23-01-29 舞妓さんちのまかないさん

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

最近お気に入りのドラマ「舞妓さんちのまかないさん」は、是枝裕和監督の作品です。

人間模様があたたかくてほっこりするし、古都の街なみや四季は美しく、舞妓ちゃんたちは健気で愛らしい、そしてまかないゴハンがなんとも美味しそう♡

青森の中学を卒業して、舞妓さんの見習いで祇園の花街にやってきたキヨちゃんとすみれちゃん。ふたりは幼なじみで大の仲良し。

修学旅行で目にした舞妓さんにこころを奪われ、ふたりでこの道を志すことになったのです。

でも、憧れや決意だけではどうにもならないこともあり、キヨちゃんはお稽古数ヶ月でお師匠さんに見離されることに・・・。

あわや青森に送り返される寸前に、腰を痛めたまかないさんにかわって「もしよかったら、私に作らせてもらえませんか?きょうのまかないごはん」と声をあげたキヨちゃん。それによって、キヨちゃんは尾形のまかないさんとして京都に残ることになるのです。(→予告をみる

尾形のおかあさんいわく、キヨちゃんは「お多福」のようだと。

お多福といえば、穏やかで優しい顔の女性。そしてなによりも、まわりに福を運んで幸せにするひと。

実際、キヨちゃんは手に入らないものに執着したり、羨ましがったり、人や自分を責めることがありません。

たとえ、目のまえでひとつの扉が閉ざされてしまっても、次に開きかけている扉にひらりと自然体で身をまかせることができるのです。

だから、いつでも腐ることなく、たったいま目のまえにある現実を喜びと感謝をもって受け入れて、太陽のように無条件に喜びを与えてゆきます。

そのむかし、日本が舞台の作品であってもハリウッドが制作していると、「えっ?これどこよ?」と笑っちゃうぐらいヘンテコな日本になっておりましたっけ。

今は日本人の監督さんの作品がそのまま世界に配信されるようになり、日本古来の美しさや伝統がゆがめられることなくそのまま伝わるようになりました。

世界中の是枝ファンも、ぜひキヨちゃんとすみれちゃんの花街での奮闘を見て欲しいものです。

きっと、もっと日本が好きになっちゃうはず♡ そして、親子丼や茄子の煮びたしを食べるために、日本に来ちゃうかも?!(→メイキング映像

 

 

 

お茶の間シネマトーク「舞妓さんちのまかないさん」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

最近お気に入りのドラマ「舞妓さんちのまかないさん」は、是枝裕和監督の作品です。

人間模様があたたかくてほっこりするし、古都の街なみや四季は美しく、舞妓ちゃんたちは健気で愛らしい、そしてまかないゴハンがなんとも美味しそう♡

青森の中学を卒業して、舞妓さんの見習いで祇園の花街にやってきたキヨちゃんとすみれちゃん。ふたりは幼なじみで大の仲良し。

修学旅行で目にした舞妓さんにこころを奪われ、ふたりでこの道を志すことになったのです。

でも、憧れや決意だけではどうにもならないこともあり、キヨちゃんはお稽古数ヶ月でお師匠さんに見離されることに・・・。

あわや青森に送り返される寸前に、腰を痛めたまかないさんにかわって「もしよかったら、私に作らせてもらえませんか?きょうのまかないごはん」と声をあげたキヨちゃん。それによって、キヨちゃんは尾形のまかないさんとして京都に残ることになるのです。(→予告をみる

尾形のおかあさんいわく、キヨちゃんは「お多福」のようだと。

お多福といえば、穏やかで優しい顔の女性。そしてなによりも、まわりに福を運んで幸せにするひと。

実際、キヨちゃんは手に入らないものに執着したり、羨ましがったり、人や自分を責めることがありません。

たとえ、目のまえでひとつの扉が閉ざされてしまっても、次に開きかけている扉にひらりと自然体で身をまかせることができるのです。

だから、いつでも腐ることなく、たったいま目のまえにある現実を喜びと感謝をもって受け入れて、太陽のように無条件に喜びを与えてゆきます。

そのむかし、日本が舞台の作品であってもハリウッドが制作していると、「えっ?これどこよ?」と笑っちゃうぐらいヘンテコな日本になっておりましたっけ。

今は日本人の監督さんの作品がそのまま世界に配信されるようになり、日本古来の美しさや伝統がゆがめられることなくそのまま伝わるようになりました。

世界中の是枝ファンも、ぜひキヨちゃんとすみれちゃんの花街での奮闘を見て欲しいものです。

きっと、もっと日本が好きになっちゃうはず♡ そして、親子丼や茄子の煮びたしを食べるために、日本に来ちゃうかも?!(→メイキング映像

 

