完璧!

きょうのお茶は、「c'est parfait! (セ・パフェ)」。

ステキな名前でしょ。「完璧!」という意味だそうです。Rさんからのいただきもの。ハイビスカスやレモングラス、ローズヒップ、ベリーが入ったビタミンたっぷりのお茶。

じつは、もうひと缶あって、「Natukoi」といいます。こちらはみずみずしい柑橘系。袋を開くと、レモンを絞ったときのあのツンとするような香りがします。これも夏にぴったり、どちらも「LUPICIA」さんのもの。

紅茶、大好きですが・・・おいしくいれるのはコーヒーよりもむずかしい。

手抜きがソク、味に反映されちゃうのが紅茶。あわてていれると、あわてた味そのまま。ココロが入っていないとほんとおいしくないですよね。(日本茶もそうかな。)

これはちょっと手抜きをしてもおいしくいれられる葉っぱですが、こんな可愛い缶に入った紅茶はかわいがりながら丁寧にいれてあげたくなります。ほんのりとピンクでいい香りです。なごむ〜♪

PS そういえば、友人のYちゃん(男性)は遊びに行くと素早く紅茶をいれてくれるのですが、とってもおいしいのですよね〜。焼肉やお好み焼きやホットサンドの焼き方も上手(あらら、結構、世話やいてもらってますね〜)。おそらく、「間合い」がいいのかもしれません。見習わねば!

ふ〜、きょうもあつ〜い!

いぜん猛暑が続いていますが、「あれ?この時間でもう薄暗くなっちゃった?」と感じるように、日に日に陽が落ちるのが早くなってきています。季節がめぐるのが早いこと。

さてさて、きょうは出張。車中ゴハンです。

夏のあいだお気に入りだったのは、金沢の料亭、金茶寮さんが出しているお野菜ばかりのお弁当。色どりもきれいですが、薄味でおいしいのです。

最近は駅中でほんとうに色々なおいしいお弁当が手に入ります。東京駅には駅弁専門店もできましたね。今やお弁当はスーパーやコンビニ、デパートよりも、「駅中」最強ですね!

お昼はヘルシーでしたが、仕事のあとは地元のおいしいトンカツ屋さんに連れて行ってもらいました。大判ぶるまいのヒレカツに意識がモウロウ。帰りはあやうく電車を乗り越しそうになりましたよ〜。

12-08-23 「事実」にOKをだしましょう! その2

(その1より)

おそらく、じゅうぶん昔からパンダだった夫の真実を見ようとせずに、なぜに他の動物を期待してしまうのでしょう?

そもそも、わたしたちは予想外なことが大嫌い。人が自分の予想したような行動、言動をとってくれないと、怖れを感じる生き物なのです。予想外なことに対処できなければ、生存をおびやかされるかもしれません。その怖れのせいで、相手が好き勝手しないようにコントロールしておかなくちゃ!と感じ、それが人間関係の軋轢になります。

わたしたちは自分の安全確保のために、「わたしが心地よくなるように、あなたはわたしが思ったような生き方をすべきだ」と迫ります。決して、相手の「そのまま」の姿をよしとはしません。自分のモノサシをふりまわし、「ああなるべきだ!こうなるべきだ!」と迫ってきます。パンダがパンダでいることを許さないのです。

そしてもう一つの理由としては、「自分の人生」がつまらなく感じていると、他の人の人生にちょっかいを出すことに生きがいを見い出してしまいます。ほんとうは自分の人生をどうにかしなくちゃいけないのですが、自分の人生の違和感を他の人のせいにして、他人を正すことにやっきになってしまいます。ホントは他人の人生に頭をつっこめばつっこむほど、さらに自分がむなしくなるという悪循環にはまってしまっていることに気がつかないのです。

何よりも、他人を自分の思いどおりにコントロールしようとすることほどエネルギーを消費することはありません。戦いを挑めば挑むほど、相手は強者になってゆきます。相手を正すことにすべてのエネルギーを使い果たし、自分の未来を創り出すエネルギーはちょっとも残っていない状態となります。そして、相手の人生に干渉すればするほど、自分の人生はすっかりお留守となってさらに寂しくなるばかり。

