furukawaさんのブログ

気づきの日記「怒りたいんです...ワタシ」その2

(その1から)

「怒り」のメカニズムをもういちど復習してみると、わたしたちの中にはものごとに対する独自の価値判断があって、価値判断するやいなやその価値判断にまつわる「過去」の痛みにドッキングし『怒り』が発生する、という仕組み。つまり、「昔、二股かけてたことがある」という彼氏の告白(出来事)→「ということは、浮気常習犯=今もそうに違いない」と判断(独自の価値判断)→わたしを捨てるなんて裏切りもの!(過去、父親が浮気をして裏切られた痛みにヒット)→その痛みに耐えられなくなり、怒り爆発!

わたしたちが怒るなり傷つくなりしているとき、たった今起っているものごとに反応しているように見えますが、じつはそうではなくて自分の中にある解決していない感情に反応しまくっているのです。そしてそのつらい感情が浮上してくるのが耐えられないので、怒りという強いエネルギーに置き換えて自分でも何が何だかわからなくしてしまおうとするわけです。

誰にでも「ふれられたら爆発してしまう」かもしれない抑圧された痛みがあるものなのですね。男性だったら、「バカにされた、見下された」というのがダントツに多いウィークポイント。たとえば、街でぶつかられた(出来事)→これって、わざとだろ〜(独自の価値判断)→バカにしやがって、見下しやがって(過去に兄弟、友人にいじめられたキズにヒット)→怒り爆発!殴りかかってしまう。

他にも、「無視された」「裏切られた」「軽蔑された」「認められない」「貧しい」のような抑圧された痛みの感情があり、容易に怒りにつながってしまうことがあります。

みなさんもご自分がムカっときたり、怒りがバクハツするパターンを調べてみると、自分がどのような痛にみヒットしているのかわかると思います。(これは出来事そのものが痛みにふれているのではなく、あくまでも自分の物事への解釈、価値判断が痛みにヒットしてしまっているのです。)

怒りにくくするためには、実際に起きている出来事に対してそれを解釈する自分のパターンを冷静にチェックする必要があります。自分をみじめにしたり、苦しくなる考えをしていないかどうか。また、自分の癒されていない痛みであるウィークポイントが何なのかを知っておくことも役に立ちます。

わたしたちは出来事によって自分の感情が左右されると思っています。しかし、実際のところ、ものごとには「ただ起きているだけ」。それに対して、どのような意味付け、価値判断をするのかによって、わたしたちの感情が生まれてくるというわけです。なので、自分を苦しめるような意味付け、考えをしていないか気がつくようにすることは大切なのです。

何かにひどく怒ってしまったら、何かに落ち込んでしまったら、ちょっと立ち止まって、自分がその出来事をどのように意味付けしているのかを確かめてみてください。あるいは、いつもポジティブに見える友人に、同じ出来事に対してどのような意味付けをするのか聞いてみるのもいいと思います。

しかし、クライアントさんと怒りについてのセッションをしていて気がついたのは、なかには「怒るために怒っている」という怒りもあるということでした。

これはどういうことかというと、怒りたくて怒っているのです。つまり、怒ることが目的。怒るとアドレナリンが出る→すると、心臓がバクバクして血液が全身を駆けめぐる→その結果、ルーテインで退屈だった日常の中で、刺激が生まれる。→生き生きしているように感じて、「ああ、生きてる!これが生きることだ」と実感する→なので、生きてる感じが足りないなと思うと、怒りたくなる。そして、「生」を実感しようとする、というクライアントさんもいらっしゃいましたよ。

あるいは、「世の中の誰にも相手にされていない」という孤独感を感じるとき、相手に対して勝手に怒りをだくことによって、相手と関係が構築された気になる、つまり一方的な感情で擬似人間関係をつくっている・・・というパターンも。

また、怒っているときにあまりにも大きなエネルギーを感じるので、まるで宇宙を突き抜けて神とつながっているような神々しい気分になる・・・というケースも。このクライアントさんの場合は、セッションで調べたところ「巫女さん」だったような過去世の記憶があり、昔のパターンを今だになぞって生きていたようです。

