日々のあれこれから、「気づき」をひろってみました。
* 最新トピックスは、リストのいちばん下に表示されます。(どちらかというと、新しいほうがオススメ☆)
掲示板に「夢を叶えること」についてのご質問(7-16)がありましたので、小さなアドバイスを!
夢を叶えるときに、ちょっとしたポイントがあります。それは、夢にまつわる「感情」がキーになるということです。
たとえば、「お金持ちと結婚したい!」という夢をもった女性がいたとします。しかし、なぜか「お金持ちと結婚する!」と宣言しているその女性よりも、「そんなことどうでもいい!安らぎがいちばん!」と思っている女性のほうがさっさとお金持ちと結婚してしまうのです。
これはどうしてか?というと、私たちが本当に手に入れたいと願っているのは「夢」の下に隠されている感情なのです。「お金持ちと結婚する」ということは、本当に欲しているもののラッピングにすぎないと考えてください。中には、「限りない安泰」とか「すべてが満たされる感じ」とか「自分に自信がもてる」とか・・・そんな感情がつまっています。ですから、ほんとうの願望はこの「中味」だったわけです。
パッケージを求めても、自分の潜在意識はピンときませんのでそれを引きつけることはできません。底にあるほんとうの願望を丁寧に気づいてあげて、そして自分の「今」の生活の中にできる範囲でその手に入れたいと思っている「感情」を体験させてあげてください。
ささやかなことでかまいません。たとえば、「満たされてる感じ」というのであれば、大好きな友人とおいしいものをたべながら気兼ねなくおしゃべりに興じることを自分に許してあげるとか。自分にエステをプレゼントするとか。とにかく、生活の中にプチ「満たされ感」をつくってあげます。
自分の中でその感情がなじみになってくると、どんどんそれと同質のものが雪だるま式に引き寄せられてきてきます。そして、ついにはラッピングである「お金持ちと結婚」という夢も自然と叶うようになるのです。
日野原先生の目下の楽しみは、小学校に行くことと、小学生と遊園地で遊ぶことだとか。遊園地では、はじめての乗り物にチャレンジすることで達成感を味うそうです。今月は、ディズニーランドなのだと嬉しそうな先生(でも・・・スペースマウンテンはやめられたほうがぁ・・・)。
さて、日野原先生は小学生に質問します。朝起きてから一日の行動をひとつづつ言ってごらん、と。「顔を洗った!」「ごはんを食べた!」「学校行った!」「あそんだ!」・・・。先生いわく、「一日を見るとキミのために使っている時間しかないじゃないか」。そして、キミの時間を使うということは、キミの「いのち」を使うということなんだよ・・・と。
う、う・・・、耳がイタイ。はい・・・私も、きょう自分のためにジムに行きました。自分のためにスタバでホットチョコを飲みました。自分のために、うんぬん、うんぬん・・・。
日野原先生のすばらしいお言葉をシェアしたいと思います。
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いのちとは
いのちとは、あなたが持っている時間
あなたがもっている時間が、あたなのいのち
いのちを使うということは、時間を使うということ
二十四時間、あなたはいのちを使っています
あなたは今までたくせんの時間を使ってきましたが
これからあるたくさんの時間を
誰のために使いますか?
人がお悩みにはまっているとき、当人はもちろんのこと、ハタで見ている者もツライものです。
私も、去年の秋ごろ慢性的な問題にどっぷりつかり、にっちもさっちも身動きができないような時期がありましたっけ。そういうときは、考えだすと過去の癒されていない心の傷がつぎつぎ噴出し、増幅し、はては健康を害するところまでいってしまいます(ああ、究極の体験でありました・・・。今だから笑えますが)。
そのとき、全身で悟りましたね。自分の感情に責任を持つのは自分であると。感情は勝手にやってくるままにするのではなく、自分で選ぶものであると。自分が何を感じたいのかを責任をもって選んで創り出していかなければならないのです。さもないと、自分の感情パターンのくり返しで、過去の心の傷のえじきになってしまいます。ネガティブなエネルギーは雪だるま式に増幅し、そのうち怒りに火がついて、まわりまで汚染しはじめるのです。こうなると何が問題だったかさえわからなくなります(とほほ・・・・経験者は語る)。
幸せと健康の秘訣は、考えても答えが出ないものに関しては、考えることをきっぱりやめること。注意をはずすこと。もともと、「悩む」っていうことじたい答えが出ないから悩むわけで、これはもう自ら積極的に「悩む」ことを放棄するしかありません。そうしないと、途方もないエネルギーと時間と健康を浪費することになります。
問題は解決する時期がくると、おのずと動きはじめるものです。
人生は基本的には楽しむためのものだと思います。「お悩みごとはあってあたりまえ」ぐらいの気持ちで、小さなことでもおもしろおかしく楽しむことですよね。そう、笑って、いろんな体験をして、楽しんでこそ人生!痛〜い体験から骨身にしみて学んだのでありました。
重要な仕事をひかえている友人がしきりに風邪の心配をしています。聞けば、数日前、飛行機でとなりに坐った女性が「咳だ、鼻水だ、クシャミだ」とかなりひどい風邪だったとか。「うつっていませんように、祈って!」
しか〜し、そんなお祈りをしようものなら、もれなく「風邪」を引きよせます。なぜなら、「風邪」そのものに注意が注がれて、それはすみやかに現実になってしまうから。
「で、その女性は今もとなりにいるの?」と私。「ううん、あれは二日前だよ」・・・とっくに、過去になった出来事を、わざわざ頭の中に呼び出して注意を払えば、それは現実として創造されてしまうのです。
このての方を「牛さん」タイプと呼びます。「とっくの昔に終わったネガティブな体験や痛みを、ときどき引っぱりだしてきては味わって、またもやいや〜な気分にどっぷりとひたる」という繰り返し。何度でも楽しめちゃうタイプです。まるで、牛さんが一回食べたものを、何度も何度も反芻していつまでもくちゃくちゃしているように・・・。
そのつら〜い、いやな経験は、今、この瞬間、どこをさがしてもじつは存在していないのです。牛さんタイプの頭の中以外には・・・。そして、自分さえそれを呼び出して、そして何度も「くちゃくちゃ」しない限りは、もう自分には何の影響も及ぼすことはないのですよね。
くちゃくちゃするのは、ガムだけにいたしましょうね(笑)。
最近、カウンセリングをしていて感じるのは、「ほとほと、人は自分の身体になじみきった感覚しか受けつけないな〜」ということです。
どういうことかというと・・・、幼少の頃の生活環境や扱われ方、自分の役割、自分への価値など・・・たとえ、それが気に入っていようがいまいが、幼少の頃のすべてがわたしたちのスタンダードになっていて、知らぬ間にそれと同じ感覚を選ぼうとするのです。
なので、幼少の頃あまり豊かでなかった場合、大人になって物事がスムーズにいったり、豊かさがどんどん入ってくると、とたんに居心地が悪く不安になります。「こんな状況はおかしい」「いいことばかりが起ったら、あとが大変かも・・・」「きっと長くはつづかない・・・」、案の定、そのとおりになります。だって、そう決めているのですから(世界はあなたの意識の反映です)。
あるいは、両親が忙しくていつも孤独を感じながら育つと、つねに自分とともにいてくれる相手を探し求めます。でもいざ、理想の相手が現れると急に逃げ腰になるのです。「こんな素敵な人が自分を愛してくれるはずがない・・・」「こんなにうまくいくはずがない・・・」。はい、やっぱりこれも遅かれ早かれ行き詰まり、破綻します。
ほんとうに、人は自分がずっと夢見ていたものがようやくやってきたとき、無意識でぶちこわしにかかるのです。だって、潜在意識は言うのです。「それはあなたが知らない感覚だよ。だめだ!あぶない!離れなさい。知ってるところにもどりなさい!」そして、なじみきった古巣へと戻って、文句をいいつつもどこかどっぷりと安心感を感じています。
もちろんご本人は壊しているなんて思ってもみないのですが、無意識に自分のとる行動、言動がすべて裏目にでて、結果すべての欲しかったものを自分から追いやるこことなってしまうのですね。そして、「ああ、やっぱり手に入らない・・・」と落胆するのです。
じゃあ、どうしましょう??ステップアップするにはどうしたらいいのでしょう?
(次回につづく・・・(^^)v )
ほしいものを後ろ足ですべて蹴り飛ばしてしまうあなた・・・では、どういたしましょ・・・?
すべてをけちらすというこの行為は、「知っているもの」だけを受け入れて安全を確保するという「自己防衛」からきているわけです。しかし、もともとのプログラミングがまちがっているので、完全に誤動作しているんですよね。「自己防衛」どころか、「自己攻撃」!
この「安全装置」を解除するには、自分の「知らなかった感覚」を「なじみの感覚」に変えていかなければなりません。
「知らないこと」をどうやってなじみにするのか?・・・これは、自分で自分に教育を施してあげなければなりません。人からそれを与えてもらおうとする前に、自分で自分にプレゼントしてあげるのです。
たとえば豊かさになじみがない場合、急に億万長者になったとしても「安全装置」が許すはずがありません。「億万長者」のスリル感、わくわく感、可能性に免疫がありませんから。でも、いつも自分に対して心から満足できて楽しい感覚を与えてあげる習慣をつけてあげて「わくわく」感が免疫化していると、それがどのような形であらわれようとすんなりと受け入れられるようになるのです。
たとえばこんなふうにやります。毎日、たったひとつでいいので、自分自身に対して心から満足できて幸せを感じる豊かな瞬間をプレゼントしてあげます。それは、仕事のあとにお気に入りのカフェで飲むカプチーノの一杯であるかもしれません。わずらわしいことは忘れて、心から楽しんでみてください。あるいは、夜、バスタブに入れる香りのいい入浴剤をいつもよりふんぱつして時間をかけて入浴することかもしれません。好きなDVDを借りてきたり、ダイエットを忘れてスウィーツを食べたり・・・・ほんのささいなことで心が満足する時間を毎日の自分の習慣にしてあげます。
すると、あら不思議、「知らない感覚」がどんどん「おなじみの感覚」へと変わっています。「ああ、いつもわくわくしていていいんだ!」って。あとは、やってくるものの大小にかかわらず、心地よく受け取ることができるようになるのです。
「教え込む」ことほど大切なことはありません。知らなかったら、教えてあげましょう。豊かさにしろ、愛情にしろ、自分が欲しいものがあるとき、外側にそれをもとめるよりも先に、自分でそれを自分に教えてあげてください。
理想のもの、まるごとでなくていいのです。そのエッセンスで十分。理想のパートナーだったら、そこで感じたい「安らぎ」というものをあの手この手で自分にたっぷり与えてあげましょう。
「なにがなんでも欲しい!」と言う感じがうすらいで力が抜けたときこそ、かんたんに手に入ってしまうようです。
「それは、真に学ばれるまでくりかえす」
私たちがその問題の核心を学び終えるまで、同じレッスンがくりかえされる ということ。
その昔、くりかえし起こる同じような問題に、「いったい、宇宙は私に何を学べと言っているのぉ〜?! 」と、あまりのわからなさに叫びたくなったことがありました。
教科書だって、〈学びのポイント〉が最初にちゃんと示されているというのに。私たちは何のテキストも与えられず、いったい何を学んだらいいのか教えてもらうこともないなんて、ぜんぜんフェアじゃないわ〜。「それって、じつは学んでほしくないってこと? 落第してくださいってこと?」と逆切れしたい気持ちになったものです(問題は自分がこしらえているのにね〜・・・ 苦笑)。
で、問題をまえにして、その「学びのポイント」なるものをいろいろと憶測して、試してみるわけです。
「これですかい?」「え? これじゃダメ?」「じゃあ、これはどうだ?」「う〜ん、びくともしないな〜」 ・・・ というぐあいに。
学ぶべきレッスンについていろいろと予想して、「さては、もっとポジティブに生きなさいってことかしら〜?」とか。
ムリにポジティブは役に立ちません。ネガティブを抑圧するので、あとで必ずシワよせがきます。それよりも、ネガティブに考えてしまう理由を探求したほうがいいのです。
「あ、きっと自分のことばかりで愛が足りないから、もっと愛をもちなさいってこと?」とか。
ムリに愛の人になろうとすると、イイ人として犠牲をすることになるので、あとでもれなく不平不満と怒りが爆発します。私たちはもともと愛なので、あらためて愛になることはできません。それよりも今、愛でいられない自分の意見をきいてあげる方がよっぽどいいのです。
で、結局わかったのは、「あるがままをそのままにしておける」までレッスンがくりかえされる ・・・ということ。
宇宙(神・源)に対してイチャモンをつけて、チャレンジし続けるのではなく、ありがたく今を頂戴し、味わい愛でるということ。
これができないと、私たちは年がら年中、不平不満を言っていることになります。でも、これはまったく流れを信頼しない、大いなる力を信頼せず、それよりも私が考えたプランのほうが素晴らしいに決まっているから「私にやらせなさい!」と、力づくで現実をどうにかしようとしているわけです。大いなる力にケンカをうってる?!
ほんとうに今あるものでよいのか ・・・ それは「これでよし」とありがたく今を頂戴してくつろぐまでなかなかわからないことなのです。不平不満を言っていると、敵をつくることになり、自分のこころが分裂します。分裂すると、ひとつである完璧さが失われて、完璧さが見えなくなるのです。
信頼ができるようになるまでは、わたしたちはそこでドタバタしていて、そのドタバタ感からは安らぎはやってきません。
実際、誰も「あるがままのこのままでいい」なんて教えてくれませんでしたもの。いつも何かを変えるためにチャレンジさせられてきました。
「教育」と称されて擦りこまれてきたことは、みんな自分の首をしめることだったとはね ・・・ 。苦しい、苦しいといいながら、じつは私たちは自分の「考え」で自分の首をしめています。「このままじゃダメよ」「もっとだわ・・・」と。
じっと止まって、正気にもどるまで、わたしたしは「今」という瞬間がいかに十分で、完璧であるかに気づくことができません。
たった今 ・・・ 私のパソコンは若干ふるくはなってはいるものの元気に働いてくれていて、ブログを書くには十分。このマックくんは、もっと高度な仕事ができるのだからさせてくれといいますが、ごめんね〜、ワープロどまりで・・・笑。
そして、かたわらにはおいしいコーヒー、最近お気に入りの成城石井のロイヤルブレンドのマグがあり、窓からはどこからともなくクチナシやジャスミンの香りが風にのってただよってきます。
さらに、ちゃんとお洋服も着てるし、椅子にも坐っているし。今、クツはなくても大丈夫だけど、さいわいクツだって持ってるし ・・・ 数歩あるけば、チョコレートの箱もあり。
今、必要なものは十分です。完璧にあります。 ・・・ 欠けてるもの? ありません!
こんなシンプルなゆたかさに、毎瞬、毎瞬気づくこと。
自分ではどうにもできない「未来」というものを楯にして、今、あれやこれやと不満をならべないこと。そうするといっぺんに、たった今ある十分さが消えうせます。
たった今、十分であればOKなのです。そして、いつもなぜか十分なのです。不思議なことに ・・・。
昔はあれやこれや「学ばれていないレッスン」について考えたり、試したりしていたけれど、ようやくレッスンのポイントという項目を見つけられたようです。
見つけただけで満足しててはいけませんね。毎瞬、毎瞬がレッスンが続きます☆ (∩˃o˂∩)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
あなたの一日の時間の使い方、何にどのぐらいの時間をさいているのでしょう?
「えっと・・・仕事が8時間でしょ。通勤が2時間、食事に入浴、雑用もあって、あと睡眠!」
いえいえ、わたしが聞いているのは「行動」ではなくって、「心」の時間割のこと。一日の生活の中での、あなたの「心」の行方についてなのです。
「心がどこに行ってるかなんて、気にしたことがない?」・・・じゃあ、ためしに5分タイマーをセットしてみてください。・・・・さてこの5分の間、あなたは何を考えていたのでしょう?どんな気持ちでしたか?
たった5分といえども、わたしたちの心はあっちにふらふら、こっちにふらふら。一日観察していたら、とどまることを知りません。心理学ではこんな心の状態を「酔っぱらいのサル」と呼んでいますが、まったくひとところにおちつく気配がありません。
でも、「心」はわたしたちにとって、「ものごとを創り出すエネルギー」そのもの。長い時間、何回も心にとめたものが、現実となって現れてくるのです。だから、心が「どこにいっているのか」という行き先が、わたしたちの次の瞬間、そして将来をかたち創ってゆくことになるわけです。とくに、Negative方面に転落するのか、Positive方面に上昇するのかは、心の状態によって左右されるのです。
では、日常、何を考え、どう感じる習慣をもっているのでしょう?毎朝、出勤するまでの時間、何を考えていますか?仕事中は?ランチタイムは?仕事が終わったあとは?そして就寝前はどうでしょう?
「そうね〜。きょう考えたことは・・・朝起きて、だるい〜、かったる〜い、会社では、上司うざい〜、終業後は疲れた〜、眠る前は明日も仕事〜?」
おやおや、これはキケンな状態です。
わたしたちの注意がたくさん向けば向くほど、同じことを考えれば考えるほど、そのモノゴトを即、現実化し強化しちゃいます。だから、一日グチっていると、さらに数倍グチらなくちゃならない状況を創りまくってしまうわけです。ってことは、さらなるだるくて、かったるくて、うざくて、疲れる、仕事ばかりの将来に身をさらす可能性が高いということです。毎日、日課のように考えれば、もれなく現実化されることでしょう。(次回につづく・・・(^^)v )
身体の調子とかお金のこと、そして一日のスケジュールにはいろいろと心をくだくわたしたち。でも、ハッピーに豊かに暮らすには、じつは自分の「心の行方」についてもうちょっと注意深く管理しておく必要がありそうです。なんせ、心があなたの人生の舵をとっているわけですから。
細かなことはいりません。ただ、自分が今「いや〜な気分を感じているのか」それとも、「心楽しく感じているのか」にもっと敏感になることです。今の気分こそが、将来の自分の人生をうつしだしているのですから。
いつもイヤな感じを感じがちなあなたは、もしかすると自分の心の声をちゃんと聞いてあげていないのかもしれません。人が嫌がることには敏感に反応するのに、自分が嫌がることには構っちゃいません。・・・というか、「自分がこういうふうに感じるのは人のせいだから、自分ではどうしようもない」と決めて、自分の気持ちを無視する習慣がついているのかもしれません。しかし、あなたに「そういうふうに感じさせている」原因はあなたにあるのです。他人は、あなたがどういうふうに感じるかなんてコントロールすることはできません。あなたが決めたように、感じたいように、ただ感じているだけなのです。「あなたの心」は、あなたに管理責任があるのです。
他人の気持ちを思いやるように、いえ、それ以上に自分の心の声に耳を傾けて尊重してあげてみてください。あなたを不愉快にするもの、不幸にするものにはしっかり距離をおくようにしてあげること。
あなたにふさわしい未来をつくりだすためには、「今」、この瞬間のあなたにやさしく、心地よい環境をつくってあげることなのです。この瞬間の自分自身をなぐさめ、いたわり、愛し、自分が心地よく感じる時間をふやしてあげることなのです。
あなたが自分自身を誰よりも大切に扱って、その気持ちを尊重して、いつも気持ちよくしていられるように心を配ってあげること。そうやって自分をいちばん大切な人として扱うことによって、その気持ちにふさわしい未来を引きよせることができるようになります。自分を大切にすることは、この大切な自分には幸せな未来がふさわしいと自ら認めてあげることなのです。自分をとりわけ大切にすることによって手に入る心の平和と安らぎが、次ぎの瞬間への平和と安らぎにつながってゆくのです。
さて、私自身の心に聞いてみました・・・最近どう?・・・「毎日むし暑くって、お疲れ気味!」じゃあ、本日はすゞやかなパジャマでとびっきり早寝することにいたしましょう♪
とけちゃいそうに暑いですね〜。こうなったらもっと暑くなってしまえ!とジムでさらに汗だくです。
更衣室にて、ひとりの嘆くオバサマ発見。「あきれちゃうわよね〜!まったく、近頃の人ってさぁ。どうなっちゃってるのよ、いったい・・・&※#%」・・・・かなりご立腹のご様子。
何かと思えば、部屋のすみのコンセントに携帯の充電器がつながっている。どなたかがコンセントを無断使用していることにたいして、怒り心頭のご様子です。
数日後、またジムに行くと、例のオバサマが嘆いていらっしゃる。「シャワールームからお掃除の男の人が出てきたのよ〜。まったく、信じられない。あきれちゃうわ!」
「あきれちゃう」・・・このセリフ前回もきいたな〜、と私。
世の中、たしかに「あきれちゃう」ことは多々ありますが、「この世の中はあきれちゃうことばっかりだ!」といつもうんざりしている人は、この世のありとあらゆる種類の「あきれちゃう」を総動員させて自分のもとに強烈に引寄せちゃうのですよね。で、さらにそれをみて「あきれちゃうわ〜」と思うと、いよいよ倍増。どんどんあきれちゃって、「あきれちゃう」人生まっしぐら!その人にとっては、まぎれもなく「世の中」=「あきれちゃう」になってしまうのです。・・・そうです。いつだって人生は自分の心の反映、心の中にあるものをつぶさに見せてくれる。
と・・・ここまで書いてハタと気づきました。「あきれちゃう!」と嘆く人を毎回目撃しちゃう私って・・・・。ああ、わたしこそ、「人生、あきれちゃう!」って思っている張本人だった?・・・かも(笑)。はい・・・消します。この信念。 (--;)
わりとクルクルよく動き回るほうだと思っていたのですが、なんだか「やらなくっちゃ」とか「やってもいいのにやらない」ということが日々たまってストレスを感じているこの頃です。
たとえば、図書館に頼んでおいた本。すごく読みたくて頼んだのになかなかとりに行かない・・・とか(図書館なんて、ものの3分なのにね)、友人がプレゼントしてくれたアロマボディトリートメントのチケット。「わ〜い!楽しみ〜」と大騒ぎしたわりには、何ヶ月もそのままになっているとか・・・(いつも、「行ってきた〜?」ときかれるのですが・・・)、それから「あれ買わなくちゃ、これ買わなくちゃ」という日常の何気ない買い物ものばしのばし・・・・。もう、挙げだしたらきりがない。これって、たんにモノグサ?
う〜〜ん、以前はそうでもなかったのですが、ここのところとみに動かないデス。で、なんでこんなことになっているのか自分のなかの行動プログラミングである信念をさぐってみることにしました。わたしたちは、「すること」も「しないこと」も「どちらでもないこと」も、ある考えにそってそうしているのです。表面的には気がつかなくても。自分の中で何を信じているかによって行動を起こしているのですね。だから、クセや悪癖や、こんなモノグサにもちゃんと理由があるはずです。そして、それはたいてい「何かを避けるため」か「何かを経験するため」にそうしているのです。
な〜〜るほど!何を「避けたいのか?」はたまた「何を経験したい」のか。自分の信念をほりさげてみました。すると・・・「そんなに毎日いろんなこと片付けたら、あっというまにゲームオーバーになっちゃうよ」ですと。つまり、「すべてのことは有限だから、たくさん経験しちゃったらなくなって人生終わり、つまりこの世を去らなくっちゃいけなくなっちゃう。だから、なんでもゆ〜っくりとっておこうよ〜!きょうはとにかく何もしないほうがいい!安全!」
我ながらしみったれた信念だと笑えました。だって、読みたい本を一冊読んだり、アロマトリートメントに行くだけで、人生終わっちゃうの???(笑)
もちろん、この「すべては限られてる!」信念、消去いたしました。そして、「豊かさに限りがない」信念におきかえましたよ。どうやら、幼い頃お小遣いやおやつをもらうときに、「これだけよ!」というセリフが強固にすりこまれてしまったのかもしれませんね〜!
さて、九月は新しい信念を携えて三倍速で活動いたします。では、これから図書館!あしたはアロマボディトリートメントに行っちゃうぞ! きゃ〜〜♪たのし♪
「私もPちゃんみたいな大恋愛がしたいよ〜!」と友人。
Pちゃんとは、現在熱愛ロマンスまっただなかで、寝ても覚めても愛する彼のことばかり。彼がどうしたの、こうしたの、彼なしじゃ生きて行けないの、典型的な熱病型恋愛。そのエキサイトぶりを見て友人は、「そこまで好きになれる人がいるなんて、うらやましい」と。
「うらやましい?ほんまですかい?」と私。冷めてます(笑)。
だって、口をひらけば彼しかない。「週末、会いたかったのに仕事だって〜(泣)」とか「わたしがこんなに好きなのに〜!彼ときたら・・・(泣)」とか、当の本人はけっこうキツそうですぜ。いつもボロボロ。
はて?「大恋愛」って、ほんとに幸せな愛の形なのでしょうか?
「大恋愛」を他の言葉に置きかえると「執着」と「コンプレックス」のかたまりともいえるものなのです(なんか、こういっちゃおしまいって感じですが・・・)。そして、客観的にみるとひどくバランスを崩した状態(これは、あくまでも「大」がつく重度の恋愛に関しての話ですが)。こんなこと書くと、ぜんぜんロマンチックじゃない!と怒られそうです。
そもそも、なぜそこまで我を忘れてのめりこむのか?
「のめりこみ」には、自分の中の欠乏感が関係しています。自分の中に「足りない」「穴があいた」部分、つまりコンプレックスがあって、長年これさえどうにかなればもっと幸せになれるのに・・・と胸をいためてきた部分。そんな痛いところをまんまとクリアして、そんなコンプレックスとは無縁に生きている人。足りない部分を気持ちよく満たしてくれるようにみえる人。これこそが理想のヒトの正体。
その人と近くなればなるほど、自分がいきなりOKになったように感じるから心地よいのです。その人といると、足りなかったところが全部癒されちゃったみたいで、パワー全開!!でも・・・、その人がいなくなると、また穴があいちゃう。相手の魅力でカバーされたように感じているだけで、じつは自分自身は何ら変わっていないのですよね。相手の中のものは、あくまでも相手のものであって決して自分のものではないのです。王子さまがいなくなったら、崩壊。たちまちカボチャの馬車に逆戻り。だから、逃すまいと、そりゃ〜必死。執着度はすごいことに。
でも、恋愛だって何だってすべては宇宙からのプレゼント。こんなボロボロになりそうな関係だって上手につきあえば自分を変革させて本当に穴やコンプレックスとさよならできるハズ。その秘訣は・・・ (次回に続く♪ )
10/4日の「気づきの日記」の続きです。(インターバルをおいたら、自分でも何を書いてたか忘れてしまいました!笑)
そうそう、「大恋愛」についての話でしたっけ。
相手のイヤな部分でも、スキな部分でもそうなのですが、ようは相手に見えるものは自分のものなのです。自分の中になかったら触覚にひっかからないので、「好き」でも「嫌い」でもなくどうでもよくなります。
でも、今までの話では「無いからこそ、持ってる相手を好きになるんじゃ???」 ・・・・それもそうなんです。
じつは、自分の中にその部分は持っているけど、でもどこか奥ふか〜くにうもれてしまって忘れさってしまった自分の一部。自分が見失ったり否定したそんな自分を相手の中に見つけて憧れる・・・ようは、自分で自分に恋してるようなものです。
でもここで、「A男さん、なんてステキ。あんな人が私なんかとつきあってくれるなんて!」という相手を礼讃しはじめるとコワイことになります。相手はすばらしいから、私はダメ。だから嫌われないように努力する。いつもつま先立った状態で背伸びして、もとに戻せなくなります。そして、相手は素敵だけど、わたしは違う・・・という思いから、どんどん自分の価値をなくしてゆくのです。だから、熱病型恋愛はひとつまちがうと地獄絵巻となります。自分の魅力を取り戻すどころか、相手にパワーを与えて自分はもぬけのカラ。自分は小さなものになり下がってゆきます。相手なしでは自分の価値さえ感じられなくなって、ついにはゴースト人間になってしまいます。
・・・・・ほんとは、相手に見えているのはまぎれもなくホントの自分であるのに。
だから、相手に魅力を見つけた段階で、「こんな素敵なものが見えちゃったってことは、わたしの中にも同じ魅力がうもれてるってわけ??」と気がつくことがポイント。ここは鏡の世界。相手に見えるものはすべて自分のもの。自分が忘れてた、気づかなかった魅力が今まさに復活しようとしている兆候なのです。
相手のいいところを愛でつつも、そんな相手を好きになった自分を大事に大事にしてあげること。あくまでも、その恋愛の中で、自分をVIP扱いにしてあげることです。彼のことは大好きだけど、その関係の中で自分はどう感じているのか。心地よいのか、ムリをしているのか、必死なのか。そして、いつも相手にあわせてムリをしているようだったら、勇気をもって自分が心地よくなる提案をしてゆくことが大切です。相手だって、あなたが自分を大切にしていたら、もっと魅力を感じるようになるのです。
この人生の中で、自分を最高に大切に扱ってあげなかったらいったい誰がそうしてくれるのでしょう。DV(家庭内暴力)にしても、校内暴力にしても、イジメにしても、もし自分が人から大切に扱われないと不満があるようでしたら、まず自分が自分の気持ちを無視していないか、自分をないがしろにしていないかをチェックしてみてください。
いい恋愛をしたかったら、まず自分で自分を最高に可愛がることです。そうすると宇宙は、「ふむ、この子は自分はこんなに素敵だといっている。よし、とっておきの男性でないとダメなようだじゃな」ということになります。
なんにしても「大好き」「大嫌い」・・・「大」のつくものはあんまり健全ではありません。それよりも、真ん中「中庸」がいいのです。(すでにバアチャンじみた発言ですね・笑)、
大恋愛が「執着」や「コンプレックス」だなんてガッカリでした?でも、自分の中の未知の魅力が引き出されて、相手への執着がうすれたあたりから、本当のパートナーシップが築けるかどうか、二人の関係がホンモノに値するかどうかが確かめられるときがやってくるのです。そこからですよ〜〜、ホントの恋愛は!
以前、掲示板の書き込み(#701)で、天使の風さんから「おひとよし」についての考察を依頼されておりました。かなり遅ればせながらですが(汗)、分析させていただきま〜す。
「お人好し」と「親切」あるいは「めんどうみがいい」というのは似て非なるものです。「おひとよし」というと、自分を犠牲にしたり、いいように使われてしまうというようなちょっと負のイメージ。実際、ほんとうに「いいように」使われちゃっているのでしょうか?「おひとよし」の正体とは?
「おひとよし」には、二つのタイプがあると思います。
たとえば、悪口や陰口をいわれても心底反応しない、というか好意的にしかとらえられない人。「あの人がこんなこと言ってたよ」といっても、「そうなんだ〜♪そういうとこもあるかもね〜」とにこにこどこ吹く風。ほんとうに気にしていないし、どこかノーテンキなのです。
このタイプは、自分の外側に存在するものに対しての信頼があるので、争わず、戦わず、風になびく葦のように、ものごとを愛でています。そして、自分が苦しくなる余計な信念はかかえないのです。そして、何も失うものはない、とわかっているので怖れがありません。存在していることで、どこか自然に人を癒してしまう天然「おひとよし」さん。
さてもう一方は、「人からよく見られるために」「あるいはいイイ人だと思われたいため」に「おひとよし」を装います。これは、心底の「おひとよし」というよりは、「見返り」を期待してやっているもの。一見いいなりになることで、ちゃっかり欲しいものを手にしようという隠れた意図あり!いいなりになることで、優位な立場に立とうとするのですね。しかし、周囲の人々は潜在意識下でその策略に気づいています。「おひとよしね〜」というニュアンスの中には、「あざとい」とか「ぶりっこ」とか「ちゃっかり」という批判や皮肉がこもっている場合もあります。
このタイプは、誰の心の中にもある負の感情をよびさますします。まわりで見ている人は、自分の中の同じイヤな部分を白昼にさらされるようで不快感をおぼえることも。
なので、天然の「おひとよし」さんはおおいに結構!でも、もしなんらかの意図(自分を守るとか、手に入れるとか、他人をコントロールする)でやっているとしたら、結局それは自分を傷つけることになってしまいます。なぜなら、「自分はガマンをしないと欲しいものが手に入らない存在だ」と決めてしまうことになるから。それに、せっかく「おひとよし」をやっても思うような見返りがなかったら、いつか大きな怒りと恨みにかわり豹変・大爆発するおそれも・・・おおコワ。
自然体がいちばん!
クライアントさんとのやりとりの中で、あるいは自分の心の中のつぶやきに耳をかたむけて・・・つくづく思うのですが、どうして人は「自分を幸せにしない考え」に固執するのでしょう?
「あの人ったらヒドすぎる」「なんで私ばっかり」「どうせ私なんて」・・・自分をみじめにさせ、イライラさせ、未来もない絶望的な気分にさせる考え方・・・それをいつまでも手放そうとしません。たいてい、みなさんこうおっしゃいます。「だって、それは今私がそう感じているんだから、まぎれもなくホントのことでしょ!」と。
「感じている」からホントのことなのか・・・?
「感じ」ってそんなに普遍的な真実なのでしょうか?そのわりには、その日の天気や、寝起きや、他人の言葉でころころ変わるような・・・。
「感じてるからホントなの?あんがい違うかもよ〜」とわたし。
その場面で、そう感じなきゃいけないルールなんてないんですもの。同じシチュエーションで十人の人に気分を聞いたら、たぶんみんな違うはず。
「気にもとめない」人もいれば、「一生の大事!」とあたふたする人もいたり・・・。ということは、そのものごとよりも、その人の「経験」から生み出される「考え方」が人を苦しめたり楽しませたりしている正体ということです。
そして、たいていネガティブな感情の裏には「たくらみ」があります。腹をたてることによって、まんまと被害者になりすまし相手に罪悪感をおしつける。「ひっひっひっ。あなたってじつは、こ〜なにヒドイ人だったのよ〜。知ってた〜?」と相手を無言で脅迫。あるいは、落ちこんで無力な自分を装うことによって、優しい誰かさんをまんまとコントロール・・・。こんなたくらみの上によい人間関係がきずけるはずもありません。
「ある感情」を感じたとき、ちょっと考えてみてください。
「この感情は、私をハッピーにしてくれてる?」
もし、そうじゃないとしたら、じゃあ何でやっているんだろう?ほんとうは、どんな感情で自分の人生を満たしたいのだろう?と。
(次回に続く)。
どうしても、「あいつが悪い!」「私は被害者だ」といいたいときは・・・・、結局戦いのゲームが好きなだけ。誰かを悪者にして、じつはコッソリみずからの劣等感のうめあわせをしているのです。
ネガティブな感情を感じるとき、そう感じたいならどうぞぞんぶんに感じてみましょう!脇にどけて無きものにしたとしても、決してなくなりません。でも、感じるときは、いさぎよく5分だけね。しっかり向きあって感じていると、あんがい数分で跡かたもなく消えてしまったりします。そして、必ずしもそう感じる必要がないことを自分に教えてあげてください。
幸せって、こんなちいさな感情のコントロールから手に入るもののようです。
真綿で首をしめるようにあなたを苦しめる「真実の感情」のフリをした「エゴのささやき」にご用心。そんな真綿は拒絶して、堂々と幸せの王道となる考え、感じ方を自分で選ぶこと。いらない感情は無視してやりすごし、感じたい感情のために自分にとって健全な考えを選びましょ♪そう!「選べる」んです。でも、「今、カッカと感じている自分の感情から離れるのはむずかしい」と感じるかもしれません。
そんなときには、「幽体離脱モード」を使ってみましょう。
つまり、自分をいきなり「彼」とか「彼女」とか「それ」にしちゃって、ちょっと身体の外から感じてみます。「なるほど〜。彼女は今、怒っているんだな。大切にされていないと感じているんだな」というように。
ちょっと外に出て自分をながめてみると、自分の怒りや落ち込みの理由が見えてきたりします。怒っている裏側には、じつは自信のなさがある・・・とか、落ち込んでいる裏側には無力感があるなど。
そうすると、自分の外にあるものに腹を立てていたのが、実は「自分で自分が限りなくふがいない」と信じてあたりちらしていたことに気がつきます。そんな気持ちを見つけたら、自分自身が愛してあげてください。「ああ、そんなふうに感じてたんだね。そっか〜そっか〜。こわかったんだね」と。
べつに何かすごいアドバイスをしてあげる必要はありません。ただ、「うん、うん」と耳を傾けて、理解してあげれば十分。
なぜなら、外側にあたりちらして被害者になりたいときには、じつは自分で自分のことを好きになってあげてないときだからです。外に見える不快なものは、すべて自分の映し絵。自分の影帽子。自分で自分を足蹴にして、切り刻もうとしてるわけです。
こんな自分の弱さ、ふがいなさをちゃんと見て、気にとめて、受け入れてあげる。そんなプロセスの中で、小さいころの癒されていない感情の数々に気づくことになるかもしれません。ただ気づいて、受け入れることによって、外側の世界は少しづつ平和になってゆくのが感じられることでしょう。
「ぜったい幸せにするから僕と結婚してくれ」
・・・・よくあるプロポーズの言葉。
いっけん、ウルワシ〜ク響きます。女性にしてみれば言われてみたいセリフかもしれません。
が・・・「ええっ!!そんなこと言っちゃっていいの?」というのがわたしの正直な感想。こんなプロポーズするから離婚率が高くなるってものです。それに、ダンナさん、ご自分の首を限りなくしめることになりますぜ・・・。
だって、こう言われた奥さんは、ちょっとでも幸せ感が薄くなったとたんに、「ちょっと、ちょっと、アンタの努力がたりないせいでワタシちっとも幸せじゃないわよ。あの約束はどうしたの?」とダンナさんを責めはじめます。
すると、だんなさんはアセって、「じゃ、じゃあ、これならどうだ!」と甘やかし、「ぜんぜん、たんな〜〜〜い!」とダンナさんにさらに要求(人の欲望は限りなし)、「ほんじゃ、こ〜したらどうじゃ?」と頑張れば、「まったく的をえていない」と奥さんの怒りが爆発し・・・さらなる悪循環へ突入。で、奥さんのくちぐせときたら「あなたと結婚したばかりに・・・云々」。ダンナさんは自信も魅力も失い、たんなるダメおやじと化してゆきます。そして、奥さんはさらに見捨てる・・・。
こういう奥様は、誰と結婚しても結局は幸せじゃないのがわかってないのですよね。
人が幸せに感じるか感じないかは「誰かに何をされたか、されないか」とう問題ではない・・・ということになかなか気づけません。
ダンナさんが外側から幸せ感を押しつけてたとしても、一瞬は「あ〜幸せ♪」って感謝されるかもしれませんか、その努力はあっというまに底なし沼に吸い込まれ、あらたに拡大した要求となってダンナさんに襲いかかることになるでしょう。
(次回につづく)
「君を幸せにできるのは僕しかいない」
このセリフ、「あなたの幸せの責任は僕がとります」と断言してるようなもの。いいんですか〜?そんなこと言っちゃって?
幸せか幸せじゃないかって、「個人」の心が選ぶもの。早く言ってしまえば、人が最悪って思う環境でも「幸せ〜♪」と満喫してしまう人もいるし、こんな申し分ない環境だったらさぞ幸せであろうという人でも、「わたしほど不幸モノはいない」とおもってる人もあり。「個人」の心のバランスなわけです。そのバランスは他人には変えることはできないのです。
だから、「ぜんぜん幸せになれない!」と、ダンナさんを何回とりかえてもモトノモクアミ。その奥さんが自分のものの見方と共存している限り何も変わらないのです。自分が問題のみなもとだから。
それを他人が満たしてあげることができると誤解すればするほど、乾きを増長させるというメカニズム。奥さんの心の中の「幸せを感じるセンサー」は故障しているので、ちょっとでも献身的に与えてくれる人を見つけると、この人さえもっとたくさん与えてくれれば問題は解決すると思ってしまい、いよいよ吸血鬼化してしまいます。
結局、どんな問題でも外側から何かを与えたり加えたりして癒すことはできないのですね。なぜなら、どんな問題も外側には存在せずに、そのひと個人のものだから。「幸せにしてくれ!」といっくら外側に向かって叫んでも何をどうすることもできません。
結局はすべては自分。視点をぐるりと180°転換させて自分に向けること。他人に期待するのはやめて、自分の心と正直に向き合って、心の声をきいて、何が自分にとって心地よいのか、そのために自分がどうすればいいのかをちゃんと聞いてあげなくてはならないのです。自分に与えられるのは自分しかいないのですね。
セラピーでのひとこま。
クライアントさんがご自分の問題を話されます。
よ〜くお話をうかがったうえで、違った角度からのものの見方を提案させていただくことがあります。「こんなふうに考えることもできますよね〜?」と。
そんなとき、「そうそう、そうなんです。それはもう知っています」とか「それは聞いたことがありますから」と、どんな考えもアドバイスも立て板に水のごとく、ソク右から左へと却下されることがあります。
そんなとき、ちょっともったいないな〜と思います。
なぜなら、知識で知っているかどうかをお尋ねしているわけではないからです。「頭でその知識を知っていること」と、それを「人生に受け入れる」「それを生きてみる」ということはまったく別なことなのです。
たしかに、どこか本で読み知った知識かもしれません。でも、知識はあくまでも知識。「頭のレベル」です。
わたしたちをつき動かし、人生を操作しているのは、「心のレベル」「潜在意識のレベル」です。頭のレベルに山のように知識をつんでも、行動はなかなか変えられません。
頭でさんざん知っていることだからこそ、本当に変わろうとするときは、それをもう一度受け入れて、どういうことなのかじっくり感じて、味わって、そして潜在意識に落ちるまで気長につきあってあげなければならないのです。ほんとうに心を開いて、自分に迎えいれてあげることなのです。
たとえば、自己啓発本などで「よ〜〜し!元気をもらったぞ!」というとき。直後はまるで人生が変わったように生き生きするのですが、一週間もするとあの感動パワーはどこへやら。なにひとつ変わっていない・・・。読書という頭脳レベルの刷り込みは、日常生活の刺激によってすぐにかき消されてしまいます。
そうならないためには、「知っている」「わかった」というレベルから、「もう、聞くのもイヤ」という「うんざりレベル」までもっていかなければなりません。
たとえば、この本の考え方はすばらしい!と思ったら、今日から三ヶ月間は寝る前に同じ本を読み続けるとか。感動したセンテンスを書き出して、毎日目を通すとか。とにかく、(頭で)「わかったぞ!」のレベルを超越して「いいかげんにしてくれ〜!うんざりだ」というところまでいかなくてはなりません。「うんざり」すると、その考え方と自分がひとつになって、あらたな自分の考え方のスタンダードとして確立します。潜在意識に落とし込むことができるのです。
今はなんでもスピードの時代。「はい、わかった!次ぎ!」といいたいところです。が、是非自分があらたに持ちたい考え方、生き方があったら、「わかった」段階から「もう、うんざり」までしつこく取り組んでみてください。ここまでくると知らぬ間に、ものの見方が変わっています。
しつこ〜いコテコテ読書は魂を育ててくれますよ。
自分がある経験に直面することによって、はじめて自分の本心、望みが見えてくることがあります。
どういうことかというと・・・、
信じていることがわたしたちの現実を創りだすという考え方から、「その人が経験していることを見れば、その人が何を本当に信じているかがわかる」といいます。
つまり、私たちの経験は自分が「何を信じているか」にもとづいて創りあげられるわけなので、結果としての経験をつぶさにながめることによって、自分の深いところにある潜在意識下の本当の思いを知ることになるのです。
人との関係がダメになるとき、潜在意識下では「もうこの関係は十分だわ」「終わりにした方がいい」ということを「お互い」(これは片方ではないのですね)がわかっていて、それが表面化されついには別れにいたるものです。でも、表面の意識、つまり理性ではそのことが理解できずパニックに陥ったり、被害者になったり・・・・。でも、こうして見ると、両者同時にあきらめに達しているので、被害者は存在しません。
また、何か目ざすものがなかなか手に入らないような場合も、たんにたくさんのモノを持ちたがるエゴ(表面意識)がそれをほしがっているだけで、じつは深いところにある自分の目的にはそぐわないのです。つまり、深い部分では望んでいない。手に入らなくて当然なのですね。
だから、目の前の結果が好きでなくても、でもじつは重要な軌道修正だったり、真実の自分に気づかせてくれるチャンスだったりします。
でも、興味本位のエゴはいぜん「そっちに進みたい〜!」と抵抗を続けることもありますが・・・。 (^。^;)
「なるほど〜、これがわたしが欲しかったものかぁ」と完璧に自分が創りだした結果として味わうとき、また次ぎの選択、つまりあらたに何が欲しいか意識的に選びなおすことができ、次ぎなる展開もやってくるのでしょう。むむ・・・。
昔から、「くじ引き」「抽選」「じゃんけん」のたぐいは、妙に自信があります!得意です。
だいたい「歳末抽選会」のようなものは家族代表として引かされていたし、実際それなりの実績もあげておりました。
「くじ引き」だったら、すくなくとも二〜四等はあたりまえ、ときには一等も!
生涯二度だけ買った「宝くじ」は、六千円と三万円の当たり。かなりささやかですが、いちおう当たりだわ!(^-^;
ハガキで行われる「抽選」ものは、当たりの常連。だから、ぬいぐるみやら、ブランドものの食器やら、雑誌の無料購読やら、戦利品は数えきれません。
「じゃんけん」も、イケます!その昔、「ランチただメシ」を賭けてよくじゃんけんをしましたっけ。もちろん圧勝。でも、わたししか勝たないからつまらな〜い・・・と文句jを言われましたよ〜。
でも、英会話のグループレッスンに通っていた頃は、じゃんけん圧勝がわざわいに。いつも「じゃんけん」でそのチャプターのサマライズ(要約)をする人を決めていたのですが、それもなんなく連勝。勝って「まぬがれた!」と喜んでいると、外人の先生に「勝ちとった君ができるんだ!おめでとう」と言われ、毎度四苦八苦でサマリーをしてました。
ある人は、「運には限りがあるから、そんなことで使い切ったらつまらない」などとおっしゃいます。なるほど〜。そう思っているその方には、使いきった運は支給されはしないでしょうね〜。
こういう「当たり」ものの場合、生計や生存がかかっていないので「当たらなかったらどうしよ〜」とか「お願いだから、当たってくれ〜!」という怖れや執着がないので、一回「当たるぞ!」とインプットしてしまうと、そのプログラミングはまったく邪魔されずに繰り返されるようです。
わたしの場合は「当たりグセがつけばつくほど、もっと当たる!」と信じているので、どんどんパワーアップ。信じれば信じるほど、加速してゆきます。
そして、「運」に限りがあるほど、神さまはケチではありません。むしろ、いっぱい受けとってほしいのです。プレゼントしたいのです。(^-^)v
だから、「いっぱい受けとるぞ!」と軽く決めてしまいましょう♪
すると、ほらお届けものがひとつ・・・。
「ウェスティンホテル東京」のお食事券一万円分!!けど・・・・、いったいこれいつ応募したかしらん・・・??(笑)
コンタクトレンズをリニューアルいたしました。
メニコンメルスプランのメンバーになっているので、年に一回は新調の機会がやってきます。しかし、こまごま視力を測定したり、眼科にかかったりが面倒で一年たち二年になり・・・。ようやく重い腰をあげました。
足が遠のいているあいだに新しい製品ラインが開発され、さらに薄く、さらに小さく、さらにクリアに。そして、微妙に変化している視力にもあわせてもらい、視界がくっきりさわやか。心持ちも変わろうというものです。単純。 (^。^;)
でも、わたしたちはふだん「心の目」で世界を見ているので、実際の視力の矯正よりもじつは「心の目」の矯正のほうが大切。実際の目は外側で起ったことを映すだけですが、それをどのように解釈し、どのように自分の経験とし、どのように自分の成長の糧とするかは心の目が判断すること。
心の目が近視になっていると問題に固執してどんどん狭い視野にはまりこんでゆきます。だから、ドツボにはまったように困った状況から抜け出せなくなります。問題の解決は、問題よりも大きくならないとできないのですよね。
あるいは、心の目が乱視になっていたら、自分に向けられるたくさんの優しさや愛情があったとしても、それを歪曲してしか体験できないかもしれません。。
だから、心の目の視力も計れたらいいのにな〜と思います。
「今、ちょっと心の目の視力がおちていますね〜。お疲れのようですから、おいしいものを食べてたくさん寝ましょう」とか、「心の目が乱視ぎみですよ。ラクになる新しいものの見方、考え方を処方しておきましょう」なんてね。
心の目が健康で澄んでいると、同じ世界に住んでいても見える景色が違ってきます。
ふだん感じてる世界よりも、より平和で愛にあふれて、そして思いやりのある、そんな世界を体験できるでしょう。
「心の目」の視力こそ、幸せを感じるキーポイント。
「オフィス・るん」では心の視力測定でもはじめましょうかね〜。
いつもいろんなことに対して「あ〜でもない、こ〜でもない」と思い悩んでいる友人がいます。
見ているとなにやら大変そう・・・でも、話を聞いてみるとそんなにさし迫った状況にあるわけでもないのです。たぶん、これが彼女のふつ〜の状態。「あ〜だ、こ〜だ」しているのがノーマルで習慣になっているようです。そんなこと言ったら怒られそうです。「真剣に悩んでいるのよ!」と。(でも、こころの状態って習慣になっているのでご注意を。怒っている人はいつも怒っているし、心配している人はいつも心配している。それが自然らしいのです。)
私は彼女の目の前に座って、「きゃ〜!このブルーベリータルトおいしい〜!食べてごらん」とノーテンキ。
もちろん、わたしもときには落ち込み、友人にお助けコールをしたりすることもあります。でも、基本的にはお気楽人間です。
だって、わたしたちは五感で人生を感じて楽しむために、この身体をもってこの世にやってきているのです。それなのに、五感で人生を感じることもなく、頭の中にばかりとじこもっていたらもったいない!頭の外に出なくちゃ。感じなくちゃ!
それに、ブルーベリータルトのおいしさを満喫しているときは、同時に悩みにはまることはできないのです。「おいしい〜♪」とか「楽し〜♪」「幸せ〜♪」と言っていると、人生はじつにシンプルになります。なぜなら、それしか見えない。
今日の空の色は今日だけのもの。今そよいでいる風だって、たったこの瞬間だけのもの。そして「ブルーベリータルトの味なんてしってるよ!」というかもしれないけど、このブルーベリータルトだって、きょうしか味わえないブルーベリータルト。
生活の中には何ひとつとして同じではないサプライズが毎瞬用意されているというのに、思考にはまって、思考の中に住んで、イメージを巡らせることで疲れてしまってはもったいない。それは、現実逃避。
たった今の風を感じて、たった今のブルーベリータルトを味わって、たった今一緒にいる人をいつくしむ。ちゃ〜んと「今」ここに生きていると、ほら、自然とあなたの次ぎのステップさえも用意されているのがわかるのです。でも、それは頭の中に住んでいては見えてこない。
頭のおしゃベりのスイッチはきって、今ここにいて五感のすべてを使って今を生きる。すると、どうやら自分のための人生の流れに乗れるよう。
さあ!外に出て、五感をフル活用して、「今、生きてる!」って実感してみて!
梅雨明けとともに、なにやらとっても忙しくなってきました。どんなに暑くとも、やっぱり人間は太陽が顔をだすと活発に動きはじめる生き物なのでしょうか?
なので、一日が「あっ!」というま。時間に追われるというよりは、時間を追っている感じです。
そんななか、いちばんフラストレーションの原因になるのが、「心」がついてこないとき。自分のしていることがなかば自動的になって、しっかり「心」がこめられていないとき、楽しさも充実感も達成感も消え失せてしまうようです。
ふと、そんなわたしを心配そうに見つめる二つの目・・・。カメちゃんじゃありませんか!お友達が花をいける剣山として焼いて下さったカメちゃん。形も表情も愛らしくて、花瓶に入れるよりはいつのまにかペーパーウェイトとしてデスクからわたしを見上げています。
彼をみていたら、自分の「あたふた」度に気がつきましたよ〜。
心がお亡くなりになると書いて「忙しい」。思わずゆっくり大きく呼吸をするのを思い出しました。「ゆっくり、ゆっくり、ていねいに、心をこめて・・・」ね。
ホコリというものは、知らぬうちに、うっすら、うっすら、つもっていって。
ついには、ホコリにすべてがおおわれていることにすら気づかなかったりします。
たとえば、自分の部屋のホコリ。
ふだんは、どこにどれだけたまっているのか気づきもしない。
はじめて、誰かが遊び来ることになったとき、
あらためて他人の眼で部屋の汚れをチェックしてびっくり。
こんなところに、こんなにホコリが・・・。
心も同じ。しらぬまに、うっすら、うっすら、ホコリがたまるのです。
セラピー中に使う心のクリーニングメソッドをあれこれ考案するとき、
いつもまず自分を実験台にしてみます。
やってみたらどんな感じがするのか・・・? を試すのです。
で、新しいメソッドを試みてみました。
・・・・おっ!なんか、なんだか、いい感じ。
たまりにたまっていたものがゴッソリとれたような気分。
世界がよりヴィヴィッドに見え、より安らいで平和に感じられます。
すると・・・、ここ数年、「こんなことしたいな〜」とおもい描いていたコト、
どうやってすすめたらいいのかな〜とずっと思案していたコトが、
あらら、向こうから勝手にやってきたではありませんか。それも、三つも。
目標を達成するのにしゃかりきになって疲れはててしまうことがありますが、
これこそホントの目標の達成の仕方。
「リラックスしながら、目標のためにやることはちゃんとやって」あとは、
「自分自身の真のパワーを覆い隠しているホコリを取り除く」すると、
「案外簡単に、なるようになってしまう!」
わたしたちの日常の「あ〜だ!こ〜だ!」の感情は、
一見どこかに消え去ったように感じても、
じつは心の奥深くにストックされて、本来のパワーを覆ってしまうようです。
自然の流れの中で手に入れられるものをも遠ざけてしまいます。
三つの目標のうちの一つは長年あたためてきたもの。
どうやってとっかかりを作るかを友人とも話し合ってきました。
しかし、なんのことはない、あっけなく向こうからやってきた。
それも、極上のもの、自分がイメージしたものよりもずっといいものです。
そとがわの物質にいどみかかって目標を達成しようと頑張るよりも、
心のすす払いをして、自分のほんとうのパワーを解放してあげることが大切なのですね。
目標達成としては、しごく省エネな感じですが、結果はけっこう大満足ものですよ。
思わず「欲」が出て、ヒマさえあればすす払いにいそしんでいます(笑)。
家族、友人、パートナーと親密な関係を持てることはすばらしいこと。まさに、人生の贈り物です。でも、最近は「愛情」で結びつくというよりは「執着」で結びついて、自ら苦しむケースがふえているように感じるのです。あまりに相手に多くを期待・要求しすぎたり、また犠牲しすぎることで、自分の自由がなくなりボロボロになってしまうというように。
幼少期の両親との関係のなかで「自分が欲しくても得られなかった!」という体験は誰にでもあるもの。誰の幼少期も完璧ではありません。でも、その欠落を現在の親密な関係の中で埋めようとすると、ひどく相手に期待したり執着することになります。そして、そんなコテコテの感情を愛情だと勘違いしてしまい、「こんなに愛してるのにあなたは何もしてくれない。あなたはひどい!」あるいは「愛を得るためには奴隷になる」という苦しさに突入します。どちらも自由がない状態です。
自分の愛する相手が、この「欠落」(たとえば、認めてもらうこと、甘えさせてもらうこと、無条件に愛されること・・・etc)を埋めてくれて当然だと考えると、「なぜ、あなたはわたしの思うようにしないの」とつねに文句たらたらになります。相手を責めます。そして、欲しいものが手に入るように密かにコントロールし、攻撃し、ついには思うようにいかない現実を相手のせいにして恨みつらみをつのらせる。
おそらく、いくら相手を変えようとして戦っても、それは負け戦となります。なぜなら、どんどん嫌われてしまうからです。。
もともと人間関係は「他の人間」との関係ではないのです。どういうことかというと、人間関係は自分自身との関係、つまり「自分」関係。自分がその状況をどうとらえるのか、どう対処するのか。だから、誰とつきあおうとすぐに自分のパターンが露呈してしまうことになります(この相手だとうまくいかない!と、次ぎの相手をさがしても、また同じ結果になったというのはよく聞く話ですね。ようは自分です)。
人間関係で怒りを感じると、相手に責任を負わせて悪者にしたくなりますが・・・ちょっと待って!さて、なんで自分はその「怒り」を感じているのでしょうか?自分の中で何が起きているのでしょうか?あなたは相手の何に刺激されたのでしょうか?たぶん、「怒り」の下には弱い自分がいます。泣いてる自分、打ちひしがれている自分。その声を聞いてあげてください。
「何を手に入れたかったのか?」そして「それは、過去の誰との間で手に入らなかったのか?」・・・・。そう考えると、本当に怒りを感じているのは自分の「目の前の人」ではないのがわかります。何かに触発されて、古い感情パターンを繰り返しているのです。
わたしたちは、その感情のほんとうの声に耳を傾けてあげる必要があるのです。「そうか〜、子供のとき、いつもお母さんに認めてもらいたいって思ってたんだ。その穴を、わたしはこの人で埋めようとしてたんだな〜。あのときは、自分をそのままちゃんと見てほしかったんだよね」と耳を傾けて、過去の感情の穴をちゃんと認めてあげます。
つらくて直面するのがこわいからずっと穴があいたままなのですが、ちゃんと穴ぼこの存在を認めると不思議と穴はうまろうとします。ただ、その悲しみをそのままうけとめたら、手放してあげるのです。傷ついた自分がほっとするのに気づくはずです。
そして、「怒り」の分析がすんだら、相手にはおだやかに「あなたの行動に怒りを感じたけど、じつはわたしの中にはこんな悲しみや癒されない痛みがあってね・・・」という話をすると、相手は受け取れるものです。「そうか〜、そんなふうに感じていたのか〜。その気持ちが癒されるように助けになるよ」となるわけです。
わたしたちはその人を愛するがゆえに、この穴を埋めてくれるのはこの人しかいないと勘違いし、期待し要求し、ついには「ほしいものが得られない怒り」を感じて大切な人との関係をこわしてしまいます。しかし、つねに自分の感情としっかり向き合う気持ちを持つと、相手を悪者にせずに「大切な人」としての関係が深まってゆくのです。そして、なによりも自分自身が相手から自由になれることがいちばんすばらしいところです。
大切な人だからこそ、長くおつきあいしたいものですよね。
「リコネクション」のセミナーが終わった〜! \(^O^)/ といいつつも、その後「マネジメントセミナー」「公認プラクティショナー認定試験」のお手伝い、エリックの「ライト&インフォメーション」と続き・・・いよいよこれでほんとのほんとに終わったぞ〜!と雄叫びをあげたい気分です(笑)。
セミナーやもろもろの行事の間は、TA(ティーチングアシスタント)のお仲間と「同じ釜の飯」ならぬ「同じ冷たいお弁当」をつつきつつ、あれやこれやと同じ時間を過ごしてきました。でも、いざ終わってみるとそんな日々も妙になつかしい・・・。
エリックがセミナーのなかで「Next!」という言葉をよく使っていました。
文字どおり、「つぎ!」ということなのですが。つまり、クライアントさんにヒーリングを施したら決してふりかえるな!と。つまり、「あの人、どうなったかな〜」とか「ちゃんとできてる?」などなど・・・。
「必要なことがすでに起ったことを知り」「けっしてふりかえらず」そして、大きな声で元気よく「つぎっ!(Next!)」ということ。
これはプロセスを信頼すること以外のなにものでもありません。この信頼が、起るべきことのすべてを起こしてくれるのです。なんにしてもそうですが、わたしたちは往々にして過去に目線が向きがちです。「あのとき、ああすればよかった」「こうだったら、うんぬん」・・・。でもそれって、ほおっておけばなるべくようになるものの邪魔をしてしまうことなのですね。
ひとつ心をこめてなしとげたら、もうふりかえらない。「Next!(つぎっ!)」と号令をかけて、いさぎよく未来に目線を向ける。わたしたちは、過去でななくてまっさらな時間を生きるためにここにいるということ。「Next!」、これこそ新しい扉をどんどん開いてゆく秘訣だと思うのです。
Eric, Thank You!
昨年の暮れからきょうまで一ヶ月、まるで喉にひっかかった魚の小骨のように、消そうとしても消えない思いがず〜っとそこにあったのです。いいえ、小骨なんかじゃない!それはタイのあばら骨級!痛み、悲しさ、怒り、無力感・・・。
いつもそこにそれがあって、痛みとともに生きることを選択しつつも、自然に治癒することを祈りつつ、ときには自分で強引に引き抜いて投げ捨てたくなったり・・・。
そんなわたしの状況を知る友人は、毎日電話でわたしのつらさの「ゴミ箱」になってくれたり、また数人の友人は顔をあわせなくてもエネルギーで一生懸命応援してくれているのをひしひしと感じたものです。
ものの本には「どんな体験も贈りものです」とあり、たしかにわたしも経験からよくこの言葉を使います。でもね〜、当の本人はそんなこと考えたくもなかったりするのですよ。渦中にいるときは。(お〜、クライアントさんの気持ちがよ〜くわかる!)
そんなツライ思いをかかえているなか、わたしにやってきたメッセージは、「全部、失ったと思って振り出しにもどれ!」だったのです。「振り出しにもどる」・・・??「振り出しにもどる!」ってけっこう潔くって、イメージしただけでも晴れ晴れするものを感じました。自由になって身軽になる。逆に、どんな可能性でもあるような。晴れ晴れしたらふと浮かんだ次ぎなるメッセージは、「ああ、わたしが欲しいものではなくて、宇宙、神さまがわたしに与えたいと思っているものを受け取りたい!」という気持ちだったのです。わたしのエゴから望むものではなくて、ほんとうに私の存在を慈しむ方が与えたいと思っているものを。そこでお願いしました。「わたしに与えたいと思っていらっしゃるその最高のものをください」と。
すると、次ぎの瞬間、ひとつの電話がかかってきて見事にわたしの喉の「大骨」はポンっと抜け去ったのでした。あっけなく宇宙の彼方へ。・・・すごい。あまりにも簡単に片づきすぎ・・・。この一ヶ月のあの思いはなんだったの?!
でもね〜、今、はっきりと声を大にして言えます。一ヶ月、正直シンドかったけれど、でもこの体験がわたしの人生にあったことに心から感謝します!と。「宇宙の流れに対する信頼」「手放すこと」「人に助けをもとめること」「自分を信じること」・・・ひとつひとつ書き現せないぐらいたくさんのことを学びました。お腹の底から「知る」って、こういうことだって思った。
年始からハードなレッスン、いえ、素晴らしいギフトをいただきました。う〜〜ん♪まわりのモノが人が出来事が、以前にもましてステキに見えます。神さま、でももうちょっとお手柔らかに・・・。
しばしホテル住まいをして自宅にもどってきたら・・・ありゃ?使っていなかったわりには、なに?この綿ぼこりと荒れた雰囲気は・・・?
こんなことに気づいたことありませんか?ふだんお庭の手入れなどしていないお家。それでも、どうにかなっているのですが。いざ引っ越しをされて人の気配がなくなったとたん、びっしり雑草だらけ。ふだんから草むしりをしていたとも思えないのに、あっというまに背丈ほどの雑草で埋め尽くされています。雑草は人がいるとかいないとか、わかっているのかい?と思ってしまうほどです。
ほんと「人の注意」が欠落すると、ものごとは崩壊してゆくようです。モノゴトは注意で支えられているから。たとえば、しっかり向き合って大切にしていない人間関係、とくに男女関係。他の人によそ見をするや、あっというまに崩壊の一途。慈しみの眼差しをもって育てなければ、関係は枯れてしまいます。あるいは、ぞんざいに扱っている自分の身体。いたわりの気持ちが足りないと、あなたの注意が欲しくて病気になりますよ〜。そう、わたしのパソコンやカメラさえも、ねぎらってあげないとストを起こします。ほんとに。
一方、もしも自分の人生に「いらないもの」があったなら・・・・注意を向けない。ただ、ただ、静かに注意を外すだけ。あなたの身体の調子の悪いところから静かに注意をそらして、健康でよく働いてくれてるところに向けてあげる。また、いらない彼氏(彼女)ともバトル前に注意をはずしてしまいましょう。これで、すべてしょうめ〜つ!!(笑)のハズ。
わたしも最近忙しくてほっておいたモロモロ、いつくしんで過ごしましょう♪
ヒューレン博士の「ホ・オポノポノ セミナー」どうでした〜?とみなさんに質問されます。
もともと、このヒューレン博士、「犯罪を犯した精神障害者の施設で、ただの一度も面会やカウンセリングを行うことなく、ことごとく全員を癒し退院させてしまった」という幻のセラピストとして存在が広まりました。セラピーを生業にするものにとっては、「それって、いったい何?」とたいそう興味をひかれたものです。
ヒューレン博士の考えでは、「自分の外側に見える問題は、すべて自分の潜在意識の中のまちがった情報が投影されて起っている」ということ(これはまさに、わたしの行うセラピーでも基本中の基本の考え方です)。そして、「ごめんなさい」「許してください」「ありがとう」「愛しています」という言葉を言うことによって、自分の潜在意識の中のまちがった情報をクリーニングしてゆくのです(潜在意識のクリーニングというのも、ヒプノセラピーのやり方と同じです)。このメソッドの大きな利点は、一人でいつでも何に対しても行うことができること。
セミナーでは、自分のほかに、場所、人、モノ、食べ物を浄化するためのクリーニングツールをたくさん習います。このモノ、人、場所の浄化に関しては、少々「・・・・??」なわたしでした。
なぜなら、もともと「自分の外側には何も存在しない」と信じているからです。外に何もないなら、外を浄化してもしょうがないというわけです。それに、「浄化しなきゃ」という怖れをもつことで、浄化しなきゃいけないことを体験するはめになります。
わたしたちは何かを「怖い」と思ったときに、はじめてその影響を受けてしまうのです。自分の「怖れ」から浄化しなくきゃならないものを創りださない限り、浄化が必要なものなど何一つないわけです。「あれも、これも浄化しなきゃ」という考えを持つと、わたしたちはどんどん小さな存在になり、じつはそれを創り出している自分の存在さえも忘れてしまいます。怖れるものは、ただひとつ。「自分の内側」、「自分の怖れ」だけ。外にその理由を作ってしまうと、わたしたちはどんどん無力になるいっぽう。だから「自分の内側の怖れ」だけを手放して、外のことはほっておきましょう。というわけで、このモノ、人、場所に関するクリーニングツールは、わたしにとってはおまじない的ちょっとしたお遊びだと思っています。
今回のセミナー出席の目的は、ヒューレン博士のオーラを感じること。たくさんの言葉よりも、ヒューレン博士の存在自体がわたしにとってはしみわたるものがありました。
「ホ・オポノポノ」での自分の潜在意識のクリーニングはとってもシンプル、お手軽で気に入っています♪すべてのことを「自分が創りだした」「責任はわたしにある」と全面的に受け入れる気持ちをもつだけでも、すぐに現状に変化がでてくるものです。
むずかしいけど、偉大なパワーをもつ「自分で責任をとる」とういう考え方。はい!精進いたします。
カウンセリングでしばしば耳にするコメント、それは「世の中って不公平。知り合いの○○さんは親がお金持ちだから生まれたときから何でもやり放題。わたしときたら云々・・・」
たしかに、各家庭の経済状態はおのおの違います。
昔はわたしも「はじめからすべてを持っている人は人生ラクでいいな〜」と思ったものです。しかし、長年こういう仕事をしているとまた違った目線を持つようになるのですね。
その人にそのとき起っていることは、その人の人生のほんの小さな通過地点にすぎないということ。すべてのことは変化してゆくのです。そして、それぞれの人生の中には山あり谷あり、さまざまなことが起こります。たった一点、一時期を見てその人の人生を判断することはできないものです。おうおうにして、谷間の部分は人に語られることがないのです。カウンセリングルームの中で語られることはあっても。そして、人の心はたくさんの葛藤を抱えているのが常なのです。
だから、もし誰かの人生をうらやましく思うなら・・・「生まれてから死ぬまで、容姿も家庭環境も性格も感じ方も、苦しみも葛藤もなにもかも、その人と入れ替ってみましょうか?」とわたしはたずねます。それは、今の自分をみじんも残さず、その人になり替わるということ。
もれなく、みなさまのお答えはNo!です。「いやだ〜!○○ちゃんの経済状態はうらやましけど、まるごと彼女にはなりたくない」と(この問いでYes! と答えた人が一人もいないことから、結構わたしたちって自分が思っている以上に自分を愛してるのかも・・・)。
わたしたちはその人の光っている部分にばかり注目して欲しがるけれど、隠されているどんよりした部分もたくさん存在しているのです。それに人生は長い。今、光っているからといって、一生光り続けられるとも限らない。自分の人生も長い目で見てあげましょうよ。
いちばん幸せなのは、何かが「欲しい」という気もちがあって、そしてそれがなんとか「手に入って」、そのことに「感謝して」「喜べる」こと。
おうおうにして、はじめから持っている人には、それがあまりにもあたりまえすぎて、それを「持っている」」という自覚すらないし、「欲する」気持ちもないのです。「わくわく」も「どきどき」も「やった〜!」も「神様、ありがと〜」もないわけです。つまり、体験としては何も起こっていないわけです。けっこう、退屈?
それにくらべて、「欲しい」「持ちたい」「体験したい」と思っている人は、豊かな人生に恵まれます。なぜなら、わたしたちはその気持ちのすべてを体験できるから。
なぜ、わたしたちが身体をもってここにいるのか。結局、「体験」したいのですよね、せっかく創り出した身体を通して。そして、「持ってない」を知っているからこそ、「持ったぞ〜!」を素直に喜べる、感動できる。
なので、持っていないことを憂うなかれ!持ってないは「持っている」といことを劇的に感じるお恵み、最高のチャンスなのです。そして、わたしたちはそんな豊かに「感じる」人生を選んできたのですよね。バンザイ!!たくさん感じて、たくさん体験しましょう♪
こちらは、「宇宙から」とはいかないけれど、52階からの眺めです。
こまごま、おもちゃ箱みたい。
果てしなく続く雑居ビル群。その中にさらにたくさんの人が詰まっていて、それぞれがそれぞれの想いを抱えて一日を過ごしているのです。もしここにマンガのような「吹き出し」をつけたとしたら、スゴイことになるな〜。そのほとんどは、悩みや心配、お願い、祈り、そして怒りもまじっていて、耳を澄ませても「人生、サイコ〜!」って声はあまり耳にできそうにありません。
この都会に渦巻く想いのエネルギー。でも、神さまはそのひとつひとつにしっかりと耳を傾けて、全部のパズルがうま〜くかみ合うように、全員に深い学びと癒しがやってくるように、絶妙なタイミングで完璧な配置をしてくださっているのですよね〜。
そう考えると、あれこれ抵抗するよりは、力を抜いてリラッックスしているのが得策だな〜と感じます。
宇宙から地球をながめたものは「神を感じる」ことによって視点の大転換が起るといいますが、この弱冠の高さ(宇宙からくらべたら高いうちに入らないね)でも、ちょっと「神の手」を感じることができたのでした。
フラれちゃったり、大失敗したり、リストラされたり・・・で、「ああ、もうつらい、悲しい」「不安で不安でしょうがない」「こんなわたしなんて・・・いっそ、死んじゃいたい」
そんな状態でセッションにいらしたクライアントさんに、小さなぬいぐるみをそっと渡すことがあります。
キョトンとするクライアントさんに、「では、その子を今のあなただと思って、感じている気持ちを表現させてあげましょう。できるだけ感情をこめて、ボディーランゲージもつけてわたしに話してくれますか」
はじめはためらいながら、徐々にぬいぐるみと一体化するクライアントさん。「・・・じつは〜、昨日、突然彼に別れるって言われちゃって・・・。まるで心臓をつかまれたように苦しいし、悲しいし、息ができなくて・・・。ただただ涙がでて・・・」とうなずかせたり、手足をバタバタさせたり、腹話術師のようにぬいぐるみにお喋りさせます。そして、「そうですか〜。その子はそんなにショックを受けているんですね」「その子はもうダメだと思っているんですね」とわたし。
しばし続けると・・・。
この段階で、すでに深刻さから抜け出して不思議と痛みがうすらいできたり、あるいはまるで他人の悩みのように客観的にながめていたり、はたまた突然おもしろおかしくなっちゃったり、ハタと気づきがやってきたりするクライアントさんもいます。
「ああ、この人、こんなに苦しんでいるんだ〜って、客観的に見ている”もうひとりのワタシ”に気がつきました。じつは、苦しんでいるのは自分じゃないような・・・。自分の考えってゆうか・・・アタマってゆうか・・・堂々めぐりするセリフってゆうか」とクライアントさん。そう、わたしたちの中には、いわば、このぬいぐるみのような存在が住んでいて、”それ”はつねに文句を言ったり、新しい現実におびえたり、抵抗しては大騒ぎをしているのです。
苦しんだり悩んでいるとき、それをしているのは、じつはワタシの「エゴであり思考」。悩んでいるのは「ワタシ」なんかじゃない。こうして客観的に「おお、こんなに苦しんでいるぞ・・・・」とながめているのがホントの自分自身です。
でも、あまりにもエゴや思考とひとつになってしまうと、悩んでいる状態こそが「本当の自分!」「わたしが悩んでいる」と勘違いしてしまいます。そして、だんだんとエスカレートしてゆき、自分が痛みに食べられたようにまったく無力になってしまうのです。完全に悩みに征服されちゃった状態。自分を悩みそのものだと思ってしまいます。
(その2へ続く・・・)
悩んでいるのは・・・”それ”なんです。
そして、”それ”の怖れや不安や怒りの後ろで、しずかにながめている存在がいるのに気がつきます。とても冷静に客観的に「あ〜、こわがっているのね」って。これがじつは、ほんとうの自分。真のパワーを持った自分。そして、全然こわがってなんていない自分。
あなたを苦しめているのは「考え」であって、「あなた自身」ではない、のです。悩んでいるのは、あなたのエゴ、あなたの考え。”それ”が悩んでいるのです。
「考えている自分」と、その状態を「冷静にながめている自分」。この二つの存在があるからこそ、わたしたちは葛藤します。イジワルな自分を「なんか違うぞ」と感じるもう一人の自分・・・。一人しかいなかったら、この葛藤は生まれません。違う自分が存在しているからこそ、違和感を感じてしまうのです。
いったん、後ろにひかえている存在に気づいてしまうと、ネガティブな気持ちを持ったとき、そこから観察することができます。「おっ、はじまった。エゴは何て主張してるの?」と。
そして、聞き耳をたてると、エゴはおもしろいようにしゅるしゅると姿を消します。ネガティブな声がすぐに薄らぎます。エゴはいつだって、こっそりと正体を知られずにわたしたちを乗っとりたいと思っているのですから、気づかれたら一気に弱気になって、しっぽを巻いて逃げ出すのです。
もし、しゃしゃり出たエゴや思考をそのままにしておくと、どんどん図にのって、過去の同じような感情までもを巻き込んで、「わたしがあなたそのものだ!」と主張しはじめます。じつは、わたしたちはいつもまんまとこの手にのってしまい、エゴにぶるんぶるん振りまわされているわけです。「あなたがわたしだって言うんだから、そうなんでしょうね〜。汗」という具合に。
だから、否定的な思考に支配されはじめたな〜と気づいたら、興味をもってただ観察してみましょう。「おお、”それ”は主張しはじめたぞ!」「”それ”は、すごくこわがっている。なるほど、そういうふうに主張したいんだ〜」と。非難したり、やっつけようとすることなく、ただながめてみます。
ときには、ぬいぐるみを使って感情を表現してみると、自分の中にいるエゴがこっけいな動物などみ見えて、それを静かに眺めている自分がまさに本当の自分だ!と感じやすくなります。
自分のエゴのお喋りに気づいたり、それによって引き起こされる感情を冷静に見つけることができるようになれば、こっちのもの。すぐに穏やかさを取り戻せるようになります。心が静まります。平和です。
そして、わたしたちはエゴに吸いとられていたパワーを取りもどして、「今の現実」の手綱をとることができるようになるのです。エゴや思考は、当然のように乗っとろうとしますが、ほんとうの自分のパワーにくらべたらほんの小さな力しか持っていません。うわべだけの力です。ほんとうの自分でいることによって、ものごとへの抵抗がなくなるので、すべてのことにおいて流れがスムーズになります。ものごとがおさまるべき場所へと自然におさまるような感覚を感じるかもしれません。おそらく、今、怖れを感じていた問題も、おのずとよい方向へと変化するこおでしょう。
さあ、きょうから怖くなったとき、ネガティブになったとき、「おおっ、”それ”が反応しはじめたぞ♪どれどれ、何て主張しているかな?」と楽しんでながめてみてくださいね。
「いつも同じことをクヨクヨ考え続けてしまうんです」「いやなことばかりが頭の中でグルグルしています」・・・こんなご相談をよく受けます。
ぐるぐる考え続けてしまう悩みには、いつぐかの原因があります。
ひとつは、悩むことに慣れ親しんでいる、悩んでいることが本人にとって日常になっている場合。それがいかに有害であっても、あまりに習慣化しすぎてしまって自動的にやりはじめます。わたしたちは意図的にならない限り、いつでも無意識のクセに支配されています。新しい習慣は意識して選びとらなければなりません。
たとえば、暴力のある家に育ったこどもは、たとえそれがどんなに怖くて不快であっても「家庭」の原風景になってしまいます。いざ生活の中に暴力がなくなると不安になるのです。同様に、うじうじ悩む思考回路が日常になりすぎていると、いざ何も問題がないと不安になってしまい、「こんなはずはない!」とわざわざ問題をつくる行動を起こしはじめます。つまり、やめてもいいのに、やめられない。
また、もうひとつの原因としては、人生の中にたくさんのルールがある場合。「人とはうまくやらなくちゃいけない」「すべてをちゃんとできるようにならなくてはいけない」「いつも幸せであるべきだ」「充実した人生を送るべきだ」・・・。たくさんの「べき」を教え込まれていて、それを貫き通そうとします。だから、目の前の現実と自分のルールとの折り合いをつけるのに大変な労力がいるのです。
「べきだ」「しなくちゃいけない」って感じてしまうことじたい、じつは本人は「そんなこと、さらさらしたくない」と思っているのです。でも、世の中の規格にあっていない自分にひけめや怖れを感じています。
ホントは、「むかつく」・・・OK! 「落ちこむ」・・・OK! 「うまくできない」・・・OK! なんだってOK。どう感じようが、どう生きようが個人の勝手なのです。感じるままに感じる権利があるのです。そしてなによりも、自分の弱さ、うまくいかなさを無視することなく、感じるままの自分にOKをだして認めてあげなければなりません。
つまり、堂々めぐりの悩みやクヨクヨ考え続けるのは、「こうあるべき」に気をとられて、その下にあるほんとうの自分の気持ちを無視して、切り離している状態です。ほんとうはこう感じているのに、そんなはずはない!とねじまげようとしています。すると、ほんとうの気持ちが反乱を起こして、ルールとぶつかりあい苦しみが生まれます。
(その2に続く・・・)
たとえば、こんな問題。「今の彼は浮気をしたり約束を守らないので別れたい、でも別れたらまた一人になっちゃうし、そのあと誰かを見つける自信もない」「でも、関係を続けるのもしんどい」「だけど、自分のトシも考えいると・・・うんぬん」「でもやっぱり・・・」「だけど・・・」これは延々と続くし、意外と体力を消耗します。
まるで頭の中で空回りしているよう。じゃあ、この空回りの下にあるホントの気持ちって何でしょう?
「この男性といても、わたしはハッピーではない」「わたしは自分の人生をもっと大切にしたい」「自分をもっと尊重したい」・・・・なのです。まず、この正直な気持ちを非難することなく、慈しみをもって受け入れます。「そっか〜、わたしはそんなふうに感じていたんだね。いいんだよ、そう感じても。そう感じてあたりまえだよ」と肯定してあげます。
そして、その正直な気持ちに対して、今自分ができることを考えてみます。「じゃあ、わたしが何をいやだと思っているのか相手にちゃんと伝えて話しあおう」、あるいは「自分を大切にしたいという気持ちは、人に期待するよりもまず自分で自分を思いっきり大切にしてみよう」「相手に幸せというものを依存してきたから、自分ひとりでも幸せ感が持てるようにしてみよう」・・・などと、「変えてみよう」というところが出てくるはずです。そして、そのために小さな行動を起こしてゆきます。
たいてい思考にはまっているときは頭の中だけ試行錯誤して、体験がお留守になっています。「小さな変化」を行動レベルにできると、行動することが楽しくなって頭の中のぐるぐるは減ってきます。こうして少しづつ進んでゆけばよいのです。
まずは、ぐるぐるくよくよのパターンに気づく → その下にある弱気な本心を探る → それを暖かく認める → その気持ちを尊重し、そのためにできることを考える → 小さな行動に出てみる。考えるだけでなく行動がともなうと、自分の中に自己信頼や喜び生まれてきます。→満足する。安心する。もっとやってみようと思う。
思考は幻想、そしてそれはエスカレートするもの。自分で自分の首をしめます。思考を自分ができる小さな行動に変化させてゆきましょう。
是非、おためしを♪
PS Happy Halloween!!
わたしたちの周りは、わたしたちをヘルプしてくれる天からのメッセージに溢れているといいます。受けとる気さえあれば、そこここにメッセージが見つかり、それは人生をサクサクと導いてくれる大切なカギになったりします。道の真ん中に障害物があろうとも、ぽっかりと穴があいていようとも、ちゃんと迂回してへっちゃらに進んで行けちゃう、そんなお助けメッセージも多数含まれていることでしょう。でも、メッセージは繊細なエネルギーなので、きらん・・・と静かにやってきます。そして、たいていそのあとに「いやいや、思い過ごしだ〜」と打ち消しのエゴが登場するのがつねなのですね。
と、そんな話しをクライアントさんにはよくするものの、じっさい自分はどうよ??・・・と考えてみました。まあ、耳は傾けている方だとは思うのですが・・・じゃあ、もっとマジメになってみることにしました。
つまり、「毎日、天からのメッセージのどじょうすくい(?)」。
なので、きらり☆とひらめくものがあればソク足を運び、ちらり♪とお顔がちらつけばランチに誘い・・・。
先日も、ある心理学のスクーリングのあと、どうしても「スタバ」に立ち寄りたくなりました。それも、遠い方の「スタバ」。「なんで遠い方に行かなくちゃいけないのよ〜。雨がふっているのに」とブツブツしつつ遠い方へ。ひとつ席があいていたのでさっそく荷物をおきつつ、お隣の男性と目があった。「ありや〜?Mさん!」そして、その男性の前にすわっていたのも友人のC子ちゃん。お二人まとめて会えてしまったわけです。はい、たしかにその朝、お顔がちらついておりました。
おもしろいもので、メッセージをすくう気まんまんになっていると、足を運んだり、連絡をとる前にむこうからやってくることがふえてきます。
「ここ2~3日、Lちゃんが気になるな〜」と思っていたら、案の定連絡あり。さっそく「お告げランチ」と称して、ミーティング。おもしろいもので、お告げにしたがっていると「こっちの話しが、あっちにつながり・・・」というように、なんだかどれもつながっているぞ・・・。そして、ひとつのアイデアが浮かんできたりします。
というわけで、しばし「お告げライフ」に身をゆだね、どんな方向に流れてゆくのか楽しんでみましょう。
PS 「お告げ」に従って選んだLちゃんとのランチのお店。これはちょいとカラぶり気味。あ、これは「お告げ」ではなくって、「新しいお店は要チェック!」のエゴが選んだのでした〜(笑)。
セッションやセミナーの中で、「あなたの短所は、じつはあなたらしさの宝庫!贈りものなんです」という話をよくします。
短所が自分のかけがえのない長所・・・だなんて、頭がこんがらかりそう?
だからこそ、カウンセリングルームでクライアントさんの問題をひとこと伺っただけで、だいたいの見当がついてしまいます。「なにを取り戻しに、この方はここに坐っているのか」と。
たとえば、ある男性クライアントさん。「人の気持ちがわからない、自分勝手だとまわりに言われます」と。そこでわたしは思うわけです。「ああ〜、この方はなんて純粋で誰にも負けないほど人の気持ちがわかる方なんだろう」、「わかりすぎるぐらい、わかってしまったんだな〜」と。
なぜなら、すべての問題は幼少期か、さらに遡って(もしあるなら)過去生に由来します。そこで傷つく体験をして、気持ちが閉じてしまい、「だったらもういいよ!たくさんだ!こんな気持ちを味わうなら、違う自分になってやる」と本当の自分とは逆さまの生き方をはじめるのです。
と、いうことは、この男性を例にすると、「人の気持ちがわからない」どころか、「人一倍、人の気持ちに敏感だった」・・・けれど、あるとき最も愛する誰かからそれを拒絶されているのです(もちろん、その誰かにも心の痛みがあってこそ、なのですが・・・)。傷ついたその男性は、「こんなにつらいなら、この感情というやっかいなものにはフタをしてしまおう」と感受性豊かな自分をプッツリ切り離し、今にいたる、というわけです。
案の定、幼児期のセッションを行ったところ、男性が4~5才だったころ、おうちの中でお母さまが泣いている場面が登場します。少年はもちろん母を愛していますから、びっくりしているし、可哀想だし、助けたい。そこで、その気持ちに従って母に近寄って声をかけます。
ところが、思いもよらぬ母からの反応が少年をうちのめします。『子どものくせに!』、という拒絶のひとこと。
その少年は、愛する母を助けようとしたとき、子どもというよりは「一人のたのもしい男性」になっていたのだと思います。でも、母からの反応は予想を裏切る冷たく突き放すもの。少年は愛する人からのその反応に深く傷つき、「もう人の気持ちにかかわるのは金輪際やめにしよう」と心に決めたのです。
(その2に続く)
こうしてわたしたちは、自分自身の贈りものである純粋なやさしさや無条件の愛というものを閉ざしながら成長します。
そして、「傷つくなら違う自分になる!」と誓ったこともいつしか忘れて、「人の気持ちがわからない」(正しくは、「わかりたくない」のですが)と言われる大人になったわけです。
ほんとうは、わからないどころではなく、「わかりすぎ」てしまっていた。「わかりすぎる」自分を守る手だてとして、自分のやさしさを切り離して「わからなく」するしかなかったのです。
この男性のお母さまは小さい頃いじめられていたようで、どうやら泣いていたその日も知人にいじめられたかいやがらせをされていたようなのです。泣いているところを見られた無防備な母は、とっさに少女のような気持ちになり、恥ずかしさから防御したのがあの冷たいひとこと。それに、やさしくされることに慣れていないので必死で助けの手を振り払おうとしたのです。
お母さまもまた幼少の頃の心の傷があって、愛されるのがコワイのです。誰かが自分の見方になってくれるなんて思いもよらないし、まさか幼い息子にその姿を見られて声までかけられて動揺したのでしょう。
その男性は、「ああ、母の中の小さな女の子が傷ついていたのか。自分が間違ったことをしたから怒られたわけではなかった。あれは母の幼少期からの問題なのだ。自分がとった行動はあれでよかったのだ」とあらためて気がつくことができました。そして、現在の大人の自分がその頃の少年だった自分にやさしく事情を説明していたわってあげることによってその痛みを解放することができたのです。
こうして、自分にとって悲しい出来事がなぜ起きたのかを広い目線で理解することにより、自分の中で起きていた機能不全を解消することができます。母親の背景にある出来事を理解することで、プッツリ回線が切れていた自分の良さ、自分のやさしさ、自分の豊かさとようやくつながりなおすことができたのです。
あとは、しめたもの。いったん「そっか〜!そういうことだったのか」と気づいてしまうと、もうもとの自分には戻れません。せき止めていたブロックは取り去られます。心のカラクリはとはそんなもの。気づかないからやり続けられるのですが、気づいてしまったら、それは The End。
もう誰にも「人の気持ちがわからない人」「勝手な人」なんて言わせないし、すべてのことを感じるままに感じることができる誰よりも心豊かな男性がそこにいることでしょう。
その男性にいちばん初めのカウンセリングでお目にかかったとき、「ああ、なんて純粋で優しい心をもった方なのだろう」とすぐに感じとることができました。そして、その男性の本当の自分という素晴らしさの上に降りつもっていたホコリをはらいのけたことで、今、もっともっとその優しさが光を放ちはじめました。少年のままの純粋なやさしさと、お年を重ねた厚みのあるやさしさと。まずは、きっとご自身自らがその光(ご自分らしさ)に癒されることでしょうね。
PS 人に対して、えてしてひどい態度をとってしまうとき、深い部分で傷ついているかハッピーではないときです。やさしくしてくれる人に対しても怒りや悲しみをぶちまけて、そしてその相手さえも汚染してしまうことがあります。あつあつのピザが手のひらにのっていて、その熱さに耐えきれずに誰かに投げつけたい・・・そんな感じです(やってから反省してます。許してね・笑)。これはじつは、環境汚染よりも悪質です(ハイ、反省してますってば・・・m(__)m)。
今年最後の「気づきの日記」は、よくある男性、女性のすれ違いについて。
先日、アサーションの勉強会に参加したとき、おもしろいモデルケースがありました(「アサーション」とは、自己表現。自分と相手の権利を尊重しながら意見や感情を適切に表現するテクニック。ここで実際に演じながら気づきを得ます。)
たとえば、こんなケース。
出勤前、食卓で新聞を読む旦那さんに奥さんが・・・
妻「あなた、最近、○ちゃん(娘)を公園に連れて行くと帰りたがらなくて大変なのよ〜。昨日も、お昼を食べる暇もなくなっちゃって・・・、結局なにもできずに終わってしまって。ほんとに疲れるし・・・」
夫「時間は時間だから、ちゃんと連れて帰れよ」
妻「そうは言っても、この子の気持ちもあるし・・・」
夫「はじめからしっかり時間を決めてないからだよ。何時になったら帰らせるとか・・・だからこんなに洗濯ものもたまってるし・・・」
妻「・・・(涙)」
夫「(出勤前にうざったいな〜・怒)」
朝から、いっきにいやな気分に転落・・・。
この場合のいちばんの問題は、「奥さんはべつに旦那さんに解決方法を尋ねたわけではない」ということなのです。なぜなら、奥さんのほうが子どもの気持ちや家事のことはよ〜くわかってる。家庭のエキスパート。でも、子どもの気持ちを尊重しながら子育て、そして家事をする難しさを語りたいわけです。
旦那さんはといえば、「問題提起」があったと認識するとソク解決プロセスに入ります。これぞデキるオトコというわけです。「だったら、これはこうして、あれはあのように・・・はいっ、一丁あがり!」てな具合に。これは男性の習性なのか、はたまた会社人間としてのサガなのか?問題解決のエキスパートというわけです。
たいてい、女性はこれをされると憤りを感じます。なぜなら、家事や子育てに関してはあなたよりもずっとわかっている!と言いたいし、解決方法が知りたいわけじゃない。時間の配分の悪さなんて、わかってのことです。それに、経験が伴わない上から目線の単なる理論にうんざり。ここで起きていることは、決して4÷2=2的なことではないからです。家事や子育ては、こうすればああなるというロジカルなものではなく、もっと曖昧模糊とした感覚的なこと。すべてが決めたように運ぶなんてことはないのです。
奥さんは、その曖昧模糊さの中で手探りする「フラストレーション」を受けとめてほしかったのです。つまり、「時間が思うようにならない」「子育てって重労働」ということを「たんにグチりたい」。そして、共感してねぎらってほしい。しかし悲しいことに男性にとっては、「グチ?そんな、非生産的な!さっさと解決しよう」「それは、時間管理がわかってないから」ということになります。
男性は論理的に筋道をたてて物事を解決することには慣れているけれど、こと「感情」がらみの話しや、生身の人間としての悩みなどは不得意中の不得意(もちろん得意な男性もいらっしゃいますが)。誰かが感情的になれば、恐れを感じてさっさとしっぽを巻いて逃げ出します。ふだん、感情を感じない習慣がついてしまったので、単に「わからない」ということもるのでしょうが・・・(感情にたいして麻痺してしまったので未知なる世界になっちゃったのです)。
でもね、「感情」の理解こそが、わたしたちがココ、地球にいるいちばんの意味でもあるのです。すべてのことは、感情を通して学びます。後悔、罪悪感、自己嫌悪、悲しみ、喜び、満足、慈しみ・・・ここからあらゆることを学び、行動を起こすわけです。
話しは戻りますが、ではこの夫婦のコニュミケーション、いったいどうすれば・・・?
(その2に続く)
このコミュニケーションで奥さんが期待していたのは、「そっか〜、そんなに大変なんだね」と、(まず、心をより沿わせてほしい)。そして、「どんな感じなの?」と、(起きていることをただ判断せずに聞いてくれて)、「公園に連れて行くのがそんなに大変だなんて知らなかったよ」と、(自分の知らない世界を素直に認めて理解してほしい)。「でも、昼ぐらいはちゃんと食えよ」と、さらに(やさしく気遣ってほしい)」ということなのです。
しかし、そもそも共感能力を今まで使っていなかった人にこのようなレスポンスを求めることじたい、大きな落胆の原因になります。それだったら、「グチって共感できて気遣ってもらえる」同じ境遇のママ友のほうがまし。
男性からの模範的なレスポンスを引き出すためには、女性側にもテクニックが必要なようです。つまり相手を教育すること。
”相手に解決策や答えを求める態度をいっさい見せず”に、「このぐらいの年頃になると、公園から連れてかえるだけでもとっても大変なのよ」と”言い切る”ことにより、アドバイスや提案がいらないことを示します。そして「あなたは一日面倒みていないからわからないかもしれないけど、とっても○○なのよ、子育てって!」と、”あなたの知らない世界がある”ということをちゃんと認識してもらいます(つまり徐々に知らない世界を教育してゆきます)。
でも、いちばんいいのは、「疲れちゃった、ちょっと話しを聞いてくれる?ただ聞いてくれるだけでアドバイスはいらないから」ときっぱり会話の目的を伝えて自己満足的にぐちったほうがいいかもしれません。相手の理解の範疇を越えることに、自分が欲しい反応を求めるのはムリなのです。
もちろん、女性ももう少々ロジカルにシンプルに考える練習をするべきだし、男性は解決を求めない会話や感情にまつわる曖昧模糊とした話しに参加できるように訓練する必要があるのでしょうね。
このロールプレイでは、これを体験した奥さんが自分の旦那さんの役をしてみたりと、相手の立場に身をおいて同じ発言をしてみます。おもしろいことに、その人になってみるとその人の中で何が起きてそのような発言になっているのかよ〜くわかります。この奥さんは旦那さんになってみて、「ああ、この人はほんとうにこれしか応対の仕方を知らないんだ。問題をもちかけられたら、解決策を出すのが親切だとおもっている」ということに気がついたそうです。
そうです・・・この人って、なんでこんな態度するの?こんな対応するの?というときには、たいてい、たんにどうしていいのかわからない、「やり方を知らない」だけなのですね。
しかし、コミュニケーションはもともと「相手はわかっていない」「相手とわたしは違う」という前提で行うほうがよさそうです。そうすれば、ズレが生じてもあたりまえ、腹が立たずにせっせと相手にわかってもらう努力ができるから。最初からわかっていて当然、と思うと、わかっていないことに無性に腹が立っちゃうものです。
それに、同じ価値観、同じものの見方ではないからこそ、それについてああだこうだとたくさんのコミュニケーションをとることができて、相手の価値観を新しいものの見方として楽しむことができます。「同じ」であることを期待するコミュニケーションから、「違い」を楽しむコミュニケーションにすると、きっといらいらが驚きへと変わってゆくことでしょう。
気づきの多いお勉強会でした。
医大受験をひかえたGくんが、リラクゼーションとリフレッシュにいらっしゃいました。
そこで、現在、何らかのチャレンジをひかえている方、新しいことに挑戦しようとしている方に、Gくん御用達の「自分のカベ乗り越えメソッド」のひとつをご紹介したいと思います。
何かを制したいと思う時、大切なのはその何かよりも小さくなってはいけない、つまり大きくならなければならない、ということです。しかし、その問題がすでに大きいので手に負えない、だからこそ心配するわけです。心配したり、頭で考えすぎると、わたしたちはどんどん萎縮して小さくなり、しまいには問題よりも小さく小さく固くなって、問題の中に閉じ込められてしまいます。こうなると、にっちもさっちもいかない気分満載。まさに、問題に食われちゃった状態。自分の方が強くならないと、問題やカベを制することはできません。その問題を食ってしまわなければならないのです。
では、その問題の食らい方。それは、簡単、ただ、ただ、自分を大きくふくらませます。拡大します。静かに椅子にすわり、目を閉じて深く呼吸をくり返してみましょう。そして、息をゆっくり吐くときに、まずは自分がその部屋いっぱいに広がっているイメージをします。自分自身でその部屋をぱんぱんにしてみましょう(自分が風船になったのをイメージするとやりやすいかもしれません)。次ぎは、その建物いっぱいになり・・・。そして、その街・・・、地域・・・、空も含んで、果ては宇宙まで・・・すべてとひとつになって、惑星も銀河も地球そのものも自分の中に存在しています。
さらに、その宇宙をつき抜けて、宇宙の向こう側の静かで平和で光に満ちている空間にまで達します。ここは神さまの領域、そしてすべてが存在する空間。その穏やかな空間の中で、すでに「すべてが叶っている」「すべてがうまくいっている」「すべての答えがそこにある」という満足感を感じてみます。「ああ〜、ここにすべてがあったんだ〜!」「すべてが、もうすでにうまくいっている!」と、微笑みたい感じ。とてもいい気持ちになってきたら、片手をぎゅっと握るか、片肘をぎゅっと掴んで、その感覚をアンカリングします(身体に覚え込ませます)。そして、十分感じたら、その気持ちをもったまま平常の意識にもどってきます。
このように拡大することを習慣にしていると、問題が問題であると感じなくなるかもしれません。また、わたしたちは、いつも平和な気持ち、すべてがうまくいっている気持ち、満足な気持ちを感じていれば、同じ質のものが自分の日常に写しだされます。アンカリングした場所をさわれば、すぐに深い穏やかさを感じることができるので、日常でリラックスしたいとき、落ち着きたいとき、あるいはイメージングや瞑想をするときにこのアンカリングを役立ててみましょう。
もともと宇宙よりも大きかったわたしたちが、あえてこんなちっちゃな身体に入っているのですから、考えすぎてもっとちっちゃくならないようにしましょうね。
「ココロには時間の概念がない」といいます。なので、わたしたちは数十年前のココロのままで生きていたりするのです。つまり、こどものまま。
「ふ〜ん、そんな人いるのか〜」と思っているあなた、例外ではありませんよ〜。
たとえば、こどもの頃、親に言われたひとことがいつまでたっても自己イメージになっている場合があります。その昔、顔が丸かったわたしは、お月さまのようだと母に言われましたっけ。そして、大人になって美容院で髪型を決めていたときのこと。「わたし、お月さまのように顔が丸いから・・・」とつぶやくと、美容師さんが真顔で「お客さまは全然丸顔じゃないです、タマゴ型!」と断言。そのときは、「この美容師さん、わたしをなぐさめてる?」とさえ思ったものです。しかし、その後、何人かに「たかちゃんは、タマゴ型」と言われたこともあり、ようやく認識のゆがみを正すことができました。「丸顔だと信じてきたけど、どうやら違うらしい」と。嗚呼・・・三つ子の魂、百まで・・・。現状をまったく把握していませんでした。
権威の象徴である親や親しい人に言われたことは、普遍的な真実として受けいれられ、自分の固定したイメージとなって後生大事にキープされてゆくのです。
こどもの頃、いじめられて育った人も同様。あれはとうの昔のことなのに、今でも「わたしはいじめられる存在だ」と信じ、怖れを感じているのです。もう、そのいじめっ子もいないし、自分だってそんなに弱くはないのに。いくら成長して過去の自分とは似つかない自分になっても、ココロの刷り込みは依然むかしのまま。昔のイメージを確固として持ち続け、過去の自分に生きているのです。
さて、先日いらしたM子さん。突然上司に「この仕事は君にはあっていないから違う仕事をしなさい」と5年も積み上げてきた仕事をあっけなく変えられてしまったそうです。
いつも勉強熱心でチャレンジ精神旺盛なM子さんは、「ステイタスと将来性のあるポジションを奪われてショックです・・」と、落ち込んでいます。しかし、いっぽうで「本当のところ、この仕事好きじゃなかったんです。ストレスが多すぎるし」・・・と本音もチラリ。
まあ、潜在意識の中にある本音はやがて現実化するので、「結局、本音が実現した」ということですが、それでもどこか納得がいかない様子。
彼女にとっては、「がんがん勉強して」「がんがん実力をつけて」「がんがん仕事をして」「がんがん昇進して」「がんがんお金をかせぎたい」、そして「がんがん成功する」、それが憧れ。そのためには、常に自己啓発にいそしみ、読書をかかさず、ステップアップの資格のためには努力をいとわず。でも、かなり強迫的な前進の仕方で、端から見て大変そうだし当のご本人もまったく楽しんでいないようです。
そこで、聞いてみました。「もし、神様が”成功”か”楽しみ”かどちらかをくれるとしたら、どっちがいい?」 間髪入れずにかえってきた答えは「楽しみ!!」
あらあら、こんなに努力して、こんなにステップアップを重ねてきても、結局とところ「成功」はどうでもいいんだ〜・・・ふ〜ん・・・とわたし。
ただ”楽しみ”をとりたいってことは、ほんとうは”成功”なんてどうでもいい!!そもそも、成功への道のりはハッピーじゃないし・・・。けれど、どうでもよくない理由がありそうです。彼女を成功にむけて突っ走らせる、彼女もわかっていない思い込みが。わたしたちは、アタマでは「ああだ」「こうだ」と理由づけをしますが、ホントのホントの理由ってあんがい本人も分かっていないものです。
では、何がいったい彼女をつき動かしているのでしょう?彼女はどんな「こどものココロ」を生きているのでしょう?
ここからM子さんの潜在意識の探求がはじまりました。彼女のココロをどんどん掘り下げてゆきます。
「何がなんでも成功したい」=「なぜなら・・・人生は競争だから」「なぜなら・・・お金があれば何でもできるから」「なぜなら・・・ステイタスがつくから」・・・etc。どんどん聞き出してゆくと、あるとき「お父さんとお母さんが・・・」とつぶやくなり大粒の涙を流すM子さん(これは、核心近し!)。
「がむしゃらに頑張って成功しなければならない」をどんどん掘ってみた結果、出てきたのは幼い頃に決めたひとつの小さな決心。愛する両親が何やら大変そうにしているのを目にしたM子ちゃん。彼女は幼いながら胸を痛め、心に決めた一つの決心があったのです。それは、お金で苦しむ両親(当時、二人には借金があった様子)を助けるということ。「お父さんとお母さんの借金をどうにかしてあげたい。けれど、わたしは非力で助けられない」 「今は何もできないけれど、大きくなったら必ず愛する両親を救おう。わたしが借金のために一生懸命働くんだ」という強固な信念を作ったのです。
もちろん、これは大人のM子さんの表面意識には残っておらず、潜在意識の中にひっそりと忘れさられていた信念。時は流れて両親は苦境を乗り越え、彼女も大人になり、そんな記憶はどこへやら・・・。しかし、潜在意識の中にインプットされた決心は決してチャラにはならないのです。デリートボタンを押さない限り。だから、彼女は両親への愛を感じるたび、無意識に「わたしが両親を助ける=わたしが借金のため働く=苦しくてもより多く稼ぐ=がむしゃらに=いやなことでも何でもする」をやり続けていたわけです。今となっては、その真の目的は忘れさられ、「がむしゃらに成功する」の理由は「わたしの幸せ」にすり替えられてしまいました。
しかし、カウンセリング中に明らかになったように、M子さんの幸せな状態は「がんがんやって成功」よりも、「人生を楽しむ」ことだったのです。あくなき成功のための脅迫的な自己啓発グセが、まさかこんな「幼い女の子のけなげな動機」に根ざしていたと気づいてご本人もびっくり。
おもしろいもので、この役にたたない信念を処理してしまうと、むしょうに楽しい人生がやりたくなってきます。今までのキャリア、試験、ステップアップ?! あら〜、わたしには関係ないわ! ってな具合に。別人化して自分らしい人生を、まさに彼女がしたかったように「楽しめる」ようになるのですね。あるいは、依然「成功」を目指したとしても、そこに悲壮感はまったくなくなり、あらたな動機が見つかるでしょう。おもしろいものです。
これは彼女に限ったことではなく、誰でもこのような幼い頃の痛みから誓った古〜い信念をかかえて、それがどんなものであったのかも忘れて、無意識につき動かされていたりするものです。
「幸せになるためにはこうするべきだ!でも、ぜんぜん楽しくない」というようなときは要注意!自分のとっている行動と感じている感情の辻褄があわないときは、潜在意識の中の忘れ物をお掃除するチャンス。すると、不可解なナゾがとけて、自分でも「ああ!びっくり!」になるかもしれません。
わたしたちの自然な状態は、ただ「幸せ」であること。でも、あまりにもずれることに慣れきってしまっているこの世の中。自然に「幸せ」である感覚を多くの人が忘れがちです。ほんとうは、わくわく楽しいと感じる方向にだけ触覚をのばして進んでゆくということを覚えておけば、自分らしい流れに導かれることでしょう。
PS 今回はカウンセリングのセッションで探求しましたが、同様にヒプノセラピーのセッションでも幼少期の感情や場面を思い出すことにより「役立たずの信念」を見つけることができます。
Good Luck, M子さん!楽しんでね〜! (^-^)ノ
1/20、23日のブログ、「自分のホンネ、わからな〜い (^^;」で登場していただいたM子さんから、後日談の報告メールが届きました。ご本人の了解をいただきましたので、そのまま掲載させていただきますね。
あくなき成功へのチャレンジを続けながら、難関の資格試験のための準備を長年にわたり重ねていたM子さん。しかし、長く苦しい「成功への道のり」に執着するホントの理由を知ってしまった今、いったいどのような変化を体験されたのでしょうか?
以下、M子さんメールです。
... ♡ ... ♡ ... ♡ ... ♡ ...
たかこさま、
おはようございます!新しい朝を迎える毎日です!
先週の木曜、資格試験受験のためのレファレンスレターを書いてもらうために、ボスとランチの約束をしていましたが、そのランチで、「受験やめます」宣言をしました。超すっきり!です。もうその職業は目指さないし、好きなことをやって行きます!と。(仕事はやめませんが^^)
翌日の金曜の夜から、いきなり部屋の掃除がしたくなり、資格試験の参考書をドカドカ捨て(1回で35冊売り、まだまだあります。)勉強と仕事でほったらかしになっていたホコリまみれの床の掃除開始したら、とにかく熱中して気がついたら朝の5時過ぎ!
こんなに自分の生活をほったらかしにして、好きなダンスも減らし、コンサートにもまったく行かず。全然楽しんでない人生を送り続けようとしてたなんて、いまでは信じられないけど、渦中はそのことに「まったく気がついていなかった」なんてびっくりです。
たかこさんのところに通いだしてから、もう数年?経っていますが、今回のことが一番「クリア」にしたかったことなんだろうなと思います。まったくつながっていない問題にみえる、なかなか理想の誠実な男性に出会えなかったことも、いま思うとその理由は、「まだ成功していないのに、結婚しちゃったら稼げなくなる!!」と思っていたのだろう^^とよくわかります。
今日も、というかもう昨日の夜ですが、ダンスを踊りに行ったら、過去最高に楽しかったです。「ああ、あたしもう『自由』なんだっ!」って、音楽に対する身体の反応が、すごく良かったんですよ。
たかこサマ!本当にありがとうございました。やっと、自分の本当にかなえたかった人生が始められます。本当にありがとうございました。
... ♡ ... ♡ ... ♡ ... ♡ ...
なるほど〜・・・、いらない信念を処理しちゃうと、やっぱりご自分の本当の気持ちに正直になれるようです。
わたしたちは気づいたら最期、もう同じところには戻れないのです。
M子さん、Conguratulations!!
ご自分の触覚をのばして、いつもわくわくすること、楽しいこと、時間を忘れるようなことに向かって進んで行くようにしましょうね。その先には、いつもわたしたちが人生で受けとるべきたくさんの贈りものがあるはずだから。(^O^)/
人との関係の中で、あなたはガマンしてしまうほうですか?たとえば、ネガティブな感情を隠したり、いつも人に譲ってしまったり・・・。
ガマンの理由はいろいろあると思います。たとえば相手のことが好きだから、相手の気持ちを優先することに甘んじてしまう場合。あるいは相手との力関係で譲るのがあたりまえになってしまっている場合。または相手にあわせることが無意識の習慣になっている場合などもあります。
「人との関係を平和に保ちたい」「嫌われたくない」と思えば思うほど、このガマンは習慣になりがちです。また、「人間関係は常に良好でなければならない」
「波風がたつのはいけないことだ」という思い込みも正直なコニュニケーションをさまたげます。「人間関係、一回こじれたらおしまいだ」という危機感から相
手にあわせてしまう人もいます。
腑に落ちない、納得していない、いやだと思いながらも、じっとガマン。でも、ガマンは百害あって一利なし。ガマンするのとナットクしているのとは決定的に
違うので、ガマンしても腹の虫がおさまることはありません。納得のいかなさをを隠しもったまま、相手への恨みつらみが徐々に肥大化してゆきます。
同じ相手とは、たいてい同じシチュエーションが繰り返されるものです。そうすると、小さなイライラが重なって、やがておさえがたい怒りとなり、遅かれ早か
れバクハツします。つまりキレる、ということですね。ここまでガマンを重ねてきた痛みが噴出。一気に感情が攻撃的な言葉となって、態度となって、相手にな
げつけられます。
そこで、「ああ、そんなにマンしていたんだね。気づかずにコメン」といたわって欲しいわけです。
しか〜し、しかし、ガマンにガマンを重ねた怒りは、まったくもって「伝わらない」のです。ぜんぜん伝わらない。怒りをぶつけられた相手は目がテン。急転直下の怒りに「何に腹を立てているのかさっぱりわからん?」とチンプンカンプン。
こう言われると、怒っているほうはもっと腹がたちます。「わたしが今日の今日までガマンしてきたのに、その言い方はなによ!わからない?ふざけるな!わたしはずっとガマンしてきたのよ」と。
でもね〜、これ、ホントにわからないのですよ〜。
どうすればいいの??
(その2へ続く)
PS もうすぐバレンタイン!素直なコニュンミケーションでよい関係を育てましょうね。
(♡が可愛い一番のりのバレンタインチョコ、おいしそう!ありがとうございます♪)
なぜ、ためた怒りは伝わらないのか?
だって、当の本人は怒りを熟成させながら「今日の今日までゆずってきた」と思っているかもしれませんが、相手にしたら途中の経過がスッポリ抜けているのです。ずっと平和だったのに、何を急に烈火のごとく爆発してるのか・・・さっぱり??怒ってるって?そりゃ、青天の霹靂!ってなわけになるのです。「ガマンのはて」は、まったく伝わらないコニュニケーションの代表選手なわけです、
相手の立場だと、ガマンしてニコニコしながら怒りをためこまれるよりは、いやなときには素直にいやだとその場で言ってほしかった、ということです。まあ、言えない人には、「感情を伝えたときにうまくゆかなかった苦い過去」があるのですが。ためこんだすえの爆発は、そこにたくさんの恨みつらみがくっついているので攻撃的で凶器のような言葉になります。
そのときどき感情は小出しにするのがよいようです。感情を伝えるやり方は、むずかしくありません。ただポツリと静かに感想をつぶやけばいいだけです。そう、何か違和感を感じたときには、かる〜く、さわやかに、悪びれることなく、「それって好きじゃないな」「え?それはいやかも」と軽くコメント。心の痛みに変わるまえにね。
それができないのは、どうやら本人に問題あり。このガマンするクセ、じつは相手をおもいやっているようでいて、自分自身を卑下している態度なのです。自分が感じていることを自分で無視しているという、自分を尊重していない失礼な態度。自分よりも人を高いところにおいてしまうことにより、その結果、自ら自分が軽んじられるようにしむけてしまうのです。人は、その人が自分を扱っているやり方にならってその人を扱うようになります。自分で自分を大切にしないと、誰も大切にはしてくれません。
ちいさいときに誰も自分自身の扱い方、そして感情の扱い方を教えてくれませんでした。だからとても不器用になってしまうのです。「素直な感情の表現」はいっけん危険に思えますが、感情はためこみさえしなければ凶器にはならないのですね。自分のためにも、人のためにも、くれぐれもためこまずに小出しにいたしましょう。
悪びれずに、かる〜く、さわやかに、正直に・・・感じたときに感じたままを!自分の気持ちに耳を傾け、自分を尊重し、自分を大切にするコニュニケーションを心がけてみてくださいね。きっと、まわりもあなたにやさしくなるのが感じられることでしょう。(^_^)
最近ふえている恋愛&パートナーシップのカウンセリング。お一人の場合とカップルの場合があります。
お二人だと、ともすれば、ここぞとばかりに日頃のうらみつらみの応酬になりかねません(ここはリングじゃないよ〜ん!)。お互いの言い分に耳を傾けると、
日頃どのようなパターンで、何が繰り広げられているのかがたちまち浮き彫りになります。日々のバトルとジレンマの様子が、第三者からは手に取るようにわか
るのです。
どんなカップルにおいてもそうですが、「自分のペースを侵害されたくない」、だから「自分はこのままでよい」、じゃあ「ふつ〜じゃない相手が変わるべき
だ」という考え。誰だって、自分は正しくて、自分の感じていることがホントだと思っています。しかし結局のところ、自分も正しいけど相手も正しい・・・こ
れが真実です。誰にとっても自分の真実があり、それは自分にとってまさにホントなのですから。
そもそも、まったく違う環境、教育、体験を通して育った二人が、同じように感じるはずもなし。パートナーシップシップは、「お互いまったく違う」「その違いを探求しよう」ぐらいの気持ちがないと、いったいどちらが支配するのかという権力争いにおちいります。
「縁を感じた」というだけで、相手は自分の理想の人だという幻想をもち、すべてが自分の思いどおりにいってあたりまえと信じ込みます。勝手に相手を完璧に
したてあげ、少しでもそこからはみだそうものなら「こんなはずではない!」と目くじらをたて、さっそく相手を矯正しようとします。でも、さっきも書いたよ
うに、相手と自分はまるで違うのです。それに「好みの人」はいても「理想の人」なんて幻想に等しいでしょう。それを押しつけられても、押しつけられた当人
は困ってしまいます。うまくやるには、関係性の中で必ず努力や思いやり、また妥協も必要なのです。人間関係、とくにパートナーシップは最初からあるもので
はなく、しっかり手を入れて大切に育ててあげるもののようです。
また、関係性の中で相手と争うことを怖れるあまり相手の言いなりになり続けると、今度は相手に対するうらみ&つらみが鬱積しはじめます。やがて「自分の気
持ちにウソをついている」ツケがまわってきます。パートナーシップどころか相手に対する怒りとなり、それはあきらめに変わり、また自分に対するあきらめと
なり、人生に対するもあきらめとなり・・・無気力、無感動、無感覚へ。生きていることじたい何の楽しみもなくなってしまいます。
うまくいっているカップルというのは、すべてがはじめから同じに感じているわけではありません。ふたりの根底には「一緒に楽しみたい」という気持ちがあっ
て、戦うぐらいだったらここはゆずろうとか、自分の存在がおびやかされること意外は妥協するという姿勢がみられます。かなり重要なこと意外は、のらくらゆ
るゆるしているのです。そして、自分の正しさを貫くための「戦い」よりは、ちょっとは妥協しても二人でいる「平和」をめざしているのです。
そうなんですよね。人は全員違うのですから、違ってあたりまえ。ときには、相手の「ぎょえ〜っ!」と思う行動、考え方に遭遇するかもしれません。だからと
いって、自分の考え、行動が普遍の真理でもないわけです。そういう場合は、お互いどうしたいのかをよくよく確認し合わなければなりません。どちらかが我慢
するのではなく、できうる限り二人の希望の中間地点を探り、両方から歩み寄って妥協ポイントを二人でゆずりあう必要があります。怒りをためない上手なパー
トナーシップは、我をおしとおすわけでもなく、かといって我慢して犠牲者になるでもなく、柔軟になってお互いのここちよい落としどころを探ってゆく地道な
作業です。二人ともさっさと理想は手放して、素直に両方から歩み寄ってゆくことなのですね。
そうそう!この妥協点を見つけることと、もうひとつとても重要なポイントがありました!
(その2へ続く)
結局のところ、どんな人間関係においても「相手を変える」ことはできません。対象(相手)にイライラしているのも、ムカムカしているのも「自分の心」が勝手にしていることであって、相手にしてみたらどんな場面でこの人がイラつくのかムカつくのかなんて知ったことではありません。それをいちいち「あなたのせい」と言ってしまうと、自分が気持ちよく感じるためには世界中の人を正して歩かなければならなくなります。
幸せを感じるか否かは、自分の心の「反応の仕方」がすべてです。外側のものごとにどのような意味づけをしているのか?それによって、「ど〜でもいいや」という反応になったり、「絶対に許せない!」という反応にもなります。また、「相手は自分をハッピーにするべきである」「ロマンス小説や映画のように、パートナーはいつもやさしく愛を表現してくれなくてはならない」「男性とは(女性とは)こうあるべき」・・・と、どっかから持ってきた都合のいい信念を押しつけると現実とのギャップにバリバリ期待が裏切られることでしょう。
少々ムカついても死活問題にかかわることでない限りサラリと水に流し、なかったことに。一方、幸せを感じられそうなポイントではめいっぱいリアクションし、楽しさや喜びを増幅する。いわば、自分の反応の静と動の使い分けをする。これ、幸せを増幅する秘訣です。ものごと何にでもことごとく反応しないことなのです。ときには、無反応(右から左へと受けながし、即なかったことにする)ことを決め込むことも自分を守るうえで大切なのです。自分の感情の照準を、心地よいこと楽しいことに積極的にあわせることです。結局、ネガティブな感情をしょいこむことになるのは自分自身。自分の心の環境汚染は自分でしっかり守るしかないのですね。
わたしたちは物ごとを外側のせいにしはじめると、どんどん自分のパワーを失いはじめます。「あいつが悪い」「こいつのせいだ」・・・と自分には何の力も無いようにふるまい、いつも外側から何かが襲ってくる無力でかわいそうな自分をアピールします。しかし、みずから自分には力がなくて周りが力を持っているのだと言ってしまえば、もともとある自分のパワーを失うことになるのです。自身が本来持っている未来を自在に創りだす力すら放棄することになってしまいます。そして、みるみる自分の人生がコントロール不能に陥ってゆくことでしょう。相手のせいにする、というのはそれだけコワイことなのです。
一見、犠牲者はラクチンそうです。誰かが悪いと言ってしまえば、可哀想な被害者になり同情や注意ももらえそうです。でも、これは自分の人生の操縦桿をみすみすドブに捨てたことと同じです。ですから、たとえ何が起きようとも、何がやってこようとも、「はい、すべてはわたしの責任です。わたしの内面の反映です。わたしの中のものが映し出されているのです」と自分が創りだしたと言い切って責任をとってしまうところから、わたしたちは自分の外側にあることすべてをコントロールする力を自分の手の中に取り戻すことができるのです。
何かがイヤだと感じたら、「ふむ。わたしはいったい何に反応してるのかな?これはどうあるべきだと信じているのだろう?そう思うわたしは、いったい何に抵抗していて、どんな体験を避けたいと思っているのかな?」と自分の内側を探求してみてください。ほったらかしにしていた思わぬ心の痛みを見つけるかもしれません。見つけたらこっちのもの!気づいてしまえば、それはもう終わりを迎えます。そして、外側の抵抗していた敵は姿を消すことでしょう。
相手を責めるのは簡単ですが、自分の成長を考えたら「ちょっとイヤ」でも自分が変わる決意をしてしまったほうがおトクですね。自分が変われば外側はおのずと変わってゆきます。案外、いちばん変えてやりたいと思っていた相手が真っ先に変化しているのに気がつくかもしれません。外側の敵は、じつは自分の心の中の住人だったとは・・・・びっくりですね。責任をとる態度を身につけると心が安らかになり、心の波立ちがなくなれば人生のよい流れにも乗りはじめることでしょう!
まわりの人の言葉が気になるというクライアントのA子さん。「あなたって八方美人ね」と近しい人から言われ、ずっとそれを気にしているのです。
あなたにもそんなことありませんか?まわりからのあまり嬉しくない自分に対するコメント。それが心のトゲとなり、ずっとちくちく痛むのです。それは短所と
して自己イメージに加えられ、自分に対して悪い印象を持ってしまいます。「わたしって八方美人なんだ・・・誰にでも調子のいいいやなヤツなんだ」と。
しかし、ものごとには表と裏というふたつの側面があることを思い出さなければなりません。すべては短所にもなれば、また長所にもなる。「八方美人」だって
他の人に言わせれば、「人あがりがよくて素敵な方」「誰とでもわけへだてなくつきあえる気持ちのいい方」と、長所にもなりほめられちゃうのです。
人からの意見は、あくまでも「その個人」の「そのとき」の「ひとつの意見」にすぎないのです。その人は、独自の信念、経験、生育環境、教育、心の状態、そ
の日のご機嫌でものを言います。地球上のたった一人の意見を自分の真実として受け入れてしまうのは危険です(その意見が自分を気持ちよくしてくれるもの
だったら大歓迎ですが)。
世界には今や68億もの人がいて、そのうちのたった一つの意見です。68億分の1!もし、まわりの意見を聞き入れてしまうなら、68億通りのあなたが必要になってしまうでしょう。これは七変化の帝王カメレオンも真っ青。
だから、意見の丸呑みは危険です。まわりの意見はあくまでも「意見」として客観的に聞く習慣をつけましょう。「この人はそう思っているのだな〜」と。じゃ
あ、なぜこの人はそう思うのでしょう。たいてい、あれこれ他の人を批判したり価値判断するときは、そのひとが幸せではないときです。誰かを自分よりも下に
見て優越感を感じたい、自分の自信のなさをうめたい、と思っているわけです。あるいは、「人とうまくやれないコンプレックス」をうまくやれるA子さんに投
影して、自分へのいらだちを相手を責めることで解消している場合もあります。
人からのコメントに対しては、ちょっとクールになりましょう。「なるほど、この人はそう思うのか。ひとつの意見として聞いておこう」と。しかし、それがあ
まりにもひどいコメントの場合は、そもそも「受けとりを拒否する」ことです。勝手にその意見を却下しちゃいます。「それはあなたのもの(考え)であって、
わたしのものではありません。あなたにまるごとお返しいたします。以上」と心の中でつぶやきお返しします。何から何まで受け取る必要はありません。自分に
ふさわしくないものはお返しする、という毅然とした態度は自分の尊厳を守ることでもあるのです。注・返却はあくまでもイメージ。ケンカは売らないでね
(^。^;。
しかし、人に言われたことであなたが猛烈に怒りを感じるときは要注意。なぜなら・・・。
(その2に続く)
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サクラ、見〜つけた♪
もうすく、ここの景色は一変します。
人に言われたことであなたが猛烈に怒りを感じる・・・こんなときは何が起っているのでしょう?
相手に言われて「超腹がたった」「許せないと感じた」ときは・・・相手の発言がBINGO!!だった、まさに図星だった!、隠しもっていた劣等感にみごとにストライク!という時です。ホントのことは、ツボにはまりすぎて笑えないのです。カッとなっちゃう。受けとれない。人は関係ないことにはまったく反応を示しません。キョトンとするか、まったく理解できないか、この人なにを言っているのだろ〜と疑問に思う程度。しかし、ホントのことを言われちゃったときがいちばんヤバイのです。
だから、必要以上に腹がたっちゃったときは認めましょう。じつは、そうだったんだ、と。つまり、「まったくそうなんですよ。いやだわ!なんでわかっちゃったのかしら。隠してたのに・・・」と、自ら認めて笑っちゃえばいいのです。そして、ここが自分の弱点か!と認識すると、気づくことによって克服されてくるものです(クセや欠点はばれちゃったらおしまいなのです。自分に対してさえ、こっそりやっているところに醍醐味があるのですね)。
先ほども書いたように、自分に正当な自信があり、自分を認め、自分の人生をちゃんと生きている人は、そもそも他人に対してコメントしているヒマなどありませんし、他人のいちいちに興味などないのです。それよりも自分の現実と向き合い、それを変化させてゆくことに夢中。他人のことをとやかく言うときは、それだけヒマ、やることがないという時です。ですから、そのような方のお相手をしてしまうと、まさにいいカモにされてしまいます。
また、自分も他人のことが気になって仕方がないときも、赤信号。自分の人生に満足していないときかもしれません。他の人の揚げ足をとることに刺激を求めてしまっているのです。自分の人生の中で楽しいことを見つけましょう。
さて、こんな場合はどうでしょう?他人のコメントがほんとうに正しい場合。あなたが気づかなければならないことを言ってくれている場合。そういうときは、ちゃんと自分でわかるものです。痛いことを言われたな〜と感じるし、自分のエゴや優越感や計算がみすかされてしまった・・・(汗)という、バレちゃった感、バツの悪さがあるからです。そこには、自分の策略や隠れた意図があるのですね。他人に何か言われて良心が痛むとき、とても居心地悪く感じる時には、ウラがばれちゃった時です。さっさと指摘を受け入れて改善に務め、あとは水に流しましょう。
わたしたちは言葉にしろエネルギーにしろ、外側からやってくるものにあまりにも無防備だったりします。無意識に外側に反応していると、反応することに忙しい人生になり、なにひとつ自分で人生の舵がとれなくなってしまうことでしょう。何を受けいれるかは、身体にとり入れる栄養素と同じぐらい大切なことです。自分を傷づける、価値をおとす、気分が悪くなる、役に立たない、そんなものは断じて受け入れを拒むべきものです。身体をはぐくむ栄養素と同じぐらい、外からのエネルギーは大切なのです。自分を元気に明るくしてくれる、価値を認めてくれる、・・・・そんな外側からのインプットは大歓迎。大いに心を開いてとり入れましょう。つまり、ちゃんと自分で選択することです。
そしていちばん大切なことは、人生は反応するものではなく、自分が決めるもの、創り出すもの。この意識を持たないと、まわりにぶるんぶるん振り回されて疲れ果て、気づいたときには人生がThe End なんていうことにもなりかねません。自分のあり方、自分のものの見方、そして自分の未来さえも、自分で意識して選んでゆく意識をもつこと。そうすると、創り出す方向にエネルギーが流れます。そして創り出しやすくなります。そのためには、自分の心、感じていることに正直になることです。被害者ではなくて、創り出す人へ。すると、あんがい外側の世界は自分にやさしく感じるかもしれません。
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目黒セーヌは桜が満開!!おやつを買いに行こうにも、人ごみをかきわけなければなりません。
友人がやってきて、お花見第1ラウンド終了。あと、3ラウンド楽しむ予定です♪
セミナーを受けたはずなのに、時間が経つと“昔から引きずってきている自分”にかなり戻ってしまってる友人がいるけど」と相談されました。さて、変われる人と、なかなか変われない人との差ってなんでしょう?
まず、知っておかなければならないのは、人間には恒常性を保つ機能があるということ。平熱を保つ、体重を保つ(痩せてる人はそれなりに、太った人もそれなりに)、そして人格を保つ。きょう観た映画や読んだ小説によって、毎日コロコロ人格が変わってしまっては大変です。いったい、あやつは何者ぞ!ということになってしまいます(まあ、人格障害としてコロコロ変わる人もいますが・・・)。しかし基本的には、わたしたちは日々同じ自分を保とうと無意識の努力をしているのです。
たまに自己啓発セミナーなどでかなりショッキングな体験をして、まったくの別人28号になってしまう人もいます。しかし、必ずリバウンドがやってきます。ハイになっていた人はどん底へ。逆の方向に落ち込んでプラマイゼロにしようという心の働きが起ります。なので、そもそも人間は突然変えては副作用がある。そして、またもとに戻ってしまうということです。そのためには、地道に気づきを重ねるか、セラピーなどでやわやわと目覚めてゆくのがよい方法です。だましだましのようですが、変わるそのときには勝手にど〜んと気づきがやってくるものです。
そもそも、しつこい幼児体験、つまり両親に五百回位言われて培われたある習性を、たった一回話しを聞いたり本を読んだだけで変えようとするのはムリがあります。幼児体験だけでなく、何千年も前の過去生的な思い癖もあります。しかし、おもしろいもので、たった一回の、ホンノささいな一言で、すべてが変わってしまう人もいます。確かにいるのです。一回のカウンセリングにいらして、目からウロコが一万枚!そのような方は、ずっとずっと心の中で答えを探し求め、出口を手探りして、その一言がツボにヒットしてしまったということなのです。その人の心が求めた結果なのです。
ある一言が「知識」としてではなく、「気づき」としてお腹におちたとき、「おおっ!そうか!」と「腹の底からわかった」体験をします。一言で大きな気づき、変化がやってくる人は、まさに「お腹に落ちた」のです。一方、「ほうほう!そうですか」という右から聞いて左に流す聞き方ではこれは起りません。たとえば、クライアントにとってよい本は、うんざりするまで読み込むことをおすすめしています。「頭でわかった」レベルを越えないと、気づきはやってこないからです。もう、書いてあることは十分わかった!というレベルから読み込むと、文章の深い智恵が語りかけてきます。著者が理解していたのと同じレベルにたどりつきます。そのときに、「ああ、ほんと〜にわかったぞ!そういうことだったのか!」という深い気づきがやってくるのです。
たまに男性クライアントさんで、何かお話すると「ああ、それはもう知っていますよ。これこれこういうことですよね」「そのことについては聞いたことがありますよ」と知識として知っている段階から決して前に進もうとしない方がいます。知識のテストをしてるわけではなくて、それを「生きているかどうか?」を問うているのです。「知ってることと」と「それを生きていること」には雲泥の差があります。ある役に立つ知識を知ったら、それを自分の人生にどう取り入れるか?それを生きてみて、どんな自分を発見できるのか?自分で体験してみなければなりません。往々にして中年の男性(すべてではありませんが)は、「知っている」と言ったら、それ以上そこから考えたり深めたりすることがないことがあるのです。まるで、それ以上進むことを怖れているように拒絶に入ったりします(本心を観られるのを怖れているようにも見えます)。ですので、「変われる人」の特徴としては、「知ってる」「わかった」で片付けずに、自分の人生で実践、行動してみて、それがどうなるのか、どんなふうに感じるのか、どんな結果になるのかをちゃんと体験できる人。行動に移せる人です。そうすると、次ぎのレベルへの階段は自然と降りてきます。
そして、もう一つ大切なことは・・・。
(その2へ続く)
そして、もうひとつ「変わる」ために大切なこと・・・それは、「自分の人生は自分が創りだしている」ということに気づくことです。ですから、「ホントにホンキで、マジメに変わりたいと思っている人は変われる」ということです。しかし、ここで作用するのが、その人の信念です。いくら変わりたいと口では言っても、変わることに対してどんな思い込み、信念を持っているか注意深くならなければなりません。
「変わりたい」といいつつも、「変化には努力がいる」とか「わたしは何をやってもうまくできない」とか「変化はこわい」とか「わたしは変化するには値しない(いいものを受けとるに値しない)」、あるいは「現状では被害者になれるので、責任をとらなくても良いからこのままがいい」などなど。心の底で信じていることが、新たに創り出そうとする現実を邪魔してしまいます。これらの信念はいくつかの消去の方法がありますが、まずどんな信念を自分がもっているのかを探ることが大切です。そして、ただその存在を見つけると、一体化していた信念から自分を引き離すことができます(それに気づくということは、外側からそれを見ているので、自分とそれはもう別々。それとは、離れているのです。)信念と一体化しているとそれに支配されてしまいますが、いったん分離してしまうと(信念を見つけてしまうと)、もうまったく影響を受けなくなる場合もあります。
実際、「変わる」ことは簡単なことです。それをちゃんと心にとめておくことがまず大切です。すべては簡単だ!と。「ぜ、ぜ、ぜったいに変わってやるぅ〜〜!汗」とリキむのではなくて、ただ「よし!変わろう」と軽やかに決めれば、それはやってきます。リキめばリキむほど、自分にはできない!大変だ!と暗示をかけてしまいます。ほんとうに決意しているときには、とってもかる〜いのですよ。そして、いちいち「あ〜だ!」「こ〜だ!」と言わないことです。ただ、「よっしゃ!軽く変わるぞ!それも楽しく」と思うだけでOKです。それほど、シンプル。決意は簡単なことなのです。自分の人生の現実を創り出しているのは自分、いつも舵取りをしているのは自分、それを理解し意識的になれば、恒常性を保とうとする心の壁も突破できます。
いつも自分の道を妨げるのは、唯一自分の意識だけです。それをなだめるためには、戦わず、リキまず、ただただかる〜く「そうなんだ!」と思うことです。軽さはとっても大切。
しかし、今、世の中では気づきのレベルがどんどん上がってきています。つまり、「百匹目の猿現象」がまさに起きつつあります。気づいた人の数が急激に増え、ある一定の数に達すると、残りの人たちは努力なしである日突然気づけるようになってきているのです。何よりも大切なことは、新しい考えを受け入れる「心の素直さ」、「ものごとは簡単だ!」とリラックスすること、そして自分を信じてあげることではないでしょうか?(ホントに軽く「そ〜なんだ!」と思ったら、それはそうなのです!)
そして、日々進化成長してゆく自分に対して、しっかり心と身体と魂によい栄養を与えてあげてくださいね。それは、あなた自身を楽しむこと、あたえられた生を味わうこと、日々をいつくしむこと、そして「今」にしっかりととどまること♪
友人から ”スージーへ” というメールが届きました。
わたしスージーちゃんじゃないんですけどぉ・・・とおもいつつそのメールを読んでみると、そこには小さなお話が添えられていました。
日本語に訳そうかとも思いましたが、そのままの文章で引用することにしました。下にミニ単語帳をつけておきますので、英語のお勉強がてらお楽しみください。
わたしの人生にもフォローの天才といえるスージーちゃんがいますよ〜。このメールをくれたのも、まさに one of my Susies。みなさんの人生にもきっといるスージーちゃん♪
それに、神様はいつだってわたしたちの助けの声は welcome なのですよね。でも、わたしたちが「助けて〜!」って心を開かないこと(自分一人で「あ〜だ、こ〜だ」しているうちにすでに手遅れになるパターン)、あるいは「助けはいつでもそこにある」ことを信頼しないのが問題なのでしょう。遠慮なく叫びましょう、”This is an emergency! I need help now!"
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WET PANTS
Come with me to a third grade classroom..... There is a nine-year-old boy sitting at his desk and all of a sudden, there is a puddle between his feet and the front of his pants are wet. He thinks his heart is going to stop because he cannot possibly imagine how this has happened. It's never happened before, and he knows that when the boys find out he will never hear the end of it. When the girls find out, they'll never speak to him again as long as he lives.
The boy believes his heart is going to stop; he puts his head down and prays this prayer, 'Dear God, this is an emergency! I need help now! Five minutes from now I'm dead meat.'
He looks up from his prayer and here comes the teacher. She will soon notice his situation and everyone will know!
As the teacher is walking toward him, a classmate named Susie is carrying a goldfish bowl that is filled with water. Susie trips in front of the teacher and inexplicably dumps the bowl of water in the boy's lap.
The boy pretends to be angry, but all the while is saying to himself, 'Thank you, God! Thank you, God!'
Now all of a sudden, instead of being the object of ridicule, the boy is the object of sympathy. The teacher rushes him downstairs and gives him gym shorts to put on while his pants dry out..... All the other children are on their hands and knees cleaning up around his desk. The sympathy is wonderful. But as life would have it, the ridicule that should have been his has been transferred to someone else - Susie.
She tries to help, but they tell her to get out. You've done enough, you klutz!'
Finally, at the end of the day, as they are waiting for the bus, the boy walks over to Susie and whispers, 'You did that on purpose, didn't you?' Susie whispers back, 'I wet my pants once too.'
Each and everyone one of us is going through tough times right now, but God is getting ready to bless you in a way that only He can. Keep the faith!
puddle・・・水たまり I'm dead meat・・・一巻の終わり
trip・・・つまづく inexplicably・・・どうしたことか
dump・・・投げ下ろす ridicule・・・あざけり
klutz・・・ばか、まぬけ keep the faith・・・信頼を貫く
PS 写真のバラ、これホンモノです♪
ルクエかな〜? タジンかな〜? いや、ルクエか?
このところずっと悩んでいたのですよ。これ、ルクエ社のスチームケースと、モロッコ生まれのタジン鍋のこと。どちらも、野菜やお肉を放り込むだけで、蒸気の流れを生かして素材本来のおいしいお料理が素早くできるすぐれものの調理器です。
タジンは、高々した三角帽子が収納にかさばりそう・・・。一方シリコン製のルクエはけっこうフニャフニャで耐熱タッパーとどこが違うのか?それに、どちらもけっこうなお値段。
お店で二度ほど吟味した後、仕事が忙しくなって忘れてしまいました。
したらば・・・来ましたよ〜!タジンくんが、勝手に。
バースデープレゼント予告編だそうな。しかし、ひとことも口に出していないのに、なぜ欲しいのがわかったのか?すると、背後霊のようにわたしの後ろにタジンが見えたとか・・・(笑)。ホンマか?!
なるほど〜。欲しいものにはしばし強烈に注意を注いだあと、それがどうやってやってくるかなんておかまいなしに、スコッと忘れてしまう。これぞ、執着がない証拠。執着は流れを妨げます。・・・・すると、かくのごとく簡単にブツは引き寄せられてくるのですね〜。微妙にタジンに軍配があがったのは、「タジンは直火もレンジもオーブンもよいのか〜」と感心していた証かもしれません。
他のことでも、こんなふうにスバッと濃厚な注意を向けて、スコッと忘れる・・・ができれば、もっといろいろなものをばんばん手にできそうです。これぞ、現実創造のキホンのキ!ネチネチ考え続けちゃうのは、それだけ疑いや不信のある証拠。疑いと不信を増殖しかねません。
さて、このタジン、さっそくセロリ、人参、マッシュルーム、サーモンを放り込み、塩コショウ、白ワイン、レモンで味付け、レンジでたったの4分。きゃ〜、超簡単でおいしい!!限りなく、横着になりそうでちょっとオソロシイしろものです。
バースデー予告編がタジンってことは、本番はルクエだったりして。ん〜、ワガママ言えば、他のものがいいんですけどぉ〜・・・。こんなふうに抵抗していると、もれなくルクエがやってきそうな気配(抵抗すれば、もれなく「それ」はやってきます♪それを確実に手にする唯一の方法、それはただ「抵抗すること」なのです)。
PS しゃちょ〜!!そこから出てくださいっ!そこは社長室ではありませんっ!(汗)さもないと、調理しますよ。
(おなじみ、うちのギズモしゃちょ〜でした。→)
「男性運がホトホトないんです・・・」とクライアントのA子さん。
「ようやく彼氏ができたかと思えば、妻子持ち。これではダメだと思い別れたものの、出会うのはあきらかにダメ男ばかり。とにかく、フツウの人がいない。わたしって、そういう星の下に生まれてしまったのでしょうか?」と。
わたしたちは意ににそぐわない現実が続くとき、「わたしって運がない」「そういう星の下なのね」・・・と星占いや運勢のせいにして自分を納得させようとします。が、このあきらめ方はちょっと残念。
もともと運がない!と言いきってしまうと、運がない人生が目白押し!さらにひどくなります。「不運だ」といいながら、「強運になる」ことはありえないでしょう。「強運スイッチ」はすでに切れています。
また、占いにしても「えっ?そうなの・・・」と簡単に内容を受けいれてしまうと、その占いに自分をあけわたしてしまい、結局支配されてしまうことになりか
ねません。心理学でいう「預言の自己成就」、つまり無意識のうちに占いを成就させるような行動を自ら起こして、「わっ!やっぱりこの占い当たった。スゴイ!」とびっくりします。
しかし!!・・・運というのはもともとカッチりと決まっているわけではないのです。じつは、ほとんどが自分で創るもの。自分の自己責任です。
もちろん、どの時代に生まれるか、男か女か、どんな容姿か、どんな人を両親に育つか、そして生まれながらの性格などなど・・・おおまかな土台、初期設定は存在します。けれど、これは単なるゲームのスタート地点にすぎません。そこからどれだけの変化を自分で創り出してゆけるのか・・・が、このゲームの醍醐味でしょう。ハンデがついたり、ハプニングが続出するスポーツやゲームは人をひきつけます。予想ができないからこそ楽しいのです。でも、ハンデやハプニングが結果をきめてしまうわけではありません。
いっけん「運」「不運」のように見えるもの、それはじつは自分の心が生み出したたんなる出来事にすぎません。いっつもネガティブな考え方をし、怖れや敵対心を抱きながら、ある日カラリと超ハッピーな人生になるなんてありえません。一つ一つの出来事に過剰に反応することなく、ポジティブな目線を持つとか、今を楽しむとか、人も自分も大切にする、明るい希望をもつ・・・そんなささいな積み重ねがじつは大きな違い、「運」につながってゆくように感じます。
つまり、わたしたちは自分の現実を一瞬一瞬選びとっていることに気づいていないのです。時間は連なってゆきます。「今」が「その次」につながり、次の今が創り出されるのです。だから、自らが選んで現実を創り出していることに気づき、意識的にならないかぎり、ほとんどが無意識のうちの過去の繰り返し、同じものが創り出され続けることになりかねません。「現在」に何らかの変化を与えないかぎり、過去と同じものが繰りかえされるだけなのです。
自分にとって何かパターン化した「うまくいかない問題」がある場合、おもしろいことにそれがどんなにひどい現実であっても、あなたの潜在意識はあなたにとって「よかれ」と思って自動的に選び続けていることがあります。それがどんなにひどくて、どんなに悲惨で、どんなにつらくても、けっしてやめない。つまり、心の底では「それが好き♪ 」「ベスト♪ 」「 やめたくな〜い♪」と思っているのです。もし、他のものが本当に好きだったら、とっくにそちらを選んでいることでしょう。ということは、苦しいけどこれをやり続けたほうがよい、という隠れたメリットがあるようです。
自分を痛め続ける悲惨な状況を繰りかえすメリットって・・・いったい何なんでしょう?
(その2へ続く)
この心の底で思っている「好き♪」「やめたくな〜い♪」が、くせものなのです。
たとえば幼少期、忙しすぎて相手にしてくれない大好きなママ。そのママからた〜くさんの愛情をえる秘策として、「病弱」な自分を創り出したとします。弱ければ弱いほど、心配をかければかけるほど、愛情や好きな食べ物、オモチャ、ほしいものは思いのまま。ある意味、悲惨であればあるほど効果的と心に決めたことでしょう。
この病弱をやめちゃったら愛情は手に入らないと信じているので、健康になんかなってたまるか!、つまり病弱が好き♪やめたくな〜い♪というわけです。そして、大人になっても病弱・ひ弱さんをやり続けます。でも、本人はこの愛情をえるための苦肉の策のことなど、すっかり忘れています。もともと、無意識に行われているので気づくことができません。
そして、大人の世界ではその秘策が自分の首を締めはじめます。なんで自分はこんなに弱くて仕事を休んでばっかり・・・。完全にまわりから遅れをとっているし、クビになっちゃうよ〜と困り果てます。そして、何かがひとつうまくいかないと、すべてがどんどん悪くなる・・・。これは、ことがうまく運ばないと、自分を悲惨にすることによって優しくしてもらおうとするパターン化した行動です。これは、ひどい悪循環。
た〜くさんの愛情をえるために・・・こどものときはこれでうまくいったかもしれません。が、今や、やり続ける必要はないということに気づきません。愛情をえるには、他にも方法があるのです。しかし、そこに気づけない。その昔うまくいってしまったことは握りしめてやめられないというわけです。明らかに苦しくなってゆくというのに、やめようとしないのです。
このこどものときに役立っていたプログラミングは今なお働き続け、しかしそのカラクリはとっくに忘れさられています。いったん役に立つと思い込んだでしまったら最期、ちゃんとそれに気づいてリセットするまではそのプログラミングは生き続けて効果を発揮しているのです。これが、意にそぐわないこと、自分が困ることが人生に起き続ける原因となります。
過去、自分をハッピーにするために心に決めたことによって、現在の自分の首をしめてしまうわたしたち。状況がどんどん苦しくなってゆくようなときは要注意。間違った道を驀進していることに気がつかなければなりません。「どんどん悪くなってゆく・・・。これってパターン化してない?」と気づくことこそ、方向転換のためのシグナルです。
そんな役に立たないパターンをさがすために、A子さんにこんな質問をしてみます。
「そんなことはないと思いますけど。もしも、もしも・・・ですよ、意識的にダメな相手を選んじゃっているとしたら、なぜなんでしょうね〜?」とわたし。
「えっ?意識的にえらぶ・・・?・・・? そんなはずありません」とA子さん。
「でも・・・もし、仮にそうだとしたら?」
「(長い沈黙)・・・ああっ!!・・・」と、何かに気がついた様子のA子さん。
(その3に続く)
ハタと気づいたA子さんいわく・・・、
「自分が”ぞっこんになってしまう”のがコワイ・・・のかもしれません」と。
「ぞっこんになると、どうなっちゃうの?」とわたし。
「相手にふりまわされちゃう・・・自由がなくなっちゃう・・・・自分自身や自分の人生がなくなっちゃうみたいな」とA子さん。
さらに尋ねてゆきます。
「それに、わたし、コントロールされたくないし・・・・パワーを奪われるのもいやだし・・・」、ああだし、こうだし、そうだし・・・・と会話は続き。
たくさんの信念を掘り出したあと、突如何かひらめいた様子のA子さん。
いきなり、わっと涙しながらひとこと。
「(涙)・・・わたし・・・わたし・・・一人ぼっちになりたくないんです。一人ぽっちにならないために、そのために、ぜったい一人でいなくちゃいけないんです!」
え?一人にならないために、ぜったい一人でいる・・・?ってどういうことでしょう?意味的には矛盾しています。
「誰かとうまくいっちゃいけないんです」とA子さん。
つまり一人ぼっちがコワくて仕方がない。だから、誰かを好きになって、その人がいなくなってしまうショックにはとうてい耐えられない。だったら、いっそのこと最初から一人ぽっちでいれば、安心だし安全だ。傷つかない。自分を守ってあげることができる。好きな人に出会ってしまうと、最終的にはひとりになってしまうリスクがある。だから、自分が好きになってしまう人とは出会わないようにしなければ・・・と、A子さんの潜在意識はかたくなに信じていたのです。そして、それにそった現実を創り出していたのですね。
これには本人さえもびっくりでした。だって、だれが聞いたって、本末転倒。「ひとりにならないために、ひとりでいる」なんて。結局は一人じゃないの??と。
これは、エゴの苦肉の策。はたからみるとこの策略、まったく筋が通っていません。目的にそぐわないトンチンカンな努力なわけです。でも、心ではこれが正しい方法だ!と信じてやっているわけです。ときおり、わたしたちの心(エゴ)は、こんなわけのわからないことを力いっぱいやって、それにエネルギーのすべてを費やしています。だから、本当にやらなくちゃならないこと、やりたいことまで手がまわらないのです。でも、これもすべて自分を幸せにできると信じでやっているのですよね。(けなげ・・・といえば、けなげです。)
ほんとうの信念が見つかったときには、その信念を創った痛みともヒットするので涙がボロボロ出てきたりします。同時に、あきれた信念を見つけた喜びで、泣きながら大声をあげて笑うA子さん。
無意識は意識にのぼらせることによって、消し去ることができます。また、信念というエネルギーとして解放してあげることができます。この「一人ぽっち信念」は消去して、「わたしは、つながる喜びを感じている」というものに置き換えました。
わたしたちは気をつけなければなりません。人間には馴化という、どんな状況にも慣れてしまうスゴイ力があります。幸せでないはずなのに、知らず知らずのうちにそれに慣れてしまうのです。でも、わたしたちは、もともとよい方向に進化して行くようにできているのです。日本人は「耐える」ことが美徳だったりしますが、自分の中のツライ、カナシイ、ミジメ、なんかおかしい感覚には敏感になって、ちゃんと自分を保護してあげましょう。
さてさて、A子さんの恋愛運はこれからどうなることやら?楽しみですね〜!!頭で理解する程度のことでは人生に変化を創り出すのはむずかしかったりしますが、潜在意識が握りしめていたパターンをはずしてあげるとそれが現実に投影されて、環境や体験、または自分の考え方の変化として現れてきます。A子さんいわく、「なんだか、もう大丈夫な気がします!」と心強い返答。心のいらないゴミを捨てると、今まで信じられなかったことに対して簡単に確信が持てるようになります。
それにしても、わたしたちのココロのしくみっておもしろい。つじつまさえあっていないけれど、それでも必死に自分を守ろうとしているけなげさには感心します。でも、そのけなげさこそもっと正しい方向に向け直したら、さぞパワフルな現実を創れることでしょうね♪ Good Luck、A子さん♪その後のご報告、まっていま〜す。
セッションを終了したB子さんからのご質問。「今はとってもいい気分。手っ取り早く、しあわせをキープし続ける方法って何でしょうか?」と。
「手っ取り早くしあわせでいる方法ね〜」・・・。とっさに答えたのがこんな方法。(「とっさ」は思考が働くひまがないので、けっこう深かったりします。)
まず、「しあわせ」っていう言葉じたいが、青い鳥のようなもの。「王子さまとお姫さまは生涯しあわせに暮らしましたとさ・・・」という物語で教育されると、「しあわせ」は一回手にしたら永続的なものだと勘違いしてしまいます。でも、たいていの「しあわせ」感って、一瞬キラリとやってきては去ってゆくもの。(もちろん、その下に脈々と流れる静かなしあわせ感はありますが)。
ずっと、ちゃんと、完璧にしあわせでいなければと思ってしまうと、「しあわせ」感は感じにくくなります。「しあわせ」の中身って・・・たとえば、心楽しい
感じ、嬉しい感じ、愛しい感じ、ありがたい感じ、誇らしい感じ、希望が持てる感じ・・・といろいろな感情があり、それらはすべてあるときやってきては去ってゆくもの。(去って行ってもじつは、ちゃんと心に蓄積されているのですが。)ですので、まず、「しあわせ」という単語よりもこれらの小さな感情をたくさん体験できるようにしてあげることが大切ですね。
その1 比較をやめる。ぜんぶ、「これでい〜のだ!」
苦しみのほとんどは、他と比較することから生まれます。比較から優劣がうまれ、優があるからこそ劣がやってくる、という果てしないUP DOWN ゲームに巻き込まれます。自分の体験、自分の持ち物、自分の容姿・・・そうなんだから、それでいいじゃないですか。
あと、現状に対して、「ま、いっか!」を口グセにするのもおススメです。そのぐらいユルく構えましょう。
その2 「今」を好きになる
今がイヤだから、いつか幸せになる・・・。といっても、いつまでたっても、どこまでいっても、自分が直面しているのは不思議に「今」ばかり。人生は「今」の連続。「いつか」は幻想なのです。
自分がいる場所がいつだって「今」なのだったら、「今」、たった「今」、ちょっと口角を上げて微笑んで、とりあえず生きてるし、とりあえず笑えるし、悪くないんじゃない?幸せだわ♪と言ってしまいましょう。
その3 一日にいち感動以上
「感動するようなことなんてありませ〜ん」と言わないでくださいね。たとえば、昨日のわたし。「お散歩中、おもわぬところからクチナシのいい香り!ああ、シアワセ」「雨の日割引で、クスリ屋さんで1000円ゲット、ありがたいな〜!」などなど。いろいろびっくりできるし、喜べる、感謝できる、エキサイトできる、愛しく感じる・・・これ、心をフレッシュに保つ秘訣です。やって来ては去って行く、こんな日々のプラス感情をいつくしみましょう。
また、たまには、感動ものDVDで爆泣きもおススメ。
その4 自分に正直に
自分の最期がやってきたとき、いったい人は何を後悔するのでしょうか?・・・それは、自分に正直でなかったこと。自分が本当にしたいことを自分にさせなかった、自分が本当に言いたかったことを伝えなかった・・・など自分に対して不正直であったこと。
だから、日頃から小さなことで自分に正直になる習慣をつけましょう。スーパーでヨーグルトを買う、カフェでスウィーツをオーダーする・・・こんなささいなことでも、体脂肪やら、ダイエットを考えてばかりいるのではなくて、自分の気持ちを聞いてあげる練習をしましょう。小さなことができるようになると、イザというときに自分の気持ちに正直である習慣がつくでしょう。
その5 人と自分が喜ぶことをする
自分のことばかり年がら年中考えていると、どんどん自分がちっちゃくなってカチカチに萎縮してしまいます。一方、人を気遣うと、エネルギーがまわりに放射されて、その思いやりの波動に引寄せられて楽しいこと、嬉しいこと、ラッキーなことがやってくるのです。エネルギーは外へ外へ。そして、まわりに自分を与えるとき、その贈りものと引きかえに、きっとあなたの欲しいものがやってきます。キリスト教では、そっといいことをすることを「天に宝を積む」といいます。この宝の量が、「運」でもあるのですね。
そして、自分を意図的に忘れ、まわりや他人に注意を注ぐこと、これは心地よく健康な毎日を送る秘訣でもあるのです。
あなたの近しい人が超不機嫌なとき、あなたはどうしますか?そりゃ、たま〜にだったら相手をしてあげるけど、コンスタントに不満やグチ、文句たらたらな人はいただけません。
そんなとき、
・黙って聞く(そうしなければならないと思っている、あるいはヨイ人でありたいと思っている)
・さっさと逃げ出す、あるいは聞くふりをして聞いちゃいない
・相手にどうして欲しいのか聞く
たいてい、ちゃんと聞いてあげるのがよきパートナーや友の証だと思っていたりします。わたしも以前はそうでした。無防備に全部聞いていたのです。すると、だんだんそれがエスカレートして次から次へと吐き出される。まるでわたしは、具合の悪い人に洗面器をさし出している人のよう。きゃ〜ん!キミはさぞすっきりしただろうが、その後わたしはこれをどうすりゃいのだ!?・・・ってことに。誰かの感情の洗面器になってしまうことはよくあることではないでしょうか?
注意したいのは、感情はSARSやノロウィルスなみの感染力あり。不機嫌さやイライラが発せられるやいなや、それはあっというまにまわりの人の気分を汚染して、その広がりは津波のよう。(キケン警報を発令しなくっちゃ)
もし、自分がハッピーでいたいと思うなら、わたしたちは病原菌から身を守るようにこの無防備にまき散らさせるイライラやら不機嫌菌からも身を守らなければなりません。無防備でいてはいけないのです。とくに、近しい人に対しては。なにしろ、汚染はすこしづつ忍びより、気がついたらすっかりアンハッピーなわたしになっているかもしれません。
そもそも、感情は相手が好きで感じているものであって、その責任を誰かがとってあげる必要はないし、ましてや同じように感じてあげる義務もないわけです。同じように感じてあげても、「最悪な人」がもう一人増えて感染力がアップするだけです。それに、感情をまき散らす人は環境汚染そのもの。このエコな世の中、自分の感情の処理だってちゃんとできなければならないのです。
さて、イライラ、ブツブツ、プリプリ、タラタラなネガティブ人間にはどう対処しましょう?
わたしの場合は、相手がめちゃくちゃ機嫌が悪くて感情を垂れ流しているな、と感じたら、すかさず尋ねます。
・ただ、黙って聞き役になってほしいのか?
・やさしくなぐさめてほしいのか?
・解決策を一緒に考えてほしいのか?
・ただ、あたりちらしたいのか?
黙って聞く場合には、「じゃあ、三分でめいっぱい怒りや不快感を出し切って!全力でね。三分たったらおしまい!」と手短かに盛り上げちゃいます。長々やるよりも、一気に解消するのが効果的。もし、あたりちらしたいのであれば、人間相手はご遠慮いただいて、サンドバッグとか、枕とか、モノにあたっていただきましょう。
この選択肢は結構効果的です。なかには、感情は人にぶつけてあたりまえと思っている方もいらっしゃるので、その場合は教育も必要になってきます。「感情は、そもそも本人が感じているのだから、その本人の責任であること。だから、たれ流しは公害なのです」「そして、機嫌が悪いとき、上に書いた選択肢の中から人に助けを求めることができる」ということ。つまり、しばし聞いてくださいとか、傷ついています、なぐさめてください、とか。「まき散らしてあたりまえ」と思っているとしたら、それは大きな間違いです。
そこで、上手なグチり方も学ばなければなりません。上手なグチり方とは・・・?
(その2へ続く)
PS 本日は柿の木坂「Quatre(キャトル)」
で書いていま〜す。静かなのでMy書斎です。ここのスウィーツはおいしいけど、応対してくれるおねえさん、そしてアイスティーのグラスが華奢すぎることがイマイチなのです。が・・・きょうは、なんと極上の笑顔のおねえさん &アイスティーも大ぶりなしっかりしたグラスにたっぷりでした。(^_-)-☆ ノドの痛いのをいたわって、きょうはクレームキャラメル♪
先日、セミナーにご参加になったCさんから、ご質問をいただきました。
「夏にピッタリ怪談話よりも怖いかも??しれない質問が有ります。それは・・前回セミナーで、その対象にこだわっていると「喰われる」という表現をされていました。その際に、喰われるというのは、まだ相手の方の魂が悪戦苦闘されている、もしくはいつも愚痴を言ったり、と超ネガネガなその相手の存在から自分のエネルギーを喰われるという理解でよろしいでしょうか?」
はい、確かに。わたしは、セミナーやセッションの中で、「喰われる」という表現を使うときが多々あります。「物事に執着したり、抵抗すると、喰われるので気をつけてくださいね」というように。それは、べつにホラーな意味合いではないのですが(笑・夏だからホラーのほうがいい?)。
もちろん、Cさんの解釈も正しいものがあるのですが、この場合はこんな感じです。
日々、わたしたちの目のまえにはさまざまなことが繰り広げられます。楽しい出来事もあれば、金輪際体験したくないようなつらい出来事もあります。しかしそのいずれもが、そこにとどまり続けることはできません。「すべては流れてゆく」 ・・・それがこの世のならわし。そしてまた、流れさせてあげなければなりません。流れれば次の体験、学び、成長がやってくるのです。
しかし、ときにわたしたちは、その流れをせき止めてしまうことがあります。
それは、わたしたちがある特定の出来事に過度に反応してしまう場合に起ります。たとえば、恋人に突如別れを告げられた女性がいたとします。もちろん、誰でも落ち込みます。そして、別れの原因は、たいてい双方に同じだけあるものです。でも、いつまでたってもクヨクヨジメジメ執着から抜け出せない場合。「なんで彼は別れるなんて言ったのかしら?ひどすぎる。わたしの何がいけないっていうの?そもそも、わたしってまったく価値がないのかも。そういえば、昔の彼にもひどいことを言われたことがあった。やっぱりわたしなんて、誰も愛してくれない。親がちゃんと育ててくれなかったから。どうせ、一生誰にも相手にされないわ。・・・」
というように、「二人の関係はうまくゆかなかった」という事実を受け止めることをせず、結果に激しく抵抗します。過度に反応するあまり、ネガティブさがどんどん肥大化していくのです。それは、今起っていることにとどまらずに、過去の同じような痛みをひっぱりだし、はたまた幼少期の体験にまで及び、思考はどんどんネガティブ化し、悲惨な感情は雪だるま式に大きくなってゆきます。
これが、ものごとに「喰われてしまった」状態です。流れてゆくはずのものが、べったりと膠着状態。まるでアロンアルファでくっついたようです。それもそのはず、注意を注げば注ぐほど、体験に抵抗すればするほど、それは大きくなってそこに居すわり続けます。そして、事実とはかけ離れて大げさになったドラマの中に、ついに取り込まれ、どっぷりその気持ちにつかり身動きができなくなります。受け止めるべき事実は、「ただ二人はうまくいかなかった」・・・それだけなのに、自分がふくらました妄想の中に取り込まれてしまっているのです。
例えば、ドラゴンを退治するにしても、喰われてしまったらもともこもないわけです。退治するためには、ドラゴンの外側にいなくちゃいけない。食べられちゃったら、ドラゴンに吸収されて、しまいには一体化するしかないのですね。
思い出してください、すべての出来事は、”ほっておけば”通り過ぎてゆくのです。それは、目の前を行き過ぎる雲のかけらのように、ただ右から左に流してあげれば過ぎ去るもの。しかし、それに抵抗するやいなや、わたしたちは雲の中に突入して、視界を奪われどこにいるのかもわからなくなってしまいます。気がついたら、にっちもさっちもいかない問題のさなかにいることでしょう。そして、ただちょっと通過するはずだったアンハッピーといつのまにか一体かしているのです。つまり、「アンハッピーそのものなわたし」になっているのです。
行き過ぎる雲をスルスル通過させるためには、「価値判断」をしないこと。特に、ネガティブな反応をしないことです。もともと、ものごとはそうあるだけでなので、そのまま流してあげましょう。「ぎゃ〜、いやだわ!こんなことが起るなんて許せない。あいつのせいにきまってる。こんなことがあっていいはずがない」・・・な〜んて、バリバリに抵抗すると、不穏な雲の中にあっという間に吸い込まれてしまいます。そうしたら、あたり一面、真っ暗で「信じられない」ことだらけ。
そうはならないように、何がやってきても、「あら〜、こんな雲がやってきたわ。おもしろいね。・・・でも、ま、いっか。さっさと、行っちゃってね〜。バイバ〜イ!」と流れさせてあげてください。すると、遅かれ早かれ、注意をひけなかった雲はただ流れていなくなるしかないのです。
雲を流すのが上手になると、青空が澄みわたってきます。つまり、気分が明るく、こだわりなく、クリアになる、ということ。そうすると、地上にも影のない世界が見えてくるようですよ〜。楽しみですね。
きょうも暑〜いけど、空が青いです。
街路樹がぴゅ〜ぴゅ〜風になびいて、そのむこうで雲がつぎつぎに流されてゆきます。
そう、この白い雲のようにすべてのものごとはやってきてはどんどん通り過ぎてゆくもの。そして、わたしたちの頭の中に浮かぶあれこれも、浮かんでは消えて行くもの。
わたしたちは、ただ青い空のごとく、そこにいて静かにそれを見守ってあげるだけでいいのですよね。文句を言うことなく、ジタバタすることなく、またしがみつくこともなく・・・。
空はもともと澄み渡っているのだから。すべてを流れさせてあげましょう。
日々の暮らしで、ふ・・・と人の優しさにふれて、それがず〜と心の片すみに灯をともし続けるような体験になることがあります。ほんのささいな心のなごむ親切から、ほんとうに救われた!と手をあわせたくなるような出来事まで。そんなとき、日常の中に姿をあらわした天使の存在を感じるのです。
私の場合は、海外であたふたしているときほど天使との出会いが多いよう。それはささいなことから、とても大きな救助といえることまで。そんな天使たちを数名ご紹介しましょう。
まず、ちっちゃな灯りをともしてくれた天使さん。
フロリダでお土産ショッピングをしてたときのこと。
支払いの段になってドルが足りないのです。それも数ドル。お財布やらカバンのあちこちをひっくりかえして、どこかに余分なドルが隠れていないかあたふたしていると・・・・ふっと後ろから静かにさし出された数ドル札。
見るとそこにはオジサンが立っていて、「数ドル?あるある、大丈夫!」という表情で無言のままごく自然に払ってくれたのでした。もうその場限りで会うこともないのに、オジサンは「よかったね。買い物ができて」というように微笑んでいました。
相手にまったく罪悪感や申し訳なさを感じさせないで受けとらせてしまうオジサンのテクニック(というか、雰囲気)、すごいな〜と感じましたよ。フロリダのオジサン天使さん、ありがとう!わたしもこんな場面があったら、ごく自然に楽しく与えられる人になりたいな〜と感じさせてくれた体験でした。
そして、もうひとつアメリカから。それは、サンフランシスコに朝早く到着したときのこと。
じつは、成田の出国ゲートを出たときから、自分が現金を持ってこなかったことに気づいていたのです。(代官山では、よくお財布を持たないで買い物に出かけますが・・・あは)。一人旅、頼る友もなし。で、「スミマセ〜ン!ATMに行きたいので、ロビーに出させて」と係官にお願いしたら、何をバカなことを・・・、もうキミは出国してるんだ!という目で見られましたよ。
しょうがなしなし、文無しでサンフランシスコ行きの便に搭乗。でも落ち着かないったら。ちょっとそこまでのお散歩じゃあるまいし・・・。そして、早朝のサンフランシスコに到着。やっぱり誰もいないし、ATMもクローズ。ここからすみやかに長距離バスに乗らなければならないし、降りたらタクシーも必要。
でもね、いったいどうやって文無しでバスに乗せてもらったのか、今や記憶が定かではありません。そのうえ、バスの運転手さんがちゃんとホテルに連絡をとってくれて、わたしが降りたターミナルにバンをまわしてくれたのです。
それが、ケッサク!ホテルのバンでお迎えに現れた女性は、まさに天使だったのです。真っ白の丈の長いつやつやのローブ、背中には大きな羽、頭の上には輪っかがふわふわ。つまり、天使コスチューム。わお!ホントに天使が助けに来ちゃった。これは困りはてたすえの幻覚ではありません。じつは、その日はハロウィーンだったのです。でもね、文無しのわたしが東京からオレンジカウンティまで無事に届けられたということは、やっぱり天使さんのしわざとしか言いようがありません。しっかりと守られていたのを今さらながら感じます。
PS その後、スーパーに買い物に行ったのですが、レジを待つ列の前も後ろもキャットウーマンだったりドラキュラだったり・・・。そんなアブナイ衣装の彼らに「なぜ、あなたは何もしていないのか?」と聞かれ、逆に恥ずかしさを感じたのを思い出します。
次回Part2では、かなり危機的な場面での天使さんの出現をご紹介いたしましょう。
海外を旅していると、たまに危機的な状況に出くわすことがあります。もちろん自力で脱出したこともありますが、そのときこそ見えない天使さんが守っくれていたのでしょう。
さて、こちらは危機的状況+地元の女の子天使さんのお話しです。
旅をするときは、お気に入りと未踏の地を組み合わせてお出かけします。そのときの未踏の地はブルガリア。でも、どこか気分がのらなかったのですよね・・・・すると、こんなことが。
はじめての土地は勝手がわかりません。到着早々、市街地行きのバスの切符を購入したら、いきなりお金をごまかされ慌てて取り返すという、ハナから緊張をしいられる展開。そして、発車しようとするバスに大きなスーツケースとともに飛び乗って・・・やれやれ・・・と一服していると・・・。
大柄の強面オトコがやってきて言うのです。「お前は違反している。罰金として一万円払え!」と。「なんじゃ?このオッサンは?」と思ったら、どうやらバスの車掌なのです。乗車したときにチケットを取り忘れている・・・と。あらら?わたしの前のアメリカ人のお兄さんたちだって取ってないと思うよ〜。世界の果てからやってきた女の子だと思ってバカにしてるんじゃないの〜?こんな不条理な要求、断固として応じません。だって、あとにやってくる日本人がまた標的にされてしまいますもの。(そのむかし、不条理なレストランから全力疾走で逃げて、つかまえられてしまったこともありましたっけ・・・汗。まだ、ちゃんと生きています。)
「一万円払え!」「ヤダ!」ともめているうちに、ついにバスを途中で降ろされてしまうことに。こうなったらオジサンを警察にひっぱって行くしかない・・・と思っていたら、なんとオジサンいわく「おまえを警察につきだす」と。「なんですってぇ〜?!」それはワタシのせりふでしょ?!
なおも、「払え!」「払わない!」が続いているときに、後ろからブルガリア人の女の子、二十代後半ぐらいでしょうか、がわって入ってきました。あ・・・この女の子、さっきまでバスに乗っていた子。そして、いきなりブルガリア語でオジサンと口論をはじめたのです。
つまり、からまれているのを見て、一緒にバスを降りてきたのです。そして、この華奢なうら若き女の子はオジサンを口でねじふせ、あのしつこいオジサンはしぶしぶ去ってゆきました。
わたしはあっけにとられるばかり・・・。彼女いわく、車掌も警官もみんなグルだから、と。この国ではまだこういうことが行われいるのだと。そして、彼女はすぐさまタクシーを止めてホテルまで送りとどけてくれたのです。
若いのに、なんというたくましさ、なんという気配り。タクシーの中での短い会話で、彼女は政府の教育庁のようなところで働いているのがわかりました。この国では教育のあるエリート層。フェアじゃないことには、フェアじゃないと言えるセンスの持ち主だったのです。あっというまにホテルに着いてお別れになってしまったのですが、連絡先と名前を聞かなかっことが悔やまれます(それだけ、こっちもテンパっていたのでしょう)。
彼女が登場しなかったら、警察もあてにならず、あの先しつこいオジサンに何をされていたか。彼女も道を急いでいただろうに、もめごとを見るや、一緒にその場に降りてしまう勇気には脱帽しました。彼女は自分の国を愛していて、そこを旅する人にいやな思いをしてほしくなかったのでしょう。
こんないろいろな体験で、わたしも人のトラブルに敏感になりました。けれど、総じて今の日本人は知らない人に無関心すぎる感じがします。彼女の存在はわたしにとっても大きな贈り物であり、その後のわたしの人生に役立つレッスンとなりました。ブルガリアン天使さん、ありがとう。
こんな危機的な場面でなくても、ちょっとした親切がずっと心に残っていることもあります。たとえば、スイスのチューリッヒでのトラム。
このトラムは停車しているときに外側から乗車する人がボタンを押して、自分でドアを開いて乗るようになっています。
道の向こうに停車しているトラムに乗りたいのに、信号で足止めをくってしまいました。今にも発車しそうなトラムめがけて疾走していたら、それに気がついた地元の男性がトラムの横を通りかかるついでに何気なくドアボタンを押しておいてくれたのです。おかげで扉が再び開いたため停車時間が長くなり、無事そのトラムに乗ることができました。男性はそのまま何ごともなかったように去ってゆきました。
ちっちゃな親切だけれど、こんな気遣い、ヨーロッパではよく出会いました。
助け船を出してくれた天使さんたちは、助けたとさえ思っていないのですよね、きっと。でも、助けられた人は一生忘れません。ときには、助けられた人の人生そのものが変わってしまうこともあります。
もしかすると、あなたがして、もう忘れちゃってるちっちゃな親切も誰かの心にずっと灯をともしているかもしれません。
TVコマーシャルにこんなのがありました。
スウィーツを食べようとしている女の子に友人たちが、
「たしか、ダイエット中だよね?」と声をかけます。
「じゃ、甘いものはよくないね。食べてあげる!」といって取り上げるのです。
そのときのひとことが・・・「あなたのためだから」。
「あなたのためだから・・・」って言われると、なんだか「気遣ってもらっている」ような、「大切にされている」ような、そんな錯覚に陥ります。が、そこはかとなく相手のエゴが感じられる言葉でもあります。
これと似ているのが、「あなたのことが心配なのよ」。心配だから・・・「それはやめてくれ」「わたしの言うことを聞いてくれ」と。「心配だ」という言葉に人は弱いものです。小さい頃から「人に心配をかけるのはよくないことだ」と教えこまれ、この言葉を聞くなりスンナリ相手の要求を受け入れてしまったりします。そして、「ああ、気にかけてもらっているんだ。大切な存在なんだ」とちょっと嬉しくなったり、おもいやってくれる相手に感謝する場合もあるでしょう。
しかし、ほんとうに「あなた」、つまり相手のことが心配なのでしょうか?
否!これはつきつめれば、こういうことです。「あなたが好きなようにふるまうと、わたしの心が乱されたり、パワーを奪われるの。そんなことは耐えられないから、勝手なことをするのはやめてちょうだい」という、相手への気遣いどころか、自分自身を気遣った言葉なのです。わたしが不快に感じることを人はすべきではない、ということを遠回しに表現したわけです。
「心配」という言葉をくっつけると、相手をコントロールしやすくなります。戦ったり、支配的な顔を見せることなく、「良い人」「やさしい人」として、まんまと思いどおりにコトをすすめてゆくことができるのです。もっとも、「心配」という言葉を使っている本人も、それが「心配」などではなく「コントロール」だと気づいていない場合も多々あります。自分を守るために無意識のうちに使っているのですね。
子供のときには、このひとことにのせられて、自分の自主性を捨て去り、親の鋳型にまんまと納まってしまう子供も多々みかけます。子供は、相手のコントロールをすでに見破っている場合もあります(子供は鋭いです)。それでも好きなお母さんを嫌な気分にさせたくない、嫌われたくない、という一心で我慢しちゃったりします。すでに顔色をみる習慣がついているわけです。不条理だけど、愛されるためにこの言葉を受け入れるのです。
これは、夫婦間で相手を意のままにしたいときにも使われます。直球で何かお願いして無下に断られよりも、心配の仮面をつけて、うまくコントロールしちゃうという方法。つまり、先ほども書いたように「なにごとも自分の思い通りになってあたりまえ」という考えがその人の根底にあり、自分の満足のためには相手を都合のいいように扱ってもよいのだ、と感じているのです。
「ふ〜ん・・・そういう人もいるのか・・・」とひとごとのように読んでいるあなた。もしかするとご自分でも気づかずにちゃっかり相手をコントロールする癖がついているかもしれません。
ご自分のコントロールの度合いを調べるには、日常の中で「すべてのことにサレンダーする」というチャレンジをしてみてください。サレンダー、つまり「身を任せる」こと。やってくるもの(人や物事、出来事)に対して、すべてにOKを出す、受け入れる、身を委ねる。そのときに、意見したくなったり、抵抗したくなったり、逃げ出したくなったり、戦いたくなる自分を観察します。本来だったら、この場面こそコントロールが顔を出しているときです。いったいどんな場面にあなたのコントロールは顔を出すのでしょう?
これはとっても受け身的な生き方に見えますが、やってみると案外ご利益が多いことに気がつきます。簡単に欲しいものが手に入ったり、起ってほしいことがスムーズに起ったり、相手が思うとおりに動いたりします。ということは、わたしたちはどれだけ「しなくてよい抵抗を日常的に繰りかえしているのか」「ムダな努力をして戦っているのか」ということです。すごいエネルギーのムダづかい。自分の人生がうまくゆかない・・・あらら、気がついたら邪魔をしていたのは自分だったの〜!?ということになります。
ほんとうは力を抜いてゆるゆる生きていると、天がちゃんと必要なところに導いて行ってくれるようです。ヘタに手をだすよりも、大きな流れに身をまかせる。信頼する。つまり「エゴ」「我」を捨てなさいということですね。川の中をスルスル流れて行く感じ。
「あなたのため」とか「あなたのことが心配だから」を使いたくなったとき、自分はいったい何を避けたいと思っているのか、何を守りたいと思っているのか、何を怖がっているのか・・・自分の心をのぞいてみると、大きな力(流れ)と自分との関係を改善することができます。そうすると、まわりの大切な人をコントロールすることなく、尊重しながらお互いに心地よい関係を築いてゆくことができるようになることでしょう。そして、なによりも自分の行く手を阻むこともなくなるのですね。その後にご自分の人生に何がやってくるのかを見てみませんか?
きょうのセッションは、午前は13歳の娘さん、午後はそのお母さま。
そういえば、今までの最年少さん心理セラピーはいくつだったかな〜?と思い出してみました。その昔に小学生さんがいらっしゃいましたっけ。言葉を使うセラピーの場合、自分の気持ちや希望が自分の言葉で語れることが必要です。すると、やっぱりこのぐらいのおトシだとやりやすくなります。
娘さんにはなるべくわかりやすく、言葉を噛み砕いて、時間をかけて、新しいものの見方を伝授し、思いグセの修正をします。しかし、どこまで伝わったかな〜・・・。いえいえ、心配には及びません。お子さんの方がよっぽど大人よりも吸収がよいのです。わたしの話しを言葉ではなくエネルギーで解釈しているようで、すんなり心の深い部分におちて結果をつくりだしてしまいます。頭の理解を飛び越えて、エネルギーで悟る・・・これって次世代の学び方ですね。
きょうのセッションでおもしろいな〜と思ったことは、娘さんとお母さまと別々の時間枠でセッションをしているにもかかわらず、深い意識(潜在意識)のなかにある「人生を邪魔している信念」がお二人ともまったく同じだったということ。
娘さんとやりとりして見つけた信念は、「困っている人を助けたいけれど、助けられない非力な自分」と「世の中はコワイところ」というもの。お母さまは娘さんが日頃「怖がり」さんであることを心配してセッションをすすめたのですが、この「怖がり」さん、なんと、じつはお母さま本人だったわけです。娘さんはお母さまの信念と同化していたのです。愛しているがゆえに無意識のうちにお母さまと同調したのです。(わたしたちは愛するがゆえに、愛するものと同じになってもっと愛を得ようとします。また、相手に対して嫌悪や憎しみがある場合も、同じものになってどんな感じかするかを理解しようとするのです,親父の浮気を責めていた息子は同様に浮気をし無意識のうちに父親を理解し許そうとするのです。もちろん、よい場合も悪いばあいも無意識で行われます。)
このご家族では、おばあちゃんもきっと同じ信念をもった「怖がり」さんだったに違いありません。そして、そのまたおばあちゃんも・・・(どこまでさかのぼれるの?)。このように、物の見方、人生のとらえ方など、その人と一体化しているスタンダードな考え方って、世襲制なのですよね。ずっと、その家系に引き継がれてゆくのです。
でも、おもしろいもので、一人でもその考え方を手放して癒されると、一族郎党(もう亡くなっている方も含めて)全員が癒されてしまいます。これは、毎回のセッションで驚かされる部分です。セラピーで奥さまが役に立たない信念を捨て去ると、そのだんなさまの態度がより柔和に変わり、子どもも自信を持ち、また気まずくなっていた実家からとてもやさしくされたり、職場でも突然優遇され、現在つながりのある人たちとの間でいろいろな変化が起るのを目の当たりにしてきました。
それもそうですよね。わたしたちはみんな潜在意識でも、そしてエネルギー的にもつながっているのです。もともとひとつのエネルギー体なのですものね。
さてさて、お二人ともこのような「怖がり」さん信念を持っていたら、もれなく世の中とてもアブナイところになるし、コワイ体験に悩まされ続けてしまいます。でもお二人まとめてそれを処理したってことは、先祖にさかのぼってまわりへの恩恵も大きいことでしょうね〜。それに、お二人も肩の荷(いえ、潜在意識の荷)がおりてすっきりしていることでしょう。
そして、これはセラピストへの恩恵でもあるのです。クライアントさんが癒されるとセラピストもどこかの部分でちゃっかり癒されちゃっているようです・・・ふっふっふ。いわば、おいしいお仕事です。ごちそうさま・・・♥
お友だちのLちゃんのブログに、最近の「中国漁船衝突事件」についてのコメントがありました。
「日本国政府の対応に、憤りと怒りと脱力感と悲しみと…ありとあらゆる負の感情と思考が脳内に渦巻いたら、脳みそメルトダウン状態になっちゃいました。何だか何も書く気が湧かず、ブログ数日さぼってます…(-_-; 」とLちゃん。ありゃ、どうしちゃったの・・・?
今回のことで嫌悪を感じた方は少なからずいらっしゃると思いますが・・・このコメント、Lちゃんが漁船に体当たりされたか、あるいは石垣島の住民か・・・というリアルな反応ではありませんか。
ふと気づいたわたしは、こんなメールをLちゃんに送りました。
「もしや・・・理不尽で、強行で、勝手で、相手の立場を思いやらない・・・そんな中国の姿勢は、だれかさんに似ていたのですね。今、Lちゃんが味わっている感情は「対中国」ではないようです。で、Lちゃんも無力な女の子になってるのかも」と。
どういうことかというと、彼女いわく、小さい頃から成人するまで父親の身勝手で思いやりのない暴君ぶりに数えきれない涙を流してきたそうな。その当時の傷ついた感情や、憎しみ、嫌悪感が行き場を失い(もちろん相手にぶつけることなどできません)、潜在意識にストックされたまま見すごされてきたわけです。
でも、似たようなエネルギーの出来事にふれると、その潜在意識の中の片鱗が活性化し「自分でもわけのわからない感情」として心や身体を苦しめます。また、自分自身も当時の無力な子供を再体験してしまつことも。これは本人にはあまり自覚されず、目の前のことにまっとうな反応を示しているだけと感じられます。しかし、ハタから見ると、それって過剰反応じゃない?と不思議に感じるものです。
もともと、わたしたちは物ごとを決して「そのまま」でなど見ていないのです(たとえば、ひとつだけ、その人に好みの部分を見つけると、勝手に「理想の人」というレッテルをはって、あとでガッカリするとかね・・・笑)。とくに大きな嫌悪感を感るものごとについては、過去の受け入れられない体験の感情と結びついています。みなさんも日常の中で、ほんのささいなことなのに大騒ぎしたり、怒りまくったり、過剰に反応している人を不思議に思ったことがありませんか?これは、その目の前の出来事ではなく、それと似たようなエネルギーを持った過去のツライ出来事、嫌悪を感じる出来事にリンクして、そちらに反応しているということです。
わたしたちは何かを見ているとき、それを「素」のままで感じることはめったになく、たいていは過去の同じような体験と結びつけて、すみやかにそれを解釈しようとします。たとえば、友人が「すご〜くおいしいチーズケーキだよ!」と持ってきてくれも、「ああ、チーズケーキね。(はい、はい、知ってますよ。何度も食べています。味だってわかってます)」と、頭で味をきめつけて、その日だけの、そのお店だけの、そのチーズケーキ独自がの違いをじっくりと「初体験」することができないのです。
つまり、今回の事件で中国が象徴する横暴で一方的なエネルギーは、Lちゃんを過去のそれを同じようなエネルギーに結びつけて、その当時の感情を丸ごと拒絶反応や身体の反応としてつくりだしたわけです。
Lちゃんいわく、わたしのメールを読んで、ハッとしてから大笑い・・・だったそうです。大笑いしちゃうときは、その指摘がビンゴだったときです。カウンセリングでも、核心にせまった信念が出るといやでもゲラゲラ笑っちゃいます。はたまた、怒り出しちゃうときも、それもまたビンゴ!本当だけど、認めたくないときなのですね。
こういうイヤな感情が出て来たときは、ある意味では、それを癒すよい機会です。なぜなら、ふだんはどこに自分の痛みがあるのか意識できないでいるからです。意識できないものは、手放すことができません。無意識から、いったん意識にのぼらせて「ああ〜、わたしはまだこんな痛みをもっていたのか」「こんな感情があったのか」と確認してあげることでそれを終了することができます。何かにイヤだと反応をはじめたら、いったい自分が何に抵抗しているのかを冷静に見つめてみてください。きっと、何か過去に原因を見つけ出せることでしょう。
先日、わたしもマークシートについてのブログを書きましたが、ほんと知らないうちに過去の抑圧した感情にコントロールされているわたしたち。もともと、ものごとは、わたしたちが意味をくっつけるまでは意味を持ちはしないのです。なるべこものごとに「意味」をつけないで、そのまま、そのまま、「素」で感じて、すべてをはじめての体験として味わいたいものです。すると、もっとかけがえのない「今」「ここ」を新鮮に楽しめることでしょう。
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PS picは、昨日観に行った「ブランダースの光」展(Bunkamura)より。
19末〜20世紀のベルギー絵画です。フランドル絵画は苦手めのわたしですが(だって、どれも見てもみんな同じ・・・汗)、この時代のものはそれぞれ個性がきわだっていて楽しめました。季節や時間が織りなす光が印象的で絵の中に入りこんでしまいます。秋にぴったりですよ。
ブログに不具合がでてアップできなくなったり、光回線が乱れてパソコンと電話が不通になったり、ついにはわたしの声まで干あがって・・・。
これはあきらかにコミュニケーションに何かが起きている証拠。もちろん、その持ち主であるわたしに。
「何か言いたいのに言葉にしていないことはあるかな〜?」と心に尋ねてみたけれど、とくに思い当たらず。でも、どれも復旧する兆しはなし。
そういえば・・・と思いついたのは・・・、心に思い浮かんだことをそのまま放置していること。行動に移してこそ意味があるのに、思いついただけで満足しちゃったり、すでに行動したような気になって、結局そのまま通りすぎちゃうことって結構多い。
たとえば、お礼の言葉を伝えたいと思っているのにそのまなになっていたり、思いやりを示したいと思っているのにタイミングをのがしたり。
そこで便せんとペンを取り出して、お世話になった方にいくつかのお礼状を書き、最近家族を亡くされた友人にお悔やみの手紙もしたためた。「こうしたらいいな」ということがひらめいても、そのまま通りすぎてしまうことがいかに多いことか。思いやりって、表現しなければなかったも同然。アウトプットしてこそ意味を持つようになるのです。
声の調子が悪くセッションをキャンセルしていたので、「これをしたらいいよね」というひらめきに形を与えることにしました。いろいろとアウトプット。でも、不思議・・・疲れることもなく、かなりの充実感、満足感、安心感、嬉しさ・・・。新たなエネルギーがわたしのなかにインプットされたよう。より満たされちゃった感じです。心と身体のフットワーク軽くすること、大切です。
ブログ問題も解消、光回線も復旧、喉は快方に向かい始めました(風邪と喉の調子にはかな〜り気をつけているのですが、これですからね〜)。
「与えることは受けとること」・・・あたりまえのように知っているはずの言葉が、あらためて実感をともなってお腹におちた感じがします。
与える喜びをありがとう。(^^)
PS スタバにジンジャーフレッドラテが登場しましたね。スパイシーでクリーミーなX'masテイストのドリンクに、ああ冬がやってきた〜と感じます。これ大好きで、X'masが過ぎてメニューが変わっても、シロップが残っていればおねだりして作ってもらっちゃいます。当分はコレ♪
「今だにこのトシになっても母にガミガミ言われて、どんどん萎縮してしまうんです」(40代女性)
「夫に家事ができない、できないと言われ続け、ダメ人間な自分を責め続けています)(30代女性)
近しい人からの攻撃的な言動は傷つくものです。本人を萎縮させるどころかどんどん追いつめます。どちらの女性も口をそろえて、「いたらない自分がいけないんです」「いくら努力しても満足な自分になれなくって・・・」とうなだれます。
あらら〜・・・。(~.~;
まず問題なのは、わたしたちの身の振り方です。わたしたちはまわりの反応をみながら自分の立ち居振る舞い、あるいはどういう人でいるか、ということを決めてきた、ということです。これは幼少の頃から無意識でやっているのですが、父、母、兄弟などの反応に敏感になりながら自分の立ち位置を決めてゆきます。なので、現在のご自分はこの訓練のたまものであり、家族の中で働いている力学の一部でもあるのです。決して「素」の本来の自分ではなく、そのように感化された自分なのです。
「自分の気持ちを通そうとするとお母さんは嫌な顔をする。不機嫌なお母さんを見るよりは、最初からお母さんの言うことに従ってしまおう」とか、「人より何かがうまくできると嫉妬されて仲間はずれにされる。だったらいっそダメ人間、とろいわたしをやったほうが人は可愛がってくれる」・・・ってな具合に、まわりに安全に適応して愛される自分を無意識に演出してゆきます。
だから「とっても控えめ」な自分だと信じていたけれど、潜在意識の中には「とっても控えめ」にさせられてきた怒りとともに、本来の自分の率直さがためこんだエネルギーによって「暴君」のような危険なエネルギーと化して潜伏していたりします。よく殺人事件があると「あんなにおとなしい人が信じられない」とコメントされたりしますが、そうなんです、本来の自己が、抑圧されてきたがゆえの怒りとともに爆発してしまったわけです。
誰でも無意識のうちに周りの反応をみながら自分を演出することを覚えるわけです。でも、これはまわりに力を明け渡しているので自分は無力に感じるし、またまわりの出方しだいでふりまわされ続けます。
あるところから、注意の転換が必要になるわけです。
自分の注意をまわりをうかがうことに使うのではなく、自分がどう感じているのかに向けてあげること。自分がどのように感じて、どのようにふるまいたいのかを、まわりの反応とは関係なく自分の気持ちを軸に決めてゆくこと。これを身につけないと100人の人から自分に対して違ったコメントを受けとると、ついにはどのように反応してよいのかわからなくなります。そして、自分の気持ちを感じてあげることは、自分を大切にする、自分の感じ方を信頼し、尊重するという自己信頼を育てることでもあるのです。まずは、自分の気持ちを尊重し、自分を中心にそえてあげることが大切なのです。
そしてもうひとつ大切なことは、「人の言動は、その人の勝手だ」ということを知ることも大切です。
誰が何を言おうと(たとえ、それが親であろうと)その人の言葉は、結局その人の「生い立ち(生育環境)」「トラウマ」「劣等感」「独自の価値判断」「その日のご機嫌」などにかかわっているということ。その人の言葉は、その人にしか理解できない(いや、本人も理解していないですね)いろいろな複雑な要素がからみあって発っせられているのです。そしてそれは、なんら「真のわたし」とは関係がないのです。言わば、モロに相手の勝手です。
たとえば、冒頭の「娘にガミガミ言うお母さん」。人はどんな時にガミガミ吠えたいのでしょうか?
(その2に続く)
誰かに文句を言いたいとき、攻撃したいとき、そんなときはもれなくその本人が幸せでないときです。文句や攻撃の相手はただの標的にすぎません。
このガミガミ言うお母さんは、娘のことに限らず、自分の人生のあらゆることが自分の思い通りにならない無力感にさいなまれています。ものごとが自分の思い通りにならないときや葛藤があるとき、ひとはそれを持て余します。どっかでガスを抜きたい、さっぱりしたいのです。自分の葛藤を自分の中で昇華する力もなく、また周りに力をかしてもらうというコミュニケーションもとれないので、結局その葛藤はどこかにぶつけられることになります。当たり散らすのに最適な場所・・・、それは都合よく「無力」の呪文をかけた娘なわけです。そして、娘をコントロールすることによって、自分の不安定な人生のコントロール感を取り戻すわけです。
また娘さんの立場からすると、なぜ母はわたしにガミガミ言うのだろう?母はわたしを愛してくれるはずなのに。その母がつらく当たるってことは、自分が愛されるに値しないからに違いない。と、確信し自信喪失します。「ダメなわたし」に対する自己攻撃に入ってしまうのです。
娘さん、違うんですよ〜!これは娘さんが、「母は無条件にわたしを愛してくれる人」という幻想に固執してしまったことが苦しみの原因となります。あるいは、他のおうちのお母さんと比較してしまったこと・・・。わたしたちは「母」=「無条件の愛」「やさしさ」「いたわり」という名札をつけようとします。しかし、「母」もひとりの人間。みんなと同じように心に傷のある人間です。もしかすると、この娘さん以上にガミガミ言われて育てられたので、同じように無意識でガミガミ言うのがあたりまえになっているのかもしれません。そうなると、「母」というラベルよりも、ひとりの「人間」としてどのような人なのかを冷静に観察しなければならないのです。
ああ、この人は自分に自信がないから、すぐにキレちゃうのね。すべてを自分の思い通りにしないとこわくてしかたがないのね。そして、攻撃することによって自分よりも弱いものをつくって、自分が優位に立ちたいのね。・・・と静かに分析してください。そうです。ただ「そういう人」なのです。それを淡々と理解しなければなりません。ゆめゆめ、理想に仕立て上げないようにいたしましょう。
すると、おのずと対処法が見えてきます。「お母さん、その言い方こわく感じるからもう少し静かに話してくれる?」とか、「わたしは自分がよかれと思ってやったけれど、うまくできないことは仕方がないわ」とか、母の理想と実際の娘の現実を冷静に教えてあげます。そして、思い切って距離をおくことも大切です。たとえ母であろうと。自分が傷つくときには、自分で自分を守る姿勢も大切なのです。
わたしたちはパターン化してしまった害のあるコミュニケーションや力関係に、鈍感になったり、いたずらに無力感を感じたりすることがあります。でも、もし自分がいやな思いをしているとしたら、もういちど他人のように離れた目線で冷静に関係のあり方をながめてみることです。もし、友人から相談されたとしたら、「あれ?それってすごくヘンじゃないの?」と気がついてしまうことがよくありますよね。そんなふうに、人から相談されたと思って客観的な目線でふだんの親しい人とのパターン化したコミュニケーションのあり方を見つめなおしてみましょう。
わたしたちは、自分を大切にすることに躊躇しがちですが、まずは自分の心によくよく聞き耳をたててあげること。そして、人は自分とは考えも感じ方も違って当然ということを前提に、自分の心の声をもとにお互いが歩み寄れるところを探ってゆくことも大切です。すると、双方に敗北感や支配された感覚が残らずよいコミュニケーションがとれるようになりますよ。Good Luck!(^-^)ノ
昨年、キャミ・ウォーカー著 「ギフトを贈ると奇跡が起きる」という本を読みました。進行中の多発性硬化症を患うキャミは、身体がどんどん不自由になり仕事をあきらめ、歩くことすらままならず家にこもりっきり。パートナーとの関係も悪化の一途をたどり、お先真っ暗。
彼女は、あるサイキックからすすめられた「29日間ギフトを贈る」というエクササイスにチャレンジしはじめます。心から与える気持ちで行うこと、与えながら毎日日記をつけるとこ、そして一日でもできなかったらふり出しに戻ること、というルールがあります。この本はその29日間に、与えることによって起る彼女の変化の日記なのです。ギフトは友人へのランチだったり、見知らぬ人への親切、はてはホームレスへの食事であったり、言葉や思いやりのことも。彼女は軽い気持ちでこれを始めたものの、数日でみるみる元気に。外出もできるようになり、パートナーとの仲もラブラブ。仕事も再開します。病気に支配される無力な被害者から喜びを創り出すポジティブな創造主へ。
わたしも「与えることと受けとること」というテーマでセミナーをしたこともあり、「与えること」のパワーは重々承知していました。で、ものは試しにこの「29日間のエクササイス」を試みることに。(それを聞いて、「29個、毎日プレゼントがもらえる〜♪」と喜んでいるやからあり!・・・失笑、勘違いしてない?)
これがね〜、29日結構長いです!!中盤、キャミのように夜になっても何も与えていないことに気づき、あわてることも。
こんなシンプルなエクササイスでも、気づくことはたくさんあってびっくりです。自分のパターンがあらわになります。
まず、「与える」というよりはこっそり「むしりとっている」自分に気づきガクゼン・・・・!!(知らなかった・・・。みんなゴメンね〜。)あるいは、与えたように見えても、まだ握りしめていることも。つまり、「それどう?気に入った?使ってくれてる?」と完全に相手に手放していないのです。また、純粋に与えているつもりでも、あんがい隠された意図、つまり何かそれによる見返りを期待していたり、ギム感で与えていたりる場合も(ああ・・・)。
そのうえ、人に何かしてあげたい、プレゼントしたい、と思いつつもついつい先延ばしにしたり実行しなかったりすることも多々発見。(これをすぐに行動に移すことはとても気持ちのいいことです。)そして、あんがい「人が与えてくれるのを待っている」自分がいたり、その期待が叶えられないと勝手に被害者に突入するパターンとか・・・あまり見たくないものにあれこれ遭遇(汗)。
結局、(定説どおり)与えることによってたくさんの恩恵をいただきましたが、なによりも自分の持っている豊かさを形にして与えることで自分が嬉しくなり、その流れるエネルギーによって相手と自分の境目がなくなって「あなたとわたし」がひとつの輪になってゆく、つまり「すべてがひとつ」ということを体験的に知ることができましたよ。
「待ち」をやめて自分から動くことになったり、被害者意識(あんがい、みなさん持ってる意識です)がなくなったり、よいことの出し惜しみをしなくなったり・・・いろいろ変化あり。なによりも、ハッピーになったかな。
じつは、29日はとっくに終わっているのですが、まだゆるゆると続行中。クライアントさんにもオススメして、みなさんいろいろ気づきを得ています。29日コテコテにやるのも実りがありますが、自分に”できる限りで”というモードでも十分だと思います。きっと嬉しい、楽しい気づきと変化があることでしょう♪
PS こちらのキャミのサイト(英語ですが)から29日のチャレンジにサインアップできます。29日を続行中のみなさまのコメントも日々アップされています。
2012年に向けて、様々なことが加速しているのを感じる今日この頃です。
自己についての洞察もこれまでになく超加速気味で、ひゃ〜!見たくないものオンパレード。こんなアイデンティティと一体化して平気でいたなんて〜!(汗)と今さらながらの赤面もの。しかし、恥やら自己嫌悪に陥っている場合ではなく、気がついたら「さっさと片づけなさいよ」ということです。それに、気づいて片づけないと、ものごとはさらに悪化の一途をたどります。というわけで、新年からいろいろと脱皮をはかっておりますよ〜。脱皮すると決めたら、あれも、それも、これも!と次から次へと問題提起と気づきの連続(ひゃ〜ん!)。そんな状態でもありのままの自分を愛する、ありのままをよしとするという忍耐のレッスンです。(宇宙さん、どうぞお手柔らかに)みなさまの新年のスタートはいかがでしょうか?
さて本日のお題目は、最近私がこれらの気づきの中で取り組んでいる「ゆだねる」ということについて。
私たちは、自分のまわりのあらゆるモノ・ヒト・デキゴトを無意識のうちに徹底的にコントロールしようと試みています。なぜなら、「この世はコワイところ」だし、「やってくる出来事にちゃんと対応できないかもしれない」し、なによりも「人は何をするかわからない」という危機感から傷つけられてボロボロになっちゃうかも・・・と信じています(もちろん、これは意識下でのこと)。深い部分で「自分はやってくるものにうまく対処できない」と感じて、あらゆることに対して「怖れ」を抱いているのです。
「怖れ」というものを持っていれば、まず身を守ることが最優先。身を守るために、ものごとに対して、人に対して、すべてコントロールをしなければならないと思っています。やってくるままにさせておくと手に負えなくなるだろうと信じているので、ホンロウされてしまう前に、傷つく前に、損する前に、どうにかしようと”こっそりと” あるいは”あからさまに” 抵抗を試みるわけです。
たとえば、友人が共通の知り合いのことを褒めたら、「でもね、あの人さ〜、そうでもないのよ」とすかさず反論しておく(誰かがすばらしくなったら、ますます自分の価値が低くなるという怖れ)。パートナーが期待したように振る舞ってくれないときには、口では何も言わなくてもにらみつけて機嫌を悪くする(しっかりと手綱を取るべく、あなたはわたしの言いなりになるべきだと無言のプレッシャーをかけ力の上下関係を明白にしておく)。こどもが思うような結果を出せないとき、「なんで○○ちゃんはできるのにあなたはできないの?」と常に他と比較する(こどもの達成=自分の価値と勘違いしているので、理想を達成できなければプレッシャーをかけてコントロールする)、などなどまわりの状況に対して、あれやこれやの細工をして抵抗をしているわけです。
しかし、すべての「苦しみ」の原因というのは、じつは「こんなことはいやだ〜!わたしの好みではない!」と起っている現実を受け入れられずそれに抵抗しようとすることから生まれます。出来事、人、関係をそのまま受け入れられないのです。だから、それに挑みかかって戦ってなんとか違う体験に変えようとします。コントロールはその戦いのひとつのバージョンです。
しかし、ものごとはいつだって「そのまま・あるがまま」なのです。ただそのようにやってきて、そのように去ってゆく。それがものごと。ということは、「そのようにそのまま体験してね。それがあなたにとっていちばんためになるのですよ」ということでもあるのです。そのままで結局うまくゆくのかもしれないし、そのままで学ぶことがたくさんあり、新しい自分になれるのかもしれません。宇宙さんが「そのまま」でいいというのだから、きっとそのままでいいことがあるに違いありません。
すると、変えなければならないのは、じつは「あるがまま」に耐えられず怖れを感じている”自分”なわけです。たとえば、先ほどの共通の知り合いを友人がほめたとき、さりげなく悪口を言っておくというような場合、勝手に劣等感にとらわれているのは本人で、その人が誰かが誰かを褒めるのを許せないわけです。あいますよね。誰かが人のことを褒めはじめると、急に不機嫌になるか自己主張をはじめるお方。ただ、自分が自分に対して「わたしは人より劣っていて恥ずかしい存在だ」と勝手に信じているだけなのです。(こういう痛みを持った人が一人いると、その痛みがジワジワまわりに伝播しはじめ、そこにいる人たち全員が知らないうちにぎすぎすした雰囲気になっちゃったりします。感情は伝染するのですね。)
自分の劣等感からいちいち現実に反応し戦っていると、相当なエネルギーを消費します。おそらくそれに対処するだけで体力は精一杯、未来を創り出すパワーはもう残っていません。また自分の価値が自分で認められないと、外からも同じような体験を引寄せることになります。つまり、人からも評価されないし大切にされないという結果になるのです。自分が自分を扱ったようにしか、人は自分を扱ってくれないからです。
そこで、いちいちまわりに抵抗して戦おうとするよりも、いっそまわりに起ること、まわりの流れにそのまま身を「ゆだねて」しまいましょうよ、ということなのです。起ることすべてを、ただ勝手に起るままにさせておく。一切のコントロールや抵抗、戦いを手放すということです。
「え〜っ!そんなことしたら、まわりに好き勝手にされちゃうんじゃないの?」・・・そう思いますか?それこそが、自分自身と人生を戦わせる最大の信念なわけです。ほんとうに流れにゆだねて何もしなかったら、いいようにされちゃうのでしょうか?
(その2へ続く)
「ゆだねる」=「ホンロウ」されちゃう?のでしょうか。
その1でもちらりと書きましたがいろいろな体験がやってくるということは、宇宙はあなたにそれを体験してほしいからなのです。「怖い」だ「好き」だ「嫌い」だと言っているのではなく、そのまま体験することに意義あり、きっとよいことがありますよ〜と。
数日前、出張に出かけたときのこと。現地での午後のセッションが当日キャンセルとなりました。交通費、モロモロの経費があり、あらら・・・(汗)なのですが、わたしとセッション会場を提供してくれてる友人は「まあ、どうにかなるっしょ!」と顔を見合わせそのままにしておきました。すると、午前中のクライアントさんが「午後に他のセッションも受けたい」との申し出があり、そのセッションをしているうちに勝手にもう一名新しいクライアントさんが名乗りをあげておりました(で、結局もとよりも収入増!)。そう、経験に「抵抗しない」「そのままにしておく」ってこういう予想外の流れに乗れることなのです。予期しないことがやってきたときは、「こっちのほうが楽しいよ」「おトクだよ」と導かれているときです。これを見て、わたしたちは「ほら!やっぱりね!」と再度微笑みあったのでした。
また、「あるがままにしておく」「そのまま受け入れる」ということは、自分の中にある怖れをありありと浮かび上がらせてくれます。「そんなことしたら○○になっちゃうよ」と。そう、この思い込みこそが「○○になっちゃう」人生を創りだすモトなのです。
自分がどんな怖れを持っているのか自覚できないと、わたしたちはそれに突き動かされてとっている自分自身の不毛な行動に気づくことができません。怖れを避けようとすればするほど、そちらに歩み寄ってゆくことになります。
自分の怖れに自覚的になると、自信がなくなる?いえいえ、それよりも自分もそんな弱い面、ふがいない面を持っていることに気づき、人ってみんなそうなんだな〜と、自分も人も許すことができ優しくなります。自分がその点を認めて気づいていないと、同じ弱さを持っている人を認められず裁いてしまいます。しかし、みんながみんな、自分と同じそんな面を持っていると感じられるようになると、ある人が不器用なのを見て「まるでわたしみたい」と助けてあげることができます。それは自分を助けていることと同じこと。自分への変なこだわりやプライドがなくなり、罪悪感をもったり自己嫌悪で自分につらくあたることもなくなり、人への共感が育ち、そして世の中が平和に見えはじめます。
そして「抵抗しない」と、何よりも自分自身と世界との間に摩擦がおこらないので、ものごとはあるがままにとうとうと流れ、ちゃんとなるようになってゆく・・・という感覚があります。結局、怖れからさまざまなものに抵抗することで、なるようになるはずだった流れをせき止めていたのだな〜ということに気がつきます。わたしたちのアタマで「あ〜だ、こ〜だ」考えても、所詮、宇宙の智慧に比べたらわたしたちのはおサルちゃんの智恵程度(汗)。宇宙がわたしたちに乗せてくれようとしている流れに力を抜いてゆだねることこそ、わたしたちがこの地球でしなければならないことなのです。
きっと宇宙さんんは何度も叫んでいたことでしょうね。「もっと力を抜いて!自分でやろうとしないで!ちゃんとすべては用意されているのだからその流れに乗りなさい!」と。
「怖れ」や「抵抗」や「コントロールしたい」いつものパターンが顔をだそうとも、抵抗しない、戦わない、あるがまま、で今年は進んでゆこうと思っています。(まだ一ヶ月弱だけれど、気づきがたくさんあり、また人生の流れもラクになってきがしますよ♪)
もともとわたしたちがここに五感のある身体を持ってやってきたのは、それをフルに利用して体験するという人生を生きるためです。体験するために来たのに、逃げてちゃはじまらないわけです。「お〜、怒るってこんな感じか〜」「恥ずかしいってこんな感じか〜」「飛び上がっちゃうほど嬉しいってこんな感じか〜」と、あるがままにやってこさせて、それをサクサク受けとめて体験して、全部知っちゃったら同じ体験をする必要もなく、身体をもってここに存在する意味もなくなっちゃって・・・ついに人間卒業?(それも寂しい・・・まだスウィーツ食べたい・・・失笑)
あるがまま、来させて、体験して、楽しんで、流れにのって・・・大きくなりましょう。
PS セラピスト、癒し手という仕事をする前には、勉強をかねつつ自己の癒しもしなければなりません。なので、あらかたの問題はとっくに手放したと思っていました。が、気がついてみると、本当の自分のパターン化した重大な問題っていうのはじつは、自分がこれが問題だ!と信じていた裏の裏の裏の奥〜の方に気づかれないように静かに潜んでいるものなのです。嗚呼・・こんな信念に支配されていたとは・・・。そして、これを見つけるのに何年かかったことか・・・。でも、自分のとってきたあらゆる行動・思考に関して、深く納得するとともに、ナゾが解けたようで笑ってしまったのでした(なにやってたのだ!と)。自己探求はオモシロイ!そして、さらにふわふわゆるゆる自由になります。
「今ここのすばらしさを味わえないと、酸欠金魚になる」・・・
これは、昨日のセッションでつくづく感じたことです。
クライアントのMさんは、長年自分でキャリアを築きあげてきたデザイナーさん。おしゃれでお金のかかった外見からはすべてが順風満帆に見えます。
しかし、いつも苦虫をかみつぶしたような表情で、口を開けばネガティブトークがはじまります。「誰それの言動が気にくわない」「あれがいやだ、これがいやだ、状来が不安だ」・・・と。それに、明らかにエネルギーが枯渇しているようで、あまり健康そうには見えません。彼の話しを聞く限りでは、何もかもが不安、そして不満足である・・・と。その抱えている感情がピークに達するとセッションにやってきます。
はたから見たら、誰もがうらやむ華やかな仕事と私生活。誰もが彼を「成功者」とみなすでしょう。でも、彼の心はいつも不安と怖れのベールにすっぽりと包まれているようなのです。
というのも、やってくるなりパートナーの至らさにはじまり、自分がどれだけ仕事で重荷を負っているのか、常に経済的な不安にさらされているのか、それにくらべて彼のスタッフは仕事もろくにできずに不平不満が多い・・・と延々と語られます。
彼の話しをする様子は、頭がぐるぐる回転し、未来や過去を飛び回り、滔々としゃべり続け、心はまったくここに存在していないのが感じられます。すでにすぎさった過去を悔いたり腹をたてたり、まだ起っていない未来のあれこれに心を痛めたり。思考のドロ沼にずぶずぶ足をとられて、かろうじて口から上が沼から出ているような感じです。
そうなんですよね。わたしたちの心って、ほっておくと過去か未来へふらふらお出かけするのが大好きです。しかし、そこには怒りやら罪悪感やら自己嫌悪やら、不安、怖れなど、過ぎ去った否定的な感情や起るはずのない恐怖で満ち満ちているのです。過去や未来への徘徊ぐせがつくと心は不安にさいなまれるようになり、思考のドロ沼にはまりこみます。まさに、思考にぱっくりと食べられてしまっている状態です。
あら・・・この方、ココが完全にお留守だわ・・・と気づいたわたしは、
「はいっ!ちゃんと目を開けて、目の前にあるものをしっかり見て。お腹まで深い息を吸って、はい、吐いて。・・・・さあ、たった今、この瞬間、何があなたを苦しめているのでしょう?たった今、この瞬間、あなたには困ったことがありますか?」と彼を頭の中の幻想から、たった今のこの瞬間に連れ戻すことにしました。
「今、たった今、目の前にあなたを苦しませているその問題はありますか?」と尋ねると、
「ア・・・なんか、ちょっと我にかえった気がしました。そっか〜・・・ボクはどうやら、過去や未来への考えにはまっていたのかな」
そうなんです。わたしたちは身体をもって、今ここに存在しているのに、過去のドラマチック劇場や未来の恐怖劇場にすっぽり引き込まれて、今がお留守になってしまうんですね。
今とつながっていないと、感情の面でも健康の面でも酸欠になります。今につながっていないと、心は不安や怖れでいっぱいになるし、身体はそれを維持するだけのエネルギーを得られなくなります。今、ここにいることでしか、心も身体も魂もエネルギーをチャージできないのですね。物理的な身体を持っているということは、どうやら「今、ここ」をしっかりと体験しなさいということのようです。
「目のまえのものをしっかり見て。深く腹式呼吸してみましょう。そして、しっかりここに存在します。どうですか?」
「今、ここにいると、不思議と怖れがなくなってゆく感じがしますし、リラックスします。”今”は安全なんですね」とMさん。
まず、現実、今ここにしっかりと意識を戻して、自分の頭がつくり出している過去や未来というドラマから抜け出すだけでも、かなりのセラピー効果があるのです。そして、今の一瞬が安全なら、次の一瞬も安全。そして安全が続いてゆくのです。
考えは考え。ほんとうのわたしたちではありません。やってきては去ってゆくもの。それと一体化してしまうと、自分とのつながりが切れてしまい、幻想の世界に突入。身体も心も魂もバランスを崩してしまいます。つまり、心や身体のバランスが崩れるたときには、その方が今にいる割合が減ってしまっているということです。
酸欠金魚のようにアップアップしないように、しっかりと目を開いて、深〜く息を吸い込んで、じっくりと「今、ここ」に向きあってみましょう。
より現実につながっている方法としては、今目の前のこと、ひとつひとつに感謝すること。感謝は自分自身をエネルギーで満たしてくれます。酸欠金魚のようにならないように、今ここの美しさを味わいましょう。
本日のA子さんのご相談は、「最近、突然泣きたくなったり、感情がとても敏感です。それに、異動で憧れの仕事についたものの、二人の同僚にイラついてばかりで苦しい」とのこと。
なるほど、なるほど。一日のほとんどの時間を過ごす職場で精神状態が悪いのは、人生の大きなロスになりますよね。
まず、仕事でイラつく状況について調べてみることにしました。
新入りでまだわからないことだらけなのA子さん。「わからなかったら、なんでも聞いて!」という同僚二人(男女)に質問するのですが、その答えは「まどろっこしく」「くどい」そうで、そのうえ意地悪。彼女は聞いているとイライラしてしまい二人へ嫌悪感がつのってゆくそう。
それでは、コミュニケーションレベルで何か起きているのか実際の場面を調べてみました。いったい、どんなふうに話しかけているのでしょうか?わたしがA子さん本人になり、A子さんに会社の同僚になってもらいます。そして、わたしがいつもA子さんが使っている言葉で、同僚役のA子さんに話しかけてみました。
(おずおずと)「あの〜・・・、お忙しところ大変すみませんがちょっと教えていただけますでしょうか・・・」とわたし。この言葉は、彼女のキャラとは違いかなり下手でかなり丁寧な言葉遣いです。
その後、「そう話しかけられてどんな感じでした?」と同僚役のA子さんに感想を聞いてみました。
「ん〜・・・なんかイラっとくる・・・」とA子さん。
そうなんですよね。文字にすると丁寧で何の問題もないセリフに聞こえますが、実際の場面にあてはめてこの言葉を使ってみると丁寧さ、気の遣い方、下手に出る感じがイラっとくるのです(あくまでも、この場面での話しです。他の方が他の場面で使ったらなんの問題もありません)。
まるで腫れ物にでもさわるようなこわごわした話し方。「おもわず、何なんだよ〜!」と言い返したくなります。人は卑屈だったり、怖がられていたり、バカ丁寧だったりする態度にはムカっときて、そんなに下手に出ているなら・・・とその相手をいじめたくなるものなのです。(そうなんですよ〜。結局は被害者のようにみえる自分の態度が相手の反応の呼び水になっているのです。)
そこでA子さんに、「この丁寧さは相手の神経を逆撫でするので、ここはA子さんらしく”明るく、軽く、さわやかに”聞いてみましょうよ。”すみませ〜ん!わからないので教えてくださ〜い!” これでOKだと思いますよ」と提案してみました。
A子さんも、まったく自分らしくなくなっていた自分に気づきました。まったく別物になっていたのですね。よし、今後はなんの小細工もやめよう!素のままの自分でいよう!と自分にOKを出すことができました。
さて、次のステップです。「二人に対して嫌悪感がつのってゆく」・・・とのこと。
はい!この場合は、心理学の基本中の基本、「投影」の原理が働いています。外側に見えるいいモノもいやなモノも、すべて自分の一部。そこで、彼女にきいてみました。
相手が「まどろっこしく」「くどい」のが許せないというA子さんに、「小さい頃、何か言おうとすればまどろっこしくなってしまう自分を恥じていたときはある?もう、そんな自分でいるのはやめようって思ったことはある?」と。
「まわりに見えるものはすべて自己の反映」であると知っている彼女は、「この二人は自分の反映かもしれない」とも思ってみたそうです。でも、こんなイヤなやつが自分であるはずがない・・・とすぐにその考えを却下したとか。そうですよね、自分自身が自分が嫌悪している人であるはずがない・・・と誰もが思います。さて‥‥‥ほんとうにそう?でしょうか。
(その2に続く)
抵抗している自分の一部は、さっさと自分から切り離されて潜在意識にためこまれます。
この場合、「まどろっこしく」「くどい」というカッコよくない自分に耐えられなかったからこそ、その部分を切り離して心の闇に葬り、なかったことにしたのです。そして、それ以降はそんな自分がいたことすらすっかり忘れ、まったく反対のキャラクターであるテキパキ、打てば響く自分を演出し、それこそが本当の自分だと信じてきたのです。
そう話すと、A子さんは涙をポロポロこぼしながら、「十歳ほど年の離れた兄と姉に、いつも必死で話しをしていた。彼らはわたしが一生懸命話してもまったく理解してくれなかったし、そのうえバカにしはじめたり意地悪だった」と思い出しました。彼女は理解してほしいと話せば話すほど、まどろっこしくなる幼い自分をバカみたいに感じて恥じ、またそれによってどんどん機嫌が悪くなり意地悪になってゆく兄と姉を憎み、そういう不器用な自分さえも恥じていたのです。
同僚二人の中に見えたのは、葬り去ったものの、まだうずいている自分の中の古いキズそのものだったのです。
この場合、ふたりの同僚(男女)にすっぽりと兄と姉の役柄をかぶせていたわけです。A子さんは実際の二人の同僚の真の姿を体験することなく、兄と姉へのキズをすっぽりかぶせて彼らを見ていたのです。だから、この二人がとても意地悪に感じるし、二人といると自信はなくなり、気持ちが不安定になってくる。自分がどんどん無力に感じられて、その頃の小さな女の子に退行してしまっていたのです。「異動になってからイラつく、情緒不安定になる」というのはこれが原因だったわけですね。
何が起っていたのか理由を知るだけでも、もう解放が始まっています。そして、「ああ、まだこんな自分がいたんだね」と抵抗せずに認めて受け入れてあげることによって、抵抗して切り離されていた自分の一部が「反抗するのをやめて」自分の中に戻ってきます。いろんな感情を引き起こして暴れていた自分の一部が、気づいてもらって受け入れられておとなしくなるのです。
A子さんいわく、「この部署にきてから、まるで人が変わったみたいと言われていました。前みたいなパワーがなくなって、おとなしくて静かになっていたのですよね」と。この二人の同僚を兄と姉にみたててしまっていたので、二人と一緒にいると十歳上の兄と姉に抑圧されているように苦しくなってしまったのです。(実際、十歳違いだと、考え、腕力、口でもまったく歯がたちません。当時のA子さんは自分らしさを失っていたのだと思います。)
その兄と姉に抑圧されていたこども時代、A子さんは傷ついたすえにどのようなことを心に決めてしまったのでしょう?何が現実だと決心したのでしょう?(このこども時代に心の傷から決めたことは、パワフルな「信念」となり一生を通してその人の人生を支配します。まさに、三つ子(おさな子)の魂、百までですね。)
兄、姉との心の痛みによってA子さんの心の深いところで決めていたことは、「わたしなんていないほうがいい。誰もいないんだ。わたしはひとりぽっちだ」という心の叫び。それが、しっかりと潜在意識に刻み込まれていたのです。
このような無意識の中に隠された「信念」はとてもパワフルな威力をもちます。このままでは、まわりに愛があふれていても、いくら愛されようともまったく気づくことがなくひとりっぽちの人生になってしまいます。わたしたちの人生は、頭で考えていることよりもこうしたこどもの頃に刻み込まれた無意識の信念につき動かされているものなのです。
もちろん、この「ひとりぽっち」信念はすみやかに除去され、「愛し愛されている」信念におきかえましたよ〜。・・・サッパリした〜!と笑顔をとり戻したA子さん。
キズを手放す準備ができたとき、宇宙はちゃんとキズが浮上する場面を用意してくれます。それは、「もう自分を隠しながら生きる必要はない。そのキズの存在を認めて、自分の中に統合して終わりにしましょう。そして、ありのままの自分で生きなさい」ということなのです。丁寧な言葉遣いでもコミュニケーションがうまく成立しなかったのは、まさに彼女に本当の自分で生きなさいというメッセージだったのですね。A子さんの高い意識はさらなる魂の成長を求めて、「異動」と「男女ふたりの同僚」をセットアップし、それを利用して自分の足をひっぱるいらないプログラミングを消去する手伝いをしてくれたのでした。まさに、成功、うまくいきました。(^O^)/パチパチ!
セッションの翌日、A子さんからメールが届きました。
「あの男性同僚はお菓子をくれ、味方になり、女性のほうも優しくなりました!!!!!すごいね!!!o(^-^)o人間て、ほんとに面白いですね。マインドひとつで人生が変わるなんて!!周りまでも!!まさかあの二人が味方になる、仲間になるなんて。相思相愛っていいね〜(^^)ららら〜♪♪♪」
よかったね〜、A子さん。(^_^)v
もともと会話によく登場するトラウマという単語、「心の傷」を意味します。東日本大震災後、「あの揺れはトラウマになった」というように、ますます常用されつつあります。
直接の被災地でないここ東京でも、余震、原発の恐怖、モノ不足など、常に不安感にさらされ続けることにより、それがボディーブローのように大きなダメージを与えトラウマに姿を変えたり、また抑圧していた古いトラウマを誘発し、感じたことのない痛みがさらけ出される場合もあります。
大きなトラウマも小さなトラウマも、知らないうちに心を蝕み、無意識のうちに人生のさまざまな局面に影をおとしはじめます。つきまとう倦怠感や恐怖心、未来への希望が損なわれ、生きている価値がないという自己否定へと発展してゆきます。そして、すべての行動の動機が必死で「何か避ける」か「何かを求める」という自己防衛に向かってゆきます。
昔、沢田研二さんの歌に♪身体のキズなら治せるけれど、心の痛手は癒せはしない♪というのがありました。身体のキズは自然治癒力によりある程度ほっておいてもメキメキ治癒しますが、心の場合はそうはいきません。それは痛みを感じることをさけるため、すみやかにバリアーで覆われ、キズなどなかったように振る舞い始めます。しかし、痛みは知らず知らずのうちにその人の人生の主導権を握り「怖れ」や「防御」で行動するようにかりたててしまうのです。
トラウマに癒しをもたらすためには、まず「気づき」が大切なポイントです。長くわけのわからない不安が続く、体調がおかしい、自分らしくない・・・そんなときにこそまず立ち止まり自分をケアする時間をとりましょう。
やり方はむずかしいことはありません。「何かヘンだとまず気づく」→「何でこんなふうに感じているのだろう」と尋ねてみる→「今、このように感じる必要があるのか?」→「じゃあ、同じ感じが過去にあったとしたらどんな場面?何が起きてた?」と探求してみます。
抑圧していたものを表面意識に引っぱり出し、認めてあげるだけで解放が起ります。気づくことによって、過去ではなくより「今」にいることができるようになるのです。
トラウマはそれをお掃除することによって、怖れにコントロールされる人生ではなく、自分の愛や喜びや可能性のために人生を選択できるようになります。トラウマの後ろに隠れた本当のあなたは可能性の宝庫。あなたの心には素晴らしいパワーがあるのです。
(セラピーコモンズ・ネットモールさんのセラピストコラムに掲載)
セラピーを受けにいらっしゃる方の中には、彼氏やだんなさまに「おまえ、行ってこい!」と言われて予約される方も少なくありません。(ホントは、相手だけ変えようとしてもムダな抵抗ではあるのですが・・・汗)。
それはさておき、そんな「送りこまれちゃいました!(+_+)」な女性をみているとある共通点がうかがえます。それは、まず彼氏なりだんなさまに「ああして、こうして」と注文・要求が多く、思いどおりにならないとご機嫌ナナメになるということ。
その女性のなかには「理想の彼氏、だんなさまとはかくあるべし!」という確固とした刷り込みがあり、それにそっていないといちいちつっかかってきて、ついには口で言ってもダメだとわかると引きこもる、黙りこむ、むくれる、というエネルギーによる武力行使に出るわけです(注・引きこもる、黙りこむ、むくれるは決して弱さの表現ではありません。れっきとした攻撃のひとつで、使用する本人にとってはいちばんなじみがある定番の攻撃方法。また、有効に相手をコントロールできると知っていて使われるものです。男性にとっては言葉で論理的に議論できないというのは、わけがわからずお手上げなわけです。また引きこもられると、扱い方も男性にはわかりません)。
やってるご本人、女性にとってはいたってふつ〜、定番の反応なのです。そうです、わたしたちは何をしていようと、いつだって本人にとってはごくあたりまえのこと。だから、「このように反応して何が悪い」と開き直り、話しあいにもなりません。
もともと女の子というものは理想の王子さまを思い描きながら育つものですし、自分がお姫さまになりたい願望も強いもの。で、いったん彼氏ができると、「よしきた!」とばかりに相手の現実はさておいて、「理想の彼氏とはこういうものである」、「そうあらねばならない」をかかげて迫ってくるわけです。
すると、レストランに入るときドアをあけてくれない、自分だけずんずん行っちゃう彼氏に・・・・ちがうだろ〜!とムラムラ腹が立つ。もちろん、つきあいはじめの初々しいころは何も言いませんが、あるところから理想にそぐわない現実に対して怒りが炸裂しはじめるわけです。
その遠慮が薄らいできたあたりから、女性は自分のなかでずっと不足してきた愛情の埋め合わせをするために、必死で相手に「与える」ように要求してきます。それは、モノにしろ愛情にしろ、まるで底なし沼。この場合、いくら与えても、いくらやさしくしても、決して満足することはありません。
このいっくら与えても満腹にならない「欠乏感」は、じつは今にはじまったことではなかったのです。それは、幼少の頃から耐えていた痛みであり、おりあらば、あわよくば、埋めるチャンスを今か今かと伺っていた心の中のブッラクホール。両親とのあいだで決して満たされることのなかった「要求」であり「期待」であり「無条件の愛」なのです。
この「欠乏感」という心の穴は誰でも持っているものですが、とくにこどもの頃、親に十分な、そして健全な注意を向けてもらえなかったこどもは、深くて暗い底なし沼なブラックホールを抱え、それが心の真ん中に君臨しているわけです。
誰だってちいさな頃の自分はひとりになれば不安だし、わからないこと、対処できないことがいっぱい。そんなときに、ともに寄り添い、ただ見守ってくれる眼差しがあったか、なかったかは、その後の人生への安心感、自分に対する自信、そして未来への希望などに大きな影響を与えます。そこで与えられなかった無条件の愛はブラックホールとなり、つねにそれを埋めるためのチャンスを虎視眈々とねらうことになります。つまりその後の人生のなかで、足りなかったものを手に入れるためにあらゆるエネルギーを使うことになってしまうのです。
しかし、当の本人はそのような愛情の欠乏を相手に投影しているとはさらさら気づいていません。いつもあたりまえの行動・反応をとっているとしか思っていないのです。本人にとってはあくまでも、それが当たりまえですから。
なので、ついには彼氏やだんなさまに「重すぎる!」「要求が多すぎる」と嫌われてしまうハメに。彼らはブラックホールに吸い込まれ、ついには自分がなくなっちゃう恐怖を感じているわけです。
シッポを巻いて逃げられちゃうまえに、女性は自分が手に入れられなかったものを相手から力いっぱいむしりとろうとしている事実にしっかりと気がつかなければなりません。(むしりとろうとしても、往々にして、相手も足りないと思っているので、お互いむしりとる戦いになったりします。ふたりとも丸裸・・・汗。)
さて、このような悲惨な自己パターンにみずから気づくためにはどうしたらよいのでしょうか?
