気づきの日記「いま、自分にフィットすることをする」

 

私たちはつねに未来のことを心配したり、過去のことをあれこれ思いあぐねたり、さまざまな混沌とした思いでこころがいつも占領されています。

「この先、(仕事、体調、家族、お金、人間関係・・・)をどうしたらいいんだろう?」「あのとき、こうしておきさえすれば・・・」「あんなことは起きるべきじゃなかった」「あの人はいったいどう思っていたんだろう?」・・・。

すべて、存在しない時間について気にやんでいるのです。

残念なことに、私たちは「いまここ」というリアルなときから離れてしまうと、心理的にも体調的にもバランスを崩してしまいます。

なぜなら、真の自己の力の源は「いまここ」であり、「いまここ」にしかないからです。

過去や未来へと思いがふらふらすると、自分自身がコンセントから抜けた状態になってしまい、力や豊かさ、安らぎの供給が止まってしまい、えらく消耗した状態になります。存在じたいが干上がってしまうように感じるのです。

ほんとうは、ものごとはとてもシンプルです。

シンプルだからこそ省エネであり、こころもからだもムダにすりへることがありません。

あるのは「いまここ」だけ。

「いまここ」だけがリアルであり、いのちに満ちています。

だから、「いまここ」だけのお相手をいたしましょう。

それは、とりあえず置かれた状況のなかで、そのときの自分のこころにいちばんすんなりとフィットすることをするだけです。

何かを頑張るということではなく、ただ昼寝をすることや、だらだらすることも含まれます。どれが生産的かとか、価値があるかとか、そのような優劣や価値判断はまったく意味がありません。

そして、次の瞬間もその次の瞬間も、そのときにこころにフィットすることをただする(それについては、こころがいつも教えてくれているはずです)。

するべきことはただそれだけです。

「とりあえず、目のまえのことに自分らしく向き合えばいいんだ」とわかれば、一瞬一瞬がつむがれてゆきます。

罪悪感や無力感の重圧もへってきます。

この瞬間、この瞬間、 ♪それでいいのだ〜♪ と受け入れると、とってもシンプルになります。

そして、こころが少し軽くなると、こころにスペースが生まれ、自然にインスピレーションや新たなエネルギーが湧いてくるのを感じるかもしれません。

奮闘や操作がおさまると、自己の源エネルギーとのつながりが確かになってきます。

そして、こころが整うことで調和が生まれ、自分の目にする世界も同様に調和をかもしだします。

このようにして、あなたをサポートするすべてのピースが、このいまというときにきれいに整列しはじめるのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

23-02-27 “べき” ルールは手ばなしましょう

 

どのような状況におかれていても、いつも人生が大変そうな人がいます。

たとえ健康で平穏な日々を過ごしていても、自分のやりたいことをしていても ・・・ 完全にくつろいで、こころを開いて、今を楽しんでいるようには見えません。いつも、背中に重たい荷物を背負っているようで、生きづらさとともに人生をおくっているように見えるのです。

その一方で、いつもお気ラクで楽しそうな人もいます。

楽しいことばかりの人生なのかと思いきや、よく聞いてみればビックリするような体験をしていたりします。しかし、われ関せずでひょうひょうと楽しげに毎日を過ごしているのです。それは、軽やかにするすると流れるような生き方です。

なにも問題が起きていない平穏さのなかで安らぐことができないのであれば、その生きづらさの原因は特定の出来事ではないことになります。

十分に安らぎや幸福感を感じられていいはずのときにくつろげないのは、「自分のこころ」にこそに不具合があり、誤作動をしているせいで、ものごとが正しく認知できなくなっています。

ものごとというのはすべて中立で、善くも悪くもありません。結局、善悪というのは、その個人にとって役に立つか立たないかの問題なのです。つまり、私たちは自分のこころのメガネ(自らの検閲)を通して、ものごとの意味あいを決定しています。

幸せであっていいときにくつろいで楽しめないのなら、おそらくそれは自分のこころのメガネが曇ってしまって、正しくその状況を判断できなくなっています。

このこころのメガネの曇りとは、自分で自分を守るために作りあげたたくさんの独自のルールです。

それは、ものごととは「こうであるべき」、という「べきルール」です。

たとえば、「私の人生はこうであるべき」「人はこういう場面ではこのようにふるまうべき」「私のお金の状態はこうあるべき」「私の身体はこう感じるべき」「世界はこうあるべき」「将来はこうあるべき」・・・ 気づいてみると山ほどの「べきルール」をもっていることに気がつきます。