 

 

新年会♪

焼肉新年会で〜す♡

コロナのおかげで、完全個室のお店がずいぶん増えましたね。

こちら、中目黒の兜さんは細い通路の右と左に個室が並ぶお店。しっかり扉がしまっているので、酔っぱらっていたら戻って来れなさそうです(汗)。

左右のお部屋から聞こえてくる声で、お顔が見えなくてもだいたいどんなグループなのかがわかっちゃいます。

右のお部屋は「なにかお仕事をしている70代三人組の女性」。これは声のトーンとオホホという笑い方と、サプリについての話題などから推測。

左のお部屋は、「20代、男女グループ」。こちらは、かなりテンション高いし、完全にいまっぽい喋りから。

さて・・・私たちはいったいどう思われていたのやら・・・?(笑)

ちなみに私たちは、Yちゃんのもってきたスナックについて盛り上がっておりました。

それは焼肉の部位の形をしたクラッカーで、一頭分のさまざまな部位があばら骨のなかに収まるようにできています。さらにクラッカーを指でこすると表面の色が変わって、まるで焼けたようになるというオモシロお菓子なのでした。

リアル焼肉のほうは、どれもふんわりトロトロでとても美味でした。

 

 

 

 

 

塩とタレがひとしきり運ばれてきて、その後シーンとしているので、「あれ?ここでおしまいみたい・・・?」。「でも、もうちょっと食べたいよね〜」と追加注文をしてせっせと焼いていたら、あらたにお肉と生たまごが運ばれてきました。じつは、まだコースが終わってなどいなかったのでした(あのインターバルはお店の戦略か?!笑)

食後は、向いにあるスーパーでお買いものをして、家飲みへ。

ワイン、葡萄ジュース、ブルーチーズ、タコ、チーズケーキ、ロールケーキ、自分で作るポップコーンなど、それぞれが思い思いにカゴのなかへ。

童心にかえってポップコーンなんか作っちゃったりして(せっせとフリフリ!)

賑やかな家飲みタイムでした〜。今年も楽しくがんばろ〜♪

 

 

 

23-01-22 新年の目標?・・・忘れてください

 

Q:今年こそはと新年の目標を作ったのですが、なかなか行動にうつせずフラストレーションを感じています。このまま気がつけば、半年、一年と過ぎてしまいそうで、なにもできない自分にガッカリしています。

A:「あれをするべき、これもするべき」と思いながらなにもしないのと、ただリラックスしてなにもしないのと ・・・ どちらもなにもしないことには変わりはないのですが、こころもちがぜんぜん違います。

前者は、焦りながら、がっかり感や罪悪感にさいなまれます。そして自分の無力さを責めるかもしれません。

一方、なんの考えもなくただリラックスしてなにもしないときは、同じくなにもしていないのにもかかわらず心地よささえ感じるかもしれません。

そして、ここちよくダラダラ(リラックス)しているうちに、フト気がついたらいつのまにかなにかを始めているかもしれません。

お腹がすいたらふらっとお台所に立つように、トイレに行きたくなったら無意識のうちにトイレのドアをあけているように、

ほんとうはなんの決意もいらないし、自分を鼓舞する必要もないし、ましてやお尻を叩く必要もないのです。

テコでも自分を動かさなくては・・・思うなら、それは自分へのギャクタイです。だって、それを実際にする、という現実はまだ起きていないのに、ムリじいをしているのですからです。

梅や桜だって、頼みこまれて、お尻をたたかれて、せかされてしぶしぶ咲くわけではありません。そのときがくれば咲きます。それはときに、みんながヘンだ!という季節に咲くのかもしれないのです。

