お友だち、いろいろ

最近、うちにやってきた新しいお友だちのみなさんです。

まず、クマちゃん。ただでさえクマはたくさん集まってくるのですが、この子はいつもとは別ルートでやってきました。C子ちゃんのハワイみやげ♪

ピンクの花柄が可愛いでしょ!じつは、Pink Palace と呼ばれていたロイヤル・ハワイアンホテル80周年を記念して作られたプレミアム・クマちゃんだそうです。白いお花と木の実(ココナツ?)で飾られていてお上品にトロピカルです。

お次は、こちらも急激に増殖中のQPファミリーの一員。この子は、お伊勢さまからやってきてくれました。鉢巻きもおべべも組紐コスチューム。よく見ると、肌着(いや、なんて言うの?)もゴールドラメ。おしゃれさんですね〜。

そして、もう一名。本日やってきたペンギンサンタ。

友人が持っていたのですが、可愛い!と絶賛したらわたしにも調達してきてくれました。

このようにいろんな色に七変化して、ますます可愛い。クリスマスまで仲良くします♪ 

 

きらきら煌々☆

ディズニーランド?・・・ルミナリエ?・・・

こちらは、代官山唯一のイルミネーションスポット。スーパーでお買い物をして地上に上がってくると、こんなに華やかです。

午後4時をまわると、あっというまに日が落ちてしまうこの頃。夕方のお買い物タイムにはこんなイルミネーションがたっぷりと楽しめる12月は心が温まります♪

2010年もあと半月!よい一年の締めくくりにいたしましょう。

元気のモト、楠&よもぎまん

最近、「パワースポット」が人気です。

そういえば、熱海にも有名なパワースポット「来宮神社」がありましたっけ。お仕事で熱海詣でをくりかえしているわりには、今だ訪れたことがないのです。いつもタクシーで通過するばかり。

昨日も熱海でお仕事。そしてついに「来宮神社」に足を運ぶチャンスがやってきました。五人+二匹(トイ・プー)という賑やかなご一行さまでお出かけです。

この神社の御神木は樹齢二千年の大楠。二千年とひとことでいえども・・・釈迦やキリストの時代、日本では「ウッキ〜!」とサルのごとく穴ぐらに住んでいた(?)時代。そう考えるとすごい時の流れをサバイバルしているのを感じます。ありとあらゆる天変地異に耐えつつ、文句も言わずひと処に二千年・・・です。

その忍耐力、生命力たるや尊敬どころではありません。おおいにおやかるべく、大楠にいっぱいすりすりしてきました。

この楠を一周すると寿命が一年のびるとか。たくさん廻りすぎていつまでも一人とり残されるのもなんなので、一周にとどめておきましたよ。

お写真を!とカメラを探したものの見あたらず・・・お饅頭のショットでご容赦を!(おいしいもの以外を撮ろうとすると、カメラが見つからないっ!汗)

これは熱海名物のお饅頭屋さん「石船庵」のもの。しっとり、ふんわりしていてとってもおいしいです。特によもぎ味がオススメ。

大楠とおいしいお饅頭で、来年もさらにパワーアップ!
(気が早すぎ・・・(^^ゞ。)

美はどこからやってくる?

その一枚だけが歴然と違うのです。観たとたん、「わっ!」と声をあげてしまったほど・・・。

光を放っているような美しいパステルの色あい、エトワールの軽やかな躍動感、そして踊り続けてゆく様子が伝わってきます。でも、よく見るとこの作品はとてもラフなタッチで仕上げられていて、表情も指先などもあまり描きこまれていないのですね。なのに、この臨場感!

今までドガの作品は油、パステル、エッチング、素描・・・とたくさん観てきたけれど、この「エトワール」という作品は別格中の別格。まるで他の作品と群を抜いて違うのです。

ドガはいったいどこからこの美を紡ぎだしたのでしょう?これだけたくさんの作品を生みだしながらも、まるで一瞬のきらめきのようにただひとつの作品に舞いおりてくるたぐいまれな「美」の不思議・・・。ドガの中で何が起きていたのでしょう?