結局、「何が苦しみを生み出すのか」というと、(決定的に)「そうであるもの」を「そうでない」と信じようとするときです。「事実」をそうと認めず、別のものに変えようとする努力だからです。パンダはパンダ以外のものにはなれないし、ごろごろしているだんなさまはごろごろしている以外の何かにはなりえないのです。本人が変わりたい!と思ったときは別ですが。(本当のところ、問題はだんなさんではなくって、「事実を許せない」おくさま自身がセラピーの焦点になってしまうのですね。汗)

「事実」を受け入れる潔さは苦しみから解放してくれます。

それに、人はそもそも「自分が生きたいように生きる権利」があるのです。

わたしも思いあたります。自分に対してもやってしまうのです。たとえば、何度こころを決めてもぜんぜん早起きできない自分。「一時間半早く起きて、あれしてこれして」と思いつつも、結局はいつもの時間。なんで早起きできないの〜?なんで決めたことが守れないの〜?と何度もヘコみましたが、堪忍して「いつもどおり に目覚める自分」をよしとして認めることにしました。「自分がいつも起きる時間が、まさにわたしが起きる時間なんだ」と。

で、ちょっとでも早起きできた日は賞賛してあげたり、ご褒美をあげることにしたのです。すると責めたり、自己嫌悪におちいっていたときよりも、だんだん早起きの回数が増えてきました。「〜できない」と思うよりも、できたときに褒めてあげるほうが、よっぽど目標達成が簡単になりましたよ。事実を心地よく認めると、その出発点から気持ちよくスタートをきれる感じです。

ロジャーズが言うように、肯定されてこそ人間は変わることができるのですね〜。

そして他人の人生に批判的になっているときには、じつは同じ分だけ自分に対しても批判的になっているものです。いつだって人にやっていることは、自分にやってしまっていることの「目くらまし」なのですね。だから、まずは自分に対して、現状を認めてやさしい目線をもつこと。自分にやさしく。そうすると、夫やまわりに対しても自然とやさしい目線を持てるようになることでしょう。。

ゲシュタルト心理学にこんな言葉があります。

「ゲシュタルトの祈り」

私は私のために生きる
あなたはあなたのために生きる
私はあなたの期待に応えるために、この世にいるのではない
あなたは私の期待に応えるために、この世にいるのではない
あなたはあなた、私は私
もし偶然に出会うことがあれば、それは素晴らしいことだ
たとえ出会うことがなくても、それはそれで素晴らしいこと

自分のココロを心地よく尊重できるとき、わたしたちはまわりにある事実も心地よくありのままに尊重できるようになるのですね。(^_-)v

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

気づきの日記「“事実” にOKを出しましょう」その2

(その1より)

おそらく、じゅうぶん昔からパンダだった夫の真実を見ようとせずに、なぜに他の動物を期待してしまうのでしょう?

そもそも、わたしたちは予想外なことが大嫌い。人が自分の予想したような行動、言動をとってくれないと、怖れを感じる生き物なのです。予想外なことに対処できなければ、生存をおびやかされるかもしれません。その怖れのせいで、相手が好き勝手しないようにコントロールしておかなくちゃ!と感じ、それが人間関係の軋轢になります。

わたしたちは自分の安全確保のために、「わたしが心地よくなるように、あなたはわたしが思ったような生き方をすべきだ」と迫ります。決して、相手の「そのまま」の姿をよしとはしません。自分のモノサシをふりまわし、「ああなるべきだ!こうなるべきだ!」と迫ってきます。パンダがパンダでいることを許さないのです。

そしてもう一つの理由としては、「自分の人生」がつまらなく感じていると、他の人の人生にちょっかいを出すことに生きがいを見い出してしまいます。ほんとうは自分の人生をどうにかしなくちゃいけないのですが、自分の人生の違和感を他の人のせいにして、他人を正すことにやっきになってしまいます。ホントは他人の人生に頭をつっこめばつっこむほど、さらに自分がむなしくなるという悪循環にはまってしまっていることに気がつかないのです。