(その2につづく)
(その1より)
ここまで、それはまるで女性だけの問題のように書いてきましたが、この「満たされなかった」と信じているものを「相手からむしりとる」という行為は男性も同じ。つまりみんなが持っているパターンです。
さて、こんな自己パターンに気づくためにはどうするのか?
まず自分が幼少時代「何を与えて欲しくて」「与えられなかったのか」を意識にのぼらせることにより、自分がどんな要求を強くもっているのかに気づくことが大切です。そのためにはよくワークショップで行うちょっとしたエクササイスが有効です。
【喪失体験をケアするワーク】
1, 親(あるいは、愛してほしかったのに愛がえられなかった相手)に対して手紙を書きます。
相手がすでに亡くなってしまっていてもかまいません。
2、まず相手への感謝の気持ちからはじめ、してほしかったけれどしてもらえなかったこと、あるいはえられなかったものなどについて書きます。
「お母さん、わたしをここまで育ててくれてありがとう。あなたとはたくさんの楽しい思い出があります。しかし、あなたはわたしをめったに褒めてくれませんでした。褒めるよりも、いつも指示されたり正されたりしていた気がします。だからわたしは自分がどこか欠陥があるのかと信じてきました。わたしはただそのままの自分を無条件に愛してほしかったのです。・・・云々」というように、語りかけるように書いてゆきます。
3, 書き上がったら、声に出して読みあげます。
これは自分の癒しのために書いているので、相手に渡すことはしません。もし信頼できる人がいたら自分の前に坐ってもらい、親のかわりに手紙を読むのを聞いてもらいます。一人で読んでもかまいません。声に出してください。
4, 読み終わったら、しばらく静かに自分の感情を感じます。
その頃の感情が再び甦ってきて涙が流れるかもしれません。感情、涙とともにいる時間を十分とってください。
5, 落ち着いたらふたたび手紙にもどり、そのなかに書かれている自分の要求(無条件に認めてほしかった、信頼してほしかったなど)に丸をつけます。
この手紙だと、「ああ、褒めてほしかったんだな〜」とか、「指示されたり正されるのではなくて、そのままの自分でいいと言ってほしかったんだな〜」と手にできなかったものに気づいてゆきます。
6, 自分の満たされなかった要求を、どのようにしたら自分で満たせるか考えます。
たとえば、親に「無条件に認めてほしかった」場合は、自分が自分に対してどれだけつらくあたっているか、否定しつづけているのかに気づきます。そしてきょうから失敗しても、理想の自分でなくても、明るく自分を認めることを自分に約束し、実行してゆきます。
おわかりのように、わたしたちは足りないものを外に調達しにゆこうと必死でしたが、結局外には見つけることができなかったのです。なぜなら、みんながみんな「足りない」と思っていて、人に真に与える余裕などないからです。すると親でさえも、自分のブラックホールを埋めるためにこどもを利用してしまいます(これ、意外によくあるパターンです。たとえば親から十分愛してもらえなかった穴埋めに、こどもを自立させず自分につなぎとめて依存させることで愛されてると感じようとするパターンなど・・・)。だから、自分のブラックホールは自分でリペアするしか方法がない、ということなのです。
どこがうまくいっていないかわからなければ、それをうまくいかせる方法は皆目検討がつきません。しかし、自分にはどんな穴があるのかがわかれば、まずそれだけでも他人にこっそりとその穴を埋めさせようとしてかなりのエネルギーを費やしている自分に気づくことができます。
実は心の世界でも、モノの世界でも、足りないものは外から調達することは出来ないのです。なぜなら、すべては自分の心のなかからはじまり、それが外へと広がってゆくからです。自分が見ている世界は、すべて自分の心の中の世界なのですね。だから、「愛」にしても「豊かさ」にしても「幸せ」にしても、外からやってくるのを手ぐすねひいて待つのではなく、「自給自足」の心意気を持たなければなりません。自分でちゃんと面倒をみてあげなければならないのです。
それには、まず自分の心の欠乏、要求に、自分がちゃんと寄りそうことからはじめてみることをおススメいたします。(^_^)v
おもしろいもので、セラピーのテーマというのは週を通して一貫していることがよくあります。ある週は虐待セッションオンパレード (;_;)、ある週は男女間のもめごとあれこれ (+_+) とか・・・。
さて今週は・・・というと、自分の「感情がわからない」シリーズ。あのクライアントさんも、このクライアントさんも、「感情がわからないんですぅ」。そうなると、なんだかこの地球上こぞって「感情わかりません」状態になっているような。(余談ですが「世の中みんなそうだから」と発言するとき、「みんな」はたいてい三人で十分なんですよ。)
さて、「感情が感じられない」みなさまは、最初からその相談にいらっしゃるわけではなく、他の問題が入口でした。お話ししてゆくうちに「えっ?!わたしって、じつは自分の感じていることがわかってないの?!」ということが発覚。
「感情がわからない」というのは、中年以上の男性には多々みられるケース。たとえば、上司からクビを宣告された男性。その男性に「今、どんなお気持ちですか?」とたずねると、「仕事がないと生活できないし、女房の文句も絶えないし、困ります」。わたしは気持ちについて尋ねたのであって、彼の考えやまわりの状況について尋ねたのではないのですが。気持ちの描写はぬけているのですね。
感情がわからない人に「気持ち」を尋ねると、きまって一般論か、頭で分析した結果について述べるだけ。実際、自分がそれに対して何を感じているのか、「不安」なのか、「自信をなくしている」のか自分の内側が語られることはないのです。
この男性にとって、「どんな気持ちですか?」というのはまるで未知の質問のようでした。「それって何のこと?」「気持ちってなに?」とポカンとした状態になってしまいます。
こういう方はほんとうに感情がわからないのかというと、いえいえそんなことはありません。断言できるのは、人並み以上の「感じる」力があるからこうなった、ということ。
どういうことかというと、幼少の頃に「感情」というのは自分を傷つける刃物のように感じてしまったのです。で、「これ以降は、感情に関することは見えない、聞こえない、感じない、まったくかかわらないことにします!」と決めました。それは、親や兄弟の爆発的な感情の表現に圧倒され、それによって自分が抑圧されたりコントロールされた経験があるのかもしれません。あるいは、幼い自分が感情を自由に表現すると、親にたしなめられたり拒絶されたことがあるのかもしれません。また、対処できないほどの苦しみや悲しみにさらされ、その感情とどのように向かってよいのかわからなくなった場合も。いずれにしても感情というのは自分も人も傷つけるキケンなものだと信じてシャットしてしまったのです。
つまり、「感情を感じられない」どころか、じつは「感情に敏感」であった。それゆえ、圧倒的な感情の波にさらされて被害甚大だったわけです。で、身の安全を確保するため感情をスイッチオフしてしまうという手しかなかったのです。だから、いったん感情を感じはじめると、「ああ、わたしはこんなにも豊かにものごとを感じられる人だったのか」とみなさん驚きを感じるほど。モノクロだった人生がいきなりフルカラーになるような感じ。そして、誰よりも「感情のエキスパート」だったことに感動します。
そうですよね。学校でも家でも、正しい感情とのつきあい方は教えてくれませんものね。親が正しい感情の現し方を知っていたとしたら、わたしたちも「傷つけ合う」感情ではなくて、「理解しあえる」感情の表現を学べたかもしれません。でも親も知らないってことは、おじいちゃん、おばあちゃんも知らず、7代先もたぶん知らない、ということです。
「感情」であるハートが道を閉ざされると、わたしたちは頭のおしゃべりである「思考」が優勢になります。そうすると、価値判断したり、批判したり、怖れを感じたり、あーだ、こーだと忙しく考えはじめ、「人生って、ああ疲れる」あるいは「恐れでいっぱい」ってなことになってしまいます。
そう、わたしたちの中には二つの声があるのです。「感情」からの声と「頭(思考)」からの声。この二つはまったく別のもの。さて、どっちがほんとうの自分なのでしょうか?しあわせになるには、どちらの声を聞くべきなのでしょう?
(その2に続く)
その1では、「頭(思考)」の声が優勢になり、「感情」の声が無視されてしまう、そんな方が多いというお話でした。
では、わたしたちの中にある「頭(思考)」と「感情」の違いって何でしょう?
「頭(思考)」は、まわりの状況を見ながらつねに合理的に変化します。一方、「感情(ハート)」はわきあがってくるこころのつぶやきで一貫しています。つまり、思考は外中心でつくられ、感情は内側からやってきます。思考は自分の思考でありながら狡猾にわたしたちを騙そうとする策略家。感情は朴トツでウソをつくことができない不器用者。思考は使えば使うほど心も身体も萎縮してゆきますが、感情は耳を傾ければ傾けるほど心も身体もホッとします。思考は感情を手なづけようとしますが、感情は従いません。何でも思いどおりにしたい思考はそんな手なずけられない感情をうとましく思い、ついには無視しようとします。
きっと、あなたにも経験がありますよね。「頭」ではそうしようと思っているのに、どうも「感情」がいやがるっていうこと。わたしたちはたいてい「頭」で考えてメリットがあると判断するや、感情がいくらいやがっても首に縄をつけてでも従わせようとします。そして「感情」は尊重されなかったことに傷つき、どんどんいやな気分を増長させてゆきます。すると、「頭」はついに「感情」を扱いかねて、「感情」をバッサリと切り捨てて無視することに。感情はそれにともない、引きこもりになってしまうこともあります。こんなふうに、わたしたちの「頭」と「感情」はずっと対立しながら存在しているのです。
わたしたちはハートが傷ついたことにより「感情」と縁をきり、「頭」を優勢にして生きてきました。その結果、ついには自分が何を感じているのかわからなくなってしまったのです。自分さえも、自分の思考に騙されてしまっているのです。さて、この感情がわからない症候群、人生において何か影響があるのでしょうか?
感情がわからない人の場合、会話において感情が除外されがちです。すると、「インフォメーション」的な会話になりがち。
たとえば、映画鑑賞後の会話。「あの場面、どきどきしたよね〜」「う〜ん、こわかったよね」「あんな体験したくないね〜」と、お互いの感想をシェアしますね。しかし、感情がわからない人の場合はこんなふう。「この映画、○○億も制作費かけてるって」「主演女優は代役たてずに全部自分が踊ったっていってるけど、ウソらしい。代役がクレームを起こしてさあ・・・」とインフォメーションが主体。友人との会話というより、映画評論家の解説を聞いているような気分に。感情を含まない会話には一体感が生まれないので共感しにくく、「なんかヘン?」というズレ感が生まれます。
また、感情を感じられない弊害の最たるものは、人生がモノクロになってゆくことです。感情豊かな人は泣いたり笑ったりいろいろと感じていますが、感情を感じない人にとっては何もかもフラットなのです。
すごく喜ばないけれど、さして悲しくもなく。人が「楽しいね!」と言えば一応口裏をあわせますが、目は笑っていません。冷めています。頭で「これは楽しいんだ!」といい聞かせても、どこかシラケています。もしかすると、人からは「動じない人」あるいは「穏やかな人」と言われるかもしれません。でも、ご本人は味気ない。ヴィヴィッドにフルカラーで感じてこそ、「人生って、まぁいろいろあるけど、でも生きてるっていいね〜!」と心からいえるのです。
感情がまったくわからなかった方も、はじめからわからないわけではないので、幼少の頃体験している「わからなくなっちゃった」理由を取り除いてあげることによってちゃんと豊かな感情がもどってきます。
また、何が好きで何が好きでないか、小さなことをないがしろにしないでいちいちハートにお伺いをたててあげる習慣をつけてあげることも大切。いつも、自分がどのように感じているのかをちゃんと気にしてあげる必要があるのです。「自分が広がる感じ」「ほわっとする感じ」・・・そうなら、ハートは喜んでいるでしょう。もし、「胃が縮こまる感じ」「肩がこる感じ」がしたら、ハートは NO! と言っているのかもしれません。
そうして常に自分の内側の声に敏感になってあげると、自分が何が好きか、どうしたいのか、どんな人生を生きたいのか・・・ほんとうの気持ちがわかるようになってきます。自分の体験にも満足感が持てるようになります。
さらにいいことは、感情をしっかり感じることができるようになると、自分の人生の舵取りがしやすくなるということ。なぜなら、絶えまなくやってきている「自分専用のスペシャルメッセージ from 宇宙」は、感情(ハート)を通してのみキャッチできるのです。すると、すべての答えを知っている「ほんとうの自分」とつながれるようになるのです。「今回の人生、どのように生きたらいいのか」ということにはじまって、「この仕事でいいのか」など。人生がすんなり流れる方向を知っているのです。それは頭ではできません。
ほんとうにこれがやりたい!とハートがワクワクする感じと、それにそって頭でつくりだす将来の鮮明なイメージをプラスしてあげると、これはもうモーゼの杖!なのです。ぱっくりと、あなたの目の前にあなたの行く道が開けてくるのです。
ワクワク楽しい自分の感情の声を理解し、さらにそこに思考のしっかりとした将来のイメージをプラスしてあげるとパワフルに未来をつくりだす力に早変わり。進むのが早くなります。これは感情だけでも、思考だけでもダメ。感情が大切にされて、それに思考が従ったときにこそ発揮されるパワーなのです。正しい行き先を知っている感情と、パワフルにイメージし行動を計画できる思考が合体したとき、それは力強く未来を切り開いてくれる最強ツールとなるのです。
自分の感情(ハート)の声を優先することで、自分本来の生きるべき道に導かれます。またその道を自ら力強く歩んでゆく力も与えてくれるのです。・・・だから、ハートの声、大切にしましょ!
生きていていちばんつらいのは、どんなときでしょう?
何か大失敗をしでかしたとき?自分を認めてもらえないたとき?あるいは今回の震災のように、愛する人も何もかもを失ってしまったときでしょうか?もちろん、このようなとき私たちは生きる力を失います。
しかし、私たちをコテンパンに、これ以上立ち上がることができないほどに打ちのめしてしまうのは、じつは「希望」をまったく見失ってしまったときなのです。
どんなに苦しくてもまだ希望が見えるとき、私たちは立ちあがってここから抜け出そうと前に進みます。しかし、「心に何の希望もまったく感じられない」状態になると、暗闇に置き去りにされたように立ち尽くす、いえ座り込んで頭を抱えるしかないように感じます。希望は私たちの魂にとって必須の栄養素。これが切れてしまうといくら身体に栄養を与えても、励ましをもらっても、ついには命さえも落としてしまうことさえあるのです。
希望は外からやってくるもの、出会うものだと思われるかもしれません。しかし、同じものを目にしても、希望にあふれたものとして認識する人と、まったく希望のかけらも感じられないと判断する人がいます。
結局、希望とうものは、外にあるものではなく心がつくりだすものなのです。
どうしたら心に希望をつくりだすことができるでしょうか?
わたしたちの現実の中では、それぞれに必要なものは完璧に用意されています。しかし、それは見つけ出す気持ちがなければ目にふれることはありません。まずは、どんなときにでも、誰にでも希望はあるんだ!という信頼がなければ、見えるものも見えなくなってしまいます。
そして、行き詰まっているときと同じものの見方をし続けていては、同じものしか見えません。まったく違う視点をもってみる。また、様々な視点をもってみる。視点を広げてみる。すると、状況は変わらなくとも「な〜んだ!たいしたことじゃなかった」と気分が楽になったりします。
セミナーやワークショップ、カウンセリングなどの言葉を使ったセラピーやワークでは、まったく新しいものの見方を習ったり、視点を拡大、転換し、多様なものの見方をつくりだすのに役立ちます。それによって、真っ暗だと思っていた心の闇に、希望という灯りがしっかりともります。崖っぷちから真っ逆さまだと思っていたピンチさえも、知らぬまに風にのって高く飛翔している・・・そんな場面の急転換も可能になるのです。
(セラピーコモンズ・ネットモールさんのセラピストコラムに掲載)
わたしのまわりには元気のいい方、楽しそうな方、幸せそうな方がたくさんいます(そんな方もたまには、ド〜〜ンと落ち込むこともあるようですが、がぜん持続力はないようです)。
日頃こちらにセラピーにいらっしゃる方は、「もっと幸せになりたい」という自己実現派の方と、にっちもさっちもいかない悩みどっぷり型の方と、二つのタイプがいらっしゃいます。
まわりの友人をながめながら、またクライアントさんとお目にかかりながら、何が幸せのコツだろう、と考えました。
でも、「幸せ」というのは、何かがやってくればもれなく「幸せ」になれるという紋切り型のものではありません。なぜなら、「こーなったら、そりゃ、もれなく幸せでしょ〜」というシチュエーションにおいてもえらく悩んでいる場合があるからです。
たとえば、パートナーが突然高価なプレゼントをくれたり、行ったこともないような高級レストランに連れて行ってくれた場合、素直に喜ぶどころか「なんかあ
やしい!絶対ウラがある」と疑心暗鬼になってしまったり、また思わぬ昇進をはたしてお給料がめちゃくちゃ上がったりすると、「ものごとそんなにうまくいく
はずがない」「引っぱり降ろされるのは時間の問題だ」「責任に耐えられない」とすぐに心配をはじめたり、それで病気になっちゃう人もいます。
最もエネルギッシュで楽しそうなのがわたしの70代のお友だち。見ていると、とっても喜び上手だし、感謝上手なのです。そして、人を助けて導くことに生きがいを感じていらっしゃいますし、また与え上手でもあります。
「物ごとがわたしたちを幸せにするわけではない」と先ほども書きましたが、では何が私たちの幸せを決めるのでしょう?
じつは、起った物ごと、体験した物ごとに対する「意味づけ」「解釈」なのです。その物ごとがどういう意味があったのか、を決められるのは、それを体験して
いる本人だけなのです。そしてそれは、同じ物ごとを体験したとしても、一人一人完全に違うものなのです。たとえ万人が「それはヒドイ!」というようなこと
でも、それを体験しているご本人が「どってことないわ〜」と言ってしまえば、それはその人にとって「どってことない」レベルの体験として過ぎてゆきます。
また、「そんなことたいしたことじゃないじゃない」と思うことでも、トラウマレベルとなりその人の一生に影を落としてしまう場合もあるのです。その人が
重大なこと、とんでもないこと、と認識すれば、誰が何といおうとそれはその人にとっては致命的となるのです。(そんな理由で、生育環境で起った出来事の大
小でトラウマの深さは決められません。ほんのささいなことでも、その人の一生を左右してしまうこともあるのです。また、「あんな過酷の体験をして ・・・
」と人が同情するような体験でも、ご本人はなんらダメージがなくひょうひょうとしている場合もあります。)
今いちどわたしの70代のお友だちを考えてみると、喜び上手、感謝上手、人助け上手は、何か特別なことが日常に起らなくても、日常がスペシャルになってしまうのです。つまり、よい気分になるために、外からやってくるとこを期待する必要がないのです。
たしかにそうでした、そのお友だちと先日鎌倉へ遠足をしたのですが、紫陽花を見る混雑があったり、立ち寄ったお寺にあまり紫陽花がなかったり、原宿のよう
な雑踏にであったり・・・と必ずしも完璧な行程ではありませんでした。けれど、戻るなりお電話、お手紙、メールで「すごく楽しかったわね〜」とまずちゃん
と「楽しかった」という確認をされているのです(ものごとって勝手に楽しくなると期待しますが、じつは能動的・積極的に楽しむ心構えが大切なのです)。そ
して、お送りした写真についても、「家族で楽しみました」とか「職場で見せます」と、ここでもちゃんと「楽しさ」の確認が行われています。
そうなんですよね。ものごとはほっておいて楽しくなるというよりも、「これは楽しいね〜」と先に意味づけしてしまうことによって、楽しい体験になってしま
うのです。何かで成功している方もいっておりました。困難がやってくると、「おお、これはどんどんおもしろくなってきたぞ〜!」とつぶやくと。すると、ど
んどんおもしろくなってしまうそうです。つまり、自分をどれだけうまく騙す、いえ、なだめるかなのです。
逆に、どんなに楽しいことでも「あら探し」の達人になってしまうとせっかくの体験が台無しになってしまいます。まずは物ごとに対する自分の意味づけが、そ
の後の認識、体験をつくることを肝に銘じて、「いいとこ探し」の名人になりましょう。「これって楽しいね〜」「ほんとありがたいわね〜」「なんてラッ
キー」・・・これを口グセにするだけでも、幸せ度は格段にアップします。
そして、わたしたちは自分のとる行動によって、自分を好きになったり、嫌いになったりもします。
たとえば「あら探し」の名人。パートナーやら、日常の出来事にいつもネガティブに反応して文句ばかりいっている場合。まあ、「ブツブツいいたいのはこの人のサガだ」とほっておけば、まわりはあまり迷惑をこうむることもないかもしれません。
しかし、いちばん被害を被っているのは、意外にも意外・・・・(え?誰?)。
(その2に続く)
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たかちゃんセミナーのご案内
いきかた気づき塾「わたしの未来のつくり方」
日時: 2011年7月3日(日)14:00~17:00
講師: 古川貴子、高橋和子、池間清志
詳細はこちらから
まわりの人を非難したり、物ごとをこきおろしたり、あたりちらしたり・・・それでいちばん被害を受けるのは誰でしょう?非難された人?あたりちらされた人?・・・ Noです!
最も被害甚大なのは、じつは文句をいっているご本人そのもの。「ブツブツいう」のを年がら年中やっていると、それをつぶさに眺めているのはたった一人、自分自身なのです。たとえ「ブツブツいっている」のが自分であっても、ブツブツいう人ほどブツブツいう人が大嫌いです。ということは、ブツブツいえばいうほど、自分の自分に対するイメージや評価が急降下してゆきます。みるみる自分に対する信頼を失い、自尊心が乏しくなってしまいます。
ブツブツいいたいのは、自分にとって不都合なできごとに抵抗しようとする自分の頭(理性)であって、自分の心(潜在意識)はブツブツいうことを決して認めてはいません(潜在意識には不都合の感覚がありません)。そしてブツブツいっている張本人の頭(理性)でさえも、「ツブツブいうやつは弱いやつ」「わがまななやつ」「信頼できないやつ」だと認識しています。なぜなら、頭(理性)は自分が弱いと思っているからこそ、隠そう、カバーしようとして、まわりを貶める作戦に出ていることを知っているからです。自分が優位に立つ戦略を立てなければならないほどよわよわであることを、頭(理性)はちゃんと知っているのです。
なので、ブツブツ戦略に出なきゃ行けない自分を「ふがいないやつ」、そんなやつは大嫌いだ、関係をもちたくない、と嫌悪します。自分嫌い度がまして、人も嫌いだけど、もっと自分も嫌い、という事態を招いてしまいます。そして、自分が嫌いになれば、それを外側に投影してまた人も嫌いになり...悪循環。
というわけで、プチ幸せになる即効力のある方法としては、目に入るものの「あら探し」をする習慣はひとまずやめにして、ひとつの物や人に関して最低3つぐらいは「いいとこ探し」をしてみるようにすることです。そして、何かを見たらり体験したら、ソク「いいとこ」が浮かんでしまうように習慣づけをしてしまいます。
そして、ブツブツのかわりにそれを積極的に口に出してほめてコチョコチョしてみてください(コチョコチョ??・・・ブツブツの反対が思いうかびませんでした・・・汗)。
あるいは、こんな習慣も幸せの感度を高めるのに役に立ちます。毎晩眠る前に、きょう楽しかったこと、感謝すること、おもしろかったこと、を5つ書き出す、あるいは家族と分かち合うということ。ただしやるときには機械的に羅列するのではなく、ひとつひとつのことを心をこめてどんな感じだったのかをありありと感じながら話したり書いたりすることが大切です。この習慣も特にイベントがなくてもプチ幸せを感じるセンサーを磨いてくれます。
じつは幸せって、今まで願っていた一大事が成就することではなくって、たとえば「一日の終わりのお風呂、気持ちいい〜」とか「風呂上がりのビールって最高!」とか、「きょうの風はなつかしいようないい匂いがするな〜」とか、そんなささいな小さなことの積み重ねなのですね。
「たのし〜♪たのし〜♪」と意図的に楽しんでいるうちにまぎれもなく本気で楽しくなってきますし、またいつも口角を思いっきり引き上げてニコちゃんマーク顔にしておくことによっても、筋肉から脳へハッピーの指令を出すことができます。思いっきりスマイルして文句をいったり怒るのはムリ・・・だから自分が相手に文句をいいはじめちゃったなと思ったら、思いっきり口角を目尻の方まで引き上げてみてくださいね。なんか自分でも怒るよりも笑いなくなってきちゃいます。
また、日本人にとっては「幸せ」という言葉は、どこか絵に描いたモチのよう。なかなか手が届かないというか、庶民にはムリというか。「幸せ」という言葉は、そうとう何か特別なことがないかぎり使うべきではないと思っているようです。なので、ふだんから「幸せ」を目指すよりも、「ちょいハッピー」をめざすほうがいいのです。
だから、ほんとうの幸せとは「ちょいハピ」のつみかさね。ちょこっとイイ感じ、ちょこっと笑える、ちょこっとほっこりする・・・。そして、外からやってくることに依存するのではなく、自分がふだんしている物ごとに対する「意味づけ」の習慣を意識的にちょっと変えて「ちょいハピ」の方向にしてみる、そしてそのちょいハピを積極的に大げさに喜んでしまう。すると、「幸せ感」はだいぶ促進することができるのですね。
さてさて、みなさまの本日の「ちょいハピ」ベスト5は何でしょうね?思いっきり口角を引き上げて、目尻を下げて、「ちょいハピ」を思い出してみてください。
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たかちゃんセミナーのご案内
いきかた気づき塾「わたしの未来のつくり方」
日時: 2011年7月3日(日)14:00~17:00
講師: 古川貴子、高橋和子、池間清志
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「オレが我慢すればいいんだよ...」
と、友人は言った。
「なんじゃそれ?」と思っていたら、その後、クライアントさんにしろ、知人にしろ、やたら周りで「わたしが我慢すれば・・・」というセリフに出会ってしまった。(はい、強く注意を向けるといっぱい引き寄せます・・・汗。しかし、多いのですね、我慢している人。)
「オレが我慢すれば・・・」っていっけん英雄的でたのもしく響きますが・・・どうなんでしょ?
この友人、職場で、家庭で、そして私や友人にさえも「もしや、我慢しちゃってる?」という様子が伝わってくるときがあるのです。ここでは文句を言ったり、
自分の気持ちを表現するのが当然でしょ?という場面でもグッと口をつぐみ、言葉を飲みこみ・・・。しかしわたしたちのコミュニケーションのほとんどは、言
葉で表現しなくてもオーラでしっかり伝わるもの。つまり、我慢はすっきりしないネガティブ・オーラをまき散らしてしまうのです。
言わないから丸くおわまるどころか言わないことによって、「もしや、わたしのことコワがってる?」「結局、信用されてないってことね」というように、周囲と否定的な循環がはじまってしまいます。
それに我慢は抑圧を意味するので、お腹の奥深くにためこまれ決してその感情がなくなったわけではありません。少〜しづつ少〜しづつ溜めこんで、堆積して、
ついにあるとき・・・「あの温厚な人が、まるで人が変わったように怒鳴り散らした」「暴力をふるった」、あるいは人に向けずに自分にそのエネルギーを向け
ることによって自分を痛めつける「病気」や「事故」、あるいは「突然死」さえもありうるのです。
友人のもうひとつの口グセは「自信がない」。
はいはい、そうでしょうとも!合点がいきます。
「自信がなくなる」いちばんの原因は、文字どおり「自分が信じられない」からですが。じつはこの「オレが我慢すれば・・・」というのは、「自信」をそぎとる最たるもの!自分に対してはとんでもないことをしているのです。
そもそも「我慢する」という感情は、「オレはそれはしたくないのだ!そんなことはごめんなのだ!」という本音を「我慢」して押さえこむ、ということ。
しかし、この自己犠牲的な言葉「我慢する」こととともに、自分の葛藤していたはずの感情はすっかり無視され、きれいに葬り去られます。
これは自分に対する最大の裏切り行為。「自分はこうしたいのだ!」とほんとうの気持ちを訴えているのにもかかわらず、聞いていながら聞かないフリ。自分のほんとうの気持ちを完全に無視したわけです。
人にとっては「無視」は「いじめ」よりもこたえます。
自分にとって、いちばん長い時間一緒にいる「自分」。親身になって、いたわり、受け止め、慈しみ、いちばんの理解者になければならないはずの自分が、自分をないがしろにして無視しているのです。これはヒドイ仕打ちです。
そんなことをしたら、それからは自分の「気持ち」と「考え」が対立するようになってしまいます。自分の「考え」は自分の「気持ち」をやすやすと無視してい
い、しいたけげてもいい、尊重する必要などない、と主張し、そういう習慣がついてしまうのですね。自分に対する信頼感、尊厳がなくなり、これは外側にも伝
わってしまうのです。すると、自分が努力するわりには外側からの尊敬が得られない、という事態にもなりかねません。
そうしているうちに、自分にとって「信じられない人物 No.1」、それは裏切り者の自分であるということになってしまいます。自分が信じられない、つまり自信なんて持てないということです。
それは一大事!!
では、いったい自分に対してどのように接すればよいのでしょう?
(その2につづく)
自分の気持ちを裏切り続けたすえ、ついには自分自身のことが信じられず「自信が持てない」ということになります。この症状が出現してしまったらどうすればよいのでしょう?
ほんとうは日常の生活でなによりも大切にしたいことは、常に自分の気持ちに耳を傾けて、自分の気持ちをやさしく汲みとって尊重してあげる、ということ。落ちこんでいたら、「そっか〜。落ちこんでいるんだね。うんうん、そんな気持ちになることもあるよ。いいんだよ。落ちこんでも、それは普通の人間の反応だよ」と、なんら責めたり恥ずかしく思うことなく認めてあげます。
自分の気持ちを汲みとるということは、気持ちに寄り添って、「今はそう感じているんだね。そう感じてもいいんだよ」とOKを出してあげること。
これができるようになると、自分自身がラクになると同時に、人を責めたり裁いたりする気持ちがなくなってきます。人の現状や気持ちをあるがままに認めてあげることができるようになるのです。結局、自分の気持ちを無視して認めてあげていないと、人の気持ちも認めたくないものなのです。「なんだよ、その態度は!俺だってガマンしてるんだ。おまえもガマンしろ」というように、相手の自由な感情が認められません。自分と同じだけの不自由さを相手に強要するようになります。
そんなことにならないように、まずは自分のあるがままの感情を許すこと。そして、その気持ちを無視したり抑圧することなく周囲との折り合いをつけながら表現するために、周囲にも自分にもやさしいコミュニケーションの仕方を身につけなければなりません。
それには「I message (アイ・メッセージ)」を使って、さわやかに自分の正直な気持ちを伝えてゆくようにすることです。
アイ・メッセージとは、人を責めたり、コントロールすることなく、自分を主語にして自分が今何を感じているのかをさわやかに語ってゆく表現方法です。「あなたがそんなだから、わたしは幸せになれない」・・・これは完全に被害者になって相手を攻めています。かりに相手が本当に悪くても相手はこの言葉を受けとれません。攻撃は相手をさらに頑なにしてしまうだけです。
そうではなくて、「あなたがそんなふうに振る舞うと、わたしはなんだか悲しい気分になるの。なぜなら・・・」と、自分を主語にして自分の気持ちや経験していることを平和的にたんたんと語ってゆきます。
この方法だと責められているとは感じないために、相手の置かれtいる状況を客観的に知ることができます。すると、「そっか〜。そんなふうに感じていたのか。じゃあ、次回からやめるよ」などと、歩みよりやすくなるのですね。
つまり、相手を責めることでは何もいい結果を手にすることはできません。自分を主語にしたメッセージで自分の今の正直な気持ちを語ることによって、相手の理解を得やすくなるのです。(たいてい、不平不満を言いたいという怒りの感情の下には、深い悲しみがあります。そのヨワヨワの自分からコミュニケーションすることによって、相手も素直に心を開いてくれるのです。)
と言うように、一にも二にも自分の気持ちを尊重して、それを表現するという、自分の気持ちとのつきあい方を大切にすることにより、ほんとうの自分と和解することができるようになります。すると、おのずと自分と信頼関係ができて「自信」も持てるようになるでしょうし、人にも寛容になり、なによりもネガティブな感情を溜めこまないことにより、自分で自分の人生の邪魔をすることがなくなります。
ゆめゆめ「我慢」することなく、自分を大切にして自分との対話を通して、是非自分と仲良くなりましょう。
二日連続で熱海に出張。台風の影響で熱海の小学校は休校だというのに、堂々とそっち方面にお出かけしていいのやら?しかし、急を要するセッションもあるのです。
ズブぬれ覚悟で出かけたら、なんとカサさえも開く機会なし。セッション中は豪雨で、クライアントさんのお帰りとわたしの移動時刻はまんまと静まり返っていたのでした。ありがた〜い!(^-^)ノ
たまにラッシュ時に電車に乗るとびっくりします。この暑さのせいもあるのでしょうが、小競りあいがあっちでもこっちでも。満員電車を降りるときにちょっと足を踏まれたかなにかで「イッテ〜な、このやろう!まちやがれ!」なんて、大声を張り上げてケンカになっていたり。
そういえば友人いわく、「女子サッカーはいいね。男子は観ない。だって、男子サッカーのほとんどはスネをかかえてイタイ!イタイ!って転がりまわっているだけだからね」と。
この朝のラッシュ時から「イテ〜!イテ〜!」と叫ぶ男子たちを見て、ついこのサッカーコメントを思い出しちゃいました。
もともと人の意識のふか〜いところには誰でも、「何がなんでも被害者になってやる〜!」的な決意ともいえる信念がひそんでいるものです。そう、誰にでも。
被害者になると「相手を悪いやつだと責めることができる」、すると「自分はいつだって正しいんだ」という満足感、そして「結局は自分が優位に立つことができ」、「同情だってもらえる」・・・というように、なんでも外から調達しなければ手に入らないという根深い思い込みがあるのです。
でももともと世の中は、「自分にある」と思ったものしか手に入らないという仕組みになっています。外を探せば探すほど、さらに探さなくちゃならない人生に突入です。被害者もやればやるほど、被害者チックな人生になってしまうし。
だから、すべては「自給自足」から!まず、「自分でどうにかする」。そうすると、不思議なことに外からそれらがどんどんやってくるようになるのですよね。たとえば、自分を大切にすれば、人からも大切にされる・・・というようにね。
「被害者」を一生懸命やる時間やエネルギーを節約するだけでも、人生そうとう軽やかになりそうですよね。この時代の究極のエコかもしれません。
わたしたちは「自分の考え」というものに、簡単に騙されてしまうことが多々あります。そして、お悩みの原因も外からやってくる、と思っていますが、じつは「自分の考え方」に勝手にハマってしまっているだけなのです。
たとえばこんなふうに・・・。
クライアントさん:「主人がいっつも勝手で困ります。ほんとに自分のことしか考えないのです。結婚してからずっとです」
わたし:「“いっつも”って、それは毎日、四六時中っていうことですか?結婚して以来、年がら年中そうなのですか?」
ク:「(ちょっと考えて)いえ、・・・毎日ではないのです。ときどきです」
わ:「“ときどき”って?一週間に一度とか?」
ク:「(また考えて・・・)今回のお金の問題は、そういえば一年ぶりに衝突しました」
わ:「一年に一回しか会わない友人に対して“いっつも”会ってる、とは言いませんよね。ということは、ご主人はおおよそ一年に一回勝手な感じがする、ということですね」
上のやりとりを見てもわかるように、「“いっつも”そうなんだよ」と安易に言ってしまうと、言った本人でさえもそれが絶え間なく行われているような錯覚をおこします。でも、そもそも“みんな”とか“いっつも”という言葉は、じつは三人とか三回ぐらいでで簡単に使われてしまうのです。三回何かが起って、「もう、いっつもだよ〜」と言ってしまうと、三回が十倍ぐらいにふくれて感じられます。とくにネガティブなことにこの“いっつも”を使ってしまうと、自分がとてつもなく被害者になったように感じられるのです。実際はたった三回だったのに、「いっつもあの人は約束を守らない。ひどいわ」と言ったがために、本人は永遠に裏切られているように感じてしまう、というように。
クライアントさんのお話しをうかがうときには、いつもちょっと引いた目線で全体を眺めるようにしています。すると、問題の根本がわかりやすくなるのですね。
たとえばこのクライアントさんの言いぶんでは、だんなさまは「勝手、自分のことしか考えない、結婚以来そうだ」とのこと。
人の性格というものはそうそう変わるものでもないので、客観的にみるとこのおくさまはだんなさまに対して、結婚前は「勝手」なところに「頼もしい、頼れる」という名札を勝手に貼って満足していたのかもしれません。しかし長く生活してくるうちに自分もだんだん逞しくなり、か弱く頼りたいところもなくなってきたので、逆にその「頼もしい」ところが自分と対立し鼻につくようになり「勝手」という名札に変わっちゃったのかもしれません。
この場合、だんなさまはただいつもの自分として存在しているので、ほとんど相手からの不平を理解できません。「なんと、こいつはうるさくなったのだ」と思っているだけでしょう。ただ、おくさま側の相手に求めるものが変わっちゃっただけなのです。
すると、「自分のことしか考えない」という言い分も、もしかするとそれってご自分(おくさま)のことかもしれません。相手は変わっていないのに自分が勝手に変わって、「あなた、わたしのニーズにあっていないわよ!変わりなさいよ!」と言われても・・・(汗)。(そうなんですよ、わたしたちの求めるものは刻々と変化しています。だから、欲しいものを相手から得ようとすると、そのときは得られるかもしれないけれど、得てしまったらもうお腹いっぱい、用はなし!になっちゃうのです。皮肉なものです。)
このだんなさんに対する文句も、じつはこんな自白になってしまうのです。「わたしって、いっつも勝手なんで困ります。ほんとうに自分のことしか考えてないのですよ。それは結婚してからずっとです。だから、主人は昔からあるがままなのですが、わたしの高まるニーズに合わせて変わってくれないとむしゃくしゃしちゃう自分なんです」・・・と。
心理学でもこの自分の目に映る世界は自分の無意識の心の反映であるといいます。そしてまた、わたしたちはすべてのものを自分の思考を通して解釈しています。つまり、自分色に染めてから意味を与えているのです。すると、ついつい真実を見極めることができなくなり、自分の思考にコロリと騙されてしまいます。その思考が自分にとってプラスの見方を提示してくれるならいいのですが、わたしたちの中にはよわよわな自分がいて、どうにか「被害者」になりすましてたくさん周りからガメてしまおうという魂胆があり、虎視眈々とそのチャンスを狙っているのです。
だいたい外側に見える頭にくることは、自分がもれなくやっているか、隠していることです(いやですね〜、我ながら・・・汗)。「相手はずるい、勝手」だと思う時、じつは自分のほうがそれを上回って「ずるい、勝手」な考え方で相手をコントロールしようとしているものなのですね(なんせ、わたしたちの基本的な考えは“より多く奪い取る”ですから・・・トホホ)。
ほんとうは「被害者意識」や「欠乏感」を無くして、相手に期待しない、相手から与えてもらおうとしないことが、自分自身幸せに、そして相手とも末永く仲良く過ごせる秘訣ですよね。
なので、まずは文句を言うよりも自分と向き合うこと・・・そうすれば、自分の内側からいやなものが飛び出して外の世界に現れ、自分がそれと取っ組み合いをすることが少なくないります。
「charity at home」という言葉がありますが、これは外に行って慈善活動をするよりもまず自分の家庭の平和から・・・ということ。そして、家庭の平和も自分の心の平和から・・・なのですね。
最近多いご相談に、「怒り爆発!怒りをコントロールできな〜い」というのがあります。男性も、女性も。
「気にくわない!」「ガマンできない!」と思わず爆発してしまい、爆発したあとから後悔がおそってくる、というのが怒り。怒りを使うことによって、よりよい解決策は決して望めはしません。さらなる相手からの怒りを生むか、反感をかうか、あるいは関係が決裂する・・・そして自分をコントロールできなかった自分自身に対する自信も失って・・・けれど、また懲りずに怒ってしまう、という繰り返し。
まず怒りはどんなメカニズムでやってくるのでしょうか?
彼氏との会話にバクハツしたA子さんの場合でみてみると・・・
1、 何か出来事が起ります
たとえば、彼氏が昔(自分とつきあう前に)、二股をかけて二人の女性とつきあっていたということを告白した
↓
2、 自分の信じていることに基づいてその事実を価値判断する
「ってことは、一人に決められないという浮気願望があるんだ。いや、すでに浮気しているに違いない。そうだ!会ってないときは浮気してるんだ」と判断
↓
3、 その価値判断が自分のいちばんのウィークポイント(痛み)にヒット
「裏切られたんだ、捨てられたんだ!」という痛みがのボタンが押される
↓
4、 怒りの爆発!!!
「だったら、たった今、別れてやる!」相手を罵り、別れ話をはじめる
(ちょっと、ちょっとぉ、実際のところ、今現在、目の前ではなんにも起きていないのよ。彼は過去のことを語ったかもしれないけれど・・・。今まで二人で仲良くお喋りしていたんじゃないの?何で突然別れ話に飛躍?)
ふ〜〜〜・・・・(汗)。あっというまに別れまで驀進してしまいます。
誰にでも「人とは、世の中とは、世間のルールとは、こういうものだ」という自分独自の持論があります。持論というのはそもそも人の数だけあって、それは同じではないのです。しかし困ったことに、人は自分の持論がまるで世の中の普遍のルールのように絶対であると勘違いしているところがあります。だから自分のルールにあっていない人を発見すると、たとえあからさまな怒りにならなくとも、「何やってんだ、コイツ!?」とか「信じられないことするな〜、どういうつもりなんだ?」と、心の中では自分のルールにあってない他人を非難しこきおろします。
小さいときに甘やかされて育っていたり、なんでも自由にできてガマンをすることを知らないと、人との意見の違いを受け入れるキャパがなく、また自分の感情をコントロールすることにも慣れていません。そうすると、すぐカチンときて、プンプン=3 となりやすいようです。
また、その家の感情のカラーというか、テンションというのもあります。たとえば、父なり母なりが怒りっぽいと、その感情表現の仕方がまっとうなものと認識して、こどもたちも真似をするようになります。たとえば父親が星飛雄馬のお父さん一徹さんみたいだったら、日常にしょっちゅうちゃぶ台がひっくり返っているわけです。そうすると、そのこどもも「気に入らないことがあったら、モノを蹴散らしてもいいんだ」「家庭の日常風景というものは、ちゃぶ台がひっくり返ることだ。誰もひっくり返さないなら、自分がひっくり返そう」と刷り込まれます(飛雄馬くんは成長してお父さんになったあかつきには、きっとダイニングテーブルをひっくり返しまくっていることでしょう)。
先ほどのA子さんの問題点は、「彼が昔の二股の話しをした」ことと「彼が、現在浮気をしていること」をソク結びつけてしまったこと。「昔の二股」と「今現在の浮気」はイコールではないのです。しかしA子さんは自分の過去の痛みの経験から、反射的に結びつけてしまいました。彼女の痛みとは、幼い時に愛するお父さんが「浮気」をしたことによって負った心の傷。父の「浮気」=愛されなくなる自分、捨てられる自分。つまり、父の浮気は幼い彼女の生存をおびやかしていたのかもしれません。そして、今もなお「浮気」という言葉を聞くと、「捨てられる」という怖れが自動的に浮上し、その苦痛から逃れるために「怒り」というさらに強い感情を使ってこみあげてきている怖れをおおい隠していたわけです。
わたしたちはこみあげてくる怒りに対して、どう対処したらよいのでしょう?
(その2に続く)
「怒り」のメカニズムをもういちど復習してみると、わたしたちの中にはものごとに対する独自の価値判断があって、価値判断するやいなやその価値判断にまつわる「過去」の痛みにドッキングし『怒り』が発生する、という仕組み。つまり、「昔、二股かけてたことがある」という彼氏の告白(出来事)→「ということは、浮気常習犯=今もそうに違いない」と判断(独自の価値判断)→わたしを捨てるなんて裏切りもの!(過去、父親が浮気をして裏切られた痛みにヒット)→その痛みに耐えられなくなり、怒り爆発!
わたしたちが怒るなり傷つくなりしているとき、たった今起っているものごとに反応しているように見えますが、じつはそうではなくて自分の中にある解決していない感情に反応しまくっているのです。そしてそのつらい感情が浮上してくるのが耐えられないので、怒りという強いエネルギーに置き換えて自分でも何が何だかわからなくしてしまおうとするわけです。
誰にでも「ふれられたら爆発してしまう」かもしれない抑圧された痛みがあるものなのですね。男性だったら、「バカにされた、見下された」というのがダントツに多いウィークポイント。たとえば、街でぶつかられた(出来事)→これって、わざとだろ〜(独自の価値判断)→バカにしやがって、見下しやがって(過去に兄弟、友人にいじめられたキズにヒット)→怒り爆発!殴りかかってしまう。
他にも、「無視された」「裏切られた」「軽蔑された」「認められない」「貧しい」のような抑圧された痛みの感情があり、容易に怒りにつながってしまうことがあります。
みなさんもご自分がムカっときたり、怒りがバクハツするパターンを調べてみると、自分がどのような痛にみヒットしているのかわかると思います。(これは出来事そのものが痛みにふれているのではなく、あくまでも自分の物事への解釈、価値判断が痛みにヒットしてしまっているのです。)
怒りにくくするためには、実際に起きている出来事に対してそれを解釈する自分のパターンを冷静にチェックする必要があります。自分をみじめにしたり、苦しくなる考えをしていないかどうか。また、自分の癒されていない痛みであるウィークポイントが何なのかを知っておくことも役に立ちます。
わたしたちは出来事によって自分の感情が左右されると思っています。しかし、実際のところ、ものごとには「ただ起きているだけ」。それに対して、どのような意味付け、価値判断をするのかによって、わたしたちの感情が生まれてくるというわけです。なので、自分を苦しめるような意味付け、考えをしていないか気がつくようにすることは大切なのです。
何かにひどく怒ってしまったら、何かに落ち込んでしまったら、ちょっと立ち止まって、自分がその出来事をどのように意味付けしているのかを確かめてみてください。あるいは、いつもポジティブに見える友人に、同じ出来事に対してどのような意味付けをするのか聞いてみるのもいいと思います。
しかし、クライアントさんと怒りについてのセッションをしていて気がついたのは、なかには「怒るために怒っている」という怒りもあるということでした。
これはどういうことかというと、怒りたくて怒っているのです。つまり、怒ることが目的。怒るとアドレナリンが出る→すると、心臓がバクバクして血液が全身を駆けめぐる→その結果、ルーテインで退屈だった日常の中で、刺激が生まれる。→生き生きしているように感じて、「ああ、生きてる!これが生きることだ」と実感する→なので、生きてる感じが足りないなと思うと、怒りたくなる。そして、「生」を実感しようとする、というクライアントさんもいらっしゃいましたよ。
あるいは、「世の中の誰にも相手にされていない」という孤独感を感じるとき、相手に対して勝手に怒りをだくことによって、相手と関係が構築された気になる、つまり一方的な感情で擬似人間関係をつくっている・・・というパターンも。
また、怒っているときにあまりにも大きなエネルギーを感じるので、まるで宇宙を突き抜けて神とつながっているような神々しい気分になる・・・というケースも。このクライアントさんの場合は、セッションで調べたところ「巫女さん」だったような過去世の記憶があり、昔のパターンを今だになぞって生きていたようです。
何にしても、日常で自分が無意識のうちにしてしまうことは、必ず何らかのメリット、手に入るものがあるのですよね。怒りも、あとのダメージは大きいものですが、それにも代え難い「快感」「優越感」「満足感」があるようです。自分がどんな痛みを隠そうとして怒りを使っているのか、また何を手に入れようとしているのか見てみると新しい自己発見があるかもしれませんね。
もともと世の中というところは「全員違ってあたりまえ」。容姿も生活環境も好みも、考え方も物事に対する意味付けも。同じであるはず・・・という考えがじだいが、偏見、差別、攻撃、そして怒りをも生むのですね。最初から考えが違ってよい、違ってこそ大正解、ぐらいにゆるく考えていると、怒りのスイッチも入りずらくなるかもしれません。
追記・・・まったく「怒らない」のが健全というわけではありません。怒っていいのです。「怒る」のは「怖い」「嬉しい」とかと同じで、たくさんある感情のひとつにすぎません。抑圧してしまうと、他のすべての感情が平板になって何も感じないつまらない人になってしまいます。個人的に怒るのはぜんぜんかまいません。問題なのは、大気汚染のような「怒り」。自分の怒りをまわりにまき散らすこと、あたりちらすことです。
しかし、どちらにしても自分の人間関係や人生を一瞬で台無しにする破壊的な「怒り」はその場に応じてちゃんとコントロールできるようになること。すると人生もよりスムーズになりますよ。
不登校やひきこもりを専門に扱われ、数々の講演会をされているカウンセラーの安川雅史さんのお話しを聴きに行ってきました。
「オフィス・るん」のセッションでも、ひきこもりの問題をご相談される方は年々増加しています。年齢層も子どもさん、学生さんから、もう数十年にもわたるひきこもりの方まで。
ご本人自ら問題を持ち込まれることはめったになく、たいていはご両親から「うちの子をどうにかしてください」というご相談です。
「うちの子をどうにかしたい」という親御さんに「ではまず、ご自身(両親)のカウンセリングからはじめましょう!」と申し上げると、ひっくり返るるほどびっくりされます。「問題はわたしじゃなくって、ウチの子ですよ!あなた、いったい何を考えているの?」と言わんばかりです。
でも、今まで当のひきこもりさんに会ったことはほとんどなく、ご両親、とくにお母さまのセッションをすることによってほとんどのケースを解決してきました。不思議なことにお母さまが癒されると、お子さんはお部屋から外に出てこられるようになるのです!これはひきこもりに限らず、お子さんの病気などの場合もお母さまのセラピーで癒されてしまうケースが多いのです。
お母さまにしてみたら、ちょっとこの事実は耳が痛いかもしれません。でもわたしたち、とくに親子はしっかりと潜在意識で結ばれているので、お母さまのココロをちょっと変えるとお子さんの精神状態も変化するものなのです。
それに、こんな実験結果もあります。お母さんと生まれたばかりの子どもの粘膜細胞を採取して、それぞれ別の部屋へ持ってゆきます。そしてお母さんの細胞に刺激を与えると、即座に離れたところある採取した子どもの細胞が反応するというもの。親子はこのようにつねに密につながり合っているし、たとえ親子でなくてもわたしたちは「みんな」しっかりとつながりあっているものなのですね。
家族のパターン(コミュニケーションスタイルや感情の持ち方など)は、親から子へと代々受け継がれてゆきます。それが良いパターンであれ、役に立たないパターンであれ、無意識のうちに学習されてゆくものです。それがダメージを与えるものであっても、それしか知らないとそのやり方が正しいことだと思ってしまいます。
問題の原因のほとんどは、親のココロのにあるぽっかりとあいた空虚な穴が「埋めてくれ」と子どもにその矛先を向けてしまうことです。親自身が自分の親に真に向き合ってもらった経験がないため、自分の子どもにもちゃんと向き合うことができず、それが子どもの心のひずみの原因となります。また、親自身のパートナーシップがうまくいっていないため、足りない分の愛情(本来はだんなさんからの愛情)やサポートや同意を子どもからもらおうと、子どもを自分の道具にしてしまう場合もあります。あるいは、親自身が現在の生活に不安や欲求不満を感じているため、その不安定さを子どもがすべて感じとり吸収してしまうよな場合もあります。
お母さまのココロのひずみが子どもに伝染してしまうのです。
お母さまが子どもの状態がどうであろうと、どっしりと構えて、「何があっても、あなたがどんな状態でも、お母さんはあなたの味方!あなたのことを愛しているのよ」ということを面と向かってしっかりと何度も地道に伝えてゆくことがどれだけ大切なことか。
「しっかりと向き合うこと」「愛情をていねいに伝えること(わかってるでしょ!はダメ)」・・・これをお母さん自身が体験していないため、身についていないことが問題なのです。
安川さんも、まず親のカウンセリング、そして逃げずにしっかりと愛情を伝えることだとおっしゃっていました(本当にそうですよね!やっぱり「愛」です!)
わたしたちはどんな問題に直面しようとも、まず自分と向き合い、自分をどうにかすることでしか問題を解決することができないのです。結局、子どもといえども他の人をコントロールすることはできないし、変えることもできないし、自分の思いどおりにしたいと思ってしまうこと自体が間違いなのです。
そうなると、問題を解決しようなどと思わずに、まずはすべてを「よし」として受けとめ、そこから真のコミュニケーションをスタートしてゆく必要があります。
そして、もし目の前に問題があるのであれば、それは「自分自身を変えなさい」「自分が成長できるチャンスですよ」「もっと幸せになることができますよ」と教えてくれているのです。まずは、自分をしっかりと見つめて、思いやりを持って自分を癒すこと!自分が穏やかになり静かな愛情で満たされたとき、きっと自分の目にも同じものが見つかるのでしょう。
二十年来のおつきあいのある友人のお誕生日と新しいお仕事のお祝いです。アイスクリームにささった花火、そしてお店のオニイサンたちがみんなでBDソングを歌ってくれましたよ♪
彼とは古くからの学びの同志。国内のみならず国外にまでせっせと修行に出かけた仲です。
しかし昨年秋、仕事を辞めてからなんか様子がおかしい。自分で仕事をはじめる新たなチャンスにわくわくしてると思いきや、どよよ〜んとして、とにかく暗い!重い!この世の終わりみたいな顔つき。聞けば、何も仕事がない状況がこわくてこわくて仕方ないと。「とにかく俺に仕事をくれ〜」と叫びたい状態らしい。
その怖さに耐えきれず、あせって葬儀屋に就職しようとしたり(おくりびと?)、あるときは深夜に魚のエサを運搬するバイトで心を慰めたり・・・。そして、ついに頭を丸めることまで考えたそうな(きゃ〜・・・、生ぐさ坊主・・・)。
クライアントさん以外の人生には頼まれなければコメントしない主義なのですが、いささか言いたくなりましたよ〜。「ちょっとぉ?あなた何やってるの?」って。以前から自分で仕事をする夢を語っていたので、さすがに「違うでしょ〜」って「喝」を入れたくなりました。
そして年も明けて、その後どうしているかな〜と連絡してみたら、どうやら万策尽きはてたあかつきに、なんとチャンスはあらぬ方から降ってきた様子です。最終的には、もともと自分がやりたいと思っていた個人事業をはじめる機会が予期せぬところから現れたそうな。
ほんとうにおもしろいもので、わたしたちは自分のオールで力の限り漕ぎまくって、しかしそのときにはぜんぜん思う方向に進まず、なぜか同じところをグルグルしているか、まったくあらぬ方向へとたどり着いてしまう始末。頑張れば頑張るほど、結果がでない、という悲惨な状況。
しかし、これってどうやら、漕ぎまくった末に力尽き果てて「もう、どうにでもなれ!」とぐったり静かになる瞬間を神様はねらっているような・・・(たちワル!笑)。なぜかって、この人に力尽きてもらわないと、あれこれ抵抗して神様が計画したせっかくのベストなプランを行使することができないから。(まあ、殴って気絶させて、いちばんいいコースへひきずって行くよりはお手柔らかですが・・・。あ、でもそういうケースも目にしたことはあります。神様も見るに見かねたのでしょうね。)
神様はせっかく彼のために計画したとっておきのプランを邪魔されたくないから、オールを放棄する気がないなら、ちょっとエネルギーを使いそうなあれこれを用意しておいて、ようやく力尽き果ててもうどうにでもなれ!と静かになる瞬間までじっと待っていたのでした。
ほんと、こういうことってよくあります。わたしも、あ〜でもない、こ〜でもない、とやりすぎて、「ああ、もう疲れた!どうにでもなれ!」と思って放棄したときに、たいていいちばんよい道がおのずとやってきたことが何度となくありましたっけ。
つまり、オールは自分で握らんでいい、流されてちゃってください、行き先は秘密だけどかなり楽しいよ〜♪と。邪魔になるから、ジタバタしないでおとなしくしていなさい。まかせなさい、信頼しなさいってこと。
なぜって、漕ぎまくっているときには何か「抵抗している体験」があって、そこにたどり着きたくないからこそ漕ぎまくる。けれど、『あなたの人生に何かを実現させたかったら、それに抵抗しまくりなさい』っていうぐらい、じつは「抵抗」は確実に抵抗していることにたどり着いてしまうベストな方法なのです。(何かを手に入れたかったら、それに抵抗しましょう!)
セラピーでのクライアントさんを見ていても、また周りの友人を見ていても思いますが、結局は力を抜いて「来るもの拒まず」の態勢が、じつはベストな道への最短距離のよう。宇宙はわたしたちの頭では予測できない抜け道、欲しい結果へワープできる入口を用意してくれているのだけれど、それは一見洗練されていない道のように感じたり、効率悪く感じたり、間違っているように感じたり、なかなかわたしたちのお好みにはあっていないようなのです。
でもそこはつべこべいわず、とにかく目の前やってくるものに素直に「YES! 」と言うこと、そして信頼してそれを地道に体験してゆくこと。「ぜんぜんわたしの希望とちがうじゃな〜い」とふてくされず、怒らず、たんたんと目の前にある「今」を「ありがたく」受け入れてゆくことが大切です。(「ありがたく」受け入れる、はキーポイント。わたしたちの人生は褒めたたたえないと、先に進まないのです。褒めたたえてない時は不満があって抵抗しているとき、するとそこにエネルギーが集中して重くなり進まなくなります。)
そうです、ついついシリアスになるとエネルギーがどよよ〜んと重くなって、とたんに流れが悪くなり、ひっつき、いつまでたっても同じ場所に停滞してしまってメビウスの環をグルグル!とうことに。なので、とにかく人に何を言われようとノーテンキ!軽く、楽しく、朗らかに、そして目の前のことに感謝する。
人生、サクサク進んでゆくには、なにごともギャグにしてわらっちゃうこと(その点に関して、“るんスタッフ”は天才的なのでずいふん助けられています。一緒にぎゃはぎゃは何でも笑いに変えてしまうと、あっというまに嵐はすぎさっちゃうことしばしば。)
今回、旧友K氏を見ていて、オールをさんざん振り回したあげく、ついには地面につっぷし、その途端に地割れがするように新しい「彼の欲しかった」現実が現れるのを目の当たりにしましたよ〜。(彼が書いていいというので、書かせていただきました。)
気づきをありがとう。そして、Happy Birthday and Congrats for your new job! (もう、オールはへし折ったかな?)
PS 豆乳しゃぶしゃぶ、おいしかったです♡
セラピーセッションの中で、「あなた」と「わたし」の境界線があいまいになっていることによって問題や悩みが起きていることが多々あります。
ということは、それだけわたしたちの中では人と自分との境界線が自覚できていないということです。
身体の境界線なら一目瞭然ですが、目に見えない相手との境界線ってなんでしょう・・・?
境界線の問題は、恋人や家族という近しい間柄に顕著です。
つまり、「わたしの夫」「わたしの妻」「わたしの恋人」「わたしのこども」という名のもとに、相手の思考やら人生にズカズカと勝手に介入してしまうということです。
「あなた、そんなことするべきじゃないわよ」という文句、「あなた、こう生きるべきでしょ」というコントロール、「あなた、ちゃんとできないならもう知らないわよ」という脅し・・・。これ全部、自分のことではなくって、相手の人生に関することです。
ほっといてくれ〜、と言いたいけれど、けっこう日常で無意識のうちにこの文句やコントロールや脅しは使われています。
近しい関係では、相手を思うあまり相手に自分のパワーを明け渡してしまい、相手と自分を同一視した結果、相手を自分の一部のように錯覚してしまいます。ひどくなると、自分自身は完全にお留守で相手の人生を生きようとします。(これは恋愛初期に見られる症状。自分はもぬけのカラで相手のことばかり考えています。あるいは、自分はそっちのけで尽くしすぎたりします。一見、熱愛のように見えますが、たんに相手に憑衣しているだけです。)
そもそも「自分」と「相手」は別の存在。さきほど書いたように、身体を見れば一目瞭然、別個の存在です。そして、個人としてわたしたちは「自分」の人生を好きなように「自由に生きて体験する」、という目的のためにここにやってきているのです。あくまでも主役は自分、自分の人生とまっこうから向き合って体験し充実させなければなりません。ほんとうは、人の人生にお出かけしているヒマはないのです。
でも、自分への自己評価が低いと、自分の人生なんてとるにたらない、よし!この人(夫、妻、恋人、こども)の人生でわくわくしよう!ということになり、ズカズカ境界線を越えてもの申したり、ちょっかいを出したり、コントロールしたりすることになるのです。
そしていったん自分の手綱を相手に渡したなら、相手(夫、妻、恋人、こども)は、勝手をするなんて許されない、自分の期待に答えるべき、と信じます。自分のことをわくわく喜ばせるような生き方をするべきだし、自分の自己評価の低いところの埋め合わせもすべきなのです。(だから、おちこぼれもカッコわるい人生ももってのほか!)
でも、わたしたちは自分個人が、いわば好き勝手なやりたい人生を思う存分謳歌するためにここにいるのですね。そもそも、それぞれが相手の期待に答えるための存在ではない、ということです。
もし、夫、妻、恋人、こどもがそれぞれの人生を生きていることに関して不満を言いたいのであれは、もしかすると、自分が自分の面倒をちゃんと見てあげていないのかもしれません。自分をからっぽにしておいて寂しいから人の人生にお出かけするのではなくって、ちゃんと自分のところに戻って、自分の気持ちを聞きながら喜ぶような人生にしてあげなければならないのです。
相手にムカっとくるポイントがあるときには、かならず「抑圧した痛み」という自分のお宝が隠れています。相手が好き勝手して頭にくるなら、おそらく「わたしはガマンしているのに、あなただけ好き勝手するな!」という自分につけている足かせが明らかになるだろうし、相手の能力不足やだらしなさを責めたいなら、「あなたのその能力のないところをみていると、わたしの中にある劣等感がちくちくするからそれを見せないで!」ということかもしれません。
わたしたちはこんな痛みがあると、すぐさま「あなたがその痛みの元凶だ!」と相手を責めたくなります。だから、そこを正してあげるために相手に介入しなくちゃ!と。
でも、いつだって目の前にぶら下がっているのは、自分の中の何か。そしていつだって相手に挑みかかるより、自分と向き合うことによって解決しなければならないことなのです。
相手をコントロールしたいと感じたとき、文句を言いたいと感じたとき、間違っていると感じているとき、ちょっと思い出してみましょう。相手はどんな人生であっても、そのままの人生を生きる権利があること。そして、その人生は自分が思うようなステキな結果は出ていないかもしれないけれどそれは自分の判断であって、その人にとってはこの時点ではベストな選択、結果であること。もし、問題があれば本人が気づいて何かを学ぶことによって、修正する必要なあるときに修正されるということ。そして相手がサポートを必要としている時にだけ、相手を尊重しながらその手伝いをすること。
「相手をどうにかしたい」を手放せば手放すほど、相手に明け渡していたはずの自分のエネルギーが戻ってきます。すると、不思議!あんがい自分の人生が軽やかに流れ出すのを体験するかもしれません。
わたしたちがココロにダメージを受けてバランスを崩してしまう原因は、成育過程で虐待にあったり、大きなトラウマ体験があるというようなことばかりではありません。
他の人は気づかないようなほんのささいなことが少しづつココロの棘として残ってしまい、あとで大きな問題になることもあります。
たとえば、言葉にすらされないノンバーバルコミュニケーションで、母親がしっかり目を見て話してくれないとか、態度でプレッシャーをかけるとか。いっけん、気がつかないようなこと。問題を抱えるお子さんをお持ちの親御さんと話しをすると、わたしはそんな虐待はおろか、ひどい育て方はしていないとおっしゃいます。はい、たしかに。ほとんどは言葉というよりはエネルギー、その子の心に沿っていないコントロールや強制的な態度、認めない態度が問題なのですね。そんなとってもささいに見えることが永年ボディーブローのように効いて、それを受けたこどもは大人になって「とにかく依存したい」とか「どうしても自己肯定感が持てない」「うつっぽい」など、知らず知らずのうちに弊害を被っていることが多々あります。
じゃあ、成長して大人になったからもう大丈夫かというと、そんなことは全然ありません。
そして日常生活でも、わたしたちはまさにボディーブロー的なストレスを日々受けとっております。
セラピーにいらした方に、「現在お持ちの心や身体の不調が起る前に、何かストレスを感じましたか」とお尋ねします。すると、「恋人と別れました」「仕事で失敗して怒られました」などの大きな心理的プレッシャーが存在する場合もあるし、まったく何もなかったとおっしゃる方もいらっしゃいます。
でもほんとうに何もなかったのかというと、じつはあまり意識されていないボディーブロー的なストレスの積み重なりというものが存在していて、それは心身のバランスを崩すには十分なのです。人は日々、心の中で感じた葛藤や、クエスチョンを正当に処理をしておかないと、そんな微々たるものの積み重ねで大きくバランスが崩れココロが誤作動を起こしてしまうこともあるのです。
先日いらしたクライアントさんのAさん。「うつぽくって、自分なんか消えてしまいたい」と。生育歴や過去の心理的傾向をうかがっても、さして問題は見当たりません。
セッションをすすめてゆくうちに浮かびあがってきた場面は、ある雨の日に傘をたたもうとしていたAさんに高校生の男の子たちのグループが乱暴に体当たりしてきて「もたもたすんなよ!ババア!」とののしられたこと。そして、そこから過去に何度か電車やお店で理不尽な扱いを受けたことがあったという記憶が甦りました。自分がとった電車の指定席におじさんが坐っていて、「そこはわたしの席です」と言っても何の反応も示さず坐っていたとか。
こういう言葉の暴力、態度の暴力は、ささいなものとして自分が意識しない分、じつは心の中では未解決になっていることがあるのです。そのような体験が重なったAさんは、その度にモヤモヤした気持ちを抑圧し、また「こんなことされるなんて、じつはわたしって価値がないのでは」「ほんとは、わたしが間違っている?」という余計な信念をつくってしまったのです。
いちばんいいのは、その事件が起った日に友人にでも電話して「きょう高校生のガキどもにババアなんていわれちゃってね〜。ひどいったら。あんなガキどもにいわれたくないわよね〜」と笑い飛ばしてしまえば、そこでエネルギーは解消されたことでしょう。
日々の生活の中では、自分のルールとはまったく違う行動をとり、それによって気持ち的に傷つけられることもあるものです。先日こんな話しも聞きました。コンビニでせっせとコピーをとっていたら、いきなり知らないおじさんが横入りしてきて、自分の原稿をちゃっかりコピーし、ありがとうでもお金を渡すでもなく、そのまま消え去ったとか・・・・。コピーをとっていた彼女はまさにフリーズしたそうです。そしてそのあと、案の定もやもやが続いたとか。こんなのに遭遇することも心のバランスを崩す原因になっていることもあります。
そんなときには、「わあ、びっくりした!」とおじさんに向かって叫ぶとか、あとでコンビニの店員さんに「今、すごい変な人がいたんですよ〜。割り込んできて」と相手がヘンであったことの決着をしっかりとつけるような行動をとっておくといいようです。そうでないと、モヤモヤが長引き、他の問題とドッキングするとさらに複雑になります。一個、一個、小さなビックリ、モヤモヤはそのつど、友人に報告する、心の中でしっかり“びっくり”リアクションするなどして「これはおかしなことだった」ということを自分に教えてあげるといいですね。
ココロというのは、自然治癒力がありたくましい反面、大きなストレス、たびかさなるストレスには繊細に反応します。毎日歯を磨くように、毎日ゴハンを食べるように、ココロの健康もその日のココロの状態に目を向けながら、友人をなぐさめ、はげますように日々ケアしてあげることが大切です。
いつも自分の感情を飲み込みがちだというクライアントのAさん。
奥さまとの関係でも、「いやだな」と感じることがあってもガマンしてしまうことたびたび。なぜなら、そんなささいなことで何か言おうものなら「小さっ!」と思われそうだし、自分さえ黙っていれば波風が立たたず、いちおう家庭の平和は保たれる・・・と。でも心はいつもモヤモヤ、曇り空。うつうつが晴れることはなく、ついに「なんとかすっきりしたい!」とご相談にいらっしゃることになりました。
男性にしろ、女性にしろ、「波風を立てたくない」という理由で人間関係のフラストレーションに目をつぶってしまう方は多いようです。
しかし前回のトピックでもとりあげましたが、小さなモヤモヤが少しづつたまることによる心の弊害って、予想外に大きなものがあります。ある日突然、理由がはっきりしないウツや精神のアンバランスを招きかねません。
健康的な精神状態や人間関係を保つには、何か自分の気持ちがスッキリしないというときにはそのままにしない、ということが大切です。今、何がひっかかっているのかを明らかにしてゆくこと。もしそこに他の人が関係しているのなら、怖れずにコミュニケーションして改善をはかる努力が必要です。
でも自分のスッキリしないことを表明するのは、相手との気まずさやケンカに発展するのでは?とみなさん心配されるのです。
Aさんにも「日頃から、もっと気になることについて話してみたらどうですか?」と提案すると、ケンカはいやなんです・・・と。「ちょっと待ってください。“話すこと” = Aさんにとって“ケンカ”なんですか?」とわたし。
そうなんです。「自分が相手に対して気に入らないこと、イライラしていることを口にするのは、つまりケンカを売ることだ」と考えている方が多いのに驚かされます。
たとえば、「そのオモチャひとりじめしないで、こっちによこせよ!」「なんだと〜、オレが今、遊んでいるんだぞ〜」「よこせったら、よこせ!」「おまえなんかに渡すか!」「コノヤロ〜、よこせよ〜!(ボカッと殴る)」・・・・というように、不満を口にするっていうのは、幼い頃にはこんな感情的なケンカに発展しました。
ま、そのやり方しか知らなかったからしょうがないのですが。
でも、これってコミュニケーションでしょうか?これはたんに自分の主張をぶちまけ、相手は当然防衛的になりそれをつっぱね、戦いへと発展します。この図式でいつも自分の要求を通そうとすれば、当然、相手に不満を言うことはとても危険な状態を引き起こします。
これがうまくいかないのは、「本当に相手に伝えたいメッセージ」、つまり「ボクもそのオモチャで遊びたいの」という要求が正しく伝わっておらず、そのかわりにそのオモチャで遊ばせてもらえない怒りの感情が先行してしまい、単に感情をぶちまけることになってしまっているからです。
当然わたしたちは、攻撃されたら同じようにやり返します。あるいは、逃げ出します。でも、そこでは「やった、やられた」という戦いとなり、本当に伝えたかった「ボクもそのオモチャで遊びたい」というメッセージは残念ながらまったく伝わりません。相手をおびやかしてしまったら、相手は一気にコミュニケーション・チャンネルを閉じてしまいます。
この不満をのべること=ケンカという図式も、おそらくおうちの中で両親が「自分の主張」をするときに感情のぶつけあいになるのをつぶさに見てきたことにより、無意識のうちに学習した結果です。「不満をあらわすときには、感情をこめてああやってやるんだな」と。でもAさんの場合は、「あんなことはやりたくないから、波風はたたせず飲み込む」という選択にいたったわけです。
そこで対立をさけてガマンしたからといって、その不満のエネルギーはなくるわけではありません。それは潜在意識の中に少しづつ少しづつため込まれ、ある日突然、自分にも相手にもわけのわからない「大爆発」を引き起こしてしまうことがあります。はたから見ると、「こんなささいなことで、なんであんなに怒り狂っているのだろう?」と人はビックリします。
たとえ大爆発にならなくても、抑圧した感情によっていつのまにか相手に対して嫌悪感を感じるようになっていたりします。潜在意識では、もうガマンしたくなくって自然とその人から離れようとするのです。(相手にしてみたら、そこまで嫌いになる前に、なんで話してくれなかったの?と言いたくなりますよね。)あるいは、病気になってこの戦いから逃れようとする場合もあります。
そんなことにならないために、こまめに不満を口に出すことはやっぱりとても大切。
さて、「気に入らな二ことを口に出す」ことと「ケンカを売る」ことの違いは何でしょう?
このようなフラストレーションのある状況の中で、どうしたらわたしたちは自分の欲しいゴールを達成することができるのでしょう?
そもそも相手にイライラしているからこそ、モノ申したいわけです。すると、どうしても不満や怒りなどの「感情」が暴走してしまいがち。あるいは「文句を言う」ということこそ、文句なんだから腹を立てていてあたりまえと思っている方もいらっしゃいます。
しかし、たとえその内容が正しくとも、わたしたちは誰も「自分を非難されること」には慣れていません。そこに批判や文句があれば、人は素早く身構えてしまうし、ましてや攻撃的なエネルギーが感じられようものなら、すぐに戦闘態勢に入るか、すばやく門戸を閉じてしまうかのどちらかです。
相手とケンカしたい、あるいは相手をギャフンといわせたいという場合をのぞいて、これはうまくいきませんよね。問題解決からは遠のいてしまいます。
自分が本当に伝えたいメッセージがあるからモノ申すのに、すでに聞いちゃもらえない状況です。まずは何よりもちゃんと言いたいことが伝わえること、相手が心を開いてそれを受けとる態勢でなければなりません。そのためには攻撃的な態度やコントロール、非難の気持ちは御法度です。
コミュニケーションとは、あくまでも平和的に行われるもの。それに対して、感情のぶつけあいはただのバトル、ケンカです。そのためには、自分の言いたいことを的確に伝えて、相手の意見にも耳を傾け、ちゃんと意見交換をすること。
ここでは、つい先行しそうになる不快な気持ちや怒りなどはじっと我慢して、ひとまず脇に置かなければなりません。そして、自分が何を伝えたいのかを冷静に的確に言葉にしてゆく必要があります。それも相手が理解できるぐらいの量と内容にしてあげるという配慮も必要(一度にたくさんのことを言われても、相手はわたしたちが思うほど理解できていません)。込み入った問題の場合は、「じゃあ、また話そうね」と言って小出しにすること。あくまでも、軽く、楽しく、平和的な雰囲気で、相手が防御して戦いに発展したり、完全にシャットアウトしてしまうのを防ぎます。
そのためには相手が間違っていても、正してやろう!という上から目線は致命的。それがどんな生き方であろうとも、本人がそれでいいのだ!と言う限り、誰にもそれを正す権利はないのですね。ですから、あくまでも相手の立場や価値感、存在を尊重しつつ、同じ目線で相手の感性への思いやりをもって話すことが大切です。
ネガティブなことを伝えるポイントをまとめてみると、
1、イライラ、怒りなど、この状況に対する「感情的な気持ち」はひとまずワキに置いておく。(感情を出したら逆効果。何も達成できません。ここは、ポーガーフェイス!です。)
2、自分はいったい何を要求しようとしているのかをはっきりさせる。「ゴミを出しを手伝ってほしい」「そのオモチャで遊ばせてほしい」など。
3、相手がなぜ今、それができていないのかを相手になったつもりで推測してみる。「もしかして、ゴミ出しは近所の人に見られるのがイヤなのかも?」「新しいオモチャだから、まだ遊んでいたいんだな」
4、なるべく相手のしていることを邪魔しない時間に話しかける。「ちょっと、話したいことがあるんだけど今いいかしら?」と明るく、軽く。
5、立ったままよりも坐るなどして、目線の高さをあわせる。(上の方から話しかけると、それだけで相手は防衛的になります。)
6、本当に伝えたい用件を、感情をまじえずに、明るく、軽く、シンプルに、相手にわかりやすく手短かに伝える。「ねえ、ゴミ出しのことなんだけど、手伝ってもらいたいの」「そのオモチャ、ぼくも遊びたいんだ。いつあくかな?」
7、つっぱねられたり、拒絶的な態度にでられたら、やんわりといったん同意し受けとる。「あら〜。そうなの」
8、「わたし」の問題ではなく「ふたり」の問題であるように自覚させ、相手が何か提案できるように質問する。「そう、困っちゃたわね〜。ねえ、ゴミたまっているんだけど、どうしたらいいと思う?」
9、自分の要求と相手の言い分との落としどころをさぐる。(ある程度は妥協も!)
10、込み入った問題のときには、あらかた自分の意図は伝えてたらいったんその場は退却し、日をあらためる。「じゃあ、また話そうね〜」と一時保留。
11、相手を尊重しながら相手の意見にも耳を傾ける。(わからないときには、「それってどういうことなの?」と丁寧にわかるまで何度も尋ねる。尋ねることによって、自分が理解していなかった相手の本当の問題に気づけるようになる。)
つまり、自分の言いたいことを相手が警戒したり身構えたりしないようにソフトに提案しながら、それについての相手の意見を聞きき、歩みよりつつ落としどころを探ってゆくということ。しかし相手が閉じてしまうと、もうそこからはコミュニケーションができなくなるので、言葉を受けとる相手への思いやりが大切になります。
怒っているんだから、相手なんて思いやれるか!と言われそうですが、ソフトなアプローチの方が自分の目的を達成する確立はかなり高くなります。あるいは、相手からの思わぬ協力さえも得られるかもしれません。一方、相手の気持ちを害してしまったら、そこから自分の要求を聞いてもらうことは取っ組み合いをしたとしてもムリでしょう。
そして、一発ですべてを思い通りにしようと思っても、それもまた相手へのコントロールにつながり反発をまねきかねません。ソフトな雰囲気で話し合いが続くようにすること。そして自分もある程度妥協することも必要かもしれません。しかし、攻撃的な姿勢がなくなるだけで、相手は予想外に協力的になったりするものです。
「人と人との関係には、かならずや葛藤がつきもの」ということも覚えておく必要があります。なぜなら、相手はまったく育ちも考え方も信念も違う別の人。わかっていると思っても、そこにははじめから大きな違いがあって当然。「人対人の付き合いでは、意見の食い違いは当然だ」ぐらいに思っている方が、何かあってもわかってもらおうとする努力を続けることができるし、腹も立たなくなりよい関係を長く続けてゆくことができます。
はじめから「相手と自分は違う」と思っていれば、「違い」に対する葛藤も減らすことができます。
また日常の人間関係の中で自分を正しくわかってもらえるように自分の気持ちを話したり、積極的に自分を開いてゆくことも大切なこと。そうすると、相手も安心して「小さな不調和」でも素直に打ち明けてくれるようになります。
夫婦でケンカ、一回もありませんよ!なんて言っているカップルに限って、ある日突然あっさり離婚してしまったりします。食い違いは当然と思って、こまめに打ち明ける勇気をもつと、長く深くかけがえのない関係が築けるようになるのですね。
自分にとって大切な関係であるならばなおのこと。「波風を立てないように」といってガマンしたあげくトルネード級の破壊にならないように、日々のプチなフラストレーションを感じたら自分の伝えたいメッセージを的確にしつつ、軽く、明るく、伝え続ける練習をしてみてくださいね。植物が育つように、ちょっとこまめに手入れをすることによって気持ちのいい関係が育ちだし、きっと以前よりも相手を大切に感じられるようになると思います。
そして、自分の気持ちに対して正直にふるまえることで、自分を幸せに導いてくれる自尊心も育ってくることでしょう。
この地球に住むわたしたちは、ホント「被害者」になるのがだ〜い好きな生き物のようです。
世界中どこでも、「被害者」であるかわいそうな自分を守るために争い、戦い、略奪し、なにか不都合があれば即座に誰かのせいだと思おうとします。国が悪い、環境が悪い、政治家が悪い、親が悪い、やつらが悪い・・・と。もはや「被害者」ということに対して中毒症状。やめたくってもやめられません。しかも、そうなっていることにすら気がつかないのです。
わたしもこんな経験がありました。ある海外のセミナーで「潜在意識を浄化する」ワークに日々を費やし、自分の中のかわいそうなわたしや被害者意識をクリアにすることに専念していました。その帰路の飛行機でうとうととまどろんでいると、突如「ぜったい、ぜったい、ぜ〜ったい、何が何でもぜったいに被害者でいてやる〜〜〜!!」という声が自分の心の中におどろおどろしく響き渡ったかと思うと、その直後から飛行機が尋常ではない恐ろしい揺れ方をしはじめたのです。もともと心には山をも動かすパワーがあります。この場合、悪くしたらわたしは自分のエゴ(被害者意識)にそれを抹殺しようとしたことによって殺されかねない状況だったのです(幸い、飛行機は落ちずにすみました)。これはエゴのパワーのすごさを感じた瞬間でもありました。(と、いうわけで、わたしのエゴはいまだご健在でありますが・・・。)
でもね、被害者でいることはエゴにとっては利益があってやめられない楽しい習慣かもしれません(病弱なわたしに母はやさしくしてくれる、失業したわたしに彼は同情してくれる・・・など、自分を弱く感じれば感じるほど、被害者意識が強くなります)。しかし、被害者意識は百害あって一利なし。自分の首をしめることになり、また自分の欲しいものを破壊してしまうことにもなりかねません。
さて、きょうはそんな誰もが大好きな被害者をどうしてもやっちゃうA子さんのお話。
A子さんは夫婦問題でセラピーにいらしています。
以前からだんなさまとの間に問題がなかったわけではないのですが、彼の携帯をのぞき見してしまったところから、A子さんの心のバランスが大きく崩れることとなりました。
「なんかあやしいぞ!」と思って携帯をのぞいてしまったら、案の定、思ったとおりの結果が・・・。
「昨日は、ごちそうさま。○○さんはお話し上手でホント楽しかったです。また連れて行ってくださいね〜」というデートをしたらしいメール。あるいは、「心ばかりですが、バレンタインのチョコレートで〜す」というプレゼントをもらったようなメールまで。
彼には携帯を見てしまったことは話していませんが、それ以降、彼の態度がそわそわしていると「彼女からのメールを待っているの?」、あるいは「メールをしたいの?」と憶測したり、彼の帰りが遅いと「ああ、きょうは彼女とデートしてきたのね」と落ち込んだり。また、だんなさまの機嫌がよければよいで、「ふうん・・・うまくいってるんだ・・・」と落胆し、機嫌が悪ければ「どうせ、わたしといたくないのでしょ」と悲観的になります。
そして不安ばかりがふくらみ、何も手につかず、ゴハンも喉をとおらず。そしてだんなさまに対しては、ついつい皮肉っぽかったり意地悪な言葉をなげかけるか、機嫌をとって媚びるような態度をとってしまうそうです。
そこで、A子さんに聞いてみました。「もし、ほんとうに浮気していたらどうしますか?別れますか?」彼女の答えは「その過程はどうでもいいんです。それよりも、また仲良く平和に信頼しあって暮らしたい」。
さてさて、彼女の生活にはほんとうに平和や信頼がないのでしょうか?彼女が言うように、平和や信頼を台無しにしたのはほんとうに彼なのでしょうか?
まず、メールを見ちゃったことは、一つめの NG です。
人にはそれぞれの境界線というものがあります。私の世界と彼の世界は同じではありません。結婚という形態をとっていようとも、自分が生きなければならないのは自分の現実、自分の境界線の中であって、人の境界線に踏み込んだり、その中のことをあれやこれやコントロールしようとすると、必ず無力感を感じるし、ストレスで苦しむことになります。
人の境界線をむやみにおかしているときは、実は自分の境界線も大切にしていません。自分と人が曖昧になっているごちゃまぜ状態です。彼がこう感じているから、わたしもこう感じなくては。彼がこう反応しているから、わたしも同じように反応しよう。どんどん自分がなくなって、依存的になってゆきます。自分が誰だかわからなくなります
相手の境界線に入っているときには、「あなたは、わたしが思うようにふるまうべきである」という「べき」ルールがあります。しかし、いくら心の中で「あなたはわたしの思うとおりにふるまうべきである」と叫んでも、結局は人はふるまいたいようにしかふるまいません。人は変えられないのです。「べきだ」は現実に起っていることとはあわないので、もれなく葛藤を感じるハメになってしまいます。
そもそも、メールを見ていなければ、A子さんの心には何も起っていません。平和です。境界線をおかしてしまったことで、A子さんは自ら自分の心の平和を台無しにしてしまったと言えます。
「え?でも彼が浮気してても許すの?」というご質問がきそうですね。
これは二人の間にメールということが介入して問題をおこしているように見えますが、そもそもこれはそれ以前の問題なのです。これはA子さんとだんなさまとの基本的な信頼関係の状態がたまたまメールという形で表面化してきました。A子さんが自分がほしい「信頼関係」を彼に対して持つ努力をしていたら、メールをのぞくことはなかったでしょう。メールはその信頼関係が十分でないところを露呈したのです。彼を信頼できないと思っているA子さんは、じつは自分が信頼できない人なのですね(はい、いつだって相手に見えるものは、自分のもの!)。なので、メール事件が起ろうが、起るまいが、じつは遅かれ早かれ同じような彼との「信頼関係」に関する問題が勃発したことは確かなのです。
そしてA子さんの二つめの NG は・・・
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)
しばし時間があいてしまい、何を書いているのか忘れちゃいました・・・汗。(^^;
気を取りなおして・・・!
だんなさんの浮気が心配で彼の携帯を見てしまったA子さん。彼女の二つめの NG とは何でしょうか?
それは、起っていることを「あるがまま」に見ていない、ということです。
「ものごとをあるがままに知覚しない」というのは日頃誰もがやっている過ちで、じつは苦しみをつくる最大の原因となってしまいます。
この場合、A子さんに実際に起きている事実というのは・・・「彼が知らない女性とメールをしていた」「ゴハンを一緒に食べた」「チョコをもらった」。しかし、わたしたちには「過去の経験の蓄積」というものがあり、それをもとにして現在起こっているコトに自動的に意味づけをし、今何が起きているのかを判断しようとします。
ここで確実に起きていることとは、先ほども書いたように「女性とメールをしていた」「ゴハンを一緒に食べた」「チョコをもらった」以上です。そして、これらにはポジティブな意味もネガティブな意味もありません。自分以外の人とゴハンを食べることはあるだろうし、結婚をしていてもチョコをもらう男性はたくさんいます。異性のメル友がいる方も多い昨今です。
しかし、このことでA子さんの怖れが暴走してしまう理由は・・・
もともとわたしたちのココロは「ものごとをあるがまま」に知覚せずに自分で意味づけをするのが大好きだと書きましたが、何かを見れば、「おお、それってこういうことね!」、何かを言われれば「そうそう、それってこういう意味に違いない」とすかさず自分なりの解釈をくっつけて一件落着します。しかし、残念ながらそれは普遍的な解釈ではなくって、あくまでも「自分個人」の考えと見聞きした情報からくる意味づけです。(世の雑誌、TV番組では、さきほどあげた兆候があるのであれば、それは浮気です!と断定するかもしれません。しかし、それが普遍的な真実でもないのですよね。)
このよく働く自動意味づけシステムを稼働させているココロは、自分のココロの中に被害者願望があると、ちゃんとそれにのっとった意味づけをしてくれちゃいます。つまり、メールしてる?ゴハン食べた?チョコもらってる?+A子さん被害者意識、怖れ = ひどい、TVでも言っていたように浮気に違いない、もうダメだわ、別れようっていつきりだされるのかしら?わたしといるのにウンザリしてるんでしょ?・・・と。
これは被害者として怖れから意味づけしちゃったために、怖れの悪循環にはまり、その怖れの妄想はどこまでも延々と続くわけです。
わたしたちは、この怖れというものはこの事態が起きているからこそ感じている感情だ、と思っていますが・・・おもしろいことにそれは違うのですね。
じつは、この怖れの感情は「今現在」のものではありません!
ですから、この場合も「メール」etc は、本当の不安の原因ではありません。本当の不安の原因は、もっとココロの深いところからやってきます。それはわたしたちが潜在意識の奥底に永〜いあいだ蓄積し隠しもってきたネガティブな感情、誰の心の中にも潜んでいるココロの闇にある怖れからやってくるのです。もちろんココロの闇ですから、それを自覚していることはありません。
しかし、それをいよいよもって持て余しそうになると、それをガス抜きするために「他の口実」を自分でこしらえて不安を感じたり被害者になって、「ほれっ、これこれ!これが原因でわたしは怖いのよ!あなたのせいよ!どうしてくれるの?」と、行き場のなかった心の底の闇を「かわいそうなわたし」を演じつつようやっと発散させることができるというわけです。
だから、今現在起っていることは、じつはダミーの問題。心の底に潜む、怖れや劣等感のガス抜きの道具なのです。
抱えきれなくなった感情の廃棄物を処理するために、手っ取り早く不安を感じそうな出来事を自らのココロが創作して、廃棄物処理を企てていたわけです。そして、自分を被害者にしたてあげておけば、自分が創ったとは思わずにすみます。
そんなダミーの怖れや怒りにひっかかって、現実のパートナーシップがめちゃくちゃになってしまってはたまりません。だって、怖れを解放するためには、ほんとうは他のどんな出来事でもよかったわけですから。
そしてA子さんがしてしまっているように、彼を無言(しかし態度)で責めて彼に罪悪感を抱かせようとしたり、自分がこてこての被害者「かわいそうなわたし」になって彼に謝らせようとしたり、ついにはこのことによってA子さんらしさも失ってゆきます。そして、おそらく彼も失いかねません。
さあ、大変!どうやって切り抜けたらよいのでしょう?
(やたら長くなっちゃったので、その3へ続きます!)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)
(その2より)
どうやら、わたしたちには「被害者」をやめられないという哀しいサガがあるようです。(ハイ!かく言うわたくしも「被害者」楽しすぎて(?)当分やめる予定はありません。苦笑・・・トホホ。)
でも「被害者」になることとは、「可哀想なわたしでいることを自ら許す」ということなので、結局は自分が欲しかったものを遠ざけてしまうという悲しい結末に行きつきます。
前回も書いたように自分の人生に問題が勃発するのは、自分の深い意識(潜在意識)にためこんできたネガティブなエネルギーがパンパンの飽和状態になっいる時です。自分のことを怖れに満ちた価値のない愛されないやつだと信じていて、そんな気持ちを抱えているのには耐えきれず、とりあえず外へ廃棄するのが目的なのです。そのうえ、その目の前の問題は、たんに「汚物処理」のためのダミーの問題だときているし・・・。
そのときに、できるだけ他人にも自分にも“自分が汚物をまき散らした本人”だとバレないようにしなければなりません。だから被害者という煙幕をはって、「あなたのせいよ〜」と自分のモノを相手になすりつけちゃいます。それでも、深い部分では自分を嫌っているので、結局は自分を傷つけ罰する顛末へと行きつきます。
そして被害者になれば、ふがいないと思っている自分に対して自分の手を汚さずにおしおきができる・・・という、うまくいっているのかいってないのか、まったく摩訶不思議なシステムですね。
そして、こんなに複雑なことをしているので、自分さえもそのカラクリに騙されちゃう。
だから、被害者意識が出てきたときにはご用心。これにひっかかっちゃうと、自分のためこんでいた痛みのために現在の関係やら仕事やらを破壊しかねません。
しかし、こんな問題が起きているときだからこそ、わたしたちは自分の「心のパワー」に気がつかなければなりません。わたしたちのココロには、常に新しいものを「創り出す」という強力なパワーがあります。
しかし、それも諸刃の剣。自分が怖れにはまっていれば、恐ろしい未来を自分の眼前に繰り出してしまうということになりません。自分がそのとき選びとっているものしか創り出せないのですね。
だから、ここはハタ・・・と立ち止まって、ちょっと頭を切り替える必要があります。恐ろしいクリエイションをストップさせるために、モードの切り替えが必要なのです。
問題が起るとどうしても、過去の経験やら、今までの流れやら、すでに起ったことやら、「過去」のことをもとにして「未来」を予測しようとしてしまいがちです。しかし、アインシュタインの言葉によると「問題というのは、問題を作ったときと同じ考えのレベルでは解決はできない」のです。
ということは、今までの流れから出てくる結果は、今までの流れの延長にすぎません。「ああなって、こうなって」とだいたい予測がつくA子さんがもっとも怖れている流れです。
しかし、忘れてはならないのは、いつだって「未来は自分で選べる」し「ココロが未来を創る」という大切な事実。
まず、牛さんがくちゃくちゃと食べたものを反芻するように「つらかった出来事をグルグル反芻しつつ、こうなったら次の未来はこうだよね」と予測するのをやめなければなりません。このままだと、だいたい次に起ることは予想がつきます。被害者には被害者なりの人生が待っています。自分が怖れていることがもれなく起ってくるでしょう。
グルグル反芻すれば、それだけたくさんのエネルギーがそこに集中して、その怖れをどんどん現実のものにしてしまいます。
問題が起って「被害者」になりそうになったら、あるいはネガティブなことをグルグル反芻しそうになったら、
1、【立ち止まる】 まずは立ち止まって「あ、被害者やってた」「また、同じ怖れをグルグルしてたな」と気がつきます。
2、【キャンセルする】 そして新しい流れを選ぶためには、今までの流れがどうであれ、「ハイッ!ここでいったんキャンセル! 」と今までの流れを放棄します。つまり、怖れの自動意味づけシステムが勝手に起動し、作動しはじめるのを阻止します。
3、【何を体験したいのかを明確にする】 いったん止まったら、そこから自分がなにを未来に望むのかを明確にします。「ああ、嫉妬や怖れや怒りではなくって、愛と平和がほしい、信頼がほしい」というように未来の体験に目を向けます。
4、【新しい意味づけをする】 そうしたら、「今、ここから」その新しい目線でものごとを眺めるようにします。自動意味づけ装置のソフトを怖れから愛・平和の目線に変えてあげるのです。つまり、起ることに対して戦々恐々とした意味づけをしてたのを、寛大で余裕な「いつでも愛し愛されているわたし」「幸せであたりまえのわたし」からの意味づけに変更します。
すると、「彼の帰りが遅い=デートだ」という怖れの意味づけが、「彼の帰りが遅い=仕事大変だね、疲れて帰ってくるね、ねぎらおう」とやさしい目線になります。だんなさまが夜遅く帰ってきたときに、疑心暗鬼な怒りの目線で見られるのと、疲れが増すし、うんざりするでしょう。
でも、ほんとうにデートだったらどうなんですか?というご意見がありそうですね。
もちろんそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、「今ここから」「自分で」未来を選びます。そして創り出します。わたしたちは自分が意味づけをしたとおりに未来を創りあげ、体験してゆくのです。
だから、今、何が起っていようとも、つねに『ここから』スタートすることが大切です。早く言ってしまえば、「過去はどうでもいい」んです。それよりも、いつも今、ここから何を体験したいかを選びとってゆけるのは、常に自分自身なのですね。
怖れを持っていたら、怖れの証拠ばかりが目のまえに目白押しになります。誰かに怒りをもつと、その日一日、怒りたいことばかりが押し寄せます。でも、イイコトがあってハッピーな日には、なぜだか誰もが優しくしてくれるように感じます。
だったら、だったら、ためしに「やさしい目線」を持ってみる、「思いやりのあるまなざし」で解釈してみる・・・・すると、きっと自分の未来の中にやさしくさや思いやりの証拠がいっぱい見つかることと思います。
ホントに世界は、自分のココロのあわせ鏡・・・。さし出したものしか見られない、もらえない・・・。
わたしたちのココロはほっておくと、必ずや「被害者ごっこ」をはじめてしまいます。そのときは可哀想なわたしに酔っていられるかもしれませんが、あとでかならず「孤独」や「自己嫌悪」「罪悪感」のツケがまわってきます。「ごっご」遊びで傷つくのははやめて、ちょっと違う新しいやり方、「今、ここから、未来を選びなおす」という習慣を作ってみてくださいね。
どんな過去のストーリーがあってもOK!それでも、いつだって「今、ここ」に選択のチャンスがあるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)
いつも自分を信じて、たくましく生きている人がいた。向上心があり、勉強熱心。つねに新しいチャレンジをかかさない。そんなカッコいい友人のHちゃん。
よくぞここまでエネルギーがある、と腑甲斐ないわたしはいつも感心するばかり。
しかし、このところなんか様子がおかしい。本人もそれを自覚していて、もしやウツではないか、とわたしに相談をもちかけてきた。
彼女いわく、「ずっと自分を信じてやってきたけれど、自分が信じられなくなっちゃった。あせって今までと同じように努力をしてみるけれど、どんどん悪くなるばかり。もう疲れた・・・」と涙をこぼしながら今までになく弱気な発言。どうやら、彼女の中の歯車がどこか狂ってしまって、今や日常生活、仕事、パートナーシップ・・・とあらゆるところに支障をきたしているようなのです。
「そうですか〜。自分が信じられなくなっちゃった・・・それはオメデト〜!」と口には出さずとも不謹慎にもココロの中でつぶやくわたし。
自分のことが信じられなくなっちゃったのは、なぜオメデタイのでしょうか?
彼女のみならず、特にバリバリ系の男性にも多いのですが、自分の強さ、自分のパワー、自分の知識、自分の信念・・・とにかく「自分を信じて」「自分を頼りに」やってきた、そしてそこそこ成功してきた・・・という逞しい方々。彼らにとっては、頼りにするものは自分以外他にはなく、「自分が信じられる」ということこそ、折れない自信、最高の強みに感じられたのでしょう。
でも、四十代後半になったHちゃんはちょこっと更年期気味だし、パートナーとの永年鬱積した問題も浮上中、そして親の健康問題、仕事のマンネリなど、問題山積。いつだって自分が強くいられる状況ではなくなっていたのです。で、もう〜疲れちゃったよ〜!と。
こんなとき、「自分」一本を信頼してきた人はあんがい簡単にポッキリいってしまうことがあります。なにしろ、今まで完全なるよりどころ、ただひとつの頼みの綱であった「自分のパワー」が枯渇して信じるものがなくなってしまったのですから、その先にっちもさっちも行きません。
それに「あの人はすごくパワーがある」とか「いつも、ものすごい勢いで仕事をする」という場合、じつはこれはちょっと不自然なことなのですね。なぜそこまでしてガンバらなければならないか、というと、あんがい自分自身も気づいていない自分に対する無価値観や自信のなさの埋め合わせのため、そして自分の不安な気持ちに気づかないようにするために、がむしゃらに動きまわって何がなんだかわからなくなるまで忙しくしていなければならないのです。つまり、そのままの自分ではいられないという「不安」に突き動かされている場合が多いのです。
しかし、「怖れ」をベースとした行動は、結局は「怖れ」を増幅するような結果にしかつながらないので、こんなにもエネルギーを使ったわりには疲れはてて病気になったり、失敗してもうこれ以上できないようにするとか、結局は自分の潜在意識がブレーキを踏んでしまうことが起ります。
この場合の「自分」というのは、大洋に浮いているボートのようなもの。波もよく、風もよく、お天気もよければ、ずんずん目的地に向かって進んでゆけるのです。しかし、それは決してボートの力ではありません(が、ボートはそんなこと知るよしもありません。ゆえに、自信たっぷり!)。いったん天気が急変しようものなら、ひとたまりもなく波に呑まれてしまうこと必至。悪くすれば沈没の憂き目にもあいかねません。この自分ボートは天候が急変するまでは、天下の「俺サマ」気分でずんずん進んでゆくことができるわけです。
しかし、「自分」のみを信頼してきた場合、いきなり風向きが変わったり、波の状態が変わったりすると簡単に自然(まわりの条件)に翻弄され、今までの自信はどこへやら、こんどは極端に「自分がまったく信じられない」という逆方向に傾いてしまいます。いくら頑張っても、この高波、暴風を制することはできないからです。
「自分を信じて」きたぶん、いったん信じられなくなるやいなや、急転直下、「自信」はあとかたもなくこっぱみじんに打ち砕かれます。
じゃあ、「自分を信じる」って全然役に立たない、あるいは、百害あって一利なしなのでしょうか?
(その2へ続く)
(その1より)
自分を固く信じてやってきたHちゃん。しかし、自分を信じすぎたゆえに絶不調の憂き目にあうことに・・・ってことは、自分を信じる気持ちはあまり役に立たないのでしょうか?
いいえ、いいえ、わたしも同様の悩みを持つクライアントさんに「自分を信じる」ことの大切さはまずお話ししています。
でも、それは単独の「自分」、俺サマボートでずんずん行く自分を信じることではなくって、もうちょっと大きな自分のことなのです。
単独の「自分」を支えてくれている宇宙や天、神、あるいは高い自己(それぞれお好きな概念で)という「大きな力を含んだ自分」を信じる、ということなのです。
わたしたちが自分のアタマで考えられることは、自分の本当の能力のほんの数パーセントにも満たないものです。一方、食べたり、消化したり、眠ったり、体温を保ったり、安全を確保したり・・・とわたしたちが生存するために必要なことは、このアタマのたった数パーセントでななく、もっと「高い自己」によって自動的に制御されています。
つまり、「高い自己」は自分が思っているよりも、何千、何万倍ものパワーや智恵があり、わたしたちが安全に生きていけるようにあらゆる面で気遣ってくれているのです。気づいていなくても、そんな無限のバックアップに常に支えられてこそ無事に生きているわたしたちなのです。つまり、今までの「生存」は決して自分の力ではなく、高い存在にやさしく支えられて守られて育まれてきたということ。
しかし、わたしたちは人生のいざというとき、ほんとうに大切な決断をしようとするときに限って、お伺いをたてなければならない存在を完全に忘れて、たった数パーセントでしか考えられないちっちゃな脳ミソだけで解決を試みようとします。宇宙にあるわたしたちの無限のバックアップから見れば、それは鳥の脳ミソはおろか、ミドリムシの脳ミソよりも、もっともっとちっちゃい脳ミソですべてを取り仕切ろうとしているようなものです(ん?ミドリムシに脳ミソって??)
わたしたちはとってもちっちゃな「俺サマ自己」の決断が最高のものであると信じて、必死でそれに頼ろうとします。本当は宇宙のすべてにつながっている「無限の自己」というスーパーコンピューター以上のバックアップがありながら・・・すっかり忘れているのですね。
つまり、「自分を信じる」ということの本当の意味は、すぐに高波にホンロウされちゃったり、沈没さえもしかねないちっちゃな「俺サマ自己」に頼ることではなくって、宇宙のバックアップにつながっている「高い自己」、自分を今まで生かし続けてきた本当の自己に信をおくということなのです。
どうもわたしたちは小さいときから「自分のアタマでちゃんと考えなさい!」と教育をされてしまったがために、膨大な情報をもつ本当の自己とのつながりを断ってしまうようになりました。全部自分でやらなくちゃならない、人になんか頼っていはいけない、もっと逞しく強くならなくっちゃ・・・・これは、「自分ではどうにもできない」というか弱さを自覚しているがゆえに、「もっと自分ひとりでちゃんとしよう!」とまちがった自立へと突き進んでしまったのです。
お父さんもお母さんも、先生も、頼れる大人は、「自分でやらなくっていいんだよ。あなたには頼っていい存在が生まれる前からちゃんとついているんだから」なんて誰もほんとうのことは教えてくれなかったのですものね。
わたしたちには自由意志があるので、「自分でやっちゃう」人には「高い自己」はちょっかいを出しません。「ああ、自分でやりたいのですね。もっといいやり方、幸せになるやり方がありますが・・・。あなたがわたしに尋ねるまで、わたしは静かにしていましょう」と、どこかの過保護な親御さんのように決して強要することなく見守り続けます。
だから、「高い自己」に「尋ねる」ということを知らないと、わたしたちは一生、自分のちっちゃな脳ミソ、限界のある思考の中で限界のある現実を創りだして、それを維持するために必死で戦わなければならなくなります。
自分の人生をもっと安全でラクなものにするために、「高い自己」に甘える、仲良くするすべを学ばなければなりません。さて、それにはどうしたらいいのでしょうか?
(その3へ続く)
(その2より)
わたしたちは自分を保護し導いてくれる「高い存在としての自己」をお供にこの世を旅することになっているのですが、親や先生から「何でも自分でできるようになりなさい」「誰かに頼るような依存的な人になってはいけません」と教えられたがために、すっかり自分のガイドを見失い路頭に迷うような存在になってしまいました。
頼れるガイドを失ったという怖れから、がむしゃらに「自分で頑張る」という方向に進みます。とりあえず、「俺サマボート」という単独の自己を信じようとします。が、ほんとうは信じてなんかいないのです。信じられないから、その不信感を覆い隠そうとがむしゃらな行動に出てしまうのですね。
すると、自分の愛する人々の様子や変化に気がつくことができないほど自分を忙しくしてしまいます。それでいったい何をなしとげようとしているのでしょうか?何を証明しようとしているのでしょうか?そんなにまでして埋めなければならない、どんな穴を感じているのでしょうか?
今まで自分を生かしてくれた「すべての叡智とつながる高い自己」の存在を認められるようになると、おのずと風向きが変わります。その存在は自分よりも膨大な智恵と情報、自分のための先見の明があります。そんな存在が常に自分のためだけに心を砕き、働いてくれているとしたらどうでしょう?
そうなんです。わたしたちはその存在にこそ「頼っていいんです(頼らなくちゃいけないんです)」「自分でやらなくっていいんです(自分でやっちゃいけないんです)」「何も知らないことを認めて、教えてくださいと言っていいんです」。「助けてくれ〜。わたしには、どうにもできない」「どうしていいのかわからない」、そう言ったときはじめて、「はいはい、その言葉を待ってました!まかせてくださいね。ここにはあなたのために、どんな難問、要望にも答えられる用意がありますよ〜」とはじめて無限からあらゆる助けの手がやってくるのです。
しかし、自分をそこまで愛して導いてくれる存在はいったいいずこに?とまわりを見回してもなかなか気づくことはできません。
ポイントは、自分の今までのやり方を喜んで手放すこと。宇宙の無限なるバックアップにくらべたら、この自分には限界があるのです。そして、「自分では何もできません。このちっちゃい脳ミソではお手上げです」とさっさと白旗をかかげ、自分の小ささ、弱さを認めること。そして、「どうしたらいいでしょう?教えてください」と尋ね、「この件について助けてください」と助けを求めること。
ここがミドリムシの脳ミソを信じるのか、それとも宇宙の無限のバックアップとしての叡智を受け入れるのかの分かれ道なのです。たとえ宇宙の叡智を受け入れてたとしても、それはあなたの敗北にはなりません。ただ、自分でも気づいていなかったほんとうの自分の可能性の扉を開いただけなのです。
そう、とにかく自分のいつものパターンでやろうとする前に、「聞いてみる」ことなのです。お尋ねしたら、あとは答えを待ちます。尋ねなければ、答えを聞くことはありません。
答えは「必ず」来ます。でもそれは、天啓のようにやってくるわけではなく、たいていはすごくふつ〜です。「そんな気分になる」「家族、友人とのお喋りの中で答えのようなものが与えられる」「借りていた本の中にメッセージがある」というように、答えはいつもの生活の中にまぎれこんでいます。だから、いったんお尋ねしたり助けを求めたらいろいろなことに聞き耳をたてていなければなりません。
わたしにもこんなことがありました。あることで悩んでいて、その解決を自分の高い自己にお伺いをたてていたときのことです。「もう数日になるのに、全然返事がこないじゃない。なんか見捨てられてる気分だな〜」とそんなふうに感じながらスーパーで買い物をしていたときです。ふと、かかっていたBGMの一節が耳に入ってきました。特に聞こうとしたわけではなく、その一節だけが耳に残った感じだったのですが、それは
"From a distance, there is harmony....it's the hope of hopes.... God is watching us" * (遠くからみれば、そこにはハーモニーがある。それは希望そのもの。神さははいつだってわたしたちを見守っている。)という歌詞だったのです。
「!!」と思いましたよ。「ちゃんと見てるよ。そこにはハーモニーがあるのがわかる?」って。きっと、たくさんメッセージは来ていたのかもしれませんが、おそらく自分が閉じていたので気がつかなかったのでしょう。これを聞いて、スーパーの中でひとりほほえんでいるあやしい人になってしまいました。
俺サマボートの「自分を信じて」行動していると、まるでハムスターの回し車をこいでいるように、やたら怖れを原動力に走り続けることになります。自分をめちゃくちゃ信じられる瞬間もあるかもしれないし、まったく信じられない、と感じる瞬間もあるかもしれません。アップダウンが激しく、上に行ったり下に行ったりとその自信はとても不安定。だから、とにかく回し車を力いっぱいこぎ続け、止まるわけにはいかないのです。
そして、すべてを自分でやろうとすると、まわりと比べたり、戦ったり、うまくいくための策略が必要になります。常に自分の人生をコントロールしようとしているうちに、人をも自分の都合のいいようにコントロールできると勘違いしてしまい、気がついたら孤独な「お山の大将」になりかねません。
一方、「大きな力に支えられた自分」は、まず「大きな力」にお伺いをたてて、そこからインスピレーションがくるまでは動かないのです。やってくるインスピレーションは決して空回りさせるものではなく、少ないエネルギーで必要な達成が得られるものです。考え込んだり、むだな動きをしないし、不安も少ないので、エネルギーの消費量も少ない。そしてそこから動けば、さらにエネルギーを得られるというオマケつき。
「大きな力に支えられている自分」は、あくせくすることがなくなります。なぜなら、根底には「わたしの心臓は自分で動かしているわけじゃないけれど、勝手に動いてきょうまで無事に生かされてきた。ここまで生きてきたってことは、まあ、どうなろうとも、どちみちわたしは支えられているから大丈夫なのだ」というお気楽思考が生まれるからです。大きな力がいちばんよい方向に導いてくれるという信頼、結局は自分にとってベストになるという安心感があります。
そして、決定的な違いは、「自分を頼りにしている」場合は、どこかで不安や無気力、ひどくするとウツにつきあたりますが、これは大もとのほんとうの自分とのつながりが切れているがゆえの不安定感。家なき子な気分なのです。「大きな力を支えにしている」場合は、ハデでなないけれど静かな安定感、そしてそれに従えばもっとエネルギーがチャージされるような、とっても省エネな感覚です。これは宇宙に根をはって、つながっている安定感なのでしょう。
だから、大海原で波に翻弄されるボートのような自己を信じるのではなくって、「大きな力に支えられる自己」、これは大海原の上空を大きな力に導かれながゆうゆうと渡ってゆく渡り鳥のような感覚です。
自分のすべてを包み込み、いつも自分を思いやって幸せを願ってくれている力に支えられ、そこから自信をもらっていると感じるとき、自分のコンディションにかかわらず静かに自分を「信じ続ける」ことが可能になります。
そして、その大きな力に心を開いて自分をあけ渡せばあけ渡すほど、その力は自分の人生にどんどん関与してきてくれるのだと感じます。
問題が起きて、行き詰まっているときには、いつでも「もっといいやり方」へのご招待状、「もっと幸せな自分」へのお誘いがきているときです。そして、忘れかけていた「高い自己による本当の自信」を思い出さなければならないときかもしれません。そんなときには、「俺サマボート」をなげすてて、すぐに白旗をかかげてお尋ねしてしまいましょう。お気楽な「すべておまかせコース」信頼してのってしまいましょう♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)
* From a distance
ここしばらく、騒音に悩まされておりました。
それは外からやってくるもので、まるでバイクの警報装置が作動しちゃったようなうるささ。それも、24時間!連日!どうやら、このあたらりのビルの空調に問題がありそうです。
で、さっそく音のアタリをつけてそのビルの管理の方と話したのですが週末のこともあり業者と連絡がとれず、しばし苦痛な音とともに共存することを強いられました。音は日ごとに騒々しさを増し、頭痛と肩こりの原因に。しかし後日わかったことは、アタリをつけたビルにはなんら問題がなかったこと(残念!)。
ここでハタと気がついたのは、今年の二月にも上階の物音に悩まされていた、ということ。なぜか、美空ひばりとフォークソングの大音響。あまり上階の音は聞こえないのですが、自室でかけているようなうるささ。これは管理人さんにクレームを出して無事解決したのですが、「音」に関するトラブルが続いているな〜、ということ。
すべてのことは外界に現象として現れる前に、「ココロ」の中で形づくられます。つまり、うるさいのはわたしの「ココロ」。自分の「ココロ」が騒音をたてている、ということなのです。あるいは、混乱しているとでもいいましょうか。
はい、思い当たります。今年に入って、今まで信じてきた価値観がまっさかさまになるような大きな気づきがあって、その考え方にまだなじんでいないのです。だから、ものごとが起るたびに新しい解釈に手間取り、ちょっと混乱をきたしていたのです。
「ココロ」から起きてきていることを行動レベルだけで解決しようとしても、これは解決をみずに必ず繰り返されます。そう、二月のときも、すみやかに管理人さんにクレームを出して、自分が被害者になることで「こんなこと起こしているのは、わたしなんかじゃありませ〜ん。この騒音は明らかにわたしの外からやってきているでしょ。ああ〜、うるさくされて、なんて可哀想なわたし」というお得意のパターンにはまって誰かを悪ものにして自分が可哀想ないい人のフリをして悦に入っていたわけです。
でも、学びがないところはちゃんと再度レッスンがやってくるのですよね。「はい、もう一回、被害者になるのをやめて処理してみよ〜。自分で創ったことの責任をとってみようね〜」というわけです。
「はいはい、わかりましたよ〜」と自分のココロが騒音をたてまくっている張本人であることを認め、外に聞こえてくる音はたんに自分の心の状態の投影なのだ、と理解し、ちゃんと叫んでいるココロをなだめてあげましたよ。
で、そのあとに必要な行動がくるのです。この順番を間違ってはいけません。「すべてのことは自分のココロが創り出している」という責任をちゃんととってから、起こすべき物理的な行動に出るわけです。
おもしろいもので裏道を歩いていたら、その「音」のほんとうの源を発見!(ちゃんとした順序をわきまえているときには、次のステップを見つけるのも早い!)
すぐにそのビルに入って、管理の方とお話しをしました。すると、以前から空調のベルトが切れていて修理をお願いしていたのですが、ご迷惑をおかけしてすみません・・・とちゃんと認識していらっしゃり、話しが簡単でした。
戻ってみたら、ちゃんと「音」はやんでいましたよ。
どんなことが外からやってこようと、たとえそれがどう考えても自分とは関係なさそうに見えても、「自分が知覚している」ということは自分が創り出した自分の宇宙の中で起きているのですね。だから、「自分で責任をとる」ことがまずはじめに求められます。
そして、物理的な共有されてる世界にあるものは、その後「事情を話し合う」「改善をお願いする」という現実のアクションも必要になってきます。
なんにしても「自分が体験すること」にはいつだって、自分に責任があるのですよね。すべては「自分のココロから」!!キモに命じて、忘れないようにしたいものです。
今おもうと、なぜ他の人たちが何も言わなかったのか?とも思うのですが、あくまでもこれは「わたしの」レッスンなのでした。(他の人は聞こえてなかったりして・・・汗。)
PS ああ〜、静かさがありがた〜い!
最近いくつか寄せられたご相談は、「学校を休みがちなこどもと、そのことに関してギクシャクする夫と妻」という問題。
ハイ、最近よく耳にする状況ですね。
ここには二つの問題があります。
「学校に行かないこどもをどのように扱ったらいいのか」ということと、「夫婦でのこどもに対する考え方、接し方に違いがあり、混乱が生じる」ということ。
親は自分のこどもが学校に行けないと、なんとかしてテコでも「行かせる」ことに苦心します。なぜなら、「学校に行けないこども=問題児」という考えがあるからです。(しかし学校システムを冷静にながめてみると、かなり不思議なトコロですよ〜、学校って。一日中同じ方向を向いてちんまりとハコの中に坐らされ、みんなまったく同じことをするよう強制され、同じようにできると「いい子」と褒め讃えられ、しないと「わるい子」のレッテルを貼られる・・・かなり奇妙なトコロです。みんなよくぞ卒業したな〜とも思えてきます。)
しかし、「学校に行かない」ことをもうちょっと引きの目線でみてみると、実際「いいこと」でも「わるいこと」でもなくって、ただシンプルに「行かないのだ」という事実があるだけなのです。もしも、そこに特別な意味あいがあるように感じられるならば、おそらくそれは親の書いた「こどもの筋書き(脚本)」にどれだけあっているか、はずれているかによる査定にすぎません。「みんながやっていることをできない子」=「欠陥がある子」というレッテルをはってしまっているのかもしれません。
しかし、ちゃんと学校に行けたからといって、すごい人になるわけでもありません。有名な話しですが、エジソンもアインシュタインもめちゃくちゃ変わったこどもで、どちらかというと問題児だったそうな。
だからと言って「学校に行かない」こどもをほっておきなさい、ということとは違うのです。まず、それが「いいことだ」「わるいことだ」という裁きの目線をストップさせる必要があります。なぜなら、こどもは「裁かれている」「親の筋書きにどれだけあっているかで自分の価値を測られる」と感じるのがいちばんつらいからです。
「いい」とか「わるい」を手放したときに、こどもは本当に安心して自分のココロを見せることができるようになります。そうですよね。「さあ、あなたのココロをみせてごらんなさい。わたしがすぐに「いい」か「わるい」か言ってあげるから」・・・なんて態度だったら、何も正直に話すこともできません。
こどもは感じているのです。親が勝手に「自分に対する理想の筋書き」を作っていて、それに沿って歩むべきだとあたりまえに信じている、ということを。「何も期待していない」と言いつつも、その筋書きからはみ出そうものなら、「とり乱す」「見捨てるわよ!というそぶりを見せる」「悲しんでいるところを見せる」など、あらゆる手を使ってこどもに罪悪感を持たせ、そこからはずれることをちょっとも許さないのです。
学校の友人との軋轢に悩んでいたり、うまく結果が出せないあれこれについて悩んでいるこどもにとって、「あ〜だ」「こ〜だ」の大人目線のアドバイスは何の癒しにも解決にもなりません。
自分がこどもの頃、落ち込んでいたときのことを思い出してみてください。「ちゃんとする」「筋書きに沿って生きる」ことだけを気にしている親の対応に「全然、わかってない」と思ったことがあるはずです。おそらくその時に欲しかったのは、「そのまま」の自分を受けとめて、包み込んでくれる安心感。すぐに立ち直る自分を期待してアドバイスやら手を貸されるよりは、何が起っているのかがわからなくってもただ受けとめて欲しかったはずです。
ただ無条件に、何が起っていようとも、その人の存在にOKを出してくれる、受けとめてくれる、どんな状態であろうと味方でいてくれる、そんな存在が一人でもいてくれると、わたしたちは心の中から前向きなエネルギーがわき出してきて、「よし!また頑張るか!」と前を向く気持ちになれるのです。
そうお話しすると、「え?だったら、こどもにやってますよ」とおっしゃる親御さんが多いことも事実です。
本当に「その子のため」のサポートするとは、どういうことなのでしょうか?
(その2へつづく)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)
(その1より)
「学校に行かないこどもを、なんとか行かせたい!」というのは、こどもを思ってというよりは、じつは自分の満足を優先させたい、安心を得たいという親本位の考えです。なぜなら、こどもは学校に行けない=行きたくない、のが事実なのです。
そのこどもに、親は「どうして?」「そんなんじゃダメでしょ?」と追求の手をゆるめません。こどもはその追求に反発します。
まずしなければならないのは、こどもを「理解して受けとめる」こと。
理解することの基本は「無条件の受容」です。こどもが投げてきた球に対して「白」「黒」つけずに、そのまま受けとって、同じ球を投げ返してあげること。つまり、「学校に行きたくない」というこどもに、いい、とか、わるい、という価値判断は手放して、「そっか〜、行きたくないんだね」と受けとめて、その子とひとつになってどんな気持ちなのかを理解しようとすること。
不思議なもので、この「無条件の受容」があるとホッとするせいか、特別道を示してもらわなくても自分の中のポジティブな面が顔を出してくるのですね。何も間違っていない、という安心感からココロの自然治癒力が生まれるのです。
実際はこの「受容」がすっぽり抜けて、「早く正気を取り戻して、わたしたちの望む筋書きを生きるいい子でいでちょうだいね」というコントロールと隠された意図からこどもを「どうにかしよう」とあせってしまいます。
すると、こどもは敏感にそれに反応します。(ことばよりも、エネルギーのほうが雄弁に本当の意図を語ります。)こどもは、「その勝手な決めつけがいやなんだよ!」「自分のことを真剣に考えていない」と反発するのです。ある意味、親を冷静に試しているところさえあります。「学校へ行けない、期待に応えない自分。それでも、愛してくれているのか」と。
だから、親はまず「学校には行くべき」とか「この子はこう生きるべき」という決めつけを手放して、その子の気持ちとひとつになって感じることからはじめなくてはなりません。価値判断のないまっさらなところからこどもと繋がって受け入れ、リード、サポートをします。様々なことが起る社会(学校)の中で、親こそが「何が起っても、そのままのあなたでいいのよ」とつねにOKを出しげあげる人生のセイフティーネットになってあげることが大切なのです。
学校や仕事に行けない、引きこもってしまうこどもが増え続けている昨今、こどものココロの根っこが今ひとつしかりとはっていないのを感じます。
幼児が親から離れて保育園や幼稚園という社会に出てゆくとき、それまでに十分甘えることを認められて育ってきたこどもは、安心して大胆な冒険をすることができるようになります。何が起っても、安心して戻る場所がある、助けてくれる人がいる、そのままの自分にOKを出してくれる人がいる、という安心感が自分に対する自信へとつながっているのです。だから安定して新しいチャレンジができるし、失敗しても大丈夫と感じることができます。
もし幼児期にそのように十分に甘えたり完全に受容される経験が欠落していると、自分の存在の根っこの部分がゆらゆらしたまま大きくなってしいます。すると、どこか不安で、安定した感覚をもって冒険したり、挑戦したり、失敗することもできなくなります。その不安感が頂点に達すると、自分の内側にこもるようになってしまい、引きこもりを生み出してしまいます。
あらら〜、わたしちょっと育て方、失敗しちゃったかも・・・・という方。もしそうなら、今からでも大丈夫。「どんなあなたでも、あなたへの愛情は変わらないよ」ということを態度と言葉でしっかりと伝えてあげてください。こどもの言葉を判断することなく、そのままを受けとめる練習をしてください。もしそれをするのがむずかしかったり、ためらったりしてしまうのなら、もしかすると自分の中にこどもに対する「秘密の脚本」があって、その脚本をまだ手放せずにいるのかもしれません。
何よりも大切なことは、「こう生きるべき」「こうするべき」という自分が当然に思っている「こどもに対する筋書き」を手放すことです。「こども自身が書こうとしている筋書き」を尊重してあげること。たとえそれが未熟に見えたり、価値がなく思えても、大切にして、さらによい案を提案しながら常によりそっていてあげることです。
どうしても、わたしたちは自分が生きてきたように(つまり、親が自分にしたように)こどもにしてしまいます。「いえ、わたしは親のやり方が許せなかったから、絶対こどもには同じことはしていません!」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、わたしたちは「されたこと」や「今、していること」はあまりにも自分と一体化しすぎているため、自分が何をしているのか冷静に眺めることができないのが事実です。一体化しているものは、自分にとってあたりまえなのです。しかしハタから見ると、「あらら、根本的には同じかもよ〜」というように見えます。
そして、この親から受けた教育の違いで、「こどもに対する接し方」で夫婦が対立することになります。
夫と妻のそれぞれの教育方針。こどもは混乱しそうですね。こどもの問題を解決しなければならないのに、夫婦で対立したらさらに困ったことに・・・。さて、どうしましょう?次は夫婦の問題です。
(その3につづく)
最近、毎日シコシコ色えんぴつをナイフで削っています。
ミニ鉛筆削りだとすぐ芯が折れちゃう。そうでなくっても、力いっぱいぐりぐり色をぬるのでボキボキ折れるし。
ぐりぐりボキボキするのはわたしではなくって、お子さん、クライアントさんです。こども向けのセラピーに使っているのです。
大人はことばで表現してスッキリするところがあるけれど、こどもの場合、「どんな気持ち?」と聞いても、「え〜・・・わかんない」と言われるか、黙られてしまいます。
そこで「絵」で表現するアートセラピー登場。
とってもかんたん、そして効果ばつぐん!誰にでも使えます。やり方はこんなふう・・・。
もともと潜在意識の中は言語というよりもイメージ優勢の世界なので、ダイレクトに絵と色で表現してもらうことによりネガティブな感情や信念の解放を促すことができます。
そういえば、昨晩NHKの番組で企画案などを絵で表現しているという会社が紹介されていました。自分の考えを一枚の絵にしてみると、文字を並べるよりも広がりのある表現ができ、自分でも新しい気づきを得ることができるということでした。
お子さんはたいてい親に連れられてセラピーにきた、という意識が強く、「自分が修正されなければならない」ことに不満を抱いています(ほんとうは修正ではなくて、視点の転換なのですが...)。セラピストは親とグルになっている敵にされます。
そういう場合はノーテンキに、「○○ちゃ〜ん、一緒にお絵描きしよ〜♪」と誘ってみます。すると、「え〜、下手だから・・・」と言いつつもたいてい嬉しそうにのってくれます。
「ねぇねぇ、○○ちゃん、学校ちょっとお休みしてるんだって?行けない日って、身体にどんな感じがあるの?」と遊びにかこつけて、すかさず身体の感覚から尋ねてみます。
すると、「う〜ん、ここんとこ(胸と喉をさして)になにかある感じ」というお答え。「あそう、それってどんなものでできてるの?」とさらに身体の中の感覚の大きさ、重さ、硬さ、色、質感、密度などを尋ねます。
身体の中の「それ」をよ〜く感じてもらいながら特定したら、「じゃあさ〜、それ、そっくり紙の上に移してみてよ。紙の上にお引っ越しだよ。色鉛筆で描くとどうなる?」とうながすと、まったく躊躇なく描きすすめてくれます。
たまたま紫色が折れてたら、「どうしても紫じゃなくっちゃダメなの」と言われ、あせって削るわたし。削って渡すと、ぐりぐり力いっぱい塗っているうちにポキっ!また、あせってわたしが削っていると、「折れた芯で描くよ」と、ちっちゃい芯で必死に描いています。(ちゃんと自分の気持ちの色は決まっていて、それは絶対ゆずれないのです。それにこの力の入れようからも、紫のエネルギーのパワーが伝わります。)
描きあがったらちょっと絵の説明をしてもらいます。びっくりすることに、ひとつひとつにちゃんとした細かい意味があのです。自分の気持ちの細部までを表現しています。(この説明で何が起きているのかは、だいたいつかめます。)
つぎに、わたしが絵のメインの部分にマイクを向ける仕草をして、絵にインタビューして語ってもらうのです。
「ねえねえ、この人(絵のある部分)、何て言ってる?何困ってるの?」「どうして欲しいのかな?」と絵にマイクを向けると、○○ちゃんが絵になりきって答えてくれます。そうなのです、自分のことじゃないと、あんがいすらすら正直な気持ちを語ってくれます。(「絵」じゃなくって、ぬいぐるみを使うこともあります。つまり、こどもと同じ悩みを持っているぬいぐるみにインタビューするのです。)
そして本人である○○ちゃんに、この困っている人(絵のある部分)に対してアドバイスしてもらいます。「ねえねえ、○○ちゃん、この人、こうこうこうで学校行けないだって。どうしてあげたらいいと思う?」って。すると、本当は自分がして欲しいこと、あるいはして欲しくても気づかなかったことを語りはじめます。
自分のことだと気持ちも解決方法も思いつかないけれど、あんがい他人のことだとわかるものです。これは大人でも同じですね。ちゃんと解決策は自分の中にあるのです。
おおかた解決方法を語ってもらったら、「じゃあさ〜、その解決策使って、さっきの問題が解決したらさ〜、この絵はどんなふうに変わるんだろ?」
そして、もう一枚新たに描いてもらいます。さっきまで紫、黒、茶色のオンパレードだったのに、今度はピンクや水色、黄色などのラブリーで暖かい世界が描きだされます。
わお!自分で提案した解決策でここまで明るく自由になれるんだ!とびっくりします。
描き終わる頃には、本人も気持ちが軽くなっています。
もちろん、これはたんに描いて気分転換になるだけじゃなくって、無意識のうちに潜在意識の中の怖れを解放することに役立っているし、また心の方向転換を自然なかたちで行っているのです。
これは、別にお子ちゃま向けのセラピーでもなんでもなくって、大人にもとっても有効。わたしもお絵描き大好きなので、たまにやっています。
みなさまも、「な〜んかもやもやするなぁ」「なんだか、やる気でないよ」という原因がはっきりしない落ち込みや、「あの上司、あったまにきた!」なんていうように感情が高ぶっているときなどに、是非、気軽に紙を用意して、ぐりぐりと表現してみてくださいね。
うまく描く必要はありません。ただ描きたいままに。楽しくって簡単だけど、すっきり感、かなりありますよ〜。
セラピーでクライアントさんとお話していて感じるのは、「人生、順風満帆のはずだったのに、あるときから坂を転がり落ちるように人生が暗転してしまった」というご相談が多いこと。
いったん悪くなりはじめるとどうやってもその流れを止められず、気づいてみたらすべてが崩壊するほど悲惨になっていたというお悩み。何事もなくうまくいっていた人ほど、この足をすくわれるパターンにはまってしまうことがあります。
なんでこうなっちゃうんでしょうか。
今、まさにオリンピックたけなわですが、柔道金メダリストの松本薫選手。みなさんもお感じになったかもしれませんが、試合前からすでに「金メダルは彼女のものだな」という気迫を感じましたね。
だって彼女にはこれっぽっちも、「怖れ」とか「迷い」というものがないのですから。彼女の鋭いまなざしはちょっともずれることなく、「ピカピカのメダル」だけに照準が合わさっていたのです。他の思いが分け入るスキを与えない、100%の純粋さで。
じつは、不安とか怖れというものは、わたしたちの足をすくい、持てる「力」を確実に奪いとります。まったく別人と思えるほどにまで変えてしまうことも・・・。オリンピックでは、心のすきまに入りこむこの不安とか怖れが、勝負の行方をまったくわからないものにしていますよね。
わたしたちが確実にできることをできなくさせてしまい、また潜在的に持っているパワーさえもそぎ落としてしまうのが、まさに「怖れ」です。
それに、困ったことに「希望」や「前向きな気持ち」よりも、「怖れ」のパワーの方が格段にインパクトが強く、感じやすいようにできているのもわたしたち。
うまくいっているときには、その自信でさらに上向きな人生を創ってゆくことができるのですが、あるときに、ふと・・・・自分の人生にさしているちょとした暗い影を見つけてしまい、そこに注意を奪われ、「こんなんで大丈夫なんだろうか?」あるいは「怖い」「不安だ」という思いが頭をかすめるやいなや、あっというまに今までとは違った人生ルートにひきずりこまれてしまいます。そして、不安は不安を呼ぶので、いったんはまりこむとそこの環の中からなかなか抜け出せません。そちらへズルズル引きこまれてしまいます。
そう、わたしたちは自分の注意が向かったものを増殖させてしまうというココロの力があるのです。うまくいっているときにはどんどん上向きな人生を創りだせるのですが、いったん小さな不安や怖れにとりつかれると、あっというまにそこに注意が固定してそれを創りだすことになり、必ずや不安や怖れの証拠をもっと見つけるはめになってしまいます。
変化に対して不安や怖れを感じるのは、わたしたちが洞窟に住んでいた時代に自分よりも大きな動物に食べられずにサバイバルするための安全装置として身につけた本能であったわけですが、今でもその機能は「ちょっとした変化」を見つけてはスイッチが入り、不安な思いが暴走してしまい、その不安から目が離せないために自分の人生の流れを下向きに変えてしまいます。そしてその不安のほとんどは、正しい不安ではありません。かならず得体の知れない、大きな恐怖となって自分に襲いかかります。
今や、恐竜もクマもオオカミも襲ってこない環境にいるのですから、不安や怖れはあまり、というか全然役にたたない時代です。だから、自動的にその感情が出て来たら、気づいて意識化することによって、思いの方向を自分で向け変えてあげなくなくてはならないのですね。「この怖れは古代にサバイバルしていたときの名残だ。だから正しい怖れではないし、怖れる理由もないんだ。それに、これはそんなに怖れることでもない」と。
今朝のTVのインタビューで松本選手が語っていたのは、「闘争心をおさえるのが大変だ」ということと、(過去に、鼻が折れていても麻酔をしないで試合に望んだことに)「生きているんですから、(鼻が折れてても)別にいいんです!」と。
まさに松本選手が言っていたように「死んじゃうわけじゃないし、とりあえず生きている」というのは、かなり力になる開き直りであり、大きな励ましになりますよね。
自分の人生の流れの中でちょっと暗いかげがさして心配になるとき、そこにとらわれてドップリと引きずりこまれてしまうのではなく、冷静に「別に死んじゃうさけじゃないし」「とりあえず生きてるし」と松本選手流につぶやくというのも、不安や怖れをやりすごして、流れや方向をかえずに進んでゆくひとつのよい方法かもしれません。
松本選手のような鋭いまなざしで、自分の欲しいものをしっかりと捕らえたら、それをどんどん大きくして、それだけを見め続ける・・・「でも・・・」「だって・・・」「「だから・・・」という言葉が入りこむ余地がまったくないとき、わたしたちはしっかりと欲しいものをつかみ取ることができるのですね。
「どうしようもない夫をどうにかしてください」という50代の女性からのご相談。
「どのように、どうしようもないのですか?」とお尋ねすると、「いっつもグ〜タラしている」「ぜんぜん成長しようとする気がない」と。
なるほど〜・・・奥さまから見ると、どうしようもなく感じるのかもしれませんが、おそらくご本人にインタビューしたら「いたって、わたしらしく生きています」と、生きたいように生きているとおっしゃるかもしれません。つまり、だんなさまが奥さまの理想に沿っていないだけであって、決して何かが間違っているわけではありません。
このようにご相談のうちの何割りかは、「こどもをどうにかしたい」「妻を変えたい」「恋人のここがいや」とご相談にいらした本人の問題ではないことがあります。
基本的に、セラピーはご本人のものです。なぜなら、「変わりたい」と思わない人をどうにかすることは地球を逆回転させるぐらい大変なことなのです。(一方、「本人が心から変わりたい」と思っているときには、鬼に金棒!心の底から望むことは、どこまでも可能性を切り開いていくことができます。)
そうなんですね。モノゴトにしろヒトにしろ、自分の意向に沿っていないとき、わたしたちは「これはおかしい!」とばかりに、それを自分の望みにあうように変えようと挑みかかります。
しかし、たいてい「事実」というものには抗えなくなります。「事実」とはつまり、年がら年じゅう笹を食べてごろごろしているパンダに、サルのような機敏さをもとめても所詮ムリなのです。パンダはパンダ、いくら教育しようとしても努力させようとも、身軽なサルにはなるはずもなく・・・。
つまり、だんなさんはもとからパンダだったわけです。それをどこで勘違いしたのか、理想をかかげてしまったのか、他の動物だと思いこんでしまった。でも、パンダはパンダにしかなれない。いくら口厳しく言われても、教育されても。だから「事実」は「事実」と認めて、あきらめてくださいな、ということになります。
もともとそうであるものにいくら文句を言っても、逆ギレされるか無視されるのがオチなのですね。エネルギーを使ったわりには思い通りになることはなく、「パンダじゃない、サルのはずだ!」と叫べば叫ぶほど自分が苦しくなります。
それよりも、「そうよね。あなたはパンダなのよね。そう、そう、それでいいのよ」と、現状をあっさりと受け入れてあげたほうが「自己変革」への近道となります。そうなんです。誰からも「変われ!」とプレッシャーをかけられず、完璧に存在を肯定されたとき、わたしたちは「もっとよくなっちゃおうかな!」と上を目指す勇気とココロの余裕が生まれます。
現代のカウンセリングの基礎を築いたC・ロジャースも言っているように、人にはもともと自己実現しようとする(もっとよくなろうとする)心の働きが備わっていて、全面的に現在の自分を受け入れられたときにこそ、その力がもっとも活性化すると説いています。それは、何ひとつジャッジ(価値判断)されることなく、そのままでぜんぜんオッケーだよ〜と言ってもらうこと。「あなたであることが最高!」と、全部の注意を向けて見守ってもらうこと。
「パンダ」状態を絶賛されることが、そのだんなさまを変えるカギなのです。
さて、なぜにわたしたちはこうも人に干渉して、変えたいと思ってしまうのでしょうか?
おそらく、じゅうぶん昔からパンダだった夫の真実を見ようとせずに、なぜに他の動物を期待してしまうのでしょう?
そもそも、わたしたちは予想外なことが大嫌い。人が自分の予想したような行動、言動をとってくれないと、怖れを感じる生き物なのです。予想外なことに対処できなければ、生存をおびやかされるかもしれません。その怖れのせいで、相手が好き勝手しないようにコントロールしておかなくちゃ!と感じ、それが人間関係の軋轢になります。
わたしたちは自分の安全確保のために、「わたしが心地よくなるように、あなたはわたしが思ったような生き方をすべきだ」と迫ります。決して、相手の「そのまま」の姿をよしとはしません。自分のモノサシをふりまわし、「ああなるべきだ!こうなるべきだ!」と迫ってきます。パンダがパンダでいることを許さないのです。
そしてもう一つの理由としては、「自分の人生」がつまらなく感じていると、他の人の人生にちょっかいを出すことに生きがいを見い出してしまいます。ほんとうは自分の人生をどうにかしなくちゃいけないのですが、自分の人生の違和感を他の人のせいにして、他人を正すことにやっきになってしまいます。ホントは他人の人生に頭をつっこめばつっこむほど、さらに自分がむなしくなるという悪循環にはまってしまっていることに気がつかないのです。
何よりも、他人を自分の思いどおりにコントロールしようとすることほどエネルギーを消費することはありません。戦いを挑めば挑むほど、相手は強者になってゆきます。相手を正すことにすべてのエネルギーを使い果たし、自分の未来を創り出すエネルギーはちょっとも残っていない状態となります。そして、相手の人生に干渉すればするほど、自分の人生はすっかりお留守となってさらに寂しくなるばかり。
結局、「何が苦しみを生み出すのか」というと、(決定的に)「そうであるもの」を「そうでない」と信じようとするときです。「事実」をそうと認めず、別のものに変えようとする努力だからです。パンダはパンダ以外のものにはなれないし、ごろごろしているだんなさまはごろごろしている以外の何かにはなりえないのです。本人が変わりたい!と思ったときは別ですが。(本当のところ、問題はだんなさんではなくって、「事実を許せない」おくさま自身がセラピーの焦点になってしまうのですね。汗)
「事実」を受け入れる潔さは苦しみから解放してくれます。
それに、人はそもそも「自分が生きたいように生きる権利」があるのです。
わたしも思いあたります。自分に対してもやってしまうのです。たとえば、何度こころを決めてもぜんぜん早起きできない自分。「一時間半早く起きて、あれしてこれして」と思いつつも、結局はいつもの時間。なんで早起きできないの〜?なんで決めたことが守れないの〜?と何度もヘコみましたが、堪忍して「いつもどおり に目覚める自分」をよしとして認めることにしました。「自分がいつも起きる時間が、まさにわたしが起きる時間なんだ」と。
で、ちょっとでも早起きできた日は賞賛してあげたり、ご褒美をあげることにしたのです。すると責めたり、自己嫌悪におちいっていたときよりも、だんだん早起きの回数が増えてきました。「〜できない」と思うよりも、できたときに褒めてあげるほうが、よっぽど目標達成が簡単になりましたよ。事実を心地よく認めると、その出発点から気持ちよくスタートをきれる感じです。
ロジャーズが言うように、肯定されてこそ人間は変わることができるのですね〜。
そして他人の人生に批判的になっているときには、じつは同じ分だけ自分に対しても批判的になっているものです。いつだって人にやっていることは、自分にやってしまっていることの「目くらまし」なのですね。だから、まずは自分に対して、現状を認めてやさしい目線をもつこと。自分にやさしく。そうすると、夫やまわりに対しても自然とやさしい目線を持てるようになることでしょう。。
ゲシュタルト心理学にこんな言葉があります。
「ゲシュタルトの祈り」
私は私のために生きる
あなたはあなたのために生きる
私はあなたの期待に応えるために、この世にいるのではない
あなたは私の期待に応えるために、この世にいるのではない
あなたはあなた、私は私
もし偶然に出会うことがあれば、それは素晴らしいことだ
たとえ出会うことがなくても、それはそれで素晴らしいこと
自分のココロを心地よく尊重できるとき、わたしたちはまわりにある事実も心地よくありのままに尊重できるようになるのですね。(^_-)v
わたしのお気に入りの心理学理論のひとつに、「計画された偶然性理論(Planned Happenstance Theory)」というのがあります。
これはどういう理論か、というと、人の「成功」とか「幸せ」に関して、「偶然の出来事」に着目しているのです。心理学と「偶然の出来事」って、ちょっと不思議な組み合わせのように感じますか?でもユングの時代から、心理学では物事の「意味のある偶然」「必然的な偶然」に着目してきました。
あるとき、達成したい目標に向かって努力していたわたしは、自分にしてはそれなりに日々頑張っていたのです。しかし、やっても、やっても、やったわりには形にならない、いい方向にいかない、ということが続き、そのうち「もう努力したって、何の結果もついてこないじゃない!」としびれを切らしそうになったときに、この理論に出会いました。
そこには、「成功というのは、じつは努力や才能に比例するのではなく、もっと別のことに左右されている。別のこととは、生活の中でおこる、“偶然の出来事”のこと。努力によって成し遂げられた成功はおおよそ全体の20%であり、残りの80%は偶然という出来事に導かれている」ということでした。
実際に社会的な成功をおさめている人たちに調査し統計をとったところ、彼らの人生のターニングポイントは努力でもたらされたものではなく、生活の中で巡りくる偶然の出来事だったそうな。つまり「たまたま○○さんに出会ったから」「たまたま△△に行ったから」「たまたま××しちゃって」など。
これを知って、「そ〜か、そういうこと?」と妙に納得したわたし。思いあたるフシがいろいろありました。
え〜、努力はいらないの?と思われるかもしれませんが、そういうわけでもありません。妥当な努力をして、そのうえ「偶然の出来事」に心を開いていることが大切なのです。犬もあるかなければ棒にあたりもしないので、目標を設定し行動しつつも、この偶然的な出来事が起るようにいろいろなことに心を開いていること。だからこそ、何もしないわけではない「計画された偶然」なのです。
この理論を提唱したクルンポルツ博士は、彼自身はもともと心理学の研究者になるつもりは毛頭なく、趣味でテニスをやりはじめたときに、そのテニスの先生が「たまたま」心理学者だったそうな。そこから、彼は心理学に開眼してゆきます。そして、世界的に有名な心理学者としての天職を手にしたのでした。
そういえば、数百ものヒット曲を生んだ作詞家の安井かずみさんも、こんなことを話していましたっけ。学生の頃にピアノの楽譜を買いに行って、係の人が在庫を調べに行っている間に応接室で待たされたそうな。そこで数人のおじさんたちが洋楽の訳詞をしながら苦しんでいて、フランス語と英語に堪能だった彼女が「そこは、こんな言葉がよろしいんじゃなくって?」と「たまたま」口をはさんでしまったことから、「君、これも訳せる?」ってなことになり、訳詞や作詞をスタート。画家をめざしていた彼女はいつのまにか売れっ子の作詞家になっていたのでした。
アーティストにしろ、ミュージシャンにしろ、そんな「たまたま・・・」という話しを、よく耳にします。
思いあたりませんか?ご自分の人生にも。自分はまったく意図していなかったけれど、「たまたま」ある人、ある出来事との出会いから、自分の人生が方向づけられ、導かれていくようになったこと。
この理論からすると、あまりにガチガチに自分の人生の設計図を描きすぎるのはよくないということになります。
なぜなら、人はいろいろなこととの出会いによって日々変化・成長を続けているので、じつは昨日の自分ときょうの自分はもう違っていて、昨日の目標もきょうには古くなっていることがあります。あまりにも長期の目標をたてると、じつはもう興味がなくなてしまった目標に引きずりまわされることになります。それに、ガチガチの目標は、少しでもそこに沿っていない自分を発見すると「自己イメージ」が低下してしまうことに。目標を達成できない自分に「挫折感」を感じるはめになるかもしれません。
だから、大まかな行き先である目標は決めつつも、日々自分の目の前にぶらさがってくる出来事や人に対してオープンな興味を持ち、それを取り入れつつ柔軟に変化してゆくことが大切です。そのようにしてわたしたちは、どうやら自分の「使命」ともいえるものにおのずと導かれてゆくようにも感じます。
クルンボルツ先生いわく、「たまたま」の出来事を「プランド・ハプンスタンス(計画された偶然)」に変え、自分の人生に流れを作っていくためには次のことが役に立つと言っています。
1、好奇心・・・いろいろなことに興味をもてるフレッシュな心
2、粘り強さ・・・自分が納得ができるまでめげない、決してあきらめない強さ
3、柔軟榮・・・こだわりを持ちすぎないで、こっちがダメならあっちな態度
4、楽観性・・・のーてんきさ
5、リスクをとれる・・・ターニングポイントはリスクの連続、ダメもとでやってみること
もともと、アタマで計画したり考えたりしていることって、わたしたちの能力や可能性のほんの3%にしか満たない力で行われています。だから、あまりアタマに頼りすぎるよりも、神さまが目の前に転がしてくれる物ごと(じつはチャンスであり、ターニングポイント)にしっかり心を開いて、それについてゆけることが、楽しく、自分らしい人生になる秘訣なのかもしれません。
このように偶然の出来事に導かれながら、わたしたちの人生って自分が生まれてくる前に決めてきた人生の青写真(使命)に向かって導かれてゆくのかもしれません。
柔軟であること、好奇心旺盛であること、わくわくできること、なんでも挑戦しちゃうこと・・・・プランド・ハプンスタンスを手にするためには、いつまでも「お子ちゃま」の心を失わないでいることが大切なようですね。
すっかり秋が深まってきました。
それと同時に、今週末に向かって忙しいったら!
やることが山のようにあるのに、あっというまに一週間!その反面、一週間前のことは遥かいにしえにさえ感じるのです。どうなちゃっているのか?
その昔、こんなことを考えたことがありました。いつもいろいろなことに熱中していると時間が飛ぶようにすぎてしまって、ふと気がついたときにはおばーちゃんでゲームオーバー、人生終わりになっているんじゃないかと。
そこで、よし、ちょっと時間の外側に出ていよう!と思ったわけです。
時間の外側に出るって、自分の体験と自分の意識がちょっとずれていて、客観的に外から自分をながめているような感じ。カメラが引きになったように自分を見ているというか。熱中しすぎているときには、自分と物事とがあまりに一体化しすぎて、自分も時間も何もかもなくなっちゃう感じがしたので、外から眺めながら自分がここにいる感じを感じてみようと・・・。あはは、ど〜ゆ〜理論?(^。^;
しかし、これをすると人生、ぜんぜんおもしろくありません。
何事にも動じないというメリットはありますが・・・。時間の流れが重たくなり(軽快でなくなり)、退屈。それに、当事者意識が薄らぐので、感情・感動もかなり low になります。
ゆえに、人生の楽しさ半減でやめました。
そう考えると、「熱中すること」が幸せを感じる大きな要因ですね。
心理学の研究の中にも、幸せになる行動のひとつとして「フロー状態」があげられています。フロー状態とは、早くいえば「我を忘れた状態」のこと。フローを研究していたチクセントミハイは「素晴らしい人生はフローによってもたらされる」といっていますものね。
わたしたちの身体はこの世の中で物理的に人やものから分離していますが、フロー体験を通すことによってもともと「ひとつであったこと」を体験し、思い出そうとしているのかもしれません。だからフロー状態に魂が喜ぶのです。フロー状態になると、さらなるエネルギーが沸き上がってきたり、新たな能力が開発されたり、行くべき未来が開けたりするのも、すべてとの一体なることがわたしたちの魂が求める本来の姿だからなのでしょうね。
では、わたしも今週末までの自分消滅フロー状態を幸せのあかしとして、ありがたく体験させていただくことにいたします。(^^;;
(ハマりすぎて、自分が身体まで消滅しちゃわないかしら・・・汗)
街のあちこちに、清々しい門松が見うけられるようになりました。一気にお正月ムードですね。
いよいよ2012年も終わりです。みなさまの今年の夢は叶ったでしょうか?
わたしは、10年前の夢をふと思い出しました。夢、というか・・・こんなだったらいいな〜っていう憧れを。
そして思いましたよ。「あれ?いつのまにか叶ってる・・・!」って。それも、たいした感動もなく静かに。
そうなんですよ。昔の夢って、あんがい知らないうちに叶っていたりします。でもね、「知らないうち」なのは、「夢」がそれほど「夢」でなくなったとき、つまり自分にとってそんなに高らかな目標でなくなったときに静かに勝手に叶っているようなのです。
こんな言葉を耳にしたことがあります。『憧れは手に入らない』と。
例えば、スターに憧れる。憧れって、相手はずっと高いところ、雲の上にいて、自分は下から目をハートにして見上げているような感じです。だから、「憧れ」の人とは立っているステージがまったく違っていて、心理的にも距離がぐっと離れているのです。「憧れる」=「あなたは手の届かないずっと高いところにいる」と。「憧れ」によって自分を低いところにおいてしまうことにより、決して相手と肩を並べて対等な間柄にはなれないのです。(わたしたちは自分と同じレベルの人やモノしか、手に入れることができないのですね。そのレベルというのは自己イメージであったり、自分の現在の立ち位置であったり・・・。)
つまり「憧れ」てしまった段階で、すでに自分で手に入らない状況をつくってしまっています。
なので、「誰かを好きになったら憧れちゃだめだよ」とアドバイスします。憧れちゃったら、「わたしとあなたは世界が違う」というように、接点がなくなってしまいます。同じ土俵にすでにいません。
「夢」もしかり。その「憧れ」というものが薄れたところで、どうやら叶っているような気がするのです。
わたしの10年前の「夢」も、決してどうでもよくなったわけではないのですが、他のもっと「夢」っぽいことが登場して、10年前の夢に対する憧れが薄れてしまったような・・・。だから、知らないうちに手に入ってしまったのかもしれません。もちろん、時とともに自分も成長し、10年前の夢もだんだん自分の現実と合致するようになったせいかもあるかもしれません。身の丈にあう、というか・・・。いずれにしろ、自分の現実と「夢」との間の距離がなくなったのです。
ほんとうは、めちゃくちゃ憧れのある段階で手に入ったなら、感動もひとしおだったのにね。手に入ったぞ〜!と小躍りしたかったのに。ざんねん・・・。
みなさんも何年か前の夢を調べてみてください。今ではちょっとどうでもよくなっていて、あんがいしっかりと手に入っているかもしれません。
みなさまが2013年の目標を立てられる際には是非、「夢」や「憧れ」ではなくって、それがしっかりと現実に自分の人生にあることをイメージしてみてください。そして、自分にとって「あたりまえ」レベルにしてしまうことが大切のようです。
そして、一度しっかりと夢(目標)を決めたなら、「叶うかな〜」「叶わないかな〜」とあれこれ考えるよりも、とるべき行動に集中することも大切です(叶うかな〜、叶わないかな〜、もまだ憧れレベルです。)行動することによって、ぐっとそれを現実レベルへと引寄せられます。
また、「夢」が現実になったとき、どんな自分になっているのかを考えて、そんな自分を先取りするのもいいかもしれません。
とにかく「夢」は、「夢」であるうちは叶わない、と頭におきつつ・・・「夢」を今の現実に引寄せる工夫をいたしましょう。
2013年に向かって、よい「夢」を〜!(^-^)ノ
わたしたちはお寿司が食べたいときには、トンカツ屋さんには行きません。
ヘアーカットしたいときにも、歯医者さんには行きません。
こう書くととても極端で、「そりゃ、そうでしょ!」と言われそうですが・・・。
日頃セラピーをしながら多くの方のお悩みを聞いていると、日常のレベルでこんな勘違いな行動を無意識のうちにとってしまっている方がじつは多いということに気がつきます。
どういうことかというと、
穏やで安らぎのある生活を求めているのに、パートナーにはハデハデ、ギラギラ、落ち着きのない人を選んでしまう人。
自分の能力を発揮しながらいきいき仕事をしたいのに、気がついたら不得意きわまりない仕事をしている人。・・・etc。
そして、毎日がツライ、苦しい、わたしの人生なんでこうなっちゃったの?となるわけです。
なんでか?というと、お寿司が好きなのにトンカツ屋をチョイスしたからに他なりません。
わたしたちは、こと自分のパートナーとか仕事のことになると、本末転倒なチョイスを平気でしてしまいます(洋服選びや家具選びは、わりとまっとうにできるのにね)。
この場合、目に見える情報に簡単にごまかされてしまったのです。華やかだったり、きれいだったり、賑やかだったり、自分の知らない世界だったり・・・。つ
まりお寿司やさんを目指していたはずなのに、途中にあった賑やかで楽しそうなトンカツ屋さんにひっかかる、そんな感じでしょうか?
問題は、自分が何に価値をおいているのか、何が重要なのか、何に幸せを感じるのか、ということをあんがい意識していないことです。意識していないからこ
そ、目の前に現れた見栄えのいいトンカツ屋にとびつくことになります。なので、日頃から自分が目指しているものや状態を明らかにしておくことがとても大切。
この場合、ずいぶんと長い時間がたつまで、自分がしでかした間違いチョイスに気がつかない場合がおおいのです。おかしい、おかしい、こんなはずではない、とうすうす気づきながらも、かなりたってから「絶対おかしい!いつまでたってもお寿司が出てこないじゃないの!もしや・・・選択を間違えた?」みたいな感じになります。その気づきまで、10年かかったりすることもざらです(パートナーとの不一致の場合、だいたい10年ぐらいでハタと大きな間違いに気がついたりしますね)。(^。^;
そんな間違いで人生の大切な時間をロスしないように、ふだんから自分のココロの声に耳を傾けてあげることが大切です。わたしはどんなとき気分がよくなっているのかな〜?わたしはどんなときに感動するのかな〜?わたしはどんなときひどく落ち込んじゃうのかな〜?わたしのゆずれない価値観ってな〜に?という具合に。
ココロの声に耳を傾けてあげると、自然と自分を大切にしてあげることができます。そして、自分を大切にしていると、鏡のごとく、まわりの人々もきっとあなたのことを大切にあつかってくれることでしょう。
自分のココロの声をくみとりながら、自分にやさしくする、そんな一年にしたいものですね。
PS でも、どんな間違いも意味のあるもの。必ずわたしたちは学んで成長しています!
一通のメールが届きました。先日、骨髄移植をされたAさんから!
あの日はもちろん、あれからず〜っと気になっていました。「経過はどうだろう?苦しんでいないかな?」と。
彼女のドクターいわく「成功した」そうで、大変な期間も通常よりもずっと短い3日間位という奇跡的なプロセスだったそうです。適合の割合から考えると成功率はそう高くないそうですし、受けたあとの経過も悲惨だと耳にしていたので、ほんとうによかったね!おめでとう!
Aさんは、「当日は、私もドナーの方の骨髄を受け入れて、私の身体の中で仲良くやっていこう、という願いと共におりました。最初は骨髄の入った点滴バッグに向かって、どうぞ宜しくね!と声を掛けスタートしました」と。
そう、ここが肝心ですよね。結局、身体に異物が入ってきたことにより身体の中で戦いが起こり具合が悪くなるのですから、この「一緒にに仲良くやっていきましょう!」という歓迎のご挨拶こそが反応をより穏やかにする大切なポイントです。
苦しい期間が通常よりも短かったとはいえ、誰かにかわってもらえるわけでもなく、孤独で堪えがたい戦いの日々だったと思います。本当によく頑張ったなあと思うと同時に、ぴったりくる言葉がみつからないけれど、I'm really proud of you. (あなたを心から誇りに思います)、そんな気持ちです
じつは、同じ日にもう一つ良い知らせを受けとりました。それは友人にお孫さんができたということ。
この友人の娘さんは数年前、同じように白血病を煩い入院したため、お見舞いがてらセッションをしに伺ったことがありました。無菌室で彼女と向き合い手をとり、彼女の深いところにある病気をつくりだしている信念を探り、取り除き、新しい信念の置きかえを行い、そしてヒーリングも。
その後、彼女はみるみる回復し、去年結婚。なんと赤ちゃんができたのでした。
他にもガンとかいろいろな病気から回復するクライアントさんを今までたくさんみてきました。もちろん、たくさんの医療的な処置が施され、その中でわたしの行うカウンセリングやヒーリングはとても小さな部分であり、微力ではあるけれど、でも、改めて確信しています。
やっぱり、どんな病気にしろすべての病は「こころ」から起きているということ。「こころ」が変われば、すべてが変わるのです。もちろん表面的な処置は重要ですが、まずは「こころ」が癒されなければなりません。
心が何らかの気づきを得たり、癒しを感じたり、役に立たない信念を手放すことができれば、身体はそれこそ際限なく、常識を越えて、ぐんぐん治癒する力を手にすることができるのです。そこではたくさんの奇跡とよばれることが、まるで「普通」のこととなります。
まさに、身体の不調、人生の不調の原因のすべては「こころ」にあり。「こころ」が変われば、そして健康であれば、そこから新しいチャンス、新しい未来、自分のほしい現実を創り出していくことができます。
目には見えないけれど、身体以上に気にかけて、メンテナンスをして、栄養を与えて、優しくいたわってあげなければならないのが「こころ」なのです。
どうぞみなさま、「こころ」を大切に!
そして、みなさまの「こころ」が少しでも明るくなって、希望がもてて、未来に向かっていけるように、これからも「こころ」をこめてお手伝いしていきたい!と改めて思った、嬉しい知らせを二つも受けとった日なのでした。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)
家族や友人がココロのバランスを崩したら、精神科や心療内科に連れていきますか?
お医者さまに診て頂くことはまったく悪いことではないのですが、最近とても気になることがあります。
たった5分ほどの問診でウツなどのクスリを処方され飲みはじめ・・・ピークタイムにはその痛みを和らげるのに効果はあると思うのですが・・・しばらくして別の問題が勃発するということ。
それは、クスリをやめたいのにやめられないこと。もとの問題はさしおいて、このクスリとつきあっていくことにウンザリしていらっしゃるクライアントさんからのご相談が最近、とっても多いのです。
そして、これらのクライアントさんの心理状態はクスリをとる前とはまた違った、かなり危険な不安定さをあらわしています。
クスリをとりはじめると脳内ホルモンが変化し、気分は少しよくなるものの、感性が鈍くなり、世の中がカラーからモノクロになったように感じます。そして意欲がなくなり、世界にかかわる気持ちも萎えはじめます。悪くすると性格まで変わってしまうことも。またクスリのせいで太りやすくなったり、顔つきも変わってしまい、そのことだけでも自己イメージが大きく低下し、自分に対してガックリきてしまうことも。でも、クスリをやめるのは不安すぎる。またあんな気持ちになったらどうしよう・・・と。
このクスリの引き起こす負のサイクルが、もしかすると自殺率を上げているのか、とさえ感じてしまいます。
しばらくすると、症状にフタをして隠しているだけで(つまり、ココロの中で完全にメルトダウンした危険なものに水をかけたり、おおいをするのではなく)、本当のウツの「原因」に向きあっていなかったと気がつき・・・とようやく自分の心と正直に向き合うセラピーが始まるのです(危ない燃料棒はちゃんと取りだして、どこかに葬ってあげなくちゃ)。
もちろんクスリの量やとる期間に細心の注意を払い、心理療法も並行すればより効果もあり、安全なのでしょうけれど、なかなかそこまのケアが行きとどかないのが現状です。そして、クスリに頼りきったことから心理的に常習性が生まれ、やめるにはかなりのエネルギーが必要になります。
クスリをとって症状が和らげば一件落着のように見えるものの、じつは痛みにフタをして抑圧しただけで、得体の知れないモヤモヤはまだそこにあるのですね。それを「隠す」ことよりっも「放出」させることが治療にはいちばん重要なのです。
ココロの問題には、安易なクスリの処方だけでなく、もっと時間をかけてココロとていねいに向き合う細やかな心理療法が必要だと感じます。
また日常でも、ご本人が信頼できる人に親身になって聴いてもらうなど、シリアスになってしまう前のちょっとしたケアも大切です。自分のココロをありのままに表現して受けとめてもらい、共感してもらうこと。
たった「一人だけでも」、真剣に、共感的に、耳を傾けてくれる人がいるだけでクスリに頼りきるリスクは減らせるのではないかと感じるこの頃です。
そして一見、非生産的に見える「長々とグチを言いあう」ようなおしゃべりタイムも、じつはココロの健康にとっては欠かせないものです。
たまにはおいしいお菓子でも買って帰って、ムダ話を楽しむおしゃべりタイムでリラックスしてみてはいかがでしょうか?
Aさんはいつもキラキラ、フワフワ、スパンコールやシフォンのようなお洋服を着ています。とってもゴージャスできれいです。
でも、なぜかわたしは彼女と話しているとちょっとした違和感を感じてしまうのです。
なぜでしょう?・・・・何と言ったらいいのか・・・なんだかホンモノと話しをしている感じがしない、とでもいいましょうか?
どうやら服装も態度も「作りこみ」すぎていて、そのままの彼女が伝わってこないので、どこかフェイク感がぬぐえません。
もちろん、わたしたちは洋服を選ぶとき、メイクをするとき、さらに話しをするとき、より相手に好印象を与えるために「作っている」ところは必ずあるものです。「このピンクを着たら、よりやさしいイメージになるかしら?」「この口紅だったら、今っぽい女の子に見えそう」「こんなふうに笑えば、きっと明るいと思われるわ」という具合に。
でも、あまりに「作りこみ」すぎると、まるで自分のまわりにフェンスを作っているようで、人はその人に近づけなくなります。近づいてほしくてやっているのに、これでは逆効果。(~.~)
「作りこんで」いるときには、そこには策略が存在します。「もっと愛してもらうために」「もっと素敵だと思ってもらうために」「もっと注目を浴びるために」・・・。でもその策略のさらに下には「それをしなければ愛される価値もないわたし」という怖れが存在するために、この策略を使うときには「注目や愛を奪おうとする」エネルギーが存在します。
そうです。「ちょ〜だい!ちょ〜だい!」エネルギーを発しているので、人はそれをどこかで察知して引いてしまいます。人は何か奪いとられる感じのところには近づきたくありません。だって、自分だって十分ではないと思っているのに・・・。
今はやりの、「与えることによって、より与えてもらう」という戦略を使っても、もともとの動機が「奪い取る(愛を、注意を、尊敬を)」ものなので、いくら与えても人は違和感を感じて逃げてしまいます。
そして、「もらう」ために策略しているときは自分のことしか考えていないので、相手に対する興味や関心、思いやり、暖かさはお留守になります。結局、自分のことしか考えていない様子が丸出しになってしまい、さらに減点!というわけです。
先ほどのオシャレな彼女も、ほんとうにそのスタイルが好きで、無意識でいつもそれを選んで、着ることを楽しんでいるなら、きっと彼女にとても似合っているし、オリジナリティがあって人は彼女のことを素敵だと思うし、真似したいと思うかもしれません。
でも、いつもまわりの反応を先回りして予測し、「こんな服装だったら、きっとチャーミングで特別な女性に見えそう」と、それに合わせるように装い、振る舞うと、まわりからは「ニセモノ感」が強くなってしまうのですね(結局、その下に隠されている「ダメダメ信念」がより透けてみえちゃうのです)。
だから、本当に好かれたかったら、まわりの反応など気にすることなく、自分が本当に好きなもので装い、好きなように振る舞うこと、そのほうが素敵に見えるのです(・・・というか、好かれている人は、好かれるか、否かなんて、まったく頓着していないのですね)。
え?好きなように振る舞ったら嫌われちゃう?・・・・いえいえ、メディアで時の人として注目されているのは、たいていはそのままに振る舞っている人です(つくられたアイドルは除く)。その人がのびのびとそれをしていると、あら、不思議・・・・なんだかそれがとっても素敵に見えてきちゃう。その人のゆるぎない自信は、まわりにもすぐに伝染します。「あら、これって素敵かも?!」と・・・そうして流行がつくられるのですね。
クライアントさんのご相談でも、どうも人から嫌われる、どうも人から敵意を向けられる、というような場合、たいていは「好かれようとする姿勢に計算があって、あざとく感じられてしまい、結局嫌われちゃうパターンが多いのです(人はコントロールされる感じにとても反応します)。そうそう、こんなクライアントさんもいらっしゃいました。好かれたいがために、あまり好きでない人に愛想よく話しかける・・・でも、結果はかえってネガティブな反応が返ってくるということでした。相手の人は、やはり作為的なものを感じて自分がコントロールされるのが嫌だったのですね。
だから、究極的には好かれるためには、好かれようとしない、そのままの自分で「これがわたしです!文句ありますか!?」ぐらいに開き直ることの方が必要です。
そうしていると、ちょっと落ち度があっても、「まあ、あれが○○ちゃんだから、仕方がないわね」とそのままを認めてもらえるようになります。
これから暖かくなって春のお洋服の新調を考えていらっしゃる方も多いと思います。外からのウケはさておいて、自分が着てみたい、やりたいファッションを思いきって楽しんでみてください。きっと、自分にフィットしてて、より自分らしく素敵に見えるとことと思います。
自分で自分を十分に認められたときに、きっと外からも同じような承認がやってくると思います。
そして、「作りこんで」いるときには人が近よれないと同時に、たとえ愛されたとしても、自分がいちばん「ニセモノ」の自分を知っているので受けとることができません。でもそのままの自分でいるときには、人もそのままその人の欠点も含めて丸ごと愛することができるし、なによりも自分がその愛情をしっかりと受けとめられるようになるのです。愛情は、自分がしっかりと受けとめることができてこそ、はじめて「存在するもの」になりますからね!
本当に自分の考えというのは、自分の世界そのものだな〜と感じます。
自分は自分の考えの中の住人、自分の考えの中に生きている、といってもよいぐらいです。
その考えを通して知覚する世界は、いつも自分の考えの色に染め上げられています。
○子さんとはカウンセリングを進めていくうちに、彼女の中に「わたしは他人の期待には応えるべきである、応えてあたりまえ」という信念があることに気がつきました。そしてその信念が、さまざまな場面で彼女を苦しめ、ついには過食にまで走らせているということが・・・。
この考えは、かなり厳しかったお母さまからの愛や注意を勝ちとる唯一の方法であったに違いありません。人がある考えにしがみつくのは、そこに手放しがたい報酬があってこそです。手に入るものがあるとき、わたしたしはその考えにしがみつきます。
厳しい母はきっと、彼女が期待に応えて優秀だったときには優しかったり満足気だったのかもしれません。そこまでの反応はなかったとしても、期待に応えたときには叱責しなかったのかもしれません。
すると彼女の中には「人生とは人の期待に応えるものである」→「応えてこそ、安全」という方程式が当然のことのように刷り込まれます。もはや、「それって正しい考えかどうか」と判断する余裕もなく、まったくあたりまえとしか思えないのです。もちろん、無力なこども時代には自らの防御に役立っていた考えでも、おとなになるとかえって足をひっぱってしまうことがしばしばです。
さて、『人の期待に応えるのは当然なのでしょうか?』・・・もしかすると、この文章を読んでらっしゃる方の中にも、「わたしも、そう思う」と当然に感じている方もいらっしゃるかもしれません。「何がいけないの?」って。
「人の期待に応えるのは当然」と信じていると、「人にも自分の期待に応えて当然」と思うようになり、期待に応えてもらえない場合は怒りを感じたり、裏切られたように思い、苦しくなります(世の多くの人が「期待に応えなくても当然」と思っていると、自分はいつも肩すかし状態にあいます)。そしてなによりも、地球上に70億の人がいるとすると、人の期待というものは70億種類の違った期待があることになり、それにいちいち「応えてあたりまえ」と信じていることとイコールになるのです。もやは、自分の人生を生きるヒマがなくなっちゃいますね。
でも、信じていることって、あまりにも自分と一体化しすぎて、自分にとっての普遍的な真実になっているので、いくら説明してもおかしいぐらいにその誤りがピンとこなかったりするのです。(実際、○子さんにも、それを信じているとこんなに大変なことになるよ!と説明しても、なかなか腑におちないご様子でしたもの。)
「人の期待を生きる」ということは、常に人のニーズを知ろうとして、自分の注意・関心が外へ外へと向かう結果になります。その結果、自分の気持ちがおざなりになり、自分を大切にできなくなります。いつも自分のニーズよりも人のニーズを優先してしまうことになるからです。
外ばかり気にしていると自分の中がカラッポになり、まるで詰めものが抜けたヘロヘロの縫いぐるみ状態。カラッポの自分にあわてて、そこへぐいぐいと詰めものを詰め込むように食べ物を詰めることになります。シャキっとしろ!とぐいぐい詰め込んでも、自分に注意が戻ってこない限りは満たされません。そして、ついには過食になってしまいます。
そして過食のあとは、必ず情けない自分への罪悪感がやってき、ひどい気分におそわれます。そこでまた、よい気分になるためには「期待に応える」→「ほめてもらう」→「価値があるように感じる」という悪循環を繰りかえすことになります。
人は確かにさまざまな期待を自分に対して持っていたりしますが、それはその人の勝手、その人の都合で、自分とはまったく関係のないことなのです。人のことは気にすることなく、自分は自分のペースで生きればいいのです。自分らしく生きはじめて、自分が心地よく感じ、また自分に対する自信が持てるようになると、そのポジティブな気持ちは他の人にも伝染するし、まわりも前向きな気持ちになってゆきます。
○子さんは仕事や親との関係だけでなく、恋愛においても「期待に応えるべき」という考えで自分も相手も苦しくなる状況を生みだしていることに気がつきました。苦しい考え方は自分の首をしめるだけでなく、まわりの人にも負の影響を及ぼしてしまいます。
なので、「人の期待に応える」努力をするよりも、自分が幸せになる努力をすることで、自然と自分のまわりの世界にもよい影響を及ぼして、また幸せな関係を築き上げることができます。外を気にして、外に向けっぱなしにしてきた注意を、自分の気持ちやニーズを丁寧に感じて、受けとめ、応えるようにしてあげます。
そのことで、自分が安心し、満足し、しっかりと地面に根っこをはりだしたような安定感を感じることができるでしょう。そこからは、人の期待に気持ちよく、できる範囲で応える心の余裕も生まれるかもしれません。
飛行機に乗ると、何かアクシデントがあったときには、まず自分が酸素マスクをつけて、ライフジャケットを着てから、こどもに着けてあげてください、と指示されますね。まずは、自分をOKにしてあげることが大切なのです。
たまには自分にとって「あたりまえ」と思っている考えが本当に自分を幸せにしているのか(苦しくしていないか)、またその考えが正しいのか、親しい人とチェックしあってみるのもいいかもしれません。また、何か苦しい気持ちを感じているとしたら、きっとそこにはすでに役に立たなくなった考えが横たわっていることでしょう。
自分の考えが人生の色あいを決め、筋書きさえも左右してゆきます。ちょっと考えを変えたり、手放すだけで、わたしたちは見える景色が違ってくるし、住む世界さえもガラリと変えることができるのです。
(こちらのブログはご本人のご了承を頂いた上で書かせていただきました)
「「なにごとにも”超せっかち”なんです」というクライエントのAさん。
やることはなんせ早く、そのうえ人にまかせられない性格。なぜなら、自分がやったほうがよっぽど早いですからね。しかし、なんでこんなにせっかちなのか?
彼女の深い意識を調べてみると、こんな思い込みがありました。「せっかちになって、自分が一方的にイニシアチブをとってしまえば、人からコントロールされることもなく、安全でいられる。だから、すべてを超高速で行うべし」。こんな指令が潜在意識から出ていたのですね。もちろんご本人も潜在意識のこのような意図にはまったく気づいていません。
どうやらこれは支配的な母親の影響らしく、支配から逃れるためには、なんでもとっととやっちゃうのがいちばん!と信じたのです。しかし、おもしろいことに支配されるのがイヤだったはずなのに、いつのまにか自分も人を支配していたんですね・・・「先に支配しちゃうぞ、支配されないためには」と。
まったくもって、「親のああいうところだけはイヤだ」と言っていると、まさに知らぬまに汚染されているとうか、同類になっているのがわたしたち。
これは親への抵抗が強いほど明らかです。たとえば、親が小さいときに蒸発した ・・・と嘆いていると自分も蒸発することになり、また親の浮気が嫌だった ・・・と嫌悪していると自分も知らぬまに浮気をしていたり、最たるものは家庭内暴力。あんなに虐待や暴力されていやだったはずなのに、無意識のうちに大切な人をぶったり、言葉で虐待したり、と同じ態度をとっていたりします。
わかっていたら、もちろんやりませんよね。すべて無意識です。無意識層へと刷り込まれた行動や考えは、無意識のうちに出てきちゃう。(わたしたちの行動のほとんどは「無意識」だって知ってました?何か・・・つまり、信念に乗っとられて無意識に動いたり、喋っているのです。)
セラピーをしながらたくさんの方にお目にかかっていると、当のご本人はまったく気づいていなくても、まるで親と同じパターンの生き方や行動をしている場合が多々あります。その生き方しかお手本がないのがこども時代。好きだろうが、嫌いだろうが、それしかお手本がないので、パターンとして刷り込まれてしまうのですね。そして、本人は気づかなくても、外から見ていると「あら、あら、あんなにイヤだと言っていたのに、まったく同じことしてるよ」と気がついてしまいます。
Aさんはせっかちになることによって、まんまと自分のペースでコトを運び、人には支配されないですんでいるのですが、じつは「ぜんぜん楽しくなかった」そうなのです。Aさんいわく、「四十数年生きてきて、一度も楽しくないの」と。
あらあら、どうしたことでしょうか?いつも明るくて、頭の回転が早くて、手際のいい彼女がそんなふうに感じているなんて思いもよりませんでした。
でも、それもそのはず・・・。せっかちさんは、いつも頭がクルクル高速で回転していて、まるで頭の中で「思考」というバーチャルな世界を生きているのです。パッと見て、ササッと判断する。「ああ、それってこういうことね」「ふんふん、それなら知ってる」「それって、こういう感じなのよ」・・・すべてを過去の記憶というストックから引っぱってきて、それで片づけてしまいます。それに、思考は実体をともなっていません。さきほども書いたように、バーチャルなのです。「思考」とはつながっても、「今」という実体とはなんら接触していません。
するとどうなるか・・・だんだん、だんだん人生が無味乾燥状態になっていきます。イキイキした生気が感じられません。ワクワク感もドキドキ感もなく。どうやって楽しんだり、リラックスしていいのかわかりません。
こんな症状、会社でバリバリと働いてきた男性にも見られがちです。
さてさて、どうしたらよいのでしょうか?
(その2に続く)
やることがとにかく早いという、せっかちなAさん。でも、人生、今だかつて心から楽しんだことがない・・・と。
それもそのはず。せっかちさんは思考がクルクル超高速で回転しています。そして思考だけで現実の表面をスルスルと滑っていく感覚です。それには実体が伴いません。ある意味、バーチャル・リアリティ。
自分の生き生きとした生命力が、怒濤のような自分の思考の中に埋もれ、自分のパワーとふれあうことがないのですね。
「生きる」ということは五感をフルに稼働させること、実際に身体を使って体験すること、それによって自分の中の生命力が喜ぶこと。ところがAさんの場合は、暴走気味の自分の思考についていくことが精一杯で、「今、ここ」を体験しながら、それを自分の生命力で受けとめることがおざなりになっているようです。
思考にたより、永らく五感を使っていないと、「ん??感じるって、ど〜いうこと?」となってしまいます。ご本人は「感じている」つもりでも、すぐに「考えたり」「解釈したり」というモードに入っているのですよね。これは男性にとても多く、ご自分の感覚・感情について尋ねても、応えは一般論なのです。
「いろいろな味を感じる」「季節の風や花の匂いを感じる」「人のぬくもりを感じる」「愛を感じる」「くつろぎを感じる」「美しい音色を感じる」「自然にあふれる色を感じる」「言葉にできない感じを感じる」・・・・など、日々の生活の中で感じられること、体験できることは様々。
感じるときには、五感のすべてのモードを使って、それがどんなか感じようとします。呼吸はゆっくりになり、忙しかった頭はお休みして、どちらかというと身体全体を使う感じです。リラックスして、身体の中にエネルギーが戻ってくる感じがします。また、感じることによって、自分の中に広がりを感じるし、自分の中の「思考ではない」もっとイキイキしたものに出会うことができます。
思考を続けていて、このようなリラックス感、イキイキ感を感じることはありません。
Aさんの場合は「コントロールされないようにするためにせっかちになって、感じるかわりに思考モードになってしまった」わけですが、同時につらい母娘関係であったために「これ以上感じてしまったら、自分がだめになってしまう」と思い、自分を防御するひとつの方法として、感情を感じるヒマを与えなくしたという理由もあるようです。
いずれにしても、「感じる」モードが閉じた人生を過ごしていると、どうにも人生が味気なくなって「こんなはずじゃなかった」ということになります。それぐらい「感じること」は大切で、「感じること」はまさに自分の生命力に出会うことであり、いきいきした人生を送るカギでもあります。
Aさんの子どもの頃から握りしめていた「(母から)支配されないために、なんでも超高速でやるべき」という信念は、彼女が小さな子どもとして無力であったときには役に立ちましたが、もう十分に自分のことを自分で守ることができる今となっては、彼女の人生を楽しくするには役に立っていないようです。
「こんな、いらない信念を握りしめていたんだ!」と単に気づいて意識にのぼらせ、何かこれからの自分に役に立つ新しい信念を決めるだけでも、変化を起こすことができます。すぐに体験する自分の世界が変わってくるのに気がつきます。(セラピーのセッションの場合には、もう少し深いところから信念を取り去し、入れ替えるという作業をしてあげます。)
Aさんの場合は、旧い信念をお掃除したあと、「人に対しても、自分に対しても、支配とは無縁である」という新しい信念に置き換えたのでした。それと同時に、思考をスローダウンするために、自分の注意を頭の中におかず、外に出して、ひとつひとつを感じてみることも練習してみます。
翌々日にお目にかかったAさんのモードは、どこかゆったりしてきているように感じられましたよ。
おもしろいもので、わたしたちは「自分の信じていること」を少し置き替えてあげるだけで、すぐさま見える世界が変わります。つまり、わたしたちは自分の信念という色眼鏡で色づけした世界しか見ることができないので、適切なレンズの交換(信念の交換)は見える世界をバージョンアップさせるためにはとても大切なことなのですね。
コンタクトレンズでも眼鏡でも、こどものときからの度数ではあわなくなるのは当然。今の自分にあった度数のコンタクトや眼鏡(信念)が心地よい世界をつくってくれるのです。
そして不思議なもので、一人の見方が少し変わることで、その人に関係している多くの人たちの見方もまた同時に変わっていくことが起ります(たとえば、家族の誰かがセラピーを受けると、他の家族までいろいろと変わっている・・・という具合に)。そう、これは「わたしたちは常に自分がこうだと思っている世界を見ている」ということ。
自分が変われば、モロモロも一緒に変わる。みんな連動しているのです。すべては、世界は、ひとつですからね♪
(こちらのブログはご本人のご了承を頂いた上で書かせていただきました)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)
「なんで、妻は片づけられないのか?(掃除は、毎日するべきだ!)」
「夫はどうして、だらしないのか?(もっと身だしなみを整えるべきだ!)」
「○○ちゃんのファッション、超似合わない。(もっと、トシ相応にすべきだ!)」
「上司(部下)はこうあるべき・・・」
「○○さんには、ああすべきではなかった・・・こうすべき」「
こんな「べき」言葉が、セラピーではよくつぶやかれます。
何をそんなに気にしているのでしょう?じつは、これらはみんな「他人」についてのことなのですよね。「自分」についてのことじゃない・・・。他の人のことだったら本来どうでもいいはずなのに、それがなぜか「どうでもよくない!」。そして、「こうすべきだ!」と首をつっこんでしまうわたしたち。そこにストレスや苦しみが生まれます。
わたしたちには、「人はこうふるまって、あたりまえ」「ものごとは、かくあるべき」という自分独自の決めつけやルールがあります。そして、そのルールのモノサシを人やものごとに安易にふりかざし、押しつけようとします。
でも、押しつければ押しつけるほど、自分の理想と現実とのギャップを思い知らされるだけで、結局その落差に苦しむのは自分なのです。「べき」と言うたびに、自分の中にいらぬ苦しみをつくってしまいます。
「こうであるべき」と、いくら言ってみたものの、たいてい相手がしていることはその人にとってはごく「ふつう」のことなのですよね。つまり、わたしの「ふつう」と相手の「ふつう」がイコールではないのがこの世の中。(自分の「ふつう」は、じつはすごく「ヘン」かもしれません。)
相手の「ふうう」=つまり「あるがまま」に自分の「ふつう」=「こうあるべき」を押しつけると、結局は「こうあるべき」は敗北するしかなくなります。相手の「あるがまま」はまぎれもなく、今の現実だから・・・「そうじゃない!」「そんなはずじゃない!」「こうしろ〜!」といくら叫んでも、静かにそれは「そうである」のが事実なわけです。
「こうあるべきでしょ!」と理想をふりかざして迫られても、しょせんそれは「あなたの考え」、「なんでわたしが、あなたの理想にあわせなきゃいけないのよ?」ということになってしまいます。
そうなのですよね。「そうであるもの」「そうである人」は、今の時点では限りなく「そうである」のです。いくら地団駄踏んで、「ちがうよ〜!!そうじゃないでしょ〜!」と叫ぼうとも、そうであるものは現実に「そう」なのでした!残念ながら・・・。
「そうじゃない!」と叫び続けるだけ、かなりのエネルギーを消耗します。自分の中のストレスが増していきます。
なんでわたしたちは自分をこんなに苦しい状態にしてまで、現実である事実に「そうじゃないんだ!こうするべきだ!」と抵抗したいのでしょうか?自分がストレスでいっぱいになろうとも、なぜに自分のルールを押しつけたくってしょうがないのでしょうか?
自分のルールは、自分だけで大切にすればいいはずなのにね。
自分のルールと相手の「あるがまま」とに、いったいどんな関係やこだわりがあるのでしょう?
(その2につづく)
なぜに、こうもわたしたちは自分の「べき」ルールに人を従わせたいと思うのでしょうか?「自分のルールの通りにして、あたりまえなのだ」という感さえあります。
それは、「わたしたちがコワガリだから」。
正確にいえば、「わたしたち」というよりは、「わたしたちの中のエゴ」がコワガリだから。(わたしたちの中には、エゴの自分とホンモノの自分の二人の自分がいます。意地悪になったり、自分のことしか考えていないときは、エゴの自分。まったく怖れがなく穏やかで愛がいっぱいのときには、ホンモノの自分。たいていはエゴの自分が優勢で、完全に乗っとられていますが・・・。)
エゴの自分は「この世はコワイところだ」「やるか、やられるかだ」と思っているからいつも怯えていて、そのため予測不能なことや自分でコントロールできないことが大嫌い。脅威なのです。だから、ちゃんとはじめから支配権を握っていたい。自分のルール、「○○するべき」をさっさと押しつけて、やられる前にやっちゃえ!というわけです。
でも実際に、手綱を握れるのは自分の現実だけ。人さまの世界まではコントロールできません。できないものをできると思ってしまっているところに苦しみが生まれちゃうわけです。
また、「人は好きなように振るまう権利がある」という基本的なことがスッポリ抜けているため、「べき」ルールを押しつけちゃうということもあります。つまり、自分の「ふつう」は、他人の「ふつう」だと信じちゃっているのです。そこには「自分はいつだって正しいのだ」という思いこみがあります。(これは劣等感の裏返し。自分で自分を信じていたら、あえて「正しさ」を主張する必要はありません。)
まあ、こんな様々な理由があって自分のルールを押しつけているわけですが、「こうであるべき」という言葉のもとに、コントロールできないものを懸命にコントロールしようとすることは、それはそれは疲れます。イライラします。・・・いくら頑張ってもコントロールできないからね。
だから、さっさと降参したほうがいいのです。消耗しないために。
サル山で日がな一日、毛づくろいにほうけているサルに「きみたちはもっと勤勉にするべきだ!」と言っても、できないものはできないし。飼ってるイヌやネコに「食べたら食器を洗うべきだ!」と力説しても、できないものはできないのです。
今、「できていない」ものは「できない」んだから。(将来のいつかの時点で、できるようになることはあるかもしれませんが。)
それを「できるはずなんだ」と信じきり、「わたしが言ったとおりにするんだ!降参しろ!ほら、やってみろ!」と地団駄ふんで指図してもしょせん、「できない」現実をつきつけられ、苦しみや葛藤が生まれちゃうわけです。
ジョン・レノンが歌っていました。「Let it be, let it be. Let it be, let it be. Whisper words of wisdom Let it be」・・・物事を変えようとしないで、あるがままにしておこうよ。そのまま、そのまま、あるがまま、この智恵ある言葉をつぶやいてごらん・・・と。
できないものはできてない、ただそれを受け入れましょう。それが真実の姿なのですね。
「そうか〜、今目の前にあることが唯一の現実だ、変えようとするのはやめよう」と思うと、なんかグッと肩の荷が降りるかんじです。「そっか〜、この人はたんにできないんだ・・・。わたしは何を戦っていたんだろ〜?」って。
そしておもしろいもので、現実の「あるがまま」を受けいれてあげると、不思議と現実が自分にやさしく寄りそってきてくれるのを感じるんですよね。
これが戦わずして勝利をおさめる極意?「手放す」と「やってくる」ってことでしょうか?
セラピーでも、失恋相手や離婚したパートナーへの執着やコントロールを手放すと、一気に相手の方からよりを戻すような動きが起るのはおもしろいものです。
自然界は「コントロール」を嫌うのですね。コントロールを手放して、そのまま、そのまま、あるがままにしておくと、いちばんいいことが起るし、気持ちよくすべてと共棲ができる。
でもね、わかってはいても、いちばんこだわっていることに対しての「あるがまま」が本当にお腹に落ちるのには、5年や10年、かかってしまうこともあります。それだけ、「あるがまま」って、かんたんなようでいて、難しい。
「あるがまま」に抵抗しないって、ある意味じゃ弱さのようにも感じてしまいます。
でも、自分の新しいスタンスとして「すべてをそのまま、あるがままで受けいれる」という考えを取りいれてみると、また違った世界や流れが展開されてくるのかもしれません。
「現実(reality)」と「想像力(imagination)」とが勝負したら、どっちが勝つと思いますか?
どっちが、より自分への影響力が大きいでのしょう?
ほとんどの方は「そりゃ、現実でしょう。なんせ、現実はリアル、自分の目の前にありますからね!現実以外はこわくないですよ」とおっしゃいます。
・・・ところが「現実」と「想像力」とが力くらべすると、「想像力」の方に簡単に軍配が上がっちゃうのです。つまり、わたしたちは「現実」世界よりも「想像力」に支配されている・・・ということです。
ちょっと信じられませんか?
わたしたちが悩んだり、苦しんでいるとき...それは自分の「想像力」におびやかされているからです。「現実」に対してではなくって、これから起るであろう未来への「想像」であり、すでに過ぎ去ってしまった過去への「想像」なのです。
そして、「想像力」は簡単に人を病気にし、また命さえも落とさせてしまいます。
おそるべし「想像力」・・・。
「でも、実際、目の前の現実的なことに悩んでいる人もいるでしょ?」・・・じつはそれは、現実に対する自分の考え、未来はこうなるのでは?という「想像」
に悩まされているのです。現実は現実、そこに怖れのストーリーをくっつけなければ、それは何の意味もなく、有害ではないのですね。
「想像」にハマりすぎて、グルグル、グルグル、未来や過去を考えすぎた結果、にっちもさっちもいかなくなります。もはや、恐ろしいストーリーの餌食です。完全に食べられています。
世の中の悩みのすべては、「想像力」から生まれている、といってもいいぐらいです。
でもセラピーでこの性癖を治そうとすると、つまり「想像力」に入りこんでストーリーに浸る癖を改善しようとすると・・・不思議なことが起ることがあります。
クライエントさんが急に「や〜めた!」と言いはじめるのです。・・・・せっかく、お悩みからほとんど脱しかけているのに、どうしたことでしょう?
一度じっくりとその事情を追求してみたことがあります。するとなんと、「悩みがなくなったら、やることが何もなくなってしまうようで・・・とても空虚な感じがして、コワいのです。とりあえず、まだ悩んでいます」と。
「!!」なんと!悩むことはヒマつぶし??
自分と向き合うのがコワいから、とりあえず悩みでもこしらえてそっちにかかわっっていようかな〜というケースが多いことに気がつきました。
そんなにコワい自分って・・・・(汗)。
でも、この「自分と向き合いたくない」パターンは恋愛にも多々みられます。自分と向き合いたくないから、相手に依存しすぎる、境界線を越えてまで相手の現実に踏み込んでおせっかいを焼います。
悩みをつくってそれにかかわらなくちゃいけないほど、自分と向き合うのはコワい?自分がなくなるほどの恋愛をしなくちゃならないほど、自分といたくない?
・・・・現代の悩みの多くは、自分からお出かけしちゃう「自分エスケープ」・・・汗。
クライエントのAさんは30代のシングルマザー。お仕事をしながら5歳の娘さんを育てています。
ところがいつからか、熱がでたり、頭痛がしたり、体調がすぐれない日が多くなったとか。風邪かな? とほっておいたら、ついには何をする気力もなくなってしまい、夜、娘さんのためにゴハンを作らなくちゃと思っても、キッチンの床にぺったりと座りこんだまま、ただハラハラ涙をこぼすようになってしまったとか。
「わたしの人生、こんなはずじゃなかった」「娘のことも苦しめている」「両親だって心配しているし」・・・「それも、これも、わたしがいけないからだ」・・・と、自分自身を責める気持ちに苦しみながらセラピーにいらっしゃいました。
Aさんはふだん、まわりを気遣うとても優しい性格。職場でも明るく雰囲気を盛りあげていました。
しかし、「なんとかこの職場で、好かれながらうまくやりたい」という意識が強くなりすぎたせいで、注意が外を気にすることばかり注がれ、自分を気遣ってあげることがすっかりお留守になっていたようです。
じつは、家のことと職場のことですご〜く疲れているのに「必要以上に元気にふるまったり」、同僚のちょっとしたひとことに傷ついてしまったのに「まるで気にしていないふりをしたり」、理不尽な残業をおしつけられても全然大丈夫ですと「笑顔で引き受けてしまったり」・・・明らかにこころと態度に大きなずれが生じていたのです。
これは意図的にそうしていたわけではなく、無意識のうちに大丈夫な自分を演じていたため、自分の内側の気持ち、こころの叫びを汲みとれなくなっていたのです。
わたしたちは小さい頃から、「もっとアタマを使いなさい」と理性的であることをよしとされます。そのまま気持ちを出そうものなら、たいてい親に嫌がられるのです。
「なにめそめそしてるの?」
「いつまでスネてるつまり?」
「文句ばっかり言って」
こどもは上手な感情の伝え方を知らないのでそのまま感情を爆発させるわけですが、それをちゃんと受けとってもらったためしがありません。いつも否定される反応が戻ってくるのです
すると、感情はいけないものだ、これは嫌われる、と「飲みこむ」クセがついてしまうのです。(飲みこまず、人にぶつけ続けるパターンもあります。)「飲みこんだ」感情はなくなりません。感情はしっかりと受け止めない限り、潜在意識にしっかりと抱えこまれてしまいます。
抱えこむといっけん無くなったように見えます。「おお、わたしって、立ち直り早いわ!」「何言われてもぜ〜んぜん平気じゃないの」と。
いえいえ、そんなことはありません。ちゃ〜んとためこまれていて、ある引き金を引かれたときに、いっぺんに全部が飛び出してくることがあるのです。「え〜、あの温厚な人が?」「え?あのおとなしい彼女が?」と、手をつけられないぐらいの爆発ぶりに周囲はアゼンとします。
いったん火がついたら、大爆発にいたるわけです。あるいは、ためこんでいた同じようなものに引火して手が付けられなくなることも。(ははは・・・そんなこともありましたって、思いあたっちゃったりして・・・(^^ゞ )
自分の感じていることに関しては、アタマよりもカラダの方が正直です。自分では気がつかなくても、カラダは一生懸命、メッセージを発してくれているのですね。たとえば、眠れない、胃の調子が悪い、頭痛がする、下痢・便秘になる・・・など、心身症としてカラダがメッセージを伝えてきます。それでも、わたしたちは自分のこころの叫びに気づくことができません。
アタマはまるで、「わたしの言うことをきけ!」「ちゃんとやるんだ!」「イヤだなんていわせないぞ」と、いやがる馬(こころとカラダ)にまたがりビシビシとむちを打ちこむ暴君のようですよね。
「元気なふり」「なんでもないふり」・・・「ふり」をするのは、ある種、自分への虐待です。こころやカラダが何を言おうと、ぜったい耳を傾けず、いやがることを強いるわけです。一方、自分以外の人の気持ち、意見にはとても敏感に反応して、気遣ってあげるわけです。(これじゃ、ココロが反乱をおこしても仕方がありません・・・。)
(その2につづく)
このココロの声を無視して大丈夫なフリをしていると、外から見るとどこか不自然な感じと不正直さが伝わってしまいます。わたしたちの醸しだす雰囲気って、本人がそれを隠しているつもりでも、かなり的確にまわりに伝わってしまうものです。なので、大丈夫なフリをすればするほど、態度と言葉が一致していない不安定さを感じさせてしまいます。
それと同時に、自分を大切にしていないと、相手にもOKを出せるようにはなりません。(「わたしがこんなにガマンしているんだから、あなただってこのぐらいはガマンするべきでしょ!」と同じレベルのつらさを相手にも要求するようになってしまうのですね。)
A子さんにおうかがいすると、やっぱり小さい頃から自分の感情は押し殺す「いい子」を演じてきたようです。きっと、人生のとても早い時期に、感情表現をしたら傷つく体験をしたのでしょう。
・・・ということは、もしかするとA子さんは、「自分の感情がわからない人」ではなくて、じつは「誰よりも感情に敏感な人」、つまり「感情が豊かで、感情を感じやすくたくさん表現していた人」だったのかもしれません・・・だから、よけいに傷つきやすかったのかもしれません。
そうなんですよね〜。幼いころ傷ついた部分は、性格が反転してしまうのです。いっしょうけんめいいろんなことをお喋りをする子だった、けれど父も母も耳を傾けてくれなかった → もう、彼らには喋らないを!と決める → 無口な子、というように・・・。なので、「わたしの性格のこの部分が嫌いで・・・」というクライエントさんには、「大丈夫ですよ〜。もともとそういう方じゃないですから」と、今は反転しておおい隠されてしまっている本当の自分がいることをお話しします。
A子さんには日々の生活の中で、まずは「自分が何を感じているのか」を折々の場面で自覚する練習をしていただくことにしました。
「ねえ、今、あなたはどんな気持ち?」と一日に何回も自分に問いかけます。
的確に自分が感じていることを捕らえるのはむずかしいと感じるかもしれませんが、「なんかモヤモヤしてるな」とか、「落ち着かないよ」と漠然とした感じならわかるかもしれません。
そうしたら、それが身体のどこにあるかもうちょっと調べてみます。「う〜ん、そのモヤモヤは胸のとこかな?・・・あ〜、さっき言われたことに納得していなくて、ムリやりおしつけられたことに悲しんでいるかも」。
そうしたら、それに対しては「いい」とも「悪い」とも価値判断することなく、ただ受けとめてあげます。「そっか〜、さっきの言葉で傷ついちゃったんだね〜」
人とのコミュニケーションの中でもそうですが、わたしたちは全面的に、無条件に、真剣に「受け入れてもらう」ととても安心します。すると、何も状況は変わっていないけれど、「よし!頑張ってみようかな」と前向きな気持ちになることができます。
気持ちにおいてもしかり。自分の気持ちを「いい」「悪い」の判断なして、しっかりと受けとめて、認めてあげると、その気持ちは安心します。ちょうどドッヂボールをしていて、正面からきたボールをお腹でドスンと受けとめるような感じです。正々堂々と、真っ正面から真剣に受けとめてあげます。
そうするとなんかいったん落ち着いて、その後にどうすればいいのかも見えてきたりします。「やっぱり、納得していないな〜。ちゃんと気持ちを伝えて、できませんって言ってみようかな〜」というふうに。
なんでもそうですが、姿がはっきりしない得体の知れないものはイヤな感じがしますよね。でも、いったん「それが何であるか」を見きわめることができると、わたしたちはホッとするのです。(気持ちを文字にして書き出してみるのも、オススメです。)
A子さんは自分の気持ちをちゃんと文字にしてはっきりと認めてあげる習慣をつけたら、娘さんとのコミュニケーションも変化したそうです。一方的に押しつけることはなくなって、かならず娘さんの気持ちを聞いて、しっかりと受け入れてあげてから、さてどうしようかと二人で一緒に考えることができるようになったそうです。そうすると、娘さんもたくさん気持ちを話してくれるようになり、A子さんも素直に「ママ、きょう疲れてちょっとイライラしてるかも」と自分の弱さを出せるようになりました。
こんなふうに、決してなくなることがない感情エネルギーをうまくガス抜きする習慣を持つと、自分が自分の感情にホンロウされて「人生、こんなはずじゃなかったよ〜」と後悔することが少なくなるかもしれません。
やっぱりいつでも大切なことは、理屈をこねくりまわして「オッケー!」といいそうになるウソつきなあたまのキモチはおいておいて、まずは自分のこころのキモチをていねいにひろってあげて、自分を大切に尊重してあげることなのですね。
やさしくするのは、まずは自分から!
この姿勢を持てるようになると、外側を気にしてブンブン振りまわされることも少なくなり、だんだんと自分のペースができてくるし、自分のことが信頼できるようにもなってくるのです。(^_^)v
最近、働く現場では若い世代を中心に「新型うつ」というのがふえているそうです。
「うつ」の新型、とはいったいなんぞや・・・??
そこで「新型うつ 傾向と対策」セミナーに行ってきました。
従来の「うつ」は脳内のセロトニンの不足などが原因で不眠、気力の低下、食欲不振など、生体エネルギーが著しく低下した状態になります。
一方、「新型うつ」は脳内ホルモンうんぬん・・・というよりは、生育環境、親との関係、性格などが原因だそうな。つまり、過保護、過干渉、母子密着、愛情飢餓、父親不在、自己愛着性、未熟な人格が職場や学校のストレスと絡むことで起っているのですよね。「うつ」っていうよりはセラピーによく持ちこまれる典型的なココロのお悩みのように映ります。
症状も、見るからに「うつ」という一般的な「うつ」状態とは違い、まずは「自分大好きの自己中」で、「いやなことは一切やらない」「人間関係では空気が読めなず」そして「すぐ人のせいにしちゃう」など。たんに「これってワガママじゃないの?」と受けとられてしまうような症状。
つまり、勤務中はうだうだ、でもアフター5はめちゃ元気、気に入らない仕事は平気でスルー、認めてもらえないとガマンができず、失敗したら人のせい、ちょっと強めにしかられるともう欠勤、・・・などなど、そこから休職、ひきこもりへ。
「うつ」というカテゴリーに入れられていることじたいが不思議な「新型うつ」。こんな方がいたら、こりゃ適応障害だわ、と思っちゃいます。だから、職場では「ワガママ病」のレッテルをはられて相手にされず、改善するどころか事態は悪化するばかり。
性格的な傾向とストレスが絡んでいるので、クスリはあまり効かないそうな。カウンセリングとストレスをやわらげることで対処します。だから、何がストレスになっているのかを見極めずに、「ワガママな!」と叱ろうものならもっと悪化するのです。
また、従来の「うつ」は「うつですよ」という診断が下されると「自分がうつのはずがない」と拒絶反応を示すのですが、「新型うつ」はかえって喜んじゃう。つまり、堂々と休める口実ができた!じゃあ、休みますのでよろしく、という具合に。
「新型うつ」をみていると、あまりに「うつ」っぽくないので、もともと「うつ」って何だっけと思っちゃいます・・・汗。
職場や学校で、ワガママ、無責任、自己中気味、すぐ調子悪くなって休んじゃう + なんとなく抑うつ気味の人がいたら、ご注意を!
急に猛暑がやってきましたね。まだ夏の準備ができていない体はびっくりしています。みなさまは大丈夫でしょうか?
さて、このところ思春期のお子さまとのコミュニケーションのご相談が続いているので、きょうはそんなテーマです。
お母さまいわく、「思春期の娘に気をつかって、以前よりも時間をとって娘の言うことに耳を傾けているんです。なのに、“お母さんはまったく私の話を聞いていない”といわれてしまって・・・」
「う〜ん、おかしいですね?時間までさいて聞いているのに・・・。ちなみに、どんな聞き方をされているのでしょうね?わたしが娘さんになりますから、ちょっとやってみましょうか」と最近の問題を再現してみることに。
娘役のわたし「もう、学校行きたくなくなっちゃった」
お母さま「行きたくないなんて・・・突然どうしたの?まだ三ヶ月だし、それに頑張って受検した学校じゃない」
娘役のわたし「でも、行きたくないんだよね・・・」
お母様「何が問題?あんなに入りたいって言って入った学校じゃない」
娘役のわたし「・・・・」
お母様「ここの学校がいいって言ったのはあなたよ。この学校じゃないと大学受験も不利になるでしょ」
たった一分やりましたが・・・お母さん、ダメです〜。これだと娘役のわたしはすでに話せなくなりました。
なぜなら、行きたくない気持ちを打ち明けたら、いきなり「それはおかしい」といわんばかりの否定モードで、「そこを選んだのはあなただ」とさとされ、そのあとに続くのは「あなたの将来はだめになる」という脅しモード。これは「聞いている」というより、「もう、あなたの言い分なんか聞きたくない」と言っているようなものです。
娘さんが「学校に行きたくない」という場合は、「行きたくない」という事実よりも、そのウラにある気持ちが重要で、自分でもその気持ちに葛藤しているのです。だから、迷いを汲みとって共感して欲しいと思っています。
でも、たいていお母さま方は「この子は未熟だから、何かを間違えてしまっている。だから、教えたり、正したり、いましめたり、指示をしなければいけない」と考えていて、その子が口を開くやいなや、その子の言葉の間違い探しを始めてしまいます。正しいとことは聞くけれど、そうでないところはまったく聞かないのです。
これは、「聞いている」というよりは、「一方的に正されている」としか感じません。せっかく時間をとっても娘さんが満足しないのは、この一方的に結果を決めつけて押しつけられているような、上から目線の態度がいやなのかもしれません。
わたしもこんなことがありました。近しい人がえらく落ちこんでその気持ちを話してくれたとき、「何か、早くいい気づきを与えなくちゃ!」とばかりに、さっさとアドバイスしようとしたら怒られました。「何も言わなくていいから、ただ聴いてくれ!」と。「聴いてくれるだけでアドバイスはいらない」とまで言われたのでした。
そのとき、ハッと気づきましたよ、まったく「聞いちゃいない自分」に。そして、アドバイスしたいわたしはじつはネガティブを怖れている・・・と。ネガティブに感染するのがいやで、さっさとこの場を切り抜けようとしていたのです。そして、聞いているといいつつも、じつは自分に都合のいいことしか聞こうとしないのです。(セラピストと言えども、日常はこんなもんです・・・苦笑。)
落ち込んだり、悩んだりしている人はその気持ちを吐き出したいのです。
では、話をちゃんと聞く、ってどういうことでしょうか?
(その2につづく)
幼児や小学生の頃は、正すことも、教えてあげることも必要だけれど、思春期にもなったら独立したひとりの人間として考えを尊重してもらう必要があります。(大人であったら、なおさらです!)
それは必ずしも言っていること全部にOKを出すことではなくって、たとえその意見が間違っているように思えても、「一人の人間の感じ方、考え方」としてまずは大切に受け入れて理解しようとしてあげること。わたしたちは「それは違っている」と思うと、ソク、切り捨てたり、却下したりしたくなってしまいます。でも、「今のあなたは、そう感じているのね」とまずは受けとってあげることが大切。
全部まるごと判断しないで受けとったあと、「自分とは違うな・・・」と思うところがあったらあとから、「この部分は、わたしはこう感じたんだけど、こんなふうにも考えられないかしら?」と提案して話しあってみることになります。これだと、会話はキャッチボールが続いて、しっかり「聴いてもっている」感を持つことができます。
つまり、幼児の頃は教育する(教え、さとし、導く)ことはしなければならないけれど、思春期をすぎたら見守り、応援し、話しあう。(幼児であっても、このキャッチボールのボールはちゃんと受けとってあげないといけませんよね。)
わたしたちはみんな自分が正しいと思っているので、相手が間違っているのをそのままにしておくのはイヤなのです。とくに、それが自分が「生んで」「育ててきた」対象だと、なおさら。未熟なイメージしかありません。とにかく、とっととコンントロールをして、修正して、自分が安心したいのです。自分の理想の道筋に乗せたい。・・・でも、これは自分と相手の境界線を越えている行いです。人間の間には、一個の個人として尊重すべき、おかしてはいけない境界線があります。こどもといえども、自分の考えを大切にしてもらう権利があるし、自分の考えで間違えてみる権利もあるのです(危険や生命をおかさない限りで)。
そうやって見守ることで育っていく、見守ることで本当の自分を思いだしていく、その成長のプロセスを信頼してあげなければなりません。・・・見守ることって、とってもエネルギーがいりますね。
「さっさとアドバイスしたいわたしはじつはネガティブを怖れている、ネガティブに感染するのがいやなのだ」と「その1」の中で書きましたが、わたしたちはネガティブに侵食されるのを極度に怖がっています。まるで悪い伝染病にかからないようにしているみたいに。
それは、「小さいときから、ネガティブさを感じることを自分に許していないから」。つまり、落ちこんだ感情、自己否定的な感情、現実逃避的な感情、破壊的な感情・・・。これらの感情はよくないと教育されているので、ほんとうに自分が感じていることを自分に感じさせることを許してきていません。すぐに理由をつけて他の感情にすりかえたり、ムリやり大丈夫だと思わせようとしたり、その感情をなかったことにしたり・・・自分の中にネガティブさを見つけると、さっさとそれを処理しにかかります。
そんなクセがついているので、人の中にネガティブを見つけると、ソワソワしてきて耐えられず、自分のものじゃないのにさっさと片づけにとりかかろうとするわけです。
カウンセリングやセラピーにおいても、クライエントさんに対して「この人は悩んでいるかわいそうな人。助けてあげなくてはいけない人」として改善しようとすると、セッションはうまくいきません。相手から抵抗が出てきます。
「あなたはダメだから、変えてあげよう」という考えは、そもそも相手への否定から始まっています。そして、人は変えられたくなんかないのです。変わるんだったら自ら気づいて、自分で変わりたい。
そして、わたしたちは、たった一人でもいいから、誰かに自分の潜在的な力(まだ見えていない力)を信頼してもらうことによって、それを確実に自分のものにしていく力があります。
潜在的な力とは、その人の奥に眠るどんな状況も乗りこえて、成長してゆける逞しさ、完璧さ。「あなたは大丈夫なんだ」という見方を貫いてあげることによって、潜在的にその人の中に眠るお宝を発掘してあげるこことができるのです。そしてそのお宝は、それを信じられる人のもとにしかやってきません。
「まだうまくできていないあなただけれど、でもちゃんとプロセスの上にいるから大丈夫。あなたの中にはうまくやる力がちゃんとある。わたしはそれを知っているし、わたしはそれを見守っているよ。だから、今は弱音を吐くこともOK。こころおきなく、安心して吐き出してごらん」こんなふうに言ってもらって、気持ちを判断されたり、切り捨てられたりすることなくしっかりと受けとめて聴いてもらえると、「よ〜し!もう一度、頑張っちゃおうかな〜」と自分の中から力が湧いてくるものです。
そして、その人の可能性・完璧さを信じてあげることは、同時に自分自身の可能性・完璧さを信じるという、自分への大きな贈りものにもなるのです。わたしたちは、いつも自分が信じているものを受けとります。
信じることは、相手への、そして自分への、何にもかえがたい贈りもの。そして、それをしてあげられるのは、やっぱり、親であり、パートナーであり、親友であり・・・。だから、近しい人を修正しようとやっきになるよりも、手放しで最高の応援団長になってあげることが、その人のスゴイ力へと目覚めさせ、変身する呼び水になるのですね。そして、自分も同じ方向に導かれていく・・・。
さてさて、あなたは誰の応援団長になりますか?そう、まずは・・・自分、ですよね!
心配ごとを考えすぎて、頭がぱんぱん!そして、頭の中の声が止まらないっ!自分でさえ、その声にヘキエキしてしまう、ってことありますよね。
「誰か、このおしゃべりを止めて〜!」と思っても、止まりません。コントロールしようとすると、さらにうるさくなります・・・・おかしいですよね。自分の頭の中の声なのに。
自分の声が制御不能って、どういうことでしょ?
こんなとき、じつは「本当の自分はお留守」・・・というか、スミに追いやられて、他の人格(怖れ、不安、怒り、悲しみなど)が自分を乗っとっている状態。つまり・・・感情の憑依状態。
そもそも、わたしたちの中には二人の自分が住んでいます。「感情的で怖がりでおしゃべりな自分」と「それをじっと観察している静かで穏やかな自分」。でも悲しいことに、わたしたちはたいてい、ニセモノの方を自分だと思っているのです。つまりニセモノとは、おしゃべりな自分、次から次へと沸き上がる頭の中の声。ひっきりなしに心配したり、怒ったり、人も自分も責めて、文句を言う。そのうえ、めったに褒めてはくれません。しょっちゅう登場してきて、常にああだこうだ言うけれど・・・、じつは、この声を冷静に聞いているもう一人の自分がいます。「ああ〜、またはじまったね」と、静かにそれを眺めている自分。
考えているんだから、それがホンモノじゃないの?と思いますか?考えていても、冷静に「そう考えている自分」に気づいている意識があります。
そうです!この後ろから冷静に眺めているのがホンモノの自分。でも・・・この二人は共存できないのです。ぶつぶつうるさい「感情の憑依くん」にパワーを渡してしまうと、あっというまにホンモノはかき消えて姿をなくしてしまいます。一方、ぶつぶつ「感情の憑依くん」にパワーを渡さず、ホンモノの自分がずっとそれを静かに観察していると、ぶつぶつくんは消えていってくれるのです・・・が、これがなかなかできなかったりします・・・汗。
わたしたちは本当の自分でいることよりも、ほとんど感情の憑依状態で過ごしているようなものなのです。ある感情に乗っとられている・・・でも感情は、じつは自分自身ではないとは・・・。刺激が加わると現れる、条件反射的なもの。そして、その感情に支配されて、無意識的に次々と行動を起こしてしまいます。(ちゃんと考えてるよ!って?いえいえ、憑依した声に従っているにすぎません。)
この声は、仕事も人間関係も、そして自分自身さえも、めちゃくちゃにしてしまうことがあります。なぜなら、その声は怖れに満ちていて、近視眼的で、自分にも人にも、とてもイジワルです。この声に従っていると、どんどん被害者チックで可哀想なわたしになっていきます。
人で賑わう渋谷のスクランブル交差点にしろ、ごったがえす原宿の竹下通りにしろ、自分の感情にのっとられた憑依状態の人たちがわやわやとひしめきあっている・・・というわけです。(ゾンビ映画のようですね〜・・・)
わたしは常々、「セラピストって、エクソシストだ」って思うのです。セラピーもエクソシストも似ているのです。なぜなら、どちらも、何かに乗っとられ、その乗っとられた人は完全に何かに支配されて、別人格。それを、セラピーするわたしは毎日、その感情に憑依されたクライエントさんから「悪魔払い」をしているのす。(オドロオドロしい?・・・)
なんてったって、ココロが「過去」や「未来」に漂い出したがために、お留守のうちに怖れや欲望や自分を苦しめる感影にすっかり乗っとられてしまいます。その乗っとっている感情や考えを取り除き、「今、ここ」の正気に戻すという・・・まあ、ある種のお祓い。
霊であろうが、ネガティブな考え、怖れ、欲望であろうが、とにかく憑依されないためには、ココロがお出かけしないこと。ちゃんと自分の身体と一緒に、「今、ここ」に根をはっていることが大切です。
それは、過去をイジイジ思い出して後悔したり、未来をざわざおもいやってわ心配したり、あるいは人を批判したり、指図したり、誰かに夢中になりすぎたりし
て、人さまの現実にちょっかいを出しすぎないことです。これらをしているときには、わたしたちは自分がお留守になっています・・・過去へ行ったり、未来へ
飛んだり、人さまの現実に介入したり。
ひたすら、「今、この瞬間」の自分と仲良くすること。
この瞬間とお友だちになればなるほど、もちろんココロがお出かけして憑依されなくなるし、何よりも今まで気がつかなかった美しいものが見えてきます。
そして・・・そして・・・今、ここにいればいるほど、わたしたちはパワフルになることができます。存在感が色濃くなって(そうですよね、身体の中にちゃ〜んといるんですもの!)、人への影響力も大きくなるし、なによりも、ココロのパワーが強くなるので、自分の思いがあちこちにくまなく届きやすくなり、自分と現実が仲良くなって、どんどん動き出す感じがします。
夏はお化けの季節。へんな感情に憑依されて、頭がぱんぱんになったり、それに気づかず突き動かされる、なんてことにならないように、「今、わたしは何を考えているかな?ちょっと観察しててみよう」とココロの門番さんに見張ってもらいましょう。
「夫はむかしと変わってしまったんです。だから別れてたいんです」
「こんなはずじゃなかったんです。彼女にはもうガマンができません」
「彼が(彼女が)変わってくれないと、もうムリです・・・」
パートナーシップにおいて、こんなご相談が多く持ちこまれます。
ほんとうに、相手は変わってしまったのでしょうか・・・?違う人になったのでしょうか・・・?
もしもご本人に尋ねたら、きっと「いや、昔からこうですよ」「何も変わっていません」と言うに違いありません。
じゃあ、何が問題なのでしょう?
わたしたちは「誰かを好きになるとき」、じつは妄想たくましくなっています。
☆「彼は向井理似だ」(事実) → つまり「性格もいいはずだ」「女性に優しいはずだ」「スマートな振る舞いをするはずだ」(これは勝手な妄想)
☆「彼女は色白だ」(事実) → つまり「おしとやかに違いない」「素直なはずだ」「男性を立ててくれるだろう」(これは勝手な妄想)
わたしたちはあることがらを手がかりに、相手に対して勝手なイメージやストーリーをでっちあげ、ふくらませてしまいます。
本当は、「色白」であることは「おしとやか」とは何ら関係がありません。「向井理」に似ていようとも、どうしようもなくイヤミな男性かもしれません。つまり、相手の「真実」には一向に目をむけず、自分にとって好ましい手がかりを見つけるやいなや、そこから都合のよいストーリをでっち上げ、「相手はこういう人に違いない、いや、そうなのだ!」という妄想に溺れていくのです。
でっち上げたストーリーはしだいに、強固なイメージとして一人歩きをはじめます。でも、そのイメージと本人はまったく何のつながりもないのです。たんなる妄想・・・.
でも、そこに気がつかず、彼を(彼女を)そのイメージ・ストーリーの中にはめこみ、ちょっとでも相手がそのイメージからはずれようものなら、ソクそれを修正するために戦いを挑みます。「なんであなたはそんなこと言うの?」「どうしてそんな振る舞いをするの?」(向井理のようにふるまわなくっちゃダメでしょ!)。「どうして君はそんなにガサツなんだ」「どうしてそう勝手なんだ」(色白だったら、そんなはずはない!)。つまり、なんであなたはわたしのイメージどおりに生きられないの?!と。
・・・・答えはただひとつ・・・「だって、わたしはそういう人じゃないんだもん」。
いや〜、どこでどう間違っちゃったんだか・・・。
でも、わたしたちは「こんなはずじゃない。相手は間違っている。だから変えねばならない」と信じていて、日々、妄想した相手に近づいてくれるようにプレッシャーをかけ、相手を非難し、変えようとします。
相手にしてみたら、たまったものではありません。いったいいつから「あるがままの自分」でいる権利を失ってしまったのでしょう?そのままの自分で生きてはいけなくなったのでしょう?そして、相手の妄想の中の人物を演じなければならなくなったのでしょう?
そもそも最初の最初から、「本当の相手の姿」などまったく見ていなかったのです。そんなことよりも、、理想の彼(彼女)に出会ったと勝手に思い込み、自分がでっちあげた架空の誰かに恋をしていたのです。相手にしてみれば、架空の誰かを強要されたらたまったものではありません。
わたしたちは相手に対して、何を期待しているのでしょう?期待に答えてくれないと、何に腹をたてているのでしょう?何を与えるべきだと信じているのでしょう?相手はそれを本当に与える「べき」なのでしょうか?それは本当に自分では持っていないのでしょうか?
「相手がそれを与えるべきだ」と信じると、わたしたちはとたんに不自由になります。相手の好みの自分でいなくちゃならないし、相手にあわせなくちゃいけないし・・・自分のパワーを相手に渡して、すべてのことが相手しだいになってしまいます。
わたしたちはそれぞれ、自分で自分の面倒をしっかりみて、自分で自分の人生を豊かにし、自分で自分を幸せにして、自分で自分を成長させなければなりません。それをするために生まれてきました。その役は誰も変わってくれません。つまり、自分としっかり向き合って、自分の人生をちゃんと生きること。その大切なお仕事を誰かに丸投げしてしまうと、とたんに人生は不自由になって、相手しだいになってしまうのです。
・・・ということは、「相手がどうの、こうの」とちょっかいを出しているヒマがあったら、まず自分の面倒を見なくてはなりません。今までの自分の人生で足りなかったものを自分で自分に与えてあげること。
人は自分の人生を生きる、責任を持つという意味で「自己完結型」であり、また自分に必要なものは自分にちゃんと与えるという意味で「自給自足」を心得なければならないものだと感じます。
相手に求めなくなったとき、不平不満がなくなり、相手とのバトルがなくなりよい関係を築くことができます。なによりも、相手を「あるがまま」に解放してあげることによって、ココロが平和になります。そして、自分も「あるがままでいいんだ」という安心感を感じられるようになります。
自分に足りないものは自分で満たす・・・すると「ちょ〜だい!」ちょ〜だい」の欠乏やコントロールや怖れに満ちた関係から、相手と自分の「あるがまま」を楽しめるリラックスした関係になってゆくのでしょうね。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)
「明日、授業で短編のリーディングをするんだけど、“怖れ”がテーマなんだ。“怖れ”について何か生徒に教えてあげられることあるかな?」とアドバイスを求められました。
ふむふむ、怖れね〜・・・。
古代の賢人曰く、「わたしはずいぶん長いこと人間をやってきた。今まで心配のタネは尽きなかった。しかし、そのほとんどが“現実には起らなかった”」。また、アメリカの学者さんの研究では、「わたしたちの心配ごとの97%は実際には起らない」という統計があります。
ということは、わたしたちは無為に怖がり過ぎ、ってこと?
それもそのはず、怖れは本能で、その昔、ほら穴に住んでいた頃、闇の中で自分よりも強い動物に食べられちゃわないためにたっぷりと怖れをもって警戒して、命をつないできたのでした。
でも現代には、恐竜もいないし、街にクマも歩いていないしね。そんなに年がら年中怖れている必要もないわけです。(原始人の時代からずっと、わたしたちのDNAの「怖れスイッチ」は入りっぱなしなのかも。)
だからといって、まったく怖れがなくてもちょっとマズいことになります。スカイツリーに登って、「大丈夫、こっから飛び降りられる」と思っちゃうかもしれないしね。なので、適度な怖れは自分のお守りになっているのですね。
セラピーをしていて感じるのは、「怖れ」が薄紙のように人生をおおっていて、なんだかいつもぼんやりと怖れの色に人生が染まっている人が多い、ということ。スッキリ、サッパリ、元気に生きたいのに、そこはかとなくいつも「怖れ」ているのです。そうなると、発揮できる才能や力さえも封印してしまいます。
じつは、怖がっているのは「本当の自分」ではありません。そもそも、わたしたちの中には二種類の自分が存在していて、ひとつは何も怖いものなんてない、のびのびして、ありのままな「本当の自分」。そしてもうひとつは、いつも人と競争して、臆病で、問題が大好きな「エゴの自分」。
まさにいつも怖がっている正体は「エゴの自分」のほう。何かを見ると、すぐに問題にしたくなるし、戦いたくなるし、被害者になりたくなる自分です。「エゴの自分」は大騒ぎが大好き。物事のなにげないプロセスや変化にさえも、これは大問題だ!恐ろしいことが起る!といい張るのです。
なので、まずは「怖がっているのは本当の自分ではない」ということを知り、怖がっている正体は恐ろしくネガティブが大好きだということを認識することが大切です。(「怖い」と感じているとき、客観的に「あ、もう一人の自分が怖がっている」と眺めてみてください。この眺めている存在がホンモノの方です。)
そして、「エゴの自分」がいい張る怖れをリストアップしてみるといいと思います。怖れが引き起こすであろう結末も書いてみて、客観的にながめてみます。
そもそも「怖れ」って、得体がしれないから怖いのであって、スポットライトを当てちゃうと、そんなにこわくなかったりします。紙に書き出すのはスポットライトを当てる作業。書いているうちに冷静になって、「これは確率的にそんなに起こりえないな〜」とか、「そうなる前に、これもできるし、あれもできる」・・・と頭が明晰になってきます。
ひとしきり書き出したら、解決策だけ残して、怖れの部分のリストアップは破いて捨ててしまいましょう。サッパリします。
他に怖れ解決策としては・・・
怖れを感じているときには「今」にいない状態で、まだ来ていない「未来」にお出かけしている状態です。わたしたちは、「今、ここ」に根を張っていないと、すぐに精神状態があやうくなります。なぜなら、生命エネルギーは、今、自分が生きている「ここ」にしか存在しないからです。
だから、しっかりと「今、ここ」に戻ってきて、「今、ここ」で自分ができること、それがどんなに小さなことでも、行動を起こしてみましょう。行動を起こしていないと怖れは大きくなります。いったん行動を起こすと、おもしろいもので次のステップが自然と見えてきたりしますよね。
あと、おもしろがってお遊び的に「思いっきりコワがる」のも、怖れ解消には有効です。その場合、部屋をおもいっきり転げ回るなど、ハデハデしくやるのがポイントですよ。
そんなこんなで「怖れ」について考えたひとときでした。
赤ちゃんが欲しくて、永らく不妊治療を続けていらっしゃるA美さん。どうしてもあきらめきれず、年齢を考えながらもその精神的なつらさと身体的な痛みに耐えながらの治療・・・でも、落胆の連続・・・。ずっと、そのお姿を拝見し、また応援させていただいてきました。
今回のご相談は、「自分が今や何を感じているのか、この先どうしたいのか、わからなくなってしまった・・・」ということ。
じつは最近、体温の高温期が続き「もしや・・・!!」という期待を抱かれた時期があったそうです。でも、すぐにそれは間違いであることがわかりました。A美さんいわく、「勝手に想像妊娠しちゃうなんて・・・。そんな自分がいやなんです。やっと、どうでもいいと思えていたのに」と肩を落とします。
今は、子どもが欲しいのかさえもわからないし、どんな気持ちでいていいのかもわからない・・・と。そして、そんな自分を責めているご様子。
A美さん、「どんな気持ちでいるべきか」よりも、今、自分が抱えている気持ちをまずちゃんと感じてあげなくちゃね。そうしたら、自然と次が見えてくるはずです。
A美さんに「本当にいつも赤ちゃんのことで心を痛めて、その上治療でたくさんの苦痛を味わって、それでも一生懸命続けてきたのだもの。がっかりしてあたりまえ。悲しくってあたりまえ。そういうふうに感じてあたりまえだよね」と声をかけると、A美さんの目からみるみる涙が溢れて、それは30分ほど続きました。(家ではぜんぜん泣けなかったというA美さん。きっと、感じちゃったら大変なことになりそうで、無意識に気持ちを押さえ込んでいたのでしょうね。)
「今、泣いているA美ちゃんの隣に、もう一人の自分が見守っていたらどんなかな?」と声をかけると、「隣に寄りそっていてくれている」とA美さん。「そうだね。頑張ってきたから、たくさん泣いていいんだよって言ってるよね」
もう一人の自分に見守られながら、ひとしきり涙を流したA美さん。そこで、わたしがふとひらめいたことがあったので質問してみました。
「自分の子どもじゃなくても欲しいのかな?赤ちゃん。それとも・・・もしかすると・・・赤ちゃんが大切なのではなくって、赤ちゃんを通して手に入る何か別のことを望んでいるのかな?・・・たとえば、だんなさんにもっと注目してもらったり、認めてもらったりすることとか・・・」
するとA美さん、「そう!そう!そうです!まさに認めてもらうこと。・・・わたし、赤ちゃんがいてこそ一人まえ、ってずっと思っていました。そうしたら認められるって・・・ああ、だから赤ちゃんが欲しかった。認められたかったんです。・・・そうです。すっきりしました」と。
さらにうかがってみると、幼い頃、A美さんのお母さまが「あなたってお父さんにそっくりだわ」とよく口にしていたそう。「もしや、ご両親、夫婦仲が悪かったのでは?」とうかがうと、「そうです。母は、父を認めていなかった」とA美さん。「そうなんですね。お父さんに似ているから、お母さんはA美さんを認めていないってずっと信じてきたんですね。ということは、近しい人、だんなさんも自分を認めていないと思ってるんだ」「はい、彼は子どもはいなくていい、って言ってくれているのに、受け入れられなかった」とA美さん。
なるほど〜。「お父さん似=大切な人には認められない」と深い意識にインプットされてしまい、A美さんなりの解決策は何が何でも母になること。つまり、自分が考える一人前になることだったのです。
結局、「赤ちゃんができない苦しみ」のご相談の本当のテーマは、「認められること」だったわけです。
でもね。A美さん、まず自分を自分がちゃ〜んと認めてあげなくちゃ。そうしたら、人が自分を認めるかなんて、けっこうどうでもよくなるかもしれません。自分を認めるためには、今日やったように、自分が感じていることをちゃんと感じるように、自分に許してあげること。しっかりと自分の感情を受けとめること。自分にやさしくしてあげましょうね。
セラピーの最後には、「わたしは自分を認めている」「人からの愛情も無条件に受け入れている」という新しい信念をインプットして終了したのでした。
さっきまで言えなかった言葉、「わたしは赤ちゃんがいなくてもいい」を今は言うことができます!とA美さん。
今後、赤ちゃんがまた欲しくなっても、きっとちょっと違った心の余裕が出てくるかもしれませんね。
(ご本人のご了解をいただいたうえで、ブログにさせていただいています。)
わたしたちが必要としている言葉とは何でしょう?