すべては自然の流れのなかで自動的に起こっています。

お台所に行きたい、トイレに行きたい、コンビニに行きたい・・・ いえ、行きたいと思うまえにもう身体は動いているかもしれません。考えはいつもあとづけです。

だから、今ゆったり静かな時間がつづいているとしたら、思いきりそれを受け入れて楽しんでみましょう。

新年の誓いさえも、それは架空のものかもしれません。もし起こらないのであれば、忘れてしまってかまわないのです。

ゆったり過ごしているうちに、そんなリラックスタイムさえも持てないほど活動的な時期も巡ってくるかもしれません。

起きていること、それがいつも答え。

「でも」「だって」「そうはいっても」とごたくを並べはじめると、そこにすでにある静けさ、完全性、秩序が乱されてしまいます。

そして、自分がすべての意味を把握している必要もありません。起きていることをほっておきましょう。

ルービックキューブだって、きれいに全部がそろうまえは、「えっ?!ちゃんと揃っていたところまでグチャグチャにしちゃうの?」というカオスをへながら完成に向います。

宇宙(神なる存在)が私たちのルービックキューブをきれいに整えてくれています。

グチャグチャでちょっと心配でも、お手なみ拝見! おまかせしておきましょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「新年の目標?・・・忘れてください」

 

Q:今年こそはと新年の目標を作ったのですが、なかなか行動にうつせずフラストレーションを感じています。このまま気がつけば、半年、一年と過ぎてしまいそうで、なにもできない自分にガッカリしています。

A:「あれをするべき、これもするべき」と思いながらなにもしないのと、ただリラックスしてなにもしないのと ・・・ どちらもなにもしないことには変わりはないのですが、こころもちがぜんぜん違います。

前者は、焦りながら、がっかり感や罪悪感にさいなまれます。そして自分の無力さを責めるかもしれません。

一方、なんの考えもなくただリラックスしてなにもしないときは、同じくなにもしていないのにもかかわらず心地よささえ感じるかもしれません。

そして、ここちよくダラダラ(リラックス)しているうちに、フト気がついたらいつのまにかなにかを始めているかもしれません。

お腹がすいたらふらっとお台所に立つように、トイレに行きたくなったら無意識のうちにトイレのドアをあけているように、

ほんとうはなんの決意もいらないし、自分を鼓舞する必要もないし、ましてやお尻を叩く必要もないのです。

テコでも自分を動かさなくては・・・思うなら、それは自分へのギャクタイです。だって、それを実際にする、という現実はまだ起きていないのに、ムリじいをしているのですからです。

梅や桜だって、頼みこまれて、お尻をたたかれて、せかされてしぶしぶ咲くわけではありません。そのときがくれば咲きます。それはときに、みんながヘンだ!という季節に咲くのかもしれないのです。

すべては自然の流れのなかで自動的に起こっています。

お台所に行きたい、トイレに行きたい、コンビニに行きたい・・・ いえ、行きたいと思うまえにもう身体は動いているかもしれません。考えはいつもあとづけです。

だから、今ゆったり静かな時間がつづいているとしたら、思いきりそれを受け入れて楽しんでみましょう。

新年の誓いさえも、それは架空のものかもしれません。もし起こらないのであれば、忘れてしまってかまわないのです。

ゆったり過ごしているうちに、そんなリラックスタイムさえも持てないほど活動的な時期も巡ってくるかもしれません。

起きていること、それがいつも答え。

「でも」「だって」「そうはいっても」とごたくを並べはじめると、そこにすでにある静けさ、完全性、秩序が乱されてしまいます。

そして、自分がすべての意味を把握している必要もありません。起きていることをほっておきましょう。

ルービックキューブだって、きれいに全部がそろうまえは、「えっ?!ちゃんと揃っていたところまでグチャグチャにしちゃうの?」というカオスをへながら完成に向います。

宇宙(神なる存在)が私たちのルービックキューブをきれいに整えてくれています。

グチャグチャでちょっと心配でも、お手なみ拝見! おまかせしておきましょう。

 

 

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最近のおやつ♡

いただきもののおやつです。

ガレットデロワ♪

この時期に食べられるフランスの焼き菓子ですが、日本でもよく見かけるようになってきました。

ホールを切りわけて、お菓子のなかから陶器のフェーブ(お人形や王冠など)が出てきた人はアタリ! この一年ラッキーに過ごせるそうな。

どれどれ・・・?

