ヒプノセラピー「ベイシックセミナー」が終了いたしました♪

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

(社)日本ヒプノセラピー協会のヒプノセラピスト養成コース「ベイシックセミナー」が無事終了いたしました。ご参加くださったみなさま、二日間、本当にありがとうございました。

講師の私(古川貴子)も、養成コースで講師を務めるのは10年ぶりぐらいでしたが、今の私のセラピスト目線から、より日常に役立てていただけるような実践的な内容のセミナーになったのではと思っております。

やっぱり、まだまだ日本ではヒプノセラピーは、催眠「術」の域をでていないところがあり、みなさまの最初のイメージは誤解だらけでした。

・コワイ! 意識がなくなっちゃうのかな?

・知らないうちにヘンなこと言っちゃったりするのかな?

・きっと自分にはうまくできないにちがいない!

というものだったのです。

でも、結局、二日間のセミナーが終わってからの感想は、「なんだ、ヒプノってリラクゼーションと同じで、リラックスよりもっと深いから、身体も心も癒されるんだ」「ふつ〜にまわりの音は聞こえるし、喋れるし、身体も動くし、意識もいつもどおりだわ。でも、たしかにここちよくなっている!」「音楽に集中したり、気持ちよくリラックスしているときとまったく同じ。コワクない!」・・・ というご感想でした。

そうね〜。ヒプノセラピーを「催眠」療法と訳してしまったところから、ヒプノセラピーへの誤解がとけぬままになってしまっているようです(ヒプノセラピーは、ただヒプノセラピーで、催眠と言い換えないほうがよかったのですね!笑)。

それにしても、催眠の歴史は「人の存在」の記録と同じだけ古く、およそ紀元前4000年のエジプトにさかのぼり、パピルスや壁画に描かれているほど、人とともにあったのです。しかし、その6000年の歴史のなかで、人からの興味が集中したかと思うと、非難・弾圧・排斥の繰り返し・・・。それだけ、人は「こころの無意識」という、つかみどころのないものに対して、ときにはコワイもの見たさでもてはやし、またワケが解らないという理由で攻撃する、といったことの繰り返しだったわけです。

自分ではわからない部分のこころを扱うからこそ、ヒプノには大きな効果があるのです。「わからない」部分だからこそ、真っ正面から取り組んだら、もっと「わかっちゃいるけど、やめられない」という自分のパターンを変えることができるのに・・・と残念に思います。

二日間のセミナーで、ヒプノセラピーへの誤解をとき、効果について知り、ヒプノセラピーがセラピーとして強力である理由を理解し、こころの仕組みも学び、さらに自己催眠と他者催眠のための有効な暗示の書き方を学び、カウンセリングとセッションの実習を行いました。

クライエントさんにみたてた他の受講生さんのために催眠暗示を書いてみたり、催眠誘導を練習してみて、じつはいちばん癒されているのは、それを書いたり誘導したりしているご本人であることを実感されたそうです。

そうなんですよ〜! いちばん癒されちゃうのは、じつはやっているセラピストなのです。

なぜなら、自分の発することばは自分の中で完結して、自分に影響を及ぼしているからです。自分のことば、自分の考えのすべてによって、いちばん影響を受けるのは自分以外にはいないのですね。(笑、セラピストというオイシイ職業で、たっぷり癒していただいているのはわたくしめでありました!)

ご参加のみなさまは、ご自分で書いた自己催眠暗示によって、あるいは受講生さんセラピストの暗示セッションによって、リラックスと癒しをたっぷりと受けとっていただけたようです。

二日間、ほんとうにお疲れさまでした。そして、楽しいお時間をありがとうございました。

ご参加のみなさまからの声

♪ 自分のための自己催眠暗示を書いている段階で気づきがあり、自分が感じていた問題がほとんど解決してしまうように感じました。なぜなら、問題とは自分の考えからきていることがわかり、自分にはコントロールできないことをコントロールしようとしていたことが原因だったということがわかったからです。(IYさん・男性)

♪ ヒプノ・・・催眠・・・の言葉についてもよくわかっていなかったが、心の仕組みを学び、ヒプノの催眠とはどのようなものなのか理解できたので、ヒプノ(催眠)のイメージが変わり、安心できるものだと感じた。
自分のなかにいろいろな悩みがあり、あれこれ変えたいところがあるが、つきつめて考えると、悩みの本質、自分の変わりたいところはひとつなのだと理解できた。そして、それを知ったことで、変えられるのだとわかった。
これからどんどん自分のために自己催眠暗示を利用して、のびのびと楽しい人生を歩んで行きたいと感じた。
とても楽しく、じっくりと、ヒプノセラピーのことを学ぶことができました。ありがとうございました。(EOさん・女性)

次回のヒプノセラピスト養成コース「ベイシック(2日間)」は、以下の日程を予定しております。

日時:
10月21日(土)10:00~17:00
10月22日(日)10:00~17:00

会場: 新宿区

受講料: ¥48,000 (日本ヒプノセラピー協会の修了証を発行)
*〈少人数制〉 定員になりしだい締め切ります

講師: 古川貴子(日本ヒプノセラピー協会講師・ヒプノセラピスト)

お申し込み・お問い合わせ: こちらから

 

 

ぷち断捨離中

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

昨日、プチ断捨離にいそしんでいたときのこと。ずっしり重いハコが出てきました。

開けてみると、絵はがきがど〜っさり・・・。

すべて同じ文字で書かれたもの。・・・ つまり、同じ方からいただいたものなのです。

このハコは、幾度となくくり返された引っ越しや断捨離にもめげず、今までサバイバルしてきた貴重なお宝。

もしや! ラブレター・・・ ??