何を言われたくて、わたしたしは日々努力しているのでしょう?
「あなたが必要だ」と誰かに言ってもらうこと?
「大切な人だ」「かけがえのない存在だ」「あなたじゃなくちゃダメなんだ」と・・・それは職場でも親密な人間関係でも同じです。わたしたちは「そのままの自分で大切にされたい、認められたい、かけがえのない存在だと言われたい」のです。
そのために、日々努力しています。ときには、本当の自分とは違うものになってもいい・・・認められるためならば・・・と。
でも人はあてになりません。あなたに感謝していても口に出してくれるとは限らないし・・・なによりもみんな、人生をサバイバルすることに忙しくって、「人を認めている」ヒマがあったら「わたしが先に、認められたい」とさえ思っているわけです。(かなり余力がないと、人をほめられません。)
だから、自分が欲しいものが「外からやってくる」のをじっと待っていると、いつまでたってもやってこないことにガッカリするし、やってこないのは自分に価値がないからと思ってしまいます。
なのに、わたしたちは常に外を気にすることを覚えてしまいました。「何かはいつも外からやってくる」と思っているから。コワイものも、与えられるものも、みんな外からくると・・・。だから、外を気にすることに全部のエネルギーを使ってしまうのです。
・・・じつは・・・「外と内は同じ」であること。「外側と自分は、じつはつながっている」ということを誰も教えてくれなかったから。
ほんとうは、「外側は自分の内側の合わせ鏡」。
よ〜く、よ〜く気をつけて見ていると、外側の世界は自分のココロの世界を追いかけてきているのがわかります。自分の持っていた気持ち・感情をなぞるように、象徴するような何かが起ってくるのです。
外側のことにびっくりして、反応すればするほど、じつはその渦の中に巻きこまれて、何がなんだかわからなくなってしまいます。
さて・・・そもそも、なぜそんなに外側から認められたいと思うようになってしまったのでしょう?
わたしたちは幼少の頃、家でも学校でも、常に「ちゃんんとできているか」「できていないか」をジャッッジされてきたし、常に採点されてきたのです。・・・だから、うまくいっているのか、これでいいのか、ここに存在していていいのか、間違っていないのか・・・取り返しがつかないうちに、誰かに何かを言ってほしいのです。
誰かの言葉を待っていると、たとえその言葉がきたとしても、その言葉の主に依存してしまうことになります。その言葉なしではいられなくなっちゃう。
基本的には人生、「自給自足」なのです!外からやってくるのを期待をしてもんもんとするよりも、まずは自分に自分で与えてあげることが大切なのですね。
なにはともあれ、まずは自分で自分にOKを出してあげましょう!
自分で自分をホメてあげましょう!自分で自分にハイタッチしてあげましょう!自分で自分にハグしてあげましょう!・・・そして、自分で自分にちゃんとごほうびをあげましょう!
わたしたちは自分の大切な人だと一生懸命ねぎらうけれど、こと自分に関しては、まるで存在していないようにないがしろにしがちです。
なかなかすぐに大きな承認はできないかもしれませんが、夜、眠る前に「きょうの努力」をちゃんとホメたたえてあげること。「雨の中、よく会社に行ったよね〜」「あの上司、機嫌がわるかったけど、よくガマンして仕事したよね〜」「8時間も働いて偉いね〜」「あのレポート、間に合ったね!すごいね」(実際、わたしたちは日々たくさんの努力をしているのです。ひとつひとつ、「あたりまえだ!」なんて冷たく言い放たずに、ねぎらってあげましょう。)
こんなシンプルな自分をホメるクセでも、じつは心にはとても大きな癒し効果、平安効果があります。
こまめにやっていると・・・外から賞賛されるか、認められるかなんて、あまり気にならなくなるし、人に対して、腹がたったり、ひがんだりしなくなるし。・・・そして、なによりもよいことは、自分が自分をホメていると、あら不思議、まわりも自分のことをホメてくれるようになってくるのです。(そうそう!外は自分の合わせ鏡!ホメられる自分を見せてくれる。)
もうすぐクりスマスですね。この一年の自分の努力やいろいろをねぎらって、是非、自分自身にすてきなクリスマスプレゼントを買って、お疲れさま会でもしてくださいね〜。自分との望年会も!
まわりの人よりも、まずは、自分にやさしく♡やさしく♡
「 人生、午前の時間と午後の時間 」
心理学者のユングは、人生には午前の時間と午後の時間があるといいました。午前は、成長や発達に象徴される「やればやっただけよくなる」時間帯。いわば上向きカーブ。
ところが正面から照らしていた太陽が徐々に頭上にさしかかり、後方へずれたその瞬間、人生午後の時間のはじまり、はじまり〜!そこでは、今まで見たこともない自分の「影」に直面することになります。たとえば、「ある日突然あらわれるカラスの足跡」やら「どんどんふえる白髪」など、努力とはうらはらな下向きカーブ、そして今までのルールが通用しない時間でもあるのです。
「 美しいはずの午前の時間は、けっこうシンドイ 」
なんかがっかりしちゃいました? でも、成果がばりばりにでる美しいはずの午前の時間、わたしたちは本当にハッピーなのでしょうか?
流行のお洋服や最新のメークアップにイケメンの恋人・・・ 。気にして、比較して、競って、手に入れようとするのが午前の時間。でも決して心が安らぐことはありません。益していくのは焦燥感や欠乏感や劣等感ばかり。もっと、もっと、もっと上を・・・と。
「 午後の時間のおくりもの 」
一方、失うものが目につく午後の時間は、じつは「今までのものにしがみついても、そこに幸せはありませんでしたよね。すべてのものは移り変わっていくもの。一生懸命かき集めても、それは時間とともにもれなく失われいくものです。それよりも“ 変わらないもの ”ともっと仲良くしませんか?」 と教えてくれているのです。
「 変わらないものとは“ 内なる自分自身 ” 」
つまり、それまでまわりばかりが気になって外へ外へとお出かけグセのあった意識を、自分の内側に戻してそこに留まってみませんか? というお誘いです。自分の心の声を聞いて、それを尊重して、内なる自分自身と仲良くする。すると、今までお出かけばかりで空き家のように空虚でカラッポになっていた自分の心の中にようやく「 主 」が戻ってくるように、安定感や充足感、信頼感がよみがえるようになります
「 内なる自分と仲良くする=つながる 」ことは、常に外側の変化にもまれて大海原にホンロウされる小舟のようだった自分が、「え?じつはわたし自身がが大海原だった?」と感るような安らかさを与えてもらえることでもまるのです。そうなって、ようやっとくつろげるわけです。
人生の午後、自分の人生の影に直面してはじめて、わたしたちは自分自身へと戻ってくるように仕向けられますが、人生の午前中にいようとも、外側から内側の世界へと注意を向けなおしてあげることによって、より人生の安定感が益してくるのだと思います。( 人生の午後時間まっしぐらなわたしですが、もっと早くそのことに気づきたかったです・・・ 汗 。)
まだまだ余裕で人生午前中の方も、意識のおでかけグセをなおして、お家(内側)に意識を向けることで、きっと今までとは違った感覚を感じられることと思います。
「 “ 人生間違ってしまった ”という焦り 」
「失恋してしまった」「仕事で失敗してしまった」「努力してきた目標が叶わなかった」・・・そんなとき、私たちの頭をよぎるのは「人生、どっかで間違ってしまった」「何か正すべきことがある」という思い。そして腕まくりをして間違いさがしをし、人生を正すことにとりかかります。
それも仕方がありません。小さいときから、いっぱい間違えて、いっぱい正されて大きくなったのですもの。何かがおかしかったら「正す」ことが性になっています。
「正す」というのは「自分の思いどおりにすること」。もちろん思いどおりになったほうが楽しいけれど・・・おそらく、人生思いどおりにならないとわかっているからこそ、思いどおりにするんだと焦る悪循環。「コントロールしなくちゃ症候群」です。ほんとうに思いどおりにするのがいいことなのでしょうか ・・・?!
「 怖がりさんは、おまかせするのが苦手 」
思思いどおりにしたいと主張しているのは、自分の中にいる小さな怖がりさんのエゴ。怖がりさんは予想外のことやハプニングが大嫌い。だからきっちり、整然とコントロールできるように「操縦桿をにぎらせろ!」と主張します。
その一方で、「あのおかげで今の自分がいる。今思えば、やっぱりあのことがあってよかったよ」という発言も多々耳にするのです。・・・ってことは、起ることの本当の価値は、起きているときにはわからないのです。けれど長い目で見れば「すべてよし!」、それ以上のご利益があったということ。
エゴの怖がりさんには先見の明がないから、自分の予想を越えたことにはすぐに「間違っている」というラベルを貼りたがります。そしてそれに抵抗したり、追いやことにすべてのエネルギーを使いつくし、戦うことが人生でのメインのお仕事になっちゃう。・・・う〜ん、これは落とし穴かも。
「 すべてはそのままでOK 」
起ったことは、すでに起ったこと。起ったことに抵抗すると、苦しさがまします。
「それがあってよかったよ」発言でもわかるように、じつは自分に「起ること」は「うまくいくための一番の近道」を教えてくれています。気づきと成長へのショートカットであり、贈りもの。もしそれが私たちの高い次元の自己からの贈りものであるなら、そこには完璧なおもいやり知性、気づきと成長のための栄養がたっぷりと含まれているはずです。
突然「起きてくる」ことはちょっとショック療法的でもありますが、レストランでの「おまかせ」コースがいちばんおいしくてお得で楽しいように、人生のおまかせコースももっとスペシャルです。怖がって抵抗することにエネルギーを使うよりも、おもしろがって人生の「おまかせコースのメニュー」に身を委ねてみると、すいすい進んでいる自分に気づくはず。
覚者は「考えさえしなければ、問題は存在しない」と言いました。そりゃそうです!・・・ってことは「間違っている」と主張しなければ、それは「間違い」にもならず、「間違い」は即座に消えてなくなってしまうという不思議・・・。
エネルギーを消耗する「間違いさがし」や「コントロール」の達人は卒業して、今やってきている経験の前でちょっとくつろいでみましょう。力を抜いて・・・ものごとを放っておきましょう。 (^-^)v
もしスマホやパソコンを買って、取り扱いマニュアルがついてこなかったら??・・・かなり困ります。
でもわたしたちが生まれたとき、取り扱いマニュアルはついてきませんでした。なので、本当のところわたしたちは誰ひとり、自分の取り扱いがよくわかっていません。
だから自分に関して「ホントだ」と思っていることの中にはあんがい間違いがいっぱいあって、それが知らないうちに自分を苦しめていたりするのです。
たとえば小さい頃によく言われたこんなこと・・・
●「何も考えてないでしょ?もっと頭を使いなさい!」・・・誰もがこんな注意をされたことがありますよね。「もっと考えなさい」って。
でも正しくは、「考えるのをやめましょう。頭をからっぽにしましょう」が「自分取り扱いマニュアル」に書いてあることです。
「この人はどんな人だろう」と考えるとき、わたしたちは自分の経験からしか考えられないので、ほとんど自分に都合のいいでっちあげの人物像をつくりあげます。そのように、一生懸命考えても、しょせん自分の思考の中をいったり来たりして、真実とはかなりかけ離れてしまう始末。そして、そんなふうに「本当でないこと」をたえまなく考え続けることによって、結局、問題と苦しみが生まれてきます。
もちろん、作業をしたり、何かを選択するときには頭を使う価値があるのですが、その一瞬でじゅうぶん。問題なのは年がら年じゅう、一日中、ああだこうだと考え続けてしまうこと。価値判断したり、後悔したり、裁いたり、罪悪感を感じたり・・・それはとめどもない連鎖を生みます。
思考というのはエネルギーであって、自分の中にふと沸きあがってきては去っていくもの。でも、この中に飛び込んで一体化しちゃうと、思考が自分になりかわっちゃう。自分というものが思考に占拠され、ハイジャックされちゃうわけです(でもハイジャックされても気づいていない・・・汗)。
とくに、わたしたちは自分を傷つける考えに反応しがちで、自ら吸いよせられるようにその中に飛び込んで一体化しちゃうという悪いクセがあります。そして、そこから出てこようともしません。まさに考えていることが自分そのもののようになっちゃいます。
思考は言います、「離してくれさえすれば、あっちに行くのに・・・」と。そうです。「思考」はたんなるエネルギーです。さっさと、そっから出てきましょう。そのためには、「頭はなるだけカラッポ、考えない」のがよいのですね。
●「頼らないでちゃんと自分ひとりでやりなさい」・・・これもよく聞いたセリフですよね。「人にばっかり頼っちゃダメよ!」って。
これも正しくは、「自分でやらないで、おうかがいをたてるか、ゆだねましょう」です。
もちろん日常のこまごまは自分でちゃんとやらないといけませんが、わたしたちが何かを決めるとき、選択するとき・・・自分の小さな限られたアタマですべてを決断しようとしても、じつはデータが足りなすぎます。それに、データははっきりいって間違っていることが多い・・・。となると、偏った決断しかできません。
でも、じつは自分をずっと支えて、導いてくれている、もっと大きな存在がちゃんといるのです。生まれたときからずっと。それは、この世にやってくるための護衛役であり知恵袋。もれなく一人ひとりについています。その存在に気づくことによって、その存在にお伺いをたてて、導きをもらうのが、この人生での賢いショートカットのやり方です。
護衛役さんは謙虚なので、こちらからお伺いをたてたり、お願いしないと、決してでしゃばることはありません。だから、たくさん訊ねる、おうかがいをたてる、甘えちゃうことが必要なのです。
これをセラピーのときにクライエントさんにお話すると、「え〜、いつも頭使えって言われてきたし、全部自分でやらなくちゃいけないと教えられてきました〜」という驚きの声が聞かれます。・・・・そうですよね。そもそも取り扱いマニュアルがなかったから・・・。でも、もしマニュアルがあったとしたら、そこには「あなたはすでにスーパーコンピユーターに接続されています。だから、自分でジタバタいじくりまわさずに、安心してゆだねて下さい。ごちゃごちゃ頭でおしゃべりをしたり、あまりにも自分でやろうとすると、接続がフリーズします」って書いてあったかもしれません。
考えすぎるとスーパーコンピューターからのアウトプットの情報がやってこなくなるし、なんでもかんでも自分ひとりでやろうとすろとスパコンのメッセージも理解できないかもしれません。
しょせん「端末器具(?)」であるわたしたちは、自分をからっぽにして、素直にあけわたして、宇宙からの電気が流れて、本来の機能が働くようにしてあげれなければなりません。(たしかにそうです。うちのトースターやホットプレートがいきなり自己主張しはじめたら困りますもの・・・汗。)
なんでも自分でやらなくちゃ!と構えてたわたしたちにとっては、ちょっとした意識の転換が必要ですが、きっと慣れてきたら「考えない、自分でやらないなんて、ラクチ〜ン♪」と思うに違いありません。
知人に赤ちゃんが生まれました。 (^_^)/
今さらですが、赤ちゃんてデカッ!(お母さんてすごいね。)さらにあたりまえですが、赤ちゃんてスッポンポン!未知の世界にやってくるわりには何の装備もなく、ちっちゃな下着一枚さえも身にまとわないこの無防備さ。わたしたちも、ここまで手ぶらでやってきたのですね。
しかし・・・どうでしょう。「ここ」の居住年数が増えればふえるほど、わたしたちの態度ときたら・・・。
「足りない」だの、「もっとよこせ」だの、「そんなはずじゃなかった」だの、「わたしの思い通りにしろ」だの・・・。持ち物や状況やお金や人間関係に対して、日々ブイブイ文句を鳴らしています。
何ひとつ持たずにやってきて、ぜ〜んぶあとからいただいたものなのに。そんなに文句言うんだったら「全部没収!」と宣告されかねません(汗)。
いただいているものが「あたりまえだ」「そういうものだ」と思ってしまうと、人間ってどんどんわがままになっていきます。ちょっとでもそれが少なくなったり、なくなったり、変わったりすると、思いっきり文句を言ってじたばたします。「そんなはずじゃない!」と怒ります。
「でもね、あなた。スッポンポンだったのよ〜、もともとは。な〜んにも持ってなかったの」・・・「だからなくてあたりまえなのよ」と言われたら、それはごもっともなのです。
もし、すべての「借りもの」は一日一日の終わりに全部お返しするルールになっていて、また新たに翌朝支給されるとしたらどうでしょう?
わあ〜い、寝心地のいいベッドに寝てる。ラッキー!ベッドの支給ありがとうございます!
お部屋に天井があるし、窓ガラスもついてるし、カーテンまで。ありがとうございます!
お財布をあけたら、小銭が、お札までもがちゃんと入っている。ありがとうございます!
わあ〜い!水洗トイレだ、蛇口からちゃんと水もでる。ありがとうございます!
電話がかかってきた!わたしには友達も支給されてるんだ。ありがた〜い!
・・・・って、感謝が延々と続きます。なんてラッキーな人なんでしょう。
見方を変えると、とってもリッチでなんとも運のいい人に思えてくるのです。「豊かさ」の秘訣は「自分がすでに豊かであると感じること」。はい、とっても豊かに感じられるのです。
・・・・なんて、赤ちゃんの写真をながめながら考えたのでありました。あはは。
先日、大学で授業をしたとき、Q&A タイムにとくに多かったご質問。
ひとつは、「人のことをどうしても見下して、バカにしてしまうんです」というもの。もうひとつは、「人がこわいんです」というご相談。
じつはどちらも、「自分の小ささ」「不十分さ」というところで根っこは同じものなのです。
●「人のことをどうしても見下してしまうんです」
「見下す」ということは、相手を自分よりも下においておきたい気持ちです。同じレベルであってはいけないし、ましてや自分よりも上だなんてもってのほか!
「見下して」自分よりも下におくことで、自分よりもデキの悪い人をしっかりとつくっておく必要があるのです。すると「自分よりも下」な格付けができて、自分は偉い人になれる。
それは「自分の価値」を自分自身で認めてあげることができず、つねに劣等感でくすぶっている証拠です。自分よりもデキが悪いと言い放っておけば、おのずと自分の価値があがるし、そんなひとことを言えちゃう自分も偉いのだわ・・・と錯覚します。なので、相手を批判したり、ダメだししたり、あるいはコントロールすることで、自分の傘下においておけば優越感が感じられて安心なわけです。
これって一見、自分のために役立っているように見えますが、じつはとんでもないことが起っています。なぜなら、「こころの中は一人称である」という大切なことを忘れているからです。つまり、「こころは人に対して考えたことは、自分に対して考えたこと」として受けとるということ。
そうなると、「人を見下す」というのは自分の価値をおとしめる行為で、自分をバカにして自分の首を締めていることになります。わたしたちは自分に対する価値を外側に投影して、それが人からの扱いという形をとって戻ってきます。となると、自分の価値を下げて、いいかげんに扱われる原因をつくっていることになるのです。
本当に自分に対して「ありのまま」の自分を認めてあげると、おのずと他人のことはどうでもよくなります。他の人がどのような生き方をしていようとも、「ああ、それがその人の生き方なんだな〜」「その人の自由なんだな〜」とそのままにしておくことができます。
気に障るのは、自分の中の劣等感も相手の中に見えちゃうと、何か言いたくなっちゃうのですね。
どんな生き方であろうと本人が納得しているのなら、その人にはその人を生きる権利があり、誰からも指図をされたり侵害されたりするものではありません。わたしたちは、あまりにも安易にそれぞれの人が持っている「境界線」というものを踏みこえて、「あ〜だ、こ〜だ」と言ってしまいがちですなのですね。
まずは自分に注意を向けて可愛がってあげることで、自分が心地よく安心できるようになります。すると、おのずと人へのちょっかいは減ってくるのです。
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もうひとつのお悩み相談、「人がこわいんです」はまた次回に!!
先日、大学で授業をしたとき、Q&A タイムにとくに多かったご質問。
「人のことをどうしても見下して、バカにしてしまうんです」、そしてもうひとつは、「人がこわいんです」というご相談。
●「人がこわいんです」
ある特定の人に対して「こわさ」や「脅威」を感じる人はあんがい多いもの。「こわさ」とまでいかなくても、苦手意識であるかもしれません。
じつは「こわい」と感じる目のまえの相手は、その「こわさ」の直接原因ではありません。そして「こわい」と感じているときは、幸いにも「より自分がバージョンアップする」ための「サイン」を受けとっているときでもあるのです。
さて、それはどういうことでしょうか?
「こわい」と感じるからには、たしかに傷ついた経験があるのです。しかし、それはもっともっと昔のこと。無力な子どもだったときのことです。
目のまえの人や状況は、そのときに似ているのです、なにかが・・・。たんに顔が似ているだけかもしれないし、状況がどこか似ているのかもしれません ・・・。その昔、幼い自分がその体験に圧倒されて、湧き上がってきたおそろしい感情をどうしていいのかわからなかったため、そのこわさを心の奥にねじ込んでもう無いことにしようと決めたのです。「ほ〜ら、目のまえにもうないじゃない。だからぜんぜ〜ん平気。傷ついてなんかいないし」・・・って。 でも、それはどこかに行ったわけではなくて、いまも心の中にありありと存在していて、ちょっとした共通点があると痛みが浮上してくるのです。
いま目のまえの人はその「こわさ」とは関係がないので、ここで勘違いをして「相手を変えよう」としたり、その人から「逃げても」まったく解決策とはなりません。その「こわさ」はいつも自分と一緒で、どこまでも追いかけてきます。そのたびに、無力感やおそろしさが甦ってくるのです。
放置しておいたこわさは、時間の流れとともに肥大化します。もうこころの押し入れには収まりきれなくなって、意識の表面に浮かび上がってはうろうろします。何度も、何度も・・・。
それは、「もう押し入れを掃除しましょうよ!そろそろ身軽になってもいいんじゃないですか?」というメッセージです。「向き合っても大丈夫なぐらいあなたは成長したし、強いし、もう荷物を整理して自由になるときがきましたよ」と教えてくれているのです。次のステップへの、成長へのご招待状。
解放してあげるためには、「認めて」「感じて」「安心させる」・・・
1、 ああ、この怖れは今のことじゃないんだな〜。自分の過去のどこかからきてたマボロシなんだ〜と「認め」ます。
2、 解放するために、その怖れをあるがままに「感じて」あげます。すべては体験するために存在します。なので、ただ受けとめて、「ああ、こんな感じか〜」と体験してあげると感情の任務が終わって消えていきます。(ここでは、言葉は使わないで感覚だけで感じてあげるとラクです。)
3、 そして、自分の中のこわがっている子どもをイメージして、「もう、大丈夫。わたしがあなたを守るから。もう一人じゃないよ」と声をかけて安心させてあげてください。
幼い頃のわたしたちは、手に負えないように感じる自分の感情に対して、どうやって向き合ったらいいのか誰も対処法を教えてくれませんでした。そうなると、わからないものは無視してほっておくしかなかったのですね。
またわたしたちは、まわりの期待に答えることが愛されることだと勘違いして、自分の感じている正直な感情を無視して一生懸命大丈夫なふりをしようとします。ほら、「さっきの感情jはもうない!わたしはもう大丈夫!」と言い聞かせるけれど、じつは痛みの塊をこころの奥深くに押しやって見ないふりをしていただけなのです。
日々の生活の中でこころに痛みを感じるときはいつでも、幼い自分がこわがって泣いているときです。本当は「今」の自分はぜんぜんOKなのです。
そして、その痛みは成長しなさい、といつも促てくれています。その痛みを手離すチャンスが訪れているということです。もうあなたはこわさに支配される必要はありません、身軽になりなさいと。痛みは、こころの荷下ろしをして軽くなって、本来のくったくのない自分に戻る作業を促しているといえます。
痛みを感じたら、ネガティブにとらえるよりも、「ああ、またひとつむかしの痛みの残骸を処分するサインだな〜。これをちゃんと感じて片付けて、より軽やかでくったくのない自分になろう」と前向きにとらえてみましょう。
問題があるとき・・・わたしたちは、「あ〜でもない」「こ〜でもない」と考えて悩むことでそれを解決できると信じています。
ちゃんと心配しないと、問題を放置しているような、真面目にやっていないような、サポっているような後ろめたさがあるようです。問題があるんだから、ちゃんと悩まなくっちゃ・・・って。あれこれ悩めばきっと解決策があるのでは・・・と考えるのです。
悩んだり考え続けるのって、ものすご〜くエネルギーを消耗します。だから、頭も身体もぐったり疲れるし、新たなアクションを起こすエネルギーも奪われかねません。
でも残念なことに、ひっきりなしに考えるということは「それにエネルギーをがんがん注ぎ続ける」ということなのです。次の瞬間も、そしてその次の瞬間も・・・同じものを持続させているようなもの。解決したいと思っているのに、逆にいっしょうけんめい創りだしているなんて・・・これは悪循環。
わたしたちは「未来はどうなるんだろう」「過去のあのことさえなければ」と悩んでいるときには必ず、「今、ここ」に存在していません。あ〜だ、こ〜だ、と心配しているときには、自分がいるべき時間から消えていなくなっているのです。
でも、「時間」というのは、「今、ここ」「この瞬間」しか存在しないといいます。物理学的にも。
だから、わたしたちがすべてのものを手にできる源も、「今、ここ」この瞬間においてしか存在しません。わたしたちは自分のパワーを「ここ」でしか供給できないのですね。「今、ここ」こそパワーの供給源なのです。
「あ〜だ、こ〜だ」の瞬間は、いつもその人はからっぽです。心はここに存在せず、未来や過去にお出かけ中。となると、あらゆるものを創り出せる「今、ここ」から残念ながら脱落しちゃっているわけです。パワーも供給されず、宙ぶらりん。これはなおさら不安定になります。
問題があるときこそ、エネルギーを消耗して、パワーの電源から切断されちゃう「考える」ことをしっかりとストップして、「今、ここ」に戻ってくるときです。
「考える」必要があるときだけしっかり考えるようにして、思考のスイッチはいったんオフに。
そして、せめてたった今だけでも「悩みはすべて解決された」「わたしには何の問題も存在しない」という感覚をつくりだしてみます。そうするとより「今」にいやすくなります。
風を感じて、光を感じて、匂いを感じて、音を感じて、温度を感じて・・・ここにいる感覚を強めてあげると「頭」の中から出てきて、ここにしっかりといられるようになります。「今、ここ」は頭の中にくらべたら、ぜんぜん怖いところではありません。
さあて、じゃあ、「今」「きょう」できる小さなことを見つけて、こころをこめてやってみましょう。
何にしても今に集中してできることをはじめると、次のステップが自然と姿をあらわします。・・・ちゃんと「今、ここ」にいるとこころが軽くなってきます。
かならずや、「今、ここ」がエネルギーを供給してくれて、次にしっかりと導いてくれるのです。
もし、あなたがまったく問題とは無縁の悩みのない人だったら、どんなふうに感じているでしょうか?
たった今、イメージして、その感覚をつくりだしてみてください。
・・・あなたはその状態を自分に引き寄せはじめています。
一生懸命心配したとしても、今の状況を変えるなんの役にもたちません。むしろ、その状態にエネルギーを注ぎ、長続きさせてしまいます。
それよりも、いま自分が望む状態をイメージして、それに意識を向けてみましょう。
それが方向転換する方法です。
「いま」というときは、あなたのパワーの源です。
あなたがしっかりと「いま」に存在しているとき、あなたは宇宙のパワーにとつながっています。そこは、あなたが必要とするすべてで充たされているところなのです。
毎瞬、あなたは「思考」というメッセージを宇宙へと発信しています。毎瞬、毎瞬、いつも、いつも・・・。そして、発信したそのものを受けとっているのです。
少し意識的になってみましょう!自分が考えていること、感じていることに。
意識して、安らぎや平和、思いやりや愛を選びましょう。
たとえ今、悩みや問題があったとしても、それは自分の人生のなかのほんの小さな一部分です。
それにすべてのパワーを与えて、乗っとらせないように気をつけましょう。
人生のなかには、他にもたくさんのいいことや、嬉しいこと、感謝することが日々存在しています。それらに注意を向けて味わい愛でましょう。そのうちに、あなたの人生の流れが穏やかにかわってくるのを感じることでしょう。
プチなるものは、かんたんに見過ごされがちです。
たとえば、こころのなかのプチもやもや、プチざわざわ、プチいらいら・・・。
こんな感情もしょせんプチなので、さっさと楽しいことに集中したり、お酒やスウィーツで気をまぎらわせたり、スポーツで発散すれば・・・「ホラ、もうぜんぜんOK!わたしってポジティブ」となるのです。
気分転換はまったく悪くないのですが・・・問題なのは、プチなる不快感は依然としてまだそこにあるということ。無視してもけっしてなくならないのです。このプチなるものを軽く扱うと、あとでしっぺ返しがやってきます。
なぜかというと、プチなる不快感は全然プチなどではないからです。表面の意識と、隠れている意識の大きさを比べたら、がぜん隠れている意識のほうが巨大で、プチ不快感はガチにそこに根をはっていて、それがチクリと表面意識を刺激してきます。だからほんとうの姿はかなりパワフルで、人生の障害物となってたびたび姿をあらわします。
プチだという理由で無視してしまったがために、わたしたちはこのプチが発する問題に足をとられつづけるのです。
このプチなる不快感こそが、わたしたちが隠している本当の気持ちや、本当に信じていることを教えてくれるシグナル。そして、プチとして表面化する目的は、隠されつづけたその不快感を片づけてほしいといっているのです。
自分の中で放置され、見捨てられた感情が、ケアされることを要求しています。これはちゃんと見てもらえるまで、手をかえ品をかえシグナルを送りつづけるのです。
人生にあまり問題をつくらないようにしようと思ったら、このプチなるもやもややざわざわと丁寧に向きあうことが大切です。
かすかにいやな感じがしたときに、いったん立ち止まり、「あれ?なんでこんな気持ちになった?」「なにをいやがってる?」「どうあるべきだと思ってる?」 ・・・と、ずっと無視してきた自分の中の声と向きあってあげます。その弱さ、悲しみ、ふがいなさを無条件に受けとめて、ただそのまま感じてあげます。
すると、それはあんがい簡単に消え去ります。わたしたちの生きる目的は「感じること」なので、こうしてちゃんと向き合って感じてあげると、それは消滅して、自分の大きな部分とひとつになります。そして、弱さだったものがパワーや強さへと姿を変えます。
これを繰り返しやっていると、クセになるのです。なぜかというと、このプチなる不快感をしっかりと受けとめて感じたあとに、なんか笑っちゃうような軽やかさがやってくるとこと。(ひとりでクックックと笑っていて、かなり不気味な人になったりしていますが・・・)
そして、いったん片づけるともうそれは戻ってこなくなります(片づくまで同じパターンは戻ってくることがあります)。勝手にこころがもやもやしたり、ざわざわすることがなくなって、スッキリしてくる感じがあります。
こうして、潜在意識を占領して、圧力をかけていたエネルギーの付加をどんどん減らしていくことができます。このプチ不快感が隠れていたスペースがすっきりするほど、どうやら本来の働きであった平和な感じとか、喜びとか、愛情とか・・・喜ばしいものがやっと姿をあらわせるようになります。
わたしたちのこころは、いつも「ひとつである(Oneness)」の状態に恋いこがれています。だから、この抵抗されて切り離されているプチ不快感を自分の中に戻して、ひとつにしてあげなければならないのです。こころの中でこの「ひとつである」の感じが達成されればされるほど、外の世界も「ひとつ」になり、対立や不和、不調和な問題が消えていくのです。
外側の問題を物理的に解決することも大切ですが、こころの中にある不快感としっかりとむきあってあげることは意外なほどに人生をスムーズにするパワーがあります。
ざわっときたら、もやもやっとしたら、気分を変えるまえに、是非一度、その感情を受けとめて、ひとつになって、感じてみることをしてみてください。それが終わったら、いつもの気分転換へどうぞ♪
そろそろ今年も半分終わろうとしています・・・なんと早いこと!
わたしたちは日々の忙しさに追われ、そのあれこれに対処することこそが「生きること」になってしまっています。
でもほんとうのところ・・・それは本末転倒。
なぜかというと、目のまえの現実は「自分のこころ」が生み出した結果なので、その結果に右往左往するよりはそもそもの原因である、すべてが生みだされる「こころ」をコントロールする方がかんたんなのです。
そのためには、一日一回は静かに自分と向きあって、今の瞬間に「何を感じているのか」を感じてみましょう。その「感じていること」こそが、現実を創りだす「素」となるものです。
お風呂の中でゆったりこころを静めてみてもいいし、電車の中でもかまいません。日々の刺激の下に横たわっている、ほんとうの自分の気持ち、ほんとうに感じていること。・・・なにか他のものでごまかすことなく、ただそのまま正直に感じてみましょう。この自分のバイブレーションともいえる気持ちが、日々の色合いを決めていきます。
ほんとうはちょっと沈んでいるのに、それを一生懸命忙しさや、他の気持ちを装ってごまかしていたかもしれません。見ないふりをしていたのかもしれません。
それがそこにあるのは、「そこにあること」をちゃんと認めてあげていなかったから。だから、ずっとずっとそこに横たわっていて、そのバイブレーションで人生全体の色調を支配してしまっているのです。
ただ「ほんとうに感じていることを感じてあげる」だけで、それは終わりにすることができます。自分のこころの上にかかっていた臼雲を追いはらうことができるのです。癒してあげることができるのです。
「ほんとうに感じていること」を見つけたら、言葉をつかわずにただ「その感じ」を全身で受けとめてあげます。
「ほんとうに感じていることを感じる」ことこそが、「ほんとうに生きる」ということ。指先の細胞までがびりびりとするかもしれないし、胃のあたりがどくどくと感じるかもしれません。全身で「感じて」ください、「生きて」ください。しっかりと、今の感覚を受けとめます。
そして、わたしたちの魂は、身体は、「ほほ〜、こんなバイブレーションもあるんだね〜。なるほど。わかった、わかった。体験したからもういいや」・・・とその経験、感覚は終わりになるのです。そして、ハイつぎへ!・・.駒をすすめることができます。
ポジティブな感情に関しては問題なく全身で感じることはできても、ネガティブといわれるものに関してはついついブロックして、すぐに他の感情にすりかえてしまうわたしたち。だから、同じネガティブなものからなかなか抜けられず、繰りかえすことになります。
今、この瞬間の気持ちを大切に感じてあげることは、立ち止まらずに生きるうえで大切なことなのです。
今の感情を大切にすると、ずっとながらく溜まっていた潜在意識の中のジャンクな感情をお掃除することにもなり、二度と足をひっぱられなくなります。そして、本来の自分らしさとつながるスペースも広がります。本来の自分らしくなることこそが、流れにのることなのです。
さて、今、なにを感じているでしょう?思考ではなくて、こころの深いところではなにが起きているのでしょう?静かに立ち止まって、深く呼吸をして、その気持ちをそのまま受け入れてあげましょう。
「すべては自分のこころが創りあげた現実」とありましたが、わたしはマイナスのことしか創り出せません」・・・ブログ読者のAさまよりのメール。
わたしたちは毎瞬、毎瞬、思いや感情、信念を、バイブレーションというかたちでまわりに発し続けています。休むことなく、いつも、いつも、いつも・・・。
わたしたちだけでなく、机だって、椅子だって、石ころでさえも、独自のバイブレーションを発しています。だからこそ、「この洋服を着ていると落ち着く」「この場所は心地よい」「この人といると楽しい」というように、自分と同じ種類のバイブレーションを感じることができます。
わたしたちのもつ、このバイブレーションションこそが、わたしたちの次の体験を創り出してくれます。創り出す、というよりは、むしろ「バイブレーションによって次の現実が選択される」といったほうが正しいかもしれません。
なぜなら次の瞬間の可能性は、じつは星の数ほど存すでに在しているからです。
NASAのバップル望遠鏡がとらえた星団の写真。宇宙とは、こんな星がひしめく様子が無限に広がっているところです。
もし星一個がわたしたちの可能性のひとつだとすると、これが無限に存在し、その中からわたしたちはひとつの次なる現実を選択します。自分のバイブレーションがそれを選びだしてくれます。・・・だから、ほんとうは何でもアリ!どんな未来でもアリなのです。
物理学者のカク・ミチオ氏は、パラレルワールドとしてすでに存在しているたくさんの可能性を紹介されていました。カク氏の表現では、すでに存在するたくさんの現実は泡のようで、シャボンをぶくぶくしたように隣あってたくさん存在していると。そして、泡同士の膜は薄いので、他の現実に移動するのはじつはとても簡単なことなのだと説明されていました。
さて、そんなふうにすでに選び放題のたくさんの現実がわたしたちを待ち受けていてくれているわけです。だから、あとはその目指す現実にチューニングしてあげるだけ。つまり、体験したい現実のバイブレーションに自分が今ここでなってみること、これが他の現実を選ぶために大切なことのようです。
そのためには、まず、
ステップ1: 今の現実で被害者にはならず、「わたしがこれを創りました。まさしくわたしの仕業です!」とちゃんと認める。(「わたしじゃないもん!」と、外に原因があると考えると自分のパワーを外側に渡してしまいます。はっきりはわからないにしても、かならずどこかの時点でその現実を選択しているものです。)
ステップ2: 「自分でした!」と認めると、自分にものごとを変えるパワーが戻ってきます。
ステップ3: そして、今、思い通りになっていないがために直面している「イヤな感情」をまずは無条件で受けとめて、全身で感じてあげます。「感じること」はものごとを正して、軌道にのせるには大切なこと。(じつはこれは、今起っていることではなく、こども時代に抑圧した感情を解放するために、わざわざその感情が引っぱり出される状況を自分で創り出しています。全身で感じて、その抑圧した感情を解放し終わりにしてあげます。)
ステップ4: そしてここではじめて、新たに創り出したいもの(可能性の中から選びたいもの)を決めて、その場面をありありと思い描きます。もう、そうなっている自分を感じます。そうすると、そのバイブレーションを創り出すことができます。
ステップ5: そしてはじめて、あまたある未来の中から、想い描いたものにチューニングし、その現実のなかで生きはじめます。
・・・というよいうに、まず被害者にならないこと、そして今、出てきているイヤな感情にちゃんと向き合うこと、これができてはじめて新しい現実を選ぶパワーを手にすることができるのです。。
わたしは、NASAの宇宙の写真をながめるのが大好きです。だって、「わたしの未来、こ〜〜〜んなに選び放題!」って嬉しくなるから。・・・その事実を知るだけでも、自分の意識が、可能性が、自然と広がってくれるのです。
わたしがしばしば感じること・・・
それは、「ポットやトースターといったシンプルな家電にでさえ【取り扱い説明書】がついているのに、なんで人間には【取り説】がついていないのだ?!」ということ。
それってスーパーコンピューターを与えられて、「あとは勝手にいじってね」と言われているようなもの。
ぜひぜひ小学校で、いえ幼稚園でもいいです、こころの取り扱い説明を義務づけてほしいと思ってしまいます。それは漢字が書けることよりも、計算が早いよりも、ずっと大切なこと!(こころこそが人生を「創りだす」モト!こころを制すれば、人生を制するともいえるのです。)
残念ながら取り説はないけど ・・・ どうやら「ナビ」はついているようです。
「ナビなんてあったの」って? ・・・ はい、みなさまおひとりおひとりにナビ搭載!それも、かなり正確な!
たしかに、最近のスマホのように、自分から話しかけておうかがいをたてないとまったく起動はしないのです。それを知っていて、おうかがいをたてた人だけのものなのです。
スマホの「しゃべってコンシャルジュ」だって、なにも尋ねてないのに勝手に指図をしたりはしません。たずねたときだけ、対応してくれます。
なので、わたしたちのナビも控えめに謙虚に、役にたてるときをじっと待っていくれているのです。
ひとたび尋ねることが習慣になると、じゃんじゃんお答えがくるのに驚くかもしれません。
このナビはわたしたちと違って、過去も未来もすべてを見通して視野に入れたうえで、そこに関係する人全員がハッピーになるような、そんなベストな解決策をいつも提示してくれるのです。一方、つねに過去の経験に縛られて、過去の繰り返ししか頭に浮かばないわたしたちにとっては、まったく考えもつかない解決策であったり、また新しい流れに運んでくれたり・・・おうかがいをたてることは大切です。
ただ自分を静かにして、自分自身に「この問題の解決策を高い視点から教えてください」とお願いするだけ。あとは答えがやってくるのを期待しながら、ひらめくまでほっておきます。ちゃんと期待するとやってきます。直感としてやってくるかもしれないし、友人のアドバイスであるかもしれないし、ふと目にする、耳にするひとことかもしれません。 ・・・つまり、いったんお願いしたら、どこからでも答えはふってくるのです。 ・・・お答えのキャッチもうまくならなくてはなりません。
これに慣れてしまうと、決断の怖れや、進むときの迷いや、もろもろの面倒くさい思考から解放されはじめます。(これに慣れるといっても、ナビは結局、本当の自分からやってくるので「自分」であることには違いないのですが)。そして、その結果にも必ずや満足すると思います。
どうも一人で頑張っちゃうクセがついている方、たよっちゃいけないと思っている方、自分で考えすぎてわからなくなっちゃう方 ・・・ 甘えちゃいましょうよ!ほんとうの自分に!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)
8月のイブニングセミナー「頑張っていいるのに報われない・・・そのわけは?」
詳細、お申し込みはこちらから。
しばしばクライエントさんから尋ねられるご質問、「わたしの使命って何でしょうか?」「わたしは何をするため生まれてきたのでしょうか?」と。
自分がここにいる意味を自覚したい・・・ということですよね。もちろん、セラピーのなかにはそのような内容も含まれるのですが・・・。それはわたしが答えることではなく、自分の中で感じること。
たとえば・・・「今、あなたがたくさんのネコに囲まれているイメージが浮かびました。ネコにかかわるお仕事がいいでしょう」なんて答えたとします(ぜったいありえませんが・・・汗)。でも、その方はネコアレルギーかもしれないし、イヌの方が好きかもしれません。万がいちネコが好きだったとしても、仕事にはしたくないかもしれません。
たしかにセラピーでお話ししているうちに、ご本人よりも客観的に長所や短所をとらえられたり、才能がみえてきたり、深い意識の中で表現されたがっているものに気づいてしまうことは多々あります。
それでも、占いであろうとセラピーであろうと、外から一方的に与えられたものは本当の意味で自分に役に立つことはありません。たとえそれに従ったとしても、与えられたものには真の喜びやイキイキ感、自分がつき動かされるエネルギーはがないのです。
わたしたちが本当にお腹の底から「わかった」「知った」「実感した」とき感じられたときこそ、それが自分を突き動かしてくれるもの。そのお腹の底からがっつりと気がつくプロセスをお手伝いするのが、セラピーの役割。だからそれは与えられるというよりも、セラピーを進めていくプロセスのなかで自分の深い部分と通じるようになってなじめて、自ずと自分のなかに明かされてくるもの。ご本人の深い部分につなげていくのが、セラピーセッションなのです。
セラピーはいわば、「ほんとうのすべてを知っている自分」の上にかぶさったた〜くさんのホコリ、仮面(それは今生のものだけではないかもしれません)を、きれいに取りのぞいて、そのホコリや仮面でさえもエネルギーとして自分の中に取りこみ一体化し、真の部分の輝きをのびのびと取り戻すこと。
生きてくる中で怖れから築いてしまったたくさんの防御やまちがった考え方に気づいていくうちに、傷つかないように奥へ奥へと追いやった本当の自分が少しずつあらわれはじめます。これこそが、わたしたちの人生を導いてくれる水先案内人でありパワーなのです。
その部分こそが、自分は何をしたくてここにいるのか、どうやって生きたいのかをちゃんと知っていて、そしてその部分に耳を傾けるほどにそれは語りはじめ、魂がふるえるほどの愛情や感動やイキイキした感じを人生にフィードバックしてくれることろでもあるのです。
ついついわたしたちは、何かが欲しいときに外へ外へと探しに出かけます。でも、外には実際何ひとつ答えはありません。外に頼るということは、そこにあるほんとうの自分の力を信頼せず、ないがしろにすることでもあるのです。いつまでたっても、そこにある燃え上がるようなパワーを見つけることはできません。
外に探しに行くとき、もはやわたしたちの深い部分の叡智はすでにあなたに語りかけることができなくなります。あなたが耳を傾けなくなってしまったから・・・・。
自分を信じるスタート地点は「自分が何を感じているのか」常に気遣ってあげること。「ほんとうのところはどうなの?」と自分の本心を包み隠さずくみとってあげること。たとえそれが最悪に落ち込んでいようとも、元気づけるよりはただ感じて一緒にいて、「そうだよね。感じてあたりまえだよね」とそう感じることを許してあげること。
嬉しいときは簡単ですが、つらいときにはわたしたちはさっさとその感情をなかったことにして潜在意識の中へ深くしまいこみます。あるいはニセの感情とすり変えようとします。これこそが自分の輝きを阻止するホコロや仮面へと変わってしまいます。
しかし、丁寧に感じることをしていくうちに、ひとつひとつの自分の秘密を明かしてくれるようになるのです。
生きることは、つねに自分対自分との関係。それが世の中に投影されてきます。それをわたしたちは常に見ているのです。
そろそろ外側にばかり答えを探しに行くのをやめて、静かに自分の中にある本当のことへと目線を移してみましょう。もっともっと、自分の内側を感じ、大切にして、たとえそれが最悪でも、やさしい友のようにただ受けとめて、よりそってあげましょう。
そうすると、あなたの中心から大切なことが解き明かされて、パワーや愛とともにそれを感じられるようになってくるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)
8月のイブニングセミナー「頑張っていいるのに報われない・・・そのわけは?」
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日々、カウンセリング・セラピーというお仕事をしながら、クライエントさんとともにさまざまな人生の問題を紐といていくうちに、ほんとうに私たちは子どもの頃の間違った思い込み(誤解)を、宇宙の普遍的なルールのように後生大事に意識のなかに抱えこんで生きているんだな〜と感じます。
そしてそれは、自分にとってあまりに「あたりまえ」すぎて、本当かどうか疑ってみる機会さえありません。当然のあまり自分の一部になっています。
幼い頃はそのルールに従っていれば、親の保護やら愛情らしきものがもらえたように思えたかもしれません。でも、お子ちゃま向けだったルールが大人にとって役に立ち続けるとは、誰が考えてもおかしな話。・・・私たちが握りしめている子どものルールは、大人のわたしたちの首をしめて、それはそれは生き心地を悪くします。なぜなら、それは本当の自分でいることを許さないからです。
私たちは何が子どもの頃のルールかも調べることもせず、ただただそれを持ち続けることによって、同じストーリーを再生し続けます。
たとえば・・・あまりにもはしゃぎすぎて元気がよすぎて、ほとばしるエネルギーで母親をぶってしまった男の子は、「もう、なんて乱暴なの、この子は!」と母はカッとして力いっぱい払いのけるかもしれません。するとその動作とひとことによって、その子は「自分のなかから湧き上がるエネルギーを表現すると一気に愛を失うのだ」と、心に決めるかもしれません。「ボクがほんとうの自分でイキイキしてると、嫌われて一人ぼっちになる」・・・。
でも、母は母で、子どもが荒っぽく飛びついてきた瞬間に、もしかすると幼い頃、男の子にいじめられた体験が甦ったのかもしれません。無邪気な表現を、無意識のうちに攻撃と解釈してしまったのです。
とくに大きなトラウマ的な体験がなくっても、こんなたった一回の経験で子どもだった私たちの無邪気なハートは一生閉じてしまったりするのです。 ・・・ 「あの日、お母さんはお父さんとケンカしていらいらしていたんだよ」とか、「ひとりぼっちの子育てに疲れて、誰かにあたりたかったんだよ」とか、「子どものとき、いじめられたのを思い出したの」とか・・・誰かが誤解をといてくれるまで「ありのままでは愛されない自分」というレッテルを貼り続けてしまうのです。
この自分に対する間違った思い込みは、のちの人間関係の中で何度も痛みをつくりだします。何度も、何度も、同じように戻ってくるのです。
なぜなら、自分の高い意識は「どうしてもこれを癒したい」と思っているからです。そのためには、問題を目の前にぶらさげて、自覚してもらう必要があるからです。「ねえ、ねえ、早く問題に気がついて、この誤解を癒そうよ」と。
そしてさらに高い目線から見ると、子どものときの母からの傷ついた一言でさえ、じつはもっと昔の魂レベルの痛みを浮上させるために起きています。つまり、もっと前の人生での課題が、子どものときの親との関係に再生されて、それが人生での癒しのテーマとなるのです。
私たちがここに生まれてくるのは、「すべての誤解をといて、本当の自分を取り戻すため」。そのために、ここにやってきて、早いうちから親に問題提起をしてもらい、その後の人生で同じ問題を繰り返すことにより、自分が今回どんな問題のどんな誤解を解かなければならないかを問題に直面しながら気がついていく・・・ということです。
でも、問題を外型のせいにして、「あいつが悪い!」と言ってしまうと、延々と自分が自由になるチャンスを逃します。
外に何がみえようとも、「これはいったい、わたしの中で何が起きているのだ?小さいころの痛みとこの問題の関連性は何?何が繰り返されているの?」と自分に問いかけると、だんだんと自分の誤解をとくポイントが見えてきます。高い意識も気づきに参加してて、誤解のからくりが見えてきます。
何かあったときに外側と戦うことをやめて、自分の中に何があるかお問い合わせする習慣をもつと、もう同じパターンの問題で苦しめられることはなくなります。
さてさて、あなたの幼少期の心の痛みとは何だったのでしょう?(トラウマというものがなくっても、私たちの子ども時代はフラストレーションがいっぱいあったはずです)、それはどんな形で再生され続けているのでしょう?そして、そこにはどんな誤解がひそんでいるのでしょうか??
探偵になったつもりでナゾときをしてみると、「あ〜〜!・・・なるほどね」という気づきがやってくるかもしれません。そうしたら、ついに固くとじていた環がとけるときです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
8月のイブニングセミナー「頑張っていいるのに報われない・・・そのわけは?」
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私たちは、「自分に欠けている」「足りない」と思うものを日々調達する旅を続けています。
それは、お金であったり、知識であったり、資格やステータス、あるいは自分をもっと素敵に見せてくれる恋人であったり・・・。
これは自分のこころにポッカリと穴があいていて、まるで傷口がさらされているように感じているため、その穴を満たしてくれる「誰か」や「何か」をたえず探し求めているわけです。
そのポッカリあいた穴をピタリと満たしてくれたり、なんだ穴なんてなかったんだと忘れさせてくれるのが、理想の相手、恋する人となります。
この穴を埋めてもらうにはあの人じゃなくっちゃ!あの人が必要だ!と頑張るわけです。頑張るというのは、背伸びをしてもっと素敵である自分を演出することで特別になって注意をひこうとします。
いったん相手を手にしたら、絶対逃げられてはいけません。またあの穴があらわになったら、自分はとてもみじめな気持ちになるし、そんな自分を認めたくないからです。まさに、相手が自分を愛してくれることが生存にかかわるようにさえ感じてしまうわけです。
しかし、手に入れた安心感はつかの間。・・・こんどは相手との戦いがはじまります。なぜなら、自分の穴にぴったりであっていいはずの相手は、勝手に振る舞いはじめるからです。
これは相手が意地悪して勝手に振る舞っているのではなく、感じるままに自分らしくありのままに、ふつ〜に生きているだけなのです。
私たちはその人のある一点が自分のニーズにあっていると、あたかも全部が自分の思ったとおりであると勘違いします。相手のすべての姿を知るわけもなく、近づけば近づくほど実際の相手の姿、自分にとっては「相手の未知の部分」が姿を現すわけです。
また同時に、近しい相手は自分の隠された意識を「鏡」のように映しだす役割をしてくれます。そもそも「自分は欠けていて、どうしようもない」という思いか
ら相手を求めているので、相手の中に見えるものはさらに自分が隠し持っていた劣等感で、それを強化してくれるものとなります。例えば、相手のなにげない言
動に自分がひけめを感じたり、大切にされていないのではと不安になったり・・・「欠けている」証拠をいっぱい見つけてしまうのです。
この相手がいれば自分のこころの痛みは癒されると思ったのに、残念ながらその痛みをさらに強化することになってしまいます。また、相手の注意をひくために
本来の自分ではない自分をやり続けてきたツケもまわってきます。自分がその関係の中でどんどん息苦しくなっていくのです。
私たちは「足りないもの」があると本能的に外に向かって探しに出かけますが、本当は外の世界から得られるものは何もないようなのです。
自分の中に「あった!」と思うものが、しっかりと外に現れる・・・・つまり、まったく逆のメカニズムなのですね。
だから、自分の中にポッカリと穴を感じたら、まず自分がその穴にちゃんと向き合ってあげる必要があります。人に絆創膏の役割を押しつけるのではなくて、自分自身がちゃんとケアしてあげること。
「ああ、こんな痛みを持っていたんだね〜。ずっと痛かったね〜。つらかったね〜」と痛みがあることを認めて、共感して、そしてどうして欲しかったのかその痛みに聞いてあげること。「ああ、もっと優しくしてほしかったんだね〜」「一緒にいてほしかったんだね〜」「そのままでいいって言ってほしかったんだね〜」とその声をちゃんと汲み取ってあげるとこ。それを与えてあげるのは、今でもぜんぜん遅くないのです。
私たちが自分の中に「痛み」があることにちゃんと気づきはじめると、それを外側に「どうにかしろ!」と要求しなくなります。そう、「痛み」の存在に気づくまでは、わたしたちは「パートナーこそが私を幸せにするべきだ!」という勘違いをしています。でも、自分も自由に生きたいように、パートナーも自由に生きたいし、生きる権利があるのです。
本当のところ、誰も「自分を幸せにするべき」ではないのです。もし一人だけいるとしたら、それは自分自身。
セラピーにおける恋愛、パートナーシップのご相談も、もとをただせば「相手がわたしの要求を満たさない。だから相手を変えるべきか、別れるべきか」なのです。関係がうまくいくとは、自分の要求がスムーズに満たされるかどうか。・・・相手にこれをしているときには気づきませんが、相手にこんな気持ちで自分を見られていたらいやですよね。「わたしは道具じゃないぞ!」と言いたくなります。
そもそも相手は「自分を幸せにするために存在している」のではなく、お互い自分らしい人生を生きて、それを「分かち合うために」存在している、という目線でみはじめると、今までもっていた怒りが「ちょっと違っていたかも・・・」と思えるようになります。
とくに映画やドラマの恋愛にこってりはまっていた方は、「え〜〜〜、相手に求めちゃいけないの?」とすごい意識の大転換になるのです。
すべては「自給自足」。外から調達しようとすると、相手に戦いを挑むことになります。大切だったはずの相手が「敵」になっちゃう。
でも自分の内側を変えてみると・・・これは予想外に大きなパワーがあるのですが・・・自分のこころが変わると、おのずと世界がそれについてきてくれる・・・そんな不思議を体験をすることになります。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
8月のイブニングセミナー「頑張っていいるのに報われない・・・そのわけは?」
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最近、恋愛についてのカウンセリングをしていてとみに感じること・・・・
それは、どうして恋愛だけ、他の人間関係と著しく違うルールをあてはめてしまうのか・・・ということ。
ふつうにいい人間関係を育てたいと思っているときには絶対やらないことを、恋愛ではなぜか平気でやっちゃう。
もともと恋愛も、一人の人ともう一人の人との関係にすぎません。なのに、ふつうの関係ではやらないイレギュラー、あるいは反則行為ともいえることが恋愛では横行している感じなのです。
自分の親友にだったら、クリスマスに「あれ買え!」「これ買え!」「こんな安いものですませるなんて!」・・・という文句はおおよそ言わないのに、「彼氏」という名札がついたとたんに妙に搾取的になれる不思議・・・。
連絡だって、親友だったら「話したいとき」「相手を思いやりたいとき」に自然と電話をするのに、これも「彼氏」という名札がついている人には、「自分からはぜったいかけない」「じらせたほうがいい」、「心配させたほうがいい」など ・・・ そんなことをススメる指南書がいっぱいあって、またまたそれがベストセラーになっていたりします。
でも、そんな恋愛ルールブックでほんとうに幸せになっている人がいたら見てみたいです♪ 恋愛ルール本が教えているのは、相手のココロをもてあそぶ、あるいは支配下におく方法であって、本当に仲良くなる、距離を縮めてわかりあう、愛しあう方法は教えていないのです。
「愛」というものとはほど遠い、どちらかといえば戦いに「勝つ」方法。そうなったらパートナーとの関係は「安らぎ」ではなく「勝つか、負けるか」の攻防戦になっちゃうのですよね〜。大切だったはずのひとは、いつのまにか自分にとって打ち勝つべき「敵」となっているわけです。
だからふつうの人間関係はちゃんと問題なくこなせるのに、「恋愛」という名札のまえにはすっかり混乱しちゃう。「彼氏ができた!」というスペシャルな状況に舞い上がり、そこに今までの理想のすべてをつぎこむわけです。
とくにお若い世代は「ルール本」や「ドラマ」や「映画」にいっぱい擦りこみをされていて、同じようにやらなくちゃ・・・と思ったとたん、シンプルな人対人のあたたかなつながりだったものが、へんにデフョルメされてグロテスクなもにに変わっていく感じがします。
結局、人が二人でうまくやっていくには、まさに「二人三脚」の助け合い以外のなにものでもありません。だから、恋愛に悩むクライエントさんには、「自分の彼氏」だとか「恋愛関係」だとか、そんな名札はおいておいて、これはガチにひとりの人ともうひとりの人が助けあってうまくサバイバルしていく「互助会システム」だと思ってください、とアドバイスします。(互助会にだましあいは不要です!笑)
「彼との恋愛」という名札を「互助会システム」という名札に変えるだけでまったく違った関係が生まれます(笑)。だって、よい関係は「だましあい」じゃなくって、愛のある「助けあい」にしかありませんものね。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
●8月のイブニングセミナー「頑張っていいるのに報われない・・・そのわけは?」
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●9月12日のイブニングワークショップ 「グループ・ヒプノセラピー」
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前回のブログに、セミナーで使ったメッセージカードのことを書きました。
セミナー会場でご自分の席を選んでいただきます。まずそこに置いてあるレジュメの裏にメッセージが貼付けてあり、それが今回のセミナーテーマについてのその方ご自身の「原因」となるメッセージ。テーマ「頑張っていても報われない・・」の場合だと、報われてない原因です。その後のお茶タイムでトレーからひとつクッキーを手にすると、その裏にもメッセージが。これはその方の問題の「解決策」となるメッセージ。そして、最後に小さな封筒に入ったカードをひいていただきます。ここには、「解決策」の向こうに待ってる未来の「贈り物」のメッセージがあります。(それぞれ、違うことが書いてあります。そして、すべてその方に選んでいただきます。)
たとえば、最初の原因のカードが「わたしには価値がない」、次に解決策が「許し」、最後の未来のギフトが「豊かさ、あなたは宇宙のこども。愛も豊かさも平和も、すべてがあなたの当然の権利でです。たっぷり受けとりましょう!」だとすると・・・・ああ、わたしは自分に対して価値がないという考え方にしがみついていて、自分の考えこそが自分自身をいじめていたんだな〜。そろそろ自分と和解をして、そのままの自分をやさしく受け入れるときがきた。そうしたら、本来自分にたっぷりと与えられていた自分の豊かさが受けとれるようになるんだ〜」・・・というふうに、カードの意味がつながっていくわけです。
ご参加の皆様のセミナーアンケートの中にも、メッセージがあまりにも自分にぴったりすぎて驚いた!とのコメントがありましたが、その後もメールで「図星でした」「わかった気がしました」「あぜんとしました」など、いろいろとフィードバックをいただいております。・・・ほんと、毎回、すべての完璧さにわたしもびっくりします。
宇宙には「たまたま」はないので、どれをひいてもパーフェクトになるのです。
これはセミナーに限らず、個人カウンセリングの中でも使っているのですが、これまた驚くほど正確!ひとしきり、クライエントさんさんとお話して、「じゃあ、潜在意識にどんなパターンがあるかカードに教えてもらいましょうか?」とカードをひくと、まさにそこまでにお話してきたことがまるごと要約されて出てきます。
たとえば、BFくんにあれこれ要求しちゃうことが悩みのたねだった女性は「依存」というカードにびっくり! 解決策は「自分を信じること」でした。つまり、「自分にはない」と決めて外に求めるのではなく、自分の中にすべてがあることを知りましょう、とうことです。そして未来のギフトは、「魅力」。つまり、外に求めないことで、あなたはもっともっと魅力を放ち、恋人とうまくいくようになるのです、ということです。
みなさま、あまりにぴったりなことに驚いて「カード、全部見せてください」とおっしゃるのですが、お見せすると「このひいたカードが、やぱりいちばんぴったりです」とおっしゃいます。そして続いてひく「解決策」と「未来のギフト」のカードも、クライエントさんさんがまさに何を求めてセラピーの扉をおしたのか、「そうそう!これがほしくって、ここに来たんです」とおっしゃいます。
こんなふうにメッセージカードたちは、「世の中には偶然なんてないんだよ」「あなたが選んだものは、いつだって正しい」と教えてくれるのです。
しかし、こと人生となると・・・少し完璧さを見つけるのがむずかしくなります。そこには長い時間というものが存在して、原因と結果のつながりが混沌としてしまいがちです。そうなると、出来事は全部バラバラに起きているように感じてしまいます。
ものごとをたまたま選んだとか、偶然そうしたとわたしたちは思っています。そしてそれが、どこにどのようにつながっているかなんてまったくわかりません。でも、カードは人生の縮図のように、「すべてのことに偶然はなく、それらはきれいにつながって、ちゃんとうまくいっているのですよ、完璧なのですよ」と教えてくれるのです。
美術館で大きなタペストリーの作品を観るとき、あまりに近よりすぎると何がなんだかわからなくなります。でも距離をとってながめると、明るい色もあり、暗い色もあり、それで美しい構図がなりたっているのがわかるのですよね。
だから、自分の人生のただなかにあるわたしたちは人生に近寄りすぎて、意味がまったくわからなくなっているともいえるのです。でも宇宙は、「大丈夫!今は全体は見えないから不安でしょ?でも、もっと離れて、全体から、長い目でみたときに、すべてはあなたの最善の幸せのためにベストなのですよ」と言ってくれています。
全体を観るまではその完璧さにはなかなか気がつかないのかもしれません。でも、「きっときょうの出来事も、明日の出来事も、今どう見えようとも大きな幸せのためにちゃんと完璧うまくいっている」、そう信じて肩の力をぬいてみましょう!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
●9月12日のイブニングワークショップ 「グループ・ヒプノセラピー」
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みんな、日々いろいろ頑張っています。お仕事に、家事に、子育てに、お勉強に・・・。
「頑張って努力すれば、報われるはず」と信じているからこそ頑張っちゃう私たち。たしかに努力はちゃんと答えてくれるところもありますが・・・でもこのテーマに共感する方が多いということは、どうやら努力に対する報酬は見あっていないようです。
なぜ私たちは、頑張っても報われないのでしょうか?
「頑張ったら報われる」と信じていることじたい「頑張らないと報われない」、つまり「そのままの私ではダメ」という無価値感がひそんでいます。そしてさらに、「頑張ることで、誰かが報いてくれるはず」とも信じています。つまり、報われるか報われないかは自分以外の誰かが決めるのだ、という無力感もここにあります。
私たちは「報酬(いいこと)」は常に外からやってくるものだと信じているので、外側へアピールしたり、外側をコントロールしたり、外側を気にすることにエネルギーのすべてを使ってきたわけです。そうなると報われなかった場合、上司や、夫や妻、先生、親など、まわりに腹がたち、自分はおのずと被害者になってしまいます。「なんでみんな報いてくれないんだよ〜!」と。
少し違った見方で世界を見てみると・・・私たちは自分の知覚の中に住んでいるともいえるのです。外に見えている世界はじつは自分の心なかの世界。自分が世界に与えた意味を体験し、自分の世界への解釈を知覚するのです。
つまり、世界じたいに意味はなく、意味を与えたり、解釈したり、知覚するかは自分しだい。自分が見たいように見て、見たとおりに体験している、ということです。
「報われない」という体験をする場合、先ほども書いたように「自分は無価値だから、無力だから、報われるはずはない」という考えが先にあって、それを通して世界に向き合っているので、まさにそういう世界が見えてくるといえます。
私たちは大きくなっていくなかで、さまざまな感情を体験します。両親とのあいだに大きなトラウマはなかったとはいっても、「ねだったオモチャを買ってもらえなかった」とか「(躾と称して)あれこれ怒られた」というだけで、こどもは「価値がないから」そう扱われんだ、とすぐに自虐的な解釈をしてしまいます(こどもは自己中心的ですから、全体など見られません)。
そして誰かがその誤解を解いてくれるまで、つまりお父さんとお母さんはあなたを愛していなかったわけではなく躾をしていたんだよとか、たまたま機嫌が悪かっただけであなたのせいじゃないよと、本当のことを教えてもらうまで、その無価値観の思いこみは後生大事に心の中にしまいこまれています。
一生、その思いこみが訂正されないままである場合もあります。そうして、この「価値がない」という信念を通して世の中を知覚すると、容易に自分をものごとの被害者に仕立ててしまいます。すると、人生に対して「報われない」体験がましてくるわけです。
「頑張っているのに報われない」というとき、本当はなにが起きているかというと、この後生大事に隠しもっていた間違った信念、誤解を正すことが起きているのです。正すために、それを外側に見せてくれているのです。
わたしたちにとって「生きる」ということは、「なんの歪みも抵抗もない、そのままのピュアな自分に戻る」プロセス。なので、日常で遭遇する「うまくいかない、報われない」ポイントとは、小さいころからの自分に対する誤解が何なのかを教えてくれているわけです。小さい頃くっつけてしまったいらない自己イメージを解消するために、外側に映しだして教えてくれているのです。
たとえば、いくら頑張っても会社で正当に評価されない男性。彼はいつも「俺のことをもっと認めろ〜」という怒りにも似たフラストレーションを抱えています。この気持ちこそ、小さいころに慢性的に親との間で感じていた気持ちでした。運動会でいくら一等をとっても、テストで100点をとっても、さして反応を示さない親に、彼は「もっと褒めてよ!認めてよ!」と悲しい気持ちを抱いていたのかもしれません。でも幼いこどもは自分のつらい感情をどのように処理していいのかわからないので、自分の心の奥に抑圧して「なかったこと」にしてしまいす。つまり、心のゴミ箱に捨てて、てフタをして、もう大丈夫!何もなかった! OK!と思っていたのです。
でも、そのゴミ箱は透けていて、その中に捨てたものは、全部自分の外側、自分の見ている世界に映し出されてきます。結局、自分が拒否したものに、自分の世界の中で直面することになるのです。
それは、ちゃんとゴミ箱をカラにして、ゴミが外に映し出されることがないように、ゴミを永遠に処理すして、ピュアな「そのままで価値のあるあなた」に戻るためなのメッセージなのです。
うまくいかないことは、「心のゴミ」が何であるかを教えてくれていて、「何を手放せばいいのか」のヒントです。
「報われない」ときに感じる感情は、まさにこどものころに慢性的に感じていたフラストレーションと同じものです。先ほどの褒めてもらえなかった男性を考えると、社会に出てからもこどもの頃のように「褒めてもらえない」同じようなパターンが起こり、同じ感情の痛みを感じ、自分の持っているキズを教えてもらうのです。
では、「報われない」パターンを手放してみましょう!
【 1 】 まず日常緒で繰り返されている「報われない」パターンが、決して外からやってくるのではなく、自分の内側からやってきていることに気づきます。(「○○さんのせいで報われないと思っていましたが、ぜんぶ私でした。わたしの心の中のゴミが外に見えていたのです。こどものときの「認められたい」痛みがまだそこにあったのです」と被害者になることなく認識します。)
【 2 】 その感情を無条件に感じて、手放してあげます。(「認められたかった」悲しみを、言葉ではなくエネルギーとして全身で受けとめてあげます。感情はちゃんと受け入れて、「感じてあげる」ことで無くすことができます。)
【 3 】 感情を受けとめたら、新しい選択をします。(この感情は、過去のこどもが感じていたものだった。それはもうここでは起っていない。今の自分はもう、じゅうぶん認められてもいいんだ!)
【 4 】 そして同時に、まわりの人に自分が求めていたものを与えてあげること、つまり積極的に他の人を「認めてあげる」こと。(自分が外側に与えてあげることは、心の中では「自分はすでにそれを持っているだ」と認識します。)
「報われないパターン」によって過去の痛みに気がつき、自分に対する誤解を手放すことによって、だんだんとほんとうの自分が姿をあらわすことができます。痛みを繰りかえし続ける人生ではなく、ついに痛みを手放した「本当の自分自身」が外側に映し出されることこそが、自分らしい人生となっていくのです。
自分に「報われないパターン」を見つけたら、じつはそれはチャンスです!被害者、犠牲者になって外を責めるのをやめて、今起きている現実は「自分の心の中の世界」のあらわれとして気づいてみます。気づいたらただ手放してあげるだけ。まずは認識することこそが大切です。
修正のポイントは決して外の世界ではなく、いつも自分の心の中にあるのです。
そして一つひとつの痛みを手放すことによって、わたしたちの目にする世界をだんだんと平和にしていくことができるのです。
過去が悔やまれますか?
未来が気にかかりますか?
でもあなたが唯一存在できる時間は、「今、ここ」だけしかありません。
自分が存在することがゆるされているたったひとつの場所は、「今」なのです。
「今」にとどまりましょう。
過去や未来はまったく存在していない架空の迷路のようなもの。いったんそこに迷いこむとなかなか出口が見つけられず、しだいに暗い迷路の住人になってしまいます。
それでも、今というこの場所は退屈に感じられますか?
じつは今という場所はあなたにとって、とても安全な場所であり、豊かさにあふれる空間であり、過去や未来に比べてだんぜんコワくないはず。
あなたの魂が「今」という瞬間に出会うときだけ、今という時間のなかに喜びを見つけだすことができ、あなたのほんとうのパワーが魔法のように姿をあらわします。
「今(present)」にとどまりましょう。「今」は、あなたにとって大切な贈り物(present)なのです。 (^-^)v
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
誰もが「幸せになりたい!」がために、日々頑張っています。誰にとっても「幸せになること」が最終ゴール。人生の目的。
いつかやってくる幸せな日のために、いい仕事を探し、いい伴侶を求め、日々ガマンを重ね、かなり努力もし ・・・・。
でもその夢見る「幸せ」って、いったいいつやってくるのでしょう?
いつだって未来に設定されている「幸せな日」は、まるで目のまえにぶらさがったニンジンのようです。それを求めて走れど走れど、決してニンジンにたどりつく日はやってこないという ・・・。
よくよく気づいてみると、時間というものはいつもここにある「今」しかなくって、誰も「今」というこの時間以外を生きたことはありません。「わたしこそがあなたが夢みていた未来ですよ〜」なんて未来が仰々しくやってきたことはないし、「もうすぐ未来に突入します」なんてアナウンスされたこともありません。
でも、わたしたちのエゴは「今なんて退屈でしょ。未来こそ楽しみにしなくっちゃ!」とそそのかします。未来に希望をもたせて探求させることによって、ほんとうはここしかない「今」という時間をもぬけのカラにして不幸な気持ちにさせるのがエゴの策略。わたしたちの中に住むエゴは、あの手この手でわたしたちの幸せを奪おうとします。
思い描いていた「いつかやってくる幸せ」やら「将来、なばなばしく夢が叶うこと」・・・はエゴがでっちあげる幻想なのですね。
「今」「今」「今」の連続が人生なら、「今」幸せでないなら、いったいいつ幸せになるのでしょう?
そうなると、「今しかない今ここで、ちゃんと幸せなろう」と腹をくくることがなによりも大切になります。唯一の「今」という時とちゃんと向き合って、「今」をとことん大切にすること。「今」の質をレベルアップしてあげることが本当の幸せのヒケツのようです。
「今」の質をよくすることは、今ここですでに楽しくって安らいでいること。つまり、どこにも存在しない「いつか」じゃなくって、たった「今」ここでハッピーになってしまえば問題は解決するわけです。
「今」というここちよい時間の連続・・・ ささやかですが、じつはこれこそが「ハッピーな人生」の正体。(シンプルすぎて、つまらない?)
実際、「今」しかないのに、みんな「今」という時の重要さにはほとんど注目をしないで、「今」の自分の気持ちもないがしろにしがちです。 ・・・ というか、「未来」がそのうちわたしの気分をよくしてくれると思っているのです。でも、それはありえません。未来はないから。
とりあえず「今」の気持ちを大切にして、「今」ここで自分でちゃんとハッピーになってみることです。・・・たった「今」がハッピーなら、じつはずっとハッピー。
もし、何か心に不安があるならば・・・おそらく、それは未来に関すること。それは今はまだ起きていません。ならば、今、このひとときは心配しないでくつろいでみる選択をすることもできます。
もし、誰かに腹がたっているのならば・・・それもおそらく、今ではなくって過去のこと。今ここでは何も起きていないはず。だったら、今、このひとときは怒りに汚染されるよりも安らかでいることを選択することもできます。
実際、幸せになることって、しっかりと「決断」して「選択」することが大切だと感じます。
ただなんとなく、いつか幸せになろうとしても、「いつか」はそもそも存在しないので、達成されません。「今、ここで幸せになるぞ!一刻の猶予もない、今、
ここ!」と決めると、自分の気持ちをちゃんと選択しようとします。「今」このときは、安らぎを選ぼう!それこそが幸せなのだから・・・と。
そして、決してここには存在しない未来や過去にとらわれない選択も必要です。たいていのモヤモヤ感情は、今、目のまえのことというよりも、未来を心配した
り、過去を思い悩んだりしているときのもの。過去や未来のワナにははまらないぞ!という、今ここで「安らかにいよう」という「選択」も必要なのですね。
自分が腹をくくって、「わたしは幸せになる!そのために、もう自動的に外側に反応するのはやめるし、外側が自分を幸せにしてくれるのを期待するものやめ
る。自分しか自分の気持ちを幸せにできないのだから、自分の心を乱す考え方はすぐにでも手放す」。幸せになるには、こんなふうにちゃんと決めてあげること
が大切です。
幸せって、毎瞬、毎瞬、どんな気持ちを選ぶのか、そんなシンプルな決定の連続なのですね。
時間はもともと「今」しか存在しないといいます。
だから、わたしたちは存在していないはずの時間、過去や未来をウロウロすると、たちどころにこころの調子が悪くなります。モヤモヤしたり、イライラしたり、グジグジしているときは、わたしたちはきまって過去を悔いているし、未来に対して怖れをいだいているのです。
そうはわかってはいても、なかなかわたしたちの過去や未来へのお出かけグセはやめられません。
でも、何か緊急事態が起ったり、あるいは究極に今を楽しんでいるときには、100%ここにいて、そのことによってすごいバカちからが出たり、おもわぬ潜在能力が発揮されたりします(そう、フロー状態です)。
今までの人生の中で、究極的に「今」にいた瞬間っていつだろう?と 考えてみました。たとえば、試験などで論述を書いていたりするとき ...すべてを惜しみなく出しつつ時間内に仕上げてなくてはならないので、なりふりかまわない100%の「今」体験をした気がします(つい最近もそんな論述書きましたよ〜)。
「でもこれがいちばんだな〜」という 100%「今」体験は ・・・ 地上5000メートルからの落下です。つまり、スカイダイビング。
なんで好きこのんで地上5000メートルから落ちてみようと思ったかというと、じつはわたしは泳げません。浮かないわけではなく、あの水の中の息ができない感じが大嫌いなのです(おそらく溺死の過去生あり)。
なので水はあきらめて、お空へと活路を求めてみたものの 、それは大間違いでした・・・ 空も水中と同じだとは(汗) ・・・ いえ、水中よりももっと過酷。だって、息ができないのは同じだし、落下するとき G がかかるので、まさに水の中のお魚は空ではヒラキになった感じです(圧力がかかって内蔵はぺったんこ、そしてサバ折りというよりはぱっくりとヒラキ ・・・)
1分間フリーフォールのあいだ絶叫していたわたしに、うしろでサポートしてくれていた元US Air Force のリック兄さんは、わたしが喜んでいると勘違いしたらしく、弾丸のごとく落下させてくれたのでした(お気遣いアリガトウ・・・)。
髪をアップにしていたバレッタはふっとび、わたしのロングヘアはきっとリック兄さんの顔面を襲って窒息させたことでしょう・笑 (生きて着地できてよかった !)。
こんなときには、1分というよりは1秒にしっかりと注意がむいていて、「○○さんがああいった言葉の意味はなんだったの?」とか、「△△さんのああいうところはイヤ」なんて考えているどころじゃありません。
1秒にいのちをかけるという究極の「今にいる」という快感を一回体験すると、きっと人ははまるのでしょうね(あ、わたしはヒラキは好きじゃなかったので、1秒への快感に未練はありましたが落下はもう十分です)。人が理解に苦しむような危険な登山や命をかけたスポーツにのめりこむのは、この1秒、この一瞬に100%存在するという快感への憧れなのだと思います。
でもわたしはヒラキにならなくても、命をかけなくても、ひとつのおいしいスウィーツでここに100%いられることを発見しましたよ(おいしいスウィーツは、わたしにとって時間を消滅させてくれます)。
忙しい日常のなかでも、自分が楽しみながら時間を消滅させて100% ここにいられる瞬間を自分にプレゼントしてあげることは大切です。そんなとき、インスピレーションが自然とわき出してくるし、枯渇していた自分のエネルギーが泉のごとくわきでてくるのをきっと感じられると思います。
そんな100% 「今ここ」を助けてくれるアイテムをリストアップしておくといいと思います。
週末はそのリストを取りだして、いくつか自分にプレゼントしてあげるとかね!もちろんヒラキが好きな方は是非、お空もおためしくださいね。
「アマゾンさんは玄関、2号さんはリビング・・・」そんな セキュリティ住宅のCM がありましたね。ご本人を守るのは何号さんなんでしょ?
こんなにたくさん仮面ライダーを雇わなくっても、じつはわたしたち一人ひとりには専属のボディガードというか、セキュリティシステムがすでに備わっています。
でも、使い方を習ったことがないし、そもそもその存在を教えてもらったことがないので、活用されているとはいえません。そこらのセキュリティシステムやナビシステム、検索システムよりもずっと優秀で、いったんこのシステムの威力を知ったら、他に頼ることは意味がないとさえ感じるほど頼もしいのです。
まず間違うことはないし、それは過去( &過去生)・現在・未来( &未来生)のすべてを見通して、まわりの状況も考慮したうえで、いちばんベストな判断や選択を示してくれます。だから、そのときだけうまくいくのではなくあとあとの人生までたやすくなるし、またかかわるすべての人が恩恵を受けることができる、そんないちばんいい選択をはじきだしてくれるのです。
そんな都合のいいシステムって?!
それは ・・・ 「ハイヤーセルフ」と呼んでもいいし、「高い自己」、「スピリット」、「天使さん」、あるいは「直感」と呼んでもいいのですが( そもそも名前がない・・・)、ただそれが存在していることを知っていて、その力を信頼している人にしか使いこなせないのが難点。
使い方は簡単。いつもスイッチはオンになっているので、ただその存在がいてくれることを認識して、そちらにこころを向けて、その存在にお願いしたいことを伝えるだけ。あとは静かにじっとお答えを待ちます。必ず答えがやってくるという確信をもって。
いったんたずねれば、誤作動することもなく、確実に、必ず、すぐにお答えが返ってきます。
その働きはとても優秀で、またパワフルなのですが、わたしたちの「意志」を邪魔しないようにと、とてもひかえめにしてくれています。いつもスイッチは入っているにしても、「わたし、自分で全部やりたいんです」という人の意志を尊重して、お呼びがかかったときだけ積極的に働いてくれます。だから、自ら「お願いする」ことがとても大切。そしてお願いしたら、そのお答えを受けとるときの繊細さも必要です。
そのお答えはやさしく穏やかなエネルチーなので、怖れやネガティブな気持ちという強い感情には簡単にかき消されてしまうからです。だから、自分の感情をていねいに感じることが上手になればなるほどキャッチしやすくなります。高い存在からくるエネルギーは、わたしたちの感情よりもさらに繊細なエネルギーなのです。
お答えのやってき方は、さまざま。自分のなかに「穏やかな確信」あるいは「打ち消すことができないポジティブなおもい」としてやってくるとこともあるし、あるいはまわりの人を使って伝えられることもあります。だから、自分のまわりの人の言葉に注意している必要もあるのです。
あるいは、カフェで隣に坐った人たちのおしゃべりの声がたまたま耳に入って、それが答えになっていることもあるし、またふとつけたテレビのキャスターが話していることの中にあるかもしれません。本の中に、新聞の中に ・・・ 目にはいるもの、耳に聞こえること、すべてがメッセージにあふれてきます。そうなると、しっかりと守られて、導かれているのを感じられるようになります。
いったんたずねたら、答えを受けとると決めてわくわくして待つ ... そうするときっと気づきやすくなります。たまに、たずねたことをすっかり忘れてしまったりすると、答えがきていてもまったく気づかずじまいになってしまうこともあります・・・(汗)。
このシステムで提供されるサービスはいろいろ。「人生のナビシステム」だったり、どんなお問い合わせにも対応可能な「検索システム」や「未来予知システム」、どんな危険からも守ってくれる「セキュリティシステム」などなど。わたしたちが受けとれる分だけ、受けとることができます。
どんどんたずねる習慣ができると、どれだけその答えが正しくて、また安心できるものであり、問題を確実に解決してくれるのかもわかってきます。そうすると、きっともっともっと自分のセキュリティシステムを活用したくなって、その結果を見ることによってさらに信頼が深まって、さらに導かれる ・・・ という好循環ができあがります。
自分の不確かな判断よりもずっと安心!確実!うまくいく!
自分がまだこのセキュリティシステムを活用できていなかった頃、それはまるで暗闇の中を手さぐりであっちこっちにボコボコぶつかりながら歩いていて、道ではない道をゆき、植えこみのなかを傷だらけになりながらむりやりに歩いていたようにさえ感じます。
このセキュリティシステムはおっきな懐中電灯、いえ、もっとパワフル、サーチライトつきの自動運転の乗りものに乗って、おまかせして安全に運ばれている感じ。
そして自分がどんどん人生のハンドル、人生のコントロールを手放すことができるようになってくると、自分の判断でヘタに干渉しないことが人生の「安全運転」にとってなによりも大切なことだったとわかるようになります。
いまさらながら、わたしって人生の運転の仕方を知らないたんなる暴走族だったのね〜、と反省。自分の判断でつっぱしっていたときには、自分も傷だらけだったし、周りに大迷惑だったのでした・・・汗。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
最近、世の中では「認知症」への怖れや、「危険ドラッグ」への脅威などがささやかれております。
なっちゃったらどうしよう、巻きぞえくったらどうしよう・・・と。
先日、友人と大笑いしたのですが、「そんなことを心配するよりも、“すでに” わたしたちみんな、アルツハイマーだし、パラノイアだし、そのうえハートショットやっちゃってるよね」「いや〜、手がつけられない。全員、隔離だわ」って。
どういうことかという・・・
アルツハイマーなわたしたちは、自分勝手なアルツハイマーものさしでしかものごとを判断できず、つねにアップしてはダウンするという一喜一憂の連続人生(アップのままではいきません)。そのものの見方はひどく制限され判断にみちているので、自分も人も深く傷つけることになります。というのも、アルツハイマーなわたしたちはものごと全体など把握できず、目にはっきりと見えるものしか信じられないからです。
パラノイアなわたしたちは、すぐに被害者になります。なぜなら世の中はコワイところだと信じているので、ありもしない自作でっちあげドラマにはまり、怖いものしか見えなくなります。コワイから、やたらに人やものごとにかみつき攻撃的になります。また、かわいそうな自分、不幸な自分でいれば、愛のおこぼれがもらえるかも!と期待もあって、かわいそうな自分をやめられないジレンマ。やり続けることによりどんどん被害妄想が深まっていきます。
ハートショットやっちゃっているわたしたちは、自分勝手なでっちあげドラマに耽溺して、そのドラマのなかで大騒ぎをし、それを人にもおしつけちゃったりします。わたしの理想の恋人を演じろと強要したり、わたしを幸せにしろと迫ったり、あらゆる要求をつきつけてあたりまえだと信じています。
というぐあいに、わたしたちも日常ではなにげで、アルツハイマー、パラノイア、ハートショット患者の診断を下されそうです。「一人一人隔離していったら、誰もいなくなっちゃうね」と笑ってしまいました。
でもね、そんなわたしたちの本当の部分はちゃんと健常者です。光です。愛です。
あまりにも外の世界を気にしすぎて、またそこに怖れを抱いてしまったために、エゴちゃんが優勢になり、本当の自分を記憶喪失。
あらら・・・アルツハイマー、パラノイア、危険ドラッグだけでなくって、記憶喪失までも?!(たいへんだわ!)
まずは、そんなコワガりの自分に気がついて、いかに「自分を護らなければ」という力が入った意識で外側の世界と向きあっていたかを知ることが大切。
自分の中にちゃんと備わっている健常者の部分、それはまさに「愛」とか「信頼」とか「安らぎ」の部分ですが、そこから常にものごとを見たり行動できることが大切ですよね。(「愛は怖れをサバ折りにする」、むかしそんな本のサブタイトルがありましたっけ。)「怖れ」を手放して、ほんとうの自分、「愛」にもどりましょ!♡
最近の子育ては、少し変わってきているのだな〜と若いお母さんを見ていて感じました。
以前はひとりっ子で過保護にされすぎで、まるでこどもがコワレモノ扱いだったような。転べば大騒ぎ、ひざをすりむいたりケガをしようものなら事件にもなりかねない ・・・。
へんに大切にされすぎたこともは転んで泣けば「痛かったのね〜。かわいそうに」とより大切にされる、注意をいっぱいもらえると勘違いして、すっかり「かわいそうな無力な被害者」な自分を演じはじめます。そんなに痛くないのにわざと泣くとか。
でもそれを演じているうちに、だんだん自分が無力なのだと信じはじめてしまうのがこわいところ。
昨日、カフェの隣のテーブルにいた若いお母さんはちょっと違っていました。
よちよち歩きのこどもがテーブルに思いっきり頭をぶつけて烈火のごとく泣き出したとき、そのお母さん、それはそれは冷静に「あら、自分でぶつけたのにおかしいな〜(泣いてるなんて)」、そして「ほら、痛い痛いの飛んでけ〜」と宙に放りなげるジェスチャーをすると、こどももそれを見てもうニコニコしていたのです。
「このお母さん、やるな!」と思いましたよ。
自動的に「痛くてかわいそうなわたし」になりそうなところを、さっさと自分で責任をとらせているのです。「ぶつけたのはあなたですよ。それは外から襲いかかってきたのではありませんよ。あなたの不注意です」と。そして痛みはさっさと放り投げるようにして処理をして、「被害者意識」と「痛み」がいっしょにならないようにしているのですよね。
こどもが「痛み」を感じたときに、「かわいそうに」と言ってそれに注意をむけすぎると、こどもは「痛がれば」いつもにはない余分な愛がもらえるんだと勘違いしてしまいます。「愛」は「かわいそうな人」にならないともらえないと擦りこまれてしまうのです。
また、わたしたちは、おうおうに「痛み」をかんじるとその痛みをそのままにはせず、そのあとに頭で考えた判断をつけ加えます。「ついてない自分」とか「いつもこうなっちゃうわたし」「これは罰にちがいない」とか・・・自分のよけいな考えを「痛み」にくっつけて、「痛み」に意味を与えてしまいます。ほんとうは、「痛み」はただシンプルに「痛み」、ただそれだけなのです。頭でいろいろとセリフを考えなければ、わたしたちは被害者にも、かわいそうな自分にも、報われない自分にもなっていないはずなのです。
この若いお母さんは、あざやかに「こどもに自分の人生の責任をとらせる」ということを理解させ、なおかつ「痛みはそのまま手放せばいいのだ」ということも教えていました。
わたしたちのこころの中にある「わたしこそ、かわいそうな存在」という(すでに無意識にまでなっている)思いこみこそが、じつは自分の人生の山や谷をつくっているのですよね。「かわいそうなわたし」と思えば思うほど、それに答えてくれるわたしたちの「創造力」!
(これこそ、自由意志)。
わたしもお店の店員さんの態度がよくないときとか、何かが思ったようにいかないとき ・・・ いまだに被害者、かわいそうな自分をやっていることに気がつくときがあります(腹を立てていることじたい、すでに被害者になっているのですよね)。しみついた習慣はなかなか消えない・・・。まだまだ、気をつけないといけないな〜と感じます。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
先日、ネットでレストランを予約したときのこと。
待てどくらせど返事がこない ・・・。なので、もう一度メールをしてみた。 ・・・が返信なし。 ・・・しょうがなしなし、お店に電話をかけてみると、あっけらかんとした様子で「ああ、メール、見てませんでした!」と (おいっ!メールでご予約ください、って書いてあるじゃありませんかっ)。
まったく反省の色がないと、こちらもイラっとくる。こごとのひとつも言いたくなった。・・・けど、わたしがしたいのはこの人を教育しなおすことではなくって、「ただ、予約がとれるかとれないかを知ること」だったのだ!と思い直し、怒りをひっこめたのでした。
このところ世間を騒がせた、あの「ナッツリラーン騒動」だってそう。ナッツを袋のままじゃダメなんじゃないの?、が彼女が確認したかったであろうことであって、あの「怒り」はほんとうはまったく必要ないのですよね。(でも、彼女の場合は本当はナッツが問題じゃないのです。怒りたかった!)
ことほどさように、わたしたちはまったくもって「自分の権利だ!」とばかりに怒りをふりかざすことが大好きなようです。
相手が間違っていると気づいたら、ここそとばかりに「怒り」で攻めこむ。「ここで怒って当然でしょ!」と。
・・・でも、ほんとうはただ「それ、間違ってますよ」と静かに教えてあげるだけで十分で、わざわざ「怒り」のトッピングはいらないような。
ただ教えてあげればすむことに、なんでこんなにももれなく「怒り」がドッキングされてしまうのでしょう?
それはさっきもナッツ姫のところで書いたように、わたしたちがじつは「怒りたい」から。
メールを見忘れたレストランの店員も、ナッツを袋のまま出してしまったCAも、ほんとうは相手の「怒り」の原因などではないのです。
じゃあ、なにがその「怒り」の原因なんでしょ?
じつは、原因なんてなくって、わたしたちはたんに口実がほしいだけなのです。「怒り狂う」ための。
なんと、そこまでわたしたちは無意識のうちに怒りをためこんでいるし(怒りというよりも、自分の無力感にうんざりしていて本当は当たり散らしたい気持ちでいっぱいなのです)、また自分のある部分では「自分のことを絶対幸せにするものか!」と企んで人生をメチャクチャにしようとしています。
なぜなら、自分にとってすべてが一人称のこの世の中では、攻撃的になればなるほどその結果として自分を攻撃するする人をつくりだすし、また自分の発した攻撃性が人生の行く手に多くの山や谷をつくりだし、自分の歩む道を険しくします。これこそが、自分の幸せをぜったい認めないエゴの策略なのです。
むやみに人にイライラしたり、攻撃的になることが、どれだけ自分の人生にとって運を悪くしたり問題を勃発させることになるかわかっていたら、世の中もうちょっと平和で穏やかになるかもしれません。
世間をゴミ箱あつかいにして自分の「怒り」をなげすてても、結局はご丁寧に自分にもどってくるのでした。(ハイ!「与えるものは、受けとるもの」・・・)
どこかこころの中でわたしたちは、「この場面では怒ってあたりまえでしょ!」という常識のように考えている怒りのガイドラインがあるように感じますが(たとえば、レストランで待たされたら怒ってあたりまえ、店員が不手際だったら怒ってあたりまえ)、けれど自分に戻ってくることを考えたら「あたりまえ」の怒りなどないのですね。
まだまだ日常で、自動的にイライラしている自分を見つけてハッとします。身に染みついた習慣は、かなり意識的にならないとなかなか改善できませんよね〜(汗)。
でも、自分のイライラを世間にまき散らすのをやめるだけでも、じつは自分の人生の流れってずいぶんと穏やかに変わるものなのです。自分の人生に平和をもたらすために、自分のこころのイライラ、ムカっをちょっと気にしてみるのをおススメします!
昨日電車で、前に立っていた女の子ふたりのおしゃべり・・・。
「新しい彼氏、どう?」 「うん・・・忙しそうであまり会えないけど。でも国際的な仕事してるみたいで、三ヶ国語ぐらい話すんだ。だから、将来海外に連れて行ってもらえそうだし...」 「いいな〜、私の彼はぱっとしないから。そういう人選ぶべきだよね」「デートのときもワインとかよく知ってるし、段取りも完璧なんだよね」 「へえ〜、すごい!うらやましい」 ・・・。
こんな感じでえんえんと彼氏の有能さや将来性が話題にのぼり、そのお方の性格や人間性が語られることはついぞありませんでした。
焦点があたるのはもっぱら、どれだけ「おお、すごい!」と思えるか、どれだけ有能であるか、どれだけ特別感があるか・・・それを手にすることで、自分がランクアップ、バージョンアッップする感じ。
う〜ん、それって「道具」選びとさほど変わらないような。・・・彼氏って、結婚って、自分が密かに足りないと思っているところを一気に挽回してくれる魔法のお道具感覚??
そうなんです。自分のパートナー選びって、(意識していなくっても)「自分に役立つお道具」選びのよう。(まあ、わたしたちは何にしろ、自分にとって「何かを手に入れられるもの」にしか飛びつきませんが。だから、地味に隠されているほんとうの輝きや感動や喜びやすばらしさというものを、やすやすと見逃してしまいがちなのですよね。)
パートナーとは・・・ (わたしが隠しもってきた劣等感を補ってくれる)有能さがあって、(わたしの飽きあきした日常に魔法をかけて一変させるという)ニーズにあっていて、(平凡なわたしがキラキラと輝きだしそうな)スペシャル感もあって・・・。自分の人生をランクアップさせてくれて、自分の隠しもった劣等感をカバーしてくれる、そんな魔法のお道具。自分を救いだしてくれる白馬の王子さまなのです。
だから自然と相手に対する要求が大きくなるし、期待もふくらんで、こうであるべきという勝手な理想のイメージを相手にすっぽりとかぶせちゃいます。もう、そういう人だと思ってしか見ないのです。ここがその後のバトルの元凶・・・(汗)。
そもそもワインを知っているからステキな人であるはずもなく(いえ、もちろんワインを知っているすご〜くステキな方もいます!“るん”スタッフのようにね♡)、バイリンガルだからって性格がいいわけでもなく・・・でもなぜか、そんな一点スペシャルなところをみつけると(それは自分の劣等感をうめあわせてくれるポイントなのですが)、全部が全部ステキに違いない、輝いているに違いない、違う世界を知ってるステキな人、この人がわたしを引き上げてくれる・・・と勘違いして、すべてのイメージを勝手にでっちあげちゃうのがこのお年ごろ。(いや、一生やってる場合もあります・・・!)
最初に理想にあてはめちゃうと、あとはボロが出るだけになります。ボロが出るのではなく、相手のほんとうの姿を知るだけなのですが・・・、それがまたゆるせない。
相手のありのままの姿なのに、「そんなはずじゃなかった!」と怒りが爆発(最初からそんな人じゃななかったからね!)。自分がでっちあげたとおりに振るまうようにと攻撃をしかけます。・・・でも、「話が違うじゃない!」とつっかかられても、たんにもともとの姿でそこに存在しているのに過ぎないのですよね。
カウンセリングやセラピーのなかで取り扱われるパートナーシップ、夫婦の問題も、みんなこれが出発点です。そもそも、誤解していたのです。相手のほんとうの姿をちゃんと知ろうとさえしていなかった。
「こんなはずじゃない」「なんでちゃんとできないの?」というバトルが10年、15年と繰りかえされ続けて、ようやく「そうか、もともとこういう人だったのかも。そういう人をわたしは選んじゃったのかも」と気づけるか、気づけないか・・・。(なかなか、自分のなかで起っていることは気づきにくいものです。)
「要求」や「期待」が災いしているのです。だから何に対してもそうですが、もうほんとうに「要求するのはやめよう」「期待するのはやめよう」と決めると、ぜったい裏切られることがありません。怒りもわいてこないし、責める口実もなくなります。
わたしも、なにかとコントロールしたくなったり、イラついてしまうような相手に対して、もう金輪際いっさい「この人のしていることを批判しないし、この人に対して要求しないし、期待もしない」と決めたことがありました。
そもそも腹が立つときって、「要求」や「期待」がかなえられないことで腹が立つので、それをいっさいしなくなるとまったく腹が立つ、イライラするということがなくなりました。
この人がどのように生きていようとも、この人のあるがままなんだからこれでいいんだ。わたしがそれに対して何かを言いたくなるとしたら、自分の利益のために道具化しようとしているに違いない、と気づくようになってきたら、それによって関係がしだいによくなり、ついにはこの「要求」や「期待」によって手にしたいと思っていたものがすべて自然にやってくることになりました。
ものごとは「あるがままに」ほっといてあげる・・・ そこから不思議なことが見えてくる、芽生えてくるのだな〜と実感した体験でした。
パートナーにしろ、子どもにしろ、何にしろ、「要求」や「期待」をしているときには、自分にとって都合のいい「お道具」に仕立てあげようとしているとき。「要求」「期待」がないときには、今まで見えなかったものが見えはじめます。つまり、それによってどれだけ大切なことを見えなくしていたか思いしらされます。
何に対しても「要求しない」「期待しない」というのは、自分の心に平和をもたらしてくれるし、よい関係を運んできてくれるだけでなく、不思議とほっておくことですべてがちゃんと整っていくという「流れ」というものを感じることができるのでした。
「野菜の千切りをしていたら、はじめて声がきこえたんです!」とY子さん。
昨年ヒプノセラピーを受けられてからいろいろと気づきがあったそうですが、頭のなかで「自分のものではない声」が聞こえたのはこれが初めてだとか。その声は「もっと自分を大切にするように・・・」と教えてくれたそうです。
Y子さんの野菜の千切りの話で、はたと思い出しました。そのむかし、セラピーでたくさんの方にお会いしたり、ちょっとこみいったセッションがあった日には、よく野菜の千切りをしていたな〜と。あるいは、粉をこねることにもはまっていたときも。
野菜を刻むことも、粉をこねることも、心を空っぽにしてくれるのですよね。
Y子さんの場合は、その空っぽになった心に高い意識からの声がぽとりと落ちてきたのだと思います。
とはいっても、高い意識は野菜の千切りをしているから話しかけてくれるのではなく、いつでも年がら年中、365日、語りかけ続けてくれているのですが、わたしたちがまったく聞く耳をもっていません。頭のなかの雑音がうるさすぎて、その声をすくいあげることができないのです。
単純でリズムのある作業をしているとき、ふとトランス状態になって、いつも聞きのがしているその声が浮かびあがってきます。高い意識にしてみたら、「おお〜、やっと静かにしてくれたか!」という感じでしょうか?
そう、わたしたちの頭はあまりにもうるさすぎ。人の話もあまり聞いちゃいないけど、自分の高い意識の語りかけにはまったく耳を傾けていません。
以前にこんなことがありました。それは、「貴子さん、あなたのガイドスピリット(高い意識)があなたに話しかけようと頑張っているのですが、まったく聞い
てもらえないといっています。だから、わたしのところに話しかけてきたのですよ。これこれ、しかじかだそうです」と、親しくさせていただいていた「いろん
なものが見えて聞こえちゃう」男性にいわれたことがありました。それは、そのときにいちばん必要だったひとことで、それがわたしの背中を押してくれました。
その頃のわたしは、まだこの仕事をはじめたばかりでいろいろとパニクっていて、心の声に耳を傾ける余裕などまったくない状態で、まさにそんな迷走状態のわたしだからこそ、わたしの高い意識は「聞いてほしい大切なこと」があったのでしょう。こんなふうに、他の人の口をかりて重要なメッセージがやってくることもあります。
なにも不思議な力を持っている方だけがメッセンジャーになるのではなく、ふつ〜の友人から語られることも自分の高い意識からのメッセージです。お友だちとの雑談で高い意識が語ってくれることも多いのです。
また、メッセージを受けとりたい!とかまえて瞑想しようとすると、かえって力が入って、頭のなかに期待がふくらみ、うまくいかない体験をすることがあります。だからこそ、野菜を刻んだり、粉をこねたりという修道僧の黙想のような単純作業のほうが、簡単に頭をからっぽにできるようです。
野菜を刻む、粉をこねるほかにも、拭き掃除をする、アイロンかけをする・・・なんていうのもいいかもしれません。そうそう、以前ぬり絵をいただいたことがあるのですが(それはマンダラぬり絵という、モチーフに色をつけるものでしたが)、ひたすら色をぬるというのも身体がリラックスして、心も空っぽになるので、おススメです。
「セッションルームの出口のところにキャベツを並べておいたら売れるかもしれませんね!」とY子さん。セラピーが終わると、みんな千切りにするキャベツを大事そうに抱えて帰るのを想像したら笑ってしまいました。
わたしたちにとって「ニュース」というと、悲惨や怖れ、戦いしか対象にならないのでしょうか? ・・・
暗いニュースのオンパレードにそんなふうに感じてしまうこの頃です。世のなかでは、すばらしいことだってたくさん起きているはずなのに・・・。
ひっきりなしにテレビで流されていた IS (イスラム国)による戦慄の映像がおさまってきたと思ったら、こんどはこどもが河川敷で殺害されるという悲惨な事件。ふたたびあの IS の処刑イメージと重なって、胸が苦しくなりました。
もちろん真実を報道することは大切だし、それを知ることも必要です。でも、まるでヒプノティックに暗示をかけるがごとく四六時中同じニュースが流されると、ひとつの事件が何倍にも増幅していくように感じてしまうのです。たった一回だったことが、まるで何回も起きたように心は錯覚し傷つきます。(あの 9.11 や 東北の津波のときもそうでした・・・。まさにこれこそ擦り込み。)
じつは、わたしたちのエゴは怖いことが大好き。怖いことを糧にエゴは生きのびる、とさえいえます。
だからこそ、テレビ番組はこぞって「怖れ」をテーマにしているともいえます。「主治医が見つかる・・・」とか「本当は怖い家庭の・・・」とか、「直下地震で生きのびるには」とか、「富士山の噴火」がどうとか。わたしたちのなかのエゴには、おおいにうけるテーマですからね!
人の怖れをあおり、罪悪感を刺激すれば、確実にモノは売れるし、視聴率もあがるわけです・・・。
わたしたちは自分の「思い」というのがどのぐらいのパワーがあるのか、ということを忘れすぎている気がします。
わたしたちの「思い」こそがここまで文明を発達させ、いろいろなものを創りだしてきました。「思い」はさまざまなものを創造し、影響を与えます。それはひとりひとりの人生にもいえることです。
しかし、「怖れ」の思いからは怖ろしい現実しか生まれえないし、一方、「愛」や「喜び」「平和」な思いからは、そのような世界が必ず生まれます。わたしたちは、それぞれを意図したとおりの現実しか体験することができません。完全に「怖れ」に動機づけられてしまったからこそ、このような悲惨な事件が続発したともいえるのです。
「怖れ」や「悪」といわれるものを分析することに時間を費やすのではなく、それよりもわたしたちは「何を望むのか、何を見たいののか、何を体験したいのか」にもっと敏感になるべきだし、時間を費やすべきなのでしょうね。
わたしたちの思いは、「愛」か「怖れ」のふたつにひとつしかありえません。
ちょっとだけ「怖れ」で、あとは「愛」というのはなく、選べるのはどちらかきっぱりとひとつのみです。そして自分が選んだとおりに体験することになるのです。「怖れ」を選んでおいて、「愛」や「平和」を体験することはできません。
たくさんの恐ろしい映像や怖いニュースにあふれていようとも、ちょっとテレビからはなれて・・・ 自然のなかで太陽をあびてゆっくり過ごすとか、のんびり音楽を聴くとか、家族や友人と暗い話ではなく楽しいことについて語り合うとか、こころあたたまる本を読む、映画をみるとか、自分にやさしくしてすごすとか、誰かにやさしくするとか・・・温泉やマッサージもいいかも。
さまざまな自分のための怖れのデトックスがありますよね。それぞれが自分のこころを平和に保つだけでも大きな力があります。その平和は必ずまわりにも影響を与えるし、連鎖していくものです。バタフライエフェクトのように・・・。
一週間に一回は、心から「怖れ」の気持ちや重苦しい気持ちを追い出して自分にやさしく過ごす ・・・ 「怖れ」がはびこる日常ではそんなデトックスタイムがぜひ必要ですね。
声楽を教えている友人からのメール。「風邪をひいた生徒さんがレッスンにやってきて、どうやらその風邪をもらってしまったみたい(汗)。風邪のときはご遠慮くださいとお願いしてたのに・・・」と。
そうですよね〜。思いっきり声をはりあげて歌うレッスンでは、ひどい風邪っぴきはそりゃ気になるでしょう。じつはわたしも小さなカウンセリングルームで、クライエントさんがマスクもされずひどい風邪をひかれているとやっぱり気になることがあります。
友人の場合は「お願いしてたにもかかわらず、来ちゃった!」 そうな ・・・。そうなんですよね。こうしてほしいと思っても、自分以外のことは完璧にコントロールすることはまずできません。だからといって、ビクビク被害者でいるのもね。
実際わたしも「いやだな〜。風邪うつったらどうしよう」と思っていると、ただちにもらってしまったものです。「ノロウィルスから回復しました」とおっしゃっているクライエントからも、しっかりともれなくいただきました。
いいえ、これはもらったのではなくって、私が私のためにつくったのです。つまり、自作自演!
なぜなら、「私以外は、誰ひとりとして私に影響を及ぼすことはできない」のです(ほんとうは被害者なんて、誰にもなれっこないのです)。
そして、「怖れるものは、もれなく確実にやってくる」ということ。
かつて風邪をひきやすかった私は(毎冬、ひいてました)、あるときハタと「私ってもしかすると、けっこう被害者チックなのかも・・・」と思い当たり、自分の考えを調べてみました。
というのは、そもそも私たちは身体ではなく、エネルギー体。そしてふだん自分自身がどんな存在か、まったく記憶喪失者のごとく忘れているのですが、じつはそのエネルギーとしての自分は宇宙にも入りきらないほどの広大さがある存在です。なぜなら、私たちはみんな創造の源とひとつだから。宇宙をつくったものは、宇宙よりも当然大きいのですよね。
それがどうしちゃったことか、何の間違いか、ひとの目にも見えないほどのちっぽけな細菌に怯え、あっというまに征服されるなんて・・・ど〜ゆうこと? それって、ゾウさんとムシの戦いよりも話しにならないものです。宇宙以上の存在と菌なんてね。
私たちの体験はすべて、「わたしたちが世界をどのように見るか」にかかっています。自分の見ようとしているものしか見ることができません。
怖れの目を通してみれば、自分を攻撃し迫害し、死にいたらしめるものがうようよしているように見えて、戦々恐々として、日々守り、戦わねばなりません。
もし安らぎ(愛)という目を通してみれば、じつはそこには何の戦いもなく、されば怖れるものも、自分の身を守らなければならないものも存在しない、平和な世界が広がって自分が安らいでいるのがわかるのです。
見たいものを見せてもらえる自由があるのが、この世界です。
ついつい自分の広大さを忘れてしまうと、自分のことを細菌よりもちっちゃくて、ちっぽけで、すぐさま破壊されてしまうようなはかない存在だと勘違いしてしまいます。勘違いからは勘違いな体験がもれなくやってきて、その思いこみから、どんな小さなものにもこてんぱんにされてしまう自分という自己イメージをでっちあげ、さらに自分が小さくなり恐ろしものだらけになり・・・延々と悪循環におちいります。
なんだ! 宇宙以上のもの(私)と細菌(風邪)の戦いか〜。勝敗は見えている。 ・・・と冷静に考えるようになってから、去年も今年も風邪をひかなくなりましたよ〜。ちょっとだけ、被害者を脱したみたいです(いやいや、まだまだ無意識でいろいろやってますがな ・・・苦笑)。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
春先になったせいでしょうか? じん麻疹やアトピーのご相談がふえてきました。 ・・・といっても、ここは皮膚科のお医者さんではありません。こころのセラピーをするところ。
繰りかえされるじん麻疹や消えないアトピーというしつこい皮膚トラブルに対して、飲み薬や軟膏、○○療法などの外から何かすることでは解決にはならないということがだんだん理解されてきているようです。そうなのです。わたしたちが経験することで、「こころ」が原因になっていないものなど、なにひとつ存在しません。
皮膚トラブルをもつクライエントさんのカウンセリングをしていて、共通点に気がついてきました。
それは、みなさまとても「よい方」なのです。人あたりがよくて、頑張り屋さん。だからこそ、人と争いたくないので自分の「感情をのみこみ」がち。
「それはちがうでしょ」と理不尽さに腹がたっても、すごくイヤなことがあって落ち込んでも、すぐに気持ちを切りかえて「ハイ!もう大丈夫!全然わすれちゃったよ。立ち直りの早いわたし」とまったくこだわらずさっぱりした明るい人に見えます。(そう、タフに見える人ほどじつはデリケートだから、さっさといやなことはなかったことにしたいのです。でもぜんぜん大丈夫じゃないのです。ほんとうのところは。)
いっけんこだわらないように見える人は、お酒の力を飲んで気分を変えたり、友人にちょっとばかりグチってすっきりしたような気になったり、ゲームをしたり映画を見たり趣味に注意を向けて気をはらしたり。まあ、世にいわれている「気分転換でもしてきなさい!」なのですが、いずれにしても「解決した」というよりは「押し入れにつめこんで」見えなくしたから、ハイ、部屋はきれいになったよ〜!メデタシ、メデタシという感じです。 ・・・でも、遅かれ早かれ、押し入れの扉がふっとび、なかに隠しもっていたものが爆発的にあらわになるときがやってきます。
いままで何回もブログのなかで書いてきましたが、感情は飲みこんでも、無視しても、なかったことにしても、なくなりません。しっかりと受けとめて、味わって、経験してあげたときに、すべてきれいに跡かたもなくなくなり、未来にも影響を与えなくなります。感情は感じたが勝ち!なのです。
その押し入れの扉がついにふっとんですべてがぶちまけられるとき、だからといってそのむかし理不尽に扱われた相手につかみかかるわけではありません。もうちょっとひかえめな(腰がひけた?)表現方法。
・・・ それが皮膚トラブル。まさかおデコに「○○さん、わたしは怒っているんだぞ〜!」というテロップを流すわけにもいかないので、まるで怒って攻撃しているカメレオンやトカゲのように皮膚の色や状態を変えることを「武器」にして、攻撃をしかけているわけです。
もちろんご本人、これを意識的にやっているわけではありません。まあ、わたしたちの行動のほとんどすべては無意識です。だから、この皮膚をつかって抗議するという策も、もちろん無意識でやっています。しかし、残念ながらあまり功を奏していません。
ちゃんと理性的になっていたら、こんな相手には抗議とも受けとられず無視され、苦しむのはそれをやってる自分だけの方法なんて、とてもじゃないけれどやっていられません。でもここで大切なのは、「こんなにかわいそうなわたしを見てちょうだい!」「こんなひどいことになっています!」なのです。そして無言のうちに「あなたが気づいて反省するまで、わたしはこれをやめません」と。
しつこい蕁麻疹やアトピーでいちばんこころを痛められるのは、ご本人以上にその方のご両親です。そして、そのご本人が「忘れてくれるなよ!」と思ってメッセージを送っているのも、じつはご両親に対してのことが多いようです。
傷つけた相手に抗議するだけでなく、その傷ついた本人は「もう二度とこんなふうには傷つきたくない」とこころに決めています。皮膚トラブルは人との問題が起きて再び傷つかないように、まさに人との距離をとる方法なのです。痛いから触れてくれるな!、近よってきて見ないで!・・・ 深い意識は自分を守ろうと、危険なもの(つまり傷つけるだろう人たち)は近づけないようにしています。まるでヤマアラシのトゲトゲ状態。でも、ヤマアタシのジレンマといいますが、ヤマアラシは孤独なのです。自分のことはまんまと守れたけど、その代償に人とつながる、親密感を持つことを犠牲にしています。
傷つけられたことへの怒りを持ち続けるリスクは、冷静になってみるとぜんぜんわりにあわないことがわかります。知らないうちに、孤立感だけでなく、人生の自由も失ってしまったりしするのです。
そもそもの傷ついたむかしの記憶をたとってみると、だいたいそんなにたいしたことではありません。たいてい子供時代、それも幼児の頃の出来事です。そのぐらいのこどもは、ものごとの全体を見ることができないし、起っていることにたいして説明してくれる人がいないので、出来事が実際よりもシリアスにとらえられているし、また誤ったものの見方で解釈されているものです。
だからイメージのなかでもういちどその場面にもどって、現在の大人の自分がその困っている小さな自分を助けて、導いてあげて、それを正しく再体験させてあげることによって、そこからの人生の展開が大きくかわってきます。ようやく、トゲとしての皮膚トラブルをひっこめる決心をすることができるのです。
わたしたちが現在目のまえに抱えている問題(身体のことであろうと、他の人がかかわることであろうと)、それらはみんな「今」のことが原因というよりは、もっともっとむかしに培われた「幼い自分のものの見方」が、あらゆるバージョンで形をかえて人生の問題としてあらわれているだけなのです。ですから、目のまえにあることを一生懸命いじくっても、じつはほんとうの解決にはなりません。
じん麻疹やアトピーも、まずは「怒ってるんだぞ!!」と叫んでいる自分のなかの癒されていない小さなこどもに気ついてあげて、その子の声をちゃんとききとってあげることによって、その問題も解決できるし、またほんとうの自分自身に対する自信もともに手に入るものなのです。
映画にしてもDVDにしても、どっぷり感情移入ができて、ドラマにはまりこめる作品ほど楽しめるものはありません。ドキドキ、ハラハラ、まるで違う人生をもうひとつ生きたような気になれる。だからみんな、映画が大好き。
でもこれも度をこしたら、バーチャルとホンモノの区別がつかなくなり、架空のドラマのなかに生きている困った妄想癖のある人になってしまいます。
そして「その困った人こそがあなたです!」・・・ といわれたら びっくりしますか?
どうやらわたしたちも、この人生ドラマというDVDにどっぷりと感情移入して夢中になりすぎているうちに、ほんとは自分が誰だったのか、ほんとはどこにいるのかさえわからなくなってしまったようです ・・・(大汗)。
つまり、DVDを鑑賞していた自分はどこへやら、ストーリーのなかの人物と一心同体。ワクワク、スリルがあったはずのドラマ展開も、楽しんでいる余裕などなくなり ・・・。今や、このドラマのなかでサバイバルすることこそが最重要課題、唯一の問題なのですから。
でもいま観てるDVDは、すでに脚本が書かれているし、そのとおりに演じられているし、わたしたちはだまって観ていることしかできないはずなのに・・・ドラマの渦中にいると勘違いしてしまったわたしたちは、このドラマの筋書きをなんとか自分好みにコントロールしようと必死にいどみかかっています。(映画の筋書きは変えられませ〜ん!)
どんな努力をしてもなぜか水のあわ、結果がでません。筋書きを変えようとあせればあせるほど、どんどんホラーの様相を呈してきます。(あらら、ポップコーンを食べながら余裕で楽しめるはずだったはずなのに、おかしいですね〜。)
ここでできるひとつのことは、ただちに「スクリーンのまえの椅子」に戻ってくること、それだけです。
じつはセラピーでできること、していることは、まさにこれ! なのです。
ストーリーにのみこまれてホンロウされている状態から、その外側、眺めている冷静な自分に戻ってくること。
そして「すでに脚本がきまっていることに抵抗しても、何も変えられないんだ」と気づき、「このDVDは好きじゃないわ。あまりハッピーなストーリーじゃないもの。他のディスクを選ぼう」、あるいは「もうDVD鑑賞はあきたわ!や〜めた!」ということもできるのです。
わたしたちが見ているものを何でもリアルに感じることができるのは、ひとつの才能でもあるけれど、でもそれが自分を脅かしているのであれば、それに気づかなければなりません。オロオロとただ感じることから、もっと客観的になることもできるし、さらに自分が何を観るのかを決めるという選択肢もあるということなのです。
人生にはいろ〜〜んな問題が、モグラたたきのように次から次。これに騙されて、ひとつひとつのモグラに対処しようとすると、より混乱することになるし、果てしない問題にぐったりと疲れはてます。
モグラたたきというゲームじたいから降りることだって選んでもいいのす。「このゲームはもうつまらない。だってぜったい終わらないんだもん。もうその手にはひっかからないぞ。それに、このマシーンで遊ぶほどもう子どもじゃないよ!」といいう具合にね! (^_^)v
セラピストって、探偵か刑事さんのようなのです。
なぜなら、表面にみえている「これこそ問題でしょ!」というものが、その本当の原因になっていることはないので、みかけの問題にだまされることなく捜査(セラピー)を行います。
たとえそれが、人間関係にはじまって、病気や金銭、自己価値・・・などさまざまな問題のオンパレードでいったいどこから手をつけたらいいの?という場合でも、決して見えているものにだまされちゃいけないのです。原因はシンプルにひとつ。表面にあらわれているものをちまちまと片づけようとしても、一生解決をみないことになってしまいます。
じつは、わたしたちのココロのなかには二人の自分がいて、一人は愛にみちた自己、そしてもう一方はおそろしくイジワルで破壊的な自己(エゴ)なのです。そのイジワルな自己は過激な一面があって、わたしたちにまさに幸せがやってこようとすると、「なにがあってもおまえを幸せになんかしてやるものか!失敗させてやる、破滅させてやる。ボロボロになって死んでしまえ〜!」と邪魔をはじめます。
そのイジワルな自己であるエゴが、問題の本当の原因がバレないように、さまざまなかたちで問題をでっちあげて、捜査(セラピー)をかく乱してぜったい解決できないようにもくろんでいます。「ほ〜ら、こんなにたくさん問題があったら、どっから手をつけていいかわからないだろ〜が・・・」と。そのうえ、誰かほかの人のせいにすることで自分を被害者にでっちあげ、人を責め続けることで本当の解決策である自分自身に決して注意を向けないようにしています。
だから見えているままに問題をひとつひとつ解決しようとすると、「ひとつがひっこむと他がでっぱる」というモグラたたきゲームがえんえんとくりかえされることになります。まさに、Never ending story!
じゃあ、ほんとうの問題ってどこにあるのでしょう?
セラピーをしながら人の意識の深いところを探ると、とてつもない深い穴のようなものに出くわします。
こころのなかにポッカリと口をあけた、真っ黒なブラックホールのような巨大な空(くう)。その空は怖れそのもので、「わたしは宇宙のみなし子だ。誰もわたしを見むきもしない。助けなどこないから、ひとりですべてを解決してゆかなければならない。怖い!」という深い孤独と絶望感をいだいています。
その穴はあまりにも真っ暗で深くて恐ろしすぎるので、わたしたちは回遊魚のようになります。自分の気持ちと向きあわないですむように、そんな穴があるなんて気づかないように、「ぜったい止まっちゃダメ!動き続けるのだ!」と自分を忙しくします。必死でスケジュールをうめつくし、あれやこれやで忙しく動き回ります。「立ち止まったら、静かにしてしまったら、何か恐ろしいものに向き合ってしまうかもしれない」と、何もしないではいられないし、ひとりではいられなくなります。
そして、何がなんだかわからないうちに人生が終わっちゃう。・・・けれど、まだ解決しない問題をかかえながらふたたび新たな人生をスタートするはめになってしまいます。
セラピーは、そのいっけん恐ろしくみえる虚空の探検に出かけます。
本当にそれは底なしの穴なのか、中にはなにかあるのか、じっさい恐ろしいものなのか・・・・。
そこに光をもってきて調べてるのです。すると・・・ ん?ん?ん?
わたしたちが感じる怖れというものは、頭のなかででっちあげられたものなので、たいてい「ほんとうにコワイ」ものにちゃんと向きあってみると「な〜んだ!ぜんぜんこわくなかった!」ということになります。ちゃんと見られていないことこそ、怖れの原因なのです。見ていないことこそが怖いのです。
だから、ちゃんと底なしのような穴に向かいあってみると、じつは穴はどこへやら・・・怖いものよりも、ステキなものが見つかってしまいます。つまり、自分の中のお宝をみつけることになります。
何によってでもぜったいうめることのできなかった自分の中の欠乏感を終わりにしてくれる、力強い安らぎや愛や平和というものが見つかるのです。それは、刺激のある生活のなかでは、あまり大切だと思ってこなかったものかもしれません。でもいざ、それが自分を満たしはじめると、その感覚はほかのどんなものとも代用がきかないことに気がつくし、自分のまわりに勃発していたさまざまな問題を終結にむかわせてくれることがわかるのです。
わたしたちの幸せを望まないエゴが見つけてほしくなかったのは、まさにコレ!問題をたくさん並べることで、決して自分の内側の宝には気づいてほしくなかったのです。
結局、問題とは「手に入らないものを手に入らないところで見つけるようにと、誤摩化されていた」ということにまります。形のあるものでは埋めることのできないココロの飢餓感は、さまざまな形の問題として姿をあらわします。しかし、それは自分の外で解決されることは決してありません。自分自身のココロとむきあって、すでにそこにある答えを手にするしかありません。
だから、探偵や刑事さんのごとくセラピーという捜査を続けていくと、エゴの作り出していたさまざまトリックをあばきつつも、じつは恐ろしいものは何もなかった、それよりも自分の中に隠されていたあらゆることの解決策を見つけることになるのです。
イジワルなエゴが見つけてほしくなかったものこそ、この自分のなかの宝なのですね!
精神分裂か、はたまた多重人格か、そんな疑いをかけられそうなわたし。
だってさっきまで烈火のごとく怒っていたのに、つぎの瞬間、まったく何ごともなかったようににこにこしてて、友好的な態度になっているから。
心をゆるせる間柄だからこそ、お互いわがままやいらぬ感情がむき出しになったりするものですよね。でも最悪なほど言いあいになったとしても、その感情が3分もたないのです。
急にバカらしくなっちゃうのです・・・。争っていることが。(^^ゞ
でも、相手は急変するわたしに何が起っているのかわからないので、この急転直下の変貌ぶりにたじろぎます。(そりゃそうだ!苦笑)
怒りにしても、怖れなどのネガティブな感情にしても、それが外側からやってきて自分を脅かしていると思っているうちは、ほんとうの意味で克服するのはむずかしいものです。
だって、それはたしかに成されたし、そうであったと思うから。そして「わたしは外からやってくるものの被害者だ」と思うからこそ腹がたつし、どうにもできないことに怯えるのです。
幼少のころから、「自分の目にするものは、自分の外の世界にある」とうことを徹底的にたたきこまれているわたしたちは、今までに誰も「それはちがいますよ!」「あなたは自分の心のなかのイメージしか目にできないのです。目にしているものは存在していません。たんなる自分の信念であり、心のイメージです。もし目にしているものをまに受けたとしたら、あなたは世界に対して怯えつづける小さな存在になってしまいますよ」なんて教えてくれなかったし。
今でも、きっと誰もそんなことを教えてくれる人はいないから、わたしたちはいつまでも「目に見えているものに反応しつづけ、それによって感情や人生が左右されてしまい、またそれが外側に見えて、さらに怯える」という悪循環におちいります。
でも、これはたんに不思議なことを言っているわけではなく、まったく本当のこと。今の超心理学は量子物理学と重なってきていますが、どちらも「世界は存在すらせず、意識のなかに住むわたしたち」を解いているのです。そして覚醒した人が言うのも、まったく同じこと。
だから、セラピーをしていてもしっかりと結果を手にできるのは、「どこまで新しい考え方に心を開けるか」ということがとても重要になってきます。
そして、さらにもうひとつ需要なのは、「被害者ゲームを本当にやめたいと思っているのか」ということ。
例えば自分の近し人(家族やパートナー)とケンカをしたとき、ずっと腹をたてて被害者のふりをしていたいと思うことがあります。おヘソを曲げている時間が長ければ、相手に「あなたが決定的に悪いのだ」と罪悪感を感じさせられるし、反省もうながすことができると思っているから。
でも、これをやっちゃうと、わたしたちは無意識のうちで自分を責めるようになります。自分はちゃんとわかっているのです。これがフェアじゃないことを。だからこんな被害者になって相手を責める手を使うと、自分で自分を無意識のうちに罰するようになります。すると、ものごとがうまく運ばないように自分の意識が妨害をしたり、アクシデントや病気さえも起こしたりしてしまいます。
わたしも最近、「こりゃ、どうみたって、あなたが理不尽でしょ!」という場面に出くわしました。相手を謝らせたい、反省させたい気持ちでいっぱい。そんなときに、被害者であることを手放して「すべてはわたしでございました。わたしの心の中のイメージだけを見ていたのです。わたしがつくりました。」というのは、なんとなんと苦しいことか。
でもそんなときこそ、「自分が目にしていることは事実ではなくって、自分の潜在意識の中の影絵であり、それを外にばらまきたいんだ」、そして「相手をまんまと悪者にして、自分がいい子のふりをすることで優越感を感じたいとエゴが叫んでいるんだ。でもそれをしてしまったら、自分を罰することになり、自分の人生にデコボコをふやすだけなんだ」といいきかせ、なんとかのりきるのでした。(ときには、クールダウンするのに時間がかかることもありますが、でも自分で責任をとろうとする態度こそ大切なのですね。)
この考え方をすると、さっきまで火山爆発のように怒っていたのがスっと沈静化します。自分の人生ハードにしたくないからね(笑)。
そして、なにごともなかったように相手にやさしくすると、こんな心のやりとりが起っていたと知らない相手は面食らうようです。この人、多重人格か情緒不安定なのではないか・・・そんな疑いをかけられながらも、でも3分しか続かない怒りは、結局は自分を穏やかにして安らぎを与えてくれるのです。 (^o^)v
「なんか楽しめないんだよね・・・」 こんなセリフをよく聞きます。
あるいは、「楽しんじゃいけない気がするんです」。
ずっと夢みていた異国の地をついに旅しているときも、ようやくとれた休暇でやってきた南の島でねそべっているときも・・・そこはかとなくまとわりつく、不安感、罪悪感、違和感・怖れ・・・ こんなところでこんなことをしていていいのだろうか、何か間違っていないのだろうか・・・と。
楽しんでいるときにそんなふうに感じる人は、あんがい多いものです。
ずいぶん前のこと、夏に4週間ほどバリ島ですごしたものですが、海辺のコテージに泊まり、マリンスポーツを楽しみ、川ではラフティングをし、朝日を求めて山を登り、夜はバリダンスを楽しみ・・・そんなパラダイスな日々でも、お仲間に「今、何パーセントぐらい楽しんでいる?」と尋ねると、ナント45% とか、よくても 65% とか 70% ぐらいだったのです。そういうわたしだって、手放しで100% なんてとても楽しめてなかったものです。
これはセラピーでも起ることで、今まで年がら年じゅう調子が悪くてウツっぽかった人がだんだん幸せな気分になってくると、「何かおかしいぞ」と不安になってくるのです。落ちつかない。
わたしたちの身体に恒常性があるように(体温、自律神経、体調をつねに一定に保つ働き)、じつはこころにも恒常性、つまり慣れた状態に保っておこうとする働きがあります。なのでウツっぽい状態が長く続いていると、それがその人にとってはふつうの状態になるために、よい気分になるとこころが危険信号を発してストップさせようとします。「そんなよい気分はおかしいのだ!もとに戻れ!」と。
どうやら、パラダイスな休暇もたまにしかやっってこないので、この恒常性を保つシステムがアラームを鳴らして、いやな気分になるのかもしれません。
それだけ、わたしたちにとっては窮屈な状態が「ふつう」になってしまっているのか?!
真にこころから解放されて、みじんの不安も怖れもネガティブさもなく、どこまでもつづく真っ青な大空のように開放感を味わったことがあるでしょうか?こころおきなく、なんのてらいもなく、自分を思い切り表現したことがあるでしょうか?
でも、すべては「慣れ」なのだと思います。わたしたちは「幸せです」といいながらも、かなりベールのかかった精神状態にいます。こどものときに、ふざけて母のストッキングをかぶったことがありました。よく見えない世界。・・・きっと本当にクリアな喜びのある幸せな世界に比べたら、わたしたちの「幸せです」はかなりストッキング状態に近いのかもしれません。
そんなそこはかとないウツな状態、ネガティブが漂う状態に慣れてしまっているなら、恒常性のアラームが鳴らないようにだましだまし変えていくこと。こころから楽しむことを少しづつ習慣にすること、自分をこころおきなく解放することをゆるしてあげること。
何がわたしを縛っているのでしょうか?
それは神様でもないし、宇宙でもないし・・・むしろ、神様も宇宙も、その完璧さから創造されたわたしたちに完璧さ、喜び、幸せをじゅうぶんに堪能してほしいと願っています。
それを許さないのが「自分の頭」「自分の思考」。
南の島で楽しんでいるときでも、見ているのは真っ青な空でもなく、エメラルドグリーンの海でもなく・・・見つめているのは、まだ来ていない未来だったりします。「こんなにお金使っちゃって大丈夫だろうか?」「この先どうなるの?」「戻ったら仕事を探さなくちゃ。すぐにないかもしれない」・・・せっかく楽しい経験をしていても、こころはいつも架空の不安のなかをさまよっています。まだ起ってもいないし、起るのかもわからないでっちあげの不安のなかで、まえもってしっかりと苦しんでいるのです。
「幸せは、いつかやってくるだろう」
残念ながらやってこないのです。
幸せは、今、たった今、自分が自分で自分を幸せにしてあげること。そうやって、今幸せであることで、幸せのレンズをとおして幸せが目の前に広がる様子が見えるようになるものです。
だから、たった今、自分から幸せになってみる。自分を幸せにしてあげる、幸せでいようとする・・・これが大切なのだと思います。
いつも自分に少しづつ幸せをあげていると、不幸の恒常性アラームが突然鳴りひびくこともなく、気がついたら幸せな人になっていられるのだと思います。
ちっちゃなことから、幸せでいましょうね♡ 何を自分にプレゼントしてあげましょうね?
梅雨まっさかりです。
ひんやりしているようで、寝苦しい。そんな心地悪さから、先日、明け方に長い夢を見ました。もちろんハッピーとはほど遠い夢。あまりにリアルで、目が覚めてからしばらくのあいだ夢のダメージから抜けられず「この事態をどうしよう・・・」と考えてしまったほどです。
しっかり目が覚めてしまえば、その滑稽さ、つじつまの合わなさにただ笑ってしまうだけなのですが・・・ (>_<) 。
その夢のなかでは、わたしの大好きな信頼している人がありえないほど酷くイジワルで怖かった。
なぜにあんなにいい人をこんなにも悪者にしちゃったのか・・・ごめんなさいね〜! という気持ち。
そうです、夢にでてくる人はすべて自分そのもの。自分の隠しもっている感情や無意識に信じていることを見せてくれます。だから、あの人のイジワルさは、まさに自分のイジワルさであり怒りであり、凶暴性、攻撃性のあらわれ。わたしたちは自分のなかで持ちきれなくなった気持ちや思考を、夢のなかで表現してカタをつけようとします。誰かを悪者にして、自分は悪くないと安心したいのです。
自分のなかに「汚物」を抱えているのはなんとも気持ち悪い。だから誰かほかの人のせいにして、自分のネガティブさのすべてを被せて演じさせちゃう。そして自分はちんまりと可哀想な被害者でいようとします。でもほんとうは、凶暴なのはあくまでも自分の思考であって、まあ、自分でもわからないように自分で自分に噛みついているようなものです・・・。
じつは、この自分のなかのゴミ捨て作業は夢のなかだけで秘密裏に行われているわけではありません。日常生活、現実と思えるところでも、まったく同じことを行っているのです
日常生活で登場する自分にとっての悪者は、もれなく自分の影であり、この世の理不尽さ、残酷さ、はかなさも、すべて見たくないと思っている自分の感情と思考を外側にぶちまけたもの。だから、ここも結局は夢のなかと同じ世界、自分がでっちあげている白昼夢の世界なのです。
夢も、そしてこの現実といえる夢も、自分の心のゴミ捨て場となっています。自分の心のなかで、持ちきれなくなったものを捨てることによってできあがってしまった世界。(イメージ・思考を投影した世界。)
なんということか、そのゴミ捨て場のなかに自分は住みついています(まあ、そうですよね。心の中のいらないものを外に捨てても、結局は自分が目にするのはそれしかありません)。ゴミ屋敷の住人のように、わたしたちは自分の捨てたものやその汚さに気づきもしないのです。
最近、自分にとって大切なひととケンカをしました。二十数年の関係のなかで、もっともシリアスなケンカ。
「あれ、この人、こんなにシンラツな人だった? こんな残酷だった?こんな傷つけるようなセリフ言うなんてどうしちゃったの?」と思ったけど・・・。
まてまて、シンラツなのは誰だ?残酷なのは誰?傷つけているのは誰?・・・ ここも、夢のなかと同じ、自分の思考の世界。ここでもわたしは自分の凶暴性に出会ってしまいました。そして、ほんとうは愛情いっぱいで穏やかな人に、すごい悪役を演じさせているし・・・。ここでも「こんなヒドイ人にでっちあげてゴメンナサイ」なのです。
ところで、死んじゃって、あちらの世界に行って「あ〜、やっとヘンな現実をいう白昼夢の世界から脱出した」と思うかもしれません。でも、夢の世界は入れ子状態、マトリョーシカのようになっています。じつは、まだ夢は続きます。眠ってみる夢、起きてみている夢、死んじゃったと思っている夢、そして生まれかわる夢・・・。
いったいどこに終わりがあるのでしょう。このメビウスの環に出口があるのでしょうか?
「この世界、ヘんなことばっかり起る。スピリットのはずのわたしたちは身体という容れものの調子が悪くなるのを見るし、愛情いっぱいの人がキレはじめたり、愛が成就したと思ったら死んじゃったり、これ以上の幸せはないと思ったとたんにありえない不幸が襲ってきたり・・・。これはほんとじゃない。こんな世界おかしいぞ!(怒)本当のことが知りたい!」・・・それがほんとうにお腹の底からの叫びになったときに、ポロリと手のなかに見たことのないカギが落ちてきます。このメビウスの環のなかにある隠し扉、脱出口のカギ。
でもこのカギが手のひらに落ちてくるには、こころの底からの正直な叫びが必要な気がします。
わたしたちは、自分の気持ちを誤摩化しているうちはなかなかこの白昼夢のような世界のおかしさに気づかないし(そう、みんな自分をなだめなだめ生きています。「そんなにここは悪いところじゃないよね!」って(まあ、そうでもいっていないとやっていられないとこでもあります)。でも、心の深いところでは、みんなじつは疲れ果てているし、絶望しているし、神さまにに対して怒ってる。
その気持ちを正直に認めて、「これはおかしいよ!これってほんと? 真実を知りたい!」と心から思ったときに、ちゃんと宇宙はそれに答えてくれるのです。
夢のなかで、信頼する人が残酷だった。・・・ あ〜、夢でよかった!
白昼夢のなかで、大切な人が怒りまくって攻撃してきた。・・・ お〜、これも夢だったか!
「これはわたしの心のなかの間違った思いからつくりだしたイメージであって、ほんものなんかじゃない、わたしはほんとうのことを見たいんだ!」
そう決めると、宇宙はその声にかならず答えてくれるし、はかりしれないパワーのある自分の心もそれに従って違うものを見せはじめます。
目のまえのホラーにくさらずに、ひとつひとつのことを間違ったイメージをキャンセルするチャンスにしていくこと。「これほんとうじゃない、わたしが見たいのはこれじゃない」・・・ これこそ、悪夢から脱出する魔法のことば、新しいトビラがひらくことば。
「わたしが見たいのは、愛であり平和であり、喜びであり光です。なぜなら、わたしこそが愛だから」と!
わたしたちの自由意志を尊重してくれている宇宙は、このひとことこそを待っているのです。「そうです!幸せを選んでくださいね ♡ あなたは幸せになる権利があるのです。そして幸せはすでに用意されています。あなたはあなたが選んだものを見るのです」と!
考え方のクセで、おもわぬ心のエネルギーを浪費しているかもしれません。
あなたは、いくつあてはまりますか?
□ 1. モノやひとに対して、すぐコメント、価値判断したくなる
□ 2. 推理や妄想が、先走りがち
□ 3, いつも何か考えている
□ 4. 人生は計画や目標が大切だ
□ 5. 状況をコントロールしたい、主導権を握りたい
□ 6. 「こうするべきだ」「〜しなければ」と考えがち
□ 7. 幸せになるには、苦労や努力が必要だ
□ 8. そういう星の下に生まれた
□ 9. なにかあると自分を責めがちだ
□ 10. まだ許せない人がいる
□ 11. 自分の気持ちを感じるのが苦手
□ 12. スケジュールがカラになると不安だ
【診断】
6つ以上の方は、知らぬうちに心がお疲れモードになり、いらぬエネルギーを浪費しているかもしれません。ほんとうに使いたいところにエネルギーが注げなくなっているのでは?
それぞれのコメントは・・・。
1. 無意識のうちに、自分の価値や能力を疑っています。自信がないので、ものや人を価値判断、コメントすることで自分が優位に立てると感じます。あるがままの自分を怖れずに受け入れましょう。
2. 「今」この瞬間にいるのが苦手なので、自分のでっちあげたドラマ(思考)の中だけで生きています。しかし、時間は「今ここ」にしかありません。今ここを生きることでしか、自分の本当のパワーを使うことはできません。またドラマの中で生きることで、被害者のポジションを好むことになります。
3. 現実を怖れて拒否しています。現実から逃げるといつも空虚で、決して心からの充実感を感じることはありません。深呼吸をして、「今」に戻ってきましょう。
4. 自分で人生の舵をとりたいとあせっています。無意識のうちに「先手をとらないとやられてしまう」と信じているからです。しかし、充実した未来を手にするには、しっかりと「今」ここに意識を向けることが大切です。その瞬間には、その瞬間に必要なものは与えられますが、受けとるためには「今」にいる必要があります。先のことは手放して、この瞬間にすべてのエネルギーを注ぎましょう。
5. ほっておいたら不利になる、攻撃される・・・という怖れがあります。力をぬいて委ねたときに、人生の流れは自分とって完璧になります。自分を包みこんでいる完璧な宇宙の流れにお任せする、という信頼の気持ちを大切にしましょう。
6. あるがまま」に抵抗しています。しかし、「あるがまま」の現実に抵抗すると、必ず敗北します。なぜなら、すべては「あるがまま」でしかないからです。戦うよりも、自分を包みこんでいる流れに任せましょう。
1〜6はすべて、「あるがまま」に対する抵抗です。あるがままの自分、あるがままの今、あるがままの状況。「あるがまま」にしておくとひどいことになる、という怖れの信念から、必死でコントロールを試みます。しかし、すべてをつくりだしているのは「心」であって、「心」が原因なので、目に見えるものを必死でコントロールしようとしてもエネルギーが枯渇し、敗北感がつのります。
「あるがまま」にできない「怖れ」こそ、取り組むべきものです。
「いったい何を怖れているのか」という自分の心のなかにある真の「原因」を明らかにして、それが本当のことなのかを問うことが大切です。怖れを本当に正面から見つめると、たいてい間違ったものの見方が明らかになります。その思いこみは真実ではありません。
何を怖れているのか、明らかにしてみましょう!
7以降のコメントは次回にて♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
さてさて、考え方のクセですが、そのクセによって、自分で自分を縛ってしまい、息苦しくしていることがあります。でも、その考えじたいを自分で疑ってみるまで、その不合理さになかなか気づけないものです。
では、7番からをみてみましょう。
□ 7. 幸せになるには、苦労や努力が必要だ
□ 8. そういう星の下に生まれた
□ 9. なにかあると自分を責めがちだ
□ 10. まだ許せない人がいる
□ 11. 自分の気持ちを感じるのが苦手
□ 12. スケジュールがカラになると不安だ
【診断】
7. 自分が「今、幸せを選択していない」言い訳です。幸せというものは、いつかやってくるように感じてしまいがちですが、じつはそれはこころのトリック
です。「いつか」はなく、「今」だけがあるのを知らなくてはなりません。だから、潔く、今、この瞬間に「いい気分」を選択してみること。すすんで、「怖
れ」よりも「愛」を選択しましょう。「自分は生まれつき、幸せになる権利がある」ということを認めて受け入れましょう。
8. こちらも 7と同様、自分の価値を認めない言い訳です。このひとことを言ってしまえばカタがついたように感じて、自分の気持ちを納得させることができるように感じられるのです。でも幸せは、まず「幸せになる意志」のあるところにやってきます。
9. どこかで「自分は申し訳ない存在だ」と勘違いして自分を責めているようです。これこそ「虐待」です。テレビで報道されている虐待を云々するまえに、
まず自分への虐待をやめなければなりません。他人に優しく接するように、まず自分自身に対して優しくしてあげましょう。そうしたら、きっと人への過度な要
求もへり、人生がもっと穏やかに感じられることでしょう。
10. 自分で責任をとるよりも、被害者でいたいと感じているようです。相手を許さないメリットとは何でしょう?それは、相手をずっと「悪者」にしておけ
ることです。では、なぜ相手を「悪者」にしておく必要があるのでしょう?それは無意識のうちに「自分は悪い」「価値がない」と信じているので、なんとか
「悪者」をつくっておいて、その罪悪感から逃れようとするからです。あなたはなにも悪くありません。最初から、素直に愛をたっぷり受けとっていい存在で
す。被害者をやめることで、あなたから「愛」が循環しはじめ、もっともっと「愛」を感じられるようになります。
11. なにを怖がっているのでしょう?感じてしまったら大変なことになりますか?あるいは、なにも感じていないフリをしますか?感じるのが苦手なとき、
わたしたちは自分の気持ちとは恐ろしいもの、あるいは空っぽなブラックホールのようなものと勘違いしています。しかし、自分の気持ちを感じることができな
いと、幸せも充実感も感じることはできません。ポジティブな気持ちも、ネガティブな気持ちも、怖れずにそのまま感じてみましょう。感情は感じて流してあげ
るもの。空を流れる雲のように、そのまま消えていきます。
12. 忙しくしていないと、いったいなにが起るというのでしょう?いつも外を見ていないと、静かに自分と向きあっちゃったら大変なことになりますか?な
にを怖れているのでしょう?回遊魚のように立ち止まることなく人生が過ぎてゆき、また新たな人生が始まり、無我夢中でまわり・・・いったいいつになったら
立ち止まるのでしょう?じつは、立ち止まることでしか、この出口のないような環から抜けだすすべがありません。静かに向きあった自分の中からしか「本当の
答え」が聞こえてこないのです。すべてを越えてあなたを幸せにする安らぎは、あなたの中からやってきます。あなたのほんとうの声に耳を傾けられるように、
少し立ち止まって尋ねてみましょう。あなたの内に住む、あなたの最強のガイドと仲良くしましょう。
*正しい思考は安らぎのある世界を見せてくれます。あなたの考え方がすべてです。苦しいとき、何かがうまくいっていないように感じるときは、きっとあなたの考え方が「怖れ」に傾いているとき、正しく考えられていないときです。
*自分の外側ばかりを気にしたり大切にすることで、自分のパワーを外側に与えないようにしましょう。
*あなたを幸せにできるのは「あなた」だけです。あなたのなかには、あなたを幸せに導く「声」がすでにそなわっています。あなたからコミュニケートしなけ
れば、その声は開通しません。静かに自分自身に聞き耳をたてることで、今まで聞いていなかった「声」、あなたのナビゲーションシステムを迎えいれてくださ
い。ただ話しかけ、たずねるだけです。必ず答えがやってきます。誰がくれるよりも正確な答えが!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
わたしたちを苦しめる元凶ともいえるのが、じつは「思考」・・・自分の考えです。
外からふりかかってくる問題や過去の出来事が自分を苦しめると信じていますが、まさか自分の考えで自分の首をしめていたとは・・・。
実際に起ったことよりも、そのことに対する自分の意味づけ、自分のなかでくり返されるセリフこそが問題! それが、起ったことを自分にとってどんな体験であったかを決めてしまうのです。
たとえば、こんなことありませんか? あ〜だこ〜だと悩み続けて苦しくて、世界もどんよりと暗く見えたのが、ある考えがひらめいたときから、急に希望を見えたり、落としどころが見つかったり、そして世界までもがパ〜っと明るく感じられるようになったこと。実際、現状はまったく変化していないのに「ものの見方」の変化だけで急に未来が開けます。(カウンセリングでやっているのはこれですね!)
つまり、自分を殺すも生かすも、幸せになるのも闇のなかでいきるのも、結局は自分のチョイス、思考のチョイスだといえます。
っていうことは、思考はあくまでもチョイスするものであって、チョイスするべき「誰か」が存在しているということです。
それこそが「自分自身」。あ〜だこ〜だ考えはじめると、まるでそれが自分自身のように感じられますが、決してあ〜だこ〜だと次から次へとわいてくる思考が自分なのではありません。そんな考えに気づいている存在じたいが「わたし」です。
わたしたちはイジワルな考えを持つと、「なんてヒドイ自分なんだ」と罪悪感をもちますが、じつは自分じゃなかった!!(オメデトウゴザイマス!)
つまり、部屋が自分だとすると、思考ってそこに流れてくる匂いであったり、そこにたまるホコリのようなもの。どこからともなくやってくる不思議な存在です。
だから、そんな実体のない存在と真っ向からむきあってご意見に耳を傾けているうちに、完全に一体化してしまうのは懸命とはいえません。部屋であるわたしが、匂いやホコリにのっとられて、自分を匂いやホコリだと思っている状態。
だから思考も、調教する必要がある、と感じます。まるでワンちゃんを教育するときみたいにね。
悪いことは、無視したり、はっきりとノーということで受け入れない。そして良いことはほめてあげる。のばしてあげる。そうすることで、「思考」よりも上の存在である自分をしっかりと自覚します。
自分の自己評価から過去のことまで、「あのときああだったら、もっとよくなっていたのに」「愛してくれなかったから、わたしはこんなになってしまった」「もっとよい教育をうけていたら、こんな人生ではなかったかもしれない」「あの母親でなかったら」「あの環境でなかったら」・・・。
慢性的なネガティブな考えは、それを野放しにして、そこに注意を注いだがために、わがもの顔でのさばっています。ついには、「わたし」のふりをはじめrのです。
そして、不幸な思考はつきることがありません。なぜなら、わたしたちは基本的に被害者、犠牲者であることが大好きで、できることならそのポジションを手放したくないし、誰かを悪者にしたてて、なんとか自分の面目を保とうと必死なのです。
思考の教育方法もペットと同じ。よくないものは、重要視せずにスルー(無視)して、ぜんぜん相手にもしていないことを示すこと。あるいは、その場その場で、しっかりと正しいもの(感じたい感情や考え)にいちいち置きかえていくこと。
つまり、「今、わたしは〜のように感じているけれど、これはわたしが望むものではありません。わたしは、〜(愛、やさしさ、喜び、平和、楽しさ・・・)を選びます」というように。
最近テレビでもおバカ犬を教育するような番組がありますね。あんな感じで、野放し好き放題にふるまっていた思考を、「きょうからはわたしがご主人さまだ!」というのをちゃんと示して、威厳をもって、すきじゃない思考は無視して見むきもせず、それとともに間違いは指摘して正しい思考というのを教えていってあげなければなりません。
自虐的になっても大丈夫、過去があ〜だこ〜だと気になっても大丈夫、そして未来の心配がはじまっても大丈夫。それらのセリフはちっともほんとうのことではありません。何も自分を証明していません。もう、これ以上だまされるのはやめましょう!
いきあたりばったりのことしか考えられない思考がじたばたしているにすぎません。注意を向けることなく、わたしの部屋から出ていってもらいましょう!
その選択肢がわたしたちにはあるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
このあたりではよく見かけるバギーにのせられてお散歩するワンちゃんの光景。
奥さんがバギーを押しながら、お洋服を着ておめかしたワンちゃんに話しかけています。そのすこしあとから、だんなさまと見られる男性がトボトボ・・・とついてくる。
かつてはきっと、ワンちゃんのリードをひきながら、ふたり肩をならべて歩いていたでしょうに。今や、ワンちゃんとだんなさんのポジションが完全に入れかわったような・・・。
奥さんの言い分としてはきっと、「愛がなくなったわけじゃないのよ。あの人、なにをしてあげても無反応なの。でもね、この子はいつも機嫌がよくて、シッポをふったり跳びはねたりして全力で喜んでくれるのよね」。
ダンナさんにしたら、「そもそもシッポなんてないし・・・ 跳びはねるなんて腰が痛くってもってのほか!」といわれそう。(ハイ、ごもっとも!あなたは犬ではありません!笑)
「愛してあげても、わたしの期待と要求にこたえようとするどころか、感謝すらしてくれないし・・・。それなら今後、愛の供給はストップさせていただきます」・・・そんな奥さんのセリフが聞こえてきそうです。
わたしたちはその関係から自分が欲しいものが手に入っているあいだは「愛」があるように感じています。が・・・ いざ、そこからなにも吸いとれるものがなくなると「愛は冷めた」といわんばかりに、かつて愛していたはずのひとはワンちゃんよりもランクが下になっちゃう。
ワンちゃんのゴハンのほうが先!ワンちゃんの洋服代はだんなさんよりも多い!いつも見つめてもらって、たくさんの愛の言葉もかけてもらえる!
「愛」ってそんなにあったり、なくなったり、あっちに行ったり、こっちにきたりするものでしょうか?
それは「愛」と思っていたものが、じつは「必要性」が「愛」のフリをしていただけでは?!・・・世で俗にいう「愛」(とくに恋愛)とは、「必要性」を「愛」と呼んだもの。だから、この彼氏(夫)から自分の必要性が満たされなくなると、「そろそろ他をあたる時期かしら?」と乗りかえの作業(別れ)がはじまります。(たんに、自分の欲しいものが以前にくらべて手に入らなくなっただけなのですが。)
人はそれぞれ自分の人生を生きていて、自分の人生を生きることこそが人生の目的。だから、相手の必要性を期待どおりに満たせるはずもなく、また相手の必要性を満たすことばかり考えていると自分の欲求がお留守になり、犠牲した感が強まり、相手に対して怒りが湧きあがってきます。(相手に尽くしすぎると、いつかは相手に対して怒りを抱きます。これも「ここまでやったのに、なにもなしか!」という策略したのに思うように手に入らなかったというがっかり感です。)
ハイ! 自分の必要性は自分で満たしましょう! 他に期待したり、依存すると、常に失望か怒りへ行きつきます。
奥さんがだんなさんに「愛の供給はストップさせていただきます」と言おうとも、わたしたちはもともと「愛」の存在。本質は「愛」。だから、「愛」を止めると苦しくなってくるのです。
その結果、どこかにそのたまっていた溢れんばかりの愛を注ぎたい! それこそが、近頃のワンちゃんへの溺愛なのでは?! と思ってしまいます。(外国人が、あのバギーやお衣装を見ると「ウソだろ?!あれはイヌだぜ!」といいます。海外では動物は動物。決して人間と同じレベルにはなれないのですね、)
そう考えると、日本人は人間関係における愛の交流に、なにか問題があるのだろうか? と思わざるをえません。だって、このあたりの朝のオープンカフェはワンちゃんを抱えた人たちが集まってきて、椅子にブランケットをひきワンちゃんが坐りお茶会がはじまります。そんなグループがあちこちに。
もちろんワンちゃんをかわいがるのは問題はないけれど、溺愛はどこか大切な人間関係における愛の欠落を感じてしまうのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
セラピーセッションの最初の頃、クライエントさんに「自分で自分を大切にする」という宿題をだします。
自分自身におもてなしをして与える練習をすることで、ついつい外に求めてしまう「気づかいや愛情、思いやり、豊かさ」を自分で自分に与えるということを学び、受けとる習慣をつけるためです。
愛情にしても、物質にしても、何にしても、それらは「外の世界から調達すべきものである」と勘違いしてしまうことが間違いのはじまり。すると、「得ること」=「与えてもらう」ことにエネルギーを注ぎすぎて、卑屈になったり、臆病になったり、装ったりと違う自分になってしまい、本来の自分のよさをのびのび表現できなくなってしまいます。(違うものをつくりだしてしまうと、本来の豊かさの「流れ」からはずれてしまいます。)
すべての起源、生まれ出るところは、じつはただひとつ、「自分のこころ」からでしかありません。それらがたんに外の世界に映しだされて、自分に与えられるように見えるのです。
その「自分を大切にする」宿題は、「まるでお姫さまにおもてなしをするような気持ちで、ご自分にいろいろとやさしく気づかってあげてくださいね」とお話します。
たとえば、自分のうちにどこからかやってきたお姫さまが滞在していたら ・・・ きっと気持ちよく過ごせるように、いろいろと気づかいをしてあげると思うのです。
リラックスできるように、お風呂にはいい香りのバスソルトを入れてあげましょうとか、とっておきのふっかふかのタオルとお客さま用にしまっておいた石けんとか。お茶をいれるカップも、大切にしてたブランドもの。もちろんお茶の入れ方もていねいにおいしく ・・・。自分のためにはしないけれど、きっと特別なお姫さまのためなら、いろいろなおもてなしを思いつくことでしょう。
それを全部、自分に与えてあげます。
わたしたちは、人のためにはたいそうやさしくしてあげるけれど、つい自分のこととなると、キツイひとことをあびせたり、ムチうつような無理をさせたりと、決してやさしいとはいえません。(たまに何かおいしいものをプレゼントしてあげても、次の瞬間には厳しいひとことや皮肉を言い放っていたりします。)
だから、「ほんとうに自分にやさしく接する」「自分を尊重して大切にする」ということを、正しく、習慣的にするのはむづかしかったりします。
クライエントさんのM子さんにも、セラピーセッションの流れのなかで「自分におもてなしをして大切にしましょう」という宿題を出していました。
後日、M子さんがいらしたとき「先生、今おもしろい本を読んでいます」と一冊の本のことを話してくださいました。それは「お姫さまごっこ」をするという本で、M子さんはその本のおかげで「自分を大切にする」ということが体験的によくわかったとおっしゃっていました。
宿題どおりに自分を大切にしようとするとき、じつは今ひとつ「どうしていいのか」わからなかったそうな。
この本では、イメージで自分をお姫さまにしたてて(あるいは自分のなかにお姫さまのイメージをつくって)、そこに執事や王子さまを登場させながら、自分を大切にすることを学ぶという、いわばイメージトレーニング。
姫が執事や王子さまに大切にされ見守られながら、自分の正直な気持ちに気づき、自分の望むことを自分に与えることに躊躇しなくなる・・・つまり、価値のあるものを受けとる力をつけていくのです。
おもしろいのは、自分に対して手厳しくなりがちな「自分の考え」をイジワルな執事に見立てて、その厳しいことを言う執事にはおヒマをだしてしまうのです。
そのかわりに、お姫さま(自分)に忠実で、いつも好意的に励ましたり、気づかったり、やさしく仕えてくれる新しい執事を雇います。(それは自分に対する好意的な自分の声。)
そして、ロマンチックで姫にぞっこんの王子さまも登場させます。(自分をほめて励まし、いいところを見つける自分の声。)
結局は全部の役を自分でやるのですが、自分の気持ちを尊重したり、とことん尽くすのは、自分自身だとなかなかうまくいかないものなのです。が、やさしい執事として自分が自分にしてあげると結構なんでもできちゃうし、自分も姫として受け取りやすくなります。
王子さまだって自分ですから、バッチリとかゆいところに手が届く理想の王子さまとして、歯が浮くような褒め言葉だって口にさせることができるのです。 (^。^;
たとえばこんな感じ。
昨日、わたしはお休みだったのですが、「貴子姫とやさしい執事の休日のひとこま」(笑)。
「姫さま、本日はお休みでございますね。お好きなランチをご用意いたしますが、何がよろしいでしょうか」
「そうね、ほうれん草とチーズのカレーがいいかしら」(じつは、以前から食べたくてレトルトを買ってあったけれど、なかなか食べる機会がなかったもの。)
「かしこまりました。それでは、ナンとグリーンサラダ、ラッシーもご用意いたします」(って、ナンはそれから自力で買いに行きました。ラッシーなんて、ふだんはめったに作らないけれど姫さまのためだから、これも自力で作っちゃいます。ヨーグルトと牛乳と蜂蜜でOK!よし、サラダもだ!・・・とふだんは面倒くさくてやらないレベルのこともやっちゃう。)
(食後)「姫さま、午後はどのように過ごされますか?」
「そうね、お願いしておいたDVDは手に入ったかしら?」
「はい、届いております」(って、それから自力で借りに行きましたが。姫さまのためと思うとやってしまう・苦笑。)
「姫さま、DVDとお茶をお持ちしました」
(お客様用カップにとっておきのお茶葉でお茶をいれ、きれいなトレーにうやうやしくのせる)
・・・という具合で、尽くしてくれる執事がいると、自分に対してはふだんはしないおもてなしや気づかいがいろいろとできるのです。
たしかに、やりながら「何をやっているんだ」とおかしくなるときもあります。でも、たしかに自分に対して丁寧になってくるのがおもしろいのです。
自分を大切にするって、そうそうお金もかからないけれど、やってみるととっても心が豊かに感じられるのに気がつきます。
よく「宇宙はあなたに無条件にすべてのものを与えている」というような言葉を耳にしますが、正直「それって、どこに??」と思ってしまうこともあります。でもこれをしてみると、「確かに、受けとる側に問題があったかも」と気がつきます。「受けとります」と言いつつ、全然、受けとれる態勢になっていないことが多いのです。
つまり、本当に受けとるということは、「受けとってもいい自分の価値」というものをちゃんと認めているということ。それがわかっているからこそ、フルに「受けとれる」し、受けとるべきものに気がつくようになります。
執事や王子さまに尽くしてもらっている姫は、自然と受けとり上手になるのだな〜と思いましたよ。
そして、執事や王子さまが問いかけたり提案してくれたりするおかげで、ついつい単調になりがちな日々の生活に色どりも出てくるのだと感じます。
日々の平和な生活をこころから楽しめることこそ、ほんとうのしあわせ感です。
M子さん、役に立つご本教えてくださってありがとうございました。
こちらのご本です。(Kindle もあります)→ 「1日5分のお姫様ごっこ」幸川玲巳さん著
先日、レンタルDVD屋さんでのこと。
パッケージの違う二本のDVDが目に入りました。どちらも同じストーリーのよう。違うのは、一方は女性の目線から、もう一方は相手の男性の目線からその恋愛をとらえたもの。二本立てにしたということは、視点が変われば同じなりゆきも違ったドラマになる・・・ということ。(DVD「ラブストーリーズ コナーの涙 / エリナーの愛情」)
そういえばむかし、「冷静と情熱のあいだ」という同じような小説(映画)がありました。辻仁成さんと江國香織さんという二人の作家が同じ筋書きの恋愛ドラマを男女それぞれの目線から書いていましたっけ。ひとつの恋愛も二人の目線から見ると、二つのまったく違うドラマが存在しているのです。
まさに、「人生で起ることはニュートラル」。なんの意味もない。「意味は体験する人が与えるもの」。与えた意味のとおりのドラマになる、ということです。
まっさらな出来事に、見る人が色あいをつける。・・・ということは、わたしたちは日々自分の人生に色をぬっていて、それが人生の明暗をわけていることになります。
決して最初から色のついたもの(意味があるもの)をさし出されて、それに対して一定の反応を求められているのではないということです。
まっさらな下絵に対して、わたしがどんな色づけ(意味づけや選択)をするかでホラーにもコメディにもなっちゃう。暗い色合いを選べば、それは当然鬱々とした絵になるけど、同じ下絵でもきゃりーぱみゅぱみゅ的なカラフル&ポップな色柄をつけたら、「まあ♡ とってもラブリー!ステキだわ」ということになるのです。
だから「ヒドイ体験に見まわれた!」というときは、無意識のうちに自分なりの色つけが完了していて、それに対してあらためて自分が反応していることになります。
どうやらわたしたしはほっておくと、自動的にものごとに対してダークな色つけ(意味づけや選択)をしてしまうようです。たしかに、何かを見ればすぐに「あ〜だ、こ〜だ」という価値判断がはじまり、そのものごとが自分にとって役に立つのか立たないのかが唯一の判断の基準となります。
つまり、自分の自己保存とサバイバルにとってプラスになるかどうかで、ものごとをばっさばっさと切り捨てているのです。(サヨナラする彼氏彼女、妻、夫は、自己保存においてもはや役に立たなくなったので、じゃあレプレイスしましょ!ということです。・・・あじゃ〜・汗)
自分を守るためにする解釈は当然、怖れのこころに基づいています。そして、怖れが動機となっていれば、行きつくところはやはり怖れの結末。 ・・・だから気がついてみたら、結局は失敗、悲しみ、痛み、苦しみ、怖れ、罪悪感、無価値観、怒り、後悔などなど・・・ 残念な結果にたどりつきます。
成功に見えた転職も、仕事がきつくて地獄の職場に ・・・。ついに運命の人だ!と思った出会いも、メッキがはがれて史上最悪、バトルの絶えない間柄に ・・・。マイホームさえ手にすれば完璧と思っていたのに、天災にみまわれた ・・・というように。
けれども、わたしたちにはもっと別なハッピーな人生の色づけ、ストーリー展開につながる選択もすることができるのです。
それはあまり使ってなかったので、すっかり忘れられている選択の仕方なのですが。さて、それは・・・。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )
まったく同じ体験をしていても、その経験のインパクトは人によって人生の明暗をわけるほど違っていたりします。ある人にとっては、記憶に残らないほどささいなことであっても、別の人にとっては一生消えないようなトラウマ的な出来事になってしまったり。
それは前回のブログでも書いたように、出来事じたいが問題なのではなく、体験した人がそれにどんな色づけ(意味づけ)をするのか・・・によるものでした。
私たちはそのときどきで自分で色づけ(意味づけ)を決めていると思っていますが、実はこれは自動的に行われます。
脳科学でも言われているように、私たちの知覚は自分の信じていることによって歪められているからです。正しくものごとを見ているどころか、じつは自分が信じていることにあったドラマをでっちあげています。自分の知覚に騙されているのですね。だから、もし自分は悲惨であると信じていれば、悲惨さばかりが目につく・・・というように、自分の無意識の思いで見るものは決定されています。
そんなわけで、自分のくだす判断に従うということは、じつは同じところをぐるぐる回るはめになります。新しい人生が展開をしているように見えながらいつも同じ信念に従っているので、基本的にはどの道も「いつかきた道」、知ってる道。何をしても「あれれ?また同じ結末になった!いつも同じだわ(汗)」ということになります。
「も〜、いつもなんでこうなるの?」「結局、いつも同じ結果になっちゃうよね!」「うまくいっていると思ったのに、やっぱりダメだ!」というとき、通いなれている道をグルグルしている証拠なのです。
なんせ同じプログラミングだからね。・・・まさに、私たちは自分のなかの同じプログラミングに従って、いっけん違うように見える同じ道を歩きます。
違う道を行くには、やり方を変えないといけません。 ・・・ それは、同じ道しか選べない「自分の判断に頼らない」こと。
「自分の判断」以外に頼るべき存在がいるのです! いつも自分とともに。
それは、いつも自分で判断することによっておおい隠されてしまっています。だから自分の判断の後ろには、もっと大きな存在、高い知性が存在しています。そこからは自分にとってのすべてにおいてのベストな回答が得られるのです。
その秘密の存在ともいえる大きな存在、高い知性に接続するには、そもそもその存在を知って、信頼して、それに対してこころを開いていなければなりません。
そして問いをインプットすることによって答えが得られるコンピューターのように、自分からつながって問いかけなければなりません。
その高い知性は、まったく違う目線で私たちがベストな幸せへたどりつく方法をしっかりと見通してくれています。だから、同じ出来事が起きていても、まったく違う体験にする色づけ(意味づけ)する方法を教えてくれるのです。それによって、まったく違ったストーリーを紡ぎ出されることになり。「最悪」に違いないと思えたことでも、じつは「人生最大の贈り物」に変わっちゃったりするのです。
高い知性は、問いかければ今までとは違う新しい世界の見方を教えてくれます。
これは実際体験してみてわかるのですが、じつはその出来事には数えきれないほどの別バージョンの現実がすでに存在しているのだな〜とわかります。なぜなら、高い知性からの回答によって出来事の流れがまったく変わってしまうことが多々あるからです。それって、無限に創造されてるパラレルワールドのひとつを選ぶように!
あ、パラレルワールドと聞いて、笑ってはいけません。SFでもなんでもありません。物理学者ミチオ・カク氏の本のなかにもパラレルワールドが紹介されているのですが、想像できる以上の別バージョンの現実が存在していて、ひとつひとつは密接にくっついるそうな。そして簡単に移動できるとか。だから思考を変えることで、あっというまに別の展開にワープすることも可能なのでしょう。
自分の高い知性につながるって判断をゆだねるのは、他のストーリーがあるのを知っている高い存在に、自分にとってベストなストーリーを選んでもらうこと。完璧な幸せを願っているわたしたちの高い知性はそのお願いを聞いて、すでに存在している無数のパラレルワールドから今いちばんベストな筋書きを私たちのために選んで、そこに接続してくれるのです。
つまり、自分でものごとを勝手に解釈しない。(自分で判断すれば、いつもワンパターンになる。)高い知性は、「自分でやらないで、すべてゆだねて渡しなさい。私が正しい道を指示します」と言ってくれています。誰よりも完璧な幸せを願ってくれる高い知性に、もっともっと甘えてよいのですね〜。
高い知性へゆだねるには・・・
なにかものごとが起きていて自動的に反応してしまったとき、
それに気づいて、いったん立ち止まる・・・
そして「わたしは今、目のまえの出来事を〜〜だと判断していいます。でも、これはいつものパターンにつながる道です。私は自分にとってのベストな判断がわかってはいません」
「私の高い知性、わたしのためにこの出来事を判断して、それをわたしに教えてください。あなたに決定のすべてをゆだねます」
そして、なるべくこころをからっぽにして答えを待ちます。
答えは「声」が聞こえる、というよりも、自分の感情や直感で納得するという場合が多いです。あとは、親しい人の言葉からくる場合もあるし、読んでいる本が教えてくれる場合もあります。いずれにしろ、こころを開いているときっとキャッチすることができます。
というように、自分でやろうとすることを手放して、自分のスーパーコンピューターである高い知性を意識しながら、そこに判断をゆだねます。
大切なのは、「自分ではやりません。お願いします」という GO サインです。
さて、GO サインを出したら、あとは高い知性が無限のバージョンのなかからどんな新しい筋書きの幸せのドラマを提供してくれるのか ・・・楽しみに答えを待ちましょう♪
わたしたちは、幼い頃の人間関係や体験から『人生とはこういうものだ!』という自分なりの見解をうちたてます。そして、まさにその考えに沿って人生を生きていくようになります。幼い頃に信じたことこそが、人生の青写真。
とくにそのなかで大きな力を持っているのは、兄弟との関係。そこで培われる信念です。兄弟関係をとおして、「親しい人間関係とはどういうものか」「人生とはどうやったら安全にサバイバルできるのか」という生きるための自分なりの智恵をつけていくのです。
しかし残念なことに、こどもの智恵 = サル智恵に近く(汗)、その当時は少しは役にたつのですが、のちのち自分の首をしめることになってしまいます。
兄弟関係には、兄弟葛藤といわれるさまざまな問題が存在します。つまり、上の子には上の子なりの痛みがあり、下の子には下の子なりの傷があります。
じゃあ、ひとりっ子は問題ないのか ・・・ というとそんなことはなく、ひとりっ子にはひとりっ子の問題があります。そして兄弟葛藤はトラウマというよりは、もっと無意識で静かなもの。しかし、何度もその兄弟葛藤に直面し、なんとかサバイバルしようとしているうちに、そこで使った方法が自分が幸せになるための手段に違いないと勘違いしてしまうのです。
たとえば、わたしの場合 ・・・ 兄がいてわたしは下、妹です。
さて、兄弟葛藤からどんな信念をつくりあげ、その信念がその後の人生にどう影響したのでしょうか? (あくまでもわたし目線ですが。)
兄はわたしが生まれてくるまでは、はじめてのこどもで、まるで王子さま、スターでした。しかし、わずか一年で王子さまの座が危うくなります。まるまる太った、ものおじしない、たくましくうるさいやつ(わたし)が突然登場するのです。それは乳飲み子なので、すごく手がかかる。昼だって夜中だって、お母さんのおっぱいとおひざを一人じめ。
兄からみればひとつ違いは心理的にも脅威になります。なによりも、今まで100%注がれていた愛情を奪われたように感じて不安になります。(親からしたら、少しも愛情は減っていないよ!というでしょう。)
そのころ父がとりためていた8ミリ(ビデオ)を見ると、わたしが寝ているベビーベッドのなかに兄が乱暴にオモチャを投げ入れていったり、庭で砂遊びをするわたしの背後に兄が静かにしのびより頭から砂をかけるといった姿が写っていました。これは兄が特別いじわるだったわけではなく、下が生まれたときの上の子の反応はたいていこんなものです。だから、この8ミリを見たとき、家族もわたしも笑っていたものです。
けっして仲が悪かったわけではなく、むしろよかったと思うのです。ふつ〜に仲のよい兄弟でした。しかし、そこにはつねにこどもにとって神、あるいは生きるための源ともいえる両親からの愛情をめぐって、兄弟葛藤というある種の攻防が繰り広げられていたのです。その攻防のなかでわたしたちは、人生とは、人間関係とは、「どうすればサバイバルできるか」「幸せでいられるのか」という、自分なりのある考えをつくりだしていきます。そして、これこそがその後の自分の人生の「方針」ともいえるものになるのです。
たいていは仲よく遊んでいるのですが、でもケンカがはじまると(こどもにケンカはつきもの)、兄の手が出る、足も出る。男の子のケンカはちからづく。たまったものではありません。そこで「たちうちできない」と感じたわたしは、サバイバル方法として何をするようになったのか? はい!それは、最強の手段 ・・・ 大声で泣くこと。そうすれば、すぐにわれらの神(母)がかけつけてきて、救いだしてくれるのです!
さきほど、「こどもの頃の信念にそって、その後の人生を生きる」と書きましたが・・・じゃあ、これがどのようにわたしの後々の行動に影響したのか?
兄とのケンカの体験からわたしが信じたのは、「仲のいい相手(兄)でさえ、ときには容赦なく攻撃してくるから、それに対してわたしができるのは泣くことによって助けがやってくるのを待つこと。そうすれば窮地を脱する」ということ。
つまり、「自分の愛する人は自分を攻撃してくるものだ。それは避けられない。それに対してわたしが唯一できることは、かわいそうな犠牲者になりすまし、助けをえることである」。
冷静に考えたらあまりよいアイデアとは思えないのですが、当時のサル智恵ではベストなサバイバル方法だったわけです。
この信念によって、人生において安全に幸せになるには ・・・ 助けてもらうことが必須である → それをえるためには犠牲者になる必要がある → 犠牲者には攻撃が必要である ・・・ というわけで、幸せになりたいわたしは大切な人間関係のなかで無意識に攻撃されるためのいさかいをわざとつくりだして、かわいそうな自分という役をになっていたのです。
「ゲゲ〜!こんな幸せのなり方なんてイヤだ!」と思いますが、じつはみんなもれなく、そんな不毛な役にたたないパターンで幸せをめざしています。やり方はさまざまですが、意識化されていないだけです。
こんなことを自分が信じていたことに気がついたとき、自分の愛する人とのあいだで繰りかえしているパターン化している争いやら、なかなか解決しない問題の理由がわかったのです。幸せのために、攻撃こそ大切!と思っていたのですから。
わたしが自分はかわいそうな犠牲者であるいう役まわりを手放さず、助けをえるために犠牲者でいたがっていたという。まさに、自分に痛みを与えることこそ、自分が幸せになる道だと思っていたのですね・・・(大汗)。
誰のこころにも、探求してみるともれなくこんな不毛な、幸せとは逆方向に向かう信念を握りしめていて、それこそが自分に幸せをもたらすと信じています。努力しながら逆方向に向かっているのです。
信念というのは、意識化されることでようやく手放すことができます。自分の手のひらのうえにのせて「え〜!わたしはこんな悲惨なことを信じていたのね。まさか、首をしめながら幸せになろうとしていたなんて」と気がついて笑いとばすことができたとき、それを終わりにすることができます。わたしも、もちろん手放しました。
そうしたら、あきらかにムダな戦いがなくなりました(戦いがなくなってみて、はじめて戦っていたことに気づくことも・・・)。そして、幸せになるためにわざわざつらいめにあって犠牲者になろうとする気持ちがなくなり、生活がシンプルに自然に、安らかで平和になってきたと感じます。
なぜかいまひとつ人生がすっきりしないとき、もっと幸せ感を感じたいとき、是非、兄弟関係のなかで、あるいは兄弟がいないことで、幼い頃にどうしたら自分が傷つかずに安全にサバイバルできると考えてきたか? そのために何をしてきたか? を探求してみてください。そこからきっと、今の人生のパターンや、繰りかえし起こる問題などとの間のつながりを発見することができると思います。
それがどんなパターンか? ・・・気づいちゃったら、もうそれは終わりです!パチパチ♪
こどもはなんでもバラバラにするのが大好き♡
好き放題にバラバラにできるから、ブロック遊びがお気に入りなのですね。
ブロックにとどまらず、男の子だったら懐中電灯や置き時計にはじまり、はてはラジオまでも、手あたりしだいにバラバラにしてきたはず。女の子だって、ティッシュボックスのティッシュをつぎつぎひっぱりだしてバラバラにしたり、ひもの通ったビースをバラバラにしてみたり、いろいろなバラバラ体験があることでしょう。
そのままで完璧だったものをバラバラにする。すると、それらはひとつでは意味のわからないピースになる ・・・ 。
バラバラにしてしまうと、意味が失われます。つまらなくなります。ブロックは全体が組み上がることで楽しいけれど、たった一個もっていてもあそべない。機械だって、部品一個を手にとってみても意味がわかりません。これ、いったいど〜するの? っていう感じです。
それでも「バラバラにしたい」という不思議な欲求は、じつはおとなになった今でもわたしたちのなかで健在なのです。そしてそのことによって、いろいろなことの「ほんとうの意味」が失われるということが起っています。
たとえば ・・・日常のなかで人のふとした言動をまのあたりにして、「あ〜、この人ってこういう人なんだ。(はいはい、もうわかりましたよ)」とすべてがわかった気になっているとき ・・・(その人には、ほかの膨大な部分があるのですが)。あるいは、日常のひとこまに起きた出来事にたいして、「きっと、これってこういう意味だわ(わかった、わかった、そうなのよ)」 ・・・とわかっちゃった気分の自分になっているとき(それも、大きな流れのなかのほんの一点にすぎません)。
これらはまぎれもなく、バラバラにしている作業なのです。一瞬でものごとを価値判断することによって、完璧だった全体の意味から一部だけをきりはなして、ほんとうはわけがわからなくしているという。
そのとき、ものごとや人のなかにすでに保たれている完全性は無視されています。ただ自分の注意がひかれたある一部だけが大切に扱われてピックアップされ、意味づけがなされ、答えが与えられます。
自分がたまたま手にとった小さな意味のわからないピースだけを見て、「はい、この意味はわかりました」と理解した気になっているけれども、じつはぜんぜん意味などなしていないのです。それは意味などないピースだから。ピースのままでは意味がない。全体があってこそ、はじめてそこに意味が生まれるのです。
だから、わたしたちは「わかった!わかった!」と言ってしまうとき、それは全体の意味は無視して、一部の意味のないものだけによって無理やり意味を決めてしまった、ということになります。
これはおそらく、無意識のうちに「わたしたちは目にしたものにすばやく反応し、意味を理解しなければバカな子だと思われるに違いない」という怖れがあるから。小学生のころ、教室で先生が問いをなげかけたら、間髪をいれずに反応しなければならなかったし、そこにはいつもちゃんとした答えがあってあたりまえだと教わったから。すばやく答えをさがしに行くことになれているのです。
だからわたしたちは「これってなんだ?」と疑問に思うやいなや、ほんとうはわかってなどいないのに「ああ、知ってる知ってる!」と答えをねつ造し、わかった気になってしまうクセがついているようです。目にしたらとりあえず答えをでっちあげるというルール。
でも、わたしたちの「こころ」にはとてつもない力があります。
その真実などではないでっちあげを答えとして受けいれると、結局は自分が不自由になります。自分で言い放った言葉は、自分にとって真実であり、自分にとっての規則になります。自分はそこから出ていくことができなくなっちゃう。自分の言葉が自分の足かせになってしまうのです。
自分の放つ言葉はいつも一人称的であり、自分にとっていいきかせるもの、自分にとっての呪文のようなものです。自分がてきとうに言い放ったことによって、自分が制限されてしまう不都合が起るのです。
自分にとってのおなじみの意味を与えるということは、自分のおなじみの世界に入っていきます。おなじみの景色が見え、おなじみのパターンがくりかえされ、おなじみの結末がやってくる、そして同じようにがっかりする・・・というかわりばえのしない世界。
つまり、価値判断するということは、宇宙が決めたはかりしれない完璧な意味と全体性は無視しておいて、意味をなさない一点だけをきりとってバラバラにし、「これこそが真実である」と主張し、その真実とはいえない規則を自分の人生の絶対的なルールとして受けいれてしまうこと。これではうまくいかないのは当たりまえです。
自分のでっちあげた意味に人生を左右されないために ・・・見たものをただ観察するだけにとどめること。なにも価値判断しないこと。それにたいして黙っていること。あーだ、こーだと意味をくっつけたり、解釈しないこと。
でもわたしたちは、どうしても意味を知りたい存在です。意味こそ、生きる目的であると。だったら・・・
自分で答えないで、ほんとうの自分ともいえる自分の高い意識(ハイヤーセルフ)に意味のお答えのパートは担当していただきましょう。
「これはいったいなんでしょうか? どんな意味があるのでしょうか? わたしにはわかりません。教えてください」とお願いして、パーツの意味を理解することをあきらめて、全体のもつ完璧性をあらわす意味を教えてもらいます。
完璧性をあらわす意味とは ・・・まさに自分にとっての完璧なる幸せ。わたしたちにとって、「完璧なる幸せ」なんて見たことも、経験したこともないからわからない範疇のことですが、それは自分の価値判断というものの外に出ないと完璧性は見えてこないということです。自分の考えに頼っている限りは、完璧のなかのほんのちっちゃな一点だけを凝視することになってしまいます。
わたしたちが即座に自分で意味を与えてしまうのは、意味がわからないで放っておくほどコワいことはないと思っているから。暗闇のなかで光を見失った気分になるのです。でも、急いで意味を与えたい衝動こそ押さえて、じっとがまん!! つねづね自分が与えている意味が間違っていて、それこそが自分を制限していることを認識すれば、意味を与えることを踏みとどまるのも難しくありません。
オモチャの小さなピースにこだわっていては、全体の働きや目的はいつまでもわからないのです。
自分の習慣的な判断には一歩ふみとどまって、「尋ねる」という習慣をつけること。ほんとうの自分にいつもおうかがいをたてるクセをつけること。
意味をなさない小さなピースで遊ぶのになれていたけれど、完璧に完成した意味のある楽しいおもちゃを知りたい、見たい、体験したいとこころに決めて、一歩自分がひきさがって教えてもらうこと。そうすると、自分が知らない展開や違った感じ方、新しい世界を見せてもらえるようになるのだと思います。
「おっと、まてよ!」 ・・・「これについてはわからない」 ・・・「教えてください」 ・・・そして「じっと待つ」 ・・・これを習慣にしましょう♪
わたしたちは、自分の現実のなかに何かコワイものを見つけると ・・・「うひゃっ!」っとおびえてちぢみあがります。自分が小さくなったように感じます。 ・・・すると外側がさらに大きくなったように見えて ・・・またまた自分はちぢこまる ・・・。
心が怖がっているとき、自分が限りなく小さくなってゆく ・・・という悪循環におちいります。
コワイものに反応するたびに小さくなるので、まるで負のスパイラル。そして、問題はさらに悪化していくように見えます。
怖がっている心は、自分のなかにある恐ろしさを外の世界へと投げ捨てたくなります。それこそが、自分の目がとらえるイメージとなるので、怖がれば怖がるほど怖いものはふえていく、大きくなっていくようです。
この状態だと、問題はいつまでも自分のまえに大きく立ちふさがります。
でもそこで、「見ているものは自分の心のイメージにすぎない。外には何も存在しない」ということに冷静に気づくことができれば ・・・それは、流れを変えるチャンス♪
目をとじて、少し静かにして、心のなかに光をイメージしてみます。
とってもあたたかな光が心のなかに広がって、その光に自分がすっぽりと包まれて、安全に安らかに守られている感じ。その光のなかでは、すべてのことが完璧で安全。やさしい母性にいだかれて、すべてをゆだねて安らいでいる感じ。愛に見守られて、育まれている感じ。
そのような暖かさや安心感、くつろぎが感じられたら、さらにそこに注意を注いでみます。そこにしっかりとフォーカスし味わすことで、その感覚がさらに強さをましてきます。
十分にその感覚が感じられたら、その感じが光となって自分のハートから外に向かって放射されているのをイメージします。
その光がどんどん広がって、世界を照らしだしているのを見ます。その光が世界をあたたかく包みこんで、そのなかですべてが愛されて大切にされて育まれている様子。
わたしたちが目にしているのは、もともとそこにある事実だ! と思いがちですが、じつはじつは、「自分の心の状態」だけを外に見ているのいすぎません。だからこそ、ひとりひとりの世界は違うのです。
怖いものを自分が見ているときは、自分のなかが混乱をきたしているサイン。スパイラルにのみこまれないように、方向を変えましょうというサインです。
自分のなかにもういちど安らかさと愛の光を取りもどして、それを外に放射してあげること。それによってのみ、わたしたちは平和な愛の世界を目にできるようです。
ほんとうに効果を生むところ、それは自分の心の状態。
だから、まずは自分の心のなかをのぞきこんで、♡穏やかさと愛と光でいっぱいにしてあげること♡。これこそが、目にしている問題の対処につながることなのですね。
会社に「ホレっぽくて問題になっている」男性がいる、と友人。「まわりが気をもむのよ」と話してくれた。
社内でも、取引先でも、飲み会でも、出会った女性にすぐ恋愛感情をいだいてしまうとか。もちろんそれに続くさまざまなアクションを、ソクとりはじめるそうな。
おひとりだったら問題はないのですが、パートナーとお子さんあり。そうなるとホレっぽいのは問題で、まわりもそのたびにハラハラするとか。
これが原因で一度は離婚の憂きめにあい、新しいパートナーに落ち着くかとおもいきや、またもや熱烈に愛する人を見つけて恋愛が進行中。
「なぜ、わたしはこんなにもホレっぽいのでしょうね?」と、悩んでいるのか自慢なのかわからないつぶやきをこぼしているとか(笑)。ご自分では愛がたくさんあるから、と納得していらっしゃるようですが。
誰かを好きになる・・・ って、もちろん悪いことであるはずがありません。自分のなかの愛があふれだしているわけですから。
でもここで問題なのは、「運命の人」が新しくつぎからつぎへとあらわれること。つまり出会う人をすぐに「運命の人」と思ってしまい執着すること。
この「決まったひとがいてももっとほかに欲しい」という飢餓感、執着感が問題なのです
わたしたちは育ってくる環境のなかで、たくさんの妥協を経験してきます。
どんな妥協かというと、ほんとうの自分を手放すという妥協。
より愛されるためにほんとうの自分を捨てて親の好みにあわせるとか、兄弟から攻撃をうけないように我慢したり妥協するとか、幼稚園や学校という社会でより認められ仲間に入れてもらえるように別の自分を装うとか ・・・。
そんなことをしているうちに、どんどん本来の自分がデフォルメされて違うものに仕立てあげられていきます。そしてしまいには、ほんとうの自分らしさ、自分の輝きがどんなだったのか、自分でもまるで思い出すことができません。妥協をしてきたことすら、自分で気がついていないのですから。
当然、本当の自分で生きていないなら、こころのどこかに葛藤をかかえているし、こころから満足することはありません。
そして、その葛藤さえも自分で気づかないふりをして生きています。何か違うと思っているのに、どこかがおかしいと思っているのに、それをはっきりとこころで自覚できず、なにかすっきと晴れ渡ることができない空のように、うっすらとモヤがかかったような状態。でも、その状態にもいつしか慣れて、それがふつうだ、そんなもんなんだと感じてしまいます。
ほんとうは、こころは知っているのです。大切な輝きを失ってしまっていることに。
そして誰かに出会います。
こころがすごく動いた!ドキドキした!・・・ じつは、これはとうに失ってしまったと思っていた輝きの片鱗にとつじょ出会ってしまった驚きです。だから、とっても知っている感じ、懐かしい何かに出会った感じ、見つけてしまったことに興奮します。
そしてたいてい、「この人こそ、自分にとって大切な人なんだ!」「この人をのがしてはいけない!」と思いこんでしまいます。
ほんとうは、それはうまく生きようと努力した幼少時代に、自分が自分から切り離してしまったほんとうの自分の輝きです。自分のこころの奥の奥の奥のほうに隠されつづけてきたものの輝きを、相手がいま見せてくれているのです。「そろそろほんとうの自分に戻りなさい」、そんなメッセージがきているわけです。
それを自分のこととしてではなく、相手がすべてであると信じると相手にひどく執着することになります。この人が去ってしまったら、またこの感覚が失くなってしまうと怖れるわけです。
失う怖れからコントロールに走ったり、あるいは自分のすべてのパワーを丸投げして相手に依存してしまったり、あるいは強迫的に相手に幸せにしてもらおうとまた違う自分を装いはじめます。
このワナにはまると、せっかく自分の輝きの片鱗を見つけてほんとうの自分に戻ろうとしていたにもかかわらず、ふたたび自分を完全に失うゲームに突入してしまいます。「自分にはなにもありません。あなたがわたしの幸せのすべてです」ということになってしまうからです。
それはまるで、イソップ物語にでてくる肉をくわえた犬のよう。肉をちゃんとくわえているのに、水に映った自分の姿に反応して「わん!」と吠えたら肉は水にボチャン。自分がすでにもっているものを外にあると勘違いして執着することによって、もっていたものを失う方向へと進んでしまいます。
なので、この男性もモテるから恋愛体質というわけではなく、自分のなかに何かを失っているという飢餓感が強いのだと感じます。そして、せっかく失ったものを取り戻す手がかりを見つけられそうになったときに、いつも相手に執着して自分を失うパターンにはまっているわけです。
相手に魅力を感じたときに、自分のこころが「懐かしがっているもの」を感じているということに気づいてあげること。そして、それがじつは自分の奥深くにしまいこまれていることを知って、そこに注意をむけて解放してあげる ・・・ということをしてあげるのが自分が幸せになるやり方。
よく「人に見える美しさは、すでにあなたのなかにある」といいますが、まさにそうなのですね。良い例でも悪い例でも、いつでも人は自分を映しだしてくれる鏡です。
人に魅力を感じたときには、自分のなかで遠い昔になくしてしまったと思っていた輝きをもういちど自分の手のなかに取り戻すチャンス。相手のよさを尊敬して、慈しんで、そして自分のなかにもそれがあるのだと感じてあげることによって、きっと眠っていた輝きが目を覚まして、そして自分の世界をより明るしてくれるのだと思います。
こんな見方ができるとホレっぽさも、自分をより幸せにしてくれますよね。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
なにか問題が起ったとき私たちは、「いったい、自分のなにがいけなかったのか?」「自分のなにが足りなかったのか?」と、自分の間違いさがしをはじめます。
たとえば彼氏(彼女)とひどくケンカしたとき、「あの私のひとことがいけなかったのかも」とか、「いや、あのとき私がああしなければよかったのかも」と。そう考えれば考えるほどこの次会うときに、そのままの自分でいられなくなり萎縮してしまいます。
あるいは病気になってしまったとき。「お肉ばっかり食べていたのがいけなかったのかも」「もっと早く食習慣を変えてさえいれば」「いや、私のくよくよグセのせい?」」と、手あたりしだい自分の過去を責めて否定する方向にいってしまいます。
でも問題のほんとうの原因って、じつは自分が思っているようなところにはないものです。それに、そもそも行動が原因になっていることはありません。すべてはこころの問題。セラピーをしていると本当によくわかりますが、問題の根本はご本人にも思いもよらないような、ふとした思い込みにあったりするのです。
過去の自分のあれこれを批判することは、いたずらに自分に対する罪悪感と無価値感をふやしてしまうことになりかねません。
それに、人生に問題はつきもの!そのたびごとに自分を責めてしまうとさらに自分を小さくする悪循環にはまってしまいます。
じつは、それこそが問題が起きている最大の目的でもあるのですが・・・。
私たちのなかには、自分をくじこうとするイジワルなもう一人の自分がいます。いつも「どうせできっこないよ!」とか「そんなことしたってムダ!」「どうせそんな自分さ」とささやきかけるその存在です!
そのイジワルな自分が問題を作りだしては、その問題を使って無力な価値のないダメな私として自信をなくさせようとしかけてくるのです。いったい自分の「何が足りなくて」「何がダメで」「何が間違っちゃって」・・・というダメだらけの自分の信念をより強固にゆるぎないものにするために。
自信をくじき、罪悪感を深めることこそ、問題の目的なのですね。
だから、「いつだってうまくできずに問題を作っちゃう不十分な私」という自責の念は、まさにイジワルな自分のおもうツボ。
いずれにしもイジワルな自分はたえず問題をふっかけてくるし、それはドラマチックになるようにしくまれています。
そうとなれば、問題が目のまえにやってきたら、そのワナにはまらないためにサッと意識を変えることこそが必要になります。
イジワルな自分からの挑戦状には、まっこうから勝負しようとしてもラチがあかないのです。問題の原因はやすやすと見つからないようにできています。
原因探しでいたずらに自分を責めることはやめて、問題を光の下にもっていって「贈りもの」に変えてしまうことが大切。それは、たった今起きていることが、どんなふうに自分の最高の幸せの役に立ってくれるのか?そのために、これをどう生かしたらいいのか? ・・・その方向に意識を向けて、それを見せてほしいと高い意識にお願いします。
たとえば、料理人さんが今夜の食材としてレンコン一本を渡されたとします。「えっ?こんなものじゃおいしいものはなにも作れない。どうしてこんなもの買ってくるんだ?指示の仕方が間違っていたのか?」えんえんと、なぜここにレンコンがあるのかに不満を言ってもラチがあきません。
問題を贈りものに変えるとは、「なるほど〜。レンコン買ってきちゃったのね。レンコンの新しいレシピを作るいい機会だわ。じゃあ、今までにないとびっきりのびっくりするようなメニューを作って、こんなレンコン食べたことないと言わせてみましょう!手持ちのどの食材といちばん合うかな?」とくるりと方向を変えることもできます。
よりよく生きること、幸せに生きることって、目のまえで起きた問題を大騒ぎすることでも、あれこれ分析することでもなく、それをすぐに材料に変えて「最善」のなにかに仕立てる、ギフトに変えてしまう、というチャレンジ。
それによって、ラッキーな人になるのか、あるいは悲惨な被害者になるのか。それは、神さまが決めることではなく、自分が選択することなのですね。
じつは、こんなことを感じて考えたのも、数日まえに会った友人のおかげ。
彼女はふつうに言えば、にっちもさっちもいかない、いかなる迂回路も逃げ道もないように見えるガケっぷちに立たされちゃった人。
まさにガケのギリギリに立っているように見えはするけれど、彼女はすでにこれをしっかりと贈りものに変えてしまっていたのです。つまり、ガケっぷちにいる彼女の背中にはたくましい羽が生えていたのです。
そんな彼女は、いろいろないらないものそぎ落として、とっても透明でピュアでシンプルで、ほんとうのことだけを見据えているようなすがすがしさと軽やかさがありました。
そして、日に日に強まっていく愛と感謝を味方に、たくさんのミラクルを見はじめている。まさに、「なんで?」「どうして?」というのをとおりこして、その状況に光をあてて、贈りものに変えて、そしてわたしにもその光を照らしかえしてくれているのです。
問題のおもうツボでボコボコな被害者になるのか、それともそれを確かに贈りものであると認識して本当に極上の贈りものに変えてしまうのか。
「今がすごく幸せ。すべてが感謝だ」と言う友人は、まさに、究極のカケっぷちに魔法をかけて、光を放っているのを感じましたよ。
そんな生き方をするのに、わざわざガケっぷちは必要ありませんが、あらためてどんな問題も、ひとつひとつ輝きに変えてゆくことがわたしたちにとって生きるということで、その魔法は望むことで手に入れることができるのだな〜とこの友人を見ていて、強く感じたのでした。
こんなひとつひとつの出会いによって、わたしは今まで『いつだってミラクルは起る!』ということを身をもって教えられてきたし、もはや疑いようのないものになっているのですが、またひとつそれを見せてもらっています。Dちゃんに感謝です♡
アタマでは「考え」として知っているつもりになっていても、どうもなかなか自分の中心からそれを生きることができないことってあります。
「そんなこと知っているよ!」と思うけれど、それを「生きているか」といわれたら ・・・ぜんぜんそうじゃない。「知っている」のと、それを「生きている」のとは大違い。まだ、その考えと自分とのあいだにミゾがある・・・。
アタマでは理解しているんだけどな〜。でも、どこか自分のものになっていない。それが生きられたらいいのに・・・って。
でも、きょう ・・・無心で床に雑巾をかけていたとき、ふと、ストン!!と自分の中心に「確信」のようなものがふってきた。
突如、それがインストールされちゃった感じ。はからずも・・・。
もうそれを理解しようともしていないし、信じようともしていない。まさに自分がそれになっている感覚なのです。
ああ、「気づき」ってこうやってやってくるんだ。ちょっとづつ、ちょっとづつ、変化が起っていつかわかるようになるのではなく、それは突然やってくる・・・天から直球、ストン! という感じ。
そして、きょうは11月11日。
「 1 」は文句なく、始まりを意味する数字。それが四つも並んでいて、新しいスタート感満載の日です! (^_^)v
自分のなかにストンと落ちてみると、じつは今まですごく「抵抗」してきた自分に気がつきます。「わかってなんかやるもんか!」みたいな。
もちろんそれは無意識なのですが・・・こんな意味のない抵抗、反逆をしていて、妙に疲れちゃったりしていたのだと思います。(これがわたしのパターンか?!)
もっと素直でいいのにね。
心理学の実験におけるアンビバレントなこども・・・を思い出しました。
お母さんがその子とともにいて、その後知らないうちにその子をおいてどこかに行ってしまいます。 ・・・そしてお母さんがふたたび戻ってきたとき、
「ママ〜!」とばかりに素直に走りよるこどもは安定型。
ほんとうは心から「ママ!ママ!どこ行ってたんだよ〜!うえ〜ん!寂しかったよ〜」と叫んで甘えたいこころをぐっと押さえて、すごくクールに知らん顔を装って、お母さんが戻ってきてもひたすら無視する子。これが、アンビバレント型のこども。
自分のなかに葛藤をかかえているのです。
こんなアンビバレント型のこどものように、わたしたちって宇宙からおもいっきり気づかってもらっているのに、わざと背を向けて知らんぷりしているところがあるな〜と思うのです。
ほら!全部、必要なものはここにあるよ。こっちに来てみてごらん!といわれているのに、「いいんです! 自分でどうにかしますから!どうぞご心配なく」みたいな・・・。(笑)
ノドから手がでるほど欲しいのに。なにをそんなにスネちゃっているのでしょうね?
ほんとうは、「うえ〜ん!寂しかったよ〜!怖かったよ〜!ひとりぽっちでどうしようかと思っていたよ〜!」と叫んで甘えたいのに。
甘えちゃえ!叫んじゃえ! おもいっきり。
そうしたら、ストンとなにかが、天からおちてくるかも! (^_-)-☆
PS ところで、今、FMで J. カビラさんがいっていましたが、11月11日は「ブタ饅頭の日」(ブタの鼻に見えるから)、「モヤシの日 」・・・ですって!(笑)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「職場で自分に対する嫌がらせが続いている。そしてそれが、だんだんエスカレートしてきている」とつらそうに語る友人のAちゃん。「そんな扱いを受けるんだから、じつは自分ってひどい人間に違いないんだ ・・・」と、すっかり自信をなくしてしまっている様子です。
私たちがしてしまう最大のミスは、外側の反応を見て、それで「自分の価値」や「自分の性質」を決めてしまうこと。こういう扱いを受けるんだから、そういう人に違いない ・・・と。でも、この考えだとメビウスの環にはまってしまいます。外にあるのは自分の心の投影(イメージの映しだし)なのに、みんなの反応こそ本当の自分を教えていると思ってしまうと、自分の間違った思い込みをさらに強化することになってしまうのです。そして、訂正の糸口がなくなってしまいます。
そこで、少しでも正しい考え方の助けになれば・・・と思い、一緒にランチをしたときに「嫌がらせが起ってしまう本当のメカニズム」について少し説明させてもらいました。
それはまず、「自分の体験することで、なに一つとして自分の思いとは別に外から勝手にやってくるものはない」ということ。つまり「わたしたちは常に自分の思いを外側に映しだして、それを体験している」。だから、「問題というのは、つねに外にあるのではなく自分の心のなかにこそあるのだ」、そして「あの人にあんなことをされた・・・と被害者になってしまうと、自分のなかにあるはずの問題をすり替えてしまい、まったく問題の解決に至れない」。結局は、「外に映しだされたものを見て、自分の心のなかにある思いに素直に気づいて、ただそれを変える必要がある」だけだということ。
すると、Aちゃんは「ああ、すべて自分なんだ」と理解できたところまではよかったのですが ・・・今度は、「この人たちにこんなひどいことをさせてる自分の思いって、いったい ・・・??そうとうヒドイに違いない。そんな自分こそゆるすことができない」になってしまったのです。
ありゃりゃ・・・さらに、Aちゃんは自分を責めるほうにいってしまいました。(いかん!逆効果!)わたしたちは、人に自分の痛みを被せて加害者に仕立てるか、あるいは自分こそが自分に対しての加害者になるか(自分を虐待するか)、つねにこのどちらかをギッタンバッコン、行ったり来たりしています。
でも、そのどちらも本当じゃないよ〜!!解説が足りてないようでした・・・(汗)。
セラピーをしていて思いますが、「自分をゆるせない」「こんな自分が嫌い」と感じている方は、ほんとうにほんとうに多いのです。そして、外がわで起っていることこそがまさに「自分をゆるすことができない」という自分の気持ちのあらわれです。つまり、誰も自分をひどく扱っているのではなく、結局は自分に対する自分の「虐待の気持ち」を変える、必要なのはこれだけです。
「問題は外にあるのではなくて、自分のなかにこそあることを認めなさい。つまり、あなたはそれだけひどいものを持っている、醜いのですよ」と言っているわけではないのです。
確かに、外にあるものは自分の心のなかのイメージです。これは心理学用語で投影といいます。自分の持っているとつらい思いを、外に投げ捨てて、まさに誰かのなかに見る。誰かのせいにして、「悪いのは私ではなくって、アイツだ!」というわけです。
でもここで、自分で持っていられずにばらまくことになってしまったものが「本当の自分」であると思ってしまうと、かなり絶望的なことになります。それを認めれば、自分の醜さを認めることになってしまうのですから。
でもね、わたしたちが持っている自分に対するイメージというのは、じつはまったく正しくなどありません。わたしたちは自分すら正しくみることができず、そのせいで人のことも正しく見ることができないのです。
私たちの自分に対するイメージは、まさに誤解の「かたまり」ともいえます。
さきほども書きましたが、はっきりと口にしなくても、あるいはちゃんと意識していなくても、みんな自分のことが本当は好きではないのです。ほんとうに正直になったとき、残念ながらみんな自分を憎んでしまっています。
「自分大好き!」と豪語して自分磨きにいそしんでいるお方でさえも、心の奥にひそむ自分を認めない感情が動機となって、さまざまなものを手に入れたり、さまざまな行動を起こしたり、さまざまなことを目指します。自分にモノやら体験やら、あらゆることをプラスせずには、そのままではとても認めることができず躍起になってしまっているのです。それが回遊魚のごとく忙しく自分を駆り立てる理由です。(もちろん、それを意識していることはまれです。)
でも、こんな必死の欠乏感も、不十分な自分という信念も・・・みんな勘違いから生じています。私たちはみんな、自分に対して勘違いなイメージばかりを握りしめて、その埋め合わせをするために日々を費やし、あたふたと動きまわっています。本当の自分のことはまったく理解していないのですね。
どうやって、本当の自分に出会うことができるのでしょうか?どうしたら、本当の自分を認められるようになれるのでしょうか?
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
外の世界に見えるものが自分の心のなかにあるイメージの投影(映しだし)であるのなら、じゃあ、イヤな体験をしている自分って、結局自分が悪いのか ・・・そう思ってしまいます。
たしかに、すべては「自分発」で、そうでないものなどないのですが、その「自分発」のものがほんとうに真実なのか・・・というと、じつはそうではありません。「真実ではない」 ということなのです。つまり、自分でもほんとうの自分がわかっていません。
ほんとうの自分を外に投影している ・・・というよりは、じつは自分のなかで持ちきれなくなったゴミを外に見ているという方が正しいのです。自分でもちゃんとわかっているのですね。「こんなの、ほんとうの自分のイメージではない」ということが。だから、外にゴミ捨てして、無かったことにしたいのですが、結局はつねに目にすることになってしまっていますが。
私たちが自分だと思っているイメージは、両親からの扱いや評価、幼稚園や学校などでの自分の立ち位置など ・・・すべて外からの影響によって洗脳されていきます。
たとえば、自分の性質がとても活発だったとします。それを好む親であれば「よい子」と評価され、好まれないならば変えるように仕向けられるかもしれません。あるがままの自分を受けいれてもらえないと、その子は自分が「ダメな子なんだ」「劣っているから親が困っている。親を困らせる自分は価値がない」というように決めつけてしまいます。ほんとうは、親のお好みに合わなかった、ただそれだけで、他の家に生まれていたらまた事情は違っていたかもしれません。
そして、家で、幼稚園で、学校で、仲間内で、つねに外の反応を気にしているうちに、自分の価値も自尊心もゆらいできて、すっかり自分が誰だかわからなくなってしまいます。強いお姉ちゃんがいたら、うまく巻かれておいたほうが生きやすいと思うかもしれないし、親に過剰に期待されると、すっかり「よい子の仮面」と一体化してしまうかもしれません。人の目を気にしていると、なにを基準に自分のアイデンティティを確立してよいのか、さっぱりわからなくなります。
そして、ほんものじゃないズレてる自分を生きてるのはとってもエネルギーを消耗するし、フラストレーションを感じます。私たちがわけもなく憂鬱になったりイヤな気持ちになるのは、ほんとうの自分とはズレた自分を生きつづけ、それが自分に定着してしまった嫌悪感やウソっぽさから湧き上がってくるものです。
私たちの高い自己(ハイヤーセルフ)はそんなズレた状態のまま私たちをほっておくことはしないのです!(これは、ホッとしますよね。)
高い自己のアラーム、「あなた、ズレてますよ!ほんとうの自分にそろそろ戻るときですよ」というお知らせは、じつはイヤな出来事をとおしてやってきます。楽しいばかりだったら、人はなにひとつ改善する必要を感じられないからです。
「イヤな気持ち」「うまくいかない出来事」「くりかえす問題」は、ちょっと立ち止まりなさいというシグナル。
でも、人はそのシグナルに気づくとなにをするかというと、それを解決すべくしゃかりきになってさらに行動を起こそうとします。なにか手を打たねば!行動せねば!と。すると、さらに迷宮に入ってしまいます。
だって、立ち止まって欲しいために鳴っていたシグナルですから。(仕方ありませんよね。私たちはこういうことに関して、まったく学校で教育されていません。でも、英語を習うよりも先に、自分と自分の心について学ぶことの方が大切だと感じてしまいます。)
問題あれこれが起きてイヤ〜な気持ちになったとき、みんなそんな気持ちは感じたくないから、どうにか誤摩化そう、気晴らしをしようとします。けれど大切なことは、まずはしっかりと立ち止まって、ちゃんと自分の気持ちを感じることが大切なのです。
気持ちを感じたくないから逃げるのですが、この際、ドッジボールです!正面から、その感情のボールを受け止めましょう!
なぜなら、小さい頃に「対応不可能」と決めつけてガンガン呑みこんだたくさんのネガティブな感情こそが、ほんとうの自分につながることを邪魔しているからです。
ひとつひとつの言われた言葉やされた扱いを思い出すかもしれませんが、とにかく解放しなくちゃならないのは、そのとき呑みこんだ気持ちです。これが自分の晴れ晴れとした快晴の青空のような広がりのうえをスモッグのようにすっぽりとおおって、まったく光を通さなくなっているからです。
ほんとうの自分とのディスコネクト(分離)状態・・・。パワーがまったく供給されません。
だから不安になって、あらゆることに手を出します。買い物依存、恋愛依存、アルコール依存、ギャンブル依存、過食、薬物依存、回遊魚のような絶えまない活動・・・。そのうち、自分のダメなイメージともすっかりと仲良しになり、イヤな気持ちも慢性化してしまいます。
問題があるなしにかかわらず、つねに自分がなにを今感じているのかに気をつけているというのは、自分のなかをクリーニングする習慣をもつようなもの。
イヤな気持ちを見つけたら、しっかりと受けとめて、抱きしめて愛おしむような気持ちで感じてあげます。イヤな気持ちを泣いている小さな子どものようにイメージして、抱きしめてあげます。(イヤな気持ちだったはずなのに、愛おしくて泣けてきたりします。)すると、自分のなかにす〜っと溶けるように、消え去っていきます。(マシュマロがココアのなかに溶けてくみたい。)
そして、これがすんだら次なるステップへ。
自分に対する間違った考え(自己卑下や被害者意識など)は自分がしっかりと握りしめてきた考えなので、なかなか自分では訂正することができません。
なので、高い意識に委ねて、ほんとうのことを見せてもらいます。「わたしは、自分が(価値がない、嫌いである)と信じています。でももう、この考えは持ち続けたくありません。ほんとうのことを見せてください。感じさせてください」とお願いします。
自分が見たがっているほんとうの自分とはなんでしょう?・・・それは、唯一のもの、ワンネスの一部である完璧な自分。愛であり、安らぎであり、喜びであり、豊かさであり、輝きである自分。ひとつのもの(完璧さ)しか存在しないのであれば、それ以外を見てるわたしたちはどこかおかしいということになります。
おかしいということは、正す必要があるということ。でも、それを自分ではどうすることもできない ・・・となれば、ホンモノの自分自身の記憶ともいえる存在、正気の自分ともいえる存在である高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いして、それを見せてもらうことが必要なのです。
それを理解すると、問題が見えたときにはつねに自分を正す、ほんとうの自分に連れ戻してあげるチャンスとなります。間違いは目にしない限り、どこが間違ってしまっているのか気づきようがありません。目にしたときには、「ここを変えましょう。もうこれを手放しましょう」と教えてもらっているということです。
だから、被害者意識をもったり、あるいは自分を責めるとなく、「自分の心の間違っているところ教えてもらった」「これを手放せばいいんだ」と心を切り変えればいいわけです。
そして、手放すときも決して自分でやる必要がないところが、なんともお手軽で嬉しいところ。
ただ高い意識に「これは外になるのではなく、私の心の中の問題です。これをもう持ち続けたくありません。どうぞ手放せるように助けてください」と、人のせいにしないで自分の間違いを認めて、手放す意思を示すと高い自己は即座にそれを行ってくれます。
だから、こんな問題をつくってしまって!とか、こんなことを外に見る自分は酷すぎる!と、自分を責めることはなく、ただ静かに取り消しをしていきます。
わたしも以前はイヤな気持ちを感じると、過剰に活動的になったり、あるいはいろいろと気晴らしをしたり、刺激を求めたりしたものです。でも、どれも根本的な解決ではないと気づいたのも、だいぶいろいろとやってからです。(ほんとうに解決になっていないと心の底から気づかないと、なかなかやめないものですね。汗)
せっかく「ほんとうの自分に戻ってね!」というアラームが鳴っているのであれば、目をそらすことなく、どれどれ、この問題に関する気持ちをしっかりと真っ正面から受けとめて、そして高い自己に丸投げしちゃって、あとはうまくやってもらいましょう!(この渡す姿勢こそが重要なようです!)
まずは、イヤ〜な気持ちをちゃんと感じて受けとめる。そして、高い自己に委ねて依頼する!
あとは少しづつ気持ちも落ち着いてくるし、ムリに自分を好きにならなくても自然とありのままの自分でよいのだ!という信頼がもどってきます。そうすると、外の世界も安らぎが感じられるようになてくると思います。(^_^)v
昨晩、あるテレビ番組で「卑弥呼と天照大神は同一人物なのか?」と検証していたとき、あるパネラーさんが「人間は、都合の悪いことをぜんぶ神様のせいにしてきた。それが神話なんです」というような説明をされていました。
「なるほど〜・・・ たしかに」と思いましたよ。
だって、世界的ベストセラーの大河小説(?)のなかでも、神様に楽園をおわれたカップルの悲劇のストーリーがありましたっけ。それを執筆したのは神様ではなくって人間なのだ、ということを忘れてはいけません。それでも、「そんなことはしとらんぞ〜!」と激怒して雷をおとさない神様の器はやっぱり宇宙規模に大きいのです。
わたしたちは、無意識のうちにひどいことが起ると「なぜですか?神様!」と嘆き、「もう神など信じない」と背をむけます。みんな何がしかのことで、神様に恨みをもっているのです。
そんなふうに見える神様がなぜイジワルではないとわかるのか・・・というと、日々、セラピーするなかで、クライエントさんの問題をどんどんつきつめていくと、究極的には神様(あるいは、大いなる力)に対して、「ごめんなさい。私が悪うございました。すべてわたしでございます」という信念が出てくるからなのです。「勝手に家出をしたのはわたしです」と。
そして、この信念ゆえに「自分を小さく小さくして、見つからないように隠れていよう」とか、「この世の果てまでも逃げきるぞ」とか、「まったく違う自分になって、ぜったいバレないように目をくらまそう」なんていうことをやっているのです。すると、とっても孤独で、とっても怯えていて、とっても悲しい自分になってしまうのです。自分こそが裏切り者だと知っているから。
こんなことを聞くと「まさか!」と思うかもしれませんが、それぞれの暗いこころの下にはこんな思いがもれなく身をひそめているのです。そしてその隠し持っている思いに気づいてしまったら大変なので、自分を忙しくして何がなんだかわからなくしたり、いろいろな物・人・出来事とかかわって自分が満たされているフリをしたり ・・・どうにか裏切り者の孤独で苦しい気持ちを忘れようとします。
「るん」のセラピーのなかでは、クライエントさんがほんとうに信じていることを探求するために、どんどんこころを掘りすすめるようなことをしていくのですが、わたし自信も日常で「プチいやな気分」のときも、あるいは「メガ級落ちこみ」のときも、ひるまずに自分に対してこの「信じていることの探求」を行っています。
セラピーセッションでは、口頭のやりとりで行いますが自分でやるときにはどんどんノートに書きとめていくのです。
昨日、お茶をしていたときにもふと「そこはかとない不安」を感じました。別にほうっておいてもどうってことはないほどのかすかなものです。けれど、こんなちっちゃな不安こそ、深いところに隠れている何か大きなものから浮かびあがってきた泡のようにとらえます。下に何かがあるぞ!というように。
そこで、さっそく喜々として探求をはじめました。
「そこはかとなく不安を感じる 」→ なぜなら、いつ何が起るかわからない世の中だから(いっけん妥当な答えのように感じても騙されてはいけません)→ (するとこんなイメージがわいてきました)古代コロッセオのなかに迷いこんでライオンに食われそうな自分 → 神様は外から見てるけど何も関知していない、助けようともしない → なぜなら、わたしはちっちゃい存在だから → 今度は、鈴虫になった自分が大きなカブトムシに食べられそうになっているイメージ → わたしは虫ケラのように小さくて神様にとってどうでもいいんだ → この宇宙の無限さが示すように、それぐらわたしは源(神)からはるか彼方に逃げてきた → だから自分でサバイバルするしかない → ついに強大なうしろだてを失ってしまった。不安だ・・・。
強力なバックアップ(神様)から家出をしてきて、すべてを失って昆虫のようにか弱く生きているイメージが「そこはかとない不安」の原因だったのです。
そのときどきの問題やテーマで出てくるイメージはいろいろですが、結局のところは「家出してきた(逃亡してきた)」あるいは「見捨てられた(と思いたい)」という信念が深いところにあります。
自分で「家出してきた」ことは認めたくないから、神様に「見捨てられたかわいそうなわたし」という被害者の美談をでっちあげたいのですよね〜。神様が悪い、神様のせいだ!って。
でも、癒しを起こすにはつねに「はい、わたしでございました」「すべてわたしです」というところに戻らなくてななりません。
そうちゃんと認められたときにこそ、こんな思いはこれ以上もっていなくていいのだと知ることができます。
どれだけ自分の信念、思いによって、自分を虐待していることか。ひとつひとつの間違った思いを手放していくことこそ、こころの安らぎなのです。
幸せであることとは、まさに自分の思いで自分を虐待することなく、間違った思いのひとつひとつを手放してちゃんともとのクリーンなこころに戻してあげることなのです。そうすると、自然な状態こそが「安らぎ・喜び」といえるようになるのですよね。
ゴミ屋敷に住んでいるひとは、自分の家がゴミでいっぱいだという認識をもっていませんよね。こころもじつは同じ。ほんとは悲惨なゴミ屋敷だったりします。(^。^; (まわりは知ってても、言わなかったりして・・・。)
クリーンで快適なおうちに住みたいですね〜。
今年もみなさまとともに、せっせとこころのゴミ捨てに励みたいと思います!!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
アメリカから遊びにきた家族を案内して、浅草寺を訪れたというA氏。
夕方、彼からなにやらあせった口調のメールが送られたきた。メモのようなコピーも添付されていて、そこには「凶」の文字がデカデカと。どうやらおみくじをひいたらしく、その結果に動揺されているご様子。「凶」は、たしかにハッピーにはしてくれませんが・・・。
「それ、ただの紙片だから」となだめても納得せず・・・。しまいには「日本の神社は人をおどしておいて、お祓いやお守りでお金儲けをする気か!」とご立腹。(はいはい、お気持ちはわかりますが、世界中どの宗教も似たりよったりです。「恐怖」を使っている点ではね。)
・・・というぐあいに、私たちは外からやってくるものに怯えて、攻撃されているように感じて被害者になります。それがごくふつうの反応の仕方のように思えますが ・・・じつはうまくハメられているのです。だれに?
・・・ 自分自身に。
このせいで不安だ、このために苦痛だ、あの人のせいで頭にくる・・・不安や苦痛や怒りの理由はさまざまですが、じつはどんな出来事がおきていようと、「その出来事はあとづけだ」ということなのです。
ほんとうは、自分の「感情」こそ先にありき! なのです。
何がおきていようが、自分の感情こそが、出来事の真犯人。そして、出来事はもともとあった感情にあわせて、ココロがうまくでっちあげています。
だから、このおみくじ騒動にしても、不安な感情が自分のなかに先にあって、その不安をかかえているのが不快なので、ココロはどうにかそれを処理しようとします。自分の中にあると気持ちがよくないものを、外のせいにすればすっきりするというわけです。そこで、ココロは「自分の感情(不安、苦痛、怒り)にあった出来事をうまくマッチングさせる」わけです。なにかをでっちあげて、この不安のつじつまをあわせようとします。(すると、たんなる紙片がキョーフになります。)
不安に理由(あとづけのできごと)をくっつけると、なんだかその感情をもっていても納得できるのです。(こういうおみくじが出たら、ひどい気持ちになってあたりまえ!と。)
ココロは、その不安の原因になりそうな「出来事」を上手にあとづけして、このおみくじのせいで自分はとっても不安だ。このせいなのだ。いや、もともと悪いのは神社だ。あこぎだ、金儲けしてる、気分が悪い!・・・と。(どんどん自分という本当の原因からは遠ざかっていき、外のものを責めます。)
結局、抑圧していた自分のイヤな感情がずっとそこにあったことを無視して、「このいやな感じはこのせいでした。私はなにも悪くありません」とホコ先を変えられるのです。外に悪者を見て、そこを責めることでイヤな感じが決着すると信じたいのです。
そして、あまりにも素早くでっちあげるから、自分でやっていることながらまったく気がつきません。
結局、自分の見ている世界は、自分の感じていること、信じていることにそったあとづけ、でっちあげ。自分のもてあましたイヤな感情が先にありきで、その感情のつじつまをあわせるために責めるべき人、ものをこしらえています。(ココロはイリュージョンをするマジシャンみたいです。)
自分が無価値だと思えば、無能で的はずれの人が目のまえにいてその人に腹をたてるし(ほんとは、自分に腹がたっている)、自分が無力だと思えば、自分が病気になってそこをなげくこともあります(モノとか人のかわりに、自分の身体もそのでっちあげの対象になるのです。)
おみくじのA氏には、自分がもともともっていた不安感のシンボルがそのおみくじであることを説明して、その不安を教えてくれていたのだから感謝すべきなのだよ〜説明しました。
だから、避けようとするのではなくちゃんと感じて、手放して(感情はちゃんと感じると終わりになります)、ひとつ潜在意識の中の付加が減ったことをお祝いするべきなのです。ココロのごみを片づけると、イヤな人、ものごとに出会うことがだんだん少なくなります。平和な世界になるのです。そして、おみくじは燃やすなどして、ココロのお掃除の完了の証にするとよいですよね。
よくないおみくじは癒すべきポイントを教えてくれていると思って感謝して受け取ることで、自分の幸せのための足がかりとしての道具になるのですね。そして、どんなことであれ感情が波立つときにはいつでも、自分の感情のお掃除をうながされているようです。
「セラピーを受けたいけれど抵抗があります。自分のなかにコワイものがあるようで」 ・・・こんなお問い合わせをよくいただきます。
醜い自分、怖がりな自分、やたら怒る自分、利己的な自分、けっこう残酷な自分、自信のない自分、特別になりたい自分、人を見下す自分 ・・・それらは自分がなりたい理想の自分とはかけ離れているので、そんな邪悪な自分の片鱗を感じるとわたしたちは必死でこころにフタをし封印しようとします。だからこころをのぞかれるのは困っちゃう。本当の自分なんて見せられないし、見たくない。・・・
この考え自体が、そもそも間違った考えから生じているのです。
わたしたちは誰もがもれなく、自分のなかにいるダメな自分を怖れています。だからでっちあげの自分像を完璧にするために、日々頑張ることに人生を費やします。それが幸せになるためのモチベーションであり、自分磨きであり、自己啓発とも呼ばれています。「足りないダメな自分」が前提になっていて、それを必死で繕うわけです。
なので、セラピーも「足りない自分につけ足すもの」あるいは、「ダメなところを修復すること」というように、何かを正したり、つけ足すものだと思われがちです。
しかし、セラピーは「足し算」をするものではないのです。じつは限りなく、せっせと「引き算」をしていくもの。「引き算」こそセラピーです。そう、こころのゴミだし。
誰のなかにも、完璧なその人らしさ、輝きがすでにあります。まったくキズのない宝石そのもの。ピカピカ!
しかし生まれてから様々な環境におかれ教育を受けるなかで、「人と同じにならなくちゃ」「あれもできなくちゃ、これもできなくちゃ」とあらゆる比較や価値判断にさらされた結果、自分は「人並みじゃないダメな人間だ」「完全に足りてない人」というレッテルを貼ってしまいます。
その間違ったレッテルを基準にしてその後も生きていくので、どんどん「わたしはダメ」という闇が深まります。「ダメさ」をメイクアップするためにすべての行動をとるようになります。
(余談ですが、「すんごく明るい人」というのも、じつは深いところでダメさを深く感じているがゆえに、それを繕うための偽りの明るさだったりします。その場合、無意識にそのように振る舞っているため、本人も気づいてない場合が多いのですが。)
自分の輝く宝石がその間違った思いですっぽりと被われてしまうと、自分がじっと見つめるのは間違ったレッテルだけとなります。
つまり、自分のキラキラの完璧な宝石のうえに邪悪な醜いプロジェクトマッピンクの映像を投影してしまった感じです。見えるのは、その恐ろしい自分の映像で、本当のことは隠されてしまいます。
だからこそセラピーの目的は、その間違ったプロジェクトマッピングをストップすること(自分の本当のアイデンティティ、完璧さを思い出すこと)。そして、本来の輝きがあわわれるようにホコリを払ってあげること(さまざまな間違ったものの見方を訂正すること)。
自分が怖れを感じていた自分の本性とは、じつは恐ろしいものではなく輝かしいものなのです。本当の自分のうえにかぶせていたプロジェクトマッピング(誤解されたアイデンティティ)こそが恐ろしいものだったわけです。
こんなふうに「こころ」のうえにゴミがたまったり違うイメージをかぶせてしまつことが、すべての問題の元凶。
だからこそ、「引き算」が大切。「引き算」こそがセラピーなのです。
「こころ」こそが、そして「こころ」のみが、このように問題をつくりだし、抱えることができます。。
そして、このホコリと間違ったイメージを取り去ると、なにもつけ足したり修理することなく、自分の宝石の輝きが外側に広がります。この自分の輝きが広がる視界こそが、愛や安らぎ、喜び、平和、満足、豊かさを映し出してくれます。これが安定した安らぎをもたらしてくれるのです。
この自分のこころの完璧さを知ることでしか、ほんとうの幸せ、安らぎはえられないのですね。
セラピーは怖いものに直面するのではなく、こころのジャンクをお掃除して、ほんとうの自分の完璧な輝きに出会う方法なのです。
クライエントのみなさまの感想は、「セラピーは楽しい♪」「もっと本当の自分をしりたい♡」・・・そうなのです! 本当の自分に出会うのは喜びです。ワクワクします。だからセラピーはエンターテイメントなのです ♬
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
桜も開きはじめて、いよいよ春本番ですね。部屋の観葉植物もぐんぐん新芽がのびています。
このところ「春眠・・・」ではありませんが、二度寝のクセがついてしまいました。それは計画的二度寝で、一つめの目覚ましをいつもより30分ぐらい早くかけているからなのです。
次が鳴るまでまどろんでいると、昼間覚醒しているときには使っていないアンテナがオンになるのか、ふだんキャッチできないインスピレーションがやってきます。つまり、高い意識とのコミュニケーションのための二度寝。(^_^)v
それは特別なことではなく、誰にでもインスピレーションやメッセージは平等にやってきます。まるで陽射しがさんさんとふりそそぐように、絶えまなく、じゃんじゃんと。でも、どのチャネル(どんな方法)でやってくるのかわからないと受けとれなくって、「わたしには来ないんだ」と決めてしまったりします。
あるいは、アタマのなかのおしゃべりがうるさかったり、即座に判断を下してしまうクセで受けることができない場合もあります。来ているのにはじかれちゃってるのです。
メッセージというと、まるで言葉でくるようなイメージですが、どちらかというと閃いちゃった感じや、ワクワクする感じ、ゆるぎない確信という感情や感覚だったり、あるいは ・・・人や本のなかの言葉、テレビやラジオで語られていること、街の看板や車の広告までもがすべてメッセージだったりします。(わたしの場合、セッションにいらっしゃる方の名前を、走りさる車の屋号などでよく教えられます。あるいはお顔が浮かぶので、どなたから予約が入るかわるのです。)
なので、ちゃんと受けとる気になって気をつけていると、さまざまなことをとても丁寧に教えられているのにびっくりします。
さて、二度寝メッセージですが、「わかっちゃった!」という感覚でやってくるので、具体的な言葉ではないのですが。すっかり目が覚めてしまうと消えさってしまうので、半分まどろんでいるような状態で急いでメモをとります。(幸い暖かくなってきたので、助かります。笑)
「全部わかった気がする!」「そうだったのか!」と思ったこともこれを逃してしまうと、あっというまに姿を消してしまいます。雪片が溶けさっていくように・・・。
よく臨死体験をした人が、「すべてがわかってしまったと思ったのに、からだに戻るやいなや消え去った」といいますね。そうですね。毎晩の眠りもからだを放棄する臨死体験のようなものです。(今のところ、よくぞ一回も失敗せずに毎日からだに戻ってこられるものですが・笑。)眠りのなかでも、いっぱい教えられているのでしょう。だったら、せっせと持ってかえってこなくちゃ!