そして、とくに生きるのが苦しく感じられるときには、今の現実に対して思いきり「べきルール」をかざして抵抗しているのです。

「こうあるべき」という理想をもてばもつほど、ストレスを感じることになります。なぜなら、やってくる現実は自分の理想(べきルール)にぴったりとおさまってくれないからです。

自分の「べきルール」にあてはまるはずだと思えば思うほど、その現実と闘うことになり、ひどくエネルギーを消耗してしまうのです。だから、「べきルール」をかざしているときは、いつも疲れはててしまいます。

常に目のまえにやってくる「今」というものは、好むと好まざるにかかわらず変えようがありません。それを変えようとすればするほど、苦しい思いをしてしまうのです。

「こうあるべき」という「べきルール」は、なければないほど安らぎを感じられるものです。

ものごとを自分の「べきルール」におしこもうとするよりも、目のまえにやってきたことをただ信頼してみましょう。

やってきたことこそが、今の自分にとって正しいこと、自分にとっての「答え」だと受けいれましょう。

自分自身は将来を見通すことはできませんが、自分をつねに導いてくれている高次の存在であるハイヤーセルフが自分とともにいて、人やものごとの関係やタイミング、そこに関係する全ての人にとっての善いことや、こころの癒しなどを見越して、すべてに配慮したうえで、今いちばんヨイことが進行中なのです。

ここの一点だけを見てもわからないかもしれませんが、決して間違った流れに乗っているわけではありません。むしろ、導かれているのです。

しかし、その流れに対して怖れを感じ、抵抗したりコントロールしようとすると、その導きの完全さが失われてしまいます。

たとえ今どうであっても、「起こっていることはいつだっていちばん善いことだ」と信頼して、ただ流れにまかせてみることです。( ♪これでいいのだ〜♪ まさに、天才バカボンのパパのセリフです! 笑)

もし、流れにまかせることで怖れなどの強い感情を感じるのであれば、それこそが自分が抑圧し向いあうことを避けつづけてきた癒すべき感情そのものです。ただ、その感情は「もう捨てて下さいね!」と浮上してきているのです。

そのように上がってきたのなら、受け入れて、感じて、手ばなして、終わりにしまいましょう。

そのような感情さえなければ、どんな状況下でもゆったりとくつろで身をまかせることができるようになります(じつは、怖れを感じている対象は、その隠していた「感情」そのものなのですよね)。

「べきルール」で身を固めて、自分が傷つかないように守ろうとすればするほど、コントロール不能な無力感を味わうことになります。それよりも、安心してすべてを受け入れて、「べきルール」のいらない自分になることです。

ただ、今起きていることに自分を明け渡して、こころを開いて、自分を委ねてみましょう。明け渡しのなかで、高い自己にすべての舵をとってもらいましょう。

強い抵抗を感じたら、今癒されるべき感情として、受け入れて感じてあげるだけでよいです。

気持ちのよい自然のなかで暖かな太陽の光をあびながら、ゆったりとボートで川を下ってゆくような気持ちです。今というときの大いなる導きのなかで、ただ安全に守られて、ちからを抜いて流されてみましょう。

きっとラクちんにものごとが進むはずです♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「 “べき” ルールは手ばなしましょう」

 

どのような状況におかれていても、いつも人生が大変そうな人がいます。

たとえ健康で平穏な日々を過ごしていても、自分のやりたいことをしていても ・・・ 完全にくつろいで、こころを開いて、今を楽しんでいるようには見えません。いつも、背中に重たい荷物を背負っているようで、生きづらさとともに人生をおくっているように見えるのです。

その一方で、いつもお気ラクで楽しそうな人もいます。

楽しいことばかりの人生なのかと思いきや、よく聞いてみればビックリするような体験をしていたりします。しかし、われ関せずでひょうひょうと楽しげに毎日を過ごしているのです。それは、軽やかにするすると流れるような生き方です。

なにも問題が起きていない平穏さのなかで安らぐことができないのであれば、その生きづらさの原因は特定の出来事ではないことになります。

十分に安らぎや幸福感を感じられていいはずのときにくつろげないのは、「自分のこころ」にこそに不具合があり、誤作動をしているせいで、ものごとが正しく認知できなくなっています。

