10月も下旬に入ろうとしていますが、昨日も今日も、そして明日も、ほぼ夏日。部屋ではまだ扇風機が回っています。
そうはいっても、仕事が一段落して散歩に出る頃には、もう陽が落ちてあたりは闇に沈んでいます。深まりゆく秋を感じます。
長くつづいた猛暑で今年の金木犀はいったいどこへいってしまったのだろう?と思っていたら、ようやく昨日ぐらいから風にのって香ってくるようになりました。
空が青くて、風も心地よく、暑すぎず寒すぎず、そんな季節にぴったりのこころがほっころと癒される香りです。
10月も下旬に入ろうとしていますが、昨日も今日も、そして明日も、ほぼ夏日。部屋ではまだ扇風機が回っています。
そうはいっても、仕事が一段落して散歩に出る頃には、もう陽が落ちてあたりは闇に沈んでいます。深まりゆく秋を感じます。
長くつづいた猛暑で今年の金木犀はいったいどこへいってしまったのだろう?と思っていたら、ようやく昨日ぐらいから風にのって香ってくるようになりました。
空が青くて、風も心地よく、暑すぎず寒すぎず、そんな季節にぴったりのこころがほっころと癒される香りです。
先日、お昼の情報番組を観ていたら、「アンガーマネジメント(怒りを感じたときの対処法)」について取りあげられていました。
たしかに、怒りというのはとても破壊的な感情で、一瞬にして人間関係が損なわれたり、仕事を失ってしまう原因になったり、またそれ以上に自分自身を決して幸せにせず、健康まで蝕んでしまうので、マネジメントするにこしたことはありません。
番組のなかでは、怒りを感じたら「じっと6秒ガマンする」、あるいは「相手への理解をもつ」ことによって怒りを軽減するすることができる、と紹介されていました。
確かに「ひと呼吸おくこと」や「相手を理解しようとすること」は、怒りが爆発することから救ってくれるかもしれません。
しかし、それはあくまでも対処療法であり、怒りの原因を根本から解消することにはいたっていません。
私たちが怒りの感情を感じているとき、その怒りの下には必ず原因となる信念(自分について信じていること)が潜んでいます。
それはたいてい、このような信念です。「私は人や世界に怯えている」「私は傷つけられて悲しい」「私は価値もなく小さな存在だ」という、か弱く傷ついた自分自身のイメージです。
そして、その怒りの原因となる信念を隠すことなくしっかりと向き合うことで、結果として現れていた怒りの感情を手放すことができるようになります。
怒って感情をむき出しにしている人をイメージしてみてください。
恐ろしい形相、荒々しい怒鳴り声、勢いよく振りあげたこぶし ・・・ それはとても強そうなイメージがあります。
しかし、その人はなぜ、そんなに強そうな形相をしなければならないのでしょうか?
もともと、こころのなかに強さの感覚がある人は、このような強そうな形相を必要とはしません。強そうに装わなければならないとしたら、それは自分のなかに弱さや不安を感じていて「大きく見せなければ、支配されてしまう」という心理が働いているからです。
もともと強さを感じている人は、強さの演出をする必要がないのです。
ほんとうの強さというものは、凪いでいる海のようにどっしりと穏やかで静かな状態です。決して荒ぶってはいないのです。
人が荒ぶらなければならないとしたら、それはその人が自分の弱さに怯えていて、それをカモフラージュするために強い自分を演出しているときです。強さをわざと作りだしているのです。装われた強さは、必要以上に声が大きくなり、さらに手が出てしまったり、足まで出てしまったりするのです。
怯えている犬が全力で吠えつづけるように、大きな声や暴力、激しい形相で威嚇しようとします。
しかし、大きな声も、振りあげたこぶしも、伝えたい何かがあるときにはまったくの逆の効果となり、何も内容が伝わらなくなってしまいます。聞いてもらえないどころか、人は遠ざかってしまうのです。
怒りの原因に対処して、穏やかな自分になりたいのなら、自分が怒ってしまった場面の直前へと記憶を戻してみましょう。
そのとき、自分の内側でいったい何が起こっていたのか、自分自身で検証してみるのです。
たとえば、職場の上司に「こんなこともできないなんて、おまえはバカか?」と叱責されたとします。
そう言われて抑えきれない怒りを感じてしまうのなら、じつは自分が自分のことをすでにバカだと信じていたのです。そして、職場の上司が口にした言葉がまさにビンゴだ! と感じたので、あまりにも図星の指摘に怒りが湧き上がってしまったのです。
しかし、もし自分のことを「バカだ」と感じていなかったなら、「おまえはバカか?」と言われてもピンとこないため、怒りではなくキョトンとした顔をしているかもしれません。あるいは、そのひとことについて何も記憶に残らないかもしれません。
私たちは相手の言葉が自分を傷つけたと感じがちですが、それよりも前に「自分で自分に対して同じことを思っていた」か、あるいは「自分には価値がないと信じていた」のです。