例えばこんなメッセージ・・・。
「あなたは文句を言うべき出来事があるから文句を言っているのではありません。文句を言いたいがために、文句をつけたくなることがらを目のまえにせっせとつくりだしているのです。文句を言えば、何か変化をもたらせると信じています。文句はあなたの世界を変えることはありません。自分を傷つけるだけです。その思いを捨てなさい。そうすれば、もっと平和になります」
そんなに文句を言っているつもりはまったくなかったのですが、じつはお腹の深いところでは小さな文句がけっこうあることに気がつきました。「このテレビキャスターはセンスが悪い」とか、「なんでこんな忙しいときに電話をしてくるの?」とか、「この人、文句が多いわ」とか(←自分のことは棚にあげて!)。たわいもないようなつぶやきが、じつはれっきとした文句 (トホホ・・・)。
さらに最近、ドレッシングの瓶を落としてぶちまけたかと思ったら、お醤油の瓶までひっくりかえし・・・「なんなの〜、いったい!」と文句たらたら。 ・・・なるほど、なにがなんでも文句を言いたいがために瓶をひっくりかえしていたということね。(文句を言うためだったら何でもしちゃう。エスカレートすると、これが事故や災難になったりします。)
文句は、「人やものごとは、わたしのルールに従うべきだ」という主張そのもの。「わたしが王さまだ!」と。・・・自分の思いどおりにならない人・モノを攻撃しているのでした。これでイライラするのは自分だし、無意識のうちに人との距離もつくってしまいます。
ときには、他のひとのためのメッセージがくることもあります。病をわずらっている友人をサポートしていたときには・・・
「そのやり方では解決できないようにできています。解決しようとするのはやめなさい」 ・・・わかったようでわからないこのメッセージ。
つまり、「病」というかたちのあるものをいじくりまわしてもムダです。それは身体になどありません。こころが映しだしている影にすぎないのですから。その「病」の原因となっているこころの誤解をときなさい、ということだったのです。
まだ解釈能力が乏しいせいか、「わかった!」と思った感じを自分なりにちゃんとした言葉にするのに時間がかかるときもあるのですが・・・。最近は聞きたいことを眠るまえにしばし考えたりすると、二度寝タイムにミートしてお答えが受けとれます。
ここ2〜3日は、パズルのように少しづつメッセージがきて、ひとつにつながりつつあります。それはセラピーのやり方についてのメッセージで、「え〜!目からウロコ。そうだったの?もっと早く教えてよ」というようなもの。(←笑・また何がなんでも文句が言いたい!)
聞きたいことがふえたら、一日じゅう寝てることになりかねませんね〜!(^^;; (それも困るね!)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「こどもにすぐに声を荒げて怒っちゃうんですよ」という若いおとうさん。聞けば、彼の父親もすぐ怒る人だったそうな。
怒鳴る父、イライラをぶつける母、不満をぶちまける大人たち (テレビを観てても、不満オンパレード!)・・・ わたしたちはものごころつく頃から、さまざまな怒りと不満にさらされています。その結果、気に食わないことがあれば「怒り」をあらわにするのは当然で、それが「自分は満足していない」「改めて下さい」という意思表示なのだと学習してしまいます。また怒ることは、必要なものを手に入れる手っとり早い方法だとも信じます。怒れば確実に手に入るさ!と。
でも、だれも怒られて楽しい人はいないので、怒られると引きます。距離をおきます。離れていきます。結果、欲しいものを手にするための策略は、まんまと孤立を招き、手にしたかったものは遠ざかっていくことになります。
相談にいらしたこの若いおとうさんのように、怒った本人こそが罪悪感を感じて苦しくなります。
そして、何よりも困ったことには、自分を責めているひとは “ もれなく「自分を罰する」というワナにはまります ”。予期せぬアクシデントや病気というかたちで痛みを感じることで自分をいじめて、バランスを保とうとするのです。
私たちは「怒る」ことは、手に入れる方法であり、相手をコントロールできる方法であり、また自分のパワーを取り戻せると信じてしまっています。 ・・・ でも、怒ったあとはもれなくイヤな気分が襲ってきて、自己嫌悪。「こんな結果がほしいんじゃない。仲良くしたいのに。いい気分でいたいのに」と離れていった相手を見て苦々しく感じます。自分でもちゃんとわかっているのです。怒りは何の役にも立たないことを。
で、自責の念から無意識のうちに取り消しを行います。
それが、怒ってしまった自分を罰するということ。アクシデントや病気という大きな出来事の場合もあるし、あるいはテーブルの角におもいきり足をぶつけて痛い思いをしたりとか。人に怒ったり攻撃したあと、気をつけていると必ずそんなイタタな経験が起っているのに気がつきます。自分を痛めつけて「ホラ、わたしだってこんな痛い思いをしたんだから、これでおあいこだよね! だからもう忘れてよ!」と自分で勝手にチャラにしようと試みます。罰と思えることにタイムラグがあってつながりがわかりづらいときもありますが、自分の問題というのはたいていそんなところからきています。
いずれにしても、相手は知るよしもなく、自己満足の不毛な償いなのですが・・・。結局、怒ると自分こそがダメージを被っているというわけです。怒ることは、相手にも自分にも全然やさしくありません。
本当のところ、「怒り」はダミーの感情でその下にある本当の感情をカモフラージュするためのもの。ものごとが起ったときに、あまりにも素早く怒りにかわるのでなかなか気づけないのですが、その下に隠された感情があります。
たとえば、「こどもをすぐ怒っちゃうおとうさん」。こどもが手に負えなくなったとき、とっさに感じているのは「無力感」。それはこどもの頃よく感じていた感情で、こころの片隅に放置されていたものです。ものごとが外から襲いかかってくるようで手に負えず、コントロールしたいのに呑みこまれてしまいそうな怖れ。自分のこどもがわんわん泣けば泣くほど、自分のなかに隠していた「無力で小さな自分」が刺激されて小さな自分にもどっていきます。でも、そんなとき、「オット!自分の見たくないものが見えてしまいそうだ。そうだ怒りでごまかそう」と怒りで自分の狼狽した気持ちをごまかします。
ほんとうは、その隠されていた感情を素早く見抜いて、ちゃんと正面から向きあってあげることが大切なのです。「ああ、自分のなかには、まだこんなにおびえてる男の子がいたんだね。もう大丈夫だよ」って言ってあげられたら、その男の子は安心できるようになるし、大人として「今起きていること」を冷静にみることができるようになります。だから、積極的に自分のこころのひだに隠されている「弱さ」を知り、向きあうことは大切なのです。
怒ってしまえば、「あなたが悪い子だから」ですませることができちゃう。自分のなかにある「自己嫌悪」や「自信のなさ」という見たくない感情を向き合わなくてすみます。そうやって永遠に放置しておこうとします。でも、向きあわない限りは怒り続けることになり、愛を遠ざける結果になってしまうわけです。
すべては意識的に気がつかないと終わりにすることはできないのですね。目に見えて気づかないと、「片づけよう」とも思わないからです。でも、気がついたらおしまいにすることができるのです。
だから、怒っちゃったらチャンス! 長年のこころの重荷を降ろすビッグチャンス!
怒りの下でパニックになっている「小さな自分」をその小ささから解放してあげることができるのです(これをしてあげないと、いくつになっても自分の自己イメージはそのときのままにとどまってしまいます)。
自分のなかにあった怒りの原因がわかりはじめると、怒るよりも自分のなかの「弱いと勘違いしている部分」にやさしくできるようになります。「そんなふうに感じていたんだね」とやさしく認めてあげることで、癒しが起ります。そんな弱い自分は安心して消えていきます。もとからある自分の強さ、落ち着きが戻ってきます。
本当の自分を知るには、いらないお荷物を片づけるにつきます。
そして、きっと泣いている目のまえのこどもにも、やさしい共感のまなざしを向けてあげる余裕がでてくると思うのです。
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自分に本当に正直になったとき、これは誰もが必ずもっている信念です。「きっと、誰かが私を救ってくれる!」って。
そして、ある日、ステキなことが起って自分の人生がバラ色になるにちがいない・・・と。
だから、みんな自分の救世主を待ちわびているのです。
たとえば・・・
イケメンでお金持ちの理想のパートナーが、
自分を理解していたわってくれる優しい彼女が、
こどもが大きくなって手を離れたときこそ、
景気こそが回復すれば、
こんどこその転職が、
きっとやってくる昇進が、
このダイエット食品が、
この新しく発売された化粧品シリーズが、
これらのパワーストーンや風水の開運グッズが、
この治療法が、
この占いが、・・・・
それらによって、ようやく問題から解放されて幸せな日々がやってくる ・・・って。
それを手にできたそのときにはワクワクするかもしれないけれど、ワクワクとほんとうの幸せである安らかさは別のもの。ワクワクはたんに刺激に対する反応なので、一瞬強く感じるもののすぐにおさまります。
手にしたもので問題が解決されたように感じるけれど、じつはその問題はちょっとかくれんぼをしただけ。背後にまわったかもしれないし、あるいはどこかに身をかくしただけで、じつはまだそこにいてなおも歩調をあわせてヒタヒタとついてきています。だから、視界に入るのは時間の問題。
外に問題があると思っているあいだは、その問題とイリュージョンごっこを続けることになります。消えた!と思ったら、またこっちに現れて・・・ 。
そしてまた思いつくのです、「別のあれを手にすれば、こんどこそ問題は解決される!」と。別の彼女、別のダイエット食品、別の宝くじ、別の会社、別の顔(整形)・・・と、救い主探しの旅はなおも続きます。
でも足にマメができて、靴がやぶれて、膝がどうにも立たなくなって、身もこころもボロボロになって・・・ はじめて人は救い主探しの旅をもう続けられなくなって、あきらめて「もう、帰ろう・・・」と家路をたどります。とぼとぼ自分に戻ってくるのです。
そのあきらめたときこそが ・・・じつは「オメデトウゴザイマ〜ス!!」とファンファーレがなり響くところ。探していた救い主が待っているところなのです。
外には何もなく、誰にも何にも自分を救うことができない、と思い知った人にこそ、救い主が待ちかまえているのです。
自分を救える唯一の存在とは、じつは自分の「こころ」だけ。答えとは、自分だったのです。
この「こころ」に戻ってきて、大切に向きあうことなく、じつはいっさいの問題の解決はないのです。何かを探して足を棒にするよりも、それはもうここにちゃんとあるってこと。
なぜなら、自分が見ていると思っている世界とは自分のこころのなかの出来事であり、外にあるのではなくって、じつは内側に存在しています。外を探しに出かけると、自分のこころのなかのイメージへと入っていき、まるで袋小路のようになっちゃう。これこそ、イリュージョン!
自分の見ている世界に向かうということは、自分のこころのなかに入っていくことなのです。そして、自分のこころにたくさん溜めてしまったゴミに気づいて、ゴミを出して、ちゃんとこころにむきあってみること ・・・。それはいらない信念をお掃除することであり、お掃除したら深く自分とつながることであり、そしてその輝きを確かめてあげること。
問題も答えも、そこにこそあるのです。
でも ・・・足が棒になってボロボロになるぐらい歩きまわらない限り、わたしたちはなかなか正しい方向へ方向転換することができないようでもあります。
だから、疲れはてているのだったら、もううんざりあきあきしているのだったら、何をやってもダメでほとほと嫌気がさしているのだったら、外を歩きまわるのをやめるとき。おうち(自分)に戻ってくるときです。じつは、それこそが大きなターニングポイント、転換点、気づきになりえるのです。
ほんとうに疲れはてたら、正しい方向に歩きはじめるチャンスだ! 向きをかえてみましょう。
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「これから、すぐにすべての問題を解決する方法をお教えします」
と、セラピーにいらしたクライエントさんに言ったとしたら、きっとみなさん真剣に聞いてくださると思います。
「それはですね ・・・ そのことについていっさい“ 考えないこと ”です」・・・ 「考えないでください。 ・・・ 以上! これでセラピーを終わります」
なんて言ったら、「はあ?! ・・・」って呆れられそうですが(笑)。
でも、冗談でもなんでもなく、シンプルに言うならそういうこと。このひとことに尽きます。
「問題について考えない」「問題を価値判断してセリフをならべたてない」。ひどいとか、大変だ、どうしよう、なんで?、これからどうなるの?、もうダメダ 、あの人っていったい!? ・・・などの解釈をいっさいしない。
それについてまったくコメントしなければ、それには意味などなく、じつは問題にはなりえないのですよね。
「あれ」がないと、「それ」も「これ」も存在しないのと同じで、「わたし」がいなければ「あなた」も「その他おおぜい」もいないことになるし、すべてに名前をつけなければ、すべては静かにひとつになってしまいます。
たとえば、こうしてパソコンに向かって文章を書いているとき、私には「私」の自覚がなくなっていて、そんなときってじつは「私」個人はいないのです。かといって気絶しているわけでもなんでもなく、誰のでもない「意識(気づき)」がそこにいるて作業してる感じ。
でもね、わたしたちは学校で「頭をつかう」ことをたたきこまれてきています。
「ほらっ、きみはまったく何も考えていないんだから!」「もっとちゃんとよく考えてからやりなさい」「頭は使うためにあるんだから、ちゃんと考えて!」などなど、つねに考えが足りない、足りないと言われ続けてきたのです。だから、分析、解釈、判断、思考いのちなのです。考えていないことは「おバカ」そのものであって、もっとも避けたいこと。
だから、朝テレビをつけると、いならぶコメンテーターが日々の出来事に関して、「あ〜だ、こ〜だ!」、あらゆる解釈をしてくれます。そして、そのコメントに対しても、またコメントがのべられて、朝のテレビはまさにコメント、解釈、価値判断合戦。
食レポのタレントさんだって、食べたものを解釈できなかったら「使えないひと」といわれ、こと細かに分析し、判断し、解釈できると、感性が豊かだと言われるし。(ほんとは、言葉をさがしているじてんで、味なんてわからなくなっています。)
だから、私たちは賢くいるためには、いつもグルグル考える。なにかが目のまえに現れるやいなや、「これはどうだ、こうだ」、何か言わなくちゃいけない。考えている人はどこか賢そうに見える。
でも、アタマで解釈するほど、じつは問題をつくっているようなもの。なんの意味もなかったものがどんどんこんがらがります。
つまり、私たちが生育過程のなかで習ってきたことは、ほとんど自分のクビをしめて、自分を制限することだったのですよね。
「思考(あ〜だこ〜だ)」は電気反応のように、自分という意識の空間のなかに放電されているようなもの。これを自分だと思ってしまうと、頭が混乱してきます。だって、とにかく一貫性に欠けているから。
大好き、愛してると言っていたかと思えば、何かの拍子に嫌いと言いはじめ、文句を言っているうちに怒りや憎しみまで出てきたり。
あるいは、気分がいいと言っているかと思えば、次の瞬間には死ぬほど最悪な気分に陥ったり、まずまずイケてると思ってた次の日には、世界でいちばんダサいと感じはじめ・・・わあ〜、つきあいきれない。
それらは、何かが実際に起きているというよりも、ほとんど「アタマ」のなかだけで行われていること。すごいバーチャルな世界です。
だから、「思考」には勝手にしててもらいしょ!
「思考」が何かわけのわからないことを言いだしてもまにうけず、てきと〜に流す。「あ、なにか言ってるな」ぐらいに。
あまりにうるさいときには、ひとこと「うるさい!だまりなさい!」と一喝。
こうして相手にしないと、ほんとに静かになってきます。・・・ ということは、相手にするからどんどんうるさくなるのですよね。
思考によって価値判断しないことで、すいぶんとコワいことも減るだろうし(そうです、思考が、思考そこがコワイのです)、いやだ!と思っていたことも、思考がなければふつうのことになったりします。
じつは、わたしもこれから「もういいかげんにしてよ!」と思っていることに取り組もうと思っているのですが(だから、きょうはこのトピックになりました・笑)。頭のおしゃべりをさせないと(解釈をしないと)、それじたい別にいいことでも、悪いことでもなくなります。「ただやらなくちゃいけないこと」って感じになりました。
思考によって価値判断してしまうと、自分が「受けとる」結果を決めたことになります。でも、ただ放っておくと、ものごとのなかにある完璧さをみせてもらことができるようになります。
それはそれで完璧なのです。そのままにしておけば。
そう、すべてのことはほっておけば完璧になる。けど、私たちは全部をコントロールしたがるので、完璧さが見えなくなって、自分の怖れの世界のストーリに姿を変えてしまうのですよね。
今は完璧さがわからなくっても、それを信じること。だから、目先のことばかりにあれこれ言う思考には黙っててもらって、ただしゅくしゅくと取り組みましょう。
すべての完璧さが見えるようにお願いしつつ・・・。
今開催中のブータン展を紹介する番組のなかで、ブータンの寺院に立ちならぶ大きな柱がうつしだされ、それを一生懸命ぐるぐるまわすたくさんの人たちが。
この柱、マニ車というものらしく、一回まわすとお経を一巻となえたご利益があるとか。だから、グルングルンすればするほど極楽浄土は近い! ということに。でも、そうかんたんに極楽ご到着の様子はうかがえません。
マニ車をまわすスピードにもまして、エゴが問題をつくりだすスピードもアップしているようです。
マニ車を一回まわせば 、エゴは負けじとばかりにさらなる問題を繰りだすわけです(倍返し?もっとか! 笑)。マニ車がなくっても同じこと。私たちのエゴはいつも、こっそりとバレないように狡猾に、でも決してとぎれることなく問題をつくりつづけます。
なぜ?! 幸せになりたいんじゃ?
わたしたちは幸せになりたいけど、エゴは違うのです。
エゴはヒマになったら困っちゃう。エゴはヒマが大嫌い。そして、安らかさがさらに嫌いです。だから、エゴにとって幸せは NG。
実際わたしたちは「働くのがいやだ〜!会社なんて行きたくない」といいつつも、「もう来なくていいですよ」といわれようものならとたんにブルーになります。「ヒマな人生はいやだ!」「することがないのは地獄だ」とうろたえます。
なんたって、ヒマであることがいちばんコワイ。ヒマになったらエゴは生きていられないから!・・・ そう、安らぎとエゴは、ともに生きられないのです。安らいだらエゴは消えちゃう。苦しみのなかでしか、いきいきと自己主張できないのです。だから、苦しみは大好物、攻撃やめらんない、戦い血が騒ぐ! いつだって戦々恐々としてる必要があるのです。
「いかに苦しみをつくりだすか!それも途切れることなく」、それがエゴの死活問題であり、存在の目的でもあるのです。
だから、お花畑で昼寝をするような人生はもってのほか。
わたしたちは、エゴの生存を保証するために、無意識のうちに苦しみと戦いを求めて生きています。
エゴは、滑落するか遭難するかのような険しい山を征服する人生がお好みです。だから、わざわざ困難をこしらえておいて、危険でドキドキする感じや、征服したときの達成感を感じて、これぞ「生きている」という証なんだぞ〜といい聞かせます。「野原でまどろんでいるなんて、屍同然!イキイキするためには、もっと苦しめ、危険を冒せ。それが人生だ」と。
攻略できないかと思うほど険しい山をわざとつくりだしては、ほとんど死にそうになりながらも征服しようとして、「ああ、でも生きてる。これが生きてるってことだ」といいきかせます。
これじゃあ問題がなくなることはありません。エゴの価値観に耳を傾けtいる限り、日々エヴェレスト登山です。そのうちに、あっというまに人生 The End になっちゃいます。
ほんとうに何度も命を落としそうなほどボロボロになって、「こんなのイヤだ! これはなんか違うぞ」って思うまで、危険な山登りはやめられないのかもしれません。
ほんとうの幸せってどうやら、刺激でも興奮でも、バクバクしたり、ドキドキしたりすることではないような。
たとえば、広々とした大自然のなかで、その景色をながめているうちに景色と自分が一体化しちゃったときのような。まさに自分がすべてに溶けこんでなくなってしまったようなとき、言葉にできない解放感、自由さ、安らかさ、幸福感を感じたことがありました。「自分」はもうそこにはいないのです。・・・じつは、これこそがエゴはゆるせない状況。エゴが抹殺されているのです。
エゴがいなくなったときのこの解放感は、苦しい山登りの達成感とはまったく別もの。それは、自分のワクがなくなる快感と安心感、全部である感覚。
この解放感は、じつは自分の内側にもちゃんとあります。わざわざ自然のなかにお出かけしなくても。
それは、止まって、静かにして、内側に向かうこと。野原でくつろいでいるようなときにこそ、やってくるもの。エゴが生きている証だといいはる、刺激や興奮、攻撃性がおさまったところにしかやってこないもの。
止まって、静かに自分の内側に意識を向けると、じつは広大な自然よりももっと大きく解放された無限の空間があります。そして、そこに静かに溶けこんで、ひとつになること、とどまることは、あの自然とひとつになる感じとまったく同じ。
そのむかしご多分にもれず、「ドキドキ、バクバクこそが生きてる証だ」と信じて疑わなかったわたしは、イキイキ人生を生きるためにありとあらゆるドキドキバクバクを世界中に求めて経験しようとしていました。やれどやれど ・・・「あれ? いつになっても自分が望んでいるような幸せ感はえられないなあ」と気づいたのは、ほとんどやり尽くしたようなとき。ある意味、「もう、飽きた」と感じたのです。
だからわたしの場合は、引き出しのすべてを片っぱしからすべてあけてみて、「ぜんぜんここじゃなかった!」とようやく気づいたしだいです(汗)。
きっとみんないつかは自分に戻ってくることになります。
それは世界の最高峰の危険な山々を登りつくしたあとかもしれないし、あるいはなんかの拍子にエゴの問題大量生産の策略に気づいてしまったのかもしれません。いずれにしても、危険な山登りにあきあきして、外にはなにもないのでは?と思ったときこそ、内側の大きな宇宙を探求するときです。
でもね、「そうだ方向転換だ!内側だ!」と思いついても、最初のうちは内側に向かおうとすると怖れに直面することになるかもしれません。それは、自分でためこんできたジャンク(ゴミの山)にまずは突きあたることになるからです。ジャンクとは、自分が「ないこと」にして感じずに抑圧してきた感情の山のこと。まずはこのお掃除が必要なのです。ほんとうの自分に到達しようとするときには(これがあるからこそ、ひとは内に向かうことをしたくなくなるのです。)
自分の内側に向かおうとするときに直面する空虚感、落ちつかない感じ、嫌悪、孤独、怖さ、とにかくイヤな感じ、を地道にとりのぞいていきます。それをただ「感じる」ことによって終わりにさせてあげること。
ゴミの山にひるむことなくちゃんと向きあうことで、じつはそこにずっとあった、隠されていた大切な宝ものにつながることができます。それは、ほんとうの自分の安らぎ。エゴがいちばん怖れていたものです。
それを見つけたら、もうエゴの陰謀である危険な冒険には興味がなくなっちゃいます。自分を満たすものが刺激や興奮ではなくなってしまい、ただゆるぎない安心感がいちがん大切なものとなるのです。
わたしはクライエントさんとの最初のセッションのときに、「すべては自分の内側にあって、その輝きとつながることこそが大切なこと。だからこころのコミ出しを頑張りましょう!」とお話しします。
エゴからの危険な冒険のお誘いよりも、自分のこころのなかにあるさまざまな落ち着かない感じにひとつひとつ地道に向きあって、ちゃんと感じて消し去ってあげることが、わたしたちにとってマニ車をまわすこと、幸せへの道なのです。
こころのなかのゴミがなくなると、エゴが脅威をおぼえていたヒマとかくつろぎ、静けさが、自分にとってのほんとうの幸せになるようです。
クライエントAさんのご相談は、「私はネガティブで、目にするもの何でもけなしてしまうんです」ということ。「こんな自分をやめたい。幸せを感じられるようになりたい」といらっしゃいました。
たしかに ・・・ 幸せを感じたいAさんにとって、「けなす」ことは決して幸せには近づけてくれません。
つねに「けなしてしまう」行為は、たとえ口に出さなくても、ケンカを売っているようなもの。「けなす」ことは攻撃であり、攻撃をしたからには心安らかでいられるはずがありません。平和はやってきません。
じゃあ、Aさんにとってなぜ攻撃が必要なのか? 自分は苦しくなるにもかかわらず、なぜ攻撃を選ぶのか・・・?
私たちは、「こんな自分はいやだ!」「やめたいんだ!」と思っても、なぜかやり続ける自分がいます。それは、「やめる」よりもやり続けるほうがじつはずっとメリットがあるから。トクをしているから。そのトクは、「こんな自分はいやだ!」と自分を嫌いになる気持ちをゆうにうわまわるほど魅力的なのです。
さて、Aさんが「自分を嫌いながらも、なおもけなすことをやめられない」、そのメリットとはどんなものなのでしょう?
Aさんの潜在意識(ふだんは感じることのない意識)のなかを調べてみると、幼いころのお母さまとの関係のなかで不協和音が存在していました。
お母さまの自分に対する態度から、「私は邪魔だから、見向きもされない」と信じ込み → 「そのままだと、まるで透明人間だ」と感じ → 「何か、自分に付加価値をつけなければならない」と思いたち → 「はっきりとした考えをもっている人は、存在感があるし、賢くみえる」と気づき → 「何を見ても、なるべく辛辣な意見を言おう」と決心し → 「瞬時にものごとを裁かなくてはならない」という結論にいたりました。そうすれば、透明人間である(と思っている)自分に必要な付加価値を与えられ、賢い価値ある人になれるだろうし、母にも認められるかもしれないと決めたのです。
こんな幼少のころの自分に対する無価値感から、けなすこと、価値判断すること、辛辣な意見を持つことは、価値ある人間になるため、一目おかれ愛される自分になるためには必要なことになってしまったのです。
こうして文章にしてみると、まったく筋がとおっていないことは明らかですが、なんせ三歳とか四歳のこどもが決めていることですから ・・・ 。冷静に、客観的にみてみると「これヘンでしょ!」ということが、あんがい私たちをつき動かし、操っていいる信念なのです(まったく役に立たない信念です)。
だからこそ、その役に立たない信念のシッポをしっかりとつかんで、明るい場所に引っぱり出して、「これ、おかしいでしょ〜」と笑ってあげることが必要なのです。
Aさんは、まったく無価値でも、ダメな人でも邪魔な人でもありません。
私たちが親だと信じていた人も、一人の人間であり、その人なりの心の痛みやものの見方、トラウマがあったりします。まったく自分と同じなのです。
親も同様に、こどもの頃からの痛みを今だに抱えていて、そのの気持ちにとどまっていて、そのこどものままで子育てをしていることになります。
そうなんです。私たちが親だと思っている人はしばしば、まだこどものままで、包容力があって、愛してくれて、守ってくれる人という「親のイメージ」にあてはまらない人もたくさんいるということなのです。
ヒプノセラピーのセッションのなかで幼児期退行をしながら、幼い自分につらくあたる親に涙するクライエントさんに対して、「ごめんね〜、○○ちゃんがお母さんだと思っていた人は、まだ五歳のこどもだったんだよ。五歳の女の子に、ちゃんと子育てはできないよね〜。だから○○ちゃんが悪いからこんなことになったんじゃないんだよ。自分を責めちゃだめだよ」と教えてあげます。
こどもは、相手が自分につらくあたると、自分が悪いからだ、欠陥があるからだと決めて、自分を責めるようになります。そうじゃないのです。しばしば、クライエントさんよりも、その親のほうが、もっとセラピーが必要なことが多々あるのです。いえ、多々あるというよりは、親もまったく同じなのです。
親との関係のなかでの間違った自分に対するイメージに気づいて、それを手放してあげると、だんだんそのままの自分でリラックスすることができるようになります。
クライエントのAさんも、ふと見せる笑顔がとってもチャーミングな方で、その笑顔がのぞくたびに「ああ、こんなに純粋で、素直の方だからこそ、傷つかないように必死で自分を守る必要があったのだな〜。自分を守る方法こそが、攻撃という形をたったのだな〜」と感じます。
けなしてしまうクセが出てくるたびに、「私は価値のない人ではない」「透明人間ではない」「付加価値はもはや必要ない」と、自分の思いを訂正していくことで、だんだんリラックスして心を開けるようになり、本来のAさんの純粋さ、素直さ、優しさ、楽しさが輝き出してくることでしょう。
もし攻撃をしかけてくるように見える人がいても(つらくあたる、厳しいことを言う、明らかに攻撃してくる、無視する・・・など)、攻撃を受けている自分を責めたり、卑屈になったりするのではなく、「ああ、この人は攻撃することで、自分の価値を必死に高めようとしている。それだけ、この人は自信がないし、おびえているんだ。ほんとうは愛してほしいのに、どのようにふるまっていいのかわからないのだ」 ・・・ こんなふうに思ってみてください。
相手の攻撃に巻きこまれて、自分も同じようになってしまうのを避けることができます。そんな人こそ愛にふれると、かたまっていた心が一気に解凍されて、本来の愛や優しさがあふれ出しきます。
みんな「愛」がほしいのです。そのために頑張っています。
しかし、それを手にするために、しばしば間違った表現になってしまうのですね。それを理解できるようになると、自分にもやさしくなり、心も穏やかになるし、人のこともより理解できるようになると思います。
先日、お友だちの家を訪問したとき、幼稚園児の息子さんが得意げに見せてくれたもの、それは「飛びだす絵本」。いろんな場面がぴょんぴょんポップアップしてくる立体絵本です。
いや〜! 近頃のはたいそうよくできています(わたしの頃とは大違い!)。いろんなカラクリがあったりして、思わずその不思議な美しい世界に入りこみそうになりました。一冊わたしも欲しいな〜と思うほど。
といいつつも、わたしたちは日々「飛びだす絵本」に夢中! 「飛びだす絵本」を生きています。
どういうことか ・・・ というと、
わたしたちの本棚には、いろんなストーリーの「飛びだす絵本」がぎっしりと並んでいて、その背表紙にはたとえばこんなタイトルがあります ・・・「2016年6月20日 古川貴子の一日」。
つまり、朝目覚めると、その日の「飛びだす絵本」がパラリと開き、それを読みはじめます。その臨場感や不思議さ、連ドラ顔まけのハラハラドキドキに、もう夢中! すべてを忘れてのめりこんでいきます。
そしてついつい、自分が「読み手」であることを忘れて、すっかり絵本のなかの主人公になりきっちゃう。
そして夜になり一日が終わる頃になると、その絵本はパタンと閉じられ、そのストーリーは店じまい。本は棚にもどされ、眠りにつくわけです。
もしその晩に夢を見ることを選ぶなら、「2016年6月20日 古川貴子の夜の夢」という絵本がまたパラリと開かれます。「夜の夢」」シリーズは若干辻褄があわなかったり、話がとんだりして、手抜きっぽく感じるかもしれません。
あるいは夢を見ないことを選ぶなら、どの絵本も開かれることがないままとなり、安らかに休息します。
こんな「飛びだす絵本」をくる日もくる晩も、ワクワクク喜々として開く日々がつづきます。
そしてお姉さん、お兄さんになるにしたがって、「2016年6月20日 古川貴子の一日」という一冊でも、ダークバージョンとライトバージョン、ミディアムバージョンなどいろいろな筋立てが存在することに気がついて、自分で選択できるようになってきたりします。
でも、いつしかこどもは成長します。そしてついに、絵本に興味を示さなくなる日がやってくるのです。昼の絵本にしても夜の絵本にしても、まあ、どれも似たりよったりだな〜と。
ワンパターンのアップ&ダウンのストーリーで盛りあげ、「めでたし、めでたし」で終わりそうになるところを話しを続かせるために、「じつは、その話しにはまだ続きがあった」という急転直下のどんでん返しが繰りだされ、そして地の底をはいまわったあとの栄光という陳腐なパターン ・・・。
そんなストーリー展開も、手あかがついたこども騙しのように感じてまったく心が動かされなくなるときがやってくるのです。心底あきあきするのです。「もう、いいよ!」って投げ捨てちゃう。
そう、もう絵本はいらない。 ・・・ 絵本はおはらい箱にされてしまいます。永久に ・・・。
絵本が閉じられドラマが終焉したとき、なんという静寂・・・。静けさ ・・・ 。平和 ・・・。それは永遠に。
絵本の主人公は、自分がすべてのストーリー運営に責任があると信じて、日々がむしゃらに、力いっぱい奔走し続けます。
けれど、本当のところは、その一冊のストーリーはすでに書かれているもの。主人公が話しの詳細や結末を決めるのではありません。でも、その筋書きどおりに動かされていることにまったく気がついていません。だから必死!(汗)
さしあたって「飛びだす絵本」を生きる毎日のあいだは、登場人物である主人公のわたしとしては楽しいわくわくするストーリーのなかで活躍したいな〜♪ お気楽なのがいいな〜♪
毎日、毎晩、絵本を選んでくる人(読み手)に、ライトバージョンの絵本を選ぶようにお願いしておきましょう!
え? ・・・ 絵本を選んでくるその人が「本当のわたし」ですって? じゃあ、登場人物のわたしって誰よ、いったい?! (笑)
(ꐦ ´͈ ᗨ `͈ ) '`,
「まだ学ばれていないレッスンは、それが学ばれるまでくりかえす」とか・・・、「それがくりかえし起こるなら、そこには学ばれていないレッスンがある」などといわれています。
つまり、自分の人生に何度も起きてくる問題があるとき、どうやらわたしたちは何かを学びそこなっているらしいのです。
「同じパターンで何度もくりかえす人との不和」、あるいは「慢性的になってしまっている身体の不調」、そして「なかなか解決しない経済的な問題」などなど ・・・「ああ〜、またか?!(汗)」とタメ息をつきたくなってしまうときがあります。
解決のために努力していないわけではないのです。
たとえば「経済的な問題からどうしても抜けられない」というあるクライエントさん。
「学びそこねているレッスンがあるということはわかっていました。だから積極的に取り組んでみたんです。“与える”ということに。“与えることは受けとること”、そして“与えるまでは、自分が持っているものに気がつけない”っていうじゃないですか。じゃあ、気前よくプレゼントに精をだしてみようって決めたんです」と。
「で? どうなったんですか?」とわたし。
「与えることは実際、気分がいいことでした。でも、経済的な状況には特に変化はありませんでした。だから、問題は解決していません。こんなに与えているのにちゃんと戻ってこないじゃないか、という葛藤を感じずにはいられません」とクライエントさん。
もちろん「与えることは受けとること」であり、「与えるまでは自分が持っているものに気がつけない」ということは本当ですが、不足感から与えてしまったので、不足感を受けとることになってしまったようです。
「与える、受けとる」というのは、モノというよりも「思い」をあらわしているのですね。だからこの場合には、「豊かな気持ちとか、喜び」という「思い」を分かちあうほうが、結果としての豊かさにつながったのだと思います。
こうなってくると、「いったい学ばなくちゃいけないレッスンって何なんですか〜? いっそのこと、問題と一緒に“レッスンのポイント”とか、“解決のカギ”とかいうプリントでもくっつけてくれたらわかりやすいのに。 神様って不親切!」って思っちゃったりします。
どうやら、レッスンのポイントとは ・・・ どの問題にも共通しているようなのです。
端的にいってしまうと、「あなたが誰であるのか知りなさい」ということ。そして、そのことにおいていちばんズレが生じている状況(人間関係、身体の扱い、経済的なこと・・・)に、問題はあらわれるようです。
たとえば経済的な問題の場合、「生存する」ということに対して戦々恐々とした気持ちを感じているということがいえそうです。
「ここは危ないところだ」という信念があり、生きることはサバイバルであり、そのためには危険をかいくぐって自力で生存していかなければならない。ある意味、「生きることは戦いだ」という感じです。決して、守られ、育まれ、導かれて、愛されている存在としての自分を自覚していません。
まさにその危険な信念のままに、ここは危なく、こころもとない世界に映ります。自分で頑張って生存を勝ち取らなければならないサバンナのような体験をすることになるわけです。
でも宇宙は是非とも学んで欲しいことがあるのです。ほんとうのことを。あなたの真実を。だから問いかけます。
「あなたって誰なんですか? 壊れてなくなってしまう身体なんですか? そりゃ〜危ないですね。何が起こるかわからないですよね。スピリットだったらよかったのに。形がないから安全です。それに限界がないし。怖いことなんかなくなるでしょう。戦う必要も、コントロールもいらないし。そして、すでにすべてとひとつなのだから、無限であったら欠乏することなんかないですよね。なんせ、すべてですから。・・・ ところで、あなたって、誰でしたっけ? 身体なんでしたっけ??」と、何度も問い直されているわけです。
だから解決としては、スピリットとしての自分に戻ろうとすること。まずはコントロールを手放して、ゆだねて、宇宙という無限の豊かさのなかに浮かぶためにリラックスして力を抜くこと。そうすれば、小さな切り離された断片としての経験ではなく、限りないもののなかですべてが流れてくる体験をすることができる・・・と。
この「本来の自分のありかた」をわたしたちは学ばされているようです。だからどの問題にしても、「こわがらなくていいのですよ。ただ信頼して力をぬきなさい。自分でやろうとしないでゆだねることを学びなさい」といわれ続けているのです。
「なんでも自分でちゃんとやりなさい」「人を頼らないように」と教育されてきたわたしたちにとって、「力をぬいて、ただあるがままにする」って、なんだかサボっているというか、手をぬいているというか、あまり賢く感じられないようです。「自分でやってこそ、でしょ!」って思ってる。
しかし、問題に直面したときにいちばん大切なのは、まったく価値判断せずにただ「そのままにする」こと、「いじくりまわさない」「画策にはしらない」、そして「流れを信頼する」ということなのです。
わたしたちにとって「学ばれていないレッスン」とは、どうやら「力をぬいて、完全にゆだねて、信頼する」というシンプルなことのようです。(まるで泳ぎ方、いや浮き方のレッスンのようだわ。わたしは、今だに水泳が苦手!)
シンプルに思える「信頼」こそが、じつはとってもむずかしい。なんか、真っ逆さまに墜落しそうな、水のなかで溺れ死にそうな、そんな怖さがあります。
でも、空中ブランコだって離さないと次がつかめないように、怖さを手放して信頼したときにこそ、はじめて「体験」として「うまくいくんだ」ということが教えてもらえるようです。
レッスンにパスするために ・・・ただ「信頼」「信頼」「信頼」!! ꒰⁎×﹏×⁎꒱ ༘
先日、映画を観ていたとき、それはとっても静かなストーリーだったのですが、話しの展開にはそぐわない地鳴りのような音がしたり、地震かと思うような揺れを感じたりするのです。
最初はほんとうに地震かと思ったのですが、あまりにも回数が多すぎる。 ・・・ どうやらすぐ隣にあるシアターで4D映画の上映をしていたようで、あれって、映像にあわせて椅子が揺れたり、ミストが噴射されたり、匂いもついてるらしいのです。臨場感満載!
たしか、ディズニーランドだったか、ユニバーサルスタジオだったかに、そんなのあったっけな〜。坐っているだけなのに、急降下したり、高速で飛び回ったり、地底を突き進んだり・・・。危機一髪な場面がいっぱいあったけど、不死身のように死なずに生還いたしました。(ああ、不死身ってこんな感じか〜と思いましたよ・笑)。
でも、あまりのスピードと揺れに途中思わず酔いそうになって、目をつぶってしまいました。そうしたら・・・ あれ? ただ椅子が揺れてるだけか〜。なんにも起ってないじゃないか・・・ なんて、妙にクールになって、こども騙しっぽく感じられましたよ。なにひとつ怖いことなんて起ってないじゃな〜い(笑)。
知覚のトリックって、かんたんに欺かれます。
しかし、まさかね、わたしたちも毎日、こんなアトラクションに乗ってるとは思わないですよね〜!(笑)毎日ですよ〜!飽きることなく。(笑)
どういうことかというと、
もし ・・・「 わたしはドアを明けて外に出る」と思っているときに、自分は1ミリも動いていないのにドアが自分の方に近づいてきて、勝手に開くと外が広がっていて、立ってるだけなけなのに周りの景色がどんどん後ろに流れていったとしたら。そのうえ、歩いているような震動を感じたり、頬をなでる風とか、陽射しのような暖かさを感じたとしたら・・・ きっと自分は外に出て歩いているって思うかもしれません。でも1ミリも動いていない ・・・。
そして朝になって、またまた1ミリも動かずここにいるのに、ベッドから起き上がったような映像、つまり90度ぐらい部屋の映像が回転して、そして部屋の景色が自分の横を流れ、目の前で朝食作りの場面が展開され、そして仕事場ではたくさんの人たちがいて動きまわっているように見えたり 。あるいは、上司なる人が自分のまえで怒鳴っているように見えたり・・・ などなど。けれど、依然として1ミリも動いていなくって、そのうえもしかしたら、まったく時間も流れていないのかも・・・。時間も空間も止まってる。
わたしたちは知覚によって、いろんなことをごまかされています。壮大なるイリュージョンのなかで生きているともいえるのです。
ほんとうは、何も起っていない?! (全部錯覚? アトラクションの中?)
でも、イリュージョンが楽しいうちは、まあいっか!という感じです。夢のようなものをいっぱい見せてくれるうちは、別に変える必要もなし!
でもね、そうもいかないのです。なぜかイリュージョンは、だんだんホラーになってくるのですよ〜。容赦なく。 ・・・ あるいは、ちょっと楽しい映像で喜ばせて、そのあとは手いたい仕打ちがくるとか。でも人はまた「きっとよくなるはず」と期待して待っているので、待つことをやめない限りはなかなかこの「苦楽」の循環から抜け出すことができないのです。
わたしはヒプノセラピストなので、お仕事のセッション中、日々催眠を使います。(といっても、テレビのショーのような催眠術ではありません。ヒプノセラピーとは、深いリラクゼーションを使ったセラピーのこと。)
で、クライエントさんは「わたしって、催眠にかかるでしょうか?」とよく質問されるのです。
ショーのように、いきなり犬になっちゃったり、平気で恥ずかしいことをしちゃったりするようなそんな場面を想像するのなら、わたしは「そうなるのか」「ならないのか」という疑問はあると思うのですが、実際のセラピーとしての催眠虜法(ヒプノセラピー)は違うものです。まったくリラックスできない人がいないのと同じように、それが「できる」とか「できない」というものではないのですね。もっと自然です。ただくつろいでいる状態だけで十分です。
でも、こんなふうに答えたくなるときがあります。
「大丈夫です! だって、世の中のみんなはすでに催眠状態なんですもの。だから、すでにかかっている人にこれ以上かけることなんかできないのです。ヒプノセラピーをするというのは、どちらかというとその “すでにかかっちゃっているココロの催眠をとく” ことといえるのです。ただココロを正気に戻してあげることなので、なにもコワくないし、心配もいらないのですよ」と。
ほんとにほんとに冷静に調べてみると、わたしたちはどうやら正気じゃないようなのです。4D映画に没頭しているか、あのアトラクションに乗りっぱなし・・・。降りられな〜い(泣)。
ありもしなかった架空のストーリーに執着し、なんの根拠もない自分のアイデンティティを気に病み、その他あれやこれやでどんどんでっち上げがふくらみ、もはやほんとうのことがわかりません。バーチャルな世界にひたりきっています。
だからヒプノセラピスとのお仕事は、壮大なイリュージョンという催眠からさますこと、解放されるようにすること、それがほんとうのお仕事なのです。
ヒプノセラピストとは、「催眠をかける人」ではなくって、ねむったココロという「催眠をとく人」。さまざまなアイデンティティや信念、観念、思考、ストーリー、記憶、過去、未来、身体、世界・・・などという催眠から。
だからヒプノセラピーを受けるときには、「かかる?」「かからない?」なんて、まったく心配する必要がありません。ほんとうに!
それよりも、わたしって「目覚める?」「気づける?」ということのほうが気になることなのかもしれません。 (○´―`)ゞ
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「私はゆるす。だから、これは消えてゆく」(ACIM L193)
「ゆるす」とは ・・・ それがそのように存在することをゆるすこと。自分がそんなふうに感じていることをゆるすこと。それがそのままであることをゆるすこと。受け容れること。味わいめでること。
「あるがままに感じてくださいね」 ・・・ これはセラピーでもよく口にする言葉であり、じつは癒しにおいてはとても大切なこと。
でもそう言われて、「そうなんですね!わかりました。そうします」とはなりません。たいてい、「え?あるがまま?それより、変えたいんですけど?!」ということになります。
だから、「あるがまま」ってすごく不人気なんです。みんなやりたくない。(やりたくないからこそ、そこに問題の原因があるのですが・・・。)
なぜ「あるがまま」がそんなに不人気なのか・・・
わたしたちがなにかをするとき、それはほとんど「あるがままになにかを感じること」を避けるためだから。
「やだ〜! わたしは、自分が気分がよくなるように感じたい!」 「あるがままなんて、つまらないし退屈。もっと違うなにかがいいんだ!」 「それをあるがままにほっとくなんて、すごく無抵抗で無力で、無能に感じる。まるでダメ人間みたい。変えるために挑むことこそ人生でしょ!」・・・ こんなセリフが聞こえてきます。
だから、わたしたちの日ごろの活動や思考は、このあるがままから逃れるためにする抵抗そのものであり、つねに違った自分になろうとする努力なのです。自力でもっと違う自分になる、もっと違う体験をする、もっと違う感じ方をする・・・。だから「あるがまま」なんてゴメンなんですよ〜 ・・・と。
じつは、これこそが「苦しみ」の元凶。
たとえば思考を例にとってみると、思考は一日に何万個も意識にあらわれます。もしも、そのひとつひとつにかまっていたら、実際、しなければならないことがなにひとつできなくなってしまいます。
だからというわけではないけれど、わたしたちはじゃんじゃん出てくる思考をそのまま行くにまかせています。「一瞬まえの思考ですって? 覚えてませんよ〜」と。つまりスルーしてるのです。
目のまえのさまざまなものごとも、日々感じる感情も ・・・ じつはこの思考と同じ原理です。意識のなかにやってきては、自然に消え去っていく。現れては、また去って行く。そのくりかえし。
どうでもいい考えに対してはすぐにスルーするすべを身につけているわたしたちですが、ついものごと、人、感情など、よりリアルに見えるもの、そして自分が好まないと決めたものに対しては、どうもスルーができません。同じように扱えないのです。
そう、あの「絶対かえてやるぞ!」モードに入っちゃう。
この「変えてやる!」モードのちょっかいが、ただ現れては消えてゆくものをじつはよりリアルなものに変えてしまうのです。
つまり、「変えるべきものだ」と抵抗することで、それをガン見して、判断して、いじくりまわして、さらにそのなかに飛びこんで、格闘して、離れられなくなって、まるでひとつになっちゃう。
抵抗してるときって、じつはこんなふうに問題に完全に食われている状態です。「スルー」どころではありません。
現実をささえているもの、ものごとをよりリアルにするもの ・・・・ それはじつは「注意」です。
だからこんなふうに抵抗して、問題をガン見して、いじくりまわして、かかわり続けることこそが、問題にしっかりと注意という栄養を与えることになっちゃうのです。ほんとうだったら、現れては自然に消え去っていくもののはずなのに・・・。
そこで「あるがままに感じてくださいね」という言葉が出てくるわけです。注意をめいっぱい注いでそれを育てずに、あるがままにしてあげ注意が注がれずにすぐになくなります。本来の場所へと消え去えさっていきます。
リラックスして、ただ「あるがまま」。
こんなに簡単に言うけれど、問題が起きているときにこれをするととてつもなくキョーフを感じます。言うほどにやさしくないのですね〜。
それでも、そんな気持ちさえ「あるがまま」「あるがまま」、ただ自分の意識のなかで両手を広げてそのまま感じてあげます。
すると、ちゃんと消えていきます。あのどうでもいい思考が知らないうちに消え去っているように。
そして、いつもそこに居座っているように感じていた慢性的な問題も、この「あるがままに感じる」ことを続けていくと、だんだん台風の精力が弱まるように弱体化してきて、自分を捕らえて放さないようなパワーななくなり、ついには姿を消していきます。
けれど、このプロセスの途上は「きゃ〜、死んじゃう」っていう気持ちに直面するかもしれません。この「死んじゃう」思いこそが、わたしたちが全力でものごとに抵抗する原因です。怖すぎるからこそ、今まで全力で避けてきたのです。思いっきり抵抗してきたのです。そして、その気持ちこそが、問題を慢性化させていたのです。
さあ、「死んじゃう」も両手を広げて感じてあげてください。新しい体験です。大丈夫、バッタリ死にません!
「死んじゃう!」が迫ってきたとき、それをよけないと、体のなかを通過してゆくのです。「あれ?すごいパワーがありそうだったけど、透明だった?」みたいな。
そして、「死んじゃう!」をそのままにしてあげると、新しい自分、自分のなかにあった平和とか愛とか幸せ感とかが新しく誕生してくるのです。
もしかすると、ちょっと難産に感じるかもしれません。でも、チャレンジするんだったら、「抵抗」にエネルギーを使うよりも、「死んじゃう!」に挑んでみましょう! Welcom 死んじゃう感じ! そして、あるがまま♪ あるがまま♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
そのむかし、私には理想がいっぱいあった気がします。たくさんのゴールをかかえていて、それを達成することが人生であり、生きることだったのです。
それにくらべて ・・・ 今は、理想も目標もゴールも、明日やることリストさえ存在しません。べつに無気力になったわけでも、人生を放棄しているわけでもないのです(苦笑)。穏やかに、やる気まんまん! (´▽`)
私たちはみんな、ものごころつくころから、「何かを達成すること」= 「生きること」になってしまいます。
幼稚園の「アンパンマン体操が上手にできるようになること」にはじまって、小学校にはいれば「九九を全部覚えること」 ・・・ 「テストで満点をとること」、「○○高校に合格すること」、「○○ちゃん(くん)を恋人にすること」、さらにある資格をとることや、昇進すること、家族をもつこと、家をもつこと、痩せること、もっと健康になること・・・ひとつが片付けばすぐに次が提示されて、人生の終わりまで延々と続いていって、頑張ったあげく、はい、おしまい! というかんじ。
で、どこかでそれがもくろみどおりにいかないとなると、いわゆる「挫折」というものがやってきます。つまり「挫折」とは、思うようにならないこと、何かが間違っている感じ、私が悪い、私には足りない、という罪悪感そのもの。
ひとたび「人生とはゴールを決めて、思うようにするべきものだ」と信じてしまうと、「思うようにならない」経験があらわれると自分の能力や価値を疑うようになります。
「自分でうまくできない」「何かが間違ってしまった」「どうにかしなくちゃ」「立て直さなくちゃ」 ・・・ すべてを自力でどうにかしようとするので、「どうにかならない」と自分に対する不信感・罪悪感が深まります。
でもね、長〜い目で見たとき、おそらく誰もが、「過去のあのことは失敗だと思ってヘコんだけど、いまとなってはあのことがあってこそうまくいている。あれでよかった」といえることがきっとあると思うのです。
なのに、私たちは「長い目でみる」という忍耐をついつい忘れてしまって、ピンポイントでじっと見つめ、目のまえのことが思いどおりにならないと「なぜなのだ!?」と苦しみます。「 こんなに努力しているのに。やるべきこともやっているのに」と。
そもそも私たちの人生というのは、もっと違った目線でプランニングされている・・・ということ。そしてそれは、力を抜いて、なるようにさせてあげるときにしか、つまり「私」というエゴが邪魔をしないときにだけ、完璧さという真実をあらわしてくれるもののようです。
だから、コントロールも抵抗も疑いも価値判断も手放して、ただリラックスしてほっておくこと。楽しんで過ごすこと。
そして、「起っていることは、あるがままですべて完璧だ」を自分の絶対的な唯一の信念にすること。
「おもいどおりにならない」ことでどれほど自分が守られているのか(もしかしたら、とっくに命をおとしていたかもしれないし)、「おもいどおりにならない」ことでどれだけうまくいく方法を早く学んでいるのか ・・・ ということなのです。
誰もが隠しもっている「自分は間違っている」という罪悪感こそ、なにげで私たちの人生に様々なトラブルを引き起こしています。
意識できていなくても、私たちはほんとうにたくさんの怖れや罪悪感という間違った感情を隠しもっていて(本当はまったく的をえない不要なものですが)、それを抱えているのがツラいあまりにいろんなことをやらかします。
たとえば、ツライ状況もイジワルな人もうまくいかないことも、じつは、自分のなかのイヤな感情が先にあって、でもそんな感情が自分にあるなんて認めたくないから、外側のものを悪者にでっちあげて、そのせいで私はこんなにツライ感情を味わっている、と原因をすりかえてしまいます。
たとえば、せっかくおいしくお酒を飲んだのに、暴れたり、ひどい感情をぶちまけたり、ひどい結末になる場合。ひとはお酒のせいで・・・というけど、そうじゃない。どうにもならない感情が先にあって、それが苦しすぎて、それをなんとか放出してしまいたいがためにお酒にかこつけてぶちまけたまでなのです。お酒が悪さをしたわけではないのです。
先日も笑っちゃいました。友人とスウィーツをいただいたとき、「おいしい!おいしい!」と楽しんでいたはずなのに、そのうちに「クリームが気持ち悪い ・・・」と具合わるそうにしているのです。 ꒰⁎×﹏×⁎꒱ ༘ ありゃりゃ?! おいしくいただいたはずなのに・・・。
ちょうど友人は自己探求をしていたので、ちょっとアドバイスさせていただきました。
「スウィーツは攻撃してこないよ」と。つまり、スウィーツが「気持ち悪くしてやる〜!」と意地悪するのではなく、スウィーツには何の罪もないということ。それは、自分のなかにあって、折りあらば解放したいとチャンスを狙っていたいやな感情が、スウィーツにかこつけて放出されて、あたかもスウィーツにやられたかのように誤摩化された・・・ということ。(スウィーツと一緒に、その感情が解放されたということ。)
気づきが早い友人は、納得するとともに笑っておりました。(よかった!よかった!そうやって、ひとつひとつ自分に何が起きているのかを意識することが大切なのですよね。気づいたら、もう終わりにできるから。)
私たちは自分のいらない感情を捨てるためだったら、どんなチャンスでものがしません。「最近、イヤな状況、イヤな人など、さまざまな問題に遭遇するな〜」と感じるときは、自分のなかで捨てたい感情がいっぱいいっぱいになっていて、何かや誰かのせいにしないとやっていられないわ!というときなのです。
そんなふうに、せっかくの楽しい場面を台無しにするがごとく現れる罪悪感の巧妙なカラクリに気づくことができるようになると、楽しむべきものごとにいちいち汚点をつけなくてもすむようになります。ただ楽しめばいいものを、わざわざ何かツライ経験にする必要がなくなります。
そして、自分に起ることすべてを宇宙からの嬉しい贈りものとして素直に受けとれるようになると思うのです。
「もう、いっぱい、いっぱいだわ」
「少し距離をおかせてちょうだい」
「なんでこうなの?(こうであって欲しくないのに・・・)」
・・・
なんか昼ドラの一場面にありそうなセリフですね〜。
これは私のリアルなセリフなのですが、
いったい、だれにむかって言っているのでしょう?
じつは ・・・ シナモンロールにむかって発せられた言葉(苦笑)。
お友だちにいただいたスウィーツパスを着々と使用している日々、ときにはお得すぎてアップアップしてしまうことがあります。CINABON でパスを使ったら、シナモンロールの大きいほうのサイズ(二つ分ぐらい?)に、生クリームもりもりのアイスココアのようなビッグサイズのドリンクつき。
甘いもの好きでぜんぜんOKなはずなの私ですが、食べながら汗が出た! (辛いもの食べて汗がでるのは聞いたことありますが・・・。)汗をかきながら、「甘すぎる!」「大きすぎる!」「なんでこのドリンクなの?ここはブラックコーヒーでしょ!」と文句が出るわ出るわ。
でも仮にシナモンロールにそんなこと言ったとしても、「ボクはそういうものなんです〜。これがあるがままなんです〜。罪はないんです〜。責めないでくださ〜い」と泣かれそうです(ごもっとも!)。
そこで冷静に、「あ〜、わたしたちって(複数系?!笑)、楽しいことをしながらもいちいち文句をつけるんだわ。それは、もともとそういうものなのに。そのまま素直に楽しまないで、まるでケンカを売っているみたいだわ」・・・と反省。
そのときの文句の一部が最初に書いたセリフなのですが、あることに気づいてしまいました。
このセリフって、どっかで聞いたことあるな〜。なんかお馴染み感まんさい。
そうだ! だれかさんとケンカしたとき、口に出しても出さなくても、こんなこと口走っているな〜・・・と。
食べものに対する文句、出来事に対する文句、そしてパートナーに対する文句 ・・・ ヤダ〜! フタをあけると、文句ってみんな同じじゃない?!完全にワンパターン。毎回、対象(目的語)をすりかえているだけ?
っていうことは、もともと文句を言いたくってしかたのない自分がいて、あわよくばターゲットになりそうなものがあればまんまと悪者にでっちあげ、たまっていた文句を吐きだしているだけのようです。
でもシナモンロール同様、みんな「わたしはもともとそういうモノ(人)なんです〜」ってまっとうなことを言われそうです。
そのまっとうなものをつかまえて、毎回同じ文句を言いたい私って・・・(汗)。冷静に考えると、「失礼いたしました〜!」という感じです。
なんにしても、改善の第一歩は「自分のパターン」に気づくこと。気づけてよかった ・・・。
「ほほ〜、こんなことしてたんだわ、わたしって。かなり巧妙な手口だわ」って。そして、そんな手口を笑えちゃったら上々です。
実際、シナモンロールに対して文句をいっているその最中、いきなり紋切り型的な文句のパターンに気がついてしまった私は、おもわず笑ってしまいました。シナボンでもパートナーでも、他のものでも、まったくセリフが変わらないなんて、なんてワンパターンな(苦笑)。もうちょっと違うこと言ってみたら?って。
そこで ・・・是非、ふだん口にする文句に気づいてみましょう。いったい何を一生懸命主張しているのでしょう?
対象はバラエティーに富んでいるけれど、言っていることは同じ、「わたしの思ったとおりにしろ〜!わたしにあわせろ〜!わたしの好きにさせろ〜」なのです。私がお山の大将になりたい、主導権を握りたい、コントロールしていたい・・・。ははは・・・思いどおりにしようと、 地面で転がりまわってる三歳児が目に浮かびましたよ。
これって、どれだけ現実を怖がって抵抗しているんだか(怖がってなければコントロールとは無縁です)。
そうなんですね。わたしたちって、みんなどこか幼児のままのところがあって、コントロールをさせろと癇癪を起こしています。ほっといたら、大変なことになっちゃうよ〜って。でも、そもそもコントロールなんてきかないから、無力感がつのることになり、もっと力いっぱいコントロールしようという悪循環に陥ります。
結果、コントロールできなければ、ぬいぐるみを投げ捨てるように人でもモノでもポイしちゃう。思うようにならないものは、おはらい箱。でも、いくら新しいものを次から次へと手にしても、パターンに気づかないとゴミが増えるだけですよね〜。(ꐦ ´͈ ᗨ `͈ )
できることといえば、シナモンロールの甘さを讃えること! あるがままを讃えること。「わあ〜、ここまで甘くできるなんてすごいではありませんか!」「わあ〜、彼が(彼女が)毎回こんなことを言う(する)のはおもしろいじゃありませんか!」とね。(笑)
おもしろがれたら、もう「あるがまま」です!
スウィーツパスさん、いつもありがと〜♡ 「シナモンロールさん、ここまで甘くできるなんて、スゴイですね〜!(拍手)」
こんな夢を見ました。
ある人(わたし?)が、家のまえの通りに出てきて、
ランダムに歩いている通行人をつかまえては、ひとりひとりに声をかけつめよっているのです。
そのセリフはこんなふう・・・
「あなたはなぜ、ここを通るのですか?」
「その理由を言ってください」
「わたしはそのすべてを把握する必要があるのです」
「なぜですか? どうしてですか?」
「さあ、説明して!」
ひとりひとり、全員に理由をきかなければならないので、しだいに人の流れが滞り、10人、20人・・・ だんだん人の溜まり場のようになっていきます。
その様子を見て、「なんで、こんなにごちゃごちゃしてるの? みんなさっさとどっかに行ってください」と文句を言っているのです。
ひとりひとりに足どめをしている人こそ、自分なのですが・・・。
夢はここまででした。
なんか思うようにならないイヤな感じとともに目覚がさめたのでした。
そうしたら、次の瞬間にある考えがやってきました。
「そうやって、すぎゆくものにいちゃもんをつけるのをやめなさい」
「ただ通りすぎてゆくものに意味はありません。いちいち理由をきいたり、質問したり、呼びとめるのはやめなさい」
「それはただ過ぎ行くものであり、ただ行かせるだけでよいのです。あなたが引きとめ、かかわる限り、そこに留まります」
そんな声が聞こえました。
「 !! 」
なんかヒラメキました。そっか〜、だだノータッチですべて行かせてあげればいいんだ。うちのまえの通行人とおなじだ!いちいち通行の理由なんてきかないわ!
何度も繰りかえすように見える状況、何度も体験する好きではない感情、何度も思い起こす記憶 ・・・思考も感情も記憶も出来事も、ようはこの通行人のようなもので、わたしの意識のなかをかすめていくもの。
いちいち呼びとめて、「なんで〜?」「どうして〜?」とやってしまいます。
「なんでここにいるんですか? 理由は何ですか?」「目のまえを通るの、やめてもらっていいですか?」「さっさとあっちに行ってください」・・・ と反応していることじたいが、じつは思考や感情、記憶、出来事に執着して、プッシュピンで止めてキープしているようなもの。
すべては目のまえを通っても、あっちに去って行こうとしているのだから、捕獲する必要はないのです。視界に入ったからといって、いちいち反応する必要はないということなのです。
こと、ネガティブなもの関しては、「あっち行ってください。現れないでください」とわざわざ呼びとめているのですね。
じつは最近、自分のなかで処理をしてもしつこく繰りかえす感情があって、さらに処理を繰りかえしていたのですが ・・・ただ無視して「行かせてあげる」ことのほうが大切だったのですね〜。(汗 & 笑)
「なんか最近疲れて、いっつも昼寝しちゃって」「昨日なんて、気がついたら1時間もたってたし・・・」「ほんと、やんなっちゃう」「なんでこうなんだろ?もっとちゃんとしなくっちゃ」・・・自分のふがいなさを責めている様子の友人。
「そう? わたしなんてちょっと疲れるとすぐソファーに倒れこんでて、お昼寝なんて日常茶飯事(笑)。しょっちゅう意識なくなってるわ〜 (´▽`) '`,」と私。
こんなやりとりをしながら気がつきました。
人はいろんなルールをもっているけれど ・・・ 「こうあるべき」「こうしなくちゃいけない」という決めつけが多ければ多いほど、苦しくなるっていうこと。たとえば友人の場合は、「疲れてても昼寝をするべきではない。スケジュールが守れなくなるから。きちっとすべての予定をこなせる人がえらい人である」と信じている。すると、もし私のような生活態度だったら、罪悪感のかたまりになること、間違いない。
「こうあるべき」という決めつけは、自分が守れなくって罪悪感を感じることもあるだろうし、あるいは人に向けられて批判や怒りにかわることもある。
以前、「道に広がって歩く人をどうしても許せない」「歩きタバコが許せない」、それによってつねにイライラさせられる、それが困る、というご相談を受けたことがあった。
いくら規則が決まっていても、守らない人は必ずいるし、ある意味じゃそれはその人の自由でもある。でも、いちいち人がどれだけ正しく行動するかに目を光らせていたら、なかなか心は休まらない。なんといっても、「道に広がって歩く人」も「歩きタバコの人」も見知らぬ彼女がどれだけイライラしているかなんて知るよしもない。彼らは楽しくやっている。
さきほどの昼寝をする自分を許せない友人の話しに戻ると、私のなかには「昼寝をしてはいけない」とか、「疲れるべきではない」とか「だらだらしてはいけない」というルールがないので、何の負い目も罪悪感もなく、いつでもだらだらできる。
なぜなら、それが自分自身が今、求めていることだから。そうしたいといっているのだから。
いくら「しゃきっとしなさい!」といっても、疲れているときは疲れているし、それが「事実」であり、時として私たちはその「事実」というものをなんとかしてねじ曲げようとする。
だから、「疲れている」という明らかな事実に反して、「疲れるべきじゃない」のに・・・と自分の感覚や身体の反応を否定しにかかる。
でも身体って、本当のところ、まったくコントロールがきいていない。私たちは「自分の身体」だから、制御ができてあたりまえと思っているフシがあるけれど、いつあくびがでるのか、いつトイレに行きたくなるのか、いつ眠くなるのか、わかっているようでまったく予想がついていない。自分の身体に、つぎの瞬間なにが起こるのか、まったくわからない。
それでも、「昨日、頑張りすぎたから眠くなったんだ」とか、「水分とりすぎたからトイレが近いの」とか、その体験が起こったあとにそれっぽい理由をでっちあげて、「私は、ちゃんと自分自身をコントロールできているのだ!」「自分のことがわかっているのだ」と納得したがる。
そして、すべてを自分の制御下においている!と錯覚する。
わたしは、こんなふうに考えるようになってから、ラクになった。
昔は、おそらく人一倍、自分の人生をきっちりとコントロールしたい、コントロールするべきだ、と思っているタイプの人間だった。
けれども、自然に自分にやってくることに、「今、起こっいること」そのものに、「人生のできごと」そのものに、私を生きてもらおう! と決めてみた。ある意味、自分を流れにあけ渡すことにした。
自然に起こることこそ私の人生なんだ、人生をコントロールしていじくりまわすことが人生ではない、と気づいてからいろいろなことをそのままにしておけるようになった。
「眠くなったら」「だらだらしたくなったら」・・・ それが今自分がすることなのだ!と、できる範囲内でそれを罪悪感なく受けとめる。そうしてみる。
なにかがキャンセルになったり、おじゃんになったら・・・。「どうして?なんでこうなるの?」なんて思わずに、これが今わたしが生きることなんだ、と素直に従う。
わたしたちは、自分の予想したようにコトが運ばないと、「何かが間違っている」「正さなくてはならない」と思うように教育されているけれど、そうすると人生に対してしょっちゅう修正しようと、抵抗のかたまりになってしまう。抵抗が生きることになってしまう。
そうではなくって、「やってくるものこそ、今、わたしが体験すべきこと、生きるべきこと」と思うと、「なんでも心よくオッケー」と言える自分がいる。
何かのチャンスを逃したように感じたら、「なるほど、これが今の自分が生きる道か」と頓着しないでいると、失敗の結果だったようなものがうまくいく原因にすりかわる。
先日も時間があいていたので、なかなか会えない友人をお茶に誘った。そうしたら、「仕事がつまってて空き時間がないの」というお返事。会えないのは残念だけど、じゃあ一人でまったり過ごそう!と気持ちを切り替えたら、その直後、別の友人から「緊急で話したいことがあるけど、明日どこか時間があいていない?」というメールがやってきた。
「ちょうどフラれちゃったから時間があるよ」と返信したら、「まあ、わたしのために空いてるのね!?」と喜んでくれた。そんなふうに、手を放してほうっておくと、じつはいちばん大切で、いちばん今起るべきことが自然と起こってくる。その友人とは、実りある情報交換とおいしいランチを楽しんだ。
これが、「あるがまま」の完璧さ。
ダラダラしたい? じゃあ、ダラダラしちゃえ! サボりたい? オッケー、おもいきりサボっちゃえ〜!!(笑)ダラダラもサボりも、最高〜!!
自分に優しくしていると、人にも優しくする余裕が生まれるし。なによりも、自分をむりやり押さえつけない、コントロールしないことで、思ったほどダラダラもしたくないし、さほどサボりたくもなくなるもの。いつでも OK を出してもらえると思うと、心は協力的になる。
受け入れてあげることって、とても大切。
まずは、自分をね! ( •ॢ◡-ॢ)-♡
きょうは、クライエントのY子さんにいただいたメール、「仕事を辞めたいのに辞められない、というループにはまっている感じ」について ・・・。
私たちはみんな、人生をとおして「ここじゃない、どこか」病にかかっています。
「今の私じゃない、もっと素敵な自分になること」「この人じゃない、もっと理想の誰かと一緒にいること」「この仕事じゃない、もっとワクワクする何かにかかわること」「この今じゃない、もっとエキサイティングな今にいること」 ・・・ とにかく、これじゃない! これじゃない! という感じは、まるで呪文のように繰りかえされます。
「これじゃなければ幸せになれるのに」が、今起っていることに対する決まり文句なのです。
それは、自分の不満足感、欠乏感はいつも、パートナー、収入、仕事、おかれた環境、自分の容貌・性格 ・能力、あの人、その人・・・ のせいであり、それを改善したり、乗り越えたり、切り捨てたりすることで、もっとよい何かを手にすることこそが人生であると教育されてきたから。
そうですよね〜。私たちの両目はいつも「外」という世界、そこに現れるあらゆるもの(自分の身体とイメージを含めて)ばかりを見ているのですもの。これを変えずして何を変える!という感じです。
でも、先に言ってしまうと、今の「これしかない!」のです。他なんてないのです。これが今の自分の人生 ・・・ と言えるまで、これなのです。
なぜその状況が目のまえにあるのか・・・ ということを理解すると、少し感じ方は変わります。
状況を変えようと、人やものや世界に挑んでも思うようにいかず ・・・ コントロールはいつも失敗し、結局、さらに無力感、無価値観がつのるばかり ・・・という結果になります。
じつは、これぞ人生のワナ、エゴのワナ。変えることができないものにつねに挑戦させることで、さらにココロをくじき、自分のふがいなさを強化する ・・・という超イジワルなしくみ。
そう、コントロールしようと思えば思うほど、じつはできないのです。もともとできないものだから。すると、同じ努力をグルグル繰りかえすはめになり、ついには「自分に能力がないせいで」と自分を責めるようになります。そして、さらに変えたい気持ちがつのります。
人生じたいをどうとらえるのか ・・・ 「抵抗すべきこと」とみなすのか、あるいは素直に「体験すること」とみなすのか ・・・ その違いによって、結果が変わります。
エゴは「抵抗しろ!」と大声で言いはります。
でも人生とは、ただそのまま「体験する」こと。やってきたもの、目のまえに現れたものを、そのまま、あるがままに体験すること。
「そっか〜。うまくいかないってこういうことか」「なるほど。ジレンマってこんな感じか」「ふたつの思いに引き裂かれるってこんなふうに感じるのか」 ・・・という具合に。自分が抵抗して、切り離してきた「感じ」を受け入れる旅でもあるのです。
私たちは、自分にとって都合のいいことだけを体験することこそが、うまくいっている人生だと思っているけれど、それは勘違いというもの。
人生はつねに、過去に棚上げにしてきた、体験するのを避けてきた、その感じを「今度こそ。感じてみてくださいね」と提示しつづける ・・・ というわけ。
そして、素直に感じる(受け入れる)と、それは分離感がなくなりひとつになって、自分という広大さのなかに溶けさって、ついには終わりになるから。終わりになったら、それから自由になれます。
だから、「ここじゃないどこか」「これじゃない何か」「もっと他のもの」というのは存在しないのです ・・・ 残念ながら。
今あるこれだけが、自分が体験するために人生にさし出されている唯一のものであって、これを体験することが自分のお役目そのもの。
でも、体験にいろんな「こうであるべき」や価値判断やストーリーやこだわりがくっついていると、それは「抵抗」というものに変わって、苦しいものになるかもしれません。
ただそのままの体験として、なにひとつ価値判断せず、素の感覚の「体験」としてあるがままに受けとめるとき、まったく別のものになります。
そして、そうしたがゆえに、さっさと過ぎ去ってくれて、それは終わりになり、新たな体験がやってくるのです。
そのように体験されるまでは、ものごとは膠着状態。
だから、人生がさし出してくるものを、あれこれ御託を並べずに受け入れて、サクサク体験してみること。
そうすると、人生の流れとひとつになって、「あ!結局、よかったわ!これで」っていうセリフが自然と出てくるようになります。
Y子さんいわく、「このループ感は、自分の心の中の思いが統一されておらず、統合されておらず、ぐちゃぐちゃだから・・・・ではないだろうか?」と。
Y子さんが今、仕事や人生について「他の場所に行きたいのに行けない」感じがあるのであれば、徹底的に今感じているその感じ(葛藤や不満や、矛盾や混乱など)に向きあって、ただただその感じを自分に経験させてあげてください。
そのジレンマやくちゃくちゃ感をしっかりと受けとめたときに、「その感じ」から卒業して、きっと次の扉が自動的にやってきます。次の扉というのは、いつも自分で開くものではなくって、勝手にやってきて開いてくれるものなのですね。
そのためには、人生が「いいよ!」というまで、その感じを堪能(?)しきってみること。
きっと、次なる扉が自然にあらわれて、Y子さんはそれを当然のことのように開くことができるのだと思います。 (✿´ ꒳ ` )
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「怖れ? 自分にとって不都合なことや脅かすことが起こったときには、感じるかもしれないけれど・・・ あまりピンときません」と言われるかもしれません。
私たちは本当の感情を誤摩化すのがとても上手なので、怖れはおろか、ちょっとでもイヤな感じ(空虚感、孤独感、無価値感など)を感じると、すぐさま「何か他のもの」でそれをメイクアップして、注意のホコ先を変え、イヤな感じを感じないようにしてしまいます。
友だちと楽しくおしゃべりしたらもう大丈夫!、お酒を飲んだら、買い物をしたら、恋愛をしたら、ギャンブルをしたら、趣味に没頭したら、仕事や家事で忙しくしたら、ホラもう大丈夫!
つまり、「本当の感情なんて、それを直視しなければぜんぜん問題ない!」というわけです。
だから、誤摩化しのために使っているものがなくなると不安になり、すがりついたり、代替を探すかすることになります。失ったときの乗り換えがうまくいかないとき、怖れに直面し不安になるのです。
そして、また探します。本当の気持ちにフタをできる何かを。怖れをカバーしてくれるものを。
私たちは、「怖れている」「不安になっている」「怯えている」自分を、どこか間違っていると感じて、弱くてはずかしい、もっと強くならなくちゃ、と思います。だから、なんとかそれを誤摩化したり、隠したり、強がったり、なくしたりしようとします。
私もむかしは、「学びを続けていけば、あるいはセラピーを続けていけば、いつかは怖れがなくなるに違いない」と思っていたときがあったけれど、いつまでたっても怖れはなくなりません。
シンプルに言ってしまえば、「生きること = 怖れをもつこと」かもしれません。だって、個体という身体を維持するために、つねに危機にさらされ、その孤立感から宇宙遊泳なみの怖れと向き合っているわけだから ・・・ 人間でいる、この世に生きているっていうこと(生存本能があること)じたいが、怖れに満ちた体験なわけです。
生存本能からくる怖れだけでなく、心理的な分離感、孤独感、見捨てられ感というもの、潜在的に抱えています(母体からの分離や、もっと深いワンネスからの分離という)。
でも、「本当の自分」や「本当のこと」への認識が深まると、たしかに怖れの強度は格段に弱まります。でも、分離した個体である・・・という根本的な怖れからは逃れることができません。
だから、「怖れとサヨナラする」のはムリはなはし ・・・ なのです。
そんなとき、「怖れながら、怖れとともに生きなさい」というメッセージを受けとりました。
「怖れがあってあたりまえなのだ」と。「無くそうとすると、敗北感を味わいますよ」と。
怖れを忌み嫌って、なんとか自分の人生から消え失せてもらおうとするのではなくって、「怖れがあってかまわない」と思って生きること。
たった今、車の走る音がして、向かいのカレー屋さんからは下ごしらえの野菜を煮る匂いがただよい、きょうはかなりお寝坊したので頭がぼ〜っとしていて、さらに少し空腹でもあります。これが今わたしの意識に登場しているものたち。
毎瞬、毎瞬、こんな調子でいろんな感覚、感情が登場しては去っていきます。私が握りしめない限り。
でも「怖れ」に関してはなぜか、登場するやいなや「ちょっと、ちょっと、待ってください。なんでこんなところをウロウロしているんですか?あなたは立ち入り禁止ですよ。早く出て行ってください」とばかりにつっかかるわけです。
「つっかかる」=「注意が注がれ」、それが意識に固定され、よりフォーカスされる、より色濃くなるわけです。
これが車の音やカレーの匂いだったら、「ん?匂いがしてる」・・・そして3秒後にはどうでもよくなっています。(ああ、たしかに、どうでもよくないときもあります。「また、カレーの匂い?毎日、強制的にこの匂いにさらされて・・・」みたいな不平不満をエゴが申し立てて、それでも5分もその思考はもちません。
つまり、「怖れ」もこれらの登場人物と同等で、やってきては、さって行くもの。私が頓着さえしなければ。まったく他の思考や感覚、記憶のレベルと同じなのです。
でも、「怖れ」はすぐさまそこから独自のストーリーが展開されたりするので(怖い、こうなっちゃうかも、ああなっちゃうかも、そうしたらこんな最悪なことも!そして、さらにああなって・・・)、飽きのこないおもちゃのように、いつまでもかかわっていられるのですね。かかわればかかわるほど、それがだんだんリアルに思えてくるし・・・。
今朝教えられたのは、「学ぶにつれて、癒すにつれて、簡単に怖れに騙されなくなるのは事実ですが、完全に怖れと縁がきれると信じていると、また自分を責めることになりますよ。それよりも、怖れと仲良くなりなさい。毎朝してくるカレーの匂いと同じです。それがあってもあたまりまえだし、自分にはまったく害をもたらさないものだと思いなさい。実際、怖れには何のパワーもありません。通行人と同じです。あなたが、そこからありもしないストーリーをでっちあげて、それに執着しないかぎりは。怖れはやってきては、ただ通り過ぎ、去っていくだけのものなのです。ただ、ただ、あなたのなかを通り抜けさせてあげなさい」と。
たしかに・・・。怖れがなくならないといけないと思っていると、ずっと敗北感、不完全さを感じることになります。
だから、ただ「スルーすること」を学ぶということ。
最近、わたしが好きなのは、「あなたはザルです」という言葉。
酒豪ということではありません(笑・私はぜんぜんアルコールだめです)。
「なにがやってきても、ただあるがままを体験して、自分のなかを通過させてください」ということ。まったくの抵抗、コントロール、価値判断、避けたい気持ち、なしで!
人生を、自分自身を、ザルにする。
これをはじめてから、なんかとってもち力が抜けました。( ̄。 ̄)ボ~ッ とくに、このザルをイメージするたびに。
「そうです。私は、ザル人間です!何でも通り抜けちゃう」(笑)
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アメリカ大統領選、気になっちゃいました? 誰かと感想をのべあいました?
あのビックリな結果がでた翌朝、スタバに行くと年配の男女のグループがトランプ新大統領についてそれは熱く語りあっておりました。
さらに、その帰りにスーパーに立ち寄ると、男性のお客さんがアメリカ産98円の激安ブロッコリーを握りしめ「これもトランプになったら高くなっちゃうわけ?」と店員さんと話してたし。とても、他国ごととは思えません。
誰も安倍さんが総理になったとき、こんなリアクションしなかったのにね・・・。
トランプさんが共和党から声をあげたとき、わたしはジョークかと思いましたよ。つまり、億万長者にも飽きて、気晴らし、エンターテイメント気分で立候補したのかと。だからあんなに言いたい放題なの? って思いました。
ところが、いちばんあぶなっかしい人がじつはいちばん強くって、あれよあれよというまに大統領になっちゃいました。
私たちは無意識のうちに抑圧されていた感情がついに解放されたときに、とてもスッキリ!!します。気持ちがよくなります。心のお荷物がなくなったことで、ふたたび前向きになれます。
それがセラピーなわけですが・・・。これは自分でやらなくても、他人がそうしているのを見ても同じように浄化が起きてスッキリすることができます。
どうやら・・・ トランプさんは、このセラピー効果を人々に与えちゃったのかもしれないな〜、浄化作用を起こして気持ちよくさせちゃったのかもしれないな〜と思うのです。
つまり、トランプさんの歯に衣きせぬ毒舌を見ているうちに、抑圧されていた自分の「不満」「怒り」「攻撃性」が同調し、みずから浄化が起こるということ。「あの人が言いたい放題言ってくれて、すごくいい気分になる。軽くなる。前向きになる。もっと言ってくれ!」というように。
それだけ、みんなの「いいかげんにしろよ!」感と、「もう、我慢の限界!俺(私)の邪魔をするやつはすべて抹殺だ!」という激しい怒りがマックスに達していたのでしょうね。
それぞれがそれぞれのことで圧力釜のフタが吹っ飛ぶ寸前まできていたのが、トランプさんによってうまくガス抜きと浄化ができたということのようです。
あら〜、トランプさんって上級セラピストじゃありませんこと?!認定証をさしあげましょうか。(笑)
私たちは自分が弱く感じて、強さを取りもどしたいとき、その解決方法として「怒り」や「攻撃性」を使うけれど。それは強さとはじつは違うもの。弱さがねじ曲げられたもの。弱さから脱して、とりあえず強くなりたいと思って、間違った方向に走ってしまいます。
なぜから、「怒り」と「攻撃性」を使ったあとは、「仕返しされるかも!」と怖れるようになるので、結局弱く感じることになるのです。
でも、抑圧していたものは、いったん表面化されて意識にのぼり気づくことによって、終わりにすることができます。
だから、ある意味では、ふっ飛ぶ寸前だった「怒り」「憎悪」「不満」はトランプさんによってうまく意識化され、収束に向いつつあるのかもしれません。
そのあとは・・・自分が目にしているものを、どうするのか? それを使ってなにを体験するかを決めるのはいつも自分です。たとえ、なにが目のまえにあろうとも。
常にあるたった二つの選択肢は、「愛」か「怖れ」か。
つまり、それを「愛」つまり安らぎや喜びのために役立てるのか、それとも「怖れ」の気持ちにとらわれるあまりに、目にするものすべてに怖れを見るのか。オセロをどんどん白に変えていくのか、パタパタ黒に変わっていくのをただ眺めているのか。
なにが目のまえにあろうと関係なく、じつはこの選択だけが大切なのですね。ここからどちらを選んでいくのかを決めることが。
圧力釜の弁が抜けるように、全世界みんなのネガティブさがブシュッとガス抜きされてスッキリしたところで、さて仕切り直し。そう、セラピーでもネガティブさをじゅぶん出したところで、新たに選びなおします!
トランプセラピストによる浄化が完了したところで、それぞれがあらためて「愛」の見方、優しいこころにフォーカスできるようになるといいですね〜。
もちろん、トランプさんも! ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
セッションのとき、クライエントさんにお伝えします。
「ご自分の高い意識に、なんでもたずねてみてくださいね。自分でやるよりもずっと早いし、安心ですよ。人やものに依存するのは耽溺するという問題があるけど、自分の高い意識にはどれだけ依存しても大丈夫。もともと自分の一部ですから。高い意識にいつも答えを出してもらうのがいいのです」と。
高い意識とは、直感やひらめきがやってくる自分の「正気」の部分。時空をこえてすべてを俯瞰してる、なんでも知っていて答えてくれる存在です。
すると、「たずねても、答えがこないんですけど・・・」とクライエントさん。
ひとはみんな同じように、どんなときでも高い意識から絶大なるサポートを受けて見守られています。気づこうと、気づくまいと・・・。
以前にも「メッセージを受けとるには・・・」というお題で同じようなブログを書いたことがありましたけど、もういちど!
答えがこないと感じられるときには、「答えとは、こういうふうにやってくるものだ」という決めつけがあるため、きているのに無視してしまっているのです。つまり、人とのコミュニケーションのように「ちゃんとした声で聞こえるべき」とか、何かが起こったときのように「目に見えるかたちでわかるべき」と信じていたり。
どんなときでも、高いい意識はその人の全知覚をとおして、総力をあげてメッセージを送ってくれています。だから、かりにイメージで受けとれた場合でも、他の五感にも働きかけられているのです。知覚するものすべては自分の「こころ」のあらわれなので、目に見えるもの、感じるもの、聞こえるものが全部「答え」だといってもいいかもしれません。
わたしの場合は以前書いたように、アタマのなかの声や、まどろみのなかの感覚でやってきます。
アタマのなかの声としてやってくるときは、「それは必要ありません」とか「やめたほうがいいです」とか、とっさのシンプルなメッセージのことが多いのです。
もっとこみいった疑問や問題の場合には、朝のまどろんでいる時間に声ではない「情報」としてやってきます。
「情報」と表現したのは、「わかった!」といういう感じの塊が自分のなかにやってくるので、はっきり言うと「なにがどうわかったのか」はよくわからず、「でも、わかったぞ!」とあとでそれを解釈することになります。
なので、自分が行き詰まっていて「答え」が必要なときには、わざと二度寝、三度寝をして、半分夢見状態のなかで答えのほしいことをイメージしてみます。
臨死体験をされて、半分アチラの世界をかいま見た方は、「あちらにいたときにはすべてがわかった!と思ったのに、こちらに戻ってきたらどんどん失われていく」と話していたのを聞いたことがあります。
寝ている状態というのも身体が消えてスピリットになっているので、ある意味じゃ臨死体験そのもの(そうなんです、わたしたちは毎日死んでは、わざわざ夢の続きに戻ってきているのです)。身体がないスピリットの状態になると全体性にアクセスできるので、言葉ではなく感覚で全部知って「わかった!」となるのでしょう。
でも、身体がリアルになると、どんどん全体性が失われるようで、あのまどろみのなかで「そっか〜!」と叡智に似たものを受けとるのですが、お昼まえには「なにが、そっか〜!だったのか」さっぱりわからなくなります。シラフに戻ったような感じ(いえ、ほんとうは「この世」という催眠状態に再び引き込まれたというのが正しいのですが・・・)。
ところで、きょうの情報の塊を翻訳してみるとこんな感じでした。
「未来に幸せになろうとして、努力したり期待してもムダです。たった今しかありません。いつかなんて存在しません。たった今、幸せになってかまわないのです。今のなかに幸せを、即座に見て下さい。今は完全に満ち足りているのに、将来が心配なのではありませんか? あなたが見ようとするものこそが、あなたに見えるものです。見るというのはそういうことです。外にあるものを漠然と目にしているのではなく、あなたが完璧であるか不完全かを決めて、それを外に映しだしているのです。あながた決めたものしか見ることはありません」
この考えはわたしにとっては新しいものではなく、すでによく「知っている」ものでした。
でも不思議なことに、そのまどろみのなかでは「知ってる」レベルのことが、おなかの底から全細胞レベルまで「ほんとうにわかっちゃった!」感になっていて、あ〜そうか!って完璧さのなかで確信できるのです。
難解な本でも、二回、三回読んでいいると、突然、「あ、これってこういうこと?」と、理解のレベルが全然変わっていて感激することがあります。そんな感じ!
すでに「知っている」ことが、もっともっと深いレベルから、叡智の感覚でわかるような体験なのです。一部でわかるのではなくて、他のすべてとつながってまるごとわかったという感じでしょうか。
人によっては、起きるまえのまどろみの時間帯には、怖れなどのいやな感情がたくさん出てきてしまうことがあります。
それは抑圧されて感じるのを避けていたものが、まどろみによって扉の制御がきかないため、じゃんじゃん放出されている状態。そのときには、怖がってそれを押しもどそうとするのではなく、ただ「感覚」として無防備に感じてあげます。そうすると、半開きの扉のすきまから、きれいにサヨナラしていってくれるのです。
隠しもっていたものの、せっかくの浄化のチャンスなので、くれぐれももとの場所に引き戻さないようにいたしましょう。
きょうの気づきから、「そっか〜、わかったつもりだったけど、たった今、このときにはなんの問題もないよね(未来を持ちださないかぎり・・・)。だから、ノーテンキでいて、たった今、幸せになっていいのね♡」とわたし(じっさいノーテンキになってみると、どれだけ身体に力が入っていたのかあらためて気がつきます)。
みんなそうですが、どっか「ノーテンキはダメ!」 「生きるってもっとまじめにシリアスにしなくちゃ、バチがあたる!」、とくに問題があるときには「襟を正して、正座して、真剣に向き合わないと解決しない!」って思っているみたいです(小さいときからイゾップや日本むかし話などで、勤勉、マジメをたたきこまれていますからね〜・笑)。
問題って、じつはこころがでっちあげたイメージでもともと存在していないので、真剣に向き合うと注意が注がれて、どんどん現実味をましてしまうのですね。
ノーテンキな生き方のススメ・・・これが今朝の高い意識さんからのメッセージなのでした。
では、たった今、まったりすることにいたします。お茶でもいれよっと♪
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「小さなことからしっかり学びなさい。そこから、ゆるぎない確信が育ちます」
そんな声が聞こえてきました。
これは先日、友人と静かにくつろげるカフェ探しをしていたときのこと。じっくり話したいことがあるから、居心地のいいところでなくちゃ!
そこで、いつものカフェにご案内しようと思ったら、なんと満席。じゃあ、その数件先のおしゃれカフェにしよう・・・ と向かってみたら、これまたいっぱい。なら、路地裏カフェなら大丈夫でしょ!・・・ あらら、こんどはまんまとお休みです。
お気に入りのところにご案内したかったのに、三件とも全滅とは・・・。じゃあ、なりゆきにまかせよう・・・ と歩きだしたら、すぐ隣のお洋服屋さんの上に見たことのないカフェが出現(まるで、この事態のためにたった今あらわれたみたいな・・・)。
で、「ここにしてみよっか・・・」と若干あきらめ気分で入ったら、
これが大当たり!
ウッディーで暖かみのある店内、落ちうける角っこのソファー席、上からほんのりライトがあたってて、静かにおしゃべりするにはもってこいの雰囲気。そのうえ、スウィーツもと〜ってもおいしかった!(これ、かなり重要!)
そこで、例の声が聞こえてきたわけです。「小さなことからしっかり学びなさい。そこから、ゆるぎない確信が育ちます」と。
その声は「小さいことも、大きいことも、まったく同じです」と。
たしかに・・・。この場合、カフェだから三回ダメでもなんということはないけれど、これがもっと自分にとって重大な問題で、一回目、二回目、三回目、その次の期間が一年とかもっと長きにわたっているとなると、おそらくすぐにあたふたしてしまうのです。
つまり、こんな感じです。
仕事を探していて、「これだわ♡」と思う会社にラブコールを送って試験を受けたのに、あっさり無碍に落とされて・・・。まあ、一回目だとなんとか前向きになって、もう一回頑張ろうと思えます。
で、また「これに違いない!」と思う仕事を見つけてチャレンジするも、またもや失敗。・・・人は二回目の失敗ぐらいから腐ってきます。「なんでなんだ〜」と。(ホントは失敗じゃないんだけどね)
で、三回目ともなると、「私って拒絶されているんだわ」「やっぱり、私は選ばれない」「どうせ価値がないし」「私ってダメなのかも・・・」と、自分のアイデンティティを疑うところまでいってしまったりします。つまり、隠しもっていた痛みや自信のなさが一気に浮上してくるのです。
仕事探しのみならず、恋愛やら、試験やら、チャレンジやら ・・・自分の希望が三回も打ち砕かれると、かなりヘコみます。
でも、この声に教わったことは「起こることに反応しないで、用意されているものを受けとる気持ちで流れるように通り抜けて行きなさい。そうすれば、必然的にあなたにとって最善のポジションに行きつきます。いちいち価値判断したり不平を言うことが、その流れを遅くしたり、停滞したように感じさせるのです。すべてのことはもとからある完璧さにたどりつくのです」と。
カフェ探しのときには、目指すところが三件だめでも、「ありゃ!目指すことろが全部ダメなんてついてないわ〜」とあきらめて、手放して(この程度だと手放すのが簡単)、ま、なんかあるでしょ!と委ねて、「あ!結局、いちばん素敵なところに出会っちゃった」というオチがわりやすいのです。
「ダメに見えても、結局いちばんうまくいくんだ!」という法則に納得します。
その声は、「その小さなことのなかで起こっていること(法則)にちゃんと気づいて、大きなことがやってきたときにもあてはめられるように意識的になっていなさい」ということでした。
そう思うと、ちょっと気をつけていると、日々のなんでもないことのなかに、いろんなレッスンとコツが潜んでいるのだと思います(ボ〜っとしていて、レッスンをいっぱいとりこぼしていますが・・・)。
それに気づくか気づかないかもわたしたちの選択。
「リラックスして、ただ委ねる(まかせる)とき、あなたはいつでもいちばん良い場所に導かれます。ぞのとき、あなたが自分でやろうとする必要はまったくありません。そして、価値判断がないほど、それはスムーズに起こります。
すべてのことに学びが含まれています。小さなことに気づき、日々のレッスンからしっかりと学んでください。そうすれば、それはしだいにあなたにとってあたりまえのこととなり、大きなことにもまったく同じようにあてはめるようになります。あなたにとって、ささいなことと大きなことはまったく変わりがなくなるのです」
カフェ選びで学んだレッスンでした♪
TRITONカフェ@代官山 私はいちごのタルト♡ チーズケーキもひとくちいただいたけど、とっても美味でした。
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子どもの頃、魔法をかけられてカエルにされちゃった王子の話を読みましたっけ。
「王子がカエルなんて酷すぎる」と思ったものです。でも、彼は自分が王子という身分であることを忘れずにいたから、また王子に戻ることができました。
ところで・・・わたしたちも、まんまと魔法にかけられて本来の自分の姿を忘れているとしたら・・・?(あなたはカエルです!と言っているわけではありませんよ〜。笑)
そう、あなたは魔法にかかっているのです、たった今。そして、すっかり自分が誰だったのか忘れています。忘れているから、戻ろうとする意思はありません。さらに悪いことは、その魔法はじつは自分で自分にかけたのに、ときかたがわからないこと!
これは、カエルの王子さまよりもコトは重大。
そこで、自分に魔法をかけたことすら忘れちゃったカエルちゃんたち、いえ、みなさまに、本当の自分の姿を思い出していただかなければなりません。その魔法をとくお手伝いをするのが、じつはわたしたちセラピストのお仕事です。
そうなんですよ〜。セラピストは魔法使い。悪いほうのではなく、良いほうのね。
自分ですら忘れてしまった本当の自分って?
あなたはこの年ごとにオンボロになって、しまいには廃棄されてしまう身体などではなくって、それを越えて広がっているスピリットだっていうこと。あなたにはすべてをつくりだす力があって、自分を幸せにするものだけを体験することができるっていうこと。そして、今もあなたは無限の源につながっていて、ちゃんとすべての面倒をみてもらっているし、その無限の存在に真綿のようにくるまれて完璧に安全で、満ち足りていて、愛し、育まれ、導かれているっていうこと。(セラピーをしていると、ほんとうに多くの方が「見捨てられ」信念をもっていることがわかります。)
カエルだと思っているかぎり、カエルとしかふるまえないのが悲しいところ。自分の権利をすべて放棄しているといっていいのです。
あまりにも苦痛や悲しみ、苦しみ、怖れと仲良くしすぎたわたしたちは、それが存在しないことがふつ〜であることすら想像もできません。そう、魔法のなかに住んでいるから。
そして、ほとんどのひとが「こころを変えるだけ」で、まったく別の世界を見ることができるということを知りません。だから、魔法にかかったまま偽りの世界に甘んじてしまいます。それは、まるで世界にホラーバージョンと、ハッピーエンドバージョンとがあって、どちらも自由に選べるんだということに気がついていないようなもの。
本当の自分を思い出せるように、こころが目覚めるようにと、良い魔法使いセラピストは、記憶を呼び戻して魔法をといていきます。
すると、今までの自分でいることは、魔法がかかったカエルよりも悲惨だったことがわかります。だって、ニンゲンであることは、すべての痛み、苦しみ、悲しみがリアルであると信じこみ、それをせっせと自分でつくって体験することだから。それらがない世界なんて、想像もできません。
でも、痛みや苦しみ、悲しみがまったくリアルでない世界があるとしたら・・・。そう、それは今、自分が魔法にかかっているんだということにちゃんと気づいて、そしてもうこんな魔法はいらないんだ!と決めて、脱出をはたすこと。
自分が自分にそれをしていたと知ったら、もう怖れるものはありません。怖れる対象は、本当は存在しないのです。
そんな目覚めをナビゲートする魔法使いセラピストは、サリーちゃんのように魔法の杖をひとふりして「マハリクマハリタ〜」と叫べばいいかというと ・・・ そうはいかず、もっと地道な努力が必要です。
その人のこころが、「自分はすべてを持っている王さま・王女さまである」としっかりと自覚する日まで魔法は解けません。その記憶を取り戻せるように、せっせと水先案内人役を務めます。
こんなことを考えていたら、魔法使いコスチュームと杖がほしくなりました(笑)。え? ハロウィンだけにしてくださいって? はい、じゃあ、来年はサリーちゃんね!(笑)
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幼い頃、注射されるとき、その痛みをごまかすためにほかの場所をつねったりしたものです。
でも、ホントのところ、これは解決策ではなく、たんにごまかしているだけ。じつは、痛いところはふえています。本当の問題(痛み)から、気をそらせただけでした。
いちばん怖いことが避けられれば、ちょっとぐらいつらくても我慢する ・・・ という、なにやら代替案というか、取引っぽい感じです。でも、結局は自分をもっと痛くしてるという。
これとまったく同じことを、わたしたちは日々の生活のなかで試みています。無意識的に・・・。
日々の生活のなかの悩み、問題は、ひとつ片づけば、また他の問題がたち起こり・・・ 尽きることがありません。
わたしたちは、これが「人生」とあきらめています。人生とは、次から次へとやってくる問題を対処しながら生きぬくものであると・・・。
それって、ホント?!
それでいいの?!
もしも、もしも、小さいころにやっていたように、本当に痛いところから気をそらせるために小さな痛みという問題(小さいとは見えないものもあるでしょう)をせっせとこしらえて、そして自分のこころをごまかしているとしたら?
そう・・・ どうやら、わたしたちのこころのなかには、ほんとうに直面したくない相当恐ろしい何かがあるようなのです。ある!と信じてる。
そんなキョーフに直面するぐらいだったら、ダミーの怖れで自分をごまかし続ける方がよっぽどよい ・・・というのが、わたしたちの無意識のおもい。
でも、さらに考えなくちゃいけないのは、そのこころの深いところにうめこまれていると思っている堪えがたいキョーフって、ホントにあり? 真に存在しているのか?
もし、そのような怖れるものがないとしたら?!
わたしたちは、ホントは何も困ったことなどないのに、まるでカーテンや壁にうつる影を怖がるこどものように、勝手にでっちあげた恐ろしいものを信じつづけて、怖がり続けているのかもしれません。(それって、すごい労力の消費だし、それをしている限りほんとうにするべきところに手がまわらないこと必至です。)
わたしはよくクライエントさんに、何度もくりかえすネガティブな考えに対して「うるさい!だまりなさい!」と一喝することをすすめています。
「ああなったらどうしよう!」「きっと、失敗するに違いない」「こんな恐ろしいことがやってくるのでは」・・・・と頭のおしゃべりがはじまったら、「うるさい! 」「黙ってもらってもいい? 聞いてないんですけど・・・」と。
勝手に出てくる考えは、自分のものではありません。(そういうと、「え〜!?自分の考えが自分のものではないのですか?!」とびっくりされちゃうのですが・・・。)
だって、自分でコントロールできないものが自分のものであるはずがないのです。
よく、考えとはお湯をわかしているときに生まれる気泡のようなもの、と言われています。勝手にわきあがってきては、そのまま消えていくのです。
なので、そんなひとつひとつの考えに真剣にかかわっていると、混乱します。わいてくる考えは一貫性がないので、自分が分裂したように感じます。自分が信じられなくなります。
だからこそ、ネガティブな考えには気をつけて、「うるさい!」と言い放つこと。耳をかさないこと。すると、ちゃんと静かになってくれます。(おそらくは、何度もこれをくりかえすことになりますが・・・ でも役にたちます。)ますが・・・ でも役にたちます。)
それを同じように、つぎつぎにあらわれる問題に対しても、「こんなものはないんだ!」と認識することが大切なのです。
「問題はある」と思っているうちは、親切にもどんどん現れてくれます。だって、自分がそう信じてつくっているから。
でも、「ない」と決めること。それこそが、わたしたちのこころがもっているパワーなのです。わたしたちは、まさにこころにあるものしか見ることができないのです。
自分の間違った考えに騙されない、自分の間違った見方に騙されない ・・・。
どんな考えが浮かんでこようとも、どんなものが目のまえにあらわれようとも、そんなダミーにはごまかされないんだ、そしてほんとうのところ、怖れるものなど何も存在していないのだ、ということをしっかりとこころに刻みつけること。それが、自分の考えや見えるものを変えることなのだと思います。
こころの力は、ほっておくとコワイものをつくり続けることもできるし、あるいは自分の幸せのために役立てることできる、つまり自由自在な力なのです。
だからこそ、わたしたちの選択がものをいいます。その選択とは、「わたしとはどんな存在なのか」という、自分を信ることにかかっているのだと感じます。
わたしは宇宙(源・神)に守られ、慈しまれ、愛され、導かれている存在であり、いつだって自分が決めればその恩恵のすべてを見ることができる、ということをしっかりとこころに言いきかせたいものです♡
以心伝心、言わなくてもビビッと伝わる ・・・ あるいは、相手のこころや今の状態が自分のことのように感じられる。
そんな経験は、誰にでもあると思うのです。パートナーや親しい友人、あるいは親子のあいだで。私は、母とつながっている体験をよくしていました。
20代で、ひとり暮らしをはじめてすぐの頃。それは四月の冷たい雨が降る昼下がりで、私はあることでひどく落ちこんで、寒い部屋のなかでちぢこまるようにじっと考えこんでいました。寒いし、慣れないひとりぼっちで寂しくて、涙がぼろぼろ・・・ そのとき電話がなりました。
受話器をとるやいなや「どうしたの? 」という母の声。ほとんど私からしか電話をかけなかったし、かかってくるときは夜ばかりだったので、昼間の母からの突然の電話、それも開口いちばん「どうしたの?」と言われ、「これは、今の状態をお見通しだわ!」とびっくりしました。母は「あら、何でもわかるわよ。ちゃんと見えてるから」と笑っていましたが。
あるいは、セミナーでよく訪れていたアメリカでこっそりスカイダイビングをしたときのことも。
もちろん心配するから母には何も言っていなかったのですが、次に出かけるときに「お願いだから、危ないことはやめてね」と念をおされ、おもわず話してなかったスカイダイビングのことをカミングアウトしそうになりました(笑)。もちろん母は、ただ何かを感じてそう言っただけだったのですが・・・。
ああ、母というものは、やっぱりこどものことについてはツーカーなのだなぁと実感しました。ちゃんと話そうが、話すまいが・・・。
母とのあいだには、こんな「なんでわかるの?」エピソードが山のようにあるのです。笑ってしまうぐらい。
そんな母が、先月末、天国へと旅立ってしまいました。
ただ次元を移動するだけで、いなくなってなどいない・・・とわかっていながらも、母の姿が見えなくなることは私にとってある意味、キョーフだったのです。やってくるであろう空虚感が怖かったのです。
けれど、いざ体験してみると、まったく思っていたのとは違う体験でした。
以前は遠いところに住んでいて距離感があったのに、今はとっても近い。母を思うとすぐ隣りに寄りそっていてくれます。
そして、なにか、今までに感じたことのない深い安らぎとか、ゆるぎない安心感、平安というような感覚が日々強くなっていくのです。
これは、今までの人生で感じていたつかのまの安心感やら幸せ感とはまったく違うものです。もっとゆるぎのない、もっと深い、もっと大きなもの。大きな光にすっぽりと包まれて、守れているような感覚で、それがどんどん大きくなっていく感じ。
なぜなのだろう? 大切な大好きだった母がいなくなったのに・・・ 世の人々がさめざめと喪に服するその様子を頭に描きながら、まえよりも幸せである自分に戸惑いというか、罪悪感のようなものを感じてもいました。「母が亡くなったのに、なに? この気持ちは?」と。
でも、ふと・・・気がつきました。「ああ、いつも母は私の気持ちを手にとるように感じくれていたっけ。こんどは、天国で自由になって癒されている母の解放感と安らぎが、私に伝わってきているんだ。私も母と一緒に感じさせてもらっているのかもしれない」と。そう、いままでの完全逆パターン。
量子物理学の本で、こんなことを言っていたのを思い出しました。「ひとたび接触のあったものは、その後いくら引き離しても、つながりが切れることはない。片方に刺激を加えると、即座にもう片方も反応する」と。つまり、まったくひとつだということ。
でも、そもそも私の存在そのものが母からきているので、その一心同体感は時空を越えているは納得できることです。
そして、それは親しい間柄や特別な関係に限られたものではないのです。なぜなら、もともと私たちの「こころ」はたったひとつだから。こんなに人口がたくさんいて、別々のこころをもった人たちがあふれかえっているように見えても。そもそもその起源は、「たったひとつのこころ」なのです。
だから、相手のことがわかるとか、つながれることは、驚いたり、特別視することなどではなく、そもそもとても自然なこと。できて、あたりまえなこと。
「自分以外のこころがわからない」ということのほうが、ずっと不自然なことなのでしょう。
私たちのこころはひとつだから、いつでも、どこでも、誰とでもつながれるし、わかりあえるし、それが当たりまえのこと。ほんとうは、すべてわかってる。だれとでも。
でも、いつのまにか私たちはコワガリさんになってしまったのでしょうね。だから感じないフリをしてる。
自分が怖れでいっぱいになっているときに、相手を感じようとすると、じつは自分のなかにある怖れのこころが相手のなかに見えるから。それを相手の本当の姿だと思って、「こわい!こわい!だったら、もう相手を感じたり、わかろうとすることはやめよう」と決めてしまったよう。
そう、私たちは自分が見ようとしているものしか見えないし、感じようとしているものしか感じることができません。それこそが自分の世界。でも、心が怖れに満ちたままだと、怖れているのは自分なのに外の世界がコワイのだと勘違いしてしまいます。
でも、おもしろいもので、相手のなかの真実(愛)、真の姿を見ようとすると、自分も自分の怖れを手放して真実(愛)、本当の姿に戻ることができます。正しい見方をしようとすると、相手も自分も、ともに癒されるということ。
そんなふうに自分のこころの怖れを手放して愛にシフトしようとすると、もっともっとこころが広がって、たったひとつのこころであるすべてのこころにつながれるようになるのです。
それはいろいろな人の気持ちや状態だけでなく、すべての創造性やインスピレーションや叡智やら真理やら、すべてのすべてが含まれているのです。
なんか、向こうにいる母のおかげで「そうか!」という気づきをいろいろといただいているこの頃です。
「ツーカーだから、心配させないようにちゃんとしなくちゃね!」と、このごろはせっせと掃除をしたり、花を飾ったり、若干働き者になりました(ははは・・・至近距離で見られてるからね、頑張ります! 笑)。
PS 今、聞いているFMで、「クリスマスにこの世を去ったジョージ・マイケルの曲を・・・」と言っています。母もクリスマス旅立ち組。もしや、ジョージ・マイケルと一緒だった? エスコートしてもらっちゃった? あの美声でヒット曲「ラスト クリスマス」 も歌ってもらっちゃった?
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
セラピストという仕事をしていると、日々さまざまな問題が目のまえにやってきます。そのバラエティーの豊かさといったら!
世には、ありとあらゆる問題があふれてるから・・・ 。たしかに、そのようにも見えます。
その一方で、こんなことにも気がつきます。
「あれ? いっつも同じセリフ(文句)だね〜?」って。
一難さって、また一難。問題は確実にうつり変わっているのに、なぜか聞かれるセリフ(文句)はいつも同じなのです。自分のことにしろ、まわりの誰かのことにしろ、いつも同じこと言ってるね〜(汗) ・・・って。
これはどうしたことでしょ?
* 「なんで、あいつらは私を無視するんだ」とAさん・・・ 「あいつら」がさった今でも、まだ「私は尊重されていない」とぼやきつづけるAさん。
* 「なんで、私にそんなひどい扱いをするんだ!」とBさん ・・・ あそこへ行っても、向こうへ行っても、場所はかわれども自分に対するひどい扱いは変わりません。まるでおでこに、「私はひどい扱いを好みます」と貼りだしているように。
* 「私はいつも意にそぐわないことをやらされる」とCさん ・・・どの仕事、どのグループ活動に参加しても、いやな役まわりばかり。私はやりたいことがしたいはずなのに。
* 「どいつもこいつも、不誠実だ」とDさん ・・・ Dさんにとってもは、世界は不誠実な人であふれているようなのです。
・・・ 不思議とぼやきのセリフは、その人にとっては不変なのです。
セラピストの仕事をするとき、クライエントさんの問題を「額面どおり」にうけとめて解決しようとすると、混乱するしどんどん複雑になり、しまいには迷宮入りしてしまいます。
なぜなら、起きている問題はもともと「煙にまくためのもの(煙幕)」そのもので、解決できないようにできているからです。
問題となっていることの表面的なあれこれを分析したり、対処しようとすることは、役に立たないのです。それは、家が火事になっているときに、その立ちのぼる煙の大きさにびっくりして、煙を押さえこんだり、吹きとばしたりと、いじくりまわそうとするようなもの。
そのとき火元が見えなくっても、いちばん下に隠れている燃えさかっている「火元」に対処しなければなりません。
つまり表面にあらわれている一見「問題」に見えるあれこれは、まったく「火元」ではないのです。
いろんなことが起こっているように見えますが、そんな問題のあれこれはじつはどうでもいいものなのです。
大切なのは ・・・ その問題を抱えているとき、そのときに感じている「気持ち」そのものです。
これぞ、火元となるもの。これぞ、問題の原因といえるものです。
これをしっかりと対処しないことで、消したように見えても(その問題を表面で解決したように見えても)、また他から火が出ます(かたちを変えて違う問題が勃発します)。どちらも火元は同じなのです。そして、また以前と同じ「気持ち」を感じることになります。
つまり、問題についての表面的なことを解消しても、解決できたように見えているだけ。
問題の火元はいつも、解消されずにないがしろにされたままの「ある感情」なのです。
先ほどのAさん、Bさんたちを見てみると・・・
Aさん、Bさんに見られるのは、「見捨てられ」感情。「私は見捨てられていて、見向きもされない」というのがこの二人が握りしめている感情。これが問題の原因、核心です。これがいろんなバージョンの問題としてチョロチョロ現れているわけです。
Cさん、Dさんの場合には・・・
「無価値」感。「私は価値がない。だから大切に扱われなくて当然なのだ」という考え。この考えがあるかぎり、もれなく大切にされずないがしろにされます。
ほんとうはこれらの感情を処理してほしいがために、問題は現れているのです。しかし、私たちは問題の表面的な出来事のほうにすっかり気をとられて、それをいじりまわすのに忙しいのです。
例えば、コミュニケーションを変えて自信をつけよう!とか、服装などの自己表現を変えて自分の価値をあげよう!とか、ちゃんと自己主張ができるようにアサーションを勉強しよう!とか、人に左右されない自分をつくろう!とか。
どれも、一時的にはうまくいくように思えるかもしれませんが、原因が手つかずにされている以上、問題の再発はまぬがれません。
問題は「原因」をかたづけてもらうために現れているのであれば、「原因」をしっかりと認識する必要があります。
見なければならないのは、問題が起きているときに感じる自分の慢性的な「感情」なのです。
自分の感じていることをほんとうに正直に感じることができるようになると、自分が抱えている問題の根っこにある感情(その問題を抱えているときの怖れや不快感)が、じつはいつも同じであることに気がつきます。
しかし、エゴは私たちがいつも問題を抱えて苦しんでいるようにと、問題を解決できないように煙にまいています。つまり表面上であれこれ起きていると、それこそが問題だと勘違いさせられて、それにガッツリと取り組むあまり絶対解決にいたらないという仕組み。
ホントは、起きている問題は根本の原因である感情を解決させないようにするためのダミー、おとりなのに・・・。
だから、真に問題を処理する、ということは、表面をいじりまわすよりも先に、自分が深いところで感じているパターン化した感情をちゃんとと見つけて、それをしっかりと感じ、終わりにしてあげることなのです。
感情は、現実とは関係がないのではないですか? と思うかもしれません。
でも、ほんとうのところ、「現実」といわれているものは、「こころ(意識)」のなかで起きているできごとです。外にあるように見えるものは、両目で見ていると思っている楕円形のスクリーンという意識のなかにすべて存在しています。
エゴは「すべては外にあり、あなたにはどうすることもできません。あなたはその大きな世界のなかのちっぽけな被害者でしかないのです」と声高に教えようとします。
でも、いったん「世界とは、自分自身のこころが見えるモノとしてあらわれている」ということが理解できるようになると、いろんなことがシンプルになってきます。敵は外にではなく、自分のなかにいるからです。そして、その敵もよく見てみることで消してしまうことができるからです。
日々、さまざまにあらわれる問題にしても、じつはたったひとつの原因であるとわかるからです。問題をあれこれいじらなくても、その問題にまつわるパターン化した感情を感じてあげるだけで問題がなくなったり、流れが変わるのがはっきりとわかるようになります。
未解決の「いやな感情」をそのまま持たせておくために、エゴはつぎつぎと問題というおとりを送りこんできおます。
でも、その問題があるからこそ、じつはすべての問題の原因である「感情」を解放するチャンスが与えられているともいえます。
自分が今感じている感情に正直になって、感情にフォーカスし、いらない感情は素直に感じきって「終わり」にできれば、たくさんの問題は自然といらなくなるのです。
見ている世界が平和になるのですね♡
「ことば」って、いつのまにか違った意味でひとり歩きしてしまうことがあります。
気がついたら、ぜんぜん違うことになっていたりして・・・。
真理をあらわしていることばも、スピ系の本などではだいぶずれた理解になっていたりして、それが当然のようにあちこちで使われてしまいます。
たとえば・・・
【ワンネス、ひとつであること】
これって、すべてはひとつだから「あなたは、わたしだよね!」みたいな。
だから、理解がすすめば「あなたが完全にわたしに見える」はずだ・・・と。字面だけで考えるとそういうことになるのかもしれませんが・・・。
「あなたが、わたし」というように、個人が個人に対して感じることはまだ分離感があって、じつはワンネスとはほど遠いのです。ワンネスの感覚って、自分という個人がいなくなって、全部のなかに溶けちゃったけど、でもすべてがただ存在しているという、ただ「ある」感覚。
決して「個人」のレベルのことではないのですね。
それから ・・・
【あるがままに見る】
「価値判断をしなければいいのね。それがあるがままに見ることね!」 って思います。
でも、わたしたちが「見ている」とき、すでに価値判断は起きています。そうでなかったら、ここがどこだか、これが何だか、自分が誰だか(人間であるかも)、まったくわかりません。
だから、わたしたちが知る意味での「あるがままに見る」は、記憶喪失になるか、アルツハイマーにならないかぎりは達成されないように思えます。
本当の意味での「あるがままに見る」って ・・・ 「本当はなにも起こっていないんだ」ということを見ていること。
起こっていること(自分も含めて)は、みんな「気づき(意識)」というスペースのなかのかげろうのようなもの。現れては消え、消えては現れる ・・・ そして、どんなものも、なんの原因もなく、原因がないから結果もない ・・・だからなにも起こっていない。(う〜ん ・・・ 言葉にするとそうとう重篤な精神障害レベルに聞こえるな〜・笑)。
「なにも起こっていないんだ」っていうことを「あるがままにわかっていてね」、とでもいったらいいのでしょうか。そこには、なんのドラマもないのです。
あるいは、【与えることは受けとること】
これも、「豊かになるために与えましょう!」みたいな、下心まんさいな解釈になってしまっています。
「そっか〜、与えたら手にはいるのね!」って。「あれ?与えたけど、まだ戻ってこないな〜」みたいな。
これ、ほとんど取引ですね。
この「与えることは受けとること」というのは、モノのことではないのです。
自分がさし出す考え方のこと。
この世界は鏡のように、自分のなかのものを外に見る仕組みがあります。それはたいてい都合よく使われていて、自分のなかに隠しもっているこころのゴミの山を外にまき散らして、「あ〜、世のなかも、人も、みんな汚くってこまっちゃう!」といいはなち、自分は汚れなき人になった気分になります。自分のこころのお部屋はきれいになったな〜って。
つまり、自分の罪悪感を外の世界に投影して、自分は解放されるということ。わたしたちは、これを無意識のうちにやっています。
だから、「与える」ということは、この相手にかぶせてしまった自分のゴミを撤回して、ゴミのかわりに光をなげかけて本当の姿を見てあげるということ。
そうすると、ここは鏡の世界なので、相手(鏡)が美しくなるとおのずと自分も美しいのがわかるようになるのです。
だから、「与える」ということは、自分の間違い(相手に対する間違った見方)を正すことでもあるわけです。
あなたは美しいです、そのままでいいです、完璧です、という考えをさし出す(与える)ことで、それを自分も受け取り、自分がどのような存在であるか確認できる、実感できるということなのです。
あともうひとつ。【欲しいものを、宇宙(神)にお願いする】
わたしたちはなにか欲しいときには、「神さま、叶えてください」と無宗教のひとでさえお願いします。
じつは、「お願いする」ということには副作用があり、逆の効果を生むのです。つまり、お願いすると手に入らない。
なぜかというと、お願いするというのは、「私」という個人がいて、その人ががんばって何かを達成しなければならないと信じていることの現れです。
これは、「私」という分離した、切り離された、つながっていない、ひとりぼっちの、見捨てられてた、なんの供給もない個人を強調することであり、分離感(じつはありもしない分離なのですが)のミゾを深めることになります。そして、そのミゾを埋めるためにもっともっとたくさんのものが必要になります。
お願いするよりは、「私」という個人の分離感を手放そうとすることの方がずっと役にたちます。
個人を手放して、すべてであるものである宇宙(神)のなかに溶けこむ ・・・ それこそが、自分はすべてを持っていることを自分に教えてあげることなのです。
感覚的なことをことばにするのはむずかしい〜!(汗) だからこそ、なんかズレた意味でとられてしまうのでしょうね。
また、気がついたら書きま〜す! ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「あのことに取りかかりたいけど、それどころじゃないんです!まずこの問題を片づけないと」
「やりたいことはあるけど、いろいろ問題がありすぎて今はムリ」
日々、こんなセリフをよく耳にします。
問題さえなかったら ・・・ 好きなことができるのに。好きなように生きられるのに。でも、「人生には問題がつきものだよね。しょうがないね・・・」とあきらめてしまいます。
つまり、問題 = 幸せになれない理由、でも問題は不思議と次から次へとわいてくる・・・、だから私は一生問題から自由になることははい。好きなことをして、幸せになることはできないんだ。 ・・・ ガッカリ。
でも、もし ・・・ ほんとうは「問題なんて存在しない!」としたら??
「問題があるんだ」と思っているから、リクエストに答えてつぎつぎ問題があらわれるんだとしたら・・・?
私たちは、「目にうつる世界は、自分の外側にある」と教えられ、信じてきたけれど、どうやらほんとうのところは違うようです。
この両目で見ている楕円形のスクリーンは、じつはこころのなかに存在していて、私たちは日々、自分のこころのなかのストーリーを覗きこんで過ごしているようなもの。
だから、世界は完全に自分の内側の出来事!というわけです。
そして、そのストーリーの選択肢はたった二つだけ。 ・・・ ハッピーエンド か ドツボか。ハーフハーフのストーリー展開というのは存在せず、竹をわったようにハッピーかドツボかにわかれちゃうのです。そして、私たちはみずからそのドツボストーリーを選択するのが好きなようです(笑)。
自分のこころのなかの世界では、自分が信じているストーリーしか展開されません。自分がチョイスして借りてきたDVDのごとく、それは自分のお好みのストーリーなのです。
私たちは「自分が何を信じているのか」なんて、ふだんの生活でまったく気にかけていません。この何を信じているのかが、二つに一つのストーリー展開のカギとなります。
私たちは日々、「外側にある」と教えられてきた世界にたち現れるものたちと対峙しなければなりません。とにかく、目のまえのものごとをどうにかすることに忙しい。
ところが、外側というものがないのならば、目のまえの問題をあれこれするのは、まさにこころの中のイメージをいじくりまわすようなもの。つかみどころのないイメージはどうにかできるものではなく、実は何をどうしたとしても何の結果もないのです(なんせ、こころの中ですから)。変えられると思っていてもそれは錯覚です。
問題が消えたかのように見えるとき、それはすぐさま他の問題に姿を変えちゃったというわけです。それはないかもしれないけれど、他のものとしてやってきます。七変化をくりかえしながら、追っ手から逃げる怪物のよう。
問題が外にあると思っている私たちは、それを解決できるとかたくなに信じていて、どうにかすることに必死です。生きるという時間のほとんどを「こころのなかのイメージをどうにかすること」に費やします。根本的な原因がないところで、せっせと時間を使います。
これこそが、問題というもののワナなのです。エゴちゃんがしかけたトリック。存在しないものとたわむれててくださいね! そのまにワルサをしますからって。
目のまえのものごとに忙殺させておくことが、エゴちゃんがサバイバルする手なのです。いくら頑張ってもダメじゃないという無力感、罪悪感、怖れによって、エゴちゃんはますます増殖し、生き延びます。
目のまえのものにキョーフをおぼえさせて、さらにリアルにして、必死で取り組ませて、こころのなかで何を信じているのかなんて忘れててほしいのです。「内側の世界(こころ)に問題なんて存在できない」ということに決して気がついてほしくないのです。
だから、私たちが取り組むべき問題の根っこは、外の世界になど存在しないのです。
イメージのなかで何を見るか!というのは、「何を信じているのか」ということであり、その何を信じているのかは「自分をどんな存在だと思っているのか」ということをそのまま映しだしています。
自分がすべてから切り離された孤独な存在だと信じていれば、孤独なうちに、自力で頑張りながら、助けがやってこない世界のなかで奮闘するイメージで見ることでしょう。
そうです!すべての問題(病気、不和、金銭、仕事)は、この孤独な、切り離された思いのいろいろなバージョンにすぎません。
でも、自分がほんとうは今も源の愛につながっていて、愛されていて、面倒を見られて、ちゃんと守られていて、満たされていることを信じることができれば、ちゃんとその証拠をみることになります。それが自分にとっての現実となります。
たとえ、勘違いをしていっとき問題を見ていたとしても、「自分は守られていて完全に安全なんだ」ということをちゃんと思い出せれば、見えるものがこころにあわせて変わってくるのです。知覚というのは、つねに自分のこころについてくるものであって、こころが知覚に従うものではないのです。
だから、自分が自分に対して何を信じているのか、どんな存在であると思っているのか、という「自分への信頼」がとても大切。
自分といっても、制限の中で自力で生きようとしているエゴの自分ではなくって、無限の源にもともとつながっていてそこに安らいでいる自分のこと、ほんとうの自分のことです。
でも、その自分とつねにチューニングするには、外のものにとらわれてあたふたする自分を静めて、自分のこころの中にある静かな部分、ほんとうはどういう存在かを知っている部分に耳を傾けてつながることが大切です。
ありもしない外にホンロウされてあたふたしているうちは、自分の正気の部分とのつながりが切れてしまっているというわけです。だから、外のことに誤摩化されないことが大切なのですね。
どんな問題があらわれても、目のまえのものをスルーする、ってむずかしいことではあります。だって、私たちは目にするものにソク反応するように教育されているから(目にしたことこそ真実ですよ!そこにあるんですよ!って)。
でも、新しい自分を救ってくれる規則が必要なのです。「目のまえのことは、こころのイメージだ。まず、こころだ!」って。
問題に遭遇するたびに、「ほんとうは問題なんて存在していないんだ。だから、もうこれ以上ごまかされないぞ!」という強い気持ちで、自分のこころにある正気の部分(高い意識)に「こんなもの(問題)は存在していない。本当のことを見せてください」とお願いすることが大切なのです。
でも、これって180度の視点の転換、ホコ先を真逆にすること。時間をかけてこころを教育しなおす必要があります。一朝一夕ではいかないのですね。
身体の不調、人とのトラブル、お金の問題などに直面して ・・・ これがないはずないでしょ! とおもわず叫びたくなりますが、「ほ〜・・・これが全部、じつは存在しないなんてすごいな〜。自分のこころのパワーはなんてすごいんだ。それを見てる自分って、いったい何を信じているのやら・・・?」というふうに探求心がもてたらしめたものです。
自分の信じていることを見てみましょう ・・・ すごく滑稽で、自分でも笑っちゃうことを信じていたりします。それを見つけられると、探求するのが楽しくなり、探求してちゃんと光をあててあげるとその信念はもう終わりをむかえます。(メデタシ、メデタシ!)
問題を解決するって、モノや人やもろもろをどうにかすることとは関係なくって、じつはこころを変えること。それをしたあとに、きっと見ている世界で何をしたらいいのか、インスピレーションがやってくるかもしれません。
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「ああ ・・・私がずっと孤独を感じていたわけが、今わかりました ・・・」とA子さん。
A子さんは40代で、外資系企業でCEOとして働く女性です。仕事もバリバリできて、オシャレで知的で、すべてを手にしているような、人もうらやむ人生に見えます。
でも彼女はずっと、暗闇のなかをたった一人で歩いているような深い孤独にさいなまれていたようです。でも、それはあまりにも慢性的になっていたために、ご本人もそんな孤独感があることに気づかず、それがそんなにも彼女の人生を暗くしていることに気づいていなかったそうな。
じつは、セッションにいらしたのはそのことではなくって、他の問題。「仕事のストレス」をどうにかしたかったから。
ところが、そのストレスについてのセッションをとおしてA子さんが気づいたのは、彼女のなかでもっとも慢性的になっていて、苦しみの原因になっていた孤独感についてであり、その原因と答えでした。
「とにかくストレスを感じるんです。いつも疲れてるんです」とAさん。
休日には、へたりこんでしまうほど頑張っている日々。それは、ずっと昔から続いていたそうです。
仕事を頑張る、勉強に精を出す、スポーツジムで鍛える、さまざまな知識をふやす、立ち居振る舞いを磨く、ダイエットにうちこむ、もっと、もっと ・・・ 。じつは、やればやっただけ、何か手応えがあったからこそ。それはまるで、筋肉を鍛える男性がマッチョまっしぐらになってゆくのと似ています。成果を手にできるからこそ、やめられない。
結果 ・・・優越感を感じる、褒められる、うらやましがられる、尊敬される、デキる人だと思われる、一目おかれる ・・・どんどん特別な人になる、スペシャルな私。
そうなれば、この人生で人の上を行ける、支配する側になれる、人生をコントロールできる、きっとこわくなくなる ・・・はず。
自分を磨きまくって、これで万々歳なはずなのですが・・・ ところが ・・・。
優越感を感じる ってことは、劣等感を感じている人がいるかもしれず。褒められる ってことは、認めてもらってないと感じている人がいるかもしれず。うらやましがられる ってことは、嫉妬を感じている人がいるかもしれず。
彼女が必死になって目指した先であるお山のてっぺんは、残念ながら定員はお一人さま。一人しかのれるスペースがないのです。
それって、「私はお山のてっぺんに君臨するから、あなたたちは全員下であきらめてくださいね。そうじゃないと、わたしが一番になれないので。みなさんは、私よりも下で、私よりも足りなくて、私よりも劣っていて、私よりも価値がない人で、そうでいてくれないと私は優れた人でなくなるから困るのです」というわけです。
もちろん、A子さんはこんなこと言葉になど出していませんし、はっきりと意識もしてもいません。でも、A子さんが頑張る気持ちの裏にあるのは「私は特別で、しもじものみなさまとは違うのです」ということだったわけです。
これで、こころが暖かくなったり、つながりを感じて安心するはずがありません。この状態では、自分をまわりとは完全に異質にして、たったひとりぼっちにしてしまい、みんなに近づけないものにしていたのです。
私たちは「価値判断」をしてしまった段階で、もうまわりとは切りはなされてしまいます。
「あの人って、わかっちゃいない」「あの人ってダメだわ」・・・無意識のうちにこころのなかで相手をジャッジしていますが、この裁きのセリフで相手と仲良く手をとることができなくなってしまいます。
ところが私たちは、どんな親しい人(パートナーであろうと、親友であろうと)でも裁いてしまうことによって、もうこころのなかでは味方ではなくなってしまい、人知れず孤立しているのです。
だから、いくら表面上で仲良くしても、こころの深い部分は知っているのです。相手に対してケンカを売ったことを。断罪したことを。そして自ら、誰ともつながれない孤独を感じているのを。結局、自分で自分を孤独に追いやってしまっていたのです。
A子さんの場合、さらに深い意識をみてみると、自分への無価値さがあり、その穴をうめるために様々な活動をつめこもうとしていたことがわかりました。そして、ほめられたり、特別に感じたりすることでエゴが喜ぶのをいいことに、一気に無価値観とはまったく反対側の間違った特別性に邁進してしまったわけです。
だから、何をするにも「何のためにするのか」ということは、とても大切になります。
せっかく一生懸命何かをするのだったら、一人ぼっちになる特別性のためではなくって、人とつながって、分かち合う、という目的のためだったら、同じことをするにしても、気持ちも、流れも、見える景色も違うものになってくるのだと感じます。
さて、あなたは何のためにそれをしているのでしょう? それをすることで、人と距離ができますか? それとも、人ともっともっと近くなって、ともに喜びあうことができますか?
それから、たったひとりだけ、自分だけの利益があるというときには、ものごとはなかなか進まないように感じるときがあります。
まったく同じ目標でも、それが同時に誰か他の人のためにもなっているとき、たとえば自分のダイエットをするときでも、その秘訣などをわかちあうとか、
そんなときには、ものごとがふだんよりうまく運んだり、どこからともなくよい方法などの助けがやってくるように感じます。
それがよりたくさんの人が喜ぶことであればあるほど、その力もふえていくように感じます。٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
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(株)アルファ ブライト さんにてセミナーをさせていただきました。
こちらは就労支援をしている事業所さんで、セミナーのご参加者は就労について何らかの問題をかかえていらっしゃる方々。なので、今回は少しでも前むきに、目標に向かって行けるようになるために、「こころのデトックス(お掃除)」についてのセミナーをいたしました。
日々の生活からはじまって、仕事や目標の達成がうまくいかないとき、わたしたちはあれこれ「考えすぎてしまう」あまりエネルギーを浪費してしまい、必要な活動をするのためのパワーが残っていないという状態になってしまいます。
スムーズに動けるようになるためには、「こころのお掃除」、つまりゴミ出しがかかせません。そのためには、「考える」よりは「感じる」習慣をつける必要があるのです。感じることによって、感情はやってきてはさって行くというようにスムーズに消えさっていきます。
でも、そもそも「感じる」よりも「考える」ことをはじめてしまう原因とは、「自分の感情は自分を傷つけるものだ」と信じこんでしまったためです。感情は自分にとってキケンなものなので、触れたくない。だから、隠そうとするわけです。
しかし、本当に自分を傷つけているのは、それを「感じてしまう」ことではなく、感じるのをさけて「考えでごまかしてしまう」ときです。
そうなんです。感じるのに抵抗がある場合(感じることは危ないという信念が無意識のうちにある場合)、何かが起こって感情が発生しそうになると、即座に「考え」に置きかえて感情を煙にまいてしまいます。その結果、見ないようにしておかなければならない感情がどんどんふえて、それを押さえこんでおくために多大なエネルギーを費やすこととなるのです。
たとえば、誰かからひどいひとことを言われた場合。
言われた瞬間というのは、鉛のボールを身体に当てられたように、こころはボコンとへこみ、痛みを感じます。打撃を受けたわけです。それはきっと、「悲しい」「痛い」という感情です。でもここで、あっというまにその感情は煙幕にまかれたように隠しさられます。そして、わたしたちがすぐにフォーカスするのは、その「悲しみ」「痛み」を隠すための道具である「怒りや不満」なのです。
傷ついたことなんかぜったいに認めたくない。だから、すぐに反撃に出ねば! という感じです。
これがあまりにも素早いので、わたしたちは本当に感じるということができなくなってしまいます。感じるよりも、守りの感情である怒り、不満ばかりが顔をだします。
そして、感じることができないと、「幸せ」である感じもしてきません。幸せはアタマで考えるものではなく、全面的に感じるものだからです。感じるレンジが広いほど、たっぷりと感じられるほど、幸せも感じられるようになります。
そして、傷つかないように守ることが最優先になると、剣と盾で両手がふさがった状態になり、他の活動にエネルギーが使えなくなります。「感じること」を避けた感情は、そっくりそのまま見えない意識に貯蔵されていて、それがまるで自分の重しのようになります。すると、とにかく重たい! 解放してあげるまでは両手がふさがっているような状態で、自分を守ること以外は何もできないのです。
今回のセミナーでお話したのは、「ザル」のように自由に感情を感じられるようになるためのいろいろな感情デトックスの方法。
感情に自由に語らせてみたり、エネルギーとしてあるがままに感じてみたり、感情の強度を弱めてみたり、一気に消す練習をしてみたり ・・・。
本当に「感じる」ってどういうことなのか ・・・ それはまったく言葉を使わず、判断もなくい、身体にそのエネルギーのバイブレーションを受けとめさせてあげること。
そして、やってきては去って行く感情を、ほんとうに「ザル」のごとく受け流してあげること。
こころの風とおしがよくなることは生活のすべてにおいて、見える景色が違ってくることです。
「こころによって見える世界が違うんですね」「外がわのことと、体験はイコールではないのですね」「イヤな感情を感じたとき、誰かに話しをしたり、身体を動かして汗を流したりしていましたが、それでは本当の解決ではなかったのですね。感じることが解決なんですね」「軽くなりました。すっきりしました」と、それぞれ気づきをえていただけたようです。
「感じる」ということをしっかりと行っていくと、本当の自分とのギャップもだんだん少なくなってきます。
それは、何かが起こったとき、今までは「考える」というヘンな迂回路をつくって、ほんとうの自分には誰も近づけないようにバリケードを築いていたのです。でも、どんどん感じられるようになると、本来の自分とのすきまがなくなります。自分自身との葛藤もへっていきます。
本当の自分で生きられるようになってくると、今まで問題だと見なしていたこともただの状況にすぎないということがわかってきます。ものごとがシンプルになります。少しづつまわりの状況が、流れるように変わりはじめるのです。
人生の流れをよくするということと、「感情を感じる」ということは、とても深くつながりあっているのですね。
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ときどき、以前に書いた「気づきの日記」のいくつかを却下したくなります(笑)。
すごく間違ったことを書いてる・・・とか、そういうことではないのです。でも、ホントのホントのところから見ると、ちょいと違ってきちゃう。
ポジティブに考えましょう、マインド(思考)をへらしましょう、目標にフォーカスしましょう、感情をコントロールしましょう、現実を引寄せましょう、などなど・・・ 私もそんなことを教えたり、書いたりしてたときがありましたっけ。
でも、ホントのところに気づきはじめると ・・・それって実際、役に立ってるの? いや〜、立ってる気になってるだけでしょ〜! って気がついてしまう ・・・。
本気でこころの荷をおろすためには、解放されるためには ・・・ ポジティブも、マインドも、コントロールも、引寄せも、なにひとつ役に立っていないのです(大きな声では言えませんが・苦笑)。
あるレベルでは役に立っているように見えるけれど、ほんとうの、ほんとうのところでは、何ひとつどうなってもいないのです。
だって、思考は勝手にやってくるし、自分の人生物語も勝手に進行してゆくのだから、ポジティブもネガティブもあったものではありません。そもそも、コントロールできるものなど何もないのです。
だから、ポジティブシンキングやマインドのコントロールのようなものは、お子ちゃまに「痛いの、痛いの、とんでけ〜!」って言って、「あ、とんでった!痛くなくなったよ〜」っていう、ちょっとおまじないチックなもの。
私たちが「これば現実だ!」と思っていることと、「ホントの本当のところ」はまったく違うってことになかなか気づくことはできません。
だから、今いる現実と「ホントの本当のところ」とのつながりをつくることが難しくなる。 それはまったくの逆方向(外が内になる)。いったん、あらゆる概念や信念をチャラにする必要があるのです・・・ と言いつつも、それは予想外にシンプルでもあり 、「え〜、なんだぁ、そういうこと?!」っていうぐらいかんたんでもあるのです。
ポジティブに考えるべき「私」って誰なんだ? マインドを忙しくしている「私」って誰なんだ? 目標を達成する「私」って誰なんだ?
結局のところ、そんな人がいなくなってしまうってこと(だからって、意識がなくなったり、記憶喪失になるわけじゃないけれど・笑)。自分に対する自己概念がガラリと変わる、と言ったほうがいいかもしれません。
そうなると、外にあったと思っていたものが内になり、外が自分になってしまう(自分というのもいないのですが・・・汗)。すると、どうでもいい。そのままでいい。ほっとけばいい ・・・ となるのです。
でもね、クライエントさんに、「いいんですよ。悩んでるあなたなんていないんですから」って言っちゃっても何の助けにもならないしね〜。
何にしても、その人が今立っているところこそが大切なのだと感じます。だって、そこに立っていると信じているのですから。
だから、その人が理解しているところから、少しづつ何がどうなっているのか知る(体験する)こと。そして結局、自分はこの「なか」にはいないということがわかってくると、シリアスさや、なにがなんでもコントロールしたい感覚や、どうにかしなくちゃという抵抗感から解放されていくのだと思うのです。
ほんとうの安らぎは、何かを達成することでも、手に入れることでもなくって、それらをしなくっていいという解放感のこと。・・・って説明すると、「なんだか、えらくつまらなそうですね。それいらないかもしれません」と言われたりします(苦笑)。たしかにね・・・刺激的ではありません。
でも、今知っている感覚では、それは知ることのない解放感。どこにもつかまらずに、開け渡してしまう ・・・って、すごく安らぐことなのです。
PS 以前の気づきの日記をリコールしたい!と感じるときはあるけれど、でも、「ここにいる」と信じているときには、「ここレベルのお話し」としてまだお役に立てるかな・・・ ということで、そのままにしておくことにいたしましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちのマインド(エゴ)は、私たちの人生に絶えずちゃちゃを入れてきます。
ちょっとした不安材料があれば、ここぞとばかりに怯えさせたり、ヘコませたり、罪悪感を抱かせたり...「キミの人生はうまくなんていってないんだ」と思いこませようと語りかけてきます。
「それこそ悪くなる兆候だよ」「見てこらん!どんどん大変なことになるだろう?」「最後には取りかえしがつかなくなるにきまってる」と。
このエゴの意地悪なセリフに、不安があったり、こころがヘコみそうになっているときこそ、まんまと足をすくわれてしまうのです。いともかんたんに聞きいれて、「ほんとにそうだよね」ってエゴのモードに同調しちゃう。
最近いきなり、不本意にも労働時間を減らされてしまい、収入が減ることになったというAちゃん。
「職場に貢献できるようにと、いつも努力をかさねて真面目に働いてきたのに ・・・。四月から出費がふえることになっているので、落ちこんで食事がのどをとおりません」とAちゃん。
私たちがいちばんダメージをくらってしまうのは、「生存」に関する問題です。生きるか死ぬかに直接かかわる、お金、病気、おかれた環境などについてのこと。
他の問題よりも危機感が強いぶん、かんたんにエゴのちゃちゃをまにうけて、まんまと無力な被害者や犠牲者になってしまいます。「ああ〜、このままいったら、すべてを失ってしまう」「ホームレスになってしまう」
この「ホームレスになってしまう」という怖れは、セラピーをしているとほんとうに多くの人が抱えているコワさであることに気がつきます(たった今は表面化していなくても、いざお金、病気などの問題が起こったときに浮上してきます)。
そして、今まで何不自由なく、豊かで自由に生きてきたように見える人こそ、そのような怖れを強く感じていたりします。それは、幼いときに読んだイソップの「アリとキリギリス」のお話しに象徴されている考えを無意識に受けいれているから。
私たちは、問題がない豊かで自由な幼少時代を過ごしたにもかかわらず、かえってそのことで自由や豊かさの「ツケがまわってくる」のではないかという罪悪感に根ざした信念を持っていたりします。
つまり、ただ幸せであってはいけません。幸せには代償がつきものです。そして今こそ、その代償を支払うときです、という考えです。ただ手放しで幸せになってはいけないのです。
みんな自分の思いどおりの人生にしたいと日々努力を続けているのですが、でもそのようになることはなく、人生の流れにホンロウされていて歯がたたないと実感しているのがほんとうのところです。
コントロールなどできないものをコントロールしようとすれば、おのずとコントロールできないという敗北感から自分に無価値観、自己嫌悪を感じるようになります。苦しくなります。
私もそのむかし、バリバリに自分の人生をコントロールする気まんまんで、コントロールできる!とも信じていました(とくに、そのむかし、心理学でも自己啓発でも、コントロールするべき!と教えていましたっけ)。
その意欲が、ことごとくくじかれて、とことん思うようにならないという体験をするまで、コントロール幻想を手放すことができなかったように感じます。
私のような仕事は、いつクライエントさんがきて、いつどのぐらい忙しくなるのか、まったく予想がつきません。アップアップするほど毎日クライエントさんと向きあう日々が続いたかと思うと、まるで世界から問題を抱えた人が消え去ったかと思うほどシ〜ンとしているときもあるのです。
それでも、自分の都合のいいように、安定した均一な仕事量を望んで努力していたときには、いつも思いどおりにはならない敗北感と無力感を感じていたものです。なんでも思うようにしたかったし、なるべきであるとヘンな自信と確信をもっていたのです。
でも、結局は思うようになるはずもなく、私の場合はこの仕事をとおして「コントロール願望を手放す」「すべてを委ねる」ということを身をもって学ばされてきたように感じます。
気づいたことは、私たちは「こうあるべきだ!」という理想の自分像、自分の人生像があって、それをおびやかされることに強い怖れや苦しみを感じるということです。
思いどおりにならないと、「どうにかしよう!」とコントロールに走り、当然コントロールできないという敗北感・無価値感・罪悪感を深めることになります。
このコントロール不能と無力感の悪循環から怖れの気持ちが強くなり、「今、この瞬間のこと」ではなく、この瞬間にでっちあげた「架空のストーリー」にのめりこみはじめます。
たとえば、一時的に収入が減ったとき、まだ何も起こっていないのに、「ああ、このままだと、どんどん蓄えが減っていく」「しまいには何もなくなって、住むところもなくなることになる」「誰も助けてくれる人がいない」「ホームレスになってしまうかもしれない」というように、今この瞬間を離れて存在しないストーリーが紡がれた結果、怖ればかりがどんどん大きくなっていきます。
そうすると、「一時的に収入が減った」という出来事が、「吐き気がするほどの恐怖の出来事」となってしまったりします。自分の死と結びついてしまうのです。
でも、まだなにひとつ起こっていなくて、ただ「一時的に収入が減った」という事実があるだけです。それはただ「一時的に収入が減った」ということ以上でも以下でもない出来事なので、ニュートラルなことなのです。
でも、エゴは「この調子だと、大変な事態になってしまうぞ」と不安をあおる思考を投げかけてきます。それはいつも、ここには存在してもいない未来のストーリーなのです。
「今」という時間しか存在していないのであれば、ホントは未来についての考えなんてどうでもいいことなのですが・・・。
(その2へつづく)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
存在しているのは、「今」という時間だけ・・・
だから、いつだって私たちが生きたことがあるのは「今」しかなく、いつも私たちが存在しているのは「今」だけです。そして ・・・今までも、そして今も、「今」はいつでも大丈夫なのです。
未来の不安にアタマまでどっぷりつかるあまり、目のまえ真っ暗で、右も左もわからなくなってしまっているクライエントさんにこんなふうに尋ねます。
「今、たった今、この瞬間に、なにか困っていること、不足してものはありますか?」と。そして一緒に確認します。
「たった今、どこか痛いですか?」「いいえ」、「たった今、この瞬間、死にそうなぐらい危険ですか?」「いいえ」、「たった今、飢え死にしそうですか?」「いいえ」、「たった今、この瞬間にみじめな体験をしいられていますか?」「いいえ」、「たった今、服をはぎとられていますか?」「いいえ」、「たった今、お財布がカラですか?」「いいえ」、「たった今、死んじゃいそうですか?」「いいえ」、「たった今、この瞬間になにか必要なものがありますか?」「いいえ」
「・・・今は、ぜんぜん大丈夫です」とクライエントさん。「じゃあ、いつ大丈夫じゃないんでしょうね?」「・・・?? それはいつかわかりませんが ・・・ああ、今は本当に大丈夫です(笑)」と。
私たちが不安を感じているときには、すばらしく想像力がたくましくなっていて、瞬時にストーリーをでっちあげます。そして、何が起こっていることなのか、何が想像にすぎないのか、まったく見分けがつかなくなってしまうのです。だから、今にいるにもかかわらず、ありもしない未来のバーチャルリアリティを信じきっています。
私たちはどうやら、「瞬間、瞬間」にOKであれば、それでよいようなのです。他の瞬間なんてあるのかどうかわかりませんが、それを心配するのは私たちのお役目ではないようなので、心配しはじめると今にある豊かさが見えなくなり、一気にこころのバランスを失います。
だから、「現在」というたった今のこの瞬間を離れて、「過去」にも「未来」にもお出かけをしてはいけないのです。
エゴが語る過去の後悔や未来への不安が、どれほど私たちが健全に生きる気力を萎えさせていることか! エゴの意地悪なセリフにばかり耳を傾けて、存在してもいない架空の世界をさまよい続けることが、不安をあおり、見るものすべてに影をおとすようになります。
私たちにできるのは、「今」だけにしっかりと存在し、「今」を体験すること。そして、この瞬間にあらわれるさまざまな好ましくない思考・感情・感覚については、エゴが発するものと認識して、闘うことも抵抗することもなく、ただ受け入れて、赦してあげること。つかむことなく、ただ自分のなかを通過させてあげること。
つまり、こころのなかに浮かんでくる考えを無防備になんでも受け入れないということなのです。はっきりと意識していなくても、私たちのなかには「愛」の自分と「怖れ」の自分という、二人の人格が存在しているからです。そして、いつも「怖れ」の自分であるエゴの声ばかり聞いていると、もうひとつの声はまったく聞こえなくなります。
「愛」の声である本当の自分(高い意識)に、今、この瞬間に起きていることに対する正しい見方を教えてもらうとともに、真の自分の姿を見せてもらえるようにとお願いすることが大切です。「怖れ」であるエゴの脅しの声をスルーして、「愛」である本当の自分の声に耳を傾け続けることで、そちらのボリュームが徐々にあがり、指示を受けとれるようになります。そしてやがて、その声が自分そのものとなるのです。
だから、自分で頑張ろうとするよりも、正気の自分である高い意識にすべてを丸なげして導いてもらうことが大切なのです。
ほんとうは、「痛み、苦しみ」というのは、自分のなかにどんな邪魔っけなゴミがあるのかを教えてくれるのに役立つものです。気づくことができるまでは、ゴミがあってもあることにさえ気づけていないのです。
ついに、お片づけの準備がととのうと、ゴミが意識の表面、気がつけるところに浮上してくるので「あ!ゴミだ!」と気づくことができます。それこそが、わたしたちが日々直面する問題(痛み、苦しみ)というものなのです。
問題が続くようなときには、まだ古い同じやり方をしていて、問題に抵抗し続けているときです。「ゴミを認識して片づける」というお片づけモードにはいっていないのです。
ゴミのお片づけをしたいときには、あの片づけの達人「こんまりさん」の断捨離のように、一回すべてを目のまえに並べて「いるかいらないか」しっかりと見きわめること。
「ああ〜、こんな痛みがあったのだな〜」と確認して、あるがままに感じてから、手放してあげます。
こころの倉庫がまんぱいになっていると、次々と困難に見舞われたり、苦しい気持ちが続いたりします。そういうときには、断捨離の時期ととらえて「認めて、感じて、手放す」というこころのお掃除の時間を意図的にとってあげることです(お部屋に定期的なお掃除が必要なら、こころにとってはなおさら重要なのです)。
そして、「理想の私」「理想の人生」などは手放して、この私の人生が生きてくれるように生きる、つまり流れに明け渡してしまうことが、じつはラクな人生の秘訣のようです。それは、「まさに、すべてはなるようになっている」という宇宙の優しい叡智がしっかりとささえてくれる人生でもあるのです。
人生がどんどんコワくなっていくき、私たちはじつは自分に対して超イジワルなエゴちゃんと仲良くしすぎて、一心同体なとき。まるで恋人のささやきを聞くがごとく、エゴちゃんの恐怖の言葉にしか耳を傾けていないのです。
エゴは黙りません。容赦しません。とくに、私たちが幸せになろうと努力しているとき、そしてなんだかヨイ感じになってきたな〜と思ってるときこそ、思いっきりこころをくじく言葉をささやき始めます。
でも、それに「耳を傾けない」という自由があったのです。たとえ聞こえてしまっても、「受けいれない」という選択肢があるのです。
そのためには、つねに用心深くなることも必要です。すべての思考を鵜のみにすることなく、どれがウソなのかをしっかりと見抜けるようになることも大切なのですね。
そして、見抜いたら、あのひとことです! 遠慮なく、思いっきり言ってやりましょう!
「うるさい!黙れ!」 (*´∀`*)ノ
PS 労働時間を減らされて、収入が減ってしまう・・・と落ちこんでいたAちゃん。息子さんから、「最近、疲れが顔に出てたから、周りが気をつかってくれたんじゃない?」と言われて、「そうかな」なんて思ったそうです。・・・どんなセラピーよりも、息子さんのありのままのひとことこそ真実だし、大きな癒しですね! (*´︶`*) さらに、今日のご報告では、先走って考えることをやめたら、よいことが見えるようになった♪ とのこと! よかったね〜♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
出会った初対面の方に、「ヒプノセラピーという軽い催眠を使ったセラピーを生業にしています」と自己紹介をすると、みんなおもしろいリアクションを示してくださいます。
最近は昔ほどではないのですが、私がこの仕事をはじめた二十数年前など、まるで要注意キケン人物のような目で見られましたもの(笑)。
日本人はそうそうあからさまではないのですが、海外で「Hyphosis(催眠)を使うセラピーをしています」といおうものなら、「ああ、きみと話していると、自分を失いそうになる。助けてくれ!」とか(なんのこっちゃ!笑)、「きみはぼくを犬にするつもりだろう!」とか(犬になりたいんですか? 笑)。あるいは、私のまえで直立して目をつぶり、思いっきり緊張して、「さあ、準備はできた。やってみてくれ!」とか(なにを?! 笑)。
Hyphosis (催眠)という言葉は、やっぱりテレビの催眠ショーしかイメージできないのだろうな〜と思います。そして、本人の意志に関係なく、好き勝手にコントロールされちゃう、したくない恥ずかしことをしちゃう、というお決まりのなりゆきを思い描きます。
だから、はじめてヒプノセラピーを受けられたクライエントさんは、セッションが終わるなり「失敗だったみたいです!」とがっかりしておっしゃいます。「だって、ずっと意識があって、貴子先生のいっていることが聞こえてました」って ・・・ (気絶したほうが、よっぽど失敗です・笑)。
(注):この誤解をとくためにも、声を大にして申し上げておきましょう! セラピーにおける催眠は、たんなるこころと身体の深いリラックスです。ちゃ〜んと意識があって、聞こえるし、しゃべれるし、身体も自由に動かせます。でも、じゅうぶんリラックスしているとかえって意識は明晰になり、「わかっちゃいるけどやめられない」というこころのプログラミングに達して、それを自然に解放してあげることができるのですね。
でもね、ヒプノセラピーの催眠状態で犬にされちゃうことを心配するよりも、じつはもっと心配しなくちゃいけないことがあります。
それは、催眠にかけられることを心配するより以前に、「すでにあなたはずっと催眠状態だった!」ってこと。
その催眠状態で、(犬ではなく)「あなた」に同一化しすぎて、もうやめられなくなっているってこと。
やめてもいいし、やめられるのに、そしてやめることのほがずっとラクなのに、「やめる」という考えすら浮かんでくることができない・・・ というのは、じつはかなり重篤な症状。「わたし」という着ぐるみを着たら、一体化しすぎて、一生脱げなくなっちゃった!みたいな(汗)。
その「じつは存在してはいないあなた」に同一化しつづけることこそが、なんでもかんでもシリアスになっちゃうほんとうの原因であり、「あなた」に絶えずふりかかってくる「問題」というものが生じる原因である ・・・ということに気づくことができません。
でも誰も、幸せになるために「あなた」をやめたほうがいいですよ、なんて教えてくれません。むしろ、そんなことをいっているわたしのほうが、よっぽどアタマのおかしなセラピストに聞こえます(笑・はい、かなりキケンなセラピストです)。
だから、世の中は「あの人のせいで、私は困っている」という被害妄想患者であふれ、また自分(スピリット)と身体を同一視する依存症も発症し、さらにほんとうの自分のアイデンティティがわからない認知症まで併発している人たちであふれています(というか、全員そうなのですが)。
ほんとうのことを言おうものなら、そのほうが精神疾患のように聞こえます(でも、容赦なくセラピーでは、ほんとうのことを教えますが・笑)。
それでも、この窮屈な個人という自分に執着する病も、準備が整うと「ほんとうの自分への誘い」という癒しの時期がやってくるようです。
そのなかで、徐々に徐々に、ほんとうのことを耳にする機会がふえ、「そうかもしれない!」と感じるようになり、そう思うとそのような世界が顔をあらわし、しだいにその本当のことが自分の真のアイデンティティを呼び覚ましてくれます。
それこそが、わたしたちの慢性的な催眠状態からの目覚めのときです。
だから、ヒプノセラピー以前に、私たちはすでに深く催眠状態なのです。そして、ヒプノセラピーという心地よい催眠(リラッックス)をつかって、慢性的な催眠状態(被害妄想、依存症、認知症・・・etc)から目覚めて、ほんとうの自分へ気づくという新たな旅をはじめるのです。
私がヒプノセラピーをはじめた当時は、まったくキケン人物だったけど、二十数年をへてようやく、少しは生きやすくなってきました! (*´∀`*)ノ
先日、MS4Dで「美女と野獣」観てきました。MS4Dってどれだけ臨場感がますのだろう!と期待していたら、ひとつ間違うとシラケた体験になってしまうことも・・・。
まぶしいピカピカや、テーマパークのアトラクション顔まけのゴトゴトゆれる椅子、さらに突如ブシュッと顔に向かって噴射されるミストなど ・・・ 不自然な刺激で、あっというまに映画から注意が引き戻されて、劇場で坐っている自分へとさめてしまうのでした。
これと同じようなことが、じつは人生でも起こっています。
私たちのほとんどは、この人生ドラマにメリメリとのめりこんだ結果、はまりすぎていることにすら気づくことができません。映画に熱中しすぎたために、ながらく椅子にすわっている自分を忘れてしまったような状態。
自分にとっての「本当の現実」よりも、架空のドラマのなかに住みついてしまい、そのことに違和感さえ感じることがないのです。
でもある日「とき」が満ちてくると、人生ドラマ(画面)からの引き戻しが始まります。
「引き戻し」とは、映画館で不自然なミストやストロボで正気に戻ってしまったように、人生ドラマのなかでも正気に戻すようなことが起こりはじめるのです。
今までにないような刺激が、人生ドラマのなかに現れはじめます。今まで体験したことがないような不快感。まるでいきなりブシュッと顔にミストを噴射されるような、いやおうなくドラマから引き戻されるような刺激が・・・(お目覚めミストの洗礼!)。
そうすると、この人生ドラマの画面からふと離れることが起こり、「あれ?このなかで生きてるとずっと思っていたけれど、じつはここになんていなかったんだ〜・・・汗」という気づきが生まれたりします。
いきなりそのような気づきにはいたらなくても、ミストやストロボ的な不快な刺激が続くうちに、今までのやり方(生き方)ができなくなり、自然と生き方が修正されつづけて、気づきにいたる場合もあります。
私がMS4D映画で体験したように、せっかくストーリーのなかに入りこんでいたのに、不意の刺激によってそのストーリーから引きはがされて ・・・ そして、「人生ドラマと一体になってそのなかに生きていたはずなのに、あら〜、人生ドラマのワクの外に出ちゃったじゃない」っていうような。
私たちはもう何千回(?)も人間として人生ドラマをやっているうちに、この一個の身体こそが自分であるという考えに洗脳されて、自分のまわりにこそ世界がある、と信じて疑うこともしません。
まさか「自分の知覚しているすべてが自分」で、身体としての自分はその一部だとは気がつくことがありません。
万がいち、本当のことに気づいてしまって「私、身体じゃないんです〜」なんて言おうものなら、好ましくない待遇を受ける病院に入れられてしまいかねません(汗)。
「誰もここにはいないんです」とか「何も起こっていないんです」なんて言おうものなら、精神疾患のレッテルをはられるのがオチで、そうなると自分自身でも「頭がおかしくなった」と疑うことになるかもしれません。
でもね、不思議と「そのとき」が近づいてくると、MS4D映画のミストやら、椅子の震動やら、ストロボのごとく、むりやりこのストーリーへの耽溺から引き離すような刺激がじゃんじゃんやってくるようになるのです。
そして映画館で「あ、ここで椅子に坐っていたんだったわ」と気がつくように、人生ドラマから引き離されてまったく違う視点から自分を見ることが起こります。そして知るのです。「あ〜、自分は人生ドラマのなかになどいなかったんだわ」と。
私たちは、ミストやストロボのような不快な出来事が起こらない限り、このストーリーにどっぷりとはまりすぎていて、なんの疑問も抱くこともなく、かえってこのストーリーへの耽溺を深めていくようにも感じます。
でもいったん、このストーリーのなかで歯車がうまくまわらなくなったり、さらにそれが悪化して何が本当のことかわからなくなると、ふと正気に戻るというか、「この世界で本当のことって何だろう?」「本当のことを知りたい」と考えるようになるのです。
だから、今自分の人生ストーリーを生きていて、不快なミストやらストロボやら震動がやってきているとしたら、それはそろそろ「本当のことを知りましょう」「本当の自分に戻りましょう」というお知らせサインでもあるのです。
このようなアラームがならない限り、私たちはこの幻の人生ドラマのなかで、あと何千回でも輪廻できちゃうほど深い催眠状態です。
もし今、不快なことがやってきているのだとしたら、それらを無視してむりやり人生ストーリーを続けようとしたり、それに抵抗して闘ったりしようとするより、ただ起こっていることに身を投じてしまいましょう。
ミストにさらされ、ストロボ攻撃にあって、椅子の上で振りまわされて ・・・ しまいには、人生ストーリーの外にひっぱり出されて、シラフになっている自分に気づくことが起こるかもしれません。
「そのとき」がやってきたらそれは自然に起こり、そして新たなステージへと私たちを運んでくれるのです。
そのとき、私たちは過去何千年も「自分」であると思っていた自分から、ようやっと引きも戻されて、ほんとうの「正気」というものがどのようなものなのか知ることになるのだと思います。
刺激的な出来事が次々おしよせてくるように感じるとき ・・・ おびえてその出来事に飲まれてしまうのではなく、ついにお目覚めのベルがなっていると腹をくくり(といっても、リラックスして)、こころを開いて、その体験と向きあってみます。
不快な体験をちゃんと調べてみると、コワイと思っていたものが「な〜んだけっこうこどもだましのミストやストロボや震動だったわ〜!」と気がつくことになるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「今この瞬間に、自分が感じていることをちゃんと感じられるようになってみましょうね」
これは私がセラピーセッションのなかで、クライエントさんにもっともよくかける言葉のひとつです。
・・・ということは、多くの方は「自分が今感じていることをちゃんと感じられていない」ということなのです。
「いいえ、自分が感じていることぐらいちゃんとわかっていますよ」と言われるかもしれません。
上司から理不尽に怒鳴られて思わず怒りを感じたのもわかっているし、健康診断で「腫瘍があります」といわれたときだってかなり落ちこみましたからねって。
でも、上司から怒鳴られたとき感じた怒りは、その怒りのまえにある「本当の感情」を感じないようにするためのもの。怒りは、怒鳴られた直後の「本当の感情」ではないのです。それは「本当の感情」によってダメージを受けないようにするためのダミーの感情、つまり防御策。
健康診断で悪い結果をいいわたされたときも、とっさに「本当の感情」を感じそうになるやいなや、分析したり考えはじめます。「そのとき感じていました」というのは、今後起こるかもしれない未来のストーリーについて反応していたのであって、そのときそこにあったあるがままのむき出し感情を感じていたわけではないのです。
こころはなんと素早いことか! 「本当の感情」を感じないように、すぐにダミーの感情にすりかえたり、考えをつくりだして感じないようにします。
私たちのこころは「本当の感情」を感じてしまったら自分が立ち直れなくなるのでは・・・ と信じているので、いかにあるがままの感情を感じないようにするか、いつもそのために必死です。すぐさま防衛姿勢をとっているのがわかります。
本当のむき出しの感情を感じてしまったら、耐えられない、もう生きていけないとさえ思っているのです。
そんな感情のすりかえを長年行ってきたがために、こころのなかは罪悪感、恐怖、無価値観などの「感じそこねた感情」のゴミ捨て場になっています。そして、それらのたまりにたまった感情のゴミはまるで腐敗するがごとく、異臭を放ちはじめます。
それこそが、慢性的な落ちこみ、やる気のなさ、いやな感じの原因です。ひどくなると、ゴミから完全に逃げだしたくなります。つまり、死にたくなります。ちゃんと感じてこなかったものが、こころのなかにあふれんばかりになっているのです。
誰も「今感じていることをあるがままに感じていいんだよ」と教えてもらったことがないので、感情の扱いについては親のやり方を真似するようになります。
その親も、もちろん感情をどう扱ったらよいのかわからなかったので、結局誰も正しい感情の扱い方を知らないままです。すると、感情を感じるかわりに考えで合理化したり、あるいはすばやく防衛のためのダミーの感情(怒りなど)にすり替えて周囲にまき散らしたり・・・という代替策になれていきます。
ほんとはね、学校でも「自分の感情の取り扱い」について、ちゃんと教育をしてあげる必要があるな〜と思います。なぜなら、ちゃんと感情を感じることができない弊害こそが、人生の苦しさにつながるからです。
ちゃんと感じることがなかった感情は、こころの深いところに抑圧されるのですが、決して自然と消えてなくなるということはないのです。それらの感情はいつか、沼の奥深くに生息しつづけた妖怪のごとくわやわやと姿をあらわし、問題というかたちで悪さをするようになってしまいます。
「あるがままの感情をあるまがまに感じること」というのは、まるでドッヂボールで飛んできたボールを受けるがごとく、まったくよけることなどなく、正々堂々とお腹の真ん中でドシンとしっかり受けとめてあげること。そしてそのボールがこころにまで染み渡っていくのをあるがままにゆるしてあげること。
「ちゃんと感情を感じていますよ」という場合でも、どうもボールが飛んできたのをヒラリとよけて、でも身体にちょっとかすちゃったみたいな、正々堂々感が足りないのです。
あるいは、はでに声を荒げたり、泣いたりするジェスチャーで誤摩化してしまう場合もあります。これはエネルギーとしては強いのですが、的がはずれていたりします。
「あるがままにそのまま感じる」というのは、本当にジンワリその感情が自分にしみこんで、その感情のバイブレーションとひとつになって存在すること。深く呼吸をしながら、その感情そのものになってみること。
私も何やらわけのわからない感情があらわれてくるとき、意図的にその感情をじっくりと感じる時間をとったりします。
でもそのとき、なかなか感情にピントがビシッとあわないように感じるときがあるのです。感じていて、涙も出てきたりするのですが、今いちフォーカスがあまいわ! ピンボケしてる、というように。
そんなときには、まるでその感情に手動でピントをあわせていくように、深く呼吸をしながらじっくりじっくりと感じていきます(そう、逃がさないぞ〜という感じで!)。
本当に感じていることにしっかりとフォーカスできたとき、身体がビリビリするように感じるときもあるし、思っていた以上にそこに隠されていた感情の巨大さにびっくりすることがあります。感じはじめたらどんどん大きくなって、それに焼き尽くされそうに感じたこともありました。あ〜こんな大きなものを抱えていたのかとびっくり!
でもしっかりとピントがあうと、それなりの手応えを感じるものです。「わあ〜!感じてる!感じてる!」って。やっていくうちに、それが楽しくなってきたりします(マゾですか?!笑)。
そのときに自分が本当に感じていることを、言葉にすりかえることなくそのまま感じて、そこにぴったりとピントがあったときには、びっくりするぐらいオオモノの感情に出会いびっくりすることがあります。
ほんのわずかな不安感ぐらいだったはずなのに、感じているうちに指の先までビリビリしてきたり、わけもわからず大泣きしてしまったこともあります。
じつは、ささいな感情の下にはとてつもないマグマのようなエネルギーをはらんだ感情のかたまりがあって、その感情のバクハツを怖れているがこそ、私たちは感情を感じることをさけようとしてしまうのかもしれません。感じそうになるやいなや、すぐに言葉や分析やラベリングに逃げてしまいます。
まさかそんな地下にうごめくマグマのように物騒なものを抱えているとは、誰も思ってもいません。だからびっくりします。そしてそれは、私にかぎったことではなく、みんな涼しい顔をしながらも、誰もが抱えている宇宙もふっとぶような強力な感情(怖れ)のかたまりがあるのです。
それをあるがままにちゃんと感じられたときには、かなりの達成感! なにかがゴソっととれた感があって、スッキリと軽くなります。少しまえまで感情を感じながらさめざめとしていたのがウソのように、いきなりピカーン!と青空な気分になります。
何かコトがあって感じるというよりも、「理由もなく、そこはかとなく不安」とか「なんだか落ちつかないわ」と感じたときには、感情にフォーカスしてみることをおすすめします。
アタマのなかですかさず、セリフと分析、ラベリングがはじまるまえに、感じてしまうことです。ほっておくと、「なんでこうなのよ?」「どうしてこうなったかな?」「じゃあ、どうしよう・・・」と探求に入ってしまいます。
あるいは、自分の外側のもの(お酒、ギャンブル、買い物、食べ物、恋人、仕事、・・・)で感情をごまかしたくなる誘惑にかられます。ごまかすまえに感じてしまいましょう。そうすれば、外側のものに依存、執着、耽溺しないですむようになります。
「感情」と言われると「え?? よくわかりません」という方は、「身体の感覚」と考えていただくとわかりやすいかもしれません。
心臓がドキドキする、胃のあたりが重たい、頭がしめつけられるよう、手や指や足がびりびりする、喉がしめつけられる・・・。この感覚こそが、感情のあらわれです。深く呼吸をしながら感じて、しっかりとピントがあったときには「ずぼっと根っこごと抜けた感じ!」「予想以上に根っこがおっきくてビックリ!」てな手応えを感じられることでしょう。
怒りも感情の一つだから「私はちゃんと感じているにちがいない」と思ってしまいがちです。しかし、先ほども書いたように怒りは本当の感情を隠すためのダミーです。
自分のことをとても小さく、無価値に感じているとき、その反動として自分を守るためにこころが刀を抜いている状態が怒りなのです。だから怒りは、勇ましい感情などではなく、じつはおびえているとき、怖がっているときに起こります。
あとよくやってしまうのは、「感じています」といいながら、じつは思考に走ってあれこれ考えていて、考えでアタマが満杯なってしまうことです。「感じること」と「考えること」は同時にはできません。だから考えに走ってしまうと、もうそこで感じることはシャットアウトされ、アタマで架空のストーリーをでっちあげてしまい別の世界をつくりあげてしまいます。そして、そこで感じそこねた感情は、自分のなかでまたくすぶることになるのです。
こころには自浄作用があるので、感じそこねた感情がたまりすぎると、まるでゴミ出しをするようにさまざまなかたちで目に見える世界へとこころのゴミをばらまいて捨てることになります。それが様々な問題としてあらわれるのです。
目に見える世界には自分の身体も含まれるので、ゴミ捨ての結果として身体に不調があらわれる場合もあります。
だから正しく感じるということはとても重要なのです。
そして、そのときどきの感情をあるがままに受けとめて感じられるようになると、こころのゴミがどんどん片づけられるようになります。あるいは、片づける(感じる)のに慣れてくると、こころも「じゃあ、これも捨ててね」「次はこれね!」とどんどんいらないものをさし出してくれるようになります。そして、ゴミを片づけたあかつきには、ゆらぐことのないほんとうの自分の輝きがあらわれてきます。
世の中ではポジティブであること、前向きであること、明るいこと、ヘコまないことこそが「正しい感じ方」「よい生き方」だと思われています。
でも無理にポジティブなふりをすると、あとでいっきにネガティブのつけがまわってきます。なぜなら、無理にポジティブにするということは、もともと自分はネガティブだと無意識のうちに気がついていたからこそなのです。
また、無理にエネルギッシュ、力強い自分を装うことも同様です。そもそも装う必要があるということは、じつはほっておくと自分がどれだけペシャンコなのか、ふがいないのか、じつはわかっているからです。
そのネガティブさを無理に抑圧するために、かえってそれが自分の見ている世界に噴出することになります。
ネガティブであっても、後ろ向きであろうとも、それもただひとつの「感覚」です。抵抗も抑圧もせず、ただ感じてあげることで、それは本来の自分の意識のなかに統合されて、ただ自然な状態へと戻してあげることができます。
どんな感じにしろ、あるがまま感じるままに感じる・・・あまりにも自分とは違うもののフリをすることに慣れっこになってしまった私たちにとっては、そもそもの「あるがまま」に気づくことからはじめなければならないのかもしれません。
そのためには、なるべく言葉を使わないこと、反応しようとしないことです。
そして、あるがままを感じることの恩恵は、じつは思っている以上のものがあります。
あらゆることは「ただ感じられるままに感じる」だけなのに、わざわざ問題としてでっち仕立てあげることが少なくなります。
また、こころのなかの負荷が少なくなってくると、だんだんと意識が広がっていきます。そして、徐々に本来の自分への目覚めというプロセスがはじまります。小さく制限された個人という自分から、本来のもっと大きな境界のない自分へと変化が起こりはじめます。
本来の自分とは・・・感じるままを感じ、起こることをそのまま体験し、受けとめ、それでいてお気楽な感じ。そうなると、今までの自分がいかに無意識のうちにヤマアラシのように針をつきたてていたか、そして固く身体をこわばらせなが防衛することに必死だったかに気がつきます。
感じるままに感じることで、ものごとが自分のなかをとおりすぎてゆくことによって、静かにそれに「気づいている」自分に落ち着いていられるようになってくるようです。
「あるがままを感じられるようになること」こそ、じつはセラピーにおいて、そして本当の自分へと解放されるために、いちばん大切なことかな〜と感じます。
手術入院をしている○ちゃんのお見舞いに行ってきました。
聞いてみると、身体のことのみならず、仕事や人間関係、環境の変化など、現在ありとあらゆるところに問題が噴出していて「怖れ」にみまわれているとのこと。
そう・・・こういときってあります。これでもか!っていうぐらい、いろんな問題が束になってかかってくるときって。そして、「怖れ」という大波にのまれそうになります。
そんなときは、目のまえの問題をどのように解決するべきか・・・ と判断、分析、対処にアマタを忙しくして、考えることに疲れはててしまったりしますが・・・ これは、じつはエゴの思うツボ。
問題を解決しようと問題に集中してしまうことが、まんまと苦しみを深める方向に向かっているとは、そしてエゴのワナだとは、ついぞ気がつくことができません。
「怖れ」を感じてたら、誰でもその「怖れ」の原因(出来事)をどうにかしようとします。それこそが問題の解決法だと。
しかし、ほんとうは「起こっている出来事」が原因で「怖れ」を感じているわけではない、ということになかなか気がつけません。
「怖れ」ゆえに、これらをなんとかしなくては!と焚きつけられていますが、これはエゴがしかけている巧妙なワナなのです。
コワイからそれらをなんとかする・・・ 出来事をどうにかするのにやっきになる ・・・すると、肝心の「怖れ」という感情がないがしろにされてしまいます。「怖れ」そのものに対峙することがないのです。そのかわりに、怖れの原因のように見えている偽の原因(出来事)をいじくりまわすことになります。
本当は、「そこで起きている出来事」と「感情(怖れ)」は、連動しているものではない、つまり関係がない、ということを誰も教えてくれません。
こんなふうに考えてみてください。
ある映画を観ているときに感じる感情は、ひとりひとりまったく違います。同じ映画を観たからといって、全員が同じ気持ちになるわけではありません。
先日、三人で「ラ・ラ・ランド」を観に行ったという友人が、「他の二人が涙している理由がさっぱりわからなかった」と話してくれました。
同じ映画を観たからといって、全員が同じところで同じ感情を感じるわけではありません。そこに映しだされていることに、自分の過去の感情が反応しただけなのです。
だから、何かを見て涙するときには、じつは自分のなかにある感情をそこに重ねあわせて涙しています。映画によってそのように感じているのではなく、映画はたんにその秘められた感情を刺激し、引っぱり出す何かであっただけなのです。
それと同様に、目のまえで起きている出来事も、じつは自分のなかで過去に抑圧した「感情を刺激する何か」なわけです。
だから、同じことが起こっても、笑ってすませる人もいれば、立ち直れないほど傷つく人もいるわけです。
エゴは、その目のまえの出来事こそが原因で「怖れ」を感じるんだ!と言いはります。そして、それこそを解決するためにあれこれ奔走することに向かわせます。
そうすると、「怖れ」はそのまま温存されて、またすぐに顔を出してくるのですが、そのときにはまた目のまえにある別なことを「怖れ」の原因だと思いこませ、今度はそれをどうにかしようと一生懸命になります。
こんなふうにして、「怖れ」の感覚はずっと大切にされることで、同時に問題もつくられつづけます。
このからくりがわかってから、わたしは「怖れ」を感じるたびに「逃がすものか!」とばかりに正面から感じることにしました。
そのときわたしが感じていたのは「なんかモヤモヤ」という程度の感情だったのですが、時間があったので湯船につかりながらそのモヤモヤにじっとフォーカスして感じつづけていました。
感じるときには、なるべく身体の感覚に敏感になってみます。手がびりびりとか、胸がどきどきとか、アタマががんがんとか、胃がどくどくとか・・・。そのフォーカスがあいはじめるや、だんだん両手がびりびりしはじめて、それが両足に広がって、そのうち全身がばりんばりん。あなたは、電気ナマズですか?!(笑)というぐらいすごいエネルギーです。
ひゃ〜!なんかモヤモヤぐらいの小さな感情の下に、こんな大きなエネルギーの塊が隠されていたなんて ・・・。ほんとうにしびれすぎて湯船から一歩も動けないような状態で、でもせっかく出てきたこの感情を感じないなんてもったいないという思いで、おそらく20分以上びりびりとじっくり感じつづけていたと思います。
そのあとお風呂から出たあとも、ずっと手のひらと足がじんじんしている感じは残っていましたが、なんか視野がすっきりとしたような、たしかにかなり大きなお荷物がなくなった気がしました。
そのとき感じたのは、わたしに限らずみんな、どれほどの大きなエネルギーを抑圧して、ないふりをして生きているのだろうということ。
その抑圧して、出てこないようにして、感じないようにして生きることこそ、ものすごいエネルギーを浪費しています。自分のもつ膨大な自由なエネルギーを、隠すことと、押さえることにつぎこまれてしまいます。
そしてその感じられていない感情の抑圧こそが、怖れや罪悪感、自己嫌悪、無価値観となって、それぞれの生きづらさにつながるのだな〜と感じます。
その後おもしろいことに、今までだったら「怖れ」を感じそうな状況に出会っても、それらが「たんなる対処すべき出来事」となって、必要以上に自分をおびやかすことがなくなったということ。
なるほど〜。怖れがなくなると、ただするべきことをするだけなんだな〜、わざわざ問題にならなくなるのだな〜と気がつきました。
そして、「怖れ」がなければ、ものごとはそうであるようにただ出来事として流れていくのだとわかりました。
先日のブログでも「感じること」について書いたばかりですが(「今感じていることに気づいていますか?」)、そこで感じている「感情」をただ感情として感じてあげることで、出来事とというのはニュートラルなものになっていくようです。
エゴは「怖れ」をつかって、つい出来事のほうにフォーカスさせようとしますが、それをしてしまうと解決されないままの感情がほかの出来事とドッキングしてまた別の問題がつくりだされます。
エゴはじつは「怖れ」そのものなのです。だから、感じられてしまったら、消滅してしまうので困るのですね。
だから、「怖れ」に正面から向かっていくことは、エゴのワナに翻弄されることなく、エゴそのものを消滅させる方法なのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
以前、友人とイタリアを旅をしていたときのこと。
夜なにげでテレビをつけたら、「マジソン群の橋」という映画をやっていました。もちろんイタリア語で。
イタリア語はわからないので、このさい音声は消してしまって、私と友人がそれぞれメリル・ストリープとクリント・イーストウッドになってアフレコ遊びをしていました。好きなセリフをてきと〜にあてはめていたのです。
言うまでもありませんが ・・・ 見るかげもないほどまったく違うストーリーになっちゃいました(汗)。あの橋のうえのせつないシーンだって、情緒もへったくれもあったもんではありません。そっけないことこのうえない(笑)。
映像はまったくそのままなのに、ただセリフを変えただけでストーリーってまったく違ったものになっちゃいます。
ということは、そこで起こっているように見えること(映像)よりも、それにどういう意味をもたせるかっていうことこそが、そのドラマがどういうものであるかを決定しているのですね。
ところで、わたしたちが毎日見ているこの世界、この日常も、もしも最初から音声などついていない映像だけだとしたら・・・(つまり無声映画です)。
そして、それを見ているひとりひとりが、それに勝手にアフレコしたり、好きなように解釈あたえているとしたら・・・。
そりゃ、同じ映像を見ていたとしても、ひとりひとりが違うストーリーを体験することはまぬがれません。そして、違う体験をしているからには、まったく違う解釈や意見をもったり、また違う気持ちを感じるというわけです。そこで食い違いがうまれてあたりまえです。
あの音のない「マジソン群の橋」を、アフレコや解釈によってどんなドラマにも仕立てることができるように、私たちの日常もじつは「音のない」「決まった意味もない」映像にエゴが勝手にセリフや解釈をでっちあげて、独自のエゴストーリーを展開しているとしたら・・・? 耳にする音も、うかんでくる考えも、解釈も、すべてエゴがアフレコしているとしたら ・・・?
それはエゴのストーリなので、きまってジェットコースターのような急転直下に見まわれたり、最後はお決まりのエンディング「御愁傷さま」状態が待っているというわけです。
う〜・・・ん。だったら、自分でセリフをつけない解釈しないに限りますよね。
だからといって、エゴを黙らせることも、エゴの考えを阻止することもよい考えではありません。それをしようとすると、エゴと戦うことになって、存在するはずのないエゴがよりリアルになり、またすべてのエネルギーをエゴとの戦いに費やすことになってしまいます。
それよりも、エゴのセリフや考えを「エゴのもの」として静かに気づいていることのほうが大切です。ただ気づいている、ただ見ている、ただ耳を傾けている・・・。おもしろいもので、じっと観察していると、それはだんだん弱まってくるのです。静かになります。
「これはエゴが言っているんだな」「これはエゴがびびっている」と気がついて、じっと観察して、耳を傾けている・・・おもしろいもので、すぐにエゴくんはシン・・・としてきます。
ってことは、観察しているホンモノの自分とエゴは元気いっぱいにに共存はできないらしく、ホンモノ60%、エゴ40% というように、両方でいることはムリらいのです。となると、どうやら、「私」がエゴにまるまるのっとられているか、あるいは正気でエゴを観察しているか、ふたつに一つのようです。
気がつけるようになると、今までは知らぬまにエゴにのっとられ放題の瞬間ばかりだったのが、だんだんエゴの出番が少なくなってきます。出てきても、すぐにわかるようになります。
どうやら私たちの人生にしても、無声映画のごとくストーリーはストーリーとして独自に展開していくようです。だから、わたしたちにできるのは、アフレコしたり独自の解釈を加えてエゴのストーリー展開にしないことなのです。これこそが、なにも手だしをしないで「ゆだねる」「おまかせする」ということ。
エゴは意味を見つけることこそが賢いことだと思っているので、つねに「これはどういう意味?」「なにが起きている?」「〜にちがいない」と意味を見つけることに必死になります。でも、エゴの見つける意味は自分を幸せにはしてくれないようです。
ただ無声映画をみているときのように、ストーリーがストーリーを展開していくにまかせておくこと。
エゴが介入しない人生独自のストーリー展開には、独自の知性と完璧さがあらわれてくるようです。
だから、「人生が人生を生きるにまかせる」。つまり、わたしがいちいちちゃちゃを入れない。私はこの言葉が好きです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
昨日、ドハデに転んでしまいました(汗)。
階段をふみはずし、転んでから二回転ぐらいして、クツが片方どこかにふっとんでおりました(苦笑)。近くにいた女性二人が助けてくださって、とびさったクツを捜索してくださりことなきをえました。ハデに転んだわりには、負傷していなかったのが幸いです。
「ああ、やっぱりやっちゃいましたか・・・」というのが正直な感想。じつは、この2〜3日まえから予感がしていたのです。なにか「イタタ」なことが起こりそうな・・・。
なぜか・・・ というと、あることに腹をたててイライラしていたから。イライラした日がつづくと、転ぶというジンクスがあったのです。
そんなにしょっちゅう転んでいるわけではありませんが、過去のデータから、転んだときにはきまってなにかに腹がたっていたのに気がついていました。
腹がたっている = 攻撃的な気持ちになっている → 攻撃的になると、無意識のうちに反撃をおそれることになる → 反撃されるまえに「イタタ」ということをみずから起こして、自分が被害者であるフリをする → そうすれば「もう痛いめにあったから、これで帳消しね!」と、反撃をのがれられると信じている ・・・というわけです。
私たちの無意識のこころには、こんな自己防衛のメカニズムが働いています。日頃、「イタタ」という経験が多い方は是非、ご自分のなかの攻撃心や怒りをチェックすることをオススメいたします。じつは、自作自演なのです。自分のなかで抑圧されていて気づいていない赦せない気持ちが、じつは赤々と燃えさかっているかもしれません。
ここ数日、自分が腹をたてていることを知っていたので、それが引き金となって自分を痛めつけることが起こりそうな ・・・そんな気持ちになっていたのでした。
だからといって、さっさと怒りを手放す気にならないのが、怒りという感情のしつこいところ。怒りはものごとに執着します。
最近観た映画、「光をくれた人」のなかにあったセリフで、「たった一回だけ赦せばいいんだ」というのがありました。それは、その後の人生を「赦せない」という気持ちで生きるぐらいなら、「たった一回だけ」赦すことが大切だと。
しかし、実際にはそう簡単にはいきません。赦せないのは結局、自分にとっての幸せを脅かされたと感じているから。その痛みがリアルだから。そして、赦すことで被害者をやめてしまったら、自分の痛みをないがしろにされるようでいやなのです。傷ついたその痛みに執着したいのです。
この物語のなかでは、かつて自分にとって最愛の男性だったはずの人が、ある出来事を機に「この男だけは絶対に赦せない」という憎悪と憤怒の対象となってしまいます。それは、自分にとってのかけがえのない幸せをおびやかされたと感じたから。
それだけ、「自分に危害が及ぶ」、つまり自分の幸せをおびやかされたと感じたときには、人を赦すことが難しくなります。
今回私が腹をたてていたのは、まったくもってシリアスなことではありません(苦笑)。でも、ハマってしまった・・・。それぐらいエゴは巧妙なのです。ウカウカすると、足をすくわれます。
何だったかというと・・・ 会うたびに周りの人への不平不満を口にしているA子さんがいて、本人いわく「これは私の投影(自分のなかのものを外に見ている)なんだけどね」と言ってはいるものの、半年以上、不満のほこ先をそこにかかわる人全員へと向けていて、ぜんぜん改善の余地がありません。
最初は「まあ、彼女の問題だわ」と思って冷静に見ていたのですが、ついにそのほこ先が私にも向けられてきて(ハイ!危害がおよぶ感覚ね)、そうしたら私のエゴも一気に目覚めて反応しはじめて凶暴性をおびてきたわけです。
そこで、「ねえ、いつも自分の投影だとかって言っているけど、結局それってすべての人に不平不満を言っている攻撃と同じことだよね」と。
心理学とかを勉強していると「これは私の投影なんですけど・・・」と前おきして、うまくオブラートにくるんで不平不満を正当化してしまうことがあります。そんな正当化を見つけたような気がして、ムカッときたのです(それに今までは人ごとだったけど、ついに自分にもほこ先が向いたし・・・。その内容がおそらく私にとってビンゴだったから、もっとムカッときたのでしょうね・笑)。
自分に危機がおよぶ感覚を感じると、私たちは一気に防衛という名の反撃にでます。それも結局は、「攻撃」となんら変わらないのです。私がムカッときたA子さんと、なんら変わりません。
ふだんは「ムカッ」とくることがあったら、そこにくっついているストーリーも状況もセリフも無視して、ただ感情だけを処理することに専念します。なぜなら、その「ムカッ」ときた感情は、じつはその目のまえのこととはまったく関係がなくて、じつは自分が抑圧していたものがこの出来事に刺激を受けて浮上してきただけだからです。
私たちは「この出来事」が原因で自分は腹をたてている、イヤな気分になっていると信じていますが、じつは違うのです。みんな誰でももれなく、すごい怒りを抑圧・貯蔵しています。もっていない人はいません。でも涼しい顔で、そこに焦点があたらないようにうまくかわしながら生活しているのです。まるで、巨大な爆弾をかかえながら生活しているようなもの。
ムカッとする感覚でそこにアクセスしようものなら、エゴはどんどん爆弾を投げ込んできます。そうすると、ときにはどうにも怒りがおさまらなくなって、ついには自分が何を何のために怒っているのかさえわからなくなったりします。
本当はムカッときたときこそ、自分のなかをお掃除するチャンスなのです。そうやって気がついたときにしか、お掃除はできないからです。
このちょっとした自分への危機感、攻撃された感覚が、隠しもっていた感情をまんまと刺激して、一気にイライラとなって浮上してきました。
エゴは被害者になって怒り狂いたいので、なるべくそれが怒りの本当の原因でないことがバレないように、さまざまなストーリーをすぐさまでっちあげます。
「まったくこの人、半年以上も次から次へと不平不満だらけだわね」「投影っていいながら、まったく処理できていないのはたんなる不平不満という攻撃じゃない」云々。じつはこのとき不平不満を言っているのはまさに自分自身なのですが、エゴはこの不平不満を言うことでがぜん偉くなってパワーアップしたように感じて、どんどんふくれあがっていくのです。
こうなると、自分を正すことができなくなります。もうやめられません。でも、ひそかに反撃を怖れます。
そしてついに ・・・落下の二回転。
でもそこで、完全に目がさめました(苦笑)。
いつもだったら感情を素早く処理するのに、そこで起きているストーリーに耽溺して、自分のエゴの凶暴性にのっとられて、感情を処理するのがすっかり遅れていた、いえ拒否していたのです。
そうしたら、このありさまです。みごとな落下の二回転。 ・・・そしてエゴは言っているのです。「今のすんごく痛かったよ。だから、あなたのこと目一杯攻撃したけど、これでおあいこね。反撃はなしだよ」・・・って。いえいえ、もう、被害者のふりをした攻撃ごっこはおしまいですよ!はい、ゴング!(カンカンカン!!)
私たちは「この目のまえで起きていることが原因でわたしは動揺している、怒っている」と信じこんでいます。そして、そのことに対して反撃しようとします。
私たちはどこまでも、自分は正しい、間違っているのはあなただ!と言いたいのですね。
それも、おびえている証拠でしかないのですが・・・。
でも、いつだって自分の感じている不快な感情は、自分だけのものであって、相手とはいっさい関係ないのですね。どんなことが起きていようとも、それは自分だけで向き合うべきものです。
昨日は家に帰るやいなや、すぐさまイライラ、怒り、正したい気持ちのすべての感情を処理いたしましたよ。このままほっといたら、次になにがおこるやら・・・汗。
なんかつきものがとれたようにすごくさっぱりしました
そして気がついたけど、ここ数日、眠りが浅かったのですが、とってもよく眠れました。じつは処理しなければならない「いにしえの感情の塊」が浮上してきていて爆発寸前で、安眠を妨げていたようです。
それらをほっておくと、今目のまえにあるものとすぐに結びつけて「このせいで気分が悪い!」と言いたがります。でも、違うのです、すべての不快な感情は今ではなく、いにしえのものです。
誰かにイラっときたら、すぐに自分の内側に向かえるようにいつも心したいと思います。もう青たん作りたくありませんものね・・・笑。自分を虐待するのはやめましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちは、よくよく「あるがまま」を受け入れるのが苦手なんだな〜と感じます。あるがままのパートナー(恋人、家族、友人・・・)、あるがままに起きてくる出来事・・・。
「あるがまま」ですべては完璧なのです というとき、それは私たち好みの「完璧さ」ではありません。ここを勘違いすると、いつまでたっても完璧さは見えてこないのです。
「完璧だ」というのは、あるがままには「それ以上」も「それ以下」もないからそれで完璧だ、それが宇宙の摂理だ ということで、私好みの私が夢見ている完璧さとは関係がないのです。
私たちが誰かにイライラするとき、失望するとき、文句を言いたくなるとき ・・・ まるで自分こそはまっとうなことをしていて、非の打ちどころがなく、それゆえ相手が間違っている、だからこんな気持ちになるのだと信じています。
そうです!いつだって、悪いのは相手なのです。他にはいません。
私たちの思考は、必死になって自己防衛や自己正当化を試みます。
じつはそのとき自分がしているのは、「あなたは私の思ったとおりの人でいるべきだ」「そうでないあなたは、どこかがおかしい」と主張しているにすぎません。
恋愛やパートナーとの関係についてのセッションをするとき、きまって問題の原因は「相手が間違ったことをしていて、だから私は不幸なんです」ということ。
でも、本当に相手は間違ったことをしているのでしょうか? それとも、たった今その人はそういう人であり、「あるがままの自分」として生きているだけなのでしょうか?
答えは後者、人はいつだってそのときの「あるがまま」で生きているだけ なのです。
問題は、それを見ている自分が「お気にめすか」「めさないか」という問題。
その人は、「その人」に他ならないのです。たとえ、その状態を私が気に入ろうが気に入るまいが。
つまり、私たちは出会う人たちに対して「私の理想の恋人(パートナー、友人、母、父、上司、部下、こども ・・・)でありなさい」と無言のうちに強要し、そうなるように全力で圧力をかけはじめます。言葉どおりプレッシャーをかける、あるいはひきこもる、言葉で指示する、態度で示す・・・。
そう思うと、私たちは目のまえのことを自分好みに変えることに、自分のエネルギーのすべてを全力で注いでいるようです。
とくにその関係に「恋愛」というレッテルがはられているだけで、この症状がひどくなります。
なぜなら、みんなテレビドラマや小説、映画に感化されて、「恋愛」とはこういうものだよね、こうしてもらわなくっちゃ愛している証拠にならないよね、恋愛関係ってこういうことが起こるものだよね、という様々なルールがありすぎるから。
恋愛だって、結局はひとつの人間関係。そこで大切なのは、自分の理想の恋人像を相手におしつけないこと。日々出会う、自分にとってさぼど重要でない人をあえて「変えよう」としないのと同様に、その相手をそのままにしておいてあげること。
もし、文句があるのだったら、おそらく自分のなかに「理想の恋人とは〜である」という、実際の相手とは無縁のたくさんのルールがあるのだと思います。
でも、目のまえの相手は私のルールとは関係ないところで生きているのす。そのルールの存在すら知りません。知る必要はありません。
人だけではなくって、日々目のまえに起きてくる出来事もそう。
イライラしているときには、「これはこう進むはず」という自分なりのストーリーがあるのです。
でも残念ながら、人生はそんな意図とは関係なく、勝手に紡がれてゆくのです。
もしも、私たちが無意識に行っている人やものごとに対する「抵抗(変えようとすること)」をすべてやめたら、すべてはさぞスムーズに、なるようになることでしょう。そして、ありあまるパワーが文字どおりありあまっていることに気づくでしょう。そうしたら、人生はどのように見え、どのように感じるのでしょうね?
自分が日々の生活のなかで「文句」が出ているところ(ほとんど無意識のうちの文句ですが)に気づいてみる、そしてものごとも人も、今あるものが「あるがまま」であると認めて、そのままであるように手放してあげる。
それが難しく感じるときには、「なぜ?」あるがままでいてはいけないのかを探求してみると、おもしろいことに気づくかもしれません。
自分の正しく節約されたパワーが、どんなふうに人生を紡いでくれるのか ・・・ 見守ってみるのもおもしろいかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
K子姫と半年ぶりのお茶タイム♡
第一声は「おつとめ、お疲れさまでした!!」
まるで、壁のむこうから帰還された姉さんを出迎えているようでもありますが(汗)。たしかに ・・・ K子姫は舞台で春先から拘束されていたので、ようやくジャバに出てこられたというわけです(笑)。
銀座のど真ん中、とっても細い路地のつきあたりにあるカフェへ。上野のフレンチ、タントマリーさんのスウィーツを出してくれるお店です。
二人していちごのティラミスミルフィーユ。ホワイトチョコがサクサクとした食感で美味しいのです。
お喋りに興じていたら、突然「二時間になりましたので・・・(お引きとりを)」とお店の方に声をかけられ我にかえりました。
店内には他にたった一組しかお客さんがいなくてガラ空きだったので、「なんで? 」と思ったけど ・・・ ここは素直に退散し、他のカフェを探しに行きました。
私たちの日常には「なんで?!」と自分目線では腑に落ちないことがたびたび起こるけれど・・・ 最近は素直に起こることを受けいれるようにしています。
なぜなら、すべては「よきこと」 ・・・ であるはずだから。
自分さえ邪魔をしなければ・・・。
でも、その「よきこと」の全貌を私たちはすべて知っているとは限りません。ほとんど、ピンポイントでしかものごとを把握できていないので、起きていることは意味不明となりがちなのです。そこだけを見ると、「間違っているぞ!」と思ってしまいがちです。
しかし、私たちはその全部知っていなければならないというわけでもないのです。「流れるように体験してゆく者」である私たちにとっては、すべてがつながってよきことであれば、それでいいのです。
たとえば昨日だと ・・・ お店の冷房がけっこう効いていて、あれ以上いたとしたらお互いノドを痛めてしまったかもしれません(二人ともノドは商売道具)。だから「もっと暖かい所に移動しなさい」というサインで、二時間が潮時だったのかもしれません。
あるいは、私たちはただ歩いているときでさえ、お互いふと視界に入るだけでも大きな影響を与えあっていたりします(ある人を見たときに、あることを思い出したり、ある感情が喚起されたり、何かを考えさせられたり ・・・と)。そんな意味もあったのかもしれません。
さらに、移動した先で私たちがおしゃべりに興じていたとき、すぐ隣のテーブルで静かにひとりコーヒーを飲んでいたオジサマがいらっしゃいましたが、もしかしたら話しの内容がつつぬけだったかもしれません。彼はなぜか、それを聞く必要があったのかも知れません(ほんのひとつの単語であったとしても・・・)。
まだまだ、他にも私たちには知れぬ理由があるのでしょう。
そして、そこで起きた小さな変化はバタフライエフェクトのように、その人のまわりの人に伝播して、さらに他の人に伝わったり、無限な広がりをみせます。
一人がほんの少し変わることの大きな変化は、セラピーでもいつも顕著なのです。お母さんが内緒でセラピーに来ていたとしても、それを知らないこどものあらゆる行動が自然と変化していく、というように。
とにかく、「すべてはそれでよい」と最初から喜んで受けいれていると、フラストレーションもないし、自然とよい方向へと向かっていきます。よい流れにのります。
それに ・・・ 私たちは他の「選択肢」があると思っているけれど、ほんとうはそのようなものはないのです。
今はこれが起こっているのだから、「これしかない」というのが本当のところです。そして、「それしかない」のであれば、それは必ずいちばんよいことなのですね。だから、それと無為にた闘わないことが大切なのです。
しかし、ものごとを自然に起こるままにさせているときでも、「どちらの目で見るのか」ということが「自分にとってそれがどんな体験になるか」の大切なカギとなります。
つまり、見方が自分の体験を決めます。
「怖れ・怒り・不満」で見れば、何だってそのように見えるし。
また、「信頼・完璧さ・愛」で見れば、いつだって目にうつるものははそのようなものばかりになるのです。
だから、起きていることに身体を固くして抵抗することよりも、いちばん大切なのは、起きていることを素直に受け入れて「安らぎと信頼の目」でいつも見ることができるようになることなのです。
K子姫と私は、移動先のカフェではお喋りがヒートアップして、さらに二時間楽しい時間を過ごすことができました♡ よい昼下がりでした。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
最近テレビをつけると、芸能人にしろ、政治家にしろ、大統領にしろ、怒りのタガがはずれまくって、怒り大放出のご様子。
いいかげん耳にやきついてしまった「ちがうだろーっ!!この○ゲー!(怒)」という女性議員の絶叫やら、うわ目づかいで怪談のような語り口で「聞いてくだ
さい・・・」と YouTube に投稿をつづけるタレントさんとか、プロレスごっこで CNN
をボコボコにしちゃう大統領まで(だ、だ、大統領ですよ〜・汗)・・・。
目にするたびに、「あ〜あ・・・またか。ウンザリ」となるわけです。
先日クライエントさんと話していたとき、「呆れはするけれど、じつはこころのなかで私もやってるかも・・・」と。
なるほど・・・ なんとも正直なご意見!
もし、それぞれのこころに拡声器がついていたら、世のなかそれはそれは賑やかなことでしょう。だって、誰ひとりこころのなかで他の人を責めたことがない人
はいないし、他の人に怒りをだいたことがない人はいないのですから。(ってことは、彼らはこころに拡声器がついちゃってて、外にダダ漏れなわけね?!)
ときには、怒りや非難があまりに無意識になっていて、自分ではまったく気づいていない場合もあります。あるいは、怒りや非難が感情というエネルギーのままで「言語化(セリフ化)」されないために、自分では怒っているとは思っていないこともあります。
しかし、ムカっと、イラっと、ぶちっときた時点で、すでにそれは十分に怒りなわけです。
怒りや非難はエネルギーなので、はじめからセリフがついてはいないのです。あの方々のように激しいセリフや行動がともなわなくても、ふつふつとネガティブな感情が湧いてきた段階で、まったく同じなのですね。
話題の方々は、それにセリフが与えられ行動がくっついて、アウトプットされ、電波にのって人目をひいちゃった、にすぎないというわけです。
さらに、さらに・・・
わたしたちの「こころ」はじつはすべてつながっています。なぜなら、「ひとつ」だからです。
わたしが抑圧してなきことにしてきた怒りの数々は、じつはあの方々がまとめて請け負ってくださっているのかもしれません(ありがたいことに・・・)。
火山は世界中あちこちにあって、休止中の火山もあれば、活動中の火山もあります。休止火山は今たんにお休みしているだけで、火山でなくなったわけではあり
ません。そして、どの火山も地球のエネルギーに突き動かされて爆発するわけです。でも、いつ爆発するかはじつは火山に選択肢はありません。
つまり、わたしたち一人一人が火山口であって、おおもとのマグマである「こころ」はたったひとつ。そこにある怒りがどこで爆発し噴出しようとも、火山口が
悪いというよりはマグマである「こころ」のせいなのです。だから、「あ〜あ、あの火山、節操もなく爆発しちゃって。恥ずかしいね〜」とはならないのです
ね。もとは、みんな同じだからね。
わたしたち全員のなかには、残念ながらもれなく同じ怒りがあります。凶暴性があります。破壊的なものがあります。そうでなかったら、わたしたちはとっくにここ、この世界に怖れながら存在しているはずがないのです。
その怒りや凶暴性は、ひとつのこころのなかにあって、ひとつひとつの「個」のものではありません。それが個人という噴火口を使って、噴出してくるわけです。
個人という噴火口を使うことで、その怒りの大もとが消滅しないようにうまく守られているのです。個人というトリックによって、「お互いを非難する」というワナにはまり、おおもとの怒りは解消されることをまぬがれるからです。
つまり、その大もとの怒りはうまくカモフラージュされているわけです。個人というカモフラージュのうえ、さらに抑圧という力によって、潜在意識という闇の奥ふかくへとしまわれています。そうやってエゴは生きのびます。
もしこころのなかで、ある人、ある出来事を非難してしまうと、わたしたちは「ひとつのこころ」を否定することになり、お互いをまるで見知らぬ存在にしてしまうため、お互いの分離感が深まってしまいます。それによて、互いの距離がうめられなくなります。
それが、わたしたちが根本的に感じている孤独感であり、この世にいて感じる怖れの原因です。結局、なみいる敵のなかに孤立無縁でサバイバルしている気分になるのです。怖くないわけがありません。
怒りから叫ぶ人もいれば、叫ばない人もいる ・・・ それもこの世界の二元性であり、バランスです。全員おとなしく善良になるわけにはいかないのです。必ず、両方が存在します。
そして誰かが抑圧してしまえば、他の誰かが激しく表現してくる。そうやって、「ひとつのこころ」はバランスを保ちます。
今回はどうやら、その「激しく出して、みんなに後ろ指をさされる」という役回りを自分はまぬがれていることをありがたく思うことが大切なのです(前世では、あるいは来生では、激しく切れる役だった、あるいはその役になるかもしれませぬ・・・汗)。
どんなことが起こっていたとしても、それが凶暴な出来事だったとしても、今回は自分の番ではなかったことを感謝しつつ、それを非難することよりも、そもそもの原因となっている「ひとつのこころ」のなかにためこまれた怒りや怖れを解消することに務めることが大切なのです。
そしてネガティブな感情は、それが上がってきて、それを実際に感じているときにしかお片づけするチャンスがありません。だから、誰かを見て何かイヤな気分になったら、お片づけのまたとないチャンス! 感謝です!(見せてもらえた! 感じさせてもらえた! ことに)
せっかく、この頃たくさんの方々が怒りを見せてくださっているので、それを非難することによって自分の怒りをさらにふやすようなことはせず、お掃除の機会にできたら言うことはありません。
来世(が、あるなら)、そしてそこで必ず誰かしらが怒りでシャウトするのかが当番制であるなら ・・・ ちゃんと自分の感情の責任をとっていたら、そのお当番制を免除してもらえるかもしれませぬ(笑)。
いえいえ、そこまでいかなくても、まずはシャウトしている人はたんにまわってきた配役なのだと理解しながら、今回シャウトする役でないことに感謝しつつ、さらに目にしている怒りを利用して自分の抑圧した感情をお掃除することに務めれば ・・・
自分のなかの抑圧したネガティブな感情がなくなればなくなるほど、自分の目にする世界は確実に穏やかになってゆきます。私たちの目にしている世界は、いつだってこころの反映で、自分のこころの「なか」にこそ存在するのですね!
イヤなものを見た!と思ったら、非難するのではななく、その感情をあるがままに受けとめて、自分のこころのお掃除に精をだしてしまいましょう!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
友人のAちゃんが予約してくれたホテルのダイニングでピアノとフルートの生演奏を聴きながらの優雅なディナー。
灯りがおとされたフロアーは、おしゃれをした人たちがさざめき、それぞれのテーブルにはキャンドルがゆらめく心地よい空間。
するとAちゃんが、「一生懸命仕事したから、いいよね!(贅沢しても)」と同意をもとめるようにつぶやくのです。「もちろん!」と答えたものの、そう答えたあとになんか違和感を感じてる私。
「あれ? Aちゃんはせっせと努力をしたすえでないと、楽しい思いをしてはいけないと思ってるの?? (つまり、無条件になにもなしで幸せになってはいけない?)」
私たちの多くはこどもの頃から、何かを一生懸命やったからこそ、欲しいものを手にする、あるいはご褒美をもらえる経験をしてきたと思うのです。たんに、一生懸命やったらほめられる、というのもそのひとつ。
さんざん読み聞かされてきたアリとキリギリスの話でも、ハッピーに楽しく気ままにすごしてきたキリギリスは、その見返りとして困った状況に直面し、そのうえ助けがやってこないのです。結局、身体にムチをうって、汗水ながして働きつづけたアリに軍配があがるわけです。
楽しみなどに目をくれず、ひたすら一生懸命、汗水ながして頑張らないなら、何も手にしてはいけない、というわけ。
すると、自然体の「あるがまま」では、とうてい「よいもの」「幸せ」を手にしてはいけないことになってしまうのです。無条件には何もやってこないということ。
「楽しくラクして暮らしたヤツにはつけがまわってくる」というおどし以外のなにものでもありません。
そうなのよね〜!昔話や童話、あるいはカツカツに努力をする「巨人の星」や「あしたのジョー」が、どれほどクライエントさんの辛い信念を構築することになっていることか。
大人になってもその信念にもとづいて生きているので、つらい習慣・体験へと導かれ、くり返しているのです! わたしはこれからのこどもたちのために、イソップやら、これらのマンガをすべて書きかえたい!(笑)(笑)
私たちは「私たちであるがゆえに」、ただそれだけの理由で、もう十分によいものを受けとる、幸せになる権利と価値があるはず。
頑張ってこそ、努力してこそ「受けとれる」というのであれば、私たちはそのままで、あるがままで、素敵な体験や幸せな体験を受けとってはいけないということになります。
もし素敵な体験をしてしまったなら、罪悪感を感じることになり、そのあとに意識的にあるいは無意識的に、その幸せな体験のうめあわせとしてつらい体験をしなければならないと感じてしまいます。
その昔、夏の3〜4週間をバリ島で過ごしていたことがありました。お勉強に来ていたのですがそれにもかかわらず、朝から海やプールで泳いだり、船で沖に出て魚を釣って料理してもらったり、日の出を拝むために夜中から山に登ったり、川でラフティングをしたり、パラセーリングをしたり、民族衣装でヒンズー教の寺院をお詣りしたり、小さな島にわたって過ごしたり、ただただビーチで昼寝をしたり ・・・こんなパラダイスな日々にもかかわらず、楽しければ楽しいほど、毎日遊びほうければほうけるほど、強い罪悪感を感じる人がけっこう多かったということ。
こんなに素敵な日々なのに、手放しで楽しんでいないのです。もったいない!
楽しんじゃいけなくって、楽しんだ分だけ苦労するのだったら、いったいいつ、どこで、幸せになれるというのでしょう!?
それにしても、「楽しんじゃいけない自分」って、いったいどんな存在であると “自分で自分を” 思っているのでしょう?
ちなみに、神さまが「楽しむことをよしとしていない」わけではありません。あくまでも「本人自身が自分で自分に対して」、楽しむことはよくないと信じて、おびえているのです。
「私は楽しんではいけない」・・・・ 結局、自分に対するそのような決めつけ、信念が、せっかく楽しいことを経験したのに、罪悪感があとから追いかけてきて重荷をおわせて、心理的なバランスをとろうとしているわけです。楽しいだけじゃダメだよ! 楽しいがあったら、その分苦しむのだよ!と。
だから人は、ものごとが自分が思った以上にうまく運んでしまうと、どこか落ち着かなくなるし(こんなにうまくいったら、あとで何かとんでもないツケがまわってくるに違いない)とか、いつもよりもランクアップした素敵な体験をしていると、自分らしくないと居心地が悪く感じるのです(こんなにいい思いしてしまっていいのかしら? 私にはゼイタクすぎるんじゃない?) ・・・。
そんなときには、自分がいったい何を信じていてそんなに落ち着かないのか、居心地が悪いのか、探求してみましょう。
結局、よくよく調べてみると、自分で自分のことを幸せにしていないのがわかります。自分が幸せになれないのは、自分で自分の幸せにストップをかける「罪悪感の思い」なのです。
そして、それさえなければ、もっともっと多くの豊かな体験を両手を広げて、身体全体で受けとることができるようになるはずです。
自分を解放しないのも、自分を幸せにしないのも、自分を苦しめるのも ・・・ 結局は自分のなかにある思いであり、こころのなかにおしこめてちゃんと見ることをしていない思いなのです。
そんな隠された思いをチェックして、気づいて、手放して ・・・ こころがしっかりと受けとれる準備ができたなら、すでにある豊かさがもっともっと流れこんでくるでしょう。
PS ちょうど今日いらしたクライエントさん、「なかなか素直に 100% 楽しむことができないんです」とのことでした。
ちょいと一緒に探求してみました。
「昨年、スペインを旅しました。おいしいものを食べて、たくさんのきれいなものを見て、のんびりして、楽しくって、本当にいい体験でした。 ・・・でも旅の終わり頃には恐ろしくなってきました。こんなに楽しんでしまったから。怖いんです」
「私は怖い、なぜなら?」とくクライエントさんに問いかけてみると。
「あとで悪いことが起こりそう」「なぜなら、いい思いをしてしまったから」「わたしはそんなよいものを受けとる価値なんてないんです」「なぜなら、神さまに好かれていないから」「なぜ好かれていないかというと、愛されるような自分じゃないから」「つまり、ちっぽけで、ぱっとしなくって、恥ずかしい存在。いつも母が私を恥ずかしがっていたようです」「きっと神さまだって私をみていて、イライラするのです」「そんなわたしによいものがくるはずがないのです。なのに楽しんでしまった」「身のほど知らずは罰せられるのです」「己を知って、醜いなりの努力をしなければならないのです」・・・・
「ああ・・・私は自分を恥ずかしい、存在していてはいけない存在だと信じていました。存在させてもらっているのだから、努力するべきだ、奴隷のようであるべきだ、それでつじつまがあうように感じていたのです。だから、幸せが怖かったのです」と。
クライエントさんの許可をえて、やりとりを掲載させていただきました。こんなふうに間違った考えを明るみに出すと、それをもう終わりにすることができます。すべては光をあてることで、闇を一掃することができるのですね。
みなさまも、罪悪感、怖れなどを感じるときには、是非、探求してみてくださいね。
クライエントさんとのセッションで・・・
「この世のあらゆる問題というのは、自分に対する間違った認識、つまり自分は恥ずべき存在だ、罪深いという罪悪感から生まれているのです。そして、自ら自分を罰しておけば恐ろしい制裁をまぬがれることができると信じて、問題というかたちで常に自分に罰を与えます。それが問題となります」と、誰もが無意識のうちにこころに抱いている罪悪感について話していました。すると、
「さまざまな問題の原因はこころのなかにある罪悪感だ、ということはわかったのですが。でも、私に関しては罪悪感というものがないように感じます。今まで罪悪感というものを意識したことがないのです。だからピンときません」とクライエントさん。
たしかに、劣等感や自責の念、自己攻撃が強い方の場合、それは自分で自分を恥ずかしく感じていて、あきらかに自分を責めているということがわかります。しかし、このような自責の念がないからといって、罪悪感がないというわけではないのです。
たとえば ・・・
不平不満を言う ・・・ なぜ不平不満を言いたくなるのか? それは、不平不満を言わないと好きにされちゃうと思っているから。不平不満を言うことで、その状況や人間関係をコントロールして優位に立とうとするのです。優位に立たないと自分はダメだ、やられてしまう。すなわち、自分のことを責めている = だから、不平不満も罪悪感です。
怖れる ・・・ 怖れているとき、それは未来に何か悪いことがやってくると信じているときです。まだ何も起こっていないのに、なぜ自分に悪いことがふりかかるに違いないと信じたいのでしょうか?それは、自分には悪いことが起こって当然だと信じているから。悪いことが起こるべき人とは、それは悪い人であり、罰せられる人であるという信念 = 怖れるも罪悪感ということになります。
落ち込む ・・・気分がすぐれない。晴れ晴れしない。なんかひっかかっている。OKな感じがしない。なぜなら、自分のなかに自分に対する暗いイメージがあるから。なんか後ろめたい。よいことがやってくる!と手放しで喜べない。だって、私、それに値するような人じゃありませんからという信念 = 落ち込むのも罪悪感。
楽しめない ・・・ 楽しんじゃいけない、喜びを手にしてはいけない、幸せになってはいけない。楽しむと悪いことが起こるって、びくびくしている。なぜなら、そういう身分じゃないから。楽しむ価値のない人であるという信念 = はい、楽しめないのも罪悪感。
そして、不満を口にしたことがない人もいないし、怖れたことがない人もいないし、落ち込んだことがない人もこの世にいないので、世の中のみんな、全員がこっそりとこころのなかに「罪悪感」を抱えながら生きている、ということになります。
そして、その罪悪感があるから、バレないように人から遠ざかって孤独になろうとしたり、問題や病気をわざとつくることで弱者のふりをして身を守ろうとしたり(悪い人は罰せられるので)、あるいはそのように罰せられるまえに「やられる前にやってしまえ!」とばかりに常に攻撃的になって闘ったり ・・・。
でもそれをすればするほど、より事態は悪化します。自分とは「悪いやつである」という信念を強化して、より罪悪感が深まってしまうからです。
じゃあ、どうしましょ??
自分の行動が自分の思いを強化するのなら、「悪いやつ」でない振るまいをすればよいということになります。
不満を言わない、どんな事態も怖れない、落ち込まない、自分を責めない、攻撃的にならない、防衛的にならない、人から遠ざからない ・・・ つまり、こころをオープンにして自然体でいること。
起こるすべてを、自分はダメな悪いやつだからという「戦々恐々とした怖れの目線」でみるのではなく、このままで無条件に愛されている私という「すべてが完全な流れにあるという安心の目線」で見てみること。
なぜ安心していられるのか?
もともと私たちはそのまま、あるがままで宇宙に(神さまに、無限の存在に、源に)愛されているはずだから。そんな大いなる力に大切にされているのだから、自分で自分をちまちま守る必要はないのです。ほっておいても、ちゃんと完全に育まれて、導かれて、愛されている ・・・ ということを理解する、ということです。
私たちがネガティブな感情をもった、感じた、ということは、まさに罪悪感がありますよという証です。
気がついたら、否定することも、抑圧することも、無視することもなく ・・・ 「わたしのなかには、自分自身を攻撃するような間違った思いがあるのだわ」と気づいて、ただ自分自身の「高い意識(ハイヤーセルフ、スピリット、エンンジル、etc )」に渡して(委ねて)しまいましょう。
「私のこころが今だに信じている自分に対する罪悪感を、どうぞ私のこころから取り去ってください。なぜなら、私はそのような存在ではないからです」と。
そう、私たちがするのはこの渡していく作業だけです。
スルーすることなく、ちゃんと正面から気づいて、それに対してとくに反応することはなく、ただ「取り去ってくれるように」高い意識にお願いする。・・・ これだけでヨイのです♪
ネガティブな感情ばっかり感じて困っちゃう〜!!(汗)・・・ いえいえ、無意識になってしまっている「罪悪感」にバイバイするまたとないチャンスです。渡してしまいましょう!
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カフェの隣のテーブルで、男性が女性に熱っぽく語っています。
「○○さん、あなたの10年後、20年後の計画をうかがいましょか? それが描けなくて、いったい何ができるんでしょ?」「え、わからない? それじゃ、何も手にできないのも同然でっせ?」 ・・・ どうやら、コーチングの熱血コーチとクライエントさんのようです。
また別の日、FMを聞きながら仕事をしていたときのナビゲーターとゲストさんの会話。
「キャリアプランなんてしますか?」とナビゲーターさん。様々なことを形にしているゲストのアーティストさんは、「10年後、20年後のプランなんてまったく意味ないです。計画してもそうならないし。大切なのは今やっていることです」
あなたはどちらに賛成しますか? 緻密に計画する派? それとも行きあばりばったりで今に集中する派?
じつは私も、以前は緻密な計画こそ大切だと思っていたときがあったので、このコーチの言葉にむかしの自分を懐かしんだり。また、キャリアコンサルの勉強をしていたときにも、キャリアを築くために10年後、20年後のプランニングをして、そこから今の行動計画を導き出すということを習いました。
でも実際のところ ・・・ プランニングは意味がありません。
状況は、生きもののように一瞬一瞬変化し、気持ちもどんどん変わります。人生は、つねに形を変えながら流れてゆくのです。
プランニングをすると、過去の自分という型に今の新しい自分をおしこむことになります。「今」という流れに乗れなくなってしまうのです。
また、プランニングしてそれに執着すればするほど、そうならない挫折感と歯痒さを感じることになります。
ならば、どうするのがよいのでしょ?!
「たった今」、この瞬間に目のまえにあるものにしっかりとかかわる。それだけで十分。しっかりかかわっていると、その今というもののなかに、次への方向指示器があらわれるのです。つまり、進むべき道が自然とあらわれるのです。楽しさや喜びやつながりや、安らぎとともに。
けれど、どうしてもこっちの方向に行きたい、自分で自分の道を開拓して舗装するんだ! といいはると ・・・ 私有地につきあたったり、大きな岩に出くわしたり、開拓中に災難にみまわれたり ・・・困難が多くなったり、進めなくなることに。
その一方、今、ただ目のまえにあることに夢中で取り組むと、また目のまえに道があらわれて、それをそのまま進むと、また次の道があらわれて ・・・あら? 気がついたらこんなことに ・・・ というなりゆきになるのです。つまり、自力でななく自然の流れにのるということ。
「そうはいっても、今までプランニングすることで、それがちゃんと叶ってきたんです」という場合もあります。それには、二つのパターンが考えられるのです。
「プランニング」が本来の自分である源の思いとチューニングしていたから。つまり。自然と本来すすむべき道を歩んでいたというわけ。
もうひとつのパターンは、エゴちゃんのワナにはまってホンロウされている場合。エゴは、持ち上げては思いっきり突きおとすのが大好き。
つまり、エゴはたっぷりとエサをあたえておいて(どんどん自分が計画したことが叶うと思わせて)、ノリノリで進んでいかせて、その先に大っきな穴を掘って待ちかまえているのです。つまり、ニンジンをぶらさげて一気に走らせて、ニンジンに食らいついた! と思った瞬間、ガケから真っさかさま。
この「持ちあげては、一気に落とす」という繰りかえしのワンパターンにいつ気づけるか、あるいは一生やってもまだ懲りない場合もあります。「次こそきっとうまくいくはず」「あそこがダメだったからその次にはきっと 」・・・・。その思いで、私たちは何度もこの世に戻ってこられるのです。
自分で「大きな夢を思い描いて、叶える人生」というのは、とてもアグレッシブで、エゴの自尊心をわくわくさせるし、成功している人生のお手本のようにも見えます。けれど、以上のような理由でおススメいたしません(笑)。
目のまえに「与えてくださるものを受けとります」という、ちょっとヨワヨワにみえる態度こそ、じつはいちばんうまくいくし、安らかな幸せへの道。なぜなら、エゴちゃんと結託しているのではなく、「すでに自分の権利として与えられている本来の幸せを受けとります」といっているからなのです。
今に取り組むことで、そこで扉がひとつひとつ開きます。そして、扉がひとつ開くごとに、自分では予想もできないような方向へ導かれてゆきます(エゴちゃんと仲良くしているときには、いつも予想通りのことしか起こりません。予想外は不幸の前兆だけ!)。
ただ、目のまえのことを受けとってゆくと、自分にとってはダメージだと思えていたことが、「これがあってこそ!」というターニングポイントに変化したりします。けれど、絶対このやり方でこっちの道に進みたい!と固執していると、突如それは行き止まりになってしまったりします。
小さいときから誰もが言われてきた「自分で考えなさい」「頭つかいなさい」という教えから、ついつい本当は頼りにならない自分に必死で頼ろうとして、あれこれ緻密に計画したり、「ああならないように、こうしよう」と防御をはりめぐらします。
しかし、それこそがワンパターンにはまりこむワナ。
「自分で計画しないなんてコワイ!」と思っても、とりあえず「今やっていること、今できること、今目のまえにあることに集中してみる」、手放してみる。アタマで考えずに、今の自分のハート(楽しさ、喜び、安らぎ)に導いてもらいましょう。これが、今までのパターンから抜け出すには大切なことなのですね♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
ほんとうに私たちのこころというのは、自由で、柔軟で、パワフル・・・。
ある意味じゃ、躾られていないお子ちゃまのようでもあります。野放しにしていると、知らないうちに自分のこころのパワーで自分の首をグイグイしめあげることになってしまうことも ・・・ご用心!
といっても ・・・ ほとんどの方がすでに手遅れで(汗)、気づかぬうちに何らかのこころの呪縛につながれてしまっています(もし、完全に呪縛がとけていたら、とっくにここになぞいないことでしょう)。
呪縛にかかっていることにさえ気づいていないのだから、本当は不自由なのにそれを問題だとさえ感じていないかもしれません。だから、みんな誰もが自分のこころのパワーのギセイ者だ、といえるのです。
どんなふうに ・・・ ?
たとえば、小学校にあがる頃、なかなか自分の名前が書けるようにならなかったとします。
何度も教えながら、ついに業を煮やしたお母さんはイライラがきわまって言うのです。「こんなことも覚えられないなんて、ほんっとあなたってバカだわ」。
すると、「お母さんがそう言うんだから(こどもにとって親は神さまのような存在なので)、そうに違いない」と、自らに『ぼくはどうしようもないバカです。そのうえ愛されていません』というレッテルをはって、以降、10歳になっても、30歳になっても、80歳になっても、そのレッテルどおりに生きようとします。
そのレッテルが間違いであること(つまり、発達には個人差があり、それは自分の価値とは関係ない、つまりバカではないこと)に気づいて、意識的に正されない限りは、ずっと『ぼくはどうしようもないバカ』を自らやり続け、自分自身をそのように扱い、人にもそのように扱わせます。つまり、「バカなひと」のポジションに自らおさまり続けるのです。
他にもさまざまなバーションがあって、それらはそんなに大ごととは思えないことですが、それがこっそり呪縛となってしまっています。
例えば外で遊んで、汗だく真っ黒で帰宅したときのお母さんのひとこと。「あなた、ホントくさいわよ」と言われて、自分という存在は「くさいのだ」と決めてしまい、以後人のそばに行くことを避け、ずっと自分を孤独にしていた人もいました。
でも、その原因である「自分はくさい」は忘れさられ、なぜ自分は人に近づけないのか自分でもわからないのです。
あるいは、お手伝いをしなかったことから、「まったく気のきかない子だね」と言われてしまったことで、逆に過敏なまでにまわりに気をつかいまくる子になっちゃったり。
幼稚園から帰ってきて、いろんなことを報告したくておしゃべりしていたら、お母さんのムシのいどころが悪くって、「まったく、つまんないことばっかりしゃべってるんじゃないわよ」と言われて、それからは妙にコメディアンチックに脚色したおもしろい話しを必死でするようになったり(この場合、必要以上に場を盛りあげる人になったりします)。
また、女の子によく見られるのは、生まれたときのお父さんのひとことによるもの。「また女か ・・・(チッ)」(男の子がほしかったのですね)。
赤ちゃんだからわからないと思っていても、この言葉は意外にもちゃんと理解されていて(というよりも、態度でわかっちゃうんですよね)、人生最初の拒絶としてこころに刻印されます。するとその子は、女の子であることに無価値感を感じて、男の子のようにふるまったり、自己卑下したりし続けます。
このようなひとことは、親も人間なので、そんなに悪気もなくふと出てしまったか、あるいはムシのいどころが悪かったか、あるいはこころが傷ついていたというだけなのですが、それを受けとったこどもはその愛のないひとことで、自分の価値に傷をつけ、一生自分に呪縛をかけてしまうのです。
呪縛はそのうちとけるのでしょうか・・・?