ものごとというのはすべて中立で、善くも悪くもありません。結局、善悪というのは、その個人にとって役に立つか立たないかの問題なのです。つまり、私たちは自分のこころのメガネ(自らの検閲)を通して、ものごとの意味あいを決定しています。

幸せであっていいときにくつろいで楽しめないのなら、おそらくそれは自分のこころのメガネが曇ってしまって、正しくその状況を判断できなくなっています。

このこころのメガネの曇りとは、自分で自分を守るために作りあげたたくさんの独自のルールです。

それは、ものごととは「こうであるべき」、という「べきルール」です。

たとえば、「私の人生はこうであるべき」「人はこういう場面ではこのようにふるまうべき」「私のお金の状態はこうあるべき」「私の身体はこう感じるべき」「世界はこうあるべき」「将来はこうあるべき」・・・ 気づいてみると山ほどの「べきルール」をもっていることに気がつきます。

そして、とくに生きるのが苦しく感じられるときには、今の現実に対して思いきり「べきルール」をかざして抵抗しているのです。

「こうあるべき」という理想をもてばもつほど、ストレスを感じることになります。なぜなら、やってくる現実は自分の理想(べきルール)にぴったりとおさまってくれないからです。

自分の「べきルール」にあてはまるはずだと思えば思うほど、その現実と闘うことになり、ひどくエネルギーを消耗してしまうのです。だから、「べきルール」をかざしているときは、いつも疲れはててしまいます。

常に目のまえにやってくる「今」というものは、好むと好まざるにかかわらず変えようがありません。それを変えようとすればするほど、苦しい思いをしてしまうのです。

「こうあるべき」という「べきルール」は、なければないほど安らぎを感じられるものです。

ものごとを自分の「べきルール」におしこもうとするよりも、目のまえにやってきたことをただ信頼してみましょう。

やってきたことこそが、今の自分にとって正しいこと、自分にとっての「答え」だと受けいれましょう。

自分自身は将来を見通すことはできませんが、自分をつねに導いてくれている高次の存在であるハイヤーセルフが自分とともにいて、人やものごとの関係やタイミング、そこに関係する全ての人にとっての善いことや、こころの癒しなどを見越して、すべてに配慮したうえで、今いちばんヨイことが進行中なのです。

ここの一点だけを見てもわからないかもしれませんが、決して間違った流れに乗っているわけではありません。むしろ、導かれているのです。

しかし、その流れに対して怖れを感じ、抵抗したりコントロールしようとすると、その導きの完全さが失われてしまいます。

たとえ今どうであっても、「起こっていることはいつだっていちばん善いことだ」と信頼して、ただ流れにまかせてみることです。( ♪これでいいのだ〜♪ まさに、天才バカボンのパパのセリフです! 笑)

もし、流れにまかせることで怖れなどの強い感情を感じるのであれば、それこそが自分が抑圧し向いあうことを避けつづけてきた癒すべき感情そのものです。ただ、その感情は「もう捨てて下さいね!」と浮上してきているのです。

そのように上がってきたのなら、受け入れて、感じて、手ばなして、終わりにしまいましょう。

そのような感情さえなければ、どんな状況下でもゆったりとくつろで身をまかせることができるようになります(じつは、怖れを感じている対象は、その隠していた「感情」そのものなのですよね)。

「べきルール」で身を固めて、自分が傷つかないように守ろうとすればするほど、コントロール不能な無力感を味わうことになります。それよりも、安心してすべてを受け入れて、「べきルール」のいらない自分になることです。

ただ、今起きていることに自分を明け渡して、こころを開いて、自分を委ねてみましょう。明け渡しのなかで、高い自己にすべての舵をとってもらいましょう。

強い抵抗を感じたら、今癒されるべき感情として、受け入れて感じてあげるだけでよいです。

気持ちのよい自然のなかで暖かな太陽の光をあびながら、ゆったりとボートで川を下ってゆくような気持ちです。今というときの大いなる導きのなかで、ただ安全に守られて、ちからを抜いて流されてみましょう。

きっとラクちんにものごとが進むはずです♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

ランチ&カフェデート♪

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お友だちとランチをする機会もめっきりふえてきたこの頃です。

