えっ?!わたしの?

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お友だちのコンサートにうかがった帰り道、ご一緒したR子さんと横浜元町でお茶をしました。

運ばれてきたスウィーツを見てびっくり☆

キャンドルが灯り、Happy Birthday のチョコレートプレートがつけられているのです。

一瞬「???」 と理解できなかったのですが、R子さんに「ちょっと早いけれど、お誕生日おめでとうございます」と声をかけられて、ようやく「私の!」と気づくことができました(まだ、半月あったのですっかり忘れていました)。

いったいいつのまに??と思ったら、オーダーをお願いしたあと私がお手洗いに立っているあいだにキャンドルとプレートをお店の方にお願いする、という早業をこなされていたのです。

わあ〜、びっくり♡ いくつになっても、お誕生日を覚えていてくださってお祝いしていただけるのは嬉しいものです。

楽しいおしゃべりと美味しいスウィーツが、より幸せなひとときに感じられました。

R子さん、お心づかいありがとうございました♡

このパブロフというスウィーツ店は、去年も一度ご一緒したことがあり、ふたりとも痛く気に入っていたのです。

パブロフの犬のごとく、おいしいスウィーツに条件づけされてしまいますように・・・という店主さんの思いがこもった店名がつけられています。

今回は、下段がキャラメリゼされたフレンチトーストに苺とアイスクリーム&生クリームぞえ、上段は5種類のケーキ、そしてポットサービスのオリジナルティーというぷちアフタヌーンティーのようなメニューでした。

ひとつひとつのスウィーツがほんとうにおいしくて、お店が閉まるまで時間を忘れて楽しいひとときを過ごすことができました。

 

 

 

ちょっとしたビックリ

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〜ぷちビックリ その1〜

「今どきの回転寿司に行ってみたい♡」ということで、少し広めのお店をねらって某有名チェーン店へ。

みんな回転寿司は久しぶりだったのですが、私はかれこれ十数年ぶり。

ボックス席について・・・はてさて、まったく流儀がわからず。

あれあれ、お湯のみはどこ? (回るレーンの上のほうに発見)。お醤油のお皿は? (お寿司のお皿と兼用のよう)。さび抜きになってるけど、わさびはどこ? (わさびもレーンで回ってる!)。タブレットからの注文でもあたふた。

タブレットで瓶のノンアルを注文したら、たちまち高速レーンでギュ〜ンとやってきたのです。ジョッキにいたっては、さすがに店員さんだよね〜、と話していたら、ジョッキもおかまいなしの高速レーンですっ飛びそうになってやってきました。店員さんは案内されたときだけ?

そして、なによりもビックリなのが、ドームのなかのお寿司の取り方がわからない(汗)。一回目は、全員あえなく失敗。お皿がはずれず、トームも開かず、欲しかったお寿司はさっさと行ってしまいました。

他のテーブルの子どもたちも外国人の方もなんの問題もなく楽しんでいるのに、いったいどういうこと?

ドームの下でけっこうしっかりとホールドされているようなので、ちょっとしたコツがいるのでした。

結局、最初の小一時間ほどはあれこれドタバタして、ゆっくり味わう余裕などありませんでした。

いろいろと進化していてビックリの連続でしたが、けっこうなアトラクション感があってじゅうぶん楽しめました。次回はもう、みんな上級者よ! (´▽`)

〜ぷちビックリ その2〜

長年愛用してきたパソコンがソフトウェアのセキュリティ上、いよいよ使えなくなってしまいました。

意を決して、新しいパソコンへ乗り換えることに。私にとっては、四代目のMacくんです。

いざ届いてみて、目が点。

えっ、パワーボタンってないの? (はい、開くだけで立ち上がるのですね)。USBの差しこみは? (ありません、最近はクラウドとかBluetoohでコト足りるのですね)。そして、スマホのごとくアプリになってるし・・・。わあ〜、ビックリビックリ!