何よりも、他人を自分の思いどおりにコントロールしようとすることほどエネルギーを消費することはありません。戦いを挑めば挑むほど、相手は強者になってゆきます。相手を正すことにすべてのエネルギーを使い果たし、自分の未来を創り出すエネルギーはちょっとも残っていない状態となります。そして、相手の人生に干渉すればするほど、自分の人生はすっかりお留守となってさらに寂しくなるばかり。

結局、「何が苦しみを生み出すのか」というと、(決定的に)「そうであるもの」を「そうでない」と信じようとするときです。「事実」をそうと認めず、別のものに変えようとする努力だからです。パンダはパンダ以外のものにはなれないし、ごろごろしているだんなさまはごろごろしている以外の何かにはなりえないのです。本人が変わりたい!と思ったときは別ですが。(本当のところ、問題はだんなさんではなくって、「事実を許せない」おくさま自身がセラピーの焦点になってしまうのですね。汗)

「事実」を受け入れる潔さは苦しみから解放してくれます。

それに、人はそもそも「自分が生きたいように生きる権利」があるのです。

わたしも思いあたります。自分に対してもやってしまうのです。たとえば、何度こころを決めてもぜんぜん早起きできない自分。「一時間半早く起きて、あれしてこれして」と思いつつも、結局はいつもの時間。なんで早起きできないの〜?なんで決めたことが守れないの〜?と何度もヘコみましたが、堪忍して「いつもどおり に目覚める自分」をよしとして認めることにしました。「自分がいつも起きる時間が、まさにわたしが起きる時間なんだ」と。

で、ちょっとでも早起きできた日は賞賛してあげたり、ご褒美をあげることにしたのです。すると責めたり、自己嫌悪におちいっていたときよりも、だんだん早起きの回数が増えてきました。「〜できない」と思うよりも、できたときに褒めてあげるほうが、よっぽど目標達成が簡単になりましたよ。事実を心地よく認めると、その出発点から気持ちよくスタートをきれる感じです。

ロジャーズが言うように、肯定されてこそ人間は変わることができるのですね〜。

そして他人の人生に批判的になっているときには、じつは同じ分だけ自分に対しても批判的になっているものです。いつだって人にやっていることは、自分にやってしまっていることの「目くらまし」なのですね。だから、まずは自分に対して、現状を認めてやさしい目線をもつこと。自分にやさしく。そうすると、夫やまわりに対しても自然とやさしい目線を持てるようになることでしょう。

ゲシュタルト心理学にこんな言葉があります。

「ゲシュタルトの祈り」

私は私のために生きる
あなたはあなたのために生きる
私はあなたの期待に応えるために、この世にいるのではない
あなたは私の期待に応えるために、この世にいるのではない
あなたはあなた、私は私
もし偶然に出会うことがあれば、それは素晴らしいことだ
たとえ出会うことがなくても、それはそれで素晴らしいこと

自分のココロを心地よく尊重できるとき、わたしたちはまわりにある事実も心地よくありのままに尊重できるようになるのですね。(^_-)v

 

 
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12-08-21 「事実」にOKをだしましょう! その1

「どうしようもない夫をどうにかしてください」という50代の女性からのご相談。

「どのように、どうしようもないのですか?」とお尋ねすると、「いっつもグ〜タラしている」「ぜんぜん成長しようとする気がない」と。

なるほど〜・・・奥さまから見ると、どうしようもなく感じるのかもしれませんが、おそらくご本人にインタビューしたら「いたって、わたしらしく生きています」と、生きたいように生きているとおっしゃるかもしれません。つまり、だんなさまが奥さまの理想に沿っていないだけであって、決して何かが間違っているわけではありません。

このようにご相談のうちの何割りかは、「こどもをどうにかしたい」「妻を変えたい」「恋人のここがいや」とご相談にいらした本人の問題ではないことがあります。

基本的に、セラピーはご本人のものです。なぜなら、「変わりたい」と思わない人をどうにかすることは地球を逆回転させるぐらい大変なことなのです。(一方、「本人が心から変わりたい」と思っているときには、鬼に金棒!心の底から望むことは、どこまでも可能性を切り開いていくことができます。)