残念ながら、そうはいきません。
こころにはそれだけのパワーがあり、その呪いはちょっとやそっとじゃとけないのです。とけないように、ちゃんとこころの深いところにしまわれて、忘れさられます。
だから、そもそも自分がなぜ「自分をバカだと信じているのか」「自分は汚いと決めているのか」「自分の気持ちをギセイにして気づかうのか」「必要以上に明るくふるまおうとするのか」「自分を嫌悪するのか」 ・・・ その理由がまったくわからなくなります。ただ、そういうものだと思ってしまいます。
それが本当の自分ではないのだ、ということにすら気づけません。でも、どこか苦しさを感じていることでしょう。
言えることは、バカだと思っている人は絶対バカではないし、汚いと決めている人は汚くもないし、気づかいをしすぎる人はリラックスして動けるはずだし、ヘンに明るいひとももっと自然体でいられるはずだし、自分を嫌悪する人は自分に対して好きも嫌いもなくそのままでいられるはずなのです。
こんなふうに、「自分で自分に呪いをかける」ということをとてもわかりやすく描写していたアニメがありました。
「心が叫びたがっているんだ。」 ・・・ 最近は実写も話題になっているようですが、私はアニメで見ました。
この話のなかには、お母さんの自分に対する態度と言葉から、自分に呪いをかけてしまった女の子が出てきます。口がきけなくなってしまうのです。
しかし、呪いをかけてしまったことにはまったく気づかず、この呪縛がかかった状態が自分なのだと思って日々をおくります。つまり、本当の自分を閉じ込めた状態。
これを見たとき、ああ、大なり小なり、私たちみんな、もれなくやっているよね〜 ・・・、人ごとではないと感じました。
この女の子は「自分で自分に呪いをかけていた」と「気づく」ことによって、はじめてその呪いをとくことができるのです。本来の自分へと戻ることができるのです。
これは私たちも同じ。すべての呪縛は、それがどのようなことなのか、「自分に対して何をしたのか」を認識して、はじめてそれを手放すことができるのです。
だから、どんな痛みや苦しみ、不具合、問題にしても、それを無視しつづけて、顔をそむけたままでは、決してそれを解決することができません。
けれど、ああ、こんなことをこころに決めてしまっていた、それを信じてしまっていたからそうなっていたんだ。そして、その決めていたことはもう必要ないと、ちゃんと認識してあげることによって、はじめてそれを解除して、呪いから自由になることができるのです。
すべての問題は、自分以外のところ、自分の外側で起こっていることはひとつとしてありません。
いったい「自分で自分に何をしてしまったのか?」 ・・・ それをしっかりと認めるまでは、やめることができないのです。たとえ、それが母や父や、他の誰かが原因のように見えたとしても、結局は自分のこころがあることを決断して、その状況で自分を生きやすくするために自分に呪いをかけるのです。
すべての問題は、しっかりとひも解いて、「ああ、こういうことが起こっていたんだ」と認識することが欠かせません。うやむやにしてもそのうち解決は望めません。だから、ちゃんとそれを手のひらにのせて、しっかりと見てあげること。
ちゃんと認識してあげる、直視したときに、その呪縛をはじめてとくことができます。本当の自分へと、選びなおすことができるのです。
だから、何か人生で不具合が起きているときには、ちょっと落ち着いて、何が起こっているのか、しっかりと向かい合って見てあげること。
呪縛を解いてくれる王子さまを待ち続けるのではなく、自分が自分の王子さまになるべく、自分の呪いを解いてあげましょう!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「死ねば? おまえなんか、生きてる価値ないだろ?」 ・・・ 耳タコなぐらい聞きましたよね。あの議員さんの録音された暴言。そして一転、今度は「こんなことになって、(私は)死んでしまいたい」と。
そうね・・・ 無意識のうちに自分自身を憎んでいて、「自らを殺してしまいたい」と思っている人のみが、実際、人に対して「死ねば?(死んでしまえ)」と言ってしまうものです。たとえそれが人に向けられたとしても、言葉はいつも自分に対して発せられるものだから。
「殺してしまいたい」ほど価値がない自分だからこそ、死ぬほど頑張って、努力して、なんとか外から評価をえて、価値を見出そうとしたところ ・・・ みごとその計画が頓挫してしまったわけです。そうなれば、もちろん「死んでしまいたく」なるわけです。
そう ・・・不自然な努力というのは、きまって自分に対する価値の低さが動機となっています。そのむかし、妙に頑張り屋さんだった自分がいるので、わかるなあという感じ・・・(^^;; 。だから、なんとしても自己価値を取り戻すためには、あの方にとっては再出馬は必然なのでしょう。
おっと ・・・ 本日はそのようなことを書くつもりではありませんでした。 ・・・「死にたい」という言葉そのもののほうでした。
ひどく追いつめられているとき、あるいは苦しくって八方ふさがりなとき、私たちはふと「死にたい」という言葉を口にすることがあります。実行したいかには関係なく。
その場合、「死ぬ」 = 「楽になる」「リセットされる」「逃げられる」というイメージ。だから、「死にたい」 = もうラクにしてくれ〜!! ということ。
宗教的な教えや臨死体験の話しなどから、「死んだら」光のトンネルをとおってすばらしいところへ行き、すべてから解放されるとか、お花畑や懐かしい人々との再会、癒し、喜び、至福、などなど。
つまり、「死ぬ」 = 天国、極楽浄土、涅槃、解放、光、自由、癒し、という限りなくハッピーな図式になっているわけです。
でも夢をこわすようですが、残念ながらそんなことはありません。あ、もちろんそのような素晴らしい体験を「そのとき」はするかもしれませんが、「そのとき」限定でそれだけではない、ということです。それに、死後の体験はこの世と同様、その人の信じていることをまるまる反映しているので、三途の川も、天使のお迎えも、お好みのままに♪ という感じです。
このような「死ぬこと」の美化ということこそ、エゴのたくらみではないかと感じてしまいます。
苦しみというものの正体を見きわめることなく、美化された「死」というものに逃げるこむことで、心はせっかくもたらされた癒しの機会を逸っしてしまうのです。
そして、終わることのない永遠に苦しいこの世というものへ、輪廻をくりかえすことになります(そんなに苦しくはありませんが ・・・ という方は、さまざまなモルヒネ剤 〜お酒、ギャンブル、娯楽、恋愛、忙しさ、仕事、問題、抑圧 ・・・ 〜 というもので上手にごまかしているだけです。本当に正直になったときには、この世はやってられないぐらいじつはヘンんなところなのです)。
しっかりと心に向きあう習慣がないと、心が病んでいることにさえ気づくことができません。そして、心は癒されないまま放置され、ある種逃避をくりかえし(ムダな輪廻をくりかえし)、痛みや、怖れ、罪悪感という負債はどんどんつみ重なるばかりとなります。
これこそ、「絶対に苦しみから卒業させないぞ!」というのがエゴのたくらみそのものです。だからこそ、エゴは「死」というものを美化して、「死んじゃえば、すべてチャラになるよ」「気がついたら、すごくステキなところにいて、解放されているのさ」と言うのです。
そして、それは断じて「NO! 」なのです。
死んじゃうことで、リセットされることはありません。
ちょっと場面が転換しただけです。本当はここ(この世)にいることも、あちら(あの世)にいることも、本質的には同じなのです。なぜなら、どちらも心のなかで起きていることだからです。
隣の部屋に移動して、「ああ、あのゴミ(問題)だらけの景色は見えなくなった。これで安心だ」と思うかもしれません。だけど、ゴミをためこむのは自分の心の性癖であり、またゴミは本当は外側にあるのではなく自分の心のなかにあるので、部屋を変えようが、隣の家に行こうが、ゴミは自分についてまわります。
本当のところ、目のまえに問題があらわれるのは、それにおびえて逃げるためではなくって(もちろん、エゴはそれを目的としていますが)、本当はそれを取り消してきれいにするためです。
すでに、ここまでのおびただしい輪廻のくりかえしによって、そうとうな怖れや罪悪感を自らの無意識の心にためこんでしまっています。
私たちの高い意識が望むのは、痛みとも怖れとも罪悪感ともまったく無縁で、源(神)とまったく同じ制限のない力をもつ本来の私たちの姿に戻したいということです。
そのためには、本来の「自分ではないもの」をことごとく手放してゆく必要があります。無意識のこころにためこんだものをきれいにする必要があるのです。
その手放す作業としては、何が本来の自分ではないかを見極める必要があり、そのためにはいちいち体験していることを認識して、取捨選択の決断をしなければなりません。そのためにこそ、今までずっと自分を無為におどかして無力にしてきた痛み、怖れ、罪悪感のすべてが浮かび上がってくるのです。
そう、「もう、こんなものいらん!」と決断するため、手放すために、です。見て、選択してもらいたいのです。
だから、エゴにそそのかされて、それから目をそむけて、とっとと逃げてはいけないのです。
逃げる ・・・ 死んじゃった場合、隣の部屋に移動することで、しばしゴミは見えないかもしれません。でも、そうでした!ゴミは心のなかにあるので、逃げた先でもやっぱりゴミに煩わされます。で、また部屋を移動しよう!とする ・・・ それが、そこから抜け出してここに再び生まれる、輪廻するという決断です。
で、輪廻しました。あらら〜、また同じレッスンがっ(汗)!! それに、さらにハードル高くなってません? ってことになります(なんせ、ぜんぜんお片づけしていないからね)。
本当の平安、安らぎ、幸せ、解放、というものは、部屋(この世、あの世、中間世)の移動、場面の転換とはなんら関係がないのです。それは、ただひたすら心の問題なのです。
本当の終わりは、部屋、場面が連なる、苦しみのドラマから完全に脱すること。
そのためには、感じている痛み、怖れ、罪悪感にあざむかれることなく、しっかりと見極めて、自分の高い意識にゆだねて、もっていってもらうことが必要なのですね。
そうなると、真の苦しみからの脱出のために、問題ウェルカム! 痛み、怖れ、罪悪感、どんどんいらっしゃいということになります。だって、見極めれば見極めるほど、同じところをグルグルすることなく、真の「あがり」に近づくからです。
それこそが、間違ったこころからの脱出、本当の天国、涅槃、解脱です。
だから、問題と闘うのはやめましょう! 逃げるのもやめましょう!それがいったいなんなのか、見てやりましょう!
思いのほか、ちっぽけなものかも?! (*⁰▿⁰*)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「以前、家族の一人とのあいだでいさかいがあり、暴力がからむ恐ろしい体験をしました(いさかいというより、一方的に理不尽な暴力をふるわれました)。以後、その家族とは疎遠になり安心したものの、わずかでも影がちらつくとおびえてしまう自分がいます。また同じような悪いことが起こるのではないかと、自分が怖れにのっとられ怯えているのを感じます。そして、未来に不安を感じるのです」と、クライエントのAさん。
ふつうのカウンセリングだと、その相手への対処法を検討したり、自分のなかで怖れを感じないようにするために話しあうかもしれません。また、セラピーだったら、その家族とのあいだに起こったことを再現して、大丈夫だと感じられるまでその場面を何度も再体験するかもしません。
問題の解決方法として、じつはどちらの場合も大きな間違いがあります。そうなると、これはいくら話しあったとしても、セッションをかさねたとしても、解決をみることはなくなってしまいます。そもそも間違っているから ・・・。
その家族との間で起こっている問題を解決しようとしておかしてしまう、カウンセリングやセラピーにおけるミスとは何でしょうか?
それは、問題を外にいる誰か(この場合は、家族のひとり)が原因であるとみなしてしまうことです。相手はひどいことをする加害者であることが前提となっていて、自分はある意味では可哀想な被害者というポジションにおさまることです。
相手が悪くて、私は困らされている ・・・と。
しかし、問題を解決するうえで唯一はずせないポイントとは、「どんなことでも自分の外にあることとして見ない」ということなのです。
どんなことが起こっていようが、どのような問題がそこにあろうが、たとえそれがどんなに外からやってきているように見えたとしても、「常に問題は外にはない」ということです。ゆえに、私たちは決して問題の被害者になることはないのです。だから、被害者になってはいけないのです。そうなってしまうと、そこで問題を解決することが決定的に困難になります。
夜寝ているときに見ている夢が自分のこころのなかで起きているように、そして白昼夢や空想も自分のこころのなかで起きているように、またここで見ている世界(反芻している過去、さっき起こった出来事)もまったく同じように自分のこころのなかで起きています。
夜の夢のなかで、どんなに家族からひどいことをされたとしても、そのために実際の相手から自分を防御したり、相手から逃れる方法を真剣に考えたり、いろいろな手だてを講じてもなんの意味もありません。
そして、今ここでも、自分の見ている世界(じつはこれは、自分のこころをのぞきこんでいるといってもいいのですが)でどんな不都合が起きたとしても、それはつねに今の瞬間のことではなく、過去のイメージを見ているにすぎません。たった今は、今、この瞬間だけです。そして、今、この瞬間だけが真実です。
その過去のイメージは、夢のイメージとまったく同じなのです。こころのなかで起きているだけです。だから、そのイメージに必死で抵抗する必要などない、ということなのです。 ・・・ こころが紡ぐただのイメージなのですから。
自分が思っている「過去に自分がされたこと」は、どこを探しても今には存在していません。自分のこころのなか、たった今の自分のこころのなか以外には。
そう、すべては自分のこころのなかなのです。
自分のこころのなかにそのイメージを保持し続ける、ずっと忘れないでそのイメージを反芻する、たったこの瞬間もそれを手放したくない(たとえ、ただのイメージだとしても)、今それを味わうことをしている ・・・ ということには、じつは自分自身に対するあるトリックがはたらいています。
ほんとうは、そのイメージなんかどうでもよくって、そこにくっついている、そこで湧き上がってくる「感情」こそが問題なのです。
この場合だと、「怖れ」です。 ・・・・ 攻撃されるかもしれない、傷つけられるかもしれない怖れ、とんでもないことが起こる「怖れ」。
そして、私たち誰もが、「怖れ」を抱いています。それは、何かにやっつけられちゃう怖れ。それは、自分のなかにあるこんな思いのあらわれです。
「私は悪いやつなのだ(自分で信じている)。だから、攻撃されてボコボコにされてあたりまえ。私が必死に逃げまわっている大いなる力(神・源)は、いつか私を見つけだして私を成敗するだろう(なんたって、私は悪いやつだから)。そうなるまえに、どうにかしなくては・・・。そうだ、悲惨な被害者になっているのを見れば、もう成敗をあきらめてくれるかもしれない。よし、だったら、やられるまえにやられちゃてる自分になっちゃえばいいのだ。手っ取り早く誰か加害者を仕立て上げなくては。誰でもいい、手頃な人を探そう。そこでのストーリーは、なるべく悲惨にしなくては。悲惨なふりをすれば赦されるだろう」
私たちはこの「攻撃される怖れ」を使って、妥当な被害者ストーリーをでっちあげ、自ら体験します。そうすることで、『本当の怖れの原因』(じつは、自分を悪いやつだと思っていたこと)を忘れ去ってしまいます。
そして、いつもたくみに目のまえにいる人を加害者に仕立てて、「あなたのせいで、私はこんなにひどい気持ちになっているし、あなたのせいで、私の人生はめちゃくちゃなの」と、ちゃっかりとかわいそうな被害者におさまります。
もっとも厄介なことは、そのように被害者ストーリーを自分が仕組んだはずなのに、いつのまにか自分ではもはや、何がどうなってそうなったのか、さっぱりわからなくなってしまっている・・・ ということです。
加害者に意識を集中して、被害者を全力でやっているうちに、それが本当のことだと自分でも信じてしまったというわけです。
こうなると、もはや、本当の問題の原因がわからなくなってしまいました。すると、まったく見当違いの方向で問題の見立てをして、見当違いのところで問題の解決策を探すことになります。
結局のところ、癒さなければならないのは「私は悪いやつです。だから苦しんであたりまえなのです」という「罪悪感」と「怖れ」そのものです。
この怖れによって、私たちは病気を怖れたり、自分の将来を怖れたり、失敗を怖れたり、別離を怖れたり、あらゆるバージョンの怖れへと姿を変えます。・・・が、このどれもが、先ほども書いたように自分が思っているような理由の怖れではない、ということなのです。
だから、自分のこころのなかに抑圧して見えないようにしている「罪悪感」と「怖れ」を認識できるようにして、解放することが重要なのです。
「罪悪感」と「怖れ」を認識できるようにするとは、日々の「問題」というかたちで現れているものをしっかりと見ることです。問題とは、見えなくなっていた「罪悪感」と「怖れ」が認識できるレベルで表現されていることに他なりません。
だから、まんまと被害者になってしまうことなく、長らく抑圧されていたすべての問題の原因となっている「罪悪感」と「怖れ」が目に見えるかたちになって姿をあらわしていることを歓迎して、自分で責任をとって、しっかりとお片づけの態勢に入ることが大切です。
そして、お片づけこそ、その「罪悪感」と「怖れ」に欺かれることなく、本来の自分とはまったく関係のないものとして、高い意識にもっていってもらうことなのです。
たとえば、この問題の場合だったら ・・・
「家族とのあいだで感じている怖れは、相手のせいで感じているものではありません。これは、たった今、私が握りしめてきた怖れを再び感じているにすぎません。しかし、これは私のものではありません、手放したいです。私のこころから、この間違った怖れを取り去って、もっていってください」
こんなふうに高い意識にお願いしてみてください。
自分でやらなくても大丈夫!ただ助けを求めてみましょう。小さなエゴでどうにかしようとする習慣こそが、災いをもたらしてきました。より問題を複雑にしてきました。
しなければならないことはシンプルです。感じている感情は抵抗なく受け入れて、あとは自分の本性である大いなる力にすべてを委ねてみましょう。まるごともって行ってもらいましょう!
こうして「怖れ」や「罪悪感」が片付けられてなくなってくると、ムダに自分を傷つけることが少なくなるし、逆に自分を楽しませ、もてなしてくれる世界が見えるようになってきます。世界が自分に対して優しくなるのです♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
クライエントのA子さんからのご質問。
「先生に教えて頂いた考え方、感情の扱い方のお陰で、大分穏やかな日々が送れています。しかし、感情的になっている相手を目の前にすると、つい感情的に応酬し、泥沼化してしまいます。どのように対処したらよいのでしょうか? 泣き喚いている子供や、体調が悪く攻撃的になっている夫に対してです」
感情を爆発させている、あるいは攻撃的になっている相手に対するマニュアル的な対処法はないのです。
なぜなら、そのときどきで相手が必要としていることは違うからです。
「静かにその場を離れるほうがいい」ときもあれば、「しっかりと目をあわせて相手の言いたいことを聞く」必要があるときもあるし、「ただ黙って、かたわらにいるだけ」でいいときもあります。
ただ、ひとつ言えることは、自分の痛みから反応するのか、あるいは自分の愛であるところから答えるのか ・・・ それは選択することができます。
この世界にあるもので、特定の意味をもっているものはありません。すべてのものはニュートラルです。
一見最初からくっついているように見えるその「意味」は、じつはすべて自分が与えているものです。つまり、「目にするすべては、自分のこころが反映したかたちで目に映る」というわけです。
今朝ニュースを見ていたら、東名高速で起きた追突事故を報じていました。どうやらその事故の発端は、サービスエリアでかけられた言葉、注意のひとことだったようです。おそらく、「そこに車を止めていると危ないから移動して」というようなことだったのでしょう。
客観的なその言葉の意味は、「移動が必要」、それだけです。でも、この男性にとってのこの言葉の意味は、「侮辱、攻撃」だったのでしょう。
どうやら、彼がももともと抑圧していた「痛み、自己嫌悪、価値がない感覚」にすぐに結びついてしまったようで、彼は猛スピードで追跡して、復讐を開始します。その結末がこの事故となったわけです。
この男性にとって「注意される」ということの意味は歪められ、「攻撃」「おとしめ」に結びつくような癒されていないこころの痛みがあったように見うけられます。
この出来事からもわかるように、私たちは「起こっていることに反応しているのではなく、自分のなかで信じていることに反応している」ことがわかります。
この場合は、「人からひどい扱いしか受けない自分」というストーリーがあり、強い口調で何か言われると、あ!また攻撃がきた!と「やられるまえにやっちゃえ」という反応が出てくるわけです。
自分のこころの痛みから見ると、「外で起きていることが、痛みの原因である」と信じてしまうのです。だから、つねに外側で起きていることを自分に対する攻撃ととらえ、すぐさま被害者になってしまい、反撃にでます。
でも本当のところは、「攻撃的な気持ちがなければ、外でどんなことが起こっていても自分にどのような影響も及ぼすことはない」ということなのです。
自分が癒されてくると、外側でどのようなことが起きていても、余計な意味をくっつけずにそのまま見られるようになります。
そして、その場でどのように行動するべきなのか ・・・ 自然にニュートラルな痛みのない気持ちで、愛のある行動をとることができます。
また、相手のひどい態度に対しても、「自分に対しての攻撃」とはとらなくなります。ただ、痛みを感じていて、ひどい気分なのね、と思うようになります。
なので、A子さんが外側のことで痛みを感じているのであれば、まず立ち止まること。
そして、「動揺している自分はエゴになっている。ズレているのだな」と気づき、自分の正気である高い意識とつながって、本当の自分(愛である自分)に戻してもらうようお願いし、本当のこと(これは攻撃ではないこと)が見られるように助けてもらいます。そして、必要な行動、対処を教えてもらいましょう。
相手の態度にホンロウされてしまうときには、相手に刺激されて自分の痛みがダダモレになっているというサインです。
自分のなかに癒されていない怒りがあるからこそ、相手のなかに怒りを見てしまいます。自分のなかに葛藤があるから、相手のなかにも葛藤を見てしまいます。
しかし、A子さんに限らず誰のなかにももれなく、怖れや罪の意識、無価値観などの痛みがかならず存在しています。しかし、それらはまだしっかりと封印されていて、一見なにも問題などなく、とても穏やかな幸せそうな人に見える場合もあります。
でも、いつかは(今回の人生ではないかもしれません)、それら向き合って、それらのお掃除をはじめなくてはならない日がやってきます。そうなると、それらがこころの表面に浮上してきて、それらの感情を感じることになります。
だから、A子さんは自分のこころが波立つたびに、「あ、私のなかの抑圧されていたものが顔をだしている!お片づけのチャンスだわ」とそれを自分の癒しに役立てることができます。永久に痛みからさよならするために(だから、ゆめゆめ、抵抗して押し戻しすことをしませんひょうに!)。
何度自分がズレてしまっても、そのたびごとに高い意識に正気に戻してもらうこと(はい、実際、根気がいります。一朝一夕にはいきません)。
そして「今、愛する気持ちで見るなら、何ができるのだろう?」と感じてみてください。
思うようにならずに泣き叫ぶお子さんには、「ただやさしく抱きしめてあげたい」と感じるかもしれないし、もう少し「丁寧にコミュニケーションしよう」と思うかもしれないし、「そのままやさしく見守るのがいい」とわかるかもしれません。
具合の悪さで攻撃的になっているだんなさまに対しても、ただ「私に何をしてほしい?」「どうしたら力になることができる?」と穏やかに尋ねることかもしれません。
いずれにしても、自分のこころが癒されることで、外はキケンなところではなくなります。
ハチャメチャになってしまっているときには、自力でどうにかしようと頑張ってしまうよりも、すぐに自分の強い味方である高い意識の手をとり、「ズレまくっています!本当の自分に戻してください」とお願いしてみましょう。
そして、そこから言葉を発する、行動を起こすときには、攻撃的なサイクルに足をとられることなく、愛ある方向に相手とともにすすむことができると思います。
A子さん、エゴは失敗したと思わせてさらにいやな気分にさせることをもくろんでいます。
なので、ひどい対応しちゃっても大丈夫、感情の処理をしつつ、高い意識におうかがいをたてながら、トライ&エラーです!
そして、さらに大切なことは、ご自分を責めないことです。そこで困ってしまっている、悲鳴をあげたいご自分の気持ちを、まずはやさしく聞いてあげてくださいね。♡♡♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私の「気づきの日記」は、パソコンに向かっておもむろに書きはじめる ・・・ というよりは、何気に書きとめておいたメモからはじまっていることが多いのです。
それはたいていカフェ ナプキン。カフェでおいしいコーヒーとスウィーツをいただいているときに、ふと・・・言葉がやってきて、手元にあるお店の紙ナプキンにその言葉をメモっておきます。あるときは、そのメモが何枚にも及ぶことも。そして、時間ができたときにゆっくり文章にする・・・という感じ。(どこぞの文豪もカフェの紙ナプキンの愛用者で、いつもアイデアをナプキンにメモしておりましたね。・・・てっきりナプキンだと思っていたけど、これってあんがいメモ用紙だったりして? 笑)
ということで、本日の「気づきの日記」もカフェ ナプキン発です(わたしのバッグのなかには、いつもくちゃくちゃ紙ナプキンが数枚たまっていて、そのままゴミ箱に直行ということも・笑)。
今回なにげにやってきた言葉は、私のお友だちへのメッセージでした。彼女は美を生みだすアーティストとして、日々、努力と研鑽を重ねられています。このメッセージは、みなさまのヒントにもなるかと思いアップしてみました。
Dear: 日々、研鑽をつんでいるアーティストのAさん
From: Your team of Angels
「うまくなろう」「素晴らしくなろう」という努力を手放してしまいましょう。
あなたのその努力のエネルギーを別の方向へ向けるてみるのです。それは、あなたの思いのすべてを手放して「自分という個人を静かにする」・・・ という逆の方向です。
あなたが「うまくなろう」「素晴らしくなろう」「もっと・・・」と思えば思うほど、じつはみずからの「ものたりなさ」や「みじめさ」「不足や不満足感」を強くしています。
この世界では、ひとつの色である「素晴らしい」を生みだすことで、同時にその背景となる色「みじめさ」が姿をあらわします。それが存在するためには、反対の色が必要なのです。たとえば、白い小さな点が認識されるためには、その背景はすべて黒で塗りつぶされる必要があります。それが二元性の世界というものです。片方を強く望むことで、あなたの望まない何かを同時に力強く生みだしているのです。
だから、「さらに」「もっと」と上へ向かおうとするればするほと、下に引っぱる強力な力が生みだされます。それは、あるがままの流れや美しさに対して、水をさすことになるのです。小川の澄んだ水が美いからといって、ではもっと美しくしてみよう!と自分の好きな色であるピンクの絵の具を流してしまうようなもの。あなたの意図する努力は、水をさす方向へと向かいます。
何もしなくても、そこには本来の美しさ、完璧さ、調和がすでに存在していて、何もしないことで姿をあらわします。自分個人のエゴの思いをくわえることによって、調和が乱され、問題ばかりが目につくようになるのです。あなたが何もしないことによってのみ、その完璧さを手にすることができます。
すべてがうまくいっているとき ・・・ そのことに気づくことすらありません。何にも「気づいていない」ときこそ、うまくいっている証拠であり、それでよいのです。
「私には親知らずがあったんだ〜」と気づくのは、親知らずがズキズキと痛みはじめたとき。それまでは、親知らずは自分にとって存在が消えていました。また、頭の存在を意識するのも、頭が重いとか、痛いとか、不具合が生じたときだけです。それまでは、肩から下の身体は目に入るけれど、頭はいつも消えています。肩から上は、いつも空間だったのです。
うまくいっているとき、調子がいいとき、その存在は「完全になくなっている」のです。つまり、自分は関知していなくって、自然の力に委ねられている、自分は手だししていなくて、別の力が完全に面倒をみてくれている ・・・ ということです。
自分が手だししていないときこそ、その力が秩序をもって働いて、完全な調和が存在し、うまくいっているのです。
そうですよね。私たちは身体のたった一個の目に見えないほど小さい細胞さえもコントロールできたためしはありません。なのに、どうしてさらに大きな自分の人生をどうにかできると思っちゃったのでしょうか?
ということは、「ああしたい、こうしたい」「もっと」「さらに」「ああだ、こうだ」 ・・・ と、個人の「自分」が人生にちゃちゃを入れなければ入れないほど、よいということです。親知らずの面倒も、頭の面倒も、すべての細胞の面倒もみて、呼吸させて、代謝させて、生きさせてくれている完璧な力が本領を発揮して、すべてを驚くべき秩序をもって調和のうちに保ってくれている、ということ。それを理解するだけでいいのです。
そして、それが「手放すこと」であり、「委ねること」であり、「受け入れること」であり、「自分が退く」ということです。
つまり、こういうことです。「お願いだから、個人のあなたは静かにしていてくださいね、なんなら、いなくなっちゃってもかまいませんよ。とにかく邪魔しないで下さいね。静かに見ていてくれさえすればいいんです。全部ちゃんと面倒みますから。それは、あなたが予想しているよりも素晴らしい出来なのです。けれど、あなたが指の一本、いえ、指先ででもふれようとすると、すでにそこに存在している完璧さにゆがみが生じてしまいます。だから、あなたはヨイ子になって退いて、そこでリラッックスして見ていてくださいね」
「完全に自分がいなくなったら困るでしょ」 って? ・・・ 大丈夫! いつだって、おなかがすいているときには、勝手にスナックに手がのびているし、トイレに行くに必要があるときには、しらぬまにトイレにいるのです。すべては、それと同じこと。必要な行動は、あなたがいなくっても勝手に生じて、なされて、終了しています。必要なことは、必要なときに、なんの努力もなくすべて教えられているのです。
そして、美や調和はすでにそこにあるものであり、わざわざ創りだすものではないので、必要なことはただあなたにどいてもらうことだけなのです。
これは「A子さんの冒険」というタイトルのついた映画やDVDをA子さんが鑑賞中だということ。だからもちろん、鑑賞しているA子さんは何もする必要はありません。ちゃちゃをいれる必要も、頑張ろうとする必要もなく、ただ見ていて、展開を楽しみ、冒険の結末をわくわくすること。心配しなくても大丈夫。いつもそこには調和があるのですから。夕べTVでやっていた「インディ ジョーンズ」だって、そうとうアブナく見えますが、いつだって絶対に大丈夫なのです・笑。
では、どうぞ冒険映画を楽しんでくださいね〜。文句やちゃちゃで水をささなければ、次々と楽しい冒険が展開して、そしてきっとそのエンディングは期待以上でお気に入りのはずです。
いや〜、映画(人生)って本当にいいもんですね〜!(水野さん風に)それでは次回まで、さよなら!さよなら!さよなら!(淀川さん風に) ( ・◡・ )♫
さてと・・・ 、さらなるメッセージ受信のために(笑)、おいしいコーヒーとスウィーツでももとめてお出かけしてきましょっか♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
演技の道で頑張っている ○○さんへ ・・・
そして、頑張ってもむくわれないように感じているあなたへ ・・・
早くから演じる道に入られて、ここまでの道のりはよいときもあったかと思えば苦しみのときもあり、本当に山と谷の連続でしたね。ふつうの世界では考えられないような、ダメだしや厳しい批判の数々を体験されたことでしょう。
それでも、たった今、○○さんがその道にいらっしゃるということこそ、何も間違ってはいないということなのです。なぜなら、その道にいらっしゃるからです。私たちはいっときも、間違ったところにいることはできないのです。
演じるたびに「それじゃダメだ」と言われつづけて、「もっと違う自分になりたい! なろう! 」と努力されてきたということですが ・・・ はたして、そのダメだしされつづけてきた自分とは、「ほんとうの自分」だったのでしょうか?
すでにほんとうの自分ではなかったからこそ、ダメだしをされたのではないでしょうか? もしそうであるなら、○○さんが傷ついていらっしゃるような自己否定をされたわけではないということになります。自分でも気づかないうちにニセモノになっていて、ただニセモノを見破られただけだったのです。
私たちは例外なくみんな、「ほんとうの自分」ととっくにサヨナラしています。
幼い頃の親との関係で、あるいは幼稚園などに通いはじめて社会化される頃、他の人との関係にさらされるなかで、摩擦や葛藤を体験します。個人として存在するうえで避けられないことなのです。
そのような体験から、全体を把握する目をもたないこどもは、「自分さえ変わればコトは丸くおさまる」とばかりに、容易に本来の自分を封印して、その家庭や環境で生きのびやすいニセモノの自分を表現しはじめます。つまり、愛と安全をえるために、やすやすと自分の魂を売って違うものになってしまうのです。
例えば母親が短気なため、あるがままの自分で存在していると攻撃されてしまうと感じたら、「長いものには巻かれろ!」方式で、聞き分けのよい従順なヨイ子を装うことで安全を確保します。しかし、本来のその子は奔放で独創的で生き生きと自由な、誰にもない自分独自の贈りものをもって生まれたというのに・・・。こどもは場の空気を読むことができないがために、どこででも自分の贈りものであるその個性を全開にしてしまい、それによって厳しく怒られたり、体罰されたりすることが起こってしまい、その子は二度とほんとうの自分を表現しないとこころに決めてしまうのです。・・・ が、そんなことを決めたことすら思いだされることはありません(セラピー以外では)。
だから、○○さんに必要なのは、監督や指導者の好みにあわせて自分を変えようとすることよりも、本来の自分、自分自身のハートとしっかりとつながって、自分がどんな贈りものをもって生まれてきているのかを思いだすことの方が大切なのです。
○○さんの住む演じる世界では、どうしても自分を「特別」にすること、「スペシャルに磨きあげること」が成功につながると思いこまれています。
しかしこの世界というものは、じつはひとつの全体として存在し機能しています。全体で調和がとれているのです。そのなかで、ひとり「特別」になろうとすることは、全体性の完全な流れから自分だけを切り離してしまうことであり、本来あるべき完全な状態とは別のものにしてしまうのです。つまり、調和と完全さが失われてしまいます。
この調和を保っている流れのなかで「わたしこそがスペシャルになります」といってしまうとき、「わたし」以外はすべてスペシャルではないのだ! と宣言したことになり、「わたし」以外を敵にまわしてしまいます。その結果、誰からも切り離されて孤軍奮闘するということになってしまうのです。
だから、「人より抜きん出よう」として人に戦いを挑むよりも、もとからそこにある「ほんとうの自分」に戻ることで、全体性のなかでの自分のオリジナリティを手にすることができます。すでにそこにある自分の宝ものを発見して、それを完璧な方法で「宇宙に役立ててもらう」ことができるのです。
今の○○さんのお話しをうかがっていると、「監督や指導者の眼鏡にかなう自分にならなければ・・・」「多くの人から望まれる自分にならなければ・・・」という理由から、あらゆることの判断基準が外側の「ひとの目」や「ひとの評価」におかれている気がします。しかしそうなってしまうと、74億人が望む74億とおりの自分バージョンが必要になります(スーパーカメレオンになってもそれは叶わないでしょう)。
そもそもなぜ人の目が気になるのか ・・・ 、それは○○さんも気づかれていたように「愛がほしい」からです。誰でも、「愛がほしい」のです。「愛がほしい(褒めてほしい、認めてほしい、尊敬してほしい、大切にしてほしい、必要としてほしい・・・)」からこそ、みんな必死で頑張ります。これが足りている人はめったにいません。だから、愛されることがすべての行動の動機につながっています。
そして、 ○○さんが今、演技の道でほんとうに手にしたいと思っているのは、じつはこの「愛」 =「注目されること」なのかもしれません。だから、この道で否定されることは、「愛される価値がない」という言葉に聞こえるのかもしれません。
しかしいくら頑張っても、「愛」は自分の外では見つけられないし、手にすることもできないのです。だから、みんな永遠に「愛」を求めて放浪することになります。外に求めれば求めるほど、それを手にするために自分を犠牲にすることになります。
犠牲とはガマンであり、「愛」をえるために犠牲をすると、「愛」どころではなく怒りや憎しみを感じるようになります。
「愛」を欲しがる、「愛」が足りていない、という感覚は、じつは思い違い・錯覚です。本当に足りていないのではなくって、自分のなかにある「愛」とのつながりが切れてしまっているのです。そのために、外に探しに行かなくては ・・・ と勘違いしてしまったのです。
なので、「愛」は外側のどこにも見つけることができない、ということを理解して、自分の内側に戻ってそれを発見したとき、見える世界が変わりはじめます。また体験する出来事も変わってくるのです。
なぜなら、いつだって私たちが体験するのは、自分が思ってるとおりのことだからです。内側の宝ものを発見することで、外側にもその同じ宝ものが映しだされるようになるのです。
つながりが切れていた「ほんとうの自分」と再びつながり直すこと、そして「愛が足りていないんだ」という思い違いを正してあげること ・・・ それが、自分本来の生きるべき道筋に自分をのせてあげるうえで大切なことなのかもしれませんね♡
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「私たちって、ホントなんでもかんでも握りしめちゃいますよね〜」。
クライエントのAさんと話しあっていたのは、すでに過ぎ去ったことに対して、私たちがいつまでも執拗に「あ〜だ、こ〜だ」とこころのなかでこだわりつづけることについて。それは、自分を責めていることもあれば、他人に不平不満を言いつづけていることもあります。
たまに、ブツブツとあるいは大声でしゃべりまくるオジサンに道ばたで出くわしたりしますが、もし私たちのこころに拡声器がついていたなら、まあ、同じような状態になることでしょう(汗)。
私たちがこころのなかでぶつぶつ言いつづけるそのパワーと執念といったら ・・・。外にもれ聞こえてこないだけ幸いです。
テレビをつけると、ワイドショーやら報道番組のほとんどが、すでに過ぎさった過去の出来事について、当事者でもないのに、何時間も何週間も「あ〜だこ〜だ」「誰が悪い」「こうするべきだった」と論じ続けています。
もう過ぎ去ってしまって、ここにはないことをいじくるのに、多大な労力を注いでいるようです。
時間というものは一瞬一瞬あたらしくやってくるというのに、私たちのこころはあたらしい時間のすべてを過去というペンキであっというまに塗りつぶしてしまい、過去と同じ時間にしてしまうようです。
まっさらな時という「贈りもの」は、おなじみの汚れたペンキでべとべとです(汗)。
幼いこどもがお母さんのエプロンのはしをぎゅっと握りしめることにはじまって、さらにお気に入りの毛布やぬいぐるみを握りしめ ・・・
だんだん大人になるにつれて握りしめることから卒業するのかと思いきや、たんに対象がすり変わるだけで、握りしめるということはあからさまに、あるいはこっそりとつづけられてゆきます。
親、パートナー、こどもを握りしめ(依存し)、さらにお金、ステータス、美しさ、習慣(お酒、ギャンブル、タバコ、過食、ショッッピング・・・)を握りしめ。また、ひきこもりやウツといったこころの状態も、つらい記憶も握りしめているもののひとつです。
このように、私たちは日々、人やモノ、感情、思い、出来事、行為、記憶を握りしめつづけます。
いくつかの握りしめ状態はそうとう強固に長時間つづいたため、握りしめていることさえまったく気づかなくなってしまうこともあります(「私は何も握りしめていませんよ!」と思われた方、そうなっている可能性も・・・)。
何かを全力で握りしめつづけると、手はその状態に固まってしまい、握りしめているという自覚さえなくなってしまうのですね。いわば、麻痺状態。そうなると、もはやどう手を開いていいのかわかりません。手放してください、と言われてもなんのことかわからなくなってしまうのです。
こんなにさまざまなものを握りしめつづける私たちは、千手観音のようにたくさんの手が必要になります。手が足りなくなれば、ついには着ぐるみのように頭からかぶってしまうかもしれません。
そうなると、もはや自分が誰であるのか、人はおろか自分にとってもまったく正体不明となります。
私たちが幸せを目指したいと思うなら ・・・ じつは「引き算」がかかせないのです。
握りしめているものも、かぶっちゃっているものも、自分でないものをひとつ残らず、ことごとく取り去ってゆく必要があります。取り去ってしまえば、何もしなくてもホンモノが出てきます。
ところが、「握りしめ」が起こるというのは、怖れを感じているからなのです。コワイからつかんでいたい、つかんで自分のものにしてしまいたい。つまり、自分に「つけ足したい」という「足し算」の衝動が、握りしめるという行動をひき起こしています(これじゃ、ホンモノの自分とは逆方向!)。
そんなコワさから、何でもかんでもとりあえず去らせない、行かせない。握りしめて、ためておけば、安心 ・・・ みたいな。(^^;;
残念ながら「ほんとうの自分」というものは、何かをつけ足してせっせと創りあげてゆくものではなく、はじめっからそこに輝いているものです。今も無傷で。なにひとつ不純物があってはいけないのです。
ほんとうの自分を知りたかったら、何ひとつとして握らないし、掴まないし、とどめてもいけないのです。
だから、思いも、感情も、出来事も、行為、記憶も ・・・自分というスペースのなかにあらわれたら、さらさらと小川の流れのごとく通りぬけさせてあげなければなりません。何ひとつとして跡形も残さずに。
すべて、 自分というスペースを横切ってゆく通行人のようなもの。家のまえを歩いてゆくただの通行人にいちいち声をかけて引きとめて、意見を言ったり、ダメだしをしたり、文句を言ったり、指図をしたりしないように。思いも、感情も、出来事も、行為、記憶も、そのままほっておいてあげてよいのです。
まったくコメントせず、価値判断せず、口を開かず、指一本ふれません。見てるだけ。なんせ通行人ですから。さっさと通りすぎもらいます。
でも、いったん声をかけたり、ちょっかいを出したり、かかわってしまおうものなら、その通行人は親切にもそこにとどまって、ずっと相手をしてくれるというわけです。
思いも、感情も、出来事も、行為も 、記憶も、あるがままにほっておきさえすれば、あとかたもなく消え去ってゆくのです。そして、こころのスペースには、余計なものがない状態となります。
さて ・・・ 余計なものがないスペースには何があるのでしょうか? ・・・ 静けさ、安らぎ、穏やかさ、そしてホンモノの自分といる喜び ・・・。
そして、さらに、私たちが絶対握りしめて放したくない「私」という思いも、手をゆるめて放してしまいましょう。
「私」という思いが強くなると、何が起こるかというと ・・・
「私」という思いは、「私」以外のその他大勢をつくりだし、孤独や分離、疎外感を強めます。
さまざまな美しさが映りこむ一枚の世界という集合写真のなかから、「私」だけハサミでジョキジョキ切り離して別のところにもっていってしまうということ。全体という完全さから、「私」だけを切り抜いてしまうのです。
すでにそこには調和、完全さ、美しさがあったのに、「私」という意識こそが自分をそこから追放してしまい、孤立させてしまうのです。そうすると、自ら全体からの完全さを受けとれない状態をつくってしまいます。自分だけ離れ小島に隔離されて、なんの供給もない状態をつくりだしてしまうのです。
不思議です。「私」という意識がなければ、「その他大勢」は存在しません。そして、「私」という感覚がなくなってゆくと、全部が自分になってゆくのです。そして、「私」がなくなると、じつは問題というものも存在できなくなってくるのです(「私」と「あなた」という摩擦があるところにだけ、問題は生じます)。
「握りしめない」ということは、こだわらない、ということ。
感情にしろ、出来事にしろ、何かが気になっていて握りしめているなと思ったら、ただ立ち止まって、それに気づいてみてください。そう考えたがっている、そう感じたがっている自分がいるということを、ただ静かに客観的に気づいています。ただ眺めてみるだけで言葉はいりません。
そうすると、もうそれを放していることに気がつきます。握りしめることなく、姿を消してゆきます。
握りしめてしまったあとでも、意識的になることですぐにそれをやめることができます。
また、「握りしめたがっている」自分がいたら、「なぜ?」と聞いてみてください。そのこころの声に耳を傾けてあげることも大切なことなのです。聞いてあげないからこそ、叫びつづけます。
耳を傾けることで、そこに傷ついたままの自分が声をあげているのに気がつくかもしれません。その自分に対して「もう、大丈夫だから」と声をかけながら、気づかって安心させてあげてください。
何も握りしめないでいると、自分のなかにもともとある宝ものに気づくことができるようになります。そことつながることによって、握りしめる必要もなくなるのです。
自分のなかがクリアになってくると、そこには今までなかった静けさ、穏やかさ、平和、安らぎ、愛を見つけることができるようになるかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q:「いろいろな本に、“ すべては完璧です ”と書いてあるのを目にします。しかし、私にはその “ 完璧さ ”の意味がまったくわかりません。いろんな状況は、完璧とはほど遠い状態です。いったい “ すべては完璧 ”とは、どういうことなのでしょうか?」
A: たしかに、たしかに ・・・。以前、私もそのように思ったことがありました。「完璧って言われても ・・・ ぜんぜん思うようになってないしぃ〜」って。
そもそも、“ 完璧さ ” ということじたいが、「私が望む」「私がイメージする」私の好きな完璧さではないのです。「私が望む」完璧さは、私の欲求、ニーズにあっていて、私だけに利益があり、私がこうだと信じている幸せへとたどり着くためのもの。
でも、その「私」「私」と声高に主張している存在がクセモノなのです!
「私を幸せにしろ〜〜〜!!(怒)」って。 ・・・ その「私」っていったいどなたですか?
私たちが「私」というとき、それは個人である自分です。身体をもった孤立した私というエゴが、「あの仕事がしたい」だの、「将来こうなりたい」だの、「ああなるべきだ、こうならなければならないのだ」と願望を抱いていて、それが叶わないと「ぜんぜん完璧じゃないじゃない」とぼやきます。
その「あ〜したい、こ〜したい」のベースになっているのは、じつは怖れをベースにした自己防御の気持ちなのです。怯えている気持ちが動機だということです。
怯えているからこそ、自分の主張が叶わないとキケンだわ、安全に生きていけないわ、大変なことになるわとあせりまくり、いろいろな願望としての「あ〜したい、こ〜したい」が生まれてくるわけです。
でも、私たちを運んでくれている大きな人生の流れは、何も怖れることがないまさに「完璧な私」に気づくことに向かって流れているので、そんな小さなエゴのおびえた叫びなど、どうだっていいわけです。
それよりも、「なんでそんなにコワがっているんですか〜?」ということのほうが先決問題です。
「なにがコワいのか?」 ・・・ 私が思うような道筋で、私が思うような成果をあげ、私が思うような成功と幸せをくれ〜〜!、さもないと・・・。こんなにせっぱつまっていて、自分にとっての本当によいことがわかっているのでしょうか?
結局、完璧さとは誰にとっての完璧さなのか ・・・ なのです。
小さなエゴの自分から見た完璧さなのか、それともホンモノの限界のない自分から見た完璧さなのか、ということなのです。そして、それぞれの完璧さには、それなりの結果がついてきます。
無限の宇宙のなかでおびえたように小さくしている存在の幸せは、まわりの大きさにのまれないように闘うことかもしれないし。無限の存在にとっての幸せは、すでにそこにあるので何もしなくてよいことでしょう。ただ受けとるだけ。
私たちはつねに、自分のこころの状態の反映を目にするこになります。自分が小さなエゴとしての自分だと思っている限り、完璧さは見えないし、また覚えることもやめられないというわけです。
エゴが口をひらいて、価値判断したり、文句を言ったり、コントロールしたり、抵抗したり、画策したり ・・・ エゴが参画してくることによって、もともとそこにあった完璧さが跡形なくなくなってしまいます。
「完璧さ」とは、エゴが手をふれていないことによる完璧さなのですね。
だから、人生の流れに対して口をはさみたくなったら、逆にエゴに質問してみましょう?
「なんで、文句を言いたいの?」「なんで自分の思いどおりにならないとイヤなの?」と。結局は、「そうでないと、困る」「大変なことになる」・・・そして「生きていけない」「死んじゃう」というところまでたどりつきます(汗)。
それってホントのこと? とりあえず今は生きているし・・・。今ここには問題はないし。 ・・・ そして、今に問題がなければ、それでOKなはず。未来だって、いつも今になるわけだし。
エゴが叫んでいるときには、ただ静かに見守っていてあげましょう(そう、この見ている方がホンモノの自分です!)。しだいにエゴの大騒ぎも静かになって消え去ってしまいます。相手にしなければ消え去るのですね。
また、しばらくするとエゴは参戦してくるかもしれませんが、そのたびに静かに見てあげましょう。見るやいなや、エゴは口を閉ざしてしまうのもおもしろいところです(けっこう素直じゃありませんこと?!)。
このくり返しで、うるさいエゴもだんだんと静かになってゆきます。
ホンモノかニセモノか、どっちの自分を大切にするのか? 大切にしたほうが健やかに育ってしまうというわけです。
「完璧さ」を知りたかったら、静かにしてみること。ニセモノの自分を。
「完璧さ」は、エゴに黙ってもらって、この今という現実に指一本ふれないでいてもらうことで現れてきます。
それは、忍耐するこころと信頼する力も必要となります。何か言いたくてもジッと口を閉ざし、静かに見守りながら待つこと。
エゴの提供しようとする幸せは、どれも最後にはくじかれて痛みに変わって、私たちを苦しめるけれど、この現実という流れのなかにもともとそなわっている完璧さは、エゴの妨害さえなければちゃんと花ひらいてくれるものなのです。
なので、エゴのおしゃべりが始まったら、すぐに気づいて、そこから離れて、ただ見てみることをしましょう。そして、本当の自分であるハイヤーセルフをたびたび思い出して、しっかりとナビをしてもらえるようにお願いいたしましょう。
「完璧さ」は創り出すものではなくて、すでにそこにあるもの。私たちがエゴで汚さない限りは、静かに受けとることができる贈りものなのですね。 ( ・◡・ )♫
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q:委ねることが大切だと教えていただき、いろいろなことを高い意識に委ねるようになりました。しかし、自分の達成したい「ゴールをもつこと」や「自分で決めること」などを、どこまでしていいのかわからなくなっています。
A:そうですね。私たちは成長してゆく過程でつねに、「自分の意志をはっきりともつことが賢いこと」であると教えられてきました。
「あなたはいったいどうしたいの?」「ちゃんと自分の意見を言いなさい」「自分のことなのだから、自分で決めなさい」「自分のゴールももてないの?」
それができないと「はっきりしない子」「決められない子」と、ダメな子のレッテルを貼られたものです。だから、こどもの頃の学校生活のなかでは、しっかり「決められる」、ちゃんと「自分の意志がある」子が「ヨイ子」だとと言われてきました。だから、そうなろうとみんなで頑張りました(汗)。
でもじつは、これこそが「わたし」という「我(エゴ)」が肥大してゆくプロセスといえます。
幼児の頃には、私たちは「わたし」という意識はあまりなく、自分と他のものの境界もあいまいで、自然と調和しながら生きていたのです。簡単に自分をなくすことができるので、悩まないし、衝突も少なかったのです。
でも、鏡に映る自分が自分だとわかるようになり、名前が書けるようになり、「あなたはどうなの?」「あなたは」「あなたは」と言われ続けるうちに、「わたし」が強調され、個としてのエゴの感覚がだんだんと強くなってゆきます。
この「わたし」をたくましくすることこそが、エライこと、成長の証だと勘違いしてしまいます。
これこそが、人との対立や、人からの孤立、あらゆるものからの分離、そして問題というものが生まれる起源ともいえるのです(そもそも「わたし」という感覚がないと、問題も存在できないのです。)
だから、成長の過程で肥大化してしまった「わたし」、問題の根源であるエゴの「わたし」を手放すことこそが、問題を収束させ、安らかになる道なのです。
安らかに生きてゆくためには、ほんとうのところ「わたし」という意識は重要でないのです。ほっといてよいのです。手放しちゃっても大丈夫です。
たとえば・・・まだシニアデビューしたてのフィギュアスケートの選手。
彼らは、優勝も狙っていないし、とにかく大きな舞台で滑ることが嬉しくって、思いっきり演技をします。シニアになりたてのMちゃんなんて、笑いながら軽々とトリプルアクセルを完璧に飛んでたし、Yくんもこわいもの知らずでオリンピックも金でした。
彼らは身体のことなんか忘れて、まさにジャンプになり、スピンになり、ステップになり、音楽になり ・・・ そこには欲望も野心もありません。で、びっくりするような高得点が出て、まわりも本人さえも仰天するのです。
でも・・・ 成功しちゃった「わたし」のプライドが出てくるとやっかいなことが起こります。もう、あの魔法がなくなっちゃう。
素晴らしいアーティストの歌を聴いているときも、そのアーティストがただ旋律の流れになっていて、「わたし」の「わ」の字も残っていないのが伝わってきます。ただ歌声のその響きとして存在しているのです。
そんなふうに、素晴らしいパフォーマンスには、じつは「自分」というエゴの意識は余計であり、邪魔なのです。
パフォーマーに「自分」という我が入っていると、なんか余計なものが混じっている感じがしてダイレクトに伝わってきません。引き込まれ度がぜんぜん違うのです。
「ゴールをもつこと」は悪いことではないけれど、まったくそれに執着しないことが大切なのだと思います。
なぜなら、そもそもそのゴールは何のためなのか? なぜ達成したいのか? ということなのです。
私たちが何かを欲するとき、そこには欠乏感があります。無価値感があります。それらの下には、怖れがあるのです。「それを達成しないとマズイ状況になる。コワイことが起こる」という。
ゴールそのものが、怖れに根ざしているということになります。そして、すべての動機は結果に結びついています。怖れを動機として行動を起こすと、もれなく結果に怖れがくっついてきます。動機と同じ種類のものを手にすることになるからです。
よくあるご相談として、経済的な問題があります。「お金に不安があって、増やすためにあれやこれやすべての手を尽くして行動しているのに、まったく改善のきざしが見えないのです」と。
この場合、動機に怖れと危機感があるままあれこれ動き回ってしまっているために、どこまでも危機感はつきまとってくることになります。
まず見なければならないのは、「この怖れと危機感にさいなまれている自分とは、いったいどういう存在なのだと自分で信じているのか」ということなのです。
たとえば、「見捨てられている」「助けてもらえない」「ひとりぼっち」・・・。
じつは、すべての問題はこの「自分に対する認識」という問題に行きつきます。自分という存在を誤って認識している限りは、何をしようとも、どんな努力をはらおうとも、その怖れはなくならず、どんな行動をも望む結果に結びつけることはできないのです。
自分の目に映るものは、つねに自分のこころの思いをあらわしているからです。
自分に対する認識を調べることとともにもう一つ大切なことは、自分の小さな自己(エゴ)を手放して 〜 なぜなら、このエゴさんはあまりにも極小すぎて何も知らないし、コワがりすぎるし、うるさいので 〜 本来の自分自身(高い意識)とつながって、よいコミュニケーションをとることなのです。
私たちは、エゴの言葉に耳を傾けすぎたあまり、ほんとうの自分の声を聴き分けることができなくなっています。エゴはコワいことしか言わないので、このほんとうの自分の声を聴くことができないことが怖れの原因です。源からのサポートがまったくこないことと同じなのです。
あるいは、ほんとうの自分がいることさえ気がついていないのかもしれません。
自分の育ての親よりも、誰よりも、自分のことを大切にしてくれていて、いつも幸せに導いてくれる存在がいるのにもかかわらず、その存在とまったく疎遠になってしまっていることが問題であり、それに気づかなくてはなりません。
その見守りサポートしてくれている存在に気づくようになると、じつは自分が考えるゴールなんていらなくなってしまいます。なぜなら、その存在におまかせして何もしないことこそが、いちばんうまくいく方法だということがわかってくるから。ヘタに手出しをしないことこそが一番安全、というわけです。
結局、「わたし」が何かをしようとすることは、「エゴ」が手だしすることと同じだということ。そこにすでに存在する完全さを台無しにしてしまうのは、いつだってエゴのひとことであり、エゴが手出ししてくることによってなのです。
私たちがやらなくちゃいけない唯一のことといえば、思考として口をはさんでくる「エゴ」に対して、いちいちお答えしないことぐらいです。
エゴが「ああ!たいへん、どうしよう!どうしよう!」と言ったとしても、「ほんとだ〜!ああなるかも、こうなるかも」なんて、お答えしないことです(みんなエゴに対して優しすぎて、全部お答えして、延々と会話をしています)。
ラジオやテレビがしゃべっているのに対して、いちいちお答えしないのと同じです(え? テレビにお答えしてる? 汗)。
エゴは勝手に一日中しゃべっていて、それはまるで自分が考えているように思えます。いいえ!勝手におしゃべりがやってきているだけなので、ただスルーしましょう。
ほっておかれて相手にしてもらえないとわかると、エゴ(思考)はちゃんと静かになってきます。凶暴でもなくなります(エゴがうるさくて、残酷なことを言うのは、ちゃんと聴いちゃって、話しをあわせているからです)。
すべてはほっておいたほうがうまくいくのです。なぜなら、そこには全体である完全性があるから。
「自分でしたい、決めたい」と感じるときには、その動機を探ってみましょう。きっと、コワがりのエゴが「絶対そうしないとダメだよ。こんな悪いことになっちゃうよ〜」と言っています。
その怖さを見つけたら、何か新しい行動を起こすよりも、その怖さを探求して感じきって、終わりにしてしまいましょう。そうすると、その行動じたいに重要性がなくなります。
あとは、人生がどのように展開するかただ静かに見守るだけで大丈夫。私の人生に勝手にやってもらうのです。
そうしておけば、必要なことは必要なときに、ほんとうの自分からちゃんとお知らせがやってきます。そのお知らせを受けとるためには、エゴ(思考)のお相手をし続けていると気づくことができません。エゴ(思考)はほっておきましょう!
エゴちゃんが退いてくれると、大いなる自分が煌めきを放ってくれるようになります。その煌めきのなかでは、今までの風景が違って見えます。
そのとき、ゴールをめざすことも、決めることも不要となります。大きなる自分という星の煌めきを頼りに進みましょう!
私は「あなた(エゴ)がいなくなると、神(ほんとうの自分)がはいってくる」という言葉が好きです♡
☆★☆ Merry Christmas ☆★☆
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新しい年が走りはじめて早10日。すっかり日常がもどってきました。
いつも「気づきの日記」を書き始めると、延々とどこまでも書き続け、つい何千字という膨大なものになってしまいます。が、今年はなんとか短めも目指したいと思っております。 ・・・どうなることか? (言葉がやってくるときには、止められませぬ・汗)
なぜあんなに長文になるか ・・・ というと、その昔、自分自身がこの分野の本を読んでいて、そのなかにサラリと書かれているひとことで、勘違いや間違ったイメージをもってしまったことがあったからなのです。のちに、「え? ぜんぜんそういうことじゃないじゃない?!」ということが多々あり。
もともと、影も形もないこころのことを説明しようとすることじたい至難の業なのです。口頭であれこれ説明しても、伝わってないな〜と思うこともあります。そのうえ、最近は英語でのセッションもふえてきて、日本語でさえ四苦八苦しているのに、まったくもって自分が何を話しているのやら ・・・大汗。
ブログではなるべくいろいろな言い回しで説明しようとするので、ついつい長くなるわけです。
さて ・・・ 新しい年において、ひとこと、なにかオススメできるとしたら、なんだろう? と考えました。
そのひとこととは ・・・ 「カラ」です。
「殻」ではなく、「空(カラ)」。
私たちの日常においては、「何かをゲットすること」が目標になっています。つねに「得る」ことが基本です。
その弊害を解消するために「断捨離」がブームになりましたが。
それでも、わたしたちの行動の根底にあるのは、つねに手に入れ、成し遂げ、ああなり、こうなり ・・・ あれこれすべてをつけ足すこと、プラスするイメージ。
でも、その「つけ足さなくてはならない」という強迫観念の下にあるのは、決定的な不足感と欠乏への怖れに他なりません。
その決定的な欠乏への怖れを癒してくれるものは、じつは「カラ」なのです。
つまり、自分のなかを「カラ」にしないと入ってくるものさえ、入ってくる余地がないというわけです。
だから、「自分をなるべくカラにしてあげること」が大切なのです。
たとえば・・・ あれこれジャッジする癖を手放す、一瞬まえにすぎたことさえサラリと忘れる、ひとの言葉を根にもたない・こだわらない、不平やら不満を言わない、四六時中ブツブツこころのなかでおしゃべりしない ・・・。
しかし、こころのなかを静かにして「カラ」にしようとすると、強い不安に直面するという方もいます。それが怖くなって、またアタマのおしゃべりに戻ってしまう、というわけです。
その強い不安はずっとそこにあったのですが、じつはこころの「おしゃべり」におおい隠されて気づくことがなかっただけだったのです。つまり、その感情に向きあいたくないがために、こころのなかをジャンクな想いで一杯にしてごまかしていたのです。
感情が出てきた場合には、ただ片づけてしまいましょう。
その感情について、まったく言葉を使わずに、ただそのまま感情のエネルギーを感じてあげましょう。
感情というものは、言葉をくっつけることがなければ、ただビリビリ、バリバリ、ドキドキ、カーッ、ジンジン ・・・ というようなエネルギーでしかありません。そして、それはただ受けとめてあげると消えていきます。
「感じても、同じ感情がじゃんじゃん出てくるんですけれど」という場合は、がっつりたまっているだけなので、くじけずに根気よく感じてあげましょう。そのうち、静かになってきます。
このように、自分のなかにぱんぱんになっている「考え」やら「感情」を「カラ」にしてあげると、自分のなかに本来もっていたものがあらわれてきます。(癒しというのは、自分を変えようとすることではなく、本来の自分を出してあげること。)
それが出てくると、「何かをつけ足そう」という欠乏感が癒され、その癒されたこころがもとになって、平和で穏やかな世界を自分に見せてくれるようになります。
つまり、自分のなかの光が外へと広がり、それを自分で目にするようになるわけです。
そうすると、汗水をながして何かを達成しようとする気持ちがなくなるとともに、こんどは自分の目のまえに必要なものごとや人が自然にあらわれるようになります。人はそれを「引きつけた」というかもしれませんが、それこそが自然な状態です。
自分を「カラ」にすることは、自分を癒してあげること。
まずは、思考や価値判断、不平不満、後悔、執着などを手放して、自分のなかを静かにすることを是非こころがけてみましょう。
じつは、「考え」がなくなると、問題がぐっと減ることに気がつくと思います。
「カラっぽ」「カラっぽ」 ・・・ 張り子のススメでした。( ・◡・ )♫
PS ああだこうだ書いているうちに、結局二千字近くになってしまいました〜! (o_o)
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Q: 職場にイジワルな上司がいて、ことあるごとにいやがらせをされます。収入にも影響してきます。なぜ自分ばっかり、と落ち込みます。
A: 社会と関わりをもっていると、どこにいても一人ぐらいはイジワルな人がいたりします。そんな人と毎日仕事をしなければならないとき、どう対処いたしましょうか?
まず、【相手の態度・言動を、個人的にうけとらない】ということ。
つまり、「私に対してなされている」と受けとらないことです。なぜなら、その人は「ただそういう人」だからです。そういう振る舞いをすることしかできないのです。
その人は相手が変わっても、場所が変わっても、ずっとそれをやり続けます。それこそがその人らしく振る舞っているということだからです。そこにたまたま出くわしてしまっているのです。
でも、私たちは誰でも無意識の罪悪感というものをもっているので、相手の機嫌が悪いと「ただこういう人なのだ」と受けとれず、自分に対して行われていると思ってしまます。そして、相手の態度のせいで「私がいけないのか?」と自分を責めて自信をなくしてしまう傾向があります。相手の問題をひきうけて、自分のこととして悩んでしまうのです。
自分のこととせずに、単に「この人はこういう人なのだ」と割り切ることが大切です。
なぜ、こういう人なのか? 理由はいろいろです。その人の生い立ちや(あまり安心感や自尊心を感じられずに育ったのかもしれません)、さまざまな体験や(劣等感や自己嫌悪があるのかもしれません)、トラウマや(この人こそ、いじめられていたのかもしれません)、私たちには計り知れないいろいろなことが組み合わさっているのでしょう。たしかなことは、自分のなかが混乱していて、自分自身のことを受け入れられない人以外、人をおとしめようとすることはないということです。
だから、いい人になってもらおうと期待するのも、改善させようと挑むのも無意味です。そのままそうさせておきましょう。まるでテレビや映画のなかのイジワルな人を見るように、客観的に、静かに、無反応で、ただ観察していましょう。
このような人は自分のイジワルによって相手がどれだけダメージを受けたか成果を感じたいので、逆に無反応を返されると拍子抜けすることでターゲットにならずにすむかもしれません。なので、ひょうひょうとしていることが大切です。
それから、【自分のアタマのなかでおしゃべりを延々と続けない】こと。
起こっている事実よりも、このアタマのなかのおしゃべりのほうがずっと有害です。
「なんで、この人はこんなことをするの?」「ひどい、なんで私ばっかり」「こんなことされたらお給料が減っちゃう」「そうしたら、ああなって、こうなって、そして・・・」と、相手に反応すると延々とアタマのなかのネガティブなおしゃべりが続き、実際に起こったこととは関係のないストーリーがでっちあげられてゆきます。
相手の態度よりも、それに「反応すること」によって「あたまのなかのおしゃべりがエキサイトしてゆくこと」の方がずっとコワイし自分を消耗させます。
アタマのなかでストーリーがどんどんでっちあげられ、まだ何ひとつ起きてもいないのに悲惨な自分にしたてあげます。もとをただせば、相手のイジワルな態度があっただけなのに、アタマのなかではとんでもなくみじめな未来の自分を見ていたりします。
このようなアタマのお喋りこそ、自分への虐待です。
アタマのなかで被害者チックなお喋りが延々とつづいているときには、それに気づきいて、ただ静かにながめてみましょう。するとおしゃべりは自然と止まり、静かになります。「気づくこと」と「アタマの勝手なおしゃべり」は両立しないのです。
このアタマのお喋りは、相手をしてあげなければあまり出てこなくなるのです。なので、気づいたときには早めに対処して、ストップさせてしまいましょう。
アタマのなかのお喋りを撃退したあと、イヤな感情だけが残っている場合があります。
その感情はこの出来事への反応として受けとられるので、さらにこの出来事が不吉に感じられてアタマのお喋りを助長したりします。
じつは、この出来事のせいで感じていると思っているこの感情は、実は出来事とは別ものなのです。
私たちは誰もが未解決の怖れや罪悪感を抑圧してためこんできました。そのため、「問題」のようなことが起こると抑圧していた感情が浮上してきて、その出来事と感情がドッキングしてしまいます。そして、その出来事でそのように感じていると勘違いし、「ホラ、こんなにイヤな感じがするからこれはひどいことに違いない」と被害者意識を強めてしまうのです。
でも、感情はただためこんでいたものが浮上してきているだけなので、上がってきたのをがっつりとつかまえて、お掃除するチャンスといたしましょう。
そのためには、その感情をムリになくそうとするのではなく、ただ感じるままに受け入れて感じてあげるだけでOKです。思考がくっついていなければ、感情はそのまま消滅してゆきます。たた受け入れてみましょう。
* 相手がどんな態度であろうと、相手に巻きこまれてしまうのではなく、ただ客観的に静かにながめて、自分の思考を助長しないようにします。こころのなかで沈黙を保ちましょう。
* 感情が残っていれば、それはただ感じて処理いたしましょう。
「この人、そうとう強烈なキャラだけど、ただこういう人なんだわ」とニュートラルに接することができるように練習をしてみてくださいね。
自分のなかが穏やかだと、どうしたらよいのかという次のステップも見えてきやすくなります。チャンスもキャッチしやすくなります。
また、穏やかで自分らしくあることで、きっとまわりの人も理解を示してくれるようになるかもしれません。 ( ・◡・ )
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おもしろいのですが、いらっしゃるクライエントさんにはその月ごとにシンクロニシティがあったりします。
どういうことかというと、オール「16歳の女の子」オンパレードの一ヶ月とか、先月についていえば「32歳の男子」てんこもり(いったい32歳の男性になにが起きたのか?!)。そして、相談内容も、「浮気されちゃいました」ばかりの一ヶ月とか、「私の人生、行き止まり」連発の一ヶ月とか ・・・。
昨年のご相談内容のなかでもけっこう多かったテーマのひとつとしては、「つい食べるのがやめられなくって、あとですごくイヤな気分になりへこみます」というもの。
これは女性に多いのです。きっと男性はたくさん食べてしまっても「それがどうかした?」という感じで、あまり問題意識がないのかもしれませんね。
男性の場合は、「アルコールを飲み過ぎる」「ギャンブルをやめられない」「浮気がとまらない」など。女性だと、「買い物がとまらない」「彼氏にかまってもらわないとダメ」など。すべて同じ原理で起こります。
しかし、他の「やめられない」に比べて、「食べ過ぎ」は罪悪感を強く感じやすいようです。おそらく、食べ過ぎると気持ち悪くなるので、もともともっていたイヤな感じと食べ過ぎた気持ち悪さがダブルでやってきて、「あ〜あ、またやっちゃった!」感を強く感じるのだと思います。
なので、本日は「つい食べるのがやめられないことと罪悪感」について。
過食についてよく言われるのは、「こころに穴があいているから、食べものをつめこんで埋めてしまいたいのだ」ということ。
たしかに、「埋めたい」「ごまかしたい」というのが、あらゆる中毒や依存症のメカニズムです(アルコール中毒、ギャンブル中毒、恋愛中毒、携帯中毒、ワーカホリック・・・などなどみんな問題を煙にまいてしまうためのお道具なのです)。
そこで、なぜ「埋めたい」のか「ごまかしたい」のか? という、さらに深い動機を明らかにしてゆく必要があります。
「なにをごまかしたいのか?」 というと、シラフではやってられないほどの「イヤな感情」がそこにある、ということです。
とにかく、今ここにあるこのイヤな感じに向きあいたくないから逃避をくわだてます。イヤな感じとは、嫌悪であったり、恐怖であったらい、罪悪感であったり、苦痛の記憶であったり、それらがごちゃまぜになった胸が悪くなるような感じ。
その「ついごまかして隠しておきたいイヤな感じ」を、ほんとうはちゃんと片づけてあげる必要があるのです。しかし、あまりにも嫌悪感が強いために、そちらに顔を向けてまっすぐに見てあげることすらできないことに問題があるのです。
見たくないからこそ、そのイヤな感じから気をそらすために、たくさん食べることによって、あふれるほどの味覚や満腹感で感情をかき消し追いはらおうとします。
しかしその結果として、「ああ、またやってしまった・・・」という自責の念、罪悪感を感じることになります。ちゃんと本当の問題に向き合っていないのだということが自分でわかっているからなのですね。
そしてさらに、その罪悪感をかき消すためにまた食べる、という負の堂々巡りにおちいるわけです。
ほんとうのところ、こころのなかでは「隠しつづけておきたいイヤな感情」と向きあわなくちゃいけないぐらいだったら、この食べ過ぎによる罪悪感を感じているほうがよっぽどましだわ ・・・ とヘンに矛盾した決断をしているのかもしれません。
なので、やらなければならないのは、そこにひそんでいる「嫌悪感、イヤな感じ」をしっかりとつきとめて、勇気をもって向かいあってあげることが必要となります。
それをちゃんと見るために、まずその「嫌悪券」の真の原因をはっきりさせるということです。(慣れてくると感情だけ感じてもよいのですが、最初はいったいなにが起こっているのかを認識する必要があります。認識することで、ものごとは終わりにすることができます。)
たいてい過食に走ってしまうときには、「ある出来事」が起こっていて、それによる動揺が原因となって過食をしてしまいます。でも、その表面上の「出来事」は真の過食の原因ではないと気づくことが必要です。その「出来後」がこころに抑圧されていた感情を刺激してしまったため、そこにもともとあった「嫌悪感」が浮上してきてしまったというわけです。
つまり、その「出来事」はたんに引き金にすぎなかったのです。
たとえば、クライエントのA子さんのケースをみてみると、表面上の出来事と問題の原因が違うことがよくわかります。
A子さんの問題は、「男性から大切にされる」ということが起こると、過食をしてしまうのだということなのです。ふつうだと、何かトラウマがあり、男性恐怖症なのでしょうか?と思ってしまいますが。
実際なにが起こっているのか調べてみると、
「男性に愛される」→「私は女性だと意識する」→「女性=母のイメージ」→「母は私を傷つけて苦しめた」→「つまり私は女性=母と同じひどい人間だと感じてしまう」→「男性に近づかれる=母にまつわるイヤな感情がわきあがる」→「そのすべてのイヤな感情を隠すために味覚と満腹感に頼ろうとする」→「じゃんじゃん食べて感情をかき消そうとする」→「すごく満腹で苦しい」→「感情は解決されず、まだそこにある」→「失敗した感じ」→「満腹の苦しさとともに、またやってしまったという敗北感、罪悪感を感じる」→「でも、もともともっていた母への苦しみよりもこの罪悪感のほうが少しはマシかもしれない(これは無意識的)」→「やめられない」というプログラミングになっていたのです。
この呪縛をとくためには、とにかく抑圧してしまった対象の人物(母)とのあいだの感情を少しづつ地道に丁寧に手放してゆくことが必要となります。
しかし、過食やなんらかの中毒、依存症状で苦しんでいる人だけが抑圧した感情を抱えているというわけではありません。
ほんとうは私たちの誰もが、「見たくない」「向きあいたくない」「隠しておきたい」感情を抱えています。それは時限爆弾を抱えているようなものです。いつかは爆発します(今世でなくとも・・・)。
だからこそ、ゆったりとくつろぐことにも恐怖を感じます。爆弾が突如爆発するのではないか・・・とうすうす感じているからです。
会社なんかに行かないで暮らせたらいいのに、長い休みがあったらいいのに、と言いつつもいざ一ヶ月も休みができたら、まったくどう過ごしたらいいのかわからなくなってしまいます。それによってイキイキするどころではなく、魂をぬかれたように元気がなくなってしまう人もいて、かつての忙殺されていた頃の自分を懐かしんだりします。
「だって、止まったら死んじゃうの!」という回遊魚状態というのは、やめられない慢性病なのです。
そんな私たちにとって、ケータイは「自分の抱えている爆弾を直視しなくてもいい」「爆弾を忘れさせてくれる」という、とっても重宝なヒマつぶしになるわけです。
だから、もしも今苦しく感じているのであれば、たんに「私はこころの荷下ろしの時期にきているのだわ」と思って、ただお片づけに励めばよいわけです。何かが間違ってしまったというよりは、ただそういう時期にきているのです。そうすれば、爆弾によってこっぱみじんになることを避けることができます。
一方、爆弾は今だ深く自分のこころに埋めこまれたままで、まったくピンとこない方もいらっしゃることでしょう。でも、それもその方のペースで、今は穏やかな時期を楽しめばよいのです。
そういうお片づけの時期にきちゃったときには、ただ「ごまかさない」ことが大切です。つまり、何かに逃げこまないこと。
「え〜! そんな?! それは苦しすぎます。コワすぎます!」と感じますか?
それそれ! それです! その感じ! それこそを感じてみましょう! それが、たまりにたまっていて、自分の人生を見るレンズを泥だらけにしてしまい、ほんとうの自分を見えなくしているものです。そのため自分をみくびって、とても小さな価値のない存在にしてしまっているのは自分自身なのです。
感情のお片づけをするときに大切なのは、感情に善悪の価値判断やストーリー、文句、セリフ、あれやこれやをつけないこと。つまり、沈黙すること。
もし、自分のセリフやら、場面、情景がくっついていると、とてもじゃないけれど怖くて受け入れがたくなります。それらは自分が個人的にくっつけているものなのです。感情とは、ただそのまま、それだけです。本当は善悪の判断も、セリフも、場面も、記憶もないのです。
どんな感情も、それらは電気で感電したときの感じと大差はありません。コンセントを触ってしまってビリっときたら、「わ、びっくりした!」。それでおしまいです。
感情も出てきて、それに出くわして、感じて、「わ、びっくりした!」・・・ハイ、それでおしまい!
そのぐらいシンプルです。ただ、感情に感電して(笑・そうでう感情は感電です)、それで終わりにしちゃいしょう。大丈夫です。ビリっとしますが、死にはいたりません。
なので、すべてのあれこれをとりはらって、ただの体験、感覚だけにしてゆく必要があります。
そうすると、善悪なしでそれに共鳴し、許され、ほんとうのあるがままの「受け入れ」をすることができます。人生においては自然な「受け入れ」がなされたとき、人生は本来の流れを取り戻し、キケンなものではなくなるのです。
そのためには、アタマをストップする、セリフをくっつけない、ということが大切なことです。これが感情において、正しくあるがままに「感電する」ポイントです(感電に正しいやり方などあったのね?!笑イ。
問題に出くわしたら、なにが起こっているのか探求して、そこに感情が出てきたらただ何も考えずに「感電してみる」。
とくに過食の場合には、食べてしまうこと自体はそのまま自分に許してあげることが大切です。なるべく罪悪感をふやさないようにすることです。ただ、食べてしまうまえに、そこにある動揺を「感電するようにただ感じてみること」をします。そして、食べましょう。
これを少しづつ行ってゆくことで、隠しておいた感情の塊が少しづつ削りとられて小さくなってゆきます。そうすると、その不快さをカバーするために使っていた味覚や満腹感はだんだんと必要なくなってくることでしょう。
これも、頑張ってするのではなく、少しづつでよいのです。
逃避するのではなく、向きあう方向に向かおうとすると、必ず自分自身の高い意識があとは引き受けてくれます。その力にゆだねて、お任せしてしまいましょう。
高い意識のサポートを信頼しつつ、自分の感情に正直に、怖れずに受け入れて、あるがままに完全に「感電」してみる・・・。このように「受け入れる」気持ちが起こると、人生との戦いが終息にむかい、向い風がいつのまにか背中をおして、ふわりと持ちあげてくれるように感じられるかもしれません。そうしたら、委ねて運ばれてみましょう。
PS A子さん、こころのなかで起きていたことを見破りさえしたら、あとはそれにまつわる感情の手放してゆくことです。来週は一緒に練習して、感電(感情の解放)のエキスパートになってしまいましょう! 少しづつ練習してゆくうちに、いつのまにか感情の塊がどんどん小さくなって、楽しみながら適度な量を食べられるりますよ。また来週お待ちしています♡♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「爆音映画祭」を観てきました。
これは、誰もが知っていて観たことがあるような作品(「ラ ラ ランド」とか「シング ストリート」とか)を、「音」というものにこだわって大音響で上映しているのです。
けれど、大雑把な爆音ではなくって、本来の作品のなかでひろわれていないような音をあらためて強調したりすることで、また違ったストーリーがみえてくるというもの。
観ていて思ったけれど、「音」こそがじつはストーリーを紡いでいるのではないのか? ということ。
つまり、起こっていることは「単なる」出来事で、良くも悪くもなく「あるがまま」であるのに対して、いったん音がついてしまうと、それがとつぜん重要性をおびたり、緊張感を生んだり、歓喜に舞いあがったり、とんでもないホラーにもなったりします。
電車の壁に埋めこまれているモニターをイメージするとわかりやすのですが、どのような画像が流れていようが「音」はついていません。
そうすると、どんなシーンであろうが、けっこう「どうでもいい」のです。かりに、ジェイソンが襲いかかろうとしていようが、ジョーズが大口を開けようが ・・・ 「あ、そうですか・・・」っていうクールな目線で見られるのです。
いったん音がついちゃうと(そう、あのお決まりのジョーズ登場の音)、ヒレが見えているだけで一気に恐怖感が高まります(でも、ヒレはヒレなのですが)。
あのお決まりの音には、「とんでもない恐怖が起こる!」「目もあてられない惨劇になるに違いない」「血まみれ」「痛み、絶叫」・・・ という記憶や思考というこころの音がつけ加えられて、「あるがまま」だったものを一気にキョーフに陥れます。
でも、「音」さえなくなっちゃえば、ヒレが海面にあらわれても「ただヒレだな〜」という素直な感想でしかありません。たとえそのあと何かが起きても、実際よりはすごくたんたんとしています。
だから、ホラー映画から「効果音」と、さらに記憶・思考・価値判断というこころの「音」をとってしまうと、もはやホラーでさえなくなっちゃうのです。
私たちは「音」にホンロウされている、といってよいようです。
ってことは ・・・ 起きている出来事よりも、そこにくっつけちゃう「音」こそがキョーフの源なのです。
そして、私たちは毎日毎日、「あるがまま」であるはずの人生という画像にせっせと効果「音」をつけることにたいそう忙しいようです。思考、感情、記憶、感覚という音を。
「あるがまま」という人生にそんな「音」をつけることこそが、人生で自分がするべきことだと思っているのかもしれません。
なんせ、「あるがまま」という何もついていない状況はおちつきませんから。
私たちは極度に「何もない」ということにおびえているので、とにかく何かで埋めたい。埋め尽くしたい。「何もない」ということがみじんもわからなくなるまで。
だから、「何か」を目にするやいなや、いろいろな意味や判断や感情や過去をくっつけまくります。「あるがまま」があとかたもなく消えさるまで。(こりゃ、神経症としかいえませんわね。)
でも、「音」のない電車のモニターがそうであるように、「あるがまま」はただたんたんと、あるがままに流れ行く ということを知ったら、あれこれをくっつけるというエネルギーの消耗にこそウンザリするし、そんな神経症のすべてが笑えてくるかもしれません。
私たちが人生というストーリにくっつけている「音」(=思考、感情、記憶、感覚)をたんなる効果「音」なのだと気づくと、「音」に踊らされなくなる自分に気づきます。ただあれこれの雑音に気づいているだけで、すぐにスルーできる感じ。
「現れては消えさってゆくものはどうでもいい」っていう感じで、いちいちかまってエネルギーを使わなくなるのです
そうすると、その後ろがわに隠れていたもの、安らかさや「静寂」に気づけるかもしれません。あ、安らぎはいつもここにあって、どこかに探しに行かなくてよかったんだ!ってね。
こころのなかの効果「音」(思考、感情、記憶、感覚)をただ「音」として気づくようにしてみましょう。そうすると、心配だったこと、重くのしかかっていたことなど、いろいろなことから重要性、シリアスさがはがれ落ちてしまうかもしれません。なんかやたら楽やかになって、どうでもよくなります♪
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はじめてダウンタウンさんのある番組を見たとき、最初はその主旨がつかめず「いったい何をしているのだろう?」とわけがわからなかったものです。
それは「笑ってはいけない」シリーズ。大物タレントさんたちの意表をつくヘンテコな出しものの数々は、間違いなく笑いのツボをおしまくるのですが、それでも「絶対に笑ってはいけない!」のです。もし笑ってしまったら、お尻をたたかれたり、タイキックや罰をくらうことになります。だから、こらえるこらえる。
笑いは、笑おうと思って笑うわけではなく突発的に起こる反応なので、みんなどうにもならずにバシバシ罰をくらいます。
笑うまいとしても笑っちゃうのを止められないからこそ、次から次へと笑いを仕掛けられるし、見ているこちらも笑ってしまうのです。
「笑う門には福きたる」で幸せになるには笑うことは欠かせません。しかし、じつはもっと確実に幸せのために役だつ地道なこともあるのです。
それはなにかと言うと、「文句を言わないこと」なのです。
だから、もし私がダウンタウンさんのような番組を作るんだったら(笑)、「笑ってはいけない」ではなくって「文句を言ってはいけない」となります。
「文句? そもそも、そんなに文句なんて言ってないから、ピンときませんけど」って?
ハイ、たしかに声に出して正面きっては文句を言わないかもしれません。だからといって、言っていないというわけではありません。本当に自分自身に正直になったとしたら、誰でもこころのなかでは文句のオンパレード、文句のたれながし状態であることに気がつくかもしれません。
文句というのでわかりづらいようであれば、「批判すること」、あるいは「ムっとすること」「見下すこと」「ひとこと言っちゃうこと」「自分のやり方にしたいこと」。これらは、みんな文句です。
コントロールできない笑いと同じで、文句もいつ、どんな場面で飛びだしてくるのか、自分でもまったくわかりません。
そして、じつはこの無意識のうちに日々やってしまっている文句こそが、自分が目にする世界の彩りや安らぎ感を決定的に決めている重要な要素なのです。
文句を言うことで、自分の目にする世界にどんな影響がでているのかというと ・・・。
文句を言うことは、ひとつの流れである「あるがままである、そのままのもの」(完全無欠であるひとつのものと考えるといいと思います)に対して、挑戦をいどんでいるのです。いちゃもんをつけて、あるいち部分だけ切り離してしまうように攻撃しているわけです。
完璧にしあげられた一枚の絵があるとして、それに対して「この部分はないほうがいいでしょ」「ここはおかしいでしょ」と色を変えたり、切り取ったり、構図を変えたり ・・・ 自分の好みでメタメタにしているようなもの。
何の問題もなかったところ(完全な一枚の絵)に、「私」の好みという他の誰も理解できない個人的な理由でケンカを売っているようなものなのです。
メタメタにしちゃったあげく、なぜか自分でその惨状をなげいているわけです。本当は、自分があれこれ言うまでは何の問題もなかったはずなのに ・・・ です。
そして私たちは無意識のうちに、自分がメタメタにしたのがわかっているので、罪悪感を感じます。
罪悪感を感じているということは、それに対する裁きがあって当然であると信じているので、外側に自分に対する裁きを見るようになります。
それが自分にとっての、問題や困難となって見えるというわけです。たんに自分自身の「文句を言う」気持ちが外側に投影されたものを見ているにもかかわらず。
だから、「あるがまま」であるものをただあるがままにしておくためには、「文句を言ってはいけない!」のです。
あの「笑ってはいけない」で次から次へと笑いが仕掛けられてくるように、私たちのエゴも次から次へと不平不満のポイントに見えるようなことを仕掛けてきます。裁け裁け、そして苦しめ苦しめと。
「ホラ、見てごらんよ。あの人、あんなことしているよ。間違っているよね。おかしいよね。ヘンだよね」「この人、こんなことも知らないんだよ。恥ずかしいよね。笑っちゃうよね」「あきらかに、この人より自分のほうがうまくできるよね。優れているよね」「何やってるんだよ。ダメだな〜」「ホント、みんなおバカさんばっかりだよね」 ・・・ と次から次へとけしかけます。
エゴはすぐに飛出してきて、すかさず口を開くことで「あるがまま」を台無しにしようとします。本当にどれだけ巧妙に「優越感を感じようとしているのか」「自分のほうが上だと思おうとしているのか」気づいてみてください。ほんの小さなことでも、目のまえにいる相手と競争しているのに気がつくかもしれません。
そして、エゴのこんなくちぐるまに少しでものってしまうと、さらに自分の罪悪感をふやすこととなり、その結果として自分の人生に困難をふやすことになってしまいます。
でも、突発的に「文句を言ってしまった」としても、あの番組のように誰もその場ではお尻をたたきにやってきません。だから、ついつい気づかずにやりつづけてしまいます。そして、知らず知らずのうちに嬉しくない現実を目にするようになってしまうのです(だったら、その場でお尻をたたいて矯正してもらったほうがずっと親切ですが・・・)。
ほんとうのところ、やってくる現実に対しては、「口を開いてはいけないし(文句を言ってはいけないし)」、「指一本ふれてはいけない(コントロールしようとしてないけない)」のです。
「そのままであるものを、あるがままにしておくこと」こそが、私たちがしなくてはいけない唯一のこと、と言ってもいいかもしれません。
どこまでじっとしていられるでしょうか? 口をつぐんでいられるでしょうか?
そのとき、エゴが何て叫んでいるのか、耳をすませてみましょう?
「早く攻撃しないと(文句を言わないと)、自分の無能がばれる」・・・とでも言っているでしょうか? そう、すべての攻撃は怖れからやってきています。
そんなエゴの動きを観察してみてください。ただシラ〜っとながめてみてください。
ただ静かにエゴの動向を見守ることで、エゴはすごすごとおとなしくなります(お尻をたたかなくってもね)。
なので、どんなポイントで無意識のうちに裁いているのか、文句を言っているのか、不平不満を並べているのか、ムカっときているのか ・・・ エゴの動きを観察してみましょう。
ただエゴの動きに気がついて、見ているだけで、のっとられることが少なくなります。万が一、エゴのくちぐるまにのってしまったとしても、すぐに気がつくようになり、それ以上つづけられないし、またやめられるようになるのです。
あるがままの現実に対して口を開かないこと、つまり自分のこころのなかの文句が減るだけで、目にする世界の様相が変わってくるのに気がつきます。
「あるがまま」というものを信頼できるようになるし、また「あるがまま」を受けいれることでまったく新しい可能性というものに気づくようになります(同じ反応から生まれていた旧いパターンから解放されます)。
なぜなら、目にする世界のキケンは、自分のからだ全体から出しているハリ(そう、ハリネズミのように)が、世界という鏡にうつっていただけだったのですね。
どのような世界を目にしようとも、結局それは自分の考えの結果なのですね。
お笑いで人生に華をそえることも大切だけれど、「文句を言わない」ことでありもしない問題をわざわざ作りださないこともとても大切なことです。
思わず「文句を言っちゃったら」、こころのなかで笑いながら自分のお尻をたたいておきましょう。こうして気づいていくうちに、文句を言いそうな気配に気づいてくいとめられるようになり、まただんだん文句の数も減ってくるようになります。
ゲーム感覚で楽しんじゃいましょう!
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Q: いつも同じ問題をくり返している気がします。どうしたらいいのでしょうか? だんだんうつ手がないように感じています。
A: そうそう! よく観察してみると、いっつも同じことのくり返しじゃない!?(汗) ということ、よくあります。
うつ手がなくて「無力感」を感じている? それは、それは、オメデトウございます! (*´︶`*)
ヨイ知らせです、それは。なぜなら、「無力感」を感じない限り、私たちは「自分のやり方」というものが古くて役に立たない、ということに気づくことができないからです。気づかなければ、手放すこともできません。
行き詰まったと感じたときこそ、やっと正しい方向転換へと腹をくくることができるのです。
私たちが永らく本当だと信じてきたことの多くは、役に立たないどころか、少しづつ自分の首を真綿で締めあげるように自分自身を破滅へと向かわせるものだったのです。
でも、そのことは本当に苦しくなるまでは、なかなか気づくことができません。
くり返し起こる問題 ・・・ パートナーシップや職場での人々との葛藤、自分のこころのクセから起こる苦しさ、経済的な困難やらキャリアにかかわるあれこれ。乗り越えた!と思ったら、ありゃ!? また同じことが起こってる? いち難さって、またいち難。そんなくり返しです。(あきらかに、何かがうまくいっていないわけです。)
そんな問題に直面すると、私たちは自分の知識を総動員して、あるいは人の知識もかりながら、選択し、決断し、努力をし、頑張ってゴールを目指します。
でも、私たちが「行動」というものを起こすとき(どんな行動であろうとも)、それは何かを手にするためであり、何かを手にしたいと思うときは必ず欠乏感があります。そして、その欠乏感の根底にあるのは怖れです。つき詰めれば、欠乏のはてに「死んじゃうよ〜!」という怖れ。
そこで思い出さなければならないのは、「動機」と「結果」はイコールである、ということ。
私たちが「行動」を起こそうとするときは決まって、「怖れ」ています。すると、このルールどおり、どのような行動をとろうとも、努力をしようとも 、それは「怖れ」から発するものであり・・・ 何をしようとも、スタート地点と同じ「怖れ」に戻ってきてしまうということなのです。
頑張ったのに、着いたところは同じところ ・・・。
怖れを感じているのはいつも「個人(エゴ)」であり、「個人」として考えているときには、それはまるで針の穴から世界全体をのぞいているようなもので、ほんのピンポイントでしか見えていないために、何も正しい決断ができない状態です。
小さな個人が使う思考というもの自体が、個人の限られた経験と狭い視野をベースにしたものなので、これを今起きている状況にあてはめようとすると過去と同じパターンになるのです。
目のまえにある現実というものは、たった今、この瞬間にあるものなので、じつは過去とも未来とも関係をもたない(時間軸にない)ものです。
その現実を真新しい絵にたとえると、過去の思考を使うということは、そこに古いびたカピカピの絵の具を塗りたくり、過去とまったく同じ古びたものに変えてしまう、ということなのです。案の定、以前と同じに見えます。
「怖れ」からスタートした問題解決が「怖れ」に帰着することと同様に、「思考」で解決しようとすることもうまくいかない原因のひとつです。せっかくのまっさらな新しいものに、いつも過去という古く重たい絵の具をべったりとぬりつけることで、それを新鮮みのない同じパターンのものに変えていたということなのです。
だから、「怖れ」に基づいた意図や行動や努力も、また「考えること」で解決しようとすることも、自分の足をひっぱり過去につなぎとめる結果となり、同じことがくり返されているように感じるのです。
では、どうすればいいのか? というと、「なにもしないこと」なのです。
状況に対して、降参します。明け渡します。
「なにもしない」なんて、私たちの常識ではいちばん無力で、いちばんふがいなく、いちばんおバカで無意味に感じられることかもしれません。(そういった意味で、価値観を180度変えて方向転換する必要があるのです。)
どのような問題にしろ、問題の解決の鍵は「受容」、「受けいれること」に尽きます。(コントロール、抵抗、努力、意図のない状態です。)
「受けいれる」とは、個人(エゴ)がないこと。つまり、思考のストップ。沈黙。明け渡し。開放性。あるがままとして赦すこと。自分が見ている画面とひとつであること。自分が世界になること。
目のまえの状況に対して、口を開かず、手もふれません。つまり何ひとつ文句を言わず、コントロールしようとしない状態で、完全に受けいれて、流れに身をまかせること。
受容しているときには、「私」という小さな個人がいなくなり、全体のなかからすべてが生まれてきます。そして、それは過去のパターンに縛られない真新しいものであり、正しい反応なのです。(しかし、個人が口を出したとたんに、過去のパターンに塗り替えられます。 ご注意を!)
インドの賢者も「受容が起こると、カルマを超越し、カルマは無効にされる」と言われていました。
「受けいれる」ことで、すべては生まれてきた源(気づき)のなかへと消え去ります。それが本当の問題の終わりです。
「自分が誰であるかわかるまで、問題はなくならない」といいます。
それは、自分というものが自分が見ている画面のなかの小さな個人だと思っているうちは、世界との軋轢はなくならないということです。
自分の見ている意識のなかに世界のすべてが納まったとき、全体が調和する解決策が浮かぶようになるようです。それが正しい視点であり、正しい解決策。
だから、個人であるエゴが自分だと信じているうちは、問題が見えてあたりまえであり、自分が意識であるということに気づきはじめると、その考え方にあった世界が知覚されるようになります。
つまり、個人が退くことによって、本当に自分がイキイキと姿を現すようになり、そこから正しい流れが生まれるようになるのです。
だから、同じような問題がくり返されていると感じるときには、あせっていつものパターンで解決策を考えることなく、まずはじっくりと「受けいれる」ということに徹してみましょう。
そして、「受けいれる」ということをはじめると、とてつもない感情の大波に出くわしたりします。
あまりにも大きな感情で、手におえないように感じるかもしれません。
じつは「問題」とは、その大きな感情を避けて隠し通しておきたいがために、カモフラージュとして気をそらすために使っていたものです。「問題」にかかづらっていさえすれば、この感情に気づかなくてすむ、向きあわなくてすむ、とばかりに。
だから、直面して受けいれて感じなければならないのは、その「感情」そのものなのです。その「感情」を処理しない限りは、問題を作り出すことをやめられません。
さて、この避けつづけてきた感情をどう「受けいれ」ましょうか?
大丈夫、個人としてでなく、気づきのスペースのなかで「名札・言葉・セリフ(怖い・つらい・・・)」をつけずに、ニュートラルな「感じ」としてただ感じてみてください。
そう ・・・ ただバリバリッと感電するような感じです。強い衝撃を感じるかもしれませんが、感電と同じです。名札をつけなければ、ただの「感じ」となります。ただそれが通りぬけて行くだけです。
そしてそれは、その意識のスペースのなかに溶けて消えてゆきます。ついに消滅します。終わりとなります。
そしてようやく、真の問題の原因となっていたイヤな感情を片づけることに成功します。
そして感情を片づければ片づけるほど、意識(気づき)としての自分の解放感や安らぎを感じることができるようになります。ものごとが正常な流れとなるのです。
パターン化している問題を見つけたら是非、勇気をもって「受けいれて」、こころのお掃除をしましょう! 脱パターン化をはかりましょう!
そのうち、今までの縮こまって怯えている小さな自己ではなくて、ゆったりどっしり自由な自分が姿をあらわし、そのなかで人生が違った見え方がするようになるかもしれません。
「受けいれる」ことを練習して、春とともに新しい現実を迎えいれてみましょう♪
PS 同じ問題がくり返されるとき、正しく対処していても、依然として同じ問題がくり返されることもあります。
それは、処理が順調に進んでいる場合です。ハイヤーセルフが「順調にいっていますね。じゃあ、いらないこころのなかのジャンクをどんどん片づけてしまいましょう」ということで、同じようなイメージでそれが見えるためにくり返しているように感じる場合もあるのです。
その場合には、じゃんじゃん受けいれて、こころをさっぱりして、真の自分を取り戻しましょう!
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私たちが問題を感知するとき、それは感情が反応しているときです(この状況は緊張する!など)。その感情の反応は、自分が信じていることに基づいて起こります(私はものごとに正しく対処できないと信じている、だからコワイ、緊張する)。
しかし私たちは、その思いの結果としてあらわれた世界のことにばかりに気をとられているのです(なぜこれはこうなんだ!この状況をどうにかしよう)。
よくよく自分のこころを観察してみると、一日じゅう世界に対する「抵抗」や「不満」のセリフがくりかえされていることに気づくかもしれません。「なぜこうなんだ・・・」「あの人がこうしていなければ・・・」「私の思うようになっていさえすれば・・・」云々。
エゴは、抵抗するか、攻撃するか、不平不満をいうか、引きこもるか ・・・ これ以外にお役目がないのです。アタマのなかに不平不満がなくなったらエゴは消え去ってしまう運命にあるため、エゴは存在をかけて抵抗し、不平不満をいいつづけるわけです。
毎瞬、毎瞬、抵抗と不満というエゴのセリフに翻弄されるあまり、「そこに問題があるから、自分が困っている」ように感じさせられてしまいます。
そしてその結果、わたしたちはあたかも問題が「存在するかのように」感じてしまうわけです。
問題が「存在するかのように」感じる? ってことは、じつは「ない」?
そうなんです。
エゴが黙るということは、「これが問題だ!」「あれが気にくわない」というラベリングがなくなるため、ラベリングがなければ問題さえ生まれることができなくなってしまいます。
私たちはつねに「こころが決めたものを目にする」ので、「これが問題だ」という決めつけがなくなることで、自ずと知覚するものが変化します。そこには、もとから存在していた完全な秩序が見えるようになり、自分にとって問題のない安全な世界を見ることになります。
安全な世界は、外からやってくるのではなく、このように内側からやってくるものなのです(安全なこころこそ、身の安全なのです)。
そのためには、抵抗せず、不平不満をいわないで、ものごとを「あるがままに受け入れる」ことが大切です。それが自分の目にする世界に平和を与えることになり、そこから自分も平和を受けとることになるのです。
でも私たちのイメージでは、「あるがままを受け入れる」ってとても非力なイメージがあるようです。「何もしないってどうなの? 」と。なんせ、力で何かを成しとげてなんぼ・・・ の世界で育ってきたのですから。いわば、「抵抗」万歳、「不平不満」最強だったわけです。
しかし、「何かする必要がある」、つまり身構える必要があると感じるのは、そもそも「それは危険だ」と感じているからです。その「危険だ」という思いこそが、じつは凶器そのもの。自分を危険な状態においてしまう原因なのです。
そう考えると、やはり「あるがまま」で力を抜くことこそ、「向かうところ敵なし!」「平和のなかにいる!」というこころのあらわれなわけです。
「あるがままを受け入れる」ということと、その静かなる「敵なし」パワーを描いたおもしろい映画があります(「チャンス」1979年)。
お金もちが亡くなりました。すると、そこに住み込んでいた庭師のチャンスは居場所を失います。
彼は街に出るのですが、じつは生まれてこのかた住みこみで庭師をし、あとはテレビばかりを観るという生活をしていたので、初めて外の世界にふれたのです。そんな彼は、目のまえで困ったことが起こるとリコモンで画面を変えようとするありさま。テレビ画面と現実の境がないのです。
しかし、チャンスの人生は世界に放り出された日から、あれよあれよというまに勝手に展開してゆきます。彼自身はまったく何もせず、ただ「見て」「受け入れて」いるだけなのに ・・・。
交通事故にあい、事故にかかわった富豪の家で手当をうけるうち、そこの夫婦にたいそう気に入られ、大統領とも友達になったり、そのうち余命いくばくもない富豪に彼の妻のその後も頼まれ、さらに次期大統領候補として追いかけまわされ・・・。しかし、人生に何が起ころうと彼はどこふく風です。
彼の静けさ(テレビを観続けることによって身についた完全なる受容)は、寛大さ、賢さとして人々の目に映り、賞賛を集めます。スマートな紳士というひとかどの人物像ができあがってゆきます。
テレビで養ったチャンスの受容力はすごいです。どんなことにも「YES」しかありません。「だって」とか「でも」など一切ありません。今はやりの「そだね〜」がすべてです。何がきても「そだね〜」です。
だから、プロのカウンセラーも真っ青の受容のお手本のような態度です。相手のなげかけには、すべてイエス「そだね〜」で答え、また共感もばっちり。たとえば女性が「悲しいの」というと、チャンスは「ああ ・・・ 悲しいね」と答え、女性も理解してもらった喜びで「やさしいのね」と彼のことが大好きになります。
彼の批判せず、闘わず、ひたすら受容する態度は、まわりからは穏やかさ、寛容さ、スマートさとして評され、あまたの女性から熱いまなざしを向けられ、実業家からは信頼をよせられ、マスコミに追っかけまわされ ・・・ しまいには、次期大統領候補として注目されるまでに。
つまり、本人はただ存在して「受容すること」をしているだけなのに、あれよ!あれよ!と人生はドラマチックに展開してゆくのです。
チャンスは、究極の受容の形です(このストーリーでは、かなりコメディチックに描かれていますが)。
批判的にならない、不平不満をいわない、「だって」「でも」を口にしない ・・・ というだけでも、自分の目にする世界に平和をもたらして大きく変化させることができます。
平和な心、おだやかな心こそが外側に映しだされて、自分に平和な世界を見せてくれる唯一の原因だからです。
世界を自分の都合のいいようにいじりまわす努力をするよりも、ただ外と闘わない(=外は安全)という態度こそが大切なのです。闘わないからこそ、受容する。受容するからこそ、ここは安全。そして、安全の証明を目にすることができる、というわけです。
真のやすらぎのある世界には、摩擦となるものがありません。チャンスは、人や世界に完全にこころを開いているので摩擦がまったくないのです。
「受容」は「この世界は安全だ」という信念のあらわれで、それこそが安全をみるために大切なことなのですね。
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剣を手にしたとたんに、対戦相手が立ちあらわれる
・・・ なんだか、今どきのゲームのスクリーンみたいですね。
これは私たちが日々やっていることとなんら変わりがないのです。
「剣? そんなぶっそうなモノ、私は身におぼえがありません」って?
「剣」とは、こころにいだく「判断」や「批判」「ぷちイラっと」な攻撃の想いのことです。
この「剣」が合図となり、目のまえに闘いの世界が立ちあらわれます。すべては自分の「想い」から始まるのであり、自分のこころこそがスタート地点となります。
この主人公は「剣(判断・批判・攻撃)」なしでは、この世界を生き延びられないと信じています。
なぜなら、つねに自分の信じているルールをおびやかされて不安になるからです。そのため、危険を察知するやいなや、判断・批判・攻撃の「剣」をふりまわします。やられるまえになんとか優位に立ちたいからです。その剣によって自分もボロボロになるのですが、ここのキケンさにはかえられないのだと信じています。
しかし、「剣(判断・批判・攻撃)」など使わなくてすむ愛とやすらぎのゲームもごまんとある、ということをすっかり忘れています。自分のこころが「これ」を選んでいるということがわからなくなっているのです。
そろそろこの主人公も、「剣(判断・批判・攻撃)」をおいてもいいときなのです。さもないと、身体が傷だらけになりこれ以上闘えなくなるか、にっちもさっちもいかない状態においこまれることになります。
彼(彼女)は、ほんとうは何を見たいのでしょうか? どんな世界を体験したいのでししょうか? どこを目指しているのでしょうか?
ほんとうは、「その目的こそが目にするものをきめている」ということを忘れています。
私たちはどんなときにも、自分の内側の世界を外に見ています。それが見るということなのです。
「剣」さえない愛とやすらぎの世界は、「剣(判断・批判・攻撃)」の威力に頼りきり、「剣」によってこそ支配できると信じている者には、とうてい見ることができない世界です。
「剣」でどうにかしようとしても、さらなる怒りや復讐という闘いのストーリーをつむぐだけであって、結局のところ「剣(判断・批判・攻撃)」を握っている限りは、平和とか、幸せとか、愛というものとは無縁なのです。「剣」に頼ることでこころのやすらぎに到達することはできないと、知らなければなりません。
こころは常に「思っているとおりにしか見せてくれない」ことを、思い出さなければなりません。愛とやすらぎにあふれた世界が見たいのであれば、「剣(判断・批判・攻撃)」を大切にすることよりも、自分のこころの愛とやすらぎの想いがやどる部分にしっかりとチューニングする必要があります。
でも、長いあいだ闘いの習慣によって、闘いのみを信じるこころの部分だけがイキイキと活気づいています。愛とやすらぎ担当の部分は、まるで気絶したかのように存在が消えうせたようになっています。そのため、なかなかこころの方向を変えられずにいます。
それでもちゃんと、愛とやすらぎの部分は存在しています。それこそが、本当の自分のこころだからです。
そんなときには自分でどうにかしようとせずに、自分の正気の部分である高い自己(ハイヤーセルフ・天使といってもよいのですが、源・神からの直感などの導きを送ってくれたり、やすらかな道にナビをしてくれる頼もしい存在です)にお願いして、「剣(判断・批判・攻撃)」を頼りにしそうになっているこころを正してもらい、愛とやすらぎの状態へとこころを方向転換してもらわなければなりません。
私たちはこの高い存在に安全に守られて導かれいるという信頼の感覚なしには、なかなか安心して「剣」をおくことはできないからです。
なんせこころは、「やられてしまうに違いない、そのまえにどうにかしたい」と言いはってやめないのですから。それぐらいこわがりさんなのです。
だから、なかなか自分ひとりでは間違った考えを手放すことができません。そのため、平和な世界を見たいと思うときには、助けが必要なのです。大きな存在にすでに守られているという、「信頼」と「安心感」が必須となります。
小さなこどもでも、「ママに見守られている」という信頼のあるこどもは安心して冒険にでることができます。なにがあっても戻ってくる場所があるし、また見守ってくれている存在があるという安心感があるから勇敢になれるのです。チャレンジできるのです(そんな意味でも、こどもの頃の「安全の感覚」は大切です。)
自分にもいつでも守ってくれているハイヤーセルフという存在がちゃんといて、いつなんどきでも自分にとってのセイフティーネットになってくれるんだと信じることができていれば、剣を手放す勇気ももてるようになるのです。
この世界を生きていくとき、「剣」に頼るのか(つまり攻撃を前提とするのか)、それとももともと守ってくれている大きな存在を信頼するのか、それによって「攻撃や痛みを見る」のか「攻撃や痛みとは無縁の世界を見せてもらえる」のかが決まるのです。
「攻撃のない世界」を見るということは、高い意識の力をかりながら、自分のこころのなかにある「怖れや罪悪感の思い」を正してもらうことで、本来の怖れのないこころの状態に戻してもらうことです。
どんなときでも「自分のこころで信じていることが見える」のであれば、怖れを手放すことで、自分の世界に怖れや痛みを反映することがなくなります。
今までは自分のちからをブイブイいわせて、なんでもかんでもコントロールしようとしてきたのを、ひとつひとつ高い自己のもとにおくようにしなければなりません。(本当はそうすることこそが、いちばんの安全であり、たったひとつの間違いのない道なのですが。)
いったん高い意識にお願いするお気楽さと安全性を知ると、日溜まりでリラックスしていても大丈夫だと安心できます。そうしたら、もう誰もホラーや戦闘のストーリーのまっただ中に身を投じたいと思わなくなります。
そのためにはまず、自分の高い意識との関係を築きはじめることです。永らく断絶してきた関係を修復することです。
それは難しいことではありません。日々お友だちや家族にするように、ハイヤーセルフに話しかけて、尋ねて、信頼して、耳を傾けることです。すると、直感や自然な行動として、安全に導かれるようになるのです。
そう考えると、お友だちや家族も大切だけれど、まずいちばん最初にコミュニケーションをしなければならない存在は、自分自身の高い自己だとわかります。その高い自己との信頼関係こそが、「剣(判断・批判・攻撃)」などというチャチなものは必要ないと気づかせてくれます。
ハイヤーセルフの手をとって(ハイヤーセルフの手をとったら、もう剣は握っていられません)、愛とやすらぎの世界へと導いてもらいましょう。
「私は、闘いよりも愛とやすらぎがほしいんだった!」とはっきり自覚し、それをハイヤーセルフに伝えることで、「剣」とは無縁の本来の正しいこころの状態へと方向転換をすることができるのです。
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いつも診ていただいている先生のところで「前回、風邪をひいたのはいつですか?」と尋ねられたとき、しばらく考えこんでしまいました。それぐらい元気な最近です。
ところが、数日まえ、ふと ・・・水も飲めないぐらい自分が弱ってる、そんな具合の悪そうな画像がアタマをよぎったのです。「うわ!こんなのやだわ」とスルーしました。
そうしたらほどなく ・・・ 水さえ飲めないまったく同じ症状にみまわれてしまいました。十数年ぶりに三日間ほどダウンしてしまったしだいです。
本日より、めでたくやわやわと営業開始です(予約変更で大変ご迷惑をおかけいたしました)。
「考えには力があるから、そんなことを考えたからそうなったのではありませんか?」と思われるかもしれませんが、じつは私たちの考えが影響するというのはそのような細々としたレベルのもののことではなく、もっと根幹にある考えのことです。
一瞬一瞬よぎる細々とした考えこそが、そのベースにある信念の結果なのです。
そして、そのようなイメージというのは考えるまでもなく、勝手にやってくるものです。じつは自分でそれを阻止することもできません。(自分で好んでイメージしたり考えているのではなく、どこからもなくやってくるだけです。)
この場合は、少し先にある情報をキャッチして、そのようなイメージとなったようなのです。
時間というのは、「たった今、すべてが一瞬に起こっている」と言われています。
つまり、カルタがきっちりとそろえられて、一つの山にまとまって置かれている、というのが正しい時間のイメージです。(この場合、カルタの札は透明で、上から全部が一度に見通せるような状態です。)
ところが私たちはなぜか、時間をすべて横並び、一列にして、端からちょっとずつ、ちびちびと眺めているようなのです。すると、一枚のカルタを見ているときも、お隣や二枚先のカルタが何気で目に入ってしまったりします。絵札なので、目のはしに映るだけで何なのかがわかってしまうのですね。
これがいわば、わたしたちが未来をかいま見てしまう瞬間です。だから、目のよい人、視野の広い人は、ずっと先の札までも、あるいは今回の人生よりも前の札までも、そして自分だけでなく他の人の札も見えてしまうわけです。(これは耳のいい人、鼻のいい人がいるのを同じで、超人というわけではありません。ちょっとした特技と同じです。)
ときどき、「前世がわかる、未来がみえる」というだけで、覚醒しているように思ってしまうことがありますが、ただ認識する力の問題なので、それは「こころの目覚めの状態」とは何も関係がないのです。そして、「こころの目覚めの状態」とは、この画面の外に出て個人を手放せたときのことをいいます。
どうやら私は、ふと数枚先の「具合の悪い」札をちらりと見てしまい、「ああ、いやだ!」と反応していたのでした(苦笑)。
このように、誰でも何枚か先の札をふと目にすることがあります。何気に脳裏をよぎるイメージや感覚、言葉、感情が、これから起こることを教えてくれていたりするのです。
だから、「なんでこんなイメージが出てきたんだろう?」というときには、「もしや?!」と思ってみると、これから起こることに供えることもできるかもしれません。
しかし、「ああしたい!」「こうしたい!」「これはイヤだ」などの欲求や怖れの気持ちが強いと、それらはかなり強いパワーがあり、そのようなかすかなイメージをかき消してしまいます。メッセージを受けとりたいときには、自分の内側を静かにする時間を持つことも重要なのです。
もしよからぬ何かがよぎってしまって「あ、いやだな」と感じたら、ハイヤーセルフに渡して「これは望みません」と取り消しをお願いすることで回避することもできるのです。
具合が悪すぎて、寝るに寝られず、楽しくないトランス状態を漂っていたのですが、怒濤のごとくさまざまな考え(考えといっても、まったく言葉でもイメージでもないのですが)を受けとることになりました。
でも、元気になるにつれて、指のあいだから砂がこぼれるようにどんどん消え失せていきます。
今回、「なんでこんなに具合が悪くなったの?」と、まわりの方々をはじめお医者さんが原因をつきとめようとします。わたしも、最初はなぜだろうと考えていました。そうしたら、うつらうつらしながら「なぜ? にひっかかってはいけません」とメッセージがきました。
おお! そうでした! 私たちはすぐに、「なぜ?」と言いたがり、それによって大切なことを忘れます。これも、エゴのトリックが隠されています。
これは、また次回に書かせていただいますね!(*´∀`*)ノ
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
いつも診ていただいている先生のところで「前回、風邪をひいたのはいつですか?」と尋ねられたとき、しばらく考えこんでしまいました。それぐらい元気な最近です。
ところが、数日まえ、ふと ・・・水も飲めないぐらい自分が弱ってる、そんな具合の悪そうな画像がアタマをよぎったのです。「うわ!こんなのやだわ」とスルーしました。
そうしたらほどなく ・・・ 水さえ飲めないまったく同じ症状にみまわれてしまいました。十数年ぶりに三日間ほどダウンしてしまったしだいです。
本日より、めでたくやわやわと営業開始です(予約変更で大変ご迷惑をおかけいたしました)。
「考えには力があるから、そんなことを考えたからそうなったのではありませんか?」と思われるかもしれませんが、じつは私たちの考えが影響するというのはそのような細々としたレベルのもののことではなく、もっと根幹にある考えのことです。
一瞬一瞬よぎる細々とした考えこそが、そのベースにある信念の結果なのです。
そして、そのようなイメージというのは考えるまでもなく、勝手にやってくるものです。じつは自分でそれを阻止することもできません。(自分で好んでイメージしたり考えているのではなく、どこからもなくやってくるだけです。)
この場合は、少し先にある情報をキャッチして、そのようなイメージとなったようなのです。
時間というのは、「たった今、すべてが一瞬に起こっている」と言われています。
つまり、カルタがきっちりとそろえられて、一つの山にまとまって置かれている、というのが正しい時間のイメージです。(この場合、カルタの札は透明で、上から全部が一度に見通せるような状態です。)
ところが私たちはなぜか、時間をすべて横並び、一列にして、端からちょっとずつ、ちびちびと眺めているようなのです。すると、一枚のカルタを見ているときも、お隣や二枚先のカルタが何気で目に入ってしまったりします。絵札なので、目のはしに映るだけで何なのかがわかってしまうのですね。
これがいわば、わたしたちが未来をかいま見てしまう瞬間です。だから、目のよい人、視野の広い人は、ずっと先の札までも、あるいは今回の人生よりも前の札までも、そして自分だけでなく他の人の札も見えてしまうわけです。(これは耳のいい人、鼻のいい人がいるのを同じで、超人というわけではありません。ちょっとした特技と同じです。)
ときどき、「前世がわかる、未来がみえる」というだけで、覚醒しているように思ってしまうことがありますが、ただ認識する力の問題なので、それは「こころの目覚めの状態」とは何も関係がないのです。そして、「こころの目覚めの状態」とは、この画面の外に出て個人を手放せたときのことをいいます。
どうやら私は、ふと数枚先の「具合の悪い」札をちらりと見てしまい、「ああ、いやだ!」と反応していたのでした(苦笑)。
このように、誰でも何枚か先の札をふと目にすることがあります。何気に脳裏をよぎるイメージや感覚、言葉、感情が、これから起こることを教えてくれていたりするのです。
だから、「なんでこんなイメージが出てきたんだろう?」というときには、「もしや?!」と思ってみると、これから起こることに供えることもできるかもしれません。
しかし、「ああしたい!」「こうしたい!」「これはイヤだ」などの欲求や怖れの気持ちが強いと、それらはかなり強いパワーがあり、そのようなかすかなイメージをかき消してしまいます。メッセージを受けとりたいときには、自分の内側を静かにする時間を持つことも重要なのです。
もしよからぬ何かがよぎってしまって「あ、いやだな」と感じたら、ハイヤーセルフに渡して「これは望みません」と取り消しをお願いすることで回避することもできるのです。
具合が悪すぎて、寝るに寝られず、楽しくないトランス状態を漂っていたのですが、怒濤のごとくさまざまな考え(考えといっても、まったく言葉でもイメージでもないのですが)を受けとることになりました。
でも、元気になるにつれて、指のあいだから砂がこぼれるようにどんどん消え失せていきます。
今回、「なんでこんなに具合が悪くなったの?」と、まわりの方々をはじめお医者さんが原因をつきとめようとします。わたしも、最初はなぜだろうと考えていました。そうしたら、うつらうつらしながら「なぜ? にひっかかってはいけません」とメッセージがきました。
おお! そうでした! 私たちはすぐに、「なぜ?」と言いたがり、それによって大切なことを忘れます。これも、エゴのトリックが隠されています。
これは、また次回に書かせていただいますね!(*´∀`*)ノ
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
前回のブログで、具合が悪くなったときに「なぜ?」と原因探しをするのはやめなさい、と教えられたことをチラリと書きました。で、つづきはまたね!と終わったのですが・・・。
その後、何人かの方から「あのつづきはどうなりました? 私もすぐに原因探しをしちゃうたちなので、気になっているのです」とメールをいただきました。
ひゃひゃっ(汗)。自分のなかだけで完結してしまったため、すっかりアタマから抜け落ちておりました。ご愛読にあらためて感謝いたします。
では、つづきを!
私たちのエゴは、「なぜ?」「どうして?」「なんでこうなったかな?」が大好きなセリフのひとつです。
なぜなら、「なぜ?」と言ってしまったとき、パワーは外側へとうつってしまうからです。「あんなことを思ったのがいけなかったんだ」「あれをしなかったからに違いない(したからに違いない)」「あの人のせいだ」「あのとき間違った」 ・・・。
原因ははるか遠くの時間と空間へと引き離され、巧妙にも、そのとたんに自分はなにか得体の知れないものの「被害者」へとなりすましてしまったわけです。
つまり、かよわい私 VS おそいかかる災難のいろいろ、という被害者ストーリー。
でも本当は ・・・ 「原因」などというものはないのです。
「原因」を考えさせることもエゴのトリックのひとつでです。自分をかよわい被害者にして、世界や人やものごとを悪者にし、敵にまわすことで、自分を孤立させ、弱体化させるためのものです。
そうすることで、さらに被害者意識が強まります。
前回のブログのなかに、時間というのはきっちりと重ねられたカルタのようなものだと書きました。
前世も、来世も、あらゆる瞬間がひとつのポイントにまっすぐに積み上がっています。つまり、すべて同時に存在しているのです。
そして、瞬間瞬間をあらわすカルタの札はそれぞれ完全に独立しているため、他の瞬間とはなんのつながりも影響もありません。どの札も、原因にも結果にもなりえないのです。まさに、一枚づつ存在するカルタのイメージです。
たとえ私たちがそれを横に並べて見ることによって、あるストーリーをでっちあげているとしても、ほんとうはそれぞれの瞬間は独立したもので、そこには意味のあるストーリーというものは存在していないのです。
「なぜ?」と言って原因探しをするとき、わたしたちは完全に違う方向に向かってエネルギーを注ぎ始めています。
あれやこれや文句を言ったり、後悔したり、自分や誰かを責めたり ・・・・。被害者になりすまして、存在しない加害者(悪者)を特定しようとしているのです。
これをしているときに、何が起きているのでしょうか?
完全に自分が「今、そこで感じている気持ち」から注意がそらされていて、ストーリー(思考)という幻想のなかに迷いこんでいるのです。この思考というまがいものは、相手さえしてくれれば魑魅魍魎としたドラマへといつでも連れ去ってくれるものです。
そうなると、自分がそこで感じていた「怖れ」や「罪悪感」、「無価値観」などが完全に置き去りにされることになります。そして、どんどん架空の世界へと入りこみ、架空のドラマで被害者をストーリーを演じつづけられるのです。
これこそがエゴのおもうツボです。苦しみ、怖れという、まさに問題の源である感情になど、焦点をあてて欲しくないのです。
さきほど書いたように、カルタの一枚一枚のカード(起こる一瞬一瞬)はつながりがありません。
だから、「なぜ」はやめなければなりません。答えのない質問だからです。ただ、それはそうなのです。
あえて向き合うものがあるとしたら、今、たった今、問題のようなものを見て「動揺しているこの感情」こそが問題そのものなのです。
目のまえのものを「問題であると決めている、その感情」をしっかりと捉えなければなりません。あますところなく、しっかりと受けとめることなのです。
「ああ、私のなかにまだこんな怖れがある。罪悪感がある、これがあるからこそ、問題のないことろでいつもジタバタ動揺しているのだ」と、気づくことです。
問題というのは、しっかりと意識化されなかったため抑圧された感情がくり返し浮上してきて、目のまえのものにかぶせられ、すかさずそのことが自分をおびやかしているように感じます。
ほんとうは、自分がおびやかされているのは、自分の感情、しっかりと意識化していない感情のせいなのです。
これを受けとめそこねていることから、さまざまな形をとった問題となって同じ感情を何度も喚起させられることになっているのです。パターンは違えども、結局同じ感情を感じる問題が勃発するのです。
「なぜだろう?」はやめて、たった今の自分の感情をじっと、しっかりと受けとめて、感じつくしてみましょう。
今まで、まるでドッヂボールでうまくかわして、ちょっとボールにかすりそうになったけどOK!とのがれていたのを、身体の真ん中、お腹の真ん中で「どすん!」と受けとめてしまいましょう。
あまりに強い感情が出てきて、びっくりするかもしれません。
そうなったら、おめでとうございます! それだけ、いらない感情の棚卸しができて、もう未来にそれを投影する必要がなくなります。確実に怖れが少なくなるのです。
ああだ、こうだ、原因を考えるのではなく、ものごとを「正面から受けとめる(ちょっとも逃げずに感じる)」、そんなことをこころがけてみてください!
そして、私は怖れではなく、私の本来の感情である喜びのなかで生きる! と決め直してみましょう♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「あやまらなくていい場面で、ついあやまってしまうんです」とA子さん。
けれど、「悪いのはあっちなのに、なぜ私が!?」と腹がたってきてしまい、もう無為にあやまるのをやめたいのです、と。
「ごめんなさい」「すみません」は英語の「エクスキューズ ミー」と同じように使われるけれど、ちょっと違うとように感じてしまいます。
「エクスキューズ ミー」は「おっと、失礼!」というような軽い感じで、それはアクシデントだったね!という感じ。一方、「ごめんなさい」「すみません」はもう少しジメっとした罪の意識がある感じで、「私が悪うございました」「私のせいで」的な自分のしたことを責めるニュアンスが含まれているように感じます。
あやまらなくていいところであやまっちゃう、という方は結構多いようです。意識してか、無意識でか、口グセのように「ゴメン!ゴメン!」を連発する方もいます。あいさつがわりに「あ〜、ゴメン!ゴメン!」、何かしてても「あ〜、ゴメン!ゴメン!」。ほとんであいのてのようで、何に対してのゴメンなのかかわからない感じです(汗)。
「ゴメン」という言葉は何気ない言葉のように思えますが、無意識的に「私は間違っている人」という想いをこころにインプットしてしまいます。
そして「私は間違った人です」という信念があると、自ずと外側に「間違った人である証拠」として、自分へのとがめや攻撃を見やすくなってしまいます。
安易な「ゴメン」は自分を痛めつけることになるので、要注意なのです。是非、クチぐせをチェックいたしましょう。自分ではあまりにも無意識になっているせいで、言っていないと思うかもしれません。家族や友人からは、「いっつも言っているよ〜!」と太鼓判をおされるかもしれません。
無意識にとってしまう反応(無意識のゴメン発言)は、そこにどんな思いこみが存在してそれをやっているのかをはっきり意識化することがとても大切なことです。意識化によって、はじめて手放すことができるようになります。
そこで、A子さんのあやまっちゃうクセの底にある信念を一緒に探求してみました。
自分は悪くないと思っているのにとっさにあやまっちゃう → でも理不尽だと怒りがわいてくる → それでもあまやるのは、万が一相手が怒って攻撃してきたら困るから → 私は小さい存在だから守りきれない → どんな助けもやってこないのだから、私一人で守って闘わなければならない → つまり、私は見捨てられているのだ → なんとか自力で守るほかない → だったら、さっさと自分が悪者になってしまえば、攻撃にさらされることもなく丸くおさまる → 私は喜んで間違っているものになりたい → だから、あやまることだ!
A子さんのなかには、こんなふうに孤独に感じている見捨てられ信念が潜んでいて、どんなときでも自分を守るためには「私さえ悪者になれば」あるいは「自分で自分を罰すれば」、わたしは誰からも攻撃されずに安全に生きることができる。安全に生きるためには、率先して自分を痛めつけるに限るのだ、と信じていたのでした。
でも・・・・この考え、いっけんヨワヨワに見えますが、けっこう攻撃的な考えなのです、ほんとうは。
「わたしさえ悪者になって我慢すればいいんです」といのは、「そうです、わたしはあなたの被害者でしょ?」、つまり「あなたは加害者で決まりですね! わたしを傷つけているんです」、「私は、弱々しい正しい人です」、だから「あなたこそ、本当は悪いヤツなんです」・・・ と遠回しに言っているのです。
「わたしはあなたのせいで、我慢しているんです」「心底悪いのは、あなたなのに」と、すっかり被害者になっています。これは口に出していなくても、あきらかに攻撃に他なりません。
そして、こころで思っていることこそ、自分にとっての真実にならざるをえないのです。
これでは、間違った自分のイメージを育むことになり、また人との距離も広がってゆき、世界が自分にとって敵になってしまいます。
自分のこころはこっそりと相手を攻撃したのを知っているので、その攻撃に対するリベンジがやってくることに怖れおののくことになります。
「与えたものこそが、受けとるもの」。攻撃したからこそ、攻撃がふりかかってくることになります。その怖れから、人や世界から自分をさらに切り離して孤立を深めます。自分が幸せになるのを自分が阻んでいるのです。
「ちゃっかり相手を攻撃して、知らぬふりをしている」という罪悪感によって、無意識のうちに自分を罰することで攻撃をのがれようとくわだてます。
大きな問題ではないにしても ・・・ どこかで転ぶ、頭をぶつける、包丁で手を切る、自転車がつっこんでくるなどなど ・・・ 大小あらゆるイタタな、あるいは残念な体験をつくってバランスをとろうとするのです。
A子さんに限らず私たち誰ものなかに、うまくオブラートでカモフラージュされた攻撃の想いが棲んでいます。自分では、まったく攻撃とは気づくことができていません。
そんなうまく隠された攻撃の想いによって、自分で自分の足をすくっていたりするのです。
自分のしょうもないパターンをぶちこわしてあげるには、しっかりと白日のもとにさららし、つぶさに見てあげることが必要です。たまに立ち止まって、自分の言動の意図やら想いをじっくりとながめてみることをオススメします。
あまりにも巧妙に被害者を装っているにもかかわらず、それでもしっかりと攻撃していることに気づき、自ら笑っちゃうことがあります。
でも、笑えたらオシマイ! めでたくGAME OVER です☆
その不毛なエゴの想いは、気づいたらすべて高い意識に渡してしまい、こころから取り去ってもらいます。そして、隠されていた本来の自分の想い(闘いなど知らない安らぎ)へと戻してもらいましょう。
ゴミさえ捨てることで、いつでも真実はそこにあるのです。
外のあれこれなどまったく関係なく、そこに隠されていた安らぎ、安心、豊かな思いこそが、本当に安全で安らかで豊かな人生に大切なものです。そのこころからこそ、完全に安らかな世界の知覚は立ちあらわれるからです。
外はカゲロウ。自分のこころのイメージにすぎません。自分のこころを整えることで、そこにすでに備わっているものは自然と世界へと輝きだしてくれるのです ☆☆☆ それが、ゆるぎない安全のある世界です ★★★
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「私たちのこころにある秘められた目的が、何を目にするのかを決めている」
「秘められた」ってことは自分でも気づくことができない想いがこころにあり、それこそが自分の目にする世界をつくっている?!
私たちは物理的な世界に住んでいて、その物理的な世界は自分の外側に存在している、と信じています。そして、その世界からやってくる刺激の数々に反応し、折り合いをつけること。
それが、私たちが考えている「生きること」。
でも、(現在の量子物理学でも言われていますが)じつは世界とは私たちのこころのなかに存在しているイメージであると言われています。つまり、意識がただ夢を見ている状態です。
そして、自分でも気づくことがない秘められた「こころの想い」というものを、つねにイメージにして世界という形で見つづけているというわけです。
実際、外側というものは存在せず自分のこころが発信しているならば、目にするものに反応してしまうと、自分のこころのなかにある思いこみをどんどん強化することになります。
知らぬまに、世界という形をとった自分の思いこみの被害者になってしまいます。自分は外と闘っていると思っていても、じつは闘っている相手は自分自身なのですね。
人生とは、自分の外側に存在する世界とかかわることだ ・・・ と信じる時点で、私たちは世界という名の自分のこころのなかに閉じこめられてしまいます。自分のこころがつくりだしたイメージの、登場人物の一人と化してしまったのです。
世界というものは、自分が信じていることしか映しだせないのだとすると、同じことのくり返しを生きることになります。景色は変わっても根底にあるパターン・力動は変わらないからず、なにかが同じなのです。
昼がきて夜がくることも、暑い日があって寒い日があることも、大雨があって干ばつがあることも、生まれて死んじゃうことも ・・・ 私たちのこころが正気でないことをあらわしているイメージにすぎません。こころが分裂していることから、つねに相反する二つのあいだを行ったりきたりする二元性という葛藤に悩まされているのです。
そうなると、人生も登ったかと思うと下って、下ったかと思うと登る ・・・ これもこころのなかの二元性のあらわれであり、当然の成りゆきとなります。
しかし、私たちは自分で何がどうなっているのかまったくわかっていないので、それを修正するすべがありません。
そもそも、目に映るものが自分の外にあると思ってしまった時点で、コントロール不能になってしまい、世界 対 自分という葛藤のドラマに巻きこまれてしまったのです。さらに、その被害者であると信じることで、自分のこころのなかの世界にどんどん取りこまれてゆきます。
何かがうまくいかなくなったとき、必死で外側のことを変えようと努力すると ・・・ 一見うまくいったように思えても、じつはなかなか長続きする結果にはつながりません。
なぜなら、自分に何かを思いこませたり、信じたりという表面的なこころのパワーを使って変化を起こそうとしても、少しは変わったような錯覚は起こっても、やはりそれは表面だけのこと。心底のパターンが変わるという、真の変化にはいたらないのです。
じゃあ、真の変化はどこからやってくるのでしょうか?
それは、こころのなかに囚われている自分(この世界にいる自分)に頼らなくなったときです。こころのなかの世界の囚われ人には変える力がありません。
囚われ人がホンモノの自分であるはずがないからです。これがニセモノであるなら、必ずホンモノがいるはずです。
まずは、「目にしてることにだまされない」ことが重要です。「自分が見ていることは、こころが見たいように見ているからそうなっている」ということを理解する必要があります。こころによって、知覚は自在に変わるからです。
「ヘンなものが見えている!」「ああ、これは私のこころ自体がおかしいからだわ」と、過度なリアクションをすることをやめます。
そして、「自分のこころは、じつはこのような葛藤(問題)を信じていたのだ」と改めて認識します。私こそが望んでそれをしていたのだ、私がこうしていたのだ、ということを受け入れます(被害者をやめます)。
私はイメージのなかに囚われている人なのか、それともそれを外から観察している存在なのか、もう一度選びなおします。
イメージの外にいる制限のない存在、大いなる無限のワンネスとひとつである存在であるなら、自分の当然の権利である完全さを求めてよいはずです。
囚われ人のニセモノの自分を頼りにすることなく、自分の正気の部分である高い意識(ハイヤーセルフと呼んでも、スピリットと呼んでも、エンジェルでもかまいません)とつながり、訂正のお願いをします。「自分がでっちあげている世界を手放したい」「ここから脱出して、ほんとうのことを見たい」「ほんとうの自分を体験したい」と。そして、間違ったこころとその結果となった知覚を取り消してもらいましょう。
この取り消しをしてゆくことは、自分の勘違い、つまりこころのゴミを取り除いてゆくことです。
こころのゴミはたまりすぎて、間違った人格を主張しはじめました。私になりすましているニセモノです。ニセモノだからこそ、落ちこんだり、行き詰まったり、とち狂ったことをしてしまいます。
結局、自分の人生に立ちはだかるように見える障害は、どこか外側から急にやってくるのではなく、自分のこころがゴミでいっぱいになってしまったために目のまえの世界(というイメージ)をゴミ捨場にしてしまったのです。そして、それを見て「なんでこんなところにゴミ(問題)が!」とびっくりしているだけなのです。
でも、たんねんにこころのゴミを取り除く習慣をつけてゆくと、もう外の世界へゴミ出しをする必要はなくなります。あるがままの自分、ワンネスとしての完全な力をもつ自分が輝きだすことができるようになります。
すると今度は、ゴミの山ではなく、自分のなかにある真の輝きを目のまえに映し出すことができるようになります。この輝きのなかには完全さがあるので、何かを引寄せる努力をする必要も、なにかをクリエイションする必要も、違った自分になる必要もありません。
自然体のこころでありながら、安らかさが感じられるようになります。なぜなら、自分が目にしているのは、自分のこころのなかにあるほんとうの安らぎだからです。
こころのゴミ出しをしてゆくと、ネガティブな記憶、感情、思いこみが少しずつ清算されてゆきます。
それらは、すべて「こんなことがあった!」「あんなことも起こった!」という過去の思いなので、ゴミがどんどんなくなると、自分にとっての過去というものもあまり意味をもたなくなってゆきます。
過去を手放すと、現在の目にするものに対しての見方がまったく変わります。なぜなら、私たちは何を見たとしても、すべて過去の知識、判断、思いこみ、記憶をつかって、「これはどういうものか」「どういう意味があるのか」を決めているからです。過去を手放すとラベリングがなくなり、すべてがただのまっさらな「あるがまま」へと落ち着くのです。
これによって、世界の見え方、意味がまったく変わり、新しい知覚が生まれます。
それはある意味、罪のない知覚、無垢の知覚といえるかもしれません。
この無垢な知覚は二元的ではないので、相反するものを含むことがなく、自分を守ろうとする必要もなくなり、怖れや不安という感情も少なくなってゆきます。
私たちの受けてきた教育では、外に見えるものを判断して、どうするか行動を決めるように教わってきました。
でも、残念ながら真実はまったく逆なのでした。外に見えるものが好きでなかったら、いったんスルーして反応せず、まずは原因であるこころへと立ち返ること。自分のこころのなかのイメージを見ているのだ、と認めること。
そしてこころのなかにある分裂や、攻撃、怖れの想いに気づくことで、それらを危険物処理班である高い意識にひとつひとつ申告して、きっちりと処理してもらうことです(これは、自分のこころのドラマの登場人物にすぎないエゴである自分にはできません)。
ひとつひとつ片づけてゆくと、知覚が変化してゆきます。外にあったはずのすべてが、だんだんこころのなかに戻ってきます(外というものがなくなってきます)。まるで、手袋が裏返るようなヘンな感覚(どんな感覚?!笑)。
そして、必ず自分がもともともっていた輝きや完全さというものにふれる瞬間が多くなってくるのです。そうすると、こころに安らぎが生まれ、より高い意識とのプロセスを信頼することがでるようになります。流れを信頼できると、新たな循環が生まれます。
お部屋もこまめな掃除機がけが必要なように、こころもこんなお片づけの習慣をもってみることによって、アタマで考えているのとはまったく違った変化というものを体験できるようになったりするのです。
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「愛と怖れ」という本(G・ジャンポルスキー著)に出会ったのは、もうかなり昔のこと。
「愛」にしても「怖れ」にしてもふだんから耳にする言葉だけれど、「愛」に対比するものとして「怖れ」があるという考えは新鮮に感じたものです。「愛」の反対側は、「憎しみ」とか「愛がないこと」だと思っていたから。
人にはたったふたつの感情しかなく、それは「愛と怖れ」だといいます。
しかし、真に存在しているものは、ただひとつのもの(ワンネス)というか、「ひとつ」とも名づけることができない「すべて」なわけですが。そうなると、「愛と怖れ」という二者は存在できず、どちらかがまがいものとなります。
すべてを支配するたったひとつの力(神・宇宙・全能性)が「怖れ」であることはありえないので、ホンモノが「愛」だとするならば ・・・ 「愛」以外のすべてはことごとくまがいものであり、存在すらしないということになります。
では、「愛」とはなにものか? というと、安らぎであったり、平和であったり、思いやりであったり、喜びであったり、豊かなこころであったり ・・・ 喜ばしい要素のすべて。それが真に存在するもの。
一方、あるように見えながらも存在すらしていないという「怖れ」とは、「愛」に分類されることがないすべてのものをいいます。「愛」でないなら、それはすべて(行為も考えも)「怖れ」なわけで、架空のものということになります。
たとえば、テレビを観ながらこころのなかでチッと舌打ちしてしまうような攻撃的な想いとか、家族と話していて「なんでこうなのよ!」とイラっとくる怒りの感覚とか、まだ起こっていないことについてあれこれ心配する怖れの気持ちとか、「やっぱり私はダメに違いない」とか「しょせんムリだわ」と自虐的に考えてしまう自己卑下とか、ただモヤモヤとした倦怠感とか、ムカムカする嫌悪の気持ちとか ・・・、全部私ではありえない、ニセモノがやっていること。
これを自分がやっているのだ思うと、さらに怖れや罪悪感がが大きくなってしまいます。なぜなら、これらはまったくコントロール不能で、いつどんなときに襲ってくるのかわからないからです。コントロールできると思うと挫折感が強くなります。
よくよく注意してみると、私たちは「怖れ」という感情にほぼ病的に耽溺していることがわかります。
すでに耽溺していることすらわからないのは、中毒になっているということ(中毒症状とは、それなしでは生きていけないのです)。
すると、ほぼ怖れと一体化していると言っていい状態 ・・・ っていうことは、存在すらしないものと一体化してすごしている、つまりヘンなものに憑衣されたがために(といっても、じつは自分がそれを握りしめているのですが)完全に占拠されたというわけです。寄生獣に完全にのっとられた状態ですね。
私たちは、存在すらしない「怖れ」になってしまったのです。
だから、この「怖れ」ときっぱりと決別しない限りは正気の自分になることはありません。正気でないということは存在しない幻覚を見続けることになり、自分に与えられている全能性からくる権利をまるまる放棄していることになります。
私たちはつねに自分の「想い」というものを「目のまえに確認する場」として世界をつくりだしています。
世界は固定的に外側にあるののではなく、毎瞬ごとに自分のこころが提示しているイメージを見ているにすぎません。すると、この「愛か怖れ」の選択が目にするものを毎瞬々々決めているのです。この「愛か怖れ」の選択こそが、自分が目にするものの明暗をわけるのです。
つまり、こころの状態にあわせて2タイプの世界があるようなものです。「愛」のこころで見る真に存在する愛の世界と、「怖れ」のこころがねつ造する存在すらしていない怖れの世界。同じ世界のなかに、愛と怖れが共存しているわけではないのですね。
そして、寄生獣が見るのは、もちろん「怖れ」です。
「怖れ」とは、批判、価値判断、自虐、落胆、後悔、罪悪感、攻撃心、自己嫌悪、無価値観、憂鬱、退屈、怖れ、優越感、特別性、苦痛、病、死 ・・・ etc、これらはまるで自分の首についている縄のごとく、「怖れ」をもつたびに自分の首をしめあげてゆくようなものです。首がしまると幻覚が見えます。
まさに、自分のこころのなかにある怖れの考えを、自分の身を呈して体験しているというわけです。その縄はしだいにどんどんきつくなり、息ができなくなって、身動きもできなくなるのですが、自分ではなぜそうなっているのかわかりません。
一方、「愛」とは、穏やかさ、安らぎ、平和、喜び、楽しさ、寛容さ、受容、信頼、慈しみ、共感、赦し、分けへだてないオープンなこころ ・・・ etc、これらを選ぶたびに首に巻きついている縄が細くなり、ゆるくなり、しまいにはそんなものなかったんだ!と解放された気分になります。
「愛」を選ぶことは、自分が囚われているという錯覚から解放されて、制限などないもともとの自由な自分を知る、もともとの自分の権利をしっかりと享受するということです。
しかし、私たちはある意味、エゴにのっとられて憑衣されているので、無意識でいると「怖れ」を選択するクセがついています。
なんせ、「個体」としての自分が生きのびて、安全でいるためには、「守る」か「攻める」かする必要があり、いつも戦々恐々としているからです。だから「闘い」の想いはエゴの定番です。
しかし、生き延びるための定番の想いを選択したはずなのに、縄は喉もとにくいこみ、かえって生き延びることを阻止する結果になります。
存在しているのはただ「ひとつのもの」、「愛」だけであるならば ・・・
私たちは自分のこころをちゃんと調教して、正しい選択ができるように教育してゆく必要があるのです。それは一回教えたらオシマイということではなく、毎瞬々々自分のこころがなにを選んでいるのかということに意識的になることです。
オイシイ匂いがすると(エゴからの呼びかけはたいていオイシイ匂いがするものです)、ついついクンクンとついていってしまう犬のような私たちですが、これをすると完全に道からはずれて迷子になります。
エゴはいつもオイシイ匂いで「こっちにゴチソウがあるよ!」とおびきよせますが、それにのってしまうと、道に迷い、ひとりぼっちで孤独になり、いっくら歩きつづけたとしても、結局そこには何ひとつなく、帰る道さえわからなくなります。
だから「愛」をえらばなかったとき、「怖れ」を選択した結果としてやってくるものは、「怖れ」なんていうなまやさしいものではなく、気がつけば「恐怖」物語、あるいは「ホラー」なストーリーなのです。
自分の見ているドラマという現実が、恐怖の様相を呈してきて、しまいには怪奇ものからホラーへ。それがエゴのもくろみです。
でも、それも全部、自分のなかで無意識のうちに着々と「怖れ」を選びつづけたまさに証なのです。
しかし、「愛」を選ぼう! と意識的になって、いちいち選びなおすことによって、こころの映しだす世界がシフトします。ほんとうの自分がもっている輝かしい恩恵に浴することができるようになるのです。それは、いわゆるすべてであるものの恩恵。
ふたつにひとつの選択なのですが、私たちは無意識のままなので、「怖れ」を選びつづけていることに気づけなくなっているのです。なので、まずは自分が毎瞬、なにを選んでいるのか意識的になることが大切です。
「素敵な自分になる」「もっと素晴らしい自分になる」と、頑張ってみても、この「愛か怖れ」の選択が間違っていると、全部水の泡になってしまうのです。
「愛」のこころには「愛」の世界が、「怖れ」のこころには「怖れ」の世界が ・・・ それぞれご案内先はまったく違った世界です。こころにそったものしか見えません。
そもそもこの選択さえまちがわなければ、「素敵な自分」になる必要もなければ、「もっと素晴らしい自分になる」必要もありません。
首にかかっている縄さえとれてしまえば、もともとそなわっている完全な自分らしさに出会うことができるのです。完全な自分になる、というのは、作ったり、くっつけたり、でっちあげたり、目指したりする種類のものではなく、もともとあるものを解き放って、そのままにしてあげる以外にはすることがないのです。
だから、私たちが注意深く取り組むべきことは、ていねいに自分の「こころを見張る」こと。
「愛」以外になっていることに気づいたら、すぐに却下して、高い意識にさし出して、こころからその感情や考えを取り除いてもらうお願いをすることです(間違ってしまった自分には、訂正はできません)。
「自分ではないものをとりのぞいてゆく」、つまり「愛」でないものを却下し続ける作業をしてゆくと、おのずと「愛」だけに気づくようになり、「愛」をとおして正しい知覚がもどってきます。それにふさわしい世界だけを見るようになります。
「愛」を通して見る、というのは私たちがおなじみの「愛」という名のフィルターでものごとを見ることではないのです。
ただひとつの存在するものを選びつづけたときに思い出すことができるほんとうの自分の記憶であり、視力であり、ものの見方。
それはどうやら、私たちが知っている「愛」の概念とは違うもので、そういう制限さえもこえたまっさらな目線をいうのだと思うのです。
今の自分の状態がどうであろうとも、ただシンプルに真に存在する思いを選びつづける努力をすることで、自分の足かせがはずれ、ラクチンになり、自由の身になり、より幸せで楽しくなるのであれば、やっぱり存在するものだけを選びつづけるという地道な作業を一瞬々々つづけられたら ・・・ と思うこのごろです。
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最近お気にいりの芸人さんに、くっきーさんという人がいます。
白塗り芸、いまや大人気ですよね。わたしは、シリーズになっていた「絵描きうた大好き邦彦おじさん」がおもしろくってハマっていました。
え〜!と度肝をぬくような発想で、シュールでちょとコワイけれど、アーティスティックで、その根底にはいつも愛を感じるのです(芸というよりも、もう全体がアートになっているのですが)。
私のお友だちもくっきーさんが好きで、たびたびその話題で盛り上がっています。
先日、くっきーさんが江原啓之さんと一緒に番組に出ていたときに言われていたことは、「あなたはインスピレーションが強いし、サイキックなのね」と。だから、どんどんアイデアが浮かんでくるし、これからはもっと人々に受け入れられるようになるだろう的なコメントをもらっていました。
それを聞いて、「なるほど〜・・・そうか」 とうなってしまいました。
なぜかというと、以前、くっきーさんはどこかの番組で「自分は生まれてすぐに下水に捨てられたので、お母さんはいちばん大きなパイプだ」と冗談を言っていたのです。すごい発想ですね〜(汗)。橋の下というのは定番ですが、下水に捨てられ、お母さんがいちばん大きな土管とは(笑)。
そっか〜・・・ってみょうに納得したわけは(冗談話にしても)、いちばん大きなパイプをお母さんだと思っていたってことは、この方は最初から自分の本性がパイプだと知っていた(?) ってことかと。
どういうことか ・・・ というと、私たちは「パイプのように存在すると生きやすい」と思っているからです。
それは、どんな想い、どんな感情、どんな体験がやってこようとも、じゃんじゃん自分のなかを通過させてあげるだけであり、まったくせき止めることも(抵抗することも)、流れを変えようとすることも(コントロールしようとすることも)、不平不満を言うことも(価値判断することも)ありません。ただ、無抵抗に自分のなかを通過させてゆくだけです。
そうすることによって、ただの土管だと思っていた自分自身が徐々にお掃除されて、浄化されて ・・・ ただの土管だと思っていたけれど、「あれ? きれいになってる! 私って、金色の光り輝くパイプだったの?!」と、自分で自分にびっくりします。
ついに「自分の本性に気がついてしまったなら」ば、こんどは汚水にかわって、美しい光という恩恵やインスピレーションション、安らぎ、喜び、愛がじゃんじゃん流れこんでくるようになるのです。
そして、それを他の人たちへと流して広げてゆく作業をすればするほど、さらにパイプは太く、美しくなってゆく、というわけです。
そんなパイプのイメージがあったので、江原さんんがくっきーさんのことをインスピレーションがある、サイキックなところがあるとコメントしたのを、「なるほど〜! やっぱりパイプだと自覚していたからか」と納得するにいたったわけです(笑)。
私たちは自分のところにやってくるものに対して(体験にしろ、考えにしろ、感情にしろ)、「なんでこんなことばかりが起こるんだろ〜!(驚愕)」とか、「どうしてこんなヒドい考えをもってしまうんだろう(後悔)」とか、「こんな最悪な気持ちばかりでうんさり(嫌悪)」と抵抗し、それをどうにもできない自分を責めてしまうときがあります。
でも、ご心配なく!
みんな誰でも、こころの深いところには同じようなものをしっかりともっています。
しかし、今回の人生でお片づけをしないと決めている人は、それをチラリと目にすることもないかもしれません。でも、存在しないわけではないのです。顔をだしていないだけのこと。
もし、じゃんじゃんそういうものに出くわしてしまうとしたら ・・・ 「ああ、私はもう隠さずにこれらを終わりにしよと決めているんだ」「自分のパイプのなかを無抵抗に通して流してあげることで、もうほんとうに捨て去ろうとしているのだ」「ほんとうの自分を取り戻そうとしているのだ!」と思い出しましょう。
果敢にも、自分のパイプのなかをただ通してあげる許可をだしたのです。永遠に終わりにするために。ぴかぴかのパイプである自分を思い出すために。
そんなときには、体験であれ、考えであれ、感情であれ、自分のなかをただ行かせることによって、十分に感じきって(受けとめて)みます。
そして、十分受けとめたあとには、いったん自分が後ろに退いてみて、パイプがただそこで輝いているのを感じてみてください。自分がどいてみると、そこに安らぎ、喜び、あたたかさ、楽しさ、これで大丈夫という感覚 ・・・ が自然とあらわれます。
ちょっとでもヨイ感じをキャッチしたら、それを大切にして、しっかりと注意を注いで、受けとめてあじわってみましょう。自分のなかいっぱいに、広げてみましょう。
そしてさらに、自分とつながりのある人へと(大好きな人も、そうでない人も)、その光を広げて包みこんでしまいましょう。
光はわかちあうことで、どんどん大きく強く、いきいきとしてきます。そのともに光輝く感覚をしっかりとうけとめます。楽しみます。
もしも、何かを教えられたような気がしたら、ひらめきがあったのなら、それを行動に移してみてもいいかもしれません。行動はつねに、この感覚から起こされるものなので、この感覚とともに動くときにはいつでもびっくりするようなことが起こることがあります。
それはきっと、自分のこころのなかにあった天からのギフトにあらためて気づくことであり、その輝きを外に映し出だしてめにすることができるのだと思います。
そんなインスピレーションに従っていたら、くっきーさんのように奇才になっちゃうかもしれません♪(笑)
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お友だちから送られてきたオモシロ動画。
マイケルがスーダラ節を踊っちゃってます(笑)。イイ感じでシンクロしていますね〜。
「じつは、こっちがホンモノだったりして?」「パラレルワールドかも?!」
パラレルワールドか〜、たしかに ・・・ 。
私たちの見ている次元のバージョンではゾンビがぞろぞろ。マイケルまでもがゾンビで、怖れがいっぱいの「スリラー」版です。別次元に存在するバージョンは、みんなイ〜イ気分の酔っぱらいで、楽しくノーテンキにスーダラ節を踊っている平和な図となっています。
パラレルワールドでは、なんでもアリですからね。
私たちの知覚には、たしかにふたつのバージョンがあります。
ふたつのチャンネルのあいだで、つねに切り替えが可能なのです。
ひとつは、いつも見ているやり方。つまり、身体の目で見る見方。
もうひとつは「星の王子さま」がキツネに教えてもらった、こころの目で見る見方。
「こころの目で見ないとよく見えない。大切なことは、(身体の)目には見えないんだ」と。これはキツネだけの特許の見方ではありません。じつは真の知覚であり、ほんとうの自分が見る世界の見方のことを言っているのですね。
そして、それぞれの見方によって、まったく見える世界が変わってしまいます。「スリラー」と「スーダラ」ぐらい、まったくの別ものです!
片方は、何の秩序も存在せず混乱と怖れのみが存在し、もう一方は高い叡智が司る幸せな秩序だけが存在します。
見ているものが、まさに「スリラー」で怖れそのものだと思って構えていたのに、見方を変えたらじつは「スーダラ」でお気楽、ノーテンキな出来事だったのね(汗)・・・ というように。
制限をもった身体の目で見ると、制限しか見ることができません。何かが始まっては必ず終わりをむかえ、永遠につづくものなどなにもなく、制限ゆえに怖れにみちた画像。どんなに楽しく見えていようとも、必ずどこかにこっそりと怖れという毒を含んでいるわけです。
身体の目で見ているときには、一点だけをピックアップして切りとって見ています。たとえば、「あら、○ちゃん、お腹あたりが太ったんじゃない?」「まあ、そのシミ、前回会ったときにはなかったわよ」みたいな。○ちゃんを切りきざんでバラバラにして、「ここはヨシ」「こっちはダメ」というように、そのすべてに自分なりのダメだしをしています。ひとつだったものをバラバラにして等級をつけて自分なりの価値判断するので、全体としての意味が失われてしまいます。すでに、「○ちゃんがどういう存在なのか」まったくわからなくなってしまいます。それこそが怖れの原因です。こんな感じのことを、すべてに対してしています。
一方こころの目で見てみると、制限を越えてすべてをひとつとしてとらえます。○ちゃんに例えれば、○ちゃんのこころだけを見ています。そこには完全なものとしての意味が完全なものとして守られています。そして、葛藤も制限もないので、あるのは解放感、自由、お気らく、ノーテンキ、はればれ、すべてこれでよし!という感じ。
だから、同じものや出来事を見ていたとしても、どちらのチャンネルにチューニングしているかによって、似ていてもまったく非なるものや出来事となるわけです。
マイケルの「スリラー」か「スーダラ」かというように、まったく場面の意味あいが変わってしまいます。私たちの意味づけという制限がはずれたときには、どうやらノーテンキにしかなりようがないようです。
私たちは、このふたつのチャンネルを一瞬一瞬選んでいます。無意識的に。
それは、つねにふたつにひとつ。「怖れ」か「平和(愛)」かのふたつの選択しかなく、それも100% 怖れか、100パーセント 平和(愛)かのどちらかです。
「平和(愛)」にたったの 0,0001パーセントでも「怖れ」が混じってしまったら、それはもうアウト。それは「怖れ」になるのです。「平和(愛)」のなかに「怖れ」という概念は存在せず、「怖れ」の居場所はたったの 0,0001パーセントでさえもありえないのです。
なにか怖れが見える、敵意がみえる、孤独が見える、不安が見える、よからぬことが見える ・・・ というときには、もれなく制限のある身体の目で見ているサインであり、その結果として様々なかたちの怖れに出会うというわけです。
そもそも私たちは身体ではないので、身体なんていうまがいものの目をとおして見ると、存在すらしていいないまがいものに出会ってしまうのです。
私は一個の身体であると信じているとき ・・・ 他と分離しているので孤立はまぬがれず、孤立の怖れを感じているともれなく敵があらわれます。敵があらわれると、守るための闘いがはじまりまり、そのようなキケンを感じていると、「ここはキケンなところだ」という信念から、さらにキケンを目にするように自分に仕向け・・・(信じていることを証明してくれます)。怖れが増幅されます。
一方、ほんとうの自分であるこころの目にチューインングしているときには、ほんとうの自分の特権である平和、安らぎ、愛があります。すべてにいだかれて、自然な流れとともにあります。
こころには身体が感じているような分離の感覚がないので、守ることを必要としません。こころには限界がないので、すべてをすでにもっています。すべてであると知っているので対立を知らず、平和だけがあります。
平和、安らぎがあるので、さらに安らかさを証明するような出来事を見ることになります。そうすると、さらに平和と安らぎへの確信を深めます。ほんとうの自分の源は、平和、安らぎ、愛そものもなので、それを思い出すことができるのです。
身体の目で見たときにあったはずの怖れは、「あら〜、ヤダわ!ただの勘違いだったのね〜」と却下されるので、怖れは去ってしまいます。
こころの目にとどまっているときには、安心感があります。穏やかです。広がりがあります。だから、さらにその穏やかさがどこまでも広がってゆき、目にするものがすべて平和で穏やかになります。
これが本来の私たちの自然な状態です。ほんとうの自分の状態です。ほんとうは、自分が本来もっている穏やかさを見ているだけなのですが。
私たちは身体の目で見ることを見ることだと信じてきたので(つまり、目に見えないものは「存在しないもの」と決めてきたので)、こころの目を使うためには少し訓練が必要です。意識してチャンネルを変える必要があるのです。
身体の目で見て不都合(怖れ、不安、苦痛)を感じているときに、まずは立ち止まって、ちゃんと気づいて、それからこころの目にスウィッチしようというクセをつけることです。
じつは自分ひとりではスウィッチすることができないので、助けが必要です。
ほんとうの自分じゃないと気づいたら、ハイヤーセルフにさし出して、お願いしてしまいましょう。
「いま私はズレていてニセものの目で見ています。だからこそ、存在しないものが見えています。どうか、スピリットであるほんとうの自分に戻してください。そして、こころの目で見させてください。ほんとうのこと、真に存在するものを見せてください」と。これだけです!(簡単!)
一日に何度も、どんなプチな怖れでも、不安でも、地道に気づいてさし出してゆきます。見え方を変えてもらいます。
怖れが見えるときには、もれなくまがいものの自分になっています。身体だと思って、身体の目で見ています。しかし、私たちは制限いっぱいの「カラダ」などではなく、あくまでも自由そのものの「スピリット」です。身体というのは自分のこころのなかにあるイメージにすぎないのです。
身体の目には、身体の目にしか見えないものが見えてしまう! それこそが、怖れであり、苦しみであり、残酷さだったのです。
「カラダ」だと信じて、「カラダ」の目だけを頼りにしてしまったところに、すべての間違いがあります。
制限がかかって、苦しみが生まれ、まったく平和なほんとうの世界は見えなくなってしまったということ。まさに、ニセモノの目をとおして架空の世界を見てアセっているわけです。
この目をとおして見ていると、あらゆるものについて「スリラー」バージョンしか見えません。しかし、いったんこころの目にスイッチしてもらったら、どんなに悲惨に見えていることでも「スーダラ」バージョンに変化させることができて、あ〜 ・・・ なにもコワイものなんてなかったんだ〜(汗)、ということに気づきます。(だまし絵の別の見方が見えたときのような、「あ〜!なんだこういうこと」みたいなひらめきがあったりします。)
なにかを変えたいとき「スリラー」バージョンのなかで必死にも変えようともがいて努力するのは、いわばエネルギーのムダづかいなのです。
ただハイヤーセルフにお願いすることで、チャンネルをスイッチして別バージョンを見せてもらいましょう。(ただお願いするだけ、というシンプルさ!)
身体の目で見る世界では、すべては実るようで実りません。しかし、こころの目で見ることができる平和な「スーダラ」バージョンへと切り替えをお願いするだけで、余計な心配も策略も努力もいらなくなります。実らせることすら必要ないのです。高い叡智の秩序にしたがって、誰にとってもハッピーとなる結末が約束されているからです。
ただ、スイッチするために気づくこと。お願いすること。スーダラ節を踊るために必要なことはとてもシンプルです!
そして、自分がスーダラを踊っていることに気づくと、まわりの仲間もきっと一緒にスーダラを踊っていることでしょう♪
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先日、友人にすすめられて観た「ザ・シフト」というDVD。
この映画は、カップルや家族のストーリーを例にとりながら人生の大切な時期に起こるこころのシフトについて、ウェイン・ダイアー博士が自らのシフト体験を語っています。
ダイアー博士というと、心理学やら自己啓発の書籍をたくさん書かれている大家で、以前に私も何冊か読んだことがありましたっけ。
しかし、あきらかに今回の映画の内容は、以前のダイアー博士の方向性と180度かわっているのがわかります。「あらら〜・・・ずいぶんかわっちゃったのね」 ・・・ 何がかわったかというと、野心を満たす外的な成功への指針から、こころの満足ややすらぎへの指針へと。
その180度の方向転換が起こった体験と気づきを、ダイアー博士自らが語っているのです。
ダイアー博士がまず例にとっているのが、心理学者ユングの「人生の午前の時間と午後の時間」という考え方。
ユングは人生を午前と午後にわけて表現していて、午前とは太陽が自分の正面からさんさんと照っている状態で、まだ影という存在にすら出会ったことがない時間帯です。いわばイケイケの時間帯で、こわいもの知らずです。
しかし、太陽が徐々に真上にさしかかり、ほんのちょっとでも自分の後方へとずれようものなら、「ガガーーーンっ!!」突如いままで目にしたことがなかった光景にでくわします。それは、自分の影というもの。見たことのないものを見せられて、ガクゼンとする瞬間なのです。
上り坂だった自分の人生が急に下り坂にさしかかる瞬間でもあり、今までの生き方が通用しなくなる瞬間でもあります。
それゆえ、人生の午前のルールと午後のルールはまるで違うものとなります。
たしかにそうです。人生の午前は頑張れば頑張ったぶんだけ結果が出るし、人生が上向きになる可能性にあふれた時間帯なのです。
しかし人生の午後に足をふみいれると、ある意味「喪失」の時間帯となります。体力、気力、健康、家族、仕事、地位 ・・・ 今まで自分の意志や力でどうにかコントロールできていたものがまったくコントロール不能となります。失っていくものの大きさに、はじめて自分の無力を感じるのです。
自分の人生では神だったはずの自分が、急にそのパワーを失い、神から失墜してしまう体験をするわけです。
ユングいわく、「人生の午前と午後の時間帯は同じルールで生きつづけることはできない。午前中に有効だったルールが午後には自分の首をしめるようになってしまう」といいます。ルール変更のときなのです。
人生午前中のルール、価値観を手放さないかぎりは人生にふりまわされ、苦しむを味わうことになります。人生の午後には、根本的に生き方を変える、つまり人生を真逆に生きること、180度転換することだと言います。
ダイアー博士もそれを経験した一人として、自分に起きた180度の転換、危機とおもえる状況を意味ある人生へとシフトさせた瞬間のことを語っています。
以前の自分は社会的な成功と満足のために本を書きつづけてきたけれど、結局は成功といわれるものを手にしたところで満足は感じなかったそうな。また、自分の満足を満たすために、自分も家族も犠牲にしていることに気づいたそうです。
そして、ダイアー博士は「クアンタム モーメント(跳躍の瞬間)」といわれるこころの変化のときを迎えます。
それはある日突然やってきて(ダイアー博士の場合は、気づきとともに花のようなかぐわしい香りを感じたそうです)、根本的に自分の生き方を変えてしまったと。
外的な成功を求めて自分を満たそうとする野心そのものの「エゴの生き方」から ・・・ 流れに身を委ねながら、大いなる源に身をまかせ、あるがままに自分を輝かせて、それを他者とわかちあう「真の生き方」へとシフトしたというのです。
それまでは、社会的な成功に重点をおかれて書かれていた博士の著書とはうってかわって、「超越したも存在を迎え入れて、それに自分を委ねること」をしながら、「自分をどのように与えることができるかを考えながら生きること」とか、「生かされている、ありのままの自分に戻ること」が語られています。
そしてこれこそが、いっけん「喪失」と感じられる人生の午後をよりよく生きる生き方なのだと。
たしかに、私たちはものごころついて社会化される頃から、この社会でサバイバルするためにどれだけ自分自身に有益性をプラスできるかの闘いをしてきたといえます。少しでも多くのものを手にするために、野心というものを植えつけられ、エゴ的な生き方を強要されるのです。
そのために、他を出し抜くことが重要な目的となります。見栄えのいいかっこをし、マナーを身につけ、好かれるためにおせじのひとつも言えるようになり、資格や特技をより多く身につけるべく必死でお勉強をし、よい仕事につき専門性を高め、自分にとってメリットのある伴侶を見つけ ・・・ どんどん武器をふやします。
何のために出し抜くかというえば、より多くをえるため。より好かれ、愛され、尊敬される自分になって、人よりも有利な立場に身をおき、人よりもスペシャルになることで幸せになれるだろうと。いわば、レースの先頭に躍り出て、走りぬけるためだったわけです。
こんなすべてを冷静によくよく見てみると、そこには他と友和的につながってわかちあうという安らかさはなく、まるでケンカを売っているような、闘いをいどんでいるような、攻撃的な姿勢が隠されているのがわかります。
こんな気持ちが土台にあったなら、他の人とともに安らかに幸せになどなれるはずがないのです。なぜなら、まわりはいつだって敵だから。
いっけん危機に見える人生の午後の時間を、どう生きるべきなのか ・・・それは、外的な成功のために奔走していた「エゴの自分」を手放して、「本来の自分」、つまり生まれてくるまえにお母さんのおなかのなかで育っていたときの自分を思いだすべきだといいます。
おなかのなかにいたときには、自分もそしてお母さんも、どこに目をつけるかとか、鼻の位置は大丈夫かとか、何もコントロールはしていないのに、ちゃんと完璧な人間の姿で生まれてきたということ。自分が手をださないことによって、叡智がすべての面倒を見てくれていたということなのです。
生まれ出てから野心というものにそまってしまった私たちは、すべての面倒をぬかりなく見てくれていた全能の神のポジションを奪ってしまい、何から何まで自分で決めて、自分の思いどおりにしようと頑張ってきたわけです。
結局何から何まで自分で決めようとしたことで、すべての面倒を自らみるハメになり、たいへんな苦労のわりには神の技の完璧さを見ることができなくなってしまったというわけです。
ダイアー博士は、「アップルパイの一切れが、アップルパイであることを思い出さなければならない」と言っています。アップルパイは、小さな一切れでもアップルパイだということです。
私たちも、自分がどこからやってきた何ものなのかをちゃんと思い出すべきだと。
身体が消えたらほんとうに消滅してしまう自分なのか、それとももっと大きなものからやってきた不滅の存在なのか。それを知るためには、動き回るのではなく、静寂のなかにとどまり、源と調和し、耳を傾け、導かれる必要があると。
その源を感じることができれば、おなかのなかの赤ちゃんのように、すべてをまかせることができる・・・と。
そういう彼自身も、午前の時間から午後の時間へのシフトを体験したとき、外の世界に価値を与えていた人生が転換し、自分の内側とつながるとことで、大いなる存在とひとつになる体験をしたそうです。そこから、心理学を語るよりも、スピリチュアルを語ることに喜びを感じるようになったとか。
だから、人生の午後の時間とは、大いなるちから(源)に身を委ね、生かしてもらいながら、自分を与えることで、源の意志を生きることだといっています。
著作の大家自らのシフト体験がとってもわかりやすく語られていて、この作品にふれることでそれぞれのこころのなかでうずうずしていたほんとうの自分が呼び覚まされて、ダイアー博士のいう「クアンタム モーメント」を自分なりに体験できるかもしれません。
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お友だちとランチをしたあと、立ち寄ったお店で目にとまったスカーレット レッドのサマードレス。
「A子ちゃん、こういう色似合うと思うけど着ないの?」と私。A子ちゃんはいつも静かめの色合いの装いなのです。この日は紺系。すると、「あまり目立たないようにしてきたんだよね〜」とA子ちゃん。
それは、さきほどのランチタイムの会話のつづきでもあるのです。
ランチをしながら、「最近、特別性ということが気になっているの」とA子ちゃん。
「特別性」とは、「私は人とは違う!」「秀でた自分でいよう」「スペシャルな自分になるべきだ」という信念。その下には「そのままでは何ものでもない自分だから、見むきもされない」という欠乏の想いや無価値観という劣等感が横たわっています。
つまり、「特別性」とは「自分は決定的に足りないのだ! 」と信じていて、生きることそのものがそれを「埋め合わせる」行為となります。
じつは、無意識のうちにで誰もがこの「特別性」の呪縛にしばられています。だから日常でとる行動の動機をよくよく調べてみると、すべてこの無意識の足りなさが自分を突き動かしていて、人とは違う自分へと駆り立てます。
人から好かれる「いいひと」でいたいと思って(「いいひと」にならないと愛されないと信じて)、無意識のうちにに無理にこにこしたり、気をつかっていたり、やりたくもないことをしていたりします。あるいは、一目おかれる「おもしろい人」でいるべきだと信じて(「おもしろく」ならないと消えてなくなっちゃうかもと信じて)、ジョークを連発したり、快活な自分を装ったり、サービス精神を発揮したり・・・。特別性には、いろいろな表現があるのです。
A子ちゃんいわく、昔から先生に目をかけてもらえる子どもだったとか(たしかに、A子ちゃんはたくさんの人のなかにいると、ぱっと目をひく天性の存在感がある方で、それこそがA子ちゃんの持ち味でもあるのです)。だから、特別な役に抜擢されたり、優遇されたり・・・。
しかし、いち目おかれることにより仲間のなかで浮いた存在となり、その結果、嫉妬やねたみをうけることになったそうな。
そのときA子ちゃんが子どもごころに決めたのが、「攻撃を受けないために、なるべく目立たない自分でいよう」ということ。その対策のひとつが、「目立つ色のお洋服は着ない。地味にしていよう」ということで、それが無意識のうちに今になってもつづいていたのでした。
「目立たないようにすること」は嫉妬やねたみへの解決策のはずだったのですが ・・・ これもじつは特別性の表現のひとつなのですね。「私はあなたたちとは違っている存在なの。だから隠しておこうかな」という想いなのです。
さきほども書いたように、この「特別性」は私たちの誰もがこころのなかに隠しもっているものです。
それは、「あなたたちとは違う境地にいる私」なので、「違っちゃっている私」は誰とも本当の意味ではわかり合えないし、つながれないし、仲間になれないし、じつは仲間であるとも思いたくないのです。
だから、愛や共感や豊かさや助けという供給が、自然とたたれてしまいます(特別性によって、こころを閉ざしてしまっているのです)。そして、知らないうちに自分の人生を孤独でシンドイものにしてしまうのです。
私たちの日頃の行動の動機をじっくりと観察してみると、必ず、「もっとステキな、バージョンアップした自分になる」という決意があるはずです。
そのために、手に入れたり、磨きをかけたり、フリをしたり、付けたしたり、いい人になったり、気をつかったり ・・・ とじつに忙しいのです。日常でとる行動のモトを正してみれば、じつはこの「特別性」ためホンソウする日々をすごしているというのがわかります。
勉強や仕事で努力することも、何かにガマンしてイイ人、気がきく自分でいることも、新しいことにチャレンジすることも ・・・ それによって、能力、成功、地位、名声(ほめられるなど)、豊かさ、美しさ、羨望などが手にはいって、みんなとは違った自分になれると信じているから。
そう考えると、私たちはどれだけあるがままの本当の自分というここちよさ、安心感からほど遠くなっていることか ・・・ これじゃ、リラックスを感じられるはずがありません。
ほんとうは、ここに存在して、ただ呼吸しているだけで十分なのに ( ・・・ え? そんなんじゃダメじゃない!って? それこそが、特別性の動機となっている不足感、欠乏感なのですね)。
たしかに、自分の20代、30代の忙しさやら、あれこれの活動性を見てみると、今おもえば「どれだけ自分に何かを付けたしたい」と思っていたのか! と笑えてきます。
あれこれ興味をもって勉強していたのも、もちろん今となっては役にたっているのですが、そんな「特別性」というヘンテコな動機がなかったら、もっとリラックスして楽しめたし、それによってもっと効率よく、人とのつながりのなかで同じことができたかもしれないな〜と感じます。
芸術の分野で活躍されているお友だちのB子ちゃんも、こんなふうに言われていました。「劣等感が頑張るエネルギーだとずっと勘違いして、一人まえになれるなら血の滲むような思いをしてもよい ・・・ と、今考えると、呪いの誓いみたいなものをたてて、もがいて、何かと戦っていました (・_・; 殆ど、ホラーです」と。
ホ、ホラー ・・・ でも、ひとごとだと思えません(汗)。
向上できるなら、成長できるなら、そのとき大切だったはずの「人とのつながり」をも犠牲にし、どんなに窓の外で美しい季節の贈りものという自然が微笑みかけてくれていても目もくれず、愛にも優しさにも背をむけて(当時、本人はそうは思っていないのですが、今思えばね!)、そして口ぐせは「それどころじゃない」「私は忙しい」「いつか時間ができたらね」だったりして、そんなふうに何かに驀進している自分に酔ってもいた気がします(苦笑)。
「劣等感」こそが、「特別性」の燃料そのものなのですよね〜。どんだけ足りないと思っていたことか・・・。劣等感を信じているぶん、特別性をニンジンにして永遠に疾走させられます・・・(汗)。
そんなこんなを客観的に見られるようになってきたとき、本当にただ息をしてずっと部屋のなかに坐っていることを自分に許せるようになってきて ・・・ 今じゃ、ただここちよく坐っているうちに、何時間もたっていたりします(まわりから心配されそうですが、幸せだったらいいじゃない・苦笑)。
「すばらしい私になる」という特別性の他に、うまくカモフラージュされていてわかりずらいのが「悲惨な私になる」という別の意味での「特別性」。
これは、嫉妬やねたみを受けることがなく、かえって愛情を無条件に手にすることができ、スルメのように長いあいだ使いものになる「特別性」なのですね。
でも、その結果、自分を「無力な被害者」「かわいそうな私」につなぎとめることになり、やってる自分ですらだんだん自分の正体がわからなくなってきます。「被害者のかわいそうな自分」という信念を強化してゆくことになり、本来の自分の絶大なちからを見失い、逆にその力を自分を弱めることに使ってしまうことになるのです。
どちらにしても「特別性」は「あなたと私は違うのよ」と、口にださずとも主張しているので、静かに世界にケンカを売っている行為にほかなりません。
そうすると、「つながる」というよりは、「つながれない」、「近づけない」「わかりあえない」ということになってしまいます。つまり、お山の大将は孤独なのです。山のてっぺんには一人しか立てないので、わかちあう相手がいないのです。
そしてなによりも、「あるがまま」につけ足すことに忙しくなると、「あるがまま」で受けとれるはずの贈りものが受けとれなくなってしまいます。つけ足すことに急がしてくって両手がいつもふさがっているので、宇宙から降り注ぐ自分のための贈りものに気づくことができなくなってしまうのです。
でも、いつでも「あ〜、こんなことを一生懸命していたのね」とエゴを満たすためにしていたことに気づいて、それを光にさらしてあげると(高い意識に一緒に見てもらうと)、まったく別な意味が見えてきます。違うストーリーにすることができます。
そのときはじめて、特別性ゆえに築きあげたものがわかちあう宝ものとなり、それをみんなとつながるために、みんなの気づきのために使うことができるようになるのです。
なんにしても、自分で握りしめていると「特別性」になってしまうけれど、それを高い意識に使ってもらうといつでも「自分と全員のための」ギフトになるのです。
そのときには、「人になんか理解できない特別な経験」が、「みんなが共感して、みんなでわかちあって、つながってわかりあえる体験」になるのだと思います。
「特別性」って空で、星どうしが「あなたよりも私の光のほうが強いわよ」「いいえ!わたしのほうがキラキラしている」と、競いあっているようなイメージですが、それを高い意識というひとつのものに委ねることで、その光同士がつながりあって、大きなひとつの光になることで、そこがぜんぶ光、ただただ光みたいになって、喜びあって広がってゆくようなイメージです。
A子ちゃんは、スカーレットレッドのドレスを手にしました。おうちで着てみたら、似合っていたって♪ (やっぱり!)
かつては「特別性」となっていた存在感が、わかちあうためにいただいた天賦の贈りものとして受け入れてもらえたのでした。(A子ちゃん、気づきをありがとう♡)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「気づきの日記」はかなり長々と書いてしまうので、気軽なぷちバージョンとして「気づきのぷちノート」をはじめることにしました。
ふと気づいたときにちょこっと書いて、サクっとアップしたいと思います。
さて、一回めは・・・「自分をしめださない」ということ。
「なんか流れにのっていないな〜」「行きづまりを感じるな〜」と感じるとき・・・
そんなときには、誰かにイライラしていないか、ぶつぶつ文句を言っていないか、勝手にすれば!って見捨てていないか ・・・ こころのなかを探ってみましょう。
たとえば、村に必要なもののすべてを汲みあげることができる共同の井戸があったとします。村人は毎日そこに集まって、わいわいと助けあいながらそれぞれにに必要なものを汲みあげています。
みんながそこにやってくるから、自然のなりゆきで毎日顔をあわせることになります。そしてお互いに手をかしあうことになります。
でも、嫌いな人、避けたい人がいたとしたら ・・・ その井戸にむかう足が自然と遠のいてしまうことになるかもしれません。井戸に近づきたくなくなるのです。
つまり、イヤなひと、嫌いなひとを自分から閉めだして「あ〜、これで安心!」って思っていたけれど、じつは流れから閉め出していたのは自分自身だったのです。
みんなで平等に受けとることができる流れのなかから、自分で自分を遠ざけてしまっていたのでした。
どんなときでも、こころのなかで閉め出すことができるのは「自分」だけなのですね。自分が大いなる流れから退いて、「ああ、安心した!」と強がっているだけだったのです。
自分を輪(和)のなかに戻してあげましょう。
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人生に何か問題が起きているときに、“ 問題の原因があるように見える外側の世界をいじくるのではなく、まず自分の「こころ」こそを変えなければならないのだ ” ということを理解している方は多くなってきているように感じます。
だからこそ、むかしは不安になるたびに占い師を訪れて、あれこれの占いにお金を費やしていたけれど、本当の解決にはなっていないことに気づいて(なぜなら、その問題は片づいても、また同じスタイルの問題が勃発!)、外に見えるものを変えるためにはまずはこころを変える必要がある! と、セラピーにお金をつかうことを習慣にしました、とおっしゃる方がけっこういらっしゃいます。
外のことばかりに注意を向けて、それにあわせて自分を変えようとすると、自分のパワーを失うこととなり、結局自分が何ものなのかわからなくなってしまいます。
そこで「自分のこころにこそ取り組もう!」と決めるのですが ・・・ それでもなかなか、私たちは「自分の外側」という呪縛から抜け出すことができないでいます。
その証拠に、何か不都合な問題が起きたり、イヤな気分になってしまっているときには、かならず「自分の外側の世界」に原因を探しはじめます。
仕事がうまくいかないのはこの商品への需要が少ないからだわ(需要とうのは自分の外の世界のことです)、こんなふうにイヤな気分になるのはパートナーがあんな態度をとるからだわ(パートナーの態度も自分の外のことです)、胃がムカムカするのは飲みすぎたお酒のせいに違いない(お酒ももちろん自分の外側です)。
自分のこころに原因があるとわかったはずなのに、なぜか私たちはすぐに「外」向かおうとします。
それは、私たちのエゴが「被害者」に徹するようにとしかけてくるからです。「原因はアレだよ」「悪いのはアイツだよ」、つまり「ワタシじゃない!」。
この時点で、なんとも素早くまんまと「被害者」役に身をおいてしまったので、変えるための力は自分にはありませんと宣言したことになります。変わるためには、「原因のアレ」「悪いアイツ」が変わらなくてはなりません。
でもほんとうは ・・・ 「たった今、感じている感情」、そこにこそすべての答えがあるのです。
その問題が起きたことで、いったいどのように感じているのでしょうか?
「私はこのことの結果として、怖れを感じています」「動揺を感じています」「怒りを感じています」 ・・・ と。
結果が「怖れ」であるなら、結果が「動揺」であるなら、結果が「怒り」であるなら ・・・ その原因とはいったい何でしょうか?
そこで肝心なのが、「原因と結果はまったく同じである」という考え方です。
すると、こうなります。
「あ〜、わたしは怖れを感じていたからこそ、怖れを感じるこれを見ているんだ」「あ〜、私は動揺をかかえていたからこそ、それを正当化できる動揺する出来事を見ているんだ」「あ〜、私は怒りを隠しもっていたから、それを形にして怒りを外にみているんだ〜」
結局、「たった今」感じている怖れや動揺や怒りがあったからこそ、その結果としてこころはこれを見せているのだということ。
その感情はうまく別な出来事をでっちあげて、「こんなことが起きているから、こういう気持ちになってあたりまえだよね〜」「この外の出来事のせいでこんな気持ちになったんだよね〜」と混乱した感情のつじつまをあわせようとしてそれにあったストーリーをでっちあげるのです。
そして、私たちはそのでっちあげられたストーリーのほうに気を取られることで、本当の「原因」を忘れ「被害者」をやりはじめます。
つまり、そのつらい感情を感じたときに、まんまとエゴがでっちあげたストーリーに注意をむけ、「このせいだよ!」というセリフに騙されて、被害者ストーリーに突入し、同じストーリーをぐるぐるし、本当の解決を不可能にします。
私たちは、こころが「こうだ」と信じたものを見つづけます。
そのぐらい、私たちのこころにはパワーがあるのですが、そのパワーを間違った方向、「絶対に被害者でいたい」という間違いに向かって全力で使ってしまっているようです。
かたづけるべき、取り組むべきなのは、こころのなかに存在していた「怖れや動揺や怒り」そのもの方だったのです。外に見えているものではオトリにすぎません。
まずは、シンプルに「ああ、私はこんなふうに感じているのね」と、今の気持ちをしっかりと受けとめてあげましょう。「こんなにおびえてるんだ」「こんなに動揺しているんだ」「こんなに怒っていたんだ」と、あるがままに認めてあげます。
そして、「怖れや動揺や怒り」を感じているときには必ず、ひとりぼっちの感覚があるはずです。助けがやってこないという、見捨てられているという。
つまり、安心感が、愛が、安らぎが、優しさが感じられないのです。足りないのです。
だったら、安心感、愛、安らぎ、優しさ、光をたたえている「源」をイメージしてみましょう。
源とは、安心感、愛、安らぎ、優しさ、光をなみなみたたえて無条件に受けとめてくれる存在。宇宙といってもいいし、神といってもいいし、ただ安らぎでもいいし、光でも、なんと呼んでもかまいません。
そして、その無条件の愛とやすらぎのなかへとダイブしてみましょう。
そのなかに飛びこんで、こころゆくまでひたって、自分を忘れて、ひとつになってみましょう。
まるで、無限のあたたかな愛そのものの温泉にやさしく受けとめられて、くつろいで、癒されて、溶けてゆくように。自分を解放して、安心させてあげましょう。受けとめてもらいましょう。
愛と光と優しさのなかで、おもいきりくつろがせて、そことのつながりを感じます。それとひとつになります。
本当はこの愛と光と優しさとのつながりの感覚だけで、目にするものが変わってくるのです。
なぜなら、原因 = 結果 だからです。こころのなかに安心感がなかったことこそが、ほんとうの問題の原因だったのですね。
こころの「源」温泉 ♨ へようこそ ! どうぞ、ゆっくりくつろいでいっておくれやす♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
努力して・・・頑張って・・・ガマンして、やっと手に入れたのに、達成したのに、そのわりにはぜんぜん嬉しくない、こころが満たされてない、むしろ渇いているというときがあります。
そのことに集中しすぎてすっかり孤独になっていたり、つながりを失って疲れてしまっているのです。
一方、なにも建設的なことをしていないのに、安らかな満足感を感じられたり、穏やかな平和に満たされた気持ちになることがあります。
私たちは幸せになりたいと思って頑張っているのに、なぜか目指したところにそれはやってきてくれないようです。幸せはどこに行っちゃったのでしょう?
私たちが安らかで、満足していて、平和に満たされているときって ・・・ ひとりで何かを成しとげたときよりも、じつはただ誰かとこころを「分ち合えた」「つながり合えた」という感覚があるとき。つまり、ハートが喜んでいるとき。
「個人」が何かを成しとげようとしているときって、じつは自分のなかに引きこもり、自分にしかわからない世界を作り、自分ひとりで格闘しているときです。つながり合い(愛)や分ち合い(愛)は、完全にお留守なのです。
自分にしか入れない世界に住んでいて、誰もそこにアクセスできません。
しかし、こころはひとつ。ひとつしかないので、つながりあっていないときはまるで血液が循環していない状態をつくっているようなもの。
だから、自分の世界に引きこもると、こころが貧血状態になります。具合が悪くなってあたりまえ。具合がよくないと、楽しくないし孤独を感じます。
そんなことにならないように、こころをつながり合わせて、分ち合わせて、血液をちゃんと循環させて健康にしてあげなくてはなりません。
自分のなかの愛や優しさや思いを分ち合ったり、つながり合ったりするのは、わたしたちのこころの血液を循環させるためのマッサージや温泉につかるのと同じことなのです。こころがポカポカしてきます。
わかち合うのは、たった今、目のまえにいる人でじゅうぶん。さて、何がわかち合えるでしょう? つながり合えるでしょう? そして、こころは何を感じるのでしょう?
夜中の1時すぎごろになると、たびたびバイクのエンジン音がして、数分ハデに「ドドドドド!!」とふかしていたかと思うと、「バリバリバリッ!!」と破裂音のような爆音とともに走りさってゆくのです。
うるさ〜〜い(怒)☆ とくに、こんな熱帯夜つづきで寝つけないでいるときには、「この音のせいで眠れないじゃないか!」とバイクの音にすべてのイライラをぶつけたくなります。
どうやら近所で夜中まで仕事をしてるおにいさんが、路駐してあるバイクで帰途につくらしいのですが、ここまで無意味に音を大きくする心理って、いったい?!・・・ (汗)
それはやっぱり、「注意をひきたい」「目立ちたい」につきます。それも、なまじっかな音じゃダメで、ここまで大きな音にしないと「誰も自分に気づいてくれない」という見捨てられ信念。
トシの離れたお兄ちゃんお姉ちゃんのなかで育ったため、いくつになってもおチビ扱いで、まっとうな発言権が与えられなかった ・・・とか、両親が二人とも働いていて、忙しさのあまり自分の言うことに対して真剣に耳を傾けてもらえなかった ・・・とか(他にもいろいろありますが)、そんな無力感から爆音で気をひきたくなったりするわけです。
そんな理由をイメージすると、その爆音にむかって「ハイハイ、ちゃんと気づいていますよ〜。お仕事おわったのですね。遅くまで疲れたでしょう? 今から、帰るのね。気をつけて帰ってくださいね」なんて、こころのなかで声をかけちゃったりします。
でも 、そんなことを言っても結局は ・・・ 外に見えていること、自分が目にしたり体験していることって、「必ず」や自分のなかにある思いの証であって、私と無関係ではありえないのですね。
つまり、自分のこころのなかに「隠しもっている」、無意識化して自分でも気づいていない思いを、外に見ることによって、他の人のこととして片づけているのです。つまり、自分のもっていたくない思いを「外の世界」に捨てて、知らんふりしているわけです。
そうなると ・・・ あら、イヤだわ(汗)。思いっきり音をだして声をはりあげていたのは、誰? ・・・ 「私」ではありませんか?!(苦笑)
「私はここにいますよ! 誰か気づいてください! かまってください! そうじゃないと、存在していないように感じているんです〜(泣)」と、自分のなかで声をはりあげている存在がいるのに、その声に対して「黙れ! 女々しい! そんな声など聞きたくない」とおもいっきり無視しようとします。
その無視の結果として、「外」の出来事に見えるようなトリック(投影=こころのなかの隠された思いを外に捨てて、人のなかに見る)を使って、女々しい自分を否定しようとするわけです。
けれども、この女々しく聞こえる思いでさえも、じつは「過去」の遺物であり、自分の「本当の思い」ではありません。恥じる必要などないのですね。
しかし、それをまだ現在の思いだと勘違いすることで、恥ずかしく思い、無視して、封印して、投影します。誰か他の人のなかに見て、それを責めることによって、ずっと同じことをくり返してしまいます。それは、取り消されることがありません。
どんな思いにしても、私たちの思いにはものすごいパワーがあります。
聖書で言われているように、「山をも動かす」パワー。その思いは自分の世界に表現されて、必ず自分のもった思いをそのまま体験することになるのです。
そんな自分のパワフルさに私たちはうすうす気づいているようで、だからこそ自分の思いに脅威を感じて、その思いと正面から向き合いたくないのです。どこかで、見て見ぬふりをして、あいまいにしておきたいのです。
たとえ、それがニセモノの思いであるにしても、それを放置して、野放しにすることで、いつしかどれがホントの思いなのかわからなくなってしまいます。そうして、自分自身がその思いに騙されるということが起こります。
だから、何かに腹がたったり、動揺するときに、その出来事の「被害者」になって終わりにすることもできるし、
あるいは、怒りや動揺を、自分のなかに抑圧されて気づくことができなくなっていた思いを探求するためのアラームとしてとらえることもできます。
強烈に腹がたっているときこそ、自分のなかにその間違いがあることに気づくチャンスなのです。
まずは、「すべては私の思いの結果」であり、「これは私のこころのなかで起きていることだ」と外に見ていたことを、自分のなかに取り戻してみます。人ごとではなくて、私のなかの出来事ととして感じてみます。
すると、すぐに「あ、これはまさに私のことだ!」と気づく場合もあるし、まったく合点がいかない場合もあります。
そのときには、怒りや動揺の気持ちを掘り下げてたどってゆくことで、新たな気づきをえることができます。それはいつでも、「やだ〜! 私ったら、こんなこと信じてたの〜?」という笑っちゃう信念です。
そして、その探求を正直にして、ちゃんと気づいて受けとめてゆくと、同じことが起こったとしてももやは反応することがなく、どうでもよくなっていたりします。
あるいは、出来事自体が消え去ってなくなってしまったりします。(学びが終わったのですね!)
私の場合、気づきをえて「あのバイクのおにいさんじゃなかった! 私だったのね!」と認めたあたりから、音が消え去りました。
バイクのおにいさんがいなくなったのか、音がしないバイクに乗り換えたのか ・・・ 不明ですが、私のこころのなかのいにしえの「見捨てられ」信念が正面から見られて、手放されたので、おにいさんの存在も私の意識のなかから消え去ってしまったのでした(チャンチャン♪)。
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「問題と感じることは、すべて高い意識(ハイヤーセルフ)に委ねてしまいましょう!そして、 あとは全部やってもらいましょう!」
「はい!わかりました」と元気よく返事をして、
その問題を指でつまんでハイヤーセルフセルフの手のひらにのせたはいいけれど ・・・
「ちょっと、ちょっと、いいかげんにあなたのその指はなしてくれませんか〜?」ってなことになっていませんか?
私たちが「委ねる」というとき、こんな感じのことが起きているのです。
「はい、委ねます」といってそれを渡したフリをしながら、自分の指は決してはなすことはなく、さらに問題を間近でガン見しつづけているのです。「いつやってくれるの?」「どんなふうに?」って。
なぜそうなるか ・・・ というと、こころの深いところでは「信頼できないよ」「私が見ていないとひどいことになる」と思っているから。
「きっと好き勝手にされて、私にとっては困ったことになるかも」とか、「委ねなさいっていっても、あとであなたが自分でやらないからでしょっていわれそう」とか、「誰も、私のことなんんか真剣に考えてくれないから、委ねたらどんなことになるか」とか、ぜんぜん渡しきれていません。
だから、まるで問題がとり餅で指にネバネバとくっついたような状態になっていて、ほんとうに「手放す」「委ねる」という感覚がわからないのです。
ほんとうに手放すのは、コントロールしないこと、もうそれ以上つべこべ言わないこと、お願いして忘れていること、すべてがうまくいくと信頼していること、自分をスコンとからっぽにすること、そしてすがすがしい気持ちになること。
ハイヤーセルフは、「はい、受けとりましたよ。何かすることがあったら知らせますから、あなたはどこかに行ってリラックスしていてくださいね」といっています。
委ねたのに、お願いしたのに、助けてもらえないじゃない? って感じるときは・・・真に委ねていないわけです。
真に委ねたときでない限り、ハイヤーセルフはやってくれません。手が残っていたら、「まだ自分でやりたいのね。じゃあ、そうしてね」って尊重してくれるのです。けっして意志を侵害して勝手にすることはないのです。
信頼して、本当に手放して、自分の手をからっぽにしましょう ・・・
さて、なにが起こるでしょうか?! (きっと、びっくりするかも♪)
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以前も書きましたが、「トーストはバターをぬった面から床に落ちる」「お皿はお気に入りから割れる」・・・なんていわれています。
私もいつもは作らないような手のこんだお料理を作って、「よしよし! これで完成♡」とお皿にきれいに盛りつけたら、みごと全部ひっくりかえしたことがあります(泣)。
エゴは私たちがルンルン♪ よい気分になっているときには、必ずペシャンコにしようと企てています(ほんとうに幸せになったらエゴは消滅してしまうので)。
けれど、ほどほどに不幸せ感が漂っていて、エゴをおびやかすような状態ではないときには、かえってちょっとした楽しいプレゼントをくれたりさえするのです。
つまり、「そのまま不幸せ感を漂わせながら生きていればいいんだよ!間違っても、エゴとサヨナラしてすっきりと幸せになろう!なんて考えちゃだめだよ。このぐらいのちっちゃな幸せが身の丈だろ?」というわけです。
そんなわけで、日々の生活のなかには、さりげなく自責の念を感じたり、自己嫌悪になったり、後悔したりする、罪悪感という名のドラマがくみこまれていて、この瞬間を使ってエゴはさらにパワーアップをはかろうとしています。
そのドラマに反応してしまうと、もれなく罪悪感を感じることとなりエゴはその罪悪感を糧にして肥えてゆきます。
今ちょうどお友だちからメールが入って、「ホテルランチをしたあとなのに、つきあいで天ぷらソバ食べてる(汗)」というメッセージが。本当は食べたくて食べているに、なんか悪いことをしているような気になっちゃったりするものですよね。
これもエゴの罠。「楽しみすぎだろ、それは!」って。ほんとうは、そうしたかったのだから、ただ素直に自分を楽しませてあげるだけでヨイのですね。だから、楽しんでね♡
そのようなわけで、日々の生活のなかでエゴがガッカリ感(罪悪感)をもたせようと常にチャレンジしてくることをアタマにおいておかなければなりません。
なにが起きようとも、なるべく反応しないようにすることが大切なのです。「罪悪感という、その手にはのらないよ!」と。反応すると、まんまとエゴの思うツボです。
そして、そんなガッカリ感をもたせる何かが起きたら、「これはわたしのエゴが作りました。罪悪感を感じさせるためのワナです。エゴが作りだしたものと私のこころにある罪悪感をとり消してください」とハイヤーセルフにお願いしちゃいましょう。
そうすると、エゴが罪悪感を増幅しようとした企んだワナを、エゴを取り消す機会にすることができます。
「私には楽しむ権利がある♡」と軽く、楽しく、罪悪感というエゴの思いをもたずに楽しみましょう♪
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お絵描きは、自分のこころの状態を知りたいときにとても便利なツールです。
震災のときにもお絵描き(アートセラピー)は、子どもたちのこころを癒すのに役立っていましたが、子どもだけでなく大人のこころのためにも使えるツールです。
ただ描きたいものを気軽に描いてもらうだけで、そのときのこころの状態が手にとるようにあらわれます。また、こころの状態を知るだけでなく、表現された問題を手放す癒しのための道具としても使うことができるのです。
自分や他人、空間をどんな色で塗っているのかとか、どこにどんな大きさで、どのぐらいの距離感で表現しているのかなどで、一目瞭然にさまざまなことを知る手がかりとなります。修正ポイントも知ることができます。
それは、絵だけでなく、文字という表現でもじつは同じなのです。
たとえば、一枚の白い紙をわたして「心」という文字を書いてみてください、とお願いすると、
スペースいっぱいに堂々と文字を書く場合もあるし、十分なスペースがあるにもかかわらずちんまりとはじっこに書く場合もあります。それが、そのときのその方のこころの状態です。
「ありゃ、見かけによらず、すんごくちぢこまっているわ〜!」(コワもてに見えるけれど、案外、内側はまるで違うの? という方がいらっしゃいましたっけ)。
そんなとき、「あらあ〜、けっこう繊細なのかも〜」「ちょっとコワがりさんかな〜?」「のびのびできていないみたい」と感じとることができます。
でも、ご安心ください! それも、じつはほんとうの自分ではないから。
闘い好きなエゴがやりたい放題やっているうちに、ふと気づいたらやり放題がすぎてしまい、その報復を怖れるようになり(そう、コントロールしたり、攻撃したり、好き勝手したりすればするほど、こころのなかでは罪悪感を感じるので、やり返されるに違いない・・・ という怖れを感じるようになります)、その結果ちぢこまってしまうのです。これも、エゴがお好みのギャングドラマを模倣しているだけなのですが、どうやらそこに安らぎは期待できそうもありません。
そこで大切なのは、「こんなビクビクしているのはほんとうの自分じゃない。ニセモノだ、エゴの自分だ!」「こんな、やった、やられたなんていう世界はもうこりごりだ!もう望んでいない」と気づくことが大切です。
気づかない限りはやめられません。エゴにのっとられたまま、ニセモノの自分のままです。
気がつくことができたら、エゴの書いたちっちゃな「心」の文字を消しゴムで消して、本当の自分としてゆったりびのびと怖れなく表現することができます。
こんなふうに、絵や文字の場合はわかりやすいのですが ・・・ じつは、自分が見ている外側の世界もまったく同じで、こころが描き出しているイメージなのです。
自分の目にする世界は「自分の鏡」であるとか、「自分のこころの反映」であるといわれています。
そうなのです。まるで絵を書くように、私たちは自分のこころの思いというものをそのまま自分の外側に表現して、それを世界よんでいます。
でも、自分の描いたものによっておびやかされ、苦しめられていることが多々あります。
もし絵や文字のように紙のうえに描かれていたなら、「この暗い絵やちぢこまった文字は好きじゃない!」と認めて、「ほんとうの自分を表現したい」と選びなおすことで、好きじゃないイメージを消すしてあらたに描き直すことができます。
目にしたものの間違いに気づくことによって、それを訂正することができます。
世界も「こころの鏡」「こころの反映」であるならば、訂正のしかたは紙の上に描かれた絵や文字とまったく同じなのです。
だから、気に入らないものを目にしたとしたら、本意じゃないものが目のまえにあらわれたとしたら、それに反応しまくって取っ組み合いをくり広げるのではなく、唯一やらなくちゃならないのは、
「これはほんとうの自分なんかじゃない、すっかりエゴにのっとられていたんだ」と認めることによって、消しゴムで消してしまえばいいわけです。
ほんとうの自分に困った問題などないはずなのです。トラブっているときは、いつもエゴに乗っとられているときです。
「 消しゴムってどこにあるのですか?」って?
自分が目にしているものを消すための消しゴムは、そのイメージを最初につくりだしたところ、つまり自分のこころのなかにあるのです。その目にしているイメージのすべては、絵や文字と同じで自分のこころの表現(投影)だからです。
だから、外側をいじくりまわすのではなく、すみやかに消しゴムのあるところで消す作業をしてあげることが大切なのです。
その消しゴムの名は ・・・ 「ハイヤーセルフ」といいます。
かなり強力なので、この消しゴムにあったらエゴのイメージはひとたまりもありません。
不本意な絵や文字と同じように、目にしているものがほんとうの自分の表現などではなくエゴの表現であると感じたら(ネガティブなものは全部、エゴの表現です)、こころのなかですぐに消しゴム(ハイヤーセルフ)を使ってあげることです。
「私が目にしているものは、私のなかの罪悪感という感情をかたちにして外に映しだしたものです。でも、わたしは罪悪感と仲良しのエゴなどではありません。ハイヤーセルフ、わたしのこころのなかにある間違った罪悪感を取り消して、ほんとうの私の完璧さと輝きを表現できるように助けてください。ほんとうの自分を外側に見せてください」とお願いします。
これが強力な消しゴムの使い方です。
大切なのは、被害者として外側をいじくりまわすことなく、エゴになっていたことを認めて、すみやかに消しゴム(ハイヤーセルフ)を選ぶことなのですね。
消しゴムによってニセモノの罪悪感が取り消され、安らぎを感じられるようになり、それを外側にイメージとして見ることができるようになります。
ハイヤーセルフのアートセラピー、是非やってみてくださいね☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
ガーンとなっているのは、じつは、目のまえのことについてではなく、「自分の空想」に対してショックをうけています。
私たちのこころは、あっというまに今を離れ、先走り、ずっと未来にいってしまいます。それも、でっちあげの未来へ。
たとえば、ガーンの原因が病気のようなものだったら ・・・ 「手術が必要かも?」(それって、ほんと?)、「そうしたら、仕事に支障をきたす?」(でも、今はいつもどおりですよ!)、「キャリアに影響がでるかも?」(今はなんの影響もありませんよ!) ・・・ と言う具合に、どんどん今から遠ざかり架空の怖れにはまりこみ、ちぢみあがります。
でも、今はまだどれも起きていません。
今起きているのは、「ちょっと人よりちがうかも」ということだけ。
何が私たちの未来をつくるのか ・・・ というと、「今起きていること」ではなく、「たった今のこころの状態」です。
怖れを感じていればそれを証明する未来を見せてくれるし、安心していれば安らかな未来を見せてくれます。それがこころの創造パワー。
だから、今起きていることもじつは「過去」の怖れを証明してくれている結果にすぎません。それに反応してしまうと、メビウスの環からぬけられなくなり、ぐるぐる怖れだけが循環します。
なので、目のまえの問題はとりあえずどうでもいいのです。それに反応することよりもスルーして、ただ今「安らぎ」を選ぶ方へ進みます。これは軌道修正です。
すぐに安らぎを選べない場合には、怖れや動揺をただ受けとめて感じて手放してしまいましょう。
何かを変える力は「未来についての妄想」のなかにはありません。たった今、ここにとどまって、本来の自分の状態である「安らぎ」を感じることで、邪魔っけな妄想がなくなった分だけこの問題に対処する正しい答えを受けとることができるようになります。
怖れは怖れとしてただ受けとめて手放し、ただ安らかに「ここ」にとどまりましょう。
「ここ」のみが、真に存在する時間であり、真の導きが存在するところです。あとは、その導きが正しく安全にナビをしてくれます。安心してすべて委ねて手放してしまいましょう。
そう! 私たちは、空想でヘンなモノを作り出しさえしなければ、じつは安全なのですね。本来の安全状態、安らぎの「今」にとどまりましょう♪
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自分にとって問題となることが起こっているとき、
私たちのアタマに浮かぶセリフは、だいたいこんな感じです。「なにが間違った?」「誰のせい?」
この答えはたいてい、「誰それさんのせいだわ!」「いや、わたしが足りなかったかも?!」「そういうご流れ(ご時勢)なのだから、しかたないか・・・」「そういえば、星占いもよくなかった」「そういう運命なのね」・・・。
ひとの動機をしらべたりものごとの間違いさがしをしたりして、外側のなにかを変えようとするか、はたまた変えられない運命として無力に感じるか・・・。
この考え方は自分の外側に答えがあるという前提で、自分の外側で解決しようとしているのですが、じつは間違いが深まってしまう方向に進んでいます。
無意識のうちに「ほんとうのこと」をさけたいときにこそ、「誰のせいだろう?」と外側に目をむけてしまうのです。自分をごまかして、原因探しの捜査をかく乱するための陽動作戦なのです。
するべき質問があるとしたら ・・・ それは「私はなんで、これ(問題)を見たいと思っているのだろうか?」ということ。
私たちのこころは、自分が見たいと思っているものしか見ることができません。
だったら、人や出来事を分析することはやめて(被害者はやめて)、「どうやら私はなんとしても、これを見ることに固執しているらしい」と認めることです。
じゃあ、なぜ固執したいのか?
*「それを見続けることによって、いったいどんな自分でいられると思っているのか」(守ってもらえる? 同情してもらえる?)
*「それによって、なにが手に入るのか?」(保護? 安心? ・・・)
*「それがなかったら、いったいどんな自分になってしまうと思っているのか?」(価値がない? 生きていけない?)
*「それらは、本当のことでしょうか?」(いったいあなたは、自分をなにものだと思ってる?)
こころのなかで、無視しつづけてきた間違った考えを見つけることができたら、ハイヤーセルフにさし出して、もっていってもらいましょう。「これは間違って私が握りしめていた考えです。けれど、私の役にはたっていませんでした。私のこころから取り除いてください」と。
自分の外側のことばかりを気にして、それをどうにかしようとすることは、「私の間違った考えは隠しておきたい」「それよりも、人を責めて被害者でいることを選択したい」という無意識の決意にほかなりません。
間違いにフタをして被害者でいようとすることは、ラクなようでいて、決してこころは安らぐことはありません。被害者は「加害者(悪者)」が必要であり、ひとを悪者にでっちあげることで自分だけがヨイ人でいようとする企みだからです。
すると、企みがバレるよりもまえに、無意識のうちに自分で自分を痛めつけてプラマイゼロにしようとします。つまり、自分で自分を痛めつけてしまいます。
こんなややこしいことよりも、こころの向きをかえて、いさぎよく自分のこころのなかにあるものに向かってみることです。
間違った考えのひとつひとつが消えて行くことで、怖れも姿を消し、おのずと安らかな世界を見ることになります。こころに向きあう以外のムダな努力はいらなくなるのですね。それが流れにのる、とうことです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
大坂なおみ選手のグランドスラム優勝、おめでとうございます☆ いろいろな意味で感動いっぱいの試合と授賞式でした!(涙)
そして、大坂選手のたたずまいから学ばせていただくこと多数。
あの試合をとおして感じたのは、それぞれのこころのパワーというものの「使い方」による光と闇。
動揺や怒りにまかせてこころのパワーを使うことで、自分自身に災いをひき起こし自滅に追いこむこともできるし、
ただ静かに自分を信じて、やるべきことに集中することで、本来のちからにつながり満足や喜びという結果をもたらすこともできるということ。
意志とこころのパワーはよく御者と馬の関係のように例えられますが、結局は自分自身がどうやって馬を制御するのか。
いつもふらふら、あちこちに気を散らせる馬(こころ)というものをどれだけうまくコントロールして、安全に乗りこなすことができるか、ということなのです。馬(こころ)はほっておくと、むやみに暴走したり、あるいはまったり草を食べつづけたり、目にするものに反応して暴れ狂ったりしますから。
だれのこころもジェット噴射エンジンなみの、自分でもびっくりするようなパワーをもっています。それをどうやって安全に使うのか、どちらの方向にむけて噴射したら自分のためになるのか。
自分自身を地面にたたきつけてしまうような方向で噴射して、自分に傷を負わせることもできるし。はたまた、まっすぐ大空に向かって噴射して、安全にどこまでも高く飛翔してゆくこともできるわけです。その方向を決めてあげるのが、そのエンジンをもつ私たちの責任です。
過去の大坂選手は自分の強力なジェットエンジンを多少持て余している様子で、なかなか使いこなせていなかったそうな。自分のなかでエンジンをふかしているうちに、自暴自棄になってしまったりしていたようです。
方向性が安定しなかったパワフルなエンジンを修正して、安定させてくれたのが、新しく就任したコーチなのですね。
そこからめきめきパワーが開花したというわけです。
各局の報道で大坂選手のあれこれが紹介されるなか、コメンテーターの女性たちが目をハートにして語っていたのが「いいわね〜♡」「私もしてもらいたいわ〜♡」というひとこと。これは大坂選手とコーチとのやりとりについて。
ヘコんでしまうと自分のパワーゆえに自分の首をギリギリとしめてしまう大坂選手のパターンを理解して、「まずは、自滅していることを認識せよ」と。
そして、とにかくめちゃくちゃポジティブにほめまくってくれます。
「なにも間違っていないよ!」「そのままで勝てる!」「うまくやってるじゃないか!」「きみにはできる!」と、彼女のパワーが安定するように指導しているのです。
彼女が「でも〜・・・」というひまさえないぐらい、しっかり目線をあわせて、真っ正面から至近距離でがっつりと「絶対大丈夫なんだから!」とたたみこむように励ましています。
その様子を見た世の女性が「私も言われたい〜♡」「こんな彼氏がほし〜♡」となったわけです(笑)。
私にもあんなふうに魔法をかけてくれる人さえいたならば、きっと変われるのに・・・と。(そう!世界中の誰もが願っていることは、そのままの自分で認められて、ほめてもらうことです!)
でも、安心してください!(笑)
いるんです! ちゃんといます! あなたにも! あなたのことを見て、あなたのことを思って、優しくアドバイスしてくれる素晴らしいコーチが♡
あの大坂選手のコーチさんよりもさらに上をいき、もっとすごい励まし、いえ、あなたについての真実を、つねに、365日、24時間、言いつづけてくれます。
「あなたは、宇宙に無条件に愛されている、とても大切な唯一無二の存在ですよ」「あなたの手には、宇宙のすべてがすでにあたえられています」「あなたの権利は、完璧に幸せになることです」「その方法は私が丁寧に教えて、導きましょう」 「あなたは失敗することすらできないのです」「なぜなら、そういう存在だからです」・・・
そんな言葉、聞こえたことがない!って。
そうかもしれません。じつは、ちゃんと聞こう! とこころに決めて、お願いしないと聞こえてきません。なぜなら、その声は決して激しい調子ではなく、こころのなかにひっそりと静かにささやきかける声だからです。けれども、誰のどのような言葉よりも説得力と確信に満ちています。
また、「自分ひとりででガンガンやる」という自分のやり方を手放さないと聞こえてきません。さらに、「私ひとりではできません。助けてください」と謙虚に助けを求めて手をさしださないと聞こえません。
それは誰かというと、私たち一人一人にもれなく存在してくれているハイヤーセルフという存在です。すべての答えと解決策をもっている存在で、いつでも、どんなときでも、無条件に愛し、導き、守ってくれています。
でも、そのハイヤーセルフというコーチはあまりにも謙虚で、私たちを尊重する気持ちをもってくれているので、こちらから話しかけて、お力ぞえをお願いしない限り、勝手にしゃしゃり出てどうこうするということがないのです。
だから、そこにいることさえわからないかもしれません。つまり、見つけようとした人にしか、はっきりと存在しないのです。
また、怖れや怒りや動揺の気持ちでいっぱいになっているときには、コミュニケーションしようとしてもコミュニケーションができません。つながりをもつためには、静かなこころが条件となります。
怖れや怒りや動揺というものは、ある種の目くらましのようなもので、私たちがハイヤーセルフにつながることができないようにエゴがくり出してくる煙幕のようなものです。
人は怖れや怒りや動揺を感じると、どうしてもそれにとらわれてしまい、その感情にのっとられてしまいます。そして、もともとのゴールというものを忘れてしまうし、ハイヤーセルフの存在ともつながれなくなってしまいます。
ハイヤーセルフから見ると、怖れや怒りや動揺というのは甲冑をいくえにも身につけたような状態に見えます。つまり、カラにこもってしまって、外からやってくるものを何も受つけない状態に見えるのです。
そもそもハイヤーセルフとちゃんとコンタクトできていたとしたら、問題は解決の方向へむかうので、エゴはそれをさせないために怖れや怒りや動揺というものをオトリとしてくり出してくるというわけです。そして、怖れや怒りや動揺でぐるぐるくるんで、ヨロイを着た状態にしてしまうのです。
エゴは、「ほ〜ら! すごく怖いだろ。自分を守るためにすぐに何かしないと大変なことになるぞ。そら、あわてろ!あわてろ!」と、怖れ、怒り、動揺に集中させて、さらにそれを肥大させて、あらゆる防御をはりめぐらせて、そのせいでまったくハイヤーセルフからの指示が聞きとれなくなるということなのです。
だから、怖れや怒りや動揺にまどわされずに、まずは自分専属の愛にあふれたコーチからのアドバイスを聞こう!と、いったんこころを静めて、耳を傾けることが必要なのですね。
聞く意志さえもっていれば、だんだんその指示を的確に理解できるようになっていきます。もちろん、それは言語ではなく、ひらめきだったり、直感に導かれた自然な行動だったり、人からのアドバイスだったり、ふと目にするものだったりするのですが・・・。
私たちの幸せだけを望んでくれる、こころ優しい愛にあふれたコーチ、それも究極に正しいコーチであるハイヤーセルフに、是非ともこころを開いて、お願いして、こころのジェット噴射エンジンを安全に使う方法を丁寧に指導してもらいましょう!
このコーチのもとだったらかならずや、大坂選手同様にメキメキと自信をつけて、自分のなかにある贈りものを花開かせることができるはずです。
正しいジェットエンジンの使い方を教えてもらいましょう! ( ・◡・ )♫
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
♪愛をとめないで〜、そこから逃げないで〜♪ ・・・ 今日のような秋を感じる日は小田和正さんの歌声がぴったりですね。
どのような人間関係においても、かならずフラストレーションはつきもので、愛をとめたくもなるわ、そこから逃げたくもなるわ ・・・。
家族、恋愛、職場、友人・・・ おもわず「もういいわ!」と距離をおきたくなったり、実際に関係を終わらせてしまったりすることがあります。
その昔二十代のころ、私が人に対して邪険な気持ちをもったり、切り離す気持ちをもつと、きまって声が出なくなったりしたものでした。
はじめは自分の邪険な気持ちと、声が出ないこととの因果関係にまったく気づかなかったのですが ・・・ 三回ほどくり返されたとき、「ん? もういい!って思うと、声が出なくなる?」と、そのパターンに気づいてしまいました。
つまり、愛を出し惜しみして、人に対して理解を失うと、自分の表現手段である「声」も失う、ということが起こるのです。
正直なこころを表現しなかったから、ストップしてしまうのでしょうか? (人に対して「もういいわ!」と言ったつもりでも、じつはエゴに対して「もういいわ!これ以上、愛のない言葉をしゃべるな!」と言っていたのかもしれません。・・・汗)
私たちは、ほんとうの気持ちを偽ったり表現しないことによって、自分を守ることができると勘違いしてしまったりします。しかし、それは本来の自分をねじまげることであり、自分に苦しみを与えてしまいます。
自分の本性である「愛」は、自分が違うものになることを許してくれないのでしょうね。「愛」はとめることができないのです。
ほんとうの自分に対して正直さを欠いてしまったとき、いきなりそこまでの症状は出ないかもしれません。最初は、閉塞感、孤独、怒り、怖れ、悲しみ ・・・ というようなささいな不調として知覚されるかもしれません。
しかし、こころパワーはあまりにも強いので、本当の自分の思いに無理にフタをしておこうものなら、フタがふっとんで怪我をするか、自爆しかねません。(以前、強炭酸水をマイボトルに入れて持ち歩いていたら、平たいフタが空高くふっとんで爆発物のごとくなったことがありましたっけ・・・こころはそれどころじゃないです!)
本来の自分自身である、愛や思いやり、優しさ、理解、気遣い、喜び、穏やかさが自由に流れて、表現されていないときには、自分自身にとって大切なものが欠落しているように感じるものです。
だから、閉塞感を感じたり、落ち込んでいたり、体調がすぐれないときには、いつのまにかほんとうの自分自身のバルブがしまっているか、きつくフタをしてしまったのかもしれません。
そんなときには、目のまえにある問題はいったん脇において、身近な誰かに対して優しさや思いやり、気遣いや安心感を表現してみましょう。
そうするとバルブがゆるんできて、本来の自分という「愛」のちからが戻ってくるのを感じるかもしれません。
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私たちが幸せを感じられないとき、傷ついたように感じているとき、あるいは怖れを感じているとき ・・・ 知らず知らずのうちに、こころのなかで誰かを責めていたりします。
親が十分に面倒をみてくれなかったからこんな私なんだ・・・ あの人がちゃんと愛してくれないから不安になるんだ ・・・ あの上司にひどいことを言われたからこんなに傷ついていた ・・・。
イヤな気持ちと加害者は、かならずワンセット。「だって、私がこんなにいやな気持ちになって、こんな被害をうけているのだから 」と、こころは言い張ります。
でも ・・・ 誰かを責めていると、じつは自分の幸せのバルブを閉めることになってしまいます。
なぜなら、相手と自分のこころはひとつであり、相手に対してしていることはまさに自分にしていることと同じなのだ、とこころは理解します。相手に思ったことは、自分に対しても思わずにはいられないのです。
だから、相手は間違っている、ひどいやつだ!と決めたら、まさにそういう自分であると信じるようになり、これまた被害者となってこの気持ちをどうにかせざるをえません。
だから、被害者役をやることは、自分のための幸せの権利を拒否することになってしまいます。
「あなたは間違っていて、私は正しい!」と主張する被害者って、けっこう快感をともなうようで、自分の首をしめていてもなかなかその役を降りることができません。
私たちはどうやら、被害者になって誰かを責めつづけることにすっかり気を取られて、自分の正当な権利である幸せをみすみす手放してしまうようです。
でも、これをしていると罪悪感がたまる一方で、なんの解決にもならず、苦しさは増す一方です。
そんなことよりも、私のゴールは「ほんとうに自分を幸せにすることなのだ!」としっかりと目覚めて、加害者にでっちあげていた人たちを解放しなければなりません。
だから、まず幸せを感じていないときには、無意識のうちに誰を責めているのかをちゃんと知ることが必要です。
そして、ほんとうは「その人」は自分が不幸せでいるための口実であることに気づかなければなりません。
「あの人は加害者だ!」といくら信じても、この瞬間、その人は自分になにもしていないからです。それは自分のアタマのなかのイメージであり、イメージというのは自分が見たいものしか見ることができないからです。
そして、「加害者うんぬん」のストーリーにしがみつくよりも、ただたった今、自分で幸せになってしまいましょう。そうすれば、そのゲームをおりられます。
たった今、安らぎを感じるのに、どんな口実も理由も権利もいらないのですね。
あんがい私たちは、幸せになることよりも、被害者ゲームとそれがもたらすみじめさを愛しているかもしれません(笑)。
みじめでいたいのか? 幸せになりたいのか? たった今、幸せになるための決断なのですね。
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ことばには、力があります。
ポジティブなことばを使えば、こころは前向きに立ちあがってくるし、ネガティブなことばばかりだと、こころは空気が抜けたようになります。
そんなことばのもつ魔法の力は、もっと大きなところでも働いています。
ことばがないところでは、世界は一枚の絵のように存在しています。
ことばがあらわれてモノゴトをひとつづつ切りとるまでは、それはひとつでありつづけます(「それ」といわなければ「あれ」はなく、「私」といわなければ「あなた」は存在しません)。
だから、いったん「私」ということばが発せられると、「私」と世界が一気に分裂します。
「私」vs あなた、「私」vs そこにある木、「私」vs 病原菌、「私」vs お金、「私」vs 私以外の75億数千万人、「私」vs 銀河系の星々、「私」vs あれや、これや、それや ・・・ 「私」がいるやいなや、ひとつだったものがバラバラになり、「私」が相手をしなければならない雑多なものに圧倒されてしまいます。
でも、「私」という考えがなくなると、見ているものはひとつのイメージとして自分の意識のなかに存在しているだけとなります。目にしているもの全体、つまり世界全体が「私」になってしまいます。
ことばがなければ「私」はいなくなり、そのように考えというものがない状態のときには、じつはどこにも問題が存在できなくなります。
問題は、「あれが私を困らせる!」と決めつけたときに、はじめて自分にとっての問題となります。「私」も考えもないときには問題はなく、ただのあるがままだけがあります。
「私がどんな存在であるか」が目にするものを決めるので、どのポジションから見ようとするのかによって、見えてくるものがまったく変わってきます。
自分をこの大きな宇宙のなかにポツンと存在するほんの小さな点にすることもできるし、あるいはすべてを自分のなかにもつ至高の存在に戻してあげることもできるのです。それは自分のことば(考え)しだいなのですね。
☆スポーツ選手がよくいうゾーンといわれる状態は、まさに「私」がいない状態なので、ひとつとしての完璧さがあります。だからこそ、個の「私」をこえた力が働くのですね。自意識が強くなると、自分をどんどん小さくしてしまうので、結局自分の邪魔をしてしまうことになります ☆
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今年の夏は格段に暑かったので、あまりお散歩する気になれなかったのですが、すっかり気候がよくなり、夕方お散歩するのが楽しくなりました。でも、とっぷり暮れてしまいますが・・・。
私のお散歩は「神さま散歩」。つまり、神さまとお散歩を楽しむのです。
どういうことかというと ・・・
私たちはふだん歩いているときには、目にするものにいちいち反応するか、あるいはさまざまな考えごと、空想でアタマがいっぱいになっています。つまり、ずっと考えつづけてココロここにあらず。
これは、エゴとお散歩している状態で、神さまが入ってくる余地がありません。
エゴのかわりに、お散歩の同伴者として神さまに来ていただくのが「神さま散歩」。やり方はいたってシンプルです。
ふつ〜にお散歩するのですが、いくつかルールがあります。
* 【反応しない】目にするものに、意見や価値判断、反応をもたない。何を見てもニュートラルな状態です。
* 【明け渡す】五感を今ここに開きます。街の匂い、風、温度、音、色など、その場にあるものに自分を明け渡してしまいます。
* 【それとして存在する】すると、目にするものが全部自分のなかに入ってきて、気づきの中に存在する状態になります。
* 【考えはスルーする】ときどき反応や考えが自動的にあらわれますが、ただそれに気づいて、じっと見つめると消えてなくなります。
* 【リラックスを楽しむ】ただ「ここにある」という静けさがあり、深くリラックスしてきます。その感覚を楽しみます。
ある意味じゃ、歩きながらの瞑想ともいえるのですが。
瞑想というと、リラックスはするものの、ここちよさという架空のイメージのなかに入ってしまって、「ここ」にしっかりと存在しなくなっていることが多々あります(光やら平和というイメージのなかに入りこんでしまうのです)。
でも、「神さま散歩」で大切なのは、「今」ここにしっかりと存在することなので、歩きながら五感でしっかりと街をとらえて、まさにその空間そのものになってしまいます。
そして、考えやイメージがないとき、神さまが入ってきてくれます。
「神さま散歩」をしていると、だんだんその状態がいつでももてるようになるので、エゴに憑依されてあれこれ考えることが少なくなってきます。
あれこれの考えに占拠されることが諸悪の根源なのですね。
そして、アタマで考えることなく、そのまま自然に最善へと導かれるようになっていきます。これがエゴに導かれるのではなく、もっと大きな力にゆだねる、流れにのるということです。
いちばん大きなメリットは「怖れ」「動揺」というものに乗っとられることが少なくなり、安らぎ・平安を感じられるようになることです。安らぎ・平安のひとときこそが、私たちが望んでいる幸せなひとときにほかなりません。
秋風を感じながら、ぜひ神さまとお散歩を楽しまれてみては? ( ・◡・ )
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私たちのエゴ(思考)は、お喋りが大好き。だから、ほっておくと一日じゅう「ああだ、こうだ」と喋りつづけることができます。
ためしに、少しのあいだ何も考えないようにしてみましょう。すると ・・・ あっというまにアタマのなかにお喋りの洪水が勝手にまきおこって、それに参戦している自分に気づくと思います。
路上でぶつぶつ言いながら歩いている人を目にすると、「あの人、頭がおかしい」とコワがりますが、もし私たちのこころに拡声器がついていようものなら、まちがいなく全員「アブナイ人」です!(笑) いつか目にしたアブナイおじさんのつぶやきと、たいして変わらないことに笑ってしまうことでしょう。
エゴ(思考)はひっきりなしに、ものごとに意味づけしたり、原因を推測したり、結果を予測したり、あれはうまくいったのいかなかったのとジャッジしたりするのが大好き。ちょっとまえの出来事に対しても、だいじに握りしめておいてあれこれ批判やコメントをくりかえします。
しかし、これをすることじたいが私たちの苦しさの原因なのだ、ということになかなか気づくことができません。
どうやらエゴは、ものごとの理由がわからないと落ち着かないらしいし、原因さえわかれば納得できると思っているようだし、結果はこうだと決めておけば安心できると信じているし、なによりも自分のルールにのっとってものごとを把握しておかないと気がすまないのです(私こそが “神” と思っていますから・笑)。
でも、ぜんぜんそれらは正しくないので、起こることとのあいだにさらに葛藤を生みだします。そして、「こんなはずじゃなかった・・・汗」という予想外が生み出されます(もともと、あれこれ考えることさえしなかったら、こんながっかり感も起こらなかったのですが・・・)。
予想外とは、もともと自分のたったひとつの考えに固執していることから生じるものです。
エゴがなんでこんなに忙しく喋っているのかというと、コワイからです。
こころが静かになっちゃったら、イヤ〜な気持ちが浮上してきそうだから、とりあえずこころを雑音で満たしておきたいのですね。あるいは、カラッポ感が耐えられないので、ウソでもなんでもいいからお喋りをつめこんでおきたいのです。
そんな理由から、私たちは何かを目にするとすぐに意味づけをしたくなります。
たった一枚の絵を見せられても、すぐさまストーリーを紡ぎはじめるのです。
たとえば、こんな絵 ・・・
「ああ、赤ずきんちゃんのオオカミね」「おばあさんになりすまして、食べてやろうと赤ずきんちゃんを待ってるのね」「でも、大丈夫!ハッピーエンドだから」とほとんどの方が「赤ずきんちゃん」のストーリーが浮かんだと思うのです。
でも、絵のなかには、赤ずきんの姿も、おばあさんのかわりだというくだりも、「食べちゃうぞ!」の文字も、危険が襲っても大丈夫だということも、さらにこれがオオカミであることすら、この絵はこれっぽちも示していません。
ただ、「こういう」絵なのです。
じゃあ、なぜわかったの? なぜ、こんな長々とストーリーを語ったの? ・・・ それは、過去から情報を引っぱってきたからです。「オオカミ」「ナイトキャップ」「ベッド」・・・ 「赤ずきんちゃんね!って。
私たちは、自分の過去の体験や知識からさまざまなものを集めてきて、いろいろなものごとがちゃんとわかったような気になっているけれど、ほんとうにわかっているのでしょうか?
それはかえって「あるがまま」を混乱させることになっているのかもしれません。
つまり、この絵には何の意味もない、ということなのです。どんな意味も内容も暗示していないし、そんな凶暴なストーリーもハッピーエンドも語っていはいません(宇宙人がみたら、まったく何がなんだかわからないでしょう)。
そんなふうに、私たちは自分の過去から、即座に今、目にしているものに対して意味づけを行います。自分でそうしているともわからないほど、瞬時に意味をでっちあげているのです。
しかしその意味づけは、この一枚の絵が教えてくれているように、ぜんんぜん正しくはないし、ほんとうではない、ということなのです。
これはただ、これだけです。
じつは、人生の一瞬、一瞬もこの一枚の絵のようなものです。
いろいろな絵柄の絵が積みあげられていて、私たちはそれをつぎつぎにめくっていきながら、即座にストーリーを紡ぎはじめます。
まったく吹き出しも注釈もない一枚一枚の絵(瞬間)は、じつはどのようにも解釈できるので。
そうそう、松本人志さんの「IPPONグランプリ」という番組で、芸人さんたちが提示された写真や絵を見て、瞬時にストーリーやセリフをつけるというのがありますが、同じ絵柄がシニカルになったり、笑えたり、悲惨だったり ・・・ 芸人さんの目線でまったく違う意味あいをおびてきます。
まさにわたしたちもそれをやっている、というわけです。
そして、それらの絵たちは、解釈されたままにストーリーを紡ぎはじめます。なぜなら、私たちは自分が「見る」と決めたものをなんとしてでも目にするからです。
しかし実際のところ、一枚一枚の絵には何の意味もないし、ましてや他の絵札との因果関係もまったくないのです(カルタが一枚一枚独立しているのと同じです)。
あれがあったから、こうなって、きっとああなる ・・・ 私たちは一瞬という絵札を並べて自分なりの物語を語っていますが、そこにはそんな物語はどこにも存在していません。一枚の絵(一瞬)は、それぞれそれでそのまま完結しています。
ただ「あるがまま」があるだけなのです。そして、一瞬は一瞬で完結します。私たちが意味をあたえて、つなげない限り、ストーリーはどんなストーリーも紡がれないのです。
ときどき思います。まったく過去の記憶がなく、自分に対するイメージも、人に対する決めつけもなかったら ・・・ 一瞬一瞬はどうなるのだろう? どんなふうに感じるのだろう? と。
おそらく、毎瞬、毎瞬、「はじめまして」の気持ちで人に会うかもしれないし、なんてことない体験でもびっくりするぐらい新鮮かもしれないし、すべてがきっと驚きで満ちていることでしょう。それが「あるがまま」の素晴らしさですね。(毎日毎日、記憶をなくしてしまう女の子と恋をして、毎日がファーストキスなんていう話しがありましたっけ。「50回目のファースト・キス」、私が観たのはドリュー・バリモア バージョン)。
つながりがないと、じつは怖れというものも存在しなくなります。
また、過去からリベンジするためにもちこむあれこれもなく、まったくプレッシャーがなくなって、きっとどれだけ軽くなることか・・・。
「きょうは新しい日」「私はきょう生まれました」、あるいは「一瞬一瞬、私は新しい」・・・ まったくストーリーを紡ぐことなく、こんなまっさらな気持ちでいっときいっときに向きあったら、どんな感じがするでしょうね?
