夜のお散歩

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

昨日、今日と、ようやくすごしやすい気温となり、ほっと一息です。

もともと湿気が大の苦手なうえ、たびたび36℃ごえという高温にみまわれ、アタマもカラダも機能不全状態がつづいておりました。

昼間はとうてい出歩けないので、仕事終わりのお散歩もすっかり夜間にずれこむしまつ。

日がおちてもなお、アスファルトの熱気とムッとする湿気で、歩いているうちにじんわりと蒸し焼き状態。帰ってくるころには、チーン! 一丁あがり、ポン酢でどうぞ! てな感じです (^^;;

夜間のお散歩のメリットは、あの突き刺すような陽射しと紫外線攻撃から逃れられること。

デメリットは ・・・ 太ること。

なぜに?って・・・せっせと歩いて、滝のように汗をかき、小腹がすきはじめる頃、

スタバのネオンが目のまえにあらわれ、吸いこまれるように姿を消しておりました(途中でクーラーにあたらないと、身体がもたないのです・汗)。

いちばんお世話になったのは、こちら!

ジューシーな桃がゴロゴロのったアールグレーのタルト♡  スポンジの甘味がしっかりとしているので、濃いめのアイスコーヒーによくあって、しばしハマっておりました。

ようやく涼しくなってきたので、そろそろ夜間のお散歩もおしまいです。スタバの煌めくネオン、おなごり惜しい ( •ॢ◡-ॢ)-♡

 

 

22-08-24 こころの水も抜いちゃいましょう!

 

「池の水、全部抜いちゃいました!」なんていう番組がありましたね。水を抜くと ・・・ あらあら、ビックリなものがあらわれます。

こころの池も、いえ、あえて沼といわせていただきますが、こころの沼もスッポリ水を抜くことができたらいいのに。

のぞきこんでみようとも暗く濁ってなにも見えないこころの沼ですが、もしゴゴゴ〜〜!と水が抜けちゃったら ・・・ あらま、キケン外来種がわやわや! すっかり占拠されていたことにびっくりするかもしれません。

キケン外来種とは、自分とは関係ないのに我がもの顔でそこに住みついているずうずうしい存在であるエゴちゃんです。

このエゴというイジワルで残酷で痛みや苦しみをこよなく愛するキケン外来種のせいで、こころの池はすっかり濁って不気味な沼と化してしまったのでした。いまやこの沼に何が映しだされようとも、すっかり歪んで恐ろしいものにしか見えません。

そして、その映し出されたものを見ては、ちぢみあがっている私たちなのです。

自分で自分をちぢみあがらせている私たちはそのことに気づいていません。コワイものの原因はそこではなく、世界や人や出来事のなかにあると信じています。

解決するためのポイントが完全にずれてしまっています。

ほんとうは、なにが目に映ろうとも、解決策はこころの沼をおそうじしてあげることで、すべてがあるがままの姿でクリアに映しだされるようにしてあげること。そして、源からやってくる光をきれいに反射して、自分の目にする世界をキラキラと照らしだし祝福してあげること。

そのためには、沼に身をひそめているキケン外来種(エゴ)の駆除がかかせません。

キケン外来種であるエゴちゃんは、いくら沼をのぞきこんでも姿をあらわしたりはしません。あまりに深く潜伏しているからです。

でも、もしも沼に映ったものが歪んでいるのであれば(自分が問題というものを知覚しているのであれば)、そこに駆除すべきものが潜んでいることを教えてくれているのです。

そこで、問題が知覚されたら、「やった〜!キケン外来種、み〜つけた!」と喜んでください。問題こそが、そこにいるよ!というサインだからです。

こころの沼のお掃除は、しっかりと「自分が必要としないゴミがある」という認識があってこそきれいにできるのです。ほんとうは問題だらけで自分に苦しみを与えまくっているのに、「私は大丈夫で〜す!」と見て見ぬふりをしているうちはお片づけをすることはできません。