じつは、この作品を観たら他の展示はもうよくなってしまいました・・・(^^;。というか、この絵の美しいオーラを心にとどめておくためにそのまま立ち去りたい気分だったのです。

その後、ご一緒したお友だちとランチ&お茶をして、あわてて仕事に舞い戻ってきました。つかのまのデートだったけれど、美しさに酔い、おしゃべりに盛り上がり、おいしいスウィーツもいただけて充実のひとときでした。なによりも美しいものは心を満腹にしてくれます。たっぷり魂に栄養です♪

「ドガ展」は12/31まで横浜美術館で開催されています。 初来日のこの美しい「エトワール」、是非ご覧あれ!

 

 

10-12-06 びっくり望年会(吉祥寺)

今年も最終ステージ12月となり、あれこれ締めくくりの行事がはじまりました。

まずは、永年のおつきあいさせていただいているお兄さま、お姉さま方との「望年会」。そんなこんなで、あっというまに二十年近くのおつきあいです。

この四人で集まるとたびたび尋ねられます。「どのようなご関係ですか?」と。そのぐらいトシも雰囲気も職業も何もかも接点がなさそうなわたしたち。実際、どのように四人で集まるようになったか覚えていません。波動が呼びあったとしかいいようがありません。

さて、そんな望年会、以前も訪れた吉祥寺の日本料理屋さん「利久」さんです。お座敷がとっても落ち着いていて、お料理も季節のものが美しく供され、一年の締めくくりにはぴったりです。

おしゃべりに花を咲かせつつ、五感も全開でしっかりとお料理のお味も香りも盛りつけも器も楽しんできました。ご馳走さまでした。m(__)m 来年も、四人揃ってますますパワーアップして元気に過ごせますように!(最年少のわたしがいちばん軟弱ものなので自分に言い聞かせてます!)


その後、「お茶をしましょう!」と勢いよく飛びこんだお店・・・。エレベーターを降りるなり妖しいカーテンで仕切られていて、奥から出てきたおねえさん、イヤ!おにいさんか(?)が「オカマバーですけどぉ、いいですかぁぁ?」。わたしがコーヒーを飲みたい旨伝えると「ど〜そ!ど〜ぞ!」と案内され、あっというまにオカマバー突入!初体験と相成りました(図らずも・・・あとで考えると、あのピンクの看板は、はじめから妖しさいっぱいだったわ・・・)。

はじめはその毒々なインテリアにちと怖じ気づきましたが、可愛いおにいさん、イヤ!おねえさんとあれこれおしゃべりしているうちにすっかり馴染んでしまいましたよ。わたしめなぞよりもよっぽどオンナらし〜く、チャーミングで、そして一生懸命な生きざまが彼女をよりステキに見せていました。

ほんのハズみで飛びこんでしまったお店。わたしの期待していたデザートにはありつけなかったけれど、びっくりで楽しいひとときでした。

永年のお友だちと変わらぬ友情を温めつつ、なおかつこのトシになっても新しい体験にドキドキする・・・そんなシワスの夜なのでした。

びっくり望年会

今年も最終ステージ12月となり、あれこれ締めくくりの行事がはじまりました。

まずは、永年のおつきあいさせていただいているお兄さま、お姉さま方との「望年会」。そんなこんなで、あっというまに二十年近くのおつきあいです。

この四人で集まるとたびたび尋ねられます。「どのようなご関係ですか?」と。そのぐらいトシも雰囲気も職業も何もかも接点がなさそうなわたしたち。実際、どのように四人で集まるようになったか覚えていません。波動が呼びあったとしかいいようがありません。

さて、そんな望年会、以前も訪れた吉祥寺の日本料理屋さん「利久」さんです。お座敷がとっても落ち着いていて、お料理も季節のものが美しく供され、一年の締めくくりにはぴったりです。

おしゃべりに花を咲かせつつ、五感も全開でしっかりとお料理のお味も香りも盛りつけも器も楽しんできました。ご馳走さまでした。m(__)m 来年も、四人揃ってますますパワーアップして元気に過ごせますように!(最年少のわたしがいちばん軟弱ものなので自分に言い聞かせてます!)