でも、いちばんのビックリは・・・

何時間もかけてメーラーとかもろもろを苦労して設定し終わったのに、ナント、キーボードの初期不良が発覚。

あえなく返品することとなりました(きゃ〜ん、メールの設定やらもろもろのダウンロードに苦労したのに)。データも消去しなければならないので、さらに大変。

無事返品して別のパソコンの到着をまつ、という空振りなエネルギーを使いはたしたビックリな一日でした。

 

 

 

夕方のお花の香り

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風がとても心地よい季節となりました。

この季節にマスクなしでお散歩できるのは、なんと贅沢なことでしょう。長らくマスク生活を強いられたからこそ、こんな日常的な季節の匂いにより敏感になり、こころから嬉しく感じてしまいます。

とくに夕暮れどきは、いろいろなお花の香りがあちらこちらから漂ってきます。

お散歩の途中、かぐわしい香りに包まれてきょろきょろしてみると、ああ、やっぱり! 頭上の石垣から薔薇がこぼれるように咲いておりました。

この小さなお花もあちこちで目にしますが、夕方はとくによい香りを放っていて存在感があります。

こちらは、ジャスミンのような小さなお花がびっしりと咲いている生け垣。通るたびに香りに包まれて、エキゾチックな気分になります。

そっと隠れるように静かに咲いているお花もかわいらしいものばかり。

ただぶらぶらと歩いているだけで、風や木々やお花や土という自然の香りが心地よく、五月はなんて贅沢な季節なのでしょう。コロナがあったからこそ、こんな夕暮れの風を胸いっぱいに吸い込める幸せを感じます。

 

 

 

23-05-01 答えはどこからやってくる?

 

誰にでも、「私は、あのとき守られていたに違いない」と感じたり、「突如、ひらめきによって解決策を与えられた」というような経験があると思います。

それは私たちが高い存在によって、つねに守られ、導かれているからです。

その存在は私たちの幸せのために全力を尽くし、どのような問題に対しても必ずや助けを与えてくれるのです。だから、私たちはその存在に悩みを打ち明け、頼るだけで、あとはリラックスして解決へと導いてもらうことができます。

その高い存在とは、じつは誰にとっても馴染みがあるはずです。もしかすると、ハイヤーセルフやエンジェル、あるいは神さまと呼んでいたかもしれません。あるいは、精霊や高次の存在、または自分だけの特定の呼び名があったのかもしれません。呼び方は違っても、助けはみな同じところからやってきます。

大切なことは、この確かな答えをもっている存在につねに「尋ねる」ということなのです。

そして、「尋ねたら」、リラックスして、こころを静かに答えを「待ちましょう」。

よく質問されるのは、「尋ねたのに、なにも答えがきません」ということです。

その場合の多くは、自分なりの答えの受けとり方のイメージがあって、それだけを待っている、ということがあります。

たとえば、「はっきりと耳で聞き取れるはずだ」とか、「稲妻に打たれたような気づきがやってくるはずだ」とか、「夢のなかで教えられるはずだ」などというように。

もちろん、このどれもが起こりうるものですが、もっと手軽に答えを受けとる方法があります。

じつは、その答えはすでに自分のこころのなかに与えられています。

すでにこころのなかにあるもの、自分であるものを知るには、「鏡」を使います。

「自分のこころの中身を映し出す鏡?」 ・・・ はい、こころの中身をつねに映しだしている鏡とは、外側にいる「人々」なのです。

この外側の人々は好むと好まざるにかかわらず、つねに自分のこころの内側をつぶさに映しだしてくれています。彼らは、私のこころにある内容を包み隠さずすべてを映し出す「鏡」そのものなのです。

たとえばわかりやすい例として、自分にとってもっとも苦手な人は、まさに自分が嫌っている自分自身と同じことをしている人なのです。つまり、自分が感じとる他人というものは、いつも自分自身そのものです。