といってしまえば、そうかもしれません。

なんせ、二十代の頃からいままで大切にとっておかれているぐらいですから。

といっても、これは全部女性からのものです。

当時そして今でも!、仲よしの Kちゃんからのもの。あの頃、週末のたびにショッピングに行ったり、美術館に行ったり、ライブに行ったり、もちろん恋バナをしたり ・・・ それはしょっちゅう会っていたのですが、そのうえお互いポストカードで文通までしていたのでした(なんせ、今のように Email なんてなかったし)。

はがきは一枚にとどまらず、一回に三枚ぐらい出すのです。だから、毎週、ポストをのぞくときまって色とりどりのはがきたちがやってきておりました。それがすごく楽しみだったのです。

はがきの内容はその週末に一緒にしたことの感想だったり、その週のあいだに起こったことの報告だったり ・・・ とたわいのないもの。

なによりも私たちのお楽しみは、相手をサプライズさせるカードをチョイスすることだったのです。二人とも学生時代に油絵を描いていたこともあり、モチーフや色彩については結構こだわりが強かったから(Kちゃんのお気に入りは光の画家 ボナール、私のお気に入りはシュールな異次元のダリ)。

ほんとうに Kちゃんのチョイスしてくれたカードのセンスが抜群で、毎回ポストのまえで見入ってしまっていました。そして、今でもときどきこうしてながめてしまうのです。

そんなポストカードをいくつかご紹介すると・・・

とってもシュールな絵柄の一枚。こちらは、ルネ・ラリック展に一緒に出かけたことが書かれていました。庭園美術館だったのかな〜?

こちらは、薔薇のモチーフばかりを数枚でいただいたとき。手のシルエットもロング手袋をはめていてオシャレです。

こちらは前の週に「譜面と蝶々」のモチーフが送られてきて、次の週は「パレットと蝶々」でした。

バースデーのときのカード。カラーが好きだったわたしのために、お誕生日用に待機していたカードのようです。

クリスマスカード。プレゼントはアンティーク風のレースのつけ衿をいただいたようです。覚えてる!

・・・すっかり断捨離忘れて、タイムスリップしました〜。あらためて、Kちゃんとの楽しい時間の数々に感謝でいっぱいです♡

 

そしてハコは、再びもとの場所に静かに戻されたのでした(笑)。

 

17-08-05 楽しむと罪悪感を感じるんです

友人のAちゃんが予約してくれたホテルのダイニングでピアノとフルートの生演奏を聴きながらの優雅なディナー。

灯りがおとされたフロアーは、おしゃれをした人たちがさざめき、それぞれのテーブルにはキャンドルがゆらめく心地よい空間。

するとAちゃんが、「一生懸命仕事したから、いいよね!(贅沢しても)」と同意をもとめるようにつぶやくのです。「もちろん!」と答えたものの、そう答えたあとになんか違和感を感じてる私。

「あれ? Aちゃんはせっせと努力をしたすえでないと、楽しい思いをしてはいけないと思ってるの?? (つまり、無条件になにもなしで幸せになってはいけない?)」

私たちの多くはこどもの頃から、何かを一生懸命やったからこそ、欲しいものを手にする、あるいはご褒美をもらえる経験をしてきたと思うのです。たんに、一生懸命やったらほめられる、というのもそのひとつ。

さんざん読み聞かされてきたアリとキリギリスの話でも、ハッピーに楽しく気ままにすごしてきたキリギリスは、その見返りとして困った状況に直面し、そのうえ助けがやってこないのです。結局、身体にムチをうって、汗水ながして働きつづけたアリに軍配があがるわけです。

楽しみなどに目をくれず、ひたすら一生懸命、汗水ながして頑張らないなら、何も手にしてはいけない、というわけ。

すると、自然体の「あるがまま」では、とうてい「よいもの」「幸せ」を手にしてはいけないことになってしまうのです。無条件には何もやってこないということ。

「楽しくラクして暮らしたヤツにはつけがまわってくる」というおどし以外のなにものでもありません。

そうなのよね〜!昔話や童話、あるいはカツカツに努力をする「巨人の星」や「あしたのジョー」が、どれほどクライエントさんの辛い信念を構築することになっていることか。

大人になってもその信念にもとづいて生きているので、つらい習慣・体験へと導かれ、くり返しているのです! わたしはこれからのこどもたちのために、イソップやら、これらのマンガをすべて書きかえたい!(笑)(笑)

私たちは「私たちであるがゆえに」、ただそれだけの理由で、もう十分によいものを受けとる、幸せになる権利と価値があるはず。

頑張ってこそ、努力してこそ「受けとれる」というのであれば、私たちはそのままで、あるがままで、素敵な体験や幸せな体験を受けとってはいけないということになります。

もし素敵な体験をしてしまったなら、罪悪感を感じることになり、そのあとに意識的にあるいは無意識的に、その幸せな体験のうめあわせとしてつらい体験をしなければならないと感じてしまいます。

その昔、夏の3〜4週間をバリ島で過ごしていたことがありました。お勉強に来ていたのですがそれにもかかわらず、朝から海やプールで泳いだり、船で沖に出て魚を釣って料理してもらったり、日の出を拝むために夜中から山に登ったり、川でラフティングをしたり、パラセーリングをしたり、民族衣装でヒンズー教の寺院をお詣りしたり、小さな島にわたって過ごしたり、ただただビーチで昼寝をしたり ・・・こんなパラダイスな日々にもかかわらず、楽しければ楽しいほど、毎日遊びほうければほうけるほど、強い罪悪感を感じる人がけっこう多かったということ。

こんなに素敵な日々なのに、手放しで楽しんでいないのです。もったいない!

