23-08-12 正しく悩むことも大切なこと

 

その昔、悩んでいる人がいると、「なんとか手を貸さなくては!」という気持ちになったものです。

悩みから抜け出すための解決メソッドやものの見方をお教えしたり、あれこれアドバイスをしたりしたものです。

今思うと、この段階で自分が間違っていたことに気がつきます。なぜなら、すでにその人を「困りはてている弱い存在」として扱ってしまっているからです。

ほんとうの意味で「助ける」ということは、その人に「真の自己の力を思い出させてあげる」ということ、つまり正気にさせてあげることです。

決して弱い存在のままにしておいてはいけないのです。

たいていの場合、人は悩んでいるからとと言って、「自分を変えたい」と思っているとはかぎりません。

置かれている状況に対してただ不平不満を言いたいだけで、ほんとうの変化を起こすことができる「自分自身の内側」を変えたい思っている人はあまりいないのです。

それなのに、あれこれ一方的に教えようとすることは、口がまったく開いていないのにグイグイ食べものをねじこもうとするような強引な行為なのでした。

そんなメイワク行為をしてしまっていたのは、自分自身が相手のなかにある強さを信頼していなかったからであり、また自分自身が「悩んだり苦しんだりしている人」を見ているのがいやだったからかもしれません。

私たちは、人から簡単に与えられたものについて大した価値を見出しません。それよりも、自分がこころから望んで手にしたものは大切に持ちつづけるのです。

そういう意味では、正しく悩んで苦しんで、口から手が出るようになるまでそのままにしてあげる、ということも大切なのです。そのときにつかんだものは、自分にとって大切な宝物になります。

外から与えられたものはスルスルと手の平をすり抜けて消えてゆきますが、自分がこころから欲したものはしっかりと握って離さないのです。

だから、「ほんとうに今の状態をやめたい!」とこころが決心するまで、しっかりと「自ら変化を起こしたい!」と熱望するまで、その方に寄りそいながら静かに見守ってあげることなのです。

そしてそのときが来たら、差し出されているカラの両手に必要なものをせっせとのせてあげることができます。

かといって、それは「悩んで苦しんでいる人に何もしてないけない」ということではありません。

そのときにできることはもちろんするのですが、しかしその状況はその人にとって「かけがえのない気づきと癒しのチャンス」であるとこころえて、むやみに赤ちゃんの世話をするように何でも助けようとするのではなく、ただともにいて見守って、準備ができるまで待ってあげることも大切なのです。

私たちの人生のなかに現れるハードルのひとつひとつは、「うまくやりすごす」ものではなく、「正しく正面から超えなければならない癒しのチャンス」なのです。

正しく超えることで、それらは永遠に姿を消すことができるからです。

「正しく超える」とは、ただものごとの被害者となって不平不満を言いつづけるのではなく、このことについて「自分のこころを正したい」、「こころを正して、ものごとを正しく見られるようになりたい」、だから「自分の考えが変えられるように導いてほしい」、と自分の高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いをすることです。

本来の自分の強さのみを信頼するのではなく、一度自分の考えややり方を手放して、ただ謙虚な気持ちで助けを求めます。

「自分を変えたい」「別のやり方をしたい」、「だからどうしたらいいのか知りたい」と自分の手の平をカラにして開いたとき、そこに今までとは違う解決策が与えられます。

そのためには、「自分こそが知っていて、思いどおりにする」という今までのルールを手放せるようになるために正しく悩んで、「どうしたらうまくいくのかわからない。だから知りたい」と、ものごとの主導権を手放します。そして、まったく新たな考えへと自分を開くとき、今までとは違った世界へと導いてくれるドアが開きます。そして、不毛な悪循環から救い出してくれるのです。

正しく悩むことで、白旗を掲げることができるようになり、自分のやり方をすみやかに手放し、新たな世界を体験するための見方へとこころを開くことができます。

「自ら受け取る気持ち」になったときにだけ、導き手は現れ、軌道は修正されます。

そのためには、本人の気づきがやってこないうちに中途半端に世話をやいてしまうことは、かえってその人の癒しの邪魔をしてしまうことになってしまいます。過保護なこどもと同じ状態です。

だからこそ、正しく問題と向き合えるように悩んでいるあいだも静かに寄りそい、手が開いた状態になったならば、そこからじゃんじゃんサポートをする、というように、その人の苦しみをいったん容認してさしあげることも大切なことなのです。

実際、本人が自分で問題の核心に気づくまでは、同じ要素を含んだ問題が繰り返されてくることになります。

それは、小学生のドリル学習と同じで、「さあ、自分ひとりでできるようになるまでやってみようね!」「もう、わかったぞ!というところまでやってみよう!」ということなのです。

本人自らの気づきこそが、癒しにとってはなによりも重要だからです。

いちばんラクに学べる道は、問題が起こったときに被害者にならないようにすることです。

「自分のこころが起こしている問題」という観点から、「これは何を学ばなければならないのでしょうか」と自分自身のハイヤーセルフに尋ねてみましょう。

答えは言葉ではわからないかもしれませんが、被害者にならずにその問題に対応しようとする行動に答えがすでに現れているかもしれません。無意識のうちに、いつもとは違うものの見方をして、違う行動に導かれているかもしれません。