そして、それをまるで上書きするかのごとく他人に指摘されたことで、秘密をあばかれたように感じ、思わず怒りがこみあげてしまいます。それは、「自分でそう思っていたのに、あなたまでそれを言うのか?!」と無意識のうちに反発してしまうからです。
自分のなかに自分自身を卑下するような感情がなければ、たとえ相手が何かを言ったとしてもとくに強い感情が湧いてくることはありません。むしろ、「この人は何を言っているのだろう?」と怪訝に感じるかもしれません。
そういったわけで、怒りを感じた直前の感情を調べてみることによって、自分のなかに弱さやコンプレックスの感覚が存在し、それをあらためて他人に指摘されたことで攻撃されたと感じ、怒りがこみあげてしまった、ということに気づくことができます。
同じような怒りを繰り返さないためにも、自分のなかにある弱さやコンプレックスの感覚を認識してあげることが大切です。
しっかりと意識されたものは、繰り返すことができなくなります。怒りの原因が何であるのかがわからないままであったなら、同じことが繰り返されるのを止めることができません。
しっかりと認識したなら、「この傷づいている自分、小さく弱く感じている自分は過去の自分自身であって、今の自分とは何の関係もない」ということに気づきましょう。
私たちは過去の癒やされていない自分を今の自分にオーバーラップさせてしまいがちです。しかし、一つづつ気づくことによって、私たちは簡単に過去から解放されることができるのです。
過去の傷ついた感情、小さな自分のイメージは、高い自己であるハイヤーセルフに取り去ってもらいましょう。「この傷ついた感情はほんとうの私ではありません。私のなかから取り去ってください。ほんとうの私の強さや穏やかさを感じさせてください」とお願いすることで、それがもたらされます。
そして、ハイヤーセルフから光とともに強さや穏やかさが自分のもとにやってきて、自分自身を包み、満たしてゆくのを感じてみましょう。
このように、怒りを感じた直前の気持ちを調べることで、自分のなかに放置されていた傷ついた感情や弱さの感覚を見つけることができます。
見つけたら、ハイヤーセルフに除去してもらいす。これを繰り返すうちに「小さな自分」という間違ったイメージが手放され、無意識的に怒りを感じていた場面が減ってゆきます。
6秒ガマンすることも役に立つ方法ですが、怒りの原因となる自分のこころの傷や弱さの感覚を見つけてあげることで、私たちは確実に穏やかで、容易に動揺しないほんとうの自分を取り戻すことができます。
自分のこころの弱さと向き合って、それをハイヤーセルフとともに優しく解放してあげましょう。
これはこころのお掃除につながり、怒りを感じる場面が少なくなるだけでなく、自分が痛みを感じたり落ちこんだりするような出来事も減ってゆき、こころのなかに安らぎや喜びの感覚が大きく広がってゆきます。
過去の自分の弱さを清算し、のびやかで安らかな自分のこころの光と愛を取り戻しましょう。そして、その光で自分も世界も安らかに照らしてあげましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
先日、お昼の情報番組を観ていたら、「アンガーマネジメント(怒りを感じたときの対処法)」について取りあげられていました。
たしかに、怒りというのはとても破壊的な感情で、一瞬にして人間関係が損なわれたり、仕事を失ってしまう原因になったり、またそれ以上に自分自身を決して幸せにせず、健康まで蝕んでしまうので、マネジメントするにこしたことはありません。
番組のなかでは、怒りを感じたら「じっと6秒ガマンする」、あるいは「相手への理解をもつ」ことによって怒りを軽減するすることができる、と紹介されていました。
確かに「ひと呼吸おくこと」や「相手を理解しようとすること」は、怒りが爆発することから救ってくれるかもしれません。
しかし、それはあくまでも対処療法であり、怒りの原因を根本から解消することにはいたっていません。
私たちが怒りの感情を感じているとき、その怒りの下には必ず原因となる信念(自分について信じていること)が潜んでいます。
それはたいてい、このような信念です。「私は人や世界に怯えている」「私は傷つけられて悲しい」「私は価値もなく小さな存在だ」という、か弱く傷ついた自分自身のイメージです。
そして、その怒りの原因となる信念を隠すことなくしっかりと向き合うことで、結果として現れていた怒りの感情を手放すことができるようになります。
怒って感情をむき出しにしている人をイメージしてみてください。
恐ろしい形相、荒々しい怒鳴り声、勢いよく振りあげたこぶし ・・・ それはとても強そうなイメージがあります。
しかし、その人はなぜ、そんなに強そうな形相をしなければならないのでしょうか?