その後、「お茶をしましょう!」と勢いよく飛びこんだお店・・・。エレベーターを降りるなり妖しいカーテンで仕切られていて、奥から出てきたおねえさん、イヤ!おにいさんか(?)が「オカマバーですけどぉ、いいですかぁぁ?」。わたしがコーヒーを飲みたい旨伝えると「ど〜そ!ど〜ぞ!」と案内され、あっというまにオカマバー突入!初体験と相成りました(図らずも・・・。あとで考えると、あのピンクの看板は、はじめから妖しさいっぱいだったわ・・・)。

はじめはその毒々なインテリアにちと怖じ気づきましたが、可愛いおにいさん、イヤ!おねえさんとあれこれおしゃべりしているうちにすっかり馴染んでしまいましたよ。わたしめなぞよりもよっぽどオンナらし〜く、チャーミングで、そして一生懸命な生きざまが彼女をよりステキに見せていました。

ほんのハズみで飛びこんでしまったお店。わたしの期待していたデザートにはありつけなかったけれど、びっくりで楽しいひとときでした。

永年のお友だちと変わらぬ友情を温めつつ、なおかつこのトシになっても新しい体験にドキドキする・・・そんなシワスの夜なのでした。

10-12-04 トム・フォードワールド

「シングルマン」観てきました。

グッチ、サンローランを手がけた世界的デザイナー、トム・フォードの初監督作品。

もともと俳優を目指していた方で、そこにデザイナーとしてに審美眼が加わり、いやぁ、完全にトム・フォードの世界。

まず、画面の色。ウツ状態の主人公にあわせて、最初はとてもおさえた色調。彼はともに暮らしていた恋人の男性を亡くして以来、完璧に心のバランスを失っているのです。まるで、も抜けの殻のような彼。恋人との思い出の中にしか生きられない彼。そんな彼を象徴するように、色みをおさえたトーンが彼の心と直面する現実との距離感をまるで人ごとのように映し出します。

この物語は、彼のある一日を切り取ったもの。一日のなかで、彼の気分のup and down を画面の色調が微妙に映し出します。一日の終わりに向かって、だんだん画面に色みがついて生気がもどってくるのです。彼は自分の人生、今ここに戻ってくるのです。よいことです。ウツで、それも本当はこの日を最後に命を断とうと決めていた彼ですもの。

しかし、しかし、エンディングはひとひねりあり!おお・・・こうきましたか・・・(汗)。

画面の色だけなく、ひとコマひとコマが計算しつくされています。カット、アングル、色調、登場する建物、インテリア、何気ない小物にファッションと・・・・美しいです。しかし、大学教授の主人公にしては、ちょっとスタイリッシュすぎちゃったかも、とも思います。トム・フォードが撮ると、トイレに坐っている姿まで静かできれいな絵になってしまいます。

脚本もともにトム・フォード。セリフは少ないのですが、コリン・ファースが主人公の静かで深いいちずな愛を演じています。

お茶の間シネマトーク「トム・フォードワールド」

「シングルマン」観てきました。

グッチ、サンローランを手がけた世界的デザイナー、トム・フォードの初監督作品。

もともと俳優を目指していた方で、そこにデザイナーとしてに審美眼が加わり、いやぁ、完全にトム・フォードの世界。

まず、画面の色。ウツ状態の主人公にあわせて、最初はとてもおさえた色調。彼はともに暮らしていた恋人の男性を亡くして以来、完璧に心のバランスを失っているのです。まるで、も抜けの殻のような彼。恋人との思い出の中にしか生きられない彼。そんな彼を象徴するように、色みをおさえたトーンが彼の心と直面する現実との距離感をまるで人ごとのように映し出します。

この物語は、彼のある一日を切り取ったもの。一日のなかで、彼の気分のup and down を画面の色調が微妙に映し出します。一日の終わりに向かって、だんだん画面に色みがついて生気がもどってくるのです。彼は自分の人生、今ここに戻ってくるのです。よいことです。ウツで、それも本当はこの日を最後に命を断とうと決めていた彼ですもの。