だからこそ、一人一人にとって世界や人々はまったく違うものに見え、自分にとっての幸せや苦痛の原因となりえるのです。

このように、自分の癒されていないところを人々は簡単に見せてくれますが、また同時に自分のなかにある神々しいもの、たとえば高い存在からの真実の答えも見せてくれるのです。

この「人々を見て、自分の内側に気づく」ということが、こころの鏡を使う、ということなのです。

そこで、人々から自分の助けとなる信頼できる答えを受けとりたいときに気をつけなければならないこととは、「私は信頼できることを受け取りたいのだから、まず先に信頼を人々に差しだす」ということなのです。

「受けとること」と「与えること」は同じなので、それは同じものでなければなりません。

「私は真実なる答えを受けとりたい」と願うのであれば、まず人々に真実を差しだしましょう。

それは、人々を自分のこころのゴミやチリにまみれた偽りのものとして見るのではなく、あるがままのまっさらな無垢な存在としての真実を見ることです。それはまさに、信頼することです。

そうすると、「真実な人」から信頼できる「真実な答え」が導きだされ、それがあなたを救う、ということになります。

つねに、その人に対する見方、つまりその人を間違った人として見るのか、正しい人として見るのか、は私たちしだいであり、私たちの体験さえも左右します。

もし、間違った人として見てしまえば、自分自身が隠しもっていた醜いものや恐しいものがその人に映しだされることになります。

正しい人として見れば、自分で気づくことさえなかった高次の存在からの真実の答えがその人を通してもたらされます。それは、自分自身に役立つだけでなく、そこから多くの人々へと広がってゆきます。

だから、自分を助け導く万能の鏡として、私たちはまわりの人々を澄んだ無垢な存在として見ることが大切になってきます。

高次の存在からの答えを受けとるのにいちばん簡単な方法は、このようにまわりの人々とそこから生まれる言葉への信頼です。

先に信頼を与えることで、すでにあちこちから与えられていた自分への助けに気づくことができるようになります。

もちろん、自分自身で高次の存在からの言葉をリアルに聞きとれる人もいます。しかし、自分の内側で聞こうとすると、たちまち否定的な言葉で打ち消されてしまいがちなのです。

誰にでもできる「助けをえる方法」は、まわりの人々を信頼し尊重し、そして耳を傾けることなのです。

ここまでの人生の道のりを振りかえってみると、きっと「あの人があそこで助けてくれた」とか、「あの人のひとことで背中を押された」とか、「あの人に感化されてやる気になった」とか、きっと「あの人」や「この人」が大きな転機をもたらしてくれたという記憶に気づくと思います。

それがまさに、自分の内なる叡智が外に現れ、守り導いてくれた証なのです。

だから、困ったときには、まずは人と「つながること」、そして自分のまわりにいてくれる人、たまたま出会った人を導き手として「信頼して」こころを開いてみましょう。

私たちはこころがひとつにつながった存在なので、自分ひとりの小さなこころのひとかけらとしてものごとを解決しようとするよりも、つながりあった一つのこころのなかでもたらされる答えこそがより大きな力をもちます。

ひとりぼっちの小さな考えではなく、高い存在が与えてくれている大きな答えを受けとるために、つながり、そして信頼しこころを開いて受け取ってみましょう。

 

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「答えはどこからやってくる?」

 

誰にでも、「私は、あのとき守られていたに違いない」と感じたり、「突如、ひらめきによって解決策を与えられた」というような経験があると思います。

それは私たちが高い存在によって、つねに守られ、導かれているからです。

その存在は私たちの幸せのために全力を尽くし、どのような問題に対しても必ずや助けを与えてくれるのです。だから、私たちはその存在に悩みを打ち明け、頼るだけで、あとはリラックスして解決へと導いてもらうことができます。

その高い存在とは、じつは誰にとっても馴染みがあるはずです。もしかすると、ハイヤーセルフやエンジェル、あるいは神さまと呼んでいたかもしれません。あるいは、精霊や高次の存在、または自分だけの特定の呼び名があったのかもしれません。呼び方は違っても、助けはみな同じところからやってきます。