ところが、私たちは問題を知覚するやいなや、すぐさまお掃除とはいかず ・・・ 抵抗をはじめます。

「こんなことがあっていいはずがない!」「いったいこれをどうしてやろうか?」・・・ と、「問題」VS「私」という対立モードとなり、その問題は自分とは無関係だとみなそうとします。

解決のためには、「これは、自分のこころ発」と認めることからはじめなければならないのに・・・。

問題とはたんに、「こころは沼と化していてお掃除が必要ですよ」「放置しておくと、どんどんコワイものに遭遇することになりますよ」というお掃除の必要性のお知らせです。

こころのキケン外来種を駆除して、澄んだ状態にもどしてあげるには ・・・

いま、目のまえで起きていることに対してあれこれ考えて、闘いを挑むのをやめましょう。

「オッケー!」といって、そのままにしてあげましょう。

そのままにするとは、それを握りしめるのをやめることです。ただ手をゆるめてあげれば、それはそのままとおりすぎて、消え去ってゆきます。目のまえをとおりすぎてゆく通行人のようにただ行かせてあげます。

闘おうとする気持ちが、この通行人の腕をつかみ、目のまえに引き止めてしまいます。

ただ手を離したら、キケン外来種駆除班である高い自己(ハイヤーセルフ)にお片づけを依頼しましょう。

「これは私の望む経験ではありません。私のこころの底にある誤った裁きの思いを取り去って、このことを安らかな気持ちで正しく見ることができるように一緒に見てください」と、まったく問題が存在しない次元を見ているハイヤーセルフの知覚をともにさせてもらいましょう。

あとはただそのままおまかせです。ハイヤーセルフが駆除作業をして、「これが正しいものの見方ですよ」と問題が存在しない知覚をシェアしてくれます。

問題が消え去るか、あるいはまったく違う見方ができ、問題とは感じなくなるか、はたまた予想外の嬉しい展開があるかもしれません。

しだいに濁った沼が本来の光輝く湖にアップグレードします。そこには、なにを映しだしても美しく完全で愛にあふれているように見えるはずです。

決して被害者になることなく、自分のこころが間違っていたことを認め、高い自己にこころのジャンクを駆除してもらい、あやしいものが住まう沼から澄んだ湖へとお掃除してもらいましょう。

こころの湖が澄みわたると、宇宙(源、あるいは神)の光がゆき渡り、すべてが美しさと完全さのなかで穏やかに見ることができるようになります。

世界や人々、自分自身があるがままに映しだされ、光は何倍にも広がってゆき、すべてを優しく包みこみます。

その光のなかで、自分自身もそしてまわりの人々も、安らかな笑顔でくつろいでいることに気づくでしょう。

濁った沼を放置すると異臭(問題)の原因となります(汗)。本来の自分自身である澄んだ湖として、愛と光と安らぎを感じ、広げる源となりましょう☆

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「こころの水も抜いちゃいましょう!」

 

「池の水、全部抜いちゃいました!」なんていう番組がありましたね。水を抜くと ・・・ あらあら、ビックリなものがあらわれます。

こころの池も、いえ、あえて沼といわせていただきますが、こころの沼もスッポリ水を抜くことができたらいいのに。

のぞきこんでみようとも暗く濁ってなにも見えないこころの沼ですが、もしゴゴゴ〜〜!と水が抜けちゃったら ・・・ あらま、キケン外来種がわやわや! すっかり占拠されていたことにびっくりするかもしれません。

キケン外来種とは、自分とは関係ないのに我がもの顔でそこに住みついているずうずうしい存在であるエゴちゃんです。

このエゴというイジワルで残酷で痛みや苦しみをこよなく愛するキケン外来種のせいで、こころの池はすっかり濁って不気味な沼と化してしまったのでした。いまやこの沼に何が映しだされようとも、すっかり歪んで恐ろしいものにしか見えません。