ほんとうは、一瞬とはそんな無垢なまっさらなものであり、それが私たち自身のまっさらさなのですね。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「はい、毎日、出かけるまえには必ず鏡で自分をチェックします」「お化粧するときに見ます」 ・・・
これは、自分を見ているのではなく、自分のイメージを見ているということです。
「自分を見る」というのは、「私」という存在のありかを見るということ。イメージではなく、ホンモノを見るということです。
私たちの目はつねに外側の出来事に気をとられているので、なかなか内側でホンモノの「自分を見る」ということをしたことがある方はいないかもしれません。
私が最初に意識的に「自分を見る」ということをしたとき、今までスポットライトがあたったこともなかった存在に急に光があたったように感じて、所在ないやら、恥ずかしいやら、嬉しいやら。透明人間のように誰の目にもとまることのなかった存在が急に見出されて大切にされたようで、もうひとりぼっちじゃないんだという安堵を感じたものです。
つまり、私たちが孤独や不安を感じるのは、このほんとうの自分を忘れさっているからとも言えます。
つねにこころが紡ぎだすイメージにばかりこころを奪われて、ほんとうの自分が見捨てられ、置きざりにされている空虚感が不安や孤独、怖れの原因です。そして、それをうめるためにイメージの世界で空回りを続けるので、さらに怖れや孤独がつのるわけです。
自分へと戻ってゆくことは、安らぎと満足の体験で、それが自分が目にするイメージへと反映されてゆきます。
イメージの世界には何も引寄せるもはなく、引寄せるよりは自分から発するものこそが目にするものとなります。
ではでは、自分を見ることをしてみましょう。慣れると一瞬ですみます。
1♡ 自分のこころのなかの考え、イメージ、感情にただ気づきます。気づいて、見ているうちに静かになってきます。
2♡ 静かになったら、その「見ていた存在」に気づいてみます。その見ていた存在にスポットライトをあてるイメージです。
3♡ そして、その「見ている存在」のなかに、自らがダイブして消え去り、ひとつになります。そこには、沈黙があります。
4♡ そこにあらわれる安らぎ、満足感にとどまります。(もし、注意がずれて考えやイメージに巻き込まれてしまったら、また静かにそれ気づいて、この状態に戻りましょう。
練習しているうちに、いつでも簡単にできるようになります。また、考えやイメージ、感情に巻き込まれづらくなります。
だんだん、いつもそこにある安らぎの感覚こそが大切になってゆきます。すると、目にしているイメージのなかにも、同じ安らぎの象徴があらわれるようになります。
はじめて自分をしっかり見ようとすると、むずむずとした恥ずかしさを感じる方もいますし、また突如「やっと見てくれた!」という喜びの号泣が起こったという方もいます。それぞれの体験があると思いますが、そこには「やっと!」という静かな、あるいは強い喜びがあるのだと思います。
これが正しく自分を大切にすることなのですね。自分を大切にすると、目にするイメージが整ってくるのを感じます。
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Q: 「ゆだねることが大切だと知り、問題をハイヤーセルフにゆだねています。しかし、今だに思うようにいきません。なぜでしょうか?」
A : 私たちは、「ゆだねる」ことさえすれば「思いどおりになる」と考えてしまいがちです。
しかし、「ゆだねる」 = 「自分の思いどおりの結果になる」ということではないのです。ここはよく勘違いしてしまいます。
「自分の思いどおり」は、はたして自分にとってほんとうに幸せをもたらしてくれるのでしょうか? ハイヤーセルフや宇宙(神さま)が提案してくれる幸せよりももっとよいものなのでしょうか?
私たちは、「自分」という小さな点からしかものごとを見ることができません。なにごともその小さな点を基準にして、「それは間違っている」「これはOK」という選別をしてしまいます。
自分という小さな穴からしか覗いていないので、全体象などは見たこともなく(全体像の意味もわかっていません)、目にはいるものごとは小さな断片であり、それが何なのかを知ることはできません。
「自分の思いどおり」とは、エゴの想定する幸せでです。
でも、エゴとは怖れそのものなので、その動機は「怖れ(不足感、欠乏感)」であり、したがって到着地点も幸せではなく「怖れ」をともなうものとなってしまいます。
一方、ハイヤーセルフがもたらしてくれるゴールは、怖れをこえたゆるぎない「安らぎ」としての幸せなのです。
だから、ゆだねることは「大将のおまかせメニュー」のようなもの。
なにが出てくるのかはまったく未知で、ときにはそのとっぴさにびっくりするかもしれません。けれど、今まで知らなかった驚き、喜び、味わいがあるです。
そんな予想外の喜びを人は愛するので、ふしぎなお料理を出すことで知られたスペインのレストラン「エル・ブジ」も伝説になったのだと思います。
私たちは「はい、ゆだねます!」と軽く応じますが、それはポーズだけです。実際は、かなりしっかりと握りしめたままです。
「ゆだねる」ことは、運転席からバックシートに退き、VIP気分でゆったり静観すること。
VIP は、「運転手が道を間違えるかもしれない」とか「ちゃんと運転できないかもしれない」などと気をもむこともなく、安心して車内でのリラックスタイムを楽しんでいます。ちゃんと予定どおりに到着できることも、いちばんよいルートを選んでくれることも、安全であることも、すべてが大丈夫で自分のためにいちばんよいとわかっているから。
でも、私たちの「ゆだねる」は、運転席はあけ渡したもののまだ助手席に座っていて、片手はハンドルに手をかけたままで、あるいは毎瞬毎瞬、運転手が間違えないか逐一ガン見しているような状態です。
いったい、どれだけ信じられないの?! 私たちを導いているのはただの運転手ではなくて、すべてを知るハイヤーセルフですよ〜!(汗)
そう、まるで信じていないのです。信頼することができないことが問題なのです。大将のおまかせサプライズをまったく信頼しません(毒でも盛られると思ってるのでしょうか? 笑)。
つまり、キケンを感じているのです!
「何をされるかわからない」って(なんかされちゃう私って、いったいどういう人なの?!・・・汗・笑)。
ハイヤーセルフにゆだねたら、いちばんいいようにしてもらえるはずなのに ・・・そうは思えない。
「ちゃんとやってくれないよ」「ヘンなことされるに違いない」・・・
「ヘンなことされちゃう私」って、いったいどんな私なんでしょ?
「ヘンなことされる私って・・・」 → 「私、てきと〜にあしらわれて大切にされていないから」「あまり真剣に考えてもらってない」 → 「だから、いいものを与えられるとはとうてい思えない」(なぜ、そう思うの? ) → 「好かれてないと思うから」「価値がないから」「どうでもいいって思われているから」(どうでもいい人ってどんな人?)→「結局、私って見捨てられている感じ」
この「自分は見捨てられているから、いいものなんかもらえないんだ」という思いこみ ・・・ これはハイヤーセルフセルフがそう言ったわけではなく、自分自身がそうだと言い張っているのです。
この自分に対する考えこそが、緊張を生みだして、すでに与えられているよいものにも気づかなくさせ、自然な流れに乗れなくしてしまいます。
「見捨てられてる」自分ってなんなんでしょう?
それは、自分のなかにありながら、長いあいだ抑圧されてきた孤独感、怖れ、無価値感です。
抑圧されてきたために、それは外側にうつしだされてあらゆる人(この場合はハイヤーセルフ)のなかに見るのです。
この抑圧された感情を終わりにするためには、ただその感情があることに気づいて、ありのままに感じて、手放してしまいましょう。その感情がしっかりと認識されていなかったために、さまざまな場面に顔を出して、怖れや不信をまわりの人のなかに見てきたことでしょう。
その感情によって、人との距離ができて近づけなかったり、それはまたハイヤーセルフに対しても同様に感じていたのでした。
気づくことさえできたら、終わりにすることができます。ただ気づいて、手放してしまいましょう。
すると、そこには「受けとれる自分」「全てを安心して受けとってかまわない自分」がちゃんと存在してくれているのです。
自分のなかのほんとうの自分ではない感情を手放すことで、しぜんと自分自身を信頼できるようになります。そうすると、まわりの人もハイヤーセルフもしぜんに信頼して、リラックスしてゆだねることができるようになります。
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(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
A美さんは、小さいお子さんがいらっしゃるお母さま。
ご相談内容は、「わが子に対して感情をおさえられず怒りまくってしまい、その後に罪悪感にさいなまれて苦しい」ということ。
可愛くなくて虐待してしまうということではなく、「ただただ、とっさに怒りがとめられなくなる」ということ。そして「子どもに申し訳なく感じて、自分を責める」「そんな子どもを救わなくちゃ!とあせる」というくりかえし。
「怒り」というのは、その場面で感じた「ほんとうの感情」を隠すためのいわゆる武器のような感情です。自分が弱いと感じていればいるほど、とっさに怒りという感情で武装して猛々しい強い自分のフリをすることで、それ以上攻めこまれるのを防いでいるわけです。
つまり、ヒリヒリするこころの傷を隠すためにバンドエイドはる。しかし、そのバンドエイドは両面トゲトゲ ・・・ みたいな感じ。この怒りというバンドエイドを使うと、相手も自分も傷つけることになります。
スポーツ界でもやたら怒鳴りつけたり、暴力をふるったりという、怒りダダ漏れの指導者さんたちがおられましたが、こういう方はいざとなる、急にかりてきたネコのようにチンマリしてしまうことも ・・・。
怒りダダ漏れの方は、自分のおもいどおりにならないことに対して無意識のうちに恐怖を感じているので、その動揺をなんとかしようと、怒りを使ってゴリ押しでものごとを自分が安心できる状態にコントロールしようとします。
ほんとうに強い人は強く見せるための武器(怒りや暴力)は必要としません。コワがっている人だけが、怒りまくって威嚇してしまいます。
だから、怒りまくっているということはコワがっている証拠なので、そういう怒りまくっている人をコワがる必要はないのですね。
そこで、A美さんの怒りの下に隠されている、ビビってる自分(ニセモノの自分です)を明らかにしようとしたのですが ・・・ 小さい頃からツライ感情をもてあまし、こころの底に抑圧してきたので、武器としてなじんできた怒り以外の感情は隠されていてあまり意識することができません。
ふつうは、怒りの感情からその下に隠された真の感情へと掘り下げてゆくことで、怒りの原因を探ることができます。
たとえば ・・・ 私は怒りたい → なぜなら、思うようにならなくて動揺しているので、強がりたい → 私はコワい → どうにもならない無力感がある → コントロールしないと生きていけない → 怒りこそコントロールするための最強の武器!・・・というように、怒りの底辺にある本当の感情をあばいてゆくことができるのですが、A美さんは完全にブロックされています。
そして、A美さんいわく、怒っているときにはきまって、「なんでっ!?」という言葉だけがあるそうです。
「なんでっ?!」というナゾのセリフのみ・・・。そこには感情もなんの手がかりもありません。
「なんでっ?!」がなにをあらわしているのかをうかがっても、ただただ怒りの感情とともに「なんでっ!?」というセリフだけが出てくる、というのです。
「なんでっ?!」がなにを意味しているのか?
そんなこまったときには、ヒプノだのみ!
感情を抑圧している自我(エゴ)にちょっとおいとましていただいて、そのすきに本当の気持ちへと攻めいる、というのがヒプノセラピーのやり方です。リラックスして自我が無防備になるトランス状態になると、本当の気持ちにアクセスすることができます。
そこで、A美さんをヒプノ状態へと誘導してみると ・・・
いままでは突発的にあらわれる怒りの原因を調べようとすると、その下の感情はブロックされてなにひとつ感じることができなかったA美さんですが、いきなり涙を流しはじめたのです。それも、まるで幼いこどもが泣きじゃくるように。
私が「A美ちゃん、どうしたの?」と声をかけると、「お母さんがぜんぜん話しを聞いてくれない」「相手にしてくれない」「見捨てられているようで寂しかった。悲しかった」と幼い女の子として答えてくれました。
どうやら、まだちいさくて、いちばんお母さんになんでも聞いてもらって甘えたいときに、それがぜんぜん満たされていなかったようなのです。幼い子どもにとっては、こころのよりどころがない感じです。
ヒプノをするまえは、まるで感情を感じることができなかったA美さんですが、とつぜん幼いA美ちゃんが飛び出してきて、泣きながら悲しみをうったえているようでした。
そして、そこでわかったことは、A美さんのお母さんもA美さん同様、まったく話しをきいてもらうことなく寂しく育っていたということ。そして、いざ母になってA美さんの面倒をみようとしても、してもらったことがないことはできないし、まだこころは傷ついた幼児のままだったということです。傷ついた幼児には、子育てはなどできるはずがありません。
そしてA美さんも母になったわけですが、お母さんとまったく同じで、こころはまだ傷ついたおさないA美ちゃんが痛みをかかえたまま存在していて、「私は母にちゃんと話しをきいてもらっていない」「面倒をみてもらっていない」「愛されていない」と主張していたのでした。
つまり、A美さんのこどもに対する怒りとともに出てくるあのセリフ、「なんでっ?!」というのは ・・・
じつは、「なんでっ?! 私はちゃんと面倒をみてもらっていないのに、この子の面倒などみなくちゃいけないの?!」「なんでっ?!私がこの子のワガママ聞いてあげなくちゃいけないの? 私は聞いてもらったことないのに!」という「なんでっ?!」だったのです。
私たちは自分が持っているものしか人に与えることができないので、「まだまだぜんぜん足りていないのよ!」と叫んでいるA美さん(A美ちゃん)にとっては、たとえ自分のこどもといえども与える余裕などなく、ひたすら理不尽に感じていて、こころが悲鳴をあげていたのでした。
そんなときには、ただただ、「ああ、そうかそんなふうに感じていたんだね」と自分がこころのなかでしっかりと受けとめて、育てなおしをしてあげることができます。ただその不満に気づいて、受けとめて、「足りない!」と主張しているところを安心させてあげれば、その気持ちはおさまるのです(本当は、外から調達しなくちゃならないようなものはないので、足りないということはないのです)。
その不安だった子どもが安心感をえることさえできれば、「足りていない」という勘違いを正すことができます。そして、本来自分のなかにすでにある安心感につながりやすくなります。
イライラしたり怒り爆発してしまうとき、ついつい自分を責めてしまいますが、責めてしまうとさらに罪悪感の悪循環におちいります。ただ、「なにかが間違っている!」と主張している自分のこころにやさしく耳を傾けて、いったい何をうったえているのか聴いてあげることが大切です。
この無条件に「受けとめる」という態度こそが、私たち誰もがいちばん望んでいることであり、癒しのポイントなのです。
それにしっかりと答えてあげることこそが、理不尽な感情も、荒れ狂う思考も、静めてあげることができることがわかります。
自分のなかに泣いていて、まだ満たされていない子どもがいることに気がついたら、批判したり、無視したり、変えようとすることなく、ただ「そうだったんだね〜」と言って、やさしく抱きしめて安心させてあげましょう。気づいて、受けとめてもらうことで、その子は癒されるのです。
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目を閉じると・・・そこに暗闇としての内側のスペースが広がっているのを感じます。
しばらくそのまま目を閉じて坐っていると、考えは勝手にあらわれてくるし、突然お腹がなったり足が痺れたりという感覚というものもあらわれたり。また、昔の記憶がふとやってきては、それとともに感情がわきあがってくることもあります。
その内側のスペースには、考えやら感覚、記憶、感情などがやってきては去っていくのです。
そして、その同じスペースに色や形や動きもあらわれることができます。それは、目を開いたときには顕著です。
そのスペースにはっきりとした色や形や動きが加わることを私たちは「世界」と呼び、考えや感覚、記憶、感情などのあらわれとは別もの扱いにしています。世界という外側と、こころの世界という内側というふたつの世界にわけているのです。
しかし、自分の考え、感覚、記憶、感情と、世界と名づけられた色や形や動きという要素は、まったく同じスペースにあらわれているものであり、じつは内側と外側の区別というものはありません。
それは、自分の意識(こころ)というステージ上で起きているように見える現象の数々なのです。そして、それらは、やってきては去ってゆきます。
いつも流れているのです。せき止めることなくただ流れていることによって、そこにはおだやかさがあります。
通称「世界(外側)」と呼ばれるところに一本の樹があるとします。私たちはこの樹について、いつ新芽を出し、いつ生い繁り、いつ花を咲かせ、いつ葉をちらすのか、まったく予測できません。知らなくていいと思っています。
その一本の樹の一生を予測できないことは理解できるのですが、樹と同じスペースに存在している自分というものの行動、考え、感情、記憶、感覚などが予測できないということはなかなか受け入れることができません。
けれど、自分の意識のスペースに存在する、という意味では、樹も、ポストも、カップも、あなたも私も、まったく同じレベルなのですね。
私たちは、自分については「いつ芽が出て、いつ花が咲くのか? 私こそが決めることができるのだ」と信じがちです。「この結果は私しだしだ!」と。でも、そう信じて、そうならないことこそが苦しみの原因といえます。
この自分の内側のスペースにあらわれてくるのもの、考え、感覚、記憶、感情、世界(人と自分)にはコントロールということがまったく通用しません。自然発生的に勝手にじゃんじゃんやってきては、ただ静かに去っていきます。(わたしたちがちょっかいを出さなければ・・・)
そして、それをそのまま、あるがままにしておくことが「ゆだねること」であり「明け渡し」です。
自分ではうかがい知ることができない完全な秩序に対して、自分を「ゆだねる」ことです。
でも、私たちは自分のあれこれについて「私がどうにかできる」「私こそ私の行くすえを決める人」と信じているので、流れくるものをじゃんじゃん行かせてあげることができず、少しでも自分の意にそわないと、すぐにちょっかいを出してつかみかかり、思いどおりにしようとしてはケンカを売って、それらがそのまま去っていくことを許さないでいるのです。
コントロールしたくてしたくてたまらない存在とは、じつはほんとうの自分ではありません。エゴという名の思考であり、そのニセの自分にこそ、ご退場いただかなければなりません。
エゴは口を開けばイジワルなことしか言いません。ちょっといいことを言ったとしても、自分を特別に感じさせて人とのあいだに溝をつくろうとします。必ずあとで仕打ちがまっているのです。
だから、エゴにはそのスペースから何歩も退いてもらって、スペースの向こう側に落っこっちゃってください(向こう側ってどこだ??笑)。
エゴというニセの自分はあまりにも怖がりなので、コントロールが存在しないところで懸命に仕切ろうと頑張ります。しかし、それができないからこそ問題が生まれ、苦しみが生まれてしまいます。
コントロール狂のエゴには何歩も後ろにおさがりいただいて、そのかわりにほんとうの自分であるハイヤーセルフにご登場いただきます。そして、その光のなかですべてを見ることで、別な見方ができるようになります。
いままでステージには照明がないまま暗闇のなか手探りで奮闘していたのです。だから、ものごとをあるがままに正しく見たり、受け入れることができませんでした。
このスペースをハイヤーセルフの光で照らしてもらえるようにお願いします。すると、ステージに光がやってきて、光であふれて、「あれ? いままで怖いと思っていたものは全然怖いものではなかった!」と気づくかもしれません。
これがすべてを自分で決めようとする「コントロール」というものを手放して、もとから存在している宇宙の秩序、完全さのなかに「明け渡して」、あるがままに見せて、体験させてもらうこと。
ハイヤーセルフのいっぱいの光のなかで、「いったいなにが起こっていくのだろうと?」と興味しんしんで見ること。
エゴではなく、ハイヤーセルフとともに見ることで、「かならず、いちばんいいことがもたらされる」という確信と安心感を感じることができます。
それこそが、そこに存在しているギフトを受けとるために大切な「信頼」です。ハイヤーセルフの手を握って、その存在の光とともにいれば大丈夫!という信頼。
ただ後ろにさがる気持ちで、静かにして、さまざまなものがあらわれるそのスペースをオープンしてみましょう。
そしてやってくるものを、ハイヤーセルフとともに信頼をもって穏やかに受けとめて、そして見せてもらいましょう。「すべては、私にとってのかけがえのないギフトだ!」という信頼とともに♡
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たった今、経験していることを、ただあるがままに経験してみます。
正直に、なにひとつ避けることも、抵抗することも、隠すことも、意味を変えようすることもなく・・・。
今あるものだけがほんとうに「あるもの」。これだけがあって、これだけで OK 。今の経験にとどまるならば。
なぜなら、これがあるものだから。
たとえば・・・
ある朝、冷蔵庫をあけると玉子がころんと一個あったとします。で、目玉焼きを作って食べました、マル
けれど、「え〜!玉子一個だけ? ベーコンがあったらベーコンエッグができるのに。トーストもないなんて?」という考えがよぎったとたんに、たった今あるのもが残念でわびしいものになります。
なにも言わなければ OK だったのに・・・。
あるがままにちゃちゃを入れることで、惨めになることにまんまと成功しました。
私たちはいつもこんなことをしている気がします。
思考が「あるがまま」にちゃちゃをいれるやいなや、とたんにそこにあった平和が打ち消されて問題がつくりだされるのです。
たった今、ここで起きていることとピッタリと親密であること。なにか(不平不満、価値判断・・・)が入りこむ、ちょっとのスキマもつくらないこと。起きていることを起きているままにしておくこと。
わたしたちは、「こうだったらいいのに、こうあるべきなのに・・・」とあたりまえのように口にするけれ、そのセリフは今あるものにはまったくあてはまらないのです(ほんとは、「今あるもの」について、ありえないセリフなのです)。
なぜなら、これだけがあるから・・・。
じゃあ、すべてに対して OK と言おう!ときめます。さて、いったいどんな気持ちになるのでしょうねか? (自分のなかでなにが起こるか、それも観察してみましょう!)
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「セラピーを受けていい調子だったのに ・・・ また同じような問題にハマってしまった ・・・ 」 というとき、
失敗してしまったのではないかという挫折感や、やっぱり変われない私という罪悪感を感じてしまうことがあります。
多くの方が勘違いしているのは、セラピーとは一生のあいだで一回(あるいは1クール・3回)ぐらいを受ければ、もうそれで OK なのだと思ってしまっていること。
残念ながら、なかなかそうはいきません(もちろん、“そのとき” の問題はそのセッションで解決されることでしょう)。しかし、誰でも生きているかぎりは、一生問題に遭遇しつづけます。それが人生というもの。
じつは、すべての人がものすごい量の問題をつくりだす原因をこころのなかにかかえているのです。しかし、それらは無意識化していて、なかなか気づくことがありません。
そのように問題がつぎからつぎへとやってくる人生において、セラピーとは「これは問題だ!」と解釈していたものに対して、だんだん反応しなくなったり、つまり重要視しなくなったり、解釈が変わってしまうために、以前のようにそれを「問題である」ととらえなくなることです。それによって、自分の目にする世界が変わってきます。
そのためには、少しづつこころを再教育してゆく必要があり、たった一回、あるいは数回受けただけではこころのクセから完全に抜け出すことができません。もちろん、そのとき問題だとしていたことに対しては、そのときのセラピーで解決することは可能です。
でも、楽器の練習のごとく、少しづつ練習しながら上達してゆく ・・・ それがこころの再教育にもあてはまります。間違ったパターンが起こるたびに、忍耐強くこころを矯正してゆく必要があるのです。
「これは問題だ!」とさわぎまくるエゴのパターンにだまされず、私たちが静かに完全にスルーすることができるようになるまで、何回もお試しがつづきます。練習問題をときつづけることによって、なんなく答えが導き出せるようになるために、何度も練習させられるような感じです。
そして、練習の成果として、今までとは違う正しい思考や態度が自分のものとなります。
「あの人はいいな〜。私みたいに悩みがなくて。問題とは無縁で、あっけらかんと生きているように見えるもの」とまわりの誰かのことをうらやましく感じ、また自分のことを繊細すぎると恥じてしまうことがあるかもしれません。
けれども、この世界に存在している限り、こころに問題(罪悪感)をかかえていない人はひとりもいません。
難しい問題ややっかいな感情に見まわれているように感じるならば、それは手放す準備ができたとき! そのために、無意識にあった罪悪感や怖れがようやくこころの表面に浮上してきて、それに気づくようになってしまったというわけです。
誰もが問題のタネをかかえています。こころの深いところに、まったく気づかれないように。ない人はいません。でも、「そのとき」がきていない人には、罪悪感や怖れはまったく意識の表面に浮上してくることがありません。
そんな人に「悩みはありますか?」と聞いても、「そんなものありません!悩んでいるんですか? たいへんですね〜」と答えられるかもしれません。けれども、そんな人でもそこはかとない違和感や怖れ、孤独観は感じているに違いありません(それは慢性の頭痛のように、常態化してしまっているだけなのです)。
私たちは、無意識のなかに隠しもっていた罪悪感や怖れを手放す準備ができたときに、問題・悩み・怖れとして隠しもっていたものと向き合うことになります。それを癒すために。
そのときがきたら、解放のときが到来したことを理解して、ただ手放してゆくだけです(今回の人生では、そのようなことは起こらない人もいます。それぞれのときがあります)。
それが始まったとしたら、それはほんとうの自分に目覚めるための時限爆弾(?)が動きだしたときであり、爆発(真の目覚め)が起こるまで、まるでタマネギの皮をむくように、解放としての癒しがつづいてゆきます(こころにある罪悪感や怖れは、よくタマネギやミルフィーユの層にたとえられます。それらを一枚づつ剥がすような作業が癒しなのですね)。
つまり、一枚かたづけると、つぎの層が出てきます。でも、タマネギにしてもミルフィーユにしても、一枚目も二枚目もまったく同じに見えるので、「あれ?セラピーでかたづけたはずなのに、また戻ってきちゃった」と思うわけです。
それは戻ってきたのではなく、ただつぎの層に進んだだけです。癒しがさらにディープに進んだというわけです。でも、事象としては、前回とまったく同じような状態であらわれるので、まるで失敗したからまた同じことをくりかえしているような敗北感を感じてしまいます。でも、いつかは皮はむききれ、層はなくなります。
このように、こころはたくさんの層をなしているので、根気よく浮上してきたものを一枚一枚はがしてゆく必要があるわけです。
それをしてゆくうちに、古いものの見方が完全に正されて、正しいあるがままのものの見方、考え方を身につけてゆくことができるようになります。それは、痛みをしらないものの見方です。
だから、一回セラピーを受けたのに「失敗した!」と自分を責めずに、問題が出てくるたびに「癒しがすすんだから、新たな層が出てきた!」と忍耐強く向きあう必要があります。
そんなわけで、セラピーを習慣化して一ヶ月に、あるいは数ヶ月に一度、こころのお掃除にいらっしゃる方が多いのです。実際、少しセラピーにいらっしゃらないと、溜まった感じが不快に感じるとおっしゃいます。もちろん、ご自分でケアすることもできます。
そのように忍耐強く向きあってゆくうちに、今までとは違った世界の見方を確実に自分のものにしてゆくことができます。
そんなわけで、そのときがきていて癒しがはじまっていると感じたら(問題がどんどんやってくるように感じたら)、それは長いあいだ抑圧されて、完全に闇に葬られていたものがようやく春の雪のように消え去ろうとしているプロセスです。
またとない解放のチャンスをいただいているときであり、「今ならできる!」というときです。
あせらずに、ただ気長にそれに向きあって、こころのなかを見てゆくことが大切なのですね。
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私たちは日々、自分に足りないと思うところを見つけだしては、それらにつけ足すためにせっせと走りまわり、あっちをいじくり、こっちを立て直し ・・・ よりよい自分になろうと努力します。
しかし ・・・ そもそも「よりよい自分」っていったいなんなんでしょう? なにを目指しているんでしょう?
すでに「自分ではない」なにものかが、よりよい自分ってどういうこと??
それってもしかして、ほんとうの自分を否定して破壊する行為になってない??
私たちは、あるがままにリラックスして、そのままの自分でいることで、幸せを感じていいはず。そして、そのあるがままのほんとうの自分でいることでこそ、自分にとってのベストの現実を体験することができます。
だったら、幸せになろうと走りまわるよりも先に、自分に尋ねなければならないことがあるかもしれません。
それは、「なぜ、私はこのままの自分で幸せになってはいけないのだろう?」ということ。
幸せになろうとする以前に、すでに幸せがちゃんと保証されていて、
もしも、自分がその幸せを全力で阻んでいるとしたら ・・・ いったい何を思ってそんなことをしているのでしょう?
「幸せになったら、誰もかまってくれなくなる。愛されない」とか・・・
「幸せになったら、イジメにあうにちがいない」とか・・・
「幸せになったら、もうゲームオーバーな感じがして退屈。もっとドラマチック感がほしい」とか・・・
「幸せになったら、私を苦しめた誰かを反省させることができなくなる」とか・・・
「幸せになったら、親の教育方針にあわない(親はこの世界は甘くないといつも言っていた)」とか・・・
「幸せになったら、居心地が悪い(ずっと、ストレスを感じてきたから、幸せなんてむずむずする)」とか・・・
気づかないフリをしながらも、必ずこころのなにかにはなにか企みがあるのです。結局、シンプルに幸せであることよりも、自分のなかの考えのあれこれが好きで、そこにとどまっていたいのです。
つまり、ほんとうは意図的に幸せにならないことを選んでいる、ということ。・・・ でも、それはもう、過去の決意かもしれません。いつだって手放してかまわないのです。
そんな自分の過去の決意に気づくことができたとしたら、そもそも走りまわる努力なんていらなくなって、
たった今、このままで、安らぎ、幸せを感じるてもかまわない、と自分に許してあげることができるかもしれません。
まずは、自分のこころがやっているパターンに気づくことが大切なのですね。
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いただきもののクッキーです。おいしそ〜っっ♡
一口いただいて ・・・ ありゃ?! とびっくり。
甘いバニラ風味をイメージしていたら、想定外の塩味!
フタを見たら、「サレ(塩味)」の文字が。ゲランドのお塩を使った、赤はトマト、グリーンはバジル、イエローはチーズという、お野菜感とチーズの香りがいっぱいのサブレでした。
人って自分の想定した受け皿にあてはまらないものがくると、知覚がフリーズして素直に受け入れようとしなかったりします。だから、一瞬おいしいのかどうかわからなくなりました(モチロン、このサブレはとってもおいしいです♡)。
お友だちとランチをしていたときにも、そんなことが。
パンにグリーンとオレンジのコンフィチュールがそえてあったのです。口にしたとき、クリーンはオリーブとケッパーだとすぐにわかったのですが、オレンジの方はなん度口にしても味がさっぱりわからず ・・・なんか、まずっっ!(汗)
「なにコレ!?」という私に、お友だちが食べてみたら「たかちゃん、これトマトだよ!」と。
私は色から察してマーマレードだと信じていたので、マーマレードの味しか受けつけず、なんだかとってもヘンなお味に感じたわけです。けれど、あらためてトマトとして味わうと、素直においしくいただけました。
人間って、結局は、見るもの、聞くもの、体験すること、すべてを自分の「知ってること(受け皿)」にあてはめて、その受け皿に存在するデータから良いとか悪いと解釈しようとします。そこにあてはまらないものは、却下されたり、否定されたり、無視、拒絶されるのです。
また、そのデータから「昔、おなじ場面ではキケンだった」「うまくいかなかった」、だからこうするべきだ!という忠告がやってきて、また過去と同じパターンをくりかえすことになり、まったく同じ結果を手にすることになります(いつもグルグル同じこと!)。
自分の知っていることなんて、たかが知れているのに・・・。そんな小さな受け皿にこだわりつづけていると、せっかくやってきた新しい贈りものも無意識のうちにすべてスルーしてしまうことでしょう。
人に会うときも、何かを体験するときにも、まっさらな気持ちでいられたら(誰々さんに似ているとか、以前のあれと同じとか、過去に結びつけて解釈しようとしなかったら) ・・・。すべてはじめての体験となり、イヤだも、コワいも、ダメだも、ネガティブな感覚はひとつもなく、すべてがまったく新しく新鮮なわくわくする贈りもののように感じるかもしれません。
そうなったときにはじめて、自分を攻撃するものなどひとつもない、安全で穏やかな、こころから安心できる世界を見られるのかもしれません。
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ちょっとオシャレをしてお出かけしたいとき、ふだん開けることのないアクセサリーの引き出しをゴソゴソします。
すると、「こんなの持っていたのね!あんなのも!」と、お蔵入りしてすっかり忘れ去られていたアクセサリーの数々に出会います。
「こういうの、買おうと思っていた♪」「これも使えるし、あれも使える♡」」と、引き出しを開けるまでは「無かった」はずのものに驚かされ、豊かさを感じることができます。
しまっておくと目につかなくなり、目につかなければ無きものとなります。それらを「もっていない人」になってしまうのです。
しまっておいて使わないことは、それらを失うことと同じなのです。
これは、私たちのこころのなかにある「贈りもの」の引き出しについても言えることです。
私たちはこころのなかに、すでに十分な「贈りもの」が与えられています。贈りものはそこに存在しているのです。
しかし、取り出して使うことがなければ、それは「まったく存在しないもの」になってしまうのです。
実際、私たちの人生における宝探し、それは豊かさであったり、才能であったり、幸せであったり、愛であったりさまざまですが、つねに外の世界へと取りに向かいます。
引き出しのなかにあるものを忘れて「足りない、足りない!」とお店へ走るのと同じように、私たちはつねに「不足」の思いを抱えて外へと調達に走るのです。
しかし、「足りない」と大騒ぎをするまえに、まずはいちばん身近なところ、それは自分自身のこころそのものなのですが、そこをオープンにすることが最善策である、ということを忘れています。忘れているというよりは、知らないのです。
自分のこころの深いところにある引き出しは、自分が望むすべてで満たされ、輝き出すのを待っています。
それらは宇宙とひとつなので無尽蔵です。
自分が望むあれこれについて、つい外へ外へと走り出す衝動をおさえてみましょう。そして、それがすでに自分の内側に存在していることを信頼してみましょう。
そこにはあらゆる「贈りもの」が眠っていて、それらは引っ張り出せば出すほど無限に供給されるのです。
しかし、自分で気づかなければ、それを「無きもの」にすることもできます。
その引き出しの存在に気づき、中身をひっぱり出すこと、つまり「表現する」ことによって、自分でもはじめて「私にはある!」という体験、「私はすでに大丈夫だ!」という気づきをえることができます。
それらを表現することは、すでに持っていることを知る作業なのです。
「私にはない」と決めてしまえば、自分のその決断によって「ない」私になることもできます。あるいは、「ある」という確信とともにそれを表現すれば、「ほんとうにあった!」と実感することもできるのです。
「いつか、こんな私になりたい!」とこころに決めるとき、それはポジティブな決意のように聞こえますが、足りないという自分から出発するため、どこまでいっても足りない自分から脱することができません。
また、未来に期待しているので、すべてを解決することができる「今」のちからをないがしろにしています。
「今はないけれど、頑張っていつかは手にする」という考えは、たった今、自分のこころのなかに存在している宝ものをなきものにしてしまう考えなのです。自分が「ない」と決めたものは、どこまでいっても「ない」からです。
それならば、「それらはすでにある!」と信じて(実際そうなのですから)、そうなった自分を表現し、そうなった自分から周りに与えてみましょう。
愛がほしいなら、自分が愛になってみる。優しさがほしいなら、自分が優しさになってみる。豊かさがほしいなら、自分が豊かさの源であるように表現してみる。
そうしているときに、即座に自分がそうであることを実感することができます。
私たちは引き出しにしまいこんだものはやすやすと忘れ去り、欲しいものを求めて外へとまっしぐらに走りだします。それが欲しいものを得るためのたった一つの方法だと信じているからです。
そして、自分の引き出しのことは一生思い出さないのです。
ただまっすぐに内側へ向かい、「すべてがしまいこまれている引き出しから、表現してみる」・・・ほんとうは、それだけでよいのです。
表現することそのものが呼水となり、自分のなかにある豊かさの記憶がよみがえりはじめます。
そして、自分の気持ちや、目に映る世界が、自分が望んだ色合いに変わっていくことに気づくことでしょう。
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「このこころの痛みがなくなったら・・・」
「このやっかいな問題が解決したら・・・」
「この忙しさから解放されたら・・・」
そうしたら、そのときにこそ幸せになろう。けれど、それは今じゃない。今なんて、ムリっ!!
この考えじたいが、幸せになるためにはムリっ!です(笑)。
「いつか、そのときには」なんて ・・・ その「いつか」はいっくら待ってもやってきません。あるのは、いつだって「今」「今」「今」・・・。
この「いつか」という言葉は、エゴが大好きなセリフです。「いつか」と言ってしまえば、「今」から注意をそらすことができるからです。
「たった今、幸せでいる」ということから意識をはずして、「いつか」という存在などしない架空の時間を目指せ!と指示します。
「またそのうちにね!」「またいつかね!」と言ってしまえば、お茶をにごして、「今すぐ」なにかをする!という責任から逃れられる気がします(そんなに会いたいと思わない友人にも、「またいつかね!」と言っておけば、ヨイ感じでお別れができます・笑)。
エゴは「いつか」という言葉を使って、「今ここにあるもの」を煙にまこうとします。私たちは、「そっか! いつか幸せになるんだから、今はしょうがないよね!」「いつか、それはよくなるんだね!今はあきらめていいんだ」、そして「今は苦しくても仕方がない」とあきらめて、今を無力にします。
そして、エゴがじゃんじゃん投げこんでくる痛みややっかいごとや大忙しに正面から向きあって、ホンロウされることになります。それらが、「今、幸せを感じないためのオトリの数々」であるとも気づくことなく・・・。
今、大人気の映画「ボヘミアン ラプソディ」の主人公 フレディ・マーキュリーは45歳で病気によって亡くなるのですが、彼の公での最後のインタビューで(これは映画にはありません)、こんなことを言っていました。
「僕にとっていちばん大切なことは、幸せでいること。自分らしく生きること。残された年月をできる限り生き生きと楽しく過ごそうと思う」・・・これは、フレディが病気になってそういう生き方をしていたというよりは、彼のそこまでの人生そのものだったように感じます。
重い病気であると診断されたり、あるいは余命を宣告されたとき、まだ何も変わらず十分に元気であるにもかかわらず、人生がすでに終わってしまったように、つまり死んだような絶望感のなかで生きてしまう方が多いのです。せっかく生きているのに、気持ちはもうすでに死んでしまっているのです。
そして、死んだように生きている(すでにこころは死んでしまっている)のに、「死ぬのがコワイ!」と怯えます。
あるいは、重い病でなくとも、つねに過去にとらわれ、また未来を思い煩い、たった今というまっさらな時間が汚染されたようにすっかり台無しにされてしまう場合もあります。
フレディは「たった今、幸せでいる」ということの達人だったように感じます。
だから、決して逃れられない病の悲劇の主人公にひたっていません。ほんとうに亡くなる寸前まで、バンドの仲間や大切な人々に囲まれて、自分の好きな歌を歌いつづけて、つながりあって、わかちあって、愛しあって 、そしてついに旅立っていった・・・ そんな彼の生き方が、きっとこの映画のなかで私たちのこころに伝わり、「自分を生きる」という勇気をもらうのだと感じます。
私たちはみんな、努力のすえにいつか幸せになる、いつか穏やかな日がやってくる、今は幸せじゃないけれどそこに向かって頑張ろう!とこころに誓うけれど ・・・ それは正しくありません。
フレディが言っていたように、「たった今、幸せでいる」こと。「たった今、幸せでいることを決意すること」、そして実際にそうすること。
たとえ、身体のどこかが痛くても、やっかいな問題が立ちはだかっていても、大忙しで目がまわりそうででも ・・・ 「私は、今、幸せでいるんだ!」、なぜなら「それが、私の当然の権利だから!」。
私たちがまず、それをこころのなかでしっかりと決めて、どんなものにも「私の権利を邪魔させない」という決意が必要です。
なぜなら、「幸せであること」はほんとうは自分のなかにしっかりとそなわっている生まれながらの状態であるからです。それにもかかわらず、いとも簡単にいろいろな言い訳で隠されて、無きものにしてしまうことができるからです。
でも、痛みや問題やどんな状況も、ほんとうは「幸せであること」をはばむこととはなんら関係がないのですね。
「幸せであること」というのは、ピカピカ、ハデハデしく輝いて、騒々しいものではなく、ただ静かに安らかであること。ただ、日溜まりのなかでポカポカぬくぬくと安心している安らぎの感覚です。ほんとうの自分自身であることの安心感です。
自分のうえに大きな美しい光がさんさんとふり注いでいて(大きな日溜まりのなかで日なたぼっこをしている感じです)、そのポカポカとあたたかな光のなかで、安全に安らかに守られて、大切に育まれ、無条件に愛されて、すべての必要なことは自然に教えられ、導かれ、リラックスして「はあ〜〜〜っ♡」と脱力しているようなイメージをしてみましょう。
優しく暖かな大いなる力が、すべての自分の面倒をみてくれている、私がひとりでなにも頑張らなくてもいい、と ・・・ ほんの一瞬だけでも、その光を信頼して、すべての心配、煩わしいこと、痛みを手放してゆだねてみましょう。
そんな安らぎを感じる一瞬を、お茶を飲んでいるときに、駅のホームで電車を待っているときに、人との待ち合わせのちょっとしたあき時間に ・・・ いつも光とともにイメージして感じてみましょう。
ほんの少しのやすらぎのひとときが、そのあとの時間も安らかなものに導いてくれることに気がつくことでしょう♡
PS 「Don't Stop Me Now」(作詞/作曲 フレディ・マーキュリー)、いつも今を大切に生きたフレディらしい曲ですね♪
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もし、今、なんらかの怖れや苦痛、攻撃を経験しているのなら ・・・
じつは、「みずからそのゲームを楽しんでいて、やめられない自分がいる」ということ(たとえ無意識であったとしても)。
そこから救われるただひとつの方法は、
ただ自分がそのゲームをやめる、ゲームからおりる、ということだけです。
ゲームからおりる手っとりばやい方法とは、「ただゲームのルールを無視する」ことだけです。
それが怖れや苦痛、攻撃のゲームなら、それにいちいちかまわない、反応しない、ということ。
ゲームのなかでは、怖れや苦痛、攻撃の兆候を見つけるやいなや、おもいっきり「被害者」という役割を演じはじめ、「反撃、逃走、引きこもり、死んだふり」をきめこむことが決まりでした。私は傷ついたのだ!という合図です。
それによって、怖れや苦痛、攻撃は解決されず、つづきます。
でも、ゲームをしないということは、そんな反応を一切やらない、やめる、ということ。
ただ、状況をあるがままに見て、重要視せずにスルーします。裁きません。なんせ、ただのゲームですから。
もし、そこに怖れや痛みの感情・感覚がわき起こったなら、それを価値判断することなく、怖れることなく、あるがままに、ただ自分のなかを通過させます。それによってその感情・感覚は終わりになります。
「裁くことのない姿勢」こそが、もう私はこのゲームをしていない、これからおりたのです、というサインです。
新たなエネルギーが供給されることなく、ゲームの電源は静かに抜かれ、おだやかな本来の日常が戻ってくるのです。(そう! ゲーム機を切ると静かです。闘いがやみます。)
だから ・・・ ただゲームをおりる、ということを学びましょう! ( ・◡・ )♫
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「私たちはつねに、“ 自分のこころが外側にうつしだすものだけを認識し、経験する ” といいます。しかし、客観的にみて非がないのに攻撃され、それに対して怒りを感じる、という場合はどうなのでしょうか?」というご質問をいただきました。
まず、「客観的にみて攻撃」ということは、じつはありえないのです。
それを「攻撃である」と知覚するのはいつも、「主観的」なこころ、個人です。
「私は攻撃されている!」という自己の解釈、ものごとへのラベリングがないかぎり、攻撃だとはみなされません(例えば、誰かが「きみは攻撃されていたね」と言ったとしても、「それはなんのこと?」と本人はまったくそのように受けとっていないこともあるからです)。
私たちは「自分が見たいものを目にし、自分が感じたいものを感じたいように感じ、自分が願望しているストーリーを願望どおりに体験する」という世界に住んでいます。
それは自分が体験する「よいこと」も「悪いこと」も含めて、すべて自分のこころの深いところにある無意識のおもいがベースになって、知覚をつくりだしているということです。
つまり、「私」の世界とは、自分の信じていることを体験するための場所なのです。
ただし、アタマで考えている私の考えと、無意識で信じていることはまったく別ものです。重要なのは、無意識のこころで信じていることです。
そのように考えると、好きでないことを体験したときには「“ 自分がほんとうは何を願望しているのか ” を問いなおし、正す」というチャンスを与えられている、ととらえることもできます(アタマでは他のことを望もうとしているのに、無意識ではまだそれを握りしめつづけているということにあらためて気づき、訂正する、ということです)。
自分が無意識のうちにもっている、自分を傷つける「痛みにみちた考え」が表面にあらわれ、形になってくれたおかげで、訂正のチャンスを与えられ、それ以上自分で自分を痛めつけることを終わらせることができるのです。
去年こんなことがありました。
大通りを青信号で渡っていたら、真横からつっこんできた電動自転車にひかれて数メーターふっとばされ、ジーンズは破れるわ、怪我をして流血しているわ・・・。
そのうえ、つっこんできた自転車の女性は「なんで前を見ていないのよ!」と仁王立ちで見下ろしながらのたまい、倒れている私に手もさしのべず ・・・ ちょっとぉ! 歩行者の青信号ですぜィ! (ꐦ°д°)
その瞬間、ひかれた怒りをとおりこして、怪我をしている人にさえも手をさしのべることができない、この女性のいっぱいいっぱいさを感じてしまい、何も言葉がでてきませんでした(一瞬で、そのひとの苦しみと痛みにみちた生活がすべて見えたように感じたのです)。
さいわい骨は折れていなかったようなので、そのまま帰宅しました。
とはいえども、お気にいりのジーンズは破れ、流血するひざは痛み、打撲とあざはひどくなり。
しだいにむくむくと腹立たしさを感じはじめるしまつ。治るまでの一ヶ月半ぐらいは傷が痛むたびに「あの人、ひとこともあやまってないし〜!(怒)」というおもいに苦しめられることに ・・・。
このように、ものごとを解釈しているのが被害者でいたいと思っているエゴであるときには、そこでほんとうに何が起きているのかを正しく識別して、学び、自分を正すということが難しい状況になります。
すっぽり、自分の体験していることは、自分のこころの結果だということを忘れてしまうからです(エゴは怒りという激しい感情を使って、自分の正当性を主張することをやめませんから)。
だから、かんたんに「私はかわいそうな被害者以外のなにもでもありません」という結論におちついてしまいがちです。
けれどもその一方で、エゴとしての自分が、長引く痛みを使って相手を責めて、自分はかわいそうな犠牲者になりさがろうとたくらんでいるのにも静かに気づいている自分もいます。「あ〜、このエゴのたくらみに同意すると、また自分も罪悪感をためこむハメになる・・・」とわかっているのです。
だから、怒りがわいて被害者になりたい願望がわくたびに、すばやく自分のこころを正す必要があるのです(怒りがわくたびに正しましたよ!)。
そのとき、被害者を主張しているエゴとしての自分には正すことができません。
なので、ハイヤーセルフにこころを向けて、こうお願いします。「今、ばりばりのエゴ(被害者)になっているので、ほんとうの自分に戻してください。ものごとを正しく知覚させてください」と。
そうして、「ほんとうのことを見たい」という意志をもつことで、ハイヤーセルフの視点がようやくあらわれます(私たちにできるのはいつも、正しいこころを持ちたい、ハイヤーセルフ助けてください、道を正してください!という謙虚な意志をもつことだけでした)。
すると、「ああ、こんな痛い思いをしてまで、わたしは全力で被害者にとどまりたいのだ」「自分が弱い、小さいと感じておびえている自分を信じているからこそ、誰かを悪者にして責めるストーリーを選んで、自分は正しいのだという主張をしたいのだ」というおもいにいたるのです。
私たちにとって、自分のなかにある「小ささ」「価値がない感覚」、それゆえの「怒り」と「攻撃性」は、ふだんはまったく自覚されないように隠されています(ハイ、これは誰のなかにも等しくあるものです)。
けれども、自分のなかにあるものが外側にうつし出されて、他からの「攻撃」や「痛み」として自覚されているときにこそ、それを手放すことができる絶好のチャンスが与えられている、というわけです。
すべての抑圧されたおもいは、自分の手のひらにのせて、ながめて、自覚されることで、はじめて捨て去ることができます。
自分で気づいていないものをなくすことはできません。必ず手放すまえには、それに「気づく」という作業が必要になるのです。
だから、「痛いおもい」「苦しいおもい」「悲しいおもい」に遭遇したときには、「なんで?!」と動揺するよりも、自分の安らぎをはばんでいた大きな障壁をひとつ手放すことができるチャンスだ! と喜びましょう(それは、ときには目のまえに見せつけられることで苦しい作業と感じられることもありますが、お掃除が進んでいるからこそ「ゴミ」が目につく、ということでもあるのです)。
目のまえのゴミに腹をたてて、それにあたりちらして戦いをいどむよりも、
「ああ、こんなゴミを宝物だと思ってずっとだいじにしていたんだ」「けれども、今の自分にはぜんぜんあっていない」「ゴミを捨てることによって、ほんとうの自分があきらかになる」「だったら、喜んで手放してしまおう!」と気づくことで、「自分」をラクにしてあげることができます。
だから、腹の立つこと、痛みを感じることは、すべて自分のこころのなかの間違い探しに使うことができ、またそれを取り消す機会を与えられているということなのです。
しかし、それはひとりでできることではなく(なぜなら、腹が立ったり、痛みを感じているときひは、すでにほんとうの自分からズレているからです)、ほんとうの自分であるハイヤーセルフにすべてを委ねてお願いするという、まずはその謙虚に「さし出す」意志が大きな変化への第一歩なのですね。 ٩(。θ◡θ。)۶
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私たちは、日常、目にするものにつぎつぎ注意をとめて、
「いい」とか「悪い」、あるいは「好き」とか「嫌い」というように・・・ たえまなくラベルをはって検閲しつづけています。無意識のうちにランクづけをしているのです。
じつは、この価値判断というものが「苦しみ」生みだします。
自分自身や自分の体験、目にすることをひとつづつ切りとって(切りとった段階で、ひとつであったものごとに対立が生まれます)コメントすることで、「これはよい」と言えば、それよりも劣ったものが生まれ、イライラすることになるし。「これはダメだ」と言えば、それを変えてよりよい状態を目指さなければならなくなります。
コメントしたとたんに、葛藤が生まれているのです。
つねにこころは動きつづけ、ターゲットを見つけては価値判断をすることで、気分がよくなったり悪くなったりしつづけるというアップダウンのくりかえし。
だから、自分がやすらかでいるためのいちばんの方法は、
こころのなかで「なにもコメントしない」こと。つまり、価値判断、検閲をしないことなのです。
これをオススメすると、たびたび「なにもコメントしないなんてつまらない! 生きてる感じがしない!」と言われます。
それぐらい私たちは、あれこれ言うのが大好き! 生きがいです!
つまり、生きること = ものごとにいちゃもんをつけること、ケンカを売ること、になってしまっています。
価値判断とは、自分がボスとなって上から目線であれこれ裁くことであり、何が正しくて何が間違っているかを決める権利は私にある!と言っています。それはある意味、すべてを自分の支配下におくことであり、すべてに対して宣戦布告をしているようなものなのです。
ケンカを売るとかならずそのシッペがえしを受けることとなり、目にする世界は自分と敵対するように感じます。なにを目にしても自分に対してよそよそしく、つながりを感じられないので、世界は冷たく、自分だけ孤立しているように感じるのです
でもそれは、世界がそうしているのではなく、自分が目にするものに優劣をつけて裁いてしまったから。自分にとってすべてがつながりを失い、敵対するもののように目に映るのです。
自分が幸せになる、つまりやすらぎを感じるためには、存在するすべてを「そのまま」に、「あるがまま」にしておくということが必須です。
そうして、そこにある「あるがまま」という流れに一切ちゃちゃをいれないことで、じつは人生のパズルはおさまるところに完璧におさまって、自分のみならずかかわるすべての人にとっていちばんの贈りものを授けてくれるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q: 「引っ越しを考えていますが、なかなか決められません。じつは、何についても決められない性格です。決めたとしても、自信がありません。正しく選択できているのか、いつも心配でストレスを感じてしまいます」
A: ものごとをあれこれ考えることほど、エネルギーを消耗することはありません。
私たちは活動や生活そのものに疲れるというよりも、じつは自分のあれこれの考えに打ちのめされ消耗してしまうのですね。
そして、「正しい選択・行動をしなくては・・・」という思いは、いつも自分にプレッシャーを与え、不安な気持ちにします。
つまり、自分の考えこそが自分を疲弊させ、自分を怖れさせ不幸にし、自分を追いつめるのですね。
「ひとつ」以上のもの、つまりたくさんのものが存在するように見えるこの世界では、つねに対比が生まれるため、それが不安と混乱の感覚を生みだつづけます。
たとえば ・・・
きょうはお休み!さて、何をする? まず洗濯? いや、掃除が先かな? 買い物もしとかなきゃ! ・・・ とか。
○○ちゃん、具合が悪いみたい。お見舞いに行く? 電話のほうがいいかな? それともメール? ・・・ とか。
新しいセーターを買いたいな。そろそろ冬物のセールかしら? すぐ買いに行ったほうがいい? それとも、もう少し待つ?
今するか、あとでするか、あれを食べるか、これを食べるか? というささいなことまで、日常は、大小さまざまな選択の連続です。
私たちにとっては「たくさんのなかから選ぶ」ことがあたりまえの行為なので気づかないかもしれませんが、この「つねに選択する必要がある」という感覚は、とてもストレスフルだし、うまくできるだろうか? という怖れと緊張を生みだします。
もしも、何から何まで全自動的で、ほっといてよくて、何ひとつ選択する必要がなかったら ・・・ どんなにスコーーーーン☆ とはればれしいか?! 自由か?! リラックスできるか?!
でも、ほのとうのところは ・・・ 何も選んでなどいないのです。何ひとつとして! ほっておいても(ほっておかなくても)、人生は一瞬、一瞬、勝手に展開してゆきます。
まさか、「選んでいる」ようにごまかされているとは気がつきもしません。
つねに「力」と「コントロール」の感覚を感じていたいエゴは、やってくるものごとに対して選択肢をなげかけてきて、まるで自分が選んでそうしたように感じさせて、人生を制御できているパワーと安心感をえようとします。
あたかも自分がなにかを決めて、なにかをして、自分が結果を出したり失敗したりできるのだ!と信じていたいのです。
でも、一瞬一瞬はパカパカと勝手に開いてゆく飛び出す絵本のようなもの。エゴが口をはさもうが、黙っていようが、いずれにせよ何をどうする力もありません。結果は同じなのです。
もし、エゴの選択が何かに影響をおよぼせるとしたら、それは不安やあせりや、感情のアップダウンを生みだすことぐらいです。エゴの言うことに耳を傾けて、ジェットコースター気分を味わうことができるというだけです。でもそれは、次に起こることとはなんら関係がありません。
なにもできない幼児が、大人がしたことに対していちいち「ボクがやったんだよ〜」「すごいだろ〜〜!」「見てみて!」「ほめて〜!」と叫んで注意をひいているようなものです。
エゴとかかわるエキサイティングなアップダウンよりも、穏やかさ、安らぎ、リラックス感をお好みの場合には、ただ黙って、人生という飛び出す絵本が展開するままにまかせておきましょう(別名、それは「受け入れる」ともいいます)。勝手にページは開いて進んでゆきます。
大騒ぎしようが、黙ってくつろいでいようが、どちみち起こることは同じです。
そして、黙ってそのまま見ていると、さっさとただ過ぎさってゆきます(自分は影響を受けないまま、それはもう行ってしまいました)。
でも、「わたしがやっているの!」と言いはることは、そのページをずっと開いたまま、「見て!見て!」と誇示しているようなもので、先へはなかなか進めません。
もともと選ぶことなどできないにもかかわらず、もしもどうしても習慣で常に選ぼうとしていたら(Ex. これをするべき、それともあっち? というように)、そのときは「わたしはわかりません。ハイヤーセルフ、わたしにかわって選んでください」と委ねて、選択を放棄しましょう。
ちゃんと、自分にとっていちばんよいことが起こると信頼して。
でも、その「よいこと」はエゴの欲や虚栄心を満たしてくれるエゴのための「よいこと」とは違うのです。けれども、ほんとうの意味で幸せになるためには必ず必要なことです。
だから、安心してやってくるものに自分を開き、受けとりましょう。
「ただ受け入れる」「ただ起こることをそのままにしておく」ことによって、リラックス感、安らぎが生まれ、今ここに自分が開きます。
私も選択にとらわれそうになるときには、こんなふうに言っています。
「さて、この人(たかこさんともいう)がこれをどうするのか見ていてみよう!」「どうなるのかな〜♪ 何が起こるのかな〜♪(ワクワク)」・・・という具合に、完全に傍観者になって、自分がそれをどのように対処してゆくのかをおもしろがって観察しています。
起こる行動は正しく、すべて必要なことです。だから、ただリラックスして見ていましょう。
「あら?お腹がいっぱいのはずなのに、まだスウィーツを食べつづける気だわ!」と意に反する行動にびっくりすることもたびたび(笑)。でもそれでいいらしいのです。私はわかりませんが・・・。
たいてい、これでうまくいきます!(笑)たかこさんという人物を乗せたまま、飛び出す絵本は勝手にパカパカ展開してゆきます。
ただ見ているというのは興味深いものです。あれこれ考えるよりも、ずっとストレスが少なくて、「へ〜、そうきましたか?」と自分のとる行動に自分でびっくりしていたりします。
ほっておくと、いちばん正しい道が目のまえに現れて、それをしている自分を見ます。ただ「受け入れて」それに従うだけです。
エゴのあれやこれやの思いは、まったくいらないのですね。静かです。
自分がほんとうに安らかになりたいのであれば、「自分で」選ぼうとする、決めようとすることをやめることなのです。それによって、責任やら緊張やら、葛藤やら、失敗感から解放されます。
人生が見せてくれるものに対して警戒して怖れを感じるのではなく、自分にやってくるものをすべて「善きもの」として受け入れる、という信頼が大切です。
「私は、安心して手放していて大丈夫! なぜなら、私は宇宙(源・神)に大切にされているから、当然いいものしかやってこないから」という信頼。
そしてそのいいものとは、自分個人だけにとっていいものではなくて、じつは全体に影響を及ぼす、全体にとっていいものなので、自分だけでなくすべての人、存在が手をとりあって恩恵を受けることができるのです。
なぜなら、すべてはつながっているから。だからこそ、「個人」が自分ひとりで一生懸命自分のためにする選択などいらないし、意味がないです。
そもそも選択などしてないし、それはできないし、だからこそすべてはOKでまったく安心なのです。
さてさて、「この人(あなたでーす!)」がこれからどんなふうに行動するのか、ただおもしろがって見ていてください。何が起きても、自分は間違うことができないことに気づきます。いつもちゃんと正しいのです。
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私たちの願いは、ただひとつ。「幸せになること」です。それは、みな同じ。
そのため、誰もが日々さまざまな努力を重ねています。
せっせと活動し、必死で仕事をし、愛する人を見つけ、自分の理想をめざす ・・・ すべて幸せになるため。
ところが ・・・ なぜかその途上で、自分を苦しめています。お尻をたたいて自分を酷使し、好きでもないことを無理じいし、愛のために犠牲をし・・・ もうヘトヘト。
幸せを目指していたはずなのにその努力は水のアワ、どんどんツラくなる現実っていったい・・・(汗)? なぜっ?
幸せという「結果」を手にしたいとき、幸せはいつも手のとどかない未来にあって、今は犠牲にされて相変わらずツライ生活 ・・・ということになります。幸せは、いつも届きそうで届かない未来にぶらさがっているのです。
でも、私たちは「今」以外にいたことなどないのです。ここが幸せでないのなら、とうてい幸せは望めません。
今しかないなら、手にしたいもの(結果)とそれに対する努力(原因)も同じところにあるはず。遠くに切り離しておくことはできず、今同時に起こっているはずです。
だから、努力して「いつか幸せになる」という図式はあてはまりません。今以外には意味がないからです。
原因と結果がワンセットで同時なら ・・・ ただシンプルに、今、すぐにしあわせであることを選ぶことができます。
しあわせは外からやってくるように思われますが、じつは自分を苦しめる考え方をしないこと、それだけなのです。(しあわせでないときには、モノゴトに対して、自分がツラくなるとらえ方をしているのです。自分で自分を怯え、疲れさせています。)
だから、毎瞬、自分を苦しめるような考えをチェックする必要があります。ツラい考えは、自分に対するムチになっていたのです。そのとき幸せは感じられません。
ただ気づいて手放して、安らぎを選ぶだけで、すぐに平和になります。リラックスできます。
自分の思いこそが自分を虐待しつづけている、という事実になかなか気づけません。しかし、考えがないところでは苦しむことすらできません。幸せにしない原因が、自分の考えにあったことがわかります。
「たった今」、毎瞬、毎瞬、自分を苦しめる考えに気づいて、ハイヤーセルフへと手放して、ただ安らぎを選ぼうとする意志だけで十分なのです。
毎瞬はむずかしい ・・・ というときは、「いやな気持ちになっている」「怖れを感じている」というときに、その直前の思いをチェックしてみましょう。かならず、自分に優しくない考えがそこにあることに気づくことでしょう。
ハイヤーセルフにそれらを委ねることで、こころのクセを修正してもらいましょう。そして、たった今、安らぎを感じてみましょう。
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Q: 自己探求のワークをして、被害者になるのをやめようとしています。しかし、だんだん「人のせいにしていたんだ」という罪悪感が出てきてしまいます。
A: 罪悪感が出てきたら ・・・ まずは、喜びましょう!(笑)
それは、自分を解放するためのお宝が見つかったからです。
私たちの思考はかならず、自分に対してある結果(知覚)をもたらします。
思考の結果として、自分が「幸せ・安らぎ」を感じるのか、あるいは「苦しみ」を感じるのか ・・・ 「天国」or「地獄」という二つにひとつです。
つまり、安らぎ100パーで苦しみゼロ。あるいは、安らぎゼロで苦しみ100パー。
この2バージョンしか存在せず、中間のグレーゾーンはありません。「苦しみ」というインクは、一滴たらせばぜんぶ苦しみです!
そうなると、考えというものはちょっとキケンに感じられます。
でも、そのキケンにさらされないようにするためには、意識的に「気づく」ことが大切になってきます。
まずは、自分で自分を「苦しめる」思考の一つひとつに、正直に気づいてゆく段階が必要です(私たちは自分の考えに気づかず、日々、自分を虐待しています)。
今まで思考を無視して、ことなかれ主義をとってきた私たちにとって、自分の考えの間違いに一つづつ気づくということは、気がめいることでもあるかもしれません。
だから、「罪悪感」に出くわすとすぐさまビビってしまい、「ダメな私・・・」というさらなる罪悪感でそれ以上進めなくなってしまいます。
けれども、今はじめてそう感じたのではなく、ずっとそれを抱えながら生きていた、ということなのです。でも、まんまと隠蔽して、ないフリをしてきました(罪悪感はエゴの活力の源ですから、なくなってしまったら困るのですね)。
だから、ついに見つけたら「ラッキー☆」ということになります。間違いに気づかない限り、訂正はききません。
「こんな感覚をもっていたのか〜」と間違いに気づいて、手放すことができます。
間違いは間違いだと認めた時点で、おおかた手放せたようなものです。
だから、必要な第一歩は、「へえ〜・・・私ってこういう場面では、こんなふうに罪悪感を感じるんだ〜」と客観的に気づいて、
あらためて、「じゃあ、なぜそんなふうに感じる必要があるのだろう? 私はいったい自分をどういう存在だと信じているの?」と、さらに一歩探求をおし進めることができます。
たいてい、そこにはエゴが主張している自分像があります(小さくて、無価値でおびえている私というような)。
その答えがほんとうのことなのか? 理にかなっているのか? 高い意識の助けをかりながら冷静にながめてみましょう。
考えはつねに自動的ですが、だからといって正しくはありません(たいてい大間違いです)。
自動的な考え、あたりまえだと思っていることにまんまと騙されていることによって、苦しみが生まれていることに気づく必要があります。
「罪悪感」というイイモノが出てきたら、それこそが自分を無価値な小さなモノに感じさせていたワナだと気づき、逃がさないうちに着ぐるみをはいでしまいましょう。
着ぐるみのなかは ・・・ 誰もいない?!☆
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私たちが何かしらの行動をとるとき、かならず自分のある考えにもとづいています。
ある感情を感じるときにも、何かしらの考えにもとづいています。
そのもととなる考えは、たいていは気づかれていないのです。
そこで、自分が無意識のうちに信じている考えを調べてみると、私たちは自分自身を決して幸せにしない考えにかなり固執していることがわかります(自分の首にヒモをかけて、少しづつしめているような感じです)。
たとえば・・・
Aさんは、大好きな習い事があって一生懸命つづけられてきました。
Aさんがその習い事のことを話されるとき、いつもお顔がぱっと明るくなることから、「ああ〜、ほんとうに好きでやっていらっしゃるのだな〜」と感じたものです。好きだからこそ、努力も苦にならないのですね。
コツコツ学ばれて、ついに指導者レベルというところまできたとき、「やりたい気持ちもあるけれど、ふみ出せない・・・」と。
よくよくうかがってみると、先生に「つぎはレベルが高くなるから大変よ」とクギをさされたそうで、「ああ、私は一回で覚えられないからついて行けないにちがいない・・・」と意気消沈して、これを学ぶのが好き!というキラキラ感が消えてしまったのでした。
「一回で覚えられなきゃ学ぶ資格がない」とAさんは信じていて、どうやらそれに自分自身がかなっていないと決めてしまったようなのです。
けれど・・・「一回で覚えられなきゃ学ぶ資格がない」いうのは、じっさいホントのことなのでしょうか?
私の場合だと、なにごとも自分の感覚に落としこまないと理解できないタイプなので、スラスラとはいかず人よりもじっくりペースです。ウサギではなく、かめタイプ。
ピアノを習っていたときも、一曲まともに弾けるようになるのにもかなりの時間がかかりました。
九九だって、毎晩パジャマに着替えながら地道に練習させられたものです(七の段が苦手で、そこばかり何度もやっていたし)。
大人になって、海外のセミナーやワークショップに行くと、ダンスを何曲も覚えるハメになるのですが(これは一日の終わりに、リラックスのためにみんなで踊るのです)、このフリが見ただけじゃぜんぜん覚えられなくって、ホテルの部屋でお仲間にレッスンしてもらったり・・・(笑)。
というように、どれもこれも一回でなんてとっても覚えられていません。
でも、もしも「ものごとは、一回で覚えられなかったら習う資格がない」と信じてしまっていたとしたら、自信喪失と大きな挫折感を味わっていたと思います(さいわい、かめさんペースの自分にひらきなおれたのがよかった! 汗)。
「ものごとは、一回で覚えるべき」と信じていたとしたら、その考えは自分を傷つける刃になってしまいます。そこから、恥じの感覚や、劣等感、罪悪感が生まれます。
でも、その考えがなかったとしたら ・・・ まったくそんな考えがアタマに浮かばなかったら、自分を劣ったものとも、価値がないものとも感じることはなく、ただたんたんと学ぶのだと思います。そして、早く覚えるためにはどうしたらよいのかを考えることができます(誰かの助けをかりるとか、ひとりで復習するとか、教材を探すとか、上手な人にアドバイスをもらうとか・・・)。
Aさんの信じていた「一回で覚えられなきゃ学ぶ資格がない」というは、残念ながらほんとうのことではなかったのでした。
そもそもAさんにそれができていないのですがら、その考えがほんとうであるはずがありません。私も一回でできなかった経験が数多くあるし。子育てをしている方だったら、こどもが一回教えてちゃんとできるようになるなんて不可能に近いことがわかります。
誰も、一回で学べないことがふつうなのです。
Aさんはこどもの頃に、なにかの拍子にこれがほんとうだと信じてしまっただけでした。たいていは、母親のひとことが原因だったりします。こどもにとって、母親は真実を語るように感じられるのです。でも、このお母さん自身も彼女の母親にそう言われていたのかもしれません(このように、ひとつの考えは代々、無意識のうちにうけつがれていきます)。
このように、知らず知らずのうちに受けついだほんとうでなない考えを「自分の常識」として握りしめていることが、自分の苦しみや生きづらさ、制限を生む原因となっています。
なにかモヤモヤしたり、意気消沈したり、不安になってしまっているとき、
その目のまえにある状況に対して、いったい自分がどんな決めごとをしているのかをチェックしてみる必要があります。
そして、それがほんとうのことなのか? 自分だけでなくて、他の人にも同様にあてはめることができるのか? (私たちは、自分にはツラくあたるので、同じ考えを友人とか他の人にあてはめようとすると「それは違うよね!」とすぐにまちがいに気がつくことができます)
自分の考えのまちがいに気がついたら、その考えを正しい考えに訂正してノートに書きとめておきましょう。Aさんの場合だったら、「ものごとは一回で覚えられなくってあたりまえ」と。
そしてさらに、訂正した考えから導きだされる新しいものの見方も書き出してみます。「できないからこそ、私は今学んでいるんだ」「学ぶスピードは人それぞれで、それは自分の価値とはなんら関係がない」「遅いといわれても、それはその人の考えだ」「私は自分のぺースで、学ぶことじたいを楽しもう」 ・・・
というように、「一回で覚えられなきゃ学ぶ資格がない」という考えを手放すことで、まったく違う見方ができるようになるのです。「ダメな私」から、「楽しむ私」に変えることができます。
他にも、「何においても一番にならないと価値がない」とか、「ちゃんとやらないとダメ」とか(そもそも “ちゃんと” ってなんなんでしょう??)、「みんなに受けいれられないとダメ」とか、「認められないとダメ」とか、いろいろなルールがあります。
この自分独自のルールは、自分自身が怖れを感じがちな状況を調べてみると、見つけられるかもしれません。
結局、自分が強く信じていることにしか自分は従わず、それを生きているのだとしたら、
自分がちょっとシンドく感じているときには、すかさず自分の考えを点検して、「それが自分に優しいか」「自分を楽しくさせてくれるのか」「自分のなかに元気がわいてくるものなのか」をみきわめなければなりません。
「自分に優しくない」考えは、持っていても自分の首をしめて生きづらくするだけです。それをしっかりとチェックしてみるときっとほんとうのことではなないのに気がつくと思います。
自分がこだわっている考えしか自分にさし出すことができないのであれば、是非とも自分に対して優しく、いたわりのあるこだわりをもちたいものです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
A: セラピーを受けて、自分の中心に戻れたように感じています。今後の生活のなかで、どのようなことに気をつけたらよいでしょうか?
Q: セラピーを受けられてお気づきになったと思うのですが、癒しとは何かをつけたすことではなく、あくまでもいらないものを「捨てるさる」作業でした。自分のこころにある間違った考えや感情を取りさることです。
なぜなら、完全さ・安らぎ・幸福感はすでに自分のなかにあるからです。
ただおおい隠しているものを取りはらいさえすれば、それは輝きを放ち、広がり、自分の知覚を照らしてくれます。
そういった意味で、日常において気をつけるべきことは、
1、どうでもいいものをつけ足そうと走りまわるのではなく、こころのなかの「捨てさるべきものを見逃さない」覚悟。
2、自分の外側にあるものはほっておいて、「あくまでも自分のこころとだけ向き合う」こと。
1 は、私たちは「足りない」という信念がベースにあるため、どうしても「つけ足す」ことにしか注意がむきません(あれを買って、これをやって、あそこに行って、あの人に会って ・・・全部つけ足すためです)。でも、先ほども書いたように、必要なことはただ「捨てさる」ことだけなのです。
2 については、外側は自分のこころのイメージです。外側にばかり気をとられて批判したり、どうにかしようとしていると、自分が作りだしたものの結果にふりまわされ、おおもとの原因は忘れさられます。
自分が幸せになろうとして、自分の外側にあるものを追い求めたり、どうにかしようとすることはなんの役にもたちません。むしろ、本来の自分からズレてしまうことなのです。
なぜなら、「追い求める」ことじたいがすでに「不足感」のあらわれなので、外に追い求めれば追い求めるほど、さらに自分のこころのなかの空虚感を自分にとってシリアスなものにしてしまいます。
それよりも、何かをなさなければならない、手にいれなければならない、どうにかしなければならない、という「変わるためには何かが必要である」という不足の思いを認め、そのさらにおおモトで信じていることに気づいて、受けとめ、感じて、それをとりのぞくために高い意識にさし出すことが必要となります。
そのために大切なことは、自分のこころをしっかりとモニタリングしていることです。自分のこころで何が起こっているのかをしっかりと把握することです。
なぜなら、自分のこころこそが、自分の目にするもの、感じるもの、体験すること、すべてを作りだしているからです。
そして、そのこころの誤作動がどのように起こり、その結果として自分自身を攻撃してしまっていることを見極めなければなりません。
なぜならば、自分の考えのほとんどは無意識にうめこまれています。まして、自分にとって堪えがたいと感じる思いは、自分がいっさい目にできないところに埋めこまれて、ほぼ自分にとって「ない」に等しいものとなっているからです。
その存在に気がつくことができるのは、こころの思いが形となって自分の外の世界に映しだされるとき、つまり「問題」という形をとったときだけなのです。
だからこそ、自分にとって不快なもの、喜ばしくないもの、嫌いなもの、無視したいものは、自分の見ることができないこころが外に映しだされたものであり、こうして知覚できてこそそれを処理するための唯一のチャンスでもあるのです。
しかし、そこで自分がそれを批判して、被害者になってしまってはもともこもありません。せっかくの解決の糸口が示されたのに、自分は背をむけてしまったのです。そして、「それは自分とは関係がない!」と言ってしまったことで、もうそれを自分から取りさる力を失ってしまいます。
このように、自分がほんとうに片づけなければならないものは自分のこころの奥深くに埋めこまれ、ほうむりされてしまったため、それが目のまえの不快感としてあらわれたときにしか、それを処理することができるチャンスはありません。
イヤなものを見つけてしまったときこそ、「ああ、自分が真に癒されて、自分の当然の権利である幸せをうけいれるためのチャンスがここにやってきている。ありがたく真っ正面から受けいれて、こころのなかのゴミを捨てよう!」と前向きに受けとめなければならないのです。
だから・・・
* 自分がイヤな気分になっているとき、いつものクセで自動的に被害者になり外側を責めることはやめて ・・・ なぜこう感じてるのだろう? このおおモトとなっている思いとは何なのかを探求してみます。
かならず、自分に対してやさしくない考えがそこにあります(私は無価値だ。悪いやつだ。孤独だ。好かれていない。)そして、その考えがあると自分に価値がないように感じたり、未来が不安になったり、まわりが敵のように感じてしまいます。
そんなふうに、自分の考えが自分自身を攻撃しない限り、私たちは穏やかさ、幸福感を感じることができるのです。自分の考えが自分を攻撃して、自分をみじめにしたり、不安にしたり、暗くしているのに気づいてみましょう。
** そして、自分が幸せになるためにふさわしくない考えは高い意識に手渡して、自分のこころから取りさってもらいましょう。
自分の考えに敏感になるためには、なるべく何か自分の外側の刺激で自分をごまかさないことも大切です。忙しくする、出歩く、ゲームをする、買い物をする、過食をする、だらだらおしゃべりをする、ネットをみつづける、人のことばかりに気をとられる、お酒をのむ、恋愛に没頭する、人やものごとを批判する、同じ考えを考えつづける・・・・ これらは全部、自分の感じていることから気をそらせるための手段であり、イヤな感じを煙にまいて温存させることができます。
*** 勇気をもって、なるべくごまかさず、自分の感じていることに直面して、探求し、高い意識に委ねる習慣をつけましょう。
私たちの本来の状態は安らぎそのものです。
そうでないものを断じて見逃さない、という意欲が本来の自分に戻るためのカギです。
でも、最初のうちは、ズレまくっていてほぼ安らいでいない自分にびっくりするかもしれません。しかし、それに気づくことこそが大切なのです。「ああ本来の自分でないものにずっぽりとはまりこんで、自ら悲惨になっていたのね」と愛をもって認めましょう。
自分がズレてることを逐いち認めることができる正直さこそが、一歩一歩正すための近道です。
そして、正すことができれば、何もつけ足すことなく「安らぎ・幸福感」は自然とやってくるものなのです。それは、自分の外側へと広がり、自分の見る世界を平和にしてくれます。
そのために、自分の不快感、イライラ、不安感を見逃さないようにいたしましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
注意を、外といわれる世界に向けつづけていると ・・・不安や怖れ、葛藤にみまわれるのをさけることができません。
世界にはたくさんのものがあるように見え(ほんとうはたった一つのイメージだけなのですが)、日々「途方もない数の雑多で秩序のないものたち」VS 「ちっちゃくて無力な自分」というプレッシャーのなかで生きることになるからです。
それはフェアじゃない力関係なので、当然怖れを感じることになります。そして、必死で世界をコントロールしようと試みます(コントロールはとっても疲れることです・汗)。
一方、注意をまったく反対側に向けてみることで(外の世界から顔の表面へ、さらにそのうしろへ) ・・・ 何も存在しないかにみえる空間、空(くう)が広がっています。
私たちはあまりにも雑多なものに囚われることに慣れてしまっているため、この何ひとつ存在しない空間は居心地悪く感じてしまいます。とても退屈です。
外の世界の方が刺激に満ちていますが、刺激と安らぎ(平和)は両立しません。
そして、この忘れさられていたスペースこそがほんとうの「私」なのです。
それは私たちの意識の空間であり、存在そのものであり、全方向に途方もなく広がっています。また、向こう側といわれる世界が生まれる源であり、いわば根っこの部分です。世界を包みこんでいるのです。
根っこの部分を完全に無視していたがために、そこから現れでた世界はぐらぐらと混乱して感じられていました。
どうしても外の世界ばかりを気にしたがる注意を、この根っこの空間へともどしてあげる必要があるのです。根っこを気づかってこそ、そこを強く養い、そこから力をえて出発することができます。
それは、ここのスペースを忘れさることなく、ここにくつろぎ、ここから世界を見て、ここから選択し、ここから行動を起こす・・・ということです。ここからすべてを始めなければならないのです。
そんなことをしてもなんの違いもないように思いますが、
なぜだか安定感があります。安らぎがあります。静けさがあります。確信が生まれます。自然と正しい行動に導かれます。そして、いつのまにかみんなにとっていい結果となります。
この空間にとどまることは、いいかえるなら自分の高い意識とつながることと同じなのです。その存在からの答えを手にすることと同じです。
そして、この空間にとどまることは、退くこと、聞くこと、委ねること、明け渡すこと、といいかえることもできます。
ここに注意をおきながら同じように生きることで、怖れや葛藤が減少しはじめ、少しづつ世界に対する意味づけが優しくなり、その結果自分のなかに安らぎが生まれるようになります。
さらに、それが外側に広がり、安らぎの循環を生み出すように感じられます。
外の雑多な世界にばかり注意をむけてあたふたするのではなく、
向きをかけて、そこのスペースにくつろいで、その静かなスペースとともにそこからすべてのことを始める習慣をつけてみましょう。一日のうちに何度でも、このスペースにもどってとどまります。
この根っこの部分での安らぎこそが、平和な世界をみるためのもととなるもの。そして、私たちが何よりも求めている幸せを達成してくれる大切なスペースなのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Bさんからのご質問: 「パートナーはいつも仕事のことや自分のことで忙しく、私は置きざりにされているように感じてしまいます。もっと私や家族のことを思いやってほしい!と悲しくなるのです」
A: お互いが「人生で何をいちばん大切にしているのか」を話しあい、理解することがまず大切です。が・・・
Bさんの場合、もう何度も話しあい、Bさんが一緒にすごす時間を大切にしたいということをパートナーは重々了解ずみとのことなのです。
お互いが歩みよることが必要ですが、それでも同じ状況がつづく場合には、もう少し深いレベルで問題をとらえてゆかなければなりません。
私たちはおうおうにして、「パートナーとは、自分の必要をみたす義務がある」と信じてしまいます。「それがパートナーでしょ?!」と。
その結果、「あるがまま」に生きるその人ではなく、自分の理想のカタにはめこみ、思いどおりになってくれるまで葛藤がつづくことになります(が、思いどおりになりませんっ・汗)。
ある意味、私たちが「誰かを必要としている」とき、それは意識的に、あるいは無意識的に、自分のなかにある怖れをうめたいと望んでいるからです。そして、「この人なら自分の需要を満たせるはず!」とお互いが確信できれば、関係が成立することになります。
でも、自分が目にする相手というのは、そもそも自分のこころが信じているものをイメージ化した姿です。真実ではありません。
しだいに関係が深まると、自分のなかにあった「欠乏感」を相手のなかに見るようになってきます。
私たちは「自分のなかの足りなさや間違いは、自分の外に追いやって、目のまえの相手にそれ見る」というクセがあります。自分の思いを通してしかものごとを見ることができないので、必然的に自分の欠乏感を相手のなかに見るのです。
それは相手に欠けていたのではなく、自分のこころのなかで起こっていることなのです。
欠乏感が強く、まるで溺れるような恐怖を感じているとき、私たちは何かにすがりつかなければ!と、目のまえの相手をにぎりしめてしまいます。すると、相手は自分も溺れるのでは!という恐怖を感じて逃げ出すことになるのです。
なぜなら、彼も同様の欠乏感を感じながら彼なりに頑張っていたので、二人分も面倒を見られないと感じるからです。そうなると、彼は彼で自分の救いがえられる何か(仕事、趣味、お酒、恋愛、ギャンブル・・・)に必死ですがりつくことになり、すがりつかれた相手から逃れて、どこか他へ向かっていくように見えるのです。
「なぜ、この人は私に必要なものを与えてくれないのだ!」(たとえば、一緒にすごす時間など)とつめよってみても、まず自分のなかで欠乏感がある限り、すでにそこに答えがあったとしても見つけることができません。
どうにかしなくてはならないのは彼ではなく、自分のこころのなかにある不足の思いだからです。
相手は、あるがままのとして生きているだけなのですが、私たちのなかの不足の思いが相手をあるがままにしておくことをゆるさなくしてしまうのです。
さて・・・ どうすればよいのでしょうか?
まず「なぜ、自分はそんなに動揺しているのか?」「自分のなかで何が起きているのか?」をしっかりと見て、気づく必要があります。
そこにある思いこそが、真の原因だからです。
すると、「私はひとりではひどく空虚で死んでしまいそうだ、みじめだ」という思いがあるかもしれないし、「私は見捨てられていて、怖くてしかたがない」という感情があるかもしれません。
そこにある孤独や恐怖の感情を、まったく隠したり抵抗することなく、まるのままゆるして受けとめます。なぜなら、それはずっとそこにあったからです。いくら押しやって、この感情の責任を誰かにとってもらおうとしてもそれはなくならないからです。
そして、やすらぎのなかで生きることこそが、自分自身の自然なあり方であり、そのやすらぎはすでに自分のなかにあることを思い出さなければなりません。
それを邪魔している思いも気持ちも、ハイヤーセルフ(高い意自己)へとさしだして、もっていってもらうことで手放すことができます。
その悲しみや孤独という思いや気持ちの下にこそ、ゆらぐことのないやすらぎや平和が隠されているからです。それは最初からないのではなく、ただ間違った自分を信じつづけたために見つけることができなくなっていたのです。
このように、「誰か」に自分の葛藤をおしつけて解決してもらおうとするのではなく、まず自分のなかに未解決の思いと感情があることを認めて、それから逃げずに向きあい、そのあとにハイヤーセルフに渡して、真の自分でないものを取り去ってもらいましょう。
そして、自分のまわりにいる人に要求や怒りや、葛藤を感じるときには、「これは自分の問題である」こと、そして「責任転嫁したいためにこの人のなかに見ようとしている」ことに気づき、そのたびごとに自分のこころへと戻るようにします。
自分のこころにあった不具合が取り除かれると、すべてがあるがままで問題がなく見えてきます。
悲しみの原因に見えたことも、まったく違う視点で見られるようになり、今まで見えていなかった愛や思いやりや優しさ、すべての流れの完全さを見られるようになるかもしれません。
外へ人へと向かって満たしてくれるものを探そうとするのではなく、自分のうちなる思い・感情に向かいあうことが大切です。
自分のこころにしっかりと向きあいはじめるとき、こころが映しだす世界は必ず変化をしてゆきます。
間違っていたのは目にしている世界ではなく、自分のこころにある「思い」だったのだと気づき、その「思い」じたいも自分のほんとうの「思い」ではないと気づくこと。そして、それを手放す決意をすること、です。
自分のこころの葛藤が取り除かれることによって、外の世界の葛藤がなくなってゆくのを感じることができます。
また、自分の思いが見るものに反映するのであれば、相手の「よいところ」「愛のあるところ」「尊敬できるところ」を見られる自分になりたいとハイヤーセルフにお願いしてみましょう。
相手の輝いているところを見せてもらうことで、自分の無意識のなかへと追いやっていた同じ部分を目覚めさせることができます。それによって、目にする世界のなかにも輝きややすらぎがふえるという好循環が生まれるかもしれません。
相手を変えることはできませんが、自分のこころを変えることでしだいに変化を生みだすことができるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
難しい資格の取得にむかって、長年コツコツと勉強をつづけているAさん。
そろそろ成果を手にできそうな今 ・・・ 心身のバランスを崩して、勉強すら手につかなくなってしまいました。ゴールは目前なのに ・・・ アセりがつのります。
そこで、Aさんの深いこころを探求してみたら ・・・ 意外にも、「この目標を達成してはならない」という思いが見いだされ、じつはこころは別のゴールを目指していたのです。
別のゴールとは、「苦しみつづけること」。
「その目標を達成しないことで、苦しみのなかにとどまるのだ! 」、これがAさんのエゴが言いはる目標です。
どうりで目標に到達できそうになってきたら、目標に近づけないことが起こりはじめたわけです。
目標を達成して幸せな気持ちになったら、エゴは出番がなくなってしまいます。なんせエゴのお仕事は、できるかぎり苦しんでもらうことだからです。
だからエゴは、よい気持ちや幸せを全力で阻止します。
たとえば ・・・ 「わ〜い♪ 大好きなケーキ!いただきま〜す」と喜びでケーキにかぶりつこうとしたら、ケーキが床にポトリ ・・・喜びの瞬間があっというまにガッカリの瞬間に早変わりします。とにかくエゴは、幸せになるまえに失敗してほしいのです。イヤな気分でいてほしいのです。
Aさんの場合は、体調不良とともに落ちこみやイヤな気分が浮上し、子どもの頃に体験したつらい場面が思いだされてきました。そうなると、「ああ〜、この体験のせいでこんな気持ちになり、勉強さえできなくなったんだ。私を傷つけたあの人のせいだ。だから私は進めない」と感じます。
この推論は、とても正当な感じがします。だって私はこんなに傷ついていて、たった今こんなに苦しいんですもの・・・と。
でも、ここで気をつけなければならないのは、エゴが幸せを阻止する手として、すぐにバレてしまう手は使わないということです。つまり、これはフェイクの原因です。
「苦しくて勉強が手につかない」 → 「苦しみつづけることを目標にしていたことに気がついた」 → 「でも、この苦しみそのものは子どものときの癒されていないつらい体験のせいだ。あのとき、ダメな人、不十分として扱われたからだ」 → 「すべてあの人のせいだ!」 ・・・ と自分を被害者に仕立てあげてしまうことで、解決の糸口が自分にはないように思わせるのです。
なんせ、「被害者」ですから。かわいそうな被害者は無力なのです。
これもエゴが「幸せにしない」という目標のために問題をかく乱し、原因をわからなくする手です。今、ここにある問題の原因を、自分から切り離して他人のせいにして、さらに遠い過去へともっていって、もうその時間に起こったことは癒すことができないように感じさせます。
でも、これはエゴの方便です。
真に解決したかったら、そんなエゴの複雑な理由づけにずぶずぶとかかわってはいけないのです。
解決法はもっとシンプルです!
Aさんの場合は、勉強ができないほどイヤな気分が出てきて、「この感情は過去に根ざしていて、そこが癒されなければ、私は立ち直れない。元気になれない」とエゴは語りかけます ・・・が、それが原因ではありません。
原因は、今感じているその倦怠感、やる気が出ない感じ、怖れ、自責の念、怒りなど ・・・今感じているすべてがただこころのなかに封印されつづけていた、自分がもっていたくて抱えていた、ということです。
そして、それは今、解放してほしいのです!
だから、ほんとうにしなければならないのは、たった「今」の感情を、たった今、まったく過去のストーリーや裁きの気持ちと結びつけることなく、ただそのまま受けいれて、感じてあげます。あとはハイヤーセルフに手渡すだけです。
過去云々は、エゴがより問題を複雑にして混乱させ、もう解決ができないように感じさせる手口にすぎません。
ただ今ある苦しさとともに、たとえ過去が浮かびあがろうとも、ただそこにある「感情」だけにひたすら向きあうことが重要です。
こころのなかで責めつづけていたその人は過去なので、もう手放します(ほんとうはこの瞬間というものは独立して存在しているので、過去とはなんの関係もないのですね)。
もしそこで、誰かを責めることにハマってしまうと、相手を攻撃することでより罪悪感をふやし、そのため無意識のうちに自分を痛めつけることになります。「神さま、私と同じ完全性をもつ相手を攻撃してしまいました。間違っていました。神さまにおしおきされるまえに、自分で自分を痛めつけますから、どうか無罪放免にしてください」と。
私たちのこころはひとつなので、相手を責めて攻撃しつづけると結局、共倒れになるしかありません。手をつないで地獄行きです。それがひとつであるものの運命です。
自分のなかのわだかまり、怒り、赦せない思いが手放されると、自分の見ている世界が平和になります。
自分のこころで生じたものは、結局は自分のなかにあり、自分に対して何らかの結果を生み出します。すべての攻撃の思いは、自分に災いし、すべての愛の思いも、自分を豊かにします。
自分の目にする世界とは、結局は自分のこころが生みだす映像にすぎないので、もしほんとうに安らかな世界を体験したいのなら、まずは自分のこころのなかから闘いの思い、攻撃の思い、裁きの思いを断固として追放する気持ちが大切です。
それらのほんとうの自分ではない攻撃の思いに気づき、ハイヤーセルフにもって行ってもらいましょう。すべて手放しましょう。自分ではないものを大切にすると、ほんとうの自分自身を見失いつづけます。
ほんとうのあなたは、まったく無傷な光輝くダイヤモンドのような存在です。その光をさえぎるどんな思いも、ゆるしてはいけないのです。ゆるしてしまうと、あなたは知らぬまにゾンビ化してしまいます。
そのために、自分のこころに浮かぶ自分を傷つける思いに敏感になり、それを逐いちハイヤーセルフに渡して、もって行ってもらいましょう。本当の自分を体験したい!とお願いしましょう。
平和で穏やかなこころ、そこから自分の目にする平和で穏やかな世界が立ちあがります。攻撃さえなければ、安らぎと愛はすでにそこに存在しているからです。
天国のルートも、地獄のルートも、おもいのままです。二枚のチケットが渡されていて、選ぶのは自分です。
そして、Aさんが今懸命に進んでいる目標への道のりも、その目標じたいも、ぜんぶハイヤーセルフにゆだねてしまいましょう。それをエゴに乗っとらせるのではなく、ハイヤーセルフに渡して、全部をよきことのために使ってもらいます。
私たちは個人の満足のために目指すゴールにおいては、イバラの道を行かなければなりません。一方、それが全員のためによきことであるゴールで、人と手をとりあうなかで達成されるのであれば、道の景色もがらっと変わるはずです。
感情をただの感情(なんのラベルもない感情)として感じきったら、しっかりとハイヤーセルフの手をとってすすんでくださいね〜。
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令和の時代の幕があがりましたね。
お正月や春分(天空での新年)、お誕生日、記念日など ・・・ 新たなスタートをきる機会が一年に何回かありますが、新元号はやはりリセット感が大きいです。
「令和」という元号にこめられた思いや、新天皇・皇后のほんわかしたたたずまいから、新しい時代はより温かで人に優しいイメージが伝わってきます。
みなさまはどんな「令和」にしたいですか?
「愛と安らぎと喜びをあちこちに目にしながら、愛と安らぎと喜びの体験をわかちあいながらすごしたい!」、私はそんなふうに感じました。
なぜなら、それが私たちみんなにすでに与えられている当然の権利でもあるから。当然のことを当然のごとく、いたるところに見て体験したい!
私たちは自分が何を見て、何を体験するのか、自分で決めています。そして、決めたものしか見ることができません。
「私が今、目にして体験していることを自分で決めた? そんな覚えはないけれど・・・」って?
決める(それを受けいれる)ということは、ほぼ無意識に行われています。「これを信じるぞ!」というはっきりとした自覚なく、するりと「自分にとって妥当だ!」と思ったことを受け入れます。
そして、その決定の力は強力です。それに変更がくわえられない限り、その決定はどこまでも延々とつづいてゆくのです。
だからこそ、今の自分にそぐわない現実が目のまえにあるのなら、「過去に受け入れたことがそのまま続いているのだわ。でも、それは今、私を幸せにしていないし、私にはもうふさわしくない」とちゃんと気づいてあげることが必要です。
その気づきが、進む方向を変えるためのブレーキです。
そして実際に方向を変えるために、それを手放して、たった今の自分が望む方向へと選択を変えなくなてはなりません(この変更だけは、意識的に行わなければならないのです)。
だから、今、あらためて決めるのです。今の私は、何を体験したいのかを!
「まあまあ幸せだった」などと誤摩化すのはやめましょう。「まあまあ」というのは存在せず、「幸せか」「幸せじゃないか」の二択しか存在しません。
何か間違ったことをこころに受け入れたせいで、その結果を受けとりつづけていたのならば、今、あらためて自分のために決めなおしてあげましょう。
私たちは自分の体験するものは向こうからやってきて、それに自分がたまたま出会うのだと信じています。が、
それは間違いです。たまたまはないのですね。そして、自分の外などというものはなく、すべてこころのイメージであり、見たいものを見ています。
私たちが目にするものは、「これを見たいのだ!」とここらがあらかじめ受け入れて、決めているものだけなのです。
だからこそ、新しいスタートにはあらかじめ「決めておく」ことが大切です。それは、令和のスタートに限らず、きょうという日のスタートに、人との出会いに、何かをすることに ・・・。
「決めたもの」こそが、見えるものであり、受けとれるもの! (*´∀`*)ノ
さて、あなたはこの新しい時代に、どんなご自分を目にしたい思いますか?
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「思いがものごとをつくりだす」という、こころがもつ創造する力に気づいていらっしゃる方は多くなってきました。
そう、こころには絶大な力があるのです。
自分自身のこころの力だからといって、それを理解してうまく使えている、というわけではありません。ほぼ、すべての人が若葉マーク以前です。
こころの力は絶大すぎるので、ある意味制御不能で、もはや何がどうなっちゃっているのかわからないほどです(強力すぎる武器を手にして、それにぶんぶん振りまわされている状態です)。
だから、自分であれこれつくり出しておいてから、「私はこんなものを知らない。きっとあの人のせいじゃない?」と簡単に被害者になれちゃうのです。
それはまるで新米の魔法使いそのもので、自分の使った魔法(思い)であわや自爆しそうになり、ヨレヨレのコゲコゲボロボロ、瀕死の状態にさえなれてしまうのです。
そうなってさえも、それが自分の魔法(思い)のせいだと気づくことができません。残念なことに、あっちにいる誰かに攻撃されたに違いない!と固く信じているのです。
魔法の杖をふりまわせばふりまわすほど、自らドツボにはまる、というのが現状です。
はたから見ているぶんにはコメディちっくで笑えるけれど、当の本人にしてみれば自分のせいで生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられていることに気づけません。
少しでも気づけたら、まだ救いはあるのですが・・・。
自分の魔法(思い)は一秒もまったなしです。
自分に石つぶてを降らせるか、あるいは自分を幸せにしてくれるお望みのものが降り注いでくるのか ・・・・それを決めるのは毎瞬毎瞬の自分の思いなのです。
人に向けた思い、自分をのぞいた思いなどというものは存在しないので、思いはすべてもれなく自分自身に対するものです。
だから、攻撃や批判の思いというのは、まるで私を剣や槍でめったざしにして下さいとお願いしているようなものです。そしてツライ状況がやってきても、まさか自分の攻撃性でそうなっているとは思いもしません。
そう考えると、自分の思いの内容は、自分に向けられて嬉しいものにしなければならないことになります。
誰もがこころの力を、何かを望み、欲しいものを手にするときにはひんぱんに使います。
たとえば、「いついつまでのこれぐらいのお金が用意できますように」「この仕事が思うような結果になりますように」「この身体の不調がなくなりますように」「誰々ちゃんと仲良くなれますように」・・・
私たちがこころの力を使おうとしているときには、前提として望まない状態があるのです。何がが「足りない」のでうまくいっていない、ということをうめるためにこころの力を使っているのです。それはお金であったり、成功であったり、安心であったり、健康であったり・・・.
しかし、思いはベースにあるものを原因として、そこから結果を生み出しているので、ベースが「欠乏」「足りない」思いだと、結果も「欠乏」と「足りない」をさらに助長することになり悪循環になります。
だから、こころの力を使うときには「欠乏」をうめようとするよりも、「すべてをもっている、すべてを与えられている、その当然の権利を忘れずにいられますように」「すでに与えられているものをしっかりと見ることができますように」とお願いすることで、欠乏を見ることがなくなるのです。
源、宇宙、神とひとつである私たちは、当然の権利としてすでにすべてを与えられています。しかし、自分の間違った思いでそれを遮り、まったく見ることができなくなっています。
私たちは何を見るのかは、自分の思いで選ぶことができるのです。だったら、そこに与えれているもの、すでにあるものを見たい!と望むことができます。自分のこころがつくりだした架空のものではなく。
当然のものが見えないのであれば、ただ見えるようになることをお願いするだけです。そこには、特定の細々とした要求は必要なくなるのです(結局、特定の要求は欠乏を前提としているので、欠乏をつくりだしてしまうのです)。
「何もつけ足す必要がない、すでに完全であるほんとうの自分でいられますように」「それを見て、体験できますように 」・・・これがすでに完全である、ほんとうの自分のための正しい望み方、思いの向け方なのです。
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「なぜ、この人は私にこんなことを言うのだろう?私は傷ついてしまった」
「なぜ、あの人は私をこんなめにあわせるのだろう?私はすっかり混乱している」
誰もがこころのなかでこんなふうにつぶやいたことがあると思います。
「あの言葉が、この行動が ・・・ 私を傷つけた」と言うとき、私は被害者で無力であるように感じられます。 ・・・ ほんとうのところはどうなのでしょうか?
もしかすると、自分で自分を傷つけることにまんまと成功している ・・・ ということもあるかもしれません。
「自分で勝手に傷ついた?まさか!たしかにひどいことを言われたし、傷つけられたじゃない?」 ・・・ でも、同じ言葉を耳にし同じ体験をしても、それを何とも思わない人もいれば、まったく異なった解釈をする人もいます。
相手の言葉や行動じたいが凶器なわけではないのです。
「こんな意味のことを言われた」「こういう内容のことをされた」と判断したのは、誰なのでしょうか?
それは自分自身です。自分がそのように意味づけをしています。
私たちは自分が目にしたり耳にしたことに瞬時に反応し、即座に意味づけを行います。それまでは、自分にとって特定の意味は存在していません。自分が自分にとっての意味を選び、受け入れます。
ものごとはまるで、無声映画のように流れてゆきます。あるいは、セリフやト書きのない絵本と考えてもいいかもしれません。
「今見たもので、好きなストーリーを語ってください」というわけです。
こどもの頃、知能テストのなかに、玄関に立っているお母さんと雨合羽を着たこどもの絵があって、「これについて話してください」という問いがあったのを思い出しました。悲劇でも、お笑いでも、ただの描写でも、何でもつくれます。
以前のブログでも、映画のアフレコ遊びについて書きました。
イタリアでテレビを見ていたら「マジソン郡の橋」という映画をやっていたのです。さっぱり言葉がわからないので、テレビの音声を消して自分たちで勝手にアフレコをして遊んでいたのです。そうしたら、悲恋どころか間抜けなお話になってしまいました。
私たちは目にしたり耳にしたことに対して、自分の独自のシナリオをもとにその状況に意味づけを行います。シナリオにそっていればそれは「よいこと」であり、そっていなければ「悪いこと」で攻撃の対象になります。
たとえば、お母さんが「ねえ、手があいてるならそれやっといてちょうだい!」と言ったとします。
自分のスケジュールやイライラ感があったりすると、「え〜〜!何言ってるの?そんなこと自分でやってよね」と、母からの言葉は自分への攻撃だと感じられ、被害者の気持ちになるかもしれません。
一方、こころが満たされていて、また母に対して理解の気持ちがもてたら、「ああ、お母さん、忙しいのね。他に何か手伝える?」と思いやれるかもしれません。
母からかけられた言葉はまったく同じです。そのひとことに対して、抱く気持ちや反応は十人十色です。たったひとつの意味があるわけではなく、受けとった人が自分にとっての意味を決定しています。
そして、自分が傷ついたと感じるときには、自分が下した「その意味づけ」が自分を攻撃しているのです。つまり、自分が傷ついたと感じるとき、「自分を傷つけているのは自分の意味づけだ」ということになります。
「こんなことを言うなんて!」とはつまり、「私個人」が抱いているシナリオにあなたは従っていない。だから、あなたは私のために自分を改めるべき、と感じているときです。
「こんなめにあわせるなんて!」とは、「私個人」の欲しいものをあなたは与えようとしない。あなたは私に満足を与えるギムがあるのに、それがまったくできていないと批判しています。(ほんとうは、そのこととは関係なくもともと不満や不足感があったことが問題です。)
私たちはこのように腹を立てているとき、「あなた」という人は私を満たすためにいるのだ!と無意識のうちに信じています。それができないのなら、あなたは私からの攻撃を受けて当然なのだ!と。
このように信じてしまうと、じつは自分自身を不自由にしてしまいます。
なぜなら、与えるものは受けとるもの。人は自分に仕えるものだと思っていると、自分もかならず人に仕えることとなり、不自由になるからです。それが自分のルールだからです。(もとはといえば、その不自由さが慢性的な不満の原因だったかもしれません。)
自分のこころにあるそのルールが自分に犠牲をしいているので、怒りを感じるようになります。それが攻撃的な気持ちとなり、人との距離を生みだします。「私はこんなにガマンしているのだから、あなたもガマンするべき」と、同じ生き方を強要するようになってしまいます。
自分の思いが自分を攻撃して、まんまと被害者になっていた ・・・ と認めるのは抵抗があるかもしれません。
けれども、「私の選択した思いがそれをしていたのかも」と認めることは、「自分でこれをした」のだから自分には改善の余地があるということです。人が勝手にしているのなら、それは変えられません。
自分の思いが自分の幸せの邪魔をしていたのだったら、幸せの邪魔をする思いに敏感になり、それとは縁を切ろう!と決めることです。
自分を邪魔する考えとはもともと自分自身に敵対する考えなので、それがなくなるとほんとうの自分が自ずとあらわれます。ほんとうの自分とは、「愛」あり「幸せ」「安らぎ」「喜び」ともいいます。
考えは自分のこころのなかにあるものなので、それがどこに向けられていようと結局は自分に対して威力をふるってしまいます。人に対しても自分に対しても、攻撃的な考えに一つづつ気づいて、手放すことが大切です。
手放すときには自分でやろうとせずに、すべてを司り自分の面倒を見てくれているハイヤーセルフに手渡して、取りさってもらいましょう。「これは私が持ちたくない考えです。私ではないので取りさってください。(私は愛そのものなのだから)」とお願いします。
そうすることで、自分自身も人もその思いの呪縛から解放され、自由になります。日々の出来事に対して攻撃的な思いや反応がなくなれば、より自然に安らぎを感じられるようになります。安らぎのまたの名は、幸せです。
私こそが怯えていて自分のシナリオに固執していたから、何を見てもコワく感じて攻撃していたのだ、と気づくようになります。こころの重荷が癒されれば癒されるほど、目にする世界に対して怖れがなくなるので、すでにそこにあった幸せを受けとることができるようになります。
どんなときでも、自分を幸せにするのは自分の責任です。誰かがするべき、と信じてしまうと怒りを抱くことになります。
自分が幸せでいるためには、つねに被害者になりたがるエゴに気づきつつ、自分を蝕んでしまうような攻撃の思いに敏感になり、誰に対してもどこに向けても、攻撃的な気持ちをもたないと決意することが大切なのですね。
自分に対する攻撃をやめることで怖れが取りのぞかれ、安らぎという日だまりのなかでくつろいでいる自分に気づけるようになるのですね ( ・◡・ )♫♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「解決したい問題がありハイヤーセルフ(高い自己)に助けを求めてたのですが、答えが受け取れません」「いつもお金に困っているのでハイヤーセルフにお願いしましたが、なかなか改善しません」
こんなふうにハイヤーセルフにお願いしても答えが受け取れない、問題が改善しない・・・というようなときがあります。
ハイヤーセルフは自分のことを助けてくれないと感じてしまいますが、そういうことではありません。じつは、答えはすでに与えられ受け取っているのですが、自分がその答えに気づくことができなのです。
受け取った答えを認識するためには、自分のこころの態度を変える必要があります。ハイヤーセルフからの贈りものの「受け取る場所」と「受け取り方」を正しく知っていなければなりません。
さて、「どこ」で「どのように」受け取るのでしょうか?
ハイヤーセルフからの贈りものはすべて、宅配センターにやってきます!
「クロネコですか、佐川ですか?」って? ・・・ どちらでもありません。それは、「あなた」という宅配センターです。
宇宙からの贈りものは、かならず「あなた」という宅配センターにやってきます。あなたこそが、宇宙からの贈りものを受け取るスペースであり、またそこからみんなに配達するための中継所でもあるのです。
そして、宅配センターの役割はもちろん「宅配すること」、配ることです! だから、受け取ってキープしたままにしておいたり、宅配すべきではないものを宅配してはいけないのです。
私たちは日々の生活のなかで、常にまわりの人たちに「与える」ということをしています。
何かをしたり、何かを言ったり、耳を傾けたり、あるいはモノを渡したり、こころのなかで思ったり・・・これらはすべて与えることなのです。自分が受けとった宇宙からの贈りものをみんなにお届けする、という作業に他なりません。
その与えた言動、あるいはモノなどによって、受け取った人が「ありがとう!」「元気になった!」「助かった!」と喜んだり、感謝したり幸せを感じたりする場合もあれば、逆に「落ちこんでしまった」「自分なんて・・・と感じてしまった」というように意気消沈し不十分さや怖れを感じる場合もあります。
「ありがとう!」と喜んでもらえるのはまさに幸せを生む贈りものを与えたのであり、その出所は明らかに宇宙からのものです。宇宙とは愛そのものなので、贈りものは必ず愛と喜び、安心を与えてくれます。
一方、「落ちこんでしまった」「元気がなくなってしまった」という場合、与えたものはどうやら宇宙からのものではなかったようです。
与えたものが怖れや罪悪感、不足の感情を生み出すのであれば、それらは間違いなくエゴの自分からきているものです。つまり、宅配すべきではないものを勝手に宅配していたこととなり、何も贈りものは届けられていないのと同じです。
何も届けなかったということは、自分にとって「私という宅配センターはじつはカラっぽで、宇宙からの贈りものは何もなかった」という認識になります。(本当は自分の宅配センターにはいつも贈りもので満杯なのですが、宅配しないことによってその十分さに気づくことができなくなります。)
また、宇宙から受け取ったものを宅配する際にも、「これは与えすぎだよね」とか「ここまでしてあげる必要はないよね」と相手を値ぶみしたり、出し惜しみすれば、宅配センターは機能しなくなります。自分も宇宙から値踏みされ、出し惜しみされているように感じてしまうので、またもや宅配センターは十分ではないというように感じられてしまうからです。
宇宙から受け取ったものを無条件に与えてゆくことによって、自分のなかに贈りものが無尽蔵にあらわれ、満杯に満たされていることを知ることができるようになります。これが自分にとっての豊かさの感覚です。
出し惜しみは宅配センターの在庫不足を意味し、贈りものは何もなく、宇宙からは何も受けとっていない、というように認識されるのです。与えないということは不十分さ、不足を意味し、「私には何もない」ということになるのです。
だから、「神さまだったら、この人に何て言うだろう?」「どんなふうに力をかすだろう?」「どんなふうに思いやるだろう?」「何をしてあげるだろう?」「どんな与え方をするだろう?」 ・・・ そんな無尽蔵な宇宙(神)のように与える姿勢によってこそ、はじめて自分の宅配センターにはたくさんの贈りものがひしめいていることに気がつくことができるようになるのです。
表現することによって、私たちは自分の奥にしまわれていた自分でも目にすることができなかった贈りものを、あらためて引っぱり出して目にすることができるようになります。
すると、「私にはこんなにも沢山あったのか!」「私にはこんなこともできるのか!」「私ってこんな人だったのか!」と、与えれば与えるほど、表現すれば表現するほど、自分から溢れ出す贈りものにびっくりするかもしれません。
実際、その倉庫を全開にしてどんどん与えてゆくことをするまでは、まったくその潤沢さに気づくことはありません。この倉庫は宇宙に直結しているので、ドラえもんのポケットもびっくりなほど無尽蔵で豊かであるのです。
だから、倉庫を開け放って、まわりの人を思いやってあげる、できることは快くしてあげる、助けになるものは与えてあげる、言葉に耳を傾けてあげる、こころのなかで幸せを祈ってあげる・・・というような気前のいい宅配サービスをすることによって、宅配サービスセンターは贈りものであふれはじめ、その山のような贈りものは自分自身をも助けてくれることに気づきます。
しかし、宅配センターに廃棄物やら、ゴミや悪臭のするような腐敗物が集まらないように気をつけなければなりません。それらは不平不満であったり、意地悪な思いであったり、悪態であったり、攻撃的な態度であったりします。
そのようなものを溜めこまないためには、喜ばしいもの、嬉しいもの、楽しいもの、愛のあるもの、安らぎのあるもの、麗しいものだけをみなさまに宅配することをこころがけることです。
与えるものこそが自分自身が何を受けとるかを決めるので、自分が最高に喜ばしいもの、愛あるものを受け取りないのならば、ただそのように表現すればよいだけなのです。すると、必ずそれらが自分のなかに豊かにあふれて、自分を助けてくれることに気がつくでしょう。
このたくさんの贈りものは人のためだけではなく、かならず自分自身への贈りもの、問題を解決の答えとなります。
つまり、自分が欲しいもの、受け取ったら嬉しいものを人に流してゆくと、必ず自分はそれを受け取っているのです。
宇宙からの贈りものを受け取り手渡す宅配センターになるということは、自分からすべてが流れてゆくので、自分はまさにすべてであることを知ることになります。
自分が救われたかったら、「助け」という贈りものをまず差し出しましょう。助けることができる自分は、すでに助けられていることでしょう。
自分が問題を解決したかったら、問題解決の手助けをしましょう。問題解決ができる自分は、自分の問題をすでに解決していることでしょう。
また、安心して生活したいと思うならば、人が安心できるように助けてあげましょう。すでに自分が安らぎそのものであることを知ることでしょう。
自分の手元にすでにある麗しい贈りものに気づくことができるように、愛ある宅配センターとして宇宙からの贈りものをどんどん送り届けてみましょう。
それだけ豊かに与えることができる自分はどれだけ豊かなのか、無条件に与えることができる自分はどれだけ万能なのか、人を安心させることができる自分はどれだけ平安に包まれているのか、きっとそれを宇宙が証明してくれることと思います。
だから、自分の問題を解決したいとき、豊かさを感じたいと思うときには、まずは自分が素晴らしい宅配センターであることを思い出し、与えることをしてみましょう。宇宙のうるわしい贈りものだけを扱う愛ある宅配センターとして機能してみましょう♪
昨日、「ハイヤーセルフの答えがわからない」ということについてブログを書きました。
ちょうどAさんから、「今、大切な決断を下さなければならないことがあり、期限が迫っている状態です。どの答えを選んだとしても、いぜん不安があります」というご質問をいただきました。
エゴの声が、あれこれ不安を引きおこしているご様子。
そう、エゴは口をはさむのが大好きで、それこそがエゴのお仕事です。
その目的は混乱させて、怖れや失敗感をもたせること。その結果、「ああ、やっぱりやってしまった〜」という罪悪感がもれなく生まれます。それをエゴは喜びます。エゴの究極的なねらいは、罪悪感を蓄積させることだからです。それによって、自分で自分を罰する方向へと向かいます。
でも、エゴが口をはさもうが、はさむまいが ・・・
じつは、なされることはなされるのであり、つねに「なされることは、正しいこと」なのです。
これが答えです。シンプルです。
だから、動揺する感情をしっかりと感じてから、ハイヤーセルフとつながり、導きをお願いしたら、
あとはどのようになってゆくのか、「自分が自分の傍観者」になってみます。「この人は、このことに対していったいどのように対応するのかしら?」「おもしろいから見ていよう」と、かなり人ごとにしてみます。
結局は、混乱のなかで決断してしまったように思えて、いぜんとして不安はあるかもしれません。「これでいいのかな〜?」と。
あるいは、きっぱりと決めるかもしれません。「よし、これでいい!」と。
どちらの気持ちで決断したとしても、起こることはただ起こるのです。
違いがあるとすれば、それをどういう気持ちで解釈するのか、ということだけなのです。混乱していれば、すべてが混乱に見えるかもしれません。信頼のなかにいれば、ひとつひとつが自分に必要なことだと解釈するかもしれません。
結局は、起こっている「見かけ」は重要ではなく、それをエゴ目線で悲惨にするのか、それともハイヤーセルフ目線で「すべては完璧!」と納得するのかという「中身」が大切、ということなのです。
でも、エゴは自分が決めている、決定権がある、自分こそがパワーを握っている、と主張したいがために、口だけははさんできます。でも、ほんとうに口だけなのです。何もしていません。(その口車にのって信じなければ・・・)
「どうしよう!こうするべきか?ああするべきか?」「こうしたら、こんなコワイことが起こるし・・・、ああしたら後悔するし」 ・・・ この声に耳を傾けることこそが、「エゴが自由に結末をコントロールできる」という勘違いを起こしてしまいます。
どの声にも、答えがありません。なぜなら、エゴの声は「あちらを立てれば、こちらが立たず」になるからです。
でも、起こることだけが真実で、それが唯一正しいことです。
エゴのちゃちゃがあろうが、まったくなかろうが、ただ起こることが自然と起こり、それがベストな流れへとつながるのです。
リラックスして、起こることを起こらせてみましょう(自分が決めたように見えていますが、ほんとうは違います)。
いつだって、どんなときだって、私たちはほんとうは間違うことさえできない存在なのです☆ すでに、守られています。
その安心感のなかで、起こることを静かに信頼をもってながめてみてみましょう (*˘︶˘*).。.:*♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちはお出かけまえに鏡で身なりをチェックします。いずまいを正すのに、鏡はかかせません。鏡なしには、お化粧もままならないのです。
じつは、身なりのチェックのみならず、こころのいずまいを正すのにも、また人生の流れを修正するのにも、同様に鏡が必要なのです。
でもそれは、おうちにあるような姿見や手鏡では用をなしません。こころを映すには、世界という鏡が必要なのです。
「経済的に豊かになりたくて、資格をとったり、転職したり、毎日遅くまで仕事を頑張ったり ・・・ と、ありとあらゆることをしてきました。でも、努力にみあった結果が出たことがありません。最近、これはこころに関係しているのでは?と、うすうす気づきはじめてはいるのですが・・・。何かできることはありますか?」というご質問をA子さんからいただきました。
不足を見るというのは、まさに外側という鏡に映った自分のこころの状態、思いの結果を見ているといえます。
経済的なことだけではなく、あらゆる問題、出来事にあてはまります。すべては、自分のこころの状態が外側という鏡に映しだされて、それを見ているだけなのです。
身なりのチェックでも言えますが、何かしらの変更が必要なときには鏡をいじりまわすことはしません。鏡はほっておきます。映しだされているモトをいじらなければなりません。
となると ・・・ 不足がある大モトとは、これを映しだしているこころのなかにある、いうことになります。こころの変化が必要なのです。
だから、A子さんのように、外側の世界であれやこれやをいじりまわしても、うわべの変化は一時的に起こるかもしれません。しかし、それをキープすることはできないのです。結局、本来のこころのあり方を映しだすことになります。
問題の原因は、こころのなかに存在する「足りなさ」の思いであるということがわかりました。
「足りなさ」の思いとは、具体的にはどういうことでしょうか?
それは、目にするあらゆるところに「足りなさ」を無意識のうちに知覚することがクセになっているせいかもしれません。「足りなさ」の知覚とは、つねに価値判断をしている、ということになります。
私たちが価値判断をするとき、「こちらはよい」けれど「こちらはダメだよね」と、必ずダメだしをともないます。あるものがイイと知覚されるときには、他は足りないものと見なされるのです。
それは決して、あるがままをよしとはしていません。あるがままはそっちのけで、私のルールで裁いているのです。
そして、ダメだしはいつも、自分自身に対する呪縛、制限となります。
こころで思ったことは形として外に見ることにはなりますが、存在しているのは自分のこころのなかなので、つねに呪文のごとく自分に対して効力を発揮します。
そうすると、何を見ても、足りなく見えるのです。そしてそれをまた裁き、それが足りなさをつくる ・・・ という悪循環におちいります。
価値判断の思いをもつことによって、自分で自分から奪ってしまっている、ということになります。
鏡映るものにいちゃもんをつけるのは、じつは自分にいちゃもんをつけること。鏡にいどんで危害を加えようとしてはいけないのです。それは、自分を傷つけることいなります。
私たちはすべてのものをすでに与えられています ・・・ 自分でそれを切り捨てるまでは。
いったん、こころのなかで裁きが起こると、完全性が損なわれて、すべてばバラバラになり、不完全さ(欠乏)が存在することになります。(一枚の絵のここがいいよね!と言って、そこだけジョキジョキ切りとったら、切りとった部分もその絵全体も台無しになる。あるがままが破壊される ・・・ というような感じです。)
完全生を取り戻すためには、人に、世界に、自分に、完全さを見ようと務めることが大切なことなのです。鏡に完全性が見えるなら、映っているものも完全はなずだからです。
完全性を与えるということが先にきて、そうして鏡から意図したものを受けとります。私の意図を反射しかえしてくれるのです。
エゴの目線はいつだって、不完全さにしか注目しません。誰かが不完全でなければ、自分は優位に立つことができないと信じているからです。だから、いつだってダメだしの嵐なのです。
でもそのことが、ひたすら自分を負けさせているということに気づけずにいます。
すべてに優劣をつけたがるエゴの言葉はやんわりと拒否して、ハイヤーセルフに「わたしはこの人(出来事)のなかに完全さを見たいと思います」とお願いし見せてもらいましょう。鏡に映るすべてを称えられるようにしてみましょう。
鏡に映るものが称えられるのなら、きっとそこにいるあなたは完全ななずなのです。
その完全さのなかから、あなたの贈りものである豊かさが輝き出すのです♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
こどもの頃に、シリアスなイジメ ・・・ とまではいかなくても、ちょっとしたからかいやイジワル、仲間ハズレにされた体験というのは誰にでもあるものです。
たわいもないイジワルとして思い出されるものであっても、そのことが自分の「ものの見方のモノサシ」に影響をあたえ、それをゆがめ、意外にもずっとあとをひいていたりします。
自分とはどういう存在なのか(愛される?愛されない?)、人とはどういうものなのか(愛してくれる?攻撃してくる?)、またこの世界とはどんなところなのか(優しい?拒絶してくる?)という、自分や人、世界に対する概念が無意識のうちにツラく危険なものになってしまい、その怖れが自分の人生の足を引っぱるようになってしまいます。
まちがった概念の呪縛は、三十になっても、四十になっても、六十になってもとけることがありませんん。むしろ強化されているように感じます(いったん刷りこまれた概念は、自ら気づいて訂正するまで修正することができないのです)。それゆえに、なぜ自分自身を肯定できないのか、幸せや自由を感じられないのか、自分でもわかりません。
こどものときに受けいれてしまったまちがった自己概念が、自分に災いしていることに気づくことができないでいます。
たとえば・・・
幼稚園のときに ・・・ ○○くんに「おまえはヘンだ!」とからかわれてしまった、とします。
だから、私は人とちがってヘンな存在にちがいない。きっと恥ずかしいにちがいない(こどもは、まわりから言われたことをなんの検閲もかけずにそのまま信じこんでしまうスポンジのような存在なのです)。
だから、ヘンだということがばれないように、自分を隠しておこう、あるいは、ちがった自分のふりをしよう・・・ というように、たった一人から言われたことが原因で自分を恥じるようになります。
しかし、しだいにその出来事やそこで決心したことは忘れさられ無意識的になってしまい、ただ「私は恥ずかしい存在なのだから、隠しておこう」とか、「人よりも努力して頑張らないとだめなんだ」という思いだけがこころのなかで意識され、それはとてもまっとうに感じられるのです。
あるがままの自分を受けいれることができていないので、まるでラットが踏み車をこぎつづけるように忙しく努力しつづけます。それは、「私は恥ずかしい存在だ」という信念がいすわっているからなのです。
ちょっとしたイジメをまにうけてしまい、「自分はダメだ」と決めつけてしまったことから、しなくていい努力をするようになってしまいます。そして、わけのわからない努力をすることで、ほんとうの自分から離れ、ダミーの自分をつくりだすことで、さらにダメな自分という思いを強めていきます。
しかし ・・・ほんとうはイジワルをしたほうこそが、問題あり!なのです。また、イジワルをしたことでさらにその子は問題を深めてしまっているのです。
イジメやイジワルがなぜ起こるかというと、「それをしないとやってられないよ〜!」と感じるからです。
自分が「足りていない」「価値がない」と感じているとき、
それをどのように埋めあわせてよいのかわからず、手っとりばやく「誰かを自分よりももっと足りなくする、価値をなくす」ことができれば勝手に自分の価値があがるのでは ・・・ と考えます。
つまり、「私がスゴくなるためには、全員ダメなやつになってくれ!」というわけです。そのために、人をおとしめて価値をなくすことをはじめます(これが、イジメやイジワルとよばれるものですが、もとはたんに劣等感からはじまります)。
短絡的に、自分以外を足りなくさえすれば自分は優越感を感じられるにちがいない、というメカニズムです。
でもこれをしてしまうと ・・・ 「私のためにバカになってください」と言いはなった人たちを仲間と呼ぶことはできず、結局は孤立して孤独に感じます。
また、人のことをこのように攻撃したという思いから、無意識のうちに罪悪感を感じ、自分を罰してつらいめにあわせるようになるために人生に困難が多くなります。
つまり、「足りてる」ことを実感したいがためにしたことによって、より孤独になり、助けがえられないために不足感は強まり、またいたいめにあうように感じることになるのです。
まわりを貶めて、自分が優越感を感じようとすると、結局はさらに大きくマイナスをつくってしまう、ということが起こります。
私が優越感を感じるために、あなたはダメ人間になってください。大丈夫、私があなたを貶めますから、あなたはすぐダメ人間になれますよ。
このセリフは人に向けられているように感じますが、イジワルをするその本人のこころのなかにあるものです。誰に対して効力を発揮するかといえば、「自分」のこころに対してだけなのです。
それはある意味、自分に対する呪いとなります。
自分のこころで思うことは、「自分が思っている」からこそ、自分へ呪いともなれば、自分への贈りものにもなります。
だから、自分に足りなさを感じるときに、人を貶めてしまえば、いっしょに自分も貶められます。自分の思いから自分を除外することはできません。だったら・・・
自分が引きあげられるために、人のなかにすばらしいところを見つけてそれを賞賛してあげることで、自分もいっしょに引きあげられる、このほうが賢いやり方なのです。
どんなときでも、自分の苦しみの原因は自分のこころにしかなく、自分の敵はまさに自分自身であり、自分の考えそのものなのです。
だから、なにかが足りていないと思うときには、人にマイナスをあたえることで救われようとしないで、逆にまわりのひとたちのなかに足りているところ、輝いてあふれているところをたくさん見つけてあげることです。
そうすることで、そのこころは「足りている」という思いでいっぱいになり、その思いは自分の目にするものすべてに影響を及ぼすので、「足りている」状態を目にすることができるようになります。
私たちは身体の健康のためには、あれを食べて、これを節制して・・・とこころを砕きますが、そんなことはささいなことにすぎません。
自分が「苦しまない」ためには、もっと大切なことがあります。それは、自分のこころの「思い」を守ることなのです。
「思い」が幸せであれば、それが自分を満たし、またそれが自分自身から広がって、自分の目にする満たされた世界をつくりだします。自分の身体も、その目にする世界にふくまれています。
不幸に感じるときには、いま起こっていることが問題というよりは、自分の思いじたいが危険なときです。自分の思いが自分に牙をむいているのです。
だから、いちばんやらなくちゃならないのは、こころの健康。自分の思いが健康であることです。健康であるということは、攻撃の思いがなく(自分を攻撃しないために)、愛と安らぎがあること(自分に愛をもち、安らかでいられるように)。
そのために、人や自分に対する攻撃的な気持ちに敏感になり、そのような気持ちを自分のこころからすぐに排除することが大切です。
目にする世界が自分のこころそのものであり、世界が自分であると気づきはじめると、攻撃的な思いをもつことが、自分で自分を斬りつけるようにいかにキケンであり、苦しい結果をもたらすことになるかがわかりはじめます。
どの思いも、まちがいなくそれを思う自分自身に影響せずにはいないのならば、自分自身のためにも、どんな思いでいつも満たされていたいのか ・・・ 自分の思いというものをもっと大切にする必要があります。
私たちは、世界という鏡を使ってしか自分を知ることができません。それならば、そこに何を見つづけるのか、醜さか美しさ、冷酷さか思いやりか、愛か怖れか ・・・ そしてそれこそが直接、自分というものの価値にかかわってくるです。
こどものときにまちがった概念を受けいれてしまったと気づいたら、落ちこむ必要はありません。
手放すためには、まずは気づくという段階が必要だからです(気づけない人の方が多いのです)。気づけたからこそ、手放せるということです。
幸いにもまちがいに気づいてしまったら、自分では取り除けないので、ハイヤーセルフに「この思いはもういらないものです」と差しだしてもって行ってもらいましょう。
それをどけてあげるだけで、OKです。本来のあなたの輝きは姿をあらわします。
それはなくなっていたのではなく、ただまちがったもので隠されていただけだったからです。
さあ! まちがいに気づいたら、お掃除☆ お掃除☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
先日、友人とお出かけしたとき、お人形の専門店があったのでちょっと立ち寄ってみました。
アンティークドールから世界中の珍しいお人形まで、ところ狭しとひしめきあう店内をながめていると、「ねえ、もう行こ、行こ!(汗)」と居心地の悪そうな友人。
「どうしたの?」と聞いてみると、こどものときから災いや呪いを引き起こす人形が出てくる本やホラー映画を見ていて、「人形 = 呪い」のイメージになっているご様子。
人形を可愛いと感じる人もいれば、キモチワルイと感じる人もあり ・・・ (でも、人形はただそこにいるだけです)。
このように、なにかに怖れを感じるとき、私たちは「それ」こそがコワイ原因なのだ!と考えますが ・・・ 「それ」がコワイのではありません。
「それ」に対する「解釈(意味)」こそがコワイのです。
私たちは、目にしている「それ」がコワイと信じて、「それ」を自分の視界からなくしてしまえば問題は解決すると信じます。 ・・・ しかし、「解釈」がコワイのであれば、その解釈は自分と一身同体です。
またふたたび他のモノゴトを使ってコワイ解釈が顔を出し、それを怖れることになるのは間違いありません。
対象である「それ」をどうにかしても、ほんとうはなにも解決してはいないのです。
実際、怖がりさんを見ていると、「想像力、ハンバないな〜」と感じます。
たったひとつの「あるがまま」を見たときに、平気で十個ぐらいのコワイでっちあげを紡ぎだすことができます(はたから見ているとよくわかります、天才的なほどです!)。
完全に自分オリジナルの解釈で、自分で自分を震えあがらせることに成功しているのです。
それはときに戦慄ともいえるような感情をも引き起こし、それに耐えられなくなると自分で自分を死にまで追いやってしまうことにも ・・・。
しかしどのような場合においても、自分を怖がらせることができるのは、自分以外にはありえません(自分の考えがなければ、じつは怖さは生まれてこないのです)。
自分の意味づけが限りなくホラーであるなら、存在するはずのないどのようなオカルトストーリーでも目にすることができます(すばらしいっ!)。
なぜなら「最初に意味ありき」で、それにぴったりとそった現実を目にすることになっているからです。
そして、自分の意味づけから生まれた世界を見て、さらにそれに意味づけをするので、自分のこころの誤想像でつくりだしたホラーストーリーから抜だせなくなります。
意味づけがコワイときというのは、妄想がふくらみすぎた結果であり、「たった今」の安全な現実をキョーフの「過去データ」やキョーフの「未来の予測」で塗りたくって安全が見えなくなってしまっています。
「たった今、この瞬間」のあるがままはまったく安全なのに(はい!いつでも、この瞬間のあるがままは誰にとってもまったく安全なのです)、自分の妄想のせいで怯えたり、あせったり、落ちこんだり、怒ったり、パニックになったりしています。
それはまぎれもなく、現実ではなく「自分のでっちあげ」がコワいのです。
こどもが風の音や壁のシミをお化けだと信じてコワがったように、間違って信じているものに囚われている証拠です。
大人になってからはいささか風やシミを怖がりはしませんが、今度はもうちょっと大人らしいことに想像力を逞しくしているだけなのです。
そういう方々は、「今」をあまり見ていません、自分のコワイ思いのみに集中しているのです。そこから目が離せなくなっています。
たったいま目にしてひとつの出来事(ありのまま)から、自分の妄想によって即座に物語がたちあがり、あっというまにドラマチックなストーリーが紡がれ、それを真実として信じているのです。まさに、偉大なストーリーテラーです。
しかし、そこにあるのはただ「それ」だけで、なんの意味もついていないただ「それ」だけです。
ストーリーをでっちあげるのには、ものすごい労力を使います。存在しないものを自分にも、人にも信じさせようとするのですから。とっても疲弊します。
冷静にものごとを観察してみると、自分を怯えさせることができるのはたったひとつの存在だけであるということです。
それは、自分自身。自分以外に自分を震えあがらせることができる存在はいません。つまり、自分の考え(解釈)こそが、災いの元凶。
私たちは、自分の考え(解釈)いかんによって、自分の住む世界を自分を愛してくれる仲間があふれる天国にもできれば、あるいは果てしない戦いがつづく地獄にもすることができます。
そのように、どちらも選ぶことができるはずなのに苦しい地獄行きチケットしか買わない私たちって ・・・ きっとマゾなの ・・・ ね!(汗)
目のまえにある「それ」がコワイと信じていたのにそうではなかったのであれば、なぜそれをコワイと判断したのかを探求する必要があります。つまり、原因の糾明です。
原因がわかれば、それが「ホントのことなのか?」冷静にみきわめることができます。まちがっているのであれば、ただ手放すことができます。
「それは、たった今の事実としてほんとうのことなのか?」 ・・・ 正直に検証してみます。
じつは、まだなにも起こっていないのに、過去のデータを被せて短絡的に結果を決めつけてしまっているのかもしれません。
妄想、でっちあげ、怖れ、過去のデータからの予測という解釈はとりはらって、きっちりきっぱりと「今、完全に事実であること」以外は取り去ります。(この段階で、けっこうなにも起きていなかったと気づくかもしれません。)
さらに、「自分はじつはわからないのだ」とわかるかもしれません。
「自分はじつはわからない」 ・・・ と気づいたら、オメデトウゴザイマス! ついに、高い意識(ハイヤーセルフ)に教えてもらうことができるポジションまでコマを進めることができました。
「私が意味を決めたいの!」といいはっているうちは、ハイヤーセルフは「どうぞ、そうしてくださいな」とやらせてくれます(それは、自分で自分の首をしめているのだ!と自分で気づく日まで・・・)。
せっせと意味づけをしようとする(価値判断しようとする)のは、ここがアブナイところだと信じていて、なんとか先制攻撃で勝ちを狙うためにしていることです。
でも、ここがまったく安全だとしたら、それをする必要がありません。
むしろ、コワイ意味づけをすることで、そういう世界をみざるとえなかったのかもしれません(これはまさに、麻薬中毒患者が妄想を見て、それを怖がることでもっとパニックになって暴れる ・・・ というのとよく似ています)。
妄想によるでっちあげの解釈こそがキケンであり、じつはなんの意味づけもしないあるがままの今は安全なのです。
あるがままの今を受けいれるというのは、なにも解釈を加えないこと(口をひらかないこと、コメントしないこと)。ただほっておくこと。
そして、もしあるがままの完全さが見えてこないのであれば、たったひとつするべきことは、ハイヤーセルフに一緒に見てもらうことです。
かならず、「あなたにとっても、まわりの人たちにとっても、贈りものがやってきているのですよ。よかったですね」と教えてくれるはずです。 ( ・◡・ )♫
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やめたほうがいいのに、やめられないこと、っていろいろあります。
やめられない理由は、ひとえにそれに「執着している」から。
それが自分に害をおよぼしていようとも ・・・ 意識的に、あるいは無意識的に、結局それが「好き」なのです。
そもそも、私たちは役に立たないと信じていることを絶対やりません。
なので、誰が何と言おうとも、こころはそれがどうしても必要だ!と信じているようです。必要なこととは、自分が生きのびるためには重要だと感じていることです。
たとえば ・・・ タコ。
キケンを感じると、タコは墨を吐きますが、敵のみならず自分もろとも墨のなか。結局、何も見えません。
もっとひどいのは、ミツバチ。攻撃したはずなのに、刺したらすぐに自分が死んでしまいます。
タコにしろ、ミツバチにしろ、その攻撃は自分もろともなのですが、それを自分、あるいは種を守る方法として採用しているわけです。
じつは、私たちも自分では気づかないうちに「これは、自分を守るためのサイコーの方法だ!」と信じて、かたくなにやりつづけていることがあります。
それは「攻撃的な思い」をもつこと。
たとえば ・・・
「このままで私の人生、大丈夫?」「あの人はなんでいつもあんなふる舞いをするのだろう?」「こんなことをするなんて、この人、おかしいのかも?」「昨日買ったブラウス、いまいちだったわ」「英会話教室に行きたいけど、私ついていけるかしら?」「今朝のコメンテーター、よくあんなこと言えるわね?」「デートの約束したけど、またドタキャンされる?」「この子、期末テスト大丈夫かしら?」「この店員、新人?何も知らないのね!」・・・などなど、
こころのなかで思ったり、あるいは面とむかってはっきり本人に告げる場合もあるでしょう。
これらは全部、攻撃の思いです。ときには自分に対して、ときには親しい人に対して、ときにはまったく知らない人に対して、愛にあふれていない考えをします。それが愛にあふれていないなら、もう攻撃です。
タコやミツバチと同様に、必要性を感じるからこそ何気で攻撃的な思いをもつのですが、それはなぜか?
攻撃するということの意味は、私ではなくて「相手こそが悪かった」、だから「私は正しい人」なのよ、と確認することです。
しかし ・・・ 正しい人だと感じる必要があったということは、そもそも自分が自分を間違っていると感じてたに違いないのですが ・・・(汗)。
タコと同様に、私たちの思いにも色がついていたら・・・いちばんビックリするのは自分かもしれません。
「え〜〜〜〜っ!!こんなにずっとわたしはスミを吐きつづけていたのね!」「スミは私を直撃してる!」「自分のスミで何もかも、真っ黒じゃない?!」と。自分の視界を闇にしていたのは自分であったと。
自分のスミにすっかり呑みこまれて、そのなかで何かが襲いかかってくる恐怖を感じ、やたらもがいていたかもしれません。
「や〜だ! 世の中、真っ暗闇だと信じていたけど ・・・ 私だったのね。私がスミを吐きつづけるから何も見えなくなって、コワイからやみくもに攻撃したくなっていたんだわ」と気づくかもしれません。
実際、怖がっていなかったら、まったく攻撃の必要はないのですね。
癒しをするときにしなければならないのは、新しい自分をもってきてくっつけることでも、新たに何かをこしらえることでもありません。
ただひたすら、自分にとって必要のないこと、役に立っていないことを「やめる」ということだけなのです。「やめる」こと以外には、何も必要がありません。
いかに、自分の思いで自分が苦しくなっていたのか(なぜなら、自分の思いを聞きつづけているのは自分ひとりしかいません)に気づいたら、自分の攻撃性にガクゼンとするかもしれません。
でも、大丈夫ですっ! みんなそんなものです。
それよりも、自分の吐いたスミで自分の視界を真っ黒にしていて、まったく何も正しく見えていなかったのだ! ということを正直に認めることこそが癒しのために大切な最初の一歩です。
あとは、自分の思いをなるべく意識するべくモニタリングして、いつハチのひと刺しをしているのか、スミを吐いているのか ・・・気づくこと。
例えば、チラリと毒づく、相手を申し訳ない気持ちにさせる、こころのなかで悪ものにする、批判してコテンパンにする、自分の世界から追いだしておはらい箱にする・・・ などなど、それをしているときにちゃんと意識することができるようになることです。
このひと刺しするような攻撃の思いは、じつは自分に対して毎回ひと刺ししています。
自分の思いに対して、真剣に聞き耳をたてて、つねに聞きつづけている存在は自分しかいません。
そして、それによって着実に自分が弱ってゆきます。つまり、罪悪感をためてゆきます。罪悪感をためると、自分で自分におしおきをするようになってしまいます。
じゃんじゃんスミを吐くことで闇の世界の住人になっていたのだ、と気づけたのなら、ただスミを吐くのをやめればいいだけです。
そうすれば、クリアな世界が見えます。クリアな世界を手にするために、タコは新しい自分をつくらなくっていいのです。スミを断念しましょう。
スミ吐きと縁を切った私たちは、「あれ?わたしってじつはキラキラ発光しているクラゲちゃんだったの? 海がキラキラして美いのは、じつは私の輝きだったのね〜」と気づくかもしれません。
私たちのこころは宇宙をふっとばすほどのフルパワーがあります。そして、24時間ノンストップで稼働中。
それほどのパワーがあるのなら、スミを吐いて(攻撃的な思いをもって)自分をコテンパンにするのか、それともただそれをやめて本来の自分の美しさに気づくのか、ふたつにひとつです。
まず、はじめの一歩は、「今」私はどんな思いをもっていたかしら?とチェックすることです。
かりに、愛以外のものに気づいてしまったとしても、「なんてことなの?邪悪な私」と責めてはいけません。
これも自分に対するさらなる攻撃の思いです。攻撃は外に向いても、内に向いても、自分に対して破壊的であることに変わりはありません。
ただ、この思いは光を放つ私自身には似つかわしくない = 似つかわしくないものは、そもそも私のものではない = 私のものではないのなら、それは手放すためのもの = そして、手放すための手っとりばやい方法は、高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いして、もって行ってもらうことです。
ハイヤーセルフは必ずこう言ってくれます。
「それはまさに、あなたのものではありませんでしたね。気づいてくれてよかったです」と。ハイヤーセルフは、私たちがいつガラクタを大切にしなくなるか、ずっと待っていてくれたのです。
でも、こどもが真っ黒ですり切れたクマのぬいぐるみでもそれを大切にしているときに取りあげないように、ハイヤーセルフも「もう、これは私に必要ないものです」と自己申告するまで、じっと待っていてくれるのです。
そして、「もういりません。もって行ってください」と、私たちが GOサインを出せば、いつでもよろこんでお掃除してくれるのです。
ひとつひとついらないものをもって行ってもらって、みんなでキラキラな発光クラゲになりましょう ˘⌣˘♡
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先日、テレビで新作アニメ映画「ペット2」の紹介をしていました。
主人公はマックスくんというワンちゃんで、そのマックスくんの吹き替えをしたバナナマンの設楽さんいわく、「アフレコをしていると、だんだんマックスが自分になっちゃうのね」と。
はいはい、たしかに。映画を夢中で観ているときも、登場人物になりきってしまいます。だから楽しいのですが。
設楽さんも画面のなかのマックスのセリフに同調し、感情移入するうちに、ワンちゃんとして画面のなかを走りまわり、さまざまな冒険をしたのです。
コレ、じつは私たち誰もが日常でふつ〜にやっていることとまったく変わりがありません。
たとえば私。
日々、「たかこさん」という登場人物をガン見しているうちに、完全に「たかこさん」が自分であるかのような気になってしまっています。
だから、「たかこさん」のストーリーにいちいち気をもんでしまうのです。
しかし、ほんとうはこの「たかこさん」をただ「見ている」だけです。ストーリーのなかのマックスくんと、ストーリーの外の設楽さんの関係と同じなのです。
すでに制作が終了し完成している「ペット2」のように、すでにこのストーリーは書かれて出来あがっており、セリフも選べません。お話全体はできあがちゃっているのですから。
で、「私」はそれを見ている立場だったはずなのですが、
ストーリーに興味をもち、登場人物に感情移入し、ガン見しているうちに ・・・ メリメリとそのストーリーのなかに入りこみ、登場人物のことを「これが自分だ!」と勘ちがいし ・・・ しまいには、ストーリーにホンロウされ、気をもんだり、アセったり、必死に努力するわけです(完成しているストーリーに努力は無用なのですが・・・)。
「見ていた」はずが、もう登場人物そのものです。
いくら自分がそこで何かをしているように見えても、じつは何ひとつできません。設楽さんがアニメの中のマックスをどうにもできないように、ただそれをそのまま受けいれるしかありません。
しかし、ほんとうはそこまでメリメリと画面の登場人物に入りこむ必要はなく、五歩ぐらいうしろにさがって、ただ見ているだけでよいのです。
私もついメリメリと「たかこさん」に入りこみすぎて、その結果、アセったり、動揺して、ストーリーをどうにかしよう!と頑張ってしまうことがあります。
そんなときには、「五歩うしろ!五歩うしろにさがって!それは自分じゃないよ!」と声をかけることになります(笑)
すると、画面から離れて客観的に見ることができます。
じゃあ、私は誰なの?って。
「ただ見ている存在」です。
登場人物もストーリーも、ただ「見られる」ためにあります。
見ていて、もしそのストーリーが気にいらなくて、葛藤や苦しみを感じるのであれば ・・・ それを却下し、破棄して、新たなストーリーに差しかえてもらう自由があるのです(ヤッタ〜〜〜!☆)
つまり、映画監督が「う〜ん!この部分はあまりよくないねぇ。主人公はもっと幸せでイキイキしてもらわなくっちゃ!」と感じれば、他のストーリと差しかえることができるのです。
ということは、そのお話のなかにいる登場人物であるアクターは自分ではなく、それを見ていて、指示をだすことができる映画監督こそが自分です。
こうして、すでに出来あがっている映画を見ながら、より幸せなストーリーに編集し直すことが、映画監督である私たちのお仕事であり、真の姿です。
監督が、メリメリとお話のなかに入りこんでしまったら客観性を失ってしまいます。変えられたはずなのに、変えるタイミングを失ってしまいます。
万が一、入りこんでしまったと感じたら、ただメリメリしてしまったことに気づいて、すみやかに自分のポジションに戻らねばなりません。「五歩うしろ!」です。「ただ見る!」ことです。
幸せなストーリーにするためには、ちゃんと見て、ちゃんと感じて、「幸せなストーリー」にそぐわないところを指摘できなくてはならないのです。
そのためには、痛いめにあって傷ついてるのに、「いや、これこそ価値あることだ!」と執着していたら変えることができなくなってしまいます。
修正するためには、ちゃんと見て、自分に正直でいること。そして、幸せなストーリーにするんだ!という意図をしっかりともつこと。
気に入らないポイントを見つけたら、映像(ストーリー)の編集担当であるハイヤーセルフに、削除をお願いします。
「ここは主人公が悲惨に見えるので、ハッピーな流れに変えてください。苦しみ、悲しみ、痛みは、この主人公にはふさわしくありません。それらを取り除いてください」とお願いすることができます。
すると、それを取り消して、別のハッピーなストーリーに差しかえてくれるのです。登場人物は幸せそうに変化します。
それは、おおらかで、喜びとともにほんとうの自分を表現し、もっとつながりあって、尊重しあって、大切にしあい、愛と平和と安らぎが感じられるストーリーに取り替えてくれるのです。
あるいは、登場人物や舞台装置、主人公自身のイメージも、すべてガラリと変わってしまうこともあるかもしれません。
そんなふうに映画監督のポジションから、ストーリーを五歩さがってながめ、編集人であるハイヤーセルフにも一緒に見てもらうようにします。
すると、だんだんそのお話のなかの登場人物とムダにシンクロすることで葛藤することがなくなってきます。心理的な距離が生まれてくるのです。
「たかこさん」からうしろにさがって、まるで他の人を見るように、慈しみと赦しの目で見られるようになってくるのです。
もちろん、そのストーリーのなかではいろいろな出来事が次々と起こります。けれども、「ん〜〜 ・・・ このストーリーはまったく見たいものじゃないな〜」と感じたら、ディレクターとして、即、却下することを申し出ることがでます。
そしてそれは、いつも必ず受けいれられます。なんせ、私たちはディレクターなのですから!エヘン!! ディレクターの指示は絶対です。
ただそれを「見ている人」になってゆく過程では、ちょっと不思議な感じがするかもしれません。(だって、自分だと思っていたモノから離れてゆくわけですから。)
自分がいままで自分だと思っていたものに、じつはどれだけ力いっぱい握りしめ、執着していたことか。そして、それはただ手をゆるめてあげるだけで、自分から遠のいてゆくのです。
着ぐるみスッポリ状態で、着ぐるみを着ていたことさえ忘れていたのですが、突然「あれ?脱げるの?!」「これ、私じゃなかったのね?!」みたいな。
それは、急に覆いがとれて丸裸になってしまったような、裸でポイっと外に放り出されたような ・・・ まったく隠れるところ、つかまるところがないような ・・・ アセリ、こころもとなさ、宇宙にひとりでぽっかりと浮かんでいるような、どこにも何にも頼れない感じ ・・・ 。
でも、絶対的に抱かれて安全なのです。
最初は「どうしよう!つかまるところがない!コワイ、コワイ!」「たいへんなことになった!」とあわててしまうかもしれません。
あるいは、「私って、自分だと思ってたあの人じゃなかったの?」という困惑と、どこにも属さない寂しさ ・・・。だって、もうあの人じゃないから誰でもないのです。名無しさんです。
けれども、解放感と真に自由な感覚と安堵感と、深い安らぎの感覚。何も自分にふれることができないゆるぎない感覚。なぜなら、画面と私は別になっちゃったから。
楽しくもあり ・・・ 少しも自分が懐かしくもあり・・・。
でも、あのときの自分が感じることができなかった安堵と解放が広がっています。まったくなにもつかまず、なににも縛られない、何ものでもない感覚が。そして、巻きこまれていない自由が ・・・。
何かアセることがあったなら、アタマにくることがあったなら ・・・
ドラマの登場人物からスルスルとうしろにさがって、ドラマの外にいるアフレコ役に、さらにただ「見ている人」であるディレクターへと、どんどん離れてみます。
そして、「幸せなストーリー」だけが見るべきものであるのなら、編集担当さん(ハイヤーセルフ)にどんどん指示を出しましょう。
「これは私の見たいものではありません。私は、完璧な幸せだけを望みます!それを見せてください」と。
編集担当さんは、いつもその指示を待っています! (*⁰▿⁰*)
PS すでにできあがっている映画を、登場人物の立場から変えようとするには多大な努力とエネルギーがいります。一見変わったように見えても、結局は不毛な努力に終わります。それは、その立場からは変えることができないから。
それよりも、ディレクターとして、それを外側から編集いたしましょう!with ハイヤーセルフ♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
よくテレビで「ゴミ屋敷」がとりあげられています。
ゴミ屋敷とは、家の中も外もゴミで溢れかえっている家。それらは家財道具のゴミというよりは、どこかから拾い集められ、どんどんためこまれたもの。
びっくりしてしまうのは、「誰が見てもゴミの山でしょ!」という惨状であっても、ゴミ屋敷の主は「ゴミ? ゴミなんてないよ。ぜんぶ大切なものなんだ」と言うのです ・・・ (汗)。
もはや、何が自分にとって必要なものかわかっておらず、ゴミで自分の住む場所さえも奪われ、不潔になっていることに気づけません。
「あ〜あ!よくもまあ、あんな状態にしちゃたよね〜」とあきれて顔でコメントしてしまう私たちですが ・・・ みなさ〜〜んっ! 私たちもたいして変わりませんよ〜!(笑)
「えっっ?うちは、そんなゴミなどためこんでいませんよっ!(ὸ⍸ό)✧ 」って怒られそうですが ・・・ 家のことではなく、こころのなかのことです!
私たちはこころのなかに、どれほど自分のものではない思いや感情をためこんで、それを放さないでいることか?!
それは、自分で自分を傷つける思いや感情かもしれないし、あるいは過去に人から言われたことやされたことなのに、今でもそれにしがみついて大切に保存している自分に気づいていません。
それが意識の表面にあがってきて、気づこうものなら、
あわてて他のことに注意をそらせたり(何か刺激のあることをする ・・・ 飲酒、買い物、ゲーム、ワーカホリック、恋愛、ギャンブル、過食、人に干渉するなど)、あるいは再びこころのなかに押しこめて無視し、大丈夫な自分を演じたり・・・。
そのいやな思いや感情に直面してしまったら、怯え、取り乱し、怒りまくることになり ・・・ 自分でもどうしてよいのかわからなくなると信じているので、とにかく注意をそらすか、再びこころの奥に抑圧します。
しかし、感じていることは、すでに感じてしまっているので、いくら誤摩化そうとしても事実なわけです。
このいやな思考や感情を認めてしまったら、弱い人、価値がない人、怯えてる人、ダメな人であることがバれてしまうと思い、受け止められずにいます。だから、一生懸命拒絶し、隠します。
・・・ で、こころはゴミ屋敷化します。
いいのです! 受けとめて。 ・・・・ だって、しょせん、それは捨てるべきゴミだから。
でも、ゴミと自分が一体化していると捨てることができなくなります。なんせ、自分の一部なのですから、捨てることなどできません。
もし、これが自分じゃないなら ・・・ じゃあ、ホンモノの「自分」とは何でしょうか?
それは、「安らかな」状態。「幸せ」な状態のこと。
「幸せ」とは、何かをもつことでも、達成することでも、なることでもありません。それは、条件などなく、自分のあたりまえの状態のこと。自分であるからこそ、「安らかさ」「幸せ」は自分の当然の権利なのです。
今、こころが安らいでいて、解放されていて、静かで、満たされている ・・・それが、ゴミがない本来の自分のナチュラルな状態、ということなのです。
つまり、ゴミとサヨナラすると、これが自然と出てくるのであって、あえて作るだすものではないのです。達成するものでもないのです。手に入れるものでもないのです。
この「安らぎ」「幸せ」の状態にないとしたら、こころがゴミ屋敷化している、ということです。
こころのゴミ屋敷を掃除するには、「自分」とはそもそも何なのか、をはっきりと認識する必要があります。唯一達成することがあるとしたら、それはこころのゴミ捨てです!
自分ではないものに対して正直になり、自分がそれらを握りしめていたことに気づき、「これはいらない」ときっぱりと自分の意志で選別できるようになることです。
そのためには、自分であるものをちゃんと知っていなければならない、ということなのです。
自分ではないものに正直になることができたなら、あとは自分ではないものになっているときに、すぐさま「お掃除」態勢になり、お掃除を重ねてゆくだけです。
自分のこころの奥に埋めこまれたものは自分ではまったく気づくことができませんが、じつは人のなかにおいてよ〜〜〜く見えるようになります(無意識の投影)。
それもそのはず、世界は自分のこころの投影(反映)なので、いかに自分がこころのゴミの存在を認めていなくとも、それをそのまま外の世界へと映し出してくれるのです。
ゴミを放置していると、こころのゴミは増える一方なのに気づけず、とにかくやたらと人のなかの非は見える、という不都合が起こります。
そうなると、人に腹が立ち、疎ましくなり、結果として孤独になります。ゴミがたまってゆく症状とは、この孤独感なのです。つながれなくなります。
だから、自分のこころのゴミが映し出されるとき、「まったく、この人ったら?!(怒)」と裁いてしまうのか、 あるいは「外に見えているけれども、これは私です!だから、裁くのではなく、私自身を正します」と言えるのか、ここが運命の別れ道。
怒って裁いてしまうと、さらにゴミがふえます。自分を正しますと言えたなら、ゴミは一気に減り、また外に映しだされる画像も本来の自分を映し出すよういなり、平和を目にするようになる、という一石二鳥♪
エゴは「裁いたら、スッキリするよ。相手が悪い人になって、自分こそがいい人になれるよ」とそそのかします。
裁けば、そのときは気持ちがよいかもしれませんが、自分のゴミを清算する機会を逸したうえに、罪悪感というゴミをふやし、裁いたあとは必ずモヤモヤします。
すべてのことは、「受容」することで消えさってゆきます。終わりにすることができます。
そうであれば、こころをゴミ屋敷にしてまで自分ではないものをためこむことはやめて、ひとつひとつ「受容」という力で消し去って、サヨナラすることです。
そうすれば、ただほんとうの自分自身である安らぎ・平和・満たされた感覚が自然と出てこられるようになります。
受容とは、ただ感じていることに抵抗せずに、そのまま感じてあげること。ジャッジせずに受けとめてあげること。
しっかりと感じたら、キケン物処理班であるハイヤーセルフにそれを渡して、永久に廃棄をしてもらいます(取り除いてもらいます)。
そのためには、自分がどれだけズレているのか、ほんとうは安らぎがないのに大丈夫なふりをしていたのか、ということにひとつつづ気づくことです。
はじめは、「え〜〜〜☆ 私ってズレまくりじゃない!? やだ〜〜!(汗)」とショックを受けるかもしれません。
おめでとうございます! それでよいのです。そこがスタート地点です。
自分でないものに気づけてこそ、自分に戻ることができます。
どれだけ自分が安らかでなかったのか、安らかなふりをすることに必死になっていたのか、またそんな気持ちをさまざまなことで気をまぎらわそうとしていたのか、それが全然役に立っていなくて、それに対しても腹を立てていたのか ・・・・ そのことに気づけたら、ようやく本当の自分へと進むことができます。
どんなものに気づこうとも、結局、そんなものは本当の自分ではないからどうでもよいのです。
部屋のゴミを捨てるときも、どれがゴミかわからないとゴミ屋敷化してしまうように、まずは持ちたいものと持ちたくないものの区別を意識的につけられるようになる、ということが大切です。
今の私は、じつは私でないのかもしれない ・・・ならば、いったい私はどんな存在だっけ? 何が余計なのだろう? と正直になってみましょう。
それが、ほんとうに自分を解放してあげる第一歩となります。
余計なものに気づけたら、必要なものはもうそこに埋まっているからです。どけるだけでOKです。
自分のこころが完全なるゴミ屋敷であると堪忍してこそ、そこから完全な脱出がはかれるのですね。 (^^;; & (*⁰▿⁰*)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「夫はあれこれ指図や要求や文句が多い人なので、私はいつもイライラし、ケンカになり疲れてしまいます」とA子さん。
イライラしている状態は、とてもエネルギーを消耗します。そして、疲れていると感じるときはいつだって、何かが間違っているというアラームが鳴っているときです。
だからこそ気づかねばなりません。「私は(だんなさんではありません!)、何か間違ってしまっている!」、「 だってこんなに疲れて、本来のイキイキした自分ではなくなっているのだから」と。
疲労するということは、それだけ不自然な状態にいるのです。
私たちは自分がイライラしているとき、「こんなことをされたなら、誰だって腹を立ててあたりまえよね?!」「だから、この人こそを正されるべきだわ」と思いがちです。
しかし、「腹が立った」と感じているのは自分自身であり、「問題だ」と感じているのも自分なのです。 ・・・ だから、どこに問題があるかといったら、「問題だ!」と知覚して騒いでいる自分がまず問題というわけです。
だんなさんに、「なぜ私をイライライさせるのよ!」と言ったとしても、「いったい何のこと?」と言われるかもしれません。
私たちは、じつは自分のこころが「これはこういう意味なのだ」と決めたことに対して腹を立てています。自分のつけた意味にじたいに怒っているということです(自分で自分に怒っているのです)。
この場合では、「夫の態度は、私を攻撃している」という判断を下して、その自分の意味づけに対して腹が立ってしまっている ・・・ ということです。
でも、もしかすると、他の人がそのやりとりを見たら、「あれはぜんぜん攻撃じゃないじゃないよ? なぜ怒る必要があるの?」と言われるかもしれません。
では、なぜだんなさんの態度に対して、「攻撃」というレッテルを選んでしまったのでしょうか?なぜ「攻撃されている可哀想な私」と知覚する必要があったのでしょうか?
じつは、私たちは自分が日々慣れ親しんで重宝している手口(?)しか、自分で理解することができません。使っているからこそ、それと解るのです。
・・・ ということは、もしや?! A子さんの方こそが、「攻撃」という手口は自分の欲しいものを手にするために最高の方法であると信じていて、大切にしてきたのかもしれません。
自分がこっそりと使っている手口だからこそ、相手がそれを使ってやり返してこないかビクビクしている自分がいます。すると、攻撃でなくとも攻撃であると知覚して、早めに反撃しようとしてしまうのです。
つまり、相手が攻撃したかどうかよりも、自分こそが攻撃を大切にしているということになります。
攻撃を大切に思う → 攻撃しないとやられる → やられちゃった過去があると思っている → もう絶対やられないために先にやっちゃえと思っている → 何でも攻撃に見えちゃう、というわけです。
解決するためには、まず自分が腹を立てているときに、攻撃しかえしたい!という怒りの欲求があることに気づきます。そして、その原因を見ることで、それを取り除くことができます。
腹が立って攻撃するとき、私たちは「自分に足りない何かがある」という隠された欲求をもっていて、それ以上うばわれないために、またその欲求を今満たそうとするために怒ります。
その満たされていない欲求は、今や力づくでないと(攻撃というおどしがないと)満たしてもらえないと信じています。
だんなさんの態度に腹が立ったのなら、「私のほうが足りないのだから、あなたに与える余裕なんてないのよ」「あなたこそ与えなさいよ!」と怒っているのかもしれません。
そこにはもしかすると、自分の思いを無視されて聞いてもらえなかったこども時代があったのかもしれません。自分の正直な気持ちを尊重されずに、いつも否定されていた小さいこどもがまだ泣いているのかもしれません。
私のこころの叫びを誰も聞いてくれなかったのだから、私はあなたの要求なんて聞く耳をもたない!ということになります。
怒りのいちばん下にあるこころの叫びに気づいて、そこにある悲しみを感じてあげましょう。
怒りの原因は、いつも「泣きたいほどの悲しみ」であり「弱っている自分」なのです。
その気持ちの存在をしっかりと認めて、そこにある感情を感じたら、
ハイヤーセルフに差しだして、それをこころから取り去ってもらいましょう。そして、悲しみをベースとした怒りからではなく、ものごとを正しく見られるように助けてくださいとお願いします。
そして、だんなさんとの関係のなかで、何か言うべきこと、できることがあったらハイヤーセルフにアドバイスしてもらいましょう。
ハイヤーセルフに尋ねてからとる言動であれば、怒りをふくむことはなく、愛と思いやりからなされることになります。
何か言うにしても、まったく怒りをくっつける必要なないのです(怒りは、おどしなのですね。おどさなくちゃいけないと感じているときには、とても無力に感じています)。
もしかすると、だんなさんに「もう少し自分でできるようにしてみてね。」と優しく言ったり、だんなさんをほめながらできるようにしてしまうこともあるかもしれません。
いずれにしても、怒りでコントロールしようとする必要はないのです。
実際、怒ると、あとでかならず気分が悪くなります。ドヨヨ〜ンと重苦しくなります。
こころのどこかでは知っているのです。どんなときでも相手を攻撃することは傷つけようとすることだと。だから、罪悪感を感じて憂鬱な気分になるのです。
あからさまな攻撃のみならず、攻撃には相手に対するぷちイラっとから、なにげで見下すことまで含むのですが、これをつづけてゆくとこころは知らぬまに病んでゆきます。
晴ればれとした気持ちがだんだんと感じられなくなります。
だからこそ、自分を大切にするためにも、自分のエゴの動きに敏感になって、攻撃の思いは自分のこころのなかで原因を見つけて、さっさと手放す必要があるのです。
A子さん、攻撃の下にある気持ちを感じてハイヤーセルフに渡して、エゴから解放されてしまいましょう。それは本当の自分ではないから。本当の自分のために、取り除いてもらいましょう。
そして、あるがままにだんなさんを見てみましょう。
あれ? 攻撃だと感じていたけど、甘えていただけじゃない? とか、
ああ、この人、こういうパターンでしかコミュニケーションしかとれないのね! そっか、ただコミュニケーションをとりたかったの?! とか、
文句が多いと思っていたけど、自分のことばかり主張する三歳児のように見えて、可愛く思えてくる! とか,
あるいは、何を言われても、ぜんぜんどうでもよくなっちゃった! とか、
きっと、ハイヤーセルフとともに見ると、違った見方ができるようになり、わざわざ自分をも傷つける攻撃という武器を出してくる必要はなくなることでしょう。
そして、なによりも、本来のA子さんの優しさのなかで安らいでいる自分を感じることができることでしょう♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q:「なかなか問題からぬけだせず、悪循環ですっかりヘコんでいます。どうしたらいいでしょうか?」
A: 問題解決に必要なことは、「問題を問題としてちゃんと認識している」ことと、「もうやめにしたい!という明確な意志をもつ」ことです。
悩んでいても、ただ悩みつづけて解決できることを忘れていることもあるのです。
また、意外なことに「ほんとうにヤメにしたい」と思ってなかったりもします。悩んでいる自分になじみすぎて、ふつうになってしまっているのですね。
だから、「私はこんな状態は好きではない(こんな状態はほんとうの私ではないから)」、「もう、キッパリとやめる!(こっそりと被害者になるのはたくさん!)」と、まず決心することです。
問題が目のまえにあるとき、私たちはどうしてもその問題にこころを奪われて、それをガン見してしまっています。
つまり、「わあ!問題だ!問題だ!どうしよう?」「これ、どうする、どうする?」「ああだ、こうだ!あれして、これして!」・・・。これこそ、問題のガン見状態です。
そして、それをどうにかしようと、あれこれと奔走してしまいがちです。
しかし、思い出さなくてはならないのは、私たちは「ジッと注意を注いでいるものを育ててしまう」ということです。ガン見していると、その問題に注意という肥料をたっぷりとやることになり、よりリアルにクリアに元気よく育ててしまうことになります。
また、それをどうにかしようとあれこれ走りまわってしまうのも、「それは自分の外側から自分に襲いかかっているのだから、自分の外側の何かで対処すべき。自分ひとりではできないから、そのお道具がいろいろ必要だ」と信じてしまい、外を探して走りまわることになります。
それは、自分のなかにすでにある解決する力(答え)を失ってしまうことになるのです。
私たちはつねに、自分のこころが求めているものしか見ることができません。
不安や恐ればかりが目にうつるとすれば、不安や恐れを見ることにこころがロックオンされてしまっているということです。不安と恐れに、しっかりと照準があってしまっているのです。
まずは、それを解除しなければなりません。
そこで忘れてはならないのは、「答えはすでに与えられていて、自分はすでに助けられている(完了型)」ということに気づくことです。
「助けて!」と助けを求めるまえに、それはもうやってきていて救出されているのです。だから、安心してよいのです。
しかし、問題がある!と信じているこころは、信じたもの(問題)だけを見つけるので、答えに気づくことができません。答えどころか、問題を増幅しつづけます。
まずは、「答えは与えられてる!」ということを信頼して、それを受けいれるためにこころを開こうとすることが必要です。
答えにこころを開くとは、恐れや不安にロックオンされているこころを解除するべく、安らぎのなかに静かにとどまることです。
*** 静かに目を閉じて、ゆっくりと深い呼吸をします。
意識のなかで自分という個人は五歩ぐらい後ろにさがります。
そこに存在する無限のスペースのなかに溶けこんでしまいましょう。
個人でななく、ただ気づきだけがあります。
そして、過去も未来も手放してしまいます。
「私は何も知らない」とつぶやくと、いらないものは去ってゆきます。
(一時的な記憶喪失の状態です。)
すると、自分というよりも「気づいている広がり」になります。
誰なのか、何なのか、どこなのか ・・・ もうわかりません。
時間のないそのスペースに恐れは入ってくることができません。
(恐れは、過去と未来をベースとしています。)
この無限のスペースのなかで、力をぬいて、
ただ広がって、安らいで ・・・
安全に抱かれて、守られて、愛されていることを感じます。
しばらく安全で平和でここちよい時間を過ごします。
・・・・
こちらに戻ってくるときには、
安らぎの光と守られているという感謝のうちに戻ってきましょう。***
このスペースにひたる時間こそが、答えを受けいれますという態度であり、スペースそのものです。
ここに叡智が、すべての必要なことが入ってきます(そう!私がいなくなれば、神ややってくるのでした!)。
そのとき、「自分の考え」は手放して、「どのような答えでも受けいれよう」という気持ちになってみましょう(「こうであるべき」という決めつけにより制限がかかり、答えがわからなくなっている場合もあります)。
身体の弱いところに病気が現れてくるように、私たちも自分のウィークポイント(癒さなくてなならない信念をもっているところ)に問題があらわれてきます。
ウィークポイントの癒しとは ・・・ 恋人やパートナーに依存してしまうのなら、自分はそんなに弱くないということを知る必要があるのかもしれません。仕事の成功に執着してしまうのなら、無意識のうちに自分に何かハクをつけなくては不十分だと感じているのかもしれません。癒すことで、それが手に入らなくなるのではなく、「ないとだめ」という切羽詰まった気持ちがなくなり、より手に入りやすくなるのです。
それは、問題というものをとおして、それを癒して手放して、終わりにしてしまいましょう!というお誘いなのです
恐れや心配でいっぱいになるのではなく、「そうだ!もう助けられているのなら怖がらなくていいんだ」気づき、何の問題も存在しないスペースに寛ぐことで答えとつながることができます。
すると、問題はその穏やかさのなかで自ずと解決にみちびかれたり、ただ姿を消してしまうことで、問題は答えられていたのだ!ということを教えてもらうことができます(行ってゆくと、経験でそれを教えてもらえます)。
そして、自分のいちばんの問題点であったポイントも癒しを行ってもらうことができるのです。
まずは、「答えはきている!受けとろう!」とリラックスすることからはじめましょう。大丈夫、すでに守られています♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q: 「ここのところ、いやな気持ちを感じて落ちこみます」
A: 落ちこみ、怒り、恐れ、どよよ〜〜んとしたやる気のなさなど ・・・ 感情というものはどれも、自分よりもずっと威力があるように感じ、ついついのみこまれがちです。
強い感情が出てくると、私たちはもうそれ以上なにもできず・・・ 降参だわ ・・・ と、すぐさま白旗を掲げ、のっとられるままになってしまいます。
とくに強烈な感情である恐れに出くわすと、もう手も足も出せないどころか、固まって動けなくなってしまうこともあります。
いずれにしても、自分ではない感情に支配され、安らぎどころではありません。
なんとかその「気持ち」から逃れねば!と試みるのですが ・・・ その「気持ち」から逃れるのと、その「原因」から逃れるのは、じつはまったく違うことなのです。
気持ちから逃れることに成功しても、それはかえって問題を悪化させることになりかねません。なぜなら、逃げなければならないほど、それはすごいヤツであるとシッポをまいてしまったからです。
それは再びおっかけてきて、囚われてしまうのがオチです。
感情とは「問題」そのものではなく、何かの結果として浮かびあがってくるものです。それはある意味、副作用的なものであって、原因とは関係がありません。
副作用にあれこれしても、癒すことができないのと同じです。その感情はまたぶりかえします。
副作用である感情にあれこれするとは ・・・
いやな気持ちを感じているときに、それに抵抗して気分を変えようとしたり、忘れようと抑圧したり、どうにかなだめようとしたり、自分の間違った考えで正当化しようとしたりすることです。
しかし、いやな気持ち自体は結果なので、「なぜいやな気持ちになったのか」というその根本原因をしっかりと認識する必要があります。
「なぜこんなふうに感じているのか?」・・・ とことん、自分自身の本音に向きあう必要があります(エゴは、うまく自己正当化をはかり、誰かか間違っているからこう感じてあたりまえと主張してくるからです)。
いやな気持ちの根底にある考えを見つけたら、それはいったい本当のことなのか、じつは自分の役に立っていないのではないか、本当のことでないならそれを信じつづけることにメリットがあるのか ・・・ それらをしっかりと見きわめる必要があります。
そうすれば、その考えは自分に役立つどころか、じつはこころを混乱させて葛藤をつくりだし、自分本来の力を弱めている、まさに苦しみの原因であったと気づくからです。
現在の状態に腹が立ってしまうとき、たいていこんな思いがあります。
「こんなのはいやだ!」「我慢できないし、許せない」「私の思いどおりになるべきだ」「そのためには、思いどおりに現状を変えるべきだ」「自分の思いどおりになるためには、誰かが犠牲を払うべきだ(その人がガマンするべきだ)」「それは私のために当然なのだ」と信じています。
しかし、「こんなのはいやだ!」といいはるとき、じつは「私がすべてをコントロールする存在になりたい」「すべては私に従うべきだ」「すべてが思いどおりになって当然」というエゴという全体から分離した「私」がそこに君臨していて、自分以外の「すべて」は私に仕えるべきお道具にすぎないという思いこみがあります。
これがエゴが信じている世界観です。(・・・けれど、恐れてさえいなければ、すべてを自分に仕えさせようとはしないのですね。)
自分が君臨してすべてを仕えさせようとすれば、決して幸せにはなりえません。すべては仕えるために存在しているお道具、あるいは使用人になってしまい、対等に愛をわかちあう存在でなないからです。
そしてまた、思いどおりになる余地もありません。
「思いどおりにしたい!」と思っているときには、目にしている全体は自分の意識のあらわれである、ということをすっかりと忘れています。自分にケンカを売っても仕方がないのです。自分のシッポに自分で噛みついて、自分に腹を立てる・・・ という不毛な状態が起こります。
また、すべてをコントロールしようと躍起になることのなかには、すでに答えはある!という信頼が育ちません。
私こそが「何がいちばんよくて、どうしたらよいかわかっている」「そんなわけのわからない答えなどいらない」と言いはって、宇宙の完璧さを退けて、あくまで自分のやり方をとうそうと頑張ります。
でもそんなダダをこねている存在もほんとうの自分ではなく、たんに間違った思いがわめきらしているにすぎません。
本当はそれに気づいて却下すればよいのです。そんな(エゴである)思いの存在にあわてる必要もありません。
しかし、これがほんとうの自分だと信じてしまうと、自分のなかが分裂して(答えを受けとりたい自分とそれに抵抗する自分)しまい、失敗した感覚や、どうにもできない無力感を感じるようになります。
これこそが、エゴの目指していることなのです。
そこにはまらないようにするには、いやな気分はたんなる「お掃除の必要のサイン」と心得て、その気分の下にある思いを見つけて真偽を正すことで終わりにしることです。
間違った思いに気づいたら、その間違いに気づかせてくれてありがとう!と感謝しながら、すぐにハイヤーセルフに差し出して、もっていってもらいましょう。
いやな気分とは、たんに自分を苦しめる何かを信じていて、それは捨てたほうがよいですよというアラームのようなものです。
いやな気分と格闘してくじけてしまうよりは、まずは落ち着いて、「なぜ、そう感じるのか」を見つめて、手放しましょう。
癒しとは ・・・ 鉛筆で真っ黒に落書きしてしまった画用紙を、「気づくことハイヤーセルフに委ねること」という消しゴムでひとつづつ落書きを消し去って、もとの白い画用紙に戻してあげるようなものです。
白くなったらおしまいです。でも、黒い鉛筆が残っているあいだは、あれこれ言わずにせっせと消す作業が必要です。
どうもこの「消す」という作業には、「あれ〜!このあいだ処理したのに、また〜!? 失敗しちゃったの?」とか「こんなものがあっていいはずがないのに!」という失敗感、罪悪感がともなうようです。
画用紙は黒くなっちゃったのだから、もうあきらめましょう。黒いもの(問題)を見つけたら消せばよいのです。
これをするためには、めげずに、明るく楽しく、「あ〜ら!またイイモノをみつけちゃったわ!消えてもらうわよ」ぐらいに気軽に、素直に認識して、ハイヤーセルフに差し出して、永久に取り去ってもらうことだけです。
それをつらくやることもできるし、軽く楽しくやってもかまわないのですね〜☆☆☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
今の起きている状況に対して、唯一言えることは ・・・
「これがどうなるのか見ていてみようっと? (ワクワク・・・)」
このひとことだけです。それ以外はありません。
ワクワクするってことは、今の自分にはまだわからないけれど、かならず私が思っている以上によいことになるに違いないという確信があります。
これに対して・・・
「え〜〜〜!!(汗)ただ見てるだけですか?! こんなに不安でしょうがないのに?! 観察しているだけ?!」と言いたくなるときには、
状況そのものに動揺しているというよりは、その「不安」な感情にそのものに動揺していて、静かにじっと見ているべきところでそれができないという、その「不安」こそが真の問題なのです。
なぜなら、「不安」でなかったら、そのままほっておけるし、見ていられるからです。
その「不安」があるからこそ、状況に対して「ひどいことになるに違いない」と確信がもてなくなってしまうのです。
ほんとうのところ、この「不安」は今にはじまったことではなく、またこの状況ともなんら関係がありません。「不安」は、この状況のせいなどではないのです。
その昔、受け入れがたく感じた感情があり、自分のこころのどこかに押し込んで無きものにしてしまった感情 ・・・ それが今や腐敗して匂っている、その悪臭こそが自分に襲いかかってくる「不安」そのものです。
だったら、押し入れのどこかにむりやり押し込んで無きものにした「それ」をちゃんと引っぱり出して、捨ててしまわなければなりません。
そのためには、その感情に対して「不安」というレッテルさえもはらずに、ただそのまま受け入れて、感じてあげることが必要です。感じたものは消滅します。
押し入れから引っぱり出して、それを直視してしまうとき、その悪臭に圧倒されるかもしれません。しかし、ひるんではいけません(お片づけするときには、ゴミに直面してしまうことは仕方がないことなのです)。
こんなものを隠しもっているがゆえに、目にするもの、知覚するすべてが「悪臭(不安)」に染まってしまうだけだからです。
これをちゃんと出して、消滅させてあげると、状況が「不安」という悪臭に包みこまれることがなくなるので、ニュートラルな出来事としておびやかされることなく受けとめることができます。
もう腐敗しきっているときにはじゃんじゃん悪臭がきてしまうので、そうなると不安で不安でしょうがない ・・・ 。だからこそ、そこから逃げてはいけないし、目をそむけてはいけないのです。ちゃんと向きあって、捨てなければならない、ということに気づかなければなりません。
そうなったら、イヤな気持ちに直面するやいなや、もうお片づけしかありません。
ただし、お片づけには防護服着用が義務づけられています。はい、悪い菌に感染するといけませんからね。
なので、ハイヤーセルフという防護服でしっかりと守ってもらいましょう。そして、その滅菌パワーとともに、悪臭と化した感情にどっぷりとつかり(無条件に受けとめ)、ハイヤーセルフの光の中で消滅させてしまいましょう。
そうすると、「これがどうなるのか見ていてみようっと?」というセリフも、不安をかきたてるものではなく、自分にとってのヨイこと、最善を待っているような、明るいオープンな気持ちで言うことができるようになるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q: なんか最近、イヤな夢を見るようになったのですが・・・?(汗)
A: たびたびこんなご質問をうけます。とくに、セラピーが一段落してから、あるいはセラピーの期間中に。
イヤな夢といってもそれはけっこう強烈で、「人を殺してしまいました」みたいな。
そこで私は、「大丈夫ですよ〜!私も殺りましたから♪」とお答えすると仰天されます(笑)。
それはけっこうリアルな夢で、目覚めてからも夢と現実のハザマから抜けだせず、しばしボウゼンとしていましたっけ(汗)。それだけ鮮明だったのです。
バチカンのサン ピエトロ寺院に「開かずの扉」というのがあるのですが・・・
それは25年に一度しか開かない扉です。こどもの頃、その扉を開ける儀式をテレビで見ていたのを覚えています。
お子ちゃまにとっての25年はとてつもなく長く感じるので、「とってもすごい扉を開けているのだ」とそのなりゆきにをドキドキしながら見守っていました。
25年ももったいぶって、いったい何を隠しているのだろう? 扉もキラキラだけど、その向こうはよほどスゴいんだろうな〜? キリストが坐っていたりして?! ・・・と扉の向こうの光景に胸をふくらませて・・・。しかし・・・
そのそびえ立つ大きな扉は計算どおりに開かなくて、法王がハンマーなどでたたいたりして、かなり難航したあげくようやく少し開いた!と思ったら、上からドドっと土砂のようになにかがふり注いできたのです。
扉は漆喰で固めていたらしく、その破片かもしれないし、あるいは25年間のすすやホコリの塊かもしれません。予想外のドドっと襲いかかって舞い上がるものに私も固唾を飲みました。
これなのですよっ!! 私たちがこころを癒しはじめると出くわすのは。
私たちの「ほんとうの自分」「真のちから」「楽園」も、開かずの扉の向こうにしっかりと守られているのです。
それは25年どころではなく、どれだけ輪廻をくりかえして、「今度こそ開けてやるんだ!」と固く決意をしながらやってきても、それは叶えられぬままです。
なぜなら、目のまえのあれこれにかかずらっているうちに、扉を開けるんだった!という目的をすっぽり忘れてしまうから。
大掃除をしていて、何か懐かしいもの、珍しものに出くわして、それに気をとられいるうちにお掃除をすっかり忘れて遊びほうけちゃう感じ。
また、それだけ大切な「ホンモノ」、「楽園」を守る扉は、そうそうたやすく手が届くようにはできていないのです。しっかりと、がっちりと守られています。
でも、今回、ようやく! ついに! めでたく! こころの開かずの扉に手をかけて、ナント! くさびを打ちこんでしまったのです。それゆえに、扉はきしみはじめました。
そうしたら、封印のための漆喰やら、永年のちりにホコリに、さらにコウモリやらネズミやら、わけのわからないゲジゲジ虫も、あれもこれも ・・・いっせいに飛び出してきちゃったというわけです。
それがこの悪夢の正体。
「真の自分」「自分の楽園」を守ってきたこころの扉、いままで一度も開けたことのない扉がきしんで、開きそうになっている証拠なのです。
でも、人はここで思うのです。こんないやな気もちになるのは、きっと何かが間違っているにちがいない ・・・ と。
これこそがエゴの罠です。怖れや疑い、狂気の感覚を使って、ぜったいにこの扉に触れないようにたくらんでいるのです。ほんとうは、めちゃくちゃうまくいっていること、牙城が崩されそうだ、ということを必死で誤摩化したいのです。
なぜなら、ほんとうの自分を見つけてしまったら、幸せな自分になってしまったら、エゴは一巻の終わりです。消えてしまうしかないのです。だから絶対見つけてほしくないのです。
そのため、エゴはその「真の自分」「楽園」を、「恐怖」や「悪夢」でラッピングしちゃったのです。そうすれば、誰もそれに近づいてこられないからです。
でも、セラピーをはじめると、「恐怖」などの怖れの感情をそのまま受けとめて無防備に感じる練習をします。そして、とても上手になってしまいます。
ということは、この宝ものを包んでいる恐怖というラッピングに直面しはじめるわけです。それをどんどんほどきながら。
だから、夢のなかで怖れに出会うのは、抑圧して見ないようにしていた怖れにようやく直面できるようになったということであり、むしろ、正しいプロセスの道しるべとも言えます。
そのまま突き進みましょう。恐れを玉砕しましょう。バチカンの扉のように、その向こうにこそお宝があります。
ちょっとキツく感じるときには、ハイヤーセルフにお願いして、すこし歩みをゆっくりにしてもらうこともできます。「もう少しお手やわらかに」とお願いしてみてください。
けれども、いずれ、どこかの人生のなかで、かならず向きあうことになるシロモノです、その怖れは。今生でやるのか、それとも次に持ちこすのか。
でも、なぜコワいのかという理由がわかっていれば、そんな怖さも笑えたりするものです。
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Q: ポジティブシンキングの本を読みました。日々、ポジティブシンキングに精をだすことがいちばん大切なことなのでしょうか? ちょっと疑問に思うこともあります。
A: もちろん、前むきなこころで、人や出来事のよい面を見ようとこころがけることは大切なことです。
しかし、ポジティブシンキングだけでは根本的な解決にはならないのですね。
疑問に思われているのは、きっとこのようなことかもしれません。
真のポジティブさは、努力や自分に言いきかせることで達成されるものではないからです。もし、言いきかせなければヨイ状態になれないとしたら、ほんとうはいったい何を信じちゃっているのでしょう? そのほうが問題ですよ。
また、真のポジティブさは、ポジティブ・ネガティブといったワクをこえた安心感・安らぎの感覚であり、ポジティブ・ネガティブという二つを行ったり来たりするところには存在しないものなのです。
たとえば、ゴミでいっぱいの部屋があったとします。
「わあ!汚いなぁ」と感じてしまったので、その気持ちに抵抗して「ここは気持ちがいいんだ!」「なんて快適なんだ!」と自分に言いきかせて気持ちを変えようとする。これがポジティブシンキングです。
でも、すでに「汚い」と感じちゃったわけですから、それをいくら他の気持ちに変えようとしても、こころはその不正直さに抵抗してしまいます。
ネガティブでなかったらポジティブにする必要もないので、ポジティブシンキングはすでに「感じてしまったこと」に動揺して、あわてて何かほかのものに塗り替えようとあせっている感じです。都合のわるいことはスルーして誤摩化しちゃう感じです。
これをしてしまうと、こころがホントとウソに分裂してしまうのです。そして、自分でも何がほんとうかわからなくなってしまいます。
「この部屋はゴミでいっぱいだわ。そして、私は不潔だと感じている。たしかに不潔で、これは私の望む状態ではない」、これが今の自分が実際に感じている気持ちであり、それは自分がほんとうに感じたいこととは違ってしまっているのだ、と素直に認めることが必要なのです。
たしかに、「自分のこころを変えれば目にする世界も変わる」のですが ・・・ この場合、すでに「汚い、不快、いやだ」と感じてしまっているので、この原因をどうにかしないかぎりポジティブシンキングはつけ焼き刃となり、遅かれ早かれ同じ状態に舞い戻ってしまいます。そして、それをくりかえします。
まず、「好きでない」と感じているのだから、それを認めて、「好きでない」原因こそを取りのぞかなければならないのです。つまり、「ゴミを捨てればよいのだわ!」ということです。
それを「ゴミなど存在しない!ここは気持ちがいいのだ!」とポジティブに言いいきかせてもゴミは消滅してくれません。まずは、正直に不具合を認識し正すことです。
そして、いったんゴミを捨ててしまったら、無理やりポジティブになって自分になにかを信じこませる必要はなく、ただきれいな部屋があらわれるわけです。そこでくつろげばいいだけです。
無理に存在しない状態を信じこませることはしません。
こころの場合もお部屋と同じことをすればよいだけです。
自分にポジティブな何かを信じこませて、あたかもそれが真実であるかのようにするのではなく、
* 今の状態がたしかに好きではない、幸せではないことを正直に認めます。
(あんがい、これができないことが多いのです。「幸せでないことはないです」「幸せですよ、まあまあ・・・」。しかし、完全に幸せか完全に不幸せか、この二つのチョイスしかありません。そして、幸せだったら、ポジティブシンキングはそもそもいらないのです。)
** 「ああ、ホントは幸せじゃなかったんだな〜」と認めることができたら、
じっと静かにして、そこにある落ち着かない気持ち、あるい怖れ、欲求不満、孤独などの感情が存在していたことに気づいてみます。それらのこころのゴミをずっと拒否して見ないように抵抗していたことに気づきます。直面していなかったのです。
(幸せだ!と言いはっているあいだは、正直にゴミを見つけることができないのです。)
*** その感じから逃げることなく、それをあるがままに受けとめて感じてみましょう。
**** しっかりと感じたら、そのすべてをハイヤーセルフに渡してしまいましょう。「これは、私が感じたいものではないし、私のもっていたいものでもありません」と。そして、「私のほんとうの気持ちを感じさせてください」とお願いします。(今までは、感じたくないものに抵抗することに忙しく、ほんとうの気持ちは感じたことがなかったかもしれません。)
これが、こころのお部屋のお掃除のプロセスです。完全にきれいになることを目指して、地道な、そしてこまめなお掃除が必要になります。
ポジティブシンキングで誤摩化すよりは、お掃除すべきポイントを正直に気づけるように「あるがままの気持ち」を隠さないようにしなくてはなりません。(私たちは思考でいっぱいにしたり、忙しい活動で誤摩化すことで、そこにある手放すべき感情に気づけなくなっています。)
こころというお部屋がきれいであれば、ただそれでよいのです。ポジティブシンキングというお飾りはいりません。
その空間には、よき風が吹きこみ、優しい光が差しこみ、その空間本来のもつ安らかさを感じることができるでしょう♡
さあさあ、お掃除♪ お掃除♪
PS お掃除の最初には、わけのわからない生き物、(その締め切ったお部屋に勝手に棲息していた)ゲジゲジやらナゾの生き物が飛だしてきてびっくりさせられるかもしれません。大丈夫です。ゲジゲジさんたちの方がびっくりして去っていっただけですから。お掃除をつづけましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q: 問題にはまってこころが動揺しているとき、なにをしたらよいでしょうか?
A: ただ、じっと「しりぞく」ことがオススメです。
「しりぞく」って、なんだかシッポを丸めて退散しているみたいで敗北感いっぱいな感じ?(笑)
「しりぞく」とは、いったん流れをリセットするために大切なことなのです。
問題に直面したときに私たちがやりがちなのは、あれこれ動きまわること。その状況を変えるために、せっせと外側をコントロールしようとします。
なにかに働きかけたり、誰かに指図したり、不満を言ったり、何かを手に入れようとしたり、ある行動を起こしたり・・・。
じつは、この外側にむかってあれこれすることが、問題を解消せずにキープしておくためのエゴの戦略です。
なぜなら、外側をあれこれしても結局、思うようにいくことはないので挫折を感じ、それにより自分の非力さが強まり、より外側のなにかに依存するようになるからです。
なにかに頼れば頼るほど、自分は小さく非力になります。より怖れを感じるようになります。
エゴはすぐに、「ほらほら、自分でどうにかしないと、どんどんひどくなっちゃうよ!これを野放しにしておいていいのかい?」とけしかけてきます。「何か行動を起こしてこそ変えられるぞ!」と。
でも、これはまさしく「問題が存在していて、それは自分よりもパワーがある」ということを受けいれたことであり、「問題が問題として認められ、注意を注いで大切にしている」状態なので、問題を維持する力を与えてしまうのです。
問題はすでにハイヤーセルフによって解決されています!!ジャジャーン☆☆(・・・ ってことはなにもする必要がないってことです!)
でも、「問題を重要視」することで、「問題がある」ことをリアルにして、解決を受けとる態勢ではなくなってしまうのです。そして、問題との格闘にむかわされます。
私たちは何でもあると思えば「見ること」ができる力があります。自分があると思っているもののみを見ます。
だから問題が見えるときでさえも、いったん落ち着きます。そして、「これは私が間違っていたにちがいない」と認めて、「すでに解決がある!」という方にすぐこころを向けなければせっかくの解決をのがしてしまいます。
ハイヤーセルフがそこにおいておいてくれた解決を受けとるために、いったん動揺をおさめて静まる必要があります。それが「しりぞく」ということ、答えを受けとろうとする姿勢です。
そのためには、問題があることに気づいたら、「ガン見しつづけないで、すぐに解決があることに気づいて、問題はスルーして、正しい方向をむく」ということなのです。
「私が見ているのは、そこにはないもの、すでに取り消されているもの」と気づいて、反応しまくるのをやめます。そして、すぐにハイヤーセルフの方をむいて、
「ないはずのものを見ている私の知覚を訂正してください」とお願いします。
必要なのはこれだけです。あとは問題にエネルギーを注がないことで、それがただ消え去ってゆくにまかせます(抵抗さえしなければ、それは去り、贈りものがあらわれます)。
そして、ハイヤーセルフがそこに置いておいた解決を受けとります。
もし、なにか実際の行動が必要なときには、この段階でしっかりと教えられます。
見えているものはこころのイメージなので、こころを整える以上のことは必要としません。
怖れを信じていてこころに怖れがあれば、それがあらゆるバージョンの怖れのストーリーを紡ぎだします。こころが安らぎと愛に満たされていれば、それは安らかさと愛のストーリーを紡いでくれます。
自分でストーリー展開をつくりあげる必要はないのです。ただ「問題がある」と言いはる思いをどけてあげるだけでよいのです。
問題の解決 = 安らぎの状態なので、その状態にこころをチューニングすることが大切です。
こころはすぐに怖れにとらわれて、状況をいじくりまわすことに固執するからです。
でも、そこで感じている怖れとその問題は、ほんとうはまったくの別物です。怖れはそれに関するものではありません。
解決とは安らかなである状態なので、ただ静かにして、安心のなかにひたってみます。
そのときのイメージとしては、
*身体である自分が五歩ぐらい後ろにさがって、背景のなかに溶けこんで、自分が誰であるのかさえも忘れます。
**そして、そこにある光、安らぎ、穏やかさとひとつになって、広がりのなかでくつろぎます。
私たちはつねに、自分のなかにあるものを世界という鏡に映して見ています。身体からしりぞいて、安らかな広がりになって、その安らぎを世界に映し出しましょう。
「内側を整えて、外に映し出す」ことが、自分の世界に平和をもたらすいちばん早い方法なのです。
一日にたびたび、この安らかなスペースを訪れることで、その安らかさが外の世界にもたらされます。そして、そこに置かれていた贈りものに気づき、受けとることができるようにいなります。
その安らかさのうちに自分の身体さえも忘れさられて静かになったとき、世界も自分の安らかさのなかでやさしく静まります。
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Q: よく、「あるがまま」にものごとを見る、という言葉を耳にしますが、いまひとつピンときません。なにが「あるがまま」なのでしょうか?
A: 「あるがまま」に見ましょう!と言うとき、私たちはそれがまったくできていませんよ〜、という意味でもあります。
じゃあ、「あるがままに見ていない」私たちの日常の目線とはどのようなものなのでしょうか?
たとえば、テーブルのうえのカップ。それは、ただのそれ、「あるがまま」なのですが、
「あるがまま」がカップというものになるのは、過去に学んだたくさんの情報によります。
お母さんがそれにミルクを入れて「きょうから哺乳瓶でなくてカップにしましょうね」と言ったとか、絵本のなかにそれが描かれていて「カップ」と横に書いてあり、それでなにかを飲んでいる絵があったかもしれません。
すると、カップって液体を入れるんだ、端にくちをつけて飲むんだ、こうやって使うんだ ・・・ とさまざまことを学んでそれを理解したと感じます。
でも、それの正体は、ただそれです。まっさらなそれ、です。カップはあとからつけられたものです。そして、カップ自身はカップとしての運命からのがれられなくなってしまいました。
そんなふうに、すべての解釈は学ばれたものです。それはモノだけでなく、人に対する接し方やら、目に見えない相手のこころを推察することまで含めて・・・。
でも、この過去に学ばれた情報を毎度々々あてはめることで、じつはまったく同じパターンから出られなくなっているのです(カップの運命と同じです)。自分の知っている狭い世界にしか住めなくなってしまいます。ぜんぶ自分の限られた解釈によって、それらを制限してしまったからです。
過去に学んだことをあてはめつづけるということは、たった今起きているまったく新しいはじめての出来事も、ぜんぶ過去の色合いにそめあげて、まったく同じ出来事だときめて、決着をつける、安心するということです。
過去に自分がいたずらをしたり、なにかうまくできないときに、母が口をきいてくれなくなったとします。そうすると、大人になって「人が自分に口をきいてくれない」のを目にすると、私がなにかいけないことをした、私が間違っていたに違いない、と同じ思考を使って、同じ反応をしてしまうことになります。
でも実際は、お母さんにしろ、その人にしろ、口をきかないのは、いやなことがあったのかもしれないし、体調が悪かったのかもしれないし、何か思い悩んでいたのかもしれません。
過去のパターンを使わなければ、「どうしたの?大丈夫?」と思いやりの声をかけることができたかもしれません。過去のパターンを使ってしまえば、責められていると感じて、その人を恐れることになるかもしれません。
そうすると、自分と相手という二人の問題のある人を作ってしまいます。過去のパターンを使わなければ、二人のハッピーな人がそこにいるかもしれません。
結局、自分を怖がらせるのも、イヤな気持ちにさせるのも、不安にさせるのも、ぜんぶ自分のものごとに対する「解釈」なのです。それは、過去に学んだ意味です。
自分の「解釈」=「想い」が自分自身に災いしているのであれば、自分の考えに慎重になる必要があります。
自分がざわざわする、イライラする、穏やかでないときには、その直前にものごとを間違って解釈して、それを「あるがまま」に見ることができなかった、ということです。
だから、「あるがままに見る」というのは、自分の解釈をいっさい加えずに見る、ものごとに対して判断しない、言葉を一切発しない、あれこれ加えずに見る、ということなのです。
「え? そうなると、それに対してどうしたらいいのかわからなくなりますよね?」
はい、それを教えてくれるのは自分ではなくって、ハイヤーセルフのお仕事です。
自分で意味をつけようとせず、「ハイヤーセルフ、これはなんでしょうか?」と尋ねると、正しい解釈がこころにポトンと落ちてきます。それは、おそらく今までのパターンを破る解釈です。
私たちは「ものごとに対して何も解釈できない人は、おバカだ」と信じているところがあって、せっせとジャッジすることをやりつづけます。それこそが賢いと信じています。
なぜなら、学校でいつも意見や感想を求められて、答えられないと恥ずかしい思いをしてきたからです。意見もなく、解釈ができないなんて、おバカだわ!と。
でも、今、自分のうまくいっていないパターンから脱するためには、なにごとに対しても「これが何なのかわからな〜い!」というおバカさんちっくになってみることが大切なのです。
そうすると、そのあいたスペースに叡智がこたえを与えてくれます。
そして自分の絶えまない解釈がなくなると、「あ〜〜、なんて穏やかなんだろう」という安らぎを感じることができます。
なにも特別なことをしなくっても、すぐに幸せな気分になることができます。そして、消費電力を決定的に減らすことができるので、エネルギーを解釈すること以外に使うことができます(わたしたちはショートしっぱなしだったのですね☆)。
なので、自分を幸せにしてくれない絶えまない「ものごとへの解釈」を手放して、新しい考えが入ってこられるようにすべてを「あるがまま」にいたしましょう。
そこにやってくる新たなる考えは、まったく今までとは違った人生のパターンへと招いていってくれます。え〜〜☆ これって、こういう意味だったの? とびっくりすることもあるかもしれません。
そしてきっと、「恐れるものは何もないのですよ」と教えられ、「あなたは守られているから、さあ胸をはって安心して行きましょう!」という、安らかな励ましにいつも支えられているのを感じられるようになることでしょう♡
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Q: 別れてしまった人(亡くなってしまった人)とのあいだで、いまだにモヤモヤした感情を感じています。それがこころから離れません。
A: すでに別れてしまった方(亡くなってしまった方)に対して、「関係において失敗したかも?」「ちゃんと気持ちを伝えられなかった」「まだするべきことがあったのでは?」「あれでよかったのか?」、あるいは「こうして欲しかった」など、疑いや、後悔、不完全燃焼な想いや要求は多くの方が経験しているようです。
もう会えない(会わない)相手であれば、その想いを修復できないように感じてしまいます。
私たちが見ている状況も感じている気持ちも、自分自身の個人的なものです。それは、自分独自の「ものの見方」であり「解釈」であり、その結果として感情を感じています。
そしてそれは、自分が見たいようにそのものごとを見て、感じたいようにそれを感じているということでもあります。意識していようがいまいが、私たちは自分が好むようにしか見方も感じ方も選ぶことができません。それが事実です。
自分のこころのなかでは、こっそりと、あるいは公然と、そのものの見方を大切にしているので、そのとおりに見ることになります。
ということは、今目にしている状況、感じている気持ちも、「私はそのように見るのだ」とあらかじめ決めて、そのとおりに見た自分個人の結果ということになります。
私たちは相手との関係においてこそ、この想いや感情が湧いてきているのだと信じていますが、そうではないということなのです。
別れに関する「十分でない」「失敗している」「不満足」「後悔」は、その想いをこころに抱いていたので、そのとおりに目のまえの出来事にあてはめたということにすぎません。
それがそこに見出したい意味だった、というわけです。だから実際、その出来事が十分でなかったり、失敗してたわけではありません。
結局、自分のお好み、おなじみのストーリーをそこにかぶせて、おなじみの色に染めることに成功したのです。
こころは無意識のうちに「怖れ」のパターンに基づいて解釈するので、何に対しても「不満足感」を感じます。ほぼ素直に満足することはありません。
いろいろな場面に遭遇するたびに、そのおなじみの感情が浮上してきて、その出来事のうえに上書きして、不足感していたという意味にかえてしまいます。
そうすることで、あたかもその出来事がこの気持ちを感じさせているように錯覚を起こします。その結果、ダイレクトにこの感情を手放さずにすみ、まだ同じことをやっていられるからです。
これは、いつまでもイヤな気持ちを温存しようと企むエゴの戦略そのものなのです。
そうとわかれば、「十分でなかった」と感じているときに、そこにある出来事はさておき、ただその想いと気持ちだけにしっかりと向き合う必要があります。
私たちがやってしまうのは、出来事と不満足感をくっつけて罪悪感をふやしてしまうことです。「〜さんに申し訳なかった」とか、「ああするべきだった」とか、そこから後悔、罪悪感のストーリーをさらに展開してしまうのです(これをするとややこしくなり、どこでどう解決していいのかわからなくなります)。
そこにある想いに気づくとともに、その感情さえ片づけてしまうと、目にすることに対して「あるがまま」に受け入れることができるようになります。「ああだ、こうだ」のごちゃごちゃした想いや感情がないからです。
しかし、私たちは目のまえの出来事によってこの感情がそこから生み出されていると勘違いしてしまうことで、的がずれてしまい、解決ができなくなります。
覚えておかなければならないのは、そういう感情は、じつはずっとまえからそれは無意識のなかに溜めこまれていて、それが今こころの表面に浮上してきたということです。
このイヤな感情のための理由がほしかったエゴは、「このせいだよ!ここで失敗したんだよ!」と言い張って、それを目のまえの出来事と結びつけたにすぎなかったのです。
解決のためには、出来事はおいといて・・・
感情は、ただ感情として受けいれて感じきります。
想い(十分でない、失敗した・・・etc)は、高い自己であるハイヤーセルフに渡して廃棄してもらいましょう。
そして、「私は間違った自己イメージを大切に守ってきたけれど、それは私のしたいことではありませんでした。私が間違っていました。ほんとうの自分、源の愛に支えられている自分、完全さを見ることができる自分を受け入れさせてください」と、ハイヤーセルフに正しい自分を感じさせてほしいと自発的にお願いしましょう。
たんに間違った自己イメージをもっていたために、失敗感に襲われていただけでした。自分の間違った想いを正すことで、同じことを目にしても、違った見え方となることでしょう。
ハイヤーセルフがあなたの完全さのなかから、正しいものの見方と、それが導く正しい感情を教えてくれるでしょう。
間違った思いや感情をを握りしめるのはやめて(幸い、この出来事が間違った想いをあぶりだしてくれました)、ハイヤーセルフに自分の本当の想いを取り戻してもらいましょう。
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悩んだり、ぐるぐる考えすぎたりしているとき、私たちはその考えにエネルギーを注ぎつづけます。
私たちはエネルギーを集中したまさにそのものになってゆくので、考えつづけているうちに、きゅ〜っと小さな思考の塊になってしまったように感じます。
悩んでいるとき、考えすぎているときに感じる息苦しさ、苦痛は、自分ではないものになってしまった苦しさなのです。本来の自分の広がりを失い、自分を小さな塊のなかにおしこめて窒息してしまったのです。
これが、悩んでいるときの苦しさの原因です。
そして、考えつづけることがやんだとき、塊からわっと解放されて、もとの広がった状態にもどることができます。このふわっと視界が広がる、自分が広がるような解放感は、誰もが感じたことがあるのではないでしょうか?
ふつうは、問題が解決したからこそ、こんなふうに自由になったのだと感じますが、それは問題の解決というよりは、ちっちゃく固まっていた自分がもとに戻った解放感なのです。かちかちだったふえるワカメちゃんが、ようやくぶわっと広がって、手足をのばして自由になったような喜びなのです。
この収縮の度合いが極度だったとき(激しい恐怖や絶望などによって)、自分がぶわっと広がったときにどこまでも広がって、二度と伸びたり縮んだりしなくなる場合もあります。(激しさのあまり、まるでバネがこわれてしまい、広がったままになってしまうのです。)
極端な状態から覚醒した、という方は、このタイプなのです。
この広がりきった制限されない感じが、もともとの私たちの状態であり、深い安らぎや自由の感覚、解放感、喜びの状態です。
この状態でいるためにわざわざ落ちこみをつくりだす必要はなく、そもそも本来の自分自身が縮まないようにすることのほうが大切です。
縮まないようにするというのは、境界、限界のない自分をそのままにしてあげるということです。なにかに注意を固定しないで、ふんわりと広がったままでいること。
私たちはふだん、無意識のうちに「考え」や「感情」と一体化し、それを自分であると考えがちです。自分自身とは、「考え」であり「感情」であると勘違いしてしまうのです。
しかし、自分のなかにイジワルな考え、あるいは不安が湧いてきたとき ・・・ 私たちはこの「湧いてくる」という言葉を使います。その言葉を使うことじたい、自分のスペースのなかにそれが突如意図せずにやってきて、コントロールできないという感じをあらわしています。
また、「私、今、こんなイジワルなこと考えちゃったわ」とか「今、不安があがってきた」と言うとき、若干、それを傍観者としてながめています。傍観者になれるということは、その感情はどうやら自分とは別もののようなのです。
もし、完全に自分と一体化していたら、スキマがないので、こんな考えがあるわ、こんな感情を感じているわ、と気づくことすらできないことでしょう。
そういったわけで、私たちは自分でないものである考えや感情に一体化して、さも自分であるかのようにその状態を自分をして認めています。
この自分でないものに一体化する習慣が、自分を小さく切り取ってしまいます。
自分を切り取って、その小さな塊である自分 VS 宇宙に存在するすべてという対立構造をつくります。これが危機感や恐怖をいだかせます。
チリのような自分は、この広大は宇宙のおびただしいもののなかで、どうやったら自分を安全に保っていけるのでしょう? 戦いによって安全を確保しようとしますが、戦いの気持ちじたいがさらなる恐怖を呼び起こします。
ちょっと目を閉じてみてください。
目を閉じたとき、自分自身の意識の空間が無限に広がっています。(気絶していたらこの空間はないので、確かにこの空間は自分のようです。)
それは無色透明なので闇としてしか感じるとができませんが、そのスペースはたしかにどこまでも広がっていて終わりがありません。(私の意識はここで終わりです、というポイントは見つからないのです。)
小さな考えや感情の塊になってしまうのではなく、ほんとうのこの自分の広がりを失わないために、そのスペースに気づいていること、意識できるようになることが大切です。
たとえば・・・
この世界という画面から数歩退くような意識をもってみます。それは、スペースのなかに溶けこんでゆく感じ、見ているもの全部になっている感じ。あるいは、自分の無色透明な意識というものに、世界という影絵が映し出されている感じ。
この感覚は、全体と自分が離れていなくて、全体こそが自分なので、とても穏やかに安らいでいる心地よさがあります。
そのとき、出来事というのは外からやってくるというよりは、自分のなかで起こっていて、ちょっと距離をおいて見ることができます。(まるで、むかしに起こった出来事のように静かにながめることができます。)
自分は小さく切り取られてはいないので、自分のこころにすべてをいだいている親密感があります。
このスペースにゆったりと広がっていると、あの問題からふと解放されたときのような軽やかさを感じることができるようになります。
この開かれたスペースのなかでは、なにもつかみとろうとしないので、ものごとはスムーズに流れてゆくように感じます。
眠るまえに、ふとお茶を飲んでいるときに、電車にゆられているときに、あるいは疲れを感じたときに、このスペースにたびたび戻ってみましょう。
意識がふわっと広がって、自分のなかに穏やかさや新鮮な何かが感じられるかもしれません。ここにとどまることが、ほんとうの自分に対する信頼の感覚を育んでくれるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「問題を解決するために、高い自己であるハイヤーセルフにお願いしているのですが、いっこうに解決がみえてこないのです」・・・
そんなときは、なにかが違っているようです。
なぜなら、いったんハイヤーセルフに問題を委ねたら、自ずと何らかの解決の糸口があらわれるからです。あるいは、それともわからないうちに、静かに解決していたりします。
では、解決できないように感じるとき、どこを間違ってしまったのでしょうか?
そもそも、問題があると感じているとき、すでに思考が間違ってしまっています。
(でも、そのことで自分を責める必要はありません。またひとつ、今までは気づけなかった自分の癒しのポイントに気づけたからです。それによってかならず、以前よりもよい方向に向かうことができるので、むしろ感謝すべきことなのですね。)
問題があるとき、「思考が間違っていた」らしい?? ・・・ というのは、
目にするすべては「自分が信じているとおりに見えている」ので、ただ「自分が信じているものを見た」というだけなのです。ところが、自分自身の思考の結果に対して、自分で No! と抵抗しているわけです(自分が完全にふたつに分裂しています・・・)。
たとえば ・・・ 「私が得をするためには(幸せになるためには)、誰かにガマンしてもらわなければならない」となにげで信じていたとします(じつは、これは誰もがこころの深いところで無意識のうちに信じている信念です)。
「ある人が得をするためには、他の誰かが損をこうむるべき」と言っているので、それは「誰かが得をするために、私は損をします」という体験にもなるわけです。
すると、私が「得をしよう」とすればするほど、じつは自分に損を招くということになりかねません。
自分が得をしたい(幸せになりたい)という思考が「私は損をするべき」になるとは思ってもいないので、なかなか自分の思考の間違いに気づくことができず正せません。
そして、その間違いのままハイヤーセルフに「お金(必要なモノ・人)を与えてください」とお願いしても、うまくいきません。
なぜなら、ハイヤーセルフは欠乏は見ていないので「あなたには全部ありますよ」と答えるからです。
私たちは「見たいものを見る」というこころの力をもっているので、いくらすべてを与えられていようとも「損はありえる」、そして「私は損をする」と信じていれば、残念ながら「損」を見ることしかできないからです。
そして、私たちは「人に対する想い」こそ自分のこころのなかに存在する想いなので、自分に対してこそ力を発揮する、ということを忘れがちです。人に想うことは、すべてもれなく自分が体験することとなります。
ハイヤーセルフが教えたいのは、「あなたはもともと何も不足していませんよ」「けれども、あなたの考えによって、すでに与えられているものを見えないものにすることもできます」「あなたがあなたに対して、制限の呪文をかけているのです」と。
ハイヤーセルフがそのまま「足りないので満たしてください」というお願いに答えるとしたら、「損」の呪文によって発生した欠乏を受け入れたことになってしまいます。なので受け入れません。
ハイヤーセルフは、「その足りなさは、あなたが自分で自分に制限をかけて存在しているものが見えなくなっているだけですよ。ただ、その制限の思考こそをはずしましょうよ!」と提案したいのです。
すると、「誰かが何かを手にするために、だれもガマンする必要がないし負担を強いられる必要もない」ということがわかるようになります。
これを受け入れることができれば、本来自分に与えられているものをすんなりと受け入れることができます。不足のために、頑張って調達する必要がなくなります。
問題があるように感じるとき、私たちは自分なりの解決策を考えて、それをハイヤーセルフに満たしてもらおうとしがちです。
それよりも、問題丸ごとをハイヤーセルフに委ねてしまいましょう。そして、そこから間違った信念を洗い清めてもらい、ハイヤーセルフの考えと同じにしてもらうことが大切です。
つまり、「私はお金(モノ・人)の欠乏を体験しています」、だから「お金(モノ・人)を満たしてください」とハイヤーセルフにお願いするのではなく、
「どうやら私の考えが間違っていたために、この問題を知覚しているようです。この問題の原因となっている、間違った想いを正したいです」「それがどのような想いなのか、私にはわかりません」「どこで間違ったか、どうか気づかせてください」と言いましょう。
そして、「私ひとりではなく、全員にとって益になる考えをもたせてください」「全員がひとつのものとして、豊かに幸せになれる解決が見たいです」と、問題の根本的な考えの訂正をお願いします。
ハイヤーセルフが変えて欲しいと思っているのは、目に見えているその問題ではなく、この根本的原因、こころに属する部分です。
ハイヤーセルフからの答えは、おそらく感覚的なものかもしれません。「この問題は、大丈夫なんだ」という信頼感、「必要なときに必要なお金(モノ・人)が与えられて、守られている」という安心感。
あるいは、「自分が問題を解決するには、誰かか負けなければならない」など、無意識に信じていた自分を苦しめる信念に気づくかもしれません。
ハイヤーセルフに渡されたものは、必ず浄化されて、浄化されたこころは安らぎのなかで安心な状態を正しく知覚することができます。
安らぎのなかで、問題が解決されていることをすでに知っている存在に委ねて、ただくつろぎましょう。ハイヤーセルフとともにくつろぐことで、全体としての見方が教えられ、すべてが満たされてりうという方向へと自然に正されることでしょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
宇宙が意図しているのは、私たちの幸せ。たくさんのプレゼントを用意してくれているようです。
そして、その贈りものを受け入れることが、私たちのするべきことです。(宇宙は優しいからムリじいはせず、私たちがそれを受け入れることもスルーすることも、認めてくれています。)
ただ受け入れればよいのですが ・・・ スルーするどころか、どうやらその宇宙の意志と闘っているのかも?!
まさかね?! 幸せにしてくれるって言っているのに・・・。
でも、「判断している」「裁いている」ときは、「私は何が自分を幸せにできるのかを知っていますから、勝手にさせてください」とその手をふりはらっているときです。
宇宙の意志にたてついていると言ってもいいかもしれません。「おあいにくさま、私が誰よりもい〜ちばん、ものごとをよく知っていますから!」と。
お〜!! 神さまみたいです。
そうなのです。「判断」し「裁いている」とき、私こそがすべてを支配する神だ!と言っているのと同じです。
すると、宇宙は、「わかりました。じゃあ、あなたの方法でやってくださいね」と静かに引き下がってしまいます。
これが、こころもとなさ、見捨てられ感を引き起こします。が、じつは自分の方から先に助け手を見捨ていたのです。口など出さないでください、と。
自分のための贈りものを受け入れるべく両手をカラにいたしましょう。
それは、「判断」「裁き」を手放すこと。そして、「私は自分への贈りものを拒否していましたが、間違っていました。受け取りたいです」と、ちゃんとリクエストいたしましょう。(あなたには、もうあげません!とは言われません。笑)
女性はいつもバッグなどのお荷物を持っていますが、それがないときほんとうに解放された感じがいたします。手ぶらって、こんなにラクなの?!って。
そんな解放感を味わってみましょう。何も裁かず、コメントしないで、すべてをあるがままにしておく解放感を。
そして、そのカラになったところこそが、じつはもともと満たされていた、ここに贈りものがあったのだと感じるかもしれません。
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今年の目標はなんでしょう? もう決まりましたか?
「もっと運動をしたいです」「お酒を減らしたいです」「勉強したいです」 ・・・ などなど、それらはみんな「〜したい」か「〜しなようにしたい」ということ。
それは、もともとうまくいっていないなにかがあって、その修正が目標となります。
「健康診断でNG出されちゃったから、運動したい」とか「太っちゃったから、お酒減らそう」、「進学できなくなるから、もっと勉強しよう」など。
不満足さ、足りなさがベースとしてあり、その不満足さゆえの目標です。(まったく完全だったら、目標の意味がありませんものね。)
でも大切なのは、「こころは、信じていることしか見ることができない」ので、もし「不満足」が前提であるのなら、結局なにを目標にかかげても、なにをつけ加えようとしても、こころで信じている「不満足」を見ることになってしまう、というトリッキーさがあります。
そこにあった想いこそが、結果そのものだからです。
不十分、不満足、不足は、ここにいる誰もが感じている集団的な想いではあるのですが・・・
想いださなくてはならないのは、真に存在するものは唯一であり、唯一であるからこそそれは完全であり、欠けてはおらず、満たされているのです。唯一であるがゆえに、それ以外は存在しません(こころのなかでは、いくらでも不足を信じて自分を欺くことはできますが・・・)。
そして、(たとえどう信じていようとも)私たちは今も、その完全さで満たされたままです(それ以外にはないので)。
そうであれば、不足をベースにしたあれこれの目標よりも、まずその完全性の目線をしっかりと取り戻すことこそが、「すべて」における解決策として必要です。
存在する唯一のものの記憶はこころの奥深くに存在していて、私たちに発掘されるのを待っています。けれど、「なにかが必要だ!」という不完全さの想いとともにそれは姿を消し、受けとられることがなくなってしまいます。
私たちは「自分が見たいと思うものをただひとつだけ選んで、それを見る」からです。「あれ」と「これ」は、同時に見られないのです。選ばなくてはなりません。
不足の想いを信じるのか、それともすでにある完全さを信じるのか。
すべての問題の解決のカギとなる「十分さ、完全さ」に気づくには、こころが忙しく外側にとらわれるのではなく、それが存在している内側に向きなおり、シンと静まりかえる必要があります。
「これ」こそが私を救ってくれると信じていた外側のものへの依存を、いったん手放すことです。
こころという湖面のじゃぶじゃぶがおさまってスーーーッと静かになったとき、こころの深いところからその完全さの光が輝きだして 、その「十分さ」「完全さ」という光のなかですべてを新たに見せてくれます。
そちらへ向かったとき、今までと違ったものの見方に導かれるのを感じるかもしれません。そこにあったあれやこれやのバタバタが洗い清められ、まっさらな静けさのストーリーとして戻されてきます。
ついつい「行動」にたよって、「なにかをする」ことで解決しようとしていることに気づいたら、じっとがまんして、まずはこころをシンと静かにしてみましょう。
自分の「存在の感覚」「ある、という感覚」とつながるようにしてみましょう。
この感覚のなかから自然に起こることはなんであれ(たとえそれが、当初の目標とまったく同じになったとしても)、安らぎのあるストーリーに導いてくれます。
それは、不足の想いから導き出される結果ではなく、すでにある十分さを見せてもらうことになるからです。
新しい年、ぜひ静かにすわって、自分が存在している、呼吸している、ある、という感覚とつながってみましょう。それは、自分の宝のありかに目を向けて、受け入れること。
足りないから「つけ足す」ための目標ではなく、すでにあるから「それを見る」ために、その安らぎと豊かさのなかから導かれてみましょう。
まったく同じように行っているように見えたとしても、そこには喜びや安らぎ、平和、愛というなつかしい光が輝いているかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「こどもの頃、エクソシストってえらくコワかったよね! 女の子の首がグルって回ったりして・・・」「コワかった〜!」
怪談やお化けものじゃないホラー映画のはしりです。女の子に悪魔がのりうつって、助けにやってきた神父と闘いをくりひろげます。
お友だちとそんな話しをした後に、こんな YouTube が送られてきました。
ありゃりゃ!(汗)めちゃコワかったクライマックスシーンが別ものに! コワいどころか、抱腹絶倒。同じ画像でも、こうも変わるものか!?
他のお友だちにもシェアしたみたところ、「結局、映像よりサウンドのほうが影響力があるのかもね」「無音で恐怖DVD観ると、あまり怖くないからなぁ」と。
そうなんですよね。そこについている「音」がくせものなのです。
私たちは見えている映像よりも、「音」を怖れているのです。
たとえば、自分が部屋でコーヒーを飲んでいる画像をイメージします。
ここに「ジョーズ」のBGMがついていたら、どんな感じ?・・・「未知との遭遇」だったら?・・・(スミマセン、両方とも古すぎてわからない?汗)
これらのBGMだと、ちょっと不穏な感じ、なんかよからぬことが起こりそうな、ザワザワ感をよびさますかもしれません。
じゃあ、Queenの「We will Rock You」 だったら?・・・アナ雪の 「Into the Unknown」 だったら?
なんか、ちょっと力が湧いてくる感じ、なにかが始まりそうな感じ。
ひとつの場面も、BGMが違うだけでまったく違ったストーリーの一部となります。
じつは、私たちが目にしている日常の世界という画像も、BGMがついています。
BGMを選んでいるのは自分で、それがまさに自分のテーマソングになっていて日常の色みを決めているのです。(いつも何かにおびえているビクビクさんは、無意識のうちにジョーズがなっているのかも。)
その自分専用BGMは、毎日、年がら年中かかっているので、もう自分では慣れっこになっていて(踏切の隣に住んでいる人が、カンカン鳴る警報をいちいち気にしないのと同じで)、自分ではまったく聞こえていないのです。ほぼ無意識になってしまっています。
でも、いつもアタマがガンガンする感じがしたり、何かにおびえているかもしれません。
そのBGMが、「あるがまま」という何でもない画像のうえにかぶさって、自分のストーリーの色あいを醸し出しているのです。
私たちが人生のなかで何かを怖がったり、脅威を感じているときには、目のまえで起きていること(画像)が問題というよりは、まさにこの無意識となったBGMに怯えさせられている、ということなのです。
いつだってコワい原因は、決して映像(起こっていること)にあるのではなく、音。そこに被せている無意識の自分の想いであり、価値判断であり、感情なのです。
でも、私たちは「このイヤな感じは、私が目にしているもの “そのもの” のせいだ」と勘違いして、外側の画像を変えようとやっきになりますが、結局変えられません。変わったように見えても、変形して別の形になるだけなので何も変わってはいません。
それは、「変えなくちゃダメだよ!」とあおって、無力感を感じさせるのがエゴのやり口です。「頑張ったのにやっぱりダメだ〜!」という挫折感をためこませたいのです。
唯一変えることができるのは、BGM(無意識のうちに自分のこころが、想ったり、判断したり、感じていること)。BGMさえキケンでなければ、画面を変える必要はありません。
イヤな感じたしたら、いったい自分はそれにどんな意味(音)を与えているのか意識してみる必要があります。自分がどんな音を与えていたのかに気づけば、それを「無音」にするために手放すこともできるからです。
「自分こそがつけていたBGM」に気づいて、「変更する」意志をもつことで、エクソシストのキョーフの場面に大笑いしたように、最悪と感じていた場面がじつは最大のチャンスの場面に変えることができるのかもしれません。
さらに、ハイヤーセルフにお願いしてBGMをつけてもらえば、それはきっと身もこころも踊るワクワク感にあふれた喜びの場面になるのかもしれません。(これぞパラレルワールド☆ですね!)
PS 今、お友だちから、笑点のテーマ曲がオススメとのメールがきました!(笑)イイですね!
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Q: 職場でも日常の人間関係でも、責められたりイジワルなことを言われたりすることが多いように思います・・・。
A: なにかしら自分に攻撃がやってくるとき、それは外側の世界やらやってくるように見えるので、自分にはコントロールできないように感じてしまいます。
しかし、自分のこころが「責められている」「攻撃されている」と言っているのであれば、やはりそれは自分のこころのなかに存在する問題なのです。
そして、「自分」の問題であるからこそ、幸いにもそれは自分自身で変化させることができます。
私たちは「その出来事」に「その意味=イジワル・攻撃」がセットになっていると信じがちですが、じつはそうではありません。
同じ体験をしたとしても全員それに対する知覚(何を体験したのかの意味)は違ったものになるからです。全員、まったく違う体験をし、それを解釈しています。
となれば、自分がその出来事についての意味を「選んでいる」というわけです。それが、この出来事についての「自分自身の理解」なのです。
自分のなかに存在していないことは決して理解できません。その出来事について「イジワルされた」「攻撃された」という意味を選んだということは、無意識のうちに自分でも「イジワル・攻撃」というワザを外側の世界へとくりだしている、ということになります。
私たちは「自分のなかに存在しているもの」だけを知覚することができます。自分のなかにないものは、知覚しません。
「責め」「攻撃」を知覚するとしたら、それは確かに自分のなかに存在していて、そこにあるからこそ世界や人という外側のスクリーンに映し出すことによって眺めることができます。
人のなかに自分の隠しもった姿を映し出すことで、エゴはそれを公然と裁くことができ、裁きによって自分の存在を肥大化しようとたくらみます。
このように自分の中のエゴを人のなかに映し出して見ることによって、「人は間違っている!けれど、私は正しい!」と裁きをくだし、自分のなかに隠れている間違いをパワーアップすることに成功しているのです。
外の世界に間違いがあるように見えるなら、自分のなかなど正す必要はないので、エゴの間違いはただただ力をえてゆくのみです。
しかし、もし「外に見える以上、それはもれなく自分のなかにある」「あるからこそ見える」と認めることができたなら、自分が直面している状況(イジワル・攻撃)に変化をもたらすことができ、その状況から解放されることが可能です(なんせ、自分が映し出していたので)。
そしてまた、自分が隠蔽して巨大化させつづけていたエゴを駆除して、本来のしあわせな自分の道へ戻ることもできるのです。
そのためにはまず、自分のこころの動きに注意してみる必要があります。
あからさまな責めやイジワルでなくても、そこはかとない批判や裁き、攻撃の想いを見つけることができるかもしれません。
たとえば、テレビを見ていて出演者に「わあ!このひと、バカなこと言ってる!」とか、道ゆくひとに「なに?このファッション?!おかしい」という具合に、つねにぷちディスっている自分を発見するかもしれません(あからさまに攻撃せず、かすかに責めているように見えるかもしれませんが、責めて攻撃していることになんら変わりはありません)。
あるいは、よわよわな被害者になることで、自分がよい人であることを強調し、相手をわざわざ悪者に仕立てあげている場合もあります。
少しでも自分が上になって見下している感覚があったり、あるいはやられちゃっている可哀想な自分にとどまっている感じがあるなら、それこそが自分自身が「責め」や「イジワル」、不条理なことを積極的にこうむる原因をつくっていることになります。
自分が与えたものは、必ず自分のものになるし、また与えていないものは、どのようにしても自分のものにならないのです。
なにを見ても、なにを体験しても、エゴの判断、感想が自動的に出てきてしまうのが私たちです。
それは仕方がないのですが、むしろそれを無意識のままほっておくことによって、自分の苦しみの原因を取り除く機会を逸してしまうことになります。
裁いてしまうのがサガなのであれば、そこでいちいち罪悪感を感じて目をそらすことよりも、まず素直にどれだけそれをやっているのかを逐一観察してみましょう。
そこはかとなく自分が責めたり攻撃したりしているのに気づいたら、それをハイヤーセルフに渡してキャンセルしてもらいます。そして、自分が幸せになる新たな意味を教えてもらわなくてはなりません。それは攻撃するために判断するのではなく、愛でるために見ます。
それができるようになるには、自分のこころのなかで24時間勝手にながれている「価値判断」の声に耳をすませる練習をする必要があります。
これがほんとうにできるようになると、「え〜〜〜!私って、こんなに裁いているの?!」と自分の考えにびっくりするかもしれません。
オメデトウゴザイマス!自分の考えにガッカリしてこそ、ほんとうにそれを手放そうと決心することができます。自分が世界にたれ流していた(?)、自分の問題の原因を回収することをようやくはじめられます。それは、ほんとうの安らぎへの扉が開くときなのです。
裁きの考えがなくなればなくなるほど、「責め」「イジワル」「攻撃」から自由になります。自分の世界が安らかになるのを感じます。
まずは、自分の間違った想いに気づくことからはじめて、ハイヤーセルフとともに正しく知覚できるようにつねに助けてもらう習慣をもちましょう。
それは、幸せな世界であるパラレルワールドを選ぶことでもあるのです。
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「このことをうまくいかせたい」「あれを手に入れたい」「これをぜったい叶えたい」・・・
このように自分の願望を実現したいとき、そのことに集中しているとそれが手にはいるように「見えます」。
はい、たしかに!