大切なことは、この確かな答えをもっている存在につねに「尋ねる」ということなのです。

そして、「尋ねたら」、リラックスして、こころを静かに答えを「待ちましょう」。

よく質問されるのは、「尋ねたのに、なにも答えがきません」ということです。

その場合の多くは、自分なりの答えの受けとり方のイメージがあって、それだけを待っている、ということがあります。

たとえば、「はっきりと耳で聞き取れるはずだ」とか、「稲妻に打たれたような気づきがやってくるはずだ」とか、「夢のなかで教えられるはずだ」などというように。

もちろん、このどれもが起こりうるものですが、もっと手軽に答えを受けとる方法があります。

じつは、その答えはすでに自分のこころのなかに与えられています。

すでにこころのなかにあるもの、自分であるものを知るには、「鏡」を使います。

「自分のこころの中身を映し出す鏡?」 ・・・ はい、こころの中身をつねに映しだしている鏡とは、外側にいる「人々」なのです。

この外側の人々は好むと好まざるにかかわらず、つねに自分のこころの内側をつぶさに映しだしてくれています。彼らは、私のこころにある内容を包み隠さずすべてを映し出す「鏡」そのものなのです。

たとえばわかりやすい例として、自分にとってもっとも苦手な人は、まさに自分が嫌っている自分自身と同じことをしている人なのです。つまり、自分が感じとる他人というものは、いつも自分自身そのものです。

だからこそ、一人一人にとって世界や人々はまったく違うものに見え、自分にとっての幸せや苦痛の原因となりえるのです。

このように、自分の癒されていないところを人々は簡単に見せてくれますが、また同時に自分のなかにある神々しいもの、たとえば高い存在からの真実の答えも見せてくれるのです。

この「人々を見て、自分の内側に気づく」ということが、こころの鏡を使う、ということなのです。

そこで、人々から自分の助けとなる信頼できる答えを受けとりたいときに気をつけなければならないこととは、「私は信頼できることを受け取りたいのだから、まず先に信頼を人々に差しだす」ということなのです。

「受けとること」と「与えること」は同じなので、それは同じものでなければなりません。

「私は真実なる答えを受けとりたい」と願うのであれば、まず人々に真実を差しだしましょう。

それは、人々を自分のこころのゴミやチリにまみれた偽りのものとして見るのではなく、あるがままのまっさらな無垢な存在としての真実を見ることです。それはまさに、信頼することです。

そうすると、「真実な人」から信頼できる「真実な答え」が導きだされ、それがあなたを救う、ということになります。

つねに、その人に対する見方、つまりその人を間違った人として見るのか、正しい人として見るのか、は私たちしだいであり、私たちの体験さえも左右します。

もし、間違った人として見てしまえば、自分自身が隠しもっていた醜いものや恐しいものがその人に映しだされることになります。

正しい人として見れば、自分で気づくことさえなかった高次の存在からの真実の答えがその人を通してもたらされます。それは、自分自身に役立つだけでなく、そこから多くの人々へと広がってゆきます。

だから、自分を助け導く万能の鏡として、私たちはまわりの人々を澄んだ無垢な存在として見ることが大切になってきます。

高次の存在からの答えを受けとるのにいちばん簡単な方法は、このようにまわりの人々とそこから生まれる言葉への信頼です。

先に信頼を与えることで、すでにあちこちから与えられていた自分への助けに気づくことができるようになります。

もちろん、自分自身で高次の存在からの言葉をリアルに聞きとれる人もいます。しかし、自分の内側で聞こうとすると、たちまち否定的な言葉で打ち消されてしまいがちなのです。