オンラインも十分楽しかったけれど、やっぱり顔をあわせてお喋りしながらおいしいお食事&お茶をご一緒するひとときは身もこころもリフレッシュします。

この日のランチは、つばめグリルさん。

二十代の頃からのおなじみの洋食屋さんで、当時は品川の本店(?)によく立ち寄っていましたっけ。

すると、お友だちも同様に、そのむかし仕事で品川に行ったさいに、つばめグリルの隣のホテルに宿泊しお食事をしていてお気に入りだったそうです。

コロナ禍で行きつけの老舗さんが悲しいほどに閉店に追いこまれてしまったので、懐かしい味を提供してくださるつばめグリルさんが無事サバイバルしてくださっていて嬉しいかぎりです。

ランチメニューには有名なロールキャベツはなかったのですが、お互いのお気に入りだった和風ハンバーグステーキは昔のままのお味でした。

トマトのサラダはお初です。まん丸トマトにマヨあえのタマネギが詰めてあって、フレッシュでとても美味しいでした。

その後お茶に向かったお店は、フルーツタルトのお店 アムストラムグラムさん。

たしか、コロナ騒ぎがはじまった頃に開店したわりとニューフェイスさんです。

わたしはお散歩で前を通るたびに吸いよせられるようにリピしてしまうのですが、十種類ほどのフルーツタルトが並んでいるにもかかわらず、いつも同じフルーツもりもりの丸いタルトが私の定番となっています。

じつはこの三日後にも別のお友だちをご案内して、またこのタルトをいただいてしまったのでした〜 笑(食べすぎやろ?!)

行きつけ老舗レストラんの消滅は寂しい限りですが、その一方で新しいオシャレなお店も続々開店中。少しづつ制覇したいと思っているのですが ・・・ そうはいっても、磁石に吸いよせられるようにいつも定番のお店に足がすいよせられてしまうのでした〜。

 

 

23-02-18 一緒に心配するよりも・・・

 

家族でも、友人でも ・・・問題を抱えて悩んでいる人がいるとき、その人と同じような気持ちになって悩んで苦しむことがその人への優しさであり、助けになると思いがちです。

しかしそうすることで、問題を抱えている人は一人だったはずなのに、気がつけば不幸せな人が芋づる式にふえてしまいます。まるで伝染病のごとく、憂鬱が広がってしまうのです。

だからといって、「ほっておきなさい」「無視しなさい」ということではありません。

一緒になって苦しむのではなく、ただ静かなこころのままで自分にできることはなんでもします。ともに問題を抱えこんで、同じレベルになる必要はないのです。

真に人の助けになりたいと思うとき、一緒に悩み苦しむことは助けになりません。

ともにあれこれ悩んでしまえば、正気でない状態に自分自身もよろこんで参加することになります。これではまさに、ミイラとりのミイラ。ともに地獄入りとなってしまいます!(汗)

助けたいのであれば、自分のこころが悩みや苦しみに侵されていない正気のこころである必要があります。

悩んでいるときというのは、こころが誤った考えにとりつかれて、その誤った尺度でしかものごとを判断できなくなっています。つまり、悩んでいる思考に世界が汚染されてしまっているのです。

だからこそ、自分自身はしっかりと正気を保ったままでいて、その人のための道しるべとなり、「苦しみから出て、こっちにおいで!ここは安らかだよ」と、その人を誘導してあげなければならないのです。

また正気でいることによって、自分自身がその人のために高い自己(ハイヤーセルフ)からのレスキューメッセージを受けとり、それを伝えてあげることができます。

悩み苦しんでいるときには、その人のこころはネガティブな思考や感情でパンパンなっているので、すぐそこに助けがやってきていても、それに気づくことができなくなっています。

その人のためのレスキューメッセージを受けとることは、難しいことではありません。「受信しよう!」と頑張らなくても、穏やかなこころでいれば、そのときにサラリと出てくるひとことや行動が、相手にとって大切なメッセージとなります。

なによりも、自分が安らかな正しい場所にいてあげることで、「私もそんなふうにラクに生きたい!そちら側に加わりたい!」と正しい軌道を進むための道しるべとなってあげることができるのです。

たったひとりだけでも、「今のままで大丈夫だから!」と安心させてくれる人がいれば、自分自身がつくり出した苦しみの闇が簡単に消え去ってしまうこともあります。

心配して同じ状態になって、一緒に地獄に降りてゆくのではなく、安らぎという正しいポジションから寄り添うことがほんとうの共感の仕方なのです。片手でその人の手をとり、それでも自分は安らかな場所にしっかりと身をおき、相手をそこへと引き上げてあげる・・・そんな感じです。