もともと、こころのなかに強さの感覚がある人は、このような強そうな形相を必要とはしません。強そうに装わなければならないとしたら、それは自分のなかに弱さや不安を感じていて「大きく見せなければ、支配されてしまう」という心理が働いているからです。
もともと強さを感じている人は、強さの演出をする必要がないのです。
ほんとうの強さというものは、凪いでいる海のようにどっしりと穏やかで静かな状態です。決して荒ぶってはいないのです。
人が荒ぶらなければならないとしたら、それはその人が自分の弱さに怯えていて、それをカモフラージュするために強い自分を演出しているときです。強さをわざと作りだしているのです。装われた強さは、必要以上に声が大きくなり、さらに手が出てしまったり、足まで出てしまったりするのです。
怯えている犬が全力で吠えつづけるように、大きな声や暴力、激しい形相で威嚇しようとします。
しかし、大きな声も、振りあげたこぶしも、伝えたい何かがあるときにはまったくの逆の効果となり、何も内容が伝わらなくなってしまいます。聞いてもらえないどころか、人は遠ざかってしまうのです。
怒りの原因に対処して、穏やかな自分になりたいのなら、自分が怒ってしまった場面の直前へと記憶を戻してみましょう。
そのとき、自分の内側でいったい何が起こっていたのか、自分自身で検証してみるのです。
たとえば、職場の上司に「こんなこともできないなんて、おまえはバカか?」と叱責されたとします。
そう言われて抑えきれない怒りを感じてしまうのなら、じつは自分が自分のことをすでにバカだと信じていたのです。そして、職場の上司が口にした言葉がまさにビンゴだ! と感じたので、あまりにも図星の指摘に怒りが湧き上がってしまったのです。
しかし、もし自分のことを「バカだ」と感じていなかったなら、「おまえはバカか?」と言われてもピンとこないため、怒りではなくキョトンとした顔をしているかもしれません。あるいは、そのひとことについて何も記憶に残らないかもしれません。
私たちは相手の言葉が自分を傷つけたと感じがちですが、それよりも前に「自分で自分に対して同じことを思っていた」か、あるいは「自分には価値がないと信じていた」のです。
そして、それをまるで上書きするかのごとく他人に指摘されたことで、秘密をあばかれたように感じ、思わず怒りがこみあげてしまいます。それは、「自分でそう思っていたのに、あなたまでそれを言うのか?!」と無意識のうちに反発してしまうからです。
自分のなかに自分自身を卑下するような感情がなければ、たとえ相手が何かを言ったとしてもとくに強い感情が湧いてくることはありません。むしろ、「この人は何を言っているのだろう?」と怪訝に感じるかもしれません。
そういったわけで、怒りを感じた直前の感情を調べてみることによって、自分のなかに弱さやコンプレックスの感覚が存在し、それをあらためて他人に指摘されたことで攻撃されたと感じ、怒りがこみあげてしまった、ということに気づくことができます。
同じような怒りを繰り返さないためにも、自分のなかにある弱さやコンプレックスの感覚を認識してあげることが大切です。
しっかりと意識されたものは、繰り返すことができなくなります。怒りの原因が何であるのかがわからないままであったなら、同じことが繰り返されるのを止めることができません。
しっかりと認識したなら、「この傷づいている自分、小さく弱く感じている自分は過去の自分自身であって、今の自分とは何の関係もない」ということに気づきましょう。
私たちは過去の癒やされていない自分を今の自分にオーバーラップさせてしまいがちです。しかし、一つづつ気づくことによって、私たちは簡単に過去から解放されることができるのです。
過去の傷ついた感情、小さな自分のイメージは、高い自己であるハイヤーセルフに取り去ってもらいましょう。「この傷ついた感情はほんとうの私ではありません。私のなかから取り去ってください。ほんとうの私の強さや穏やかさを感じさせてください」とお願いすることで、それがもたらされます。
そして、ハイヤーセルフから光とともに強さや穏やかさが自分のもとにやってきて、自分自身を包み、満たしてゆくのを感じてみましょう。
このように、怒りを感じた直前の気持ちを調べることで、自分のなかに放置されていた傷ついた感情や弱さの感覚を見つけることができます。
見つけたら、ハイヤーセルフに除去してもらいす。これを繰り返すうちに「小さな自分」という間違ったイメージが手放され、無意識的に怒りを感じていた場面が減ってゆきます。
6秒ガマンすることも役に立つ方法ですが、怒りの原因となる自分のこころの傷や弱さの感覚を見つけてあげることで、私たちは確実に穏やかで、容易に動揺しないほんとうの自分を取り戻すことができます。
自分のこころの弱さと向き合って、それをハイヤーセルフとともに優しく解放してあげましょう。
これはこころのお掃除につながり、怒りを感じる場面が少なくなるだけでなく、自分が痛みを感じたり落ちこんだりするような出来事も減ってゆき、こころのなかに安らぎや喜びの感覚が大きく広がってゆきます。
過去の自分の弱さを清算し、のびやかで安らかな自分のこころの光と愛を取り戻しましょう。そして、その光で自分も世界も安らかに照らしてあげましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
