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気づきの日記「ココロがボッキリ折れたなら・・・」その3

その2より

わたしたちは自分を保護し導いてくれる「高い存在としての自己」をお供にこの世を旅することになっているのですが、親や先生から「何でも自分でできるようになりなさい」「誰かに頼るような依存的な人になってはいけません」と教えられたがために、すっかり自分のガイドを見失い路頭に迷うような存在になってしまいました。

頼れるガイドを失ったという怖れから、がむしゃらに「自分で頑張る」という方向に進みます。とりあえず、「俺サマボート」という単独の自己を信じようとします。が、ほんとうは信じてなんかいないのです。信じられないから、その不信感を覆い隠そうとがむしゃらな行動に出てしまうのですね。

すると、自分の愛する人々の様子や変化に気がつくことができないほど自分を忙しくしてしまいます。それでいったい何をなしとげようとしているのでしょうか?何を証明しようとしているのでしょうか?そんなにまでして埋めなければならない、どんな穴を感じているのでしょうか?

今まで自分を生かしてくれた「すべての叡智とつながる高い自己」の存在を認められるようになると、おのずと風向きが変わります。その存在は自分よりも膨大な智恵と情報、自分のための先見の明があります。そんな存在が常に自分のためだけに心を砕き、働いてくれているとしたらどうでしょう?

そうなんです。わたしたちはその存在にこそ「頼っていいんです(頼らなくちゃいけないんです)」「自分でやらなくっていいんです(自分でやっちゃいけないんです)」「何も知らないことを認めて、教えてくださいと言っていいんです」。「助けてくれ〜。わたしには、どうにもできない」「どうしていいのかわからない」、そう言ったときはじめて、「はいはい、その言葉を待ってました!まかせてくださいね。ここにはあなたのために、どんな難問、要望にも答えられる用意がありますよ〜」とはじめて無限からあらゆる助けの手がやってくるのです。

しかし、自分をそこまで愛して導いてくれる存在はいったいいずこに?とまわりを見回してもなかなか気づくことはできません。

ポイントは、自分の今までのやり方を喜んで手放すこと。宇宙の無限なるバックアップにくらべたら、この自分には限界があるのです。そして、「自分では何もできません。このちっちゃい脳ミソではお手上げです」とさっさと白旗をかかげ、自分の小ささ、弱さを認めること。そして、「どうしたらいいでしょう?教えてください」と尋ね、「この件について助けてください」と助けを求めること。

ここがミドリムシの脳ミソを信じるのか、それとも宇宙の無限のバックアップとしての叡智を受け入れるのかの分かれ道なのです。たとえ宇宙の叡智を受け入れてたとしても、それはあなたの敗北にはなりません。ただ、自分でも気づいていなかったほんとうの自分の可能性の扉を開いただけなのです。

そう、とにかく自分のいつものパターンでやろうとする前に、「聞いてみる」ことなのです。お尋ねしたら、あとは答えを待ちます。尋ねなければ、答えを聞くことはありません。

答えは「必ず」来ます。でもそれは、天啓のようにやってくるわけではなく、たいていはすごくふつ〜です。「そんな気分になる」「家族、友人とのお喋りの中で答えのようなものが与えられる」「借りていた本の中にメッセージがある」というように、答えはいつもの生活の中にまぎれこんでいます。だから、いったんお尋ねしたり助けを求めたらいろいろなことに聞き耳をたてていなければなりません。

わたしにもこんなことがありました。あることで悩んでいて、その解決を自分の高い自己にお伺いをたてていたときのことです。「もう数日になるのに、全然返事がこないじゃない。なんか見捨てられてる気分だな〜」とそんなふうに感じながらスーパーで買い物をしていたときです。ふと、かかっていたBGMの一節が耳に入ってきました。特に聞こうとしたわけではなく、その一節だけが耳に残った感じだったのですが、それは

"From a distance, there is harmony....it's the hope of hopes.... God is watching us" * (遠くからみれば、そこにはハーモニーがある。それは希望そのもの。神さははいつだってわたしたちを見守っている。)という歌詞だったのです。

「!!」と思いましたよ。「ちゃんと見てるよ。そこにはハーモニーがあるのがわかる?」って。きっと、たくさんメッセージは来ていたのかもしれませんが、おそらく自分が閉じていたので気がつかなかったのでしょう。これを聞いて、スーパーの中でひとりほほえんでいるあやしい人になってしまいました。