ひとつひとつのことを「尋ねて」「学ぶ」姿勢をもつとき、自然と流れに乗り、繰り返していた問題というパターンから抜け出すことができるようになるでしょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「正しく悩むことも大切なこと」

 

その昔、悩んでいる人がいると、「なんとか手を貸さなくては!」という気持ちになったものです。

悩みから抜け出すための解決メソッドやものの見方をお教えしたり、あれこれアドバイスをしたりしたものです。

今思うと、この段階で自分が間違っていたことに気がつきます。なぜなら、すでにその人を「困りはてている弱い存在」として扱ってしまっているからです。

ほんとうの意味で「助ける」ということは、その人に「真の自己の力を思い出させてあげる」ということ、つまり正気にさせてあげることです。

決して弱い存在のままにしておいてはいけないのです。

たいていの場合、人は悩んでいるからとと言って、「自分を変えたい」と思っているとはかぎりません。

置かれている状況に対してただ不平不満を言いたいだけで、ほんとうの変化を起こすことができる「自分自身の内側」を変えたい思っている人はあまりいないのです。

それなのに、あれこれ一方的に教えようとすることは、口がまったく開いていないのにグイグイ食べものをねじこもうとするような強引な行為なのでした。

そんなメイワク行為をしてしまっていたのは、自分自身が相手のなかにある強さを信頼していなかったからであり、また自分自身が「悩んだり苦しんだりしている人」を見ているのがいやだったからかもしれません。

私たちは、人から簡単に与えられたものについて大した価値を見出しません。それよりも、自分がこころから望んで手にしたものは大切に持ちつづけるのです。

そういう意味では、正しく悩んで苦しんで、口から手が出るようになるまでそのままにしてあげる、ということも大切なのです。そのときにつかんだものは、自分にとって大切な宝物になります。

外から与えられたものはスルスルと手の平をすり抜けて消えてゆきますが、自分がこころから欲したものはしっかりと握って離さないのです。

だから、「ほんとうに今の状態をやめたい!」とこころが決心するまで、しっかりと「自ら変化を起こしたい!」と熱望するまで、その方に寄りそいながら静かに見守ってあげることなのです。

そしてそのときが来たら、差し出されているカラの両手に必要なものをせっせとのせてあげることができます。

かといって、それは「悩んで苦しんでいる人に何もしてないけない」ということではありません。

そのときにできることはもちろんするのですが、しかしその状況はその人にとって「かけがえのない気づきと癒しのチャンス」であるとこころえて、むやみに赤ちゃんの世話をするように何でも助けようとするのではなく、ただともにいて見守って、準備ができるまで待ってあげることも大切なのです。

私たちの人生のなかに現れるハードルのひとつひとつは、「うまくやりすごす」ものではなく、「正しく正面から超えなければならない癒しのチャンス」なのです。

正しく超えることで、それらは永遠に姿を消すことができるからです。

「正しく超える」とは、ただものごとの被害者となって不平不満を言いつづけるのではなく、このことについて「自分のこころを正したい」、「こころを正して、ものごとを正しく見られるようになりたい」、だから「自分の考えが変えられるように導いてほしい」、と自分の高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いをすることです。

本来の自分の強さのみを信頼するのではなく、一度自分の考えややり方を手放して、ただ謙虚な気持ちで助けを求めます。

「自分を変えたい」「別のやり方をしたい」、「だからどうしたらいいのか知りたい」と自分の手の平をカラにして開いたとき、そこに今までとは違う解決策が与えられます。

そのためには、「自分こそが知っていて、思いどおりにする」という今までのルールを手放せるようになるために正しく悩んで、「どうしたらうまくいくのかわからない。だから知りたい」と、ものごとの主導権を手放します。そして、まったく新たな考えへと自分を開くとき、今までとは違った世界へと導いてくれるドアが開きます。そして、不毛な悪循環から救い出してくれるのです。

正しく悩むことで、白旗を掲げることができるようになり、自分のやり方をすみやかに手放し、新たな世界を体験するための見方へとこころを開くことができます。

「自ら受け取る気持ち」になったときにだけ、導き手は現れ、軌道は修正されます。

そのためには、本人の気づきがやってこないうちに中途半端に世話をやいてしまうことは、かえってその人の癒しの邪魔をしてしまうことになってしまいます。過保護なこどもと同じ状態です。

だからこそ、正しく問題と向き合えるように悩んでいるあいだも静かに寄りそい、手が開いた状態になったならば、そこからじゃんじゃんサポートをする、というように、その人の苦しみをいったん容認してさしあげることも大切なことなのです。

実際、本人が自分で問題の核心に気づくまでは、同じ要素を含んだ問題が繰り返されてくることになります。

それは、小学生のドリル学習と同じで、「さあ、自分ひとりでできるようになるまでやってみようね!」「もう、わかったぞ!というところまでやってみよう!」ということなのです。