近所でランチをするときお友だちにお店選びをお願いすると、まったく知らなかったお店や食べたことのないメニューに出会うことができます。
昨日のランチは、パッタイとカオマンガイ。Sちゃんチョイスです♡
二十代の頃、タイに行ったときにはパクチーが大の苦手で、これらのお料理にかなり苦戦し何を食べたのか覚えていません。
しかしどうしたことか、今はパクチー大好き人間で、ときどきタイ料理屋さんでテーブルの上に「どうぞご自由に!」とフリーパクチーが活けてあると、わしわしと遠慮なく完食してしまいます。
このお店もボリュームたっぷりで、本場のお味♡
だから、すっかりタイ料理のお店かと思いきや、じつはシェフもお店の方もインド人。そして、インドの音楽がかかっていて、ガネーシャ像がおいてありました😆
なので、このスパイスの効いたソーセージは、まさにインドお味です。(世界地図全体で見たら、タイもインドもご近所ですものね!笑)
インドの音楽を聴きながらひさ〜しぶりに食べたパクチー香るタイ料理、エキゾチックで美味でした。@Asian Dining SITAさん
食後は、まったりお茶タイム。こちらも、近いわりには足を運ぶことがない Good Sound Coffeeさん。
この日はご近所で、冒険でした〜♪
ある出来事を、いつまでも考えつづけてしまうことがあります。
「あれはどういう意味だったのだろう?」「あの人はなぜあんなことを言ったのだろう?」「どうしてこんなことになってしまったのだろう?」「なぜ・・・?」「どうして・・・?」
これらは「今」について考えているのではなく、すべて過ぎ去ってしまった「過去」について思い悩んでいる状態です。
しかし、「過去」はとっくに消えてなくなり、もうそこにアクセスする手立てはありません。それはすでにどこにも存在していないのです。
存在していないものについて、「どうして・・・?」「なぜ・・・?」と思い巡らすことは、こころのエネルギーの浪費以外なにものでもありません。いくら考えても、そこから建設的なことは起こりません。
なぜそんなに過去が気になってしまうのかというと、そのときに自分の感情が大きく刺激され、こころが動揺してしまったからです。
こころが動揺した・・・つまり、怖れを感じた、傷ついた、苦痛や悲しみを感じたということであり、それは自分のこころが不自然に波立ってしまったのです。
穏やかに凪いだ湖のようなこころが、荒波を立てて不自然な状態になっていることこそが居心地が悪い状態を作りだしています。
こころが不自然な状態になっているのならば、過去の変更不可能なことについて思い巡らすよりも、波立つはずかないこころが波立っているその原因こそを探ってみることです。
私たちのこころは、鏡のようにすべてを映しだす湖のように静かで穏やかであることが自然な状態です。
しかし、そのこころが波立ってしまっているならば、それは不自然なことが起きているわけであり、こころが誤作動を起こして落ち着きがない状態になっていることをあらわします。
しかし、私たちはつねに出来事や状況について「どうして?」「なぜ?」と考えはじめる習慣があるために、自分よりも外側のことに注意の焦点が固定されてしまい、こころの誤作動を認識できず、せっかくのこころを正すための機会を失ってしまっているのです。
そして、外側の出来事、状況に対して、「どうして?」「なぜ?」と繰り返すことで、その出来事に動揺しながらいつまでも同じような反応を繰り返すことになってしまいます。
この状態は、自分で自分のこころを正すまでずっと続くことになります。
そうならないためにも、こころが波立つたびに自分のこころにしっかりと向き合うことによって、怖い、傷ついた、苦しい・・・といったいつもの反応から抜け出すことができるようになるのです。
過ぎ去った出来事や状況について「なぜ?」「どうして?」と繰り返しながら自分の外側に向かうかわりに、逆方向へと向きを変えて自分のこころへと向かってみましょう。
それは、自分のこころについて調べることであり、こころを調べることで自分が誤って信じていることを見つけることができます。
誤って信じていることこそが、自分自身を怖がらせ、傷つけ、苦しませたり悲しませたりしている原因そのものなのです。
たとえば、「こんなこと、絶対に起きるべきではない!どうしてこんなことが起きたのだろう?」と考えてしまうとき、「それが起きるべきではない」という誤った考えに囚われています。その考えは、ほんとうにほんとうのことなのか自分のこころに問いかけてみましょう。
すべては善きことの流れの一部分だとしても、「起きるべきではない」という自分の考えが前提にあるのならば、そのあとはどのようなことが起ころうとも、否定でしかものごとを体験できなくなってしまいます。
かりに、「起こることはすべて、自分にとっても周りにとっても善いことであって、それ以外の可能性はない」という考えを受け入れていれば、いったんは動揺したとしても、「大丈夫!これが善いことに変わってくるのを見ることができるはずだから、安心して流れにまかせよう」とこころを立て直すことができます。そして、自分が決めた結果を見ることになるでしょう。