何にしても、日常で自分が無意識のうちにしてしまうことは、必ず何らかのメリット、手に入るものがあるのですよね。怒りも、あとのダメージは大きいものですが、それにも代え難い「快感」「優越感」「満足感」があるようです。自分がどんな痛みを隠そうとして怒りを使っているのか、また何を手に入れようとしているのか見てみると新しい自己発見があるかもしれませんね。

もともと世の中というところは「全員違ってあたりまえ」。容姿も生活環境も好みも、考え方も物事に対する意味付けも。同じであるはず・・・という考えがじだいが、偏見、差別、攻撃、そして怒りをも生むのですね。最初から考えが違ってよい、違ってこそ大正解、ぐらいにゆるく考えていると、怒りのスイッチも入りずらくなるかもしれません。

追記・・・まったく「怒らない」のが健全というわけではありません。怒っていいのです。「怒る」のは「怖い」「嬉しい」とかと同じで、たくさんある感情のひとつにすぎません。抑圧してしまうと、他のすべての感情が平板になって何も感じないつまらない人になってしまいます。個人的に怒るのはぜんぜんかまいません。問題なのは、大気汚染のような「怒り」。自分の怒りをまわりにまき散らすこと、あたりちらすことです。

しかし、どちらにしても自分の人間関係や人生を一瞬で台無しにする破壊的な「怒り」はその場に応じてちゃんとコントロールできるようになること。すると人生もよりスムーズになりますよ。

気づきの日記「怒りたいんです...ワタシ」その1

最近多いご相談に、「怒り爆発!怒りをコントロールできな〜い」というのがあります。男性も、女性も。

「気にくわない!」「ガマンできない!」と思わず爆発してしまい、爆発したあとから後悔がおそってくる、というのが怒り。怒りを使うことによって、よりよい解決策は決して望めはしません。さらなる相手からの怒りを生むか、反感をかうか、あるいは関係が決裂する・・・そして自分をコントロールできなかった自分自身に対する自信も失って・・・けれど、また懲りずに怒ってしまう、という繰り返し。

まず怒りはどんなメカニズムでやってくるのでしょうか?

彼氏との会話にバクハツしたA子さんの場合でみてみると・・・
1、 何か出来事が起ります
たとえば、彼氏が昔(自分とつきあう前に)、二股をかけて二人の女性とつきあっていたということを告白した

2、 自分の信じていることに基づいてその事実を価値判断する
「ってことは、一人に決められないという浮気願望があるんだ。いや、すでに浮気しているに違いない。そうだ!会ってないときは浮気してるんだ」と判断

3、 その価値判断が自分のいちばんのウィークポイント(痛み)にヒット
「裏切られたんだ、捨てられたんだ!」という痛みがのボタンが押される

4、 怒りの爆発!!!
「だったら、たった今、別れてやる!」相手を罵り、別れ話をはじめる

(ちょっと、ちょっとぉ、実際のところ、今現在、目の前ではなんにも起きていないのよ。彼は過去のことを語ったかもしれないけれど・・・。今まで二人で仲良くお喋りしていたんじゃないの?何で突然別れ話に飛躍?)

ふ〜〜〜・・・・(汗)。あっというまに別れまで驀進してしまいます。

誰にでも「人とは、世の中とは、世間のルールとは、こういうものだ」という自分独自の持論があります。持論というのはそもそも人の数だけあって、それは同じではないのです。しかし困ったことに、人は自分の持論がまるで世の中の普遍のルールのように絶対であると勘違いしているところがあります。だから自分のルールにあっていない人を発見すると、たとえあからさまな怒りにならなくとも、「何やってんだ、コイツ!?」とか「信じられないことするな〜、どういうつもりなんだ?」と、心の中では自分のルールにあってない他人を非難しこきおろします。

小さいときに甘やかされて育っていたり、なんでも自由にできてガマンをすることを知らないと、人との意見の違いを受け入れるキャパがなく、また自分の感情をコントロールすることにも慣れていません。そうすると、すぐカチンときて、プンプン=3 となりやすいようです。