そうなんですね。モノゴトにしろヒトにしろ、自分の意向に沿っていないとき、わたしたちは「これはおかしい!」とばかりに、それを自分の望みにあうように変えようと挑みかかります。

しかし、たいてい「事実」というものには抗えなくなります。「事実」とはつまり、年がら年じゅう笹を食べてごろごろしているパンダに、サルのような機敏さをもとめても所詮ムリなのです。パンダはパンダ、いくら教育しようとしても努力させようとも、身軽なサルにはなるはずもなく・・・。

つまり、だんなさんはもとからパンダだったわけです。それをどこで勘違いしたのか、理想をかかげてしまったのか、他の動物だと思いこんでしまった。でも、パンダはパンダにしかなれない。いくら口厳しく言われても、教育されても。だから「事実」は「事実」と認めて、あきらめてくださいな、ということになります。

もともとそうであるものにいくら文句を言っても、逆ギレされるか無視されるのがオチなのですね。エネルギーを使ったわりには思い通りになることはなく、「パンダじゃない、サルのはずだ!」と叫べば叫ぶほど自分が苦しくなります。

それよりも、「そうよね。あなたはパンダなのよね。そう、そう、それでいいのよ」と、現状をあっさりと受け入れてあげたほうが「自己変革」への近道となります。そうなんです。誰からも「変われ!」とプレッシャーをかけられず、完璧に存在を肯定されたとき、わたしたちは「もっとよくなっちゃおうかな!」と上を目指す勇気とココロの余裕が生まれます。

現代のカウンセリングの基礎を築いたC・ロジャースも言っているように、人にはもともと自己実現しようとする(もっとよくなろうとする)心の働きが備わっていて、全面的に現在の自分を受け入れられたときにこそ、その力がもっとも活性化すると説いています。それは、何ひとつジャッジ(価値判断)されることなく、そのままでぜんぜんオッケーだよ〜と言ってもらうこと。「あなたであることが最高!」と、全部の注意を向けて見守ってもらうこと。

「パンダ」状態を絶賛されることが、そのだんなさまを変えるカギなのです。

さて、なぜにわたしたちはこうも人に干渉して、変えたいと思ってしまうのでしょうか?

(その2に続く)


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気づきの日記「“事実” にOKを出しましょう!」その1

「どうしようもない夫をどうにかしてください」という50代の女性からのご相談。

「どのように、どうしようもないのですか?」とお尋ねすると、「いっつもグ〜タラしている」「ぜんぜん成長しようとする気がない」と。

なるほど〜・・・奥さまから見ると、どうしようもなく感じるのかもしれませんが、おそらくご本人にインタビューしたら「いたって、わたしらしく生きています」と、生きたいように生きているとおっしゃるかもしれません。つまり、だんなさまが奥さまの理想に沿っていないだけであって、決して何かが間違っているわけではありません。

このようにご相談のうちの何割りかは、「こどもをどうにかしたい」「妻を変えたい」「恋人のここがいや」とご相談にいらした本人の問題ではないことがあります。

基本的に、セラピーはご本人のものです。なぜなら、「変わりたい」と思わない人をどうにかすることは地球を逆回転させるぐらい大変なことなのです。(一方、「本人が心から変わりたい」と思っているときには、鬼に金棒!心の底から望むことは、どこまでも可能性を切り開いていくことができます。)

そうなんですね。モノゴトにしろヒトにしろ、自分の意向に沿っていないとき、わたしたちは「これはおかしい!」とばかりに、それを自分の望みにあうように変えようと挑みかかります。

しかし、たいてい「事実」というものには抗えなくなります。「事実」とはつまり、年がら年じゅう笹を食べてごろごろしているパンダに、サルのような機敏さをもとめても所詮ムリなのです。パンダはパンダ、いくら教育しようとしても努力させようとも、身軽なサルにはなるはずもなく・・・。

つまり、だんなさんはもとからパンダだったわけです。それをどこで勘違いしたのか、理想をかかげてしまったのか、他の動物だと思いこんでしまった。でも、パンダはパンダにしかなれない。いくら口厳しく言われても、教育されても。だから「事実」は「事実」と認めて、あきらめてくださいな、ということになります。

もともとそうであるものにいくら文句を言っても、逆ギレされるか無視されるのがオチなのですね。エネルギーを使ったわりには思い通りになることはなく、「パンダじゃない、サルのはずだ!」と叫べば叫ぶほど自分が苦しくなります。

それよりも、「そうよね。あなたはパンダなのよね。そう、そう、それでいいのよ」と、現状をあっさりと受け入れてあげたほうが「自己変革」への近道となります。そうなんです。誰からも「変われ!」とプレッシャーをかけられず、完璧に存在を肯定されたとき、わたしたちは「もっとよくなっちゃおうかな!」と上を目指す勇気とココロの余裕が生まれます。

現代のカウンセリングの基礎を築いたC・ロジャースも言っているように、人にはもともと自己実現しようとする(もっとよくなろうとする)心の働きが備わっていて、全面的に現在の自分を受け入れられたときにこそ、その力がもっとも活性化すると説いています。それは、何ひとつジャッジ(価値判断)されることなく、そのままでぜんぜんオッケーだよ〜と言ってもらうこと。「あなたであることが最高!」と、全部の注意を向けて見守ってもらうこと。

「パンダ」状態を絶賛されることが、そのだんなさまを変えるカギなのです。

さて、なぜにわたしたちはこうも人に干渉して、変えたいと思ってしまうのでしょうか?

(その2に続く)


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三月のリベンジ

年中行事というほど大げさではないけれど、やらないとどこか落ち着かない...そのひとつが、三月の「確定申告」のあとのご褒美。

いつからだろう・・・このブログでも何回も書いているのですが、同じく自営業の同士である友人(彼女は声楽家です)と、つらい領収証の整理と書類の作成・提出が終わったら、おいしモノを食べよう!というイベントです。

そのおいしいモノとは、築地にある美味なるお寿司屋さん、「すし大」さん。

ホントはちょくちょく行きたいお店ではあるのですが、このイベントをキワだたせるために他の機会にはこのお店に近寄らないという(・・・ハハハ)。

今年の三月は思わぬことで忙しくなり、足を運べず。でも不思議なものでその忙しさを予測していたように確定申告だけは二月にちゃんと終わらせていたのです。(二十年近くやってきて、そんなことは奇跡ですらあります。いつも締め切り日に提出ですから。ちゃんとすべてに意味があるのですね。)

そんなわけで、三月のリベンジ!にお出かけしてきました。

いつも「店長のおまかせ」をいただきます。

前回来たときはね、おいしくいただこうとお腹をすかせすぎて、まるで「欠食児童」のようなすさまじい食べっぷりであっという間に終了(ちょっと恥ずかしいね)。あまりに大人げなかったので、今回の二人は笑っちゃうぐらい不自然でぎこちない食べ方をしていましたよ〜。でも、ゆ〜っくりいただいたので、お腹ぱんぱん!

今回のハンサムさん

これ十貫でもOKと思えたのは・・・炙りトロさん

むむむ!やるな!と唸らせられたのは・・・ふわっふわのアナゴさん

PS あとまた半年余で行けるわ♪

逢いたかった!作品

会期終了間近となり、あわてて「バーン=ジョーンズ展」に行ってきました。

バーン=ジョーンズの作品は他のビクトリア朝の画家たちと日本にくることはあっても、彼自身の個展ははじめて。レイトン卿をはじめ、アルマタデマやワッツ、ウォーターハウスなど、わたしの大〜好きな時代の画家の一人なので見逃すわけにはいきません!

つきあたりのレンガづくりの建物が三菱一号館美術館。レトロな趣きがあります。

入り口は、ぐるっとまわった中庭から。この中庭、都心のど真ん中とは思えないほど、たっぷりの緑の中にベンチがあり憩いの場となっています。

バーン=ジョーンズの作品は神話や物語を描いたものが多く、ちょっと不思議な世界。スモーキーなグリーンやブルーの画面が特徴で、薔薇などの小花が画面にちりばめられています。これは「眠り姫」。以前観たのはいつだろう?久しぶりの再会です。

こちらは「運命の車輪」というタイトルの絵。 

右に描かれた三人はまったく身分の違う男性(奴隷、王、詩人)で、たとえどのような身分であろうとも運命の環からは逃れられないことを表現しています。裸体のデッサン力はすごいものがあります。イタリアでミケランジェロの作品に影響を受けたといいますが、きっとダビデ像を一生懸命デッサンして迫力のある人体像が描けるようになったのかもしれません。

観終わって出てくると、さっきの絵画の続きのように小さな薔薇たちが建物の前で迎えてくれました。

 

帰りに美術館の「カフェ1894」に寄りたかったけど、ちょうど食事のみの時間でお茶はできず。なので近所の「Papas カフェ」へ。こちらも、ゆたりできてよかったですよ〜。黄桃のケーキを味わいつつ、美しい絵画の余韻にひたっておりました♪

12-08-12 あなたはクモ派?それともコウモリ派?

バットマンの新作「ダークナイト ライジング」は結構デキがよい!という評判で、それを観るために見逃した前二作をせっせとお勉強中です。

バットマンといえば小さい頃うちにマンガがあって、あのかわいげのないバタくさい絵柄やら、絵に描きこまれた横文字の擬音(ドカンが bang だったり)がけっこう新鮮でした。

コミックでもそうだけど、映画でもホントに男の子のハートをくすぐる設定が目白押し。めちゃくちゃ強いヒーロはもちろんハンサム。そのうえ億万長者で何でもアリときているし。彼を惜しみなくサポートする執事や献身的な部下がいて、彼らはおそろしく有能。アジトはかっこよく地底の底。車もバイクも型破りで、お道具の数々にいたっては必ずや男の子がわくわくするシロモノぞろい。

ホント迫力があっておもしろいけれど、女性にとってはどうなんでしょうね?ちょっと残酷だったり、痛々しく目を覆う場面も多々出現。それにスパイダーマンと違ってバットマンって超人に進化してない生身の人間なのですよね。だからしょっちゅう生傷が絶えず、よく生きてるな〜。

とはいいつつも、映画もここまできたか・・・という特撮に度肝を抜かれます。

3Dのスパイダーマンも四方八方にスイングしてハラハラドキドキ楽しかったけど、クリスチャン・ベール扮するかなり大人な雰囲気のバットマンもカッコいいです。三作目は是非、劇場でやっているうちに観たいものです♪

PS わたしもマイケル・ケインのような執事がいたらいいな〜♥

お茶の間シネマトーク「あなたはクモ派?それともコウモリ派?」

バットマンの新作「ダークナイト ライジング」は結構デキがよい!という評判で、それを観るために見逃した前二作をせっせとお勉強中です。

バットマンといえば小さい頃うちにマンガがあって、あのかわいげのないバタくさい絵柄やら、絵に描きこまれた横文字の擬音(ドカンが bang だったり)がけっこう新鮮でした。

コミックでもそうだけど、映画でもホントに男の子のハートをくすぐる設定が目白押し。めちゃくちゃ強いヒーロはもちろんハンサム。そのうえ億万長者で何でもアリときているし。彼を惜しみなくサポートする執事や献身的な部下がいて、彼らはおそろしく有能。アジトはかっこよく地底の底。車もバイクも型破りで、お道具の数々にいたっては必ずや男の子がわくわくするシロモノぞろい。

ホント迫力があっておもしろいけれど、女性にとってはどうなんでしょうね?ちょっと残酷だったり、痛々しく目を覆う場面も多々出現。それにスパイダーマンと違ってバットマンって超人に進化してない生身の人間なのですよね。だからしょっちゅう生傷が絶えず、よく生きてるな〜。

とはいいつつも、映画もここまできたか・・・という特撮に度肝を抜かれます。

3Dのスパイダーマンも四方八方にスイングしてハラハラドキドキ楽しかったけど、クリスチャン・ベール扮するかなり大人な雰囲気のバットマンもカッコいいです。三作目は是非、劇場でやっているうちに観たいものです♪

PS わたしもマイケル・ケインのような執事がいたらいいな〜♥