そして、「引寄せることができた!」「自分でつくれた!」と感じてうれしくなります。そしてもっともっと、あれもこれもと頑張ります。
手にはいるように「見える」と書いたのは ・・・ こころは望むことはなんでも「見せてくれる」からです。望めば、それが映しだされて「見える」のです。
「注意をたくさん向けたもの、強く想ったものを素直に目のまえに映しだす」というのがこころの働きそのものです。「見たい」という願望があれば、それは「見る」ことにつながります。
それは、「こころが求めていることは叶えられる」ということでもあるのですが、これは諸刃の剣です。
じつは、こころはニセモノとホンモノの二本立てになっていて、ほぼニセモノに憑依されているからです。そして、その憑依がふつうの状態となっています。
そして、ニセモノが望むのであれば、結果はおのずとニセモノとなり、それは痛みや苦しみや分裂という体験になります。
それでも、「願ったことが叶った」という嬉しさによってカモフラージュされているので、ニセモノのこころが仕切っていることや、その顛末までには気がつきません。
そもそも、幸せになるために「なにか特定なモノを望む」というのは、じつはあまりオススメしない方法です。
なぜなら、「なにか特定なモノを望む」ということは、すでに自分のために存在している無限の宝庫のなかからそれだけをチョキチョキ切り取って、「これだけください。あとのすべてはいりませんから廃棄してください」と言っているようなものです。
つまり、「これが欲しいのだ!」と執着するのは、自分がもっていたあらゆるものの中からほんの小さなものだけを選びだして、他のすべてを失うことであり、全体から小さく切り取られたえたいのしれないものを大切にしている、ということになります。
だから、いくら手にしてもほんとうに満足がえられず、またふたたび別のものを選んでチョキチョキすることになります。
それはまるで、大きく立派においしげる木からその美しい枝のひとつを切り取って自分のものにしたのはいいけれど、自分が握りしめている小枝はすでに死んでしまって、意味のない棒っきれになっている、というようなもの。一方、目もくれなかった大きな木は今もいきいきと生い茂っているのです。
エゴはとにかくスペシャルになりたいので、自分が手にしているものが死んでいようが意味がなかろうがどうでもいいのです。
「自分が欲しいものを自分で手にいれた!」という慢心のほうをエゴは大切にするのです。たとえ、手にしたものがゴミのような意味のないものであったとしてもそのことに気がつきません。
イソップ物語のなかに、肉をくわえた犬が水面に映った自分の姿をうらやんで、その肉を手にいれようと吠えたら、くわえていた肉がぽちゃんと水のなかに落ちてしまった、というお話があります。
すでにもっていることを忘れて、「それこそが欲しいのだ!」と水に映る幻を求めたことで、すでにもっていたものは失われてしまったのでした。
どうやらこの犬と同様に、私たちも「もっていること」がわからないことが問題なのかもしれません。その欠乏感から求めることをやめられずにいます。
そして、求めることは失うことだと気づくことができません。
けれども、「あっちだ!こっちだ!」と意識が外へ外へと向いていたら、自分の内側がすでに満たされていることに気づくことができず、それはまったくないことと同様なのです。
私たちが目にする世界は物理的に外にあるのではなく、こころの状態を映し出しているスクリーンなので、まずこころを整える、正しいこころに立て直すことがなによりも大切なのです。
こころを立て直すことは、すべてを与えられている自分を受け入れることでもあるのです。
不足を信じるこころに騙されてなにかを強く追い求めるよりも、まず「私がすでに与えられているすべてを知ることができますように」「それらを受けいれて目にすることができますように」とハイヤーセルフにお願いすることからはじめます。
正しいこころで「見る」ことができるようになることが、すべての豊かさにつながります。
そうすることによって、幻を追い求めながら満たされずにさまよいつづけるのではなく、「すでにあるのだ」という正しい目線から生まれる豊かさを映しだして「見る」ことができるようになります。
そしてそのとき、身体という小さなものの目で世界を見るのではなく、こころの目で世界を見るようにします。
背景のなかに静かに下がっていって、全体をこころで見てみましょう。ホンモノの自分として、全体を見てみましょう。
それは、外にあると思っていた世界が自分のこころのなかにあり、それらはちりぢりばらばらのこま切れではなく、ぜんぶが自分とひとつのものであり、すでに満たされているという感覚があります。
その目線から、ハイヤーセルフに豊かさの知覚をおしえてもらいましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q: こちらのブログを読んでいて、自分の「裁いてしまう」考えに気づきました。こころのなかで「あの人はここがおかしい」「この人は常識がない」と絶えず考えてしまい、あるがままにできないのです。まだまだだな〜と感じてしまいます。
A: 自分が目にしている世界は、自分のこころの状態の写し絵です。もし本当に安らかで幸せな世界に住みたいと願うなら、自分のこころのなかから「罪」や「攻撃」の想いを一掃する必要があります。
それらをきれいにしてゆこうとする努力のなかで、世界がかわってゆきます。
しかし、私たちは「除去」するべきものに出くわすと、つい自己嫌悪におちいってしまいがちです。そのために間違った反応をしてしまうのです。
裁いてしまう自分のこころに拒絶を感じて、「除去作業」はすっかり忘れ、今度は自分自身を裁いて(ホコ先が変わっただけです)、除去すべきだった想いは隠されてしまいます。そして、その「罪」「攻撃」の想いは次の標的がみつかるまで保持されるのです。
上記の Q のなかに、「裁いてしまう自分をまだまだだな〜と感じてしまう」とありますが、まさに裁いてしまう自分をふたたび裁いてしまっているわけです。
他人に向けられようと自分に向けられようと、裁きは裁きです。他人を裁くのをやめたいあまりに、自分を裁いてしまっては本末転倒です。
それよりも、この地球上にいる人で裁いていない人は誰もいないので、むしろ「裁き」をしてしまったらそのつどしっかり「認識」できるようになることが大切です。
なぜなら、ちゃんと意識しない限り、なにをやめるのかがわからないからです。
「ああ、私は裁いてばっかりいる」とそのつど気づけることこそが、それをやめるための最初の一歩なのです。
そして、次の段階は、捨てるゴミ(やめたい想い)を正しく捨てること。
ゴミの収集はハイヤーセルフが担当してくれます。
ハイヤーセルフを呼んで、「今、○○さんを常識がない人だと裁いてしまいました。これは本当の私の想いではなく、エゴの想いです。私のこころから取り去ってください」とゴミの撤去をお願いしましょう。
ゴミの下には、「罪」や「攻撃」などとは無関係の自分が輝いています。捨てるだけであらわれます。
自分が「誰かのなかに見ている間違い」は、そもそも自分の間違いです。
こころがそれらを拒絶して、外に捨てようとしたあまりに他の人にかぶせてしまった「自分のゴミ」なのです。
もともと自分のなかにたまっていたのですが、あまりにも見るに耐えず、捨てることを決めました。しかし、片づけ方がわからなかったため、外に投げ捨てれば自分のなかはきれいになると信じて、他の人になすりつけてしまいました。
けれども、その他人に押しつけたゴミにはゴムひもがくっついていて、結局は自分のところにビヨヨ〜〜ンと戻ってくるようになっているのです。
相手から戻ってくるそのゴミ(もともと自分のもの)を、私たちは攻撃や間違いとして知覚します。(相手にゴミを押しつけたのは自分なので、ほんとうは自分の方が先に相手を攻撃していたわけです。)
このように、こころのなかで「罪」や「攻撃」の想いをためこんでいると、結局それを人のなかに見ることになり、次に自分が攻撃されているように感じてしまうのです。それは、人と自分のあいだを行ったりきたりしてしまいます。
行ったりきたりさせるよりも、きっぱりと取り去りましょう。
自分のこころに「罪」や「攻撃」のカゲがちらついたなら、自己嫌悪におちいったり隠したりせずに、ちゃんとその存在を認識し、ハイヤーセルフに渡してしまうことで、永久に取り去ることを選択しましょう。
たとえばハイヤーセルフにいらない想いを渡すというのは、こんなイメージです。
地球の人々のあいだでゴミを押しつけあうことで「裁き」をつづけていたのを、もっと高い次元、宇宙に放り出して、大気圏でプシュっと燃やしてしまうような感じ。地上ではなく、別のレベルで処理をしてもらうイメージです。
これをするためには、自分のイヤなところに出くわしても、自分を責めたりそれをなきものにしようとするのではなく、
「片づけるために気づいたのだ」とほんとうの自分に戻るための「こころの修正の機会」にすることです。
これをどんどん練習してゆくと、ちょっとでもそのままスルーしようとすると、逆にすごくイヤな気持ちになったりします(歯磨き忘れて、ヤな気持ち・・・みたいな)。
トライ&エラーで練習をつづけますが、たとえエラーしてしまったとしても、けっして責めずに、
ただ気づいて、そして手放すべくハイヤーセルフにつながりましょう。
間違った反省よりも、ただ高い次元において「取り除く」ことが大切なのですね ( •ॢ◡-ॢ)
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Q: パートナーの言動に、いちいち苛立ってしまうこの頃です。このことから、どのような気づきをえることができるでしょうか?
A: 自分のイヤな感情に出くわしたとき、それは大きな癒しのチャンスです。
それは自分のなかにあったからこそ、いま浮上してきてイヤな気持ちなったというわけです。それはけっして、外側の誰かからやって来たものではないのです。(その人はちょっとした引き金となっただけで、原因ではありません。)
そして、その関係のなかでそれを手放す機会が与えられているということです。
そうとわかれば、その方は自分に癒しをうながしてくれている、とてもありがたい存在というわけです。
外側にいる人々というのは、「自分で見ることができない自分」を映しだしてくれる鏡のような存在です。
その鏡は、「私はこういう人である」と信じている自分をそのまま映し出してくれます。
つまり、そのパートナーに見えているイヤなところは、自分が信じている自分の姿を見せてくれているだけなのです。
私たちのこころのなかには、自分で嫌ってしまった自分自身が深く埋めこまれています。拒絶して埋めこんだがゆえに、自分でもその中身をすっかり忘れてしまっているのです。
自分が忘れてしまってもそれはまだしっかりとそこにあり、ほんとうの自分をおおい隠してしまっています。そして、これこそが他人という鏡に映し出されているイヤなイメージなのです。
その深く埋めこまれた自分自身がついに腐敗臭(?)を発して、それが漏れでてくることで、自分の気分を悪くしています。
しかし、私たちはその気分の悪さを「何か別なこと」が原因だと信じようとします。そして、そのターゲットを見つけます!
それこそが、そのしゃくにさわる、イライラする人だというわけです。自分のこころの腐敗臭の気分の悪さを、その人のせいにしたのです。
私たちが誰かにイライラしているとき、その人の行動がどうこうというよりも、自分が隠しているゴミの臭いによって気分が悪いのを相手のせいにしようとしている、ということなのです。
そうして私たちは安心するのです。「気分が悪いのは、この人のせいだったんだ!」と。
そもそも、自分が拒否して自分のなかに埋蔵したものは本来の自分ではなかったので、ただ手放して永久にサヨナラすればよかっただけなのですが、
それが、自分の一部であると勘違いしてしまったために、恥ずかしさから自分のなかに隠すという手を使ってしまいました。外側にいるイライラさせるように見える人は、自分の腐敗臭をおしつけられた可哀想な被害者だったわけです。
ほんとうは、イヤな人をみつけたならば、自分の内側にある腐ったゴミを捨てさるチャンスだ、というわけです。
人は「鏡」であるといいうのは、自分の内側にゴミがあるということを教えてくれる存在だということです。鏡がないとそれに気づけません。
そして、この鏡である人にあたりちらすことなく(攻撃せず)、私のゴミが映っているのだと認めてしまえば、それを取りのぞく癒しの機会となるわけです。
非難することなく、自分こそが映っていたのだと認めることができたら、その人を「自分がなりたいような人」として見ることをしてみます。
すると、今度はその人が自分の完全さクリーンさを映し出している鏡と認識することができ、自分のこころが正気を取り戻すことができるようになるのです。
つまり、自動的にゴミが取りのぞかれて、本来の自分の完全さがあらわれます。
「与えることは、受けとること」・・・先に相手をきれいにしてあげることで、自分もきれいを受けとることができます。
そしてまた、それを「与える」という決意は、「自分が何を目にしたいのか」を改めて決めなおすということです。私たちは、みずから「見よう」とするものしか目にすることができません。
相手という鏡のなかに、「自分がこうだったらよいな〜、こんなふうになりたいな〜」というイメージを見ることを選ぶことで、自分にもそれを見ることができるようになるのです。
目のまえの相手が自分を苛立たせると感じたら、意識を相手から自分のこころへと戻しましょう。
このこころから、イライラ、不快感は発っせられていて、こころを正すことで自分の世界を変えることができる、と気づきます。
そして、鏡になってくれたその人を、新たな「こんな自分だったらいいな〜」という人として見て、自分のこころが訂正されるのを受け入れましょう。
外という世界も、じつは自分のこころの内側にあります。相手を攻撃すると、より自分のを傷つけてしまうので、自分のこころと知覚を変えることによって、自分が、相手が、そして自分のいる世界全体がどのように変わるのかを見てみましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「幸せをもたらすもの」だけがリアルです。それだけが、宇宙から私たちへのプレゼント。
それだけが、私たちが受けとるべきものであり、私たちにふさわしいもの。
もし・・・それ以外を受けとっていると感じるなら、なにかが間違っているようです。
私たちは、自分のこころが決めればなんでも見ることができるので、自分のこころが間違ったものを望んでしまい、その結果を見ている、ということなのです。
すでに与えられていた贈りものは、それらにおおい隠されてしまいました。
でも、ご心配なく!
ハイヤセルフは「そんな不用なものを見つけたら、ゴミとしてお出しくださいな。いつでも焼却いたしますよ!」と言ってくれています。
ところが・・・
私たちときたら、「幸せ」以外のものがあったとしても、素直に焼却をお願いしていないのです。
なにをしているのか?というと ・・・ そのゴミをいじくりまわすことに熱中します。
ゴミに対して、「なんで?」「どうして?」「どうしたらこうなる?」「誰のせい?」「なにが悪かった?」云々・・・と目のまえにあることの分析をつづけます。
これってゴミの袋をあけて、「これはなんでゴミになったの?」「誰がここに捨てたの?」「なんでここにあるの?」と言っているようなものです。
これをしているうちに、すっかり捨てることを忘れてしまいます(汗)。
大切なことは、「これは持ちつづける(大切にする)必要があるものなのか?」「自分にふさわしいものなのか?」、それとも「さっさと捨てるだけのものか」ということです。
自分を幸せにしていなかったら、問答無用、さっさと捨てましょう!
ゴミに対して、お話する必要も、詳細な分析の必要もないのですから。
捨てるものだとわかったら、さっさとゴミ焼却場へ!
ゴミ清掃会社は、ハイヤーセルフです。
この感情、この想い、この出来事、この状況は、自分にふさわしくないと認識したのなら、すみやかにハイヤーセルフに渡します。
「これは私にふさわしいものではありません。これを私のこころから取りのぞいてください。そして、目にしているものを訂正してください。すでに私に与えられているものを見ることができるように助けてください」とお願いします。
ハイヤーセルフの清掃会社は、迅速です。
でも、指示がなければ決して勝手にもちさることはありません。だから、私たち自身が「なにが自分にふさわしくないのか」をしっかり見極める必要があります。
これをするには、文句をいったり、あれこれ分析したり、詮索したりする必要はないのです。
「これは私にはふさわしくありません。もって行ってください」、このひとことでOKです。
そうしたら、ハイヤーセルフはそれらをお炊きあげしてくれます。
いつでも、どこでも、何度でも。そして、ナント太っ腹! 料金はいつだって無料。使用回数の制限もありません。
どうぞお気軽に〜!(笑)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「なぜ?どうして?は必要ない」ブログのつけたしです・・・。
「なぜ?」「どうして?」がなぜ必要ないのか ・・・ というと、問うことに意味がないからです。
私たちが目にしている流れゆくものごとは、自分が思っているような意味をもってはいません。
ただ流れているだけなのです。
それは、川面をおおう落ち葉が、模様をかえながら流れてゆくのと同じです。
落ち葉は流されながら、少しづつ織りなす模様や色合いをかえてゆきますが、私たちはそれにいちいち意味をあたえることはしません。
あるいは、水面に油をたらしたときも同様です。
油はいろいろな模様を描きだし、しだいに形がどんどん変わってゆき、たくさんに分かれたり、消えてしまったりもします。
その形をみて、「どう見えるか」「なにが起きているのか」を解釈しながら時間をついやしても意味がないのです。
それはまるで、ロールシャッハテストのよう。見る人によって、見えるものはまったく違います。
たとえ同じ人が見ても、そのときの気分によって、違うものに見えることでしょう。・・・ということは、見えているものは、そのときの自分のこころの状態を反映しているだけなので、問題があるとしたら形にあるというよりもこころのなかにあるということになります。
「あそこにコワい顔が見えるよね」「え?あれは犬じゃないの?」・・・というように、あるときにはホラーに見え、あるときに楽しげな景色に見え、それは自分ひとりだけの世界で「ほんとうのこと」ではありません。ただの自分による解釈です。
ひとりひとり見えているものが違うのなら話がつうじないのはあたりまえで、その解釈をたたかわせて、正誤をきめるのは意味がないのです。
葉っぱや油の形が描きだす模様に、ストーリーや原因、結果がないのと同じように、私たちの見ているものにもじつはストーリーも因果関係もありません。私たちが勝手にでっちあげない限りは・・・。
私たちはでっちあげるのをやめられないのですが、それはまったく独創的すぎて理解不能で、まったく自分の幸せにも役立っていないようです、がやめられません。私たちは、意味をつけることに慣れきっているようです。
起きていることを分析して、意味を知ろうとすると、意味のないものに巻き込まれます。
意味を知ろうとするよりも、ただ自分にふさわしくないことは、ハイヤーセルフに渡してしまうことで解決するようにいたしましょう。
尚、前回のブログでオススメしたハイヤーセルフのゴミ焼却会社ですが ・・・ メンバーズになることをオススメいたします。なぜなら、さまざまな優待が受けられるからです。
まず、メンバー登録していただくと、ハイヤーセルフからのインスピレーションというプレゼントがちょくちょく届きます。
また、「お炊きあげ」ご利用ごとに「幸せ体験へご招待」という嬉しいサービスもつくのです。
さらにポイントがたまれば、天国への移住権も獲得できますよ〜!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
今週は、予定していたミーティングやお友だちとのデートが延期となり、遠いところで起きているように感じていたコロナウィルスが現実味をおびてきました。
学校の休校、遊園地の休園、イベントのみあわせ・・・。お友だちは、ここまで一生懸命にお稽古を重ねてきた公演がキャンセルになってしまったそう。
大切にしてきた一回きりのイベントが突如なくなってしまうと、ほんとうにガッカリしてしまいますよね。
そうなってしまったからには仕方がないのですが・・・
「ガッカリ」「残念」な出来事をそのままにしておくと、ずっとこころのなかに不完全燃焼感が残ってしまいます。
しかし、この出来事を「幸せ」「喜び」のための再出発点にすることもできるのです。
じつは、このストーリーには別バージョンが存在しているのです。ディレクターズカット版です。
このディレクターズカット版を「見ることを選択する」こと、それがこのストーリーを別の脚本にきりかえます。
ディレクターズカット版は、通常上映されているのとは違ったストーリー展開やオチだったりします。
暗く悲しいお話だったはずが ・・・ あれあれ?どんどんコミカルに陽気になってくるとか、こころ温まるお話になってくるとか、逆転劇になってくるとか。
でもエゴ映画製作社は、そんな何の刺激もない、痛みのないシナリオには興味を示しません。この製作会社が好むシナリオは、怖れ、悲しみ、苦痛、孤独こそが命です。となれば、恐怖ものか、ホラーか、スリラーか、怨恨もの。
エゴ映画製作社では、楽しいなんてもってのほかで、そのようなストーリーは脚本としての価値はありません。日溜まりのなかでニコニコしているような人畜無害なストーリーは、ソク却下されます。
それでも、、悲しいがっかりストーリーには、ちゃんと「ウラ」のディレクターズエディションがあります。
それは、ハイヤーセルフの映像配給会社に保管されていて、「観たい」と申し出た人にだけ見せてもらえます。自ら申し出ることが必要です。
そのディレクターズカット版は、たしかに「ガッカリ」なように見える出来事からはじまりはするのですが、それがどんどん嬉しさの原因へと変わってゆきます。
「ああ、こうなったからこそ、このことを体験できた!」。このセリフ、誰もがこころのなかでつぶやいたことがあると思います。
「災い転じて福となす」というように、贈りものとなる体験へと導いてもらえるのです。
ハイヤーセルフの配給会は「観たい」という人にはそれを見せてくれるのですが、
エゴ映画製作社に出資している人(攻撃、裁き、批判にエネルギーを注いでいる人)には、その映像はまぶしすぎて見ることができません。
私たちはエゴ映画製作社の暗い画面を観るのに目が慣れきっていて、それしか観えなくなっています。ディレクターズエディションは、明るすぎて最初は観づらいかもしれません。
でも、「観たい」人はだんだん見えてくるのです。
すべての出来事には、ディレクターズカットがちゃんと用意されています。すでにあります。
ただ、ハイヤーセルフに「私はエゴのストーリーを無意識のうちに好んでいました。まさに、自分で怖れや苦しみ痛みを観ることを望んでいたのです。でも、もう望みません。それは、私にはふさわしくないとわかったからです。ハイヤーセルフ、私に私の真のストーリーを観させてください」とお願いします。
大切なのは、エゴ映画製作社に加担して、起こったことに対して抵抗したり、攻撃的になったり、批判したり、文句を言わないこと。そして、「自分が何を観たいのか」(エゴバージョンか、ハイヤーセルフバージョンか)をハイヤーセルフとともに自ら選びなおすことです。
「ガッカリ」にとどまれば、起こったことに対して文句を言ったり攻撃的になり、それはエゴ映画製作社に出資することであり、その結果どんどんエゴのストーリーが届くようになってしまうのです。
PS1・ハイヤーセルフは、高次の自己、大いなる自己、スピリットのことですが、
ご自分にとって信頼してお願いできる存在なら、エンンジェル、キリスト、観音さま、光、宇宙、神さま・・・呼び名はなんでもかまわないのです。
PS2・じつは、私たちがあたりまえに観ているストーリーはもうとっくに廃版になったもので、海賊版として流通しているだけです。ほんとうは、存在はしていません。だから、ぜひハイヤーセルフの配給会社に正規のストーリーを申請いたしましょう。
「これは違う」「楽しくない」と感じたら、批判したり文句を言うのではなく、ただ別バージョンのストーリーを要求しましょう。申し出ることが大切です。
それは、あなたに観てもらうために、すでにちゃんと用意されているのです♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
自分が目にしている世界は、
無意識において「自分が見たい!」と決めたものをそのまま描きだした世界です。
もし ・・・そこにダメさを見るなんら、「自分が自分自身をダメだと責めている」証拠であり、
もし、そこに怖ろしいものを見るなら、「自分は何か大きな力に翻弄されているひ弱な存在である」と信じているということであり、
もし、そこにゆるせないものを見るのなら、「自分が自分自身をゆるせない存在として裁いている」ということなのです。
その状況に不平不満を言ったり、それをいじくりまわすよりも、
ただ、自分はそのような「間違った自己イメージ」を信じて握りしめていたのだと気づきましょう。
気づいたら、それを取り除いてもらうべくハイヤーセルフにお願いします。
これは完全な自己申告制なので、申告した分だけをきっちり取り除いてもらうことができます。
しかし、気にいらない状況をまだ自分とは関係のない外側の世界からひょっこりやってくるものとして、責めたり、コントロールしたり、抵抗しようとすると、
結局、自分のこころのなかにある「それ(ダメさ、脆さ、罪深さ)」に力を与えてしまい、さらにそれらを大きく養ってしまうことになります。
そうなれば、世界はさらに手ごわく強敵化し、その世界と闘いつづけることになってしまいます。
そうならないように、さっさと白旗をあげてしまいましょう。
「私が責めたり、怖れたり、闘ったりしていたのは、全部自分自身でした。私こそが間違っていました。私のこころの間違いを正してください。あるがままに見られるようになりたいです」と。
そうして、すでに完全である「本来の自分」を教えてもらい、それを世界に見せてもらいましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
なにか問題が起きているとき、
私たちのこころは一目散にその問題に突進してゆきます。そして、そこで解決をはかろうとこころみます。
解決とはそういうものだと思っているからです。
たとえば ・・・誰かとの不和があるとき、こころはその人に向かい、その人に対して「さあ、どうする?」「なにを言ったらいい?」と考えます。
何か失敗してしまったときには、「どうやって修復する?」「なにができる?」とその失敗について考え、解決策をひねり出します。
あるいは、なにか達成すべきことがあるときには、それについて「どこからなにをしたらいい?」「どんなふうにすればいい?」と思案します。
このように、つねに自分を離れてそっちに向かいます。
じつは、これが問題を複雑化してしまう原因でもあるのです。
なぜなら、問題と見えるものは「こころによる不具合」を隠しておくためのオトリ(影)だからです。
見えてるものはこころのなかにある問題の影であり、ほんとうの部分ではありません。影をいじっても何も変化を生みだせません。
だから、しなければならないのは、影について思案することではなく、影を生みだしている部分を修正すること。
影を生みだしている部分とは、「こころ」のことです。
こころが消化不良を起こして、ゲッと外にはきだしてしまったことが問題に見えます。
問題が起きてついついこころが外へと向かいそうになるとき、私のここのなかではこんな音楽が三味線の音色とともに流れます。
「かえってこいよ〜〜♪ かえってこいよ〜♪ かえってこ〜〜いよ〜〜♪」(村松和子さんの「帰ってこいよ」)
こころよ、そっちに向かってはダメだよ〜! そっちじゃないよ〜! ということです。
じゃあ、どこへかえる?
もちろんこころへ。外へ向かおうとするこころを、方向転換させて、こころへ戻すということ。
まず、原因となるこころの乱れを整えて、平穏にする必要があるのです。
なぜなら、私たちの見ている世界はこころの平和か混乱か、ふたつにひとつであり、それがさまざまなイメージ(影)であらわれているだけだからです。
また、こころの平和とひとつになることは、すべてである無限の源とひとつになること。そこから解決のためのインスピレーションもやってきます。
自分がどんな存在であるのかを、そのホームグランドに戻ったときに教えてもらうことができます。
その答えこそが、愛ややさしさ、安らぎとして世界にうつしだされることになるのです。
かえってこいよ〜〜♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちは、自分自身のことを一個のミートボールだと信じています。
ミートボールは、いつなんどきでも簡単につぶれてペッタンコになりうるし、なんかの拍子に転がりだしたらあっちにぶつかりこっちにぶつかり自分では制御不能。他のミートボールとも激突します。
なによりも、賞味期限が限られていて一過性です。
さらに、ミートボールは個体なので光がさしこむことがなく、光を受けとれません。
光とはハイヤーセルフからのインスピレーション、幸せのための導きです。
導きを受けつけないミートボールは孤独なのです。だから、ひどく怖がりで、いろいろなものごとに怯えます。
悪いことに、怖れを感じるとミートボールはさらに固くちぢこまってしまい、孤立します。
ミートボールに救いはありません・・・(汗)。
そんなミートボールにとって唯一の朗報は、選択肢がある、ということです。
ミートボールでいなくてもよいという選択肢です。
ミートボールは、自分は「ミートボール」でいるのか、それともハイヤーセルフがもたらす光と同じ「光(スピリット)」でいるのか、自由に選べるということです。
ミートボールは孤立していて何ももっていませんが、スピリットである光はその源とひとつなのですべてです。
個体ではないので、何ものとも衝突することもなく、摩擦がないので破壊されることもありません。怖れるものがなく、まったく微動だにしません。
自分はミートボールであると信じていれば、ミートボールとしての一生をすごしますが、
スピリットなのだと選び直すことによって、ミートボールから解放されます。
そして、ミートボールが切り捨てたすべてとひとつになります。(ミートボールは「私はミートボールだ!」と自覚した時点で、一個のミートボール以外の宇宙のすべてを投げ捨てたのでした。)
ミートボール、スピリット、どちらでもお好きに♪
でも残念ながら、どちらか一方はニセモノです。どちらかは、存在しないのです。あしからず・・・。
なぜなら、それは源とのつながりがなく、エネルギーの供給がないからです。電源とつながっていないのです。
だから、一見うまくいっているように見えつつも、結局はすべてが消えさって、無に帰してしまうのです。
でも大丈夫! 私はコレじゃない! と気づけば、電源がもどってきますよ〜!
PS. ミートボールさんとスピリットさんにそれぞれインタビューしてみました。
同じ世界を見ているようで、ひっくりかえるほど目に映るものは違うようです。
ミートボールさんは、危険なゾンビが徘徊する奈落にお住まいで (|||❛︵❛.)
スピリットさんは愛にあふれた天使さんたちと楽土にいらっしゃるようでした (๑❛ᴗ❛๑)
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「間違っていることを目にすると、世直ししたくなってしまうのです」とクライエントのAさん。
たとえば、マナー違反とか、常識はずれとか、ちゃんとできてないとか ・・・ そんなことを目にすると、正したい気持ちがムクムクするそうな。
しかし ・・・ 相手にしてみればそれをよしとしているからこそやっているわけで、指摘されてしまうと否定されたように感じてしまうことも。すると、その方とのあいだに摩擦が生じ、正した方も正された方もイライラします。
だれでも、「正される」のは好きではありません。
また、「正すべきものがある!」と常に感じているこころは安らぐことができません。「あなたは間違っているけれど、私は正しい」と、ある意味ケンカ状態なので平和はないのです。
「自分自身が幸せにならないことにこそ、幸せがあるように感じてしまう」というのはよくあることですが、それに一生懸命になってしまうと自分の首をしめてしまいます。
よかれと思ってやっている「世直し」は、どちらにとっても幸せはのぞめないのです。
それでは、みんなが幸せになる世直しとは・・・?
正しい世直しは、「オセロ方式」がオススメです。
クロい石をシロに変えたいとき・・・
クロい石を指さして、「きみはなんでクロなんだ!シロになるべきだろ!はやくシロくなってくれ!クロは見たくないんだ!」と腕をくんで責めたてても、クロい石はクロのままです。
シロにしたいときにはどうするかというと、
「そうだ!きみはシロだ!」ときめること。はじめに、そこにシロを見ること。
そして、優しく裏返してあげる。責めることなく、ただシロにしちゃえばよいのです。
それは、自分自身が「それはシロだ!」(そこの石はシロであるべき)という意志をもって、「裏返す」(積極的に自分がシロを見る)ということなのです。
シロい姿を、相手に与えてあげること。シロにしてあげること。
それは、「なぜクロいんだ!」と叫びつづけることとは違います。
一方、「なぜクロいんだ!」と責め立てると ・・・ クロだと認めたから、クロをより強めることになります。その結果、クロがパタパタとふえてゆきます。
それよりも ・・・「いま一瞬、すご〜〜くクロに(間違っているように)見えたけれど・・・私の見たいものはそれじゃない! 私が見たいのはシロ! だから、私が見たいシロい姿(何も間違っていない姿)をきみに見るよ」と、自分が見たいものだけを相手にとことん見ようとします。
私たちは、見たいものこそを目にします。シロなのだ!と最初に決めることで、ちゃんとシロに見えるのです。(ある意味、シロであるパラレルワールドを選ぶということです。)
そして、シロを選んだからこ、シロがパタパタふえてゆきます。
「与えるものこそ、受けとるもの」。
シロだと決めて、シロを見たから、シロを受けとる。つまり、相手もシロに見えるし、自分もシロに見えるのです。
「ほ〜ら!みんなシロなんだよ〜!」「だって、私にはシロであるあなたたちしか目に入らない」「あなたは、シロだね!」とシロを決めることで、決めたものを受けとり、目にするものはオセロのようにぱたぱたとシロにかわってゆくのです。
もちろん、い自分自身もまっシロ!
それだけ、わたしたちの想いにはちからがあるのですね。さきに与えて、受けとりましょう♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「人の目が気になるし、人の気持ちにも左右されやすいのです」とAさん。「だから、こころが休まりません。いつも、これでいいのかな?間違っていないのかな?どう思われているのかな? と気になってしまうのです」と。
私たちは誰でも(たとえ、どんなに自信があるように見えるような方であっても)、
こころの深いところには「自分に対する不信感」が潜んでいるものです。(そうでなかったら、私たちはなにもする必要がなくなります。)
だから、誰でも「自分はなにものなのだろう?」「これでいいのか?」「正しくできているのか?」「間違っていないのか?」「はたして価値があるのだろうか?」と無意識のうちに問いかけています。
その結果として、「頑張る!」「努力する」「活動的になる」「自分をよくしなければ」「何かを変えよう!」とうまくいっている証明をしようと頑張ることになるのです。
そのとき、まわりにいる人こそが、これらの努力がちゃんと成果を出しているのかどうかをはかるモノサシとなるわけです。
彼らがヨイ反応を示してくれていれば、私は大丈夫なんだ!と。
だからこそ、うまくいってる? これでいい?と、まわりの人につねに気にして、承認を求めてしまうのです。
彼らが認めてくれれば、「ああ、自分の不足、不満足、足りなさがちゃんと補えているのだな〜」「努力が功を奏して、うまくごまかしがきいたのだな〜」(なんせ、最初から自分は足りないと決めていますから)と安心するわけです。
でも足りないものを必死で補い、認めてもらう、というのはある意味ではサギ的手口です(苦笑)。
だって、自分が好きでなないものの見栄えをちょっとばかりよくして、まんまと売りこんで、買ってくれたらしめしめと喜んでいるというようなものだからです。
自分こそが売りこんだ商品を信用していないのです。好きじゃないけれど、パッケージ、包装紙をなんとか見栄えよくしたら、あ〜ら!売れちゃった!やったぜ!、という感じです(笑)。
しかし、彼らが好きになってくれないと(でっちあげた自分を認めてくれないと)、やっぱりダメなのかと振りだしに戻ります。
(でも、彼らが認めないのは、彼らの勝手、あくまでも彼らの自己都合であって、ほんとうは私自身とはな〜〜〜〜んにも関係がないのです。しかし、それさえも自分と関係あると思ってしまうところが、すべての目線が自分の不足感だけに向いている、ということなのです。)
そもそもの大きな間違いは、
自分に対して自分が不信感をもってしまっていた、ということです。
自分のこころのなかで、「私ってなに?」「私ってどんな存在?」と、自分自身の価値について答えを求めた相手が、とんでもない詐欺師だったのです(それは、エゴとしての自分です)。
ほんとうのことを言うはずもなく、答えるこたえは、気落ちすることだけ、怖くなるようなことだけ、これっぽっちの愛もないツライ言葉なのです。
だったら、静かにして、こころを落ちつけて、ゆったりとした気分でもういちどちゃんと尋ねてみましょう。あるがままのほんとうの自分を知りたいと。自分の正しい価値を受けとりたい、ホンモノに答えを求めてみましょう。
宇宙は「求めた」からには、答えを与えてくれます。
あなたの正気であるハイヤーセルフに、ほんとうの自分を教えてほしいとお願いしましょう。
きっと、宇宙(神さま)は不良品や粗悪品はど創造していないのだ、ということを教えてくれることでしょう。そればかりか、自分がびっくりするような自己イメージを教えてもらえることになるでしょう。
でも、この答えは、「人」に頼っているときには受けとることはできません。方向が違うからです。ほんとうの自分に向かわなければなりません。
間違った自分像を正当化するために、賞賛、承認を他人から求める注意&愛情吸血鬼になるのをやめましょう。
正しい努力とは、人から認めてもらう、受け入れてもらうために払う努力ではなく、
自分ではない想い・イメージを自分のこころから一掃するために払う努力です。
正しくない想いさえこころのなかに存在しなければ、誰に対してもなにも要求する必要はないのです。
そうなれば、人の目線、反応から自由になることができます。
そのためには、こころに風をとおして、ほんとうの自分でない想い、愛でない想いはハイヤーセルフのごみ収集センターにお願いして一掃してしまいましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちが恋をしているとき・・・
その存在がこころからはなれず、
気がつけば、四六時中、その存在にこころをうばわれ、
なにが起ころうとも、その存在とからめて考えてしまいます。
恋をする相手は、リアル男性、女性にかぎりません。ちょっと変わったところでは、ダムや建物、巨大建造物に恋をする方もいらっしゃいます。
あるいは ・・・ 悪魔に恋をする場合だってあるのです。そして、苦しみながらも、恋をしていることに酔いしれます。
ふ〜ん・・・そんな人もいるのね、漫画やドラマではありそうな話しよね、って?!
いえいえ、それはあなたのことかもしれません。
四六時中、自分にとって役に立たない、自分を怯えさせるようなコワイことばかりを考えつづける・・・。
あ〜なったらどうしよう、こ〜なったらたいへん、いや、そうなるに違いない・・・。そうだ!そうなるに決まってる!ああ、どうしたらいいの?!(汗)・・・もう体がつめたくなって、いっきに具合が悪くなってしまうのです。
でも ・・・ まだなにひと〜つ起こっていません。し〜んとしています。アタマのなか以外は・・・。
これはまさに、悪魔に恋をしている状態。「怖れ」にこころをうばわれ、「苦しみ」に執着しているのです
つねにコワいストーリーばかり考えつづけ、いつもそんな考えでこころがっぱいで、コワさに酔いしれ、コワいこと以外考えられません。
まさに、「怖れ」と恋におちています。
こんなふうに、自分が「怖れ」に恋をして、こころを捧げるあまり、それを自分のものにしていることに気づいていません。
クライエントさんから、眠れません、不安で不安で仕方ありません、具合が悪くなってしまいました、という言葉をたびたび耳にしますが、
そのたびに、「どれほど自分自身で自分を怖がらせているのか」に気づいていないことがわかります。
自分を苦しめているのは、今起きていることやその状況ではなく、自分の考えじたいがコワイのです。
どうしてもコワイ方向に行きたがっている自分に気づいていません。
なんせ、「怖れ」と恋におちているからです。こころは「怖れ」に占拠され、すべてのことを「怖れ」とからめて考えることしかできなくなっているのです。
もし自分がこころを捧げている相手が自分を幸せにしないとわかったときには、私たちはその存在を手放すという選択をすることができます。
もしや、私は「怖れ」に執着していることで、自分を幸せにしていないのではないか?と感じたら、キッパリと方向転換をいたしましょう。
大切にしたいのは「怖れ」などではない。感じたいのは「喜び」である、と気づきましょう。「喜び」を自分の目標にいたしましょう。
それは、「私は喜ぶのだ!」とこころに決めることです。すべてのことのなかに意図的に「喜び」を見つけることです。
私たちは「見つけよう!」とするものをかならず見つけることができます。それがこころの「創造する」ちからです。
「喜び」について考える時間をたくさんもちましょう。「喜び」の機会を少しも逃さないように、あらゆる瞬間に「喜び」を見つけましょう。私のすべきことは「喜ぶことだ」とこころを変えましょう!
こころこそが、自分の体験を決める原動力そのものです。
こころが「喜びと恋をするの♡」と決めたのなら、必ずやこころのなかに「喜び」が広がり、自分の視野のなかに「喜べること」が広がってゆくのに気づくことができるようになります。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちが怖れを感じるとき、不安にとらわれるとき、怒りがこみあげてくるとき ・・・ どのように対処しているでしょうか?
私たちは「感情」の扱いについて学んだことがないために、対処法だと信じていることがかえってその感情を抑圧してしまうことが多いのです。
人に話す、買い物をする、大食いに走る、ギャンブルをする、お酒でまぎらす・・・など、ストレス発散のためによいとされていることですら、じつはどれもその場しのぎの気分転換にすぎません。
なぜなら、それらは感情から「逃れるため」に気を紛らわせているので、感情そのものは行き場を失い抑圧されてしまうのです。
ネガティブな感情を手放すときのポイントは、
1、まずは感じている感情から逃げずに、あるがままに受けいれてみる(抑圧せずに感じる)
2、受け入れることで、感情は自然に消滅することができる
3、不安な感情が消滅すれば、自然に安らぎがあらわれてくる、ということです。
では、誰もが簡単にできる風船をイメージした感情のエクササイズをご紹介いたします。
簡単なイメージングですので、お子さんでも使うことができます。
こころの安らぎのためのエクササイズ
〜 ネガティブな感情を手放す風船エクササイズ 〜
1. 目を閉じて、深い呼吸を三回くりかえしてみましょう。
2. 今感じている感情(怖れ、不安、怒り・・・)を価値判断することなく、ただあるがままに感じてみます。
「こんなふうに感じていてもかまわないのだ」と。
3. その感情はあなたの心のなかに存在しているのだから、あなたこそが手放す選択をすることができるのだ、ということに気づきます。
4. 今、自分の手のひらに風船があるのをイメージしてみましょう。
5. リラックスして、深呼吸をしたら・・・
6. さあ・・・大きく息を吸いこんで・・・そして、あなたがもっていたくないと感じるネガティブな感情(怖れ、不安、怒り・・・)や考えのすべてを風船のなかへと吹きこんでしまいましょう。
7. 大きく息を吸いこんで・・・風船をふくらませて。
そう・・・いいですよ。
8. 大きく息を吸いこんで・・・さらに風船をふくらませて。
9. こころがカラッポになって心地よく感じられるまで、風船をぱんぱんにふくらませていきます。
10. そして、風船の口をきつくしばったら、風船を手放してしまいましょう。大空へと風船を飛ばし去ってしまいましょう。
11. 風船は風にのって、遠くへ、遠くへ・・・どんどん小さく小さくなって・・・そして、ついに消えさります。
12. とても静かで穏やかです・・・
13. 今、あたたかな美しい光があなたのもとに降りてきて、あなたをすっぽりと包みこみます。
14. あなたはその光とひとつであり、その光に守られていて安全だと感じています。
15. とても静かで・・・穏やかで・・・あなたは安全に守られています。
16. リラックスして、しばらくこの瞬間をあじわってみましょう。
17. 深い喜びと安らぎがあなたとともにあることに気づき、受け入れてみましょう。
18. この安らぎや喜びの感覚は、いつもあなたとともにあります。なぜなら、それがあなたの自然な状態であり、ほんとうのあなただからです。
19. さあ、そろそろこちらに戻ってくる時間です。
20. まわりの音に気づいてみます・・・そして、ゆっくりと目をあけましょう。
***
MINDFULNESS EXERCISE
~Balloon Exercise To Release Negative Emotion~
1. Close your eyes and take a deep breath three times.
2. Allow yourself to feel the emotion you have now (like fear, anxiety, anger ...) without judgement. You tell yourself " It's OK. I can feel that way."
3. Notice that the emotion exists only in your mind, so you can choose to release it.
4. Now imagine you are holding a balloon in your hand.
5. Relax and take a deep breath…
6. Now…Take a deep breath ... and blow up the balloon with the negative emotion you are feeling or the unwanted thought you are having (fear, anxiety, anger....)
7. Take a deep breath ... and keep blowing up the balloon….
- Good.
8. Take a deep breath ... and keep blowing up the balloon….
9. Keep blowing up the balloon until it is full, and you feel better (feel your mind empty).
10. Then tie the balloon tight, and let it go…let it fly… high into the sky.
11. It's riding the wind and going far away, getting smaller…and smaller…and finally disappears...
12. You notice it is so calm and quiet…
13. Now…a warm, bright light is coming down and embracing you all over.
14. You are one with the light, and feel you are protected by the light.
15. It’s so quiet …and so calm....you are safe and protected…
16. Just relax… and enjoy this moment for a while.
17. Accept and notice the feeling of deep happiness… and… peace.
18. This feeling will always be with you. It's the natural state of your real self…the real you.
19. Now it’s time to return.
20. Notice any sounds around you… and slowly open your eyes…
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
昨日、別々の方から耳にした同じようなひとこと。それは・・・
「パートナーの様子が変で、私のせいかしら?私が煩わしいのかしら? と一瞬考えてしまいました」
「自分に対する家族の態度がひどく、自分には価値がないのではないか? と孤独な気持ちになってしまいました」
どちらも相手の態度によって、自分はダメなんだ!と感じてしまったということなのです。たしかに、むかし私も相手の態度に反応していた自分がいたのを思い出しました。
相手が冷たかったり、予想外の反応をしたりすると、わたしたちはついつい自分が攻撃されていると感じてしまいます。すると ・・・結局は、自分を守るために同じような攻撃的な態度をとることに。
「自分が攻撃されている」というのは、正しいのでしょうか?
ものごとの見え方というのは、自分の立場による自分の価値観そのものです。そして、「自分の考え」についての反応をとることになります。
ということは、「煩わしく思われている」「価値がないからひどく扱われている」というのは、「自分自身」の考えであって、自分が自分に対してそう思っているということなのです。決して「相手」の考えではないのです。自分こそがそう判断したのですから。
そして、私たちは「自分」の考えに巻きこまれ、その考えのとおりに「煩わしい存在として」「価値のない存在として」反応してしまいます。まさに、自分の考えをあらためて承認したことになります。
これって、自分で自分を傷つけてる・・・?!(汗・私もむかし思いっきりやっていましたよ〜!)
人が機嫌が悪かったり、攻撃的だったり、いつもと違うのは、「私のせい」というよりは、その人が自分自身のなかで混乱をきたしているにすぎません。その人も同様に「自分」の考えにとらわれていて、こころが誤作動を起こし、そのモヤモヤが表現されて、そのような態度になっていたのです。
でも、私たちはそれを「自分への攻撃」として受けとります。
すみやかに「被害者」の立場をとろうとするのです。「被害者」! それこそが、じつは問題なのです。
「被害者」になろうとしなければ、「あら?いつもと様子が違うわね。なにかイヤなことがあったのかしら?」と感じるかもしれないし、「なにかが思うようにいかなくて、自分を責める気持ちをどこにもっていっていいのかわからないのね!」と理解の気持ちをもてるかもしれません。
しかし、自分で自分のことを「どうせ私なんて!」と感じているときは、自分のことしか考えられなくなっています。どのようなネガティブな態度も自分に向けられた攻撃であり、自分の無価値さを示されているのだと感じてしまうのです。
それは、自分だけを見て、自分のことでアタマがいっぱいになってしまっている状態です。(こうなると、目に映るものなんでも、「私への嫌がらせね!」「私を攻撃しているのね!」と間違った解釈をするようになってしまいます。)
つまるところ、人間関係は「自分がどのような存在であるか」ということをあちこちに見ているにすぎません。人間関係は、「自分の考え」との関係なのです。
相手の態度に対する反応が「被害者」のパターン(どうせ私なんて!というイジケモード)に入ってしまいそうになるときは、ハイヤーセルフにお願いして、正気である愛に戻してもらいましょう。
「今、この状況を正しく見ることができないでいます」「私の真のアイデンティティは愛です。どうか、その愛のなかで正しく見られるようにしてください」と本来の自分に戻してもらいましょう。
私たちはなぜか、「傷ついているのは自分だけである」という思いこみがあって、まわりの人も自分と同様にさまざまな痛みがあることを忘れがちです。
とくに相手が男性だったり、あるいはいつも明るく強い人だったりするとき、「この人は傷つかないにきまってる。傷つくのは私だけだ!」と信じているところがあります。
でも、性別に関係なく、見えている性格にかかわりなく、みんなこころの中に痛みを抱えています。
誰もがまったく「自分と同じ」で、相手だって被害者になるし、自分には価値がないと感じることもあるし、孤独にさいなまれるし、混乱をきたしてまわりにまき散らすこともあるのです。「私」だけでなく、みんな同じなのですね。
だから、相手の態度がおかしいときには、自分の「被害者意識」はいったん脇において、「きっと私と同じに感じているに違いない」と理解しようとする気持ちをもってみましょう。
あとはハイヤーセルフにお願いして、愛を道しるべに導いてもらいましょう。
自分自身を癒して幸せになりたいと思っているとき、じつは相手の気持ちが理解できるようになることがとても大切です。
相手の気持ちがわかるようになると、自分が隠して気づかないようにしていた弱さを受け入れることできるようになり、はじめてその痛みを手放すことができるからです。
相手の痛みへの理解とは、じつは自分のこころのなかで隠されてしまっていた痛みを癒すことにつながるのですね。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q: 自分にとって大切な人であるとわかっていても、どうしても相手を赦せないことがあります。怒りから関係を断ち切ってしまいたくなります。
A: 「怒り」とは、いったいなんでしょうか?
「怒り」が意味しているのは、あなたがしたことによって私をは傷ついた、それによって私は攻撃された、だから「あなたは罰せられるべき悪い人」で「私はよい人だ」ということ。
つまり、怒りは自分を「よい人」だと主張し、相手は「悪人」であるというレッテルをはりつけます。
相手に一方的にはりつけて「悪人(罪人)」のレッテルはほんとうに正しいのでしょうか?
このことの方が、相手への攻撃なのでは?!
自分は「よい人」であると主張する必要があるとしたら、じつは無意識のうちに「私は悪人にちがいない」と自分が信じているのでは?!
「わたしこそが悪人(罪人)」という思いを取り消すために、自分のかわりに誰かが「悪い人」になりかわる必要があると思っているのでは?!
エゴは誰かに間違いを見つけて、そこに怒りという爆弾をおとせば、自分は救われて相手を「悪い人」にすり換えることができると信じています。
つまり、怒りは自分のダメさから救われるための攻撃だ、ということです。
しかし、これがあまりに巧妙に行われているので、自分が怒りを感じているときに気づくことが難しくなっています。まるで怒ることこそが正当であるかのように錯覚してしまいます。
けれど・・・自分を「悪い人」と感じていないかぎり(こころに罪悪感がないかぎり)、怒りという爆弾を使おうとは思わないのです。愛と安らぎに満たされて幸せな自分をイメージしてみましょう。怒りなど感じたいとも思いません。
愛で満たされているときに(罪悪感がないときに)、自分が理解できない状況に遭遇したら、おそらく「これってどういうことかしら?」とそれを理解しようと近づくだけです。
起きていることに対する理解が欠けているだけだとわかっているからです。
でも、怒りという爆弾を投下するとき、そこに理解や近づく気などなく、ただ「失せろ!」と言っているのと同じなのですね。完全に関係を破壊して、消し去ろうとします。(問答無用で!)
なぜなら、自分の隠しもっていた「悪い人」を相手のなかに見て、相手が「悪い人」となったので、さっさと視界から消え去ってもらいたいからです。失せてほしいのです。
でも、たとえ人のなかに自分の隠していたものを見て切り離したとしても、自分のこころのなかにはまだ「私は悪い人だ」という想いはそのまま残っています。これでなくなりはしないのです。
怒りを感じたとき、すこし冷静になる習慣をつけましょう。
「あ、自分は今、相手に攻撃されたと信じて被害者になりたがっている」「自分のなかにイヤな感じが浮上してきているのを相手のせいにして、自分を誤摩化そうとしている」「相手のなかにあるものとして、切り離して終わりにしたいと思っている」、けれども「それをしてしまえば、自分のこころのなかの間違いを温存して自分を不幸にする」と気づいてみましょう。
じつは、その怒りこそ自分を困難から解放するためのサインだと気づくことができます。
なぜなら、自分の苦しみの元凶である「私は悪い」「価値がない」「ダメなんだ」という罪悪感の存在に気づかせてくれたからです。今こそ、それを手放すチャンスなのです。
怒りは、爆弾として相手に投げつけて破壊するのではなく、
ただハイヤーセルフに渡して、光のなかで消し去ってもらいましょう。「このような怒りは私がもちがいものではありません」「ほんとうの私ではありません」と。すると、「価値のない感覚」「ダメだという思い」とともに消してもらえます。
愛以外は必要のない感情で、ただ取り去るためのものです。せっせとハイヤーセルフとともにゴミ焼却場へと運ぶべきものです。
怒りが顔をのぞかせたら、すぐにゴミ出しできるようにならなければなりません。
自分が相手に投下した怒り爆弾は、いつか数倍返しでかならず自分に戻ってきます。そのとき、なぜ自分はこんなにツイていないのか、なぜこんなめにあうのか、どうして幸せになれないのか、といぶかるかもしれません。
そして再び起きていることに怒りを感じて、こころのゴミをためこむ同じパターンをたどるはめになります。
怒り(攻撃)こそが、どれだけ自分にふりかかる困難を多くするかに気づいてさえいたら、誰もがそんなに簡単に相手に対して怒りという爆弾をなげつけることはなくなることでしょう。
怒りと自分の経験する困難との相関関係が明らかでないので、怒っても自分の安全を確保しただけだと勘違いしてしまいます。
そうすることで自分の罪悪感を正当化して温存し、その罪悪感ゆえに自分を痛めつけることになります。
自分が幸せになりたかったら、自分のもの(自分の感情)は自分が責任をもって処理いたしましょう。それは、たんにゴミとして、ハイヤーセルフに手放す習慣をもつだけでよいのです。
怒り爆弾を投下してたったひとりでスッキリ感にひたるよりも、愛のなかで人とつながる安らぎや喜びを感じたいとお願いしてみましょう。
きっと、自分の日常のなかに嬉しいことや喜ばしいこと、愛がふえてゆくのに気づくことでしょう♡♡♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
仕事にしろ、人間関係にしろ、お金や病気やさまざまな苦痛、困難にしろ ・・・ 世にいう問題が目のまえにあらわれると、私たちはおのずと問題を敵として扱い、「問題(敵)」vs 「自分」という構図で戦おうとします。
でも ・・・ もし、その問題自体が自分の足をすくうために自分自身が編みだしたものであるなら、それに挑みかかることは自ら術中にはまりこむことになります。まさに自爆行為です。自分と戦っても勝者はどこにもいません。
もともと転ばせることが目的ならば、対決姿勢で問題は解決されることはなくさらに悪化することになります。
だとすれば、問題を解決するためには別のやり方が必要です。
問題が見えているとき、それはこころが真の自己からそれて偽りのエゴとして障害を作り出しているときです。
ならば、こころを真の自己に戻してあげることこそが解決策となります。
しかし ・・・ 残念ながらエゴが自分で自分を正気にしてあげることはできません。すでに何が正気かわからないからです。
ニセモノに憑依されているときに、自ら正気になれるのであればとっくに正気になっているはずです。(それに、狂人こそ自分がまっとうだと主張しがちです・笑)
いったん脱線してしまった列車が自力でもとに戻れないように、正気に戻るにはより力のある存在の助けが必要になります。上に吊りあげてもらって、正しい位置にリセットしてもらわなければなりません。
そのためには、とりあえず脱線していること(問題があること)に気づいて、「自分ひとりでは正しい状態に戻ることができません」「助けてください」と謙虚に負けを認めることが必要です。(負けていると認めない限り、だれも真摯に助けを受け入れないからです。)
そして、大きな力に働いてもらうために、すでにおかしくなっている自分は脇にどく必要があります。脇に退いて高い存在に場所をあけ、そのちからに委ねることこそがエゴのワナからの脱出方法です。
しかし、これが簡単なようでなかなかできません。
負けを認めることは、プライドがゆるさないからです。助けを求めることは弱さであり、恥ずかしいことであると信じているので誰の手を握ることもできません。
だから、自分ひとりで挽回できると信じて、エゴの仕掛けたワナのなかで戦いつづけることを選択します(・・・負け戦とはつゆ知らず)。
どこまでも私たちはボス面をしていたいのです。
「脱線したので正してください」と高い存在に丸投げしてしまえば、すぐさま光のクレーンがやってきて正してもらうことができるのに・・・トホホ・・・残念なことです(汗)。
以前に観た「War Room」という映画を思い出しました。そこには、「退く」「明け渡す」「委ねる」ということをみごとに行いながら、すべての問題を解決するクララという女性が描かれていました。
クララの家には、Answered Prayer(叶えられた祈り)という額が掲げられています。
これは、すでに答えが与えられた問題の数々が誇らしげに列挙されているのですが、その答えのすべてはこの家の片隅にある「War Room」という小さなスペースから生み出されていたのです。
「War Room」とは、戦いのための戦略を練る部屋、いわば参謀本部ことです。
クララの「War Room」はウォークインクローゼット。彼女は日課としてそこにひとり退き、静かに高い存在とつながる時間をもち、自分やまわりの人々の問題のすべてを委ねることをしています。
これが、クララにとって問題と戦うための戦略なのです。
クララいわく、「みんな戦う相手が誰であるかわかっていない。さらに、戦うためには、正しい戦い方と戦略が必要なのだ」と。
つまり彼女は、自分のこころ(エゴ)が生み出したものと直接戦うことで問題は解決できないことを知っていたのです。さらに、正しい戦略とはものごとを変えようとすることではなく、こころこそを変えてほしいと高い存在にお願いすることだともわかっていました。
だから問題に直面すると、自分が脱線状態であることを正直に認めて、どうか正しい場所に戻してくれるよう熱心に祈るのです。実際に問題と戦うことはせずに、静かに退くことに時間を費やします。
クララはキリスト教徒なので、まるで目のまえいにイエスが立っているがごとく情熱的に語りかけます。大いなる存在と自分との距離がまったく存在せず、まるで信頼できる友人に困りごとを相談するように、助けがえられることを確信して話しつづけます。
完全に委ねきるために真剣に祈ることこそが、正しい問題解決法なのだとクララは知っていたのでした。(この映画は「War Room」というタイトルですが、邦題は「祈りのちから」となっていました。)
私たちのエゴは私たちがここで失敗をくり返し、罪悪感の壁をどんどんぶ厚くしながら、本来の自分自身のから遠のいて闇に沈んでゆくことに喜びを感じています。
だから、真の解決法とはワナである問題に突進して戦いを挑むことではなく、そのような問題をつくり出したエゴのこころを正してもらうべく、自分は静かに退いて高い存在に助けを乞うことなのです。
高い存在とは、自分にとって心地よいシンボルであればかまわないので、ブッダでもエンジェルでもマリアさまでも大いなる光でもなんでもよいのです。
そして、自分は助けが必要であることを謙虚に認め、間違ったこころを正してもらえるように真剣にお願いし、すべてを委ねます。
あとは、その後に自然に起こってくることに抵抗せず、信頼して身をまかせてゆきます。ただ安心して見ているだけで、特別なことは必要ありません。
これがこころの脱線を正すことであり、自然な流れのなかで関係するすべての人にとって役にたつ真の解決へと導かれる方法なのです。
PS War Room がなくっても、大切なのはしっかりとこころを高い存在に向けてつながろうとすること。それは人との関係とまったく同じですね。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちが何かに悩んでいるとき・・・ たいてい、そのスタート地点ですでに間違ってしまっていることに気がつきません。
悩んでいる・・・ つまり、苦しんでいる、ということは、何かによって攻撃されているということですが、その何かがじつは存在していないものなのです。
たとえば、クライエントのAさん。
「最近、彼が連絡をくれません。嫌われてしまったのかも ・・・」「もう私には興味がなく、終わりになってしまうにちがいない」と涙をこぼされます。
「スタート地点で間違っている」というのをAさんの場合で考えると、
彼はAさんに対して、「嫌いになりました」「興味がありません」とはひとことも言っていないのです。さらに、「連絡がない」 = 「嫌いになった」証拠ではありません。自分で勝手に解釈し、悲しい結論を出してしまっています。
つまり ・・・ 心配ごとは、全部Aさん自身の考えによるものであり、推測にすぎない、ということなのです。実際に起こっていることではなく、自分の解釈です。
自分の解釈に対して抵抗していることになります。
「連絡がない」とき ・・・ 彼は、生活するだけで手いっぱいなのかもしれないし、なにかこころがモヤモヤしているのかもしれないし、あるいはただ自分の活動に集中しているだけなのかもしれません。はたまた、最近心配な表情を見せるAさんに対して、自分こそ嫌われたと不安に思っているのかもしれません。
が、これも全部推測です。結局、何を考えても真実ではないのです。
私たちは「何も本当のことを知らない」し、「何が真実かもわからない」のです。
自分の考えとは、自分独自の解釈で、ある意味「でっちあげ」なので、その考えに悩まされていることになります。
私たちの自動的な解釈は、自分を守りたいという自己防衛本能が働いているため、どうしても「攻撃的な見方」「被害者的な考え」になりがちです。
「私は攻撃されている」「傷つけられている」「ひどい立場におかれている」「悲惨なことが進行している」・・・エゴはドラマチックな悲劇の主人公が大好きです。
その目線からものごとを見れば、なんでも脅威に感じるし、自分を守らなければならないと感じて反撃にでてしまいます。
ついにその不安に耐えられなくなると、自ら関係を破壊し、立ち去ることでラクになろうとします。(あんなに相手を失うのがイヤといっていたのに、自分から破壊して去って行くのは本末転倒です。エゴのおもいは、いつもツジツマがあっていません!汗)
「可哀想な独りばっち」になることこそが、エゴがもくろんでいることだからです。
なので、他からやってくるように見えるどのような攻撃であっても、「攻撃」は自分のこころのなかにしか存在しないのです。
目にうつる出来事(形)は、じつは何も意味していません。
形だけで判断してしまうと、そこにある意味(内容)が見えなくなってしまいます。星の王子さまが言ったように、「ほんとうのことは目に見えない」からです。
だから、見かけではほんとうのことはわからないことを理解して、まったく判断などしないことです。
Aさんにも、「そのいろいろな推測がなかったらどんな気持ち?」とおうかがいしたら、「平和な気持ち」とおっしゃいました。その自分の判断こそが、苦しくさせているがわかります。
だから、判断するよりもこころをからっぽにして、あるがままを受け入れます。判断のかわりに、つながる気持ち、思いやりの気持ちで状況を見てみます。
この関係において、自分がすることは「反撃すること」ではなく、「愛すること」だと思い出しましょう。
批判はすでに攻撃なのです。攻撃してしまったら、もう愛するという選択肢は失われてしまいます。相手は敵になってしまったからです。
ただなにも判断せずに(攻撃せずに)、こころをカラッポにしておくと、そこにはすでに愛があります。そしてカラになったスペースに、ハイヤーセルフからただしい見方がポトリと落ちてきて導いてくれます。
たとえば、Aさんの場合だったら、すでに不安になっている感情は受けとめて感じてあげます。そして、「私は彼に何が起きているのかわかりません」といったんこころをカラにして、「ハイヤーセルフ、私が彼にできることは何でしょう?」と尋ねます。
もしかすると、「彼のこころは今、モヤモヤしているのかもしれない(そう!私たちは誰でも自分でもわからずモヤモヤするときがあります。)だったら、電話をして、彼の話しをとことん聞いてみようかな。そうしたら、こころが少し軽くなるかも」・・・そんなインスピレーションがやってくるかもしれません。
愛するとは、つながろうとすること。「してもらうこと」をじっと待っているよりも、なにができるかな?と相手に対して「できること、与えられること」を思いやります。つながろうとします。
自分の悲惨なストーリーにはまりこむことなく、おもいやり、気づかい、つながりのこころで与えようとするのです。
私たちのこころには、つねに自分を不幸にしようとするエゴの声がひそんでいます。
その声をやすやすと受け入れてしまうと、存在さえしない架空のストーリーに迷いこみ翻弄されることになります。
怖れの気持ちを手放して、こころをまっさらにして、ただ受け入れる、近づく、与える、つながりあうことだけを目標にしてみましょう。
自作のでっちあげのストーリーさえなければ、安らかなこころのなかでただそこにあるほんとうのことだけが見えてきます。
そして、それはいつもお互いにとって必ず癒しになるように働き、こころが繋がりあうことを体験できるようになります。そもそも出会いの意味じたいが、癒してつながりあうためなのですから大丈夫☆
エゴの悲しいストーリーは、すべてハイヤーセルフに渡してしまいましょう。そして、攻撃という見方ではなく、つねに愛とつながりを選びましょう。
ただまっさらなこころでおもいやりや気づかいを「与える」ために、相手とつながってみましょう!
それが、私たちがここに学びにやってきたことだから。学べがかならず贈りものがやってくるからです ♫•*¨*•.¸¸♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
A:「頭痛やだるさ、発熱など、体調の悪さをくり返しています。クスリもだんだん効かなくなってきました」
Q:「そうですよね〜。こんな梅雨どきは誰もが体調の悪さに悩まされがちです。それにコロナのストレスもありますし」 ・・・
そう言われると「そうだよね!」とちょっと安心したりしますが、こんな「もっともらしい答え」にだまされてはなりません。真の原因と解決から自分を遠ざけてしまうからです。
無難な答えはそれっぽく聞こえるので納得しがちですが、ほんとうの答えを見つけないためのオトリにすぎません。
自分の外側で起こっていることは一切、自分の原因とはなりえないのです。だから、問題が解決することはありえず、また再び起こります。
自分に起こることはなんであろうと自分のこころにしか原因はなく、決して外側にはないからです。
私たちはいつでもどんなときでも、「自分のこころが望んでいるもの」だけをきっちりと自分に体験させることをくり返しています。
「そうはいっても、体調の悪さなんて自分は望んだ覚えがないのですが」・・・たしかに ・・・。
私たちのこころの大部分は意識することができない無意識の部分なので、そこにどのような決断があるのかは当の本人にもわからないのです。
それが苦痛や不調、問題となってあらわれてはじめて、自分のこころになにが潜んでいるのかを知ることができます。
さらに、私たちのこころのなかには二人の自分(ホンモノとニセモノ)が存在していて、ホンモノはニセモノによってまんまとのっとられている状態なのです。
ということは、私たちの目にする問題は「意識できないこころに潜むニセモノの決断からやってくる」ということになります。
ホンモノの自分からしたら、「そんな体調の悪さは、私にはありえない!だってわたしは完全さそのものだから。喜びやしあわせ以外、私にふさわしくないのです」というはずです。
けれど、ニセモノに完全にのっとられた状態であるならば、この体調の悪さ、不調はニセモノのお望みの結果であり、それを目にしているにすぎません。
それを解消するためには、「ニセモノ(エゴ)はいったい、この体調の悪さを使ってなにを企てているのか」を暴くことが必要です。
くり返して一生懸命やっていることはすべて、なにか大きなメリット、手にできるなにかがあるからこそ続けられるのです。エゴはそれを手にして喜びたいのです。
つまり、体調の悪さや痛みはエゴにとってはなにか大変価値のあるものがてっ取り早く手に入る方法であり、それは絶対やめられないオイシさがあるわけです。
さて、そのオイシイなにかとはなんでしょうか?
人によっては、体調が悪くなることで、
「人に気づかってもらえる。優しくしてもらえる。つまり、注目されて愛をいっぱいもらえる」とか、
「やらなくちゃならないことをサボるための言い訳になる」
「仕事のパフォーマンスが悪くても、万がいち失敗しても、適切な口実になる」
「絶好調になってしまったら、どんどん責任がふえてしまう。頼られてしまう」
「不幸そうに見える自分でいることで、罪悪感を感じさせ反省させたい相手がいる」・・・etc
というような企みがあり、こういったことを達成しようとしているのです・・・が、
それを手に入れようとすればするほど、自分の「安らぎ」が失われていくことに気づくことができません。
私たちにとって、こころの「安らぎ」こそがしあわせの唯一の原因となるものです。うちに「安らぎ」があってこそ、それが外側へと映しだされ、それを自分が受けとることになるからです。
なのに、そのしあわせの原因である「安らぎ」をやすやすと失っていることに気づくことができません。
しかしエゴにとっては、「やすらぎ? そんなものはクソくらえだ!」というレベルなのです。
エゴの企みを野放しにしておけば、しあわせになるための原因は失われたままとなります。
内側の「安らぎ」が「しあわせ」のための唯一の条件であるなら、しあわせになりたかったらそれを死守しなければならないのです。
自分の「安らぎ」を乱すものは1ミリたりともこころに侵入させないぞ!というぐらいの勢いで。
そうとなれば、エゴの企みをしっかりと暴く必要があります。
エゴがこの体調の悪さを使って、どのように欲しいものを手にいれようとしているのかを見てみると、それはただ「欠乏、不足」という間違った考えを守ろうとしているにすぎないことに気づきます。
間違った信念に気づいたら、ただその想いをキャンセルするだけです。(用途なないと認められたものは、たやすく手放すことができます。)キャンセルは自分でする必要はなく、ただ高い意識(ハイヤーセルフ)に不用なものを渡してしまうことで完了します。
大切にすべきこころの「安らぎ」は、たんに邪魔な想いをひとつひとつ取り去ることで達成されます。
邪魔なものがなくなれば、そこにはすでにまるまる完全なこころが存在しているからです。それこそが安らぎそのものです。
こころにしろ身体にしろ、なにか不具合を感じるときには、無意識となっているエゴの企みを暴いて手放すための浄化の機会といえます。体験となってあらわれてくれたからこそ、それを手放すことができるのです。
不調にむきあって、いったいエゴはなにを得ようと頑張っているのか、正直な気持ちでこころを探求してみましょう。
エゴの企みを見つけて冷静にながめてみれば、すでに完全であるはずの自分にとって、そのようなことをする必要などないことがわかります。
ハイヤーセルフに不用な想いはすべて委ね、完全さを受け入れることができるようにお願いしましょう。
する必要のないことをやめることこそが、自分の完全さを受け入れるために必要なことなのです。
エゴの想いをハイヤーセルフに渡したら、すでにそこにある「安らぎ」(本来の自分のスペース)のなかにゆったりと溶けこんでリラックスしましょう。
いままで不具合そのものに向けつづけていた注意を、「安らぎ」のスペースへと注いでみましょう。ほんとうの自分である「安らぎ」がよりリアルに力をましてゆきます。
そして、それが自分の外側に映しだされるようになることで、自分の見る世界を変えてくれるのです。
それが自分にとっての幸せな世界です。
すでにこころのなかにある「安らぎ」が輝きだすように、不毛な企みはすべてハイヤーセルフに手放してしまいましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q: ある出来事からイヤな気分を引きづっています。まるで、こころにうっすらと雲がかかったように感じるのですが・・・。
A: イヤな気分に出くわすと、まず私たちがしようとするのは気分転換。あるいは、「私はぜんぜん大丈夫!」とまったく感じていないフリをすることも。
このような感情の抑圧や無視は、そのときはうまくいくように感じるかもしれません。が、遅かれ早かれ同じ気持ちが戻ってくることになり、自分の感情に対して手におえないという敗北や挫折を感じることになります。
じつは「イヤな気分」というのは、「なにかが間違っている」というお知らせにすぎません。そこでするべきことは、間違いを正すことだけです。
そして、「間違っているなにか」とは自分の考えのことです。イヤな気分を感じているというのは、どこかで自分の考えが間違ってしまった、ということなのです。
「気分」というのは、自分の考えの結果として感じられるものです。
私たちは「ものごと」そのものがイヤな気分をもたらしたのだ信じがちです。けれど、「ものごと」には意味はなく、まったく罪はありません。
ひとつの「ものごと」でも、人によって「よかったじゃない!」と喜ぶ人もいれば、「最低最悪!」と落ちこむ人もいるし、こころになんの印象を残さない人もいます。
それぞれが意味を与えているので、人の数だけ「ものごと」の意味があるといえます。
ならば、「ものごと」じたいがイヤな気分を引き起こす原因ではないとわかります。
イヤな気分になるとしたら、どこかで「自分を傷つける考え方」を採用してしまった、ということになります。そのものごとに、「自分を傷つけるような解釈」を与えてしまったのです。
そして、そのとき感じるイヤな気分こそが、いつ自分で自分を傷つけてしまったのかを教えてくれるブザーのような役割をはたしてくれています。
しかし、私たちはイヤな気分を感じたとたん、そそくさとそこから逃げ出したくなってしまうのです。
なぜなら、外からやってきたなにかが自分をイヤな気持ちにさせたのだと信じているから。さらなる攻撃にさらされないうちに、早くそこから逃げなくてはと感じるのです。
そうすると、せっかくのお知らせブザーもスルーされ、「間違い」を正すためのチャンスがまた見送られてしまうことになります。
私たちのエゴは、イヤな気分という怖れを使って、目のまえのことに自分を釘づけにしようと企んでいます。
イヤな気分と出来事をリンクさせることで、その出来事こそが自分にとって脅威であるように勘違いさせることができるからです。すると、それに怯えて、きゃ〜きゃ〜わ〜わ〜することで、怖れというエゴは肥大して力を増すことができるのです。
つまり、こころのなかにあった怖れの気持ちとまったく関係のない事柄をリンクさせ、さもコワイことが起こっているように偽造することで、こころのなかで怖れを解決することを阻止しているのです。
そして怖れが温存されることにより、ほんとうの自分を思い出すことができなくなります。
本当の自分を思い出すことができなければ、安らぎは決して感じることができなくなり、安らぎがなければ幸せになることはできません。
解決策は、イヤな気分になったときには、出来事はさておき、イヤな気分をしっかりととらえて、それに向き合うことです。
「なぜ、今、私はイヤな気分になったのか?」 ・・・ この反応が起こるまえにあった、間違った考え、自分を傷つけている考えを洗いだしてみましょう。
そして、それが真実であるのか、問いただしてみましょう。自分ではわからないときには、自分自身の高い自己に尋ねてみましょう。
つねに自分に優しくない考え方を採用することによって、、自分自身を攻撃していたことにただ気づいてみましょう。(攻撃されていれば、誰だってイヤな気分になってしまうのです。)
その間違った考え方はハイヤーセルフに委ねて、正しくものごとを解釈できるようにお願いします。
自分のなかにある愛を、間違った考えで歪めてしまわない限り、怖れに遭遇することはありません。愛だけで見ていれば、すべてはキケンではないのです。
そのような自分本来の愛ある見方ができるようになるために、イヤな気分を喜んで訂正の機会とすることができます。
イヤな気分がやってくるたびに、自分の知覚に間違ったフィルターがかかって正しく見られていないことに気づきましょう。そして、汚れたフィルターをお掃除する機会といたしましょう。
お掃除さえしていれば、光は自分のなかにあるので、なににつけてもただその光を外に放ってあげればよいだけとなります
光は愛そのものなので、すべてを愛のなかで見せてくれます。
あらゆるものを自分の光のなかであるがままに見るのか、あるいは自分の傷ついた考えをとおして痛みのフィルターで見るのか・・・
すべきことは、ただせっせとこころのフィルターのお掃除あるのみなのです。
あとは、もともとそこに輝いている光におまかせなのです☆☆☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「街でお買い物をしていたとき、知らない人に理不尽な言葉をなげかけられイヤな気分になっていましたが、昨日のブログ『イヤな気分はものごとのせいじゃない』が役に立ちました」とAさんから気づきのシェアをいただきました。
よかった!グッドタイミングですね ( ・◡・ )
イヤな気分になる出来事に遭遇したときのために、もう少々つけ足しておきましょう。
じつは・・・そのイヤな出来事というのは、お初の体験ではありません。自分のこころのなかで、すでに何度も上映されてきたおなじみの場面なのです。
ビデオで同じ場面を何度も見ているように、今回がはじめてなのではないのです(それをこころが覚えている場合は、デジャヴ感がよみがえります)。
その場面は、こころが正しく認識するまで永遠に繰りかえされる映像なのです。(いいかげん飽きそうですが、うんざりしてホントにもうイヤになるときがきたら、案外あっさりとやめられるかもしれません・汗。)
正しく処理されたあかつきには、きれいに消去され終わりになります。
つまり、そのことに遭遇したのは偶然ではなく必然の出来事です。
また、そのときに感じる動揺もそのストーリーの一部であり、自動的に起こっているので自分を責める必要はありません(勝手にそうなっています)。
大切なのはそのあとです。そのあとにどう対処するか? それが、再び繰りかえすか、もう終わりにするか、のわかれめです。
イヤな気持ちを抑圧したり無視したりすると、それはこころに保存されてしまうのでまたやってくることになります。それに対する怒りも、そこに罪が存在すると信じていることになるので、やはりふたたび罪を見ることになります。
昨日のブログでも書きましたが、正しい対処の仕方は、「なぜ、イヤな気分になったのか?」。その「イヤな気分の原因となった考え」を探求して、それをハイヤーセルフに手放すこと、でした。
たとえばこんなふうにやります。・・・「 理不尽な言葉をなげかけられてイヤな気持ちになってしまった」 ・・・ なぜなら、
→ 私は攻撃されたと感じた → 私は簡単にやられてしまう存在だ → 私は小さく脆い → 大きな力に守られてはいない → 私はひとりぼっちだ → 誰とも何ともつながっていない → つながれない私は何かが間違っているに違いない → 間違ってしまった私 → 罪悪感
(注:これはAさんの信じていることではありません。ひとつのモデルです。)
正さなければならないのは、この攻撃や間違いや罪を信じているこころそのものです。
これらを信じているからこそ、同じストーリーを繰りかえし見つづけ、脱却できずにいます。
何度も見てきたこの場面で、今度こそ「ここに罪(間違い)が存在することを信じている自分」、「それを見ている自分」をゆるす、つまり「ぜんぶ、私こそが間違っていました」ということを自ら認めなければならないのです。
このように自分のこころにおいて被害者意識を手放すことが、自分の体験を変えるためのポイントとなる場所であり、考えです。
被害者をやめ、間違い・罪を信じていた自分を自分自身がゆるす、ということです。
ゆるす、ということは、こころのゴミを手放すことであり、そのゴミの下には自分の正しいこころがあります。それは、間違いを知らない、愛そのものです。
私たちが目にするイヤなこととは、自分が無視してきた無意識のなかにある思いそのものであり、それがイメージとしてあらわれたものです。
それを出来事として見たり感じられたときにはじめて、自分で「気づく」ことができ、手放す意図をもつことができます。
だから今度こそ、そこに見ていた(そこにおしつけていた)自分の無意識下の不幸をよぶ考えを手放す機会を役立てなくてはなりません。
このような取り消しを行ってゆくと、同じような傷つく場面は削除されてゆき、自分が目にするストーリーがしだしに穏やかになってゆきます。
なぜなら、そこにある愛という光が輝きだす余地が生まれて、その光のなかで世界が見えるからです。
自分を傷づけることができるのは自分だけ。そして、いつでもそれをやめるために気づくことができるのです♡ (´▽`)v
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先日観た「ワン・モア・タイム」というコメディ映画は、ロバート・ダウニーJr. 扮する青年が女友達の家を初めて訪れたとき、奇妙な記憶にみまわれはじめます。
「あれ?この家はなじみがあるぞ!」「彼女のお母さんに目が釘づけ!」、さらにさまざま場面が目のまえにちらつきはじめ・・・ 本人も動揺しまくり。
じつは、その青年は前世で若くして亡くなっており、女友達のお母さんがそのときの奥さんだったのです(つまり、女友達は自分の娘で、その家は自分の住んでいた家)。
その人生であまりに奥さんとラヴラヴだったためにこころ残りが大きく、高速で生まれかわってきて、そしてその記憶が甦ってしまった、というわけです。
これを観ていて、あまりにも前世の記憶がはっきりしすぎているのも人生ややこしくなるな〜と感じたのでした。
なんせ、女友達とそのお母さんの両方とぬきさしならぬ関係なのですから、どっちをどうしたらいいものか?! それに、こんなふうに見知らぬ青年が突如あらわれて「ぼくだよ!会いたかった!」と迫られても、「サギですかっ!?」としか思えません。
ほどよく忘れてから再びやってくるのが正解なのだと感じます(リンポチェになる子どもだって、まるごと前世を覚えているわけではなく愛用品選びからはじまりますものね)。
「ほとよく忘れて」というのは、関係性やストーリーのあれこれは忘れてしまっても、「感情」だけはしっかり忘れていないということです。
たとえば、初対面なのになにかザワザワ不快に感じるとか、逆にまったく知らないはずなのに全部知っているような親しみを感じるとか ・・・ よくあることです。
たしかに私たちは、うまくいかない人に出会うと「前世でなにかあったんじゃないの?」とか、ひと目で夢中になってしまった人には「私のこころが覚えているのよ」なんて、ごくふつ〜に言ったりします。
アタマが忘れていても、感情がすべてを教えてくれる、というわけです。
それは、無意識のなかにあるなんらかの記憶がざわめいて感情の信号のみを送ってくるから。その下にはたしかに、なんらかのストーリーがあるようです。
そして、その感情の記憶が、今回の癒しのレッスンの道しるべになってくれるのです。
もし全部のストーリーを覚えていたら、「きみが前世であんなことをしたから!」「いいえ!あなたこそ!」なんて、ストーリーにこだわるあまり過去の蒸しかえしになってしまいますものね。
ニュートラルではない「感情」の波だち(嫌悪、怒り、執着、しがみつき・・・)は、自分には乗りこえるべきハードルがあることを教えてくれます。その感情を癒して、ただ愛になれるようにと。
理由はわからないけれど「嫌悪感」を感じる場合 → 攻撃したい、拒絶したい
なぜだかこころを奪われて「執着」を感じる場合 → 依存したい、しがみつきたい
そこには、自分に対する「弱さ」や「足りなさ」という誤解が潜んでいるようです。
いずれにしても、「人間関係」というものはいつもレッスンです。
それは、過去の「やった」「やられた」のくりかえしや、「弱い」「足りない」の誤解を乗りこえて、相手の存在をとおして真の自分を思い出すためのもの。
過去の多くの人生のなかでは、嫌悪する人、執着する人に対して、注意を注ぎすぎるあまりに自分のことががお留守になり、自分自身を見失ってきたかもしれません。
けれど、こんどこそ、その人たちをとおして自分を思い出すために出会います。
どうしたら思い出せる??
人という存在は誰であっても自分を映しだす鏡の役割をしてくれるものです。私たちのこころは外を見て、自分という存在の価値を決めているからです。
自分の完全さを知りたい、自分の愛を知りたい、自分の安らぎを知りたい、自分の真の姿を知りたいと思ったら、
彼らという鏡のなかに、そのすべてを見たい、見ようと決めて、見ること。
鏡であるその人のなかに見えてしまったのだったら、それは自分のなかにかならずあるのだ!とこころは受け入れるからです。映っているのだから、まぎれもなく私は真の自分を見た!と。
そうして、そのように見てもらえた人たちも、「え?私のことが完全に見えたの?愛に見えたの?・・・」「だとしたら、それが私なのね!」とそれを受けとることができるようになるのです。
そして、まったく同じ性質をもつもの同士(あわせ鏡)として上下やランクがなくなり、違いがなければ「嫌悪」や「執着」という見方も癒されてゆきます。
全部が同じになったら、全部がひとつに見えてしまうのでしょう。
出会ったのであったら、こんどこそ手をとりあって真の私たちの完全さに目覚められますように! 愛すべきあわせ鏡に愛をおくりましょう♡
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なにかを「怖がる、怯える、恐れる」とき ・・・ それは出来事かもしれないし、人かもしれないし、未来やなにかの予感かもしれませんが ・・・ それを怖がっているとき、私たちはそれを崇拝し敬ってしまっています。
崇拝? 敬う? ・・・ ピンとこないかもしれません。
それが自分よりもずっと力があり、上位に位置し、それに支配されているように感じるので、コワい対象はつねに自分の支配者であり、神となってしまいます。
だから、盲従し、崇拝しているのです。そして、エネルギーも、魂も、意志も、明け渡してしまいます。
となれば当然、自分の正体について忘れてしまうので、自分が誰であるのかわからなくなってしまいます。そして、なにものでもない無力な存在だと決めてしまうのです。それが恐ろしさに拍車をかけます。
そうして恐れる対象にこころを奪われるうちに、自分のなかにあった「すべてを解決するための力」を自ら放棄してしまいます。
つまり、「恐れる」ということは、自分を記憶喪失に陥れ、自分の正体も、自分の血統も、自分の生まれも、自分の宝も、すべて忘れ去ってしまうこと。恐れに身をささげ、自分の尊さも、自分の力も捨て去ることなのです。
これが「恐れる」ということの弊害です。
「恐れている」とき、じつは「恐れを感じている対象」がコワいのではありません。
自分の感情こそがコワいのです。自分が誰であるのかを忘れてしまったゆえ、キョーフがつのります。
たとえば、残酷なホラー映画を観ているとき、ほんとうは誰も傷ついてはいないし、死んでもいません。たんに画像が流れています。
画像だけで実際なにも起こっていなくても、十分にコワいのです。それは、画像がコワいというよりは、それに触発されて引き出されてきた自分の感情がコワいからです。
ためこまれていた自分の感情がそれに反応して、こころの表面に浮上してきてコワさを感じさせているのです。
私たちが日常に感じる怖れもこれとまったく同じです。出来事に対してコワがっているのではありません。飛びだしてきた感情がコワいのです。
出来事というものは、冷静になって、いま目のまえに提示されていることにひとつひとつ向きあっていけば、「対処すべき事柄」として自然に解決に導かれてゆきます。そこにいちいち、恐れや動揺をくっつける必要はないのです。
過去の遺物である抑圧されていた恐れがこころの表面に飛びだしてきたとき、まるでこころのなかで警報機がじゃんじゃん鳴り響いているように感じます。
そうすると、意識は「目にしている対象はキケンだ!回避せよ!」と解釈します。そして、私たちはまたたくまにフリーズして、アタマが真っ白なり、目のまえにあるものはキケンだと判断し、闘おうとしてしまうのです。
でも・・・ゴーストはそこにはいません。
是非、「恐れ」と「出来事」はベツモノだと覚えておきましょう。
感じている恐れは恐れとして、感じて受け入れることで処理をすることができます。受けとめてもらえた感情は、ただ消え去ってゆくことができるのです。
そして、クリアなこころで出来事でむきあえば、恐れが占拠していた空間がお留守になるので、そこに自分の叡智がよみがえります。
その正しいこころから湧きでてくるインスピレーションに導いてもらうことができるのです☆
PS そもそも、ほんとうところ、恐れを感じているのは「自分」などではありません。
「私は怖い」と叫んでいるその恐れを客観的に観察できるのなら、自分と恐れて叫んでいるものの間にはなんらかの距離があるということです。恐れは自分から離れて存在しているようです。
つまり、恐れているモノ VS 自分。自分は恐れているものと向きあっている存在です。
ならいったい、誰が恐れているのでしょうか? ・・・ ただ「そんな感じ」がそこにあるだけなのかもしれません。
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静まりましょう。
言葉がなくなり静かになると、自分が目にしているあれこれ、感じているあれこれ、聞こえているあれこれが ・・・ 自分の内側に存在するようになります。そして、それらはただ流れてゆきます。
私たちがものごとを目にするやいなや発してしまう「あ〜だこ〜だ」のセリフは、流れゆく一連のものをバラバラに引きちぎってしまい、互いに対立させ、対立しているからこそキケンなものになってしまいます。
だから、問題があるように思えるときは、ただ静かにしてみます。
まったく裁いたり抵抗したりすることなく、それらが私というスペースのなかを無条件に通りすぎてゆくのを赦してあげましょう。(これが受け入れること、つまりほんとうに赦すことです。)
そうすると、それはただ過ぎゆくものとなり、消え去ってゆきます。
しかし、そこにあれやこれやの判断や抵抗がくっついてしまうと、それをしっかりと握りしめ、消え去ることを許さず、イチャモンをつけていることとなります。
ケンカを売っちゃったのは自分、つまりひきとめて消えることを阻止しているのは自分自身なのです。
さまざまな困ったことにしろ、身体の不調にしろ、誰かの困りごともしかり、
私たちは勇んでそれに向き合い、対峙することが正しいと信じてきましたが ・・・ まずは静かにして、すっかり手放してあげましょう。
それらをただスルーしている状態です。
もし、それに対して何かすることがあるのならば、ひらめきがやってきたり、身体が勝手に行動を起こしていることでしょう。必要ならば、なにかを自動的にしているのです。
目のまえを流れてゆくものに注意をつかい果たさなければ、もともと存在していた自分自身の叡智が姿をあらわし、ちゃんとお仕事をしてくれます。
静けさのなかにいるとき、私は窓の外を見ながら、街を歩きながら、カフェに坐りながら、まるで世界がホッパーの絵のようだわ、と感じます。
しんとした静寂のスペースが広がっていて、そこに人がいるにもかかわらずまったくストーリーやドラマは感じられません。空間はなんの混じりっけもなく静けさをたたえたままポカンと広がっていて、まるで時が静止したように感じます。まっさらな感じ。
人によってはエドワード・ホッパーの絵は「孤独」とか「寂寞感」があるといいます。私は、しんと静まりかえって、そこに個々のあれこれと時間の流れがない開放感、そして静かなここちよさを感じさせてくれるのです。
ただ静まってみましょう。
後ろに退いて、まさにホッパーの絵を見ているように目にしている画面全体になってみましょう。(これは、ポカンと何かを見ているときにいつも起こっていることです。自分がいなくって、世界という画面だけが存在します。)
その静けさのなかから、問題やらトラブルと見えていたあれこれが、ただ静かに流れて、姿を消してゆくのを見ていましょう。
このスペースになっているとき、すでにそれらはそんなに重要だったり、どうにかしなければならないことではなくなっているかもしれません。(このスペースには、癒しのちから、解決のちからがあるのです。)
このスペースから見るすべてが、どのように形を変えてゆくのか、ただ見守るものでありましょう。
すると、あとになってきっとこんなふうに感じるかもしれません。「おお、そうきましたか!(喜)なるほど〜♪(満足)完璧! ありがとう♡」
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外側の世界に脅威を感じて「自分は無力だ」と自覚するとき、私たちの体はときとして脂肪をたくさん蓄えることでそれをヨロイにして自分を守ろうとします。「分厚い肉じゅばんがかよわい私を守ってくれる」というように。
こころも同じように、「何か」を使って自分を恐れから守ろうとします。
こころは恐れていたり、傷つくと感じるときには、罪悪感を使おうとします。
エゴのこころは、罪悪感こそがこころをマヒさせることができると感じているので、鎮痛剤にはもってこいだと信じているのです。
つまり、怖れという脅威を感じたら、なんらかの罪悪感でこころをまぎらわせて、その怖れから逃れられたと感じようとするのです。(でもじつは、怖れと罪悪感のダブルの嫌悪感になっていることに気づきません)。
さらに、その効果が十分でないと感じれば、罪悪感をどんどん増量してこころを完全に自失状態にします。
これは、体に痛みがあるときに他の場所をつねるとその痛みが消えるように感じるのと同じことです。本当は痛みが増えているのに、それに気づけなくなります。
脂肪をつけて自分を守るのも、罪悪感を増幅させて怖れをマヒさせるのも、まったく解決法ではありませんが、エゴはそれで救われたと勘違いします。
正しい解決策は、ちゃんと直面することです。
対処療法(症状だけに対処すること)でしのぐのではなく、ちゃんと原因にアプローチすることが必要です。
「自分は、外の世界に対して脅威を感じている」=「自分は小さいと思っている」
「自分は、ものごとに傷つけられるのではないか、攻撃されるのではないかと怖がっている」=「自分は力不足だと感じている」
「小さい」「力不足だ」と自分を弱きものと自覚していることこそがコワさを生み出している、ということを認めて、
「私は弱い」という想いを高い自己であるハイヤーセルフに渡してしまいましょう。
ハイヤーセルフにさし出すというのは、パソコンでいらないファイルをゴミ箱にいれて、消去のボタンを押して、ゴミ箱をカラにするのと同じことです。
完全さしか知らないハイヤーセルフは、「自分は弱い」「不足している」という思考がさし出されると、すぐさま消去してくれます。
こころのなかの怖れに対して何重にも絆創膏を貼ったとしても、それを癒すことはできません。恐れの原因が何なのかに直面して、それを取り除くために、ゴミ箱に入れて消去しましょう。
ただ消去されさえすれば、あとはなにも必要ありません。
正常に機能するために必要なソフトウェアはすでに搭載ずみです。ゴミがたまっていなければ、ただ正常に機能してくれるのです。
「十分さ」であり「安らかさ」であり「愛」そのものであるソフトウェアが機能できるように、ゴミをみきわめて消去してしまいましょう。
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Q: 裏切られるようなことがくりかえされて、パートナーを信頼できなくなっています。
A: 「信頼」とは、いったいどこからやってくるのでしょう?
私たちは、自分の与えた信頼に値するものを目にしたときに、信頼できたと感じます。
しかし、自分の目にすることだけをベースにして「信頼に値するか、しないか」を決めようとすると、堂々めぐりのワナにはまってしまいます。
なぜなら、目にするものは自分の「こころ」から生まれているからです。
自分でさえも気づくことができない隠された自分のこころの状態をそこに見たにもかかわらず、それに対して「好きだ!」「嫌いだ!」と自分自身で反応してしまっています。
私たちはつねに、「自分が見たいと思うもの」を確実に外側に見つづけているのです。
そしてそれを目にして、さらに確信を深めるのです。「ほうら!やっぱり!思ったとおりだわ」と・・・。でも、「やっぱり!」なのは、自分がそう決めたとおりだっただけです。ビンゴ!で当然なのです。
これを繰り返していると、自分のこころのうちに隠されている不信感はさらに強化されるだけになります。つねに、「やっぱり!」「思ったとおり!」を目にすることになるからです。
「信頼できるものを目にしたい」と思うときには、相手に変わってほしいと望むのではなく、まずその源である自分の「こころ」に着手する必要があります。
なぜなら、こころのなかにある「対象についての意図」が間違っており、それをそのまま見たからです。
「見たいものを見る」のなら ・・・ まず「こころ」において、「信頼できるものしか私の目には映らない」「私が見るのは信頼だけだ」と決めている必要があったのです。
違うものが見えてしまったのなら、そう決めてはいなかったのだ、ということに気づかなくてはなりません。
私たちのこころといういうものは、野放しにしておけば「罪を見つけたい」という無意識の願望のままに見ることになります。そして、必ずそれを見つけます。
なぜなら、「罪を見つけること」で自分のちっぽけさ、足りなさを帳消しにすることができると信じているからです。
私よりももっとダメな人がいたじゃない!・・・ってことは、私はぜんぜん大丈夫なのだわ!と。
誰かが大きく間違っていれば、自分はかなり正しく感じられる、というわけです。
けれども、「罪を見る」ことを容認してしまうと、「自分は正しくない存在だ」「自分は何かがおかしい」という自分に対する疑いを本当のこととして受け入れてしまう、という大きな間違いをおかすことになります。
だから、人のなかに罪を見つけることは、結局は自分を小さく、価値のない存在におとしめて傷つけてしまうことになるのです。
誰かのなかに見える不十分さや間違いに対しても、「これは自分が見たいものを見ているのだ」「けれども、これを信じることで、私は自分を小さき者と認めてしまい、本当の自分が失われる」「だから、私はこの人の完全さだけを見たい!」と、きっぱりとスルーする必要があります。
断固として「私は罪のように見えるものには目をむけることなく、信頼だけを目にするのだ」と決めるとき、自分に対してついに正しい考えをもてたことになるのです。
人を貶めることで、自分の足りなさを埋めることをしなくてもよい完全な存在としての自分をついに認めたことになるからです。
すべてのもののなかに完全さだけを目にしたい、と決めることは、じつは自分自身に対して「正しい自分を受け入れます!」と宣言したことになります。
そして、「完全さだけを見たい」と決めるとき、ちゃんとそういう世界がそこにあることに気づきはじめます。
すると、「あら?この人、変わった?」と相手を感じるかもしれません。が、じつは自分のこころこそが変わったのですね。
だから ・・・ 裏切られた、信じることができないという状況に直面したら ・・・ 自分でも気づくことができなかった自分の無意識の思いが外側にあらわれたことに気づきましょう。
そして、今まで決して手放すことができなかったこころの間違いを手放すための癒しの機会を与えられたのだと認め、目にしたものにただ反応するのではなく、こころのなかの不具合を正す機会にすることができます。
信じることができずにいたのは、自分が罪や間違いを見たいをいう願望を密かに抱いていたからであって、それはもうつづけたくないと決めることで、自分の高い自己(ハイヤーセルフ)にその不信感や罪を信じる気持ちを渡してしまいましょう。
そして、高い自己に自分の完全性のなかで相手を見られるように助けてもらいましょう。
誰もがみんな、こころの不具合を抱えています。
相手や自分の間違いさがしに集中して責めるのではなく、ただ自分のこころを修正することだけを受け入れましょう。
そして、自分ひとりでは癒すことができずにいたこころの不具合を、この機会にこそすっかり癒してしまいましょう。
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私たちは自分の目にしている世界に対して、全力でかかわるように教えられてきました。
少しでも傍観者になろうものなら、「ボーっとしてる」「無関心」「やる気がない」と負のレッテルを貼られ、学校の通知表にまで書きこまれたかもしれません。
どうやらこの世界では、ものごとにアタマからつっこんでゆくことこそが、まっとうでポジティブな生き方とされているようです。
だから、すべてのことに対して意見をもっていなくてはなりません。
あなたはどう思いますか?と問われたら、すぐさま意見が言えないと「何も考えていないひと」「鈍いひと」「自分がないひと」というレッテルをはられかねません。
「別に・・・」「どうでもいいです」なんて言おうものなら、ウツ状態を疑われ精神科に連れて行かれることも・・・。
その結果、こころは逐一あれやこれやを観察し、考えつづけ、意見をのべ、アタマがいいように見せかけることに余念がありません。
けれど・・・ 考えが静かにならなければ、自分自身が失われたままになってしまいます。
なぜなら、自分とはあれこれ繰り出される考えなどではないからです。
まだ小さかった頃、もしかするとベビーカーにのせられていた頃、すべてを静かに眺めている自分がいたのを覚えているかもしれません。
「自分」とすら思っていなかった「気づき」だけの存在が、静かに世界を見ていたことを。
見えているものと、自分との違いにさえ気づいていない存在でした。
その頃はまだ、世界というものに巻きこまれていなかったのです。だから、静かでした。平和でした。意見などなく、ただ存在して、見ていました。
いまいちど、自分の見ている世界からズズっと後ろに下がったような感覚で、起こっていることからうしろへと退いてみましょう。
その手を、世界から放してみましょう。
それは、世界に対して自分からアタマをつっこみに行かないこと。
なぜなら、起こることは勝手に起こるし、そこで必要なことは全部なされるし、そしてそれは終わりを迎えます。自分のエゴや策略が、そこに参加しようとしなくとも。
そこにわざわざ、「あ〜だ、こ〜だ」のジャッジメントや、心配、不安、動揺を加えてあげる必要はないのです。
そんな調味料などなくっても、それはちゃんと整っているのです。
「あ〜だ、こ〜だ」や動揺は吸着力があり、世界の渦のなかへと自分を引きこみます。
アタマをつっこむことで、まるで脱水機のなかに自分が飛びこんだみたいになってしまいます(つまり、ホンロウされて、なにがなんだかわからない状態になり、疲弊します)。
そして、そこにある問題と完全に自分を一体化させてしまうことによって、その問題を解決できるはずだったひとがいなくなってしまうのです。
川の流れにホンロウされている小石をイメージしてみましょう。
流れのなかでぐるんぐるんもみくちゃにされて、その状態では自分が完全に失われてしまうのです。
私たちも、世のなかという流れに巻きこまれるのではなく、静かに後ろにさがってただ眺めてみることができます。
眺めつづけているうちに、もしかするともうすでに見たことのある昔のフィルムでも観ているような気分になるかもしれません。
観たことのある話はそうそう興味をひかないので、そのままほっておくうちに勝手に終わります。
ところが、「つまらない!」だの、「もっとどうにかしろ!」だの、あれこれ言ってしまうと、あっというまにウズに巻きこまれます。
自分がそこにホンロウされているちっぽけな存在に感じられるに違いありません。
それよりも、その流れの外へと出てしまいましょう。
川の外から流れを眺める、どっしりとした石になりましょう。
その石は川の流れのことなんか気にとめていないかもしれません。川は目のまえを勝手に流れていて、自分には何の影響も与えないから。
そして、石はそこには手を触れない存在だからこそ、すべてはそのままでいいことを、完全に流れてゆくことを知っているのかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちは、人生が予想外な展開になると動揺します。人や出来事に、世界に、人生に脅されたと感じるのです。
けれど ・・・ 実際は、脅かしているのは「自分」のほかにはいません。
この世界では、複数の数字でものごとを考えるのがあたりまえになっていますが、真実は「一」です。ひとつだけです。(動揺しているときには対象物があり「二」になっていますが、これはすでに知覚に間違いがあるというしるしです。)
もしひとつだけが真実であるならば、自分以外にはそこに関係していないことになるので、自分で自分を脅かしていることになるわけです。
自分が目にするものは、自分の無意識(気づくことができないこころ)のなかで何を見るかを決めています。
そして、その結果が目のまえに現れてはじめて、自分の思いに気づくことになります。しかし、外側のことは自分と切り離して考えるクセがついているので、まさか自分のこころの現れだとは気づきません。
自分で自分を脅かしておいて、ひどく仰天する・・・わあ、なんだかすごく消エネなギャグですね(笑)。
このようなカラクリのため、目のまえのことをただ変えようとしてもうまくいかないのです。自分のこころのなかの決断の現れと闘うことになるからです。
そして、自分が自分と闘っているときほど、無力に感じることはありません。
なぜなら、敵をたたくことはまさに自分をペシャンコにすることだからです。攻撃的な気持ちを抱けば抱くほど、自分の身にこたえることになるのです。(どんどんパワーダウンします。)
このように「自分で自分を苦しめている」と認識できるまでは、ほんとうの変化を起こすことはできません。
ものごとを改善する方法はただひとつ、それはまず「認める」ことです。
「これはまぎれもなく私がそうしたことである」と。
ある意味、受け入れることであり、ものごとは受け入れられたときに収束に向かいます。過ぎ去ることができるのです。
もうこれ以上注意をむけられて、継続のための燃料を注ぎこむことがなくなるからです。燃料切れで消えてなくなります。
そして、受け入れたあとは、今までのこころの決断は間違っていたことを認めて、こころ新たに自分がほんとうに目にしたいものを決め直します。
どう決めなおすのか。
それは、「もう自分で自分を痛めつけることをやめる」ということです。
「苦しみ」を手放したかったら、自分のこころのなかにある物ごとに対する批判のおもい、「間違っている」とか「罪がある」という考えを一掃しなければなりません。
「私は間違いばかりを目にして、批判したり、攻撃したり、傷つけあうことができる世界を信じていたけれど、それは結局自分に対する攻撃になっていた。私は幸せになるために、間違いや罪という思いをきっぱりと手放したい。ただ、愛と完全さから世界を見たい」と望むこと。
もう「間違いを見ることをやめ」にしたい!「愛と完全さだけを見たい」という思いこそが、自分が見るものに変化をもたらしてくれます。
それがほんとうに自分が見たいものであるのなら、もちろんそれしか目に入らないからです。
間違ったエゴのこころは、誰かに間違いを見つければ、その数だけ自分は偉い人になれると信じてきましたが、それが自分の知覚である以上、目にするものを自分自身の証とならざるをえません。
そうであれば、なにがなんでも、愛や優しさのある世界、すべてにおいて完全さが輝いている世界を「見よう!」と決意してみましょう。そして、見せてもらえるようにハイヤーセルフに助けをもとめましょう。
決めることこそが、私たちの真のちからです!
あとは、ハイヤーセルフがエゴの知覚から新しい知覚へとスイッチしてくれることでしょう。
これは、自分の世界を力づくでコントロールしようとするよりも、ずっとラクチンだと気づくかもしれません☆
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「大学生の息子さんの恋愛や行動に、つい口を出しすぎて煙たがられてしまう」というA子さん。
としごろの息子さんに限らず、私たちはコミュケーションにおいて相手の言葉や態度のみに気をとられ、抵抗したり、拒絶したりして、なかなかそこにある「想い」を受け取ることができません。
親が口にする「頑張りなさい!」は「あなたならきっとできるから、頑張りなさい!」であり、「気をつけるのよ!」というひとことも、「今日もあなたに安全に過ごしてほしいから、気をつけてね」という愛や励ましがこめられていたりします。
しかし、こどもにとってはそれを圧力と感じ、「わかっているよ!」「それ以上言わないで」と抵抗や怒りを感じてしまうのです。
それは、受け取る人のなかにある被害者意識や、自信のなさによって、その言葉を自分なりに解釈してしまうからです。
もし、自分を信じることができ、安心しきっていたならば、きっと「お母さん、大丈夫だから!心配しなくていいよ」と穏やかに伝えたことでしょう。
こころが不安定だと、相手から愛を伝えられたとしても、それを素直に受け取ることができません。自分の怖れが愛を帳消しにし、攻撃に置き換えてしまうのです。
怖れや心配、疑いがこころにあると、つねに自分の体験を歪めてしまうことになりかねません。そのため、自分のまわりからたくさんの愛を送られていようとも、それを感じとることができず、自分は愛されていないという被害妄想に陥ってしまうのです。
このようなコミュニケーションの歪みは、誰もが経験することです。
自分のこころのなかにある痛みのせいで、私たちはなにひとつ正しく知覚することができないのです。そして、安全な環境のなかにいようとも、くつろいで幸せを感じることができません。
ここで大切なことは、「自分が知覚するすべては、自分のこころが選んでいる」ということを認識することです。
心地よくない体験をしているのなら、体験そのものが間違っているというよりも、自分のこころが間違っているため、正しくものごとを認識できていない、ということです。
自分の体験していることが気に入らないなら、いったん立ち止まってみましょう。
「私のこころこそが動揺していたたため、不安な世界を目にしたに違いない。こころを落ち着ければ、別な世界を見ることができるのだ」と気づいてみましょう。
そして、軌道修正のために仕切りなおします。
「私が見たいのは、このようなものではない。安らぎと完全さだけを目にしたい」と決め直し、ものごとをもういちど見てみましょう。
たとえば、息子さんんに「あなた、そんなことで大丈夫なの?」と声をかけたくなるとき、
「あ、これは自分のなかにある怖れを息子のなかに見て、自分で心地よくないストーリーをでっちあげている。間違っているのは彼ではなく、私なのだ」と気づくことです。
そしてこころを落ち着けて、「私が見たいのは、完全さ、安らぎだ」と決め直します。
さらに、自己の高い意識であるハイヤーセルフに「今の状況を愛のなかで見られるように助けてください」とお願いしてみましょう。
愛をもって見ているとき、怖れや不安、疑いは姿を消し、安らぎのなかでものごとの意味が変化してゆくのがわかります。
意味が正されれば、こころは穏やかさを取り戻し、その穏やかさが自分の目にする世界、体験へと広がって、安らぎの世界を見せてくれます。
今まで握りしめてきた怖れや心配の想いは、とりあえずハイヤーセルフに渡してしまいましょう。そして、ここからは愛のなかで完全さだけを見るのだ、と決め直しましょう。
息子さんに対しても、心配からたくさんの言葉をかけるよりも、ただ信頼し、安心のなかで見ようとすることで、なによりも自分自身が落ち着くことができます。そのスペースのなかで、息子さんも自信を取り戻し、心地よくものごとを進めることができるようになります。
自分自身が「見たい!」と決めたものは、必ず見えてきます。それが自分の世界となるのです。それこそがこころの力です。
だから、自分が喜べるものだけを見るのだ!と決めましょう。
怖れや疑いに呑まれそうになったら、ぜひこの歌を口ずさんでみましょう。それは、「これでいいのだ~♪」というバカボンの歌です。
すべてはそのまま放っておいても大丈夫なのです。必要なのは、安らぎのなかでハイヤーセルフとともにものごとを味わい愛でること。それだけです。
もし、何かすべきことがあれば、そのためのインスピレーションは必ずやってきます。あるいは、気づかないうちに、自動的に必要な行動を起こしているかもしれません。
ハイヤーセルフにつながって、安心して過ごしましょう♪ きっと、たくさんの愛や安心が見つかるはずです。
映画「天国は、ほんとうにある!」のなかで ・・・ 生死をさまよう体験をした幼い男の子が見た、この世ではない別の世界の話が語られています。
その男の子はまず、手術を受けている自分を真上からながめ、別の部屋にいた父親の取り乱す姿を目撃し、そのあととても美しい世界に行き、キリストに導いてもらいながら会ったことがないおじいちゃんに会ったり、この世に生まれてくることのなかったお姉ちゃんに会ったり・・・。
これは、男の子が実際に体験したことを記した同名の本を映像化したものですが、まさによく耳にする臨死体験の典型です。(→予告を見る)
「喜びから人生を生きる!」という本でも、臨死体験をした女性がその体験をとおして自身の病が癒される様子をつづっていますし、他にもそのような臨死体験を記した書籍はたくさんあります。みな同じことを報告しているのがおもしろいところです。
でっちあげであったなら他の展開があってもよさそうですが、だいたい同じようなことが起こっています。さらに、この男の子も自分が知りえないことをその臨死体験のなかで知ることになります。
いまいち不思議に感じたのが、牧師をしている男の子の父親が、男の子の話す「あの世」の話にひどく動揺するということ(牧師さんは、いつも天国を指し示しているはずでは?!)。そして母親も、もうその話はしないようにと男の子をたしなめます。
死のように見えるのはまさに脱皮のようなトランスフォーメーション(形がかわること)で、そのあとに恐れのない世界があるのだとしたら、まさに願ったり叶ったりです!
さらに、「死」という名で引き裂かれたように見えた人たちと再会できるのなら、なにを怖がる必要があるのでしょう?
むしろ、楽しみにすることなのかもしれません。(けれど、苦しみから自らの命を断った場合は、また違った体験になるようですが。)
この作品では男の子が「天国を見てきた」としていますが ・・・ ほんとうはそうではありません。
この人生と次の人生のあいだの休憩所を見学してきたにすぎないのです。天国はそこではありません。
そこは「中間生」と呼ばれている場所で、ここでしばらく楽しみながら直前の人生の疲れを癒したら、再びこちら側に引き戻されます。
「未来」へと、あるいは「過去」という時間へ、はたまたさっきまでやっていた自分とまったく同じ人、同じ人生で「さあ!もう一回やってみようか?!」と再演を促されるかもしれません。
なんのために「もう一回やってみようか?」なのでしょうか、なにをやり遂げなければならないのでしょうか?
私たちは、俗にいう「いい人」になることが自分のしなければならないことで、もしこの循環を断ち切って天国に行けるとしたら、「いい人」であることが条件だと思っているふしがあります。
「いい人」って、なんだろう? よいと思ってやったことも、別の視点から見たら誰かを傷つけているかもしれません。
また、「いい人」になろうとして、ギセイすることで(ガマンすることで)、自分のなかに不満、怒りをためこみ、自分を見失ってしまうかもしれません。
私たちが「もう一回」やらなくてはならないのは、「すべてをあるがままとして受けいれる」ことです。
それは、自分のこころが紡ぎだした世界に対して、もう維持するためのエネルギーを送りつづけることをやめて、自分の手から静かに手放してあげることなのです。
手放しさえしたら、それは消えてゆきます。天国があらわれるスペースを与えます。
でも、反応しつづけているときには、握りしめているのです。
だから、たとえまったく同じ人生に戻ったとしても ・・・ ( 本人は記憶がないので気づきませんが、もう数十回やってることだってありえるわけです。あ、そんな映画ありましたね!「恋はデジャブ」でした)、
こんどこそは、不平不満を言ったり、誰かを責めたり、被害者になったり、自暴自棄や自分勝手になることなく、起こることに反応しつづけるのをやめて、自分のつくりだしたイメージとして静かに受けいれ、ゆるさなければならないのです。
それができてこそ、ようやくの天国なわけです。
天国には「人」はいません。天国は、肉ダンゴのままでは入れないのです。自分の本性である光(スピリット)を自覚してこそ、ようやく天国に近づくことができます。
すべてを裁かずに受け入れることによってこそ、肉ダンゴという肉じゅばんの呪縛から自由になることができるのです。
ダンゴでなくなったとき、天国への階段に見えるのでしょうね。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
米国制作のドキュメンタリー「死者の記憶をもつ子供たち」を観ていました。
以前、日本のバラエティでも一部紹介されましたが、その子のものではない記憶に苦しめられる子供たちを取材しています。
その記憶というのは、たとえば第二次世界大戦だったり、9.11、ホロコースト、すでに亡くなっている有名人など、自分ではない誰かの記憶です。
子供たちは、そのリアルなイメージや恐怖感によって怯えつづけたりうなされたりするのです。
我が子の苦しむ様子にいたたまれなくなった両親が、子供からその詳細を聞きだし調査をすすめてみると、戦時中や実際の出来事において、子供の記憶と同名の人物が存在し、同じ体験をして亡くなったことが明らかになります。
まさに、その子供たちは亡くなっている人たちの生前の記憶を自分の記憶のように持っているわけです。このドキュメンタリーのなかではその遺族と面会(再会?)するという場面も見られました。
子供たちは、その記憶にただホンロウされるのではなく、正面から向き合うことでしだいにそれから解放されてゆきます。
まるで、その人物の恐怖や無念やさまざまな思いが癒されて無くなってゆくように。
たしかに ・・・ なくなる直前に恐怖に直面し、その恐怖をかかえたまま亡くなったとしたら、それは心に鮮明に刻印されうることもあるでしょう。
そして、輪廻という時間軸(これもひとつのものの見方にすぎませんが)から見れば、癒されていないものこそを抱えて再びやってくる、ということも不思議ではありません。
へえ〜〜、おもしろいね! と感じられるかもしれませんが、
これは誰にでも少なからずあるように思います。
子供たちのようにここまで鮮明でなくとも、誰もが子供の頃に同じ夢を何回も見ていたり、同じような恐怖心を感じつづけていたりしていることもあります。
あるいは、何かの出来事によって心の深いところが刺激を受けると、その記憶が表面に浮上してきて、わけのわからないザワザワ感だけが感じられるようなことが起こります。(あの子供たちのような鮮明なストーリーや画像は欠落しているため感情だけが感じられるのですが、じつは心の底にはストーリーも画像もひそんでいます。これはヒプノセラピーなどをしていると鮮明に現れます。)
私も五歳ぐらまでは、同じイメージをくり返し見てはうなされ、毎晩母を起こしていたものです。
それは、浜辺に打ちあげられた難破船と波内ぎわの骸骨のイメージ。死んじゃったあとは、自分を外から見ているのでおそらくあれは自分ではないかと感じています。なので、この人生では海は好きだけれど、水のなかでゴボゴボするのは大嫌いで泳ぎたくありません。
クライエントさんやお友だちからも、まったく幼児体験とは関係ない恐怖を小さい頃からずっと感じていた、という話を耳にします。圧死する恐怖、孤独死する恐怖、人から責められる恐怖、裏切られる恐怖 ・・・。
生い立ちや身に覚えのない恐怖を小さいころから強く感じていた方は多いのです。
初対面の人になんかザワザワする、というのも、詳細の記憶はなくなっていても、その感情だけは抱えているパターンですよね。
この子供たちのように過去世としての鮮明な記憶でなかったとしても、私たちのなかには自分では理由がわからない「感情」の刻印は残っているよう。
愛情深い両親のもとで大切に育ったのに、強い見捨てられ感があるとか。悲惨な体験はしていないのに、いい知れぬ恐怖が襲ってくるとか。裏切られた体験なんてないのに、絶対裏切られるという頑な信念を持っているとか。恋愛でツライ体験をしたこともないのに、とにかく異性に嫌悪感を感じるとか。・・・・
ヒプノセラピー(リラクゼーションを使い潜在意識を癒すセラピー)を行ってみると、みなさんなんらかの過去世らしきイメージやストーリーや感情が浮上してきます。まるで、この番組の子供たちが他の人の記憶を持っているように。
やはりそれは、戦時中だったり、災害だったり、その人生のなかでのインパクトのある事件だったり、あるいは個人的な悲しい出来事だったり ・・・ そこで強い恐れを感じたため、心に刻印されているようなのです。
そして、この子供たちと同様、それらの記憶や感情に正面から向き合い、受けいれてあげることで消え去ってゆきます。
まさに無念、後悔、執着、罪悪感こそが同じことをぐるぐるくり返させる原因であることがわかります。
それらは、心のなかで認めて、受けいれられたときに、穏やかに消滅してゆく(成仏してゆく)ことができます。
そうですよね。何か後悔があるときに、誰かに耳を傾けてもらって、「そうだったんだね!うん、うん、そっか〜!」と聞いてもらえたら、気がすむのと同じですよね。
もしも ・・・ご自分のなかに、自分の生い立ち、人生ではあるはずがないような「恐怖」「動揺」「執着」「混乱」など、ある種のパターンがあるようだったら、
それを無視してなきものにしようとするのではなく、とことん耳を傾けてあげましょう。
もしかすると、その感情を感じているうちに、ふとストーリーを語りたくなるかもしれません。あるいは、あるイメージが浮かんでくるかもしれません。あるいは、ただただその感情がよりリアルになってくるかもしれません。
ただ受けとめて、小さい子供の話を聞くように受けとめてあげましょう。それにあるがままに語らせてあげましょう。
自分のものではない記憶と向きあった子供たちのように、きっとそのわけのわからない感情はそれによって満足して、落ち着いてくると思います。
無視すること、逃げること、なきものにすることなく、正面から向き合うことが解放のカギになるのですね!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
小学生の頃、こんなくちゲンカのセリフを耳にしたかもしれません。
「だったら、証拠見せてみろよ! え? え? 証拠あんのかよ、オイッ!」
私たちはオトナになっても、目に見える証拠にこだわります。愛の証(プレゼント、婚姻届)、安全の証(口座のお金)、健康の証拠(健康診断の結果)など・・・。
目に見えることこそが真実だと思っているからです。
まあ、この世界での「生きる」ということは、外の世界にある証拠に反応することだからです。
でも、私たちが外側にあることがらに反応しつづけるがために、同じパターンのループから抜けられなくなっていることに気づきません。
なぜなら、外側にあるものとは、自分のこころがそこに置いたものなので、それに対して責めたり、あれこれ不平不満を言いつづけると、さらにこころのなかでそれをリアルに強化することになってしまうからです。
不平不満こそ、それを長引かせて、そこから抜けられなくするいちばん強力な手段なのです。なんせ、外にあるものに私はやられちゃうんです!と言っているので、自分は本来のパワーを失い、とてもちっちゃな存在になってしまいます。
そうするともう、自分が誰だかわからなくなり、本来自分のものだった安らぎも幸せも、闇のなかに消え去ることになります(結局、自分で自分の幸せをふみにじっています)。
ほんとうは、目にしている形はスルーしなくてはなりません。形は簡単に欺いてくるからです。
そもそも自分が目にする形がどこからやってくるのでしょうか? それを理解することが大切です。
形は、自分の外側にあると信じてしまいますが・・・じつは、形は自分の意識のなかで起きています。
知覚は、意識のなかで意識が織りなすイメージだからです。形は、自分の思いと切っても切り離すことができないのですね。
私たちはいつも自分の思いを形にして見ており、それに怯えたり、怒ったり、動揺しているということになります。
それはまるで、自分でしかけたワナに自分でかかってビックリ仰天!という感じです。冷静な人が見たら苦笑ものです。
自分が目にすることを責め立てても意味はなく、ほんとうにイヤだったら、自分のこころを変えるしかありません。
目にするものがこころを乱すなら、
*まずは立ち止まって、外側のことは変えるべきものではないことに気づき、スルーしておきます。
**変えるべきは「こころ」だと気づきます。
***そして、「これは自分が見たいものではありません。私が間違っていました。これを映し出しているこころの間違いを取り去ってください」とハイヤーセルフにこころを変えられるようにお願いします。
あとは、ハイヤーセルフが全部とりしきってくれるので、安心してそれがどのようになってゆくのかをながめていましょう(シンプルです!)。
自分で自分をイジメる自虐的なあそびから脱するためには、自分のこころが動揺している場面にしっかりと気づき、そのたびに訂正することが大切です。
ものごとを変化させるには、外側であれこれ企てるのではなく、ただこころのなかにある間違った思いを取り去るだけでいいのです。
間違いが外へと映し出されていただけなので、こころを正してあげればすべてがあるがままの安らぎの状態に戻ります。
あるがままには、キケンも、困ったこともないので、すべてのピースがうまく組み合わさって完全さを織りなし流れてゆきます。
ただこころの間違いであることを認めて、それを訂正したら、すべてを手放してそのままにしてあげましょう。それで大丈夫です♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
クライエントさんとお話していて、よく耳にする言葉。それは、「私たちって、なんて間違ったことばかり信じてしまったのでしょうね?!」というひとこと。
間違った考えは、間違った体験へとつながります。
なので、癒しとは自分を苦しめている間違った考えに気づいて、それを取りのぞいてあげる作業です。(あくまでも間違った考えであって、自分を変えることではありません!)
自分が何かに行き詰まったり、悩んでいるとき・・・ その根底にある信念をよくよく調べてみると、自分がどれだけおかしな考えを信じているかがわかります。
人が聞いたら「そりゃ、すごくおかしい!お腹かかえて笑っちゃうぐらいおかしい!」という信念ですら、自分にとっては当然すぎて何がおかしいのかわからないのです。
「ある考えに一体化してしまう」ということは、それに対してまったく疑いをもたなくなることです。
それはまるで、「顔にはりついたサランラップ」のよう。サランラップがピタッと顔にはりつくと、はりついていることすらわからなくなります。
でも、ほんの1ミリでも端っこがめくれると、メチャ違和感。一気にぜんぶはがしたくなります。
あたりまえだったことが、「ん?なんかおかしい?!」と気づくと、それがサランラップ(いらないもの)にさよらなするという大きな変化につながったりします。
完全に一体化したおかしな考えも、ふと疑いをだくことでその牙城をくずし、まったく違うクリアな世界を目にすることもできるわけです。
私たちが幸せになるために、最初に取り消さなければならない間違った信念のひとつは、「誰かに頼ってはいけない」というもの。
これは、小学生の頃から、「ちゃんとひとりでできるようになりなさい」「人に頼るんじゃないわよ!」「自分のアタマで考えなさい」・・・と、
自分で! 自分で! とさんざん言われたあまり、その弊害はかなり甚大なものとなっています。自分に与えられている当然の特典が使用できなくなってしまったのです。
自分に与えられてた当然の特典?! ・・・ それってなによ? と思いますよね。
それは、「あまかせサービス」の特典。「全部やってあげるから、委ねてね!」という「おまかせサービス」つきで生まれてきているということなのです。
自分でやらないなら部屋の真んなかに坐っていればいいの? ・・・ そうではなくって、「自分であれこれやろうと四苦八苦するのではなく、すべて委ねてから、自然に身をまかせて動きましょう」ということなのです。
しかし、必死になって身につけた「自力」のワザによって、この「人生自動処理機能」は無効になっています。
だから、正しくは「自分ひとりでやらずに、委ねてから、自然に起こることに身をゆだねること」ことが正解なのです。
覚えておかなくてはならないのは、この「自動処理機能」はほおっておいては働かないということです。
つねに、「求めること」が必要です。「使いたいです!」という使う意思表示が大切なのです。(イエスの言葉にもありましたね!「求めよ、さらば与えられん」と。)
私たちがこの世界で旅をはじめたとき、宇宙は私たちに「無限オンラインショップ」の無償利用権を与えてくれました。が、誰もそのサービスについて聞いたことがある人はいません。学校でも教えてくれませんでした。
このオンラインショップは自分でオーダーする(求める)ことで、すべて必要なものがやってきて、すべての手配が整うようにできているのです。
私たちの「自力でどうにかするべき!」という信念から、このオンラインショップを使いそこなってきました。(何十年分も?!)
自ら注文したなら、このオンラインショップはニーズのすべてを満たすラインナップを備えているので、ただそれが到着するのをリラックスして待つだけなのです。
私たちは「自力」という信念を持ってしまったがために、自分の当然の権利であるオンラインショップを使うことなくここまできてしまいました。
あたふた自力でかけまわって、汗水ながしてすべてをどうにかしようとする必要はなく、ただ静かにリラックスしてオンラインショップにつながって、「受けとりたいです」と注文すればいいだけだったのに。
ただし、つねに「注文すること」は欠かせないポイントです。なぜなら、私たちは「自力でやりますからいりません」と言っちゃったからです。
「求めよ、されば与えられん」は、「注文してね!そうすれば、届くからね」ということだったのですね。
注文の際、ひとつ注意事項があります。
それは、注文するときに「足りないです。だからお願いします」と求めるのはやめましょう。足りない気持ちで求めると、足りないがやってきます。
「私はすべてを与えられています。それを受け取りたいのです」とお願いしましょう。
具体的な要求はせずに届くのを待ちましょう。なぜなら、自分が思っているよりもよいものが用意されているからです。
そして、つねに「私はすでにもっているのだ!」という気持ちでいることも大切です。
すでに与えられている特典に気づくことができたのなら、どんどん使用してみましょう。使用回数、使用量に制限はありません。
ただ安らいでそれを求めて、受けとりましょう♡♡♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
この世でいちばんコワイのは、
オバケでもなければ、自然災害でもないし、自分の身に起こるかもしれないある状況でもありません。
自分を震えあがらせるとができるのは、じつは自分の考えだけです。
つまり、自分のものごとに対する「解釈」こそが、自分を怯えさせるし、自分を傷つけるし、自分を再起不能なほどにズタズタにすることもできるのです。
それ以外は、何もちからををもっていません。
まるで、自分の手にしている研ぎすまされた刀で自分を脅している、そんな感じです。
さらに、恐れを生みだしている自分の「解釈」が、まったく的ハズレだったら? ぜんぜん正しくなかったとしたら? ・・・ 恐れというものは成り立たなくなってしまいます。
ただ誤解から生まれた、ものの見方のエラーにすぎなかったということになります。それなのに、ちぢみあがって怖がっているなんて!(汗)
そのような間違ったものの見方によって怯えているにもかかわらず、私たちはその「考え」を変えようとはせず、もっぱら目のまえにあるものごとや人を変えることにやっきになってしまいます。
そうなると、間違ったものの見方は置き去りにされ、その結果の方にエネルギーを注ぐことになります。すると、その出来事がよりリアルになり、自分にはまったく勝ちめのない敵のように感じてしまうのです。
まず正すべきところは、間違っているところ、つまり自分の間違ったものの見方です。
一回静かに立ちどまって「なぜ、それがそんなにコワイのか」、そのことについての解釈について冷静にこころを探ってみましょう。
すると、もしかすると ・・・ 自分は小さいものでそれをどうすることもできないし、さらに何の助けも期待できない ・・・ というような無力感に出会うかもしれません。
起こることに対して、自分でどうすることもできず、さらに誰も助けてくれないなら、それはかなりコワイに違いありません。
でも、もしも・・・自分には全宇宙の力がそなわっていて、それに対してこころを開くことでそのすべてが自分のものにでき、さらに起きていることの先にはよきことのみが待っているとしたら ・・・?
「そんなムシのいいこと?! そんなことは自分には起きないのさ!」って?
そう言いはりたいこと、不幸で孤独な人生こそ自分にふさわしいと主張したいことこそが、間違っているのです。
「すべてのことは、自分ががいちいちかかわらなくっても全自動ですべてはうまくいっているんだ。だって、よきことだけが自分にやってくるはずだから」 ・・・ そんな新しい考え(真実)を採用してみてはどうでしょう?
迎え入れるこころをもてば、それはやってきます。そして、それは見せてくれます。
とてもそんな都合のいいこと信じられない・・・ というのなら、「今、自分ではその考えは信じることはできないけれど、でも信じられるようになりたい」と高い自己にお願いしてみましょう。
まず、手始めは他人の幸せを願ってあげるのと同じように、自分の幸せも願ってあげることです。
自分にもやさしくしてあげましょう。愛してあげましょう。(私たちみんな、人には思いやりをもつことができるのですが、自分に対してはサドさんレベルでかなり手厳しいようです。)
今は信じることができなくっても、招きいれる気持ちをもつことで、かならずそれはやってきます☆
ただ自分が向かいたい方向性(幸せ、安らぎ)を決めて、あとは高い自己に手をひいて連れて行ってもらいましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
A: 体調がすっきりしない日々がつづいています。いろいろためしても回復しません。
Q: からだの調子がわるいとき、わたしたちはからだの面倒を見ようと一生懸命からだにかまってしまいます。
あれを飲んで、これを食べて、ああして、こうして、とこころを砕きます。
でも、これが落とし穴だったりします。
からだの不調をよりリアルにするべくエネルギーを注いでしまっています。
私たちは「からだ」ではなく「意識(いのち)」なので、からだの面倒をせっせと見てもほんとうの自分をいたわっていることにはならないのです。
からだは自分という広大な意識にある針の穴のようなもの。
なぜ穴なのか?・・・ それは、そこにエネルギーを傾けても傾けても、ぜんぶダダもれ状態になるからです。つまり、穴、ザルなのです。
自分がカバンをもっているイメージをしてみましょう。カバンをもっている自分とは意識である自分であり、カバンはからだです。
カバンをいくらみがいても、自分が元気いっぱいにならないのと同じなのです。
可愛がる場所をまちがってしまっています。
それよりも、自分のいのちである意識の広がりに気づいてあげましょう。そこをもっと大切にしてあげましょう。
静かに目を閉じて、すでにそこにある自分の意識の広がりに気づいてみましょう。ただそのなかにくつろいでみましょう。は〜っと息を吐きながら安らいでみましょう。
まるで温泉に入ったように、そのスペースへと自分を解放してあげます。
「ああ、気持ちがいい♡」と感じたら、どんどん広がってみましょう。いままで肩に力が入っていたことに気づくかもしれません。
そして、ただその状態を楽しんでみましょう。
楽しんでいると、その広がりがリアルになって楽しさがましてきます。また、軽くなると同時に、光を感じるかもしれません。
これが、自分のいのちをいたわってあげる簡単な方法です。自分を正気にし、元気にしてあげることができます。
「おかえりなさい」と、迷いでていたこころを迎えてあげてください。
からだの調子が悪いときには、「調子が悪い」ということに抵抗しようとするのではなく(抵抗するということは、それが自分よりも力があると信じてしまっています)、
ただこの広がりに気づいてくつろぐ時間をとってみましょう。
その広がりを十分に味わったら、それからいつも自分がしている健康法や、そのときひらめいたことをしてみるとよいと思います。
正しい自分を正しい方法でいたわってあげることで、自分のからだ、自分の世界の調子がよくなってきます♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちがモノごとを見るとき、
根底にある「思い」が間違っていると、そこから「間違ったものの見方(価値判断)」が生まれてしまいます。
その結果、「間違ったものの見方」からは「恐れ」が生じ、そうなると目にするものすべてが自分にとって敵のように感じてしまいます。そして、その敵から身を守るために、つねに戦うことになります。
間違った思いは、たえまない戦いへとつづきます。
たとえば、「ここは、コワイことが起こるキケンな所だ」という無意識の「思いこみ」があると、なにを見ても「何かが間違っている」という「価値判断」が生まれ、そうなると身を守るためにつねに臨戦態勢となり、戦いが日常となるのです。
戦おうとすれば罪悪感を感じることになり、その罪悪感を中和するために自分を痛めつけるということでバランスをとろうとします。そうなると、人生はイバラの道になります。・・・
すべては、最初の自分の「思い」、こころのなかにある考えによって生まれるので、自分を幸せにするのも不幸にするのも、自分のこころだ、ということになります。
残念ながら、私たちは自分の思いが間違っていることになかなか気づくことができません。
たとえば、誰かが自分を無視したり、攻撃的な態度をとってくるとき ・・・ おっと! もう、この時点で間違ってしまっていることに気づきますか? 無視や攻撃的というのも、自分が勝手にはっているレッテルにすぎません。事実ではありません ・・・ その間違ったレッテルの結果、自分は傷つけられたのだと信じてしまうのです。(ほんとうは、自分の価値判断が自分を傷つけたにすぎません。悪気はなくても、そういう態度しかとれない人だったかもしれないからです。)
なにを見ても「自分めがけて、それが起こっている」と感じてしまうのは、それだけコワレモノのような弱い自分を感じているのかもしれません。
そうでなかったら、「あれ?この人、態度がおかしいけれど、何かあったのかな? 大丈夫かな? 何か助けられることはあるかな?」と歩み寄って手をさしのべようとするからです。
でも、コワレモノという自分を信じてビクビクしていると、なにもかもが自分への攻撃だと感じてしまうのです。
自分を傷つけないものの見方をするために、一番よいのは「まったく価値判断をしない」ことです。
恐れや怒りを感じているなら、すでに自分が間違った判断をしてしまったがゆえに、それが自分をおびやかしているからなのです。
しかし、なにひとつ言葉を使わないで、カラッポのこころでものごとを見るとき、そこには自分独自の攻撃のストーリーが入りこむことがないので、そこからでっちあげの戦いのストーリーが展開してゆくこともありません。
価値判断せずそのままにしておくことによって、ものごとはあるがままに進行します。そして、すべての人にとっていちばんよい展開となるのです。
コワく感じるときには、自分の価値判断が完全に間違っていた、と知りましょう。
間違った価値判断をしていたことに気づいたら、「私は間違っていました」ということを正直に認めましょう(「間違っていた」と認めないかぎり、決して正しくはなれないのです)。そして、からっぽのこころで、ハイヤーセルフとともにそれを一緒に見てもらいましょう。
「すべてはよきことのため!それだけが起きていることの理由」であることを受け入れましょう。
私たちは期待したもののみを見ることができます。
恐れを期待して、まんまとそれを見て、それと戦うのではなく ・・・ 完全な愛を期待して、完全な愛こそを目にして、安らぎのなかで生きる練習をいたしましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
こころの学びをしてゆくとき、自分を癒そうとするとき、問題を解決しようとするとき・・・ いちばん大切なことは何ですか? と聞かれることがあります。
ズバリそれは ・・・ 「素直さ」かなぁと思います。
素直なこころの方は、プライドに執着することがないので、こころにためこんだジャンクをじゃんじゃん解放してゆくことができます。
私たちは誰でも、こころのまわりに城壁を築きあげて自分を守ろうとしています。その城壁を取り除かない限り、ゴミ屋敷になってしまったお城(こころ)の掃除もにっちもさっちもいかないのです。
しかし、学びたい、癒したいといいつつも、この城壁をガッチリと守っている方が多いのです。いざ近づこうものなら、攻撃されかねません。
学びも癒しも解決も、既存のものを取り壊すことこそが目的なので、ここを守ってしまってはもともこもありません。
まるで取手のない引き出し、ドアノブのない家 ・・・ 攻め入られないためには役立ちますが、なかをお掃除したいときには困ったことになります。
もし抵抗などなく扉がオープンであれば、あっというまにいらないものを吐きだして、身軽になったらそこに宝ものを発見することができるかもしれません。
学びがすすまない方、癒すことができない方、問題を解決できない方の共通点は、自分の間違った正しさにしがみつき、それをかたくなに守ろうとしてしまうこと。
「自分の考えこそが正しい」ということが前提となるので、進むことよりも守ることにエネルギーを費やします。そうなると、不必要なものを手放すどころか既存のものを守ってしまいます。
自分こそが間違っていた、だから苦しいのだ、と気づけなくてはならないのです。
「自分が自分を苦しめていた。だから、間違いをリセットしたい!」と素直に認めてしまえる人は早いです。
どうせここにいる全員が、ものの見方や感じ方については決定的に間違っているのですから(全員ですよ〜!みんなで間違っているならコワくない!笑)、そこに執着して時間とエネルギーをムダにするより、すべてを開け放してしまったほうがよいのです。
間違っていました!とさえ言ってしまえば、ゴミ屋敷がきれいに片づけられて、光がみちあふれた安らかな空間を手に入れることができ、そこにこそ自分が望んでいた答えがすでにあることに気づくことができます。
私たちの高い自己であるハイヤーセルフは、私たちの「変わりたです!」というこころからのひとことを待っています。
そのひとことが発っせられるまで、なにひとつ無理強いせずに、たとえ泥沼の格闘でさえも味わい愛でてくれるのです。
「そんなのひどいじゃないですか、さっさとひっぱりあげてくれればいいのに!」って?
どんな状態であろうとも、私たちにとって自分の意志でないことはなにひとつないからです。その意志は、いつも大切に尊重されています。
私たちにとってあまりにも昔にくだした決断は、自分でも何を決めたか思い出せなくなっているのです。だから、泥沼の格闘であっても今それをしているならば、その昔それを愛していて、望んでいたらしいのです。
いったんこころに決めてしまったことは、もう一度自分で決め直すことによってしか流れを変えることができません。
だから、決め直すことこそがセラピーのお役目であり、決め直せばハイヤーセルフは全力でバックアップしてくれるのです。
セラピーのなかですることは、自分が無意識のうちに執着している苦しみのプログラミングに気づいて手放すこと。(この苦しみのプログラミングこそが、ゴミ屋敷にたまっているゴミです!)
片づけるためには、いさぎよく「間違っていたけれど、正す意欲はあります」と言えるならば、
ハイヤーセルフの大いなる力を自分のものとして、無意識のうちにためこんだこころのジャンクをくまなくお掃除してもらうことができます。
すると、そこに見たこともないような宝が輝いていることにびっくりするかもしれません。
ということで、自分の問題を解決したい、ラクになりたい、より幸せになりたい、というときには、とりあえず白旗をかかげましょう。「私は完全に間違っていました~!自分を正したいで〜す!」と。
ここからスタートすれば、スポンジが水を吸うがごとく天からやってくるサポートを自分のものにすることができます。
素直になれれば、川の流れをボートに乗ってスイスイと運ばれていくように少ない労力で進めるものです。
手こぎのオールという「自分の正しさ」は手放して、すべてを委ねて、ほんとうの自分にむかってハイヤーセルフのラクちんモーターでスイスイ進ませてもらいましょう!
自分が扉を開きさえすれば、あとはハイヤーセルフが強力なお掃除ロボットでじゃんじゃんお片づけをして正気にもどしてくれるのですから!あとはおまかせです。
素直さだいじです♡
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渦のなかにいると、目がまわってしまいます。
目がまわれば、具合が悪くなります。正気を失います。できるはずのこともできなくなります。
以前、たけしさんの番組で、回転椅子でぐるぐる回されてからゴルフをする、という企画がありました。誰ひとりとして立っていることはおろか、地面にはいつくばってふだんの実力を発揮することができませんでした。
私たちが問題のなかにいるとき、それはまさに渦に呑まれて正気を失っているときなのです。
ふらふらになってゴルフに挑んでいたように、私たちもすでに問題を解決できるポジションにはいません。
それでも平静を装って、問題を解決しようと試みてはみます。またそうできる、と信じているからです。
冷静な状態だったらすんなりできることも、渦のなかにいては状況に対してコントロールを失い、怖れから反応するため、さらに混乱が深まります。
渦のなかでは問題は解決できないし、そもそも解決すべき場所にはいない、ということです。
解決を望むなら、まずは渦を離れてみること、解決が可能な場所へと移動することが先決なのです。
渋谷のスクランブル交差点を渡っているとき、あちこちから人が押し寄せてきます。そっちに行きたいわけではないのに、あれよあれよというまに人混みに流されてしまいます。
しかし、いったんそこから離れれば、さきほどの雑踏がウソのように平静さを取り戻すことができます。
問題が起きているときも、その状況という渦から離れてみましょう。
目にしている画面全体から数歩、感覚的に退いてみるのです。カメラが引きのショットになるように、少し距離をとって俯瞰してみます。
目にしている画面全体に気づいてみることで、こころのスクリーンに映っているもの全体を見渡すことができます。
すると、止まることを知らないように見えたアタマのなかのセリフや考え、ストーリーがしだいに静かになってきます。
目にしている場面も、少し距離ができて、まるで過去の物語を見ているような人ごと感が生まれてくるのです。
この渦の外側の静かなところから眺めることで、さきほどまで「これは大変なことだ!」と深刻モードにおちいっていたことが、さほどでもないと感じられてくるのです。
この静けさのなかにとどまっていると、思考や感覚が落ち着いてきて、それにともなって怖れや不安も鎮静化してきます。
私たちは問題という渦に遭遇すると、あわててそれに抵抗したり、闘おうとしたり、排除しようともがいてしまいます。決して渦から逃げてはいけないと思っているのです。真正面からぶつかって行くべきだと信じています。
そのため、簡単に渦のなかに呑み込まれてしまいます。
じつは、渦のなかには答えがありません。なぜなら、そこは自分がいるべきところではないからです。正解など見つからないのです。
だから、問題という渦に遭遇したら、目にしている世界から数歩下がって、全体を俯瞰するようにし、静かなスペースから眺めてみましょう。
この渦から離れた静かな空間には、あらゆる答えが存在しています。そこのみが、答えが受け取れる場所なのです。
私たちが問題の答えを受け取りたかったら、問題という渦から脱して、静かなスペースにとどまり、そこにチューニングする必要があります。
ただ渦から距離をとってみましょう。そして、その静けさと一体になってみましょう。
こころはすぐに、怖れや焦りから開放されはじめ、穏やかでくつろいだ状態になってきます。
そのスペースとひとつになり、そのスペースとして呼吸し、ただ深くくつろぎ、とどまってみましょう。
あとは、ただ静かな安らぎのなかで過ごしてみます。すでに渦から脱して、解決の流れに乗っている状態です。
やってくる直感や感覚にまかせて、こころが広がる感じがする方向へと舵をきってみましょう。
こころの混乱が鎮まり、答えの源とつながることで、ものごとは自然に流れはじめます。これで、必ずうまくいきます。
私たちは外側に答えを探しているだけで、ぐるぐる目がまわってしまうのです。なぜなら、そこはいろいろなものがせめぎあう渦そのものだからです。
渦の外に出るというのは、混乱が混乱を呼んだ状況のなかから距離をおき、静けさのなかで正気を取り戻すことです。
そして、答えを受け取りたいという意志をもって、答えそのものである叡智(静けさ)とつながることで、答えが自然と目のまえに映し出されるのをゆるすこができます。
難しいことはありません。ただ、見ている画面から少し離れて俯瞰して、こころに安らぎを取り戻し、静けさのなかにとどまってみましょう。
体調が悪いとき、私たちはそのことばかりを気にしてしまいます。
心配することこそが癒しのように感じてしまい、あれこれ考えたり、それに対してさまざまなことを試みたり・・・。
じつは、始終それに気をとられてしまうことが、その解決を難しくしてしまうのです。
なぜなら、いつも気にすることでそこにエネルギーが注ぎこまれ、それを大きくし、自分でそれを「手におえない大きな問題」にまで仕立てあげてしまうからです。(いつも気にする、ということは、じつはそれを「愛している」ということと等しいのです。)
そうすることで、真の原因がそのまま温存され、その結果である具合の悪さもそのまま保たれつづけることになります。
目にしているものは、ほんとうの原因の影にすぎません。
真の敵と戦わずその影帽子と戦っても、何の成果も期待できません。
架空の敵と戦うと疲弊します。なぜなら、相手はぜったいに倒れないからです。(起きあがりこぼしと戦っているようなものですね!汗)
私たちは、ついつい目にしているものを信じ、そればかりを相手にしてしまいがちです。
しかし、そもそも目に見えるものは、見えないものから生まれた現象(かたち)にすぎません。
たとえば ・・・ 高速道路に蜃気楼のようなものがあらわれることによって事故が多発したとします。
その問題を解決するために、蜃気楼を片づけに向かっても意味がないのと同じです。
問題はそこじゃないよ!と笑われてしまいます。蜃気楼が発生する原因を調べて、その原因を排除しなければならなかったのです。
体調が悪いときに私たちがせっせとしていることも、蜃気楼退治と同じです。
かたちは必ず、かたちのないものから生まれます。それは、こころです。
だから見えないものこそが重視されなければなりません。
もし、見えるものにこだわってしまうと、大切でないものが自分にとって重大になり、自分を支配するパワーを与えてしまうことになるのです。
いったん、見えているものから注意をはずして、それを生み出しているこころへと戻り、そこに注意を注いであげることが必要です。
こころの本来の性質である「安らぎ」のスペースへと戻って、そこにとどまってあげることが正気を取り戻すことになります。
そこに落ち着けば、すべては自ずとそこの力に導かれてゆきます。そこは答えのあるスペースだからです。そこにこそ、すべてを解決する力があります。
蜃気楼に注ぎ込んでいた注意を逆向きにして、こころの静けさのスパースに戻り、そこをリアルにしてあげましょう。そのスペースを愛してあげましょう。(私たちはそこをカラッポにして、影にばかり向かっています!)
その静けさのスペースのなかから外をみるとき、こころの静けさと同じものが見えるようになります。
かたちに囚われていたこころをかたちから退かせると、かたちのないものが力を取りもどすことができるのです。かたちのないものこそが、すべてを統治する源です。
目にみえるものから退いて、静かなこころのスペースへと安らいだら、そこから与えられる直感を受けいれて、それに従ってみましょう。
ただそこから生まれる考えや行動について行ってみましょう。努力なく導かれる感覚が生まれます。
そのスペースでこそ、こころは正気を取り戻すことができ、正気のこころからは正しい知覚が生まれます。
正しい知覚には、愛と安らぎと喜びだけが存在しているはずです♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
新しい年があけ、あっというまに日常がまわりはじめました。
今年の新たな決意さえも、忙しい日々にまぎれて「あれ?なにを決めたんだっけ?」とアタマのかたすみで忘れさられているかもしれません。
変化を起こしたいとき、私たちは大きな改革を一気に起こそうとします。今まで進んでいた方向から理想のゴールへ、えいっ!と一気に180度曲がりきろうとするのです。
でもそれは、いまの自分とはあまりにかけ離れているのでリアリティがなく、あっというまに興味が失われます。キラキラ輝くステキな決意の一瞬として、日記や手帳のかたすみに消えさります。
そうならないためにも、
なにかを変えたいと思うときには、「ほんのちょっとの違い」を大切にしましょう。
少しだけ、いつもの自分とは違う、バージョンアップしている自分を大切にするのです。
そのバージョンアップとは、思いや言葉や行動です。
表現されることはほんの小さなことかもしれませんが、その下にある意図は大きなものも、小さなものも、意図としてはまったく変わりがありません。意図は意図として偉大なのです。
大きさに関係なく、愛は愛であり、やさしさはやさしさです。
たとえて言えば、100人に対するやさしさも、1人に対するやさしさも、こころのやさしさとしては変わらないものです。
いつもだったら「ここまででいいや・・・」と満足している思いやりを、もう一歩ふみこんでみる、とか。
「ありがたかったな〜」とか、「助かったな〜」とか、「そういうところステキだな〜」とこころのなかでひそかに感謝して、口にしないままになってしまう思いを、あえて相手の人に伝えてみる、とか。
関係が気まづくなって、相手から離れたいと思うときに、勇気をだしてそこにとどまり、自分の正直な気持ちを伝えてみる、とか。
つい怒ってしまいそうになる場面で、「どういうことか理解してみよう」とふみとどまってみる、とか。
とにかく、いつもよりプチ、思いやりや、やさしさ、気遣い、勇気、愛、正直さをバージョンアップさせてみること。ここまで!と思っていたことを、もう少し盛ってみること。
いくらそれがプチであろうとも、そこにある意図はプチではないからです。
私たちのこころは、そんな小さな方向転換を「変化」としてしっかりとキャッチします。
そして、方向転換の意図はかならず、自分の目にする世界に同じものをはっきろと示してくれるようになります。
気がついたら、自分のプチな意図が大きくなって、広がって、自分を包みこみ、そんなやさしい世界に住んでいることに気づくかもしれません。
プチであろうが「意図」こそがすべてです。表現の大きさは関係がありません。
だから、こころのなかでささやかでも愛とやさしさと思いやりの炎をともしたら、それを世界にかざしてみましょう。
マッチ売りの少女のごとく、ともされた炎はきっと違う世界を見せてくれるはず・・・♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
恋♡をしているとき、私たちは幸せな気分になります。
世界は以前よりもよいところに見え、ステキなことに満ちているよう。
それは世界が突然、自分に対する態度を変えたわけではなく、ただたんに自分のこころの状態が変わったからです。
こころに、優しさや愛、思いやりがあることで、自分のこころが自らを幸せにしてくれているのです。
・・・ということは、幸せになりたいのだったら、ただシンプルに優しさ、愛、思いやりの気持ちをいつもこころにキープするだけでよい、それらで満たしておくだけでよい、ということです。
ところが・・・ 私たちときたら、不平不満を言うことや裁くこと、攻撃することにかけては秒殺の早さを誇る達人です(それにおいてはコントロール不能! 自分でも気づかぬうちにもうやっちゃてます・汗)。
その秒殺は相手に向けられているだけではなく、自分の幸せも即死させている・・・ということになかなか気づけません。
先日もクライエントのAさんと話していたときのこと。
「ダンナに対する攻撃の言葉はまるでマシン銃のごとく無意識に連発できるのに、感謝のことばはまるで口にできないのです」とAさん。
まさに、私たちのこころのなかは不平不満、文句、裁きの思いの無法地帯でたれ流し状態ですが、感謝や愛の思いに関してはまさに気づいても気づかぬフリで通りすぎています。
チラリと相手に対して「ありがとう」と感じたとしても、言葉にされることも、行為で示されることもなく、一瞬で消えさってしまいます。だって、ハズカしいじゃな〜い、わかってるでしょ?!って。
日々、お店で、病院で、いろいろなところで感謝すべきことは多々あるのですが、面と向かって「ありがとう!」「助かりました」と全部伝えてはいないのです。
しかし、何かが起こったときにはじめて、「じつは、すごく感謝していたんだよ!」とあらためて口にしたりします(遅っっっ!汗)
なぜこうなるのか?
私たちにとって、無意識のうちに「自分を守らねば」という気持ちが強く、感謝するよりもキケンを察知することのほうがずっと大切だからです。だからこそ、すぐに不具合を見つけなければならないのです。そのための文句であり、裁きなのです。
でも、幸せとは、さきほども書きましたが、こころのなかの幸せ、愛、思いやりがあってこそはじめて感じられるものなのでした。
そうなれば、まずは自分がどれだけ文句たらたらなのか、裁きたくってしょうがないのか、攻撃的なのか、このさい正直にしっかりと知ることが大切です。(攻撃的というのは、被害者になりたがる、ということも含まれます。被害者はいつも、攻撃を見ているからです。それも攻撃のひとつの形です。)
何かを手放すためには、手放す対象がちゃんとわかっていなければなりません。
だから、どちらかといえば、「え〜〜〜!私のこころはこんなに不平不満と攻撃心でいっぱいだったの?! ガ〜〜〜ン!」とショックを受けることは、癒しにおいては正直でよい兆候なのです。みんなそんなものだからです。
でも、そこで立ち止まらず、気づいたらそれを自分の高い自己(ハイヤーセルフ)に渡してしまいましょう。自分で大切にして、使いまわしていたものを自分では手放せません。すべて高い自己に回収してもらいましょう。
回収してもらううちに、本来の自分の愛であるものの見方が復活することになります。無理ににイイ人になろうとする必要はないのです。もともとそこにあるものだからです。
今まで自分が無意識のうちに不平不満、裁きをたれ流しにしていたことに気づいたら、ただ逆の方向に進もうとしてみましょう。
それは、今までチラとこころをかすめていた「ありがとう」の気持ちをちゃんとすくいあげてあげること。外に出してあげること。
それは無かったのではなく、じつはただ素通りされていただけなのです。あらためて表現の機会を与えてあげましょう。
怖れからわき起こる不平不満や攻撃の気持ちを野放しにすることなく、気づいて手放しながら、このような温かなこころを復活させてあげることこそが自分を幸せにする第一歩です。
自分を幸せにしてくれる自分の愛と優しさに気づいて、出し惜しみすることなく大きく解き放ってあげましょう。それは自分を包みこみ、どこまでも大きく広がって、そしてまた自分を幸せにするために戻ってきます☆☆☆
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本棚の断捨離の最中、思わず何十年もまえの古い本を手にとりページをめくってしまいました。
それは、高校生の頃に読んだ「かいまみた死後の世界」。
医師であるレイモンド・ムーディ博士が、300人ほどの死から生還した体験のある人たちにインタビューし、多くの人に共通するモデルケースを紹介した臨死体験研究の本です。
出版当時、米国ではかなりのベストセラーになり、日本ではずいぶんあとになって飯田史彦さんの本のなかで紹介されていたように思います。
1970年代は、まだエリザベス・キューブラーロス博士も臨死体験の研究を発表しておらず、「死」について語ることも今ほどオープンでなかった時代です。死に直面したら何が起こるのかは、「チベット死者の書」とか宗教書のなかでしか知ることができませんでした。
私が読んだのは17歳ぐらいのとき。キリスト教にふれていたこともあり、死後も命はつづくであろうと信じていたのですが、臨死体験をした人たちの共通した体験にリアルさを感じたものです。
ムーディ博士が死後の体験の典型的なモデルとして紹介しているのが、順番は前後しつつもだいたいこんな感じの出来事です。
・医師が自分の臨終を伝えているのが聞こえる(死んだはずなのに、自分もしっかりと聞いているのです!)
・そして、耳障りな音とともに、暗いトンネルの中に吸いこまれる(産道を通って生まれてきたように、去るときも細いところを通過します)
・すると、天井のあたりから自分の身体を見下ろしている自分に気づき、「ああ、死んだのだ」と気づく(医者や家族の様子をつぶさに静観しています)
・光の生命やすでに亡くなった存在たちがやってきて、完全な愛と安らぎに包みこまれ、よい気分になる(みんなこの時点で安らぎを感じて、もう帰りたくなくなっています)
・光の生命に全生涯のフラッシュバックを見せられる(自分の生涯のさまざまな出来事を走馬灯のようにレビューします)
・その後、体験したこともないようなすばらしい光がさしている分岐点のようなところまでやってくる(みな、生き返ったので、この分岐点は誰も越えていません)
最初は、身体を離れてしまったことにパニックになったり、身体に戻りたいとあわてたり、これからどうしようと動揺するのですが、だんだん体験したことのない深い愛と平安と軽やかさや自由に包まれて最高の気分になってきます。もう身体に戻るのはごめんだ!戻れと言われてもイヤだ! という気分になるのです。(しかし、自死の場合は、そのときの混乱がそのままリアルにつづいているようです。その後はわかりません。)
おもしろなと思ったのが、身体はなく意識だけとなっているにもかかわらず、煙のようなモヤモヤした形があるそうで、それは球体で下の方がすぼまっていて、小さな手もあるそうな・・・ まるでアニメのオバケ! (アニメのオバケがまねっこしたのですね!・笑)
このモヤモヤの身体と意識だけとなっていますが、依然、今までと変わりなく見たり、動いたり、聞こえたりするので、最初は「死んでいる」ことになかなか気づかず、まわりの人に話しかけたり、触れようとしたりします。
でも、自分の声は聞こえていないし、物や人は自分をすり抜けてしまうので、ようやく「死んじゃったのね」と気づくよう。(まるで、映画の「ゴースト」や「シックスセンス」の登場人物のようです。)
人やモノへの執着が強いと、ずっとまわりの人に話しかけたり、自分の家のなかをうろうろしたり、すんなりと次の段階へ進めないようです。(心霊写真って、こういう人たち?)
高校生のときに読んで、「えっ、どうしよう!?」と衝撃を受けたのは、死の直後に見せられる自分の全生涯のフラッシュバックについて。
こどものときから、亡くなるまでのあらゆる瞬間を見せられるのですが、自分の気持ちとそこにかかわっていた相手の気持ちの両方を感じとる、といいます。(こころのレベルでは私たちはひとつなので、ひとつのものとして感じてしまうのでしょうね。)
その当時、「いい人にならないとエライことになるわ!」とアセったものですが、今、ふたたび読みかえしてみると、少し違った印象をうけます。
フラッシュバックを完璧にすることなど、誰ひとりできないのです。完全な人間などいないからです。失敗はつきもの!
だから、いい人になろうとして犠牲をしてガマンしてフラストレーションをかかえて生きるよりも、(もちろんできる限りのやさしさと慈愛をもってすべてに対応することは必須ですが)、じゅうぶんに優しくできない自分、やっぱり失敗してしまう自分、どうしても憎んでしまう自分、結局は攻撃してしまう自分、まったく愛でない自分こそを愛して赦してあげることが重要なのです。
どんなときにも、自分自身を赦し愛することこそがレッスンです。そして、自分が赦せているなら、私たちは人をも簡単に赦せるようになるからです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
身体から抜け出したあと、そばにつきそってくれている光の存在は、フラッシュバックのあいだじゅうずっとただ大きな愛で包みこんでくれます。そこにはまったく批判や判断はなく、むしろあたたかな共感や理解を示してくれるそうなので、最後の審判といわれるようなシリアスな裁きの雰囲気はありません。ユーモアさえ感じられるそうな。
自分のこころがそのフラッシュバックをどのように受けとめるのか、自分のこころの問題なのです。
その光の存在は、まったく同じ見方ですべてを裁くことなく理解をもって見ることを問いかけているのかもしれません。
だから、ふだんの生活のなかでヘタレな自分を責めることなく、いつも赦して「愛しているよ!」と言ってあげることこそが大切で、それが習慣になっていたならフラッシュバックも慈愛のまなざしで静かに眺められるのかもしれません。
フラッシュバックのあとに存在している境界線を越えた人は誰もいません。ここが、真のあの世とこの世の境目なのでしょうね。
といっても、この境界は、今までのストーリーにさよならして、次の物語のスタートにすぎません。しばらく極上のリゾートでくつろいだら、また別の身体をまとって赤子としてやってきます。
ほんとうの幸せなゴールは、このようなくりかえし(輪廻)こそをこえること。
あのフラッシュバックを光の存在とまったく同じ目線でみられるようになったとき、もう赦すものがなくなったとき、私たちは無限に思えた輪廻コースからようやく卒業して別のルートへと進むことができ、ついに天国(至福の世界)とひとつになります。
すべてが満たされた至福の状態となり、もう身体や世界を思い出すこともなくなるのでしょう。
そうそう! 身体を離れ、光の存在に出会ったときに、いくつかの質問をされるそうな。
それは、「もう行く(死ぬ)準備ができていますか?」「この人生に満足していますか? 見せられることはありますか?」
そして、「他人を愛することを学びましたか」「知識を深めましたか」
これは地上で成し遂げたこととはまったく関係なく、ただどれだけ愛であったのか、そして真理を学ぼうとしたのか、それだけを問われるということです。(形あるものは、身体から離れたとたんに無意味になってしまいます。何を持とうとも、成しとげようとも関係なく、ただ愛があったかだけが問われるべきことなのです。)
ここから戻ってきた人たちは、一様に身体のことはもうどうでもよくなり(なんせ意識だけを体験して、意識が自分だと知ってしまったので)、ただ自分が全体に奉仕するための愛ある人生を生きたいとみんな口をそろえています。
意識の世界では形など関係なく、問われるのは自分の本質である愛の深さだけなのです。
そして、この身体から抜けてしまう体験も、最初こそはびっくりしているものの、すぐに体験したことのない大きな愛と理解に包まれているのを感じ、あんなに気持ちがよくなったことはないといいます。
そして、そこで感じたことは「身体があるときには、ちゃんとやりとげなければならない使命があり、それはそれぞれの愛を惜しみなく与えることなのだ」と心底理解するようです。
あの頃、かなりインパクトを感じたこの一冊の本が、自分がこんな道にすすむひとつの道しるべになってくれたようにも感じます。
そして、今読んでみても、「ああ、やっぱりそうなのね!大切なことは、ただ自分も他人も物ごとも、すべてを受け入れて、赦し愛することなのだ」と納得いたしました。
ものごとを思いどおりにしようとやっきになるのではなく、すべてを受け入れて同調すること、それはものごとをあるがままに愛すること。
自分のこころに裁きの思いがなくなり、すべてを慈しむことができたとき、こころから闘いの思いが消え去り、そこから生まれていたさまざまな苦しみも姿を消してゆくのでしょう。
光の存在が示してくれているあり方、完全な愛と慈しみ、理解、共感こそが、私たちがここで学ばなければならないあり方のように感じます。
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たとえそこにないものであっても、私たちが「ある!」と思うならば、自分にとっては何でも見ることができます。
それが、私たちのこころのちからです。
自分のこころが「そうだ、あるんだ!」と思った瞬間に、それは自動的になされます。なんでも見たいものを見ることができるほど、私たちのこころは想像力豊かで、創造力旺盛なのです。
けれど、実際に「自分のこころのちからを使っている」とは自覚していません。「それはそういうものだからそうなっているのだ」と、外側のどこかにその原因があるのを好みます(まるで、何でもスパっと切れる刃物を渡されて、自分の指を切り落としてしまう怖れを感じて、まったくそれを使わなくなるのと同じように、こころのちからはお蔵入りしてしまいます)。
「ない」のに「ある」ことにしてしまう最たるものは、「問題」と呼ばれるやっかいごとです。
お気に入りのものを「ある」ものにするよりも、困ったことを「ある」ものにすることの方がお手のものなのです。
「ない」ものを「ある」ものにする一番の方法は、それに対して不平不満や文句を言う、怖れる、抵抗する、疑問をもつことです!
なぜなら、それらは怖れの気持ちとひとつになって強烈なパワーを放つので、そのパワーとくり返しがあれば、もうそれをつくりだして目にするには十分なのです(私たちは煮えたぎるように何百回も感謝しつづけることはありませんが、怒りや怖れ、裁きではそれが簡単にできてしまうのです)。
不平不満、文句の気持ちをもつなら、即座に不平不満、文句を言うべき不具合が目のまえに現れてくれるというわけです。
そもそも私たちが文句を言いたいのは、そこに問題があるからではなく、「文句を言うことによてこころが落ち着く、救われる」からです。
文句を言うと、こころが一瞬エネルギーを放射して、スッキリと回復するように感じられるのです。まるでカンフル剤。リフレッシュします。
ためにし、ぜったいに裁かない、何があっても文句を言わない、何に対しても疑問に思わない、みじんも怖れを抱かない、と決めてみてください・・・ 即座にザワザワしてきて文句を言いたい、裁きたい、何か不満を言いたい!と感じているのに気づくと思います(笑)。
文句を言ったり、裁くことをすると、自分のなかに渦まいていたモヤモヤとしている感情を、自分が目にしている外側の何かのせいにできたように感じて、自分はそのイヤな感じから解放されて、無罪放免になったように感じられるからです(ほんとうは、それをしてしまったあと、時差があって、もっとイヤな気分になってしまうことに気づいていません)。
結局、私たちは「このモヤモヤは、あなたのせいなんです。だから、思いっきり裁いちゃったら、なんかすっきりしましたよ。だから、あなたが悪くって、私が正しいってことで、決着をつけさせていただきます」と、人を裁いてヨイ人になる!という変な解決策で納得しているわけです。
外側が間違っていると言ってしまえば、自分のこころを変える必要がなくなりホッとするからです。
それで落ち着いたように感じるかもしれませんが、「問題がある!」と言ってしまったので、自分がつくり出した問題を見ることからは逃れることができなくなります。
このワナに落ち込まないためには、裁かないこと、文句を言わないこと、欠点をみつけないこと ・・・ つまり、「問題がある」と言わないこと。
「問題がある」と言わないかぎり、問題は生まれようがありません。
じっと黙っていて、こころがシンと静かでなにも浮かばないとしたら ・・・ そもそも問題を認識することはできません。
裁きの思いや価値判断によって、わざわざ「存在しない」問題をつくっていたことに気づきましょう。
結局、その思いこそが、それが目のまえに出現するきっかけとなっていたのです。
不平不満、裁きはなんの役にも立ちません。何もこころに思いをもたずに、ただ穏やかにすべてをそのままに受け入れてしまうことにいたしましょう。信頼して、流れに身をまかせてしまいましょう!
そうすることで、「すべてはそのままでもう大丈夫なのだ」と自分の体験に教えてもらうことができます。そのままがいちばん安全なのです。
自分の目にする世界の安らかさは、世界にケンカを売ることなく、優しくそのままに受けいれてあげること、なのですね♡
PS. 裁くことをやめて ・・・ 自分のなかのモヤモヤがおさまらないときには、
モヤモヤの原因となっている思いを探求してみることをオススメします。
「私はモヤモヤしている・・・なぜなら?」と何度も問いかけてゆくうちに、そのまさに原因となっている「思い」を発見することができます。
それを高い自己(ハイヤーセルフ)にわたして取り去ってもらうと同時に、モヤモヤ感はあるがままに感じてあげることで終わりにしてしまいましょう!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q:人の反応やら、外側のことが気になり、あれこれ考えて疲れてしまいます。
A: あれこれ考えてしまうまえに、すでにその状況に対してあれこれ独自の意味づけをしているのだと思います。その意味づけに対して、あれこれ考える必要が生じてしまいます。
まず、とにかく、黙りましょう。
静まりましょう。
あらゆることに対して、意味、意見、価値判断、解釈、ストーリーを作ることをやめにしましょう。
ただ、こころを静かにし、言葉(考え)というものを使わないようにしましょう。
言葉(考え)を使わないということは、意味づけも、解釈も、価値判断もできなくなります。
私たちが混乱しているとき、その出来事や状況に混乱させられていると感じていますが、
じつは、自分の秩序のない考えに自分のこころがホンロウされているだけなのです。
状況を目にしたとき、すでに自分で「何が起きているのか」「どういうことなのか」「どうなるのか」「この意味は何なのか」を即座に決めつけてしまっています。
なおかつ、それらが真実であって、他の意味などないように感じているのです(自分の信じる考えとはそういうものです。それが真実となってしまいます)。
でも、ものごとにはじつは「意味」がありません。「ただ、そう」なのです。
ということは、私たちは「個人的な見解によって、ものごとの意味をでっちあげ、その意味によって自分をコワがらせ、動揺させ、自分で自分を忙しくしている」ということにまります。
自分を混乱させるのも、自分を怖がらせるのも、自分をパニックにするのも、自分を追いつめるのも、全部自分の考えだけなのです。他にはありません。
そして、その考えは全部まちがっています。
そうなると、ハタから見たら(天から見たら)、「なにをしているのですか? なにもないところに、自分の考えで問題をでっちあげて、その考えに跳びあがっておどろいて、それをどうにかしようとあたふたと時間を費やしているのですか?」と。
でもそれって、この世界で退屈せずに時間をやりすごし、またこの世界にギモンを抱かずに忙しくするためのよい方便なのかもしれません。
自分で自分を混乱させたいための解決策は ・・・ こころを静かにすること。
言葉をまったく使わないこと。
そして、すべてを干渉せずにほっておくこと。
「問題だ!」と騒がないかぎり、それは「問題」になりようがありません。
言葉を使わないときに、それは「問題」とはならずに、静かに目のまえを通りすぎるだけで、消え去ってゆきます。
川辺に立って、川の流れ(ものごとの流れ)を静かに眺めている心境になってみましょう。
肩のちからをぬいて、ゆったりとして、言葉というものを手放して、ただカラッポのこころですべてをそのままに愛でてみましょう。
そう、川べりでリラックスした休日を過ごしている人。
そのためには、自分の見ている画面から数歩うしろにさがって、画面の外に出てしまいましょう。ただ遠い過去の画像を眺めているような感覚です。
なにも考えずに、ただ目のまえのものごとを判断せずに、ただ行かせてあげて、自分はくつろいでいる・・・ そんな感覚でものごとをながめてみましょう。
さらに、言葉を使わずにこころをからっぽにしておくと、そこに自分でも予想もしなかったものを見つけるかもしれません。
それは、本当の自分の強さ、ゆるがない「平安の感覚」であり「光」です。
ほんとうの自分に出会うためにも、ただ、ただ静かに、「静けさ」に耳を澄ませてみましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
コロナ禍のご時勢で、ふだんは感じたこともないさまざまな感情に出くわしている方も多いことと思います。
不安やイライラというフラストレーションにはじまって、自分の存在をおびやかされているような孤独や怖れに直面している方もいらっしゃるかもしれません。
そんな馴染みのない感情に出くわすと、私たちはどうしてよいのかわからなくなります。
そもそも、外の世界との向きあい方のお勉強はいろいろしてきましたが、トント自分の内側にあるこころに関する学びはしていないからです。だから、こころの扱い方がわからないのです。
すると、慣れない感情に圧倒されて感じないフリをしたり(感情の切り離し)、目をそむけたり(飲酒、ゲーム、買い物、ネットなどへの依存)、とにかく感情から逃げようとしてしまいがちです。
誰かに話すとヨイとも言われますが、もちろんコミュニケーションはこころの健康には欠かせないことですが、根本的な解決策とはなりません。
私たちがしてしまいがちなのは、その感情から逃げてしまうことなのです。
その結果、感情は行き場を失い、こころの奥深くに抑圧され、それが自分自身と自分の目にする世界に映し出されるようなり、自分をおびやかすことになります。
感情はしっかりと受けとめられてこそ、消えさることができるのです。逃げるのではなく、受けとめることが必要です。
すべての誤り(感情を含めて、自分にとっての妨害に感じるもの)は、自分の意識の光にさらされることで消滅させることができます。それは、こころの痛みに意識的になる、注意を向ける、ということです。
私たちの意識は、まるで闇のすべてを照らし出し、撲滅させるパワフルなレーザービームのようなもの。なぜなら、私たちこそがその光の源だからです。私たちの意識のなかで消えさることができないものは何もありません。
だから、自分をおびやかすような感情に出会ったときには、決してソッポを向かないことが大切なのです。
自分から近づいて行き、ちゃんと見て、受けとめてあげることをしなければなりません。
そうすると、それらは自分の光のなかに溶けさってゆきます。
受けとめるときには、ちょっとしたコツがあります。
それは、コトバやストーリー、ラベルを使わないこと。
動揺を感じたら、その感情にコトバやストーリーをくっつけないようにします。ただ沈黙します。価値判断しません。そうすると、それはただの中立的な感覚となります。ただのエネルギー的な感覚です。良くも悪くもなく、恐ろしくもキケンでもありません。
たとえば、正座をしていて足がしびれちゃったときのよう。ビーーーンという感覚や、ジンジンしたり、ひきつれたり、ドクンドクンしたりしています。
感情はコトバをつかわないことで、ただシンプルな感覚となります。それをそのまま受け入れてみましょう。
足がしびれたときも、ただビーーーーンという感じに自分をゆだねていると思います。同様に、そこにある感情の感覚に自分をゆだねてみましょう。
すべては、逃げることなく、すすんで自分の意識のなかに迎え入れ、無条件に受け入れてあげることが大切です。
感情に対して、この無条件の受け入れができたならば、あとはお酒でも、ゲームでも、買い物でも、いつもどおりにお好きなだけどうぞ。
でも ・・・ もしかすると、そんなに強迫的に飲みたくなったり、ゲームをやりつづけたりという感覚がなくなり、あっさりと満足してしまうかもしれません。
何かに執着しているときには、その執着心や依存心の下には隠されたままになっている未解決なものが存在しています。
執着じたいをどうしかしようとしがちですが、いったいなにを隠すためにそれをしているのかを見てあげることこそが大切です。その下にあるものが癒されると、同時に執着心も依存症も緩和されるのです。
さまざまなストレスにさらされる今だからこそ、ちょっと時間をとって、じっとこころを感じてみましょう。
じつは、日常的に自分がどのように感じているのか、こころの状態のチェックをすることは大切なことなのです(こころは定期検診がないですものね!)。虫歯のようにズキズキしてくれるまえに、こころはいきなりバッタリいってしまうのです。
今、あなたはここちよいですか? 安らいでいますか? リラックスしていますか?
もし、ぷち不安があったり、落ちつかなかったり、ざわざわしたり、あるいは強い怖れを感じているようだったらい、少しゆったりとしてご自分のあるがままの感情を受け入れる時間をとってみましょう。
あれこれのコトバや名札をはずして、その感覚を迎え入れてあげましょう。
感情を否定したり、隠したりすることなく受け入れてあげることで、感情はどんどん解放されて、軽く自由になってゆきます。
そして、ついには感情というゴミの下に隠されていた本来の自分があらわれはじめます。それは、じつは何にもおびやかされることのない、怖れることのない、ゆるぎない安らぎの自己の感覚です。
感情というゴミに直面してあげることで、自分でも知ることのなかった自己に出会うとができます。その自己こそが、どんなときでも力づよくあなたを支え、幸せの源となってくれます。
こんなふうにふだん感じたことのない感情を感じている今だからこそ、自分の自己という宝ものに向かって、どんどんこころを浄化してあげるミソギの機会へと変えてあげることができるのです。
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コンタクトレンズの交換で眼科に行ったら、先生に「あなた、目がめっちゃ乾いているわよ〜!パッサパサ」と言われてしまいました。 ・・・ 目が砂漠化してる?!(汗) たしかに最近、世界が白っぽいな〜と思っていました。
ドライアイの目薬(これ胃薬と同じ・笑)をいただいたら、くっきり鮮やか! ・・・ でも、言われるまではそんなものかと受け入れていましたが。
美容室でも、髪をカットしたあと首や肩をマッサージしてもらうと、「鉄板でも入れているんですか?肩をマッサージしてると突き指しそうですよ〜」といわれることたびたび。 ・・・ え〜〜〜!永年、軟体動物だと信じてきたのにっっ!
そういわれて、ちょっと首の体操したら、イタタタ・・・たしかに凝っているらしい(汗)。
自分のほんとうの状態って、わかっているようでまるでわかっていないのです。
違和感というものはまるで、顔にサランラップがピターーーッと密着しているような状態。
はじめはヘンだと思ったはずなのに、毎日くっついているとあまりの密着度にだんだん慣れっこになってしまうのです。でも、その端っこが1ミリでもはがれようものなら、いきなり「こんなものをつけてたのっ!」とビックリするのですが。
自分とあまりに一体化してしまったモノは、まったく気づくことができなくなります。そして、まがいものの自分をこしらえてしまうのです。
こころもおんなじ。
一定のこころの状態(怒り、悲しみ、絶望、孤独、あきらめ、無関心・・・)が長くつづくと、それは一過性のこころの状態ではなくなり、まるで自分のアイデンティティになりかわってしまいます。
少しづつ起こるので、そんなニセのアイデンティティにのっとられていることさえ気づけないのです。
ほんとうは、もっと喜びを感じることができるのに、幸せであっていいのに、安らかであっていいのに、愛を感じていいのに ・・・ どんどんその感覚がわからなくなります。
その副作用で、イライラ、トゲトゲしている自分さえもふつ〜になてしまうのです。
このまがいもののアイデンティティ、人ごとではなく、じつは誰もが犯されている病でもあります。
誰もが「ま、こんなものかな、死にそうでもないから、これで幸せということにしておこう」と妥協することで、ぜんぜん喜んでもいないし、安らかんでもないのに、「幸せな自分」「うまくいっている自分」を演じ始めてしまったりします。
すべての変化は、「自分がそれに気づく」ことによってしか生まれません。意識できることが大切なのです。
だから、「これでいっか!」といってしまうと、自分で自分にウソをつくことになり、うすらぼんやり不安な世界のなかで「幸せだ」と自分を信じこませたりしてしまいます。
かといって、不平不満をとなえましょう!ということではありません。
日々のいろいろなことにもちろん感謝をしながら過ごすのですが、本当の自分を見失わないために自分の今の状態に正直になることです。
それは、そのときに自分の感じていることに正直になってみること。
「今、どう感じている?」
「あ、大切にされていないように感じて悲しんでいるんだね」
「思うようにならなくって、イライラしているんだね」
「さっき言われたひとことに傷ついているんだね」
その気持ちを無視したり、なきものにするのではなく、そんな自分をちゃんと認めてあげましょう。
「そうなんだ。そう感じてもいいんだよ」
「感じてみようよ。どんな感じがしてる?」
私たちは自分にとっておもしろくないことが起こると、「不平不満」という文句やセリフでアタマをいっぱいにしてしまい、その下にある「どんな感じがしているのか」という感情を無視してしまいます。
大切なのは、セリフや文句はいったんストップして、「今、感じていることをちゃんと認める、感じる」ということ。
「感じる」ことは、受け入れること。「文句をいう」ことは、抵抗すること。
ちゃんと受け入れられたものは、意識の光が当てられることで、その意識のなかに消え去ってゆくことができます。
抵抗してしまったものは、さらにエネルギーが注がれ、パワーアップしてゆくことになります。
感じることがとどこおりなく行われると、ニセの不満足な自分というアイデンティティを維持することがなくなります。
ほんとうの自分(完全な満足)の上にホコリのようにかぶさっていた不平不満の感覚を取り去ってあげることができるのです。
自分にピターーーッとはりついて一体化している「そこはかとなく不満足」な感覚を取り去るために、そのときそのときの自分の感じていることに敬意をはらって、しっかりと受けとめてあげる習慣をつけましょう。
少しづつ、努力なしに「穏やか」「幸せ」「嬉しい」「楽しい」という感覚が自分のなかにあることに気づくと思います。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
スマホやパソコン、家電などは、誤作動しはじめたらすぐに直します。
「それ」自体を直します。
でも ・・・ 私たちは「こころ」が誤作動しはじめても、直そうとはしません。ほっておきます。
ほっておくので、誤作動はつづきます。気づかれるまでつづきます
なぜ「こころ」はスマホやパソコンのように、すぐに直せずほっておかれるのでしょう?
それは、「こころ」の不具合は「こころ」とはまったく別のところに現れてしまうから。
不具合は、自分の「こころ」のなかではなく、自分の「目にする世界」に問題として現れるのです。
それは、人との不和であったり、経済的な欠乏であったり、身体の病であったり、世界で起こる災いであったり、生死にかかわる状況であったり・・・あらゆる問題という形をとります。
そうなると、その問題にこそ飛びつき、それを修正しようとしてしまいます。
これが、「問題」というものがいつまでたってもくり返し、片づかない原因です。
「こころ」の不具合が、自分の見ている世界というイメージのなかに現れることで、それが何なのか、何が原因なのかがわからなくなってしまうのです。
すると、「こころ」を直そうとするよりも、世界や人をいじくりまわすことになってしまうのです。
また、「こころ」の具合悪くなっていても、「具合が悪いのだ」ということを認めることができないということも、正すことができなくなっている原因のひとつです。
修正するためには、修正するものについてしっかりと気づいている必要があります。間違いを間違いだと知り、意識されていなければ、正されることはありません。
私たちは自分のこころが苦しい思いで占領されていても、そのツライ状態をスルーして見ないふりをしてしまいます。
苦しんでいる、ということ自体が、もうフツウではないのに、フツウではない状態に正直になれないのです。
目のまえの世界のフツウでない状態には敏感ですが、自分の「こころ」のフツウでない状態には感心がありません。
なぜなら、「形」あるものこそが自分に利益を与えてくれると思っているので、形のない「こころ」などかまってあげても何のご利益もないと信じているからです。
私たちは自分の「こころ」に対して、優秀は検査技師のようにならなければなりません。
精密機器のようにきれいにし、正確に作動すべく気づかってあげなければならないのです。
「こころ」の状態こそが、自分のすべてが立ち現れ、自分をとりまく世界を決めるからです。
自分が安らでない、幸せでない、喜んでないなら、なにかがおかしいと気づくべきです。すぐにそれに気づけるようにならなければなりません。
こころの状態に正直になり、すぐに正しているのであれば、見える世界は穏やかになります。
自分のこころの不具合を自分の外側の世界にぶちまけることで、自分を苦しめ、痛めつけることがなくなるからです。さらに、その解決の仕方がわからなくなる、という自作のトリックにはまりこむこともなくなります。
安らかな世界のなかに住みたいと思うのなら、自分の「こころ」をウォッチしなければなりません。
「このような状態である必要はない、私は幸せでいてかまわないのだから」と自分のこころの不具合を修正する習慣をつけましょう。
修正するためには、間違った思いを手放して、ただこころをカラッポにし、きれいにしてあげましょう。
カラッポにして、静まりましょう。
正しい「こころ」は、すでにそこで待っています。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q: パートナーが占いにはまっています。いちいち占いに頼り、「あっちの方向はよくない」とか「今は時じゃないとか」、何を決めるのも、何をするのも占いの結果しだいで、以前よりも神経質になり、自由がなくなったように感じ息苦しくなってしまいます。
A: 占ってもらった方向、日時でしか行動を起こせない・・・。よくないことを言われると「そうなんだ」と丸ごと受け入れてしまう・・・。自分の感覚よりも占いの方がずっと重要・・・。
こうなると、占いを自分よりもずっと高いポジションに奉ってしまっています。自分よりもパワーのある源にしてしまっているのです。そうすると、自分はさらにヨワヨワになるのが当然で、思いのままに生きる自由や喜びがなくなってしまいます。
占い師の方が、かなり断定的なもの言いだったり、自分がひそかいに思っていることと同じことを言われると、さらにパワーを与えてしまういがちです。
占いにしても何にしても、この世に存在するものは、それはたんなる道具です。
道具は「自分」が使うものであって、それに支配されるものではありません。
だから、占いを使うときには、自分の道具であることを認識して「どのように」使うのかを決めなければなりません。なぜなら、道具は自分を傷つけるために使うこともできるし、自分の可能性を広げるために役立てることもできるからです。
占いに頼ってしまっているとき、「自分が感じるままに行動したらよくない結果になる」という自分への不信感や、「未来に光がないように思える」という現状へのガッカリ感がこころに潜んでいます。
「自分には自分を幸せにする力がない」と感じているのです。
だからといって占いが自分を幸せにできるかというと、そんなことはありません。自分にできないことは、誰にもできません。ここにいる自分を救えるのは、自分だけなのです。
だから、その主導権は決して誰かに渡してしまってはいけないのです。
道具であるはずの占いも、確信と自信のない自分にとっては危険な道具になりかねません。
占いという道具が自分を傷つけてしまう使い方は、それをそのまま受け入れてしまうこと。
「いつ、こんなことが起きますよ」と言われ、誰かや、ものごとという外側の世界にパワーを与えてしまうことです。
それは、占いこそが力をもっていて、それが自分の未来を予測し、自分はそうなるしかないのだ、と運命の奴隷になってしまいます。
一方、自分のための道具として役立てるためには、言われたことをいったん自分のこころに戻してみることです。そして、自分がどう反応しているのか、感じてみることです。
あまりよくないことが起こると言われたとき ・・・ いったい自分はどんな状況に抵抗し、また恐怖を感じているのかを知ることができます。そんな状況に呑み込まれてしまう自分をイメージしているのです。
でも、その状況に抵抗しているからこそ、この言葉を聞いたともいえます。
逆に、いいことを言われて喜んでいるとき ・・・ そのような現実を未来に望んでいる自分は、たった今、安心して満ち足りてはいない、今、幸せになることを自分にゆるしていないことがわかります。
どちらの場合も、そのがっかり感こそを癒さなければなりません。
占いによって伝えられる未来には、意味がありません。なぜなら、私たちがいられるのは、たった「今」のこの瞬間以外ないからです。
未来の何かは、今の自分のこころの状態を写しだしてくれています。
いったん自分が「欠乏感を感じている」ということを認めることができたなら、たった今、それを癒すことで、「今」この瞬間に満ち足りることもできるのだ、ということがわかります。
いちばんよい占い師さんは、「あなたにはこういう問題があるから、まずそのこころを癒しなさい」と問題をこころに戻してくれる方です。たった今の改善点を、こころという原因で改善できることを教えてくれる方です。
自分の目にするものは、占いであろうと何であろうと、自分のこころから出てきています。
占いでも、人から言われたことでも、うまく活用するには、「これを言われて落ちこんでいる自分って・・・? これを言われて喜んでいる自分って・・・? いったい何を感じているのだろう?」というように、自分の反応を冷静に見て、自分がどういう状態であるのかに気づくことです。
気づいたら、「ああ、そんなふうに私は感じていたのだなぁ」と、そのヨワヨワ感に抵抗したり、否定することなく、ただ受け入れて感じてあげましょう。認めて、受け入れることが大切なのです。
否定や抵抗がなくなれば、ものごとがスムーズに流れるようになり、いちばんよいときにいちばんよいようになることを信頼できるようになります。
また、抵抗感がなくなることでこころに新たなスペースができ、そこに自分を幸せに導いてくれるインスピレーションがふんだんにやってくるようになります。
あるいは、インスピレーションだと感じるまでもなく、ただすべてがうまく運んでいくように感じることかもしれません。
占いの機会があれば、冷静に自分の反応を観察してみることにしましょう♡
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川は、ただ鑑賞(観照)いたしましょう。
その流れを楽しみましょう。
多少、気に入らないものが流れてこようともそのままにしておいていいのです。
私たちがやりがちなのは、気に入らないものを目にすると、すぐさまタモを手にして片っぱしからすくいあげようとしてしまうこと。
すくいあげるにとどまらず、みずから川に突入してバシャバシャしてしまいます。
すると、予想外のおそろしいもの(ピラニア? ワニ?)に出くわして悲惨なめにあうことも・・・。
川に何がひそんでいようとも、そこでジャブジャブしてしまわなければ安全です。
退いてながめているだけだったら、それらとはなんの関わりもないのです。
どんなゴミが流れてこようとも、
それに文句を言ってちょっかいをだしたり、抵抗してわざわざ川から引きあげて自分のもとにもってくる必要はないのです。
ゴミは流されて、そのうち川のなかで姿を消してゆきます。
だから、ただ行かせてあげましょう。
私たちがするべきことは、ただ川べりでリラックスして、何が流れていようとも鑑賞(観照)してあげることだけ。
それが私たちがするべきこと。
川べりでバカンスを楽しむ人になりましょう。
*川は、私たちの人生そのもの。
そして、流れてゆくものは日々のさまざまな出来事です。*
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腹を立てたり、落ちこんだり、いちいちモノ申したり、なんでも思いどおりにしたい、できる! ・・・ と信じているのは、あなたではありません。
ニセモノの自分です。
ニセモノの自分とは、エゴのこと。その自分は、つねにざわめいています。ざわめいていることこそがニセモノの証拠なのです。
ホンモノの自分は静けさそのものだから。山深いところにある湖のように、シンと静まりかえって、微動だにせず、澄みきっている存在。
ニセモノ(エゴ)の自分は、いつも大騒ぎすることで注意をひこうとしています。
その注目の集め方は、「不都合、不公平がそこにある!」と叫んだり、「動揺」「怒り」「恐怖」などの強烈な感覚を使ってマヒさせること。
そのやり方は、いっぺんに注意をうばって、クギづけにすることができるから。
注意をうばわれる・・・ということは、じつは「我を忘れる」「自分の正体をなくす」ということと同じです。自分が誰だかわからなくなり、身じろぎもしない存在だったことをすっかり忘れてしまうのです。
そして、注意を奪った対象に脅威を感じ、怖れるようになります。
すると、ニセモノであるエゴは、混乱を糧に注意をひき、エネルギーをたくわえ、パワーアップしてゆきます。つまり、乗っとっちゃうわけです。
大騒ぎしているもの、うるさく意見や批判を述べるもの、怖がってちぢみあがっているもの ・・・ それらは、自分ではないことを覚えておきましょう。
それに対する対処法は、ただスルーすることだけです。相手をしないことです。
相手をしようとすれば、すぐさまからめとられます。スルーすれば、自分のまえを通りすぎるだけです。
静めようとする必要も、正そうとする必要も、助けようとする必要もありません。
ニセモノは、いちいちかまう必要はないのです。注意という栄養をもらえなければ静かに消え去る運命にあります。
ただ「ふう〜〜ん、そんなこと言っているのね」「そんなふうに感じているのね」と存在していることを認めたら、静かにながめていましょう。もうすぐに、消えてゆくのがわかるかもしれません。
しょせん、そんなはかないものだったのです。
ニセモノはいろいろなかたちであらわれます。
あるときは、軽蔑していたり、残酷だったり、身勝手だったり、冷酷だったり、こどもっぽかったり、怯えていたり、ずるかったり・・・。
それを自分だと思えば、恥ずかしく感じ、罪悪感を抱きます。
そんなふうに感じる必要も、裁く必要も、抵抗する必要も、正す必要も、取り除く必要も、悪く思う必要もありません。
自分ではないものとかかわるのはやめましょう。自分とは、静けさのなかで愛をたたえて、穏やかに微動だにしない存在です。
通りすぎるものの後ろに、静かに、だけど微動だにせず、ど〜〜〜んと構えている存在です。
自分のこころの状態に敏感になることによって、その静かな湖のようなこころを波だたせるものに逐いち気づけるようになりましょう。
気づけたとき、それは終わりにすることができます。
ただ認識し、静かに観ていることで、それは失速して姿を消す運命になるのです。
なので、「人」や「世界」についてつねにあれこれ言いたいニセモノについて、それが姿をあらわる自分のこころを静かに見守る習慣をつけましょう。
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私たちは問題を目にしたとき、あるいは傷ついたと感じるとき、
すぐさま、「なんで?」「どうしてこうなった?」「何を間違った?」「誰が悪い?」「で、どうしたらいいの?」・・・ とアタマで現状を解釈し、必死で対処法をはじき出そうとします。
でも、これって ・・・ じつは自分の痛みを誤摩化すためにこころが行う「対症療法」のようなもの。解決には少しも役立っていません。
原因はそのままにして、そこから注意をそらすことで痛みを緩和しようとしているだけなのです。
原因がなくならないのなら、それは繰り返されることになります。
そのそも、それが問題となったのは、その瞬間にこころを襲った「痛み」だったはず。
ズキっとか、グサっとか、ビリビリっとかの痛みの一撃。
その慣れないインパクトにこころが動揺し、その感覚から逃れるために「思考」へと走ったのです。「思考」でマトをずらすことで、その一撃のインパクトを和らげていたのです。
となると、「なんで?」とかあれこれ考えはじめた段階で、もう違う方向に行ってしまったことになります。
どうにかしなくちゃならないのは、自分が動揺したあのイヤ〜な一撃そのものなのだから。
アタマで考えはじめてしまうと、その感じは手つかずのまま放置されることとなり、一方こころは自分勝手なストーリーをねつ造することに熱中し、そのストーリーはあたかも本当のことのように感じられてきます。
ストーリーへの耽溺が痛みを少しやわらげてくれるように感じます。(・・・が、ありもしないストーリーという別の痛みもこしらえています。つまり、痛みはふえてます)。
そのストーリーはどんどん発展して(ほんとうではないのに)、「そうか〜、そういうことか?」と勝手に納得し、いよいよ解決できない方向へと自分を導いてゆきます。
そもそも、あのイヤな感じから注意をそらしてしまった段階で、それを解決できないものにしているのですが、この自分勝手なストーリー展開をすることで、さらに解決から遠ざかってしまいました。
このストーリーで考えたあれこれを実行してみたとしても、問題は解決しません(そもそも、できません)。一瞬消えたように感じても、また似たような問題として姿をあらわします。
大切なことは、「自分がすぐさまそこから注意をそらしたくなるような不快な一撃を感じた」ということにまず気づけるようになることです。
なぜなら、これさえなければ、何が起ころうと自分は動揺することなく、それを問題だと感じることすらないからです。
この問題の出発点といえるイヤな感じから逃げないようにしなければなりません。
ただそれは「感じ」なので、噛みついたり、ボコボコにされることはありません(まあ、慣れていない感じなので、ちょっと感電状態にはなるかもしれませんが、その感じも慣れてくればただの「感じ」、むしろ感じるのが楽しくなってきます)。
抵抗することなく受容されたものは終わりになります。
自分のなかでその「感じ」を受けとめたら、ハイヤーセルフに「これは私が感じたいものではありません。私のほんとうの感情(愛・喜び・平和・安らぎ)を感じさせて下さい」とお願いいたしましょう。
私たちは自ら、何を感じたいのか、どのような状態でいたいのか、どんな自分でいたいのか、を選ばなければなりません。
選ぶまえには、好きでもないのに必死で握りしめていた間違った感情や自己概念・信念に気づいて、手放さなければならないのです(意識的になる、ということは、間違ったものを手放すためには欠かせません)。
つまり、間違ったこころの初期設定を解除するために、間違いに気づき、それを感じ、新たに選び直すのです。
何かイヤな感じに襲われたら、アタマでストーリーを展開させることに熱中するのではなく、ただ最初の一瞬に自分を襲った不快感な一撃に戻って、それとまっすぐ向き合ってみましょう。
そして、それを真に終わりにしてしまいましょう。
その感じがない、ということは「怖れ」がない、問題がない、ということなのです。
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またまたコロナの協力金の申請がスタートしました。いそいそと添付資料を用意し、いざ申請サイトへ!
ところが、どこをくまなく探しても申請ボタンが見当たらず(汗)・・・問い合せをしようものなら電話は混みあい(大汗)、こりゃ一日仕事だわ〜!
ようやくつながったと思ったら、「最新のブラウザを使ってください」「書面での申請は今のところ考えいません」ですと〜〜〜!(怒)
世の中全員が最新のブラウザを使っているというこの前提はなんなんしょ?! そもそも電子申請などできない方だってゴマンといるというのに、これって差別?!
べつに電話口の方がそう決めたわけではないけれど、どうしても「ひとこと言っておきたい!」という怒りの気持ちがムクムクと・・・(この場合は、提言するというよりも、怒りたい、このイライラをどうにかしたい!)。
怒ってみると、怒りに酔いしれていることがあります。
怒りのエネルギーに占拠されて、怒りを放出する気持ちよさに酔いしれ、もともとなにが原因であったかなんてももうどうでもよくなり、ひたすら怒りを放出する・・・。
これ夫婦喧嘩などではよくあるようです。静かに話しあって解決できることも、怒りだしたら止まらず、怒りに酔いしれて、ただ怒りをぶちまけることだけが目的になってしまうのです。
私の場合も、「なにをぬかす!」と怒りをぶちまけたい衝動を感じながら、その一方でこころの他の部分は冷めているのです。「ホ〜ラ、また被害者になろうとしてる〜!怒りをぶちまけてスッキリしたいんだよね〜」と冷静にながめているのです。
でも、怒りのエネルギーって強力。そうは思っても、その炎をまったく消火できないこともあるのです(この場合は、早急にブレーキがかかりましたが)。
「怒りたい!」という衝動は思いのほか強烈で、どこか正当な感じがして魅力的なのです。一気にイイひとになれる感じ。「あなたは間違っていて、私は完全に正しいのよ!どんだけあなたが間違っているのか教えてあげるわ!」的な。
イイ人になれる快感と、もともとためこんでいた怒り・不平不満を一気に解消できるスッキリ感、さらにエネルギーをメラメラ燃焼して自分のパワーに酔ってる感 ・・・ 怒りにはそんな耽溺性の気持ちよさがあるように思います。
だから、怒っていると、問題なんかどうでもいい、この感じをもっと大きくしたい〜!となるわけです(あおり運転や危険運転も、こんな怒りがメラメラしちゃった結果かもしれませんね)。
私たちは自分の抑圧したイヤな感じをスッキリしたいがゆえに、ある意味、罪(間違い)にめざといわけです。怒るチャンスを逃したくないのです。「ほ〜ら、あなた間違ったわよ!それですむと思ってるの?」と。
まさに怒りって「麻薬」級の依存性があります。私たちはみんな、その中毒症なのです。
相手にぶちまけなくっても、自分に自虐的に怒ってしまうのも同じ症状です。ネチネチ自分を責めつづけているのも、じつはそれに酔いしれているのです。
しかし、怒りを使う限り、そのあと必ずしっぺがえしがやってきます。
「ああ、爆弾落としてしまった!私が攻撃したとバレて罰せられないように、さっさとヨワヨワで不幸な自分を演出しよう!」と自分で自分を弱体化して、天罰が下るのをさけようとします。
元気で幸せでいようものなら、今までのツケが全部ふりかかってきそうだからです。そうなれば、弱ければ弱いほどよいのです。(ほんとうは天罰などなく、どちらにしても自分が自分を罰しているだけなのですが・・・)。
「わかっちゃいるのに、ああ、また怒ってしまった!」と後悔するのも、自分を責める怒りの別バージョンです。
怒っちゃったときには罪悪感を抱くのではなく、ハイヤーセルフにお願いしましょう。「怒り狂っていたのは、私のエゴです。もうこのエゴを大切にしたくありません。私のこころから取り去ってください」とニセの自分を除去してもらいましょう。
この除去を、怒り、攻撃性が顔を出すたびにきっちりできれば、怒ることもまた自分のこころを不法占拠しているエゴのお掃除に使うことができるのです。
すぐに気がついてお掃除をすすめてゆけば、怒ることで快感に酔いしれてあとで痛いめをみることがなくなります。もっと安らかなこころの状態こそを愛するようになります。
湧きあがってしまう怒りを逆手にとって、自分が見失ってしまっていた本来のこころの静けさを自分のものとできるように、「怒りに気づいて」「ハイヤーセルフとともにお掃除」を習慣にしましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
このところ、探しものにあけくれています。
じつは、「オフィス・るん」は先月移転いたしました。といっても、旧「オフィス・るん」から、ものの1分ほどなのですが。(お越しになる際は、ご案内させていただきます。)
あまりにも突発的で早業の移転劇だったため、どの箱に何をパッキングしたのかさっぱりわからず。それを丸ごと押し入れに投げこんで「ハイ、終了!」、めでたし、めでたし気分になっていたのです。
ところが、いざ仕事をはじめてみたら「あれがない!」「これもない!」と、日々宝探し状態。
出納帳がない!と、あっちをガサガサ、こっちをゴソゴソ。さらに、家具の下に貼るフェルトシールもたくさん買っておいたはずなのに、どこ?
探しているそばから、どんどん散らかります。
「ないはずはない!」と同じところを何度も見ているうちに、ついには疲れはてて、めまいまでしてくるしまつ。
しまいにはソファーにバッタリ倒れこんで ・・・
そこでようやく、ハタ! ・・・と初心にかえるのです。
探しながらつぶやいているセリフが、まずマズい!(汗)
「なぜ、ないの?」は、「ない」ことを前提にさらに強化していたのでした。
そもそも、「ない」という事態を目にするのは、こころの無意識層にある欠乏と不足の思いをイメージとして見ているのです。
なので、探しつづけるよりもまずは、こころのなかの「ない」という思い、不足の思いを癒すことが先決でした! 見えているものはつねに、ダイレクトに自分のこころの証だからです。
アセりながら「なぜないの?」「ぜんぜんないじゃない!?」と「ない」を強調して決定的にするのはやめて、「おお〜、不足の信念さん、こんにちは。出てきてくれてありがとう。今、成仏させてあげるから」と、不足の信念を手放すことに使ってあげなくてはなりません。
いつも、目のまえに提示されているものごとこそ、自分のこころの誤作動を正す機会となるからです。
そこで、「不足が存在する」という思いに気づき、それを責めることなくハイヤーセルフに委ねて ・・・
ああ〜 ・・・委ねたらなんだか眠くなってきた〜 (暑いなか、バタバタ探し疲れた・・・ )と、ソファで一瞬まどろんでいたら・・・
いきなりきました!
アタマに、本棚の片隅の映像と、エコバッグの映像が浮かんだのです。
すかさずガバっと立ち上がって、本棚とエコバッグをチェックしてみると、
きゃ〜〜ん! やだ〜〜〜! ちゃんとあるじゃない!☆☆☆ 本棚の本にまぎれて出納帳、エコバッグの底にフェルトシール♪(どちらも、思いもよりませんでした!)
ハイヤーセルフにお願いしたら、解決までものの1分たらず(ここまでの疲労感と散らかりよう、いったいどうしてくれよう!)。
大切なことは、
*元となる思考をみきわめて、それをまず手放すこと(この場合は、見つからない=ない=不足の信念)。
*自力でやろうとするのではなく、ハイヤーセルフに委ねて、まかせること(自力だと、まだ「ない」というストーリーに執着して、「ない」という独自の筋書きから脱出できない)。
*ハイヤーセルフにおまかせしたら、アタマをからっぽにしておくこと。(あ〜だ、こ〜だの思考がはびこっていると、ハイヤーセルフからのアイデアが入ってくるスペースがありません。ギリシャの賢人も、たいていひと風呂あびているときにひらめいたものです。)
なにが起ころうとも、これが解決方法。自分の信じていることを手放して、委ねて、アタマをカラにする。
めっちゃ部屋を散らかして、汗だくになって、疲労困憊になるまえに気づきたかった〜(汗)。でも、私たちは疲労困憊になったり、めまいがするところまでいかないと、自分の持論や正しさを手放す気にはならないのかもしれません。
それぐらい、ヘンな方向性で自分を信じているのでしょうね(苦笑)。
めまいがするまえに、さっさと白旗をかかげようっと♪
次回の困りごとの際は、出来事と格闘することから手をひいて、すみやかにこころのなかで正しい解決法を選択するこができますように☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
目のまえに問題があらわれたら、解決に取りくむ ・・・ これが、私たちが教えられてきた人生の対処法です。
問題とは解決すべきものであると。
でも・・・もしその姿勢が、より問題を解決できなくしているとしたら? それが、火に油を注いでいることだとしたら?
私たちの人生に対する姿勢は、ものごとをよりよく「変える」ために努力すること。
向上してなんぼ・・・の世界なので、それに対して何もしないことは、前向きでない、やる気がない、怠惰な人と思われてしまいます。
だから、つねに人生をよりよくするために問題点を洗いだし、それについてアタマをひねり、対策を考え、変える努力をすることがよいことだと信じられています。
でも ・・・ 問題をどうにかしよと取り組むということは、「私 VS 問題」という対立構造をつくりだします。
対立は、勝利するために相手と闘うことを意味し、相手という一点に注意を注ぎます。その結果、自分の意識のなかで、それ(問題)をよりリアルで強固なものにしてしまうのです。
問題視すればするほど注意はたっぷりと注がれ、相手は自分にとって手におえない存在となってしまいます。
そうなれば、解決しようとしているはずなのに、その解決策はより相手をパワフルにするものとなっているのです。
ほんとうの解決とは、対立によるものではなく、自分のこころのなかでその存在を手放してあげることです。
つまり、注意をはずしてあげること。
対立によって相手に注意を注ぎまくり、リアルで強固な存在にするのではなく、まったく対立しないこと 〜受容すること、そのままにしてあげること〜 によって、注意という電源を抜いてしまうのです。
その状態にめくじらをたてて闘おうとするのではなく、ただ赦してあげることこそが、それを去らせてあげることができます
これは、「押してダメなら引いてみな(責めるのではなく、赦してごらん)」という、北風と太陽の原理のごとく逆をゆくことでうまく方法です
「こんなの許せない!」「これは問題でしょ!」と腹をたてて騒いでいるのは自分のこころです。その裁いている自分のこころにただ気づいてみましょう。
問題は相手にあるのではなく、じつはこの裁きの気持ちこそが問題なのです。なんたって、自分が問題だ!と言っているのですから。
静かにその気持ちに気づいてみるだけで、その裁きのこころから離れることができます(裁きの気持ちを対象として見たときには、自分自身はもうそこから離れています)。
離れることができたら、それをどうにかしようともせずに、ただ眺めていましょう。自分のこころをそこから離してあげるだけでそれは静まってきます。
出来事を裁いて「闘うべきだ!」と叫ぶこころそのものを静観する習慣をつけることで、問題をつくって問題とたわむれることを生業にしているエゴのスイッチを切ることができます。
すべてを裁きたいエゴのこころは、問題をこしらえては、そこに注意を注ぎまくって、をれを解決できないものに仕立てあげ、それに闘いを挑んでは疲れはて、敗北感を感じ、その敗北感からまた裁きなくなる、という不毛なループを好みます。それに巻きこまれないようにしましょう。
問題は解決すべきもの、ではなく、ただ受け入れて、意識のなかから手放してあげるもの。
問題をつくりだすまえに、をれを問題視しよとしている裁きの気持ちに気づいてみましょう。
裁きの気持ちを見つけたらただ静観することで、「問題だ!」と叫ぶ声は静まってきます。
この裁きの声が生きのびなければ、問題は問題となりえないのです。問題を作ってしまうまえに、この声に気づけるようになり、ただ静かに向きあってみましょう。それはただ消えてゆくのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
こころがキューっとなにかに集中すると ・・・ それは大きくなります。
そこだけにスポットライトがあたって、大うつしになる感じ。
それは画面いっぱいにふくれあがり、いっぽう自分自身はしゅ〜〜ん・・・とシュリンクしてしまいます。
私たちの注意はまるで拡大鏡のよう。こころは、自分で拡大したものにまんまと囚われてしまうのです。
わかりやすいのが恋愛です。
相手にこころを奪われて相手にばかり気をとられているうちに、相手は自分のなかでパワーアップして巨大化し、ついにいっぱいになってしまいます。(注意という拡大鏡で拡大したら、こころのなかがその映像、思いでいっぱいになってしまった状態です。)
曇り空でさえも太陽の存在が消滅していないのと同じように、そのとき自分自身の存在は決して小さくなったり消えてしまったわけではないのですが、
おもいっきり注意を注いだ相手の存在によってこころはパンパン、まさに太陽不在のごとく自分不在のように感じられてしまいます。自分不在は、無力で居心地が悪いものです。
注意(またの名を執着と欲望という・・・汗)を注いだ相手は、こころのまんなかにデンと強力に居座っています。
「あなたのこと以外なにも考えられなくなってしまいました!苦しいからどいてくださ〜〜い!(汗)」・・・いえいえ、あなたがそれを真ん中に置いたのです。
これは恋愛だけでなく、問題や心配ごとでも同様です。
それに集中しすぎるために、それに自分のスペースを明け渡してしまい、自分自身が忘れさられてしまったがゆえにひどい無力感にさいなまれます。
そうなると、その不安感からなおさらその対象に固執することになってしまいます。(対象をどうにかしようと向かって行ってしまうのです。)
けれども、さらに自分を小さくしパワーを奪ってしまうという悪循環に陥ります。
一点に集中は、見ている対象に巻きこまれて自分を失ってしまうことになり、またひとつに集中することでその他を切り捨てるため、孤独感や孤立感にさいなまれることになってしまうのです。
一点に集中してものごとを見る、というのは自分を幸せにしてあげられる見方ではないのです。
切りとらないものの見方とは・・・たとえば、
寝転がってリラックスし、自分自身が意識のなか(後ろの方)に退くのを感じてみましょう。
そして、自分の見ている世界の「はしっこ」に気づいてみましょう。
はしっこをず〜っとたどってみると、楕円形に世界が入っているのに気がつきます。
そして、その楕円形の世界こそが自分の意識(こころ)に写し映像で、そこには自分だと思っていた人影も見ることができます。でも、そっちはただの映像で、この写し出している土台こそがホンモノです。
このように、目にするすべてのものは自分のこころのなかのもの、自分のこころに映りこんでいるもの。自分とはちょっとも離れていないのです。
今まではキュ〜っと集中してその一部分だけを切り取って、自分 VS それ というように、見知らぬもののように扱っていたものが、じつは「ぜんぶ私だったのね!」と気づくことで、ちょっと落ち着きます。
決してえたいの知れないものは現れていなかったのです。
今まではどこか外側からそれはやってきて、仰天させられたり、ホンロウさせられたり、困らせられたりしていると思っていたものも・・・じつは自分のこころのスクリーンにあらわれているもの。
安心と信頼をもって、全体を受けとめてあげましょう。
それを安心して見れば安心感が、信頼して見れば信頼感がもどってくるのです。なんせ、ひとつのこころだから。
そして、こころのなかで拒絶されることなく受けとめられたものは、そのまま消え去り流れてゆきます。
ひとつひとつを切りとる(価値判断する)ことなく、ただあるがままに行かせてあげましょう。
そうすると、問題も気にならなくなり、すべてが穏やかに過ぎさってゆくのを感じられるかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
何か失敗しちゃったとき・・・
私たちはその失敗の内容自体を客観的に見ようとするよりも、それはスルーして、自分自身を責めることに向かいがちです。
「なんでこんな失敗しちゃったんだろう?」「みんなに迷惑かけて、私ってダメだわ」「いっつもこうだよね」「きっとあきれられてるかも」「もう見放されるかも」・・・
ほんとうのところ、そのときするべき正しい反応は、
「自分のしたことは適切じゃなかった」「じゃあ、そうならないためにどうしたらいい?」「不十分だったところはどこだろう?」「それについて何ができる?」「じゃあ、次回はそこを改善しよう!」
「うまくいかなかったポイント」の認知があり、それに対する改善があります。
ところが、私たちがしてしまいがちなのは「裁き」なのです。
「これは ”私の失敗(罪)”」であり、「そんなこともできない ”自分はダメなやつ(罪のある人)”」というふうに。その内容についてではなく、自分についての裁きなのです。それも二度も。
「罪がある」ことのみに焦点があたってしまい、起きた内容は無視されてしまっています。
そして、この「罪がある」という思いは、次から次へと負の連鎖を生み出し、罪のある自分を決定的にしてゆきます。
「失敗しちゃった」→「私はいつもこう」→「嫌われちゃう私」→「そういえば、○○さんの私に対する態度は最近つめたい」→「仕事の担当を変えられるかも」→「私は見捨てられる」→「不安だ」→「この先どうなる?」・・・
どんどん架空のストーリーに巻き込まれてゆき、架空の人生を生きはじめます。
失敗してしまったらすべきことは・・・
*何故そうなったかを検証して、改善点を明らかにして、次から実行すること。
**さらに、こころのなかで「やっちゃった・・・汗」と落ち込んでしまっている自分を赦してあげること。また、その自分を責めつづけている自分も赦すこと。
***そして、たんに改善すればいい状況だったところに罪をおしつけ、罪のストーリーをでっちあげてしまった自分を赦すこと。
私たちは、人のことは赦そうとして、赦す努力をするのですが、
残念ながら、その範疇から自分はスッポリ抜け落ちてしまっているようです。自分に対しては相当なスパルタなのですよね(メッチャ S であり、M でもあります・・・苦笑)。
客観的に改善点を見つけたら、あとはちゃんと自分を赦して解放してあげましょう。
そうなのです、すべては自分を赦すため ・・・ 解放するために起きています。
もしこの人生を何度も何度も生きているとしたら・・・ 赦さないがために罪のストーリーのループにはまりこんでしまって何度も同じところをグルグルしているとしたら・・・。
ならば、今度こそ、今度こそ、そのことに対して違う反応をしなければならないのです。そこから脱しなければならないのです。
責めずに赦すこと。起きたことをそのままにしておくこと。
♪これでいいのだ〜、これでいいのだ〜♪
自分を出口のない同じストーリーのループから解放してあげるために、自分にも優しくしてあげましょう♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
小さいときから「ボ〜っとしていないでちゃんと考えて、自分でどうにかしなさい!」って口うるさく言われたよね〜。
そうそう!ただ傍観していたり、そのままにしておくと、やる気がないとかダメな子っていうレッテルを貼られたよ〜。 ・・・・そんな話しをしておりました。みんな同じなのです。
誰もがみんな自分のタマでしっかりと考えて、努力するようにお尻をたたかれて育っています。
だから、なにかが起きたときには、アセってどうにかすることが正しい対処法であると疑いません。何もしないでいるなんて、もってのほか!
そのため、すべてをあるがままにしてリラックスしていようものなら、何か悪いことをしているような、ナマケモノな気分になります。
でもホントは、モノごとの真の解決法、正しい対処法は、「ゆったりくつろいで、すべてをおまかせして、指一本ふれずに安らかでいる」ことなのです。
もしすべきことがあれば、自分のこころにポトンと落ちてきてちゃんと気づくことができるから。
モノごとのすべての流れは正しい方向に向かっているから、それでOKなのです。
そんなふうにゆったり向きあえないのは、目先のことを「たったその一点」でしか判断していないから。全体のストーリーを見ていないのです。
今、自分が目にしているものを、自分の過去のデータ(怖れをベースにしたデータ)のみから判断すれば、どうしても「早く手をうっておかなければ大変なことになる!」というマズイ状況に見えてしまうことになります。
まずいことになる!と思えば、ものごとはそのようにしか見えなくなります。
でも、すべてのことは、これからよくなるための布石です。
ルービックキューブをきれいに完成させようとするとき、その途上ではきれいだった面をガシガシと崩してゆくことも起こりえます。
それと同じこと。
すべては完全な良きことに向かって、きれいに整えようとガシガシ調整がすすんでいる最中です。
あっちをあわせて、こっちをあわせるためにここをずらして・・・その作業をはばんではいけないのですね。
だから、今起きていることから三歩ぐらい下がって、手出しをせずに(指一本でさえも御法度です!)、ただそのままにしておいてみましょう。
「これからどうなるのだろう?おもしろいから見ていてみよう!」
すると・・・ 「なるほど〜、こうくるか♪ 完璧だねっ!」と声をあげたくなると思います。
いったん「完璧さ」にこころがチャンネルをあわせると、日々「完璧だわ〜〜〜♪」がくちぐせになることまちがいなし!
だから、期待しながら、安心して、後ろにさがって、手を出さずにおもしろがって見ていましょう♪
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どのような状況でも長くつづくと、それが「ふつう」になってしまいます。
人には高い適応能力があるので、たいていのことには慣れることができるのです。
しかし、「慣れる」というのは、じつは本来の自分ではない状態になることを意味しています。
なんとなくイライラする、もやもやする、どよよ~んとする・・・そんなときは「自分ではないものになっていますよ」ということを、心地悪さという感覚を使って知らせてくれているのです。
本来の自分とは、こころ安らかで幸せな状態です。それは、頑張ってなるのではなく、もともと自分に備わっている本質そのものです。澄みきった湖のように、静かで穏やかで平和なこころなのです。
イライラ、もやもやを感じるのは、本来の自分からずれている状態なので、何を手に入れようとも、どんなことをしようとも、幸せは感じられません。状況がどう変わろうとも、ずれていれば本来の自分の安らぎを感じることはできないからです。
つまり、幸せとはこの世界の物事、出来事とは関係がないということです。自分のこころの土台にある、安らかで幸せな状態を取り戻すことこそが大切なのです。
イライラやもやもやという警報サインを感じたならば、こころを訂正する方向へと進みましょう。
サインを無視して頑張っても、こころの警報は鳴りやむことはなく、さらにイライラ、もやもやは増していきます。
イライラもやもやサインを認識したら、まずはいったん「立ち止まり」、「なぜイライラ、もやもやしているのか?」と自分に尋ねてみましょう。
すると必ず、自分のなかに「被害者意識」があることに気づくはずです。
「私がイライラ、もやもやしているのは、あのせいだ!」「あれが悪い」「これが間違っている」と、「外側にこそ原因があり、だから私は被害者なのだ」と主張していることに気づくと思います。その被害者意識こそが、問題なのです。
被害者意識をもてばもつほど、さらに被害者になってしまうからです。
被害者意識は、ほんとうの原因から目を背けようとするエゴの企みです。その企みにのれば、状況は解決することなく、さらに悪化してしまいます。
イライラもやもやは、目のまえにある出来事から引き起こされているのではありません。
それらは、長年こころのなかに抱えてきた裁きの思いが引き起こします。
自分のなかにある裁きの思いは、目にするものに投影され、それらがまるで自分を攻撃しているような錯覚を引き起こします。
大切なのはイライラもやもやを感じたならば、ただ素直に手放してあげることが必要なだけなのです。
私たちは、イヤな感情を感じると、状況自体の分析に走るか、あるいはイヤな感情を無視するか、抑圧してしまいます。
そのイヤな感情は、放置されたままなのです。しかし、不快感として自覚されたのなら、ただその感情を手放すことで、ほんとうの自分を取り戻す、浄化の機会とすることができます。
処理することなくためこんだ裁きの思いのせいで、被害者意識が強くなり、その結果、怖れや怒りを引き起こしていました。そんな不快感に気づいたときにこそ、こころの断捨離のための絶好のチャンスだと気づきましょう。
断捨離は、いらないものを一回手にとって「これを私は望まないのだ」と意識的に決断するプロセスが欠かせません。
イライラ、もやもやという不快感を認識したら、高い自己であるハイヤーセルフに「私は、これらの感情を望みません」と宣言して、こころのなかから廃棄してもらいましょう。すみやかにお願いして、自分を幸せにしない不快感に「さよなら」するチャンスを逃さないことです。
ハイヤーセルフは、本来の自分である安らかで澄み切ったこころを取り戻すために、私たちが差し出すものはすべて取り去ってくれます。
自分に害を及ぼす不快感から目をそむけたり、放置したり、被害者になることなく、潔く取り去ることで、本来の澄んだ湖のような穏やかなこころを取り戻すことができます。そして、この澄んだ穏やかなこころこそが、自分の目にする世界に同じ性質をもたらしてくれるのです。
私たちは幸せになるために、つねにこころを風通しよくしてあげる必要があります。何もためこまなければ、ただそこには愛と安らぎだけがあるからです。
こころを風通しよくするためには、ハイヤーセルフの手をかりて、奥深くまでその光をさしこませて、安らぎや喜びや愛以外の感情をきれいさっぱり手放してしまうことです。
衣替えの時期に、押し入れのものをあらいざらい引っぱり出して、風をとおして、必要なものだけを収納するように、こころもハイヤーセルフとともに光をあてて天日干しをし、自分を幸せにしない感情をきれいに手放すという習慣をつけたいものです。
自分の正しいこころにこそ、幸せの土台があります。そして、正しいこころは、努力せずともただ幸せを映しだしてくれるのです。
自分を幸せにしない愛以外の感情には、すみやかに気づいて、ハイヤーセルフに手渡し、こころから除去してもらう習慣をもちましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
すべては今、起きているままで大丈夫!
そのまんまで大丈夫!
自分にとっての一大事においては、「そう、これで大丈夫なんだわ!」とわりとすんなり手放して、なりゆきを見守ることができるように思うのですが、
逆に、ささいなことに関しては、あっというまにコトに巻きこまれていたりします。
ささいなことのほうが、「なんでも私の思いどおりになって当然なのだ!」という支配者の剣をふりまわしやすいのかもしれません。
たとえば・・・
先日、長年愛用していた加湿器がついに動かなくなり、新調することに。
ショッピングサイトを見ていたら、900ものレビューがある加湿器には千円の割引クーポンがついていて、なおかつタイムセール祭りでもっと安くなるかも?!
ワクワクしつつ、ときおりサイトをチェックしていたら・・・タイムセールになることもなく、なぜかいつのまにかクーポンがはずされていて、正規の値段に戻ってしまいました。
あちゃ〜・・・もっともっとと欲を出したら、やっちゃいました!(汗)あのときポチっておけば・・・(泣)。「これでいいのだ〜♪」なんて1ミリさえも思えない、残念感と失敗感。
(こういうときに感じている失敗感って、じつは千円うんぬんについてではないのですね。→文末 PS をみてね)
気をとりなおして、その加湿器をしぶしぶ正規の値段で購入しようとしていたら、フトすみっこに表示されている類似商品が目にはいり・・・
あら、こっちのほうがずっとお安い。それにフォルムも機能もシンプル。同じぐらいたくさんレビューがあったのでのぞいてみると、どれも「オススメします!」と星5つレビューばかりで、なおかつクーポンもついているではありませんかっ!
のがした魚は大きかった!と思っていたけれど、こっちのほうがずっと大きな魚の様子。(この失敗に見えるプロセスを経てきたからこそ、見つけた獲物なのでした!)
失敗も、失敗じゃない。じつは、まだストーリーは決着していなかっただけでした。
あとで気づきましたが、最初に買おうとしていた加湿器。たくさんあるレビューはじつは、みんな星1つの苦情ばかりで、「動かない」「すぐこわれる」「詐欺?」とまで書いてあるし・・・(汗)。
失敗と思ってたことは、じつはしっかりと粗悪商品から守ってもらっていたのでした。
そのとき起きていることが自分の思惑にそっていないと、「失敗した」と挫折のレッテルをはってしまいがちです。
でも、じつは守られていたり、よりよいところに導かれていたり、さらにバージョンアップしている最中だったりします。
だから、どんなときもリラックスして ♪これでいいのだ〜、これでいいのだ〜♪ と受け入れながら、その結末が見えてくるのを見届けなければなりません。それがマスターへの道。
そして、それはこのような小さなことからはじめなければならないのですね!(汗)
「なんでこうなの?」と思うときこそ、まずはリラックス。これもいちばんよいことへの伏線と信じて、「さあ!ここからどうなるのかな?」と楽しみに見守っていましょう。
体験がちゃんと教えてくれるはず。かならずうまくいく! きっと大丈夫!って。
すべては、すでに完全なストーリーになっています。
それを確認するように、自分が目にしている物ごとから数歩退いて、ちょっと人ごとな気分で、「これでいいのだ〜」と完全さが見えてくるのを待ちましょう。
巻きこまれずにそこから離れ見ていれば、ストーリーは自ずとベストな結末を見せてくれるはずです。
PS♪ さきほどの、「千円のクーポンをのがしたガッカリ感」について、じつは千円とガッカリ感は関係がないのです。
私たちのこころのなかには、過去の失敗感、残念な思いのオリがたまりにたまっています。
なぜなら、こどものときからそういう気持ちを「ちゃんと受けとめる」という習慣がなかったから。こころの奥深くに押し込んで、「ほら、もうぜんぜん大丈夫!」とうそぶいて生きてきたのです。
その感情は中途半端に抑圧されているため、ちょっとした「失敗」の感覚の刺激でダダもれになってしまいます。
そして、そのときの気持ちがリバイバルしてきます。それも、ためにためているからじゃんじゃん出てくる。だから、とっもイヤな気持ちになるのです。千円の損失以上に。
これはちょっとした引き金で起こるので、人間関係でも、あるいはテレビの報道を見ているときでも、ささいな出来事もで起こります。しかし、私たちはその感情の原因は、目のまえのことではないのです。
この加湿器の件も、過去の失敗感が滲みでてきたイヤさ加減でした。
このような過去の感情は浮上してきたときにこそ廃棄することができるので、イヤな気持ちが浮上してきた折りには、ただ受け入れて感じきり、ハイヤーセルフに渡して取り除いてもらいましょう。
これでようやく成仏することができます。イヤな気持ちもまた、こころをきれいにするためのグッドチャンスとなるのです。(これも、これでいいのだ〜♪)
さらにPS、壊れた加湿器、捨てるまえにもう一度作動してみたら・・・
あら?!なにごともなかったように動くではありませんかっ!
寝室専用がほしかったので、よかった〜〜♪
すべて、「これでいいのだ〜♪これでいいのだ〜♪」
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FMを聴いていたら流れてきたことば。
「たとえば、苔を守ろうとして芝生を刈ってしまうと、とたんにシッペ返しがくる。・・・生態系はそれ自身でバランスを保っているから、ひとつを変えてしまうと(コントロールしようとすると)とたんにダメになる。大切なのは、状況を appreciate すること ・・・」と、研究者の森田真生さん。
「状況を appreciate する」・・・ appreciate とは、味わい愛でること、認めること、受け入れること、それでよしとすること。
ああ~、ホントそうですね! 状況をただ受け入れること。
生態系と自分の生きる世界はまさにイコールなので、私たちの生き方においても目のまえのことをコントロールしたり、取り除こうとするよりも、ただ appreciate (受け入れ、そのままにする) ことこそが大切なのです。
自分個人として、自分の願望に基づいて、自分の益のために、自分の時間軸で、自分のアタマにたよって、すべてにひとりで対応しようとすると ・・・ どうしたって「全体のために」とはならないものです。
こちらを立てれば、あちらが立たず・・・。
すでに完璧なバランスを保ちながら粛々と進んでいる宇宙の秩序というものは、超ド近視的な個人の視野では理解できないものなのかもしれません。
ヨイことも、時分にとっての恐怖としてしか解釈できないほどこころは怯えているのです。
だから真の問題は、あるがままをあるがままとして appreciate できない自分のココロそのものです。
なんせ、ピンポイントの近視眼でほぼ盲目状態の私たちにしたら、どうでもいいものも脅威となってしまいます。(はい、近視の私は陽が短くなると、暗がりの中で疾走する○-ber 配達自転車がメッチャ脅威です)
結局は、個人も、時間軸も、理由も、あれやこれやもとっぱらって、ずっと引きの目線でものごとを見られたとしたら、
自然の生態系が完全にバランスをとっているように、じつはパズルのピースがみごとにおさまって、遅かれ早かれ全員にとってそのままであることがいちばん益があるということがわかるかるようになるのでしょう。
全体から切りはなされた自分のちっちゃなエゴが何かに怯えて「これを変えるべきだ!」と騒ぎ立てるとき、
それをコントロールしようと四苦八苦するよりも、「なぜ、それが自分にとってそんなに脅威に感じるのか?」「なぜジタバタしたいのか?」「いったいどうなっちゃうと思っているのか?」「そうなっちゃう自分ってどんな自分なのか?」
そちらのほうをじっくり調べて、その原因をどうにかしたほうがよさそうです。
完全さがそこにあるのなら、超ド近視的になってしまう視野(ものの見方)を修正して、すべてをリラックして appreciate できるようにすることこそが解決策です。
すべてのバランスを壊さない、状況を appreciate(味わい愛でる)生き方ができるように、「そんなことムリ!」と言っているエゴのセリフを探求してみましょう。
また、appreciate して(味わい愛でて、あるがままに)見られるようになるためには、自分の都合でものごとを解釈して意味を決めることをやめなければなりません。
自分の都合による意味は、自分にしか意味をなしません。そして、自分の都合は、全体の秩序とは相容れないようです。
だから、ものごとに自己都合の意味をあてはめるのではなく、いったん自分にとっての意味は手放して、高い自己であるハイヤーセルフに尋ねて意味を教えてもらいましょう。
そうすると、完全な秩序という流れにのれるのでしょう。
それが起きているのならば、今のところ、それはそれでよいのです!
だから、状況を appreciate 〜認めて、味わい愛でて、受け入れて〜 リラックスいたしましょう♪
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Q: セラピーを受けはじめたら、以前よりも怖れや無力感、自己否定的な気持ちを強く感じるようになってしまいました。それは、朝起きたときや、ぼーっとしているときに感じます。なにが起きているのでしょうか?