そうであれば、もう過去についての「どうして?」「なぜ?」はどうでもよくなり、そのままの流れにこころを開いて身をまかせることができます。
自分の考えと向き合って探求しても、自分の考えの誤りを見つけることができないときには・・・
自分の高い自己であるハイヤーセルフに、「私は自分の信じていることの間違いに気づくことができません。私にほんとうのことを教えてください」とこころのなかでお願いしてみましょう。
あるいは、自分がいちばん信頼している友人や知人に「自分はこのことについてこのように解釈し、こころが穏やかではないのですが、あなたはどう思いますか?」などと意見を求めてみましょう。
こころを開いてアドバイスを求めたときには、その人を通して宇宙があなたに必要なすべてを与えてくれます。
あなたが「自分を正したい」「正しいこころをもちたい」と願って助けを求めれば、どこからでも完全な答えがもたらされるのです。
しっかりと答えを受け取るには、尋ねた相手を完全に信頼すること、その答えになにも検閲をかけずにオープンなこころで受け取ることです。
「どうして・・・?」「なぜ・・・?」と外へばかり気をとられがちな自分のこころと向き合って、いつでも自分のこころの誤りを正したい、自分のこころを本来の穏やかな湖の状態に戻したいと思っているとき、宇宙からの助けは無条件にふんだんにやってきます。
なぜなら、宇宙は「本来の自分らしく自分自身を生きたい」と願っている人をどこまでも応援してくれるからです。
その助けを得るために、アタマでいろいろと考えてしまうよりも、「自分のこころの誤りを正したい」とこころに決めて大きくこころを開いて、宇宙に助けを求めましょう。
そして、宇宙からの助けや答えをすべて受け取ることができるように、ただこころを空っぽにあけ放ってリラックスして待つことによって、かならず助けがやってくることを知ることができるでしょう。
PS. 未来もまだ存在していないので、未来について思いや悩むことについても同様です
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
ある出来事を、いつまでも考えつづけてしまうことがあります。
「あれはどういう意味だったのだろう?」「あの人はなぜあんなことを言ったのだろう?」「どうしてこんなことになってしまったのだろう?」「なぜ・・・?」「どうして・・・?」
これらは「今」について考えているのではなく、すべて過ぎ去ってしまった「過去」について思い悩んでいる状態です。
しかし、「過去」はとっくに消えてなくなり、もうそこにアクセスする手立てはありません。それはすでにどこにも存在していないのです。
存在していないものについて、「どうして・・・?」「なぜ・・・?」と思い巡らすことは、こころのエネルギーの浪費以外なにものでもありません。いくら考えても、そこから建設的なことは起こりません。
なぜそんなに過去が気になってしまうのかというと、そのときに自分の感情が大きく刺激され、こころが動揺してしまったからです。
こころが動揺した・・・つまり、怖れを感じた、傷ついた、苦痛や悲しみを感じたということであり、それは自分のこころが不自然に波立ってしまったのです。
穏やかに凪いだ湖のようなこころが、荒波を立てて不自然な状態になっていることこそが居心地が悪い状態を作りだしています。
こころが不自然な状態になっているのならば、過去の変更不可能なことについて思い巡らすよりも、波立つはずかないこころが波立っているその原因こそを探ってみることです。
私たちのこころは、鏡のようにすべてを映しだす湖のように静かで穏やかであることが自然な状態です。
しかし、そのこころが波立ってしまっているならば、それは不自然なことが起きているわけであり、こころが誤作動を起こして落ち着きがない状態になっていることをあらわします。
しかし、私たちはつねに出来事や状況について「どうして?」「なぜ?」と考えはじめる習慣があるために、自分よりも外側のことに注意の焦点が固定されてしまい、こころの誤作動を認識できず、せっかくのこころを正すための機会を失ってしまっているのです。
そして、外側の出来事、状況に対して、「どうして?」「なぜ?」と繰り返すことで、その出来事に動揺しながらいつまでも同じような反応を繰り返すことになってしまいます。
この状態は、自分で自分のこころを正すまでずっと続くことになります。
そうならないためにも、こころが波立つたびに自分のこころにしっかりと向き合うことによって、怖い、傷ついた、苦しい・・・といったいつもの反応から抜け出すことができるようになるのです。
過ぎ去った出来事や状況について「なぜ?」「どうして?」と繰り返しながら自分の外側に向かうかわりに、逆方向へと向きを変えて自分のこころへと向かってみましょう。
それは、自分のこころについて調べることであり、こころを調べることで自分が誤って信じていることを見つけることができます。
誤って信じていることこそが、自分自身を怖がらせ、傷つけ、苦しませたり悲しませたりしている原因そのものなのです。
たとえば、「こんなこと、絶対に起きるべきではない!どうしてこんなことが起きたのだろう?」と考えてしまうとき、「それが起きるべきではない」という誤った考えに囚われています。その考えは、ほんとうにほんとうのことなのか自分のこころに問いかけてみましょう。
すべては善きことの流れの一部分だとしても、「起きるべきではない」という自分の考えが前提にあるのならば、そのあとはどのようなことが起ころうとも、否定でしかものごとを体験できなくなってしまいます。
かりに、「起こることはすべて、自分にとっても周りにとっても善いことであって、それ以外の可能性はない」という考えを受け入れていれば、いったんは動揺したとしても、「大丈夫!これが善いことに変わってくるのを見ることができるはずだから、安心して流れにまかせよう」とこころを立て直すことができます。そして、自分が決めた結果を見ることになるでしょう。
そうであれば、もう過去についての「どうして?」「なぜ?」はどうでもよくなり、そのままの流れにこころを開いて身をまかせることができます。
自分の考えと向き合って探求しても、自分の考えの誤りを見つけることができないときには・・・
自分の高い自己であるハイヤーセルフに、「私は自分の信じていることの間違いに気づくことができません。私にほんとうのことを教えてください」とこころのなかでお願いしてみましょう。
あるいは、自分がいちばん信頼している友人や知人に「自分はこのことについてこのように解釈し、こころが穏やかではないのですが、あなたはどう思いますか?」などと意見を求めてみましょう。
こころを開いてアドバイスを求めたときには、その人を通して宇宙があなたに必要なすべてを与えてくれます。
あなたが「自分を正したい」「正しいこころをもちたい」と願って助けを求めれば、どこからでも完全な答えがもたらされるのです。
しっかりと答えを受け取るには、尋ねた相手を完全に信頼すること、その答えになにも検閲をかけずにオープンなこころで受け取ることです。
「どうして・・・?」「なぜ・・・?」と外へばかり気をとられがちな自分のこころと向き合って、いつでも自分のこころの誤りを正したい、自分のこころを本来の穏やかな湖の状態に戻したいと思っているとき、宇宙からの助けは無条件にふんだんにやってきます。
なぜなら、宇宙は「本来の自分らしく自分自身を生きたい」と願っている人をどこまでも応援してくれるからです。
その助けを得るために、アタマでいろいろと考えてしまうよりも、「自分のこころの誤りを正したい」とこころに決めて大きくこころを開いて、宇宙に助けを求めましょう。
そして、宇宙からの助けや答えをすべて受け取ることができるように、ただこころを空っぽにあけ放ってリラックスして待つことによって、かならず助けがやってくることを知ることができるでしょう。
PS. 未来もまだ存在していないので、未来について思いや悩むことについても同様です
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
近くまでいらしたお友だちとお茶タイム。
昔からある美味しい珈琲のお店、ヴェルデさんへ(@恵比寿)。
小さな珈琲屋さんですが、朝とおりかかると焙煎の煙が煙突からモックモクとあがっていて、街中が香ばしい香りに包まれます。
ご主人の焙煎するお豆は人気で、業者さんも買いにいらっしゃるよう。
コロナですっかりご無沙汰していたので、ひさしぶりの来店です。
きょうはオーダーしたことがなかったアイスカフェオレ、そしてご主人手作りのキャラメルシフォンケーキを。
アイスカフェオレは、ミルクに負けないしっかりとした珈琲の味わいがさすが珈琲屋さんでした。
一時間ほどのお茶タイムでしたが、すっかりリラックスいたしました ( ´∀`)
犬は吠えたいときに吠えますし、噛みつきたいときに噛みついてきます。
「そんなことをするべきではない!」といくら言いきかせようとも、そうしたいときにはそうするものです。
人もまったく同じで、怒りを爆発させたい人は爆発させますし、怒鳴りたい人は怒鳴ります。
なぜなら、怒りを爆発させたい、怒鳴りたい、それがその人のしたいことだからです。それをすると気分がよくなると信じているのです。
「そうすると気分がいいから、そうしたい!」と思っている人に「そうするべきではない」と言っても、あまり説得力がありません。
本人がこころの底から、怒りの爆発も人を怒鳴ることもほんとうの解決策ではなく、むしろ自分も相手もダメージを受けてしまう、だから「もうこのやり方はやめよう」と気がつくまで、それがやむことはないのです。
いったん確立されてしまった習慣というものは、その人がしっかりとした認識をもって「やめる決心」をするまで、そのプログラミングは生きつづけるものなのです。
人は結局、自分がしたいようにすることしかできないので、その「したいようにしている」怒りに関して、巻き込まれて被害者にならないようにすることが大切です。
たとえば、「怒鳴りたい人」がいる場合、その対象となる「怒鳴られる人」は決して気分がよいものではありません。怒鳴られることによって、こころがひどく傷ついてしまう場合もあります。
しかし、いったん「この人は吠えたい犬と同じで、ただ怒鳴りたいだけなのだ」と理解することができれば、それは「自分に対して」行われているのではないことに気づきます。そして、客観的に落ち着いて対処することができるようになります。
ただ静かに「私にどうして欲しいのかを伝えてください」と言ったり(これは、その人の怒りと伝えたいと思っている内容とを切り離すのに役立ちます)、あるいは相手の感情がおさまるまで静かにその状態を味わい愛でていることもできます(これは、その人の怒りの劇場に参加することなく、自分はシラフな状態を保っていることです。まったく参加しない人が目のまえにいるき、相手は怒りをもちつづけることが難しくなります)。
私たちが怒っている人を苦手とするのは、「その怒りは、自分に対する攻撃だ」と個人的にとらえ、恐れを感じてしまうからです。
そして、自分はこのように怒られても仕方のない存在なのだ、と受け入れてしまうのです。
しかし、ミスをしたから、あるいは何かがうまくできないからといって、怒鳴られて当然なのでしょうか? ミスと怒鳴ることは、まったく結びつきません。
たとえ何かミスを犯してしまったとしても、ミスを指摘されたり、修正をうながされたり、ダメ出しをされるようなことはあるかもしれませんが、そこに怒りが加えられる正当なことではないのです。
ただ、「きみがこんな失敗をして残念だ」「どうしてこうなったと思う?」「解決策は?」「対処法は?」と静かにいちばんよい立て直し方法を話しあうことができます。
しかし、怒りをぶつけてしまうと、相手はこころを閉ざしてしまうし、ともに理性を失い、それ以上有益なコミュニケーションがとれなくなってしまいます。
どのようなことにおいても、起きている出来事と怒りは結びつけられるものではないのです。
爆発しやすい人は、ただたんに罪悪感や無価値観という劣等感を自分の内にためこんでおり、それがガスのように自分のなかに充満しているがために、ちょっとイラっとすることで簡単に着火してしまいます。
そして、その小さな火花で、ガス爆発が起こったときのように周りに破壊的な影響を及ぼすエネルギーを撒き散らしてしまうのです。
またそのような人は、溜めこんでいる感情のゆえにとにかくそれらを放出したいので、ほんの小さなイラっとしたことで大放出という大きな爆発になってしまうのです。
大爆発を起こした人は、そのときにはスッキリしたように感じるかもしれませんが、じつはあとからイヤな気分に襲われるか、あるいは好ましくない体験に遭遇したりします。
なぜなら、こころは相手を攻撃してしまった罪悪感に襲われ、罪悪感を感じていれば、その気持ちを相殺するために自分に対してイヤな体験を作り出し、「ほら、私もイヤな思いをしているから、おあいこね!」とそれで平等になったと安心するからです。
イヤな気分や望まない体験が自分の怒りの爆発と関係していると気づくことがないので、その因果関係を認識することはなく、改善することもできません。
このように怒りを爆発させつづけることが好きな人がいるということをアタマにおいたうえで、人とのつき合いをもつことが大切です。
もしも、怒りのガスがたまった相手が着火してしまった場合には、被害者になったり、怒りの劇場に参加したりせずに、ただ静かに見守り、ガスが抜け切るのを待ちましょう
怒りにホンロウされることなく、毅然とした態度で「声を荒げていると内容がよくわかりません。どうしたらよいのかを教えてください」などと、ものごとの要点の方に注意を向けるようにしてみましょう。
他者の怒りの本質が理解できるようになると、自分の怒りも客観的に見られるようになります。
ものごとに対して怒っているのではなく、癒やさなければならないポイントが浮上していることに気づきます。そして、それを正しく見て、癒すことができるようになります。
怒りに対して、恐れを感じることなく客観的な目線をもってみましょう。それは「強さ」の表現ではなく、「弱さ」から悲鳴をあげているように見えるようになるかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
犬は吠えたいときに吠えますし、噛みつきたいときに噛みついてきます。
「そんなことをするべきではない!」といくら言いきかせようとも、そうしたいときにはそうするものです。
人もまったく同じで、怒りを爆発させたい人は爆発させますし、怒鳴りたい人は怒鳴ります。
なぜなら、怒りを爆発させたい、怒鳴りたい、それがその人のしたいことだからです。それをすると気分がよくなると信じているのです。
「そうすると気分がいいから、そうしたい!」と思っている人に「そうするべきではない」と言っても、あまり説得力がありません。
本人がこころの底から、怒りの爆発も人を怒鳴ることもほんとうの解決策ではなく、むしろ自分も相手もダメージを受けてしまう、だから「もうこのやり方はやめよう」と気がつくまで、それがやむことはないのです。
いったん確立されてしまった習慣というものは、その人がしっかりとした認識をもって「やめる決心」をするまで、そのプログラミングは生きつづけるものなのです。
人は結局、自分がしたいようにすることしかできないので、その「したいようにしている」怒りに関して、巻き込まれて被害者にならないようにすることが大切です。
たとえば、「怒鳴りたい人」がいる場合、その対象となる「怒鳴られる人」は決して気分がよいものではありません。怒鳴られることによって、こころがひどく傷ついてしまう場合もあります。
しかし、いったん「この人は吠えたい犬と同じで、ただ怒鳴りたいだけなのだ」と理解することができれば、それは「自分に対して」行われているのではないことに気づきます。そして、客観的に落ち着いて対処することができるようになります。
