気づきの日記「ほんとうの癒し・・・とは」

 

「アロマで癒されましょう」「ストレッチやヨガで癒しを」、あるいは「癒しの空間」「癒しのひととき」・・・というように、巷には「癒し」というワードがあふれています。

しかし、それらは「癒し」というレッテルにすぎません。レッテルが「癒し」ならば、なんとなく癒されているような気にもなるものですが、ほんとうのところは癒しではなくリラックスのためのものです。

ほんとうに「癒される」ということは、病んでいた原因を取り去り完全に回復させることです。リラックスとは、原因はそのままで和らげることなのです。

なので、巷でいわれている癒しは、ほんとうのところ癒されることなくさらに走りつづけるためのニンジンを差しだされているにすぎません。今までと同じように、ちょっと気持ちがよくて、ちょっとステキなニンジンに気をとられながらさらに走りつづけ、欲望の底なし沼に足をとられて少しづつ呑みこまれてしまいます。

「癒しだと思っていたけれど、じつは癒しではなかった!」と気づくのは、底なし沼に呑みこまれて、息ができなくなるあと数センチのところです。

そうなるまで、それがほんとうの癒しだったのか、はたまたエゴの差し出すニンジンにおびきよせられてワナにはまっていただけなのか、考えてみることもありません。

真の癒し、つまり病や苦しみの原因を癒すことは、もはや追いかけるためのニンジンをあきらめることです。それは、自分の外側に見える一見コウゴウしく見えるなにかに救いを求めないことです。

今までは、外側にあるなにかパワフルでステキなものをとっかえひっかえ試してみれば、きっと自分を幸せにしてくれる、私は救われる、と信じていたかもしれません。そして、さまざまな刺激的なものに中毒になっていたかもしれません。

外側のなにかは、じつは底なし沼に沈んでゆく自分のむなしさからちょっとだけ気をそらしてくれただけかもしれません。それは一時的な気晴らし、痛み止めの役割しかはたしてくれなかったのです。

しかし、外にニンジンを求めることをやめさえすれば、そのときはじめて「なんで、私はこんなドロ沼に無力なままはまっていたのだろう?ここはわたしの住むところではない」と沼に沈みゆく自分の現状を直視することができたはずです。

「こんな私はおかしい!」とドロ沼にはまっている異常な状態に気づいて、気づけたからこそ脱出をはかろうとしたはずです。

だから、自分を真に救ってくれはしない外側の刺激で自分を満たそうとすることよりも、まずはただ静まって、今の自分の状態と向きあい、直視してみましょう。そして、「私ときたら、どっぷり沼のなかだったわ!」と気づいてしまいましょう(そのように、生きづらさに正直に気づくことが、救いのために必要な一歩なのです!)。

気づいたらハイヤーセルフ(高い自己)に助けを求めて、「ここは私のいたいところではありません」とそこからひっぱり出してもらいましょう。

なぜなら、もやは私たちは自分ではそこから出られないところまできてしまっているのです。アゴ下までまるまる呑みこまれているときには、強力な助っ人であるハイヤーセルフがレスキューに駆けつけてくれます。

こころを開いて助けさえ求ることができれば、いつだってあなたにぴったりの聖なる救助隊の存在に気づくことができるはずです。

まずは、日々どんなニンジンで自分自身を麻痺させているのかに気づいてみることです。そして、怖れずにそのドロ沼という現状に向きあってみましょう。

すると、助けだしてくれるハイヤーセルフとともにもっと別の道を行くことができることに気づきます。

ニンジンのかわりにハイヤーセルフとともに進む道は、一回試したらやめられなくなるほど安心でラクチンな道のりかもしれません。

 

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22-12-19 安らかなこころが与えるもの

 

〜自分が与えるものこそが、自分が受けとるもの〜、こんな言葉を耳にしたことがあるかもしれません。

これこそが、私たちが生きているこの世界で働いている不動の法則です。

与えたものしか受けとれないのです。あるいは、与えてしまったのなら、受けとるしかないのです(苦痛や痛みもです)。

「与えるものが受けとるもの」というこの言葉をきくと、「そうか! だったら気前よくじゃんじゃんモノを与えれば、さらにじゃんじゃん戻ってくるのか」と、モノを与えることに一生懸命になってしまう場合があります。