誰にでもできる「助けをえる方法」は、まわりの人々を信頼し尊重し、そして耳を傾けることなのです。

ここまでの人生の道のりを振りかえってみると、きっと「あの人があそこで助けてくれた」とか、「あの人のひとことで背中を押された」とか、「あの人に感化されてやる気になった」とか、きっと「あの人」や「この人」が大きな転機をもたらしてくれたという記憶に気づくと思います。

それがまさに、自分の内なる叡智が外に現れ、守り導いてくれた証なのです。

だから、困ったときには、まずは人と「つながること」、そして自分のまわりにいてくれる人、たまたま出会った人を導き手として「信頼して」こころを開いてみましょう。

私たちはこころがひとつにつながった存在なので、自分ひとりの小さなこころのひとかけらとしてものごとを解決しようとするよりも、つながりあった一つのこころのなかでもたらされる答えこそがより大きな力をもちます。

ひとりぼっちの小さな考えではなく、高い存在が与えてくれている大きな答えを受けとるために、つながり、そして信頼しこころを開いて受け取ってみましょう。

 

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

【 お知らせ 】ブログ「気づきの日記」のポッドキャストがオープンしました♪

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ブログ「気づきの日記」が、音声版「おやすみまえの癒しチャンネル」としてポッドキャストでお聴きになれるようになりました。

今後ひとつづつアップしてゆく予定ですので(かなりマイペースですが・汗)、是非フォローをよろしくお願い致します。

☆「おやすみまえの癒しチャンネル」は、こちらからお好きなチャンネルをお選びいただけます。(Apple、Google、Spotify) 

→ 「PODCAST RANKING」

 

 

23-04-19 1960〜70年代の作品から

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タイトルはよく耳にしたことはあるものの、一度も観たことがない1960〜70年代の作品をいくつか鑑賞してみました。

 

☆「ドクトル・ジバゴ」☆

ロシア革命の時代、医師であり詩人としても有名だったジバゴの少年期から生涯を終えるまでを描いた三時間ごえの壮大なストーリー。デヴィッド・リーン監督の作品です。

この作品のほかにも、当時は「ベンハー」とか「風とともに去りぬ」とか三時間ごえの作品がたくさんあったようです。名画座系でリバイバルを観に行くときには、いつもお弁当必携でした。

ソビエト、ロシアというと暗いイメージしか湧きませんが、この作品を観ているとロシアもかつてのフランスのように上流階級が贅をつくす華やかな時代があったのですね。

歴史の波にもまれながら二人の女性のあいだで揺れるジバゴですが、どちらの女性も寛容に受け入れているのは動乱の時代も関係しているのでしょうか?

1966年の作品なので特撮やCGが使われていない分、どの場面もひとつづつ手で作りあげた重みがあり、まるで絵画のような美しさがあります。昨今の作品で使われるCGは何でもできてしまうけれど、この画面の力には及ばないと感じました。

見応えがあります。お時間のあるときにじっくりどうぞ。

☆「ディア・ハンター」☆

ワークショップやセラピーセッションのときにカバティーナというギター曲を使うことがあります。この映画の挿入曲であることは知っていたのですが、作品自体がどのような内容かは知りませんでした。

「ディア・ハンター」のディアは、てっきり dear(親愛なる)だとばかり思っていたのですが deer (鹿)のディアだったのでした。

製鋼所で働き、お酒を飲んで騒ぐことと休日の鹿狩りをささやかな楽しみにしていた若者たちが、やがてベトナムへと出征し、戦地で過酷な体験をし、なんとか生きのびて戦争から戻るまでを描いた物語です。

彼らが捕虜として囚われたときに、ロシアンルーレットを強要される場面があります。

ロシアンルーレットといえば、バラエティー番組に登場するわさびもりもりのお寿司ぐらいしかイメージがなかったのですが、まさか自分のアタマに拳銃をつきつけて発砲するゲームだったとは・・・まさに戦慄の場面でした。ロバート・デ・ニーロの迫真の演技でさらに凍りつきました。

デ・ニーロは、私が映画観るようになったときにはすでにオジサマlook だったのですが、若い頃はこんなに精悍な雰囲気だったのですね。メリル・ストリープも存在感があり、やはり目をひきます。

そして、このストーリーに静かに流れるカバティーナ・・・ さらにやるせない気持ちにさせられるのでした。

鑑賞に少し体力のいる作品でした。

 

☆「秋刀魚の味」☆

小津さんの作品がお好きなお友だちのオススメです。

小津安二郎監督の作品は、どれも自然でふつーで、映画だということを忘れてしまうような日常の空気感が好きです。

そして、当時のふつうの人々のふつうの生活をそのまま感じられるのもとても興味がひかれます。

男性がもっと威張っているかと思いきや、どこの家庭も女性がメッチャ強くて凛々しくてびっくり。

二十代の岩下志麻さんは、啖呵を・・・きっていません。初々しくて美しいです。さらにここから半世紀もの時をへて、今もなおメチャクチャおきれいな志麻さんはあっぱれです。

小津監督の作品はどれものどかで癒されます。ずっと観ていたくなります。

ところで、タイトルは「秋刀魚の味」ですが、どこにも秋刀魚は登場いたしませんでした。苦みがあるけれどおいしい秋刀魚。そんな人生のことでしょうか??

 

 

お茶の間シネマトーク「1960〜70年代の作品から」

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タイトルはよく耳にしたことはあるものの、一度も観たことがない1960〜70年代の作品をいくつか鑑賞してみました。

 

☆「ドクトル・ジバゴ」☆

ロシア革命の時代、医師であり詩人としても有名だったジバゴの少年期から生涯を終えるまでを描いた三時間ごえの壮大なストーリー。デヴィッド・リーン監督の作品です。

この作品のほかにも、当時は「ベンハー」とか「風とともに去りぬ」とか三時間ごえの作品がたくさんあったようです。名画座系でリバイバルを観に行くときには、いつもお弁当必携でした。

ソビエト、ロシアというと暗いイメージしか湧きませんが、この作品を観ているとロシアもかつてのフランスのように上流階級が贅をつくす華やかな時代があったのですね。

歴史の波にもまれながら二人の女性のあいだで揺れるジバゴですが、どちらの女性も寛容に受け入れているのは動乱の時代も関係しているのでしょうか?

1966年の作品なので特撮やCGが使われていない分、どの場面もひとつづつ手で作りあげた重みがあり、まるで絵画のような美しさがあります。昨今の作品で使われるCGは何でもできてしまうけれど、この画面の力には及ばないと感じました。

見応えがあります。お時間のあるときにじっくりどうぞ。

☆「ディア・ハンター」☆

ワークショップやセラピーセッションのときにカバティーナというギター曲を使うことがあります。この映画の挿入曲であることは知っていたのですが、作品自体がどのような内容かは知りませんでした。

「ディア・ハンター」のディアは、てっきり dear(親愛なる)だとばかり思っていたのですが deer (鹿)のディアだったのでした。

製鋼所で働き、お酒を飲んで騒ぐことと休日の鹿狩りをささやかな楽しみにしていた若者たちが、やがてベトナムへと出征し、戦地で過酷な体験をし、なんとか生きのびて戦争から戻るまでを描いた物語です。

彼らが捕虜として囚われたときに、ロシアンルーレットを強要される場面があります。

ロシアンルーレットといえば、バラエティー番組に登場するわさびもりもりのお寿司ぐらいしかイメージがなかったのですが、まさか自分のアタマに拳銃をつきつけて発砲するゲームだったとは・・・まさに戦慄の場面でした。ロバート・デ・ニーロの迫真の演技でさらに凍りつきました。

デ・ニーロは、私が映画観るようになったときにはすでにオジサマlook だったのですが、若い頃はこんなに精悍な雰囲気だったのですね。メリル・ストリープも存在感があり、やはり目をひきます。

