お茶の間シネマトーク「Coda あいのうた」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

今年度のオスカーを獲得した作品です。劇場で観た友人からも「よかった!」と聞いていました。

観はじめてみると、すごいデジャヴ感・・・。つぎつぎ何か起こるかわかっちゃう。私って、サイキック?!

いえいえ! あとでわかりましたが、これは以前に観たフランス映画の「エール!」という作品のリメイクでした。

コーダとは、耳が聞こえない親をもつこどものこと。主人公のルビーは、家族のなかで自分以外の両親と兄は耳が聞こえません。

漁業を営む一家にとって、家族が社会につながり機能してゆくためにルビーはこどもの頃から彼らの耳であり言葉となってきたのです。

そんなルビーが高校生になったとき、気になる男の子が合唱部に入部したのにつられてルビーも合唱をはじめます。

声を発しない家族で育ったルビーにとって、人まえで歌うことはプレッシャーだったのですが、彼女の才能はすぐに発掘されてしまいました!

でも、ルビーの家族はルビーのことを「いてくれて当然」と思っているので、歌のレッスンという単独行動は認められないのです。それになんといっても、ルビーの歌の才能を知るよしもありません。

先生のなかば強引な個人レッスンと家族とのあいだで、ルビーはホンロウされ悩みます。

開きはじめる未来への夢の扉と、家族という重し・・・。自分の夢を追いかけることは家族を裏切ることになるのでしょうか・・・? (→予告をみる

ルビーが憧れる同級生は、「シング・ストリート」の美少年コナーくんじゃありませんかっ!

すっかり青年になってる〜! でも、白桃のような色白ほっぺは変わっていません。

このストーリーのなかでも歌ってくれています♪(たしか、もともとはオペラを歌う男の子でしたよね)  そして、このストーリーのなかでも、また水に飛び込んでくれます(笑)。

ルビーが学校の発表会で歌うシーン。人々がうっとりと聴き入るなか、その歌声が ふと・・・ 消え去ります。

あ・・・ これがルビーの両親とおにいちゃんが生きている世界なんだ。

愛しいルビーが目のまえで一生懸命歌っているけれど、その歌声も、歌詞すらもわからないのです。幸せな表情のひとびとのなかで置きざりにされているような感覚。

聞こえないってこういうことなんだ、とあらためて感じました。

ルビー役のエミリア・ジョーンズの歌声、こころにしみ入ります♡(→こちらから

ストーリーじたいは、「エール!」と同じですが、ハリウッド流の見せ方でオスカーになってしまうのですねっ!

涙壷度:★★★☆☆(すべての解決策は、おのずとやってくる!)

 

 

 

22-07-23 ざわざわはギアチェンジのサイン

 

クルマを運転しているとき、速度をだしすぎるとアラームがお知らせしてくれます。

方向を間違えば、ナビが正しいい道順を教えてくれます。 

だからこそ、あれこれ気にすることなく、ドライブを楽しむことができるのです。

クルマ同様、私たちにもさまざまなアラームやナビが搭載されているのをご存知でしょうか?

たとえばアラーム。

「速度を落としてください」「方向を変更してください」などというダイレクトなアナウンスはありませんが、それでもお知らせはちゃんとやってきています。

そのお知らせとは ・・・ ざわわさする感じ、どきどき落ち着かない感じなどという、自分のこころが波だつ感じや、怖れ、居心地の悪さ、という感覚です。

怖れや居心地の悪さを感じるとき、それは「このまま同じように走りつづけないでください、走り方や方向など、なんらかの変更が必要です!」というお知らせなのです。

それは、「もう、今までのやり方は通用しなくなります」「もしつづけるなら、良くない状態になってしまいます」と警告してくれているのです。

しかし、たいていの場合、ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという怖れを感じはじめると、私たちは「こんな気持ちは感じたくない!」といわんばかりに、さらにアクセルをふみこんで、そのまま走り抜けようとしてしまいます。

アラームに抵抗して、「突っ走ればどうにかなるだろう」とばかりに、さらに同じルートのまま速度をあげて進んでしまうのです。

まさか、自分を助けるための大切なアラームが鳴っているとは思わず、今までと同じやり方で疾走してしまうのです。

ぞわぞわ、ざわわさ、どきどき・・・という怖れのアラームを感知したら、抵抗したり誤摩化したりせずに、いったん受けいれて、まずは止まってみましょう。

「これは、もう今までのやり方では通用しない、ということを教えてくれている。同じやり方をすれば、難しい道に入りこんでしまう。早く教えてもらえてよかった!」と感謝のこころでで受けとめます。

そうなのです、ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという感覚は、安らぎである私たちにとっては異質の状態なので、それは「自分自身からはずれていますよ!」という異常事態宣言なのです。

しかし、私たちはそのアラーム音の鳴りっぱなしにかなり慣れてしまっているようです。

なぜこのまま進んではダメなのでしょうか?