そして、その映し出されたものを見ては、ちぢみあがっている私たちなのです。

自分で自分をちぢみあがらせている私たちはそのことに気づいていません。コワイものの原因はそこではなく、世界や人や出来事のなかにあると信じています。

解決するためのポイントが完全にずれてしまっています。

ほんとうは、なにが目に映ろうとも、解決策はこころの沼をおそうじしてあげることで、すべてがあるがままの姿でクリアに映しだされるようにしてあげること。そして、源からやってくる光をきれいに反射して、自分の目にする世界をキラキラと照らしだし祝福してあげること。

そのためには、沼に身をひそめているキケン外来種(エゴ)の駆除がかかせません。

キケン外来種であるエゴちゃんは、いくら沼をのぞきこんでも姿をあらわしたりはしません。あまりに深く潜伏しているからです。

でも、もしも沼に映ったものが歪んでいるのであれば(自分が問題というものを知覚しているのであれば)、そこに駆除すべきものが潜んでいることを教えてくれているのです。

そこで、問題が知覚されたら、「やった〜!キケン外来種、み〜つけた!」と喜んでください。問題こそが、そこにいるよ!というサインだからです。

こころの沼のお掃除は、しっかりと「自分が必要としないゴミがある」という認識があってこそきれいにできるのです。ほんとうは問題だらけで自分に苦しみを与えまくっているのに、「私は大丈夫で〜す!」と見て見ぬふりをしているうちはお片づけをすることはできません。

ところが、私たちは問題を知覚するやいなや、すぐさまお掃除とはいかず ・・・ 抵抗をはじめます。

「こんなことがあっていいはずがない!」「いったいこれをどうしてやろうか?」・・・ と、「問題」VS「私」という対立モードとなり、その問題は自分とは無関係だとみなそうとします。

解決のためには、「これは、自分のこころ発」と認めることからはじめなければならないのに・・・。

問題とはたんに、「こころは沼と化していてお掃除が必要ですよ」「放置しておくと、どんどんコワイものに遭遇することになりますよ」というお掃除の必要性のお知らせです。

こころのキケン外来種を駆除して、澄んだ状態にもどしてあげるには ・・・

いま、目のまえで起きていることに対してあれこれ考えて、闘いを挑むのをやめましょう。

「オッケー!」といって、そのままにしてあげましょう。

そのままにするとは、それを握りしめるのをやめることです。ただ手をゆるめてあげれば、それはそのままとおりすぎて、消え去ってゆきます。目のまえをとおりすぎてゆく通行人のようにただ行かせてあげます。

闘おうとする気持ちが、この通行人の腕をつかみ、目のまえに引き止めてしまいます。

ただ手を離したら、キケン外来種駆除班である高い自己(ハイヤーセルフ)にお片づけを依頼しましょう。

「これは私の望む経験ではありません。私のこころの底にある誤った裁きの思いを取り去って、このことを安らかな気持ちで正しく見ることができるように一緒に見てください」と、まったく問題が存在しない次元を見ているハイヤーセルフの知覚をともにさせてもらいましょう。

あとはただそのままおまかせです。ハイヤーセルフが駆除作業をして、「これが正しいものの見方ですよ」と問題が存在しない知覚をシェアしてくれます。

問題が消え去るか、あるいはまったく違う見方ができ、問題とは感じなくなるか、はたまた予想外の嬉しい展開があるかもしれません。

しだいに濁った沼が本来の光輝く湖にアップグレードします。そこには、なにを映しだしても美しく完全で愛にあふれているように見えるはずです。

決して被害者になることなく、自分のこころが間違っていたことを認め、高い自己にこころのジャンクを駆除してもらい、あやしいものが住まう沼から澄んだ湖へとお掃除してもらいましょう。

こころの湖が澄みわたると、宇宙(源、あるいは神)の光がゆき渡り、すべてが美しさと完全さのなかで穏やかに見ることができるようになります。

世界や人々、自分自身があるがままに映しだされ、光は何倍にも広がってゆき、すべてを優しく包みこみます。

その光のなかで、自分自身もそしてまわりの人々も、安らかな笑顔でくつろいでいることに気づくでしょう。

濁った沼を放置すると異臭(問題)の原因となります(汗)。本来の自分自身である澄んだ湖として、愛と光と安らぎを感じ、広げる源となりましょう☆

 

 

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あなた、どちらさま?