これはそもそもモノのことではなく、モノよりも以前にある「こころの姿勢」「動機」のことを言っています。

たとえものをジャカジャカ与えようとも、そこに「自分は足りない」という根強い欠乏感があるのなら、「足りない」という気持ちを再確認していることにすぎなくなってしまいます。

欠乏を信じ、他から与えられることを期待しているので、「人は豊かだけれど、自分は足りない人なのだ」という信念を強めることになってしまいます。

「与えるもの」とはモノではありません。モノよりも前にあるこころです。

そのこころ、動機こそが、与えられて戻されてくるように感じます(なぜなら、すべてはひとつなので自分で自分にしていることになるからです)。

どのような結果を手にするのかは、どのような気持ち(動機)でそれを行ったかとイコールになるわけです。

欠乏から? 怖れから? 罪悪感から? あるいは、感謝から? 慈愛のおもいから? 喜びから?

自分のなかが欠乏や怖れや罪悪感でいっぱいでありながら、「そうか、与えればうまくいくのだな」とせっせと与えてみても、結局受けとる体験はやはり欠乏や怖れや罪悪感を感じさせるものになってしまいます。つまり、動機と結果は同じ内容だということです。

欠乏感を感じながら、「モノをたくさん与えて、豊かになろう」とジタバタするよりも、自分の内側に目を向けることをしてみましょう。

欠乏感も怖れも罪悪感も、正面から無条件に受けいれてあげることでやわらいできます。避けず、無視することもなしに見てあげることでほどけてゆくことができるのです。

そして、自分のこころを静かにさせてあげましょう。凪のように、安らかに穏やかに落ち着かせてあげましょう。

安らぎのなかから世界を見られるようにいたしましょう。

そうすることで、自分とひとつである源(すべてであるもの)に自分を与えることになります(源こそが静けさ、安らぎそのものなので、そのすべてとひとつになります)。そしてそこから、すべてを受けとることになります。

なによりも、自分自身が自分に戻ってきたように寛いで、真の自分の感覚を思い出すことになります。

すると、目のまえで波だっているように感じたあれこれが、静かにほどけて解決してゆくことを目にするでしょう。

安らかな自分自身こそが与えるもの。世界やまわりの人へとわかちあう贈りものにいたしましょう☆

 

 

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気づきの日記「安らかなこころが与えるもの」

 

〜自分が与えるものこそが、自分が受けとるもの〜、こんな言葉を耳にしたことがあるかもしれません。

これこそが、私たちが生きているこの世界で働いている不動の法則です。

与えたものしか受けとれないのです。あるいは、与えてしまったのなら、受けとるしかないのです(苦痛や痛みもです)。

「与えるものが受けとるもの」というこの言葉をきくと、「そうか! だったら気前よくじゃんじゃんモノを与えれば、さらにじゃんじゃん戻ってくるのか」と、モノを与えることに一生懸命になってしまう場合があります。

これはそもそもモノのことではなく、モノよりも以前にある「こころの姿勢」「動機」のことを言っています。

たとえものをジャカジャカ与えようとも、そこに「自分は足りない」という根強い欠乏感があるのなら、「足りない」という気持ちを再確認していることにすぎなくなってしまいます。

欠乏を信じ、他から与えられることを期待しているので、「人は豊かだけれど、自分は足りない人なのだ」という信念を強めることになってしまいます。

「与えるもの」とはモノではありません。モノよりも前にあるこころです。

そのこころ、動機こそが、与えられて戻されてくるように感じます(なぜなら、すべてはひとつなので自分で自分にしていることになるからです)。

どのような結果を手にするのかは、どのような気持ち(動機)でそれを行ったかとイコールになるわけです。

欠乏から? 怖れから? 罪悪感から? あるいは、感謝から? 慈愛のおもいから? 喜びから?