楽しんじゃいけなくって、楽しんだ分だけ苦労するのだったら、いったいいつ、どこで、幸せになれるというのでしょう!?

それにしても、「楽しんじゃいけない自分」って、いったいどんな存在であると “自分で自分を” 思っているのでしょう?

ちなみに、神さまが「楽しむことをよしとしていない」わけではありません。あくまでも「本人自身が自分で自分に対して」、楽しむことはよくないと信じて、おびえているのです。

「私は楽しんではいけない」・・・・ 結局、自分に対するそのような決めつけ、信念が、せっかく楽しいことを経験したのに、罪悪感があとから追いかけてきて重荷をおわせて、心理的なバランスをとろうとしているわけです。楽しいだけじゃダメだよ! 楽しいがあったら、その分苦しむのだよ!と。

だから人は、ものごとが自分が思った以上にうまく運んでしまうと、どこか落ち着かなくなるし(こんなにうまくいったら、あとで何かとんでもないツケがまわってくるに違いない)とか、いつもよりもランクアップした素敵な体験をしていると、自分らしくないと居心地が悪く感じるのです(こんなにいい思いしてしまっていいのかしら? 私にはゼイタクすぎるんじゃない?) ・・・。

そんなときには、自分がいったい何を信じていてそんなに落ち着かないのか、居心地が悪いのか、探求してみましょう。

結局、よくよく調べてみると、自分で自分のことを幸せにしていないのがわかります。自分が幸せになれないのは、自分で自分の幸せにストップをかける「罪悪感の思い」なのです。

そして、それさえなければ、もっともっと多くの豊かな体験を両手を広げて、身体全体で受けとることができるようになるはずです。

自分を解放しないのも、自分を幸せにしないのも、自分を苦しめるのも ・・・ 結局は自分のなかにある思いであり、こころのなかにおしこめてちゃんと見ることをしていない思いなのです。

そんな隠された思いをチェックして、気づいて、手放して ・・・ こころがしっかりと受けとれる準備ができたなら、すでにある豊かさがもっともっと流れこんでくるでしょう。

PS ちょうど今日いらしたクライエントさん、「なかなか素直に 100% 楽しむことができないんです」とのことでした。

ちょいと一緒に探求してみました。

「昨年、スペインを旅しました。おいしいものを食べて、たくさんのきれいなものを見て、のんびりして、楽しくって、本当にいい体験でした。 ・・・でも旅の終わり頃には恐ろしくなってきました。こんなに楽しんでしまったから。怖いんです」

「私は怖い、なぜなら?」とくクライエントさんに問いかけてみると。

「あとで悪いことが起こりそう」「なぜなら、いい思いをしてしまったから」「わたしはそんなよいものを受けとる価値なんてないんです」「なぜなら、神さまに好かれていないから」「なぜ好かれていないかというと、愛されるような自分じゃないから」「つまり、ちっぽけで、ぱっとしなくって、恥ずかしい存在。いつも母が私を恥ずかしがっていたようです」「きっと神さまだって私をみていて、イライラするのです」「そんなわたしによいものがくるはずがないのです。なのに楽しんでしまった」「身のほど知らずは罰せられるのです」「己を知って、醜いなりの努力をしなければならないのです」・・・・

「ああ・・・私は自分を恥ずかしい、存在していてはいけない存在だと信じていました。存在させてもらっているのだから、努力するべきだ、奴隷のようであるべきだ、それでつじつまがあうように感じていたのです。だから、幸せが怖かったのです」と。

クライエントさんの許可をえて、やりとりを掲載させていただきました。こんなふうに間違った考えを明るみに出すと、それをもう終わりにすることができます。すべては光をあてることで、闇を一掃することができるのですね。

みなさまも、罪悪感、怖れなどを感じるときには、是非、探求してみてくださいね。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

気づきの日記「楽しむと罪悪感を感じるんです」

友人のAちゃんが予約してくれたホテルのダイニングでピアノとフルートの生演奏を聴きながらの優雅なディナー。

灯りがおとされたフロアーは、おしゃれをした人たちがさざめき、それぞれのテーブルにはキャンドルがゆらめく心地よい空間。

するとAちゃんが、「一生懸命仕事したから、いいよね!(贅沢しても)」と同意をもとめるようにつぶやくのです。「もちろん!」と答えたものの、そう答えたあとになんか違和感を感じてる私。

「あれ? Aちゃんはせっせと努力をしたすえでないと、楽しい思いをしてはいけないと思ってるの?? (つまり、無条件になにもなしで幸せになってはいけない?)」

私たちの多くはこどもの頃から、何かを一生懸命やったからこそ、欲しいものを手にする、あるいはご褒美をもらえる経験をしてきたと思うのです。たんに、一生懸命やったらほめられる、というのもそのひとつ。

さんざん読み聞かされてきたアリとキリギリスの話でも、ハッピーに楽しく気ままにすごしてきたキリギリスは、その見返りとして困った状況に直面し、そのうえ助けがやってこないのです。結局、身体にムチをうって、汗水ながして働きつづけたアリに軍配があがるわけです。