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久方ぶりにペニンシュラのダイニングにゴハンを食べに行ってきました。コロナ禍で、かれこれ二年ぶりです。

ここは私とお友だちにとって特別な場所。なんせスープのお味が絶品で、ひとくち口にするとウットリ、ほっこり癒されちゃう。なので、何年も季節ごとに楽しみにかよっている次第です。

この日も、久方ぶりに愛しの君に再会するような乙女の気分で、そわそわドキドキ足をはこんだ私たち。

ところが・・・

登場したスープの風貌に一瞬びっくり!

酸味のきいたトマトのビシソワーズ。その真ん中にはさらに酸味のきいた真っ赤なビーツとオレンジのパンナコッタが鎮座し、もっと酸味のきいたクランプルが散りばめられています。

なんかすんごく攻めてる印象です(汗)。もの静かな落ちついた風貌で、優しく包容力たっぷりのお味だったはずのあの方が ・・・ ガーン☆ まさかのキャラ変!

もちろんトマトのビシソワーズは美味しかったのですが ・・・ 「あなた、どちらさま?!」という複雑な気持ちに。いったい、あのお方♡はいずこに?!

このコロナ禍、二年もたてばあらゆることが急激に変化していますね。たくさんのお店が閉店を余儀なくされるなか、いつもどおりに存在していてくれるだけでも感謝です。

でも、あのスープがまた食べた〜い! 落ち着いたら、また癒しの君に再会できますように♡ ペニンシュラさん、どうかお願いしますよっ!

PS ちなみに、この日のメニューは、トマトのビシソワーズに、お魚のグリエ エスニックソース、麦茶のガトーショコラとスイカのソルベでした♪

 

 

 

22-08-10 MISS ミス・フランスになりたい!

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「私は将来、お花屋さんになりたいです」「僕は電車の運転手さんです」。小学校の授業でよく見かける風景です。

9さいのアレックスくんはみんなのまえで「僕の夢はミス・フランス!」と、なんの躊躇もなく宣言するのですが、みんなから失笑をかってしまいます。

それからときは流れ、27さいのアレックスくん。ボクシングジムで働きながらも、うつうつとした毎日を過ごしています。

そこに幼なじみが現れ、彼と話しているうちにかつての夢がふたたびアレックスくんのこころに浮上しはじめ ・・・

彼はついに「ミス・フランス」のコンテストに挑戦することをこころに決めるのです。(→予告を見る

アレックスくんがお化粧をして女性のいでたちをするとあまりに自然なので、「あれ?これは大柄の女優さんを起用しているのかしら?」と思ったのですが、やはり男性でジェンダーレスモデルのアレクサンドル・ヴェテールさんという方でした。

この映画に起用されたというよりも、監督が彼に出会って、彼の生き方に触発され、彼のために作ったような作品です。

もともとゴルチェのモデルさんからスタートしたそうですが、キャスティングディレクターには男性と女性と両方のコスチュームの写真を渡していたそうです。

この物語のなかで、アレックスくんがほんとうに自分の気持ちに正直になり、やりたかったことに勇気をもってつき進んでゆく姿に感動するのは、アレクサンドルさん自身がそんな生き方を貫いている方だからなのでしょう。

彼自身の生きざまがアレックスくんをリアルにして迫力をあたえています。

まだまだ世の中にはいろいろなジェンダーや年齢やもろもろの制限があふれかえっています。

たとえば「ミス・コン」にしても、自分はミスだと思っている人、コンテストに出る資格がある!と自分が思っている人がみな出られたらいいのにと思います。たとえ80さいのレディーであってもね。