しかし、しかし、エンディングはひとひねりあり!おお・・・こうきましたか・・・(汗)。

画面の色だけなく、ひとコマひとコマが計算しつくされています。カット、アングル、色調、登場する建物、インテリア、何気ない小物にファッションと・・・・美しいです。しかし、大学教授の主人公にしては、ちょっとスタイリッシュすぎちゃったかも、とも思います。トム・フォードが撮ると、トイレに坐っている姿まで静かできれいな絵になってしまいます。

脚本もともにトム・フォード。セリフは少ないのですが、コリン・ファースが主人公の静かで深いいちずな愛を演じています。

10-12-02 たすけて〜!ダメなわたし その2

(その1より)

誰かに文句を言いたいとき、攻撃したいとき、そんなときはもれなくその本人が幸せでないときです。文句や攻撃の相手はただの標的にすぎません。

このガミガミ言うお母さんは、娘のことに限らず、自分の人生のあらゆることが自分の思い通りにならない無力感にさいなまれています。ものごとが自分の思い通りにならないときや葛藤があるとき、ひとはそれを持て余します。どっかでガスを抜きたい、さっぱりしたいのです。自分の葛藤を自分の中で昇華する力もなく、また周りに力をかしてもらうというコミュニケーションもとれないので、結局その葛藤はどこかにぶつけられることになります。当たり散らすのに最適な場所・・・、それは都合よく「無力」の呪文をかけた娘なわけです。そして、娘をコントロールすることによって、自分の不安定な人生のコントロール感を取り戻すわけです。

また娘さんの立場からすると、なぜ母はわたしにガミガミ言うのだろう?母はわたしを愛してくれるはずなのに。その母がつらく当たるってことは、自分が愛されるに値しないからに違いない。と、確信し自信喪失します。「ダメなわたし」に対する自己攻撃に入ってしまうのです。

娘さん、違うんですよ〜!これは娘さんが、「母は無条件にわたしを愛してくれる人」という幻想に固執してしまったことが苦しみの原因となります。あるいは、他のおうちのお母さんと比較してしまったこと・・・。わたしたちは「母」=「無条件の愛」「やさしさ」「いたわり」という名札をつけようとします。しかし、「母」もひとりの人間。みんなと同じように心に傷のある人間です。もしかすると、この娘さん以上にガミガミ言われて育てられたので、同じように無意識でガミガミ言うのがあたりまえになっているのかもしれません。そうなると、「母」というラベルよりも、ひとりの「人間」としてどのような人なのかを冷静に観察しなければならないのです。

ああ、この人は自分に自信がないから、すぐにキレちゃうのね。すべてを自分の思い通りにしないとこわくてしかたがないのね。そして、攻撃することによって自分よりも弱いものをつくって、自分が優位に立ちたいのね。・・・と静かに分析してください。そうです。ただ「そういう人」なのです。それを淡々と理解しなければなりません。ゆめゆめ、理想に仕立て上げないようにいたしましょう。

すると、おのずと対処法が見えてきます。「お母さん、その言い方こわく感じるからもう少し静かに話してくれる?」とか、「わたしは自分がよかれと思ってやったけれど、うまくできないことは仕方がないわ」とか、母の理想と実際の娘の現実を冷静に教えてあげます。そして、思い切って距離をおくことも大切です。たとえ母であろうと。自分が傷つくときには、自分で自分を守る姿勢も大切なのです。

わたしたちはパターン化してしまった害のあるコミュニケーションや力関係に、鈍感になったり、いたずらに無力感を感じたりすることがあります。でも、もし自分がいやな思いをしているとしたら、もういちど他人のように離れた目線で冷静に関係のあり方をながめてみることです。もし、友人から相談されたとしたら、「あれ?それってすごくヘンじゃないの?」と気がついてしまうことがよくありますよね。そんなふうに、人から相談されたと思って客観的な目線でふだんの親しい人とのパターン化したコミュニケーションのあり方を見つめなおしてみましょう。