それは、自分が自分をみくびっていること、裏切っていることに気づいていないからです。本来の自分自身を完全に忘れて、別物になりきってしまっているのです。

本来の自分がいないからこそ、不安な気持ちになってしまいます。そして、怖いから、手っとりばやくどうにかなりそうなものに飛びついてしまいます。しかし、それらはいつも解決策にはなりえません。

なぜなら、自分自身でつくりあげた架空の不安にこころを奪われているので、自分のこころを正常に戻すことでしか解決ができないからです。

もし本来の自分自身でいられるならば、自分のこころに備わっている強さ(光)こそがすべてを照らして、正しくしてくれるのを信じることができるはずです。

でも、自分が失われている状態では、その強さも丸ごと失われてしまっています。

さて、どうしたらいいのでしょう?

すべてのちからの源である本来の自分自身が失われているのなら、まずはほんとうの自分をちゃんと覚えていてくれている存在とつながることが先決です。

私たちにとって、自分を導いてくれるナビゲーションシステム、あるいは安全装置とは、いつどんなときでもほんとうの自分を覚えていてくれて、自分の強さを取り戻させてくれる高い自己(ハイヤーセルフ)という存在なのです。

なによりもまず、その存在とつながり直し、本来の自分を取り戻す必要があります。そのためには、ハイヤーセルフを自ら招き入れ、こころの中につながるためのスペースをつくってあげましょう。

それは、外に向いていた注意を自分のこころの内側へと向けてあげることです。こころの内側において、私たちはハイヤーセルフとコンタクトをとることができます。

そして、静かにしてみましょう。ハイヤーセルフの導きはとても穏やかなので、こころを鎮めて落ちつくことでつながることができます。

そして、本来の自分の強さのなかですべての完全さを目にすることができるように、ハイヤーセルフに恐れて混乱しているこころを正してもらいましょう。

自分から「ハイヤーセルフにつながりたい、導きを受けたい、正してもらいたい」という自主的な意思をもつことによって、ハイヤーセルフとのチャンネルが開かれます。しかし、自分から望まなければ、導きを受け取ることはできません。

そして、いま自分がするべき必要なステップがあるのであれば、自分にわかるようにそれを教えてもらいましょう。

尋ねたあとは、信頼してこころを開くことです。自分で勝手にものごとをいじくりまわすことはせずに、ただ静かに今の現実から数歩下がって、静かに導きを待ちましょう。

ハイヤーセルフは、「あなたはものごとを正しく見られないために、自分で自分を怖がらせています。まずは、あなたのこころの間違った方向性を正すために静かになってください。そして、正しく進むために、その静けさのなかで私の指示に身をゆだねてください」と、完全な自動操縦(明け渡し)システムのなかで優しく導いてくれます。

安心して委ねてみましょう。 

ずっと心配しつづけている、怖れつづけているということは、心配と怖れを握りしめて執着しているということです。両手から心配も怖れも手放して、自分をからっぽのスペースにしてみましょう。

なかなかこころを鎮めることができないときは、しばらく呼吸に注意を向けてみます。ゆっくりと鼻から息を吸って、一回止めて、さらにゆっくりと吐く、という腹式呼吸に集中することで、固まってしまっていた注意がほどけ、握りしめていたものを手放しやすくなります。

ハイヤーセルフはあなたに、「これは、あなたが自らつくりだした状況です。しかし、あなたにはもうふさわしくないことに気づいてください」「これではない、安らかな現実を望むのだということをこころに決めてください」「あなたが新たに選びなおす意思をもってください」と教えてくれています。

ハイヤーセルフの導きは、いろいろなところにやってきます。

知り合いの誰かのひとことや、テレビやラジオから聞こえてくる言葉や、道ですれ違う人のおしゃべりなど、メッセージはあちらこちらにやってくるのです。

あるいは、たまたま目に飛びこんできたなにか、突然ひらめくなにか、こころが広がる感じがするなにかに気がついてみましょう。

ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという修正のアラームが鳴りだしたら、その怖れの感覚にホンロウされて走りまわることはせずに、それは「自分にとって善き知らせ」であると受けとめます。そして、静まることによってハイヤーセルフとつながり、スムーズに軌道修正を行いましょう。

静けさのなかでこそ、方向転換のための道標があらわれ、力を抜いてスムーズに修正を行うことができます。 

まるで夜の飛行場で機体を誘導するランプが整然と光を放つように、サインのひとつひとつをたどってゆくと、闇のなかでも今までとは違うルートに導かれた自分に気づくのです。

もちろんそのルートは、ハイヤーセルフに守られ、また自分の真のちからにも守られたルートです。それは、こころ安らかで優しく、楽しい、そして自分にとってたやすいルートです。かならずや自分もまわりも笑顔になることができるルートなのです。

まずは、アラーム音(ざわざわな感じ)に怯えることなく、ただお知らせに気づいて、「過去にはこの道を望んだかもしれないけれど、私は今それを手放してただ導きに従う」と、安らぎのなかでこころを開いてみましょう。

あとは、ハイヤーセルフがすべてを整えてくれるでしょう。 

このようにハイヤーセルフの導きに従うことで、自分のカルマのように見えていた出来事さえも、そこからラクラクとルートを変更し、ストーリーを変えてもらうことができます。

ギアチェンジのサインがきたのなら、ハイヤーセルフの導びきのもとで自分にふさわしい幸せなルートへと切り替えを行ってもらいましょう♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「ざわざわはギアチェンジのサイン」

 

クルマを運転しているとき、速度をだしすぎるとアラームがお知らせしてくれます。

方向を間違えば、ナビが正しいい道順を教えてくれます。

だからこそ、あれこれ気にすることなく、ドライブを楽しむことができるのです。

クルマ同様、私たちにもさまざまなアラームやナビが搭載されているのをご存知でしょうか?

たとえばアラーム。

「速度を落としてください」「方向を変更してください」などというダイレクトなアナウンスはありませんが、それでもお知らせはちゃんとやってきています。

そのお知らせとは ・・・ ざわわさする感じ、どきどき落ち着かない感じなどという、自分のこころが波だつ感じや、怖れ、居心地の悪さ、という感覚です。

怖れや居心地の悪さを感じるとき、それは「このまま同じように走りつづけないでください、走り方や方向など、なんらかの変更が必要です!」というお知らせなのです。

それは、「もう、今までのやり方は通用しなくなります」「もしつづけるなら、良くない状態になってしまいます」と警告してくれているのです。

しかし、たいていの場合、ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという怖れを感じはじめると、私たちは「こんな気持ちは感じたくない!」といわんばかりに、さらにアクセルをふみこんで、そのまま走り抜けようとしてしまいます。

アラームに抵抗して、「突っ走ればどうにかなるだろう」とばかりに、さらに同じルートのまま速度をあげて進んでしまうのです。

まさか、自分を助けるための大切なアラームが鳴っているとは思わず、今までと同じやり方で疾走してしまうのです。

ぞわぞわ、ざわわさ、どきどき・・・という怖れのアラームを感知したら、抵抗したり誤摩化したりせずに、いったん受けいれて、まずは止まってみましょう。

「これは、もう今までのやり方では通用しない、ということを教えてくれている。同じやり方をすれば、難しい道に入りこんでしまう。早く教えてもらえてよかった!」と感謝のこころでで受けとめます。

そうなのです、ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという感覚は、安らぎである私たちにとっては異質の状態なので、それは「自分自身からはずれていますよ!」という異常事態宣言なのです。

しかし、私たちはそのアラーム音の鳴りっぱなしにかなり慣れてしまっているようです。

なぜこのまま進んではダメなのでしょうか?

それは、自分が自分をみくびっていること、裏切っていることに気づいていないからです。本来の自分自身を完全に忘れて、別物になりきってしまっているのです。

本来の自分がいないからこそ、不安な気持ちになってしまいます。そして、怖いから、手っとりばやくどうにかなりそうなものに飛びついてしまいます。しかし、それらはいつも解決策にはなりえません。

なぜなら、自分自身でつくりあげた架空の不安にこころを奪われているので、自分のこころを正常に戻すことでしか解決ができないからです。

もし本来の自分自身でいられるならば、自分のこころに備わっている強さ(光)こそがすべてを照らして、正しくしてくれるのを信じることができるはずです。

でも、自分が失われている状態では、その強さも丸ごと失われてしまっています。

さて、どうしたらいいのでしょう?

すべてのちからの源である本来の自分自身が失われているのなら、まずはほんとうの自分をちゃんと覚えていてくれている存在とつながることが先決です。

私たちにとって、自分を導いてくれるナビゲーションシステム、あるいは安全装置とは、いつどんなときでもほんとうの自分を覚えていてくれて、自分の強さを取り戻させてくれる高い自己(ハイヤーセルフ)という存在なのです。

なによりもまず、その存在とつながり直し、本来の自分を取り戻す必要があります。そのためには、ハイヤーセルフを自ら招き入れ、こころの中につながるためのスペースをつくってあげましょう。

それは、外に向いていた注意を自分のこころの内側へと向けてあげることです。こころの内側において、私たちはハイヤーセルフとコンタクトをとることができます。

そして、静かにしてみましょう。ハイヤーセルフの導きはとても穏やかなので、こころを鎮めて落ちつくことでつながることができます。

そして、本来の自分の強さのなかですべての完全さを目にすることができるように、ハイヤーセルフに恐れて混乱しているこころを正してもらいましょう。

自分から「ハイヤーセルフにつながりたい、導きを受けたい、正してもらいたい」という自主的な意思をもつことによって、ハイヤーセルフとのチャンネルが開かれます。しかし、自分から望まなければ、導きを受け取ることはできません。

そして、いま自分がするべき必要なステップがあるのであれば、自分にわかるようにそれを教えてもらいましょう。

尋ねたあとは、信頼してこころを開くことです。自分で勝手にものごとをいじくりまわすことはせずに、ただ静かに今の現実から数歩下がって、静かに導きを待ちましょう。

ハイヤーセルフは、「あなたはものごとを正しく見られないために、自分で自分を怖がらせています。まずは、あなたのこころの間違った方向性を正すために静かになってください。そして、正しく進むために、その静けさのなかで私の指示に身をゆだねてください」と、完全な自動操縦(明け渡し)システムのなかで優しく導いてくれます。

安心して委ねてみましょう。

ずっと心配しつづけている、怖れつづけているということは、心配と怖れを握りしめて執着しているということです。両手から心配も怖れも手放して、自分をからっぽのスペースにしてみましょう。

なかなかこころを鎮めることができないときは、しばらく呼吸に注意を向けてみます。ゆっくりと鼻から息を吸って、一回止めて、さらにゆっくりと吐く、という腹式呼吸に集中することで、固まってしまっていた注意がほどけ、握りしめていたものを手放しやすくなります。

ハイヤーセルフはあなたに、「これは、あなたが自らつくりだした状況です。しかし、あなたにはもうふさわしくないことに気づいてください」「これではない、安らかな現実を望むのだということをこころに決めてください」「あなたが新たに選びなおす意思をもってください」と教えてくれています。

ハイヤーセルフの導きは、いろいろなところにやってきます。

知り合いの誰かのひとことや、テレビやラジオから聞こえてくる言葉や、道ですれ違う人のおしゃべりなど、メッセージはあちらこちらにやってくるのです。

あるいは、たまたま目に飛びこんできたなにか、突然ひらめくなにか、こころが広がる感じがするなにかに気がついてみましょう。

ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという修正のアラームが鳴りだしたら、その怖れの感覚にホンロウされて走りまわることはせずに、それは「自分にとって善き知らせ」であると受けとめます。そして、静まることによってハイヤーセルフとつながり、スムーズに軌道修正を行いましょう。

静けさのなかでこそ、方向転換のための道標があらわれ、力を抜いてスムーズに修正を行うことができます。

まるで夜の飛行場で機体を誘導するランプが整然と光を放つように、サインのひとつひとつをたどってゆくと、闇のなかでも今までとは違うルートに導かれた自分に気づくのです。

もちろんそのルートは、ハイヤーセルフに守られ、また自分の真のちからにも守られたルートです。それは、こころ安らかで優しく、楽しい、そして自分にとってたやすいルートです。かならずや自分もまわりも笑顔になることができるルートなのです。

まずは、アラーム音(ざわざわな感じ)に怯えることなく、ただお知らせに気づいて、「過去にはこの道を望んだかもしれないけれど、私は今それを手放してただ導きに従う」と、安らぎのなかでこころを開いてみましょう。

あとは、ハイヤーセルフがすべてを整えてくれるでしょう。

このようにハイヤーセルフの導きに従うことで、自分のカルマのように見えていた出来事さえも、そこからラクラクとルートを変更し、ストーリーを変えてもらうことができます。

ギアチェンジのサインがきたのなら、ハイヤーセルフの導びきのもとで自分にふさわしい幸せなルートへと切り替えを行ってもらいましょう♪

 

 

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再びつながる、がテーマのこの頃

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

仕事のことで二十数年ぶりの方から連絡をいただき、さらにそのことで同じく二十数年ぶりの別の方に電話を入れることになり・・・

「お久しぶり!お仕事のことだけど、こんなふうにまたお話できて嬉しいわ♡」「ぜんぜんお変わりなくなてなにより」と、思わぬつながりあいを喜びました。

するとこんどは、十六年ほどの海外生活から帰国した方から連絡が入り、遊びにいらしたりと ・・・

なつかしい方々と「再びつながる」がテーマだったここ数日。

十五年にしろ二十年にしろ、それだけの月日がたつとさまざまな出来事や経験にでくわし、ものの見方も考え方もそれなりに変わるものです。

それぐらいまえの自分の様子を思い出すと、「あれは前世の人?」と思えるぐらいすんごく変わったと感じる一方で、時間すら超越してまるで変わっていないとも感じます。

変わったのは、モノごとや世界、自分に対する向きあい方で、

変わっていないのは、存在としての「わたし」の感覚。

こまごまとした考えや感じ方は変わっているけれど、「わたし」という存在感は変わっていない、ということ。

再会してまったく違和感を感じないときは、きっとコミュニケーションをとっているのが、お互いの「わたし」という存在感の部分なのでしょう。

それは、もっとも深いそれぞれの核の部分、存在そのものの部分。

それぞれにとって存在の核は決して変わらないから(五才の自分ともそれは変わっていない気がします)、だからこそまったく違和感なく何十年も会っていなくても「あら、二〜三年ぐらいご無沙汰だった?」という気軽さでつながることができるように感じます。

コロナという時代を生きていきて、再会に対しても今まで以上に「ああ〜、ご無事でなにより。元気な声が聞けて、姿が見られて嬉しいわ」と、誰とでもこころから喜んで気づかいあえるようになった気がします。

 

 

22-07-14 問題を終わりにするには

 

不安な気持ちになったとき ・・・ 私たちはそのことばかりについて考えてしまう傾向があります。

「お金がない!どうしよう?この調子でいったら来月には・・・云々」
「身体の調子がおかしい。これ以上ひどくなってしまったら、将来はどうなる・・・云々」

私たちは考えていれば問題を放置することなくかかわっているように感じるので、少し安心できるのです。

しかし、考えは未来へ未来へと前のめりに広がり、ありもしないストーリーを紡ぎだすことで不安をさらに増大させてしまいます。

ということは、「あれこれ考える」ことじたい解決にはまったく役立っておらず、逆に不安だけをあおってしまっている、ということになります。

そもそも不安な気持ちがこころに浮上してきたということは、それをそのまま感じて、受けとめて、終わりにしなければならないのです。

それらの感情は、自分のなかで長いあいだ拒絶され、無視され、こころの奥深くに抑圧されて無きものにされてきました。

しかし、これらの感情こそが自分が目にする世界へと投影され、自分にとって障害物となる問題へと姿を変えてしまいます。 まさに、自分の人生の流れをはばんでしまう原因となるのです。

これらの拒絶されてきた感情は、何度々々も浮上することによって受けとめてもらうことを求めています。

それら受けとめることこそが、自分の目のまえに立ちはだかる問題を消滅させることにつながるからです。

感情を受け止めるとは、あれこれの価値判断やストーリーをくっつけることなしに、ただそのままの感じを受けいれて感じてあげることです。

そもそも私たちは、「感じる」ということに慣れていないようです。

なぜなら感じはじめると、その感じに呑みこまれてしまうような怖れを感じるので、それをさけるためにすぐさま感情を思考へとすり替えてしまいます。

あまりにも思考依存症に陥っているので、あるがままの感情を受けいれることをすっかり忘れてしまっているのです。そのために、強い感情が浮上するとキケンきわまりないことが起こっているように感じて、あるがままに感じるこころはすぐに閉じてしまいます。

いつも考えでアタマをいっぱいにすることで感じる余地を残さずにいれば、何も感じることがなく安全でいられる!と信じてしまいます。たとえ、その思考が自分を幸せにしないものであっても、感じるよりは思考する方が安全だと勘違いしてしまうのです。

しかし、ある感情を感じることをさけるということは、幸せを感じることもできなくなってしまうのです。

先日、多くのスターを育て、メガヒットを生み出してきた米国の有名作曲家でありプロデューサーである男性のドキュメンタリーを観ていました。

彼は何十年もスタジオに缶詰めで多忙きわまりない日々を過ごしてきました。もちろん仕事では大成功を治めているのですが、そんなワーカホリックが災いして女性関係はうまくいかず、奥さんは寂しさのあまり次々に去って行きました。そして、五回めの結婚にいたりました。

そんな彼のひとことは、「セラピー?まっぴらゴメンだね。自分の内側をみるなんて、コワくてとてもできない」。彼の言葉は、「ぜったい立ちどまるもんか!自分の気持ちを感じてしまったらおしまいだ」という感じのものでした。

止まることを知らない回遊魚状態の彼は、そもそも内側を見たくないからこそ決して立ちどまって安らかな時間をもつことはないのです。

立ちどまってしまったら ・・・ 静かにしてしまったら ・・・、自分自身と向きあわなければならなくなります。絶対見たくない!と断言していたものと対峙しなければならなくなるのです。

ただただ動き回る状態はある意味、薬物中毒のような状態であり、自分をフラフラにすることによって何もわからなくして、感じていることを誤摩化してしまいます。

ほんとうの意味での幸せとは、こころが静かに安らいでいることです。

安らかなこころには、安らかな世界が映ります。それは、自分をフラフラにしていては見ることができない世界です。

そして、深い安らぎを自分のなかに感じるためには、安らぎを乱してしまうこころのなかの抵抗勢力である強い感情を無効にしてゆくことが必要となります。

そのために闘う必要はありません。ただ抵抗勢力である感情を受けいれて、消し去ります。無条件に受けいれられたものは、支えであるエネルギーを失って、ただ消滅してゆくからです。

自分のなかにどのような感情が湧きあがってきたとしても、判断したり、抵抗したり、拒絶したり、抑圧することをやめてみましょう。

不安や怖れ動揺が顔をだすと、私たちはすぐにそれらに言葉をくっつけることで、感じることをやめて考えはじめます。「なぜなの?」「どうする?」「原因は?」「何が間違った」というように・・・。

これは、脇道にそれてしまっているのです。「感じる」のではなく「考える」というルートに入ってしまいました。

そうではなく、なにひとつ言葉をつけることなく、ただその感情をありのままにして、感情に感電するがごとく感じることを自分にゆるしてみましょう。ただ、その感情とともに存在してみましょう。

言葉がなければ、それは「不安」でも「怖れ」でも「動揺」でもなく、ただビリビリ・ジンジン・シクシク・ドキドキ・ズンズン ・・・とう感じだけなのです。怖いものではありません。

言葉というものに逃げこまずに、正面から正々堂々と、丸ごと感情に自分を開いて感じてみましょう。

抵抗なく受けいれたものは、自分自身のなかでひとつになり、ようやく姿を消すことができるようになります。

そのためには、言葉を減らして静かになり、いったい自分がなにを感じているのかに敏感になってみましょう。

これを習慣化していると、かつての「不安」も「怖れ」も自分をおびやかすようなパワーを失い、安らかさや穏やかさを感じる瞬間がふえてゆきます。

こころが静かだと、目にうつるものも穏やかになってくることでしょう。こころと世界の良い相関関係が起こるので、こころも世界もともに癒されてゆきます。

感情に怯えて逃げていたときとは違う世界、もっと穏やかで、安らぎに満ちて、安心できる、優しさにあふれた世界、それを自分も目にすることができることを知って、自分の感情と向きあうことをはじめてみましょう。

 

 

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気づきの日記「問題を終わりにするには」

 

不安な気持ちになったとき ・・・ 私たちはそのことばかりについて考えてしまう傾向があります。

「お金がない!どうしよう?この調子でいったら来月には・・・云々」
「身体の調子がおかしい。これ以上ひどくなってしまったら、将来はどうなる・・・云々」

私たちは考えていれば問題を放置することなくかかわっているように感じるので、少し安心できるのです。

しかし、考えは未来へ未来へと前のめりに広がり、ありもしないストーリーを紡ぎだすことで不安をさらに増大させてしまいます。

ということは、「あれこれ考える」ことじたい解決にはまったく役立っておらず、逆に不安だけをあおってしまっている、ということになります。

そもそも不安な気持ちがこころに浮上してきたということは、それをそのまま感じて、受けとめて、終わりにしなければならないのです。

それらの感情は、自分のなかで長いあいだ拒絶され、無視され、こころの奥深くに抑圧されて無きものにされてきました。

しかし、これらの感情こそが自分が目にする世界へと投影され、自分にとって障害物となる問題へと姿を変えてしまいます。 まさに、自分の人生の流れをはばんでしまう原因となるのです。

これらの拒絶されてきた感情は、何度々々も浮上することによって受けとめてもらうことを求めています。

それら受けとめることこそが、自分の目のまえに立ちはだかる問題を消滅させることにつながるからです。

感情を受け止めるとは、あれこれの価値判断やストーリーをくっつけることなしに、ただそのままの感じを受けいれて感じてあげることです。

そもそも私たちは、「感じる」ということに慣れていないようです。

なぜなら感じはじめると、その感じに呑みこまれてしまうような怖れを感じるので、それをさけるためにすぐさま感情を思考へとすり替えてしまいます。

あまりにも思考依存症に陥っているので、あるがままの感情を受けいれることをすっかり忘れてしまっているのです。そのために、強い感情が浮上するとキケンきわまりないことが起こっているように感じて、あるがままに感じるこころはすぐに閉じてしまいます。

いつも考えでアタマをいっぱいにすることで感じる余地を残さずにいれば、何も感じることがなく安全でいられる!と信じてしまいます。たとえ、その思考が自分を幸せにしないものであっても、感じるよりは思考する方が安全だと勘違いしてしまうのです。

しかし、ある感情を感じることをさけるということは、幸せを感じることもできなくなってしまうのです。

先日、多くのスターを育て、メガヒットを生み出してきた米国の有名作曲家でありプロデューサーである男性のドキュメンタリーを観ていました。

彼は何十年もスタジオに缶詰めで多忙きわまりない日々を過ごしてきました。もちろん仕事では大成功を治めているのですが、そんなワーカホリックが災いして女性関係はうまくいかず、奥さんは寂しさのあまり次々に去って行きました。そして、五回めの結婚にいたりました。

そんな彼のひとことは、「セラピー?まっぴらゴメンだね。自分の内側をみるなんて、コワくてとてもできない」。彼の言葉は、「ぜったい立ちどまるもんか!自分の気持ちを感じてしまったらおしまいだ」という感じのものでした。

止まることを知らない回遊魚状態の彼は、そもそも内側を見たくないからこそ決して立ちどまって安らかな時間をもつことはないのです。

立ちどまってしまったら ・・・ 静かにしてしまったら ・・・、自分自身と向きあわなければならなくなります。絶対見たくない!と断言していたものと対峙しなければならなくなるのです。

ただただ動き回る状態はある意味、薬物中毒のような状態であり、自分をフラフラにすることによって何もわからなくして、感じていることを誤摩化してしまいます。

ほんとうの意味での幸せとは、こころが静かに安らいでいることです。

安らかなこころには、安らかな世界が映ります。それは、自分をフラフラにしていては見ることができない世界です。

そして、深い安らぎを自分のなかに感じるためには、安らぎを乱してしまうこころのなかの抵抗勢力である強い感情を無効にしてゆくことが必要となります。

そのために闘う必要はありません。ただ抵抗勢力である感情を受けいれて、消し去ります。無条件に受けいれられたものは、支えであるエネルギーを失って、ただ消滅してゆくからです。

自分のなかにどのような感情が湧きあがってきたとしても、判断したり、抵抗したり、拒絶したり、抑圧することをやめてみましょう。

不安や怖れ動揺が顔をだすと、私たちはすぐにそれらに言葉をくっつけることで、感じることをやめて考えはじめます。「なぜなの?」「どうする?」「原因は?」「何が間違った」というように・・・。

これは、脇道にそれてしまっているのです。「感じる」のではなく「考える」というルートに入ってしまいました。

そうではなく、なにひとつ言葉をつけることなく、ただその感情をありのままにして、感情に感電するがごとく感じることを自分にゆるしてみましょう。ただ、その感情とともに存在してみましょう。

言葉がなければ、それは「不安」でも「怖れ」でも「動揺」でもなく、ただビリビリ・ジンジン・シクシク・ドキドキ・ズンズン ・・・とう感じだけなのです。怖いものではありません。

言葉というものに逃げこまずに、正面から正々堂々と、丸ごと感情に自分を開いて感じてみましょう。

抵抗なく受けいれたものは、自分自身のなかでひとつになり、ようやく姿を消すことができるようになります。

そのためには、言葉を減らして静かになり、いったい自分がなにを感じているのかに敏感になってみましょう。

これを習慣化していると、かつての「不安」も「怖れ」も自分をおびやかすようなパワーを失い、安らかさや穏やかさを感じる瞬間がふえてゆきます。

こころが静かだと、目にうつるものも穏やかになってくることでしょう。こころと世界の良い相関関係が起こるので、こころも世界もともに癒されてゆきます。

感情に怯えて逃げていたときとは違う世界、もっと穏やかで、安らぎに満ちて、安心できる、優しさにあふれた世界、それを自分も目にすることができることを知って、自分の感情と向きあうことをはじめてみましょう。

 

 

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クセになるブツ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

最近、あやしい小包が行き来しています。

それはときには、ヤバいハッパ・・・だったり、クセになるアレ・・・だったり、アブナいブツ・・・だったり。

そのうえ、上モノだとか、キケンなルートだとか・・・ (^^;;

いったい何をやりとりしているかというと、お友だちのKちゃんとお互いのお気に入りを送りあっているのです。

ヤバいハッパはおいしい紅茶、クセになるアレは食べだすとやめられないお菓子、アブナいブツは効果抜群のスグレものコスメなどなど・・・。

昨日もKちゃんから、どっしりと重たいブツがとどきました。

Kちゃんからのメッセージには、「貴子姐さんに使ってほしいわてのお気に入り」とあります。

なんだろう??

わっ☆ メッチャかわいいパッケージです♡

「私らしく輝かせてくれる」そうな・・・(まるで、セラピーの文言みたいですね〜!)

わ〜〜! シャンプーとトリートメントだ〜♡

さっそく使ってみました。

サロンのシャンプーのようにもっこもこの泡で、とってもクリーミイ。

私はクセっ毛なので、あまりサラサラになるシャンプーだとウェーブがぺたんこになってしまうのですが、これはぜんぜんつぶれずにヨイ使い心地です。

香りはフリージア(フリージア、大好き♡)。もううっとり、癒されます。

これは、かなりのヤバいブツだわ♡ (笑)

K姐さん、お心づかいありがとう♪ 香りに癒されながら、暑い夏をのりきります。モチロン、パッケージも使いますよ〜(なにを入れようかな♪)Smile

 

 

 

22-07-06 世界で一番美しい少年

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセンをはじめて見たとき、「わあ!ベルバラのオスカルに似ているわ♡」と思いました。

とくに、軍服風のコスチュームに身をつつみスッと視線を送る表情など、「ベルバラ実写版は彼で決まり!」と思ったものです。

・・・が、じつは逆でした。オスカルこそビョルン・アンドレセンがモデルだったのですね!

「ミッドサマー」のトレイラーで彼の姿を数十年ぶりに目にして(そう、あの少年の姿以来50年ぶりですと!)、予想外の仙人チックな風貌にびっくり。

この仙人さんの役柄は、まるであの最高峰の美少年といういまわしい(?)過去を一撃で破壊してしまうような役柄でした(ああ、ビックリ☆視聴にはくれぐれもご注意を!)。

「世界で一番美しい少年」というこの作品は、当時の彼のオーディション映像からはじまって(いきなり服を脱げと指示され、とまどう姿が痛々しいです)、彼の生い立ち、そして現在の生活や心境を撮影したビョルン・アンドレセンのドキュメンタリーです。(→予告を見る

世界中で「彫刻のような少年」を探し求めていたヴィスコンティに見出され、「世界で一番美しい」と彼に認められた少年はさぞ幸せな人生を歩んできたのか・・・と思いきや、15歳にして大人の社会のあれこれに翻弄されたあげzくに、鬱やアルコール依存に悩まされてきた日々でした。

「ベニスに死す」撮影当時は、まだ初々しい風貌の15才。翌年のカンヌ映画祭で世界にお披露目されたときにはすでに「彼は完璧だったが、今はふけてしまった」というヴィスコンティの衝撃おはらい箱発言。(ヴィスコンティ、なにをのたまう?!汗)

撮影中はヴィスコンティに守られていたものの、その後は美しいがゆえに同性愛者のマスコットにされ、そこから救い出し守ってくれる家族もいずに苦労も多かったようです。

現在、仙人のような風貌で(といっても、十分にダンディですが)、かなり不器用に暮らす様子が写し出されています。

彼がプールで泳ぐ姿は手足がまるで棒っきれのように頼りなげで、あの浜辺のタジオ少年よりももっと幼く感じてしまいました。

彼の目を見ていると、白髪のはずなのにあのときの少年の顔にしか見えなくなってしまいました。

年のはなれた恋人が何から何まで面倒をみる様子が、お母さんと小さな男の子のようでした。

PS ビョルン・アンドレセンが日本をふたたび訪れる場面。
満開の八重桜をバックに写っているのですが、すぐご近所の目黒川の風景でした。なんか嬉しいわ♪

 

 

お茶の間シネマトーク「世界で一番美しい少年」

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「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセンをはじめて見たとき、「わあ!ベルバラのオスカルに似ているわ♡」と思いました。

とくに、軍服風のコスチュームに身をつつみスッと視線を送る表情など、「ベルバラ実写版は彼で決まり!」と思ったものです。

・・・が、じつは逆でした。オスカルこそビョルン・アンドレセンがモデルだったのですね!

「ミッドサマー」のトレイラーで彼の姿を数十年ぶりに目にして(そう、あの少年の姿以来50年ぶりですと!)、予想外の仙人チックな風貌にびっくり。

この仙人さんの役柄は、まるであの最高峰の美少年といういまわしい(?)過去を一撃で破壊してしまうような役柄でした(ああ、ビックリ☆視聴にはくれぐれもご注意を!)。

「世界で一番美しい少年」というこの作品は、当時の彼のオーディション映像からはじまって(いきなり服を脱げと指示され、とまどう姿が痛々しいです)、彼の生い立ち、そして現在の生活や心境を撮影したビョルン・アンドレセンのドキュメンタリーです。(→予告を見る

世界中で「彫刻のような少年」を探し求めていたヴィスコンティに見出され、「世界で一番美しい」と彼に認められた少年はさぞ幸せな人生を歩んできたのか・・・と思いきや、15歳にして大人の社会のあれこれに翻弄されたあげzくに、鬱やアルコール依存に悩まされてきた日々でした。

「ベニスに死す」撮影当時は、まだ初々しい風貌の15才。翌年のカンヌ映画祭で世界にお披露目されたときにはすでに「彼は完璧だったが、今はふけてしまった」というヴィスコンティの衝撃おはらい箱発言。(ヴィスコンティ、なにをのたまう?!汗)

撮影中はヴィスコンティに守られていたものの、その後は美しいがゆえに同性愛者のマスコットにされ、そこから救い出し守ってくれる家族もいずに苦労も多かったようです。

現在、仙人のような風貌で(といっても、十分にダンディですが)、かなり不器用に暮らす様子が写し出されています。

彼がプールで泳ぐ姿は手足がまるで棒っきれのように頼りなげで、あの浜辺のタジオ少年よりももっと幼く感じてしまいました。

彼の目を見ていると、白髪のはずなのにあのときの少年の顔にしか見えなくなってしまいました。

年のはなれた恋人が何から何まで面倒をみる様子が、お母さんと小さな男の子のようでした。

PS ビョルン・アンドレセンが日本をふたたび訪れる場面。
満開の八重桜をバックに写っているのですが、すぐご近所の目黒川の風景でした。なんか嬉しいわ♪

 

 

涼やかな癒しのひと皿

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

氷のようなガラスのプレートにもりつけられたゼリー寄せ。

新鮮なお魚や海老とともにオクラやベビーコーンがお星さまのようにちりばめられていて、色鮮やかなズッキーニで形が整えられています。

なんという繊細なお仕事☆

この日いただいたお料理はどれも「わっ♡」と歓声をあげてしまうような美しさでしたが、いちばん印象に残った目も舌も癒される涼やかなひと皿でした。

ひさしぶりに訪れた箱根。大きな窓から見渡せる深い緑も、もうひとつのご馳走ですね。

お友だちとゆったりとすごすとてもゼイタクなひととき。終始、目がハートになるようなお姫さま気分の一日でした♡感謝♡