなったとき、とっさに感じているのは「無力感」。それはこどもの頃よく感じていた感情で、こころの片隅に放置されていたものです。ものごとが外から襲いかかってくるようで手に負えず、コントロールしたいのに呑みこまれてしまいそうな怖れ。自分のこどもがわんわん泣けば泣くほど、自分のなかに隠していた「無力で小さな自分」が刺激されて小さな自分にもどっていきます。でも、そんなとき、「オット!自分の見たくないものが見えてしまいそうだ。そうだ怒りでごまかそう」と怒りで自分の狼狽した気持ちをごまかします。

ほんとうは、その隠されていた感情を素早く見抜いて、ちゃんと正面から向きあってあげることが大切なのです。「ああ、自分のなかには、まだこんなにおびえてる男の子がいたんだね。もう大丈夫だよ」って言ってあげられたら、その男の子は安心できるようになるし、大人として「今起きていること」を冷静にみることができるようになります。だから、積極的に自分のこころのひだに隠されている「弱さ」を知り、向きあうことは大切なのです。

怒ってしまえば、「あなたが悪い子だから」ですませることができちゃう。自分のなかにある「自己嫌悪」や「自信のなさ」という見たくない感情を向き合わなくてすみます。そうやって永遠に放置しておこうとします。でも、向きあわない限りは怒り続けることになり、愛を遠ざける結果になってしまうわけです。

すべては意識的に気がつかないと終わりにすることはできないのですね。目に見えて気づかないと、「片づけよう」とも思わないからです。でも、気がついたらおしまいにすることができるのです。

だから、怒っちゃったらチャンス! 長年のこころの重荷を降ろすビッグチャンス!

怒りの下でパニックになっている「小さな自分」をその小ささから解放してあげることができるのです(これをしてあげないと、いくつになっても自分の自己イメージはそのときのままにとどまってしまいます)。

自分のなかにあった怒りの原因がわかりはじめると、怒るよりも自分のなかの「弱いと勘違いしている部分」にやさしくできるようになります。「そんなふうに感じていたんだね」とやさしく認めてあげることで、癒しが起ります。そんな弱い自分は安心して消えていきます。もとからある自分の強さ、落ち着きが戻ってきます。

本当の自分を知るには、いらないお荷物を片づけるにつきます。

そして、きっと泣いている目のまえのこどもにも、やさしい共感のまなざしを向けてあげる余裕がでてくると思うのです。

 

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