自分のなかが欠乏や怖れや罪悪感でいっぱいでありながら、「そうか、与えればうまくいくのだな」とせっせと与えてみても、結局受けとる体験はやはり欠乏や怖れや罪悪感を感じさせるものになってしまいます。つまり、動機と結果は同じ内容だということです。

欠乏感を感じながら、「モノをたくさん与えて、豊かになろう」とジタバタするよりも、自分の内側に目を向けることをしてみましょう。

欠乏感も怖れも罪悪感も、正面から無条件に受けいれてあげることでやわらいできます。避けず、無視することもなしに見てあげることでほどけてゆくことができるのです。

そして、自分のこころを静かにさせてあげましょう。凪のように、安らかに穏やかに落ち着かせてあげましょう。

安らぎのなかから世界を見られるようにいたしましょう。

そうすることで、自分とひとつである源(すべてであるもの)に自分を与えることになります(源こそが静けさ、安らぎそのものなので、そのすべてとひとつになります)。そしてそこから、すべてを受けとることになります。

なによりも、自分自身が自分に戻ってきたように寛いで、真の自分の感覚を思い出すことになります。

すると、目のまえで波だっているように感じたあれこれが、静かにほどけて解決してゆくことを目にするでしょう。

安らかな自分自身こそが与えるもの。世界やまわりの人へとわかちあう贈りものにいたしましょう☆

 

 

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お友だちと下北でお茶タイム

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

前回お友だちとお茶をしたのも下北でしたっけ。そうそう、コロナという怪しい感染症がはやりはじめた頃で、恐る恐るお出かけしたのを思い出します。

あれから三年余。まるでお久しぶり感がないのは、オンラインお茶会のおかげ。画面をまえにすれば、いつでも一緒にお茶ができる、というなんと便利な時代なのでしょう。

下北はそのむかし近所に住んだことがある懐かしい街です。今ではすっかり様変わりしてしまい駅前は見る影もありません。

かつては入りくんだ路地に店主さんの思いいれが感じられるステキなお店がたくさん立ち並んでいたものですが、以前のような静かな雰囲気はなくなってしまったように感じます。

でも、私にはずっと行きつけのカフェがあるのです!(そのむかし、いつもお茶しに通っていましたっけ♡)勇んで向かったら、ナントその日は定休日でした。

そこで、少し歩いて見つけた珈琲屋さんの木の看板。そんな看板のあるお店は、かならず珈琲がおいしいはず!

一軒家からビルに変わってしまったけれど、もうお店を開いて40年以上になるそうで、娘さんと年配のお父さま(?推測です)がやっているような暖かなお店です。

運ばれてきた珈琲は口あたりがちょっとトロっとした感じで、「わあ♡美味しい」と声をあげてしまうほどのこだわりのお味でした。お友だちのロイヤルミルクティーも、とっても美味しかったそう。

ロールケーキもおいしい玉子を選んで手作りされているそうな。とても優しいお味で、おかわりしたくなりました。

そして、なによりもここは時間がゆったりと流れているように感じます。

窓際のカウンターで、お久しぶりのような、いつもどおりのような、そんなゆったりおしゃべりタイムを楽しむことができました。

ステキなひとときでした♡
@カフェ ド パルファン 下北沢

 

 

 

22-12-13 ビューティフル・レターズ 〜綴られた言葉〜

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

うつうつとした毎日を過ごしているとき、自分宛に一通の手紙が送られてきて、もしそれを読んで心に灯がともるように感じて前向きな気持ち、やさしい気持ちになるとしたら ・・・ その手紙とはいったいどんなことが綴られている手紙なのでしょう?