わたしたちは、自分を大切にすることに躊躇しがちですが、まずは自分の心によくよく聞き耳をたててあげること。そして、人は自分とは考えも感じ方も違って当然ということを前提に、自分の心の声をもとにお互いが歩み寄れるところを探ってゆくことも大切です。すると、双方に敗北感や支配された感覚が残らずよいコミュニケーションがとれるようになりますよ。Good Luck!(^-^)ノ

気づきの日記「たすけて〜!ダメなわたし」その2

(その1より)

誰かに文句を言いたいとき、攻撃したいとき、そんなときはもれなくその本人が幸せでないときです。文句や攻撃の相手はただの標的にすぎません。

このガミガミ言うお母さんは、娘のことに限らず、自分の人生のあらゆることが自分の思い通りにならない無力感にさいなまれています。ものごとが自分の思い通りにならないときや葛藤があるとき、ひとはそれを持て余します。どっかでガスを抜きたい、さっぱりしたいのです。自分の葛藤を自分の中で昇華する力もなく、また周りに力をかしてもらうというコミュニケーションもとれないので、結局その葛藤はどこかにぶつけられることになります。当たり散らすのに最適な場所・・・、それは都合よく「無力」の呪文をかけた娘なわけです。そして、娘をコントロールすることによって、自分の不安定な人生のコントロール感を取り戻すわけです。

また娘さんの立場からすると、なぜ母はわたしにガミガミ言うのだろう?母はわたしを愛してくれるはずなのに。その母がつらく当たるってことは、自分が愛されるに値しないからに違いない。と、確信し自信喪失します。「ダメなわたし」に対する自己攻撃に入ってしまうのです。

娘さん、違うんですよ〜!これは娘さんが、「母は無条件にわたしを愛してくれる人」という幻想に固執してしまったことが苦しみの原因となります。あるいは、他のおうちのお母さんと比較してしまったこと・・・。わたしたちは「母」=「無条件の愛」「やさしさ」「いたわり」という名札をつけようとします。しかし、「母」もひとりの人間。みんなと同じように心に傷のある人間です。もしかすると、この娘さん以上にガミガミ言われて育てられたので、同じように無意識でガミガミ言うのがあたりまえになっているのかもしれません。そうなると、「母」というラベルよりも、ひとりの「人間」としてどのような人なのかを冷静に観察しなければならないのです。

ああ、この人は自分に自信がないから、すぐにキレちゃうのね。すべてを自分の思い通りにしないとこわくてしかたがないのね。そして、攻撃することによって自分よりも弱いものをつくって、自分が優位に立ちたいのね。・・・と静かに分析してください。そうです。ただ「そういう人」なのです。それを淡々と理解しなければなりません。ゆめゆめ、理想に仕立て上げないようにいたしましょう。

すると、おのずと対処法が見えてきます。「お母さん、その言い方こわく感じるからもう少し静かに話してくれる?」とか、「わたしは自分がよかれと思ってやったけれど、うまくできないことは仕方がないわ」とか、母の理想と実際の娘の現実を冷静に教えてあげます。そして、思い切って距離をおくことも大切です。たとえ母であろうと。自分が傷つくときには、自分で自分を守る姿勢も大切なのです。

わたしたちはパターン化してしまった害のあるコミュニケーションや力関係に、鈍感になったり、いたずらに無力感を感じたりすることがあります。でも、もし自分がいやな思いをしているとしたら、もういちど他人のように離れた目線で冷静に関係のあり方をながめてみることです。もし、友人から相談されたとしたら、「あれ?それってすごくヘンじゃないの?」と気がついてしまうことがよくありますよね。そんなふうに、人から相談されたと思って客観的な目線でふだんの親しい人とのパターン化したコミュニケーションのあり方を見つめなおしてみましょう。

わたしたちは、自分を大切にすることに躊躇しがちですが、まずは自分の心によくよく聞き耳をたててあげること。そして、人は自分とは考えも感じ方も違って当然ということを前提に、自分の心の声をもとにお互いが歩み寄れるところを探ってゆくことも大切です。すると、双方に敗北感や支配された感覚が残らずよいコミュニケーションがとれるようになりますよ。Good Luck!(^-^)ノ