また、その家の感情のカラーというか、テンションというのもあります。たとえば、父なり母なりが怒りっぽいと、その感情表現の仕方がまっとうなものと認識して、こどもたちも真似をするようになります。たとえば父親が星飛雄馬のお父さん一徹さんみたいだったら、日常にしょっちゅうちゃぶ台がひっくり返っているわけです。そうすると、そのこどもも「気に入らないことがあったら、モノを蹴散らしてもいいんだ」「家庭の日常風景というものは、ちゃぶ台がひっくり返ることだ。誰もひっくり返さないなら、自分がひっくり返そう」と刷り込まれます(飛雄馬くんは成長してお父さんになったあかつきには、きっとダイニングテーブルをひっくり返しまくっていることでしょう)。

先ほどのA子さんの問題点は、「彼が昔の二股の話しをした」ことと「彼が、現在浮気をしていること」をソク結びつけてしまったこと。「昔の二股」と「今現在の浮気」はイコールではないのです。しかしA子さんは自分の過去の痛みの経験から、反射的に結びつけてしまいました。彼女の痛みとは、幼い時に愛するお父さんが「浮気」をしたことによって負った心の傷。父の「浮気」=愛されなくなる自分、捨てられる自分。つまり、父の浮気は幼い彼女の生存をおびやかしていたのかもしれません。そして、今もなお「浮気」という言葉を聞くと、「捨てられる」という怖れが自動的に浮上し、その苦痛から逃れるために「怒り」というさらに強い感情を使ってこみあげてきている怖れをおおい隠していたわけです。

わたしたちはこみあげてくる怒りに対して、どう対処したらよいのでしょう?
(その2に続く)

 

シャウトする日本人

映画館で邦画の予告が上映されるたびに繰り返される質問、それは・・・。

「なんで映画でもドラマでも、日本人はいつもシャウトしているのだろう?」(ちなみにこの質問をしたのは米国人。)

そのとき上映されていた予告は「モテキ」という映画と、藤原竜也の「カイジ2」。

最初この質問をされたとき、意味がよくわからなかったのです。

でも言われてみれば、たしかに登場人物はふつうに喋るというよりは、全身で絶叫してたり、号泣してたり、とにかく感情が誇張されているのですよね(日常でこんなに爆発している人がいたらびっくりしますもの)。

とすると、このドタバタ感が今の邦画の主流。ストーリーにメリハリをつける常套手段なのでしょうか?とにかくどの邦画の中でも、みんな叫んでいるし号泣しているのは事実です。洋画を観ていて、それがコメディであったとしても、あのような我を忘れた全身シャウトは目にしませんな〜。

ふだん感情抑圧気味の日本人だからこそ、映画やドラマでこそはじけたい願望があり、またそれを観て抑圧された感情を昇華しているのでしょうか?(実際、日本人である自分にもよくわからず・・・。)

日常生活で日本人の感情欠落気味を不気味に感じている外国人だからこそ、この画面の中での日本人のアイデンティティの豹変ぶりに度肝を抜かれちゃうのかもしれませんね〜。

たまには日本画

そろそろ涼しくなったかな?という夕方にお出かけ。しかしここ数日、これでもか!というすごい残暑ですね。

きょうは「山種美術館」にやってきました。“るん”から恵比寿駅をつきぬけて、さらに西陽をモロにうけて歩く、歩く。(残暑の中、すべて徒歩というのも厳しいです。)

本日の展覧会のお題目は「日本画どうぶつえん」。さまざまな動物たちがモチーフです。

ウサギが多いかな〜。ネコやイヌも、どの子も淡白に描かれているわりにはふわふわ感がよくでています。

日本画よりも洋画を観る機会が圧倒的に多いせいか、改めて日本画の構図の大胆さ、潔さを思い知らされました。油絵だと絵の具を薄くおくと、未完成感が強くなります。さらに、何も塗らない空間をつくるなんてもってのほか。でも、日本画は空間がものをいうのですね。あえて動物が画面のはじっこのほうにちょこんといて、あとは空間だったり。この「間」自体にしっかりと語らせるのが日本画。