俺サマボートの「自分を信じて」行動していると、まるでハムスターの回し車をこいでいるように、やたら怖れを原動力に走り続けることになります。自分をめちゃくちゃ信じられる瞬間もあるかもしれないし、まったく信じられない、と感じる瞬間もあるかもしれません。アップダウンが激しく、上に行ったり下に行ったりとその自信はとても不安定。だから、とにかく回し車を力いっぱいこぎ続け、止まるわけにはいかないのです。

そして、すべてを自分でやろうとすると、まわりと比べたり、戦ったり、うまくいくための策略が必要になります。常に自分の人生をコントロールしようとしているうちに、人をも自分の都合のいいようにコントロールできると勘違いしてしまい、気がついたら孤独な「お山の大将」になりかねません。

一方、「大きな力に支えられた自分」は、まず「大きな力」にお伺いをたてて、そこからインスピレーションがくるまでは動かないのです。やってくるインスピレーションは決して空回りさせるものではなく、少ないエネルギーで必要な達成が得られるものです。考え込んだり、むだな動きをしないし、不安も少ないので、エネルギーの消費量も少ない。そしてそこから動けば、さらにエネルギーを得られるというオマケつき。

「大きな力に支えられている自分」は、あくせくすることがなくなります。なぜなら、根底には「わたしの心臓は自分で動かしているわけじゃないけれど、勝手に動いてきょうまで無事に生かされてきた。ここまで生きてきたってことは、まあ、どうなろうとも、どちみちわたしは支えられているから大丈夫なのだ」というお気楽思考が生まれるからです。大きな力がいちばんよい方向に導いてくれるという信頼、結局は自分にとってベストになるという安心感があります。

そして、決定的な違いは、「自分を頼りにしている」場合は、どこかで不安や無気力、ひどくするとウツにつきあたりますが、これは大もとのほんとうの自分とのつながりが切れているがゆえの不安定感。家なき子な気分なのです。「大きな力を支えにしている」場合は、ハデでなないけれど静かな安定感、そしてそれに従えばもっとエネルギーがチャージされるような、とっても省エネな感覚です。これは宇宙に根をはって、つながっている安定感なのでしょう。

だから、大海原で波に翻弄されるボートのような自己を信じるのではなくって、「大きな力に支えられる自己」、これは大海原の上空を大きな力に導かれながゆうゆうと渡ってゆく渡り鳥のような感覚です。

自分のすべてを包み込み、いつも自分を思いやって幸せを願ってくれている力に支えられ、そこから自信をもらっていると感じるとき、自分のコンディションにかかわらず静かに自分を「信じ続ける」ことが可能になります。

そして、その大きな力に心を開いて自分をあけ渡せばあけ渡すほど、その力は自分の人生にどんどん関与してきてくれるのだと感じます。

問題が起きて、行き詰まっているときには、いつでも「もっといいやり方」へのご招待状、「もっと幸せな自分」へのお誘いがきているときです。そして、忘れかけていた「高い自己による本当の自信」を思い出さなければならないときかもしれません。そんなときには、「俺サマボート」をなげすてて、すぐに白旗をかかげてお尋ねしてしまいましょう。お気楽な「すべておまかせコース」信頼してのってしまいましょう♪

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

* From a distance

財よぶ(?)通帳入れ

Lちゃんに通帳入れをいただきました♡ ありがと〜!

じつはこれ、彼女がデザインし制作しているブランド「Luck-tak」さんで販売されているステキな商品のひとつ。

牛革に彩色し型押しをほどこしたものですが、その軽さ、柔らかな手触り、色のユニークさといい、大人がオシャレに使えるシンプルな良さがあります。

以前からステキ!と思っていたので、わ〜い嬉しいな♪

今まで銀行の味気ないビニールサックに入れられていた通帳が、一気にグレードアップ。それに、ヘビ皮(風)は財を呼ぶ、ともいいますね。こうして通帳を可愛がってあげると、中身もいっぱいになってくれるかな〜。(^-^*)/

いちばんのりの♪

いちばんのりのお誕生日会をしていただきました。m(__)m

恵比寿のウェスティン東京。今や、外資系のお洒落でハイクラスなホテルが軒並みですが、少し前まではこのウェスティンがもっともシックでヨーロッピアンな雰囲気が味わえる人気のホテルでした。わたしは今でも好き。ランチやカフェに訪れます。

さて、本日は日本料理の「舞」というお店。

シンプルでモダンなつくりの中に、しっとりとした日本らしさが表現されています。

一品目はこちら、いちばん出汁とお豆。どちらも素のまま、味つけなしです。このワビサビ感、外国人のお客さまが多いお店だけど、大丈夫?って思ってしまいましたよ。このあとどうなることか・・・?

