お菓子がとどきました。
石川県小松在住のNSさんから。
地元の銘菓、「雪花糖」。創業天保8年というと・・・どうやら、100年以上つづくお菓子処のようです。
クルミがまること和三盆で包まれたやさしいお味のお菓子。
じつはNSさんにはお目にかかったことはなく、ツイッターがご縁でたま〜に短いおしゃべりをさせていただいています。
そんなご縁で、お住まいの小松からおいしいお菓子をいただいてしまいました。嬉し〜!
ありがとうございます。 (*^▽^*)
お菓子がとどきました。
石川県小松在住のNSさんから。
地元の銘菓、「雪花糖」。創業天保8年というと・・・どうやら、100年以上つづくお菓子処のようです。
クルミがまること和三盆で包まれたやさしいお味のお菓子。
じつはNSさんにはお目にかかったことはなく、ツイッターがご縁でたま〜に短いおしゃべりをさせていただいています。
そんなご縁で、お住まいの小松からおいしいお菓子をいただいてしまいました。嬉し〜!
ありがとうございます。 (*^▽^*)
旧友、Kちゃんのバースデー & 東京マラソン完走 & その他のお祝いランチ。(イイコト、目白押し?!)
パークハイアットのジランドールにて。
東京は最近、煙霧や黄砂で視界がまっ黄色な日が多いのですが、春霞ながらも東京の街を気持ちよく見渡しながらおしゃべり&お食事をすることができました。
「次はトライアスロンだ!」とさらにノッてるKちゃん、ここからの一年もよい一年となりますように。(^_-)-☆
本当に自分の考えというのは、自分の世界そのものだな〜と感じます。
自分は自分の考えの中の住人、自分の考えの中に生きている、といってもよいぐらいです。
その考えを通して知覚する世界は、いつも自分の考えの色に染め上げられています。
○子さんとはカウンセリングを進めていくうちに、彼女の中に「わたしは他人の期待には応えるべきである、応えてあたりまえ」という信念があることに気がつきました。そしてその信念が、さまざまな場面で彼女を苦しめ、ついには過食にまで走らせているということが・・・。
この考えは、かなり厳しかったお母さまからの愛や注意を勝ちとる唯一の方法であったに違いありません。人がある考えにしがみつくのは、そこに手放しがたい報酬があってこそです。手に入るものがあるとき、わたしたしはその考えにしがみつきます。
厳しい母はきっと、彼女が期待に応えて優秀だったときには優しかったり満足気だったのかもしれません。そこまでの反応はなかったとしても、期待に応えたときには叱責しなかったのかもしれません。
すると彼女の中には「人生とは人の期待に応えるものである」→「応えてこそ、安全」という方程式が当然のことのように刷り込まれます。もはや、「それって正しい考えかどうか」と判断する余裕もなく、まったくあたりまえとしか思えないのです。もちろん、無力なこども時代には自らの防御に役立っていた考えでも、おとなになるとかえって足をひっぱってしまうことがしばしばです。
さて、『人の期待に応えるのは当然なのでしょうか?』・・・もしかすると、この文章を読んでらっしゃる方の中にも、「わたしも、そう思う」と当然に感じている方もいらっしゃるかもしれません。「何がいけないの?」って。
「人の期待に応えるのは当然」と信じていると、「人にも自分の期待に応えて当然」と思うようになり、期待に応えてもらえない場合は怒りを感じたり、裏切られたように思い、苦しくなります(世の多くの人が「期待に応えなくても当然」と思っていると、自分はいつも肩すかし状態にあいます)。そしてなによりも、地球上に70億の人がいるとすると、人の期待というものは70億種類の違った期待があることになり、それにいちいち「応えてあたりまえ」と信じていることとイコールになるのです。もやは、自分の人生を生きるヒマがなくなっちゃいますね。
でも、信じていることって、あまりにも自分と一体化しすぎて、自分にとっての普遍的な真実になっているので、いくら説明してもおかしいぐらいにその誤りがピンとこなかったりするのです。(実際、○子さんにも、それを信じているとこんなに大変なことになるよ!と説明しても、なかなか腑におちないご様子でしたもの。)