すっかり構図のおもしろさに魅せられ、「日本画、描いてみたいな〜」とさえ思いましたよ。

わたしは奥村土牛さんの動物たちが気に入りました。それぞれに目に命が宿っていて、それぞれのキャラが強烈に感じられるのです。「どっかのネコ、イヌ」などではなく、「このネコ、このイヌ」なんですよね。

新しい美術館のビルは広々としていて、一階に緑に囲まれた和風カフェもあります。秋に、またお散歩にこよう♪

T大病院とマツゲ

先日コンタクトをリニューワルしたとき眼科の先生に「あ、これ専門の先生に診てもらったほうがいいわよ」とあることを指摘され、T大病院の眼科の先生宛に紹介状を書いていただき、予約もとっていただいた。

検査当日、なんのための予約?・・・というほど待たされて、ようやくわたしの番になった。しかし、視力やら眼圧やらまた先日の眼科と同じ検査の繰り返し。そして何時間たった頃か、ようやくセンセのお部屋へ通された。

カルテから顔をあげてわたしの顔を見るなり、「それ、どうしたの?」とセンセ。そ、それ・・・?って何のことかわからず返答に困っていると、「あなたのマツゲだよ」(本日、マツゲに異常があって来たわけではありません)。

「あのね、ふつ〜の人のマツゲってひさしのように生えているんだよ。でも、あなたの根元から上向いてるでしょ」と。これはお化粧品を買いに行くと美容部員の人にもれなく「マツゲパーマですか〜?」と言われるマツゲ。別にマツゲパーマでも、激しくビューラーしたわけでもなく、「あの〜わたし、天パーなんです」という答えになる。

今は髪が長めなのでゆるゆるウェーブになっているけれど、ショートヘアにしたときはちゅるんちゅるんになっていた。なので、マツゲのような短いパーツは激しく天パー状態が作用してしまうのか・・・?

それにしてもセンセ、その答えじゃ十分ではないらしく「天パー?・・・そんなふうにならんでしょ。見たことない」ときた。でも、なってるんですけど?

そうとう珍しかったのか、その後しばらくセンセはマツゲについて語り、わたしのマツゲを調べていた。いや〜、わたしは他の人のマツゲがどうなっているかなんて気にしたことなかったし、こんなもんでしょと思っていたのでそんなに興味をもたれても・・・。昔はこのマツゲに一生懸命ビューラーをかけて上げていたっけ。みんながやっているようにね。(上がったというよりも、直角になっただけ)。でも、マスカラをつけるとき上まぶたにベッタリついてしまうので、みんなどうやって塗っているのか疑問ではありました(ひさし型だと、下からマスカラで持ち上げてもまぶたにはつかないのね)。

紹介状の件に関しては、「あなたまだ若いし、当分心配いらない」ときた。おっと、センセ、わたしのカワイめワンピに騙されてる?と思い、「あの〜、わたし○○歳ですけど〜」と言ってみた。しかし、あっそ・・・という表情で、もっとトシとったら来なさいと言われた。

え〜・・・こんなに待たされたあげくマツゲ談義のみで問題ないですって、本当に大丈夫〜?と疑いましたよ。ちょっと理不尽さを感じながらも、まあ、その道の権威のセンセに問題ないと太鼓判を押されたのだから、もっと喜んでよいはずなのですが。

けっこうカクゴして来ていたのに、へっ?先生、マツゲですか・・・?とかなり拍子抜けしたのでありました。

しかし、メデタシ、メデタシ。

お茶の間シネマトーク「期待しなければ味わい深い“ツリー オブ ライフ”」

ブラピの主演にもかかわらず、まったく食指の動かなかった「ツリー オブ ライフ」。だってウェブのレビューを見ても平気で星が一つか二つだし、なおかつ途中退場者もいるという作品。

そういうのに限って、「127時間」じゃありませんが誘われちゃう。いったん拒否したものの、「娯楽作品だと思って観なければ、あんがい深いかも」「仕事に役立つかもよ」とそそのかされ(?)行っちゃいました。

仕事のあとだなんて、あまりに形勢不利。すでに眠いし。そのうえお腹いっぱいサンドイッチも食べたし、デザートまでいただいちゃった。あとは寝るっきゃないね・・・という状況です。それにしても、ブラピ主演でこの観客の少なさ。年配の方がチラホラ、あとはお一人の方です。