はい、大丈夫でした(笑)。前菜は季節感があって涼やか。美しいです。味付けも日本料理ならではの細やかさ満載です。

その後、お造り、お肉の焼物、お魚の煮物、そしてそぼろご飯。行きとどいたお味に大満足!ハデハデしくない落ち着いた器もステキで、全体的に「いぶし銀」のような大人のお店でした。

ココロもカラダもしっかりと栄養をいただきました。ありがとうございました。この一年もゆるゆると頑張りま〜す!

気づきの日記「ココロがボッキリ折れたなら・・・」その2

その1より

自分を固く信じてやってきたHちゃん。しかし、自分を信じすぎたゆえに絶不調の憂き目にあうことに・・・ってことは、自分を信じる気持ちはあまり役に立たないのでしょうか?

いいえ、いいえ、わたしも同様の悩みを持つクライアントさんに「自分を信じる」ことの大切さはまずお話ししています。

でも、それは単独の「自分」、俺サマボートでずんずん行く自分を信じることではなくって、もうちょっと大きな自分のことなのです。

単独の「自分」を支えてくれている宇宙や天、神、あるいは高い自己(それぞれお好きな概念で)という「大きな力を含んだ自分」を信じる、ということなのです。

わたしたちが自分のアタマで考えられることは、自分の本当の能力のほんの数パーセントにも満たないものです。一方、食べたり、消化したり、眠ったり、体温を保ったり、安全を確保したり・・・とわたしたちが生存するために必要なことは、このアタマのたった数パーセントでななく、もっと「高い自己」によって自動的に制御されています。

つまり、「高い自己」は自分が思っているよりも、何千、何万倍ものパワーや智恵があり、わたしたちが安全に生きていけるようにあらゆる面で気遣ってくれているのです。気づいていなくても、そんな無限のバックアップに常に支えられてこそ無事に生きているわたしたちなのです。つまり、今までの「生存」は決して自分の力ではなく、高い存在にやさしく支えられて守られて育まれてきたということ。

しかし、わたしたちは人生のいざというとき、ほんとうに大切な決断をしようとするときに限って、お伺いをたてなければならない存在を完全に忘れて、たった数パーセントでしか考えられないちっちゃな脳ミソだけで解決を試みようとします。宇宙にあるわたしたちの無限のバックアップから見れば、それは鳥の脳ミソはおろか、ミドリムシの脳ミソよりも、もっともっとちっちゃい脳ミソですべてを取り仕切ろうとしているようなものです(ん?ミドリムシに脳ミソって??)

わたしたちはとってもちっちゃな「俺サマ自己」の決断が最高のものであると信じて、必死でそれに頼ろうとします。本当は宇宙のすべてにつながっている「無限の自己」というスーパーコンピューター以上のバックアップがありながら・・・すっかり忘れているのですね。

つまり、「自分を信じる」ということの本当の意味は、すぐに高波にホンロウされちゃったり、沈没さえもしかねないちっちゃな「俺サマ自己」に頼ることではなくって、宇宙のバックアップにつながっている「高い自己」、自分を今まで生かし続けてきた本当の自己に信をおくということなのです。

どうもわたしたちは小さいときから「自分のアタマでちゃんと考えなさい!」と教育をされてしまったがために、膨大な情報をもつ本当の自己とのつながりを断ってしまうようになりました。全部自分でやらなくちゃならない、人になんか頼っていはいけない、もっと逞しく強くならなくっちゃ・・・・これは、「自分ではどうにもできない」というか弱さを自覚しているがゆえに、「もっと自分ひとりでちゃんとしよう!」とまちがった自立へと突き進んでしまったのです。

お父さんもお母さんも、先生も、頼れる大人は、「自分でやらなくっていいんだよ。あなたには頼っていい存在が生まれる前からちゃんとついているんだから」なんて誰もほんとうのことは教えてくれなかったのですものね。

わたしたちには自由意志があるので、「自分でやっちゃう」人には「高い自己」はちょっかいを出しません。「ああ、自分でやりたいのですね。もっといいやり方、幸せになるやり方がありますが・・・。あなたがわたしに尋ねるまで、わたしは静かにしていましょう」と、どこかの過保護な親御さんのように決して強要することなく見守り続けます。

だから、「高い自己」に「尋ねる」ということを知らないと、わたしたちは一生、自分のちっちゃな脳ミソ、限界のある思考の中で限界のある現実を創りだして、それを維持するために必死で戦わなければならなくなります。

自分の人生をもっと安全でラクなものにするために、「高い自己」に甘える、仲良くするすべを学ばなければなりません。さて、それにはどうしたらいいのでしょうか?