「他人に自分の価値を決めさせるな!」・・・ ズバン!とこのメッセージが胸に飛びこんできます。

PS 予告はちょっとキラキラポッブなハリウッド仕様になっていますが、こちらフランス映画でそんなにイケイケな感じではありませぬ。

涙壷度:★★☆☆☆(アレックスの正面切って自分であろうとする姿に涙がでました)

 

 

お茶の間シネマトーク「MISS ミス・フランスになりたい!」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「私は将来、お花屋さんになりたいです」「僕は電車の運転手さんです」。小学校の授業でよく見かける風景です。

9さいのアレックスくんはみんなのまえで「僕の夢はミス・フランス!」と、なんの躊躇もなく宣言するのですが、みんなから失笑をかってしまいます。

それからときは流れ、27さいのアレックスくん。ボクシングジムで働きながらも、うつうつとした毎日を過ごしています。

そこに幼なじみが現れ、彼と話しているうちにかつての夢がふたたびアレックスくんのこころに浮上しはじめ ・・・

彼はついに「ミス・フランス」のコンテストに挑戦することをこころに決めるのです。(→予告を見る

アレックスくんがお化粧をして女性のいでたちをするとあまりに自然なので、「あれ?これは大柄の女優さんを起用しているのかしら?」と思ったのですが、やはり男性でジェンダーレスモデルのアレクサンドル・ヴェテールさんという方でした。

この映画に起用されたというよりも、監督が彼に出会って、彼の生き方に触発され、彼のために作ったような作品です。

もともとゴルチェのモデルさんからスタートしたそうですが、キャスティングディレクターには男性と女性と両方のコスチュームの写真を渡していたそうです。

この物語のなかで、アレックスくんがほんとうに自分の気持ちに正直になり、やりたかったことに勇気をもってつき進んでゆく姿に感動するのは、アレクサンドルさん自身がそんな生き方を貫いている方だからなのでしょう。

彼自身の生きざまがアレックスくんをリアルにして迫力をあたえています。

まだまだ世の中にはいろいろなジェンダーや年齢やもろもろの制限があふれかえっています。

たとえば「ミス・コン」にしても、自分はミスだと思っている人、コンテストに出る資格がある!と自分が思っている人がみな出られたらいいのにと思います。たとえ80さいのレディーであってもね。

「他人に自分の価値を決めさせるな!」・・・ ズバン!とこのメッセージが胸に飛びこんできます。

PS 予告はちょっとキラキラポッブなハリウッド仕様になっていますが、こちらフランス映画でそんなにイケイケな感じではありませぬ。

涙壷度:★★☆☆☆(アレックスの正面切って自分であろうとする姿に涙がでました)

 

 

22-08-06 確かな答えをうけとるには?

 

自分の顔は、自分のものでありながら自分自身で直接見ることができません。

鏡という道具を使って、はじめて顔を見ることができます。

そして、私たちは鏡に映し出されたその顔を、自分の顔そのものとして受け入れ、信頼しています。

もしその顔に吹き出ものがあればすぐに治療をしますし、顔色が悪ければそれを改善しようと試みます。

顔と同じように、自分のこころも自分では目にすることができないものです。やはり、なにか見るための道具を必要とします。

では、自分のこころを見るためには何を使えばよいのでしょう?

それは、顔を見るときと同様に、やはり鏡を使います。鏡を見ることで、その状態を知ることができるのです。

自分のこころを見るための鏡とは何でしょうか?

それは自分の外側の「世界や人」という鏡なのです。

自分と向かいあっている世界や人は、まさに自分のこころの状態をそっくりそのまま映しだしてくれる鏡そのものです。

自分が気づいているこころも、気づくことがない無意識のこころも、丸ごと正直に映し出します。

気づいているこころはまだしも、無意識のこころのなかには自分が拒絶してきた怖れや怒り、罪悪感、傷ついた痛みなどが温存されているために、それが鏡に映し出されるとまるで自分とは関係ないもののように感じてしまうこともあるかもしれません。そして、それを嫌悪し、遠ざけてしまうこともあるかもしれません。

なぜ外側の世界や人が自分のこころのすべてを映し出しているのかというと、「自分」こそがそれを見て、「自分」こそがそれを感じて、「自分」こそがそれを解釈しているので、それはまさに自分自身のシンボルであり、自分が自分そのものを見ていることになるからです。

「人のふりみて、我がふりなおせ」という古くからの教訓がありますが、まさにそういうことなのです。

この世界・人という鏡があり、私のこころのすべてを映し出してくれるからこそ、私たちは自分の顔の吹き出ものに気づいて治療するがごとく、こころの間違に気づいて、それを正すためにこころを変えることができるのです。

そうでないならば、私たちがこころを正すための手がかりがなくなってしまうことになります。

また同時に、私たちのこころにはすべてのものごとに対する答えも存在しています。

それは、自分や人にかかわるすべての問題の解決策となる万能の答えです。

この答えを受け取るためにも、世界や人という鏡を必要とするのです。

直接自分のこころから答えを受け取ろうとしても、「そんなはずはない」「間違っているに違いない」と、疑いや怖れなどの癒されていない考えにすぐさまブロックされ、素直に答えを信頼することができなくなっています。

キラキラと輝くインスピレーションは、すぐさま却下されてゴミ箱に捨てられてしまうのです。 

せっかく浮かんできた解決策も、「いや、それはダメだ」「できるはずがない」という否定的な思いに阻まれてしまえば、その導きはまったく無きものになってしまうのです。

自分を確実に導き、問題から救ってくれる答えはすでにそこにあります。

それを手にするためには、自分のこころのすべてを映しだしてくれる世界・人という鏡を使って、確実に受け取ることができるのです。

ところが、私たちは自分の癒しに役立ち、難関から救ってくれる答えを映し出す鏡そのものをあまり信頼していません。自分とは関係のないものとして扱っているからです。

世界や人という鏡を信頼できないのなら、そこからは信用できないような導きしか見つけることができないのです。

「与えるものは、受け取るもの」。私たちはいつでも、自分のこころが決めたものだけを受け取るからです。

自分にとってまさに助けとなる答えを受け取るためには、世界や人という鏡への無条件の信頼が欠かせないことになります。

それは、世界や人を自分勝手な価値判断で歪曲して見ることなく、まっさらな無垢のままに見ようとすることです。鏡をねじ曲げずに、きれいなままにしておくことです。

こころを空っぽにしてそのまま受け入れることは、それをあるがままに味わいめでること、愛することにつながります。

この無防備な信頼があってこそ、同じような信頼度で自分を導き救ってくれる答えが自分に返されてくることに気づくようになります。まさに、世界・人という鏡を通して、必要な答えがタイムリーに映しだされるのです。

安らぎのなかで世界や人を味わいめでるとき、自分のなかにあるすべてに対する答えが鏡のなかにしっかりと知覚されるようになります。

信頼を与えられた鏡は、しっかり正しい答えを輝きかえしてくれるのです。

こころを映し出してくれる鏡をきれいにするというこは、世界や人を価値判断することなく無条件に受け入れて、安らかなおもいであるがままに味わいめでることです。

愛して受け入れることで、まったく同質の贈りものが自分に豊かにもたらされるのに気づきます。

自分の優しさと安らぎのなかで、世界や人という鏡が確かな答えを輝きかえしてくれるのを受け取ってみましょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「確かな答えをうけとるには?」

 

自分の顔は、自分のものでありながら自分自身で直接見ることができません。

鏡という道具を使って、はじめて顔を見ることができます。

そして、私たちは鏡に映し出されたその顔を、自分の顔そのものとして受け入れ、信頼しています。

もしその顔に吹き出ものがあればすぐに治療をしますし、顔色が悪ければそれを改善しようと試みます。

顔と同じように、自分のこころも自分では目にすることができないものです。やはり、なにか見るための道具を必要とします。

では、自分のこころを見るためには何を使えばよいのでしょう?

それは、顔を見るときと同様に、やはり鏡を使います。鏡を見ることで、その状態を知ることができるのです。

自分のこころを見るための鏡とは何でしょうか?

それは自分の外側の「世界や人」という鏡なのです。

自分と向かいあっている世界や人は、まさに自分のこころの状態をそっくりそのまま映しだしてくれる鏡そのものです。

自分が気づいているこころも、気づくことがない無意識のこころも、丸ごと正直に映し出します。

気づいているこころはまだしも、無意識のこころのなかには自分が拒絶してきた怖れや怒り、罪悪感、傷ついた痛みなどが温存されているために、それが鏡に映し出されるとまるで自分とは関係ないもののように感じてしまうこともあるかもしれません。そして、それを嫌悪し、遠ざけてしまうこともあるかもしれません。

なぜ外側の世界や人が自分のこころのすべてを映し出しているのかというと、「自分」こそがそれを見て、「自分」こそがそれを感じて、「自分」こそがそれを解釈しているので、それはまさに自分自身のシンボルであり、自分が自分そのものを見ていることになるからです。

「人のふりみて、我がふりなおせ」という古くからの教訓がありますが、まさにそういうことなのです。

この世界・人という鏡があり、私のこころのすべてを映し出してくれるからこそ、私たちは自分の顔の吹き出ものに気づいて治療するがごとく、こころの間違に気づいて、それを正すためにこころを変えることができるのです。

そうでないならば、私たちがこころを正すための手がかりがなくなってしまうことになります。

また同時に、私たちのこころにはすべてのものごとに対する答えも存在しています。

それは、自分や人にかかわるすべての問題の解決策となる万能の答えです。

この答えを受け取るためにも、世界や人という鏡を必要とするのです。

直接自分のこころから答えを受け取ろうとしても、「そんなはずはない」「間違っているに違いない」と、疑いや怖れなどの癒されていない考えにすぐさまブロックされ、素直に答えを信頼することができなくなっています。

キラキラと輝くインスピレーションは、すぐさま却下されてゴミ箱に捨てられてしまうのです。 

せっかく浮かんできた解決策も、「いや、それはダメだ」「できるはずがない」という否定的な思いに阻まれてしまえば、その導きはまったく無きものになってしまうのです。

自分を確実に導き、問題から救ってくれる答えはすでにそこにあります。

それを手にするためには、自分のこころのすべてを映しだしてくれる世界・人という鏡を使って、確実に受け取ることができるのです。

ところが、私たちは自分の癒しに役立ち、難関から救ってくれる答えを映し出す鏡そのものをあまり信頼していません。自分とは関係のないものとして扱っているからです。

世界や人という鏡を信頼できないのなら、そこからは信用できないような導きしか見つけることができないのです。

「与えるものは、受け取るもの」。私たちはいつでも、自分のこころが決めたものだけを受け取るからです。

自分にとってまさに助けとなる答えを受け取るためには、世界や人という鏡への無条件の信頼が欠かせないことになります。

それは、世界や人を自分勝手な価値判断で歪曲して見ることなく、まっさらな無垢のままに見ようとすることです。鏡をねじ曲げずに、きれいなままにしておくことです。

こころを空っぽにしてそのまま受け入れることは、それをあるがままに味わいめでること、愛することにつながります。

この無防備な信頼があってこそ、同じような信頼度で自分を導き救ってくれる答えが自分に返されてくることに気づくようになります。まさに、世界・人という鏡を通して、必要な答えがタイムリーに映しだされるのです。

安らぎのなかで世界や人を味わいめでるとき、自分のなかにあるすべてに対する答えが鏡のなかにしっかりと知覚されるようになります。

信頼を与えられた鏡は、しっかり正しい答えを輝きかえしてくれるのです。

こころを映し出してくれる鏡をきれいにするというこは、世界や人を価値判断することなく無条件に受け入れて、安らかなおもいであるがままに味わいめでることです。

愛して受け入れることで、まったく同質の贈りものが自分に豊かにもたらされるのに気づきます。

自分の優しさと安らぎのなかで、世界や人という鏡が確かな答えを輝きかえしてくれるのを受け取ってみましょう。

 