「人の期待を生きる」ということは、常に人のニーズを知ろうとして、自分の注意・関心が外へ外へと向かう結果になります。その結果、自分の気持ちがおざなりになり、自分を大切にできなくなります。いつも自分のニーズよりも人のニーズを優先してしまうことになるからです。
外ばかり気にしていると自分の中がカラッポになり、まるで詰めものが抜けたヘロヘロの縫いぐるみ状態。カラッポの自分にあわてて、そこへぐいぐいと詰めものを詰め込むように食べ物を詰めることになります。シャキっとしろ!とぐいぐい詰め込んでも、自分に注意が戻ってこない限りは満たされません。そして、ついには過食になってしまいます。
そして過食のあとは、必ず情けない自分への罪悪感がやってき、ひどい気分におそわれます。そこでまた、よい気分になるためには「期待に応える」→「ほめてもらう」→「価値があるように感じる」という悪循環を繰りかえすことになります。
人は確かにさまざまな期待を自分に対して持っていたりしますが、それはその人の勝手、その人の都合で、自分とはまったく関係のないことなのです。人のことは気にすることなく、自分は自分のペースで生きればいいのです。自分らしく生きはじめて、自分が心地よく感じ、また自分に対する自信が持てるようになると、そのポジティブな気持ちは他の人にも伝染するし、まわりも前向きな気持ちになってゆきます。
○子さんは仕事や親との関係だけでなく、恋愛においても「期待に応えるべき」という考えで自分も相手も苦しくなる状況を生みだしていることに気がつきました。苦しい考え方は自分の首をしめるだけでなく、まわりの人にも負の影響を及ぼしてしまいます。
なので、「人の期待に応える」努力をするよりも、自分が幸せになる努力をすることで、自然と自分のまわりの世界にもよい影響を及ぼして、また幸せな関係を築き上げることができます。外を気にして、外に向けっぱなしにしてきた注意を、自分の気持ちやニーズを丁寧に感じて、受けとめ、応えるようにしてあげます。
そのことで、自分が安心し、満足し、しっかりと地面に根っこをはりだしたような安定感を感じることができるでしょう。そこからは、人の期待に気持ちよく、できる範囲で応える心の余裕も生まれるかもしれません。
飛行機に乗ると、何かアクシデントがあったときには、まず自分が酸素マスクをつけて、ライフジャケットを着てから、こどもに着けてあげてください、と指示されますね。まずは、自分をOKにしてあげることが大切なのです。
たまには自分にとって「あたりまえ」と思っている考えが本当に自分を幸せにしているのか(苦しくしていないか)、またその考えが正しいのか、親しい人とチェックしあってみるのもいいかもしれません。また、何か苦しい気持ちを感じているとしたら、きっとそこにはすでに役に立たなくなった考えが横たわっていることでしょう。
自分の考えが人生の色あいを決め、筋書きさえも左右してゆきます。ちょっと考えを変えたり、手放すだけで、わたしたちは見える景色が違ってくるし、住む世界さえもガラリと変えることができるのです。
(こちらのブログはご本人のご了承を頂いた上で書かせていただきました)
This is not CG! というコメントがついて、動画がメールされてきました。
え〜、これはどう見ても作ったでしょ?!
すると、
Actually the trainer was interviewed and said it took two weeks to train the horse :)
(「実際、トレーナーがインタビューに答えてて、ダンスを教えるのに二週間かかったって言ってたよ」ですと・・・)
わたしだって、二週間じゃマイケルになれないぞ・・・汗。
でも、このポニー、笑えます。
Aさんはいつもキラキラ、フワフワ、スパンコールやシフォンのようなお洋服を着ています。とってもゴージャスできれいです。
でも、なぜかわたしは彼女と話しているとちょっとした違和感を感じてしまうのです。
なぜでしょう?・・・・何と言ったらいいのか・・・なんだかホンモノと話しをしている感じがしない、とでもいいましょうか?
どうやら服装も態度も「作りこみ」すぎていて、そのままの彼女が伝わってこないので、どこかフェイク感がぬぐえません。
もちろん、わたしたちは洋服を選ぶとき、メイクをするとき、さらに話しをするとき、より相手に好印象を与えるために「作っている」ところは必ずあるものです。「このピンクを着たら、よりやさしいイメージになるかしら?」「この口紅だったら、今っぽい女の子に見えそう」「こんなふうに笑えば、きっと明るいと思われるわ」という具合に。
でも、あまりに「作りこみ」すぎると、まるで自分のまわりにフェンスを作っているようで、人はその人に近づけなくなります。近づいてほしくてやっているのに、これでは逆効果。(~.~)
「作りこんで」いるときには、そこには策略が存在します。「もっと愛してもらうために」「もっと素敵だと思ってもらうために」「もっと注目を浴びるために」・・・。でもその策略のさらに下には「それをしなければ愛される価値もないわたし」という怖れが存在するために、この策略を使うときには「注目や愛を奪おうとする」エネルギーが存在します。
そうです。「ちょ〜だい!ちょ〜だい!」エネルギーを発しているので、人はそれをどこかで察知して引いてしまいます。人は何か奪いとられる感じのところには近づきたくありません。だって、自分だって十分ではないと思っているのに・・・。
今はやりの、「与えることによって、より与えてもらう」という戦略を使っても、もともとの動機が「奪い取る(愛を、注意を、尊敬を)」ものなので、いくら与えても人は違和感を感じて逃げてしまいます。
そして、「もらう」ために策略しているときは自分のことしか考えていないので、相手に対する興味や関心、思いやり、暖かさはお留守になります。結局、自分のことしか考えていない様子が丸出しになってしまい、さらに減点!というわけです。
先ほどのオシャレな彼女も、ほんとうにそのスタイルが好きで、無意識でいつもそれを選んで、着ることを楽しんでいるなら、きっと彼女にとても似合っているし、オリジナリティがあって人は彼女のことを素敵だと思うし、真似したいと思うかもしれません。
でも、いつもまわりの反応を先回りして予測し、「こんな服装だったら、きっとチャーミングで特別な女性に見えそう」と、それに合わせるように装い、振る舞うと、まわりからは「ニセモノ感」が強くなってしまうのですね(結局、その下に隠されている「ダメダメ信念」がより透けてみえちゃうのです)。
だから、本当に好かれたかったら、まわりの反応など気にすることなく、自分が本当に好きなもので装い、好きなように振る舞うこと、そのほうが素敵に見えるのです(・・・というか、好かれている人は、好かれるか、否かなんて、まったく頓着していないのですね)。
え?好きなように振る舞ったら嫌われちゃう?・・・・いえいえ、メディアで時の人として注目されているのは、たいていはそのままに振る舞っている人です(つくられたアイドルは除く)。その人がのびのびとそれをしていると、あら、不思議・・・・なんだかそれがとっても素敵に見えてきちゃう。その人のゆるぎない自信は、まわりにもすぐに伝染します。「あら、これって素敵かも?!」と・・・そうして流行がつくられるのですね。
クライアントさんのご相談でも、どうも人から嫌われる、どうも人から敵意を向けられる、というような場合、たいていは「好かれようとする姿勢に計算があって、あざとく感じられてしまい、結局嫌われちゃうパターンが多いのです(人はコントロールされる感じにとても反応します)。そうそう、こんなクライアントさんもいらっしゃいました。好かれたいがために、あまり好きでない人に愛想よく話しかける・・・でも、結果はかえってネガティブな反応が返ってくるということでした。相手の人は、やはり作為的なものを感じて自分がコントロールされるのが嫌だったのですね。
だから、究極的には好かれるためには、好かれようとしない、そのままの自分で「これがわたしです!文句ありますか!?」ぐらいに開き直ることの方が必要です。
そうしていると、ちょっと落ち度があっても、「まあ、あれが○○ちゃんだから、仕方がないわね」とそのままを認めてもらえるようになります。
これから暖かくなって春のお洋服の新調を考えていらっしゃる方も多いと思います。外からのウケはさておいて、自分が着てみたい、やりたいファッションを思いきって楽しんでみてください。きっと、自分にフィットしてて、より自分らしく素敵に見えるとことと思います。
自分で自分を十分に認められたときに、きっと外からも同じような承認がやってくると思います。
そして、「作りこんで」いるときには人が近よれないと同時に、たとえ愛されたとしても、自分がいちばん「ニセモノ」の自分を知っているので受けとることができません。でもそのままの自分でいるときには、人もそのままその人の欠点も含めて丸ごと愛することができるし、なによりも自分がその愛情をしっかりと受けとめられるようになるのです。愛情は、自分がしっかりと受けとめることができてこそ、はじめて「存在するもの」になりますからね!
わたしの大好きな「朝のパン決起集会」・・・パンケッキ?、いえ、パンケーキ集会。
名誉組合員(?)のLちゃんと表参道の「bills」に行ってきました。日中は平気で三時間待ち、という人気のお店。
早朝の開店ちょっと前から並びましたよ〜。(こういうのは平気で早起き!)
念願のリコッタチーズのパンケーキ♡♡ (シドニー発、七里ケ浜で有名になったパンケーキです)
焼きたてはふんわふんわで、食感はまるでスフレ。
もう一皿はスクランブルエッグなど、いろいろ盛り。
カフェラテも可愛くって、大満足。
Lちゃん撮影の「リコッタカコ」。おいしいものが目の前にあると、もうニコニコだわ♪
わたしたちはパン決起集会をはじめると時間が消滅してしまうようで、早朝に来たはずが、気づけばお昼(となりのテーブルのお客さんが三回転しているのには気づいていましたが・・・)。お店の人が来なかったら、まだ二時間はいたな〜。大行列のお店に、すごく迷惑なお客さんなのでした。
次なるパン決起集会は道を隔てた向こ側「Kaila 」に決定!こちはフルーツいっぱいのパンケッキがおいしそ〜♪
PS 「知らないうちに bills でパン決起集会をしたなんて!」と約一名、おヘソを曲げてる輩がいるので、また近々来なくっちゃ。(勝手に行ったから、ご馳走しろとキョウハクされています・汗)。
家族や友人がココロのバランスを崩したら、精神科や心療内科に連れていきますか?
お医者さまに診て頂くことはまったく悪いことではないのですが、最近とても気になることがあります。
たった5分ほどの問診でウツなどのクスリを処方され飲みはじめ・・・ピークタイムにはその痛みを和らげるのに効果はあると思うのですが・・・しばらくして別の問題が勃発するということ。
それは、クスリをやめたいのにやめられないこと。もとの問題はさしおいて、このクスリとつきあっていくことにウンザリしていらっしゃるクライアントさんからのご相談が最近、とっても多いのです。
そして、これらのクライアントさんの心理状態はクスリをとる前とはまた違った、かなり危険な不安定さをあらわしています。
クスリをとりはじめると脳内ホルモンが変化し、気分は少しよくなるものの、感性が鈍くなり、世の中がカラーからモノクロになったように感じます。そして意欲がなくなり、世界にかかわる気持ちも萎えはじめます。悪くすると性格まで変わってしまうことも。またクスリのせいで太りやすくなったり、顔つきも変わってしまい、そのことだけでも自己イメージが大きく低下し、自分に対してガックリきてしまうことも。でも、クスリをやめるのは不安すぎる。またあんな気持ちになったらどうしよう・・・と。
このクスリの引き起こす負のサイクルが、もしかすると自殺率を上げているのか、とさえ感じてしまいます。
しばらくすると、症状にフタをして隠しているだけで(つまり、ココロの中で完全にメルトダウンした危険なものに水をかけたり、おおいをするのではなく)、本当のウツの「原因」に向きあっていなかったと気がつき・・・とようやく自分の心と正直に向き合うセラピーが始まるのです(危ない燃料棒はちゃんと取りだして、どこかに葬ってあげなくちゃ)。
もちろんクスリの量やとる期間に細心の注意を払い、心理療法も並行すればより効果もあり、安全なのでしょうけれど、なかなかそこまのケアが行きとどかないのが現状です。そして、クスリに頼りきったことから心理的に常習性が生まれ、やめるにはかなりのエネルギーが必要になります。
クスリをとって症状が和らげば一件落着のように見えるものの、じつは痛みにフタをして抑圧しただけで、得体の知れないモヤモヤはまだそこにあるのですね。それを「隠す」ことよりっも「放出」させることが治療にはいちばん重要なのです。
ココロの問題には、安易なクスリの処方だけでなく、もっと時間をかけてココロとていねいに向き合う細やかな心理療法が必要だと感じます。
また日常でも、ご本人が信頼できる人に親身になって聴いてもらうなど、シリアスになってしまう前のちょっとしたケアも大切です。自分のココロをありのままに表現して受けとめてもらい、共感してもらうこと。
たった「一人だけでも」、真剣に、共感的に、耳を傾けてくれる人がいるだけでクスリに頼りきるリスクは減らせるのではないかと感じるこの頃です。
そして一見、非生産的に見える「長々とグチを言いあう」ようなおしゃべりタイムも、じつはココロの健康にとっては欠かせないものです。
たまにはおいしいお菓子でも買って帰って、ムダ話を楽しむおしゃべりタイムでリラックスしてみてはいかがでしょうか?
花屋さんの店先には、色とりどりのチューリップが並ぶようになりました。それに、フリージア、水仙、さくら草・・・と春の香りにあふれています。
いろいろ迷ったあげく・・・やっぱりコレだわ!
桃と菜の花。
どちらもまだツボミがかたいけれど、お雛さまにはちょうど開いてくれそう♪
PS それにしてもこの菜の花、茎がたくましくって、おひたしにしたらおいしそうです...むふ。
S子さんからのいただきもの、きょうのおやつです♪
じつはコレ、わたしの大好きスウィーツのひとつ!
近所(といっても、ここから15分位)にあるフランス人のパティシエのお店「カカオエット・パリ」のものです。
おいしそうなチョコケーキに見えるでしょ?
しかし、いざフォークを構えて食べようとしてもフォークがささらず、ありゃありゃ(汗)、となります。
じつはこれ、シュークリーム。
シュー・キューブといって、中にはカスタードと生クリームがぎっしり、キューブのすみっこまで!
しっかりとした皮は香ばしくって、チョコはパリパリ。(でも、以前はチョコプレートがもっと小さかったような?成長してる!?)
久しぶりにお散歩がてらお店をのぞきに行ってみたくなりました♪
(チョコ、焼き菓子など、お取り寄せもあるみたいですよ〜)
一通のメールが届きました。先日、骨髄移植をされたAさんから!
あの日はもちろん、あれからず〜っと気になっていました。「経過はどうだろう?苦しんでいないかな?」と。
彼女のドクターいわく「成功した」そうで、大変な期間も通常よりもずっと短い3日間位という奇跡的なプロセスだったそうです。適合の割合から考えると成功率はそう高くないそうですし、受けたあとの経過も悲惨だと耳にしていたので、ほんとうによかったね!おめでとう!
Aさんは、「当日は、私もドナーの方の骨髄を受け入れて、私の身体の中で仲良くやっていこう、という願いと共におりました。最初は骨髄の入った点滴バッグに向かって、どうぞ宜しくね!と声を掛けスタートしました」と。
そう、ここが肝心ですよね。結局、身体に異物が入ってきたことにより身体の中で戦いが起こり具合が悪くなるのですから、この「一緒にに仲良くやっていきましょう!」という歓迎のご挨拶こそが反応をより穏やかにする大切なポイントです。
苦しい期間が通常よりも短かったとはいえ、誰かにかわってもらえるわけでもなく、孤独で堪えがたい戦いの日々だったと思います。本当によく頑張ったなあと思うと同時に、ぴったりくる言葉がみつからないけれど、I'm really proud of you. (あなたを心から誇りに思います)、そんな気持ちです。
じつは、同じ日にもう一つ良い知らせを受けとりました。それは友人にお孫さんができたということ。
この友人の娘さんは数年前、同じように白血病を煩い入院したため、お見舞いがてらセッションをしに伺ったことがありました。無菌室で彼女と向き合い手をとり、彼女の深いところにある病気をつくりだしている信念を探り、取り除き、新しい信念の置きかえを行い、そしてヒーリングも。
その後、彼女はみるみる回復し、去年結婚。なんと赤ちゃんができたのでした。
他にもガンとかいろいろな病気から回復するクライアントさんを今までたくさんみてきました。もちろん、たくさんの医療的な処置が施され、その中でわたしの行うカウンセリングやヒーリングはとても小さな部分であり、微力ではあるけれど、でも、改めて確信しています。
やっぱり、どんな病気にしろすべての病は「こころ」から起きているということ。「こころ」が変われば、すべてが変わるのです。もちろん表面的な処置は重要ですが、まずは「こころ」が癒されなければなりません。
心が何らかの気づきを得たり、癒しを感じたり、役に立たない信念を手放すことができれば、身体はそれこそ際限なく、常識を越えて、ぐんぐん治癒する力を手にすることができるのです。そこではたくさんの奇跡とよばれることが、まるで「普通」のこととなります。
まさに、身体の不調、人生の不調の原因のすべては「こころ」にあり。「こころ」が変われば、そして健康であれば、そこから新しいチャンス、新しい未来、自分のほしい現実を創り出していくことができます。
目には見えないけれど、身体以上に気にかけて、メンテナンスをして、栄養を与えて、優しくいたわってあげなければならないのが「こころ」なのです。
どうぞみなさま、「こころ」を大切に!
そして、みなさまの「こころ」が少しでも明るくなって、希望がもてて、未来に向かっていけるように、これからも「こころ」をこめてお手伝いしていきたい!と改めて思った、嬉しい知らせを二つも受けとった日なのでした。
〒153-0061 東京都目黒区中目黒1丁目3-11-1005 Tel 03-3719-6414
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