はじまってしばらくすると、お隣の誰かさんは貧乏ゆすり・・・あらら、誘ったわりには飽きてる?その後は眠りに落ちていたみたいです。おもしろくないと即シャッターが降りちゃうこのわたしが最後までぜんぜん眠らずに観終わったってことは、つまらなくはなかったらしいです。少々哲学的な作品で、父がブラピ、息子がショーン・ペンという設定を押さえておけば、どこに話しが飛んでもついてゆくことができました。

ハイ、たしかに場面はくるくる時空を飛び回ります。あるときは火山の映像、そして宇宙、大自然、恐竜までも・・・これはサイエンスものかと思ってしまいましたよ。それにセリフはほとんどなく、問いかけのような静かな語り、そしてたまにあるセリフはつぶやきのよう。

旧約聖書のヨブ記(信仰の篤いヨブでさえ、神からの恩寵を受けるどころか次々と人生の困難にみまわれる)を、息子の一人を失ってしまうブラピ家族の感じる理不尽さに重ねあわせています。テーマについての感想は長くなるのでさておいて・・・。

このブラピ演じる1950年代のアメリカのお父さん、おそろしく厳格で支配的。いっけん幸せに見える家族の心をむしばんでゆきます。

セラピーをしていると、このタイプの父親、多いですね。自然に囲まれた美しいお家、何不自由ない暮らし、家族揃っての食事、寝る前にする父親へのキス・・・見たところ何の不自由もない幸せに満ちた家族に見えますが、すべては形だけ。この父親の自己満足。フタをあければすでに家族の心はボロボロで、父を殺したいほどの嫌悪感が渦巻いています。しかし、すべてに形がととのっていれば幸せに違いない、と父親はあくまでも形(成功すること)を整えることに執着し続けます。

この「成功がすべてである」という父親の無意識には、どれだけの自分に対する無価値感が充ち満ちていたことか。その抑圧し隠し続けて形だけの成功を求めようとした父の無価値感は、息子によってしっかりと表現されているのです。だから、その父から見たらなんともふがいなく見える息子たちに我慢がならず、ついついつらくあたってしまうのでした。

セラピーの中でも、自分でもてあましている自分への不満をこどもに向けかえて、こどもを過剰にコントロールすることによりバランスを失わせてしまう例はあとをたちませんよね。

ヨブ記をベースにしたテーマにもいろいろな感想を抱きましたが、この超支配的なお父さんのメンタリティーと傷ついた息子(特に長男)のトラウマを分析していてもいろいろと気づきがある映画でした。

決してつまらない映画ではありません。でも娯楽作品でもありません。いかにもカンヌのパルムドールな作品です。じっくりと味わいたいときにはよいかもしれないな〜と思いましたよ。

しかし・・・この子役たちのセリフのない演技、すごいでした。

ミクニさんでヒメ気分

静かな路地にひっそりと佇むツタのからまる洋館。

ここはあの三國シェフで有名なフレンチの名店、「オテル・ドゥ・ミクニ」です。きょうはお友だちのバースデーでやってきました。

お店に向かって歩いているところからドアがスッと開き、でもわたしたちが「ステキ!」とお店にカメラを向けはじめるとドアがスッと静かに閉まる心づかい(笑・ありがとう)。

もう、ここからはお姫さま気分でうやうやしく迎え入れられました。お玄関のホールからオープンになった大きな厨房を抜けて奥のダイニングに進む演出。わ〜、シェフが山ほど。緊張感がただよい、みなさんキリッといいお顔をしていらっしゃいます。

サービスはさすがで始終ヒメ気分ですが、決して堅苦しくなくお料理や食器についてベテランの給仕さんとあれこれおしゃべり。

ゴーヤのリゾットとスズキを昆布だしでいただくお魚料理や、やわらかく煮たウリとトリュフたっぷりの牛フィレをわさびソースでいただく肉料理、というようにフレンチというよりはあっさりとおいしい和食をいただいているような気分になりました。

デザートの盛り合わせも美しく、このたっぷりデザートのあとにさらに焼き菓子が三つも出てきました。多菓子(タカコ)も大満足!