本人自らの気づきこそが、癒しにとってはなによりも重要だからです。

いちばんラクに学べる道は、問題が起こったときに被害者にならないようにすることです。

「自分のこころが起こしている問題」という観点から、「これは何を学ばなければならないのでしょうか」と自分自身のハイヤーセルフに尋ねてみましょう。

答えは言葉ではわからないかもしれませんが、被害者にならずにその問題に対応しようとする行動に答えがすでに現れているかもしれません。無意識のうちに、いつもとは違うものの見方をして、違う行動に導かれているかもしれません。

ひとつひとつのことを「尋ねて」「学ぶ」姿勢をもつとき、自然と流れに乗り、繰り返していた問題というパターンから抜け出すことができるようになるでしょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

今週の夕空 @18:15

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

8月に入って、空の表情がいろいろに変わっていますSmile

Mon.

Tue.

Thurs.

Fri.

 

 

 

るんサイトのリニューアル、準備中

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

オフィス・るんのサイトも作成してから早二十数年。

その間、少しづつ新しいものに変えてきてはいるのですが、スマホでサイトをご覧になる方が増えた昨今、現サイトはスマホでは見づらくなってしまいました。

そこで、スタッフSちゃんに今どきのサイトを作りはじめていただき、すでに大方できあがっているのですが、

なんせ私が新しいフォーマットになじみがなく、また長年可愛がって育ててきた現サイトに愛着がありすぎて、なかなか作業がすすまず・・・

ず〜〜〜っと出来上がりの確認を怠って、放置することあっというまに一年あまり・・・(汗)。

しかし・・・このところ業者さんからも「まだ、新しいサイトになっていないんですか〜?」とプレッシャーをかけられ、ようやく真剣に取り組みはじめました。

新しいフォーマットは、どこに何をもっていっていいのやら、自分で自分のサイトの扱いがまったくわからず、これ!誰のサイトなの?!という感じです(苦笑)。

あと一年はかからず(そう願いますが・・・)近日完成の予定で〜す。

 

 

 

23-08-02 グッタリするまえに、丸投げを!

 

疲れているように見える人に、私たちは「ゆっくり身体を休めてね!」と声をかけます。

しかし、ほんとうに疲労困憊してしまっているとき、まいってしまっているのは私たちの身体ではなく「こころ」なのです。こころこそが疲弊して悲鳴をあげているのです。

なぜなら、何を疑うこともなくこころが真っ直ぐでスコンと元気だと、多少身体に負担がかかっていてもなんとかやり過ごすことができるからです。よく、「身体は疲れていたけれど、精神力でのり切った!」と表現するように。

こころが元気ならば、身体はそれについてきてくれるのです。

いちばん困るのは、こころがペシャンコになったときなのです。

私たちから生命エネルギーを奪っているのは、身体の活動自体ではなく、こころが「自分で自分を信じることができなくなったとき」なのです。

たとえば、「変えたい現状があるのに、とうてい変えることができない(無力な自分)」「AかBか選ばなければならないのに、どう決めたらいいかわからない(無知な自分)」「生きたい人生があるのに、生きられない(哀れな自分)」・・・

というように、自分で自分に対して手厳しい判断をし、自分のことをふがいない、まったく頼りにならない奴・・・と見限ってしまっているのです。

そのことによって、いちばん信頼して欲しい自分自身に見捨てられてしまったこころは頼るあてもなく、前向きに生きる力を失ってしまうのです。

こんなことにならないために、どうしたらよいのでしょうか?

私たちはこの世界で生きてゆくために、対人関係についてはこころ配りをしています。しかし、いちばんこころを配らなければならない関係は、じつは自分との関係なのです。

自分自身とうまくつきあうことができないと、人生全般とうまくつきあうことができなくなります。

先に書いたように「〜できない自分」という自己に対する判断を認めてしまうと、「自分は何もできない人」「頼りにならない人」というレッテルを自分自身に貼りつけることになり、それを受け入れれば、そんな自分をそのまま生きるようになります。

かと言って、そのような考えを止めようにも自己否定的なことばは自動的に出てくるので、コントロールすることができません。

そこで、たとえ自己否定的な考えを自分自身に言ってしまったとしても、そのあとにそれを自分自身でフォローする習慣をつけてみましょう。

「変えたい現状があるのに、とうてい変えることができない(無力な自分)」という考えが浮かんできた場合には、「変えることができないのなら、当面はこれで大丈夫。真の変化が訪れるときには、自然と行動を起こせるはずだから」と、優しく今の現状にOKを出します。

「AかBか選ばなければならないのに、どう決めたらいいかわからない(無知な自分)」という考えに対しては、「AかBか選ぶのは、私ではない。自分のなかにすべてを見通している存在がいて、すべてを正しく判断してくれるから、その存在に委ねて、あとは自分がどうするのか見ていてみよう」と、自分のなかの大きな存在の力に委ねてしまいます。