私がいただいたガレットデロワは、どのピースにもフェーブは見つからず・・・ そのかわりに、それぞれにまん丸の栗が入っていました。

ということで、みんなでラッキー! よかったね♪

パンダバウム♪

可愛いパンダちゃんがプリントされたバウムクーヘン。

こんなふうにくりぬいて遊べるようになっています。

けっこう食べごたえアリでした。

お友だちが一緒に送ってくださったフォションの濃いめのコーヒーにぴったり。どちらも美味でした。

ごちそうさま〜♡

 

 

23-01-09 これじゃない、ここじゃないと思うとき

 

「私が望んでいるのは、こんなことじゃない」「私がいたいところは、ここじゃない」「この人じゃない」「これじゃない」 ・・・ こんなセリフがアタマのなかをかけめぐるやいなや、突如としてイヤな気持ちにおそわれます。

「私は間違ってしまった」「失敗してしまった」・・・そんな敗北感や罪悪感でこころがいっぱいになってしまうからです。

「これじゃない」とアタマがささやくまでは、こころは平穏だったはずなのに・・・。とたんに、見えていた景色も日常も、一気に生気を失いトーンダウンしてしまったように感じます。

そうなのです。いつもアタマのなかには、自分自身を幸せにしないようなラジオ放送が流れっぱなしになっています。

その流れてくる音声を、私たちは「自分の」考えと呼んでしまっています。しかし、それはたんに勝手にどこからともなく流れてくる音声、まさしくラジオ放送のようなもので、じつはまったく「私の」ものではないのです。

「私の」ものではないからこそ、スイッチを切ることもできませんし、チャンネルを変えることも容易ではありません。

そんな勝手な放送に対して「なになに?」と真剣に耳を傾けてしまうと、それまで平穏だったはずの日常がいきなり失敗と不足モードに切り替わってしまうのです。

もしも学校で、「あなたはいつだって、いるべきところにいるし、そもそもあなたは間違うことなどできやしない」「いつだってそれで大丈夫だから」「ただ流れを信頼してみましょう」、そう教えてくれさえしたら、私たちは今というときのなかでもっとくつろいで安らかでいられたことでしょう。

ところが、誰ひとりとしてそのようなことは教えてくれなかったのです。

なぜなら、誰もほんとうのことを知らないからです。そしてじつは、誰もが一日中アタマのなかで流れつづける「みんなで苦しもう放送局」の熱心なリスナーであり、ファンでもあるからなのです。

その音声に耳を傾けるのはあたりまえ、そしてその情報をうのみにすることが正しいことだ、と信じているのです。

もし、「これじゃない」「ここじゃない」「この人じゃない」というセリフが流れてきても、「ただ勝手になにか言っているけど、私とは関係ない!」とまったくとりあわなかったとしたら、こころはそのウソをまにうけることなく、穏やかでいられるのです。なぜなら、このままでまったく間違いがないから。大丈夫だからです。

私たちは誰でも、いつの瞬間においても自分にできることしかしていません。どんなときもちゃんと自分なりのベストを尽くしているのです。そして、そのようにしかできません。

できることがそれだけだからこそ、起きることがいつも私たちにとってたったひとつの答えなのです。もともと他の道という選択肢は存在しないのです。

それを潔く受け入れてしまいましょう。そうすると、いろいろなことがシンプルになり、こころが穏やかになります。

まさに、♪これでいいのだ〜♪とひらき直れます。

「失敗した」とか「間違うかもしれない」などという、心配や怖れにこころが占領されることがないぶん、より正しい導きがこころのなかにストンと落ちてきて、それに容易に気づくことができるようになります。

心配や怖れはかなりのエネルギーを消耗させ、混乱におとしいれ、負のスパイラルへと引きこみます。だから、いつも「私はこれでいい!これが大正解!」と信じられるならば(実際そうなのですが)、クリアなこころと十分なエネルギーのなかで、導きに従ってたくさんの解決策を受けとることができるようになります。

アタマのなかのラジオ放送は無料のサービスなので勝手にじゃんじゃん配信されてきますが、私たちはそれに耳を傾けない、信じこまない、握りしめない、巻き込まれない、そしてただスルーする、という自由があります。