その3へ続く

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

異次元散歩?

きょうは、さみだれにしては冷たい雨ですね。ぬれた緑がいっそう色濃く感じられます。

こちらは先週訪れた雨の上野。

いつも通りに地下鉄の出口を出たはずなのに、なぜかすっかり知らない景色の中にワープしてしまいました。なぜ??(ん〜・・たんに出口を間違えただけなんじゃない?)

行けども行けども、深い緑が続きます。

ホント、キツネにつままれた気分だったのですが、人影もまばらなしっとりとぬれた緑の中をしばし静かにお散歩するひとときとなりました。

たちこめる緑の匂いに圧倒されるほどでした。

コレな〜んだ?

なぞなぞするまでもなく、椅子に置かれたクッションです。

はい、クッションをいただきました♪ベージュのツイードのおしゃれなクッション。

しかし、この子、クッションとは世を欺く(?)仮の姿・・・じつは、マッサージグッズなのですよ。

こうやって、へろりと皮をはがすと、もみ玉が現れます。

上下に移動しながら、円を描くように、ゴリゴリと力強くもみほぐしてくれます。赤くなっているのは、暖かくなっているサインです(温熱効果も!)

「クッションについてるマッサージ機なんて振動する程度なんじゃないの〜?」などと侮るなかれ!背中にあててると「イタタタ・・」と声をあげるぐらい容赦のないもみほぐし方。骨までボキボキいいます。(マッサージチェアに劣りません!)

美容室でカットしたあとに首と背中をマッサージしてくれるのですが、いつも「古川さんの背中、鉄板ですか〜?突き指なんてもんじゃすまないですよ。骨折まぬがれません」となかば匙をなげられていましたよ。

なので、このプレゼント、かなりツボにハマっております。ありがとうございます。今夜もこの子と仲良くするのが楽しみ〜♪

次回、美容室に行くまでにふつ〜の人間の背中になるように、がんばります。

気づきの日記「ココロがボッキリ折れたなら・・・」その1

いつも自分を信じて、たくましく生きている人がいた。向上心があり、勉強熱心。つねに新しいチャレンジをかかさない。そんなカッコいい友人のHちゃん。

よくぞここまでエネルギーがある、と腑甲斐ないわたしはいつも感心するばかり。

しかし、このところなんか様子がおかしい。本人もそれを自覚していて、もしやウツではないか、とわたしに相談をもちかけてきた。

彼女いわく、「ずっと自分を信じてやってきたけれど、自分が信じられなくなっちゃった。あせって今までと同じように努力をしてみるけれど、どんどん悪くなるばかり。もう疲れた・・・」と涙をこぼしながら今までになく弱気な発言。どうやら、彼女の中の歯車がどこか狂ってしまって、今や日常生活、仕事、パートナーシップ・・・とあらゆるところに支障をきたしているようなのです。

「そうですか〜。自分が信じられなくなっちゃった・・・それはオメデト〜!」と口には出さずとも不謹慎にもココロの中でつぶやくわたし。

自分のことが信じられなくなっちゃったのは、なぜオメデタイのでしょうか?

彼女のみならず、特にバリバリ系の男性にも多いのですが、自分の強さ、自分のパワー、自分の知識、自分の信念・・・とにかく「自分を信じて」「自分を頼りに」やってきた、そしてそこそこ成功してきた・・・という逞しい方々。彼らにとっては、頼りにするものは自分以外他にはなく、「自分が信じられる」ということこそ、折れない自信、最高の強みに感じられたのでしょう。

でも、四十代後半になったHちゃんはちょこっと更年期気味だし、パートナーとの永年鬱積した問題も浮上中、そして親の健康問題、仕事のマンネリなど、問題山積。いつだって自分が強くいられる状況ではなくなっていたのです。で、もう〜疲れちゃったよ〜!と。