もちろん自分宛なので、自分に語りかけてくれるような手紙なのですが・・・。

この作品の主人公であるマギーは高校生。大好きなバンド活動もうまく進まず、人間関係も勉強もいまいち、母との関係もぎくしゃくケンカばかり。マギーは人生そのものに行き詰まりを感じて、こころが荒れはじめていたとき・・・、

自分宛に一通の手紙が届きます。その手紙を読んでいるそばから、マギーの表情はやわらぎ、こころが変わりはじめます。

こころが変わる・・・ということは、まさに人生が変わりはじめるということ。

マギーはまったく身に覚えのないその差出人をなんとかつきとめることに成功し、ひとりの老紳士と出会います。

彼は日々、自分のことばのちからを手紙に託して、電話帳で無作為に選んだ人々に送っていたのです。

彼のことばのちから ・・・ それは過去においては人を攻撃し傷つける道具でもあったのですが、彼はあるときから自分のことばのちからをいいことだけに使おう、と心に決めたのです。

その老紳士とふれあううちに、マギーも自分自身を与える人生を学んでゆきます。

たったひとりでもほんとうの自分の姿を信頼してくれる人があらわれただけで、こころは甦りはじめます。

私たちが幸せを感じられる条件っていったいなんでしょうか? どうしたら幸せになれるのでしょう?

もっと、○○だったら・・・ と、今の状況が変わって自分や周りや環境がバージョンアップすることを望みがちです。あの人がこうだったら、もっとお金があったら、自分の外見がこんなだったら、こんなことが起こったら ・・・・と。

でも、自分のこころがパサパサのままだったら、どんな状況に身を置こうとも、いつだって自分の世界はパサパサなのです。

この作品は、「幸せって、外からやってくるもんじゃないんだよ。自分の内側からわき出してくるものなのだよ。外に与えてごらん。自分のギフトにも相手のギフトにも気づけるから。そうして、あなたの世界は変わってゆく」ということを教えてくれています。

自分が誰かのこころに灯をともすときに、同時に自分のこころも着火しているのです。(まさに、与えるものは受けとるもの♡)

この老紳士の言葉のなかに、たくさんのステキなこころあたたまるフレーズが登場します。

「人には神から与えられた才能がある。だから、それを磨きなさい。そうすれば、人に祝福を与えられるようになる。そして、与えたものとは、まさに自分が受けとるもの。自分こそが祝福を受けとれるようになる。世界は鏡なのだから。だから、自分の才能を、人を祝福することこそにに使いなさい」

人を祝福する、というとむずかしく感じるかもしれませんが、「ただ、あるがままを受け入れて称えてあげる」こと、「あなたは何も間違っていない、そのままで大丈夫なのだと伝えてあげる」こと。

私たちにとっていちばんの癒しとは、たったひとりの人からでいいから「それで大丈夫なんだよ、あなたでいい♡」と言ってもらえることなのだと感じます。

このおじいちゃんが、自分にもやさしく語りかけてくれているようで、こころがあたたかくなる作品です♡

 

 

 

お茶の間シネマトーク「ビューティフル・レターズ 〜綴られた言葉〜」

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うつうつとした毎日を過ごしているとき、自分宛に一通の手紙が送られてきて、もしそれを読んで心に灯がともるように感じて前向きな気持ち、やさしい気持ちになるとしたら ・・・ その手紙とはいったいどんなことが綴られている手紙なのでしょう?

もちろん自分宛なので、自分に語りかけてくれるような手紙なのですが・・・。

この作品の主人公であるマギーは高校生。大好きなバンド活動もうまく進まず、人間関係も勉強もいまいち、母との関係もぎくしゃくケンカばかり。マギーは人生そのものに行き詰まりを感じて、こころが荒れはじめていたとき・・・、

自分宛に一通の手紙が届きます。その手紙を読んでいるそばから、マギーの表情はやわらぎ、こころが変わりはじめます。

こころが変わる・・・ということは、まさに人生が変わりはじめるということ。

マギーはまったく身に覚えのないその差出人をなんとかつきとめることに成功し、ひとりの老紳士と出会います。

彼は日々、自分のことばのちからを手紙に託して、電話帳で無作為に選んだ人々に送っていたのです。

彼のことばのちから ・・・ それは過去においては人を攻撃し傷つける道具でもあったのですが、彼はあるときから自分のことばのちからをいいことだけに使おう、と心に決めたのです。

その老紳士とふれあううちに、マギーも自分自身を与える人生を学んでゆきます。

たったひとりでもほんとうの自分の姿を信頼してくれる人があらわれただけで、こころは甦りはじめます。

私たちが幸せを感じられる条件っていったいなんでしょうか? どうしたら幸せになれるのでしょう?

もっと、○○だったら・・・ と、今の状況が変わって自分や周りや環境がバージョンアップすることを望みがちです。あの人がこうだったら、もっとお金があったら、自分の外見がこんなだったら、こんなことが起こったら ・・・・と。

でも、自分のこころがパサパサのままだったら、どんな状況に身を置こうとも、いつだって自分の世界はパサパサなのです。

この作品は、「幸せって、外からやってくるもんじゃないんだよ。自分の内側からわき出してくるものなのだよ。外に与えてごらん。自分のギフトにも相手のギフトにも気づけるから。そうして、あなたの世界は変わってゆく」ということを教えてくれています。

自分が誰かのこころに灯をともすときに、同時に自分のこころも着火しているのです。(まさに、与えるものは受けとるもの♡)

この老紳士の言葉のなかに、たくさんのステキなこころあたたまるフレーズが登場します。

「人には神から与えられた才能がある。だから、それを磨きなさい。そうすれば、人に祝福を与えられるようになる。そして、与えたものとは、まさに自分が受けとるもの。自分こそが祝福を受けとれるようになる。世界は鏡なのだから。だから、自分の才能を、人を祝福することこそにに使いなさい」

人を祝福する、というとむずかしく感じるかもしれませんが、「ただ、あるがままを受け入れて称えてあげる」こと、「あなたは何も間違っていない、そのままで大丈夫なのだと伝えてあげる」こと。

私たちにとっていちばんの癒しとは、たったひとりの人からでいいから「それで大丈夫なんだよ、あなたでいい♡」と言ってもらえることなのだと感じます。

このおじいちゃんが、自分にもやさしく語りかけてくれているようで、こころがあたたかくなる作品です♡

 

 

 

【 年末年始のセッションのご案内 】

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年末のセッションは 12月27日(火)まで、
新年は 1月5日(木)からとなっております。

年末はご予約が混みあいます。
セッションのご予定のある方は、お早めにご予約下さい。
どうぞよろしくお願い致します。

    〜 オフィス・るん 古川貴子 〜

 

 

 

パブロフさんのカフェ

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以前、目の肥えたスウィーツ男子さんにいただいたパブロフのパウンドケーキ

とってもおいしかったので、お店のカフェでいただいてみたいと思っていました。

ようやく元町にあるパブロフのカフェにお邪魔することができました♪

おもわず姫気分になるロマンチックな雰囲気の店内。この日は日曜日だったので、デートのカップルさんたちでにぎわっておりました。

私たちがいただいたのは、5つのパウンドケーキとサレとサラダがセットになったミニアフタヌーンティー。ポットサーブの紅茶がつきます。

パウンドケーキはきれいにデコレーションされていて、生ケーキのようです。どれもふんわりなめらかで繊細なお味でした。サレはキッシュのようなお味で、サーモンとチーズ。サワークリームでいただきます。

紅茶のカップを持ちあげると、ソーサーにわんちゃんのイラストが・・・。

一瞬、「えっ?まさか、パブロフの犬だったりして??(心理学の条件反射実験のパブロフの犬くん)」と思ったけれど、「こんなエレガントなお店でパブロフの犬はないか・・・!」と思っていたら、

お店のサイトに、お店の名前のパブロフとはまさにパブロフの犬のことで「条件反射のように、また食べたくなるような美味しいパウンドケーキを提供したいと思ってパブロフと名づけました」と書かれていました。笑笑笑

はい、たしかに、条件反射成立! もう食べたくなっています♡

 

スウィートポテト、ストロベリー、クリームブリュレにモンブラン、そしてガトーショコラ。「どれにしようかな〜?」とあれこれ迷わずに、全部ミニサイズでいただけるのが嬉しいです。

そして、右から食べすすめてゆくと、とてもお味のバランスがいいように並んでいる気がしました。

おしゃべりを楽しみながら、美味しくこころ豊かなしあわせなひとときでした♡
@パブロフ 横浜元町

 

 