そして、このストーリーに静かに流れるカバティーナ・・・ さらにやるせない気持ちにさせられるのでした。

鑑賞に少し体力のいる作品でした。

 

☆「秋刀魚の味」☆

小津さんの作品がお好きなお友だちのオススメです。

小津安二郎監督の作品は、どれも自然でふつーで、映画だということを忘れてしまうような日常の空気感が好きです。

そして、当時のふつうの人々のふつうの生活をそのまま感じられるのもとても興味がひかれます。

男性がもっと威張っているかと思いきや、どこの家庭も女性がメッチャ強くて凛々しくてびっくり。

二十代の岩下志麻さんは、啖呵を・・・きっていません。初々しくて美しいです。さらにここから半世紀もの時をへて、今もなおメチャクチャおきれいな志麻さんはあっぱれです。

小津監督の作品はどれものどかで癒されます。ずっと観ていたくなります。

ところで、タイトルは「秋刀魚の味」ですが、どこにも秋刀魚は登場いたしませんでした。苦みがあるけれどおいしい秋刀魚。そんな人生のことでしょうか??

 

 

室内お花見宴会

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サクラの季節も過ぎ去り、新緑がいきいきしておりますね。

そんな新緑をバックに、さいごの八重桜のピンク色が映えています。

サクラの季節は嬉しいものですが、ちょっと不便なことも。

ここ中目黒は川沿いの桜並木に人が殺到するので、「ちょっと銀行まで・・・」と思っても、動きがとれないほどの人並みに巻きこまれてしまうのです。

なので、サクラの季節は駅方面まで二倍の距離で迂回することになります。

先日も、こちらで朝からスタッフミーティングを行い、お昼に外に行こうかと思ったのですが、サクラが散っても外国人観光客の方がたくさんで混み合っているので、サクっとスーパーでお惣菜を調達してきました。

お寿司の盛り合わせにスペアリブ、おつまみ、チーズ、ワイン、シャンパン、なんちゃってシャルドネスパークリング(私のためのノンアルです)・・・これはビジネスランチというより、まるでお花見メニューですね(笑)。

ということで、床に座布団で車座になって、ちょっとした宴会となりました。

おもしろかったのがお寿司の盛り合わせ。

すべて二貫づつ入っているので、毎回ジャンケンをして勝者から好きなネタを選ぶシステムにしました。ここでは遠慮など存在しないので(苦笑)、自分が食べたいものをゲットするべく、ナント心理戦の様相に(ババ抜きより高度!)。

「あ、今アナゴに目を走らせていたね。じゃあ、取られちゃわないうちに私が今いただいちゃえ」とか、まったく興味のないふりをしながらうまく温存する、とか(笑)。私は最初に二連勝して、推しだった「あじの握り」と「たまご焼き」を無事ゲットしたのですが、そのあとは負けつづき。イカは逃げて行きました・・・(苦笑)。

ジャンケンのたびにみんな一喜一憂で、お寿司の盛り合わせでこんなにもりあがれるとは・・・。

そんなこんなで、三時間もランチをしていましたが、その後夕方までちゃんとお仕事をいたしました。

近日中に、オフィス・るんのポッドキャストを開設予定で〜す。

 

 

 

23-04-09 夜、なかなか寝つくことができません

 

夜、なかなか寝つくことができない、という方も多くなってきています。

寝つくことができない原因はさまざまですが、そのひとつとしてあげられるのが「あれこれ考えてしまってアタマが休まらない」ということがあります。

眠ろうするとさまざまな思考やイメージが浮かんできて、それに対して不安な気持ちになり、その不安から新たな思考やイメージが浮かんできて、寝つけずにイライラしてしまうのです。これでは、不安とイライラの悪循環におちいってしまいます。

一方、思考やイメージが鎮まっていれば、呼吸はしだいに深くなり、自然に眠りにはいることができます。

では、寝つこうとするときについついあれこれ考えてしまうときには、どのように対処したらよいのでしょうか?

思考やイメージについて、私たちは「自分が思考やイメージを思い描いている」と考えがちです。しかしそうではありません。

もし自分がそうしているのなら、「もう、やめたい!」と思ったときにやめたり、上手に思考やイメージをコントロールできているはずです。

それができないとするならば、じつは思考やイメージは自分の意志とはまったく関係なく自然発生的に湧きあがってくるものだ、ということです。

たとえば、外で車の音や工事の音がしていても、まったく影響されずに眠りに落ちてしまうこともあります。

それは、その音に対して自分が注意をはらっていないからです。注意を向けていないものは、自分にとっては存在しなくなってしまいます。

もし発生している音に対して、「この音はうるさ過ぎる」とか「私の邪魔をしている」など、自分の注意がその音に固定されると、その音は自分にとってより鮮明で「うるさく」「邪魔をする」ものとして感じられるのです。

とりわけ、抵抗を感じるものに対しては、注意が固定されてしまい、自分の世界においてはそれがより強い力をもつようになります。

外から聞こえる音と同じように、思考やイメージがただ流れてゆく音と形であるのなら、闘わずにそのまま行かせてあげましょう。

今もこの文章を読んでいるときに、いろいろな音が存在しているかもしれません。けれども、そのように音に注意を向けるまで、まったく音の存在に気づいていなかったかもしれません。

思考やイメージを自分自身が作りだした所有物だと思うことで、私たちはそれらを私物化し、その内容に感情的に大きく影響を受けてしまいます。つまり、それらの思考やイメージを単なる音や形ではなく、ほんとうのことだと信じてしまうのです。すると、すっかりそれらに取りこまれて、一体になり、思考やイメージが示唆する不安な未来を受けいれてしまうのです。

そうすると、その架空の言葉やストーリーから、さらに別な言葉やストーリーが生まれ、どんどん本当ではない物語が紡がれてゆきます。

しかし、思考やイメージが自分とは関係のないランダムなものであるのならば、そこから距離をとって離れるようにしてみましょう。

それは、出てくる思考やイメージを客観的に眺めてみることです。

自分を不安にさせる言葉やイメージが出てきたら、それらに気づいて、カギかっこ「 」や枠 □ でくくって、客観的に距離をとって鑑賞してみましょう。

一体になっていたものからそのように離れてみると、それはじょじょに薄らいで消えてゆきます。注意を注がないことで静かになるのです。

このように、自分のなかで次々に湧きでてくる思考やイメージをカギかっこや枠を使って、離れてながめてみることで、思考やイメージは勢いを失ってゆくのです。それに取りこまれて、さらなる不安なストーリーをねつ造するのを止めることができます。

思考やイメージが出てくるのが減少したら、思考やイメージが出てきていたスペース(意識のスペース)へとゆったりと広がって、深い呼吸をしてくつろいでみましょう。

もしまた再び思考やイメージが出てきたら、ただカギかっこや枠でくくって、距離をおいてながめてあげるだけでよいのです。

自分自身は、その思考やイメージがあらわれてくるスペースとして、安らかにどこまでも広がってゆくイメージをしてみましょう。

このように、思考やイメージと距離をおいて客観的にながめることで、思考やイメージの勢いは和らぎ、静かになってきます。

そうすると、こころもしだいに落ち着いて、意識の広がりとしてゆったりとくつろぐことができます。

この意識のスペースを感じてあげることで、睡眠時間の長さに関係なく、深いリラックスを感じて心身ともにエネルギーを取りもどすことができます。

このスペースの広がりをたびたび感じることで、こころの落ち着きをとりもどすことができるのです。

また、このスペースの中にこそ、今抱えている問題を乗りこえてゆくためのインスピレーションや、あなたに幸せをもたらすためのひらめきが与えられます。

このスペースの安らぎのなかで、あなたの人生を導いてもらいましょう♪

 

 

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