ただ静かに「私にどうして欲しいのかを伝えてください」と言ったり(これは、その人の怒りと伝えたいと思っている内容とを切り離すのに役立ちます)、あるいは相手の感情がおさまるまで静かにその状態を味わい愛でていることもできます(これは、その人の怒りの劇場に参加することなく、自分はシラフな状態を保っていることです。まったく参加しない人が目のまえにいるき、相手は怒りをもちつづけることが難しくなります)。
私たちが怒っている人を苦手とするのは、「その怒りは、自分に対する攻撃だ」と個人的にとらえ、恐れを感じてしまうからです。
そして、自分はこのように怒られても仕方のない存在なのだ、と受け入れてしまうのです。
しかし、ミスをしたから、あるいは何かがうまくできないからといって、怒鳴られて当然なのでしょうか? ミスと怒鳴ることは、まったく結びつきません。
たとえ何かミスを犯してしまったとしても、ミスを指摘されたり、修正をうながされたり、ダメ出しをされるようなことはあるかもしれませんが、そこに怒りが加えられる正当なことではないのです。
ただ、「きみがこんな失敗をして残念だ」「どうしてこうなったと思う?」「解決策は?」「対処法は?」と静かにいちばんよい立て直し方法を話しあうことができます。
しかし、怒りをぶつけてしまうと、相手はこころを閉ざしてしまうし、ともに理性を失い、それ以上有益なコミュニケーションがとれなくなってしまいます。
どのようなことにおいても、起きている出来事と怒りは結びつけられるものではないのです。
爆発しやすい人は、ただたんに罪悪感や無価値観という劣等感を自分の内にためこんでおり、それがガスのように自分のなかに充満しているがために、ちょっとイラっとすることで簡単に着火してしまいます。
そして、その小さな火花で、ガス爆発が起こったときのように周りに破壊的な影響を及ぼすエネルギーを撒き散らしてしまうのです。
またそのような人は、溜めこんでいる感情のゆえにとにかくそれらを放出したいので、ほんの小さなイラっとしたことで大放出という大きな爆発になってしまうのです。
大爆発を起こした人は、そのときにはスッキリしたように感じるかもしれませんが、じつはあとからイヤな気分に襲われるか、あるいは好ましくない体験に遭遇したりします。
なぜなら、こころは相手を攻撃してしまった罪悪感に襲われ、罪悪感を感じていれば、その気持ちを相殺するために自分に対してイヤな体験を作り出し、「ほら、私もイヤな思いをしているから、おあいこね!」とそれで平等になったと安心するからです。
イヤな気分や望まない体験が自分の怒りの爆発と関係していると気づくことがないので、その因果関係を認識することはなく、改善することもできません。
このように怒りを爆発させつづけることが好きな人がいるということをアタマにおいたうえで、人とのつき合いをもつことが大切です。
もしも、怒りのガスがたまった相手が着火してしまった場合には、被害者になったり、怒りの劇場に参加したりせずに、ただ静かに見守り、ガスが抜け切るのを待ちましょう
怒りにホンロウされることなく、毅然とした態度で「声を荒げていると内容がよくわかりません。どうしたらよいのかを教えてください」などと、ものごとの要点の方に注意を向けるようにしてみましょう。
他者の怒りの本質が理解できるようになると、自分の怒りも客観的に見られるようになります。
ものごとに対して怒っているのではなく、癒やさなければならないポイントが浮上していることに気づきます。そして、それを正しく見て、癒すことができるようになります。
怒りに対して、恐れを感じることなく客観的な目線をもってみましょう。それは「強さ」の表現ではなく、「弱さ」から悲鳴をあげているように見えるようになるかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
幾度となく、「もう、ギブアップだわ!」と音をあげた今年の夏ですが、いくら「もうダメ!」と叫ぼうともいっこうに涼しくなる気配もなく九月下旬を迎えました。
昨日から曇り空で蒸し暑いものの、ようやく灼熱地獄から救われた気分です。
先日、ランチ会のあと、お外でお茶をしたくて天空のオープンカフェに行ってみました。
まだ気温は33度ごえでしたが、少しばかり高くなった空を見上げ、ほんの少し秋を感じさせる風にふかれて、気のむくままにおしゃべりを楽しみながら午後を過ごすというゼイタクなひとときを過ごすことができました。
のんびり、ゆるゆる、リラックスなこころのヒーリングタイムでした。
これから季節がよくなるので、こんな気持ちのいいお茶タイムを楽しみたいものです。
ちなみに、この日のランチ会は、「クレッソニエール(クレソン畑という意味)」というビストロさん。
銀色の大きなプレートに、カボチャのスープ、メイン(私は巨大なソーセージのグリル、山盛りのピラフとポテトつき)、ニンジンサラダ、パン、コーヒー、焼きプリンがセットされて出てくる、という楽しいランチです。
お味も雰囲気も気分も、パリのビストロでした〜♪
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