楽しみなどに目をくれず、ひたすら一生懸命、汗水ながして頑張らないなら、何も手にしてはいけない、というわけ。

すると、自然体の「あるがまま」では、とうてい「よいもの」「幸せ」を手にしてはいけないことになってしまうのです。無条件には何もやってこないということ。

「楽しくラクして暮らしたヤツにはつけがまわってくる」というおどし以外のなにものでもありません。

そうなのよね〜!昔話や童話、あるいはカツカツに努力をする「巨人の星」や「あしたのジョー」が、どれほどクライエントさんの辛い信念を構築することになっていることか。

大人になってもその信念にもとづいて生きているので、つらい習慣・体験へと導かれ、くり返しているのです! わたしはこれからのこどもたちのために、イソップやら、これらのマンガをすべて書きかえたい!(笑)

私たちは「私たちであるがゆえに」、ただそれだけの理由で、もう十分によいものを受けとる、幸せになる権利と価値があるはず。

頑張ってこそ、努力してこそ「受けとれる」というのであれば、私たちはそのままで、あるがままで、素敵な体験や幸せな体験を受けとってはいけないということになります。

もし素敵な体験をしてしまったなら、罪悪感を感じることになり、そのあとに意識的にあるいは無意識的に、その幸せな体験のうめあわせとしてつらい体験をしなければならないと感じてしまいます。

その昔、夏の3〜4週間をバリ島で過ごしていたことがありました。お勉強に来ていたのですがそれにもかかわらず、朝から海やプールで泳いだり、船で沖に出て魚を釣って料理してもらったり、日の出を拝むために夜中から山に登ったり、川でラフティングをしたり、パラセーリングをしたり、民族衣装でヒンズー教の寺院をお詣りしたり、小さな島にわたって過ごしたり、ただただビーチで昼寝をしたり ・・・こんなパラダイスな日々にもかかわらず、楽しければ楽しいほど、毎日遊びほうければほうけるほど、強い罪悪感を感じる人がけっこう多かったということ。

こんなに素敵な日々なのに、手放しで楽しんでいないのです。もったいない!

楽しんじゃいけなくって、楽しんだ分だけ苦労するのだったら、いったいいつ、どこで、幸せになれるというのでしょう!?

それにしても、「楽しんじゃいけない自分」って、いったいどんな存在であると “自分で自分を” 思っているのでしょう?

ちなみに、神さまが「楽しむことをよしとしていない」わけではありません。あくまでも「本人自身が自分で自分に対して」、楽しむことはよくないと信じて、おびえているのです。

「私は楽しんではいけない」・・・・ 結局、自分に対するそのような決めつけ、信念が、せっかく楽しいことを経験したのに、罪悪感があとから追いかけてきて重荷をおわせて、心理的なバランスをとろうとしているわけです。楽しいだけじゃダメだよ! 楽しいがあったら、その分苦しむのだよ!と。

だから人は、ものごとが自分が思った以上にうまく運んでしまうと、どこか落ち着かなくなるし(こんなにうまくいったら、あとで何かとんでもないツケがまわってくるに違いない)とか、いつもよりもランクアップした素敵な体験をしていると、自分らしくないと居心地が悪く感じるのです(こんなにいい思いしてしまっていいのかしら? 私にはゼイタクすぎるんじゃない?) ・・・。

そんなときには、自分がいったい何を信じていてそんなに落ち着かないのか、居心地が悪いのか、探求してみましょう。

結局、よくよく調べてみると、自分で自分のことを幸せにしていないのがわかります。自分が幸せになれないのは、自分で自分の幸せにストップをかける「罪悪感の思い」なのです。

そして、それさえなければ、もっともっと多くの豊かな体験を両手を広げて、身体全体で受けとることができるようになるはずです。

自分を解放しないのも、自分を幸せにしないのも、自分を苦しめるのも ・・・ 結局は自分のなかにある思いであり、こころのなかにおしこめてちゃんと見ることをしていない思いなのです。

そんな隠された思いをチェックして、気づいて、手放して ・・・ こころがしっかりと受けとれる準備ができたなら、すでにある豊かさがもっともっと流れこんでくるでしょう。

PS ちょうど今日いらしたクライエントさん、「なかなか素直に 100% 楽しむことができないんです」とのことでした。

ちょいと一緒に探求してみました。

「昨年、スペインを旅しました。おいしいものを食べて、たくさんのきれいなものを見て、のんびりして、楽しくって、本当にいい体験でした。 ・・・でも旅の終わり頃には恐ろしくなってきました。こんなに楽しんでしまったから。怖いんです」

「私は怖い、なぜなら?」とくクライエントさんに問いかけてみると。

「あとで悪いことが起こりそう」「なぜなら、いい思いをしてしまったから」「わたしはそんなよいものを受けとる価値なんてないんです」「なぜなら、神さまに好かれていないから」「なぜ好かれていないかというと、愛されるような自分じゃないから」「つまり、ちっぽけで、ぱっとしなくって、恥ずかしい存在。いつも母が私を恥ずかしがっていたようです」「きっと神さまだって私をみていて、イライラするのです」「そんなわたしによいものがくるはずがないのです。なのに楽しんでしまった」「身のほど知らずは罰せられるのです」「己を知って、醜いなりの努力をしなければならないのです」・・・・

「ああ・・・私は自分を恥ずかしい、存在していてはいけない存在だと信じていました。存在させてもらっているのだから、努力するべきだ、奴隷のようであるべきだ、それでつじつまがあうように感じていたのです。だから、幸せが怖かったのです」と。

クライエントさんの許可をえて、やりとりを掲載させていただきました。こんなふうに間違った考えを明るみに出すと、それをもう終わりにすることができます。すべては光をあてることで、闇を一掃することができるのですね。

みなさまも、罪悪感、怖れなどを感じるときには、是非、探求してみてくださいね。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