・・・と夢見心地な数時間。しかし、ヒメたちが宴を終える頃には雨ザーザー(そうでした・・・台風きてたのね)。カボチャの馬車を呼んだものの、四ッ谷駅まで。しぶしぶ電車にて家路をたどるヒメたちなのでありました。

Mちゃん、お誕生日おめでとう!よい一年を。(^-^)ノ

 

かたつむりビルで待ち合わせ

表参道ヒルズの正面玄関で会う約束をしました。

「電車が遅れて20分遅刻します」というメッセージを受けとったので、ヒルズ内のお店を探検することに。なんせ、レストランに二回ほど寄ったきりで未知の世界、それに敷居が高そうなお店ばかり...。完全に腰がひけてそうそう長居をする気にもなれず、ひとつ、またひとつ・・・と次々お店をハシゴ。

そうするうちに「今、玄関についたよ〜」という連絡がきたので、「同じフロアのお店にいるから来て!」・・・と言ったものの待てどくらせどあらわれず。いったい、どこ行っちゃったのだ? あまりに遅いのでこちらから電話してみると「一階のどこ?見渡してもどこにもいないよ〜」と困った様子。ここは吹き抜けになっているので、全体が見渡せるのです。

「だから、一階のラーメン屋さんの前!」と言いながら、ちらりとわきの案内版が目のはしをかすめる・・・・と、そこには「三階」という文字が。

あれ?あれ?なんで三階?さっき一階の玄関から入って、一度も階段もエスカレーターもエレベーターも使ってないのに。キツネにつままれた気分。

じつは、このビル、通路がかたつむりのようになっていて、歩いていると自然に上の階へと上かってしまうのでした。なんだか、昔よく遊んだ折り紙の「だまし船」の感覚(船の帆先を持っていたとおもったら、舳先だったという)、で気づいたら違うところにおりましたよ。

しかし、一瞬、夢遊病者のように知らないうちにエスカレーターを使ったかもしれない自分を疑いましたよ(はい、暑いからね。そんなこともあるかと・・・汗)。なによりも、正常でよかったです、ハイ。

セッションにいらっしゃるクライアントさんがよく口にされる言葉は、「ホント、いつも同じところをグルグルしてるようで面目ない・・・」と。しかし、人生の構造も表参道ヒルズ的だと思うのです。ご安心ください。自分ではひとところをグルグルしちゃってるように思えても、決してそうはいかない。気がつけば知らないうちにちゃんと上昇してるんですよ!!

お茶の間シネマトーク「今やストーカー・・・“卒業”」

劇場で観た旧作シネマ、それは「卒業」。(六本木ヒルズで朝10:00から、古い名作といわれるものを次々上映しています。)

チャペルから花嫁を略奪するシーンはとても有名。みなさんもどこかで目にしたことがあるかもしれません。

簡単に言うと、セレブなおうちのエリートくんが大学を卒業し、さてこの先どっちを向いて生きるのか・・・敷かれた線路の上を突っ走ってきた彼にはあまり「意志」というものがない様子。そして自信もない。そこで、母親ほどのトシの女性にそそのかされ、なんせやることがないのでそちらに突き進んでしまいます。しかし、その女性の娘に会ってみたら、はじめて「意志」が目覚めちゃった。「このコのほうがいい!結婚したい!」と。突如娘にひるがえったエリートくんを見て、この年上の女性、もちろん黙っちゃいません。プライドがあります。事実を娘にバラし、恋路を邪魔するのです。結果、そのコは他の男性と結婚することになるのですが、彼はあきらめちゃいない。必死で結婚式さなかの教会に乗り込み略奪する・・・というお話し。

この青年役、若かりし日のダスティン・ホフマンが演じているのですが、ほとんど自分のないこ青年役に彼の「超なで肩」な体型がベストマッチ。演技というより、この体型だけでかなり醸し出すものアリ、です。

そして、いやがる彼女を彼女の通う大学にまではりこんでつきまとう始末。これって今でいうと熱愛なんてもんじゃなくって、たんなる激しく変質的なストーカー行為。あの「なで肩」体型にジャンパー姿でピッタリ彼女のあとについて足早につけ回す姿・・・ん?どっかで観たな〜このシーン、あ〜!これすでにレインマンだわ(自閉症役のダスティン・ホフマンが、ジャンパー姿で弟役トム・クルーズのあとにぴったりくっついて、小股にチョコチョコつけ歩くシーン。「卒業」から、すでに「レインマン」だった・・・汗)。

いくら好きだからって、この執拗でストーカー度100% の一方的な恋愛表現、観ててだんだん頭痛がしてきましたよ〜。こんなことされたら、誰だってぜったい引くでしょ〜。これ、1967年の映画。セレブなエリートくんが乗り回す当時はカッコよかったであろう赤いアルファ・ロメオも、いまや遊園地の遊具にしか見えません。モノにしろ、恋愛観にしろ、今と変わっているような変わっていないような微妙な年代なので、逆にギャップを大きく感じるのかもしれません。もっと極端に古いい作品のほうが頭が混乱しないかも。それに、年代的にはまだ共感できない、というのもあります。

なんか妙に疲れたぞ・・・・。ハッピーエンドなのに、なんかだかな〜・・・という感じです。職業上、彼のあの性格、もうちょっと自分と向き合ったほうがいいんじゃない?などと、将来を案じてしまいましたよ。

しかし、ダスティン・ホフマン、「ひどいなで肩」をのぞけば、昔はとっても美形だったのね。オトコのオバサンのイメージしかなかったから見直しました。・・・(「トッツィー」です)。

お茶の間シネマトーク「TSUTAYAさん“オススメ良品”から」

最近、DVDにしろ劇場ものにしろ、新作に興味をひかれず旧作を観る機会が多いです。

TSUTAYAさんの「オススメ良品」の棚から無作為に選んだ一枚をご紹介。

「おもしろくなかったら返金してくれる」というので、何の情報も先入観もなしでさっそく観てみました。

まず、登場するお金持ちの女性。着ている水着が腰骨の上まで切れ上がった超ハイレグ。今見ると、これってかなりの赤面ものですね。1980年中頃ぐらいに流行ってたかな〜?そして次に、彼女のだんなさんが使っている携帯電話。なんともデカッ!!細長いお弁当箱みたいなものにバンドがついていて、手の平を差し込むようになっています。うんうん・・・これも、90年代よりも前ですよね。そして極めつけは、バックに流れる音楽。ひと頃流行ったAORっぽい響き? (Adult Oriented Rock というらしいジャンル。えっと、シカゴとかクリストファー・クロスとか・・・。完全にトシがばれるね!!汗)これも80年代の特徴的な音楽。

ストーリーは、かなり性悪のセレブの奥方にコキ使われ罵倒されたうえ賃金ももらえなかった大工の男性が、この女性が記憶喪失になったのをいいことに自分の妻だと偽り、ちゃっかり子供の面倒も見させ自分に仕えさせ・・・ま、復讐するわけです。しかしそうするうちに、女性の夫君が妻の所在をつきとめ救出してしまいます。そこでこの女性の記憶もすっかり戻るわけです。大工の男性の企みがバレて大変なことになると思いきや、じつは二人はとっくにラブラブになっていたので、悲しいことに引き裂かれてしまったわけです。極貧の生活から、もといたセレブな生活にもどってしまった愛する女性は自分のことなど忘れてしまったのか?しかし、ここから大工の男性と子供たちの大奪還劇、愛する女性を取り戻しに行くというストーリー。

あとで調べてみたら、これは1987年(おお、やっぱり!)、あのプリティ・ウーマンのゲイリー・マーシャルの初期の作品です。そして、記憶喪失の女性役はなんとケイト・ハドソンのお母さん、ゴールディ・ホーン。とってもキュートでメグ・ライアンを彷彿とさせます(いや、メグ・ライアンが彼女に似てる、が正しい)。大工さん役は、実生活でもパートナーであるカート・ラッセル。「潮風のいたずら」という作品でした〜!!

返金の必要まったくなし!おもしろかったです。ジェニファー・ロペスでリメイクされる(された?)そうですが、こちらはどんな感じなんでしょうね〜?そちらも観てみたいです。