お友だちのコンサート♪

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お友だちの声楽家 瀬尾美智子ちゃんのサロンコンサート「あなたの歌 わたしの歌」に行ってきました♪

声楽家の瀬尾美智子ちゃんと、ピアニストの名取典子さん

こころがストレッチする、いえ、リフレッシュする、いえ、よみがえるようなひとときでした。

「こころのふるさと」のパートでは、懐かしい日本の歌の数々。

春のお花があふれる景色や、澄み渡った空に煌々と輝く秋の月など ・・・ さまざまな場面が目にうかぶと同時に、むかし母と声をそろえて歌っていた懐かしい場面も思い出され、最初からウルウル。

さらに、「青春の譜」では、わたしの大好きな「瑠璃色の地球」が。

それは、今までに聴いたことのないような「瑠璃色の地球」で、涙腺決壊。「ひゃ〜☆こんな歌だったのね!」と、はじめて聴いたようにこころがふるえました。

後半はクラッシックや情熱的なスペイン民謡も。

あっというまの素敵なひとときでした。

今回はコンサートまえに美智子ちゃんもわたしもともに体調を崩して、励ましあって日々をすごしていたのですが、

身体こそが楽器である歌い手さんにとっては、身体を休めることとレッスンをすることとの板挟みで、さぞ大変な時間を過ごされたことと思います。

そこはさすがプロ、いつもどおりの艶のあるのびやかな歌声で、それだけでも涙があふれました。

ご一緒したRさんも、「歌声を聴いて、躊躇していたことにチャレンジしてみようと勇気をもらいましたし、ひとつ乗り越えられたこともありました」と教えてくださいました。

よかった、よかった♪  ˘⌣˘♡

素敵な時間をありがとうございました♡

 

 

 

22-11-25 するべきことは、無防備に受け入れること

 

私たちは自分を取りもどす旅をしています。

自分が自分で毛嫌いして、抵抗して、切り捨てて、なきものにしようとした自分の一部を、ひとつひとつ回収して、ゆるして、自分とひとつにする旅、分離を終わらせるたび ・・・ それがこの人生でしなければならないことなのです。

それらは当然、イヤな人、もの、経験として姿をあらわします。なぜなら、自分が嫌って、自分とは関係ないと宣言して、ゴミのように外にほっぽったからです。

そして、いつだって、それらのゴミに自分は足をすくわれることになります。

でも、まさか自分が投げ捨てたものとは気づかず、ふたたびそれらに抵抗して、コントロールしよう、遠ざけよう、なきものにしよう、と闘いをいどみます。

イヤなものは、抵抗するか、コントロールするか、無視するか ・・・ それぐらいしか対応策が思いつかないため、結果として、それらの問題は決して回収されて消え去ることがないのです。

いくら外にほっぽったからといっても、それはそもそも自分なので、自分で回収して、自分に統合して、ひとつに帰してあげなければならないのです。

するべきことはただひとつ。

自分がイヤだと感じる、あるいは抵抗する人、もの、経験に出会ったら、それはもう終わりにするチャンス。その問題から卒業するチャンスなのです。

だから、こんどこそそれに対して1ミリも抵抗することなく無防備になり、コントロールせずにちからを抜いて、

ただ真っ正面から自分のなかに迎えいれてあげること。

そして、ゆるして、受け入れて、自分のなかでひとつにしてあげること。

そうすることによって、切り捨てて闘いを余儀なくされていたものとの葛藤がついに終わりになります。

だから、なにが起ころうとも、なにに出くわそうとも、コントロールしないこと、闘おうとしないこと。

まずはちからを抜いて、全面的に受け入れてみること。

リラックスして、それにいったん身をひたして、その嫌悪感、抵抗感、怖れのすべてを受け入れてみましょう。

そうしてこそ、ずっと闘ってきたそれ、自分のなかから生まれたそれは、ようやく自分とひとつになって姿を消すことができるのですむぼう。

そして、もしそこからするべきことがあったら、あらためて行動にうつしてみましょう。

まず、すべてを受け入れて、それに自分の存在を無防備にひたしてみる。

これを忘れずにやってみましょう。

 

 

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