A: セラピーを開始したとたんに今まで感じたことがない感情に出くわす、というのは「セラピーあるある」なのですが、安らぎや自己肯定感を高めるためにセラピーを受けているのにびっくりしてしまいますよね。
セラピーをはじめると、今まで何重にも強固にロックされていたこころの砦が緩みはじめるからなのです。
私たちは誰もが、こころの無意識の部分に巨大な怖れの塊を隠しもっています。ここに暮らす人で、それをもっていない人はいないのです。
私たちはその塊に直面するのがあまりに恐怖だったために、こころの奥底に埋めこみ、しまいには自分でもそれをすっかり忘れてしまったのです。
それが無意識というこころの城塞で、そこにカギをかけることで出くわさないようにはしているのですが、ふとこころが幸せのなかでくつろぐとそれが勝手に浮上してきてしまうのです。
ほんとうは、幸せのなかで、自分でないものは手放したいだけなのですが・・・。そしてやはり、クサイものはどこに置こうとも、隠しきれないということなのです。
その怖れの塊に怯えている私たちは、出くわさないようにするためにはなんだってするのだ!という心構えです。
私たちが怖れをさけるためにすることといえば、忙しくすることです。
なぜなら、怖れは安らぎのなかで浮上してくるので、とっちらかっているほど安全だ!とエゴは信じているからです。
そして、忙しくする口実は「誰かのため」という、一見よいことのようにも思えることも含まれています。しかし、結局は怖れから逃れるための手段です。
また、過度に刺激を求める(娯楽、嗜好品、恋愛、キケンなこと)というのも怖れを煙にまく方法のひとつでもあります。
じつは、怖れの下には大いなる安らぎや喜び、光が隠されています。
逆にいえば、怖れはエゴが真の自分の輝きを隠すためのラッピングとして使っているものなのです。
これを使えば、ぜったいにほんとうの自分には近づいてこないだろう、そして身勝手なエゴの姿をほんとうの自分だと信じて苦しみつづけるに違いない、と。
だから、「怖れに出会う」ということは、じつはほんとうの自分の輝きに向かってまっすぐに進みはじめている、ということなのです。
自分がためこんでしまった怖れは、その存在をちゃんと認識し、「これは私のもちつづけたいものではないのだ」という正気の判断によって、ようやく手放されるのが可能になります。
怖れに対して「これはいるものなのか、いらないものなのか」という選別ができるようにならなければなりません。
「こんな怖れは私には必要ない! これは私じゃないから」と怖れを握りしめる手を緩めることこそ、自分が解放されることになるのです。
だからまずは、「隠していた怖れが浮上してきてそれを感じることができるようになった」ということは、じつは逃げずにちゃんと直面する準備がととのった、という喜ばしいサインなのです。
怖れはたんにエネルギーなので、じつはドキドキ、ワクワク!というエキサイティングな感覚と中身は同じものです。
しかし、「これは私が避けてきた怖れであって、こんなものはぜったい感じたくない」と、その感じに「怖れ」という拒絶のレッテルをはってしまうと、それを直視できず、逃げることになってしまういます。
だから、せっかく怖れの感情があがってきたのなら、ただあるがままに受け入れて、感じてあげる必要があるのです。
すべては、無防備に受け入れてあげたときに、自分自身とひとつにとけあい、とけあったからには脅威であるものは存在しなくなります。
まずは、浮上してきた怖れのようなものは、解放のさきがけとして受け入れてみましょう。
そして、その感情に「怖れ」のレッテルをはることなく、ただ「その感じ」をそのままに受け入れ、愛でてあげましょう。
せっかく、今まで強固に閉じていたバルブがゆるんで、いらない感情が浮上してきているのなら、それを歓迎してあげましょう。
感情をそのままに感じることができるようになると、自分のなかがどんどん静かになり、その静けさのなかで真の安らぎや喜びや光に出会うことができるようになります。
だから、今までに感じたことがないような感情や思考が浮上してくるときは、解放が起こりはじめたことを喜び、高い意識であるハイヤーセルフに委ねて、解放を安らかに導いてもらいましょう☆
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「私たちは、自分のこころの中にあるものしか見ることはできない」・・・
と、アタマではわかっているものの、いざ、目にしているものが気に入らないとこの一文はあっさり忘れさられます。
目にしているものと自分とは何の関係もなく、むしろ目にしているものが自分に対して攻撃をしかけてくるように感じてしまうのです。
だから、コヤツをなんとかせねば!・・・とアセります。
先日あったこんなこと。
ここ一ヶ月、上階から真夜中の二時ごろに掃除機音と家具をひきずる音が聞こえるようになったのです。それもたびたび、えんえんと・・・。
早起きな私はプチ不眠になってしまいました。
ずっと静かだったのに、上階さん、急にどうした? 断捨離にめざめたのか?!・・・ それにしても、どうしたものか?
ふつうだと、改善のための「行動」・・・となると思うのですが、
なんせ、「こころの中にあるものしか見えず、なにを目にしようとも、私は自分が見たいことを見ている(体験している)」ということを無視するわけにはいきません。
そう思って自分のこころをかえりみてみると ・・・ 思いあたることが。
最近、眠るまえにあるジャーナリストさんの公開ライブを観ることが多くなり、
あるときには激怒しながら熱く語るそのお方を見ながら、「よくぞ言ってくださった!」と自分のモヤモヤを代弁してもらっているようにスカっとしたものです。
トピックスはどのようなことにして対しても、「問題さがし」なのですよね。
それを好んで観るということは、私のこころが「世の中には問題がたくさんある!」「ほら、あっちにも、こっちにも!」と、問題があることを肯定してしまっているのです。
そして問題があるということに注意が注がれると、結局は自分自身が身をもってそれを体験することになります。
「はいはい!こんなふうに問題がいっぱいあるよね」「世の中、さわがしいね」「困ったもんだね」「間違ったことだらけだね」
その考えが自分の外側に映しだされて、自分をおびやかす形(音)となって夜な夜なあらわれていたわけです。(自分の攻撃的な考えは、結局は自分に戻ってきます・汗)
問題解決にはなによりもまず、こころの中を平和にしてあげることが先決です。
そこで、ライブ配信の視聴はやめて、静かに目を閉じてこころを鎮める時間をもつことにしました。
こころを鎮める習慣をもつと、気づかないうちにこころが波だっていたのがよくわかります。
そして「なにかできることはありますか?」とハイヤーセルフに尋ねたところ、「管理会社にご相談」という言葉が浮かびました。そこで、翌日電話をしてみました。
すると、管理会社いわく「個人に直接注意することはしていないので、組合に申し入れて掲示を出してもらいましょう」ということに。
この相談からものの十分ほどで管理会社から電話が入り、
「注意喚起の掲示のことで組合の理事長さんに連絡したら、お宅の真上にお住まいで、結局直接お伝えすることとなってしまいました」と。
まあ、音の主が組合の理事長さん宅!? クレームできないといいつつ、すぐさま直に伝わってしまうことに!
最初に自分のこころを整えて、ハイヤーセルフとともに穏やかなこころで向きあうと、すんなり解決し、なおかつオマケもついてくるようです。
もうその夜からすぐに静かになりました。
「こころのなかにあるものを見る」、それだけで問題は解決してしまうこともありますが、とにかく目のまえの問題に不平不満を言いたい気持ちをおさえて、こころを平和に整えてあげると、おのずと次になにが必要なのか見えてきます。
目のまえにある問題は、自分でも認識できなくなっているこころの中のゴミを教えてくれています。
だから、それに対してイライラしてしまうのではなく、「見せてくれてありがとう。だから、私はこれで手放すことができるし、より幸せになれる」と感謝して、ハイヤーセルフとともにこころを整えて、導かれながらこころに浮かぶ行動をしてみましょう。
目のまえに現れてくる不具合は癒しのサインです。
これがないと、こころのゴミが処理されることはなく、自分の世界に投影されることで自分自身を苦しめることになってしまいます。
映しだされてきたものに対して不平不満を言うことにエネルギーを注いでしまうと、方向性が癒しではなく攻撃となり、逆に苦しみをふやしてしまうのです。
どのような問題に対しても、「この問題の源として、私のこころにはいったい何があるのだろう?」と問いかけて調べてみましょう。
そして、その後にこころにひらめく解決策を実行してみましょう。
きっと、「あら☆」と笑顔になる結果が待ちうけていることでしょう♡
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まんぱいの押し入れは、扉をあけるたびに何かが転がりだします。
見て見ぬふりをして、静かに元に戻してしまいますか?
あるいは元に戻さず、それをとっておくべきか、捨ててしまうべきか、見定めますか?
この見きわめこそが、断捨離をするときのポイントでもあります。
ちゃんとそれと向きあって、自分にとっての重要性を決めなければなりません。
こんなふうにいっぱいになった押し入れのように、私たちも日々ぱんぱんになったこころからさまざまなものが転がり落ちてくるのを目にします。
転がり落ちてくるものとは、自分の目のまえに現れでるさまざまな出来事のこと。
これらはこころのなかにためこまれた「想い」というストックから外側にこぼれて出て、形をあらわしています。
ぱんぱんの押し入れから飛びだしたもののように、日々、目のまえの出来事として遭遇するわけです。
そして、押し入れのジャンクと同様、私たちはその目のまえの出来事を「何ごとも起きていないぞ!」とばかりに無反応を装いふたたびこころに押しこみます。
その結果、ふたたびこころのなかに温存されることになります。
つまり、目のまえで起きていたことの原因はそのままこころにキープされ、またいつか同じ形で、あるいは違った形で問題として姿を現します。
押し入れから飛びだしてきたもののように、こころから飛びだしてきた出来事も、ほんとうは私たちに断捨離の決断を迫っているのです。
「ほんとうにいるの?」「それとも、もうきっぱりいらない?」
「このまま、静かにもとに戻しておくの?」「それとも、金輪際サヨナラする?」と。
サヨナラしなければ、それらはひたすら溜まってゆくばかり。その結果、さらに混沌としたものとして外の世界に映しだされることに・・・。
断捨離のコツは、「これは私にとって重要か?」「それとも、キッパリと手放すか?」というひとつひとつに対する決断が重要なのでした。この「いるかいらないか?」の認識があいまいだと、お片づけはまったくすすまなくなります。
こころのおそうじも同じです。
せっかく目のまえに問題として飛びだしてきて、それを見せてもらっているのなら、いまこそ取捨選択のチャンスがやってきたことに気づきましょう。
「私はまだこの同じ問題をやり続けるつもりなのか?」「それとも、もうキッパリと手放して、新しい自分になる?」
廃棄するときめたのなら、決して無反応で通り過ぎようとしてはなりません。
しっかりと向きあって、見定めましょう。
「私は過去にはこれを自分を守るための道具として大切にしてきたかもしれない。けれど、今の私にはもうこのような自分を傷つける防具は必要としない」「同じことをくりかえすのはゴメンだ!」「ただ自分にはふさわしくない、と私が認めれば、私は自由になれる」と決断しましょう。
すでに役にたたなくなった想いを、こころのゴミ回収業者に渡してしまいましょう。(回収業者は、高い自己であるハイヤーセルフです。)
私たちがするべきことは、間違った想いのすべてを今は必要のないゴミであると認識して、業者さんに引き渡すこと、ここまでです。あとは、自動的に回収されていきます。
こころにある「うんざりするような想い」にため息をついて、またこころの押し入れに戻すのではなく、この年末は是非こころの押し入れの断捨離にも気を配ってみましょう。
とくに、忘れさられている天袋の存在。そう!天袋って、正体不明なものがじゃんじゃん詰まっている場所です。
それってどこにあるの?って?!
「私は知らないわ、誰かのせいでしょ?」「私は被害者なのよ!」と思うようなことが目のまえにふってくるときは、いつだってこのこころの天袋から落ちてくるようです。
目のまえに落ちてこない限り、なかなかお片づけってできないものなのです。
だからそんなことに遭遇したら、素直に「すべて私でした・・・」「私が私にしていました」と認めて、片づけてしまいましょう。
清々しい年末年始を♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
あなたの今年の目標は何ですか? 幸せになるために、今年は何をすることを決めましたか?
今年こそ、「こんな経験をしてみよう!」「あの場所に出かけてみよう!」、あるいは「この習慣はやめよう!」など、目標の多くは自分の行動を変えるためのものが多いのではないでしょうか?
そんななか、ぜひとも「自分のこころを変える」ための目標、つまり「自分のこころを正す」という目標もつけ加えてみましょう。
「こころを正す」ことは、じつは自分の幸せと直結しています。・・・そう言われても、なかなかピンとこないかもしれません。
自分の住んでいる世界は、自分のこころによって知覚されている世界です。だから、自分にとって世界とこころは同じものなのです。
みんなが同じ世界に住んでいるように感じていますが、一人一人に見えている世界はまったく別のものです。一人一人の世界は違うのです。
そして、その自分の幸せな世界は、自分のこころの幸せから生まれるのです。
いつか世界にステキなものが現れて自分を幸せにしてくれるだろうと思っていても、こころが間違っていればステキな経験はありえないのです。すさんだこころには、決して安らかな世界は知覚できません。
平和で安らかで愛のある世界を見たいのであれば、自分のこころの間違いに気づいて、それを正してあげることで、世界を正しく知覚できるようにしなければならないのです。
自分のこころが間違っていると、たとえ人生に何をつけ足そうとも決して満足も幸せも感じられません。
いっときは楽しいことを追求していい気分になるかもしれませんが、どんな経験を差し出そうとも、結局はこころのうちに潜む怖れや不安感によってすべてが曇りはじめます。
こころが間違っていれば、自分の人生も目にする世界も、不安定なものに感じられてしまうのです。
こころが正しい状態であるというのは、恐れや罪悪感をいだくことがなく、何かを責めたり裁いたりする必要がないので、いつも安らぎと喜びに満たされています。
そして、その平和なこころから世界を知覚することで、まったく同じ平和と安らぎを見出すことができます。
平和な世界は全員のためにすでにここにあるのですが、正しいこころからでなければそれは知覚できないのです。
だからこそ、幸せな世界で生きてゆくためには、まずは自分のこころを正すことからスタートしなければなりません。
「こころを正す」とは、どういうことでしょうか?
それは、自分のこころが裁きや責め、疑いや怖れの気持ちをいだいたときに、すぐにそれに気づくようにし、見逃さないことです。そのためには、イライラや落ち着かない感じ、不安感、怒りに注意していましょう。
なぜなら、このような気持ちを感じる直前にこそ、「正されるべき間違った考え」が存在しているからです。その考えをいだいたがゆえに、イライラや不安、怒りという気持ちが引き起こされたのです。
たとえば、「こんなことは起こるべきじゃない」と考えればイライラしますし、「これで大丈夫なのだろうか?」と考えれば不安になります。
自分の感じる感情のすべては、自分の考えから生みだされています。自分がイヤな気持ちを感じているのなら、それよりもまえにどのような考えがこころをよぎったのか、しっかりと自覚してみましょう。その考えこそが正すべきポイントなのです。
それらの考えが自分の見る世界にすぐさま投影されて、裁きや責め、疑いや怖れの世界をつぎつぎに見せている原因そのものなのです。
自分の考えこそが自分の世界を染めあげ、自分はその世界に巻き込まれてあたふたする・・・という、それはまさに自作自演のドラマなのです。
自分のこころに注意を払うことで、間違った考えが世界に影響を及ぼすまえにそれらをこころから排除することができます。
たとえば、「このままじゃダメだ・・・」と自信をなくすとき、それらの考えが自分の世界に影響を及ぼすまえに、それらに気づいて、信憑性をしっかりと疑ってみることです。
「このままじゃダメ・・・って、絶対に絶対、ほんとうのことなのか?」自分に問いただしてみましょう。
答えは、100%本当か、100パーセント嘘か、ふたつに一つです。中間地点はありません。
混乱して自分ではわからなくなってしまったら、まわりの人に聞いてみるのもいいでしょう? きっと、「そうとは言えないのではないですか?」とか、「こんな別の見方もあるのでは?」と、他の可能性を教えてくれるかもしれません。
あるいは、こころのなかで高い自己であるハイヤーセルフに、「私はこのような考えを持っています。それは絶対に真実なのでしょうか?」と尋ねてみましょう。そして、こころを鎮めて答えを感じてみましょう。
一つ一つの自分の考えに対して真正面から疑問をもつことで、いかに自分勝手に「ものごとはこのようになるのだ!」と決めて譲らなかったのかに気がつきます。まるで自分には予知能力があるかのように、他の可能性を排除してしまっていたのです。
それらに気がついたら、優しく自分をなだめてあげましょう。
「私は、自分の限られた考えと経験から答えを導き出そうとしていました。けれど、それは過去についての考えであり、今の自分にはふさわしくありません。すべてのものごとは私を守ってくれている高い存在によって幸せへと導かれているので、私は今このままで大丈夫であることを信頼します。今の状況はプロセスにすぎず、結果ではありません。このプロセスを信頼して、大いなる力にすべてを導いてもらうことにします」
自分がよい気分でないのなら、必ず役に立たない考えがこころのなかではばをきかせています。それこそが正されなければなりません。
役にたたない考えを見つけたら、「この考えは本当のことではありません。なぜなら、私は全体を把握していないからです。これはまだ良い方向に向かうプロセスであり、私はただ安心して見ていることにします」と自分に言い聞かせてあげましょう。
そして、裁きの思いや、疑い、怖れなどの役に立たない考えや感情のすべてを、自分を守り導いてくれる存在であるハイヤーセルフに渡してしまいます。
「私は自分の考えに欺かれて意気消沈していました。しかし、この考えはほんとうのことではありません。私のこころから役に立たない考えを取り去ってください」とお願いします。ハイヤーセルフに渡されたものは、こころから消去されます。
自分に悪影響を及ぼす役に立たない考えを手放すことこそが、こころを正すことなのです。
こころを正してゆくことで、自然に安らぎとか喜びが自分のものになります。なぜなら、それがこころの自然な状態だからです。
安らぎと喜びが自分にはないと思えるようなときには、少し立ち止まってこころを調べてみるようにしましょう。否定的な考えはすべて真実ではなく、まったく役に立たないからです。自分にとって有害なものは、ただちにこころから取り去ってしまいましょう。
このように、間違った考えを取り去りこころを正すことは、汚れによって正体不明になってしまったダイヤモンドをきれいに洗い清めてあげる作業です。間違った考えさえなければ、こころは自然に光を放つようになります。
そして、その光こそが自分の見る世界を照らし、ものごとを平和で穏やかで安全に見せてくれるのです。
この光はそれぞれのこころのなかにすでに眠っています。、改めて獲得するものではありません。ただ自分のこころの間違った考えを取り去るだけで十分です。それが幸せに向かうために必要なことなのです。
きれいになったあなたのダイヤモンドは、天からあなたをめがけて降り注く愛や喜び、豊かさという恵みの光をあますことなく受け止めることができます。そして、その光で満たされながら、光のすべてを自分の目にする世界へと放ちます。
この源からの光をしっかりと受けとめることで自分自身が輝き、さらにダイヤモンドのように自分を通してその光を増幅することで、自分や世界に愛や安らぎ、喜び、豊かさなどをもたらすことができるのです。
ふだんの生活の中で、自分がどのような態度で世界や人々にかかわっているか、気にしたことはありますか?
私たちは、世界や人々に対して「優しく受け入れよう」とするよりも、無意識のうちに緊張を感じながら戦闘的な態度で向き合ってしまっているかもしれません。
それは、もし何か不都合なことがあれば、決して自分の不利にはならないように、損害を被ることがないように、ものごとを有利にすすめたいと警戒してるからです。
私たちにとって「この世界」は安全で安心な場所ではなく、気を緩めれば簡単にやられてしまう厳しい世界だと信じているからです。
誰もがリング上のファイターのようにファイティングポーズを緩めることができず、安らかにくつろぐことができないのです。
そんな世界の中で、幸せを感じる方法はあるのでしょうか?
安らぎを感じたいのであれば、「自分」と「世界」を切り離して考えるということをやめなければなりません。
「自分」と「世界」を二つのものだと捉えている限り、そこには摩擦が生まれ、対立することになってしまうのです。
世界とは自分の外側にあるように見えますが、それは自分の心が映し出されている映像であり、まさに自分の心そのものなのです。
心が変わればその映像は変わるので、心とともに目にしている世界は変化します。
しかし、自分の心が変わらなければ、見ている世界は変わることはありません。
つまり、自分を脅かしているのは世界や人々ではなく、自分の心のなかにある考えそのものなのです。
心が裁きや罪の思いを握りしめていることにより、つねに裁きや罪という出来事に出くわすことになります。
裁きや罪の思いを手放せば、世界も人々も安らかに知覚されるようになり、自分が脅かされているように感じることはなくなります。
世界と自分のこころが連動しているという、このメカニズムに気づくことが大切です。
自分にとって不都合なことを目にする原因は、心の中に同様のものを抱えこんでいるからです。
それは、世界や人々にに対する不信感や罪を信じる思いかもしれません。
外の世界に見える不快なものごとはまさに自分の心の中に存在し、こころはそれを抱えこみつづけることに耐えかねて、外へ外へと投棄するということが起こります。
しかし、いくら投棄をくりかえしても、またふたたび元の場所に戻ってきてしまうのです。まるでソンビのごとく再生し、また心の中に存在しているのです。
それは心のなかで消滅させない限り、消え去ることができないからです。
不快なものを外へと投棄することは、内側においても外側においても不快なものを体験することになり、むしろ問題を増やしてしまうだけなのです。
この悪循環から解放されるためには、自分が外へと不法投棄した問題を、クロからシロへと変えることです。
それは、「これは間違っている、罪があるというクロ」から、「これでOK、何も罪がないというシロ」へと認識を変える、ということです。
自分が投棄したものに対して大騒ぎするのではなく、何を目にしても「ただシロを見よう!」、何も問題がない、これで大丈夫なのだと決める、ということです。
そして、「一度見ようと心に決めれば、それを必ず目にできる」というのも心の素晴らしい力なのです。
「シロを見よう!」と心に決めることは、まさに「私はシロです!」、「これで大丈夫、何も問題がない」と言っているのと同じことです。
なぜなら、私たちは常に心の中にあるものを外に見ているからです。「もしシロが見えるのならは、自分もシロであるに違いない」ということになります。
自分が外に投棄したすべてに対して、もれなく「シロにしてしまう」「シロだけを見ようとする」というゲームを始めることです。
「自分が与えたものは、自分が受け取る」ことになるので、世界や人々に対してシロを与える、何も問題がなく罪がないことを与えることとは、自分ももれなくシロを受け取ることになるのです。
このゲームは、オセロのコマを返すようにどんどんシロを増やして、最後には勝利をおさめることができます。
シロであることは、何も問題がなく、罪がないこと。罪がないのなら、自分がどんなリスクや危険、苦しみからも無縁で、自分で自分を防御する必要がなくなるのです。
守る必要がなければ、そこは安全な場所のはずです。リラックスできるはずです。
シロを増やしてゆくことで、世界も自分も安らかに鎮ってゆくのです。
そして、この世界で闘いつづける必要ななく、愛し愛される世界の中で安心してくつろいでいる自分に気づくことができることでしょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
新年の抱負として、クライエントのA子さんがこのように語っていらっしゃいました。「すぐにイライラして人にあたってしまう私ですが、今年は人を責めたり、裁くことなく、こころ安らかな日々を過ごしたいと思っています」。
ついつい人にイヤミを言ったり、あげ足をとったり、攻撃してしまうクセがあり、それは相手だけでなく自分もイヤな気持ちになることに気づいたからです。
その後、その新年の抱負についてうかがってみると、このように仰っていました。「人にあたらないように気をつけたのですが、じつはさらにイライラすることが多くなり、安らかさとは程遠いのです」。
また、体調が悪くなったり、予期せぬ出来事が起こったり、人との関係もぎくしゃくして、以前よりも苦しく感じる、というのです。
「人を責めず、裁かず、いい人でいよう!」と決めたのに、これはどうしたことでしょうか?
じつは、これはよく起こることなのです。
自分の怒りや攻撃の想いを外にバラまかないように、責めず、裁かず・・・
でも、いくら責めるのをやめても、裁くことを我慢しても、ただ外側へとその想いを投げつけていないだけで、その想いはすでに自分の内側で起こってしまっているのです。瞬時に、こころのなかでとがめているし、裁いてもいるのです。
着火されてしまってた爆弾を外に投げるのをやめたとき、何が起こるでしょうか?・・・それは手元で爆発し、自爆することになります。
人に攻撃的な想いをぶつけない分、それは自分の内側で自分自身を傷つけてしまうのです。
その結果、体調不良やら、メンタル不調、イライラを招いてしまいます。また、こころのバランスが崩れた状態を外側の世界へと映し出し、それが問題となって目に入るのです。
つまり、いつもは外を攻撃していた爆弾が、自己攻撃に転じてしまったというわけです。
責めないでいよう、裁かないでいようとする努力は、安らぎを感じるための解決策とはなりえませんでした。
まずは、すでに自分自身が抱えている爆弾にしっかりと気づいてみましょう。それは、すでにそこにあるのです。そして、それこそを取り除かなえればならないのです。
爆弾はもう抱えてしまっているのですから、ないフリをしても決して安らかにはなりません。
自分のなかに人を責めてイライラしている気持ちがある、裁いて腹を立てている気持ちがある、不平不満を並べたい気持ちがある・・・たしかにあるのです。そして、あっても構わないのです。
むしろ「ないフリをしようとする」ことが、それを外側へとこっそりとぶちまける原因となるからです。
攻撃にしろ、怒りにしろ、自分のなかにある悪意は、「気づき」の光をあてることで解消することができます。
それは、「ああ、今、私のなかに怒りが湧いてきている」「相手を責めたいと思っている」「不平不満でいっぱいになっている」・・・
「でも、これらは私の望まない感情だ」と客観的に気づき、観察してみましょう。
「私は、このように悪意を感じてもかまわない・・・なぜなら、これらの気持ちは私の本心などではなく、どうせ捨て去ってしまうものだから」。
それらに「気づく」ということは、手放すことへの第一歩なのです。「こういう気持ちがあるのだ」と認めることで、はじめて自分のこころから手放すことが可能になるからです。
「自分が感じたくない気持ちだ」と気づいたら、それらを消滅させることができる自分自身の高い自己、ハイヤーセルフに、悪意のある考えのひとつひとつを渡してしまいましょう。
「私は、これらの気持ちを望みません。私を本来の愛と安らぎと喜びに戻してください」とお願いします。
ハイヤーセルフは、まさに危険物処理班です。お願いすれば、迅速に、かつ安全に完璧に、それらを取り去ってくれます。それも、即刻、24時間対応です。
大切なことは、それらの感情を人に投げつけたり、自分のなかで隠しもって爆発させてしまうまえに、それらの感情に気づいて、「手放そう」という意志をもつことです。
「よい人になろう!」と努力することは、しばしば爆弾をかかえたままで違う自分を演じようと試みることです。
見た目だけ「よい人」に整えようとしても、自分の内側に隠している悪意という爆弾は、結局自分自身を傷つけてしまうことになります。
その爆弾は遅かれ早かれ爆発し、自爆というかたちをとり、体調不良やメンタル不調、さまざまな問題として自分を苦しめます。
そうなるまえに、自分のなかの攻撃的な想いは「廃棄すべきもの」として、隠すことなくハイヤーセルフとともに処理を行いましょう。
いさぎよく捨て去る意志をもてば、有能な危険物処理班であるハイヤーセルフが怒りや罪悪感、怖れという爆発物をすみやかに取り去ってくれます。
どのような悪意を感じても、恐れる必要はありません。そのように感じても構わないのです。
それを感じて、それが自分のなかにあることを認めるからこそ、それと永遠に決別する一歩を踏み出すことができます。
よい人になる努力をしなくても、こころに危険な想いを温存せず、気づくたびに処理をすれば、自然と自分も世界も平和に包まれ、穏やかさのなかですべてがいちばん良いように進んでゆきます。
自分のなかの悪意という爆発物に敏感になり、危険物処理班であるハイヤーセルフに通報して、すみやかに処理をする習慣をつけて、安らかに過ごすようにいたしましょう。
空気が乾燥する季節ですね〜。ちょっとでもお手いれをサボろうものなら、お肌は一気にカサカサパサパサです。
乾燥するのはお肌だけではありませんよ〜。
ココロだってお手入れを怠ると気がつけばパサパサになります。だから、お肌と同様に気にかけてあげなければならないのです。
お肌のお手入れは時間をかけたり高い美容液をつけたりとけっこうな投資をするものの、ココロのお手入れに関してはほぼ無頓着。「ココロに時間やお金をかける?そんな必要なくない?」ぐらいに思っていたりします。
けれど米国などでは、ココロに時間やお金をかけるのはそんなに珍しいことではないのです。みなさん、ふつうにセラピーにかようし、先日 YOSHIKIさんもアメリカでは定期的にセラピーを受けているとお話されていました。
お肌がきれいになると気分があがるように、幸せのみなもとであるココロをスッキリさせれば幸せ度は自然とアップするのです。
ココロが荒れてくるとどうなるのでしょう?
もちろん幸せ感を感じられません。顕著な反応としては、「かわいそうな私」「どうせ○○な私」「つまらない私」という自己否定の考えにひたりがちになります。
「かわいそうな私」の変化級としては、「あいつのせいだ」という被害者意識があります。なにを見ても、自分を傷つける敵に思えるのです。
ココロが荒れてしまうと、何ごとに対しても正しく認識できなくなるからです。すると、何を見ようと、何を聞こうと、何を体験しようと、自分は劣っているとか、攻撃にさらされている、ととらえてしまうのです。
ほんとうは苦しさの原因はその状況などではなく、ココロが荒れてヒリヒリしているから苦しいのに ・・・。
自分の痛んだココロにあるつらい考えこそが、自分に刃をむけてしまうのですね。
いつなんどきでも、どんな状況でも、自分を傷つけることができるのは自分の考えだけです。
まっさらである状況、ものごとに対して、自分が下している考え自体が優しくないのです。
コワガリさんを見ていると、きまってものの見方がかなりコワイです(汗)。おそらく想像力が旺盛なのですが、方向性が悲惨な方に向かってしまっているのが原因です。
「私はダメだ」「私にはできない」「私は嫌われている」などなど・・・ つらく、悲しく、厳しい考え方こそが、自分の価値をおとしめるし、自分を地獄に突き落とすことができるのです。
自分自身、気分がよくないと感じるときには、いったいそのものごとや状況に対して自分はどんな考えをしているのかを調べてみましょう。
そして、その考えが100%ほんとうのことなのか、真実なのか、正直に調べてみましょう。
立ち止まって検証するクセをつけてみると、自分の考えって正しくなどないことに気がつきます。
じつはその考えで、「かわいそうな私」に執着して、さらにもりあげて、「ダメな私劇場」を演じることを楽しんでいたことに気づくかもしれません。
お肌のお手入れとちがってココロのお手入れで大切なことは、なにかをつけ足してあげることではありません。どっかから借りてきた自信も自己愛もいらないのです。
ひたすら邪魔なものをとり去るだけです。
つらく厳しい考えさえとり去れば、その下には光り輝く愛と安らぎと豊かさのみなもとが現れてきます。
そこには「自信がある」とか「ない」とかの行ったりきたりもないし、「愛ある自分って」という疑問もありません。
ただ存在の安らぎと平和と充足があるだけです。
それをおおっているものをひたすらとり去ってあげることこそがココロのお手入れです。
そのために、イヤな気分を生みだした自分の考えに対して、正面から向きあってしっかりと監査を入れてみましょう。
何度もくりかえしていると、かわいそうな自分を演じようとしている自分に素早く気づき、その手が通用しなくなってきます。
その手を使わなければ、ただ本来の自分の価値のすべてが自然と戻ってくるのです。
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相手の表情、相手のとる動作や行動、相手の発する言葉 ・・・
これらから私たちは相手のことを理解できたと思っているし、状況も判断できると思っています。
なぜなら、こどものときから実験や観察という視覚に頼る情報集めを教えられてきたので、目にできるものこそは真実を教えているのだ、と信じてきたからです。
こどものケンカの常套句も、「だったら証拠を見せてみろ!」と目に見えるものを要求します。(覚えあります?!)いつも、見えるものが真実の証となってきたのです。
でも ・・・ そもそも、ひとりひとりの目に映っているものって、共通でもなければ普遍的なものでもありません。各々にとってまったく違うのです。
同じ道をしばらく一緒に歩いて、この道に何があったのかを尋ねてみてください。
ある人は散歩中の犬に気づくかもしれないし、またある人はお店にディスプレイされたお洋服が目にとまるかもしれません。お洋服に気をとられた人にとって、犬は存在していないも同然なのです。
そんなふうに、私たちは真実を見ている、というよりは、自分にとって好ましいもの、興味をひくもの、都合のいいものしか見ていません。
そうなると、人の表情にも、行動にも、自分のおなじみのものしか見えてこないわけです。
もし、自分にとってのおなじみが不愉快な感情であれば、きっと世の中は不愉快な人ばかりとなることでしょう。
自分の都合だけで「目にしているもの」の向こうがわに、ほんとうの意味が隠されています。
それが見つけられないと、ずっと欺かれたままとなります。
どんなふうに欺かれるかというと ・・・ 華やかな包装紙に包まれたおっきなモノは、華やかだから、大きいから、きっとステキなものに違いないと思って持ち帰ると ・・・ じつは中身はカラッポ、いえ、悪くすればゲジゲジやムカデや気持ち悪いものでいっぱいかもしれません。
外観と中身(そのものの意味)はまるで一致しないので、外観だけで判断するとこんな間違いをくりかえします(いいモノを選んだつもりが、なぜかいっつも最悪だ・・・という)。
でも、先入観という邪魔ものがいなくなり、外観にだまされなくなると、自分とそれがひとつになることができるため、それがおのずと中身を明かしてくれるようになるのです。
先入観さえなくなれば、外観という目に見えているものをとおりこすことができ、核心に達することができます。
そうすると、人のこころの深いところを理解できるようになり、何が起きているのかを知ることができます。
どなりちらしたり暴力をふるう人を、私たちは横暴で強い人だと感じてしまいがちですが、
目に見えていることを手放して、先入観をもたずにひとつになってみると、その人がいかに怯えて、こころに闇を抱えているのかを感じとれるかもしれません。コワいからこそ、先に攻撃していたと気づくかもしれません。
一見、冷静で静かな人も、ひとつになって感じてみると、こころの深いところに怒りや憎しみが横たわっていることに気づくかもしれません。
目に見えるものにすぐに反応するのではなく、先入観をもたずにひとつになって感じることをしていると、ほんとうのことが見えるようになってきます。
そして、さまざまなことを深く理解できるようになり、はじめて自分のこころも正しく理解できるようになります。
自分のこころ? そんなのとっくに理解している、って?!
いえいえ、じつはいちばんわかっていないのは自分自身のこころです。
私たちは自分自身を癒すために(癒しはここに存在している全員にとって必須です)、ひとつひとつ自分のなかに置きざりにされた悲しみや怒りや怖れや絶望に気づき、それを意識して受けとめたら、ハイヤーセフルに手渡して取り去ってもらう必要があるのです。
人のこころのなかにあるものに気づき受けとめはじめると、自分のこころが明かされるようになり癒しが加速します。
なぜなら、私たちはひとつのこころだから。癒しはつねに同時に進行してゆくのです。
すぐさま目にしたものにおなじみの判断を下すのではなく、こころをカラッポにして、目にしているカタチの向こうがわまで見られるようにいたしましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
運命とは、決まっているのでしょうか? それとも、自由に選べるのでしょうか?
決まっている・・・と考えると、落ちつかない気持ちになるかもしれません。自分はどんな運命にさらされているかわからないし、その運命から逃れることもできない、と感じてしまうからです。
そして、運命が決まっているのなら、これまで自分の人生の最高指揮官として采配をふるってきた自分自身にとって、その権力を丸ごと奪われ、なすがままにされてしまうというような無力感も感じられます。
「自分の人生を好きなように生きている」と信じてきたのに、まるで両手両足をもぎ取られたように感じてしまうのです。
しかし、運命が決まっていることに対して、別の見方で見ることもできます。
もしも大いなる存在、それは宇宙でも、神でも、源でもかまいません、その大いなる存在にすっぽりと護られて、自分の幸せにプラスになることしか起こらないとしたら、どのようなことが起きていても最終的にはいちばん良い結果になるとしたらどうでしょう?
そうであるなら、不確かな未来に怯え、道に迷わないように必死で人生をコントロールしようとするよりも、大いなる存在におまかせしてしまう方がずっと安全でラクで確実だといえます。
私たちがいくら固い決意をして人生をコントロールしようと試みても、結局起こることは勝手に起こってしまいます。
雨が降るときには、いくら「てるてる坊主」をたくさん並べても雨を止めることはできません。それと同じように、何かが起こるときには起こらざるをえないのです。
しかし、その起こることを自分への「攻撃」や「罰」と捉えるのか、それとも自分への「愛」や「恩寵」と捉えるのかで、その意味は大きく変わってしまいます。
もし「起こること全体が愛の法則に支えられている」ということがわかったとしたら、もっとリラックスして安らかに過ごすことができることでしょう。実際、私たちは大いなる愛の法則に完全に護られているのです。
どうしても抗うことができなかった出来事を長い目で見たとき、自分にとっても周りにとっても「あのことが起こってよかった」と思える善きこととして経験されたことは誰にでもあると思います。
起こることはしっかりと見届けさえすれば、すべては善きことであることがわかるかもしれません。
実際、私たちは「自分が見ようとしているもの」だけを目にしています。なぜなら、「自分」こそが見るためのフィルターだからです。
こころが怖れでいっぱいであれば、怖しいものばかりが目に飛びこんでくるであろうし、こころに愛や穏やかさがあれば、愛や穏やかさにあふれた世界を目にすることができます。
まさに、世界はこころのあわせ鏡といえます。そうであるなら、たとえ運命がどうであろうと、愛に満たされた穏やかなこころで出来事を見ることこそが、自分が護られているという愛の法則を確信することになり、それが幸せへのカギとなります。
「私は是非とも、愛の法則に支えられた世界を目にしたい」とこころに強く決めてみましょう。
「運命は決まっている」というとき、私たちはまったく変更不可能で逃げ道のないガチガチに固まった一本道を想像してしまうものです。
しかし、「決まっている」というのは、「たくさんの可能性がすでに存在していて決まっている」という意味であり、たったひとつの道だけが与えられている、というわけではありません。
起こっていることに対して不平不満を言いつづければ、私たちは不平不満の世界を目にすることが可能です。自分のこころを変えるまで、同じ状態を見つづけることでしょう。
しかし、こころがいったん自分の運命を受け入れ、愛や穏やかさを取り戻すことで、目にする世界は穏やかで愛のある世界へと進路を変えてゆくことができます。
運命は決まっているといえども、自分のこころの状態によっていつでも変更が可能なのです。自分のこころの状態は、まさに自分の目にする世界を変容させるパワーそのものだからです。自分のこころの状態にみあった世界へと、即座にチューニングされます。
そして、いつでもこころの状態を変えることによって、運命に変化をもたらすことができるのです。
また、運命をよきものにしたいとき、自分を守り導いてくれる存在であるハイヤーセルフにこころを開いてみましょう。ハイヤーセルフのちからを借りることも、運命の軌道を変化させる大きなちからとなります。
叡智そのものであるハイヤーセルフは、どんなときにも私たちの幸せのみを願ってくれています。しかし、そのちからを借りるには、自分からハイヤーセルフにつながる必要があります。
どんなときでも「助けてください」とハイヤーセルフに導きを求めることで、自分自身がハイヤーセルフのちからにつながることができます。
助けを求めさえすれば、ハイヤーセルフはすぐさまレスキューに飛んできてくれます。そのレスキューはまさにミラクルであり、「こんなことが起こるなんて!」と驚くような、私たちにとって予想できないような道を示してくれるのです。
なぜなら、ハイヤーセルフのレスキュー方法は運命という時間のなかから私たちを救出し、ハイヤーセルフ独自の時間のなかへとシフトさせてくれるからです。通常の時間からワープして、問題を回避させてくれるのです。
ハイヤーセルフの助けをえるためには、ハイヤーセルフとこころをひとつにする必要があります。
「ハイヤーセルフ、この問題を私とともに見て、ハイヤーセルフの見方ができるように助けてください」とお願いしてみましょう。ハイヤーセルフには問題という概念がないため、ハイヤーセルフとともにその状況を見ることによって自分自身も問題というものを認識しなくなることが可能なのです。
こころを開いて助けを求める気持ちさえあれば、私たちは時空を超越したハイヤーセルフの知覚とともにラクな道を進むことができるようになります。
ハイヤーセルフとともにものごとを見られるようになると、ものごとと闘うよりも安心して受け入れることができるようになります。
起こることをそのままに受け入れることは、運命というカルマを解消することであり、自分に災をもたらしていたカルマのストーリーを終わりにすることです。
ものごとを抵抗せずに無条件に「受け入れる」とうことは、そのものごとを支えていたエネルギー全体がゆるみ、カルマとして存在していた出来事を消滅に向かわせることができるのです。
どのようなことが起きていても、「もう金輪際、このような問題はくり返さない」とこころに決めて、ただリラックスして状況を「受け入れる」という姿勢をもつようにしてみましょう。そうすることによって、すべての出来事を「カルマを終わりにする」という目的のために使うことができるのです。
私たちはいつでも、自分にとってより幸せな世界に住むことは可能です。自分のこころのちからを使って、またハイヤーセルフの超越したちからにつながることによって、運命の道筋を幸せへと導いてゆきましょう。
「人生のなかで、いったい何が起こるかわからない」とこころを暗くするのではなく、自分のこころを愛と穏やかさで満たし、自分をつねに助け導いてくれるハイヤーセルフという存在にこころを開いて助けを求めてみましょう。
すると、愛という法則に支えられ安全に護られている運命という道を、ハイヤーセルフという頼もしい存在に導かれながら、安全に軽やかに旅をすることができることに気づくでしょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちのこころは、ほんとうの自分でないものを少しづつ手放しながら、本来の自己に向かう旅をしています。
本来の自己を解放することが目的なので、この旅の途上では自分でないものにひとつひとつ気づきながら、地道に手放してゆくことが主なお仕事といえます。
真の自分でないものに気づくためには、自分のこころに起こる痛み(抵抗)に敏感になることが大切です。
痛みこそがニセモノの自分のサイン、叫びです(真の自己は痛まないのです)。だから痛みは、まだ解放されていないこころのポイントをさし示してくれます。
その痛みは、日々の生活の出来事をとおして怖れや怒り、罪悪感などの感情としてあらわれます。
しかし、怖れや痛み、罪悪感に遭遇するとき、せっかく手放すべき感情が浮上しているにもかかわらず、私たちはなにか間違ったことが起こっているように感じてしまい、ふたたびその感情を抑圧してこころの奥深くにしまいこんでしまうことが起こります。
ひとりの人が人生のなかで体験する出来事は限られてるので、隠されている感情を浮上させて手放す機会も限られたものとなります。
その点、映画やドラマや演劇は自分が実際にその出来事を体験していなくても、ただ登場人物と心理的に同一化することで、自分のなかにあるさまざまな未解決の感情を浮上させることができ、手放すことができるのです。
しかし、感情を感じること(感情が乱れること)がよくないことであると信じていると、感情が波立ちはじめるとあわててこころを閉ざしてしまいます。
すると、せっかくの自分を解放するためのチャンスをのがしてしまうことになります。
無意識のこころのなかにはさまざまな感情のジャンクがたまっていて解放のときをまっています。
せっかく手放すために浮上してきても、感情が波立つのを怖れてしまうとやすはすと感情にロックをかけてしまうことになりかねません。
感情を制御しようとすると、怖がらなくてすむかわりに嬉しくもなくなります。感情はトップとボトムが一組になっているので、片方を制御しようとすると感じる気持ち全体がにぶくなってしまうのです。
そうなると、目にするものがモノトーン化し、体験がぼやけてしまうことになります。
自然の流れにのっていないものはよどみ、腐敗し、いつかはガス爆発を起こしてしまいます。
無視されて抑圧された感情は、あるとき自分でも制御ができないほどの怒りや怖れとなり、自分に襲いかかり、翻弄されてしまうようなことが起こります。
そもそも、感情は自分のなかをさらさらと流れてゆくもので、自分自身はそれをただ眺めています。
シャワーをあびているときに、水の流れが自分の皮膚の上を通過してゆくのを感じるように、その感覚を楽しむけれどそれに支配されることはありません。
しかし、感情を怖れている人は、シャワーの水をそのまま皮膚の上を通過させず、まるで自分がスポンジになったようにすべて吸収しぱんぱんになってしまい、自分がその水に支配されてしまうようなことが起きているのです。感情をふたたび抱えこんでしまうのです。
さらさら流れるのとためこんでしまうのは、なにが違うのでしょうか?
それは、感情をつかむかどうか、巻き込まれるか巻き込まれないか、の違いです。
巻き込まれてしまうのは、それに対して判断や比較、ストーリー、善し悪しをくっつけてしまい、自分個人のものとして内側に取りこんでしまったのです。
もし判断もせず、なにもコメントしなければ、それはただ過ぎ去ってゆくだけです。
ドラマや映画は、自分で経験すらできないさまざまな状況を擬似体験し感じることができます。それによって、自分の無意識のなかに押し殺してきた感情を浮上させることができます。
じつは、この無意識のなかに押し殺していた感情こそが、自分の身体や、まわりの人、そして自分の未来などに投影されて生きづらいストーリーを展開する原因となっていたのです。
せっかくそのような抑圧していた感情がドラマや映画で浮上し、気づくことができたのなら、あとはただ解放してあげるだけです。自分の邪魔をしていたものに、さよならする機会とすることができるのです。
そのためには、その思いや感情を、ただ価値判断やストーリーなしにまっさらなままに感じて、終わりにしてしまいましょう。
自分のなかをただ通りぬけさせてあげることで、それはついに消滅してゆくことができます。
そういった意味では、ドラマや映画の鑑賞は、自分の解放にとってとても時短となります。あとまだ何十、何百、何千も(?)転生して体験し浄化すべきだった感情を、一気に浮上させてきれいにすることができるからです。
感情が乱れるときこそ、こころはいらないものを手放そうと頑張っているときです。
だから、感情をこわがらず、ただ手放して感じて、流してあげる練習をしましょう。
浮上してきた感情をふたたび押し戻すことなく、ただあるがままに感じて終わりにしてしまいましょう。
感情に巻き込まれないためには、アタマ、想像力を使わないことです。からっぽになって感じることです。
自分のなかを感情が自由に流れるようにしてあげると、かつてこころが乱れていたような状況でも、安らかさのなかから静かに眺めることができるようになります。
そしてこころの静けさこそが、自分の目にする世界を穏やかなものにしてくれるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
予想外のことがおきたとき・・・
たいへん、たいへん、ああしなきゃ! いや、こうだ!
あれして! これして!
と、テンパって行動に走りがちです。
でも、まずは深く息をして、ただ「止まって」みましょう。
止まって、「誰がパニクっているのか?」「誰がコワがっているのか?」調べてみましょう。
そこでワーワー声をあげているその声に気づいてみましょう。
その声に気づけた、認識できた・・・ ということは、それは自分ではなかったのです。
認識できるものは自分と離れているからです。
ただ自分は後ろに下がって、そこでワーワーいっているその声を眺めていましょう。すると、だんだん静まってくることに気づきます。
このように、ニセモノの声はそれにしっかりと気づくことによってご退場いただけるのです。ニセモノだと正体をあばかれてしまったら、スゴスゴと消え去ってくれます。
ほんとうの自己には声がありません。静けさ、安らぎそのものです。
そして、うるさい声にご退場いただき、静まることによってほんとうの自己を呼び覚ますことができます。
その自己のなかにこそ、すべての答えがあります。
静けさという自己のなかで、この問題がどのように解決されるのかをただ見ていましょう。
なにがどう展開するのか、おもしろがって見ていましょう。
ニセモノさえいなくなれば、静けさと安らぎさえあれば、あとはうまくカタがつくはずです。
きっと、「そうきたか!」というちょっとびっくりな方法で解決するかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちの目にするすべて、体験するすべては、私たちのこころが紡ぎ出している映像の世界です。
私たちは自分のこころの中から投影された世界を生きているのです。
しかし、自分が生み出しているものを目にしているわりには、気に入らないものばかりだ・・・と感じてしまうかもしれません。
それは、こころのなかの癒されていない怖れや罪悪感を、外へと映し出してしまうからなのです。
さらに、その映し出されたものに対して自らが抵抗して闘ってしまうとき、私たちはそれらをさらにリアルでパワフルなものにしてしまいます。自分で自分を脅かすということが起こってしまうのです。
抵抗するということはまさに、抵抗している対象にエネルギーを注入することになるので、それは自分にとってまぎれもなく現実と感じられ、支配力があるように思われるのです。
その不快さから逃れるため、それらを変えようと頑張るとき、その好ましくない状況にさらに力を与えることになってしまいます。すると、その状況からなかなか脱することができなくなってしまうのです。
好ましくない状況に消え去って欲しいのであれば、取るべき行動はただひとつだけです。
それは、目のまえで扉をバタンと閉めてしまうこと。それとかかわらないこと。無視してしまうことなのです。
無視することで、それらをリアルにしていた抵抗のエネルギーが断ち切られ、エネルギーを失ったものは目のまえから消えてゆくことになります。
私たちはついつい、気に入らないものに対して闘ってどうにかするという姿勢をとりがちです。コントロールこそが解決策だと信じているからです。
ほんとうの解決策は、それを存在させている注意というエネルギーのコンセントをただ抜いてしまうことなのです。
気に入らないものに対して、ドアをぴしゃりと閉めてかかわらないこと、反応しないこと、注意を向けないことが大切です。
赤ちゃんがなかなか泣きやまないとき、くるくる回る玩具やヘンな音が出るもので気をひくと、赤ちゃんの注意は即座にそれらにクギづけになり、ピタリと泣きやむということが起こります。
注意は、中途半端に分散しておくことができないのです。向けられる先は、ひとつだけなのです。
大人でも、体に痛みを感じているとき、思わず引きこまれるような映画を観たり、美味しいものを口にしたりすると、痛みのことはすっかり忘れてしまったりします。
自分が望まないものは、抵抗や闘いによってどうにかしようとするのではなく、ただこのような注意の転換を使うことがポイントになります。
望まないことに対する注意を遮断すべく、ただ注意のコンセントを抜いて無反応状態を作り出しましょう。すると、それらはしだいに消えてゆくことができるのです。
ふだんの生活のなかでも、目のまえにあらわれるものごとに対して次から次へと反応するのではなく、少し身を引いて画面全体をふんわりとながめることが大切です。
世界や出来事に対していちいち意見をしたりジャッジしたりしないで、無反応を作り出します。
それは、穏やかで安らかな無関心の状態です。ひとつを掴むことなく、全体をふんわりと見ているだけです。
自分というエゴが世界に反応して、抵抗したり、コントロールしようとしなければ、人生にはある流れが存在していることに気がつくかもしれません。
それは、もともとそこにある法則であり、宇宙の秩序そのものです。
その法則は、自分ひとりで頑張る必要はなく、すべてのことにおいて面倒を見てくれる愛そのものなのです。
どんなふうに面倒を見てもらえるかは、それを体験してみないことにはわかりません。必ずやその答えやそのなりゆきに、ちょっとびっくりしながらも、満足することになるでしょう。
私たちが何かに反応して、それを掴んだり取っ組み合ったりしなければ、その愛の法則が現れて、解決に向かって穏やかにリードしてくれます。
私たちがするべきことは、ただ安心してリラックスしてながら画面の後ろに下がり、「いったいこれはどのように解決されるのだろう?」と面白がりながら、静かに見守っていることです。
毎回示されるその結果そのものが、ゆるぎない流れへの信頼を培ってくれることでしょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
こころはつねにおしゃべりで満ちています。
そこで、こころのおしゃべりをスルーして、こころを静かにする習慣をもってみましょう。
なぜなら、こころの声は火のないところに煙をたたせる天才だからです。
こころの声に耳を傾けつづけていると、なんでもないことがみんな問題となってしまうのです。
たった今、問題に感じていること・・・ それは、こころの声が「それは問題だ」「そんなんじゃダメだ」と言ったのではないでしょうか?
こころの声は、なんの問題もないところに平気で問題をでっちあげ、さもほんとうのことのように見せかけるのです。
問題に直面しているとき、よくよく調べてみると、
結局は自分のこころの声が「そりゃ、まずいんとちゃいますか?」「ダメっしょ、ぜったい」「いったいどうすんの?」「はずかしいなぁ〜」と、目のまえで起きていることにダメだしをくり広げているのです。
ほんとうはそれでOKであるにもかかわらず・・・。
私たちは自分のこころの声を無条件に信頼してしまっているので、もちろんそれが間違ったダメだしだとは気づかずに、すぐさま「まあ、どうしましょ?」「たいへん!」「なにか手をうたなくちゃ」「ほんとうに私ってダメだわ・・・」とアセりまくり、自信を失い、そして問題として認識されアタフタと解決に走るのです。
こころの声は終始、ダメだしにあけくれています。それしかやることがないからです。
でも、それを真にうけるかどうかは、自分自身の自由でもあるのです。
そもそも、こころの声はほんとうの自分の声ではありません。ニセものなのです!ほんものの自分には声がありません。
こころの声は混乱しか招かないと覚えておきましょう。まったくもって、ほんとうのことは語らないからです。
むしろ、こころの声をいさぎよく無視して静まったときにこそ、はじめて高い自己であるハイヤーセルフからの導きがあらわれることができます。
でも、ハイヤーセルフの導きはエゴのように声をもっていないことのほうが多いのです。言葉としてではなく、ただ直感として確信するのです。
もちろん声として受けとることもありますが、決して怖がらせたり否定的な表現をすることはありません。
ハイヤーセルフからの声なき導きを受けるためには、こころの波だちであるおしゃべりを鎮めてシンとしている必要があります。
ハイヤーセルフに導かれるために、まずはうるさいエゴの声をスルーする習慣をつけましょう。
アタマのなかのおしゃべりに気づくようにして、それに気づいたら「おお〜、ウソつきさんがしゃべってるわ」と静観することで勝手におさまってきます。
そしてこころに静けさのスペースができたとき、ハイヤーセルフに委ねる気持ちをもって、ただリラックスして自然体でいましょう。
自分で頑張らずに明け渡して導かれる感覚をもつことで、自然とものごとがスムーズに流れるようになります。そして、より平和な世界を目にすることができるようになってくのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
こころが怖れや不安を感じているとき・・・その原因とはいったい何なのでしょうか?
「もちろん、今起きている状況、あるいはこれから起きるかもしれない状況です!」と言われるかもしれません。
仕事がうまくいかない、人間関係で問題が起きている、体調が思わしくない、先行きに不安を感じる・・・というように。
私たちはこのような状況に対して、環境を変えたり、能力向上をはかったり、相手をどうにかしようとしたり、健康対策をとったり・・・改善をはかる努力をします。
そうすることに問題はないのですが、これらが怖れや不安の原因であり、解決策もここにあると信じてしまうと、結局同じ問題をくりかえすことになってしまいます。ほんとうの原因が放置されたままだからです。
そもそも、怖れや不安を感じているのは「自分」なので、たとえものごとや人が変わろうとも、怖れや不安は新たな状況のなかでも簡単に姿を現すことになります。処理しないかぎり、いつまでもどこまでもつきまとってくるのです。
怖れや不安はもともと自分のこころにあるもので、ものごとと結びつくことでそれが原因のように感じられてしまうのです。
では、なぜ自分はこんなに怖がりで、不安を感じてしまうのでしょう?
それは、自分で自分を脅すのをやめられないからなのです。
そもそも、その状況そのものが怖いのではなく、自分の「その状況に対するでっちあげ」こそが怖いのです。
私たちはいつもこころのなかで、自分自身を脅すのをやめることができません。
一日のうちにアタマに浮かんでくる思考の数は、数万個という膨大なものです。そのほとんどが日々、同じセリフのくりかえしです。さらに、思考の80%は、自分を幸せにしない否定的な内容となっているのです。
ということは、年がら年中飽くことなく、自分の考えで自分を攻撃していることになります。それなら、怖れや不安を感じてあたりまえです。
「最近太ってしまった醜い私」
「過食や飲み過ぎをやめられない意志の弱い私」
「友人との会話でバカみたいな発言をしている私」・・・ダメな私、みっともない私、価値のない私。
一日のうち、アタマに現れる意識的、無意識的な思考をチェックしてみると、他の人に対しては決して口にしないような辛辣なセリフであふれています。
このような否定的な思考のオンパレードは、何ら検閲もされず、無条件に丸ごと信じられてしまっているのです。
だからこそ、そこからネガティブな妄想が発展し、怖れや不安がふくらんでいってしまうのです。
はっきりしておかなければならないことは、「思考はただ浮かんでくるものであって、自分自身ではない」ということです。
自分が考えているように感じていますが、そもそも「考えを止めることができない」ことを考えると、自分でもコントロールがきかない思考は勝手に湧いてくるものにすぎません。
たった3分後にさえ、どのような考えが浮かぶのかさえも予測することができません。また、内容のほとんどが否定的となれば、それは事実ではないし、簡単に受け入れるべきものではないのです。
このような得体の知れないものはそのまま放っておくことで、タバコの煙のようにふわふわと消え去ってゆきます。大切なのは、「かかわらない」、「うのみにしない」ことです。
わざわざその煙にまかれる必要はありません。煙にまかれれば、具合が悪くなってしまうのです。
自分ではない思考に影響されてしまわないように、浮かんでくる思考に気づいて、モニタリングしてみましょう。モニタリングとは、離れて眺めることです。
眺めているとき、そこに距離が生まれ、巻き込まれてしまうことを防ぐことができます。
放っておけば、それはただ消え去ってゆくのです。
このように自分のなかに現れてくる思考を客観的に気づくことで、クレー射撃をしているように自分にとって有害な思考を退治することができます。
気づきというビームを照射するだけで、それらの思考を見抜き、撃破することができるのです。
まずは、自分だと信じていた思考から距離をとりましょう。
いままで、無条件に受け入れてきた否定的で有害な思考に気づき、眺めてみることです。
それらに対して、「いったい何を言っていることやら・・・私は信じません」と、ひとごとのように観察してみましょう。
思考の支配から逃れることこそが、怖れや不安から解放されることであり、自然と安らぎを感じることができるようになります。
そして、怖れや不安が邪魔しないからこそ、ものごとに対する解決策が直感的にやってくるのです。
すべては安らぎのなかで手放しておくことで、正しい方向へと導かれてゆきます。
怖れや不安を手放すために、思考に気づき、静かにながめる習慣をもってみましょう。
不安な気持ちになったとき ・・・ 私たちはそのことばかりについて考えてしまう傾向があります。
「お金がない!どうしよう?この調子でいったら来月には・・・云々」
「身体の調子がおかしい。これ以上ひどくなってしまったら、将来はどうなる・・・云々」
私たちは考えていれば問題を放置することなくかかわっているように感じるので、少し安心できるのです。
しかし、考えは未来へ未来へと前のめりに広がり、ありもしないストーリーを紡ぎだすことで不安をさらに増大させてしまいます。
ということは、「あれこれ考える」ことじたい解決にはまったく役立っておらず、逆に不安だけをあおってしまっている、ということになります。
そもそも不安な気持ちがこころに浮上してきたということは、それをそのまま感じて、受けとめて、終わりにしなければならないのです。
それらの感情は、自分のなかで長いあいだ拒絶され、無視され、こころの奥深くに抑圧されて無きものにされてきました。
しかし、これらの感情こそが自分が目にする世界へと投影され、自分にとって障害物となる問題へと姿を変えてしまいます。 まさに、自分の人生の流れをはばんでしまう原因となるのです。
これらの拒絶されてきた感情は、何度々々も浮上することによって受けとめてもらうことを求めています。
それら受けとめることこそが、自分の目のまえに立ちはだかる問題を消滅させることにつながるからです。
感情を受け止めるとは、あれこれの価値判断やストーリーをくっつけることなしに、ただそのままの感じを受けいれて感じてあげることです。
そもそも私たちは、「感じる」ということに慣れていないようです。
なぜなら感じはじめると、その感じに呑みこまれてしまうような怖れを感じるので、それをさけるためにすぐさま感情を思考へとすり替えてしまいます。
あまりにも思考依存症に陥っているので、あるがままの感情を受けいれることをすっかり忘れてしまっているのです。そのために、強い感情が浮上するとキケンきわまりないことが起こっているように感じて、あるがままに感じるこころはすぐに閉じてしまいます。
いつも考えでアタマをいっぱいにすることで感じる余地を残さずにいれば、何も感じることがなく安全でいられる!と信じてしまいます。たとえ、その思考が自分を幸せにしないものであっても、感じるよりは思考する方が安全だと勘違いしてしまうのです。
しかし、ある感情を感じることをさけるということは、幸せを感じることもできなくなってしまうのです。
先日、多くのスターを育て、メガヒットを生み出してきた米国の有名作曲家でありプロデューサーである男性のドキュメンタリーを観ていました。
彼は何十年もスタジオに缶詰めで多忙きわまりない日々を過ごしてきました。もちろん仕事では大成功を治めているのですが、そんなワーカホリックが災いして女性関係はうまくいかず、奥さんは寂しさのあまり次々に去って行きました。そして、五回めの結婚にいたりました。
そんな彼のひとことは、「セラピー?まっぴらゴメンだね。自分の内側をみるなんて、コワくてとてもできない」。彼の言葉は、「ぜったい立ちどまるもんか!自分の気持ちを感じてしまったらおしまいだ」という感じのものでした。
止まることを知らない回遊魚状態の彼は、そもそも内側を見たくないからこそ決して立ちどまって安らかな時間をもつことはないのです。
立ちどまってしまったら ・・・ 静かにしてしまったら ・・・、自分自身と向きあわなければならなくなります。絶対見たくない!と断言していたものと対峙しなければならなくなるのです。
ただただ動き回る状態はある意味、薬物中毒のような状態であり、自分をフラフラにすることによって何もわからなくして、感じていることを誤摩化してしまいます。
ほんとうの意味での幸せとは、こころが静かに安らいでいることです。
安らかなこころには、安らかな世界が映ります。それは、自分をフラフラにしていては見ることができない世界です。
そして、深い安らぎを自分のなかに感じるためには、安らぎを乱してしまうこころのなかの抵抗勢力である強い感情を無効にしてゆくことが必要となります。
そのために闘う必要はありません。ただ抵抗勢力である感情を受けいれて、消し去ります。無条件に受けいれられたものは、支えであるエネルギーを失って、ただ消滅してゆくからです。
自分のなかにどのような感情が湧きあがってきたとしても、判断したり、抵抗したり、拒絶したり、抑圧することをやめてみましょう。
不安や怖れ動揺が顔をだすと、私たちはすぐにそれらに言葉をくっつけることで、感じることをやめて考えはじめます。「なぜなの?」「どうする?」「原因は?」「何が間違った」というように・・・。
これは、脇道にそれてしまっているのです。「感じる」のではなく「考える」というルートに入ってしまいました。
そうではなく、なにひとつ言葉をつけることなく、ただその感情をありのままにして、感情に感電するがごとく感じることを自分にゆるしてみましょう。ただ、その感情とともに存在してみましょう。
言葉がなければ、それは「不安」でも「怖れ」でも「動揺」でもなく、ただビリビリ・ジンジン・シクシク・ドキドキ・ズンズン ・・・とう感じだけなのです。怖いものではありません。
言葉というものに逃げこまずに、正面から正々堂々と、丸ごと感情に自分を開いて感じてみましょう。
抵抗なく受けいれたものは、自分自身のなかでひとつになり、ようやく姿を消すことができるようになります。
そのためには、言葉を減らして静かになり、いったい自分がなにを感じているのかに敏感になってみましょう。
これを習慣化していると、かつての「不安」も「怖れ」も自分をおびやかすようなパワーを失い、安らかさや穏やかさを感じる瞬間がふえてゆきます。
こころが静かだと、目にうつるものも穏やかになってくることでしょう。こころと世界の良い相関関係が起こるので、こころも世界もともに癒されてゆきます。
感情に怯えて逃げていたときとは違う世界、もっと穏やかで、安らぎに満ちて、安心できる、優しさにあふれた世界、それを自分も目にすることができることを知って、自分の感情と向きあうことをはじめてみましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
クルマを運転しているとき、速度をだしすぎるとアラームがお知らせしてくれます。
方向を間違えば、ナビが正しいい道順を教えてくれます。
だからこそ、あれこれ気にすることなく、ドライブを楽しむことができるのです。
クルマ同様、私たちにもさまざまなアラームやナビが搭載されているのをご存知でしょうか?
たとえばアラーム。
「速度を落としてください」「方向を変更してください」などというダイレクトなアナウンスはありませんが、それでもお知らせはちゃんとやってきています。
そのお知らせとは ・・・ ざわわさする感じ、どきどき落ち着かない感じなどという、自分のこころが波だつ感じや、怖れ、居心地の悪さ、という感覚です。
怖れや居心地の悪さを感じるとき、それは「このまま同じように走りつづけないでください、走り方や方向など、なんらかの変更が必要です!」というお知らせなのです。
それは、「もう、今までのやり方は通用しなくなります」「もしつづけるなら、良くない状態になってしまいます」と警告してくれているのです。
しかし、たいていの場合、ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという怖れを感じはじめると、私たちは「こんな気持ちは感じたくない!」といわんばかりに、さらにアクセルをふみこんで、そのまま走り抜けようとしてしまいます。
アラームに抵抗して、「突っ走ればどうにかなるだろう」とばかりに、さらに同じルートのまま速度をあげて進んでしまうのです。
まさか、自分を助けるための大切なアラームが鳴っているとは思わず、今までと同じやり方で疾走してしまうのです。
ぞわぞわ、ざわわさ、どきどき・・・という怖れのアラームを感知したら、抵抗したり誤摩化したりせずに、いったん受けいれて、まずは止まってみましょう。
「これは、もう今までのやり方では通用しない、ということを教えてくれている。同じやり方をすれば、難しい道に入りこんでしまう。早く教えてもらえてよかった!」と感謝のこころでで受けとめます。
そうなのです、ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという感覚は、安らぎである私たちにとっては異質の状態なので、それは「自分自身からはずれていますよ!」という異常事態宣言なのです。
しかし、私たちはそのアラーム音の鳴りっぱなしにかなり慣れてしまっているようです。
なぜこのまま進んではダメなのでしょうか?
それは、自分が自分をみくびっていること、裏切っていることに気づいていないからです。本来の自分自身を完全に忘れて、別物になりきってしまっているのです。
本来の自分がいないからこそ、不安な気持ちになってしまいます。そして、怖いから、手っとりばやくどうにかなりそうなものに飛びついてしまいます。しかし、それらはいつも解決策にはなりえません。
なぜなら、自分自身でつくりあげた架空の不安にこころを奪われているので、自分のこころを正常に戻すことでしか解決ができないからです。
もし本来の自分自身でいられるならば、自分のこころに備わっている強さ(光)こそがすべてを照らして、正しくしてくれるのを信じることができるはずです。
でも、自分が失われている状態では、その強さも丸ごと失われてしまっています。
さて、どうしたらいいのでしょう?
すべてのちからの源である本来の自分自身が失われているのなら、まずはほんとうの自分をちゃんと覚えていてくれている存在とつながることが先決です。
私たちにとって、自分を導いてくれるナビゲーションシステム、あるいは安全装置とは、いつどんなときでもほんとうの自分を覚えていてくれて、自分の強さを取り戻させてくれる高い自己(ハイヤーセルフ)という存在なのです。
なによりもまず、その存在とつながり直し、本来の自分を取り戻す必要があります。そのためには、ハイヤーセルフを自ら招き入れ、こころの中につながるためのスペースをつくってあげましょう。
それは、外に向いていた注意を自分のこころの内側へと向けてあげることです。こころの内側において、私たちはハイヤーセルフとコンタクトをとることができます。
そして、静かにしてみましょう。ハイヤーセルフの導きはとても穏やかなので、こころを鎮めて落ちつくことでつながることができます。
そして、本来の自分の強さのなかですべての完全さを目にすることができるように、ハイヤーセルフに恐れて混乱しているこころを正してもらいましょう。
自分から「ハイヤーセルフにつながりたい、導きを受けたい、正してもらいたい」という自主的な意思をもつことによって、ハイヤーセルフとのチャンネルが開かれます。しかし、自分から望まなければ、導きを受け取ることはできません。
そして、いま自分がするべき必要なステップがあるのであれば、自分にわかるようにそれを教えてもらいましょう。
尋ねたあとは、信頼してこころを開くことです。自分で勝手にものごとをいじくりまわすことはせずに、ただ静かに今の現実から数歩下がって、静かに導きを待ちましょう。
ハイヤーセルフは、「あなたはものごとを正しく見られないために、自分で自分を怖がらせています。まずは、あなたのこころの間違った方向性を正すために静かになってください。そして、正しく進むために、その静けさのなかで私の指示に身をゆだねてください」と、完全な自動操縦(明け渡し)システムのなかで優しく導いてくれます。
安心して委ねてみましょう。
ずっと心配しつづけている、怖れつづけているということは、心配と怖れを握りしめて執着しているということです。両手から心配も怖れも手放して、自分をからっぽのスペースにしてみましょう。
なかなかこころを鎮めることができないときは、しばらく呼吸に注意を向けてみます。ゆっくりと鼻から息を吸って、一回止めて、さらにゆっくりと吐く、という腹式呼吸に集中することで、固まってしまっていた注意がほどけ、握りしめていたものを手放しやすくなります。
ハイヤーセルフはあなたに、「これは、あなたが自らつくりだした状況です。しかし、あなたにはもうふさわしくないことに気づいてください」「これではない、安らかな現実を望むのだということをこころに決めてください」「あなたが新たに選びなおす意思をもってください」と教えてくれています。
ハイヤーセルフの導きは、いろいろなところにやってきます。
知り合いの誰かのひとことや、テレビやラジオから聞こえてくる言葉や、道ですれ違う人のおしゃべりなど、メッセージはあちらこちらにやってくるのです。
あるいは、たまたま目に飛びこんできたなにか、突然ひらめくなにか、こころが広がる感じがするなにかに気がついてみましょう。
ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという修正のアラームが鳴りだしたら、その怖れの感覚にホンロウされて走りまわることはせずに、それは「自分にとって善き知らせ」であると受けとめます。そして、静まることによってハイヤーセルフとつながり、スムーズに軌道修正を行いましょう。
静けさのなかでこそ、方向転換のための道標があらわれ、力を抜いてスムーズに修正を行うことができます。
まるで夜の飛行場で機体を誘導するランプが整然と光を放つように、サインのひとつひとつをたどってゆくと、闇のなかでも今までとは違うルートに導かれた自分に気づくのです。
もちろんそのルートは、ハイヤーセルフに守られ、また自分の真のちからにも守られたルートです。それは、こころ安らかで優しく、楽しい、そして自分にとってたやすいルートです。かならずや自分もまわりも笑顔になることができるルートなのです。
まずは、アラーム音(ざわざわな感じ)に怯えることなく、ただお知らせに気づいて、「過去にはこの道を望んだかもしれないけれど、私は今それを手放してただ導きに従う」と、安らぎのなかでこころを開いてみましょう。
あとは、ハイヤーセルフがすべてを整えてくれるでしょう。
このようにハイヤーセルフの導きに従うことで、自分のカルマのように見えていた出来事さえも、そこからラクラクとルートを変更し、ストーリーを変えてもらうことができます。
ギアチェンジのサインがきたのなら、ハイヤーセルフの導びきのもとで自分にふさわしい幸せなルートへと切り替えを行ってもらいましょう♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
自分の顔は、自分のものでありながら自分自身で直接見ることができません。
鏡という道具を使って、はじめて顔を見ることができます。
そして、私たちは鏡に映し出されたその顔を、自分の顔そのものとして受け入れ、信頼しています。
もしその顔に吹き出ものがあればすぐに治療をしますし、顔色が悪ければそれを改善しようと試みます。
顔と同じように、自分のこころも自分では目にすることができないものです。やはり、なにか見るための道具を必要とします。
では、自分のこころを見るためには何を使えばよいのでしょう?
それは、顔を見るときと同様に、やはり鏡を使います。鏡を見ることで、その状態を知ることができるのです。
自分のこころを見るための鏡とは何でしょうか?
それは自分の外側の「世界や人」という鏡なのです。
自分と向かいあっている世界や人は、まさに自分のこころの状態をそっくりそのまま映しだしてくれる鏡そのものです。
自分が気づいているこころも、気づくことがない無意識のこころも、丸ごと正直に映し出します。
気づいているこころはまだしも、無意識のこころのなかには自分が拒絶してきた怖れや怒り、罪悪感、傷ついた痛みなどが温存されているために、それが鏡に映し出されるとまるで自分とは関係ないもののように感じてしまうこともあるかもしれません。そして、それを嫌悪し、遠ざけてしまうこともあるかもしれません。
なぜ外側の世界や人が自分のこころのすべてを映し出しているのかというと、「自分」こそがそれを見て、「自分」こそがそれを感じて、「自分」こそがそれを解釈しているので、それはまさに自分自身のシンボルであり、自分が自分そのものを見ていることになるからです。
「人のふりみて、我がふりなおせ」という古くからの教訓がありますが、まさにそういうことなのです。
この世界・人という鏡があり、私のこころのすべてを映し出してくれるからこそ、私たちは自分の顔の吹き出ものに気づいて治療するがごとく、こころの間違に気づいて、それを正すためにこころを変えることができるのです。
そうでないならば、私たちがこころを正すための手がかりがなくなってしまうことになります。
また同時に、私たちのこころにはすべてのものごとに対する答えも存在しています。
それは、自分や人にかかわるすべての問題の解決策となる万能の答えです。
この答えを受け取るためにも、世界や人という鏡を必要とするのです。
直接自分のこころから答えを受け取ろうとしても、「そんなはずはない」「間違っているに違いない」と、疑いや怖れなどの癒されていない考えにすぐさまブロックされ、素直に答えを信頼することができなくなっています。
キラキラと輝くインスピレーションは、すぐさま却下されてゴミ箱に捨てられてしまうのです。
せっかく浮かんできた解決策も、「いや、それはダメだ」「できるはずがない」という否定的な思いに阻まれてしまえば、その導きはまったく無きものになってしまうのです。
自分を確実に導き、問題から救ってくれる答えはすでにそこにあります。
それを手にするためには、自分のこころのすべてを映しだしてくれる世界・人という鏡を使って、確実に受け取ることができるのです。
ところが、私たちは自分の癒しに役立ち、難関から救ってくれる答えを映し出す鏡そのものをあまり信頼していません。自分とは関係のないものとして扱っているからです。
世界や人という鏡を信頼できないのなら、そこからは信用できないような導きしか見つけることができないのです。
「与えるものは、受け取るもの」。私たちはいつでも、自分のこころが決めたものだけを受け取るからです。
自分にとってまさに助けとなる答えを受け取るためには、世界や人という鏡への無条件の信頼が欠かせないことになります。
それは、世界や人を自分勝手な価値判断で歪曲して見ることなく、まっさらな無垢のままに見ようとすることです。鏡をねじ曲げずに、きれいなままにしておくことです。
こころを空っぽにしてそのまま受け入れることは、それをあるがままに味わいめでること、愛することにつながります。
この無防備な信頼があってこそ、同じような信頼度で自分を導き救ってくれる答えが自分に返されてくることに気づくようになります。まさに、世界・人という鏡を通して、必要な答えがタイムリーに映しだされるのです。
安らぎのなかで世界や人を味わいめでるとき、自分のなかにあるすべてに対する答えが鏡のなかにしっかりと知覚されるようになります。
信頼を与えられた鏡は、しっかり正しい答えを輝きかえしてくれるのです。
こころを映し出してくれる鏡をきれいにするというこは、世界や人を価値判断することなく無条件に受け入れて、安らかなおもいであるがままに味わいめでることです。
愛して受け入れることで、まったく同質の贈りものが自分に豊かにもたらされるのに気づきます。
自分の優しさと安らぎのなかで、世界や人という鏡が確かな答えを輝きかえしてくれるのを受け取ってみましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「池の水、全部抜いちゃいました!」なんていう番組がありましたね。水を抜くと ・・・ あらあら、ビックリなものがあらわれます。
こころの池も、いえ、あえて沼といわせていただきますが、こころの沼もスッポリ水を抜くことができたらいいのに。
のぞきこんでみようとも暗く濁ってなにも見えないこころの沼ですが、もしゴゴゴ〜〜!と水が抜けちゃったら ・・・ あらま、キケン外来種がわやわや! すっかり占拠されていたことにびっくりするかもしれません。
キケン外来種とは、自分とは関係ないのに我がもの顔でそこに住みついているずうずうしい存在であるエゴちゃんです。
このエゴというイジワルで残酷で痛みや苦しみをこよなく愛するキケン外来種のせいで、こころの池はすっかり濁って不気味な沼と化してしまったのでした。いまやこの沼に何が映しだされようとも、すっかり歪んで恐ろしいものにしか見えません。
そして、その映し出されたものを見ては、ちぢみあがっている私たちなのです。
自分で自分をちぢみあがらせている私たちはそのことに気づいていません。コワイものの原因はそこではなく、世界や人や出来事のなかにあると信じています。
解決するためのポイントが完全にずれてしまっています。
ほんとうは、なにが目に映ろうとも、解決策はこころの沼をおそうじしてあげることで、すべてがあるがままの姿でクリアに映しだされるようにしてあげること。そして、源からやってくる光をきれいに反射して、自分の目にする世界をキラキラと照らしだし祝福してあげること。
そのためには、沼に身をひそめているキケン外来種(エゴ)の駆除がかかせません。
キケン外来種であるエゴちゃんは、いくら沼をのぞきこんでも姿をあらわしたりはしません。あまりに深く潜伏しているからです。
でも、もしも沼に映ったものが歪んでいるのであれば(自分が問題というものを知覚しているのであれば)、そこに駆除すべきものが潜んでいることを教えてくれているのです。
そこで、問題が知覚されたら、「やった〜!キケン外来種、み〜つけた!」と喜んでください。問題こそが、そこにいるよ!というサインだからです。
こころの沼のお掃除は、しっかりと「自分が必要としないゴミがある」という認識があってこそきれいにできるのです。ほんとうは問題だらけで自分に苦しみを与えまくっているのに、「私は大丈夫で〜す!」と見て見ぬふりをしているうちはお片づけをすることはできません。
ところが、私たちは問題を知覚するやいなや、すぐさまお掃除とはいかず ・・・ 抵抗をはじめます。
「こんなことがあっていいはずがない!」「いったいこれをどうしてやろうか?」・・・ と、「問題」VS「私」という対立モードとなり、その問題は自分とは無関係だとみなそうとします。
解決のためには、「これは、自分のこころ発」と認めることからはじめなければならないのに・・・。
問題とはたんに、「こころは沼と化していてお掃除が必要ですよ」「放置しておくと、どんどんコワイものに遭遇することになりますよ」というお掃除の必要性のお知らせです。
こころのキケン外来種を駆除して、澄んだ状態にもどしてあげるには ・・・
いま、目のまえで起きていることに対してあれこれ考えて、闘いを挑むのをやめましょう。
「オッケー!」といって、そのままにしてあげましょう。
そのままにするとは、それを握りしめるのをやめることです。ただ手をゆるめてあげれば、それはそのままとおりすぎて、消え去ってゆきます。目のまえをとおりすぎてゆく通行人のようにただ行かせてあげます。
闘おうとする気持ちが、この通行人の腕をつかみ、目のまえに引き止めてしまいます。
ただ手を離したら、キケン外来種駆除班である高い自己(ハイヤーセルフ)にお片づけを依頼しましょう。
「これは私の望む経験ではありません。私のこころの底にある誤った裁きの思いを取り去って、このことを安らかな気持ちで正しく見ることができるように一緒に見てください」と、まったく問題が存在しない次元を見ているハイヤーセルフの知覚をともにさせてもらいましょう。
あとはただそのままおまかせです。ハイヤーセルフが駆除作業をして、「これが正しいものの見方ですよ」と問題が存在しない知覚をシェアしてくれます。
問題が消え去るか、あるいはまったく違う見方ができ、問題とは感じなくなるか、はたまた予想外の嬉しい展開があるかもしれません。
しだいに濁った沼が本来の光輝く湖にアップグレードします。そこには、なにを映しだしても美しく完全で愛にあふれているように見えるはずです。
決して被害者になることなく、自分のこころが間違っていたことを認め、高い自己にこころのジャンクを駆除してもらい、あやしいものが住まう沼から澄んだ湖へとお掃除してもらいましょう。
こころの湖が澄みわたると、宇宙(源、あるいは神)の光がゆき渡り、すべてが美しさと完全さのなかで穏やかに見ることができるようになります。
世界や人々、自分自身があるがままに映しだされ、光は何倍にも広がってゆき、すべてを優しく包みこみます。
その光のなかで、自分自身もそしてまわりの人々も、安らかな笑顔でくつろいでいることに気づくでしょう。
濁った沼を放置すると異臭(問題)の原因となります(汗)。本来の自分自身である澄んだ湖として、愛と光と安らぎを感じ、広げる源となりましょう☆
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ものごとをそのままに、「あるがまま」見ることが幸せにつながります。
そこに自分自身の考えを何もつけ足さないとき、 安らかさや平和が存在するのです。
さて・・・私たちは日々、どれだけものごとをあるがままに、まっさらな状態で見ることができているでしょうか?
あるいは、自分独自のでっちあげである妄想劇場にハマって、自分自身を怯えさせてしまっているでしょうか?
まっさらに見るということは、「あるがまま」に受けとめることです。それは、自分勝手な価値判断やでっちあげをせずに「素のままで見る」ということです。それをただそのままにしておくのです。
「そんなこと、あたりまえじゃないですか? 」と言われそうですが ・・・ あるがままに、でっちあげなしでものごとを見ている人はあまりいません。
それをそのままにして、自分の空想や妄想にひっぱりこまないでいる人は少ないのです。無意識のうちに、私たちはものごとを自分の妄想劇場へとひっぱりこんでしまっています。
たとえば、「今朝、パートナーがとても不機嫌だった。私が何か気に入らないことをしてしまったのだろうか?」、あるいは「さっき同僚に話しかけたのに、無視されてしまった。私は嫌われているのだろうか?」 ・・・ これらはすでに、勝手な「妄想(でっちあげ)」です。
「パートナーの不機嫌」も「私が気に入らないことをした」というのも本当のことではないし、「同僚に無視された」「私は嫌われている」というのも自分が作り出したストーリーにすぎません。
まっさらな見方というのはこんな感じです。「今朝、パートナーはいつもと違うように私には感じられた」、とうことであり、「さっき同僚に話しかけたが、私には彼女の答えは聞こえなかった」ということです。違いがわかるでしょうか?
後者は、そのときに起こった事実のみであり、自分の推測や憶測・でっちあげは含まれていないのです。
私たちにとってものごとを「見ること」ということは、「妄想すること(勝手なでっちあげをすること)」とイコールになってしまっているようです。
なにかを目にするたびに、自分にとっての意味や価値判断を勝手にくっつけて、自分独自のストーリーをでっちあげてしまうことで、妄想劇場が始まってしまいます。
その妄想劇場はたいてい、見捨てられたり、攻撃されたり、拒絶されたり、という悲しいストーリー展開が待ち構えています。
幸せを感じられない人、喜びや安らぎの感覚が乏しい人、不安に支配されている人は、決まって妄想劇場の住人であり、悲しいストーリーの主人公になるのが得意なのです。
何かを目にしようものなら、そこから怒濤のように自分のでっちあげがはじまり、そのストーリー自体に自らが呑み込まれてしまうのです。
ひとつでっちあげをしたら、そこからまた別の架空のストーリーが生まれ、さらにそこからも・・・というように、アタマのなかは事実ではないストーリーでいっぱいになってしまいます。
そうなると、最初に自分が目にしたものごとから、とんでもなくかけ離れたストーリーが捏造されてしまうのです。
そして、その捏造したストーリーについて悩みはじめます。なぜなら、でっちあげ劇場はいつも悲しくつらいストーリーが展開し、そのストーリーがこころを釘づけにするからです。
「私がこんなに悲しいのは、これらのものごとが起こっているせいに違いない?!」と、架空のストーリーを信じてこころを痛めます。
しかしこころが痛むのは、自分が作りあげたストーリーを信じているせいです。自分で自分の首をしめて苦しがっているのです。それしか理由がありません。
不幸の原因は、つねに自分勝手なものごとへの価値判断であり、でっちあげストーリーなので、原因は自分以外にはありえないことになります。
自分のでっちあげ・妄想こそが、自分を傷つける凶器となってしまっているのです。
このような妄想によって自分を痛めつけないために、ものごとを「あるがままに見る」ことを学ばなければなりません。
「あるがままに見る」とは、文字通りまさに「あるがまま」。ものごとについての「解釈」や「価値判断」の一切を停止して、それらを空欄のままにしておくことです。ただ事実だけにとどめておくのです。
つまり、「見る」ということは、そこに何かをつけ加えるのではなく、見たらそれで「はい!おしまい」。それ以上なにも必要はありません。そのままにしておく、ということです。
それが、「あるがまま」を受け入れること、味わいめでること、正しく見ることです。
あるがままに受け入れ、味わいめでることができると、ものごとと自分との間に対立が生まれることがなくなるので、摩擦が起こることもなく、自分自身が安らかで平和になります。
何に対しても「ものを申したい」「コメントしたい」「解釈したい」という気持ちは手放して、すべてをそのまま、「あるがままに」とどめおきましょう。
そのままにすることによって、目のまえのことはただ流れてゆき、自分がありもしない複雑なストーリーに巻きこまれて、あれこれ考え悩むことがなくなります。ムダなエネルギーを消耗することがなくなるのです。
それはまるで、自分自身は岸辺に立って、ただ静かにものごとという川が流れてゆくのを眺めているような感じです。
わざわざ自らが川に飛びこんで、バシャバシャと溺れそうになりながら川の流れと取っ組みあいをする必要はないのです。
川岸に佇んで、ただ静かに流れを見守るという穏やかなこころの状態から、安らかな自分の世界が広がってゆきます。安らぎとは、まさに自分の世界の静けさです。
すべてを安らかに、そのままにしておきましょう。ものごとが流れて行くままにしておきましょう。
そして、そのままものごとに手をふれないでいるとき、宇宙の秩序がすべての面倒を見てくれます。自然にすべてのピースがきれいにおさまり、たんたんと正しく進んで行くというような完全さを見ることができるでしょう。
その安らかさと完全さを体験するために、自分の妄想で自分を混乱させることなく、ものごとをただ起きている事実として「あるがまま 」に見る、という練習をしてみましょう。
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その月々によって、いらっしゃるクライエントさんに特徴があったりします。
男性ばかりの月もあれば、ご相談者がオール28歳とか、相談内容がオール「浮気」などなど。クライエントさん同士が申しあわせたの?! と疑いたくなるほどシンクロしていたりするのです。
9月は ・・・ みごとに「タロット」月間でした。
いらっしゃるクライエントさんが口々に同じことをおっしゃるのです。「最近、YouTube のタロットに中毒的にハマっていて、やっているうちに身も心も具合が悪くなってきました・・・」と。
YouTubeでさまざまな動画が見られるようになり、タロット占いもわざわざ占い師さんを訪ねなくとも簡単にできるようになったのですね。
あまりにも手軽にできるので、ちょくちょくのぞいているうちにすっかり依存状態になり、占いの結果を見てはいちいちザワザワする・・・と。
タロットじたいはまったく害のあるものではありませんが、大切なのはその使い方です。出てくる札には不吉な雰囲気のものもあるので、どのように解釈するのかが大切になってきます。
そして、タロットに依存してしまう心理とは・・・ それは、過去に思い残しがあるため、現在がもの足りなく感じ、じゃあ未来はいったいどうなのよ?!少しは変われる? と未来ばかりに期待してしまうのです。
タロットはそのときの自分のこころを投影しているだけなので、いくらひきつづけてもこころを変えることはできません。むしろ、タロットを見て、今の状態に気づき、ではどう対処するのか、が大切になってくるのです。
タロットをひきながら未来を気にすれば気にするほど、たった「今」という自分が真に存在している時間軸からパワーが失われてしまいます。
未来は存在していないので、そこにいくらパワーを注ごうとしてもパワーは帳消しになってしまいます。
私たちがいるべき時間軸は唯一存在する「今」だけで、ここにこそすべてに変化を起こすためのカギが存在するのです。
過去を悔やんだり未来を心配することは、すっかり「今」がお留守になるので、まさに「今」から力が失われ、すっかり消耗しきってしまうのです。
そして、何度未来を心配しても、そこには変化を起こす手がかりは存在しません。
こころにとっていちばん健康なことは、しっかりと「今」に足をふんばること。
でも、「今」にいると不安や感じたくない感情に出くわす、ということもありえます。
そのときはまさに、今のこころをお掃除してくださいね、いらない感情を認めて、素直に手放し、安らかにすっぽりと「今」に向きあえるようにしてくださいね、というメッセージなのです。
「今」にいたくない理由を認めて、それを手放してあげる必要があるだけです。
そして、いらないものを手放したら、まったく怖れとは無関係の真の自分を思い出すことができるように、高い意識(ハイヤーセルフ)の力をかりましょう。
変化は真に存在する時間軸「今」のなかでしか起こすことができません。
存在しない過去や未来にとらわれることなく、しっかりと「今」に向きあって、ここから確実な変化を起こしましょう。
たった「今」、自分のこころが誤作動して起こしている間違い(後悔、罪悪感、無価値観、虚無感・・・)を修正することによって、すべてが変化してゆきます。それぐらい「今」にあるこころにはパワーがあります。
そして、タロットでどんなカードが出たとしても、こわがらなくって大丈夫です。
なぜなら、エゴが紡ぎ出す残酷なストーリーでは「死神」やらこわいカードが不吉なことを伝えていましたが、今や私たちは自分を完璧に守ってくれるハイヤーセルフの光のなかで安らいでいます。
ハイヤーセルフはそんなこわいカードさえも、いちばんステキな贈ものへと魔法をかけて見せてくれるのです。
そのためには、しっかりと「それが見たい」と伝えてみましょう。
タロットのカードはなにが出ても大丈夫! ハイヤーセルフとともに見て、ステキな贈ものを受けとる機会にしましょう♪
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私たちが怖れを感じているとき、
何かが自分に対してふりかかってくるように感じています。つまり、ある状況が自分の外側から自分に対してやってくるように感じられるのです。
苦難にしろ、病にしろ、困窮にしろ ・・・ 自分はいつもその状況に見舞われる被害者なのです。
しかし、ほんとうはそうではありません。
怖れを感じているときはいつでも、アタマのなかで紡いでいる自作のストーリーこそに脅されているのです。コワいのはそのストーリーのベースとなっている自分の考えです。
私たちはその自作のストーリーを信奉しすぎるあまり、それは自分が勝手に紡いだものであり、なんの根拠もなく、まったく真実ではない、ということがわからなくなっています。
私たちは自分の考え(でっちあげ)については、疑う姿勢をもちません。ハタから見てどんなにマトはずれであろうとも、自分のものだからこそ大切にしてしまうのです。
そして、それがドラマチックでかつ悲惨的であればあるほど、こころのすべてのエネルギーを傾け、片ときも忘れまいとこころに保ちます。
こんなに愛しちゃったのだからこそ、自分にとってはまぎれもなく真実となっているのですが・・・。
自分のアタマはこの自作のストーリーでいつもぱつぱつなので、何が目に映ろうともこの自作のストーリー展開に加担させてしまうのです。
すべて自分のストーリーに巻きこんで、うまくつじつまをあわせてしまいます。
そうなると、どんなにヨイことが起きていようとも、明るい方法に向かっていようとも、すべてを自分色の悲惨にぬりかえてしまうのです。こころはいつも、自分が信じたことには恐るべきパワーを発揮するからです。
そして、自分が紡ぐ悲劇のストーリーはどんどん成長し完璧になってゆきます。
けれど、しょせんストーリーはストーリー。真実とストーリーは違うのです。
ストーリーはほんとうのことのように感じますが、ただのでっちあげの妄想。絵空事にすぎません(架空の妄想にちぢみあがる私たちっていったい・・・?!汗)。
自分のアタマのなかで妄想ストーリーを紡ぐことをしなければ、そこにはただまっさらなあるがままの平和があります。
それはそのまま流れてゆき、おのずと完全な形をなしてゆきます。
せき止めたり、コントロールしようとしたり、ねじ曲げたりしなければ、自動的にいちばん省エネでラクなルートをスルスルと通りぬけ、行くべきところ(幸せ)へと行きつくのです。
それこそが、すべてのなかに存在する叡智のなせるわざ。
エゴ的な思いでものごとにふれることをしなければ、それは手だしせずともすべてをなしてくれるのです。
でも、その完全さが見えない?わからない? ・・・ それはすでに、自分で結末やプロセスうんぬんを決めてしまっているので、起きていることがそこにあてはまらないように感じているだけです。たんにエゴの戦略にあっていないだけなのです。
ただ手ばなすとことをすると、いつもびっくりさせられます。
こころはまだ疑って怖れを感じていても、とにかくゆだねよう!とすべてから手をひいていると、あるとき「えっっっ?!そうくる?」とビックリするすることになります。それは、自分の予測、計画、思いつきのすべてを超えるストーリー展開だったりするのです。
そして、もちろんそれを気に入らないはずがありません。
コワくても手ばなす練習をつづけていくうちに、この「えっっっ?!」という予想外の完全さをくりかえし体験するようになり、今起っているプロセスへの信頼が深まっていきます。
「私の策略はなんの役にもたたない」「私の考えは怖れをベースに紡がれているから、たんに完全さの邪魔をしているだけなんだ」「すべては手をはなしたとたんに転がりだす」「そして結末は、私はもちろん、かかわる全員にとって恩恵のあるものになる」
「私にできるのは、ただこの流れに指一本ふれずに静かに退いていること」
そして、この信頼からくる平和なこころこそが、本来の自分のなかにあるひかりを広げ、そのひかりのなかで目にするすべてを輝かせてくれます。
だからいつだって、平和な世界は自分のこころ・思いこそがすべてなのです。
アタマはいつも瞬時に判断を下そうとしますが、裁きを手ばなしただ静かに見ている存在になることで、自分の世界に存在していた戦いが静まります。
裁きの思い、判断こそが、自分の目にするものにケンカを売って、その敵意がはねかえってくることで自分のこころを傷つけていたのでした。
戦いの気持ちがなくなれば、はねかえりもなく、自分にとっての世界は平和に静まります。
ついついしてしまいたくなる間違い探しや比較、裁きを手ばなして、すべてをただそのままにしておきましょう。ただ流れゆくものとして流してあげましょう。
ストーリー(セリフ)はすべて手ばなして、アタマをからっぽに鎮めて、起こることをそのままにしてあげましょう。
裁きもなくカラッポにされた空間には、自分本来の安らぎであるひかりが広がります。そして、そのひかりこそがすべてを浄化し美しくしてくれるのです。
静かにすれば、ひかりの中でおのずと答えが展開してゆきます。自分のなかの叡智が静かにリーダーシップをとります。
それには間違い、というものはありません。ただあるがままで大丈夫なことこそが、私たちがいつも守られ大きなちちからに慈しまれている証なのです。
もしその途中で怖れを感じることがあるのなら、それは自分のものではない怖れが浮上してきただけです。ただ受けとめて、感じて、終わりにしましょう。自分でストーリーを紡げなくなったエゴが縮みあがって叫んでいるのですから。
エゴはいつも、結局は苦しみを生みだすことしか提案してこなかったのです。すみやかに去ってもらいましょう。
私たちの思い(考え=エゴ)は決して正しくない、ということです。
こころに抑圧されていた罪悪感や怖れのせいで、なんとか自分が罰(苦しみ)を受けずにすむように、必死で策略してあがいていたのが「あれこれの思考」だったのです。
けれど私たちの高い自己であるハイヤーセルフは、そんな私たちの怯えたこころも見越して、
「ただすべてから手を引いていてください。あなたの一歩一歩を安全に導きましょう。そして、あなたの自分に対する間違ったイメージ(罪悪感や怖れ)もまとめて手ばなせるように面倒をみましょう」と言ってくれています。
だから、今することはひとつだけ! ただ信頼して、後ろに退いて、手だしをすることなく、ゆったりくつろいで、「これっていったい、どうなるのかな〜?楽しみ♪」という気持ちですべてを見守っていましょう。
おまかせしておけば大丈夫! からなず、自分(エゴ)が思っていたよりもはるか上に連れていってもらえます(自分でするよりも、もっといいところに!)。
ハイヤーセルフにすべてをゆだねる気持ちをもつことで、傷をおうことなく、ひとつひとつにおいて守られ導かれていることをこころの底から知ることができるようになるでしょう☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
なにか解決したい問題に直面しているとき、私たちは必死でアタマを使おうとします。どうすべきか悩みながら、四六時中アタマはフル回転。
なぜなら、小さい頃から「もっとアタマを使いなさい!」としっかり考えることを躾けられてきたからです。だから、賢い解決はアタマで考えることから生まれると信じています。
しかし、「ああでもない、こうでもない・・」と心配しながらアタマを使いつづけると、身もココロもかなり消耗することに気つくと思います。ヘトヘトになり、悪くすると体調を崩してしまいます。
それは、アタマはクヨクヨ、あれこれ悩むための器官ではないからなのです。クヨクヨすることで、アタマは不自然な使われ方をし、かなりの負荷がかかり、ブレイクダウン寸前になります。
アタマは作業の手順を考えたり、するべきことの段取りを組んだるするために使うツールなのです(目的地に9時までに到着したいのなら、何時に起きて何時に家を出ればいいの? というように事務的なことを考えてくれます)。
アタマのなかで問題をあれこれ考えることで、問題は私物化され、私物化されることで自分の癒されていない感情(怖れや欲望や期待)をそこに投影する(くっつける)ことになり、問題に対する感情的な反応が強くなり、問題そのものよりもその感情に反応したり抵抗したりし、問題の焦点がずれてしまいます。
また癒されていない感情に反応することで、そこに過剰な注意が注がれ、問題が肥大化し、ずっと維持されるようになってしまうのです。
そうならないために、問題から離脱いたしましょう。
「離脱する??」・・・それは、ずぶずぶ問題に浸りきっていた自分が、問題から退いて、離れて、引いてフカンして観る、ということ。ひとりの個人としてそれを見ない、ということです。
*まずアタマのなかで繰り広げられているお喋りに気づいて、静まってみましょう(お喋りが繰り広げられていることに気づくだけで、静かになってきます)。
**そして引きのレンズのようにそこから退いて、起こっていること全体に気づくようにしてみます。
かかわっている人の反応や行動。自分自身の反応(怖れ、焦り、期待、願望、もくろみ、損得など)にも客観的に気づいてみます。
***この状況にかかわる人やそこで起きていることをすべてをふかんして見ることで、個人を離れて全体となります。自分という存在のなかにあるその問題をあるがままに味わい愛でてみましょう。
そうすることで、これらは自分という存在のなかにやがて静かに消え去ってゆくことができます。
このように自分という個人から離れて全体になることで、すでにそこに存在している叡智による浄化が可能になります。
何もせき止めるようなもの(感情や願望)が存在しないので、すべては自然な道筋で流れはじめ、完全な形をなし、すべての人にとっていちばんよい形で整えられることになります。
後ろに引いて、退いて、全体をふかんする目になって、静かにくつろいで見ていましょう。
これが受け入れることであり、明け渡すことであり、答えを受け入れることなのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちは自分を取りもどす旅をしています。
自分が自分で毛嫌いして、抵抗して、切り捨てて、なきものにしようとした自分の一部を、ひとつひとつ回収して、ゆるして、自分とひとつにする旅、分離を終わらせるたび ・・・ それがこの人生でしなければならないことなのです。
それらは当然、イヤな人、もの、経験として姿をあらわします。なぜなら、自分が嫌って、自分とは関係ないと宣言して、ゴミのように外にほっぽったからです。
そして、いつだって、それらのゴミに自分は足をすくわれることになります。
でも、まさか自分が投げ捨てたものとは気づかず、ふたたびそれらに抵抗して、コントロールしよう、遠ざけよう、なきものにしよう、と闘いをいどみます。
イヤなものは、抵抗するか、コントロールするか、無視するか ・・・ それぐらいしか対応策が思いつかないため、結果として、それらの問題は決して回収されて消え去ることがないのです。
いくら外にほっぽったからといっても、それはそもそも自分なので、自分で回収して、自分に統合して、ひとつに帰してあげなければならないのです。
するべきことはただひとつ。
自分がイヤだと感じる、あるいは抵抗する人、もの、経験に出会ったら、それはもう終わりにするチャンス。その問題から卒業するチャンスなのです。
だから、こんどこそそれに対して1ミリも抵抗することなく無防備になり、コントロールせずにちからを抜いて、
ただ真っ正面から自分のなかに迎えいれてあげること。
そして、ゆるして、受け入れて、自分のなかでひとつにしてあげること。
そうすることによって、切り捨てて闘いを余儀なくされていたものとの葛藤がついに終わりになります。
だから、なにが起ころうとも、なにに出くわそうとも、コントロールしないこと、闘おうとしないこと。
まずはちからを抜いて、全面的に受け入れてみること。
リラックスして、それにいったん身をひたして、その嫌悪感、抵抗感、怖れのすべてを受け入れてみましょう。
そうしてこそ、ずっと闘ってきたそれ、自分のなかから生まれたそれは、ようやく自分とひとつになって姿を消すことができるのですむぼう。
そして、もしそこからするべきことがあったら、あらためて行動にうつしてみましょう。
まず、すべてを受け入れて、それに自分の存在を無防備にひたしてみる。
これを忘れずにやってみましょう。
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〜自分が与えるものこそが、自分が受けとるもの〜、こんな言葉を耳にしたことがあるかもしれません。
これこそが、私たちが生きているこの世界で働いている不動の法則です。
与えたものしか受けとれないのです。あるいは、与えてしまったのなら、受けとるしかないのです(苦痛や痛みもです)。
「与えるものが受けとるもの」というこの言葉をきくと、「そうか! だったら気前よくじゃんじゃんモノを与えれば、さらにじゃんじゃん戻ってくるのか」と、モノを与えることに一生懸命になってしまう場合があります。
これはそもそもモノのことではなく、モノよりも以前にある「こころの姿勢」「動機」のことを言っています。
たとえものをジャカジャカ与えようとも、そこに「自分は足りない」という根強い欠乏感があるのなら、「足りない」という気持ちを再確認していることにすぎなくなってしまいます。
欠乏を信じ、他から与えられることを期待しているので、「人は豊かだけれど、自分は足りない人なのだ」という信念を強めることになってしまいます。
「与えるもの」とはモノではありません。モノよりも前にあるこころです。
そのこころ、動機こそが、与えられて戻されてくるように感じます(なぜなら、すべてはひとつなので自分で自分にしていることになるからです)。
どのような結果を手にするのかは、どのような気持ち(動機)でそれを行ったかとイコールになるわけです。
欠乏から? 怖れから? 罪悪感から? あるいは、感謝から? 慈愛のおもいから? 喜びから?
自分のなかが欠乏や怖れや罪悪感でいっぱいでありながら、「そうか、与えればうまくいくのだな」とせっせと与えてみても、結局受けとる体験はやはり欠乏や怖れや罪悪感を感じさせるものになってしまいます。つまり、動機と結果は同じ内容だということです。
欠乏感を感じながら、「モノをたくさん与えて、豊かになろう」とジタバタするよりも、自分の内側に目を向けることをしてみましょう。
欠乏感も怖れも罪悪感も、正面から無条件に受けいれてあげることでやわらいできます。避けず、無視することもなしに見てあげることでほどけてゆくことができるのです。
そして、自分のこころを静かにさせてあげましょう。凪のように、安らかに穏やかに落ち着かせてあげましょう。
安らぎのなかから世界を見られるようにいたしましょう。
そうすることで、自分とひとつである源(すべてであるもの)に自分を与えることになります(源こそが静けさ、安らぎそのものなので、そのすべてとひとつになります)。そしてそこから、すべてを受けとることになります。
なによりも、自分自身が自分に戻ってきたように寛いで、真の自分の感覚を思い出すことになります。
すると、目のまえで波だっているように感じたあれこれが、静かにほどけて解決してゆくことを目にするでしょう。
安らかな自分自身こそが与えるもの。世界やまわりの人へとわかちあう贈りものにいたしましょう☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「アロマで癒されましょう」「ストレッチやヨガで癒しを」、あるいは「癒しの空間」「癒しのひととき」・・・というように、巷には「癒し」というワードがあふれています。
しかし、それらは「癒し」というレッテルにすぎません。レッテルが「癒し」ならば、なんとなく癒されているような気にもなるものですが、ほんとうのところは癒しではなくリラックスのためのものです。
ほんとうに「癒される」ということは、病んでいた原因を取り去り完全に回復させることです。リラックスとは、原因はそのままで和らげることなのです。
なので、巷でいわれている癒しは、ほんとうのところ癒されることなくさらに走りつづけるためのニンジンを差しだされているにすぎません。今までと同じように、ちょっと気持ちがよくて、ちょっとステキなニンジンに気をとられながらさらに走りつづけ、欲望の底なし沼に足をとられて少しづつ呑みこまれてしまいます。
「癒しだと思っていたけれど、じつは癒しではなかった!」と気づくのは、底なし沼に呑みこまれて、息ができなくなるあと数センチのところです。
そうなるまで、それがほんとうの癒しだったのか、はたまたエゴの差し出すニンジンにおびきよせられてワナにはまっていただけなのか、考えてみることもありません。
真の癒し、つまり病や苦しみの原因を癒すことは、もはや追いかけるためのニンジンをあきらめることです。それは、自分の外側に見える一見コウゴウしく見えるなにかに救いを求めないことです。
今までは、外側にあるなにかパワフルでステキなものをとっかえひっかえ試してみれば、きっと自分を幸せにしてくれる、私は救われる、と信じていたかもしれません。そして、さまざまな刺激的なものに中毒になっていたかもしれません。
外側のなにかは、じつは底なし沼に沈んでゆく自分のむなしさからちょっとだけ気をそらしてくれただけかもしれません。それは一時的な気晴らし、痛み止めの役割しかはたしてくれなかったのです。
しかし、外にニンジンを求めることをやめさえすれば、そのときはじめて「なんで、私はこんなドロ沼に無力なままはまっていたのだろう?ここはわたしの住むところではない」と沼に沈みゆく自分の現状を直視することができたはずです。
「こんな私はおかしい!」とドロ沼にはまっている異常な状態に気づいて、気づけたからこそ脱出をはかろうとしたはずです。
だから、自分を真に救ってくれはしない外側の刺激で自分を満たそうとすることよりも、まずはただ静まって、今の自分の状態と向きあい、直視してみましょう。そして、「私ときたら、どっぷり沼のなかだったわ!」と気づいてしまいましょう(そのように、生きづらさに正直に気づくことが、救いのために必要な一歩なのです!)。
気づいたらハイヤーセルフ(高い自己)に助けを求めて、「ここは私のいたいところではありません」とそこからひっぱり出してもらいましょう。
なぜなら、もやは私たちは自分ではそこから出られないところまできてしまっているのです。アゴ下までまるまる呑みこまれているときには、強力な助っ人であるハイヤーセルフがレスキューに駆けつけてくれます。
こころを開いて助けさえ求ることができれば、いつだってあなたにぴったりの聖なる救助隊の存在に気づくことができるはずです。
まずは、日々どんなニンジンで自分自身を麻痺させているのかに気づいてみることです。そして、怖れずにそのドロ沼という現状に向きあってみましょう。
すると、助けだしてくれるハイヤーセルフとともにもっと別の道を行くことができることに気づきます。
ニンジンのかわりにハイヤーセルフとともに進む道は、一回試したらやめられなくなるほど安心でラクチンな道のりかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
「私が望んでいるのは、こんなことじゃない」「私がいたいところは、ここじゃない」「この人じゃない」「これじゃない」 ・・・ こんなセリフがアタマのなかをかけめぐるやいなや、突如としてイヤな気持ちにおそわれます。
「私は間違ってしまった」「失敗してしまった」・・・そんな敗北感や罪悪感でこころがいっぱいになってしまうからです。
「これじゃない」とアタマがささやくまでは、こころは平穏だったはずなのに・・・。とたんに、見えていた景色も日常も、一気に生気を失いトーンダウンしてしまったように感じます。
そうなのです。いつもアタマのなかには、自分自身を幸せにしないようなラジオ放送が流れっぱなしになっています。
その流れてくる音声を、私たちは「自分の」考えと呼んでしまっています。しかし、それはたんに勝手にどこからともなく流れてくる音声、まさしくラジオ放送のようなもので、じつはまったく「私の」ものではないのです。
「私の」ものではないからこそ、スイッチを切ることもできませんし、チャンネルを変えることも容易ではありません。
そんな勝手な放送に対して「なになに?」と真剣に耳を傾けてしまうと、それまで平穏だったはずの日常がいきなり失敗と不足モードに切り替わってしまうのです。
もしも学校で、「あなたはいつだって、いるべきところにいるし、そもそもあなたは間違うことなどできやしない」「いつだってそれで大丈夫だから」「ただ流れを信頼してみましょう」、そう教えてくれさえしたら、私たちは今というときのなかでもっとくつろいで安らかでいられたことでしょう。
ところが、誰ひとりとしてそのようなことは教えてくれなかったのです。
なぜなら、誰もほんとうのことを知らないからです。そしてじつは、誰もが一日中アタマのなかで流れつづける「みんなで苦しもう放送局」の熱心なリスナーであり、ファンでもあるからなのです。
その音声に耳を傾けるのはあたりまえ、そしてその情報をうのみにすることが正しいことだ、と信じているのです。
もし、「これじゃない」「ここじゃない」「この人じゃない」というセリフが流れてきても、「ただ勝手になにか言っているけど、私とは関係ない!」とまったくとりあわなかったとしたら、こころはそのウソをまにうけることなく、穏やかでいられるのです。なぜなら、このままでまったく間違いがないから。大丈夫だからです。
私たちは誰でも、いつの瞬間においても自分にできることしかしていません。どんなときもちゃんと自分なりのベストを尽くしているのです。そして、そのようにしかできません。
できることがそれだけだからこそ、起きることがいつも私たちにとってたったひとつの答えなのです。もともと他の道という選択肢は存在しないのです。
それを潔く受け入れてしまいましょう。そうすると、いろいろなことがシンプルになり、こころが穏やかになります。
まさに、♪これでいいのだ〜♪とひらき直れます。
「失敗した」とか「間違うかもしれない」などという、心配や怖れにこころが占領されることがないぶん、より正しい導きがこころのなかにストンと落ちてきて、それに容易に気づくことができるようになります。
心配や怖れはかなりのエネルギーを消耗させ、混乱におとしいれ、負のスパイラルへと引きこみます。だから、いつも「私はこれでいい!これが大正解!」と信じられるならば(実際そうなのですが)、クリアなこころと十分なエネルギーのなかで、導きに従ってたくさんの解決策を受けとることができるようになります。
アタマのなかのラジオ放送は無料のサービスなので勝手にじゃんじゃん配信されてきますが、私たちはそれに耳を傾けない、信じこまない、握りしめない、巻き込まれない、そしてただスルーする、という自由があります。
アタマが現状に対して「これじゃない」「ここじゃない」と文句をいいだしたら、「ほほ〜、あなたはそう思っているんですね。でも、私はそう思いませんよ。そもそも、私は間違うことなどできないからです。だから、私はこのままで大丈夫です」と軽く受け流しましょう。
そして、リラックスして、ドンとかまえていましょう。 それで、かならず大丈夫! すべては順を追ってうまく運びます。
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Q:今年こそはと新年の目標を作ったのですが、なかなか行動にうつせずフラストレーションを感じています。このまま気がつけば、半年、一年と過ぎてしまいそうで、なにもできない自分にガッカリしています。
A:「あれをするべき、これもするべき」と思いながらなにもしないのと、ただリラックスしてなにもしないのと ・・・ どちらもなにもしないことには変わりはないのですが、こころもちがぜんぜん違います。
前者は、焦りながら、がっかり感や罪悪感にさいなまれます。そして自分の無力さを責めるかもしれません。
一方、なんの考えもなくただリラックスしてなにもしないときは、同じくなにもしていないのにもかかわらず心地よささえ感じるかもしれません。
そして、ここちよくダラダラ(リラックス)しているうちに、フト気がついたらいつのまにかなにかを始めているかもしれません。
お腹がすいたらふらっとお台所に立つように、トイレに行きたくなったら無意識のうちにトイレのドアをあけているように、
ほんとうはなんの決意もいらないし、自分を鼓舞する必要もないし、ましてやお尻を叩く必要もないのです。
テコでも自分を動かさなくては・・・思うなら、それは自分へのギャクタイです。だって、それを実際にする、という現実はまだ起きていないのに、ムリじいをしているのですからです。
梅や桜だって、頼みこまれて、お尻をたたかれて、せかされてしぶしぶ咲くわけではありません。そのときがくれば咲きます。それはときに、みんながヘンだ!という季節に咲くのかもしれないのです。
すべては自然の流れのなかで自動的に起こっています。
お台所に行きたい、トイレに行きたい、コンビニに行きたい・・・ いえ、行きたいと思うまえにもう身体は動いているかもしれません。考えはいつもあとづけです。
だから、今ゆったり静かな時間がつづいているとしたら、思いきりそれを受け入れて楽しんでみましょう。
新年の誓いさえも、それは架空のものかもしれません。もし起こらないのであれば、忘れてしまってかまわないのです。
ゆったり過ごしているうちに、そんなリラックスタイムさえも持てないほど活動的な時期も巡ってくるかもしれません。
起きていること、それがいつも答え。
「でも」「だって」「そうはいっても」とごたくを並べはじめると、そこにすでにある静けさ、完全性、秩序が乱されてしまいます。
そして、自分がすべての意味を把握している必要もありません。起きていることをほっておきましょう。
ルービックキューブだって、きれいに全部がそろうまえは、「えっ?!ちゃんと揃っていたところまでグチャグチャにしちゃうの?」というカオスをへながら完成に向います。
宇宙(神なる存在)が私たちのルービックキューブをきれいに整えてくれています。
グチャグチャでちょっと心配でも、お手なみ拝見! おまかせしておきましょう。
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「自分に正直である」ということは、幸せになりたいと思うならとても大切にしなければならないことです。
なぜなら、自分の考えや気持ちを誤魔化してしまうことによって、幸せになるための修正ポイントを見つけることができなくなってしまうからです。それは、幸せへつながる扉のノブを見つけられない状態です。
自分の考えや気持ちに対して正直に向きあうことができれば、自分にとって不適切な考えや気持ちを手放し、本来の自分として幸せへの扉をあけることができるようになるのです。
さて、「正直になる」とはどういうことでしょうか?
先日、正直であろうと努力されているクライエントのA子さんとお話をしていて、「なるほど〜、そういうふうにとらえてしまうこともあるのか・・・」と正直であることの誤解しやすいポイントに気がつきました。
A子さんいわく、「正直さとは自分が思ったこと感じたことは、何でも口に出してもかまわないことだ」と思われていたそうです。
思ったことをすぐに口にすることで、まさに正直に伝えていると感じていました。そして、考えや感情を放出できる正直さとは、「こころがスッキリするものだ!」とも感じていたそうです。
でも、人との関係はギクシャクしてしまいがちです。ズバズバものを言うことで相手を傷つけかねません。
正直さとは、「なんでもかんでも思ったことをそのまま口にすること」ではありません。
あくまでも「自分の領域」内において、正直になることなのです。
人に対してあれこれ口にすることは、他人の領域に土足でずかずか入りこみ、一方的にあれこれ断罪し、そして去ってゆく、という自分勝手なイメージなのです。その相手にしてみたら、「いったいなに?」と思ってしまいます。
相手に対して自分がもつ意見というものは、あくまでも「自分の個人的な解釈」であって、決してほんとうのことではないからです。自分のひとりよがりのイメージにすぎず、それを押しつけられても困ってしまいます。
人に対してあれこれ言うのは、相手に自分の考えを押しつけ、その考えによって相手を裁く、という二つの間違いをしてしまっています。
正直さとは「自分の領域」のことだと書きましたが、それは「自分が自分自身に対して」正直になるということなのです。
たとえば、さっき友人から言われたことにとても傷ついてしまった、というようなとき。
こころが痛んでいるのに、「早く忘れてしまおう!」とまるでなにも感じなかったごとくスルーしてしまったりします。(傷ついたことをスルーしようとするあまり、痛み止めが必要になり、食べもの、ギャンブル、ゲーム、アルコール、恋愛・・・などに依存してしまったりします。)
これは、自分に対して正直なことではありません。また、優しくもありません。こころは痛いと叫び声をあげているのに、むりやり痛くないことにしよとしてしまっているからです。
この場合の正直さとは、相手に対して「あなたの言葉で私は傷つきました!」と詰めよることではありません。正直さを勘違いしていると、このように被害者になり、「人の領域」で解決しようとしてしまいます。
そうではなくて、「あ・・・今、私は友人のあの言葉でとても悲しく感じている」「なぜなら、あの言葉は私は価値がない人だ、と言われているように感じたから」「なぜ、私はそのように感じているのだろう?」「もしかすると、小さい頃、誰も私に対して真剣に向き合ってくれないと感じていたからかも」「でも、だからといってほんとうに私に価値がないのだろうか?」「価値がないと信じてしまったのは、私自身ではないだろうか?」・・・・
このように、最初の感情から自分が信じていることの根拠を探って、その真意を確かめてみます。すると、ある誤解や信じこみにつきあたったり、よく確かめてみると信じていたこがほんとうのことではなかったり、あるいははっきりとわからなくても自分のこころと向き合ううちに気づきがやってきたりします。
たとえば、私を傷つけた相手さえも、じつはこどもの頃に私が感じていたのと同じような自信のなさをもっていて、だから相手を思いやる余裕がなくなってしまっていたのかもしれない ・・・など。
このようにして、自分のこころのなかにある思いこみや決めつけがゆるんでくると、友人から同じようなひとことを言われたとしても傷つくことなく、静かに受け流すことができるようになります。
どんなときでも自分がネガティブに反応してしまうときは、癒しのポイントを見つけることができたときです。それは、自分本来の平和なこころを取り戻すきっかけとすることができるのです。
こころが平和を取り戻せば取り戻すほど、世界には同じような平和が見えるようになります。すべてはこころからはじまるからです。
安らかで平和な世界というのは、自分のこころで起きていることを正直に見つめ、こころの間違いを正すことによってこそ達成することができるのです。
また、相手に対して文句を言いたくなるようなときには、まずは自分のこころを探ってみましょう。相手の領域に侵入したくなるときには、まずは自分の領域を調べることです。
いったい、なぜそれを相手に言いたいのか?
私たちは、自分で片づけることを延ばし延ばしにしているこころのゴミを、どうしても相手に押し付つけてしまうものです。自分のことは棚にあげて、相手を責めることで自分のことは忘れていられるからです。
この人さえ変われば、自分は心地よく過ごせるに違いないと信じます。しかし、自分のこころの間違いは、自分で自分を正すまで、どこまでも目のまえに現れてくるものです。自分のこころのゴミを除去するまでは、終わることがないのです。
だから、相手に文句を言いたくなったら、いったい自分は何に反応しているのか? をよくよく見つめて、まさに自分のなかにも同じものがあることを認めて、いさぎよくこころの断捨離をしてしまいましょう。
癒しは、どんなときでも自分と向きあうことです。
こころは外に間違いを見つけて、つねに外へ外へと向かおうとしますが(人やものごとをあれこれ攻撃したくなりますが)、その手にはのらず、自分自身へと向かう習慣をつけましょう。
つねに自分のこころに戻ってきて正直に向きあうことで、つねに安らぎへのドアが開きます。
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家族でも、友人でも ・・・問題を抱えて悩んでいる人がいるとき、その人と同じような気持ちになって悩んで苦しむことがその人への優しさであり、助けになると思いがちです。
しかしそうすることで、問題を抱えている人は一人だったはずなのに、気がつけば不幸せな人が芋づる式にふえてしまいます。まるで伝染病のごとく、憂鬱が広がってしまうのです。
だからといって、「ほっておきなさい」「無視しなさい」ということではありません。
一緒になって苦しむのではなく、ただ静かなこころのままで自分にできることはなんでもします。ともに問題を抱えこんで、同じレベルになる必要はないのです。
真に人の助けになりたいと思うとき、一緒に悩み苦しむことは助けになりません。
ともにあれこれ悩んでしまえば、正気でない状態に自分自身もよろこんで参加することになります。これではまさに、ミイラとりのミイラ。ともに地獄入りとなってしまいます!(汗)
助けたいのであれば、自分のこころが悩みや苦しみに侵されていない正気のこころである必要があります。
悩んでいるときというのは、こころが誤った考えにとりつかれて、その誤った尺度でしかものごとを判断できなくなっています。つまり、悩んでいる思考に世界が汚染されてしまっているのです。
だからこそ、自分自身はしっかりと正気を保ったままでいて、その人のための道しるべとなり、「苦しみから出て、こっちにおいで!ここは安らかだよ」と、その人を誘導してあげなければならないのです。
また正気でいることによって、自分自身がその人のために高い自己(ハイヤーセルフ)からのレスキューメッセージを受けとり、それを伝えてあげることができます。
悩み苦しんでいるときには、その人のこころはネガティブな思考や感情でパンパンなっているので、すぐそこに助けがやってきていても、それに気づくことができなくなっています。
その人のためのレスキューメッセージを受けとることは、難しいことではありません。「受信しよう!」と頑張らなくても、穏やかなこころでいれば、そのときにサラリと出てくるひとことや行動が、相手にとって大切なメッセージとなります。
なによりも、自分が安らかな正しい場所にいてあげることで、「私もそんなふうにラクに生きたい!そちら側に加わりたい!」と正しい軌道を進むための道しるべとなってあげることができるのです。
たったひとりだけでも、「今のままで大丈夫だから!」と安心させてくれる人がいれば、自分自身がつくり出した苦しみの闇が簡単に消え去ってしまうこともあります。
心配して同じ状態になって、一緒に地獄に降りてゆくのではなく、安らぎという正しいポジションから寄り添うことがほんとうの共感の仕方なのです。片手でその人の手をとり、それでも自分は安らかな場所にしっかりと身をおき、相手をそこへと引き上げてあげる・・・そんな感じです。
お先真っ暗だと感じているときでも、ちょっと視点が変わることで、自分の体験していた世界が180度ガラリと変わってしまうことがあります。
ちょっとしたひとことや、目にしたことで、サーッと目のまえから霧が晴れるように心配や不安が消え去ってゆくのです。
たったひとりでも「安らぎ」のひかりをキープしていれば、その光に照らされて混乱していた人のこころの闇は消え去ることができます。
だから、悩んでいる人に「わかるわ〜〜。大変やわ〜。いったいどないしよ?!」と間違った共感をして、ともに地獄入りするのはやめましょう。それをすると、あなたの光も風前の灯火となってしまいます。
あなたの穏やかさのなかにいつもどおりとどまって、そこからその方を味わい愛でながら、「こっちへおいで♡」と優しく引き上げてさしあげましょう。
あなたが正しいポジションで安らぎのなかにとどまることこそが、誰にとってもいちばんの助けとなるのです。
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どのような状況におかれていても、いつも人生が大変そうな人がいます。
たとえ健康で平穏な日々を過ごしていても、自分のやりたいことをしていても ・・・ 完全にくつろいで、こころを開いて、今を楽しんでいるようには見えません。いつも、背中に重たい荷物を背負っているようで、生きづらさとともに人生をおくっているように見えるのです。
その一方で、いつもお気ラクで楽しそうな人もいます。
楽しいことばかりの人生なのかと思いきや、よく聞いてみればビックリするような体験をしていたりします。しかし、われ関せずでひょうひょうと楽しげに毎日を過ごしているのです。それは、軽やかにするすると流れるような生き方です。
なにも問題が起きていない平穏さのなかで安らぐことができないのであれば、その生きづらさの原因は特定の出来事ではないことになります。
十分に安らぎや幸福感を感じられていいはずのときにくつろげないのは、「自分のこころ」にこそに不具合があり、誤作動をしているせいで、ものごとが正しく認知できなくなっています。
ものごとというのはすべて中立で、善くも悪くもありません。結局、善悪というのは、その個人にとって役に立つか立たないかの問題なのです。つまり、私たちは自分のこころのメガネ(自らの検閲)を通して、ものごとの意味あいを決定しています。
幸せであっていいときにくつろいで楽しめないのなら、おそらくそれは自分のこころのメガネが曇ってしまって、正しくその状況を判断できなくなっています。
このこころのメガネの曇りとは、自分で自分を守るために作りあげたたくさんの独自のルールです。
それは、ものごととは「こうであるべき」、という「べきルール」です。
たとえば、「私の人生はこうであるべき」「人はこういう場面ではこのようにふるまうべき」「私のお金の状態はこうあるべき」「私の身体はこう感じるべき」「世界はこうあるべき」「将来はこうあるべき」・・・ 気づいてみると山ほどの「べきルール」をもっていることに気がつきます。
そして、とくに生きるのが苦しく感じられるときには、今の現実に対して思いきり「べきルール」をかざして抵抗しているのです。
「こうあるべき」という理想をもてばもつほど、ストレスを感じることになります。なぜなら、やってくる現実は自分の理想(べきルール)にぴったりとおさまってくれないからです。
自分の「べきルール」にあてはまるはずだと思えば思うほど、その現実と闘うことになり、ひどくエネルギーを消耗してしまうのです。だから、「べきルール」をかざしているときは、いつも疲れはててしまいます。
常に目のまえにやってくる「今」というものは、好むと好まざるにかかわらず変えようがありません。それを変えようとすればするほど、苦しい思いをしてしまうのです。
「こうあるべき」という「べきルール」は、なければないほど安らぎを感じられるものです。
ものごとを自分の「べきルール」におしこもうとするよりも、目のまえにやってきたことをただ信頼してみましょう。
やってきたことこそが、今の自分にとって正しいこと、自分にとっての「答え」だと受けいれましょう。
自分自身は将来を見通すことはできませんが、自分をつねに導いてくれている高次の存在であるハイヤーセルフが自分とともにいて、人やものごとの関係やタイミング、そこに関係する全ての人にとっての善いことや、こころの癒しなどを見越して、すべてに配慮したうえで、今いちばんヨイことが進行中なのです。
ここの一点だけを見てもわからないかもしれませんが、決して間違った流れに乗っているわけではありません。むしろ、導かれているのです。
しかし、その流れに対して怖れを感じ、抵抗したりコントロールしようとすると、その導きの完全さが失われてしまいます。
たとえ今どうであっても、「起こっていることはいつだっていちばん善いことだ」と信頼して、ただ流れにまかせてみることです。( ♪これでいいのだ〜♪ まさに、天才バカボンのパパのセリフです! 笑)
もし、流れにまかせることで怖れなどの強い感情を感じるのであれば、それこそが自分が抑圧し向いあうことを避けつづけてきた癒すべき感情そのものです。ただ、その感情は「もう捨てて下さいね!」と浮上してきているのです。
そのように上がってきたのなら、受け入れて、感じて、手ばなして、終わりにしまいましょう。
そのような感情さえなければ、どんな状況下でもゆったりとくつろで身をまかせることができるようになります(じつは、怖れを感じている対象は、その隠していた「感情」そのものなのですよね)。
「べきルール」で身を固めて、自分が傷つかないように守ろうとすればするほど、コントロール不能な無力感を味わうことになります。それよりも、安心してすべてを受け入れて、「べきルール」のいらない自分になることです。
ただ、今起きていることに自分を明け渡して、こころを開いて、自分を委ねてみましょう。明け渡しのなかで、高い自己にすべての舵をとってもらいましょう。
強い抵抗を感じたら、今癒されるべき感情として、受け入れて感じてあげるだけでよいです。
気持ちのよい自然のなかで暖かな太陽の光をあびながら、ゆったりとボートで川を下ってゆくような気持ちです。今というときの大いなる導きのなかで、ただ安全に守られて、ちからを抜いて流されてみましょう。
きっとラクちんにものごとが進むはずです♪
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私たちはつねに未来のことを心配したり、過去のことをあれこれ思いあぐねたり、さまざまな混沌とした思いでこころがいつも占領されています。
「この先、(仕事、体調、家族、お金、人間関係・・・)をどうしたらいいんだろう?」「あのとき、こうしておきさえすれば・・・」「あんなことは起きるべきじゃなかった」「あの人はいったいどう思っていたんだろう?」・・・。
すべて、存在しない時間について気にやんでいるのです。
残念なことに、私たちは「いまここ」というリアルなときから離れてしまうと、心理的にも体調的にもバランスを崩してしまいます。
なぜなら、真の自己の力の源は「いまここ」であり、「いまここ」にしかないからです。
過去や未来へと思いがふらふらすると、自分自身がコンセントから抜けた状態になってしまい、力や豊かさ、安らぎの供給が止まってしまい、えらく消耗した状態になります。存在じたいが干上がってしまうように感じるのです。
ほんとうは、ものごとはとてもシンプルです。
シンプルだからこそ省エネであり、こころもからだもムダにすりへることがありません。
あるのは「いまここ」だけ。
「いまここ」だけがリアルであり、いのちに満ちています。
だから、「いまここ」だけのお相手をいたしましょう。
それは、とりあえず置かれた状況のなかで、そのときの自分のこころにいちばんすんなりとフィットすることをするだけです。
何かを頑張るということではなく、ただ昼寝をすることや、だらだらすることも含まれます。どれが生産的かとか、価値があるかとか、そのような優劣や価値判断はまったく意味がありません。
そして、次の瞬間もその次の瞬間も、そのときにこころにフィットすることをただする(それについては、こころがいつも教えてくれているはずです)。
するべきことはただそれだけです。
「とりあえず、目のまえのことに自分らしく向き合えばいいんだ」とわかれば、一瞬一瞬がつむがれてゆきます。
罪悪感や無力感の重圧もへってきます。
この瞬間、この瞬間、 ♪それでいいのだ〜♪ と受け入れると、とってもシンプルになります。
そして、こころが少し軽くなると、こころにスペースが生まれ、自然にインスピレーションや新たなエネルギーが湧いてくるのを感じるかもしれません。
奮闘や操作がおさまると、自己の源エネルギーとのつながりが確かになってきます。
そして、こころが整うことで調和が生まれ、自分の目にする世界も同様に調和をかもしだします。
このようにして、あなたをサポートするすべてのピースが、このいまというときにきれいに整列しはじめるのです。
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「すべてはひとつ」「あなたと私は同じもの」・・・こんな言葉を聞いたことがあるかもしれません。
しかし、「アタマではわかっていても、私にはそのようには感じられません。どうしたらひとつだとわかるのでしょうか?」というようなご質問を受けることがあります。
この「ひとつである」ということは、隣にいる人がまさに自分自身であるかのように感じられるに違いない、と思われたりします。もちろん、そのような一体感を感じる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、「すべてはひとつである」「あなたと私は同じである」というのは、このような感じ方とは少し違うものです。
それは、自分という個人が「ああ、世界はひとつだな〜。あなたを私のように感じる」というものではないのです。
私という個人の観点からではなく、今ある自分の意識、その意識のなかですべてのものとの一体性を知っている、ということなのです。
私たちがとても幼い頃、まだ自分がどういう名前なのかを自覚しておらず、自分の顔や見た目がどのようであるのかを意識していなかった頃、見るものすべては自分のなかでひとまとまりの現れでした(おそらくそれが当然で、ひとまとまりだとも感じていなかったことでしょう)。
自分の意識のなかにすべてが含まれていて、それを無条件に受け入れていました。
この感覚においては、「すべてはひとつ」などとわざわざ言わなくても、ただひとつの現れであるあらゆるものがあったのです。
なので、「すべてはひとつ」であるというのは、頑張って達成するようなすごい境地ではありません。
ただその昔、体験していたようなまっさらなあるがままの世界、あれこれを比べたり価値判断をしたり好き嫌いをくっつけたりしない、素のままの世界を受け入れるということなのです。
どのようなラベルもなく、価値判断もなく、ひとつのものごとだけが切りとられて大切にされたり軽んじられたりすることもありません。ラベルがついていないのでバラバラになることがなく、すべてがひとまとまりとなっています。
そして、バラバラになっていないので、それは対立することもなく、闘いを生みだすこともありません。
このような見方においてこそ、安らぎや平安が達成されます。
誰でもきっと、自分がふと静かになった瞬間に、深い安らぎや解放感を感じたことがあると思います。
それは、こころのなかでラベリングや比較、切り取りが行われず、自分というものと世界とのあいだに葛藤や闘いが起こっていなかったからです。
意図的に思考やアタマのつぶやきをお休みにして、静かになる時間をつくってみましょう。
自分が退くと、退いたところに神さまがやってきてくれる、といいます。
次から次へと問題をねつ造するアタマのつぶやきがお休みすると、平安という神さまがさまざまなお土産を携えてやってこられます。
それは平安や安全の感覚だけでなく、嬉しいインスピレーションがやってきたり、シンクロニシティがたびたび起こるのに気がつくかもしれません。
もし、自然のなかでこれをするのなら、自分と自然がまったくひとつであることをシンプルに感じとれるかもしれません。
広い野原に寝転がって、どこまでも広がる青い空とひとつになってみるのもおススメです。
このように、世界をばらばらにしてしまうアタマのおしゃべりが休止されると、静かな安らぎの時間がやってきます。
「すべてはひとつ」という紋きりがたの言葉ではなく、自身の感覚として「ひとつである」ということがどのようなことかわかるでしょう。
それと同時に、自分と人や世界とのあいだの葛藤や闘いがしだいに影をひそめ、安心や解放の感覚とともに自分に対して優しく穏やかである世界を感じられるようになるかもしれません。
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四月になりました。新しい環境で学びやお仕事を始められる方もいらっしゃると思います。
自己紹介をしたり挨拶をしたり、発表やプレゼンのお仕事がまわってきたりと、人まえで話す機会も多くなります。
誰にとっても人まえで話す、発表することは、緊張をしいられるものです。そんな苦手意識からまったく自分らしさが出せなかったり、能力が発揮できなかったり、はたまた失敗をしてしまったりします。
どうしたら、少しでも緊張をやわらげて自分らしく話すことができるのでしょうか? 三つの解決方法をあげてみましょう。
解決方法 その1、 緊張してあたりまえ。
多くの方は、「緊張しない方法を知りたい」とおっしゃいます。しかし、緊張しないでいよう、とすればするほど、じつは緊張を作りだしてしまいます。
緊張と闘いながら完璧さを目指そうとするよりも、「緊張は自然なことだから、70点の出来でよしとしよう!」とゆるく考えて自分らしくいられるようにしましょう。
背伸びをして完璧さを演出しようと頑張るよりも、ちょっとぐらいミスってもその人らしさが出ている方が、じつは人は好感を抱くものです。自分ではないニセものになろうとするよりも、リラックスして自分でいましょう。
解決方法 その2、 今の自分は、もう大丈夫!
人まえで話すのが苦手とおっしゃる方は、たいてい子どもの頃に失敗経験があったりします。授業中、発表したけれどしどろもどろになってしまって笑われたとか、固まってなにも言えなかった・・・とか。
そして、そのときの動揺がこころのなかに封印されたままになっています。
今はもう、ちゃんとやり遂げる力があるにもかかわらず、似たような場面に遭遇すると、その過去の未解決の感情が今の自分を支配してしまうため、簡単にそのころの自分に戻ってしまうのです。
自分を過去に引き止めている未解決の感情は、手放すことができます。それは、その感情にストーリーをつけずにそのまままっさらな感覚として感じてあげることで消え去るのです。
人まえで話す怖れを感じているのであれば、そこにあがってくる感情をそのまま、あるがままに受け入れて感じてあげましょう。
まったく防御することなく、丸ごと感じてあげることで、感情はしだいに薄れて消え去って、あなたから離れてゆきます。
今の体験に過去の感情を被せないだけでも、前向きに向き合うことが容易になります。今のあなたは、もうあのときの子どもではないのですから。
解決方法 その3、 実際に、人まえで話す場面では、そこにいるみんなとつながってみましょう。
私たちが人まえで緊張するのは、自分 VS 多数 という対立関係が緊張を生み出すからです。自分は多数によって傷つけられるかもしれない、という人に対する危険なイメージをもってしまうのです。
それならば、その多数を受け入れて、つながって、対立のないひとつになってしまいましょう。
人まえに立ったとき、ついつい圧倒されて下を向いたり、一点しか見ることができなくなってしまいがちです。これでは、まだ 1 対 多数 のままです。
人まえに立ったら勇気を出して、まずは全体を見渡してみましょう。一番後ろの席にいる人から、ひとりづつアイコンタクトをしながらゆっくり前へと目線を動かします。未知なものこそが恐ろしく感じるので、このように全体を眺めることによって未知なる感覚はしだいに和らいでゆきます。
そして、こころのなかでこのようにつぶやいてみましょう。「私はみんなを受け入れている」と。じつは、自分こそがみんなを怖がって敵対し、危ないものにしていたのです。
そして、「みんなも私を受け入れてくれている」とつづけます。
さらに、話しはじめるまえに自分が話しやすいと感じる人、あるいはすでに知っている人を一人選んで、その人に向かって話しかける気持ちで始めてみましょう。
最後にいちばん忘れてはならないこと、それは人まえで話すことに限らず、なにをするときにも大切なことです。
それは、「手放す」ことです。「手放す」とは、どういうことなのでしょうか?
それは、どのような行為でも「自分がやる!」という気張りを捨てることです。そのかわりに、自己の高い意識(なんと呼んでもかまいませんが)ハイヤーセルフにまるごと委ねてしまいましょう。
「私がちゃんとやらなければならない」という思いこそが緊張を強めています。じつは、私たちは自分に対してかなり懐疑的だからです。信じられないものに委ねている感覚になるのです。
信じることができないものではなくて、絶対的に信頼できる存在であるハイヤーセルフ(あるいは源、宇宙、天使・・・などの高い存在)に丸ごとおまかせしてしまいましょう。そうすれば、なにがあろうとも自分にとっても、誰にとってもいちばんよいようになるのだ!と確信できます。
ただ自分が手放しさえすれば、他の力(じつは万能の力)がよろこんであとを請け負ってくれます。
ハイヤーセルフには、私たちがイメージしているストーリーよりも、全員にとって間違いなくいちばんよいストーリーを選択し、切り替えてくれます。その切り替えの GOサインこそが明け渡しです。安心しておまかせしてしまいましょう。
人まえに立つまえに、「このことについてすべてを委ねます。どうか私のかわりにしてください」と、すべてを委ねてしまいましょう。
もし、時間があれば、人まえで話す前日にでもこのすべてをイメージングして、ゆったりと自分らしくやり終えて安心している自分の姿を見てみましょう。
これで大丈夫です♪
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夜、なかなか寝つくことができない、という方も多くなってきています。
寝つくことができない原因はさまざまですが、そのひとつとしてあげられるのが「あれこれ考えてしまってアタマが休まらない」ということがあります。
眠ろうするとさまざまな思考やイメージが浮かんできて、それに対して不安な気持ちになり、その不安から新たな思考やイメージが浮かんできて、寝つけずにイライラしてしまうのです。これでは、不安とイライラの悪循環におちいってしまいます。
一方、思考やイメージが鎮まっていれば、呼吸はしだいに深くなり、自然に眠りにはいることができます。
では、寝つこうとするときについついあれこれ考えてしまうときには、どのように対処したらよいのでしょうか?
思考やイメージについて、私たちは「自分が思考やイメージを思い描いている」と考えがちです。しかしそうではありません。
もし自分がそうしているのなら、「もう、やめたい!」と思ったときにやめたり、上手に思考やイメージをコントロールできているはずです。
それができないとするならば、じつは思考やイメージは自分の意志とはまったく関係なく自然発生的に湧きあがってくるものだ、ということです。
たとえば、外で車の音や工事の音がしていても、まったく影響されずに眠りに落ちてしまうこともあります。
それは、その音に対して自分が注意をはらっていないからです。注意を向けていないものは、自分にとっては存在しなくなってしまいます。
もし発生している音に対して、「この音はうるさ過ぎる」とか「私の邪魔をしている」など、自分の注意がその音に固定されると、その音は自分にとってより鮮明で「うるさく」「邪魔をする」ものとして感じられるのです。
とりわけ、抵抗を感じるものに対しては、注意が固定されてしまい、自分の世界においてはそれがより強い力をもつようになります。
外から聞こえる音と同じように、思考やイメージがただ流れてゆく音と形であるのなら、闘わずにそのまま行かせてあげましょう。
今もこの文章を読んでいるときに、いろいろな音が存在しているかもしれません。けれども、そのように音に注意を向けるまで、まったく音の存在に気づいていなかったかもしれません。
思考やイメージを自分自身が作りだした所有物だと思うことで、私たちはそれらを私物化し、その内容に感情的に大きく影響を受けてしまいます。つまり、それらの思考やイメージを単なる音や形ではなく、ほんとうのことだと信じてしまうのです。すると、すっかりそれらに取りこまれて、一体になり、思考やイメージが示唆する不安な未来を受けいれてしまうのです。
そうすると、その架空の言葉やストーリーから、さらに別な言葉やストーリーが生まれ、どんどん本当ではない物語が紡がれてゆきます。
しかし、思考やイメージが自分とは関係のないランダムなものであるのならば、そこから距離をとって離れるようにしてみましょう。
それは、出てくる思考やイメージを客観的に眺めてみることです。
自分を不安にさせる言葉やイメージが出てきたら、それらに気づいて、カギかっこ「 」や枠 □ でくくって、客観的に距離をとって鑑賞してみましょう。
一体になっていたものからそのように離れてみると、それはじょじょに薄らいで消えてゆきます。注意を注がないことで静かになるのです。
このように、自分のなかで次々に湧きでてくる思考やイメージをカギかっこや枠を使って、離れてながめてみることで、思考やイメージは勢いを失ってゆくのです。それに取りこまれて、さらなる不安なストーリーをねつ造するのを止めることができます。
思考やイメージが出てくるのが減少したら、思考やイメージが出てきていたスペース(意識のスペース)へとゆったりと広がって、深い呼吸をしてくつろいでみましょう。
もしまた再び思考やイメージが出てきたら、ただカギかっこや枠でくくって、距離をおいてながめてあげるだけでよいのです。
自分自身は、その思考やイメージがあらわれてくるスペースとして、安らかにどこまでも広がってゆくイメージをしてみましょう。
このように、思考やイメージと距離をおいて客観的にながめることで、思考やイメージの勢いは和らぎ、静かになってきます。
そうすると、こころもしだいに落ち着いて、意識の広がりとしてゆったりとくつろぐことができます。
この意識のスペースを感じてあげることで、睡眠時間の長さに関係なく、深いリラックスを感じて心身ともにエネルギーを取りもどすことができます。
このスペースの広がりをたびたび感じることで、こころの落ち着きをとりもどすことができるのです。
また、このスペースの中にこそ、今抱えている問題を乗りこえてゆくためのインスピレーションや、あなたに幸せをもたらすためのひらめきが与えられます。
このスペースの安らぎのなかで、あなたの人生を導いてもらいましょう♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
誰にでも、「私は、あのとき守られていたに違いない」と感じたり、「突如、ひらめきによって解決策を与えられた」というような経験があると思います。
それは私たちが高い存在によって、つねに守られ、導かれているからです。
その存在は私たちの幸せのために全力を尽くし、どのような問題に対しても必ずや助けを与えてくれるのです。だから、私たちはその存在に悩みを打ち明け、頼るだけで、あとはリラックスして解決へと導いてもらうことができます。
その高い存在とは、じつは誰にとっても馴染みがあるはずです。もしかすると、ハイヤーセルフやエンジェル、あるいは神さまと呼んでいたかもしれません。あるいは、精霊や高次の存在、または自分だけの特定の呼び名があったのかもしれません。呼び方は違っても、助けはみな同じところからやってきます。
大切なことは、この確かな答えをもっている存在につねに「尋ねる」ということなのです。
そして、「尋ねたら」、リラックスして、こころを静かに答えを「待ちましょう」。
よく質問されるのは、「尋ねたのに、なにも答えがきません」ということです。
その場合の多くは、自分なりの答えの受けとり方のイメージがあって、それだけを待っている、ということがあります。
たとえば、「はっきりと耳で聞き取れるはずだ」とか、「稲妻に打たれたような気づきがやってくるはずだ」とか、「夢のなかで教えられるはずだ」などというように。
もちろん、このどれもが起こりうるものですが、もっと手軽に答えを受けとる方法があります。
じつは、その答えはすでに自分のこころのなかに与えられています。
すでにこころのなかにあるもの、自分であるものを知るには、「鏡」を使います。
「自分のこころの中身を映し出す鏡?」 ・・・ はい、こころの中身をつねに映しだしている鏡とは、外側にいる「人々」なのです。
この外側の人々は好むと好まざるにかかわらず、つねに自分のこころの内側をつぶさに映しだしてくれています。彼らは、私のこころにある内容を包み隠さずすべてを映し出す「鏡」そのものなのです。
たとえばわかりやすい例として、自分にとってもっとも苦手な人は、まさに自分が嫌っている自分自身と同じことをしている人なのです。つまり、自分が感じとる他人というものは、いつも自分自身そのものです。
だからこそ、一人一人にとって世界や人々はまったく違うものに見え、自分にとっての幸せや苦痛の原因となりえるのです。
このように、自分の癒されていないところを人々は簡単に見せてくれますが、また同時に自分のなかにある神々しいもの、たとえば高い存在からの真実の答えも見せてくれるのです。
この「人々を見て、自分の内側に気づく」ということが、こころの鏡を使う、ということなのです。
そこで、人々から自分の助けとなる信頼できる答えを受けとりたいときに気をつけなければならないこととは、「私は信頼できることを受け取りたいのだから、まず先に信頼を人々に差しだす」ということなのです。
「受けとること」と「与えること」は同じなので、それは同じものでなければなりません。
「私は真実なる答えを受けとりたい」と願うのであれば、まず人々に真実を差しだしましょう。
それは、人々を自分のこころのゴミやチリにまみれた偽りのものとして見るのではなく、あるがままのまっさらな無垢な存在としての真実を見ることです。それはまさに、信頼することです。
そうすると、「真実な人」から信頼できる「真実な答え」が導きだされ、それがあなたを救う、ということになります。
つねに、その人に対する見方、つまりその人を間違った人として見るのか、正しい人として見るのか、は私たちしだいであり、私たちの体験さえも左右します。
もし、間違った人として見てしまえば、自分自身が隠しもっていた醜いものや恐しいものがその人に映しだされることになります。
正しい人として見れば、自分で気づくことさえなかった高次の存在からの真実の答えがその人を通してもたらされます。それは、自分自身に役立つだけでなく、そこから多くの人々へと広がってゆきます。
だから、自分を助け導く万能の鏡として、私たちはまわりの人々を澄んだ無垢な存在として見ることが大切になってきます。
高次の存在からの答えを受けとるのにいちばん簡単な方法は、このようにまわりの人々とそこから生まれる言葉への信頼です。
先に信頼を与えることで、すでにあちこちから与えられていた自分への助けに気づくことができるようになります。
もちろん、自分自身で高次の存在からの言葉をリアルに聞きとれる人もいます。しかし、自分の内側で聞こうとすると、たちまち否定的な言葉で打ち消されてしまいがちなのです。
誰にでもできる「助けをえる方法」は、まわりの人々を信頼し尊重し、そして耳を傾けることなのです。
ここまでの人生の道のりを振りかえってみると、きっと「あの人があそこで助けてくれた」とか、「あの人のひとことで背中を押された」とか、「あの人に感化されてやる気になった」とか、きっと「あの人」や「この人」が大きな転機をもたらしてくれたという記憶に気づくと思います。
それがまさに、自分の内なる叡智が外に現れ、守り導いてくれた証なのです。
だから、困ったときには、まずは人と「つながること」、そして自分のまわりにいてくれる人、たまたま出会った人を導き手として「信頼して」こころを開いてみましょう。
私たちはこころがひとつにつながった存在なので、自分ひとりの小さなこころのひとかけらとしてものごとを解決しようとするよりも、つながりあった一つのこころのなかでもたらされる答えこそがより大きな力をもちます。
ひとりぼっちの小さな考えではなく、高い存在が与えてくれている大きな答えを受けとるために、つながり、そして信頼しこころを開いて受け取ってみましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
今日は台風の影響で、朝から大雨&暴風のダブルパンチでした。
天候や四季が移り変わっていくように、私たちのこころも日々さまざまなお天気模様を体験します。
「もう、何があっても大丈夫!」と思えるほど、こころが安らいで穏やかに過ごせる日もあれば、問題が次々と勃発し、すべてを投げ出したくなる日もあります。
物事がうまくいかず大雨&暴風に見舞われているような感覚に陥ってしまうとき、私たちは必死でものごとを立て直そうと様々な手を尽くします。
しかし、焦ってジタバタすることで混乱が深まり、問題をさらに長引かせてしまうという結果になりかねません。 それは、スタート地点が間違っていたからです。
「それをどう見るのか」という解釈が、「物事がどうなるか」を決める大切な要素となります。
「自分にとって困ったことが起きている」と信じれば、「困難な状況」という判断から出発することになり、あせってあれこれ手を尽くしても、結局は「困難な状況」から抜け出せなかった、ということになりがちです。
逆に、「自分にとって善いことが起きている」と認識すれば、手に負えないように見えていた状況でも安心のなかでリラックスしながら対処することで混乱が鎮まり、最終的には「あの出来事が起こってよかった」と思える「善い結果」につながるのです。
「困ったことが起きている」と感じた場合、それに対して身構えることで抵抗する気持ち強まり、その対象により大きな存在感を与えてしまいます。そして結局、不快な状況を強力にしてしまい、対処するには自分は力不足であると感じてしまうのです。
一方、「善いことが起きている」と信じれば、リラックスして受け入れることができ、それによって問題を荒げることなく自然と収束に向かわせることができます。とくに頑張らなくても暗い雲は過ぎ去り、自然と穏やかな景色や善い結果が見えてくるのです。
だから、こころが悪天候に見舞われているときは、闘う、抵抗する、変えようとするのではなく、まずゆったりと落ち着いてから対処することが大切です。
台風やハリケーンに見舞われているときも、自らそれをどうにかしようと闘うことはありません。それと同じことです。
そのままにすることで抵抗する力を加えなければ、それは自ずと消滅してしまいます。逆に、どうにかしようとすることで、自分がそれをしっかりと握りしめてよりリアルにしてしまっていることに気づきましょう。
また、問題が連続して起こるようなときには、じつは問題から卒業するための浄化が起きているときです。「今度こそ問題を終わりにして、完全に手放して自由になりましょう」というときなのです。
私たちは誰でも、こころの中に廃棄しなければならないゴミをたくさん抱えこんでいます。しかし、普段はそのゴミの存在に気づくことすらありません。なぜなら、あまりにもこころの奥深いところ(無意識のなか)にそのゴミは押し込めらているからです。
深く押し込められて見えなくなっているため、そのようなゴミが存在していることにすら気づくことができなくなっています。しかし、そのゴミは私たちの知覚するものすべてに影響を及ぼし、それらを歪め、浄化の機会を逸してしまいます。
すべてが不快に見えるからこそ、それをそのままにしておくことができなくなってしまいます。あわててそれに立ち向かい、なんとか変えようとしてしまうのです。
問題が多発しているときこそ、こころのゴミがついに表面化し、気づくことができるレベルまで浮上してきたときなのです。だから、表面化してきた問題をそのままに手放して、それらが消え去ってゆくことができるようにしてあげましょう。
浄化作用が自然に起こり、たまっていたゴミをこころのなかから解き放ってくれます。
こころのゴミさえきれいになれば、放っておいても自分にとって善いことが起こるようになります。なぜなら、本来私たちのこころには自分が目にする世界を完璧にするための光が備わっているからです。
その本来こころに備わっている光が輝き出せるように、こころが悪天候にみまわれたとしてもあわてることなく、落ち込むことなく、穏やかなこころで受け入れてみましょう。
闘いを挑まなければ、悪天候はやがて過ぎ去ってゆきます。そして、浄化されたこころは光を放ち、穏やかな世界が照らし出されます。
すべては善きことのため 。起こっているプロセスを信頼して、すでに自分のなかにある光を解き放てるように、ゆったりとリラックスしてすべてをそのままに行かせてあげましょう。
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私たちは、人生の中に「苦しみ」という何かが存在していて、ある日それに遭遇することによって苦しみがはじまる・・・というようなイメージを持っているかもしれません。
つまり、苦しみとは「外側の世界からやって来るものであり、自分に対してふりかかってくるもの」という感じなのです。
そして一度苦しみに出会ってしまったら、逃れることができず、自分自身では制御不可能であり、自分は可哀想な被害者となってしまうのです。
しかし「苦しみ」というのは、そのような外部からやってくる「出来事」ではありません。
それはあくまでも、自分自身のものの見方であり、認識であり、解釈によって生じるものなのです。つまり、自分が目の前にあるものをどのようなものとして認識するか、ということです。
こどもが暗闇や影や何でもないものを怖がるとき、それはそのものが怖いというよりも、こころのなかで自分がでっち上げた解釈が怖いのです。それは実際には存在しないお化けであったり、モンスターであったり、妖怪であったりします。
そのとき、こどもは目の前のものを直接見ておらず、自分のこころのなかで作り上げたイメージを信じているため、そのイメージに対して叫び声を上げています。
自分勝手な解釈さえなければ、それはただの暗闇であり、影であり、物に過ぎないのです。怖い要素はどこにもありません。
じつは、大人が恐怖や苦しみを感じているときも、これとまったく同じことが起こっています。
自分がものごとをでっち上げるスピードが異常に速いため、自分自身がその間違った解釈の罠にかかり、ほんとうは安全であるはずのものが恐ろしく感じたり苦しく感じたりしてしまいます。。
瞬時に間違ったことを完全に受け入れてしまっているために、まったく疑いを持つ余地がなくなってしまっています。
しかし、お子ちゃまレベルでしか物事を見ていないという事実も、プライドが邪魔をして気づけないかもしれません。
苦しみを感じているのであれば、まずは自分の物事に対する見方が根本的に間違っているのかもしれない、でもそのおかしさにさえ気づくことができない自分がいる、ということを率直に認めてしまいましょう。
たとえば、「私は今起きていることを○○だと解釈しているが、 それはほんとうにほんとうのことだろうか?必ずそうなるのだろうか?事実なのだろうか?」と一歩はなれて冷静にながめてみましょう。
これが苦しみを解決する第一歩となります。
「自分は目にするすべてに対してありえないでっち上げをしてしまい、何ひとつ本来の姿で見ることができない人だ」と白旗を掲げてしまった方が良いのです(大丈夫です!みんながみんなそうですから♪)。
知覚や解釈が歪んでいることを認めて、さっさと訂正の助けを求めることこそが楽になる近道です。
さて、誰に助けを求めましょう?
それは、存在しないものばかりをでっち上げて大騒ぎをしているおなじみの自分自身ではなく、自分の正気の部分です。
自分のこころの正気の部分を「高い自己」あるいは「ハイヤーセルフ」と呼びます。この部分は、いつも私たちにインスピレーションやひらめきを与えてくれている叡智に満ちたこころです。
この正気の部分は、私たちにとって完全に忘れ去られてしまっているので、意識的に呼び起こし、つながることによって助けや導きを得ることができます。
私たちの見方は、自分自身では完璧だと信じていても、じつは壁のシミをお化けだと大騒ぎするお子ちゃまレベルなのです。
「そんなはずはない!」と思っても、そもそもあるがままの世界や物事を見て、平和でいられず、大騒ぎをし、恐れたりしてしまう時点で、解釈が正常ではなくなっているということです。
そうであるならば、素直にそれを認めて、自分自身の正気の部分であるハイヤーセルフに「いったいどのように見たらよいか」を尋ねてみましょう。怖れを知らない正気のこころに、怖れを知らない正しいものごとの見方を教えてもらいましょう。
ハイヤーセルフは私たちを常に尊重してくれるため、尋ねもしないのに「そうじゃありませんよ」「間違っていますよ」と勝手に口を挟んでくることはありません。
いつでも、自分自身から「正しく見たいです。助けてください。ものの見方を分ち合ってください」とお願いすることが必要です。
どんなときにでも、どのような人にでも、完全な幸せしか見ることができないハイヤーセルフの視点こそ、幸せになりたい私たちがマスターしなければならないものの見方です。つまり、ハイヤーセルフの視点こそが正しいものの見方なのです。
それはあるがままの見方であり、認識であり、解釈でありながら、私たちの怖れに満ちたものの見方を超越した完全に平和な認識です。
どんなときでも、「私と一緒にこれを見てください」「私は困ったことがあるとしか認識できていません。本当は何が起きているのか教えてください」というように、常に苦しみや恐れをでっち上げることに慣れているお子ちゃまレベルの認識力を修正してもらいましょう。
こどもも、「それは怖いものではなく、ただの壁のシミだよ」とか「闇の中には、何も怖いものは存在していないよ」と教えてもらうことで、徐々に安心して正しく見ることができるようになります。
一つづつ高い自己と共に見ることを進めて、自分の見方の歪みを優しく修正してもらいましょう。
自分のこころこそが苦しみや恐れを世の中や出来事に押しつけていることに気づけば、肩の力が抜けてくるでしょう。
なぜなら、それらは外側から突然自分に襲いかかってくるものではなく、自分のものの見方を修正すれば異なるものが見えてくることがわかるからです。
自分のこころが災いの元であるならば、それを訂正するのは自分自身の責任であり、自分の幸せのためにも自ら行うべきことです。
「自分の見方や解釈は正しいのだ!」という思いは一度手放して、こどものような気持ちでひとつひとつをハイヤーセルフに「どういうことなのか」教え導いてもらいましょう。
常に尋ねる姿勢を持つことで、ハイヤーセルフと自分の境目が徐々に薄れ、ハイヤーセルフの見方や考え方が自分のものになってきます。それは、真の自己と一体化し、正気を取り戻すことです。
すると、過去の自分にとっては苦しみや恐れであったはずのものが、今の自分にとってはまったく脅かされることなく安らかにスルーすることができるようになっていることに気づくかもしれません。
そのようにして、苦しみではなく、安らぎや愛や幸せだけを見ることができるハイヤーセルフのものの見方をひとつずつ教えてもらいましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
私たちは日々、自分に「つけ足す」ことに忙しくしています。
もっと美しく、もっと賢く、もっと強く、もっと豊かに、もっと楽しく、もっと充実を・・・もっと、もっと、もっと・・・と。
この世界では「つけ足す」ことこそが幸せをもたらすと信じられているので、人生を通してつねに何かを「つけ足すこと」「補うこと」に労力を費やすことになります。
こどもの頃から、生きるための道具として国語や算数などの知識をつけ足すことにはじまって、今では生きるために必要な知識は十分に身につけたはずなのに、生涯を通通じてつけ足す作業は終わることがありません。
一般教養や趣味の知識にはじまって、マネ活、美容、副業、あの人は知っているのに私は知らないことについてなど・・・つけ足すものにはこと欠きません。
このように、つねに「つけ足す」ことに注意が向いているということは、それはまるで「私はこのままでは足りない不十分な人です」と自分自身に暗示をかけているようなものです。
足りないと信じていれば、何をしても、どこまでいっても結局は足りないということになってしまいます。つけ足そうとする努力は、さらなる不足感を生みだしてしまうのです。
セラピーにおいても勘違いされがちなのは、不十分な「足りない」自分に対して、セラピーを受けて「つけ足す」という考え方です。
しかし、そもそも幸せを感じることができない原因が「足りない」という不足の考えから生じているのであれば、修正するポイントはその「足りない私」「つけ足す必要がある私」という「不足の誤解」をただ取り除いてあげることだけなのです。
私たちのこころというのは、自分が目にするものすべてに魔法をかけてしまうほどの強力な力があります。
まさに、私たちは自分のこころが信じたものを目にするのです。そしてその力は、自分自身さえも欺いてしまうことができるのです。
だから、自分がある考えをいったん受け入れてしまえば、すぐさまそれは自分にとって真実となり、その考えが自分の体験を決定するようになります。
「私は足りない」と信じこんでいれば、どこまでも足りない状況を目にすることになり、足りない体験を楽しみつづけられる、ということなのです。
ものごとは、自分の決意ひとつにかかっているので、「自分が何を信じているか」ということはとても大切なことなのです。
それなのに、私たちは自分がどのような考えを信じているのかについて無頓着になっているがために、自分にかけてしまった不都合な魔法に気づくことがなく、そこから抜け出すことができません。
足りない体験をしているのなら、「足りない」と信じて、自分がそれを紡いでいることにまず気づいてみましょう。
すべての原因であるこころを修正することを忘れてしまうと、自分が生み出した結果にふりまわされ、その結果を補うことに忙しくしてしまうことになります。
このように自分で自分を不自由にしてしまう考えを手放すためには、その考えが「真実であるのか」「絶対にほんとうのことであるのか」をしっかりと見極めることが必要です。
たとえば「足りない」という考えに囚われているならば、ほんとうに自分の人生全般が足りていないのか、あるいは見落として忘れ去られている豊かさはないのか調べてみましょう。
完璧に100% 不足しているということは考えられないので、きっと「この部分は恵まれている」「この部分は豊かだ」という点をいくつか見つけられるはずです。
そうしたら、不足よりも、そのような満ち足りている部分をしっかりと味わい、感謝のこころをもってみましょう。感謝をすることで、「足りている」という感覚を呼び起こすことができます。
先ほども書いたように、自分自身の癒しは「何かをつけ足して欠陥を修正する」ことではなく、「もともと足りなくなどないから、なにひとつ頑張ってつけ足す必要はない」という、自分に対する「完全さ」に気づき、それを受け入れることなのです。
目を閉じてリラックスし、深い呼吸をしながらこころを鎮めてあげると、不思議とこころはなにも欲しがらなくなります。外へ外へと向かうことをやめ、自分のホームへと戻ってきた安心感で、こころろは安らぎのなかで本来自分に備わっている満たされた状態を取り戻すことができるからです。
「満たされた感覚」はすでにこころの中に存在しているのです。外に探しに行くことがなければ、それに気づくことができます。
こころが「足りない」という思いを信じなくなることで、自然と「足りない」という現象は解決されてゆきます。
また、日々の生活のなかで、感謝できることを見つけようとする姿勢によって、自分に与えられている豊かさを受け入れてゆくことができるようになります。
そうするうちに、「足りない」とか「足りてる」という考に囚われることなく、すでにこころのなかに存在する「満ち足りた感覚」とつながることができるようになります。
また、自分自身を豊かさの源として自覚し、自分の持てるもの、たとえば知識とか笑顔とか、優しさ、人への奉仕などを、自分からまわりに与えることで、自分自身が「十分に足りている」ということを受け入れることができるようになります。
よく「being」と「having」は同じことを意味するといいますが、まさに自分が存在としての豊かさを表現するとき、自分はすでにそれを持っていることを知ることができるのです。
何かをつけ足すことに忙しくして外へ外へと走りまわることよりも、まず内側へと向かい、静かに自分のこころとつながり、自分の中にすでに存在している「満ち足りている安らぎの感覚」を取り戻し、それをまわりと分かち合ってみましょう。
きっと、自分の being が豊かな having を生みだしてくれるのを目にすることができることでしょう。
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私たちは日々、「ああしたい」「こうしたい」「こうなったらいいな〜」「これが欲しい」・・・と、さまざまなものを欲することが日常になっています。
まさに、欲することが「生きること」、思いどおりになることこそが幸せだと信じているからです。
そして、ときには神さまに「どうか私の想いを叶えてください」と」お願いするのですが、
実のところ、それは「お願い」というより、もはや「指図」に近いものになってしまっています。
「ああして下さい」「こうして下さい」「あれはイヤです」「こうなるべきです」と・・・すべてにおいて自分の思いどおりになることが前提で、それはお願いというよりは自分こそがすべてを仕切っていて好きなようにできる、「神」という存在になりかわってしまっているようです。
私たちが日々、生きるために受け取っているすべての贈りものの出所は、宇宙・神そのものです。
その無限の存在の愛から、それは太陽の光や自然の恵みのごとく、私たちにふんだんに与えられています。幸せに必要なすべてがしっかりとやってきているのです。
しかし、それを丸々受け取るか、それともそのままスルーしてしまうのかは私たちしだいです。
何かが不足していると感じるときには、そもそも足りないというよりは、私たちが受け取りを拒否している可能性があります。
私たちが自分の思いこそが正しいと信じて、それをなにがなんでもとうそうとするとき、私たちはもう自分の思いを叶えることしか眼中になく、天からやってきている豊かさのすべてを締め出してしまっているのかもしれません。
自分の思いを叶えるために、宇宙・神に指図をすることは、私たち自身が神という存在になりかわってしまっているようです。
しかし、宇宙・神から与えられるすべては、私たちが一歩さがって道を空けているときにこそ受け取れるものなのです。
「自分に頼る」ということは、「私には供給源などいりません、好きにさせて下さい」と言っているのと同じなのです。
私たちが自分勝手に思いを叶えようとしはじめたとき、いったいどちらが神なのかわからなくなってしまいます。まさに、「神なんていらない!自分が好き放題生きることこそが大切!」と宣言しているようなものです。
たとえ、私たちが自分に頼り切って宇宙・神を無視したとしても、しょせん生存するためのすべては源である宇宙・神からしかやってくることはありません。頼るべきところは、そこだけなのです。
いくらその存在を忘れさろうとしても、源なくしては私たちはいっぺんに消え去ってしまうほど、その源に存在を依存し生かされているのです。
「勝手に好きなようにします!」と自分の思いに執着することは、こころからその源を締め出そうとしている行為であり、そうすることで徐々に私たちの目にする世界や自分自身に不具合が生じたり、枯渇してゆくことに気づくことになります。
なぜなら、自分の生存に必要な光の供給を自ら遮断してしまっているからなのです。
私たちは叶えたい何かがあるとき、ついつい自分でどうにかしよう、自分の思い通りにしようとやっきになってしまいがちですが、
まずは「すべての供給源に安心しておまかせする」ということをしてみましょう。
「そんなのコワイです。なにか自分にとって不都合なことをさせられるかもしれません」という怖れと不信を感じるのであれば、それはおそらく自分こそがこっそりと人に対して不都合なことを強いてしまっているから、そう感じるのかもしれません。
すべてである宇宙・神に頼ることは、小さな自分に頼ることよりも幸せへの近道であり、自分の想像や思いをはるかに越えて無条件に完全な受け取ることができる、ということを学ぶよい機会にすることができます。
「私はこのことについて、どうしても⚪︎⚪︎になってほしいと望んでいます。けれども、あなたは私のほんとうの幸せが何かを理解し、私を含めてすべての人に満足な結果を与えてくださいます。だから、私はこの思いのすべてを私の手から放して、あなたに委ねます。どうか、みこころのままに」
「みこころのままに♡」と、ほんとうに丸ごと宇宙・神に委ねてしまうときに、何が起こるか?!・・・どうぞ見ていてください。きっと、えっ?!という嬉しい驚きを感じることになります ( ◠‿◠ )
たいていの場合は、「ナント?!そんな手があったの?」「そうくる?」という自分の想像をこえるイレギュラーな経路から満足できる結果が運ばれてきて、それを見て喜ぶことになります。
そして、委ねるたびに「今度はどんなことが起こるのだろう?!」と、その結末についてのサプライズを楽しみにするようになります。そうなると、どんどん信頼できるようになり、さらに大きく受け取ることができるようになります。
自分が神になって君臨しようとするよりも、さっさと退いて、安らかな気持ちでなりゆきを見守ってみましょう。
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誰でも一度はこんな疑問をもったことがあるかもしれません。
「今回の人生で、私は何をするために生まれてきたのだろう?」「私の使命を知りたい」・・・
私も若かりし頃、そんなことに興味をもったことがありました。
そこで、その当時たびたび来日していた外国人チャネラーさんのセッションを予約し、リーディングなるものをしてもらったのです。
そこでまず言われたことは、「あなたの一つまえの前世は、インドのマハラジャでした。あなたの乗っていた輿がまだここに見えています」と。
『え、マハラジャ? どっかにあったディスコの名前じゃないの?(当時のディスコは、いまでいうクラブのようなものです)』。それぐらいの考えしか浮かばなかったのですが・・・ 私は海外をあちこち歩きまわっているわりには、インドだけはなぜか足を踏み入れたいと思わない国でした。もしや、よからぬ過去があるのでしょうかっ?!(汗)
そしてさらに、「今回のあなたの人生は、あなたのカルマを清算することです」ともつけ加えられました。
『清算・・・ですと!?』それを聞いてちょっとガッカリ。なぜなら、もっとキラキラしたお役目と将来展望を期待していたからです。それにしてはこのお答え、あまりに地味すぎやしませんか?と思ったものです。
今、このチャネラーさんの言葉をあらためて思い返してみると、「おお〜〜☆まさしくそうだよね!」という、深い納得を感じることができます。
今の私なら、ここに生まれてきた人すべてにとってするべきことは「それしかない!」と同意することができます。そして、私も誰かに答える立場であるのなら、まったく同じことを伝えることでしょう。
もしも、「あなたは、○○で成功して有名になるために生まれてきました」とか、「お金もちになって、なんでもアリの人生を生きるために生まれてきました」と言われたとしたら、それを聞いた人は喜ぶかもしれませんが、それはなんの意味もない回答なのです。
この人生を通して誰もが、あるときには上り調子になり、またあるときには下り調子になり、絶好調とドン底が入りまじり、バランスをとっています。また、ある面では運がよくても、別の事柄に関してはまったくうまくいかないかもしれません。
人は人生のある一点についてしか話さなかったり、目を向けなかったりするため、全体を通して見たときに喜びと苦しみが入り混じって繰り返されていることに気がつきません。
また、今回の人生であまり裕福でなければ次の人生で無条件に豊かさに恵まれるかもしれないし、前回の人生で短命であれば、今回の人生は長生きかもしれません。
それはコインの表と裏を繰り返しているだけにすぎません。今でなければ、いつかであり、今回の人生でなければ別の人生で ・・・ というように、バランスをとっているにすぎないのです。
私たちの真の目的は、そんな人生の、そして輪廻のシーゾーゲームを延々とつづけることではなく、そのようなシステムから解放されることです。
上がったり下がったり、喜んだり悲しんだり、豊かになったり貧しくなったりの繰り返しを脱して、変わることのない安らぎを感じたり、平和を感じたり、愛や豊かさを受け取ったりと、そのような自分になることもできるのだということに気づいて、それを達成しようとすることこそに意義があります。
そして、そんな状態を成し遂げるためには、カルマのシーソーゲームから降りることです。それは、上がったり下ったり、与えられたり奪われたりをつくりだしている原因をねこそぎ片づける必要があるのです。
若かりし日にあのチャネラーさんに言われて、私が肩透かしをくらったように感じたひとことである「カルマの清算」こそが、じつはすべての人にとって変わることのない幸せや安らぎのなかに生きるためには欠かせない究極の使命であったわけです。
それこそが、表になったり裏になったり(喜んだり悲しんだり)、パタパタと忙しく変わる現実を終わりにし、安定した愛と安らぎのなかに自分を確立してくれるのです。
誰にとっても日々すべきこととは、まさにこの乱高下を繰り返すカルマ劇場をひとつひとつ閉じてゆくこと。これ以上、同じような原因と結果をめぐらせないように終止符をうつこです。
そのためには、自分の日々の体験のなかに現れるさまざまな問題(それはプチなものから、メガ級のものまで)、それらをひとつひとつを「私自身が蒔いた種の結果」として認識し、受け入れてゆく姿勢をもつことです。
自分がそれを受けとめてゆくことで、こころのなかの葛藤や対立(あいつが悪い、世界が悪い、私は被害者だ!という思い)が鎮まり、こころが闘いから解放され、安らぎを取り戻すことがでます。
この自分の内側で感じる平和で安らかな状態こそが、自分が新たに目にする世界そのものの原因となってくれるのです。平和な世界は、安らかなこころからしか生まれないからです。
こころのなかですべてが受けとめられ、穏やかさを取り戻したとき、自分の目にする世界から不調和なものや抵抗を生み出すものが消えさってゆきます。そして、自分にとって平和で優しい世界を目にするようになります。
また、静かで平和なこころであるからこそ、高い自己からの導きを受けとめることができるようになります。そして、導きに従うことで、苦しみのない平らな道へと自然に軌道が修正されてゆくことでしょう。
静かなこころを取り戻して導きとつながることができれば、それ自体がもう十分な幸せとなります。そうであれば、自分がここで何をしていようが、体験の形そのものはさほど重要ではなくなってきます。
それと同時に、そんな自分であるからこそ生きることができる新たな使命も高い自己が教えてくれるようになるのです。それを生きることは、かならずや大きな喜びにつながるものです。
あのときのチャネラーさんは正しかった!いちばん大切な答えを教えてくれていた! 、と今さらながら感じとることができます。
大切なことは、日々起きてくることに対して、カルマ的な視野をもってながめてみることです。そして、そのような繰り返しをもう終わりすることができることに気づくことです。
「ああ、もうこんなやった・やられたの世界はたくさん! それよりも、これを受け入れることで、このようなパターンを金輪際終わりにしてしまおう」、
そんなふうに出来事を受け入れて、カルマの外側の目線からそれを受けいれ、高い自己であるハイヤーセルフにすべてを渡して、ぐるぐる繰り返す因果をキッパリと終わりにしてもらいましょう。
そのことによって手に入る感覚は、怖れから解放された安堵感、これで大丈夫という信頼感、そしていつも守られ支えられているというあたたかな愛の感覚、さらにこの先の人生も自分らしく生きられるという希望があります。
特別ななにかがなくても、ごくふつうの日常でじゅうぶんに幸せ感に満たされていると感じることでしょう。
そして、その平和で満たされた感覚から、新たな現実が喜びストーリーとして目にうつるようになるのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
疲れているように見える人に、私たちは「ゆっくり身体を休めてね!」と声をかけます。
しかし、ほんとうに疲労困憊してしまっているとき、まいってしまっているのは私たちの身体ではなく「こころ」なのです。こころこそが疲弊して悲鳴をあげているのです。
なぜなら、何を疑うこともなくこころが真っ直ぐでスコンと元気だと、多少身体に負担がかかっていてもなんとかやり過ごすことができるからです。よく、「身体は疲れていたけれど、精神力でのり切った!」と表現するように。
こころが元気ならば、身体はそれについてきてくれるのです。
いちばん困るのは、こころがペシャンコになったときなのです。
私たちから生命エネルギーを奪っているのは、身体の活動自体ではなく、こころが「自分で自分を信じることができなくなったとき」なのです。
たとえば、「変えたい現状があるのに、とうてい変えることができない(無力な自分)」「AかBか選ばなければならないのに、どう決めたらいいかわからない(無知な自分)」「生きたい人生があるのに、生きられない(哀れな自分)」・・・
というように、自分で自分に対して手厳しい判断をし、自分のことをふがいない、まったく頼りにならない奴・・・と見限ってしまっているのです。
そのことによって、いちばん信頼して欲しい自分自身に見捨てられてしまったこころは頼るあてもなく、前向きに生きる力を失ってしまうのです。
こんなことにならないために、どうしたらよいのでしょうか?
私たちはこの世界で生きてゆくために、対人関係についてはこころ配りをしています。しかし、いちばんこころを配らなければならない関係は、じつは自分との関係なのです。
自分自身とうまくつきあうことができないと、人生全般とうまくつきあうことができなくなります。
先に書いたように「〜できない自分」という自己に対する判断を認めてしまうと、「自分は何もできない人」「頼りにならない人」というレッテルを自分自身に貼りつけることになり、それを受け入れれば、そんな自分をそのまま生きるようになります。
かと言って、そのような考えを止めようにも自己否定的なことばは自動的に出てくるので、コントロールすることができません。
そこで、たとえ自己否定的な考えを自分自身に言ってしまったとしても、そのあとにそれを自分自身でフォローする習慣をつけてみましょう。
「変えたい現状があるのに、とうてい変えることができない(無力な自分)」という考えが浮かんできた場合には、「変えることができないのなら、当面はこれで大丈夫。真の変化が訪れるときには、自然と行動を起こせるはずだから」と、優しく今の現状にOKを出します。
「AかBか選ばなければならないのに、どう決めたらいいかわからない(無知な自分)」という考えに対しては、「AかBか選ぶのは、私ではない。自分のなかにすべてを見通している存在がいて、すべてを正しく判断してくれるから、その存在に委ねて、あとは自分がどうするのか見ていてみよう」と、自分のなかの大きな存在の力に委ねてしまいます。
「生きたい人生があるのに、生きられない(哀れな自分)」という考えに対しては、「今までの人生でも、自分の思いどおりを貫くことが幸せに直結していたとは限らない。むしろ、失敗したことも多いかもしれない。だったら、この人生全体の流れが自分をどこに連れて行ってくれるのかただ見ていてみよう」と、自分自身が人生の責任をとろうとするのではなく、もっと大きな流れに身を委ねて連れて行ってもらいます。
私たちは小さいころから「人に頼らないで自分で決めなさい」とか、「自分のことは自分でちゃんとやりなさい」と言われつづけ、他の力を借りることは良しとされませんでした。
だから、自分の人生に対して100%自分でどうにかすることがあたりまえ、「他に丸投げする」なんてもってのほか!と感じてしまうため、「信頼して、頼って、委ねて、身をまかせる」という考え方には馴染みがないのです。
しかし、今まで「自分ひとり」で頑張ってきて、それでも悪戦苦闘がつづいて、そのうえどうしてよいのかわからず、疲れ切っているのなら、このさい「丸投げ」の姿勢を身につけてみましょう。
誰に丸投げをするのか?・・・それは、力不足を感じて疲れはてているニセモノの自分(エゴ)ではなく、この世界の外かわからすべてを熟知したうえでサポートをする真の自分(ハイヤーセルフ)にです。
そんな存在、知りません!・・・って?
大丈夫です! きょうまで知らなくっても、きょうから新たに関係を結びましょう。
毎日、ハイヤーセルフに声をかけてつながり、尋ねて、助力をお願いすれば・・・きっと、あらら〜、こんなふうに解決しちゃっていいの?とびっくりするぐらい、自分には考えつかなかった解決策が与えられるということにびっくりするかもしれません。
こころが疲弊すると、身体もバランスを崩し、さらに自分の目にする世界にも不具合があらわれはじめ、それを見てまたこころがさらに疲弊する・・・という悪循環に陥ってしまいます。
そうならないためにも、自分のこころが自分を疲れさせないように、どんなことを言っているのかまずは気づいてみましょう。
そして、疲れを感じるような発言を見つけたら、ハイヤーセルフへの「丸投げ」の考え方に変えることで、こころの負荷を減らしてあげましょう。
そして、どんな結果になるのか見ていましょう。
「自分ひとりでやらなくんてもいい」と感じるだけでも、こころはだいぶツラい責任感から逃れることができます。
そして、流れのなかで自然に起こる成りゆきも、もっと自分自身を安心させてくれるかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
その昔、悩んでいる人がいると、「なんとか手を貸さなくては!」という気持ちになったものです。
悩みから抜け出すための解決メソッドやものの見方をお教えしたり、あれこれアドバイスをしたりしたものです。
今思うと、この段階で自分が間違っていたことに気がつきます。なぜなら、すでにその人を「困りはてている弱い存在」として扱ってしまっているからです。
ほんとうの意味で「助ける」ということは、その人に「真の自己の力を思い出させてあげる」ということ、つまり正気にさせてあげることです。
決して弱い存在のままにしておいてはいけないのです。
たいていの場合、人は悩んでいるからとと言って、「自分を変えたい」と思っているとはかぎりません。
置かれている状況に対してただ不平不満を言いたいだけで、ほんとうの変化を起こすことができる「自分自身の内側」を変えたい思っている人はあまりいないのです。
それなのに、あれこれ一方的に教えようとすることは、口がまったく開いていないのにグイグイ食べものをねじこもうとするような強引な行為なのでした。
そんなメイワク行為をしてしまっていたのは、自分自身が相手のなかにある強さを信頼していなかったからであり、また自分自身が「悩んだり苦しんだりしている人」を見ているのがいやだったからかもしれません。
私たちは、人から簡単に与えられたものについて大した価値を見出しません。それよりも、自分がこころから望んで手にしたものは大切に持ちつづけるのです。
そういう意味では、正しく悩んで苦しんで、口から手が出るようになるまでそのままにしてあげる、ということも大切なのです。そのときにつかんだものは、自分にとって大切な宝物になります。
外から与えられたものはスルスルと手の平をすり抜けて消えてゆきますが、自分がこころから欲したものはしっかりと握って離さないのです。
だから、「ほんとうに今の状態をやめたい!」とこころが決心するまで、しっかりと「自ら変化を起こしたい!」と熱望するまで、その方に寄りそいながら静かに見守ってあげることなのです。
そしてそのときが来たら、差し出されているカラの両手に必要なものをせっせとのせてあげることができます。
かといって、それは「悩んで苦しんでいる人に何もしてないけない」ということではありません。
そのときにできることはもちろんするのですが、しかしその状況はその人にとって「かけがえのない気づきと癒しのチャンス」であるとこころえて、むやみに赤ちゃんの世話をするように何でも助けようとするのではなく、ただともにいて見守って、準備ができるまで待ってあげることも大切なのです。
私たちの人生のなかに現れるハードルのひとつひとつは、「うまくやりすごす」ものではなく、「正しく正面から超えなければならない癒しのチャンス」なのです。
正しく超えることで、それらは永遠に姿を消すことができるからです。
「正しく超える」とは、ただものごとの被害者となって不平不満を言いつづけるのではなく、このことについて「自分のこころを正したい」、「こころを正して、ものごとを正しく見られるようになりたい」、だから「自分の考えが変えられるように導いてほしい」、と自分の高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いをすることです。
本来の自分の強さのみを信頼するのではなく、一度自分の考えややり方を手放して、ただ謙虚な気持ちで助けを求めます。
「自分を変えたい」「別のやり方をしたい」、「だからどうしたらいいのか知りたい」と自分の手の平をカラにして開いたとき、そこに今までとは違う解決策が与えられます。
そのためには、「自分こそが知っていて、思いどおりにする」という今までのルールを手放せるようになるために正しく悩んで、「どうしたらうまくいくのかわからない。だから知りたい」と、ものごとの主導権を手放します。そして、まったく新たな考えへと自分を開くとき、今までとは違った世界へと導いてくれるドアが開きます。そして、不毛な悪循環から救い出してくれるのです。
正しく悩むことで、白旗を掲げることができるようになり、自分のやり方をすみやかに手放し、新たな世界を体験するための見方へとこころを開くことができます。
「自ら受け取る気持ち」になったときにだけ、導き手は現れ、軌道は修正されます。
そのためには、本人の気づきがやってこないうちに中途半端に世話をやいてしまうことは、かえってその人の癒しの邪魔をしてしまうことになってしまいます。過保護なこどもと同じ状態です。
だからこそ、正しく問題と向き合えるように悩んでいるあいだも静かに寄りそい、手が開いた状態になったならば、そこからじゃんじゃんサポートをする、というように、その人の苦しみをいったん容認してさしあげることも大切なことなのです。
実際、本人が自分で問題の核心に気づくまでは、同じ要素を含んだ問題が繰り返されてくることになります。
それは、小学生のドリル学習と同じで、「さあ、自分ひとりでできるようになるまでやってみようね!」「もう、わかったぞ!というところまでやってみよう!」ということなのです。
本人自らの気づきこそが、癒しにとってはなによりも重要だからです。
いちばんラクに学べる道は、問題が起こったときに被害者にならないようにすることです。
「自分のこころが起こしている問題」という観点から、「これは何を学ばなければならないのでしょうか」と自分自身のハイヤーセルフに尋ねてみましょう。
答えは言葉ではわからないかもしれませんが、被害者にならずにその問題に対応しようとする行動に答えがすでに現れているかもしれません。無意識のうちに、いつもとは違うものの見方をして、違う行動に導かれているかもしれません。
ひとつひとつのことを「尋ねて」「学ぶ」姿勢をもつとき、自然と流れに乗り、繰り返していた問題というパターンから抜け出すことができるようになるでしょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q: 「ブログのなかに毎回ハイヤーセルフという単語が出てきますが、そんなに重要な存在なのでしょうか?」
A: はい、かなり重要な存在です。
ひとことで言えば、過酷な状態で宙ぶらりんになってしまっている私たちにとって、ハイヤーセルフは「命綱」であり、またその状態からレスキューしてくれる存在でもあるのです。
私たちが「自分の生き方や人生を変えたい」と思うとき、ハイヤーセルフの存在なしではまったく意味のあることができません。だから、ハイヤーセルフとはまさに自分の幸せにとって要となる存在といえます。
ハイヤーセルフを抜きにして、私たちは自分自身や自分の人生に真の変化をもたらすことはできないのです
なぜなら、私たちはほんとうの自分とその自分がもっているどのようなことでも可能にする力を、すっかり忘れてしまっているからです。それはまるで、重度の記憶喪失状態です。
ハイヤーセルフはそんな私たちを、ほんとうの自分のちからを思い出せるように、そして苦しみのない人生を生きることができるように、つねに優しくガイドしてくれる存在です。
ハイヤーセルフと聞いて、「自分にはそんな存在はいない」と感じていらっしゃる方も多いと思います。しかし、ハイヤーセルフは誰にとっても昔から馴じみのある存在です。
幼い頃から今にいたるまで、神さまや仏さま、天使やご先祖さま、あるいは大いなる存在、宇宙にお願いごとをしたり、助けを求めたことがない人はいないと思います。
自分を守り、導いてくれる高い次元の存在に対して、どのように呼びかけるかは人それぞれです。ご自分が呼びかけたい名前でかまいません。なぜなら、すべて同じ源からやってくる力の現れだからです。ここではハイヤーセルフという呼び名を使っています。
私たちは、非常にツラい体験をしたとき「神も仏もいるものか!」と癇癪を起こしたりしますが、そもそもそう言いたくなるということは、私たちはもともと「自分を守ってくれる存在がいるはずだ」と信じていたからです。信頼していなかったら、ガッカリして怒りを感じることもありません。
「ぜんぜん守ってくれているように感じない!」と文句を言いたくなるときは、もしかすると自分からそのつながりを遮断してしまっているのかもしれません。それならば、再びその存在を認識し、つながり直すだけでよいのです。
幼いこどもに自立心が芽生えると、母親から離れて行動しようとします。そのとき、母親はそのような態度を優しく受けとめ、その子が気づかないところで優しく見守りつづけるものです。こどもを忘れ去ったりはしません。
ハイヤーセルフも同様に、私たちの冒険を見守りながら、気づかれないように控えているのです。
しかし、いったんハイヤーセルフに助けを求める呼びかけが聞こえたならば、即刻救いの手をさしのべる用意もできているのです。
ハイヤーセルフの力をかりるためには、私たちが「自分から」守ってほしい、導いてほしい、助けてほしい、と自己申告することが大切です。勝手に手を出すのであれば、それはたんに自由意志を無視したコントロールになってしまうからです。
それだけ、ハイヤーセルフは私たちを尊重し、いちばん望むことを叶えたいと思っているのです。
さて、なぜ私たちが真に幸せになるためには、それほどまでにハイヤーセルフに助けを求めること、つながることが大切となっているのでしょうか?
それは、私たちがあまりにも近視眼的になっているからです。
ものごとを近くで見すぎていて、たまたま目に入った一点だけですべての判断を下そうとしてしまいます。そして、それを無条件に正しいと信じています。
少し距離をとって眺めれば、全体としての意味がわかり、自分の下した判断は目先の解決にしかすぎなかったことがわかります。
インドの寓話に、盲目の人たちが象の正体を突きとめようとしている話があります。ある者は象の鼻を触り「象は蛇のようなものだ」と言い、またある者は尻尾を触って「象は筆のようなものだ」と言うのです。
この盲目の人たちと同じように、私たちもものごとのほんの一部だけで答えを導き出してしまっているのです。そして、その答えは間違った行動を誘発し、そこからさらに誤りへと導かれてしまいます。
しかし、ハイヤーセルフは高い視点からすべてを見渡す存在として、過去・現在・未来、そして別の時間の流れまですべてを見通して、私たちが確実に幸せになる答えを与えてくれるのです。それは、自分のみならず、そこにかかわるすべての人のためにもなる最強の答えです。
さらに、その答えは間違うということがありません。だから、お願いしたらあとは安心して流れにまかせることができます。
私たち自身には、決してそのような答えを導き出すことはできません。
私たちが考えつく答えは、つねに過去のデータに根ざしているので、毎回同じパターンを繰り返すことを余儀なくされます。
また、私たち個人としての考えは、「自分がこの世界でなんとかサバイバルしなければならない」という恐れの感情をベースにしているので、恐れが動機となっているのであれば、結果はさらなる恐れを生みだすことになってしまうのです。
自分の考えに頼って生きようとすることは、まったく何も見えない真っ暗な闇のなかを、ライトもカーナビもなく運転しつづけることと同じぐらい無謀なことなのです。
必然的に何かにぶちあたったり、また道をはずれて崖から転がり落ちてしまったり・・・まさしく自殺行為となります。
一方、高次元の存在であるハイヤーセルフに頼るということは、道を照らし出してもらうこと以上にすべての時間の流れも見通して調整することができるので、そのナビは完璧そのものです。すべての危険や災難をあらかじめしっかりと回避しつつ、完全な幸せという目的地に向かって、楽しみながらぶれることなく導いてくれるのです。
その強力なナビを自分のものにするには、ただ自己申告が必要なだけです。
自分自身でハイヤーセルフとのコミュニケーションボタンを押して、つながりを再構築しましょう。
私たちが人とつながりを作りたいとき、どのようにするでしょうか? 挨拶をしたり、声をかけたり、自分のことを話してみたり ・・・コミュニケーションを積極的にとろうとこころを開くはずです。
ハイヤーセルフに対しても同様です。自分から挨拶をして、存在を認める。助けてほしい、教えてほしい、導いてほしい、一緒にいてほしいとお願いする、助けに対してありがとうと感謝をする・・・など、優しく頼りになる友人に接するようにコミュニケーションをしてみましょう。
そして、いつもハイヤーセルフとコミュニケーションをとっているうちに、ハイヤーセルフのすべてを見通す知覚や、恐れや罪の概念のない考え方、制限のない感覚というものがしだいに自分のものになってゆきます。
なぜなら、ハイヤーセルフとは、まさに真の自分の記憶のようなもので、つながればつながるほど、私たちは正気を取り戻して、自分自身のすべてを超越している本来の力を思い出すことができるのです。
また、過去ばかりを繰り返しつづけるパターンから抜け出し、今までとはまったく違うハイヤーセルフ独自の幸せなストーリーへと導かれるのです。
そうしたときに、かつての自分はいかにさまざまな制限でがんじがらめになっていたのか、いかにものごとを正しく見られていなかったのか、そしてどれほど怯えて行動し失敗を繰り返していたのか、気づくようになります。
ハイヤーセルフは私たちが幸せな人生に向かって進んでゆきたいと思うときに、まずはしっかりと手をとっていなければならない大切な存在なのだ、と気づかれたことと思います。
こころのなかえで、「ハイヤーセルフ、私は何ひとつ正しく判断することができません。私のかわりに決めてください。そして、一歩一歩導いてください」とお願いしてみましょう。
クライエントさんにハイヤーセルフのことお教えすると、みなさま「助けが確かに来ました!すごいです!」と実感してくださいます。「頼ってお願いすれば、必ず答えが受け取れる」ということが体験としてわかることで、さらに信頼しこころが開けるようになります。
そして、もう日々の生活になくてはならない存在となってゆくのです。まさに、ハイヤーセルフと自分がひとつになり、最強のナビがついた自分こそがほんとうの自分となるのです。
そのためには、まずは自分からこころを開いて、コミュニケーションをはかってみましょう。そして、そこからなにが起こってくるのか、見ていてみましょう♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
昔から慣れ親しんでいた美容法が、最近になって何の役にもたたないとか、むしろ害を及ぼすなどと言われたりしています。
あたりまえのように皆んながやっていることでも、それがほんとうに正しいことなのかどうかはまた別なことなのです。
美容法に限らず、私たちが日常行っていることにおいても、「それはほんとうのところ、ダメなのです!」ということが多々あります。
たとえば、幸せになろうとして自分の欲しいものを手に入れようとすることは、ごく自然なことのように感じられます。「自分の欲望を満たすこと」が幸せには欠かせないと信じているからです。
そのため、なんとか自分の思いどおりになるように占いに頼ったり、縁起のいい日やパワーのある日にこだわったり、あれこれ行動の戦略を練ったり、ああすれば思いどおりになる、こうすれば運がよくなる・・・と、自分の欲求を満たすためにあれこれこころを砕きます。
しかし、欲望というものを感じているのは自分のなかのエゴの部分であり、そのエゴの自分はいくら食べさせても満足しないモンスター級の怪物なのです。
そのエゴの言いなりになるということは、結果として取り消さなければならないはずのエゴを増長させてしまうことになります。
エゴは何かを手に入れることが大切で、そうすれば思ったとおりに幸せになれる、とそそのかします。そして、行動に駆り立てます。
「自分が今、手にしたいと思っているものを手に入れる」「成功したい、お金もちになりたい、有名になりたい、目立ちたい」などなど・・・どれもこのまま じゃ不十分で情けなく感じる自分自身を容認することであり、その情けない自分をどうにかするために「あれをつけ足そう」「これをつけ足すべき」とたきつけ られてしまっているのです。
しかし、「足りない私」はどこまで行っても足りなく感じるものです。
「足りない!」と主張するエゴの部分は、何かを与えれば一時的に「よしとする」かもしれませんが、ほんとうのところ底なし沼の欲望を抱えています。そして、次なる欲望を提示してくるのです。
このエゴの言うことを聞いて走りつづけることは、ほんとうの解決法にはなりえません。それどころか、どこまで行っても乾きは癒やされず、不毛な感覚が増してゆきます。
修正しなければならないポイントは、「頑張ってつけ足そうとする」ことよりも、まずは「なにもつけ足す必要のない自分」として出発する、ということなのです。
欲しいものをつけ足すことにやっきになってしまう自分の「足りなさ」「自信のなさ」「今のままじゃダメな感覚」に気づいて、それを癒してあげる必要があります。
「足りない!足りない!」と叫んでいるとき、その先にやってくる現実はやっぱり依然として「足りない」ままなのです。
なぜなら、自分のこころがそのように言い張るので、それは自分にとっての現実となるからです。
私たちはこころが感じてる状態を、そのまま自分で体験することができるぐらい、私たちはパワフルな存在なのです。
そうであるなら、「足りない!足りない!」と叫びながら、その埋め合わせに走り回るよりも、足りている感覚を優しくこころのなかに呼び覚ましてあげましょう。
ふだんの生活のなかで、「ちゃんと美味しいゴハンを食べることができる」ぐらい足りているし、「疲れた夜には温かな湯船でくつろげる」ほど足りている。さらに、「季節の心地よい風や日差しが自分を包みこんでくれる」ぐらい十分足りているのです。
それだけにとどまりません。冷蔵庫を開ければお気に入りの食べものが入っていたり、今夜楽しめるお待ちかねのビデオ配信があったり、どうでもいい話をあれこれ笑ってわかちあえる友人がいるかもしれません。
どんなささいなことでも、あれこれ「足りている」なにかを書き出してみてください。きょう一日でも、さまざまな「足りている」に気がつくことでしょう。
そして、「足りない」と言い張るところから、「どれだけ足りているのか」の気づきへと意識を向け変えてみましょう。
私たちは「あれも欲しい」「これも欲しい」と欲することで、いつも欠乏状態に意識が固定されてしまいます。なぜなら、「欲しい」というのは、まさに「足りない」ということを自分に言い聞かせることになってしまうからです。
それよりも、どれだけすでに「足りているのか」、どれだけ「十分に与えられているのか」、どれだけ「ちゃんと宇宙に気遣われているのか」を思い出してみましょう。
私たちのこころが、いつもどのような思いを抱いているのか? 満ち足りた感謝の気持ちなのか、それとも足りないという不平不満なのか?
この自分の感じている気持ちこそが、自分の体験を生み出すスタート地点となります。
それならば、「足りない、足りない」と叫びながら、何かを手に入れようと走りまわり、さらに足りなさを体験してしまうよりも、「きょう、これだけのも のを与えてくださってありがとうございます」という穏やかな満足と感謝の気持ちのなかで、自分の人生がどのように優しく展開してゆくのかを見守ってみま しょう。
満ち足りた穏やかさや、今あるものに感謝する気持ちをもつことで、きっと自分の日常もそのような気持ちを起こさせてくれるさまざまな体験で彩られてゆくことに気づくことでしょう。
自分のこころにある思いを抱くということは、「それを自分が望んだ」ということだからです。
足りないと叫んでカリカリしている自分には、そもそも満ち足りた穏やかな世界は相入れないのです。それは水に油です。また、そのようなものごとが自分のまえにやってきても気づくことができません。
自分が望む幸せな状態とは、そもそも次元が違ってしまったのです。
「何かを必死で追い求めて手にしなければならない」と考えるとき、私たちは「それほどにしなければ幸せになりえない自分」を受け入れてしまっているのです。
あるがままそのままで幸せであっていい自分を受け入れるためには、ただゆったりとして、日々の生活のなかにある「満ち足りたもの」「感謝できるもの」に気づき、すでに満たされている人となって、満たされている人の人生へとシフトチェンジしてゆきましょう。
穏やかさと感謝をこころにもつことで、自然にその世界へと導かれてゆきます。
なにかを求めて走る回ることよりも、こころが穏やかに変われば、目にする世界もそれにあわせて変わることに気づくことでしょう♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
何かを渡してもらおうとするとき、手はどのような状態になっているでしょうか?
手の平は開いています。
受け取るものが好ましいものであればあるほど、大きく開いた両手でしっかり受けとめようとするはずです。
もし手がグウになっているならば、まったく受け取ることができません。
固く握りしめているなら、それはまさしく受け取りたくないという拒絶の現れでもあります。拒絶は、なにひとつ受け入れないということです。
私たちが自分の望む現実や豊かさなど、受け取りたいと思うものがあるのに受け取れないと感じているとき、まず気づいてみるべきことは、自分がちゃんとパアになっているかどうかということです。ちゃんと受け取るべき体制になっているでしょうか。
グウの状態になっているならば・・・受け取りたいといいながらも、じつは拒絶しています。
受け取ることができるパアの状態は、オープンでなんでも受けいれるという状態です。
私たちにとって、受けいれている、開いている、とはどういうことなのでしょうか?
すべてのものごとはひとつの流れとしてやってきます。その流れは一つひとつのことがつながりあい大きな流れとなっているのです。そして、そのなかにはさまざまなものごとが含まれています。
しかし、私たちはその流れのなかから、自分にとって好ましいと思えるものだけを選び取ろうとし、それ以外は拒絶して切り捨ててしまいます。
流れはひとつのものであるので、ある部分を拒絶しようとすれば、それは全体が拒絶されたことになり、なにも受け取ることができません。
自分で選び取ろうとすることによって、流れが堰き止められ、そもそも何ひとつ入ってくることができなくなってしまうのです。
それは、流れ全体が拒絶されたことになるからです。
「自分にとっての贈りものを受け取る」ということは、ひとつの流れとしてやってくる体験全体を丸ごと全部受けとめようとすることです。
そのなかには、自分の目的とするものとは何の関係もないように見える人やものごとがあったり、むしろ受け入れたくないと思えるようなこともあるかもしれません。
でも、その流れはそれらを含んでこそ完全となっているので、それをバラバラにすることはできないのです。
それならば、大きなこころで自分の目のまえにやってくることをすべて受けいれてみることです。それは出来事であったり、そこにまつわる人々であったり、全部こみこみワンセットです。
自分で検閲をかけて選り分けようとするようなことはできないのです。
私たちは、自分が思い描いていたような物ごとや人がやってきたとき、それのみを切り取って受けいれ、他は拒絶したいと思っているのです。
でも、ものごとというのは小さく切り取ることができません。なんでもかんでも、「丸ごと」が基本です。
たとえば誰かを愛するとき、「この人のこの部分は大好きだけど、ここは嫌い」と言ってしまえば、それはもう愛とは言えなくなってしまうのと同じことです。
小さく切り取って受けいれようとするとき、私たちはそのすべてを失うことになります。
ここまで読んでこられたらおわかりかと思いますが、「豊かに受け取る」ということは、目のまえにやってくる全部を無条件に「受けいれる」ということで成立することです。
これがグウの手をパアにすることです。流れを全身で受けとめることです。
それは、価値判断を下すことなく、すべての物ごと、人々をあるがままにしておくことです。
宇宙が渡してくれるものを、自分の狭いものの味方で制限してしまうのではなく、ただ素直にすべてを受けいれます。
パッと見が素敵でなくとも、自分が好まないものが含まれているように見えたとしても、それでも賢明な宇宙が渡してくれるものだから「中味はきっと、自分にとって役に立つ素晴らしいものに違いない」と信頼することです。
パアの手とは、無条件に受けいれること。「宇宙から自分にやってくるものは、すべて贈りものに違いない」と信じて、安心して無条件に受けいれることです。
そして、受けいれてみてはじめて、自分では考えつかなかったような好ましい展開が姿をあらわしはじめます。
受け取るということは、信頼するということでもあります。
流れを信頼すること、人を自分を信頼すること。
宇宙とは優しいところで、自分は愛されていて、自分を傷つけるようなものが渡されるはずはないと信じること。信じられるからこそ、安心して両手を大きく開いて、やってくるものは余すことなく受け取ってみよう、とこころを開けるのです。
自分があれこれ受け取るものを選びたい気持ちをグッとおさえて、リラックスして安らかな気持ちで、やってくる流れを全身で受けとめてみましょう。
全身パアとなって、流れに身をさらしてみましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
犬は吠えたいときに吠えますし、噛みつきたいときに噛みついてきます。
「そんなことをするべきではない!」といくら言いきかせようとも、そうしたいときにはそうするものです。
人もまったく同じで、怒りを爆発させたい人は爆発させますし、怒鳴りたい人は怒鳴ります。
なぜなら、怒りを爆発させたい、怒鳴りたい、それがその人のしたいことだからです。それをすると気分がよくなると信じているのです。
「そうすると気分がいいから、そうしたい!」と思っている人に「そうするべきではない」と言っても、あまり説得力がありません。
本人がこころの底から、怒りの爆発も人を怒鳴ることもほんとうの解決策ではなく、むしろ自分も相手もダメージを受けてしまう、だから「もうこのやり方はやめよう」と気がつくまで、それがやむことはないのです。
いったん確立されてしまった習慣というものは、その人がしっかりとした認識をもって「やめる決心」をするまで、そのプログラミングは生きつづけるものなのです。
人は結局、自分がしたいようにすることしかできないので、その「したいようにしている」怒りに関して、巻き込まれて被害者にならないようにすることが大切です。
たとえば、「怒鳴りたい人」がいる場合、その対象となる「怒鳴られる人」は決して気分がよいものではありません。怒鳴られることによって、こころがひどく傷ついてしまう場合もあります。
しかし、いったん「この人は吠えたい犬と同じで、ただ怒鳴りたいだけなのだ」と理解することができれば、それは「自分に対して」行われているのではないことに気づきます。そして、客観的に落ち着いて対処することができるようになります。
ただ静かに「私にどうして欲しいのかを伝えてください」と言ったり(これは、その人の怒りと伝えたいと思っている内容とを切り離すのに役立ちます)、あるいは相手の感情がおさまるまで静かにその状態を味わい愛でていることもできます(これは、その人の怒りの劇場に参加することなく、自分はシラフな状態を保っていることです。まったく参加しない人が目のまえにいるき、相手は怒りをもちつづけることが難しくなります)。
私たちが怒っている人を苦手とするのは、「その怒りは、自分に対する攻撃だ」と個人的にとらえ、恐れを感じてしまうからです。
そして、自分はこのように怒られても仕方のない存在なのだ、と受け入れてしまうのです。
しかし、ミスをしたから、あるいは何かがうまくできないからといって、怒鳴られて当然なのでしょうか? ミスと怒鳴ることは、まったく結びつきません。
たとえ何かミスを犯してしまったとしても、ミスを指摘されたり、修正をうながされたり、ダメ出しをされるようなことはあるかもしれませんが、そこに怒りが加えられる正当なことではないのです。
ただ、「きみがこんな失敗をして残念だ」「どうしてこうなったと思う?」「解決策は?」「対処法は?」と静かにいちばんよい立て直し方法を話しあうことができます。
しかし、怒りをぶつけてしまうと、相手はこころを閉ざしてしまうし、ともに理性を失い、それ以上有益なコミュニケーションがとれなくなってしまいます。
どのようなことにおいても、起きている出来事と怒りは結びつけられるものではないのです。
爆発しやすい人は、ただたんに罪悪感や無価値観という劣等感を自分の内にためこんでおり、それがガスのように自分のなかに充満しているがために、ちょっとイラっとすることで簡単に着火してしまいます。
そして、その小さな火花で、ガス爆発が起こったときのように周りに破壊的な影響を及ぼすエネルギーを撒き散らしてしまうのです。
またそのような人は、溜めこんでいる感情のゆえにとにかくそれらを放出したいので、ほんの小さなイラっとしたことで大放出という大きな爆発になってしまうのです。
大爆発を起こした人は、そのときにはスッキリしたように感じるかもしれませんが、じつはあとからイヤな気分に襲われるか、あるいは好ましくない体験に遭遇したりします。
なぜなら、こころは相手を攻撃してしまった罪悪感に襲われ、罪悪感を感じていれば、その気持ちを相殺するために自分に対してイヤな体験を作り出し、「ほら、私もイヤな思いをしているから、おあいこね!」とそれで平等になったと安心するからです。
イヤな気分や望まない体験が自分の怒りの爆発と関係していると気づくことがないので、その因果関係を認識することはなく、改善することもできません。
このように怒りを爆発させつづけることが好きな人がいるということをアタマにおいたうえで、人とのつき合いをもつことが大切です。
もしも、怒りのガスがたまった相手が着火してしまった場合には、被害者になったり、怒りの劇場に参加したりせずに、ただ静かに見守り、ガスが抜け切るのを待ちましょう
怒りにホンロウされることなく、毅然とした態度で「声を荒げていると内容がよくわかりません。どうしたらよいのかを教えてください」などと、ものごとの要点の方に注意を向けるようにしてみましょう。
他者の怒りの本質が理解できるようになると、自分の怒りも客観的に見られるようになります。
ものごとに対して怒っているのではなく、癒やさなければならないポイントが浮上していることに気づきます。そして、それを正しく見て、癒すことができるようになります。
怒りに対して、恐れを感じることなく客観的な目線をもってみましょう。それは「強さ」の表現ではなく、「弱さ」から悲鳴をあげているように見えるようになるかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
ある出来事を、いつまでも考えつづけてしまうことがあります。
「あれはどういう意味だったのだろう?」「あの人はなぜあんなことを言ったのだろう?」「どうしてこんなことになってしまったのだろう?」「なぜ・・・?」「どうして・・・?」
これらは「今」について考えているのではなく、すべて過ぎ去ってしまった「過去」について思い悩んでいる状態です。
しかし、「過去」はとっくに消えてなくなり、もうそこにアクセスする手立てはありません。それはすでにどこにも存在していないのです。
存在していないものについて、「どうして・・・?」「なぜ・・・?」と思い巡らすことは、こころのエネルギーの浪費以外なにものでもありません。いくら考えても、そこから建設的なことは起こりません。
なぜそんなに過去が気になってしまうのかというと、そのときに自分の感情が大きく刺激され、こころが動揺してしまったからです。
こころが動揺した・・・つまり、怖れを感じた、傷ついた、苦痛や悲しみを感じたということであり、それは自分のこころが不自然に波立ってしまったのです。
穏やかに凪いだ湖のようなこころが、荒波を立てて不自然な状態になっていることこそが居心地が悪い状態を作りだしています。
こころが不自然な状態になっているのならば、過去の変更不可能なことについて思い巡らすよりも、波立つはずかないこころが波立っているその原因こそを探ってみることです。
私たちのこころは、鏡のようにすべてを映しだす湖のように静かで穏やかであることが自然な状態です。
しかし、そのこころが波立ってしまっているならば、それは不自然なことが起きているわけであり、こころが誤作動を起こして落ち着きがない状態になっていることをあらわします。
しかし、私たちはつねに出来事や状況について「どうして?」「なぜ?」と考えはじめる習慣があるために、自分よりも外側のことに注意の焦点が固定されてしまい、こころの誤作動を認識できず、せっかくのこころを正すための機会を失ってしまっているのです。
そして、外側の出来事、状況に対して、「どうして?」「なぜ?」と繰り返すことで、その出来事に動揺しながらいつまでも同じような反応を繰り返すことになってしまいます。
この状態は、自分で自分のこころを正すまでずっと続くことになります。
そうならないためにも、こころが波立つたびに自分のこころにしっかりと向き合うことによって、怖い、傷ついた、苦しい・・・といったいつもの反応から抜け出すことができるようになるのです。
過ぎ去った出来事や状況について「なぜ?」「どうして?」と繰り返しながら自分の外側に向かうかわりに、逆方向へと向きを変えて自分のこころへと向かってみましょう。
それは、自分のこころについて調べることであり、こころを調べることで自分が誤って信じていることを見つけることができます。
誤って信じていることこそが、自分自身を怖がらせ、傷つけ、苦しませたり悲しませたりしている原因そのものなのです。
たとえば、「こんなこと、絶対に起きるべきではない!どうしてこんなことが起きたのだろう?」と考えてしまうとき、「それが起きるべきではない」という誤った考えに囚われています。その考えは、ほんとうにほんとうのことなのか自分のこころに問いかけてみましょう。
すべては善きことの流れの一部分だとしても、「起きるべきではない」という自分の考えが前提にあるのならば、そのあとはどのようなことが起ころうとも、否定でしかものごとを体験できなくなってしまいます。
かりに、「起こることはすべて、自分にとっても周りにとっても善いことであって、それ以外の可能性はない」という考えを受け入れていれば、いったんは動揺したとしても、「大丈夫!これが善いことに変わってくるのを見ることができるはずだから、安心して流れにまかせよう」とこころを立て直すことができます。そして、自分が決めた結果を見ることになるでしょう。
そうであれば、もう過去についての「どうして?」「なぜ?」はどうでもよくなり、そのままの流れにこころを開いて身をまかせることができます。
自分の考えと向き合って探求しても、自分の考えの誤りを見つけることができないときには・・・
自分の高い自己であるハイヤーセルフに、「私は自分の信じていることの間違いに気づくことができません。私にほんとうのことを教えてください」とこころのなかでお願いしてみましょう。
あるいは、自分がいちばん信頼している友人や知人に「自分はこのことについてこのように解釈し、こころが穏やかではないのですが、あなたはどう思いますか?」などと意見を求めてみましょう。
こころを開いてアドバイスを求めたときには、その人を通して宇宙があなたに必要なすべてを与えてくれます。
あなたが「自分を正したい」「正しいこころをもちたい」と願って助けを求めれば、どこからでも完全な答えがもたらされるのです。
しっかりと答えを受け取るには、尋ねた相手を完全に信頼すること、その答えになにも検閲をかけずにオープンなこころで受け取ることです。
「どうして・・・?」「なぜ・・・?」と外へばかり気をとられがちな自分のこころと向き合って、いつでも自分のこころの誤りを正したい、自分のこころを本来の穏やかな湖の状態に戻したいと思っているとき、宇宙からの助けは無条件にふんだんにやってきます。
なぜなら、宇宙は「本来の自分らしく自分自身を生きたい」と願っている人をどこまでも応援してくれるからです。
その助けを得るために、アタマでいろいろと考えてしまうよりも、「自分のこころの誤りを正したい」とこころに決めて大きくこころを開いて、宇宙に助けを求めましょう。
そして、宇宙からの助けや答えをすべて受け取ることができるように、ただこころを空っぽにあけ放ってリラックスして待つことによって、かならず助けがやってくることを知ることができるでしょう。
PS. 未来もまだ存在していないので、未来について思いや悩むことについても同様です
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
先日、お昼の情報番組を観ていたら、「アンガーマネジメント(怒りを感じたときの対処法)」について取りあげられていました。
たしかに、怒りというのはとても破壊的な感情で、一瞬にして人間関係が損なわれたり、仕事を失ってしまう原因になったり、またそれ以上に自分自身を決して幸せにせず、健康まで蝕んでしまうので、マネジメントするにこしたことはありません。
番組のなかでは、怒りを感じたら「じっと6秒ガマンする」、あるいは「相手への理解をもつ」ことによって怒りを軽減するすることができる、と紹介されていました。
確かに「ひと呼吸おくこと」や「相手を理解しようとすること」は、怒りが爆発することから救ってくれるかもしれません。
しかし、それはあくまでも対処療法であり、怒りの原因を根本から解消することにはいたっていません。
私たちが怒りの感情を感じているとき、その怒りの下には必ず原因となる信念(自分について信じていること)が潜んでいます。
それはたいてい、このような信念です。「私は人や世界に怯えている」「私は傷つけられて悲しい」「私は価値もなく小さな存在だ」という、か弱く傷ついた自分自身のイメージです。
そして、その怒りの原因となる信念を隠すことなくしっかりと向き合うことで、結果として現れていた怒りの感情を手放すことができるようになります。
怒って感情をむき出しにしている人をイメージしてみてください。
恐ろしい形相、荒々しい怒鳴り声、勢いよく振りあげたこぶし ・・・ それはとても強そうなイメージがあります。
しかし、その人はなぜ、そんなに強そうな形相をしなければならないのでしょうか?
もともと、こころのなかに強さの感覚がある人は、このような強そうな形相を必要とはしません。強そうに装わなければならないとしたら、それは自分のなかに弱さや不安を感じていて「大きく見せなければ、支配されてしまう」という心理が働いているからです。
もともと強さを感じている人は、強さの演出をする必要がないのです。
ほんとうの強さというものは、凪いでいる海のようにどっしりと穏やかで静かな状態です。決して荒ぶってはいないのです。
人が荒ぶらなければならないとしたら、それはその人が自分の弱さに怯えていて、それをカモフラージュするために強い自分を演出しているときです。強さをわざと作りだしているのです。装われた強さは、必要以上に声が大きくなり、さらに手が出てしまったり、足まで出てしまったりするのです。
怯えている犬が全力で吠えつづけるように、大きな声や暴力、激しい形相で威嚇しようとします。
しかし、大きな声も、振りあげたこぶしも、伝えたい何かがあるときにはまったくの逆の効果となり、何も内容が伝わらなくなってしまいます。聞いてもらえないどころか、人は遠ざかってしまうのです。
怒りの原因に対処して、穏やかな自分になりたいのなら、自分が怒ってしまった場面の直前へと記憶を戻してみましょう。
そのとき、自分の内側でいったい何が起こっていたのか、自分自身で検証してみるのです。
たとえば、職場の上司に「こんなこともできないなんて、おまえはバカか?」と叱責されたとします。
そう言われて抑えきれない怒りを感じてしまうのなら、じつは自分が自分のことをすでにバカだと信じていたのです。そして、職場の上司が口にした言葉がまさにビンゴだ! と感じたので、あまりにも図星の指摘に怒りが湧き上がってしまったのです。
しかし、もし自分のことを「バカだ」と感じていなかったなら、「おまえはバカか?」と言われてもピンとこないため、怒りではなくキョトンとした顔をしているかもしれません。あるいは、そのひとことについて何も記憶に残らないかもしれません。
私たちは相手の言葉が自分を傷つけたと感じがちですが、それよりも前に「自分で自分に対して同じことを思っていた」か、あるいは「自分には価値がないと信じていた」のです。
そして、それをまるで上書きするかのごとく他人に指摘されたことで、秘密をあばかれたように感じ、思わず怒りがこみあげてしまいます。それは、「自分でそう思っていたのに、あなたまでそれを言うのか?!」と無意識のうちに反発してしまうからです。
自分のなかに自分自身を卑下するような感情がなければ、たとえ相手が何かを言ったとしてもとくに強い感情が湧いてくることはありません。むしろ、「この人は何を言っているのだろう?」と怪訝に感じるかもしれません。
そういったわけで、怒りを感じた直前の感情を調べてみることによって、自分のなかに弱さやコンプレックスの感覚が存在し、それをあらためて他人に指摘されたことで攻撃されたと感じ、怒りがこみあげてしまった、ということに気づくことができます。
同じような怒りを繰り返さないためにも、自分のなかにある弱さやコンプレックスの感覚を認識してあげることが大切です。
しっかりと意識されたものは、繰り返すことができなくなります。怒りの原因が何であるのかがわからないままであったなら、同じことが繰り返されるのを止めることができません。
しっかりと認識したなら、「この傷づいている自分、小さく弱く感じている自分は過去の自分自身であって、今の自分とは何の関係もない」ということに気づきましょう。
私たちは過去の癒やされていない自分を今の自分にオーバーラップさせてしまいがちです。しかし、一つづつ気づくことによって、私たちは簡単に過去から解放されることができるのです。
過去の傷ついた感情、小さな自分のイメージは、高い自己であるハイヤーセルフに取り去ってもらいましょう。「この傷ついた感情はほんとうの私ではありません。私のなかから取り去ってください。ほんとうの私の強さや穏やかさを感じさせてください」とお願いすることで、それがもたらされます。
そして、ハイヤーセルフから光とともに強さや穏やかさが自分のもとにやってきて、自分自身を包み、満たしてゆくのを感じてみましょう。
このように、怒りを感じた直前の気持ちを調べることで、自分のなかに放置されていた傷ついた感情や弱さの感覚を見つけることができます。
見つけたら、ハイヤーセルフに除去してもらいす。これを繰り返すうちに「小さな自分」という間違ったイメージが手放され、無意識的に怒りを感じていた場面が減ってゆきます。
6秒ガマンすることも役に立つ方法ですが、怒りの原因となる自分のこころの傷や弱さの感覚を見つけてあげることで、私たちは確実に穏やかで、容易に動揺しないほんとうの自分を取り戻すことができます。
自分のこころの弱さと向き合って、それをハイヤーセルフとともに優しく解放してあげましょう。
これはこころのお掃除につながり、怒りを感じる場面が少なくなるだけでなく、自分が痛みを感じたり落ちこんだりするような出来事も減ってゆき、こころのなかに安らぎや喜びの感覚が大きく広がってゆきます。
過去の自分の弱さを清算し、のびやかで安らかな自分のこころの光と愛を取り戻しましょう。そして、その光で自分も世界も安らかに照らしてあげましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
ゆったりとくつろいで何も気にかけない、静かな時間をつくってみましょう。
忙しくて、そんな時間はとるヒマなんてない? あるいは、何もしない時間は手持ちぶさたで居心地が悪いでしょうか?
私たちはあまりにも行動することに重点をおいているために、静かな時間がもつ重要性やパワーを知ることがありません。
静かな時間とは、外へ外へと向かいたがるこころに手綱をつけて、内側へと向きを変え、そこでゆったりとくつろがせてあげることです。
180°クルリとこころの向きを変え静まることで、自分のこころでありながら自分が知らなかったスペースへとつながることができます。
私たちは「外にこそ何かいいものが見つかるはず」と信じこみ、それを探しにせっせと外側へと向かうことに忙しくしています。
しかし、それこそが自分が欲しいものを見つけることができない最大の理由でもあるのです。
私たちを苦しめることだけを生業としているエゴは、私たちが幸せになってしまったらエゴが消滅せざるをえないことを知っています。
だからこそ、私たちを幸せにするものが見つからない外へと誘導するために、「自分の手にしたいものすべては外側にあるよ〜」とエゴはささやきかけ、外におびき寄せることで、宝探しの放浪の旅に出かけさせようとしているのです。
私たちはついつい何かを求めて外へ外へと向かいたくなりますが、じつは外に向かうということは自分自身を置き去りにすることであり、それは自分の真のパワーに背を向けることであり、自分のちからの感覚を失ってしまいます。
ほんとうの力と答えは、いつも自分の内側にあります。
燃料がカラになった車は鉄の塊にすぎないように、私たちも自分のパワーと切り離されたときにはこの燃料がない車と同じように、何の役にも立たなくなってしまうのです。
しかし、たびたびちからの源である内側とつながり、しっかりと燃料を補給して、そこから外へと向かうことでまったく違う結果をもたらします。
自分の内側とは、ある意味、別の次元へとつながるスペースです。
私たちのこころは、個人という枠をこえたすべてとつながるスペースを内側にもっていて、そこからあらゆるものを自分に迎え入れ、それを自分の外側の世界へと映し出すことができるのです。
自分の内側とは制限のないスペースであり、世界も宇宙をも抱き、源、あるいは神とつながっているがゆえに、すべてが存在しています。
それはすべて自分のものでもあり、そことのつながりが保てればそれを自分の目にする世界へと映し出すことができるのです。
ヒプノセラピーなどでリラックスすることによって、自然にこの次元につながることができます。すると、ただリラックスしていただけなのに、まったく違うも目線でものごとを見られるようになったり、怖れの感覚が消えたり、また解決策や答えのようなものがフト浮かんでくるようになったりします。
つねにこの次元とのつながりをもつことによって、私たちはアタマによって制限されていた考えを超えて、制限のないものの見方をすることができるようになるのです。
こころがすべてを内包するスペースにつながっているとき、あらゆることについていちばんよい解決策を自然に導き出すことができ、そこからスムーズに正しい行動を起こすことができるようになります。
源、あるいは神のこころとつながっていれば、そのこころで世界を見るときに自分が必要としているものを見つけ出し、また正しい道をスムーズに歩むことができるのです。
世界というのは、まさに自分のこころの状態をそのまま映し出している合わせ鏡のようなものです。こころが静まることを覚えれば、自分の目にする世界も自然と安らかや穏やかさをおびてくるので、ものごとと格闘する必要がなくなるのです。
過去についての失敗や後悔の思いも、未来についての怖れや不安も、いったん手放して自分をカラッポの状態にしてみましょう。
過去や未来についての自分の考えこそが、じつは自分を最も苦しめている原因だからです。ただ静かにするだけでも、こころはのびのびと解放されることができます。
過去や未来についてさまざまな考えが浮かんでくるようであれば、その考えに対して「聞いていませんよ〜!」と、そのままスルーしてしまいましょう。それらは、罪悪感を抱かせるか、怯えさせるだけで、まったく耳を傾ける価値がないものだからです。
「自分をカラッポにして静かな時間を過ごすなんて、自分が怠惰になってしまいそうでできません!」という方がいらっしゃいます。
それは本当でしょうか?
私たちは部屋のなかでじっとしていても、必要があればすぐさまトイレに立つし、無意識のうちにキッチンで食べものを物色していることもあります。これらはどれも、計画のうちに行われているわけではありません。
内なる声なき声が、「さあ、トイレに行こう!」「何か食べよう」と必要な行動を導いてくれています。静まっていても、決して石像のように固まりつづけているわけではないのです。
静かにしていても、動く必要があるときには自動的に行動が起こるもので、それはつねに必要な正しい行動へとうながされます。
正しい行動というものは、思考のあれこれを抜きにして、起こるべきときにただ起こるように起こる、というものです。
もちろん、仕事や旅行など、計画や段取りを必要とするものもあります。
しかし、私たち自身を導くということに関しては、あれこれ考えることは役に立ちません。アタマで考えることはすべて過去のデータに依存しているため、いつも過去の繰り返しという制限にはまってしまうからです。
自分の人生を正しく導きたいと思うときには、この過去の繰り返しの思考に頼るのではなく、もっと斬新な時空をこえた叡智に正しく安全に導いてもらうことが幸せへのカギとなります。
その叡智は、過去も未来もすべての状況を見渡して、私たちにとって最善のルートを常に導き出してくれるからです。
そして、その導きを受けるためには、過去からのデータベースである思考をお休みさせて、新しいものを受け取るためのスペースを用意しておく必要があるのです。
スペースを作るとは、こころをしずめてカラッポにしておくことです。そして、すべての答えがあるスペースへと自分を開け放つようにすることです。
自分を鎮めてそのスペースとつながることで、部屋で静かにしていようとも、必要なことが自然と起こるように仕向けることができます。
自分がどうするのか、どのように動くのかを見守っていましょう。
出かけるつもりがなかったのに、「あそこに行かなくちゃ!」と急にひらめいて出かけて行くかもしれません。誰かの顔が浮かんで、メールや電話をしているかもしれません。あるいは、そのまま休息しているかもしれません。それらは自然と起こってくるのです。
そして、アタマであれこれ考えて無理やり何かを起こそうとするときとは違った、「驚き」や「発見」に出くわすかもしれません。そのひとつひとつが、正しい道へと導いてくれます。
起こるひとつひとつの意味がわからなくてもプロセスを信頼して、こころを開いて起こることについて行ってみましょう。
そのためには、まずは静かにして、自分の内側へと向かい、ゆったりとくつろいでみます。自分をカラッポにしてみます。
あとは、自分がどのように動くのかを他人ごとのように静かに観察していましょう♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )