盆踊りミーティング♪

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

きょうは朝からミーティングの一日♪ ・・・ですが、

Sちゃんが朝食として沖縄の焼きそばとチャンプルをたくさん差し入れてくださったので、まずはみんなでそれをいただくことからスタートです  (^.^)

ひと働きして、お昼はサクッとスーパーで仕入れてくることに。それぞれのお好みをカゴに入れたら、こんな感じに。

江戸前寿司に大阪寿司、タコのお刺身に鴨の生ハム、スティックサラダにフルーツ、そしておちゃけ。こりゃ、完全に宴会メニューです。

床に車座になって、例のごとくジャンケンで好きな握りをゲットする争奪戦の行事を。

「きょうの海老はアタマがついていて、見た目もソフトでと〜っても美味しそうね〜」って ・・・ 本気で言っているのか、たんにひっかけなのか?(自分のお目当てが取られてしまわないように、たくみな心理戦となります・笑)。

お食事中、夏らしいBGMを・・・と盆踊りの音楽をかけていたら、お祭り気分が盛りあがって食後は座ったまま盆踊り大会に。

YouTube の踊り方の解説を見ながら、「ひとつひとつの所作を丁寧にすることが大切だよね」「手の動きを流さないで、ピタッと止めるとカッコよく見える」「首の傾き、目線も重要」などなど、ちょっとばっかり研究モードに入りながら(笑)、東京音頭やら炭坑節などフルに三曲踊ったら、もうヘトヘト。盆踊りってこんなにヘビーでしたっけ?!

本日は、お仕事よりも盆踊りで汗をかいたミーティングとなりました。

PS 足さばきがいまいちわからなかったので、リアル盆踊りで踊ってみなくちゃ!です(笑)

 

シックな名画グッズ

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昨今、名画がプリントされたグッズがいろいろ手に入るようになりました。以前は、美術館のショップにいくつかあるぐらいでしたものね。

お友だちから届いた、素敵な名画グッズ☆

コローの「真珠の女」がプリントされたトートバッグです♡

シックな色合いで、どこにでも持っていけそう。たくさん使わせていただきます〜。

♡ ♡ ♡

「どこへでもご一緒して、たくさんお出かけをするのですね?!」・・・と真珠の女さん。

「それでは、失礼して・・・」と、

すかさずマスクをかけられました〜(笑)

お出かけ準備万端ですねっ!

ふたたび感染数、ふえてきていますものね! 予防は大切  ^ - ^

Mちゃん、いつも素敵なお見立て、ありがとうございます♡

 

 

 

23-07-01 夏へのトンネル、さよならの出口

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先週、カフェでお喋りをしていたとき、「異次元につながる鳥居」についての話題でもりあがっていたのです(いったいど〜ゆ〜話題?!笑)。

そうしたら、数日まえにテレビで「最強にヤバいスポット」として、いわくつきのトンネルや鳥居が紹介されていました。

そしてさらに昨日は、不思議なトンネルと鳥居についてのアニメ「夏へのトンネル、さよならの出口」を見つけてしまい、この流れでさっそく観てしまいました。

高校生たちが噂するのは、なんでも欲しいものが手に入るというウラシマトンネル。

ひょんなことから、そのウラシマトンネルらしき洞窟を見つけてしまった塔野カオルくん。たまたま口をきくようになったクラスメイトの花城あんずとふたりで、欲しいものを手にするためにそのトンネルに挑みます。

しかし、そのトンネルは時空が歪んでいるようで、たった10秒入っているだけで出てきたときには6時間半も時間が流れているのです。

二人は三連休を費やして、108秒のトンネル探索に挑みます。しかし、欲しいものを手にするためには、トンネルのずっと奥にある鳥居にまで行きつかなければならないのです・・・。(→予告をみる

海と山が臨める愛媛(らしいです)の小さな村が舞台です。

梅雨の雨降りの景色にはじまって、夏のうっそうとした緑、入道雲、向日葵畑、夏祭り・・・画面を観ているだけで田舎のむせるような草の匂いが感じられます。そして、季節は移りかわり、青い空と一面の鮮やかな紅葉・・・どの場面もとても美しいです。

お話もおもしろいのですが、私はカオルくんの声にとても惹きつけられました。静かで包みこむような穏やかなトーンで、アニメの声優さんの作りこんだセリフの言い回しとは違って、とても自然な感じがしたのです。

そうしたら、私の直後に鑑賞したお友だちも、感想メールのなかでカオルくんの声についてコメントされていました。やっぱり☆

調べてみたら、やはりプロの声優さんではなく俳優さんが演じていらっしゃいました。

鈴鹿央士さん。あ、この方!!とすぐに思い出しました。

以前、「蜜蜂と遠雷」というピアノコンクールをテーマにした映画を観たとき、「巨匠のお墨つきのナゾの天才少年」としてちょっと不思議ちゃんな雰囲気の少年がいて、その子が登場する四人のピアニストさんのなかでいちばん気になったのでした。

あどけないピュアな雰囲気と、一本芯がとおったゆるぎない存在感。この俳優さんて・・・とこころに残ったのが、鈴鹿さんでした。(→「蜜蜂と遠雷」についてのブログ

「蜜蜂・・・」の演技も、このアニメのカオルくんも、とてもふつうに見えて、なにかこころに染みいってくるものを感じます。

そして、このアニメ全体が、どこか懐かしく、こころが昔の一場面にもどってゆくような(あ、こころがトンネルに入って遡ってる?)そんな感じのする作品でした。

この一週間のトンネルと鳥居の流れは、ここで終わりなのかしらん?! まだある??

 

 

お茶の間シネマトーク「夏へのトンネル、さよならの出口」

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先週、カフェでお喋りをしていたとき、「異次元につながる鳥居」についての話題でもりあがっていたのです(いったいど〜ゆ〜話題?!笑)。

そうしたら、数日まえにテレビで「最強にヤバいスポット」として、いわくつきのトンネルや鳥居が紹介されていました。

そしてさらに昨日は、不思議なトンネルと鳥居についてのアニメ「夏へのトンネル、さよならの出口」を見つけてしまい、この流れでさっそく観てしまいました。

高校生たちが噂するのは、なんでも欲しいものが手に入るというウラシマトンネル。

ひょんなことから、そのウラシマトンネルらしき洞窟を見つけてしまった塔野カオルくん。たまたま口をきくようになったクラスメイトの花城あんずとふたりで、欲しいものを手にするためにそのトンネルに挑みます。

しかし、そのトンネルは時空が歪んでいるようで、たった10秒入っているだけで出てきたときには6時間半も時間が流れているのです。

二人は三連休を費やして、108秒のトンネル探索に挑みます。しかし、欲しいものを手にするためには、トンネルのずっと奥にある鳥居にまで行きつかなければならないのです・・・。(→予告をみる

海と山が臨める愛媛(らしいです)の小さな村が舞台です。

梅雨の雨降りの景色にはじまって、夏のうっそうとした緑、入道雲、向日葵畑、夏祭り・・・画面を観ているだけで田舎のむせるような草の匂いが感じられます。そして、季節は移りかわり、青い空と一面の鮮やかな紅葉・・・どの場面もとても美しいです。

お話もおもしろいのですが、私はカオルくんの声にとても惹きつけられました。静かで包みこむような穏やかなトーンで、アニメの声優さんの作りこんだセリフの言い回しとは違って、とても自然な感じがしたのです。

そうしたら、私の直後に鑑賞したお友だちも、感想メールのなかでカオルくんの声についてコメントされていました。やっぱり☆

調べてみたら、やはりプロの声優さんではなく俳優さんが演じていらっしゃいました。

鈴鹿央士さん。あ、この方!!とすぐに思い出しました。

以前、「蜜蜂と遠雷」というピアノコンクールをテーマにした映画を観たとき、「巨匠のお墨つきのナゾの天才少年」としてちょっと不思議ちゃんな雰囲気の少年がいて、その子が登場する四人のピアニストさんのなかでいちばん気になったのでした。

あどけないピュアな雰囲気と、一本芯がとおったゆるぎない存在感。この俳優さんて・・・とこころに残ったのが、鈴鹿さんでした。(→「蜜蜂と遠雷」についてのブログ

「蜜蜂・・・」の演技も、このアニメのカオルくんも、とてもふつうに見えて、なにかこころに染みいってくるものを感じます。

そして、このアニメ全体が、どこか懐かしく、こころが昔の一場面にもどってゆくような(あ、こころがトンネルに入って遡ってる?)そんな感じのする作品でした。

この一週間のトンネルと鳥居の流れは、ここで終わりなのかしらん?! まだある??

 

 

23-06-27 思いどおりこそが幸せ??

 

私たちは日々、「ああしたい」「こうしたい」「こうなったらいいな〜」「これが欲しい」・・・と、さまざまなものを欲することが日常になっています。

まさに、欲することが「生きること」、思いどおりになることこそが幸せだと信じているからです。

そして、ときには神さまに「どうか私の想いを叶えてください」と」お願いするのですが、

実のところ、それは「お願い」というより、もはや「指図」に近いものになってしまっています。

「ああして下さい」「こうして下さい」「あれはイヤです」「こうなるべきです」と・・・すべてにおいて自分の思いどおりになることが前提で、それはお願いというよりは自分こそがすべてを仕切っていて好きなようにできる、「神」という存在になりかわってしまっているようです。

私たちが日々、生きるために受け取っているすべての贈りものの出所は、宇宙・神そのものです。

その無限の存在の愛から、それは太陽の光や自然の恵みのごとく、私たちにふんだんに与えられています。幸せに必要なすべてがしっかりとやってきているのです。

しかし、それを丸々受け取るか、それともそのままスルーしてしまうのかは私たちしだいです。

何かが不足していると感じるときには、そもそも足りないというよりは、私たちが受け取りを拒否している可能性があります。

私たちが自分の思いこそが正しいと信じて、それをなにがなんでもとうそうとするとき、私たちはもう自分の思いを叶えることしか眼中になく、天からやってきている豊かさのすべてを締め出してしまっているのかもしれません。

自分の思いを叶えるために、宇宙・神に指図をすることは、私たち自身が神という存在になりかわってしまっているようです。

しかし、宇宙・神から与えられるすべては、私たちが一歩さがって道を空けているときにこそ受け取れるものなのです。

「自分に頼る」ということは、「私には供給源などいりません、好きにさせて下さい」と言っているのと同じなのです。

私たちが自分勝手に思いを叶えようとしはじめたとき、いったいどちらが神なのかわからなくなってしまいます。まさに、「神なんていらない!自分が好き放題生きることこそが大切!」と宣言しているようなものです。

たとえ、私たちが自分に頼り切って宇宙・神を無視したとしても、しょせん生存するためのすべては源である宇宙・神からしかやってくることはありません。頼るべきところは、そこだけなのです。

いくらその存在を忘れさろうとしても、源なくしては私たちはいっぺんに消え去ってしまうほど、その源に存在を依存し生かされているのです。

「勝手に好きなようにします!」と自分の思いに執着することは、こころからその源を締め出そうとしている行為であり、そうすることで徐々に私たちの目にする世界や自分自身に不具合が生じたり、枯渇してゆくことに気づくことになります。

なぜなら、自分の生存に必要な光の供給を自ら遮断してしまっているからなのです。

私たちは叶えたい何かがあるとき、ついつい自分でどうにかしよう、自分の思い通りにしようとやっきになってしまいがちですが、

まずは「すべての供給源に安心しておまかせする」ということをしてみましょう。

「そんなのコワイです。なにか自分にとって不都合なことをさせられるかもしれません」という怖れと不信を感じるのであれば、それはおそらく自分こそがこっそりと人に対して不都合なことを強いてしまっているから、そう感じるのかもしれません。

すべてである宇宙・神に頼ることは、小さな自分に頼ることよりも幸せへの近道であり、自分の想像や思いをはるかに越えて無条件に完全な受け取ることができる、ということを学ぶよい機会にすることができます。

「私はこのことについて、どうしても⚪︎⚪︎になってほしいと望んでいます。けれども、あなたは私のほんとうの幸せが何かを理解し、私を含めてすべての人に満足な結果を与えてくださいます。だから、私はこの思いのすべてを私の手から放して、あなたに委ねます。どうか、みこころのままに」

「みこころのままに♡」と、ほんとうに丸ごと宇宙・神に委ねてしまうときに、何が起こるか?!・・・どうぞ見ていてください。きっと、えっ?!という嬉しい驚きを感じることになります ( ◠‿◠ )

たいていの場合は、「ナント?!そんな手があったの?」「そうくる?」という自分の想像をこえるイレギュラーな経路から満足できる結果が運ばれてきて、それを見て喜ぶことになります。

そして、委ねるたびに「今度はどんなことが起こるのだろう?!」と、その結末についてのサプライズを楽しみにするようになります。そうなると、どんどん信頼できるようになり、さらに大きく受け取ることができるようになります。

自分が神になって君臨しようとするよりも、さっさと退いて、安らかな気持ちでなりゆきを見守ってみましょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「思いどおりこそが幸せ??」

 

私たちは日々、「ああしたい」「こうしたい」「こうなったらいいな〜」「これが欲しい」・・・と、さまざまなものを欲することが日常になっています。

まさに、欲することが「生きること」、思いどおりになることこそが幸せだと信じているからです。

そして、ときには神さまに「どうか私の想いを叶えてください」と」お願いするのですが、

実のところ、それは「お願い」というより、もはや「指図」に近いものになってしまっています。

「ああして下さい」「こうして下さい」「あれはイヤです」「こうなるべきです」と・・・すべてにおいて自分の思いどおりになることが前提で、それはお願いというよりは自分こそがすべてを仕切っていて好きなようにできる、「神」という存在になりかわってしまっているようです。

私たちが日々、生きるために受け取っているすべての贈りものの出所は、宇宙・神そのものです。

その無限の存在の愛から、それは太陽の光や自然の恵みのごとく、私たちにふんだんに与えられています。幸せに必要なすべてがしっかりとやってきているのです。

しかし、それを丸々受け取るか、それともそのままスルーしてしまうのかは私たちしだいです。

何かが不足していると感じるときには、そもそも足りないというよりは、私たちが受け取りを拒否している可能性があります。

私たちが自分の思いこそが正しいと信じて、それをなにがなんでもとうそうとするとき、私たちはもう自分の思いを叶えることしか眼中になく、天からやってきている豊かさのすべてを締め出してしまっているのかもしれません。

自分の思いを叶えるために、宇宙・神に指図をすることは、私たち自身が神という存在になりかわってしまっているようです。

しかし、宇宙・神から与えられるすべては、私たちが一歩さがって道を空けているときにこそ受け取れるものなのです。

「自分に頼る」ということは、「私には供給源などいりません、好きにさせて下さい」と言っているのと同じなのです。

私たちが自分勝手に思いを叶えようとしはじめたとき、いったいどちらが神なのかわからなくなってしまいます。まさに、「神なんていらない!自分が好き放題生きることこそが大切!」と宣言しているようなものです。

たとえ、私たちが自分に頼り切って宇宙・神を無視したとしても、しょせん生存するためのすべては源である宇宙・神からしかやってくることはありません。頼るべきところは、そこだけなのです。

いくらその存在を忘れさろうとしても、源なくしては私たちはいっぺんに消え去ってしまうほど、その源に存在を依存し生かされているのです。

「勝手に好きなようにします!」と自分の思いに執着することは、こころからその源を締め出そうとしている行為であり、そうすることで徐々に私たちの目にする世界や自分自身に不具合が生じたり、枯渇してゆくことに気づくことになります。

なぜなら、自分の生存に必要な光の供給を自ら遮断してしまっているからなのです。

私たちは叶えたい何かがあるとき、ついつい自分でどうにかしよう、自分の思い通りにしようとやっきになってしまいがちですが、

まずは「すべての供給源に安心しておまかせする」ということをしてみましょう。

「そんなのコワイです。なにか自分にとって不都合なことをさせられるかもしれません」という怖れと不信を感じるのであれば、それはおそらく自分こそがこっそりと人に対して不都合なことを強いてしまっているから、そう感じるのかもしれません。

すべてである宇宙・神に頼ることは、小さな自分に頼ることよりも幸せへの近道であり、自分の想像や思いをはるかに越えて無条件に完全な受け取ることができる、ということを学ぶよい機会にすることができます。

「私はこのことについて、どうしても⚪︎⚪︎になってほしいと望んでいます。けれども、あなたは私のほんとうの幸せが何かを理解し、私を含めてすべての人に満足な結果を与えてくださいます。だから、私はこの思いのすべてを私の手から放して、あなたに委ねます。どうか、みこころのままに」

「みこころのままに♡」と、ほんとうに丸ごと宇宙・神に委ねてしまうときに、何が起こるか?!・・・どうぞ見ていてください。きっと、えっ?!という嬉しい驚きを感じることになります  ( ◠‿◠ )

たいていの場合は、「ナント?!そんな手があったの?」「そうくる?」という自分の想像をこえるイレギュラーな経路から満足できる結果が運ばれてきて、それを見て喜ぶことになります。

そして、委ねるたびに「今度はどんなことが起こるのだろう?!」と、その結末についてのサプライズを楽しみにするようになります。そうなると、どんどん信頼できるようになり、さらに大きく受け取ることができるようになります。

自分が神になって君臨しようとするよりも、さっさと退いて、安らかな気持ちでなりゆきを見守ってみましょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

ポトフはどこに?!

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「美味しいポトフのお店がある」ということで、このポトフDayを楽しみにしていたのですが ・・・ どうやら、私たちのポトフDayはこの日ではなかったようで、結局お口に入ることはありませんでした (^^;;

この日の天の思し召しメニューは自然薯と湯葉。そちらのお店へと落ちつくことになりました。

湯葉が小鍋に入って出てきたので、これはほぼ和風ポトフ??だよね!(笑)

さまざまなメニューをみんなでシェアして楽しくいただきました。

そんな身体にやさしいランチをいただいたあとは、うっそうとした新宿御苑の森をかたわらにながめられる気持ちのいいオープンカフェへ。

梅雨の合間の曇り空の下、湿り気を含んだ風から木々や花や土の匂いがふんだんに感じられて、あ〜・・・なんてゼイタクな空間。

地元(中目・代官山)のカフェは最近、外国人観光客がどっとふえて落ちつかない雰囲気になってしまったので、この静けさはほんとうにありがたいです。

それに、おしゃれスウィーツもリーズナブルなのです。

私がいただいたのは、エンジェルフードという名前のスウィーツで、まるではんぺんのようなスポンジにキャラメルソースとホイップがもりもり。不思議な食感でとても美味しいでした。

あまりに風が心地よくって、日が落ちる頃まであれこれおしゃべりに興じておりました。

またリベンジポトフの帰りに、ぜひ立ち寄りたい癒しカフェでした。

みなさま、愉しいひとときをありがとうございました♡

 

 

 

23-06-20 もっともっと・・・は不足を生みだす

 

私たちは日々、自分に「つけ足す」ことに忙しくしています。

もっと美しく、もっと賢く、もっと強く、もっと豊かに、もっと楽しく、もっと充実を・・・もっと、もっと、もっと・・・と。

この世界では「つけ足す」ことこそが幸せをもたらすと信じられているので、人生を通してつねに何かを「つけ足すこと」「補うこと」に労力を費やすことになります。

こどもの頃から、生きるための道具として国語や算数などの知識をつけ足すことにはじまって、今では生きるために必要な知識は十分に身につけたはずなのに、生涯を通通じてつけ足す作業は終わることがありません。

一般教養や趣味の知識にはじまって、マネ活、美容、副業、あの人は知っているのに私は知らないことについてなど・・・つけ足すものにはこと欠きません。

このように、つねに「つけ足す」ことに注意が向いているということは、それはまるで「私はこのままでは足りない不十分な人です」と自分自身に暗示をかけているようなものです。

足りないと信じていれば、何をしても、どこまでいっても結局は足りないということになってしまいます。つけ足そうとする努力は、さらなる不足感を生みだしてしまうのです。

セラピーにおいても勘違いされがちなのは、不十分な「足りない」自分に対して、セラピーを受けて「つけ足す」という考え方です。

しかし、そもそも幸せを感じることができない原因が「足りない」という不足の考えから生じているのであれば、修正するポイントはその「足りない私」「つけ足す必要がある私」という「不足の誤解」をただ取り除いてあげることだけなのです。

私たちのこころというのは、自分が目にするものすべてに魔法をかけてしまうほどの強力な力があります。

まさに、私たちは自分のこころが信じたものを目にするのです。そしてその力は、自分自身さえも欺いてしまうことができるのです。

だから、自分がある考えをいったん受け入れてしまえば、すぐさまそれは自分にとって真実となり、その考えが自分の体験を決定するようになります。

「私は足りない」と信じこんでいれば、どこまでも足りない状況を目にすることになり、足りない体験を楽しみつづけられる、ということなのです。

ものごとは、自分の決意ひとつにかかっているので、「自分が何を信じているか」ということはとても大切なことなのです。

それなのに、私たちは自分がどのような考えを信じているのかについて無頓着になっているがために、自分にかけてしまった不都合な魔法に気づくことがなく、そこから抜け出すことができません。

足りない体験をしているのなら、「足りない」と信じて、自分がそれを紡いでいることにまず気づいてみましょう。

すべての原因であるこころを修正することを忘れてしまうと、自分が生み出した結果にふりまわされ、その結果を補うことに忙しくしてしまうことになります。

このように自分で自分を不自由にしてしまう考えを手放すためには、その考えが「真実であるのか」「絶対にほんとうのことであるのか」をしっかりと見極めることが必要です。

たとえば「足りない」という考えに囚われているならば、ほんとうに自分の人生全般が足りていないのか、あるいは見落として忘れ去られている豊かさはないのか調べてみましょう。

完璧に100% 不足しているということは考えられないので、きっと「この部分は恵まれている」「この部分は豊かだ」という点をいくつか見つけられるはずです。

そうしたら、不足よりも、そのような満ち足りている部分をしっかりと味わい、感謝のこころをもってみましょう。感謝をすることで、「足りている」という感覚を呼び起こすことができます。 

先ほども書いたように、自分自身の癒しは「何かをつけ足して欠陥を修正する」ことではなく、「もともと足りなくなどないから、なにひとつ頑張ってつけ足す必要はない」という、自分に対する「完全さ」に気づき、それを受け入れることなのです。

目を閉じてリラックスし、深い呼吸をしながらこころを鎮めてあげると、不思議とこころはなにも欲しがらなくなります。外へ外へと向かうことをやめ、自分のホームへと戻ってきた安心感で、こころろは安らぎのなかで本来自分に備わっている満たされた状態を取り戻すことができるからです。

「満たされた感覚」はすでにこころの中に存在しているのです。外に探しに行くことがなければ、それに気づくことができます。 

こころが「足りない」という思いを信じなくなることで、自然と「足りない」という現象は解決されてゆきます。

また、日々の生活のなかで、感謝できることを見つけようとする姿勢によって、自分に与えられている豊かさを受け入れてゆくことができるようになります。

そうするうちに、「足りない」とか「足りてる」という考に囚われることなく、すでにこころのなかに存在する「満ち足りた感覚」とつながることができるようになります。

また、自分自身を豊かさの源として自覚し、自分の持てるもの、たとえば知識とか笑顔とか、優しさ、人への奉仕などを、自分からまわりに与えることで、自分自身が「十分に足りている」ということを受け入れることができるようになります。

よく「being」と「having」は同じことを意味するといいますが、まさに自分が存在としての豊かさを表現するとき、自分はすでにそれを持っていることを知ることができるのです。

何かをつけ足すことに忙しくして外へ外へと走りまわることよりも、まず内側へと向かい、静かに自分のこころとつながり、自分の中にすでに存在している「満ち足りている安らぎの感覚」を取り戻し、それをまわりと分かち合ってみましょう。

きっと、自分の being が豊かな having を生みだしてくれるのを目にすることができることでしょう。

 

 

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気づきの日記「もっともっと・・・は不足を生みだす」

 

私たちは日々、自分に「つけ足す」ことに忙しくしています。

もっと美しく、もっと賢く、もっと強く、もっと豊かに、もっと楽しく、もっと充実を・・・もっと、もっと、もっと・・・と。

この世界では「つけ足す」ことこそが幸せをもたらすと信じられているので、人生を通してつねに何かを「つけ足すこと」「補うこと」に労力を費やすことになります。

こどもの頃から、生きるための道具として国語や算数などの知識をつけ足すことにはじまって、今では生きるために必要な知識は十分に身につけたはずなのに、生涯を通通じてつけ足す作業は終わることがありません。

一般教養や趣味の知識にはじまって、マネ活、美容、副業、あの人は知っているのに私は知らないことについてなど・・・つけ足すものにはこと欠きません。

このように、つねに「つけ足す」ことに注意が向いているということは、それはまるで「私はこのままでは足りない不十分な人です」と自分自身に暗示をかけているようなものです。

足りないと信じていれば、何をしても、どこまでいっても結局は足りないということになってしまいます。つけ足そうとする努力は、さらなる不足感を生みだしてしまうのです。

セラピーにおいても勘違いされがちなのは、不十分な「足りない」自分に対して、セラピーを受けて「つけ足す」という考え方です。

しかし、そもそも幸せを感じることができない原因が「足りない」という不足の考えから生じているのであれば、修正するポイントはその「足りない私」「つけ足す必要がある私」という「不足の誤解」をただ取り除いてあげることだけなのです。

私たちのこころというのは、自分が目にするものすべてに魔法をかけてしまうほどの強力な力があります。

まさに、私たちは自分のこころが信じたものを目にするのです。そしてその力は、自分自身さえも欺いてしまうことができるのです。

だから、自分がある考えをいったん受け入れてしまえば、すぐさまそれは自分にとって真実となり、その考えが自分の体験を決定するようになります。

「私は足りない」と信じこんでいれば、どこまでも足りない状況を目にすることになり、足りない体験を楽しみつづけられる、ということなのです。

ものごとは、自分の決意ひとつにかかっているので、「自分が何を信じているか」ということはとても大切なことなのです。

それなのに、私たちは自分がどのような考えを信じているのかについて無頓着になっているがために、自分にかけてしまった不都合な魔法に気づくことがなく、そこから抜け出すことができません。

足りない体験をしているのなら、「足りない」と信じて、自分がそれを紡いでいることにまず気づいてみましょう。

すべての原因であるこころを修正することを忘れてしまうと、自分が生み出した結果にふりまわされ、その結果を補うことに忙しくしてしまうことになります。

このように自分で自分を不自由にしてしまう考えを手放すためには、その考えが「真実であるのか」「絶対にほんとうのことであるのか」をしっかりと見極めることが必要です。

たとえば「足りない」という考えに囚われているならば、ほんとうに自分の人生全般が足りていないのか、あるいは見落として忘れ去られている豊かさはないのか調べてみましょう。

完璧に100% 不足しているということは考えられないので、きっと「この部分は恵まれている」「この部分は豊かだ」という点をいくつか見つけられるはずです。

そうしたら、不足よりも、そのような満ち足りている部分をしっかりと味わい、感謝のこころをもってみましょう。感謝をすることで、「足りている」という感覚を呼び起こすことができます。 

先ほども書いたように、自分自身の癒しは「何かをつけ足して欠陥を修正する」ことではなく、「もともと足りなくなどないから、なにひとつ頑張ってつけ足す必要はない」という、自分に対する「完全さ」に気づき、それを受け入れることなのです。

目を閉じてリラックスし、深い呼吸をしながらこころを鎮めてあげると、不思議とこころはなにも欲しがらなくなります。外へ外へと向かうことをやめ、自分のホームへと戻ってきた安心感で、こころろは安らぎのなかで本来自分に備わっている満たされた状態を取り戻すことができるからです。

「満たされた感覚」はすでにこころの中に存在しているのです。外に探しに行くことがなければ、それに気づくことができます。 

こころが「足りない」という思いを信じなくなることで、自然と「足りない」という現象は解決されてゆきます。

また、日々の生活のなかで、感謝できることを見つけようとする姿勢によって、自分に与えられている豊かさを受け入れてゆくことができるようになります。

そうするうちに、「足りない」とか「足りてる」という考に囚われることなく、すでにこころのなかに存在する「満ち足りた感覚」とつながることができるようになります。

また、自分自身を豊かさの源として自覚し、自分の持てるもの、たとえば知識とか笑顔とか、優しさ、人への奉仕などを、自分からまわりに与えることで、自分自身が「十分に足りている」ということを受け入れることができるようになります。

よく「being」と「having」は同じことを意味するといいますが、まさに自分が存在としての豊かさを表現するとき、自分はすでにそれを持っていることを知ることができるのです。

何かをつけ足すことに忙しくして外へ外へと走りまわることよりも、まず内側へと向かい、静かに自分のこころとつながり、自分の中にすでに存在している「満ち足りている安らぎの感覚」を取り戻し、それをまわりと分かち合ってみましょう。

きっと、自分の being が豊かな having を生みだしてくれるのを目にすることができることでしょう。

 

 

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いただきもの〜♪

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その1〜ピンクの冒険〜

幼い頃から、ピンクの洋服を着た記憶がありません。いつも母が手作りしていたのですが、紺や白や水色が多かったような(これらの色が似合うから・・・という理由でした)。

なので、大人になってもピンクにはかなり抵抗があり、お洋服はおろかアイシャドウも定番人気ピンクは決して手にとらず、イエロー&カーキというような色を使っていました。

ところがここにきて(このトシになって!)、ピンク系のシャドウをいただくことたびたび。

先日、モーヴ系のシャドウをお友だちにいただき、使ってみたら「あら?!けっこうイイ感じ?!」と開眼。

そして、再びピンク系のシャドウをいただくことに。

マットとラメというずらりピンクなグラデーションが並ぶ素敵なパレット(見てるだけで楽しい♪)

使ってみたら、モーヴ同様ピンクも違和感なし。新たな発見です。

Kちゃん、いつも未知の冒険をさせてくださってありがとうございます♡

その2〜のけぞる美味しさ〜

いただいた手提げ袋のロゴを見て、叫んでしまいました。「きゃあ〜〜〜、ECHIREだ〜♡」

美味しいバターで有名なエシレさん。このお店で出しているサブレがずっと食べてみたかったのです。

これです!

缶のブルーが素敵です。使いこんだら、さらにイイ感じになりそう。

頂戴してからすぐには食べられず、一週間ほど拝んでおりました(笑)。

が、ついに昨日いただきました。

くちあたりが、サクッ、ホロッ、バターの香りがじんわ〜、という感じでおいし〜〜〜〜〜♡

食感、香りともに格別で、予想をうわまわりました。

くださったYちゃんはスウィーツ男子ではないのにもかかわらず、いつも「おお!」とうなってしまう秀逸なスウィーツをくださるのです。

一枚づつ拝みながらいただきます。ごちそうさまです♡