22-01-27 メンタル不調、体調不良の意外な原因 〜いい人になって自爆しない〜

 

新年の抱負として、クライエントのA子さんがこのように語っていらっしゃいました。「すぐにイライラして人にあたってしまう私ですが、今年は人を責めたり、裁くことなく、こころ安らかな日々を過ごしたいと思っています」。

 

ついつい人にイヤミを言ったり、あげ足をとったり、攻撃してしまうクセがあり、それは相手だけでなく自分もイヤな気持ちになることに気づいたからです。

 

その後、その新年の抱負についてうかがってみると、このように仰っていました。「人にあたらないように気をつけたのですが、じつはさらにイライラすることが多くなり、安らかさとは程遠いのです」。

 

また、体調が悪くなったり、予期せぬ出来事が起こったり、人との関係もぎくしゃくして、以前よりも苦しく感じる、というのです。

 

「人を責めず、裁かず、いい人でいよう!」と決めたのに、これはどうしたことでしょうか?

 

じつは、これはよく起こることなのです。

 

自分の怒りや攻撃の想いを外にバラまかないように、責めず、裁かず・・・

 

でも、いくら責めるのをやめても、裁くことを我慢しても、ただ外側へとその想いを投げつけていないだけで、その想いはすでに自分の内側で起こってしまっているのです。瞬時に、こころのなかでとがめているし、裁いてもいるのです。

 

着火されてしまってた爆弾を外に投げるのをやめたとき、何が起こるでしょうか?・・・それは手元で爆発し、自爆することになります。

 

人に攻撃的な想いをぶつけない分、それは自分の内側で自分自身を傷つけてしまうのです。

 

その結果、体調不良やら、メンタル不調、イライラを招いてしまいます。また、こころのバランスが崩れた状態を外側の世界へと映し出し、それが問題となって目に入るのです。

 

つまり、いつもは外を攻撃していた爆弾が、自己攻撃に転じてしまったというわけです。

 

責めないでいよう、裁かないでいようとする努力は、安らぎを感じるための解決策とはなりえませんでした。

 

まずは、すでに自分自身が抱えている爆弾にしっかりと気づいてみましょう。それは、すでにそこにあるのです。そして、それこそを取り除かなえればならないのです。

 

爆弾はもう抱えてしまっているのですから、ないフリをしても決して安らかにはなりません。

 

自分のなかに人を責めてイライラしている気持ちがある、裁いて腹を立てている気持ちがある、不平不満を並べたい気持ちがある・・・たしかにあるのです。そして、あっても構わないのです。

 

むしろ「ないフリをしようとする」ことが、それを外側へとこっそりとぶちまける原因となるからです。

 

攻撃にしろ、怒りにしろ、自分のなかにある悪意は、「気づき」の光をあてることで解消することができます。

 

それは、「ああ、今、私のなかに怒りが湧いてきている」「相手を責めたいと思っている」「不平不満でいっぱいになっている」・・・

 

「でも、これらは私の望まない感情だ」と客観的に気づき、観察してみましょう。

 

「私は、このように悪意を感じてもかまわない・・・なぜなら、これらの気持ちは私の本心などではなく、どうせ捨て去ってしまうものだから」。

 

それらに「気づく」ということは、手放すことへの第一歩なのです。「こういう気持ちがあるのだ」と認めることで、はじめて自分のこころから手放すことが可能になるからです。

 

「自分が感じたくない気持ちだ」と気づいたら、それらを消滅させることができる自分自身の高い自己、ハイヤーセルフに、悪意のある考えのひとつひとつを渡してしまいましょう。

 

「私は、これらの気持ちを望みません。私を本来の愛と安らぎと喜びに戻してください」とお願いします。

 

ハイヤーセルフは、まさに危険物処理班です。お願いすれば、迅速に、かつ安全に完璧に、それらを取り去ってくれます。それも、即刻、24時間対応です。

 

大切なことは、それらの感情を人に投げつけたり、自分のなかで隠しもって爆発させてしまうまえに、それらの感情に気づいて、「手放そう」という意志をもつことです。

 

「よい人になろう!」と努力することは、しばしば爆弾をかかえたままで違う自分を演じようと試みることです。

 

見た目だけ「よい人」に整えようとしても、自分の内側に隠している悪意という爆弾は、結局自分自身を傷つけてしまうことになります。

 

その爆弾は遅かれ早かれ爆発し、自爆というかたちをとり、体調不良やメンタル不調、さまざまな問題として自分を苦しめます。

 

そうなるまえに、自分のなかの攻撃的な想いは「廃棄すべきもの」として、隠すことなくハイヤーセルフとともに処理を行いましょう。

 