お先真っ暗だと感じているときでも、ちょっと視点が変わることで、自分の体験していた世界が180度ガラリと変わってしまうことがあります。

ちょっとしたひとことや、目にしたことで、サーッと目のまえから霧が晴れるように心配や不安が消え去ってゆくのです。

たったひとりでも「安らぎ」のひかりをキープしていれば、その光に照らされて混乱していた人のこころの闇は消え去ることができます。

だから、悩んでいる人に「わかるわ〜〜。大変やわ〜。いったいどないしよ?!」と間違った共感をして、ともに地獄入りするのはやめましょう。それをすると、あなたの光も風前の灯火となってしまいます。

あなたの穏やかさのなかにいつもどおりとどまって、そこからその方を味わい愛でながら、「こっちへおいで♡」と優しく引き上げてさしあげましょう。

あなたが正しいポジションで安らぎのなかにとどまることこそが、誰にとってもいちばんの助けとなるのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「一緒に心配するよりも・・・」

 

家族でも、友人でも ・・・問題を抱えて悩んでいる人がいるとき、その人と同じような気持ちになって悩んで苦しむことがその人への優しさであり、助けになると思いがちです。

しかしそうすることで、問題を抱えている人は一人だったはずなのに、気がつけば不幸せな人が芋づる式にふえてしまいます。まるで伝染病のごとく、憂鬱が広がってしまうのです。

だからといって、「ほっておきなさい」「無視しなさい」ということではありません。

一緒になって苦しむのではなく、ただ静かなこころのままで自分にできることはなんでもします。ともに問題を抱えこんで、同じレベルになる必要はないのです。

真に人の助けになりたいと思うとき、一緒に悩み苦しむことは助けになりません。

ともにあれこれ悩んでしまえば、正気でない状態に自分自身もよろこんで参加することになります。これではまさに、ミイラとりのミイラ。ともに地獄入りとなってしまいます!(汗)

助けたいのであれば、自分のこころが悩みや苦しみに侵されていない正気のこころである必要があります。

悩んでいるときというのは、こころが誤った考えにとりつかれて、その誤った尺度でしかものごとを判断できなくなっています。つまり、悩んでいる思考に世界が汚染されてしまっているのです。

だからこそ、自分自身はしっかりと正気を保ったままでいて、その人のための道しるべとなり、「苦しみから出て、こっちにおいで!ここは安らかだよ」と、その人を誘導してあげなければならないのです。

また正気でいることによって、自分自身がその人のために高い自己(ハイヤーセルフ)からのレスキューメッセージを受けとり、それを伝えてあげることができます。

悩み苦しんでいるときには、その人のこころはネガティブな思考や感情でパンパンなっているので、すぐそこに助けがやってきていても、それに気づくことができなくなっています。

その人のためのレスキューメッセージを受けとることは、難しいことではありません。「受信しよう!」と頑張らなくても、穏やかなこころでいれば、そのときにサラリと出てくるひとことや行動が、相手にとって大切なメッセージとなります。

なによりも、自分が安らかな正しい場所にいてあげることで、「私もそんなふうにラクに生きたい!そちら側に加わりたい!」と正しい軌道を進むための道しるべとなってあげることができるのです。

たったひとりだけでも、「今のままで大丈夫だから!」と安心させてくれる人がいれば、自分自身がつくり出した苦しみの闇が簡単に消え去ってしまうこともあります。

心配して同じ状態になって、一緒に地獄に降りてゆくのではなく、安らぎという正しいポジションから寄り添うことがほんとうの共感の仕方なのです。片手でその人の手をとり、それでも自分は安らかな場所にしっかりと身をおき、相手をそこへと引き上げてあげる・・・そんな感じです。

お先真っ暗だと感じているときでも、ちょっと視点が変わることで、自分の体験していた世界が180度ガラリと変わってしまうことがあります。

ちょっとしたひとことや、目にしたことで、サーッと目のまえから霧が晴れるように心配や不安が消え去ってゆくのです。

たったひとりでも「安らぎ」のひかりをキープしていれば、その光に照らされて混乱していた人のこころの闇は消え去ることができます。

だから、悩んでいる人に「わかるわ〜〜。大変やわ〜。いったいどないしよ?!」と間違った共感をして、ともに地獄入りするのはやめましょう。それをすると、あなたの光も風前の灯火となってしまいます。