アタマが現状に対して「これじゃない」「ここじゃない」と文句をいいだしたら、「ほほ〜、あなたはそう思っているんですね。でも、私はそう思いませんよ。そもそも、私は間違うことなどできないからです。だから、私はこのままで大丈夫です」と軽く受け流しましょう。

そして、リラックスして、ドンとかまえていましょう。 それで、かならず大丈夫! すべては順を追ってうまく運びます。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「これじゃない、ここじゃないと思うとき」

 

「私が望んでいるのは、こんなことじゃない」「私がいたいところは、ここじゃない」「この人じゃない」「これじゃない」 ・・・ こんなセリフがアタマのなかをかけめぐるやいなや、突如としてイヤな気持ちにおそわれます。

「私は間違ってしまった」「失敗してしまった」・・・そんな敗北感や罪悪感でこころがいっぱいになってしまうからです。

「これじゃない」とアタマがささやくまでは、こころは平穏だったはずなのに・・・。とたんに、見えていた景色も日常も、一気に生気を失いトーンダウンしてしまったように感じます。

そうなのです。いつもアタマのなかには、自分自身を幸せにしないようなラジオ放送が流れっぱなしになっています。

その流れてくる音声を、私たちは「自分の」考えと呼んでしまっています。しかし、それはたんに勝手にどこからともなく流れてくる音声、まさしくラジオ放送のようなもので、じつはまったく「私の」ものではないのです。

「私の」ものではないからこそ、スイッチを切ることもできませんし、チャンネルを変えることも容易ではありません。

そんな勝手な放送に対して「なになに?」と真剣に耳を傾けてしまうと、それまで平穏だったはずの日常がいきなり失敗と不足モードに切り替わってしまうのです。

もしも学校で、「あなたはいつだって、いるべきところにいるし、そもそもあなたは間違うことなどできやしない」「いつだってそれで大丈夫だから」「ただ流れを信頼してみましょう」、そう教えてくれさえしたら、私たちは今というときのなかでもっとくつろいで安らかでいられたことでしょう。

ところが、誰ひとりとしてそのようなことは教えてくれなかったのです。

なぜなら、誰もほんとうのことを知らないからです。そしてじつは、誰もが一日中アタマのなかで流れつづける「みんなで苦しもう放送局」の熱心なリスナーであり、ファンでもあるからなのです。

その音声に耳を傾けるのはあたりまえ、そしてその情報をうのみにすることが正しいことだ、と信じているのです。

もし、「これじゃない」「ここじゃない」「この人じゃない」というセリフが流れてきても、「ただ勝手になにか言っているけど、私とは関係ない!」とまったくとりあわなかったとしたら、こころはそのウソをまにうけることなく、穏やかでいられるのです。なぜなら、このままでまったく間違いがないから。大丈夫だからです。

私たちは誰でも、いつの瞬間においても自分にできることしかしていません。どんなときもちゃんと自分なりのベストを尽くしているのです。そして、そのようにしかできません。

できることがそれだけだからこそ、起きることがいつも私たちにとってたったひとつの答えなのです。もともと他の道という選択肢は存在しないのです。

それを潔く受け入れてしまいましょう。そうすると、いろいろなことがシンプルになり、こころが穏やかになります。

まさに、♪これでいいのだ〜♪とひらき直れます。

「失敗した」とか「間違うかもしれない」などという、心配や怖れにこころが占領されることがないぶん、より正しい導きがこころのなかにストンと落ちてきて、それに容易に気づくことができるようになります。

心配や怖れはかなりのエネルギーを消耗させ、混乱におとしいれ、負のスパイラルへと引きこみます。だから、いつも「私はこれでいい!これが大正解!」と信じられるならば(実際そうなのですが)、クリアなこころと十分なエネルギーのなかで、導きに従ってたくさんの解決策を受けとることができるようになります。

アタマのなかのラジオ放送は無料のサービスなので勝手にじゃんじゃん配信されてきますが、私たちはそれに耳を傾けない、信じこまない、握りしめない、巻き込まれない、そしてただスルーする、という自由があります。

アタマが現状に対して「これじゃない」「ここじゃない」と文句をいいだしたら、「ほほ〜、あなたはそう思っているんですね。でも、私はそう思いませんよ。そもそも、私は間違うことなどできないからです。だから、私はこのままで大丈夫です」と軽く受け流しましょう。