おフランス発、冷食屋さん

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

中目黒に Picard というフランス発の冷食屋さんがオープンしていたのですが、すっかり忘れていました。遅ればせながら、ちょっとのぞきに行ってみました・・・

駅のすぐそばですが、あら、誰もいません(もっと混んでると思った!)。

テレビで見て知ってはいたけど、あるわ!あるわ! マカロンからクロワッサン、アペリティフいろいろや、サーモンのパイ包みにエスカルゴ、さまざまなフランス料理やデザート。

いろいろ目うつりしてひとつ選んだのは、翌日のおやつ用にモアローショコラ。フランスでは6秒に一個うれるほど人気なんですと。フォンダンショコラよりもスポンジ部分がすくなくって、チョコレートがたっぷり入っているそう。

どれどれ・・・

えっと、作り方は?・・・ といっても、温めるだけですが。

210℃ のオーヴンで17分。

日本人の冷食のイメージって、レンチン! なので、このおフランスもの、オーヴンを使うというのがちょいと日本人にはハードルが高いのかもしれません。だって余熱がいるし、時間もかかるし、暑いし・・・(レンヂものもあるのですが、やっぱりフレンチはオーヴン料理なのです)。

作ってみて思ったけど・・・ 180℃ まではわりと使うことあるけれど、210℃ ってオーヴンも能力 MAXで、慣れぬことに悲鳴をあげているようでした。

こんな焼き具合で、できあがり!

お皿にスポッと出したら、底のスポンジがやぶけてチョコの大洪水になっちゃいました。

お味はすご〜くチョコレート!(あたりまえですが)そして、手加減のない甘さ。それこそがフランスのスウィーツっぽい。チョコ好きだったり、がっつり甘いものが欲しいときにはオススメです。

まわりがカリっと焼けて、なかはとろっとろのチョコがたっぷり入っていておいしかった〜♪ でも、すぐにおやつが食べたいときには多少手がかかります。

さらに、ラム酒をかけてバニラアイス添えにしたら、フレンチのお店風の立派なデザートになります。

次は、人気のクロワッサンを買いに行ってみます!

ちなみに、こちらのお店、通販もあるようです。

 

 

8月 9月 のヒプノセラピー体験セミナー

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

新しい日本ヒプノセラピー協会になってから 【ヒプノセラピー体験セラナー】も三回目となります。

毎回、ご参加のみなさまから「ヒプノ体験ですごくリラックスできたのでおトクなセミナーだと思います」とか、「ヒプノセラピーって、自分がなくなってしまいそうでどこかコワいイメージがあったのだけれど、こんなに簡単でこんなに軽くなることができるなんておどろきです」という感想をいただいています。

そうなんです。どうも「ヒプノセラピー」というと、間違ったイメージをもたれている方が多く、不安を感じられて躊躇していた方も多いようです。

【ヒプノセラピー体験セラナー】で、ここちよいヒプノ体験とともに、あなたのこころの可能性について知ってみませんか?

【 ヒプノセラピー 体験プチセミナー 8月、9月 のご案内 】

「ヒプノセラピーってなに?」「どんな効果があるの?」「誰にでもできるの?」「ほかのセラピーとどう違うの?」「セラピストになるには?」・・・

リラックスした雰囲気のなかで、ヒプノセラピーについてのあれこれを学びながら、実際に体験することができるプチセミナーです。日々の疲れがとれたり、あるいは、心について、自分自身について、新たな気づきがあるかもしれません。どなたでも、気軽にご参加ください♪

*内容
・ヒプノセラピーってなに? どんな効果があるの?
・ヒプノセラピーと他のセラピーの違いは?
・ヒプノにかからない人がいる? 誰にでもできるの?
・ヒプノセラピーはなぜそんなに効果的なの?
・リラックスできるヒプノセラピー、プチ体験
・ヒプノセラピストになりたいけど・・・養成コースについてもっと知りたい
・お茶を飲みながら、ヒプノセラピーなんでも Q&A

*日時
A : 8月18日(金) 19:00~20:30
B : 9月15日(金) 19:00~20:30

*場所 : 表参道(渋谷区)

*講師 : 古川貴子 / 薦田敬子
(ヒプノセラピスト、日本ヒプノセラピー協会理事・講師)

*参加料 : 1,000円(お茶とお菓子つき)

*お申し込み方法 → こちらのフォームからどうぞ
(「体験コース」参加希望とご記入のうえ、希望の日にちをご明記ください。)
追って詳細をお知らせさせていただきます。

ヒプノセラピーってなに? → こちらから
ヒプノセラピーを受けてみたい → こちらから
ヒプノセラピーを学んでみたい → こちらから(日本ヒプノセラピー協会サイト)

(社)日本ヒプノセラピー協会

 

 

おなか、たぷたぷな夕べ

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

これ、やりたかったの! 優雅なタワー三段重ねのアフタヌーンティー。

お誘いがきたのは意外なお友だちからで、あら?!スウィーツが得意じゃないはずなのに・・・。これでもかっていうぐらい甘いもの満載だけど、「アフタヌーンティーでいいの?」って聞き返しちゃいました。「サンドイッチもあるでしょ!」と意に介さないご様子。たしかにね!(笑)

ということで、椿山荘の「ル ダルジャン」へ。ここのスコーンが好きで、以前からよく来ていました。きょうはこころおきなくいただけます。

まず、シャンパンから(最近はノンアルコールがあって助かります!)。

そして一の重、いえ、一の皿は、サンドイッチ。サイズはプチだけど、すごく手がこんでいます。山芋のカナッペにサーモンのタルタルがのっていて、サフランのソースに茗荷のスライスのトッピング・・・というように。