「生きたい人生があるのに、生きられない(哀れな自分)」という考えに対しては、「今までの人生でも、自分の思いどおりを貫くことが幸せに直結していたとは限らない。むしろ、失敗したことも多いかもしれない。だったら、この人生全体の流れが自分をどこに連れて行ってくれるのかただ見ていてみよう」と、自分自身が人生の責任をとろうとするのではなく、もっと大きな流れに身を委ねて連れて行ってもらいます。

私たちは小さいころから「人に頼らないで自分で決めなさい」とか、「自分のことは自分でちゃんとやりなさい」と言われつづけ、他の力を借りることは良しとされませんでした。

だから、自分の人生に対して100%自分でどうにかすることがあたりまえ、「他に丸投げする」なんてもってのほか!と感じてしまうため、「信頼して、頼って、委ねて、身をまかせる」という考え方には馴染みがないのです。

しかし、今まで「自分ひとり」で頑張ってきて、それでも悪戦苦闘がつづいて、そのうえどうしてよいのかわからず、疲れ切っているのなら、このさい「丸投げ」の姿勢を身につけてみましょう。

誰に丸投げをするのか?・・・それは、力不足を感じて疲れはてているニセモノの自分(エゴ)ではなく、この世界の外かわからすべてを熟知したうえでサポートをする真の自分(ハイヤーセルフ)にです。

そんな存在、知りません!・・・って?

大丈夫です! きょうまで知らなくっても、きょうから新たに関係を結びましょう。

毎日、ハイヤーセルフに声をかけてつながり、尋ねて、助力をお願いすれば・・・きっと、あらら〜、こんなふうに解決しちゃっていいの?とびっくりするぐらい、自分には考えつかなかった解決策が与えられるということにびっくりするかもしれません。

こころが疲弊すると、身体もバランスを崩し、さらに自分の目にする世界にも不具合があらわれはじめ、それを見てまたこころがさらに疲弊する・・・という悪循環に陥ってしまいます。

そうならないためにも、自分のこころが自分を疲れさせないように、どんなことを言っているのかまずは気づいてみましょう。

そして、疲れを感じるような発言を見つけたら、ハイヤーセルフへの「丸投げ」の考え方に変えることで、こころの負荷を減らしてあげましょう。

そして、どんな結果になるのか見ていましょう。

「自分ひとりでやらなくんてもいい」と感じるだけでも、こころはだいぶツラい責任感から逃れることができます。

そして、流れのなかで自然に起こる成りゆきも、もっと自分自身を安心させてくれるかもしれません。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「グッタリするまえに、丸投げを!」

 

疲れているように見える人に、私たちは「ゆっくり身体を休めてね!」と声をかけます。

しかし、ほんとうに疲労困憊してしまっているとき、まいってしまっているのは私たちの身体ではなく「こころ」なのです。こころこそが疲弊して悲鳴をあげているのです。

なぜなら、何を疑うこともなくこころが真っ直ぐでスコンと元気だと、多少身体に負担がかかっていてもなんとかやり過ごすことができるからです。よく、「身体は疲れていたけれど、精神力でのり切った!」と表現するように。

こころが元気ならば、身体はそれについてきてくれるのです。

いちばん困るのは、こころがペシャンコになったときなのです。

私たちから生命エネルギーを奪っているのは、身体の活動自体ではなく、こころが「自分で自分を信じることができなくなったとき」なのです。

たとえば、「変えたい現状があるのに、とうてい変えることができない(無力な自分)」「AかBか選ばなければならないのに、どう決めたらいいかわからない(無知な自分)」「生きたい人生があるのに、生きられない(哀れな自分)」・・・

というように、自分で自分に対して手厳しい判断をし、自分のことをふがいない、まったく頼りにならない奴・・・と見限ってしまっているのです。

そのことによって、いちばん信頼して欲しい自分自身に見捨てられてしまったこころは頼るあてもなく、前向きに生きる力を失ってしまうのです。

こんなことにならないために、どうしたらよいのでしょうか?

私たちはこの世界で生きてゆくために、対人関係についてはこころ配りをしています。しかし、いちばんこころを配らなければならない関係は、じつは自分との関係なのです。

自分自身とうまくつきあうことができないと、人生全般とうまくつきあうことができなくなります。

先に書いたように「〜できない自分」という自己に対する判断を認めてしまうと、「自分は何もできない人」「頼りにならない人」というレッテルを自分自身に貼りつけることになり、それを受け入れれば、そんな自分をそのまま生きるようになります。

かと言って、そのような考えを止めようにも自己否定的なことばは自動的に出てくるので、コントロールすることができません。

そこで、たとえ自己否定的な考えを自分自身に言ってしまったとしても、そのあとにそれを自分自身でフォローする習慣をつけてみましょう。

「変えたい現状があるのに、とうてい変えることができない(無力な自分)」という考えが浮かんできた場合には、「変えることができないのなら、当面はこれで大丈夫。真の変化が訪れるときには、自然と行動を起こせるはずだから」と、優しく今の現状にOKを出します。

「AかBか選ばなければならないのに、どう決めたらいいかわからない(無知な自分)」という考えに対しては、「AかBか選ぶのは、私ではない。自分のなかにすべてを見通している存在がいて、すべてを正しく判断してくれるから、その存在に委ねて、あとは自分がどうするのか見ていてみよう」と、自分のなかの大きな存在の力に委ねてしまいます。

「生きたい人生があるのに、生きられない(哀れな自分)」という考えに対しては、「今までの人生でも、自分の思いどおりを貫くことが幸せに直結していたとは限らない。むしろ、失敗したことも多いかもしれない。だったら、この人生全体の流れが自分をどこに連れて行ってくれるのかただ見ていてみよう」と、自分自身が人生の責任をとろうとするのではなく、もっと大きな流れに身を委ねて連れて行ってもらいます。

私たちは小さいころから「人に頼らないで自分で決めなさい」とか、「自分のことは自分でちゃんとやりなさい」と言われつづけ、他の力を借りることは良しとされませんでした。

だから、自分の人生に対して100%自分でどうにかすることがあたりまえ、「他に丸投げする」なんてもってのほか!と感じてしまうため、「信頼して、頼って、委ねて、身をまかせる」という考え方には馴染みがないのです。

しかし、今まで「自分ひとり」で頑張ってきて、それでも悪戦苦闘がつづいて、そのうえどうしてよいのかわからず、疲れ切っているのなら、このさい「丸投げ」の姿勢を身につけてみましょう。

誰に丸投げをするのか?・・・それは、力不足を感じて疲れはてているニセモノの自分(エゴ)ではなく、この世界の外かわからすべてを熟知したうえでサポートをする真の自分(ハイヤーセルフ)にです。

そんな存在、知りません!・・・って?

大丈夫です! きょうまで知らなくっても、きょうから新たに関係を結びましょう。

毎日、ハイヤーセルフに声をかけてつながり、尋ねて、助力をお願いすれば・・・きっと、あらら〜、こんなふうに解決しちゃっていいの?とびっくりするぐらい、自分には考えつかなかった解決策が与えられるということにびっくりするかもしれません。

こころが疲弊すると、身体もバランスを崩し、さらに自分の目にする世界にも不具合があらわれはじめ、それを見てまたこころがさらに疲弊する・・・という悪循環に陥ってしまいます。

そうならないためにも、自分のこころが自分を疲れさせないように、どんなことを言っているのかまずは気づいてみましょう。

そして、疲れを感じるような発言を見つけたら、ハイヤーセルフへの「丸投げ」の考え方に変えることで、こころの負荷を減らしてあげましょう。

そして、どんな結果になるのか見ていましょう。

「自分ひとりでやらなくんてもいい」と感じるだけでも、こころはだいぶツラい責任感から逃れることができます。

そして、流れのなかで自然に起こる成りゆきも、もっと自分自身を安心させてくれるかもしれません。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

暑中お見舞い申し上げます ^ - ^

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

今年は梅雨明けまえから十分に暑さを堪能してしまったので、「えっ?ようやく梅雨明け?これから夏本番なの?」と絶句するしまつです。

このところ忙しくてお外へ出かける時間がなかったのですが、ようやくお友だちとデートする余裕が♡

張り切りすぎて、朝の10:00から夕方18:00近くまでノンストップのお喋りタイム♪

お喋りしていると・・・日頃なんとな〜く考えていたことが、「あ!そういうことか?!」とたくさんの気づきがやってきて、そこからまた話題が広がってゆきます。だから、あれこれ止まらなくなってしまうのです。

たくさん喋っているので、燃料も必要(笑)。午前中のカフェからはじまって、三軒ハシゴいたしました(といっても、暑いので、すべて同じ建物のなかで調達)。

♪ ランチ〜

冷え冷えの丸ごとトマトサラダと、

巨大な獅子唐と揚げ茄子がのった和風ハンバーグ。メインのおろしハンバーグとベイクドポテトが脇役に見えます。

獅子唐って、たま〜にすんごく辛いのがあるのですが、こんなに大きくて辛かったら災難だよね〜と思っていたら、案の定、お友だちは一口食べたらお顔をしかめてギブアップでした(汗)。ああ、大当たりだわ☆☆☆

♪ カフェ〜

あんなに「お腹がいっぱい!」とのけぞっていたのに、別腹はいつでもスタンバイOK。眺めのいいカフェに移動して、スウィーツを♡

ボックス席があまりに心地よくって、そしてドリンクも飲み放題ときているので、ついついおうちリビング状態で長居してしまいました。

なにげないお喋りでも、ひとりで思いめぐらしているよりも気づきの相乗効果は大です。そして、このところのお仕事の疲れもきれいサッパリ☆ 充実の午後でした。

メロンのショートケーキ、おいしかったです ♪

 

 

 

23-07-18 私の使命ってなんですか?

 

誰でも一度はこんな疑問をもったことがあるかもしれません。

「今回の人生で、私は何をするために生まれてきたのだろう?」「私の使命を知りたい」・・・

私も若かりし頃、そんなことに興味をもったことがありました。

そこで、その当時たびたび来日していた外国人チャネラーさんのセッションを予約し、リーディングなるものをしてもらったのです。

そこでまず言われたことは、「あなたの一つまえの前世は、インドのマハラジャでした。あなたの乗っていた輿がまだここに見えています」と。

『え、マハラジャ? どっかにあったディスコの名前じゃないの?(当時のディスコは、いまでいうクラブのようなものです)』。それぐらいの考えしか浮かばなかったのですが・・・ 私は海外をあちこち歩きまわっているわりには、インドだけはなぜか足を踏み入れたいと思わない国でした。もしや、よからぬ過去があるのでしょうかっ?!(汗)

そしてさらに、「今回のあなたの人生は、あなたのカルマを清算することです」ともつけ加えられました。

『清算・・・ですと!?』それを聞いてちょっとガッカリ。なぜなら、もっとキラキラしたお役目と将来展望を期待していたからです。それにしてはこのお答え、あまりに地味すぎやしませんか?と思ったものです。

今、このチャネラーさんの言葉をあらためて思い返してみると、「おお〜〜☆まさしくそうだよね!」という、深い納得を感じることができます。

今の私なら、ここに生まれてきた人すべてにとってするべきことは「それしかない!」と同意することができます。そして、私も誰かに答える立場であるのなら、まったく同じことを伝えることでしょう。

もしも、「あなたは、○○で成功して有名になるために生まれてきました」とか、「お金もちになって、なんでもアリの人生を生きるために生まれてきました」と言われたとしたら、それを聞いた人は喜ぶかもしれませんが、それはなんの意味もない回答なのです。

この人生を通して誰もが、あるときには上り調子になり、またあるときには下り調子になり、絶好調とドン底が入りまじり、バランスをとっています。また、ある面では運がよくても、別の事柄に関してはまったくうまくいかないかもしれません。

人は人生のある一点についてしか話さなかったり、目を向けなかったりするため、全体を通して見たときに喜びと苦しみが入り混じって繰り返されていることに気がつきません。

また、今回の人生であまり裕福でなければ次の人生で無条件に豊かさに恵まれるかもしれないし、前回の人生で短命であれば、今回の人生は長生きかもしれません。

それはコインの表と裏を繰り返しているだけにすぎません。今でなければ、いつかであり、今回の人生でなければ別の人生で ・・・ というように、バランスをとっているにすぎないのです。

私たちの真の目的は、そんな人生の、そして輪廻のシーゾーゲームを延々とつづけることではなく、そのようなシステムから解放されることです。

上がったり下がったり、喜んだり悲しんだり、豊かになったり貧しくなったりの繰り返しを脱して、変わることのない安らぎを感じたり、平和を感じたり、愛や豊かさを受け取ったりと、そのような自分になることもできるのだということに気づいて、それを達成しようとすることこそに意義があります。

そして、そんな状態を成し遂げるためには、カルマのシーソーゲームから降りることです。それは、上がったり下ったり、与えられたり奪われたりをつくりだしている原因をねこそぎ片づける必要があるのです。

若かりし日にあのチャネラーさんに言われて、私が肩透かしをくらったように感じたひとことである「カルマの清算」こそが、じつはすべての人にとって変わることのない幸せや安らぎのなかに生きるためには欠かせない究極の使命であったわけです。

それこそが、表になったり裏になったり(喜んだり悲しんだり)、パタパタと忙しく変わる現実を終わりにし、安定した愛と安らぎのなかに自分を確立してくれるのです。

誰にとっても日々すべきこととは、まさにこの乱高下を繰り返すカルマ劇場をひとつひとつ閉じてゆくこと。これ以上、同じような原因と結果をめぐらせないように終止符をうつこです。

そのためには、自分の日々の体験のなかに現れるさまざまな問題(それはプチなものから、メガ級のものまで)、それらをひとつひとつを「私自身が蒔いた種の結果」として認識し、受け入れてゆく姿勢をもつことです。

自分がそれを受けとめてゆくことで、こころのなかの葛藤や対立(あいつが悪い、世界が悪い、私は被害者だ!という思い)が鎮まり、こころが闘いから解放され、安らぎを取り戻すことがでます。

この自分の内側で感じる平和で安らかな状態こそが、自分が新たに目にする世界そのものの原因となってくれるのです。平和な世界は、安らかなこころからしか生まれないからです。

こころのなかですべてが受けとめられ、穏やかさを取り戻したとき、自分の目にする世界から不調和なものや抵抗を生み出すものが消えさってゆきます。そして、自分にとって平和で優しい世界を目にするようになります。

また、静かで平和なこころであるからこそ、高い自己からの導きを受けとめることができるようになります。そして、導きに従うことで、苦しみのない平らな道へと自然に軌道が修正されてゆくことでしょう。

 静かなこころを取り戻して導きとつながることができれば、それ自体がもう十分な幸せとなります。そうであれば、自分がここで何をしていようが、体験の形そのものはさほど重要ではなくなってきます。

それと同時に、そんな自分であるからこそ生きることができる新たな使命も高い自己が教えてくれるようになるのです。それを生きることは、かならずや大きな喜びにつながるものです。

あのときのチャネラーさんは正しかった!いちばん大切な答えを教えてくれていた! 、と今さらながら感じとることができます。

大切なことは、日々起きてくることに対して、カルマ的な視野をもってながめてみることです。そして、そのような繰り返しをもう終わりすることができることに気づくことです。

「ああ、もうこんなやった・やられたの世界はたくさん! それよりも、これを受け入れることで、このようなパターンを金輪際終わりにしてしまおう」、

そんなふうに出来事を受け入れて、カルマの外側の目線からそれを受けいれ、高い自己であるハイヤーセルフにすべてを渡して、ぐるぐる繰り返す因果をキッパリと終わりにしてもらいましょう。

そのことによって手に入る感覚は、怖れから解放された安堵感、これで大丈夫という信頼感、そしていつも守られ支えられているというあたたかな愛の感覚、さらにこの先の人生も自分らしく生きられるという希望があります。

特別ななにかがなくても、ごくふつうの日常でじゅうぶんに幸せ感に満たされていると感じることでしょう。

そして、その平和で満たされた感覚から、新たな現実が喜びストーリーとして目にうつるようになるのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「私の使命ってなんですか?」

 

誰でも一度はこんな疑問をもったことがあるかもしれません。

「今回の人生で、私は何をするために生まれてきたのだろう?」「私の使命を知りたい」・・・

私も若かりし頃、そんなことに興味をもったことがありました。

そこで、その当時たびたび来日していた外国人チャネラーさんのセッションを予約し、リーディングなるものをしてもらったのです。

そこでまず言われたことは、「あなたの一つまえの前世は、インドのマハラジャでした。あなたの乗っていた輿がまだここに見えています」と。

『え、マハラジャ? どっかにあったディスコの名前じゃないの?(当時のディスコは、いまでいうクラブのようなものです)』。それぐらいの考えしか浮かばなかったのですが・・・ 私は海外をあちこち歩きまわっているわりには、インドだけはなぜか足を踏み入れたいと思わない国でした。もしや、よからぬ過去があるのでしょうかっ?!(汗)

そしてさらに、「今回のあなたの人生は、あなたのカルマを清算することです」ともつけ加えられました。

『清算・・・ですと!?』それを聞いてちょっとガッカリ。なぜなら、もっとキラキラしたお役目と将来展望を期待していたからです。それにしてはこのお答え、あまりに地味すぎやしませんか?と思ったものです。

今、このチャネラーさんの言葉をあらためて思い返してみると、「おお〜〜☆まさしくそうだよね!」という、深い納得を感じることができます。

今の私なら、ここに生まれてきた人すべてにとってするべきことは「それしかない!」と同意することができます。そして、私も誰かに答える立場であるのなら、まったく同じことを伝えることでしょう。

もしも、「あなたは、○○で成功して有名になるために生まれてきました」とか、「お金もちになって、なんでもアリの人生を生きるために生まれてきました」と言われたとしたら、それを聞いた人は喜ぶかもしれませんが、それはなんの意味もない回答なのです。

この人生を通して誰もが、あるときには上り調子になり、またあるときには下り調子になり、絶好調とドン底が入りまじり、バランスをとっています。また、ある面では運がよくても、別の事柄に関してはまったくうまくいかないかもしれません。

人は人生のある一点についてしか話さなかったり、目を向けなかったりするため、全体を通して見たときに喜びと苦しみが入り混じって繰り返されていることに気がつきません。

また、今回の人生であまり裕福でなければ次の人生で無条件に豊かさに恵まれるかもしれないし、前回の人生で短命であれば、今回の人生は長生きかもしれません。

それはコインの表と裏を繰り返しているだけにすぎません。今でなければ、いつかであり、今回の人生でなければ別の人生で ・・・ というように、バランスをとっているにすぎないのです。

私たちの真の目的は、そんな人生の、そして輪廻のシーゾーゲームを延々とつづけることではなく、そのようなシステムから解放されることです。

上がったり下がったり、喜んだり悲しんだり、豊かになったり貧しくなったりの繰り返しを脱して、変わることのない安らぎを感じたり、平和を感じたり、愛や豊かさを受け取ったりと、そのような自分になることもできるのだということに気づいて、それを達成しようとすることこそに意義があります。

そして、そんな状態を成し遂げるためには、カルマのシーソーゲームから降りることです。それは、上がったり下ったり、与えられたり奪われたりをつくりだしている原因をねこそぎ片づける必要があるのです。

若かりし日にあのチャネラーさんに言われて、私が肩透かしをくらったように感じたひとことである「カルマの清算」こそが、じつはすべての人にとって変わることのない幸せや安らぎのなかに生きるためには欠かせない究極の使命であったわけです。

それこそが、表になったり裏になったり(喜んだり悲しんだり)、パタパタと忙しく変わる現実を終わりにし、安定した愛と安らぎのなかに自分を確立してくれるのです。

誰にとっても日々すべきこととは、まさにこの乱高下を繰り返すカルマ劇場をひとつひとつ閉じてゆくこと。これ以上、同じような原因と結果をめぐらせないように終止符をうつこです。

そのためには、自分の日々の体験のなかに現れるさまざまな問題(それはプチなものから、メガ級のものまで)、それらをひとつひとつを「私自身が蒔いた種の結果」として認識し、受け入れてゆく姿勢をもつことです。

自分がそれを受けとめてゆくことで、こころのなかの葛藤や対立(あいつが悪い、世界が悪い、私は被害者だ!という思い)が鎮まり、こころが闘いから解放され、安らぎを取り戻すことがでます。

この自分の内側で感じる平和で安らかな状態こそが、自分が新たに目にする世界そのものの原因となってくれるのです。平和な世界は、安らかなこころからしか生まれないからです。

こころのなかですべてが受けとめられ、穏やかさを取り戻したとき、自分の目にする世界から不調和なものや抵抗を生み出すものが消えさってゆきます。そして、自分にとって平和で優しい世界を目にするようになります。

また、静かで平和なこころであるからこそ、高い自己からの導きを受けとめることができるようになります。そして、導きに従うことで、苦しみのない平らな道へと自然に軌道が修正されてゆくことでしょう。

 静かなこころを取り戻して導きとつながることができれば、それ自体がもう十分な幸せとなります。そうであれば、自分がここで何をしていようが、体験の形そのものはさほど重要ではなくなってきます。

それと同時に、そんな自分であるからこそ生きることができる新たな使命も高い自己が教えてくれるようになるのです。それを生きることは、かならずや大きな喜びにつながるものです。

あのときのチャネラーさんは正しかった!いちばん大切な答えを教えてくれていた! 、と今さらながら感じとることができます。

大切なことは、日々起きてくることに対して、カルマ的な視野をもってながめてみることです。そして、そのような繰り返しをもう終わりすることができることに気づくことです。

「ああ、もうこんなやった・やられたの世界はたくさん! それよりも、これを受け入れることで、このようなパターンを金輪際終わりにしてしまおう」、

そんなふうに出来事を受け入れて、カルマの外側の目線からそれを受けいれ、高い自己であるハイヤーセルフにすべてを渡して、ぐるぐる繰り返す因果をキッパリと終わりにしてもらいましょう。

そのことによって手に入る感覚は、怖れから解放された安堵感、これで大丈夫という信頼感、そしていつも守られ支えられているというあたたかな愛の感覚、さらにこの先の人生も自分らしく生きられるという希望があります。

特別ななにかがなくても、ごくふつうの日常でじゅうぶんに幸せ感に満たされていると感じることでしょう。

そして、その平和で満たされた感覚から、新たな現実が喜びストーリーとして目にうつるようになるのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

ホラー楽しい思い出話

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

山梨のお友だちからお家で作っていらっしゃる桃が届きました。

大きくって、真っ赤っか。

「あのとき」以来、毎年夏になると送ってくださるのです。

「あのとき」・・・とは、私とお友だち共通の人生最恐のホラー体験。

それは、かれこれ7〜8年まえのこと。

急にものが見えづらくなり、眼科の手術を受けなければならないことになったのです。それは、眼球の中身をカラッポにしたうえで、網膜のうえにかかってしまった膜を除去する手術で、そりゃあもうホラーそのものでした。

なぜなら、局所麻酔なので眼球に差しこまれる器具が網膜に影絵のように大写しになるのです。スクリーンいっぱいにフォークのようなものが映し出されている状態で、膜をクルクル巻きとる作業をしているのが丸見えです。

緊張気味のインターンの先生に「もっと左の方だよ〜」とか「まだ、残っているよ〜(汗)」とこころのなかでつっこみを入れておりました。

その器具たちが動き回る様子が、なぜかスターウォーズの戦闘シーンのように見えたものです。

手術室にはなにやら楽しげな音楽がしじゅう流れてはいたのですが、このときほど明るさが凍るほど不気味に感じたことはありません。

これがなんと4時間もかかり、最終的に病院から解放されるまでに一週間以上もかかってしまいました。

その間、身体を平らにできないので半分起きているような状態で眠ったり、また一日中点眼をしなければならなかったのです。

そんな恐怖の手術体験と入院生活をともにしたのがルームメイトだったそのお友だちでした。彼女もまったく同じ手術で、術後はうつぶせでしか寝られなかったのでもっと大変なご様子。

お互いお風呂はおろか、一週間も顔を洗えないので「もうカピカピだわね〜」なんて笑いながら、そんな日々を励まし合って過ごしたのでした。

もうあれからずいぶん経つのに家族のような親しさが感じられます。

桃のお礼でお電話をしたら、いつものごとく「あれは大変な体験だったけれど、でも毎日が楽しかったわね〜!」なんて、ホラー楽しい思い出話に花が咲くのです。