そして、リラックスして、ドンとかまえていましょう。 それで、かならず大丈夫! すべては順を追ってうまく運びます。

 

 

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☆ Happy New Year 2023 ☆

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

あけましておめでとうございます。

今年も安らかなこころから、平和な世界を紡いでまいりましょう♪

ぴょんぴょんと軽やかな、よいお年となりますように♡

今年もどうぞよろしくお願い致します。

オフィス・るん 古川貴子

 

 

22-12-26 ほんとうの癒し・・・とは

 

「アロマで癒されましょう」「ストレッチやヨガで癒しを」、あるいは「癒しの空間」「癒しのひととき」・・・というように、巷には「癒し」というワードがあふれています。

しかし、それらは「癒し」というレッテルにすぎません。レッテルが「癒し」ならば、なんとなく癒されているような気にもなるものですが、ほんとうのところは癒しではなくリラックスのためのものです。

ほんとうに「癒される」ということは、病んでいた原因を取り去り完全に回復させることです。リラックスとは、原因はそのままで和らげることなのです。

なので、巷でいわれている癒しは、ほんとうのところ癒されることなくさらに走りつづけるためのニンジンを差しだされているにすぎません。今までと同じように、ちょっと気持ちがよくて、ちょっとステキなニンジンに気をとられながらさらに走りつづけ、欲望の底なし沼に足をとられて少しづつ呑みこまれてしまいます。

「癒しだと思っていたけれど、じつは癒しではなかった!」と気づくのは、底なし沼に呑みこまれて、息ができなくなるあと数センチのところです。

そうなるまで、それがほんとうの癒しだったのか、はたまたエゴの差し出すニンジンにおびきよせられてワナにはまっていただけなのか、考えてみることもありません。

真の癒し、つまり病や苦しみの原因を癒すことは、もはや追いかけるためのニンジンをあきらめることです。それは、自分の外側に見える一見コウゴウしく見えるなにかに救いを求めないことです。

今までは、外側にあるなにかパワフルでステキなものをとっかえひっかえ試してみれば、きっと自分を幸せにしてくれる、私は救われる、と信じていたかもしれません。そして、さまざまな刺激的なものに中毒になっていたかもしれません。

外側のなにかは、じつは底なし沼に沈んでゆく自分のむなしさからちょっとだけ気をそらしてくれただけかもしれません。それは一時的な気晴らし、痛み止めの役割しかはたしてくれなかったのです。

しかし、外にニンジンを求めることをやめさえすれば、そのときはじめて「なんで、私はこんなドロ沼に無力なままはまっていたのだろう?ここはわたしの住むところではない」と沼に沈みゆく自分の現状を直視することができたはずです。

「こんな私はおかしい!」とドロ沼にはまっている異常な状態に気づいて、気づけたからこそ脱出をはかろうとしたはずです。

だから、自分を真に救ってくれはしない外側の刺激で自分を満たそうとすることよりも、まずはただ静まって、今の自分の状態と向きあい、直視してみましょう。そして、「私ときたら、どっぷり沼のなかだったわ!」と気づいてしまいましょう(そのように、生きづらさに正直に気づくことが、救いのために必要な一歩なのです!)。

気づいたらハイヤーセルフ(高い自己)に助けを求めて、「ここは私のいたいところではありません」とそこからひっぱり出してもらいましょう。

なぜなら、もやは私たちは自分ではそこから出られないところまできてしまっているのです。アゴ下までまるまる呑みこまれているときには、強力な助っ人であるハイヤーセルフがレスキューに駆けつけてくれます。

こころを開いて助けさえ求ることができれば、いつだってあなたにぴったりの聖なる救助隊の存在に気づくことができるはずです。

まずは、日々どんなニンジンで自分自身を麻痺させているのかに気づいてみることです。そして、怖れずにそのドロ沼という現状に向きあってみましょう。

すると、助けだしてくれるハイヤーセルフとともにもっと別の道を行くことができることに気づきます。

ニンジンのかわりにハイヤーセルフとともに進む道は、一回試したらやめられなくなるほど安心でラクチンな道のりかもしれません。 

 

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