あなたの穏やかさのなかにいつもどおりとどまって、そこからその方を味わい愛でながら、「こっちへおいで♡」と優しく引き上げてさしあげましょう。

あなたが正しいポジションで安らぎのなかにとどまることこそが、誰にとってもいちばんの助けとなるのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

すでに春♡

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

立春をすぎてもまだまだ寒さが厳しいですが、陽射しがぽかぽかしてきたり、梅が咲いたり、春の訪れも感じることができる二月の後半です。

私のなかでは毎年、バレンタインが終わって確定申告が終了したら、「やった〜、はれて春〜〜♪」 という感じなのですが、

今年もバレンタインがすぎゆき、ナント、確定申告もつつがなく終了しちゃいました〜☆

ということで、私はすでに春気分。

さらに、バレンタインにいただいたアイカラーが、春を感じるちょっと大人なモーヴ色。オーロラライトという、素敵なネーミングです。

じつは、モーヴ色はいつからか似合わなくなってしまったと感じて、あきらめていた色。なので、チャレンジ再びなのです。

まだ寒さにふるえながらも、ひとり春めいているこのごろです♪

 

 

 

お待ちかねランチは・・・

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

朝も早からミーティングです。

さて、お昼をまわっておまちかねのランチは ・・・ ニンニクがっつりの餃子に決定! 小鉢もいろいろとってみました。@中目黒 福包さん

餃子とくれば ・・・やっぱり(?)ビール! 最近はノンアルがお店に普及してきたので、私もビール仲間に入れてうれしい♪

そして、午後もさらなるミーティングを。(あら?まだ飲んでる方が・笑)

このユルさでいいアイデアが流れてくるはず・・・。

美味しく楽しく、充実のミーティングの一日となりました (^。^)v

 

 

23-02-03 正直さって、なに?

 

「自分に正直である」ということは、幸せになりたいと思うならとても大切にしなければならないことです。

なぜなら、自分の考えや気持ちを誤魔化してしまうことによって、幸せになるための修正ポイントを見つけることができなくなってしまうからです。それは、幸せへつながる扉のノブを見つけられない状態です。

自分の考えや気持ちに対して正直に向きあうことができれば、自分にとって不適切な考えや気持ちを手放し、本来の自分として幸せへの扉をあけることができるようになるのです。

さて、「正直になる」とはどういうことでしょうか?

先日、正直であろうと努力されているクライエントのA子さんとお話をしていて、「なるほど〜、そういうふうにとらえてしまうこともあるのか・・・」と正直であることの誤解しやすいポイントに気がつきました。

A子さんいわく、「正直さとは自分が思ったこと感じたことは、何でも口に出してもかまわないことだ」と思われていたそうです。

思ったことをすぐに口にすることで、まさに正直に伝えていると感じていました。そして、考えや感情を放出できる正直さとは、「こころがスッキリするものだ!」とも感じていたそうです。

でも、人との関係はギクシャクしてしまいがちです。ズバズバものを言うことで相手を傷つけかねません。

正直さとは、「なんでもかんでも思ったことをそのまま口にすること」ではありません。

あくまでも「自分の領域」内において、正直になることなのです。

人に対してあれこれ口にすることは、他人の領域に土足でずかずか入りこみ、一方的にあれこれ断罪し、そして去ってゆく、という自分勝手なイメージなのです。その相手にしてみたら、「いったいなに?」と思ってしまいます。

相手に対して自分がもつ意見というものは、あくまでも「自分の個人的な解釈」であって、決してほんとうのことではないからです。自分のひとりよがりのイメージにすぎず、それを押しつけられても困ってしまいます。

人に対してあれこれ言うのは、相手に自分の考えを押しつけ、その考えによって相手を裁く、という二つの間違いをしてしまっています。

正直さとは「自分の領域」のことだと書きましたが、それは「自分が自分自身に対して」正直になるということなのです。

たとえば、さっき友人から言われたことにとても傷ついてしまった、というようなとき。

こころが痛んでいるのに、「早く忘れてしまおう!」とまるでなにも感じなかったごとくスルーしてしまったりします。(傷ついたことをスルーしようとするあまり、痛み止めが必要になり、食べもの、ギャンブル、ゲーム、アルコール、恋愛・・・などに依存してしまったりします。)

これは、自分に対して正直なことではありません。また、優しくもありません。こころは痛いと叫び声をあげているのに、むりやり痛くないことにしよとしてしまっているからです。

この場合の正直さとは、相手に対して「あなたの言葉で私は傷つきました!」と詰めよることではありません。正直さを勘違いしていると、このように被害者になり、「人の領域」で解決しようとしてしまいます。

そうではなくて、「あ・・・今、私は友人のあの言葉でとても悲しく感じている」「なぜなら、あの言葉は私は価値がない人だ、と言われているように感じたから」「なぜ、私はそのように感じているのだろう?」「もしかすると、小さい頃、誰も私に対して真剣に向き合ってくれないと感じていたからかも」「でも、だからといってほんとうに私に価値がないのだろうか?」「価値がないと信じてしまったのは、私自身ではないだろうか?」・・・・

このように、最初の感情から自分が信じていることの根拠を探って、その真意を確かめてみます。すると、ある誤解や信じこみにつきあたったり、よく確かめてみると信じていたこがほんとうのことではなかったり、あるいははっきりとわからなくても自分のこころと向き合ううちに気づきがやってきたりします。

たとえば、私を傷つけた相手さえも、じつはこどもの頃に私が感じていたのと同じような自信のなさをもっていて、だから相手を思いやる余裕がなくなってしまっていたのかもしれない ・・・など。

このようにして、自分のこころのなかにある思いこみや決めつけがゆるんでくると、友人から同じようなひとことを言われたとしても傷つくことなく、静かに受け流すことができるようになります。

どんなときでも自分がネガティブに反応してしまうときは、癒しのポイントを見つけることができたときです。それは、自分本来の平和なこころを取り戻すきっかけとすることができるのです。

こころが平和を取り戻せば取り戻すほど、世界には同じような平和が見えるようになります。すべてはこころからはじまるからです。

安らかで平和な世界というのは、自分のこころで起きていることを正直に見つめ、こころの間違いを正すことによってこそ達成することができるのです。

また、相手に対して文句を言いたくなるようなときには、まずは自分のこころを探ってみましょう。相手の領域に侵入したくなるときには、まずは自分の領域を調べることです。

いったい、なぜそれを相手に言いたいのか?

私たちは、自分で片づけることを延ばし延ばしにしているこころのゴミを、どうしても相手に押し付つけてしまうものです。自分のことは棚にあげて、相手を責めることで自分のことは忘れていられるからです。

この人さえ変われば、自分は心地よく過ごせるに違いないと信じます。しかし、自分のこころの間違いは、自分で自分を正すまで、どこまでも目のまえに現れてくるものです。自分のこころのゴミを除去するまでは、終わることがないのです。

だから、相手に文句を言いたくなったら、いったい自分は何に反応しているのか? をよくよく見つめて、まさに自分のなかにも同じものがあることを認めて、いさぎよくこころの断捨離をしてしまいましょう。

癒しは、どんなときでも自分と向きあうことです。

こころは外に間違いを見つけて、つねに外へ外へと向かおうとしますが(人やものごとをあれこれ攻撃したくなりますが)、その手にはのらず、自分自身へと向かう習慣をつけましょう。

つねに自分のこころに戻ってきて正直に向きあうことで、つねに安らぎへのドアが開きます。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「正直さって、なに?」

 

「自分に正直であること」は、幸せになりたいと思うならとても大切にしなければならないことです。

なぜなら、自分の考えや気持ちに対して自分自身を誤摩化してしまうと、幸せになるために正すべき点が見つけられなくなってしまうからです。それは、幸せへつながる扉のノブが見つからない状態です。

自分の考えや気持ちに対して正直に向きあうことができれば、自分にとって不適切な考えや気持ちを手放し、幸せへの扉をあけることができるようになるのです。

さて、「正直になる」とはどういうことなのでしょうか?

先日、正直であろうと努力なさっているクライエントのA子さんとお話をしていて、「なるほど〜、そういうふうに考えてしまうこともあるのか・・・」と正直さについての誤解しやすいポイントに気がつきました。

A子さんいわく、「正直さとは、自分が思ったこと感じたことは、何でも口に出してもかまわないことだ」と思われていたそうです。

思ったらすぐに口にすることで考えや感情を放出し、「正直ってスッキリする!」と感じていたそうです。

でも、人との関係はギクシャクしてしまいがちです。ズバズバものを言うことで敬遠されてしまうかもしれません。

正直さとは、「なんでもかんでも思ったことをそのまま口にすること」ではありません。

あくまでも「自分の領域」において正直になることなのです。

人に対してあれこれ言うことは、人の領域に土足でずかずか入りこんで、勝手にあれこれ断罪して、そして去ってゆく、という強引なイメージなのです。その相手にしてみたら、ビックリします。

なぜなら、相手に対して自分がもつ意見というものは、あくまでも「自分の考え」であって、ほんとうのことではないからです。自分のひとりよがりのイメージにすぎず、それを押しつけられても困ってしまいます。

人に対してあれこれ言うということは、自分の考えを相手に押しつけて、それを正しいものと決めたうえで、さらにそれを裁くという、二つの間違いをおしつけることになってしまいます。

さきほども正直さとは「自分の領域」のことだと書きましたが、それは「自分が自分に対して」正直になるということです。

たとえば、さっき友人から言われたことにとても傷ついてしまった、というようなとき。

こころが痛んでいるのに、まるでなにも感じていないがごとくスルーしてしまったりします。(傷ついたことをスルーしようとするあまり、なにかに執着したり溺れたりするような結果になることもあります。食べもの、ギャンブル、ゲーム、アルコール、恋愛・・・などなどです。)

これは、自分に対して正直ではありませんし、優しくもありません。こころは痛いと言っているのに、むりやり痛くないことにしてしまっているからです。

この場合の正直さとは、相手に対して「あなたの言葉で私は傷つきました!」と詰めよることではありません。正直さを勘違いしていると、このようにすぐに被害者になってしまうこともあるかもしれません。

そうではなくて、「あ・・・私は今、友人のあの言葉でとても悲しく感じている」「なぜなら、あの言葉は私は価値がない人だ、と言われているように感じているから」「なぜ、私はその言葉を聞いてそう思ってしまったのだろう?」「なぜなら、小さい頃から、人に軽く扱われているように感じていたから、またそうなったと思ってしまった」「でも、それってほんとうに私に価値がなかったのだろうか?」「価値がないと信じてしまっているのは、私自身ではないだろうか?」・・・・

こんなふうに、最初の感情から自分が信じていることを探求してゆくのです。すると、ある誤解や信じこみにつきあたったり、よく確かめてみると信じていたこがほんとうのことではなかったことがわかったりします。

私を傷つけた相手さえも、じつはこどもの頃傷ついた経験があり、相手を思いやる余裕がなくなってしまった ・・・とか。

そのような気づきによって「私は価値がない」という決めつけがゆるんでくると、友人から同じことを言われたとしても自分個人のこととして受けとめることなく、そのまま流すことができるようになったりします。

そして、どんなときでも自分がネガティブに反応する場面というのは、自分のこころの間違いを正すための機会となり、ひとつひとつ気づいてゆくことで、もとからある平和なこころを取り戻すことができます。

この平和のなかから世界を眺めれば、同じように平和が見えはじめるのです。

安らかな世界というのは、自分のこころで起きていることを正直に眺め、間違いを正すことでこそ達成することができるのです。

また、相手に対してどうしてもものを申したくなるようなときにも、自分のこころを探ってみましょう。

なぜそれを相手に言いたいのか?

私たちは、自分で片づけることをのびのびにしているこころのなかのゴミを、どうしても相手のなかに見てしまうものです。すると、一気にひとごとになったような気がして、その相手への攻撃を開始します。

この人さえ変われば自分は心地よくなるに違いないと思うからです。しかし、自分のこころの間違いはいつまでも場所を変えて映しだされることになります。自分のこころのなかでゴミすてがしっかりと完了するまでは終わることがないのです。

だから、相手にもの申したくなるようなときも、いったい自分は何に対して反応しているのか? それをよくよく見て、それは自分のなかにあると認め、いさぎよく片づけてしまいましょう。

癒しは、いつもでも自分と向きあうことです。

こころは外へ外へと向かおうとしますが(人やものごとをあれこれ攻撃したくなりますが)、その手にはのらず、自分自身へと向かう習慣をつけましょう。

つねに自分のこころに戻ってきて正直に向きあうことで、つねに安らぎへのドアが開きます。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング