「怒り」のメカニズムをもういちど復習してみると、わたしたちの中にはものごとに対する独自の価値判断があって、価値判断するやいなやその価値判断にまつわる「過去」の痛みにドッキングし『怒り』が発生する、という仕組み。つまり、「昔、二股かけてたことがある」という彼氏の告白(出来事)→「ということは、浮気常習犯=今もそうに違いない」と判断(独自の価値判断)→わたしを捨てるなんて裏切りもの!(過去、父親が浮気をして裏切られた痛みにヒット)→その痛みに耐えられなくなり、怒り爆発!
わたしたちが怒るなり傷つくなりしているとき、たった今起っているものごとに反応しているように見えますが、じつはそうではなくて自分の中にある解決していない感情に反応しまくっているのです。そしてそのつらい感情が浮上してくるのが耐えられないので、怒りという強いエネルギーに置き換えて自分でも何が何だかわからなくしてしまおうとするわけです。
誰にでも「ふれられたら爆発してしまう」かもしれない抑圧された痛みがあるものなのですね。男性だったら、「バカにされた、見下された」というのがダントツに多いウィークポイント。たとえば、街でぶつかられた(出来事)→これって、わざとだろ〜(独自の価値判断)→バカにしやがって、見下しやがって(過去に兄弟、友人にいじめられたキズにヒット)→怒り爆発!殴りかかってしまう。
他にも、「無視された」「裏切られた」「軽蔑された」「認められない」「貧しい」のような抑圧された痛みの感情があり、容易に怒りにつながってしまうことがあります。
みなさんもご自分がムカっときたり、怒りがバクハツするパターンを調べてみると、自分がどのような痛にみヒットしているのかわかると思います。(これは出来事そのものが痛みにふれているのではなく、あくまでも自分の物事への解釈、価値判断が痛みにヒットしてしまっているのです。)
怒りにくくするためには、実際に起きている出来事に対してそれを解釈する自分のパターンを冷静にチェックする必要があります。自分をみじめにしたり、苦しくなる考えをしていないかどうか。また、自分の癒されていない痛みであるウィークポイントが何なのかを知っておくことも役に立ちます。
わたしたちは出来事によって自分の感情が左右されると思っています。しかし、実際のところ、ものごとには「ただ起きているだけ」。それに対して、どのような意味付け、価値判断をするのかによって、わたしたちの感情が生まれてくるというわけです。なので、自分を苦しめるような意味付け、考えをしていないか気がつくようにすることは大切なのです。
何かにひどく怒ってしまったら、何かに落ち込んでしまったら、ちょっと立ち止まって、自分がその出来事をどのように意味付けしているのかを確かめてみてください。あるいは、いつもポジティブに見える友人に、同じ出来事に対してどのような意味付けをするのか聞いてみるのもいいと思います。
しかし、クライアントさんと怒りについてのセッションをしていて気がついたのは、なかには「怒るために怒っている」という怒りもあるということでした。
これはどういうことかというと、怒りたくて怒っているのです。つまり、怒ることが目的。怒るとアドレナリンが出る→すると、心臓がバクバクして血液が全身を駆けめぐる→その結果、ルーテインで退屈だった日常の中で、刺激が生まれる。→生き生きしているように感じて、「ああ、生きてる!これが生きることだ」と実感する→なので、生きてる感じが足りないなと思うと、怒りたくなる。そして、「生」を実感しようとする、というクライアントさんもいらっしゃいましたよ。
あるいは、「世の中の誰にも相手にされていない」という孤独感を感じるとき、相手に対して勝手に怒りをだくことによって、相手と関係が構築された気になる、つまり一方的な感情で擬似人間関係をつくっている・・・というパターンも。
また、怒っているときにあまりにも大きなエネルギーを感じるので、まるで宇宙を突き抜けて神とつながっているような神々しい気分になる・・・というケースも。このクライアントさんの場合は、セッションで調べたところ「巫女さん」だったような過去世の記憶があり、昔のパターンを今だになぞって生きていたようです。
何にしても、日常で自分が無意識のうちにしてしまうことは、必ず何らかのメリット、手に入るものがあるのですよね。怒りも、あとのダメージは大きいものですが、それにも代え難い「快感」「優越感」「満足感」があるようです。自分がどんな痛みを隠そうとして怒りを使っているのか、また何を手に入れようとしているのか見てみると新しい自己発見があるかもしれませんね。
もともと世の中というところは「全員違ってあたりまえ」。容姿も生活環境も好みも、考え方も物事に対する意味付けも。同じであるはず・・・という考えがじだいが、偏見、差別、攻撃、そして怒りをも生むのですね。最初から考えが違ってよい、違ってこそ大正解、ぐらいにゆるく考えていると、怒りのスイッチも入りずらくなるかもしれません。
追記・・・まったく「怒らない」のが健全というわけではありません。怒っていいのです。「怒る」のは「怖い」「嬉しい」とかと同じで、たくさんある感情のひとつにすぎません。抑圧してしまうと、他のすべての感情が平板になって何も感じないつまらない人になってしまいます。個人的に怒るのはぜんぜんかまいません。問題なのは、大気汚染のような「怒り」。自分の怒りをまわりにまき散らすこと、あたりちらすことです。
しかし、どちらにしても自分の人間関係や人生を一瞬で台無しにする破壊的な「怒り」はその場に応じてちゃんとコントロールできるようになること。すると人生もよりスムーズになりますよ。
ウサギが多いかな〜。ネコやイヌも、どの子も淡白に描かれているわりにはふわふわ感がよくでています。


ゴーヤのリゾットとスズキを昆布だしでいただくお魚料理や、やわらかく煮たウリとトリュフたっぷりの牛フィレをわさびソースでいただく肉料理、というようにフレンチというよりはあっさりとおいしい和食をいただいているような気分になりました。
・・・と夢見心地な数時間。しかし、ヒメたちが宴を終える頃には雨ザーザー(そうでした・・・台風きてたのね)。カボチャの馬車を呼んだものの、四ッ谷駅まで。しぶしぶ電車にて家路をたどるヒメたちなのでありました。
そうするうちに「今、玄関についたよ〜」という連絡がきたので、「同じフロアのお店にいるから来て!」・・・と言ったものの待てどくらせどあらわれず。いったい、どこ行っちゃったのだ? あまりに遅いのでこちらから電話してみると「一階のどこ?見渡してもどこにもいないよ〜」と困った様子。ここは吹き抜けになっているので、全体が見渡せるのです。
チャペルから花嫁を略奪するシーンはとても有名。みなさんもどこかで目にしたことがあるかもしれません。
この青年役、若かりし日のダスティン・ホフマンが演じているのですが、ほとんど自分のないこ青年役に彼の「超なで肩」な体型がベストマッチ。演技というより、この体型だけでかなり醸し出すものアリ、です。
いくら好きだからって、この執拗でストーカー度100% の一方的な恋愛表現、観ててだんだん頭痛がしてきましたよ〜。こんなことされたら、誰だってぜったい引くでしょ〜。これ、1967年の映画。セレブなエリートくんが乗り回す当時はカッコよかったであろう赤いアルファ・ロメオも、いまや遊園地の遊具にしか見えません。モノにしろ、恋愛観にしろ、今と変わっているような変わっていないような微妙な年代なので、逆にギャップを大きく感じるのかもしれません。もっと極端に古いい作品のほうが頭が混乱しないかも。それに、年代的にはまだ共感できない、というのもあります。
あとで調べてみたら、これは1987年(おお、やっぱり!)、あのプリティ・ウーマンのゲイリー・マーシャルの初期の作品です。そして、記憶喪失の女性役はなんとケイト・ハドソンのお母さん、ゴールディ・ホーン。とってもキュートでメグ・ライアンを彷彿とさせます(いや、メグ・ライアンが彼女に似てる、が正しい)。大工さん役は、実生活でもパートナーであるカート・ラッセル。「潮風のいたずら」という作品でした〜!!
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