こんなとき、「自分」一本を信頼してきた人はあんがい簡単にポッキリいってしまうことがあります。なにしろ、今まで完全なるよりどころ、ただひとつの頼みの綱であった「自分のパワー」が枯渇して信じるものがなくなってしまったのですから、その先にっちもさっちも行きません。

それに「あの人はすごくパワーがある」とか「いつも、ものすごい勢いで仕事をする」という場合、じつはこれはちょっと不自然なことなのですね。なぜそこまでしてガンバらなければならないか、というと、あんがい自分自身も気づいていない自分に対する無価値観や自信のなさの埋め合わせのため、そして自分の不安な気持ちに気づかないようにするために、がむしゃらに動きまわって何がなんだかわからなくなるまで忙しくしていなければならないのです。つまり、そのままの自分ではいられないという「不安」に突き動かされている場合が多いのです。

しかし、「怖れ」をベースとした行動は、結局は「怖れ」を増幅するような結果にしかつながらないので、こんなにもエネルギーを使ったわりには疲れはてて病気になったり、失敗してもうこれ以上できないようにするとか、結局は自分の潜在意識がブレーキを踏んでしまうことが起ります。

この場合の「自分」というのは、大洋に浮いているボートのようなもの。波もよく、風もよく、お天気もよければ、ずんずん目的地に向かって進んでゆけるのです。しかし、それは決してボートの力ではありません(が、ボートはそんなこと知るよしもありません。ゆえに、自信たっぷり!)。いったん天気が急変しようものなら、ひとたまりもなく波に呑まれてしまうこと必至。悪くすれば沈没の憂き目にもあいかねません。この自分ボートは天候が急変するまでは、天下の「俺サマ」気分でずんずん進んでゆくことができるわけです。

しかし、「自分」のみを信頼してきた場合、いきなり風向きが変わったり、波の状態が変わったりすると簡単に自然(まわりの条件)に翻弄され、今までの自信はどこへやら、こんどは極端に「自分がまったく信じられない」という逆方向に傾いてしまいます。いくら頑張っても、この高波、暴風を制することはできないからです。

「自分を信じて」きたぶん、いったん信じられなくなるやいなや、急転直下、「自信」はあとかたもなくこっぱみじんに打ち砕かれます。

じゃあ、「自分を信じる」って全然役に立たない、あるいは、百害あって一利なしなのでしょうか?

その2へ続く

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト

自然のアロマ

芝大門あたりを歩いていたら、あま〜いいい香り。

薔薇の香水かな〜?と思っていたら、芝公園入口にあるホンモノのバラ園!

さすが五月です。

しかし、自然の薔薇ってこんなにもふくよかでいい香りがするのですね。写真をとりながらしばしうっとりと癒されてきました。

公園内にあった大木からも、初夏のいい匂いがします。いちばん大きな木にご挨拶して、パワーのおすそわけをいただいてきました。

テツオのテッパン

先日のお食事会は、麻布十番にて鉄板焼き。

焼いてくださる大将は、鉄男さん。つまり、鉄男の鉄板焼き。これご本名だそうで、まさに鉄板焼きの申し子のようなお方ですね〜。お店の名前もそのまま、「TETSUO」といいます。

鉄男さんの焼く和牛にフォアグラ、ウニ(これはゴハンが焼いてあります)、みんなおいしかった!!お肉の焼ける様子をビデオで撮っていた友人。肉には足が生えていないので歩かないし動かない・・・これって、You-Tubeにアップしても楽しいのだろ〜か??(汗)

 

 

 

 

カウンター席は、ついついおしゃべりするのを忘れて鉄男さんの手さばきに見入ってしまいます。

じつは、いちば〜んこのお店で感動したのは焼きものではなく、ナマものなのです。

一口では食べられないようなぱんぱんに太った巨大な広島のカキ。鉄板焼き屋さんのメニューにしてはあまりにも見事。聞けば、鉄男さんも店長のブライアンさんも、かつてオイスターバーでともに働いていたそうで目利きなのですね・・・・ナットク!

わたしたちよりあとのお客さんには、カキはもうなくなっておりました(ごめん、全部食べてしまった!)

お店はちょっとばかりフシギなつくりですが、海鮮、お肉、お野菜(パーニャカウダ!)など、すべて新鮮。おいしかったですよ〜。

ボクがクマじゃないって、ど〜ゆ〜こと?

あはは・・・たしかに・・・。

でも、koalification を満たしちゃっているからこそ、クマじゃないんだと思うけど・・・。
(正しくは、qualification デス・・・)