いさぎよく捨て去る意志をもてば、有能な危険物処理班であるハイヤーセルフが怒りや罪悪感、怖れという爆発物をすみやかに取り去ってくれます。

 

どのような悪意を感じても、恐れる必要はありません。そのように感じても構わないのです。

 

それを感じて、それが自分のなかにあることを認めるからこそ、それと永遠に決別する一歩を踏み出すことができます。

 

よい人になる努力をしなくても、こころに危険な想いを温存せず、気づくたびに処理をすれば、自然と自分も世界も平和に包まれ、穏やかさのなかですべてがいちばん良いように進んでゆきます。

 

自分のなかの悪意という爆発物に敏感になり、危険物処理班であるハイヤーセルフに通報して、すみやかに処理をする習慣をつけて、安らかに過ごすようにいたしましょう。

 

20-12-15 なかなか問題が解決できないとき 〜渦の外に出てみる〜

 

渦のなかにいると、目がまわってしまいます。

 

目がまわれば、具合が悪くなります。正気を失います。できるはずのこともできなくなります。

 

以前、たけしさんの番組で、回転椅子でぐるぐる回されてからゴルフをする、という企画がありました。誰ひとりとして立っていることはおろか、地面にはいつくばってふだんの実力を発揮することができませんでした。

 

 

私たちが問題のなかにいるとき、それはまさに渦に呑まれて正気を失っているときなのです。

 

ふらふらになってゴルフに挑んでいたように、私たちもすでに問題を解決できるポジションにはいません。

 

それでも平静を装って、問題を解決しようと試みてはみます。またそうできる、と信じているからです。

 

冷静な状態だったらすんなりできることも、渦のなかにいては状況に対してコントロールを失い、怖れから反応するため、さらに混乱が深まります。

 

渦のなかでは問題は解決できないし、そもそも解決すべき場所にはいない、ということです。

 

解決を望むなら、まずは渦を離れてみること、解決が可能な場所へと移動することが先決なのです。

 

 

渋谷のスクランブル交差点を渡っているとき、あちこちから人が押し寄せてきます。そっちに行きたいわけではないのに、あれよあれよというまに人混みに流されてしまいます。

 

しかし、いったんそこから離れれば、さきほどの雑踏がウソのように平静さを取り戻すことができます。

 

問題が起きているときも、その状況という渦から離れてみましょう。

 

目にしている画面全体から数歩、感覚的に退いてみるのです。カメラが引きのショットになるように、少し距離をとって俯瞰してみます。

 

目にしている画面全体に気づいてみることで、こころのスクリーンに映っているもの全体を見渡すことができます。

 

すると、止まることを知らないように見えたアタマのなかのセリフや考え、ストーリーがしだいに静かになってきます。

 

目にしている場面も、少し距離ができて、まるで過去の物語を見ているような人ごと感が生まれてくるのです。

 

この渦の外側の静かなところから眺めることで、さきほどまで「これは大変なことだ!」と深刻モードにおちいっていたことが、さほどでもないと感じられてくるのです。

 

この静けさのなかにとどまっていると、思考や感覚が落ち着いてきて、それにともなって怖れや不安も鎮静化してきます。

 

 

私たちは問題という渦に遭遇すると、あわててそれに抵抗したり、闘おうとしたり、排除しようともがいてしまいます。決して渦から逃げてはいけないと思っているのです。真正面からぶつかって行くべきだと信じています。

 

そのため、簡単に渦のなかに呑み込まれてしまいます。

 

じつは、渦のなかには答えがありません。なぜなら、そこは自分がいるべきところではないからです。正解など見つからないのです。

 

だから、問題という渦に遭遇したら、目にしている世界から数歩下がって、全体を俯瞰するようにし、静かなスペースから眺めてみましょう。

 

この渦から離れた静かな空間には、あらゆる答えが存在しています。そこのみが、答えが受け取れる場所なのです。

 

私たちが問題の答えを受け取りたかったら、問題という渦から脱して、静かなスペースにとどまり、そこにチューニングする必要があります。

 

ただ渦から距離をとってみましょう。そして、その静けさと一体になってみましょう。

 

こころはすぐに、怖れや焦りから開放されはじめ、穏やかでくつろいだ状態になってきます。

 

そのスペースとひとつになり、そのスペースとして呼吸し、ただ深くくつろぎ、とどまってみましょう。

 

あとは、ただ静かな安らぎのなかで過ごしてみます。すでに渦から脱して、解決の流れに乗っている状態です。

 

やってくる直感や感覚にまかせて、こころが広がる感じがする方向へと舵をきってみましょう。

 

こころの混乱が鎮まり、答えの源とつながることで、ものごとは自然に流れはじめます。これで、必ずうまくいきます。

 

 

私たちは外側に答えを探しているだけで、ぐるぐる目がまわってしまうのです。なぜなら、そこはいろいろなものがせめぎあう渦そのものだからです。

 

渦の外に出るというのは、混乱が混乱を呼んだ状況のなかから距離をおき、静けさのなかで正気を取り戻すことです。

 

そして、答えを受け取りたいという意志をもって、答えそのものである叡智(静けさ)とつながることで、答えが自然と目のまえに映し出されるのをゆるすこができます。

 

難しいことはありません。ただ、見ている画面から少し離れて俯瞰して、こころに安らぎを取り戻し、静けさのなかにとどまってみましょう。

 

20-10-03 ついつい口を出しすぎてしまうとき 〜バカボンの歌を口づさむ〜

 

「大学生の息子さんの恋愛や行動に、つい口を出しすぎて煙たがられてしまう」というA子さん。

 

としごろの息子さんに限らず、私たちはコミュケーションにおいて相手の言葉や態度のみに気をとられ、抵抗したり、拒絶したりして、なかなかそこにある「想い」を受け取ることができません。

 

 

 

親が口にする「頑張りなさい!」は「あなたならきっとできるから、頑張りなさい!」であり、「気をつけるのよ!」というひとことも、「今日もあなたに安全に過ごしてほしいから、気をつけてね」という愛や励ましがこめられていたりします。

 

しかし、こどもにとってはそれを圧力と感じ、「わかっているよ!」「それ以上言わないで」と抵抗や怒りを感じてしまうのです。

 

それは、受け取る人のなかにある被害者意識や、自信のなさによって、その言葉を自分なりに解釈してしまうからです。

 

もし、自分を信じることができ、安心しきっていたならば、きっと「お母さん、大丈夫だから!心配しなくていいよ」と穏やかに伝えたことでしょう。

 

こころが不安定だと、相手から愛を伝えられたとしても、それを素直に受け取ることができません。自分の怖れが愛を帳消しにし、攻撃に置き換えてしまうのです。

 

怖れや心配、疑いがこころにあると、つねに自分の体験を歪めてしまうことになりかねません。そのため、自分のまわりからたくさんの愛を送られていようとも、それを感じとることができず、自分は愛されていないという被害妄想に陥ってしまうのです。

 

 

このようなコミュニケーションの歪みは、誰もが経験することです。

 

自分のこころのなかにある痛みのせいで、私たちはなにひとつ正しく知覚することができないのです。そして、安全な環境のなかにいようとも、くつろいで幸せを感じることができません。

 

ここで大切なことは、「自分が知覚するすべては、自分のこころが選んでいる」ということを認識することです。

 

心地よくない体験をしているのなら、体験そのものが間違っているというよりも、自分のこころが間違っているため、正しくものごとを認識できていない、ということです。

 

自分の体験していることが気に入らないなら、いったん立ち止まってみましょう。

 

「私のこころこそが動揺していたたため、不安な世界を目にしたに違いない。こころを落ち着ければ、別な世界を見ることができるのだ」と気づいてみましょう。

 

そして、軌道修正のために仕切りなおします。

 

「私が見たいのは、このようなものではない。安らぎと完全さだけを目にしたい」と決め直し、ものごとをもういちど見てみましょう。

 

 

たとえば、息子さんんに「あなた、そんなことで大丈夫なの?」と声をかけたくなるとき、

 

「あ、これは自分のなかにある怖れを息子のなかに見て、自分で心地よくないストーリーをでっちあげている。間違っているのは彼ではなく、私なのだ」と気づくことです。

 

そしてこころを落ち着けて、「私が見たいのは、完全さ、安らぎだ」と決め直します。

 

さらに、自己の高い意識であるハイヤーセルフに「今の状況を愛のなかで見られるように助けてください」とお願いしてみましょう。

 

愛をもって見ているとき、怖れや不安、疑いは姿を消し、安らぎのなかでものごとの意味が変化してゆくのがわかります。

 

意味が正されれば、こころは穏やかさを取り戻し、その穏やかさが自分の目にする世界、体験へと広がって、安らぎの世界を見せてくれます。

 

 

今まで握りしめてきた怖れや心配の想いは、とりあえずハイヤーセルフに渡してしまいましょう。そして、ここからは愛のなかで完全さだけを見るのだ、と決め直しましょう。

 

息子さんに対しても、心配からたくさんの言葉をかけるよりも、ただ信頼し、安心のなかで見ようとすることで、なによりも自分自身が落ち着くことができます。そのスペースのなかで、息子さんも自信を取り戻し、心地よくものごとを進めることができるようになります。

 

自分自身が「見たい!」と決めたものは、必ず見えてきます。それが自分の世界となるのです。それこそがこころの力です。

 

だから、自分が喜べるものだけを見るのだ!と決めましょう。

 

 

怖れや疑いに呑まれそうになったら、ぜひこの歌を口ずさんでみましょう。それは、「これでいいのだ~♪」というバカボンの歌です。

 

すべてはそのまま放っておいても大丈夫なのです。必要なのは、安らぎのなかでハイヤーセルフとともにものごとを味わい愛でること。それだけです。

 

もし、何かすべきことがあれば、そのためのインスピレーションは必ずやってきます。あるいは、気づかないうちに、自動的に必要な行動を起こしているかもしれません。

 

ハイヤーセルフにつながって、安心して過ごしましょう♪ きっと、たくさんの愛や安心が見つかるはずです。

 

 

 

22-06-25 怖れや不安の本当の原因 〜クレー射撃の名手になる〜

 

こころが怖れや不安を感じているとき・・・その原因とはいったい何なのでしょうか?

「もちろん、今起きている状況、あるいはこれから起きるかもしれない状況です!」と言われるかもしれません。

仕事がうまくいかない、人間関係で問題が起きている、体調が思わしくない、先行きに不安を感じる・・・というように。

私たちはこのような状況に対して、環境を変えたり、能力向上をはかったり、相手をどうにかしようとしたり、健康対策をとったり・・・改善をはかる努力をします。

そうすることに問題はないのですが、これらが怖れや不安の原因であり、解決策もここにあると信じてしまうと、結局同じ問題をくりかえすことになってしまいます。ほんとうの原因が放置されたままだからです。

そもそも、怖れや不安を感じているのは「自分」なので、たとえものごとや人が変わろうとも、怖れや不安は新たな状況のなかでも簡単に姿を現すことになります。処理しないかぎり、いつまでもどこまでもつきまとってくるのです。

 

怖れや不安はもともと自分のこころにあるもので、ものごとと結びつくことでそれが原因のように感じられてしまうのです。

では、なぜ自分はこんなに怖がりで、不安を感じてしまうのでしょう?

それは、自分で自分を脅すのをやめられないからなのです。

そもそも、その状況そのものが怖いのではなく、自分の「その状況に対するでっちあげ」こそが怖いのです。

私たちはいつもこころのなかで、自分自身を脅すのをやめることができません。

 

 

一日のうちにアタマに浮かんでくる思考の数は、数万個という膨大なものです。そのほとんどが日々、同じセリフのくりかえしです。さらに、思考の80%は、自分を幸せにしない否定的な内容となっているのです。

ということは、年がら年中飽くことなく、自分の考えで自分を攻撃していることになります。それなら、怖れや不安を感じてあたりまえです。

「最近太ってしまった醜い私」

「過食や飲み過ぎをやめられない意志の弱い私」

「友人との会話でバカみたいな発言をしている私」・・・ダメな私、みっともない私、価値のない私。

一日のうち、アタマに現れる意識的、無意識的な思考をチェックしてみると、他の人に対しては決して口にしないような辛辣なセリフであふれています。

このような否定的な思考のオンパレードは、何ら検閲もされず、無条件に丸ごと信じられてしまっているのです。

だからこそ、そこからネガティブな妄想が発展し、怖れや不安がふくらんでいってしまうのです。

 

 

はっきりしておかなければならないことは、「思考はただ浮かんでくるものであって、自分自身ではない」ということです。

自分が考えているように感じていますが、そもそも「考えを止めることができない」ことを考えると、自分でもコントロールがきかない思考は勝手に湧いてくるものにすぎません。

たった3分後にさえ、どのような考えが浮かぶのかさえも予測することができません。また、内容のほとんどが否定的となれば、それは事実ではないし、簡単に受け入れるべきものではないのです。

このような得体の知れないものはそのまま放っておくことで、タバコの煙のようにふわふわと消え去ってゆきます。大切なのは、「かかわらない」、「うのみにしない」ことです。

わざわざその煙にまかれる必要はありません。煙にまかれれば、具合が悪くなってしまうのです。

 

 

自分ではない思考に影響されてしまわないように、浮かんでくる思考に気づいて、モニタリングしてみましょう。モニタリングとは、離れて眺めることです。

眺めているとき、そこに距離が生まれ、巻き込まれてしまうことを防ぐことができます。

放っておけば、それはただ消え去ってゆくのです。

このように自分のなかに現れてくる思考を客観的に気づくことで、クレー射撃をしているように自分にとって有害な思考を退治することができます。

気づきというビームを照射するだけで、それらの思考を見抜き、撃破することができるのです。

 

 

まずは、自分だと信じていた思考から距離をとりましょう。

いままで、無条件に受け入れてきた否定的で有害な思考に気づき、眺めてみることです。

それらに対して、「いったい何を言っていることやら・・・私は信じません」と、ひとごとのように観察してみましょう。

思考の支配から逃れることこそが、怖れや不安から解放されることであり、自然と安らぎを感じることができるようになります。

そして、怖れや不安が邪魔しないからこそ、ものごとに対する解決策が直感的にやってくるのです。

すべては安らぎのなかで手放しておくことで、正しい方向へと導かれてゆきます。

怖れや不安を手放すために、思考に気づき、静かにながめる習慣をもってみましょう。

 

 

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23-10-30 私たちを導く、静かなこころのパワー

 

ゆったりとくつろいで何も気にかけない、静かな時間をつくってみましょう。

忙しくて、そんな時間はとるヒマなんてない? あるいは、何もしない時間は手持ちぶさたで居心地が悪いでしょうか?

私たちはあまりにも行動することに重点をおいているために、静かな時間がもつ重要性やパワーを知ることがありません。

静かな時間とは、外へ外へと向かいたがるこころに手綱をつけて、内側へと向きを変え、そこでゆったりとくつろがせてあげることです。

180°クルリとこころの向きを変え静まることで、自分のこころでありながら自分が知らなかったスペースへとつながることができます。

私たちは「外にこそ何かいいものが見つかるはず」と信じこみ、それを探しにせっせと外側へと向かうことに忙しくしています。

しかし、それこそが自分が欲しいものを見つけることができない最大の理由でもあるのです。

私たちを苦しめることだけを生業としているエゴは、私たちが幸せになってしまったらエゴが消滅せざるをえないことを知っています。

だからこそ、私たちを幸せにするものが見つからない外へと誘導するために、「自分の手にしたいものすべては外側にあるよ〜」とエゴはささやきかけ、外におびき寄せることで、宝探しの放浪の旅に出かけさせようとしているのです。

私たちはついつい何かを求めて外へ外へと向かいたくなりますが、じつは外に向かうということは自分自身を置き去りにすることであり、それは自分の真のパワーに背を向けることであり、自分のちからの感覚を失ってしまいます。

ほんとうの力と答えは、いつも自分の内側にあります。

燃料がカラになった車は鉄の塊にすぎないように、私たちも自分のパワーと切り離されたときにはこの燃料がない車と同じように、何の役にも立たなくなってしまうのです。

しかし、たびたびちからの源である内側とつながり、しっかりと燃料を補給して、そこから外へと向かうことでまったく違う結果をもたらします。

自分の内側とは、ある意味、別の次元へとつながるスペースです。

私たちのこころは、個人という枠をこえたすべてとつながるスペースを内側にもっていて、そこからあらゆるものを自分に迎え入れ、それを自分の外側の世界へと映し出すことができるのです。

自分の内側とは制限のないスペースであり、世界も宇宙をも抱き、源、あるいは神とつながっているがゆえに、すべてが存在しています。

それはすべて自分のものでもあり、そことのつながりが保てればそれを自分の目にする世界へと映し出すことができるのです。

ヒプノセラピーなどでリラックスすることによって、自然にこの次元につながることができます。すると、ただリラックスしていただけなのに、まったく違うも目線でものごとを見られるようになったり、怖れの感覚が消えたり、また解決策や答えのようなものがフト浮かんでくるようになったりします。

つねにこの次元とのつながりをもつことによって、私たちはアタマによって制限されていた考えを超えて、制限のないものの見方をすることができるようになるのです。

こころがすべてを内包するスペースにつながっているとき、あらゆることについていちばんよい解決策を自然に導き出すことができ、そこからスムーズに正しい行動を起こすことができるようになります。

源、あるいは神のこころとつながっていれば、そのこころで世界を見るときに自分が必要としているものを見つけ出し、また正しい道をスムーズに歩むことができるのです。

世界というのは、まさに自分のこころの状態をそのまま映し出している合わせ鏡のようなものです。こころが静まることを覚えれば、自分の目にする世界も自然と安らかや穏やかさをおびてくるので、ものごとと格闘する必要がなくなるのです。

過去についての失敗や後悔の思いも、未来についての怖れや不安も、いったん手放して自分をカラッポの状態にしてみましょう。

過去や未来についての自分の考えこそが、じつは自分を最も苦しめている原因だからです。ただ静かにするだけでも、こころはのびのびと解放されることができます。

過去や未来についてさまざまな考えが浮かんでくるようであれば、その考えに対して「聞いていませんよ〜!」と、そのままスルーしてしまいましょう。それらは、罪悪感を抱かせるか、怯えさせるだけで、まったく耳を傾ける価値がないものだからです。

「自分をカラッポにして静かな時間を過ごすなんて、自分が怠惰になってしまいそうでできません!」という方がいらっしゃいます。

それは本当でしょうか?

私たちは部屋のなかでじっとしていても、必要があればすぐさまトイレに立つし、無意識のうちにキッチンで食べものを物色していることもあります。これらはどれも、計画のうちに行われているわけではありません。

内なる声なき声が、「さあ、トイレに行こう!」「何か食べよう」と必要な行動を導いてくれています。静まっていても、決して石像のように固まりつづけているわけではないのです。

静かにしていても、動く必要があるときには自動的に行動が起こるもので、それはつねに必要な正しい行動へとうながされます。

正しい行動というものは、思考のあれこれを抜きにして、起こるべきときにただ起こるように起こる、というものです。

もちろん、仕事や旅行など、計画や段取りを必要とするものもあります。

しかし、私たち自身を導くということに関しては、あれこれ考えることは役に立ちません。アタマで考えることはすべて過去のデータに依存しているため、いつも過去の繰り返しという制限にはまってしまうからです。

自分の人生を正しく導きたいと思うときには、この過去の繰り返しの思考に頼るのではなく、もっと斬新な時空をこえた叡智に正しく安全に導いてもらうことが幸せへのカギとなります。

その叡智は、過去も未来もすべての状況を見渡して、私たちにとって最善のルートを常に導き出してくれるからです。

そして、その導きを受けるためには、過去からのデータベースである思考をお休みさせて、新しいものを受け取るためのスペースを用意しておく必要があるのです。

スペースを作るとは、こころをしずめてカラッポにしておくことです。そして、すべての答えがあるスペースへと自分を開け放つようにすることです。

自分を鎮めてそのスペースとつながることで、部屋で静かにしていようとも、必要なことが自然と起こるように仕向けることができます。

自分がどうするのか、どのように動くのかを見守っていましょう。

出かけるつもりがなかったのに、「あそこに行かなくちゃ!」と急にひらめいて出かけて行くかもしれません。誰かの顔が浮かんで、メールや電話をしているかもしれません。あるいは、そのまま休息しているかもしれません。それらは自然と起こってくるのです。

そして、アタマであれこれ考えて無理やり何かを起こそうとするときとは違った、「驚き」や「発見」に出くわすかもしれません。そのひとつひとつが、正しい道へと導いてくれます。

起こるひとつひとつの意味がわからなくてもプロセスを信頼して、こころを開いて起こることについて行ってみましょう。

そのためには、まずは静かにして、自分の内側へと向かい、ゆったりとくつろいでみます。自分をカラッポにしてみます。

あとは、自分がどのように動くのかを他人ごとのように静かに観察していましょう♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「私たちを導く、静かなこころのパワー」

 

ゆったりとくつろいで何も気にかけない、静かな時間をつくってみましょう。

忙しくて、そんな時間はとるヒマなんてない? あるいは、何もしない時間は手持ちぶさたで居心地が悪いでしょうか?

私たちはあまりにも行動することに重点をおいているために、静かな時間がもつ重要性やパワーを知ることがありません。

静かな時間とは、外へ外へと向かいたがるこころに手綱をつけて、内側へと向きを変え、そこでゆったりとくつろがせてあげることです。

180°クルリとこころの向きを変え静まることで、自分のこころでありながら自分が知らなかったスペースへとつながることができます。

私たちは「外にこそ何かいいものが見つかるはず」と信じこみ、それを探しにせっせと外側へと向かうことに忙しくしています。

しかし、それこそが自分が欲しいものを見つけることができない最大の理由でもあるのです。

私たちを苦しめることだけを生業としているエゴは、私たちが幸せになってしまったらエゴが消滅せざるをえないことを知っています。

だからこそ、私たちを幸せにするものが見つからない外へと誘導するために、「自分の手にしたいものすべては外側にあるよ〜」とエゴはささやきかけ、外におびき寄せることで、宝探しの放浪の旅に出かけさせようとしているのです。

私たちはついつい何かを求めて外へ外へと向かいたくなりますが、じつは外に向かうということは自分自身を置き去りにすることであり、それは自分の真のパワーに背を向けることであり、自分のちからの感覚を失ってしまいます。

ほんとうの力と答えは、いつも自分の内側にあります。

燃料がカラになった車は鉄の塊にすぎないように、私たちも自分のパワーと切り離されたときにはこの燃料がない車と同じように、何の役にも立たなくなってしまうのです。

しかし、たびたびちからの源である内側とつながり、しっかりと燃料を補給して、そこから外へと向かうことでまったく違う結果をもたらします。

自分の内側とは、ある意味、別の次元へとつながるスペースです。

私たちのこころは、個人という枠をこえたすべてとつながるスペースを内側にもっていて、そこからあらゆるものを自分に迎え入れ、それを自分の外側の世界へと映し出すことができるのです。

自分の内側とは制限のないスペースであり、世界も宇宙をも抱き、源、あるいは神とつながっているがゆえに、すべてが存在しています。

それはすべて自分のものでもあり、そことのつながりが保てればそれを自分の目にする世界へと映し出すことができるのです。

ヒプノセラピーなどでリラックスすることによって、自然にこの次元につながることができます。すると、ただリラックスしていただけなのに、まったく違うも目線でものごとを見られるようになったり、怖れの感覚が消えたり、また解決策や答えのようなものがフト浮かんでくるようになったりします。

つねにこの次元とのつながりをもつことによって、私たちはアタマによって制限されていた考えを超えて、制限のないものの見方をすることができるようになるのです。

こころがすべてを内包するスペースにつながっているとき、あらゆることについていちばんよい解決策を自然に導き出すことができ、そこからスムーズに正しい行動を起こすことができるようになります。

源、あるいは神のこころとつながっていれば、そのこころで世界を見るときに自分が必要としているものを見つけ出し、また正しい道をスムーズに歩むことができるのです。

世界というのは、まさに自分のこころの状態をそのまま映し出している合わせ鏡のようなものです。こころが静まることを覚えれば、自分の目にする世界も自然と安らかや穏やかさをおびてくるので、ものごとと格闘する必要がなくなるのです。

過去についての失敗や後悔の思いも、未来についての怖れや不安も、いったん手放して自分をカラッポの状態にしてみましょう。

過去や未来についての自分の考えこそが、じつは自分を最も苦しめている原因だからです。ただ静かにするだけでも、こころはのびのびと解放されることができます。

過去や未来についてさまざまな考えが浮かんでくるようであれば、その考えに対して「聞いていませんよ〜!」と、そのままスルーしてしまいましょう。それらは、罪悪感を抱かせるか、怯えさせるだけで、まったく耳を傾ける価値がないものだからです。

「自分をカラッポにして静かな時間を過ごすなんて、自分が怠惰になってしまいそうでできません!」という方がいらっしゃいます。

それは本当でしょうか?

私たちは部屋のなかでじっとしていても、必要があればすぐさまトイレに立つし、無意識のうちにキッチンで食べものを物色していることもあります。これらはどれも、計画のうちに行われているわけではありません。

内なる声なき声が、「さあ、トイレに行こう!」「何か食べよう」と必要な行動を導いてくれています。静まっていても、決して石像のように固まりつづけているわけではないのです。

静かにしていても、動く必要があるときには自動的に行動が起こるもので、それはつねに必要な正しい行動へとうながされます。

正しい行動というものは、思考のあれこれを抜きにして、起こるべきときにただ起こるように起こる、というものです。

もちろん、仕事や旅行など、計画や段取りを必要とするものもあります。

しかし、私たち自身を導くということに関しては、あれこれ考えることは役に立ちません。アタマで考えることはすべて過去のデータに依存しているため、いつも過去の繰り返しという制限にはまってしまうからです。

自分の人生を正しく導きたいと思うときには、この過去の繰り返しの思考に頼るのではなく、もっと斬新な時空をこえた叡智に正しく安全に導いてもらうことが幸せへのカギとなります。

その叡智は、過去も未来もすべての状況を見渡して、私たちにとって最善のルートを常に導き出してくれるからです。

そして、その導きを受けるためには、過去からのデータベースである思考をお休みさせて、新しいものを受け取るためのスペースを用意しておく必要があるのです。

スペースを作るとは、こころをしずめてカラッポにしておくことです。そして、すべての答えがあるスペースへと自分を開け放つようにすることです。

自分を鎮めてそのスペースとつながることで、部屋で静かにしていようとも、必要なことが自然と起こるように仕向けることができます。

自分がどうするのか、どのように動くのかを見守っていましょう。

出かけるつもりがなかったのに、「あそこに行かなくちゃ!」と急にひらめいて出かけて行くかもしれません。誰かの顔が浮かんで、メールや電話をしているかもしれません。あるいは、そのまま休息しているかもしれません。それらは自然と起こってくるのです。

そして、アタマであれこれ考えて無理やり何かを起こそうとするときとは違った、「驚き」や「発見」に出くわすかもしれません。そのひとつひとつが、正しい道へと導いてくれます。

起こるひとつひとつの意味がわからなくてもプロセスを信頼して、こころを開いて起こることについて行ってみましょう。

そのためには、まずは静かにして、自分の内側へと向かい、ゆったりとくつろいでみます。自分をカラッポにしてみます。

あとは、自分がどのように動くのかを他人ごとのように静かに観察していましょう♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

解禁〜♪

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

毎年、涼しくなった頃に健康診断に出かけます。

「この日に受けよう!」と決めたら、10日間ほどちょっとばかり健康的な生活をこころがけたりして。

といっても、コンビニ&カフェスウィーツを自粛し(おやつはOK♪)、揚げものを控えるぐらいのことですが  ^^;

その甲斐あってかなくてか、看護師さんに「体重はまったく変わっていませんね〜!でも、おへそまわりが3センチ増えてるけど、どうしたの?」と聞かれ、ガクゼン。

「ぜったい痩せたに違いない!」と確信していたのに、これはなにかの間違いでは?! そこで、再度測ってもらったのですが、やっぱり同じでした。

「きょうは、たまたまむくんでいるということにしておきましょう!」と看護師さんと頷きあいつつ、それでもどこか腑に落ちず・・・(メッチャ抵抗してます)。

そんなこんなで今年の健診もめでたく終了したので、ついに解禁で〜〜〜〜す! じゃんじゃん絞っちゃってくださ〜い☆

生搾りモンブラン♪ 

まるで麺類のようですか、和栗の香りがして、とてもさっぱりと美味しいモンブランでした。

こちらのカフェはコーヒーもKIMBOで、イタリア気分。

暮れゆく空を眺めながら、ひさしぶりにお友だちとおしゃべりしつつ、至福のスウィーツタイムでした♡

 

 

 

美智子ちゃんのサロンコンサート♪

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

声楽家のお友だち、瀬尾美智子ちゃんのサロンコンサートにお出かけしてきました。

瀬尾美智子ちゃんとピアノの名取典子さん

「あなたの歌 わたしの歌」と題して、前半が日本の歌、後半がクラシックというプログラム。

前半では「冬の星座」や「浜千鳥」にはじまって「りんごの歌」など、懐かしい歌やらはじめて耳にする歌まで。

美智子ちゃんの歌つ日本の歌は、いつも情景があざやかに目に浮かびあがってきて、五感で演奏を楽しむことができます。そして、あらためて「ああ、日本は美しいな〜」と感じさせてくれるのです。

後半はメンデルスゾーンとブラームスで、まさに本領発揮!という感じ(いえいえ、ご本人はいつなんどきだって本領発揮ですよね!)。

自分がピアノを弾いていた頃は、メンデルスゾーンがまったく好きではなかったのです。なぜなら、弾いていて眠りに落ちてしまいそうになるから。でも、こうして大人になって聴いてみると、とてもロマンチックで優しく美しいメロディーが多いのだな〜と感じます。好みは変わるものですね。

特に、アンコールで歌ってくださったメンデルスゾーンの魔女の歌はお気に入りでした。

歌唱のまえに「これは魔女の歌で・・・」と内容を説明してくださったのもあって、聴いていると魔女たちが箒や石炭スコップにまたがって空を縦横無尽にかけてゆく様子が目に浮かびます。なんだか自分もそんな魔女のひとりになったようで楽しい演奏でした。

美智子ちゃんいわく、「アンコールの魔女の歌がいちばん受けてしまった!」と苦笑されていました(はい、確かに、インパクト大でしたよ〜!)

今年の夏は暑さが厳しいうえに長く続いたので、コンサートの準備は体力的に大変だったそうです。

でも、聴かせていただいている方はただただ至福の時間を過ごさせていただきました。

いつもありがとうございます♡

 

 

 

日替わりの夕焼け

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

夕方、交差点で多くの人が足を止めてカメラを向けていたので、事故かしら?! とその方向に目をやってみると・・・夕陽に染まった美しい雲のグラデーション。

部屋に戻ってきて、ふと外に目をやると、もっとスゴイことになっていました。
(あわてていて窓を開けるのを忘れたので、窓のタテ線が入ってしまいました・汗)

秋の夕暮れは、日々ドラマチックです。