 

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脱輪ゴム

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ペンケースって、いざ買おうとするとなかなかよいあんばいのものが見つかりません。

使い勝手はいいけど透明なビニール製は味気なし、かといって可愛いタイプは完全にお子ちゃま仕様。

おとな可愛いペンケースがほしい!とおもいつつ、鉛筆やマーカーを輪ゴムでくくって持ち歩くこと数年・・・。すっかりペンケースが欲しいことも忘れていました。

そんなある日、「食べたら、ペンケースにでもして」とおともだちにいただいたカンカン。

わっ、かわいい♡

「たかちゃん色だと思って選んだ」そうです。そういえば、以前にプレゼントしていただいたストールもグリーンにオレンジという同じ色合いでしたっけ。

自分らしい色合いって、本人がいちばん知らなかったりします。たしかに、身につける小物はグリーンとオレンジが多いかもしれません。

このカンカン、ガレットクッキーが入っていたのですが、まさにわたしの望むペンケースにピッタリ!

ペンにマーカー、目薬に耳栓、はさみに付箋、修正テープに定規まで・・・何でも入ってしまうわりにはコンパクトで願ったりかなったり!

輪ゴムさん、長年お世話になりました。

 

 

22-07-27 Coda あいのうた

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今年度のオスカーを獲得した作品です。劇場で観た友人からも「よかった!」と聞いていました。

観はじめてみると、すごいデジャヴ感・・・。つぎつぎ何か起こるかわかっちゃう。私って、サイキック?!

いえいえ! あとでわかりましたが、これは以前に観たフランス映画の「エール!」という作品のリメイクでした。

コーダとは、耳が聞こえない親をもつこどものこと。主人公のルビーは、家族のなかで自分以外の両親と兄は耳が聞こえません。

漁業を営む一家にとって、家族が社会につながり機能してゆくためにルビーはこどもの頃から彼らの耳であり言葉となってきたのです。

そんなルビーが高校生になったとき、気になる男の子が合唱部に入部したのにつられてルビーも合唱をはじめます。

声を発しない家族で育ったルビーにとって、人まえで歌うことはプレッシャーだったのですが、彼女の才能はすぐに発掘されてしまいました!

でも、ルビーの家族はルビーのことを「いてくれて当然」と思っているので、歌のレッスンという単独行動は認められないのです。それになんといっても、ルビーの歌の才能を知るよしもありません。

先生のなかば強引な個人レッスンと家族とのあいだで、ルビーはホンロウされ悩みます。

開きはじめる未来への夢の扉と、家族という重し・・・。自分の夢を追いかけることは家族を裏切ることになるのでしょうか・・・? (→予告をみる

ルビーが憧れる同級生は、「シング・ストリート」の美少年コナーくんじゃありませんかっ!

すっかり青年になってる〜! でも、白桃のような色白ほっぺは変わっていません。

このストーリーのなかでも歌ってくれています♪(たしか、もともとはオペラを歌う男の子でしたよね) そして、このストーリーのなかでも、また水に飛び込んでくれます(笑)。

ルビーが学校の発表会で歌うシーン。人々がうっとりと聴き入るなか、その歌声が ふと・・・ 消え去ります。

あ・・・ これがルビーの両親とおにいちゃんが生きている世界なんだ。

愛しいルビーが目のまえで一生懸命歌っているけれど、その歌声も、歌詞すらもわからないのです。幸せな表情のひとびとのなかで置きざりにされているような感覚。

聞こえないってこういうことなんだ、とあらためて感じました。

ルビー役のエミリア・ジョーンズの歌声、こころにしみ入ります♡(→こちらから

ストーリーじたいは、「エール!」と同じですが、ハリウッド流の見せ方でオスカーになってしまうのですねっ!

涙壷度:★★★☆☆(すべての解決策は、おのずとやってくる!)