二段めは、スコーン三種。プレーンとハニーレモン、そして夏を感じるココナツバナナ(きょうは三個もある!)。

そして、三段めはスウィーツさんたち♡ リコッタチーズのタルトやベツギーチョコのブラウニーなど、プチだけどどれも丁寧にこしらえてあります。

紅茶は20種類ほどあり、ポットサービスで。

わたしの紅茶のチョイスは、最初のサンドイッチはアールグレイでさっぱりと。スコーンは、香りのいいアップルティー、そしてスウィーツは甘さに負けないしっかりとした味わいのアイリッシュクリームにしてみました。次々ポットとカップを取り替えてくれます。いったい何杯いただいたことか? 7〜8杯?(汗)

最後のシメはマスカットグリーンティーにしようか、コーヒーにしようか迷って、結局コーヒーをチョイス。そうしたら、おみやげにいただいたお茶がマスカットグリーンティーでした。やった〜♪

三段、すべて気持ちよく完食♪

夕暮れのハイティーだったので、暮れなずむお庭の五重塔のシルエットと空の色がきれい。とりとめのないおしゃべりを楽しみながらのお茶タイムは、深い緑をながめながらゆったりと癒しのひとときでした。・・・ しっかし、お腹がたっぷたぷ(笑)。

 

17-07-21 最近、気になる “怒り” について

最近テレビをつけると、芸能人にしろ、政治家にしろ、大統領にしろ、怒りのタガがはずれまくって、怒り大放出のご様子。

いいかげん耳にやきついてしまった「ちがうだろーっ!!この○ゲー!(怒)」という女性議員の絶叫やら、うわ目づかいで怪談のような語り口で「聞いてくだ
さい・・・」と YouTube に投稿をつづけるタレントさんとか、プロレスごっこで CNN
をボコボコにしちゃう大統領まで(だ、だ、大統領ですよ〜・汗)・・・。

目にするたびに、「あ〜あ・・・またか。ウンザリ」となるわけです。

先日クライエントさんと話していたとき、「呆れはするけれど、じつはこころのなかで私もやってるかも・・・」と。

なるほど・・・ なんとも正直なご意見!

もし、それぞれのこころに拡声器がついていたら、世のなかそれはそれは賑やかなことでしょう。だって、誰ひとりこころのなかで他の人を責めたことがない人
はいないし、他の人に怒りをだいたことがない人はいないのですから。(ってことは、彼らはこころに拡声器がついちゃってて、外にダダ漏れなわけね?!)

ときには、怒りや非難があまりに無意識になっていて、自分ではまったく気づいていない場合もあります。あるいは、怒りや非難が感情というエネルギーのままで「言語化(セリフ化)」されないために、自分では怒っているとは思っていないこともあります。

しかし、ムカっと、イラっと、ぶちっときた時点で、すでにそれは十分に怒りなわけです。

怒りや非難はエネルギーなので、はじめからセリフがついてはいないのです。あの方々のように激しいセリフや行動がともなわなくても、ふつふつとネガティブな感情が湧いてきた段階で、まったく同じなのですね。

話題の方々は、それにセリフが与えられ行動がくっついて、アウトプットされ、電波にのって人目をひいちゃった、にすぎないというわけです。

さらに、さらに・・・

わたしたちの「こころ」はじつはすべてつながっています。なぜなら、「ひとつ」だからです。

わたしが抑圧してなきことにしてきた怒りの数々は、じつはあの方々がまとめて請け負ってくださっているのかもしれません(ありがたいことに・・・)。

火山は世界中あちこちにあって、休止中の火山もあれば、活動中の火山もあります。休止火山は今たんにお休みしているだけで、火山でなくなったわけではあり
ません。そして、どの火山も地球のエネルギーに突き動かされて爆発するわけです。でも、いつ爆発するかはじつは火山に選択肢はありません。

つまり、わたしたち一人一人が火山口であって、おおもとのマグマである「こころ」はたったひとつ。そこにある怒りがどこで爆発し噴出しようとも、火山口が
悪いというよりはマグマである「こころ」のせいなのです。だから、「あ〜あ、あの火山、節操もなく爆発しちゃって。恥ずかしいね〜」とはならないのです
ね。もとは、みんな同じだからね。

わたしたち全員のなかには、残念ながらもれなく同じ怒りがあります。凶暴性があります。破壊的なものがあります。そうでなかったら、わたしたちはとっくにここ、この世界に怖れながら存在しているはずがないのです。

その怒りや凶暴性は、ひとつのこころのなかにあって、ひとつひとつの「個」のものではありません。それが個人という噴火口を使って、噴出してくるわけです。

個人という噴火口を使うことで、その怒りの大もとが消滅しないようにうまく守られているのです。個人というトリックによって、「お互いを非難する」というワナにはまり、おおもとの怒りは解消されることをまぬがれるからです。

つまり、その大もとの怒りはうまくカモフラージュされているわけです。個人というカモフラージュのうえ、さらに抑圧という力によって、潜在意識という闇の奥ふかくへとしまわれています。そうやってエゴは生きのびます。

もしこころのなかで、ある人、ある出来事を非難してしまうと、わたしたちは「ひとつのこころ」を否定することになり、お互いをまるで見知らぬ存在にしてしまうため、お互いの分離感が深まってしまいます。それによて、互いの距離がうめられなくなります。

それが、わたしたちが根本的に感じている孤独感であり、この世にいて感じる怖れの原因です。結局、なみいる敵のなかに孤立無縁でサバイバルしている気分になるのです。怖くないわけがありません。

怒りから叫ぶ人もいれば、叫ばない人もいる ・・・ それもこの世界の二元性であり、バランスです。全員おとなしく善良になるわけにはいかないのです。必ず、両方が存在します。

そして誰かが抑圧してしまえば、他の誰かが激しく表現してくる。そうやって、「ひとつのこころ」はバランスを保ちます。

今回はどうやら、その「激しく出して、みんなに後ろ指をさされる」という役回りを自分はまぬがれていることをありがたく思うことが大切なのです(前世では、あるいは来生では、激しく切れる役だった、あるいはその役になるかもしれませぬ・・・汗)。

どんなことが起こっていたとしても、それが凶暴な出来事だったとしても、今回は自分の番ではなかったことを感謝しつつ、それを非難することよりも、そもそもの原因となっている「ひとつのこころ」のなかにためこまれた怒りや怖れを解消することに務めることが大切なのです。

そしてネガティブな感情は、それが上がってきて、それを実際に感じているときにしかお片づけするチャンスがありません。だから、誰かを見て何かイヤな気分になったら、お片づけのまたとないチャンス! 感謝です!(見せてもらえた! 感じさせてもらえた! ことに)

せっかく、この頃たくさんの方々が怒りを見せてくださっているので、それを非難することによって自分の怒りをさらにふやすようなことはせず、お掃除の機会にできたら言うことはありません。

来世(が、あるなら)、そしてそこで必ず誰かしらが怒りでシャウトするのかが当番制であるなら ・・・ ちゃんと自分の感情の責任をとっていたら、そのお当番制を免除してもらえるかもしれませぬ(笑)。

いえいえ、そこまでいかなくても、まずはシャウトしている人はたんにまわってきた配役なのだと理解しながら、今回シャウトする役でないことに感謝しつつ、さらに目にしている怒りを利用して自分の抑圧した感情をお掃除することに務めれば ・・・

自分のなかの抑圧したネガティブな感情がなくなればなくなるほど、自分の目にする世界は確実に穏やかになってゆきます。私たちの目にしている世界は、いつだってこころの反映で、自分のこころの「なか」にこそ存在するのですね!

イヤなものを見た!と思ったら、非難するのではななく、その感情をあるがままに受けとめて、自分のこころのお掃除に精をだしてしまいましょう!

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「最近、気になる “怒り” について」

最近テレビをつけると、芸能人にしろ、政治家にしろ、大統領にしろ、怒りのタガがはずれまくって、怒り大放出のご様子。

いいかげん耳にやきついてしまった「ちがうだろーっ!!この○ゲー!(怒)」という女性議員の絶叫やら、うわ目づかいで怪談のような語り口で「聞いてください・・・」と YouTube に投稿をつづけるタレントさんとか、プロレスごっこで CNN をボコボコにしちゃう大統領まで(だ、だ、大統領ですよ〜・汗)・・・。

目にするたびに、「あ〜あ・・・またか。ウンザリ」となるわけです。

先日クライエントさんと話していたとき、「呆れはするけれど、じつはこころのなかで私もやってるかも・・・」と。

なるほど・・・ なんとも正直なご意見!

もし、それぞれのこころに拡声器がついていたら、世のなかそれはそれは賑やかなことでしょう。だって、誰ひとりこころのなかで他の人を責めたことがない人はいないし、他の人に怒りをだいたことがない人はいないのですから。(ってことは、彼らはこころに拡声器がついちゃってて、外にダダ漏れなわけね?!)

ときには、怒りや非難があまりに無意識になっていて、自分ではまったく気づいていない場合もあります。あるいは、怒りや非難が感情というエネルギーのままで「言語化(セリフ化)」されないために、自分では怒っているとは思っていないこともあります。

しかし、ムカっと、イラっと、ぶちっときた時点で、すでにそれは十分に怒りなわけです。

怒りや非難はエネルギーなので、はじめからセリフがついてはいないのです。あの方々のように激しいセリフや行動がともなわなくても、ふつふつとネガティブな感情が湧いてきた段階で、まったく同じなのですね。

話題の方々は、それにセリフが与えられ行動がくっついて、アウトプットされ、電波にのって人目をひいちゃった、にすぎないというわけです。

さらに、さらに・・・

わたしたちの「こころ」はじつはすべてつながっています。なぜなら、「ひとつ」だからです。

わたしが抑圧してなきことにしてきた怒りの数々は、じつはあの方々がまとめて請け負ってくださっているのかもしれません(ありがたいことに・・・)。

火山は世界中あちこちにあって、休止中の火山もあれば、活動中の火山もあります。休止火山は今たんにお休みしているだけで、火山でなくなったわけではありません。そして、どの火山も地球のエネルギーに突き動かされて爆発するわけです。でも、いつ爆発するかはじつは火山に選択肢はありません。

つまり、わたしたち一人一人が火山口であって、おおもとのマグマである「こころ」はたったひとつ。そこにある怒りがどこで爆発し噴出しようとも、火山口が悪いというよりはマグマである「こころ」のせいなのです。だから、「あ〜あ、あの火山、節操もなく爆発しちゃって。恥ずかしいね〜」とはならないのですね。もとは、みんな同じだからね。

わたしたち全員のなかには、残念ながらもれなく同じ怒りがあります。凶暴性があります。破壊的なものがあります。そうでなかったら、わたしたちはとっくにここ、この世界に怖れながら存在しているはずがないのです。

その怒りや凶暴性は、ひとつのこころのなかにあって、ひとつひとつの「個」のものではありません。それが個人という噴火口を使って、噴出してくるわけです。

個人という噴火口を使うことで、その怒りの大もとが消滅しないようにうまく守られているのです。個人というトリックによって、「お互いを非難する」というワナにはまり、おおもとの怒りは解消されることをまぬがれるからです。

つまり、その大もとの怒りはうまくカモフラージュされているわけです。個人というカモフラージュのうえ、さらに抑圧という力によって、潜在意識という闇の奥ふかくへとしまわれています。そうやってエゴは生きのびます。

もしこころのなかで、ある人、ある出来事を非難してしまうと、わたしたちは「ひとつのこころ」を否定することになり、お互いをまるで見知らぬ存在にしてしまうため、お互いの分離感が深まってしまいます。それによて、互いの距離がうめられなくなります。

それが、わたしたちが根本的に感じている孤独感であり、この世にいて感じる怖れの原因です。結局、なみいる敵のなかに孤立無縁でサバイバルしている気分になるのです。怖くないわけがありません。

怒りから叫ぶ人もいれば、叫ばない人もいる ・・・ それもこの世界の二元性であり、バランスです。全員おとなしく善良になるわけにはいかないのです。必ず、両方が存在します。

そして誰かが抑圧してしまえば、他の誰かが激しく表現してくる。そうやって、「ひとつのこころ」はバランスを保ちます。

今回はどうやら、その「激しく出して、みんなに後ろ指をさされる」という役回りを自分はまぬがれていることをありがたく思うことが大切なのです(前世では、あるいは来生では、激しく切れる役だった、あるいはその役になるかもしれませぬ・・・汗)。

どんなことが起こっていたとしても、それが凶暴な出来事だったとしても、今回は自分の番ではなかったことを感謝しつつ、それを非難することよりも、そもそもの原因となっている「ひとつのこころ」のなかにためこまれた怒りや怖れを解消することに務めることが大切なのです。

そしてネガティブな感情は、それが上がってきて、それを実際に感じているときにしかお片づけするチャンスがありません。だから、誰かを見て何かイヤな気分になったら、お片づけのまたとないチャンス! 感謝です!(見せてもらえた! 感じさせてもらえた! ことに)

せっかく、この頃たくさんの方々が怒りを見せてくださっているので、それを非難することによって自分の怒りをさらにふやすようなことはせず、お掃除の機会にできたら言うことはありません。

来世(が、あるなら)、そしてそこで必ず誰かしらが怒りでシャウトするのかが当番制であるなら ・・・ ちゃんと自分の感情の責任をとっていたら、そのお当番制を免除してもらえるかもしれませぬ(笑)。

いえいえ、そこまでいかなくても、まずはシャウトしている人はたんにまわってきた配役なのだと理解しながら、今回シャウトする役でないことに感謝しつつ、さらに目にしている怒りを利用して自分の抑圧した感情をお掃除することに務めれば ・・・

自分のなかの抑圧したネガティブな感情がなくなればなくなるほど、自分の目にする世界は確実に穏やかになってゆきます。私たちの目にしている世界は、いつだってこころの反映で、自分のこころの「なか」にこそ存在するのですね!

イヤなものを見た!と思ったら、非難するのではななく、その感情をあるがままに受けとめて、自分のこころのお掃除に精をだしてしまいましょう!

 

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ランチのビストロと朝カフェ

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

先日、お友だちとランチの約束をしたときにチョイスしてくれたフレンチのお店。

楽しみにしながらグーグルマップをたよりにたどり着くと、すごいデジャヴ感におそわれました。

なんのことはない。もう二十年もまえに来ていたお店で、すっかり忘れていただけ。お店の家庭的な雰囲気もメニューのリーズナブルさも、あの頃のまんま!

そうそう! ここのランチ、こんな銀の大きなお盆にスープボウル、サラダ、メイン、パン、デザート、コーヒーがうやうやしく運ばれてきます。フランス人の給仕さんが目のまえでメインのフタをとってくれます。お料理はフレンチといえどもかしこまっていなくて、家庭料理なのです。

この日は、冷たいカリフラワーのスープ(とっても甘い!)、熟れたトマト丸ごとのファルシー(ナツメグなどのスパイスのきいた肉詰め)とマッシュポテト、キャロットラペ、自家製パン、パンプディング、そしてコーヒーはおかわりができます。

これでお値段は昔からかわらず、¥1200 でした〜♪ すごいコスパ!

先日、急いでランチをしたとき、近くにあったコーヒーのチェーンでパスタとコーヒーのセットをいただいたのですが、¥1100 でしたもの。それを考えると、なんという素晴らしさ。

あ、お店は渋谷の「コンコンブル」さんです。開店まえから並んでいますよ〜。

毎日暑いですが、朝、犬の散歩がてら(え、犬いた?)、いつも行っている朝カフェでゴハン。

代官山の「 IVY PLACE 」さん。

最近、週末はめっきり混み合うようになり、この暑いのにテラス席までいっぱいでした。

いつものパンケーキ。そして、たまご料理のメニューはそのときどきでオムレツだったり、スクランブルエッグだったり・・・。この日は、ふわふわスクランブルエッグにマスカルポーネチーズとスモークサーモン、そしてイクラのトッピング。相方が海鮮が苦手だったので(なら、なぜにこれをチョイスするっ?!笑)、わたしがまるまるいただきました〜。

トーストについていたジャム、バナナマンゴーが夏っぽくておいしかった〜♡ 

お腹いっぱいだワン☆